ぶんしちもっとい【文七元結】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

【どんな?】

博打三昧の長兵衛。娘が吉原に身売りに。
手にした大金でドラマがはじけます。
円朝噺。演者によってだいぶ違う噺に。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町だるまよこちょうに住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打ばくちに凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん。

法被はっぴ一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添のちぞいの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持てあましていると、出入り先の吉原、佐野槌さのづちから使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと内儀おかみさんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、内儀さんのかたわらでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打熱をやめさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、内儀さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、内儀さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日おおみそかまでに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら

「あたしも鬼になるよ」
と言い放ち、さらには、
「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、
「必ず迎えに来るから」
とお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋あずまばしに来かかった時。

若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛。

抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲べっこう問屋近江屋卯兵衛おうみやうへえの手代、文七。

橋を渡った小梅おうめの水戸さま(水戸藩下屋敷)で掛け取りに行き、受け取った五十両を枕橋まくらばしですられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなの卯兵衛は
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心。

長兵衛が文七に話した「吉原佐野槌」という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出す。

翌日。

卯兵衛は文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねる。

長兵衛夫婦は、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入った卯兵衛が事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠かごに乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと申し出る。

これから、文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂かいさかに元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

円朝の高弟、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が継承して得意にしました。

明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、五代目円生(村田源治、1884-1940、デブの)など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)に伝えました。

この二人が先の大戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の円楽、談志、志ん朝ももちろん得意にしていました。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なります。

円朝と円生とでは、吉原佐野槌→京町一丁目角海老、五十両→百両、日本橋横山町近江屋→白銀町三丁目近卯、麹町六丁目→麹町貝坂と、それぞれ異同があります。

五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、「佐野槌」「横山町近江屋」「五十両」が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町2丁目の近惣としていました。

五代目円生が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志(松岡克由、1935-2011)は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。

元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。

江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町1丁目から2丁目に登る坂です。

元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町6丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)です。

長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれました。

「人情噺文七元結」として、代表的な人気世話狂言になっています。

六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化は7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。

この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐります。

大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。

落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。

ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。

そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。

戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。

立女形たておやま(歌舞伎の立役や座頭ざがしらの相手役をつとめる座で最高位の女形)にして映画俳優でもあった、四代目中村雀右衛門(青木清治、1920-2012、七代目大谷友右衛門)の若き日ですね。

長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。

しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

https://www.youtube.com/watch?v=7FfdnIA5E_I

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

おばけながや【お化け長屋】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

江戸っ子は見かけとは裏腹に。
小心でこわがり。
そんな噺です。

別題:借家怪談 化け物長屋

あらすじ

長屋にだなの札。

長屋が全部埋まってしまうと大家の態度が大きくなり、店賃たなちんの値上げまでやられかねない。

そこで店子たなごの古株、古狸ふるだぬき杢兵衛もくべえが世話人の源兵衛と相談し、たなを借りにくる人間に怪談噺をして脅かし、追い払うことにした。

最初に現れた気の弱そうな男は、杢兵衛に
「三日目の晩、草木も眠る丑三うしみどき、独りでに仏前の鈴がチーン、縁側えんがわ障子しょうじがツツーと開いて、髪をおどろに振り乱した女がゲタゲタゲタっと笑い、冷たい手で顔をサッ」
雑巾ぞうきんで顔をなでられて、悲鳴をあげて逃げ出した。

おまけに六十銭入りのがま口を置き忘れて行ったから、二人はホクホク。

次に現れたのは威勢のいい職人。

なじみの吉原の女が年季が明けるので、所帯を持つという。

これがどう脅かしてもさっぱり効果がない。

仏さまの鈴がリーンと言うと
「夜中に余興があるのはにぎやかでいいや」
「ゲタゲタゲタと笑います」
「愛嬌があっていいや」

最後に濡れ雑巾をなすろうとすると
「なにしやがんでえ」
と反対に杢兵衛の顔に押しつけ、前の男が置いていったがま口を持っていってしまう。

この男、さっそく明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越してくる。

男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。

日頃から男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折を見てかねをチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。

仕上げは金槌かなづちで額をゴーンというひどいもの。

作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込んだ。

長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩あんまに、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら
「モモンガア」
と目をむいてくれと頼み、五人は蒲団のすそに潜って、大入道に見せかける。

ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。

按摩だけが残され
「モモンガア」。

「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間にいっぱい食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰しっこしがねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」

底本:五代目古今亭志ん生

古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

古今亭志ん朝

しりたい

作者は滝亭鯉丈  【RIZAP COOK】

江戸後期の滑稽本こっけいぼん(コミック小説のようなもの)作者で落語家を兼ねて稼ぎまくっていた滝亭鯉丈りゅうていりじょう(➡猫の皿)が、文政6年(1823)に出版した『和合人』初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。当然、作者当人も高座で演じたことでしょう。

上方落語では、「借家怪談」として親しまれています。初代桂小南(岩田秀吉、1880-1947)が東京に移したともいわれますが、すでに明治40年(1907)には、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)の速記もあり、そのへんははっきりしません。

なかなか聴けない「完全版」  【RIZAP COOK】

長い噺で、二転三転する上に、人物の出入りも複雑なので、演出やオチもさまざまに工夫されています。

ふつうは上下に分けられ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)など、大半は、二番目の男が財布を持っていってしまうところで切ります。

先の大戦後、最後まで演じたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)と六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)くらいで、志ん生も、めったにオチまでいかず、男が親方の家に駆け込んで、「幽霊がゲンコでなぐったが、そのゲンコの堅えのなんの」と、ぼやくところで切っていました。

尻腰がねえ  【RIZAP COOK】

オチの前の「尻腰しっこしがねえ」は、東京ことばで「いくじがない」という意味です。

昭和初期の頃には、すでに通じなくなっていたようです。

高級長屋  【RIZAP COOK】

このあらすじは、先の大戦後、この噺をもっとも得意とした五代目志ん生の速記をもとにしました。

登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した、けっこう高級な物件という設定を、志ん生はしています。

当然、それだけ高いはずで、時代は、最初の男が置いていった六十銭で「二人でヤスケ(寿司)でも食おう」と杢兵衛が言いますから、寿司の「並一人前」が二十五銭-三十銭だった大正末期か昭和初期の設定でしょうか。

志ん生は本題に入る前、この長屋では大家がかなり離れたところに住み、目が届かないので杢兵衛に「業務委託」している事情、住人が減ると、家主が店賃値上げを遠慮するなど、大家と店子、店子同士ののリアルな人間関係、力関係を巧みに説明しています。

貸家札  【RIZAP COOK】

志ん生は「貸家の札」といっています。

古くは「貸店かしだなの札」といい、半紙に墨書して、斜めに張ってあったそうです。

ももんがあ  【RIZAP COOK】

按摩を脅かす文句で出てきます。

ももんがあとは、ももんじいともいい、毛深く口が大きな、ムササビに似た架空の化物です。

ムササビそのものの異称でもありました。

口を左右に引っ張り、「ほら、モモンガアだ」と子供を脅しました。

リレー落語  【RIZAP COOK】

長い噺では、上下に分け、二人の落語家がそれぞれ分担して演じる「リレー落語」という趣向が、よくレコード用や特別の会であります。この噺はその代表格です。

【語の読みと注】
滝亭鯉丈 りゅうていりじょう

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

いどのちゃわん【井戸の茶碗】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

細川家の若侍がくず屋から買った仏像中から五十両。
くず屋は金を売り主の浪人に。浪人は引き換えに茶碗を。
これが名器。藩主は三百両で。浪人は引き換えに娘を。
く「磨けば美人に」若「よそう。また小判が」

【あらすじ】

麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛。

古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、それが嫌だと言って、本当の紙くずしか買わないという正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。

ある日、とある裏長屋に入っていくと、十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められ、家に入ると、待っていたのはその父親で、千代田卜斎と名乗る。

うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人。

もとはしかるべき所に仕官していたが、今は昼間は子供に手習いを教え、夜は街に出て売卜(易者)をして、娘のお市と二人で、細々と暮らしを立てているという。

その卜斎が、家に古くから伝わるという、すすけた仏像を出し、これを二百文で買ってもらいたいと、頼む。

清兵衛は、本当なら品物は買わないが、親子の貧に迫られたようすに同情し、これを売ってもうけがあれば、いくらかでもこちらに持ってくると、約束して買い取る。

この仏像を御膳かごという竹かごに入れ、白金あたりを流して歩くと、細川さまの屋敷の高窓から、まだ二十三、四の侍が声を掛け、仏像を見て気に入ったのか、三百文で買ってくれた。

その侍、名を高木佐太夫といい、まだ独り身で、従僕の良造と二人暮らし。

さっそく、すすけた仏像を磨いていると、中で音がするので、これは腹籠りの仏で、中にもう一つ小さな仏像が入っていると見て取った佐太夫、中を開けてみると、なんと小判で五十両入っていた。

驚いて、仏像を売るようではよほど貧乏しているに違いないから、これは返してやらなければ、と思ったものの、あの、くず屋のほかに手掛かりはない。

そこで、良造に命じて毎日見張らせ、屑屋が通る度に顔を改めたので、これが業界の評判になり、多分仇でも探しているんだろうという噂になる。

清兵衛もこの話を聞きつけ、甘酒屋のふりをして細川邸の前を通り過ぎようとしたが、見つかって、佐太夫の前に連れていかれた。

佐太夫は金のことを話し、即刻届けてまいれと言いつけたので、清兵衛は驚いて卜斎の家に行き、金を渡すが、律儀一徹の卜斎、売ったからにはもうこの金は自分のものではないから受け取るわけにはいかないと、突っぱねる。

しつこくすすめると、手討ちにすると、怒りだしたから、清兵衛は慌てて長屋に逃げ帰った。

相談された大家が中に入り、五十両を三つに分け、佐太夫と卜斎に二十両ずつ、残りの十両は正直な清兵衛にやってくれと、提案。

佐太夫は承知したが、卜斎はまだ拒絶する。

それなら、金と引き換えに何か品物を佐太夫さまにお贈りになれば、あなたもお気が済むでしょうと、大家が口をきき、それではと、祖父の代からの古い茶碗を渡すことで、金の件は落着。

ところが、この茶碗が細川侯のお目にとまった。

これは「井戸の茶碗」といって世に二つとない名器だからと、佐太夫から三百両でお買い上げになる。

この半分の百五十両を卜斎に届けさせたが、卜斎は佐太夫の誠実さに打たれ、娘をもらってくれるよう、清兵衛を介して申し入れ、佐太夫も承知。

清「あの娘をご新造にして磨いてご覧なさい。大した美人になります」
佐「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

出典:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

もとは講談

もとは講談で、「細川茶碗屋敷由来」を人情噺にしたものです。

「茶碗屋敷」と題した、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)の古い速記(明治24年)が残っています。

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)と三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)の親子の系統ですね。

志ん朝のは絶品

志ん朝の「井戸の茶碗」は、はっきり言ってすばらしい。絶品です。涙が出ちゃいます。

落語には、オチのある落とし噺とオチのない人情噺、怪談噺があります。

これは、人情噺ですから、本来はオチなどなかったのですが、志ん生はこんなふうにオチをつけています。

オチがあったほうが、聴いているほうも「終わった」という安心感があるものです。

井戸の茶碗とは

「井戸の茶碗」とは、室町時代に朝鮮半島から渡ってきた高麗茶碗の中でもすこぶる有名なもの。奈良の興福寺の井戸氏が所有していたので、こう呼ばれていました。

細川氏は骨董好きな大名で有名なので、不自然な設定ではありません。

高木佐太夫が顔を出して、清兵衛を呼び止める「高窓」というものが登場しますが、これは、「曰窓いわく」ともいい、横桟一本だけがはめられた、武家屋敷の窓です。 

ちょうど、「論語」なんかでおなじみの「子、曰く……」の「曰」の字の形に似ているので、そう呼ばれていました。

江戸詰めの勤番侍

佐太夫のような江戸詰めの勤番侍の住居は、藩邸内の「長屋」で、二階建てが普通でした。

下は中間・小者、上に主人が住んでいます。

行商人からものを買うときには、表通りに面した高窓から声をかけ、そこからざるを下ろして品物を引き上げます。

これは、「石返し」という噺にも登場します。

売卜のこと

ところで、この噺では、易者のことを「売卜」と呼んでいます。

「卜」とは、骨片などを加熱してその割れ方から占うことをいいます。

古代の人は、こんなことで不可視なものを見ようとしていたんですね。

まあ、今では「占」と同じように使っています。

「占卜」とか「卜占」とかいった言葉もありますが、どっちも「占い」の意味です。

しかるに、「売卜」とは、占いを売る。言葉の遊びとはいえ、ちょっとおもしろくありませんか。

「千代田卜斎」とは、「千代田(=江戸)城の堀端で営業中の易者」というだけの意味で、世をしのぶ仮の名前。本名ではないのでしょうね、きっと。

卜斎先生のような大道の易者は、筋違御門から新橋にいたるまでの大通りに、最も多く出たといいます。

麹町や赤坂、四谷、愛宕下、上野の山下などの繁華街にも出没していたそうです。

山の手が多いのは、易者には卜斎同様に、浪人くずれが多かったためでしょうか。

中には名人もいたでしょうが、卜斎先生の腕のほどは、さあ、わかりません。

麻布谷町

清兵衛がいた麻布谷町は、正式には今井谷町いまいだにまちといい、現在の港区六本木二丁目あたり。アメリカ大使館宿舎の一部になっています。

今はともかく、当時はあまり豊かでない人たちが住んでいました。東京もずいぶんさま変わりしたものです。

正直清兵衛さん

ところで、この清兵衛さん、前々回に取り上げた「もう半分」にちょこっと紹介しています。

「もう半分」に似た因業で悲惨な噺「正直清兵衛」の主人公です。

こっちでは殺されちゃったりして、悲劇のおじさんでしたが、今回は、なかなかの老け役ですね。

こんなふうに、落語のキャラクターは、さまざまな噺に手を変え品を変えて登場するもの。

これも、落語のお楽しみのひとつといえますね。

【もっと知りたい】

3代目春風亭柳枝が「茶碗屋敷」として明治24(1891)年にやった速記では、浪人が高木佐太夫、細川藩士が吉田清十郎とある。

大正期の三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の「井戸の茶碗」では、今の形だ。

鶯亭金升(長井総太郎、1868.03.16-1954.10.31、雑誌記者or新聞記者or遊芸的文芸作者、竹葉亭昌安or竹葉亭金升or鶯亭化七or台山辺人など)の由来譚では、巣鴨の中屋敷が舞台で仏像を買ったのはそこの門番、売ったのは神田裏長屋の夫婦だとか。

今の形に至るまでには若干の異同があったようである。

五代目志ん生が得意とした。次男志ん朝の「井戸の茶碗」にいたっては絶品だった。親父のを超えていた。

井戸の茶碗とは、興福寺の井戸家が有した高麗渡来の茶碗なのだという。

この説明は噺には出てこない。

聴者は最後まで「井戸の茶碗」の正体を知らずじまい。

それでも別段不満は残らない。おかしな噺である。

登場する者すべてが善人である。

小悪党が憎めない「業の肯定」を尊ぶ落語には珍しい。

もとは「細川茶碗屋敷の由来」という講談だから、無理もない。

ここまでの善意を見せつけられると現代人には奇異にしか思えないものだが、この手の噺は冗長な運びだと目も当てられない。

善意に臭みが漂ってきて、聴いていられなくなるのだ。

志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。善意の臭さに気づく余裕もなく、三者のすがすがしさが小気味よい佳作だ。

古木優

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よだんめ【四段目】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

『忠臣蔵』四段目、判官切腹の場が題材。
芝居好きのおかしさ爆発。

別題:芝居道楽 野球小僧 蔵丁稚(上方)

あらすじ

小僧の定吉は芝居好き。

今日もお使いに出たきり戻らないので、だんなはカンカン。

この前、だんなが後をつけて、芝居小屋に入るのを見届けているので、言い訳はきかない。

「今日こそはみっちり小言を言います」
と、だんなが待ち構えているのも知らず、定吉、ご機嫌でご帰還。

問いただされると、
「日本橋の加賀屋さんへ伺っておりまして、『今日は伺いかねる用がありますから、両三日中に伺いますのでよろしく』と、おっしゃいました」
と言い訳するが、当の加賀屋のだんながつい先刻まで来ていたのだから、とうにバレている。

それでもめげずに、
「あたしは芝居なんて嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、実に、この、けしからんもんで」

往生際が悪いので、だんなは一計を案じ、
「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、おまえは留守番だ」
と言い渡す。

定吉が焦り出すのを見て、
「今度の歌舞伎座の『忠臣蔵』は、歌右衛門の師直と勘三郎の与市兵衛の評判がいいそうだ」
とカマをかけると、たちまち罠にかかった。

「女方の歌右衛門が敵役の師直なんぞ、やるわけがねえ。あたしは今見てきました」
「この野郎ッ。こういうやつだ。今日という今日は勘弁なりません」

二、三日蔵へ。

「出してはなりません」
と、だんなの厳命で、定吉はとうとう幽閉の身。

しかたなく、今日見てきた『忠臣蔵』四段目・判官切腹の場を一人芝居で演じて気を紛らわしているうち、車輪になって熱が入り、
「御前ッ」
「由良之助かァ、待ちかねたァ」
とやったところで、腹が減ってどうしようもなくなった。

番頭が握り飯をこっそり差し入れてくれると約束したのに、忘れてしまったらしく、いっこうに届かない。

こうなれば、本格的に芝居をして空腹を忘れようと、蔵の箪笥を探すと、うまい具合に裃とお膳が出てきた。          

その上、ご先祖が差した九寸五分の短刀まであったから、定吉、大喜びで、お膳を三宝代わりに
「力弥、由良之助は」
「いまだ参上、つかまつりませぬ」
「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」
と九寸五分を腹へ。

そこへ女中がようすを見にきて、定吉が切腹すると勘違い。

あわててご注進すると、だんなも仰天。

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだ、間違いがあってはならない」
と、自分で鉢を抱えて、蔵の前にバタバタバタ。

戸前をガラリと開けると
「ご膳(御前)ッ」
「蔵のうちで(由良之助)かァ」
「ははッ」
「待ちかねたァ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

日本一の猪?  【RIZAP COOK】

天明8年(1788)刊江戸板『千年草』中の「忠信蔵」が原話で、上方落語「蔵丁稚」が東京に移されたものです。

原話の小咄では、商家の若だんなが丁稚を連れてお呼ばれに行き、早く着きすぎたので二人とも腹ペコ。そこで声色で忠臣蔵ごっこをして気をまぎらわそうとし、熱が入って「いまだ参上……」のセリフになったとき二階で「もし、御膳をあげましょう」の声。若だんなが「まま(飯)待ちかねたわやい」というもの。

上方の「蔵丁稚」は、船場の商家が舞台で、筋は同じですが、桂米朝では、だんなが「雁治郎と仁左衛門が五段目の猪をやる。日本一のイノシシや」とだまします。

東京のやり方  【RIZAP COOK】

明治32年(1899)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の速記では「碁泥」につなげて演じられています。六代目文治は芝居好きで知られます。

定吉が芝居小屋で赤ん坊の尻をこっそりつねって泣かせ、そのたびにあやそうと乳母が差し出す食べ物を失敬するという場面が前についていますが、この部分は現在は省かれます。

昭和に入ってからは、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)がよく演じましたが、現在はそれほど演じられていないようです。

仮名手本忠臣蔵  【RIZAP COOK】

人形浄瑠璃としては赤穂浪士の討ち入りから半世紀ほどを経た寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演されました。

二世竹田出雲(1691-1756、浄瑠璃作者、千前軒、外記)、並木宗輔(1695-1751、浄瑠璃作者、初代並木千柳)、三好松洛(?-1771、浄瑠璃作者)の合作で、歌舞伎では翌寛延2年2月、江戸森田座の上演が僅差でもっとも早いようです。記念すべき初代の大星由良之助役は山木京四郎、塩冶判官役は花井才三郎と、記録にあります。

四段目・判官切腹の場は、前段の高師直(=吉良上野介)への刃傷で切腹を命じられた塩冶判官(=浅野内匠頭)が九寸五分の短刀を腹に突き立てたとたん、花道からバタバタと大星由良之助(=大石内蔵助)が駆けつける名場面です。

江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用しました。

ちなみに、二世竹田出雲、並木宗輔、三好松洛の3人は、義太夫狂言の三大名作とされる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』とを作り上げた竹本座の作者です。

改作と類話  【RIZAP COOK】

二代目三遊亭円歌が芝居を現代風に野球に代え、「野球小僧」と改作したものを演じていました。

上方では、発端は「蔵丁稚」と同じですが、番頭が店の金を使い込んで女と芝居を見ていることを丁稚がだんなにバラし、番頭がクビになる「足あがり」があります。

忠臣蔵の噺  【RIZAP COOK】

「忠臣蔵」を題材とした噺は多くあります。「二段目」「五段目」「六段目」「七段目」「九段目」についても同題の噺があるほか、十段目についても艶笑小咄「天河屋義平」があります。

現在演じられるのは「四段目」と「七段目」くらいで、たまに別題「吐血」の「五段目」が「蛙茶番」ほか、芝居を扱った噺のマクラに振られます。

ことばよみいみ
蔵丁稚くらでっち
師直もろなお
高師直 こうのもろなお
与市兵衛 よいちべえ
箪笥 たんす
裃 かみしも
塩冶判官 えんやはんがん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

あさとも【朝友】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

仏教説話が原初の魂の入れ替わりが素材。
説話の「伊勢や日向の物語」も味付けに。

別題:朝友ともふさ 冥土の雪

【あらすじ】

病気で、この世とおさらばした男。

気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。

うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。

よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。小日向水道町松月堂の娘だ。

再会を喜び合ううちに
「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいからあなたのそばに置いてください」
と、女が言う。

男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょうという者の息子。

いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と夫婦約束。

ついでに、意気揚々と三途さんずの川も渡ってしまった。

ところが、地獄では閻魔えんま大王がお里に一目ぼれ。

生塚しょうづかの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。

亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。

そこはさすがに金貸しの息子。

親父が棺に入れておいてくれた、娑婆しゃばのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。

たどりついた三途の川のほとり。

生塚の婆さんの家では、毎日毎日、あわれ、お里が婆さんに責めさいなまされている。

「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華えいようえいがは望み次第。玉の輿こしじゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」

婆さん、お里の襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。

折しも、降りしきる雪。

極楽の鐘の音がゴーン。

男が難なく塀を乗り越え
「お里さん」
「そういう声は康次郎さん」

急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだした。

そのとたん、娑婆しゃばでは「ウーン」とお里が棺の中で息を吹き返す。

それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。

生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。

来あわせた坊さんが
「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向ひゅうが松月朝友まつづきともふさという方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀ふんやのやすひで。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向こびなた松月堂しょうげつどう、向こうが伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょう。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」
「でも和尚さん、向こうの都合もあります」
「いや、幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」

出典:四代目橘家円喬『百花園』13巻124号 明治27年6月20日

【しりたい】

文屋氏の読み方

平安時代前期の歌人で六歌仙の一、文屋康秀(?-885?)。小倉百人一首でも知られています。

吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ  小倉百人一首22番

文屋ふんや氏は文室ふんや氏のこと。八色やくさかばねの第一位である真人まひとを天武天皇から賜った一族です。

文屋の読みは「ふみや」→「ふんや」と訛ったようです。江戸時代には「ぶんや」と読む人も出てきました。元のいわれがわからなくなったからなのでしょう。われわれ現代人と同じです。

この一族、スタートは官人=文人だったのでしょうが、地方に赴任するごとに武人の要素が濃くなっていきます。

寛平の韓寇(893-4)で活躍した文屋善友、刀伊の入寇(1019)で活躍した文室忠光などは同族だったといわれます。「軍事貴族」と呼ばれる人々。武芸にひいでた貴族です。この人々は子孫は武士になっています。

文屋康秀は官人で歌人でしたが、これは平安初期だからで、その後の文屋氏=文室氏からは武人が多く輩出しているのです。

どちらにしても、「文屋」は「ふんや」と呼ばれていました。「ぶんや」ではありません。小倉百人一首の文屋康秀を「ぶんややすひで」と読む人はいません。

ただし、文屋康秀がいったいどんな人物だったのかは、よくわかっていません。現在では、小野小町や猿丸大夫といった伝説的な歌人の一人としてとらえられているだけです。

噺のなりたち

文屋康秀を題材とする民間伝承に加えて、『日本霊異記』(景戒、822年頃)や『今昔物語集』(作者不詳、1120年頃)に多く見られる死人が蘇生して地獄のさまを語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。

二書とも唐の「冥報記」(唐臨選、7世紀半ば)の影響を強く受けた説話集です。「朝友」の原型となる話は「冥報記」にも載っています。

江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の『軽口はるの山』中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)年刊『軽口夜明烏』中巻「死んでも盗人」が原話とされます。

前者では、幽霊がゴーストバスターに墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。

と、これはこれでつじつまは合っているのですが、文屋康秀が出てこないのが気がかりです。

そこで、『和漢三才図会』(寺島良安編著、1712年)。江戸時代の百科事典です。寺島は大坂の医師で、『三才図会』(明・王圻、1609年)に倣った大巻でした。三才とは天、地、人をさし、万物を意味します。なんでも、という意味ですね。この中の第71巻地理部「伊勢」の項目に「伊勢国安濃郡内田村天台宗長源寺の縁起」として載っています。

ここらへんは、二村文人氏の論考に従って、私も現物を確認していったまでのお話です。
長源寺の縁起譚は「雲林院」「西鶴名残の友」「国姓爺後日合戦」「たとへづくし」などにも使われているそうですから、寺島はそのような人口に膾炙された話を『和漢三才図会』にすくい取ったのでしょう。

「伊勢物語知顕抄」(和歌知顕抄とも、鎌倉期成立)は「伊勢物語」の注釈書ですが、ここには、伊勢の文屋吉員と日向の佐伯経基の話で使われています。

ここで文屋がやっと出てきました。

宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、これらの結果を咀嚼して、『和漢三才図会』を骨子としたうえで、「知顕抄」の説話を加味してこさえたのが「朝友」なのではないかと推測しています。

さらに。

二村氏によれば、文化12年(1829)刊の読本「伊勢日向 寄生木草紙」(栗杖鬼卵作)が、足利尊氏のお家騒動に「伊勢や日向の物語」のモチーフを取り込んでいるのだそうです。私は未見です。

この読本は、作者が「朝友」をつくるうえで参考にしたのかもしれません。

文屋吉員も佐伯経基も江戸の人にはピンときませんから、百人一首で名が知られた文屋康秀にまとめて親近感を与えようとしたのかとも思います。

話のこさえ方そのものが「伊勢や日向」なんですね。

歌舞伎では、「伊勢日向物語」(大坂新四郎座、1730年)や「伊勢や日向の物語」(大坂中山文七座、1759年)などが上演されているそうです。

すべてに共通するのは、抜け殻の肉体に魂が入れ替わることで蘇生する、というモチーフです。

そんなところではないでしょうか。

お里が生塚の婆さんに雪責めにされるところは、新内の「明烏夢淡雪」(「明烏」参照)中の遊女浦里雪責めの場面を採ったものです。

魂が肉体から抜け出てなにやらの所作をする噺には、「悋気の火の玉」があります。魂は登場しませんが、「粗忽長屋」もこの種の仲間に入れてよいでしょう。この噺は近代的な洗練を感じます。

上方噺には「魂の入れ替え」があります。

宇井無愁は「魂の入れ替え」と「朝友」を『落語のみなもと』(中公新書、1983年)で同列に論じています。たしかに同工の噺です。「魂の入れ替え」は柳家一琴師がやっています。

松月朝友

詳細は不詳です。

あらすじの参考にした四代目橘家円喬の明治27年(1894)の速記では、「ともふさ」とルビが振ってあります。

ただ、おもしろいことに、江戸期を通して、江戸の小日向には、伊勢屋という質屋で財を成した大金持ちが住んでいました。土地持ちです。

小日向の伊勢屋。

うまく使えばよかったのかもしれませんが。

でも、「朝友」の作者はどうも、日向と伊勢が遠く離れていることに眼目を置きたかったようですから、小日向と日本橋伊勢町という、このくらいの距離感が欲しかったのでしょう。まあ、しょうがない。

高利貸し

民間では座頭金といいます。

盲人の位階で最下位の座頭が、溜め込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位の検校ともなれば、大名貸しで巨富を築くものも少なくありませんでした。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)作「真景累ヶ淵」の発端で、旗本・深見新左衛門の屋敷に、貸金の取り立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦も、この座頭金を営み、その金利は5両に1分で返済期限4月という、とんでもない高利でした。

生塚の婆さん

脱衣婆だつえばのこと。地獄の入り口、三途の川の岸辺で無一文の亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹えりょうじゅという木の上にいる懸衣翁けんえおう(奪衣婆の隣に座っている老人の鬼爺)に渡すのが仕事の鬼婆です。通行料の六文銭があれば、そのまま渡れます。仏教での話です。

「生塚」は「正塚」とも書きますが、「三途河」がなまったものです。

水木しげるの怪奇漫画では常連ですね。

落語でも、「地獄八景」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場します。

「朝友」では本来の悪役ですが、このキャラ、どちらかというと、コミカルな情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原・山名屋のやり手のおかやばばあです。

完全に絶えた噺、と思いきや

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)以後、ほとんどやり手がなかったようです。

昭和になって、『名作落語全集』(騒人社、1929年)中に四代目円喬の速記が復刻されて以来、この噺は何度か活字化されています。でも、すべての活字はソースが円喬のものです。

四代目円喬以前も以後も、現在にいたるまで、音源も含めて、他の演者の記録はありませんでした。

地獄を脱出するサスペンスなど、なかなか捨てがたいので、どなたかがテキストレジーの上、復活してくれるとおもしろいのですがね。

と言っているうちに、時代はめぐりまして。

ところがなんとまあ、いまでは、桃月庵白酒柳家三之助柳亭左龍鈴々舎馬桜などがやっています。いやあ、これまたびっくり。至福の時代です。

文屋と朝友

円喬の速記によると、伊勢国(三重県)の文屋康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。

困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国(宮崎県)の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変わっていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという、奇妙キテレツな死人蘇生譚です。

円喬は、坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本については未詳です。

実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明。

わずかに、三河掾みかわのじょう(三河国の地方官の三席)となって赴任するときに、小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。

伊勢や日向

この噺は、「伊勢や日向」という俗諺(ことわざ)が下敷きになっています。

『岩波古語辞典 補訂版』には「伊勢」の項目に、「伊勢や日向」が説明されています。

物事の内容が食いちがって、まちがっていること。「伊勢や日向の物語」とも。

引用例は以下の通り。

げにげに、伊勢や日向のことは、たれかとさだめるべき  謡「雲林院」

謡曲からとられているわけで、「伊勢や日向」は中世の戦乱期に生まれた俗諺なのでしょう。人の死が日常的にあった時代での、人々の切なる願いがこのような噺に姿を変えたのではないかと思います。

とはいえ、今では聴いたことも使ったこともないことわざですが、話のつじつまが合わないこと、物事の順序がよくわからないことのたとえで使われていたようです。

魂の入れ替え噺が伊勢町のせがれと小日向の娘との間で繰り広げられるのは、このことわざの落語らしい「本歌取り」です。

【参考文献】宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)、二村文人「落語と俗伝」(「國語と國文学」東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)、関山和夫『説教の歴史的研究』(法蔵館 1973年)

【おことわり】「朝友」はなんと読むべきなのか。「あさとも」「ともふさ」と両方の読み方があるようです。本サイトが底本にしている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)では、当該頁(第3巻108頁下段)に、題名「朝友」のルビで「あさとも」と振られてあります。そうなのか、と思って噺を読んでいくと、本文の終わりに「松月朝友」の名が登場し、ルビは「まつゞきともふさ」とありました。表記の不統一です。厳密さに欠ける明治期らしい表記にあきれるべきなのか、そのおおらかさにほほえむべきなのか、はたまた、われわれのうかがい知れないところからの底意を汲みとるべきなのか。疑問は千々に乱れます。不勉強なわれわれのこと、この手の追究は遅々として進みません。いつの日かわれわれが腑に落ちるまでは、「朝友」の読み方を「あさとも」「ともふさ」と併記します。ちなみに、「とも」は「ふたつがいっしょになる状態」、「ふさ」は「いくつかが集まる状態」が、古語の解釈です。噺の真意をどこか暗示しているように見えます。ということは、「ともふさ→あさとも」と変遷していったのかなと、仮説も立てられます。この噺が流布されて以来百余年。「あさとも」の読みも通行していたわけですから、これを一方的に否定するのはいかがなものかと思います。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しにがみ【死神】落語演目

 

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

米津玄師も唸る幽冥落語の逸品。
元ネタはドイツ、はたまたイタリア由来とか。
ローソク使った寿命の可視化が真骨頂。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめたッ」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまったくらい。西本晃二『落語「死神」の世界』(青蛙房、2002年)です。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したのがイタリアのルイージ・リッチとフェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」で、この筋か、または、グリム童話「死神の名付け親」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴(源一郎、1841-1906、幕臣→劇作家、東京日日新聞社長、衆院議員)あたりから聞き込んで、落語に翻案したものといわれています。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。古来、日本にはこんなイメージがありません。日本では死神があんまり出てこないのです。

この噺で語られる死神はというと、ぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとったやせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

しかし、こんなのは日本文化にはなじまないもの。明らかに明治期に西洋から入ってきた死神の図像的な翻案です。

とはいえ、円朝は死神像をでたらめにこさえたわけでもありません。

江戸時代も後期になると、聖書を漢訳本で読んだ国学者たちの間で醸成していった西洋と日本の掛け合わせ折衷文化が庶民の日常にもじわじわと及ぼしてきます。

ついには、これまでの日本人がまったく抱いてこなかった「死を招く霊」が登場するのです。

たとえば、下図は『絵本百物語』(桃山人著、竹原春泉斎画、天保12年=1841年)の「死神」。このようにすっとんきょうな、乞食のようなじいさんのような姿の死神像も一例です。

日本の「死神」は古くからあまりイメージされてきていませんから、人々の心の中に一定のイメージがあるわけではありませんでした。

それでも「死神」というからには死を連想させるわけで、老人、病人、貧者の姿がおさまりよいのでしょう。異形のなりではありますが。

円朝の「死神」では、筋の上では西洋の翻案のためか、ギリシア風の死をつかさどる神とい、新しいイメージが加わっているようにも見えます。

日本では死神に対する誰もが抱く共通した図象イメージがなかったことが、円朝にはかえっておあつらえ向きだったことでしょう。

ローソクを人の寿命に見立てる考えなども、日本人にはまったくなかった発想でした。ここでの死神は、じつは、明治=近代の意識丸出しのそれなんですね。

「古典落語」といいながらも、大正期にできた噺までも許容しているわけです。

古典落語を注意深く聴いていると、妙に「近代」が潜り込んでいることに気づくときもあります。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家芸です。

明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味とユーモアが渾然一体で絶品でした。八五郎役は森川正太(新井和夫、1953-2020)。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」。昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承します。

先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意としました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、オチも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種でした。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のは、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

りんきのひのたま【悋気の火の玉】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「悋気」は「ねたみ」。
「吝嗇」は「けち」。
この噺はねたみがテーマなんですね。

【あらすじ】

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。

堅物を画に描いたような人間で、女房のほかは一人として女を知らなかった。

ある時、つきあいで強引に吉原へ誘われ、一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまった。

とどのつまりは、いい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになる。

本妻の方は、このごろだんながひんぱんに外泊するからどうもあやしいと気づいて調べてみると、やっぱり根岸の方にオンナがいることがわかったから、さあ頭に血がのぼる。

本妻はちくりちくりといやみを言い、だんなが飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」
という調子でふてくされるので、亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくない。

次第に本宅から足が遠のき、月の大半は根岸泊まりとなる。

そうなると、ますます収まらない本妻。

あの女さえ亡き者にしてしまえば、と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めた。

藁人形に五寸釘、恨みを込めて打ちつける。

その噂が根岸にも聞こえ、今度は花魁だった愛人の方が頭にくる。

「よーし、それなら見といで」
とばかり、こちらは六寸釘でカチーン。

それがまた知れると、本妻が負けじと七寸釘。

八寸、九寸と、エスカレートするうち、呪いが相殺して、二人とも同日同時刻にぽっくり死んでしまった。

自業自得とはいえ、ばかを見たのはだんなで、葬式をいっぺんに二つ出す羽目になり、泣くに泣けない。

それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立った。

鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。

ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、火花を散らして死闘を演じる、というのだ。

これを聞くとだんな、このままでは店の信用にかかわると、番頭を連れて大音寺前まで出かけていく。

ちょうど時刻は丑三ツ時。

番頭と話しているうちに根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、フンワリフンワリこちらへ飛んできて、三べん回ると、ピタリと着地。

「いや、よく来てくれた。いやね、おまえの気持ちもわかるが、そこは、おまえは苦労人なんだから、なんとかうまく下手に出て……時に、ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」
と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。

「いや、待ってました。いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

【しりたい】

これも文楽十八番  【RIZAP COOK】

安永年間(1772-81)に、吉原の大見世の主人の身に起きた実話をもとにしていると言われます。

原話は笑話本『延命養談数』中の「火の玉」です。

これは天保4年(1833)刊、桜川慈悲成(1762-1833)によるもの。

現行は、この小咄のほとんどそのままの踏襲で、オチも同じ。

わずかに異なるのが、落語では、オチの伏線になる本妻の、「あたしのお給仕なんかじゃ…」というセリフを加えるなど、前半のの筋に肉付けしてあるのと、原話では、幽霊鎮めに最初、道心坊(乞食坊主)を頼んで効果がなく、その坊さんの忠告でしぶしぶだんあ一人で出かけることくらいです。

この噺を十八番の一つとした八代目桂文楽は、仲介者を麻布絶口木蓮寺の和尚にして復活させていました。

文楽は、だんながお妾と本妻にそれぞれ白髪と黒髪を一本ずつ抜かれ、往復するうちに丸坊主、というマクラを振っていました。

文楽の没後は五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)がよく演じ、現在でも高座に掛けました。

音源は文楽のみです。

ケチと悋気は親類?  【RIZAP COOK】

悋(ねたむ)と吝(おしむ)は同訓で、悋には吝嗇(吝も嗇もおしむ)、つまりケチと嫉妬(悋気)の二重の意味があります。

一つの漢語でこの二つを同時に表す「吝嫉りんしつ」という言葉もあるため、ケチとヤキモチは裏腹の関係、ご親類という解釈だったのでしょう。

こじつけめきますが、よく考えれば原点はどちらも独占欲で、他人が得ていて自分にない(または足りない)ものへの執着。

それが物質面にのみ集中し、内向すればケチに、広く他人の金、愛情、地位などに向かえば嫉妬。

悋気は嫉妬の中で、当事者が女、対象が性欲と、限定された現れなのでしょう。

やきもちは遠火で焼け  【RIZAP COOK】

「ヤキモチは 遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず 味わいもよし、なんてえことを申します」
「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」
というのは、落語の悋気噺のマクラの紋切り型です。

別に、「チンチン」「岡チン」「岡焼き」などともいいます。

「チンチン」の段階では、まだこんろの火が少し熾きかけた程度ですが、焼き網が焦げ出すと要注意、という、なかなか味わい深いたとえです。

花川戸  【RIZAP COOK】

花川戸は、現在の台東区花川戸一、二丁目。

西は浅草、東は大川(隅田川)、北は山の宿で、奥州街道が町を貫き、繁華街・浅草と接している場所柄、古くから開けた土地でした。

芝居では、なんと言っても花川戸助六と幡随院長兵衛の二大侠客の地元で名高いところです。

花川戸から北の、山の宿(現在は台東区花川戸に統合)にかけて、先の大戦前まではこの噺の通り、下駄や雪駄の鼻緒問屋が軒を並べていました。今は靴などの製造卸業が多く並びます。

そういえば、舞台で助六が髭の意休の頭に下駄を乗せますが、まさか、スポンサーの要請では……。

大音寺  【RIZAP COOK】

台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺をさします。

向かいは、樋口一葉(樋口なつ、1872-96)ゆかりの地、かつての下谷竜泉寺町です。

箕輪の浄閑寺(浄土宗、荒川区南千住二丁目)、新鳥越橋南詰(台東区浅草七丁目)にあった西方寺(浄土宗、俗称は土手の道哲、豊島区西巣鴨に移転)とともに、吉原のお女郎さんのむくろが投げ込まれる、投げ込み寺でもありました。

蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した物騒なところで、幽霊など、まだかわいい方です。

【語の読みと注】
悋気 りんき
吝嗇 りんしょく
悋嫉 りんしつ

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やってみたい人

おけちみゃく【お血脈】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

善光寺で「血脈の御印」をもらえば極楽に行ける。
その結果、地獄は閑古鳥状態。
地獄の起死回生、御印盗みに石川五右衛門を。
五右衛門は善光寺に乗り込み、御印を見つけた。
会話なし。噺家が語り進めていく地噺。

別題:血脈 骨寄せ(上方) 善光寺骨寄せ(上方)

【あらすじ】

信濃の善光寺で、お血脈の御印というのを売り出した。

これは、百文出して額に印を押してもらえば、どんな罪を犯しても極楽往生間違いなしという、ありがたい代物。

なにしろ、たった百文出せば、人を何万人絞め殺そうが罪業消滅というのだから、世界中から人が押しかけ、ハンコ一つで一人残らず極楽へ行ってしまい、しまいには地獄へ来るものが一人もなくなった。

おかげで地獄では不景気風が吹き荒れ、浄玻璃の鏡などの貴重品はおろか、鬼の金棒に至るまですべて供出させ、シャバの骨董屋に売っぱらってしまうありさま。

赤鬼も青鬼も栄養失調で餓生(?)寸前。

虎の皮のフンドシまで売りとばし、前を隠してフラフラと血の池をさまよっている。

元締めの閻魔大王も、このままでは失脚必至とあって、幹部を集めて対策会議。

部下の見る目と嗅ぐ鼻(ともに探査係)が、こうなれば誰か腕のいい大泥棒を雇い、元凶の、例のお血脈を盗み出すほかないと提案し、全会一致でそれに決まった。

問題は泥棒の人選で、ありとあらゆる大泥棒のリストをあさったが、いずれも帯に短したすきに長しで、結局、最後は人格力量抜群のご存じ、石川五右衛門と決定。

さて五右衛門、地獄の釜の中で都々逸どどいつを三十六曲歌ってのぼせているところ。

大王からのお召しとあって、シャバにいたころそのままに、黒の三枚小袖、朱鞘の大小、素網を着て、重ね草鞋、月代を森のごとくに生やし、六方を踏みながらノソリノソリと御前へ。

「……これこれしかじかだが、血脈の印を盗み出せるのはその方以外になし。やってのけたら重役にしてやる」
「ハハー、いとやすきことにござりまする」

というわけで、久しぶりにシャバに舞い戻った五右衛門、さすがに手慣れたもので、昼間は善光寺へ参詣するように見せかけて入り込み、ようすを探った上で、夜中に奥殿に忍び入って血脈を探したが、なかなか見当たらない。

そのうち立派な箱が見つかったので、中を改めるとまさしくお血脈の印。

見つかったらさっさと地獄へ持って帰ればいいものを、この泥棒、芝居気があるから、
「ありがてえ、かっちけねえ。まんまと首尾しゅびよく善光寺の、奥殿おくどのへ忍び込み奪い取ったるお血脈の印。これせえあれば大願成就」
と押しいただいて、そのままスーッと極楽へ。

底本:四代目橘家円蔵、六代目三遊亭円生

【しりたい】

善光寺の伝承に由来

はっきりした原話は不明ですが、信濃の善光寺にまつわる縁起・伝承が起源とみられます。

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の明治44年(1911)の速記が残っています。

その円蔵の演出を踏襲して、戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしました。

円蔵、円生ともにマクラに釈迦の逸話と善光寺の由来を滑稽化して入れています。

上方では、芝居の「骨寄せの岩藤」の趣向を取り入れ、五右衛門のバラバラになった骨を集めて蘇生させるというやり方なので「善光寺骨寄せ」「骨寄せ」の題でも演じます。

お血脈

おけちみゃく。

六代目円生が生前、善光寺に参詣していただいてきたと語っていました。

それによると、上書きに「信州善光寺、融通念仏血脈譜、別当大勧進」とあり、裏は中央に「浄業者」、脇に「念佛弟子、日課、百遍」、紙包みの中には半紙一枚に、中央に「良忍上人直授元祖聖應大師」、以下、多数の大僧正、上人、阿闍梨(高位の僧侶)の名が書きつらねてある、とのこと。

「血脈」とは、仏教で師匠から弟子に伝えられる戒律や系譜書です。

それを伝えることを「血脈相承」といい、在家の信者にその儀式を省略して護符のように分け与えたのが「お血脈」の始まりとか。

のちに札になりましたが、かつては額に直接押印していました。

ただしタダではなく、浄財百疋(一疋=二十五文)が必要です。

たった二分ちょっとで極楽往生できれば、安いものです。

善光寺

長野市元善光寺町にあります。

無宗派の単立寺院。天台宗と浄土宗とで運営管理されている、珍しい寺です。

本尊は三国伝来一光三尊阿弥陀如来。

天竺(=インド)から閻浮檀金という身の丈一寸八分の阿弥陀像が渡来、それを「仏敵」の物部守屋が難波ヶ池に簀巻きにして放り込み、「処刑」。

それを見つけた本多善光が、仏像を信州に勧請(神仏の分霊を迎える)して寺ができた、というのが沿革です。

本多善光が実在したかどうか。今のところ、可能性は薄いそうです。

石川五右衛門

伝説上の人物として、長く小説、芝居、落語などさまざまなジャンルで取り上げられてきました。

当人が主人公として直接登場するものは意外に少なく、落語ではこの「お血脈」でしょう。

ほかに、歌舞伎では「絶景かな……」で有名な「楼門の場」を含む「釜渕双級巴」、小説では古くは司馬遼太郎の「梟の城」、平成になってからは赤木駿介の「石川五右衛門」、劇画ではケン月影の「秀吉に挑んだ男石川五右衛門」などが、主なところでしょうか。

地噺

じばなし。セリフがほとんどなく、演者の地の語りを中心に進める噺のこと。

その意味では講談に近いわけですが、あれほどエクセントリックではなく、淡々と語ります。

「あたま山」「西行」「紀州」など、歴史上の人物の逸話や民間伝承、寺社縁起などを題材にしたものが多く、江戸前落語特有のジャンルといえます。

短くても笑いが少なく、地味なものが多いので、飽きずに聴かせるには円熟した話芸が必要です。生半可な噺家にはこなせません。

そういう意味では、いまどきははやらないでしょう。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)などは、滋味あふれる地噺の名手で、その語り口は、晩年にはさながら高僧の説教のような趣があったものです。いささか眠くなりますが。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やってみたい人

ねこのさら【猫の皿】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

お目当ては皿か猫か。
柳家小三治師匠が最後にやった演目です。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

あらすじ

明治の初年。

ある端師はたしが、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

しりたい

滝亭鯉丈

原作は、滝亭鯉丈りゅうていりじょう(?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。

鯉丈という人は、滑稽本作者、つまり、今でいう流行作家。

滑稽本というのは、『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のようなユーモア小説、コミック小説です。鯉丈は落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。

自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。

原作では猫じゃなくて猿! 

それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。

汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。

改めて、鯉丈について文学辞典ふうに。

滝亭鯉丈、本名は池田八右衛門。

生年は不明ですが、没年は天保12年(1841)6月10日です。

享年(数え年での没年齢)は60余とのこと。小石川の称名寺に葬られています。養家に入った池田家は300石取りの旗本でしたが、鯉丈が入婿した時には禄を失っていたそうです。

下谷広徳寺門前稲荷町で櫛屋を商っていましたが、浅草伝法院前に移り、さらに浅草駒形町河岸通りに引っ越しました。

三田村鳶魚みたむらえんぎょが取材した鯉丈の曽孫の話では、乗物師、または縫箔屋だったとか。

新内節の名手で遊芸にも通じ、寄席芸人だったとのこと。

器用な人だったのですね。これは、鯉丈の著作や弟だという話もある為永春水の著作からうかがえることです。

滑稽本作者としては、最初は十返舎一九や式亭三馬の亜流のようなものをいくつか出していましたが、一九と三馬の作風をまぜこぜにしたような『八笑人』初編-四編追加(文政3-天保5年刊)と『和合人』初-三編(文政6-天保12年刊)で知られるようになりました。

「廃頽期の江戸町人の低俗な遊戯生活を写実的に描いて独自の位置を占め、鯉丈の名が文学史に記録されるのは、この二作によるものである。他には、文政年間の二世南仙笑楚満人(為永春水)の作に合作者として関与したこともあり、人情本に『明烏後正夢あかがらすのちのまさゆめ』初-三編(文政二-五年刊)、『霊験浮名滝水』(同九年刊)があるが、いうに足りない」

これは『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985年)での神保五弥じんぼかずや(1923-2009、早大、江戸文学)の言。

手厳しいですが、文学史的にはそんなところなのでしょう。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。

「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立やたて(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。

この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬うわぐすりで黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。

梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でした。

絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当といえるでしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。

なかなかおもしろい見方です。

志ん生がただのいきあたりばったりでなく、相当な勉強家でもあったこともよくわかります。

最近のでいちばんのおすすめは、柳家小三治でした。

この方に尽きました。

あのすっとぼけたかんじがね、なんともね、よかったのでした。ザンネン。

【蛇足】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。

骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。

オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。表現力の乏しい噺家には意外に難しいかもしれない。

もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから、今ではこの題が一般的になってしまった。

志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪うちくるわだけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形ますがたもこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋うまやばし、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20年(1887) 
厩橋   明治26年(1893) 
両国橋  明治37年(1904) 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。

さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44年(1911)のもの。彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころの話のようである。とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-17)刊行の滝亭鯉丈『大山道中膝栗毛』に「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて、
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん、
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

古木優

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やってみたい人

しばはま【芝浜】落語演目

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【どんな?】

明け方、浜で財布を拾った間抜けな棒手振り。
大金手にして奈落の幕開け。賢い女房が悪運うっちゃる。
三題噺のせいかむちゃくちゃな筋運び。円朝噺。

別題:うまいり 芝浜の皮財布 芝浜の財布

あらすじ

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。

腕はいいし人間も悪くないが、大酒のみで怠け者。

金が入ると片っ端から質入してのんでしまい、仕事もろくにしないから、年中裏店住まいで店賃もずっと滞っているありさま。

今年も師走で、年越しも近いというのに、勝公、相変わらず仕事を十日も休み、大酒を食らって寝ているばかり。

女房の方は今まで我慢に我慢を重ねていたが、さすがにいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

亭主はぶつくさ言って嫌がるが、盤台もちゃんと糸底に水が張ってあるし、包丁もよく研いであり、わらじも新しくなっているという用意のよさだから文句も言えず、しぶしぶ天秤棒を担ぎ、追い出されるように出かける。

外に出てみると、まだ夜は明けていない。

カカアの奴、時間を間違えて早く起こしゃあがったらしい、ええいめえましいと、勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。

海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてきた。

顔を洗おうと波打ち際に手を入れると、何か触るものがある。

拾ってみるとボロボロの財布らしく、指で中をさぐると確かに金。

二分金で四十二両。

さあ、こうなると、商売どころではない。

当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ますと、年を越せないから仕入れに行ってくれと言う。

金は四十二両もあるじゃねえかとしかると、どこにそんな金がある、おまえさん夢でも見てたんだよ、と、思いがけない言葉。

聞いてみるとずっと寝ていて、昼ごろ突然起きだし、友達を呼んでドンチャン騒ぎをした挙げ句、また酔いつぶれて寝てしまったという。

金を拾ったのは夢、大騒ぎは現実というから念がいっている。

今度はさすがに魚勝も自分が情けなくなり、今日から酒はきっぱりやめて仕事に精を出すと、女房に誓う。

それから三年。

すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。

得意先もつき、金もたまって、今は小さいながら店も構えている。

大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両。

実は亭主が寝た後思い余って大家に相談に行くと、拾った金など使えば後ろに手が回るから、これは奉行所に届け、夢だったの一点張りにしておけという忠告。

そうして隠し通してきたが、落とし主不明でとうにお下がりになっていた。

おまえさんが好きな酒もやめて懸命に働くのを見るにつけ、辛くて申し訳なくて、陰で手を合わせていたと泣く女房。

「とんでもねえ。おめえが夢にしてくれなかったら、今ごろ、おれの首はなかったかもしれねえ。手を合わせるのはこっちの方だ」

女房が、もうおまえさんも大丈夫だからのんどくれと、酒を出す。

勝、そっと口に運んで、
「よそう。……また夢になるといけねえ」

https://www.youtube.com/watch?v=MldXGcZWrQk

しりたい

三題噺から

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が幕末に、「酔っ払い」「芝浜」「財布」の三題で即席にまとめたといわれる噺です。➡鰍沢

先の大戦後、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、四代目柳家つばめ(深津龍太郎、1892-1961)と安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説、評論)のアドバイスで、白魚船のマクラ、夜明けの空の描写、オチ近くの夫婦の情愛など、独特の江戸情緒をかもし出す演出で十八番とし、昭和29年度の芸術祭賞を受賞しましたが……。

アンツルも三木助も自己陶酔が鼻につき、あまりにもクサすぎるとの評価が当時からあったようです。

まあ、聴く人によって、好き嫌いは当然あるでしょう。

芝浜の河岸

現在の港区芝浦1丁目付近に、金杉浜町という漁師町がありました。

そこに雑魚場という、小魚を扱う小規模な市があり、これが勝五郎の「仕事場」だったわけです。

桜の皮

今と違って、昔は、活きの悪い魚を買ってしまうこともありました。

あす来たら ぶてと桜の 皮をなめ   五25

魚屋に鮮度の落ちた鰹を売りつけられた時には、桜の皮をなめること。毒消しになると信じられていました。

いわし売り

そうは言っても、鰹以上に鰯は鮮度の落ちるのが早いものです。

気の迷いさと 取りかへる いわし売   六19

長屋のかみさんが鰯の目利きをしている光景のようです。

「気の迷いさ」とは魚屋の常套句なんですね。

鰯はちょっと変わった魚です。たとえがおもしろい。「鰯」と言ったら、錆びた刀の意味にも使われます。「赤鰯」とも。

たがや」などに登場します。武士をあざける象徴としての言葉です。

本阿弥の いわしは見れど 鯨見ず   十三

鰯と鯨の対比とは大仰な。鰯は取るに足りない意味で持ちだされます。

「いわしのかしらも信心から」ということわざは今でも使われます。江戸時代に生まれた慣用句です。

「取るに足りないつまらないものでも、信心すればありがたいご利益や効験があるものだ」といった意味ですね。

いわし食った鍋

「鰯煮た鍋」「鰯食った鍋」という慣用句も使われました。

「離れがたい間柄」といった意味です。

そのココロは、鰯を煮た鍋はその臭みが離れないから、というところから。

いわし煮た 鍋で髪置 三つ食ひ   十

「髪置」とは「かみおき」で、今の七五三の行事の、三歳の子供が初めて髪を蓄えること。

今は「七五三」とまとめて言っていますが、江戸時代にはそれぞれ独自の行事でした。「帯解」は「おびとき」で七歳の女児の行事、「袴着」は「はかまぎ」で三歳の男児の行事、これはのちに五歳だったり七歳だったりと変化しました。

それと、三歳女児の「髪置」。三つともお祝い事であることと、11月15日あたりの行事であることで、明治時代以降、「七五三」と三つにまとめられてしまいました。

それだけ、簡素化したわけです。といった前提知識があると、上の川柳もなかなかしみじみとした含蓄がにじみ出るものです。「大仏餅」参照。

「芝浜だけに……」

2020年に開業した山手線の新駅がありました。

場所は、品川駅と田町駅の間にです。名称は結局のところ、「高輪ゲートウェイ駅」に決まりました。

ふりかえれば、駅名を公募で決めることが、2018年6月に発表されました。ネット上ではさまざまな予想が談論風発でした。

地域は芝浦です。落語演目の「芝浜」がいいのではないか、と予想する人が多数いたのは当然の現象でしょう。

ウェブ上での投票数で「芝浜駅」は3位でした。

1位でなかったのは、この演目がまだ一般には浸透していないあかしでしょう。噺ができてもう160年にもなるのに。惜しい。

結果は「高輪ゲートウェイ駅」でした。

「夢になっちゃったね。芝浜だけに」

ネット上での投稿が、こんなことばであふれかえったものでした。いまとなっては懐かしい椿事です。ある噺家さんは「えん高輪たかなわゲートウェイ」と。さすがですなあ。

ゲートシティは大崎ですね

ことばよみ意味
店賃たなちん家賃



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ときそば【時そば】落語演目



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

落語と言えばこれでしょうか。
みんなが知ってる「なんどきだい」のアレ。
名人がやるとがぜん映えますね。
侮れない噺なんです。

別題:時うどん(上方)

あらすじ

夜鷹そばとも呼ばれた、屋台の二八にはちそば屋。

冬の寒い夜、屋台に飛び込んできた男、
「おうッ、何ができる? 花巻きにしっぽく? しっぽくゥ、しとつ、こしらえてくんねえ。寒いなァ」
「今夜はたいへんお寒うございます」
「どうでえ商売は? いけねえか? まあ、アキネエってえぐらいだから、飽きずにやんなきゃいけねえ」
と最初から調子がいい。

待って食う間中、
「看板が当たり矢で縁起がいい、あつらえが早い、割り箸を使っていて清潔だ、いい丼を使っている、鰹節をおごっていてダシがいい、そばは細くて腰があって、ちくわは厚く切ってあって……」
と、歯の浮くような世辞をとうとうと並べ立てる。

食い終わると
「実は脇でまずいそばを食っちゃった。おまえのを口直しにやったんだ。一杯で勘弁しねえ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手ェ出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「九ツで」
「とお、十一、十二……」

すーっと行ってしまった。

これを見ていたのがぼーッとした男。

「あんちきしょう、よくしゃべりやがったな。はなからしまいまで世辞ィ使ってやがら。てやんでえ。値段聞くことねえ。十六文と決まってるんだから。それにしても、変なところで時刻を聞きやがった、あれじゃあ間違えちまう」
と、何回も指を折って
「七つ、八つ、何どきだい、九ツで」
とやった挙げ句
「あ、少なく間違えやがった。何刻だい、九ツで、ここで一文かすりゃあがった。うーん、うめえことやったな」

自分もやってみたくなって、翌日早い時刻にそば屋をつかまえる。

「寒いねえ」
「へえ、今夜はだいぶ暖かで」
「ああ、そうだ。寒いのはゆんべだ。どうでえ商売は? おかげさまで? 逆らうね。的に矢が……当たってねえ。どうでもいいけど、そばが遅いねえ。まあ、オレは気が長えからいいや。おっ、感心に割り箸を……割ってあるね。いい丼だ……まんべんなく欠けてるよ。のこぎりに使えらあ。鰹節をおごって……ぶあっ、塩っからい。湯をうめてくれ。そばは……太いね。ウドンかい、これ。まあ、食いでがあっていいや。ずいぶんグチャグチャしてるね。こなれがよくっていいか。ちくわは厚くって……おめえんとこ、ちくわ使ってあるの? 使ってます? ありゃ、薄いね、これは。丼にひっついていてわからなかったよ。月が透けて見えらあ。オレ、もうよすよ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手を出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「四ツで」
「五つ六つ七つ八つ……」

しりたい

夜鷹そば   【RIZAP COOK】

夜鷹は、本所吉田町や柳原土手やなぎはらどてを縄張りにした、「野天営業」の街娼ですが、その夜鷹がよく食べたことからこの名がつきました。

ですから、本来は夜鷹の営業区域に屋台を出す夜泣きそば屋だけに限った名称だったはずなのです。

夜泣きそば(夜鷹)は一杯16文と相場が決まっていて、異名の二八そばは二八の十六からきたとも、そば粉とつなぎの割合からとも諸説あります。

夜鷹そばの値上げ

種物たねものが充実して、夜鷹そばが盛んになったのは文化ぶんか年間(1804-18)から。

ちなみに、夜鷹の料金は一回24文で、それより8文安かったわけですが、幕末には20文に、さらに24文に値が上がりました。

明治になると、新興の「夜泣きうどん屋」に客を奪われ、すっかり衰退しました。

何どきだい?   【RIZAP COOK】

冬の夜九ツ刻ここのつどきはおよその刻、午前0-2時。

江戸時代の時刻は明け六ツから、およそ2時間ごとに五四九八七、六五四九八七とくり返します。

後の間抜け男が現れたのは四ツですから、夜の10-0時。

あわてて2時間早く来すぎたばっかりに、都合8文もぼられたわけです。

ひょっとこそば   【RIZAP COOK】

この噺を得意にしていた三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、マクラに「ひょっとこそば」の小ばなしを振っています。

客が食べてみるとえらく熱いので、思わずフーフー吹く、「あァたのそのお顔が、ひょっとこでござんす」

これは、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)もやりました。

蛇足   【RIZAP COOK】

それまでそばの代金の数え方を「ひいふうみい」とする演者が多かったのを、時刻との整合から、「一つ、二つ」と改めたのは三代目三木助でした。

なるほど、こうでなければそば屋はごまかされません。今ではほとんど三木助通りです。

たしか、先代・春風亭柳橋だったと記憶しますが、「何どきだい?」「へい九ツで」のところで、お囃子のように、二人が間を置かず、「なんどきだーいここのつでー」とやっていたのが、たまらないおかしさでした。

これだと、そば屋も承知でいっしょに遊んでいるようで、本当は変なのですが。

もっとも古い原話   【RIZAP COOK】

享保きょうほう11年(1726)、京都で刊行された笑話本『軽口初笑かるくちはつわらい』中の「他人は喰より」がもっとも古い形です。

それによると、主人公は中間ちゅうげん(武家屋敷の奉公人)、そば(そばきり)の値段は六文で、「四ツ、五ツ、六ツ……」と失敗します。

享保のころは、まだ物価が安かったということでしょう。

この噺は夜鷹そばの屋台が登場するため、生粋きっすいの江戸の噺と思われがちですが、実は上方落語の「時うどん」を、明治中期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移したものです。

なんだかんだいっても、弟子の真打ち襲名披露で三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が本牧亭でやった「時そば」、これはすこぶるの絶品でした。



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まんじゅうこわい【饅頭こわい】落語演目



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【どんな?】

菓子屋がこわいという辰に、若い衆がまんじゅうをどっさり。
「まんじゅうこわいよ」と辰はムシャムシャ。だまされたッ。
「こんちくしょう、なにがこわいんだ」
「今度は、お茶がこわい」

別題:饅頭きらい 好きとこわい こわいもの

【あらすじ】

町内の若い衆が集まって、好きな食べ物をああだこうだと言っているうち、人には好き嫌いがあるという話になる。

虫が好かないというが、人は胞衣えなを埋めた土の上を初めて通った生き物を嫌いになるという言い伝えがある。

蛙なら蛙が嫌いになり、蛇なら蛇。

嫌いな虫を言い合い、蜘蛛くも、ヤモリ、オケラ、百足むかでと、いろいろ出た。

嫌いなものはこわい。

黙っている辰さんに
「おめえは、どんなもんがこわい?」
と聞くと
「ないッ」
「でも、なんかあるだろう」
としつこく突っ込むと
「おととい、カカアの炊いた飯がコワかった」
「そのコワいじゃなくて、動けなくなるようなこわいものだ」
と言うと
「カカアがふんどしを洗ったとき、糊をうんとくっつけちゃった。コワくって歩けねえ」

ああ言えばこう言うだから癪にさわって、
「蛇はどうだ」
と聞くと、
「あんなものは、頭痛のときの鉢巻にする」
とうそぶく。

トカゲは三杯酢にして食ってしまうし、蟻はゴマ塩代わりに飯にかける。

いまいましいので、
「なにか一つくらいないのか」
と食い下がると
「へへ、実は、それはあるよ。それを言うと、体中総毛立そうげだって震えてくる」
「へえ、なんだい」
「一度しか言わないよ。……まんじゅう」

一同-然。

「どうして」
と聞くと、
「因果で、オレのえなの上に子供が饅頭を落っことしたのに違いない」
という。

「菓子屋の前に行くと目をつぶって駆け出すし、思っただけでも、こう総毛立って」
と辰さん、急にブルブル震えだす。

「こわいッ、こわいよォッ」

泣き出して、とうとう寝込んでしまった。

そこで一同、あいつはふだんから、み屋の割り前は払わないし、けんかは強いからかなわない。いいことを聞いたから、一度ひどい目にあわせてやろうと、計略を練る。

「話を聞いてさえあんなに震えるんだから、実物を見たらきっとひっくり返って、身体中ブチになって死んじまうかもしれねえ、いるとじゃまだから、アン殺でアンコロしちまおう」
というわけで、菓子屋から山のように饅頭を買ってくる。

枕元に置くと、
「おい、辰さん、起きねえ。天丼を食おうてんだ。つき合いなよッ」

まだ蒲団をかぶって
「饅頭怖いよッ」
とうめいていた辰さん、枕元を見るなり
「ウワーッ」
と絶叫。

「うわあッ、こんなもの、だれがッ。怖いよッ。唐饅頭がこわい。こわいよッ」
と叫びながら、饅頭をムシャムシャ平らげ始めた。

障子の陰でワクワクして見ていた連中、だまされたと知ってカンカン。

「おう、こわいこわいと言ってたまんじゅうを食いやがって。こんちくしょう、てめえはいったい、なにが怖いんだ」
「うわーッ、こわいよ。今度は、お茶がこわい」

【しりたい】

ネタは中国から

中国明代の笑話本『五雑組ござっそ(五雑俎とも)』や『笑府しょうふ』に原型があります。

江戸では小ばなし程度の扱いで、一席ものの落語としてはむしろ上方が本場でした。

まんこわ

明治末期に三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらく(本間弥太郎、1864-1914)が東京に移植。

「饅頭嫌い」の演題で初演して以来、「まんこわ」で通るほどの人気演目になりました。

三代目馬楽は奇行でならし、「狂馬楽」「弥太っぺ馬楽」「きちがい馬楽」などとも呼ばれました。

さまざまなやり方

古くから演じられた噺だけに、さまざまな演者によって、細部が整えられてきました。

柳家小さん系や、後輩の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に写してもらい十八番にした三代目桂三木助(小林七郎、1902-1961)では、饅頭男を「松公」で演じます。

饅頭を準備するとき、「腰高饅頭かい? おあとは? 唐饅頭? お次は? 酒饅頭? おあとは? そば饅頭……栗饅頭……」というように、いろいろな饅頭の名を並べ立てるのが型になっています。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、むしろすっきりと短く演じています。

くすぐりもいろいろ

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、饅頭男がこわがる場面で、「クモの糸を納豆代わりに食う」「ミミズはトマトソースでマカロニ代わりに食う」といった、ゲテ物趣味的なギャグを加えました。

これは、五代目小さん、三木助もやっています。

ちなみに、四代目小さんは昭和22年(1947)9月30日、上野鈴本演芸場で新作「鬼娘」の口演後に楽屋で急逝しました。

三木助では、最後に男がこわいこわいと言いながら饅頭をふところに入れてしまい、「風呂敷はねえか」と、ずうずうしく言うくすぐり、また、こわいものを言い合う場面で、「おれァ、そばがいけない。うどんがいけない。だからフンドシもしめない」などがあります。

饅頭

饅頭の日本渡来は、14世紀に禅僧が元(中国)から帰国する際、伴った中国人が、奈良で店を開いたのが最初、との説があります。

源頼朝が次男(実朝)誕生の百日の祝いに近親や重臣に配った「十字」という菓子が始まりだ、との説も。

これだと11世紀末期に宋(中国)から渡ってきたことがうかがえます。

おおざっぱに言って、日本には中世(鎌倉室町期)に中国から僧侶が持ち込んだようです。

胞衣

えな。胎児を包む膜ですが、胎盤をいうこともあります。

噺の発端になる「初めて通った生き物を……」という俗信は古くからあって、『誹風柳多留はいふうやなぎたる』巻十六(天明元=1781年刊)に、こんな句が載っています。

ゑなの上 初手しょてどらものに ふませたい

「ゑな」は胞衣、「初手」は最初、「どらもの」は放蕩者のことです。



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じゅげむ【寿限無】落語演目

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志ん朝

【どんな?】

生まれた男児に名前を付けます。隠居を寄るべにしたら、無量寿経から命名されて。

あらすじ

待望の男の子が生まれ、おやじの熊五郎、お七夜しちやに名前を付けなければならないが、いざとなるとなかなかいいのが浮かばない。

自分の熊の字を取って熊右衛門とでもするか、加藤清正が好きだから、名字の下にぶる下げて「田中加藤清正」と付けるか……いや、ハイカラな名前でネルソン、寝ると損をするから、稼ぐように……と考えあぐねて、平山の隠居のところへ相談に行く。

何か好みがあるかと聞かれ、三日の間に五万円拾うような名前、と欲張ったが、そんなのはダメだと言われ、それなら長生きするような名前を、ということになった。

隠居、松、竹、梅、鶴、亀と、長命そうな字がつくのを並べるが、どれも平凡過ぎて気に入らない。

「そんなら、長助てえのはどうだ? 長く親を助ける」
「いいねえ。けど、あっしども一手販売いってはんばいで長生きするってえ、世間に例がねえなめえはないですかね」

隠居、しばらく考え、今お経に凝っているが、無量寿経むりょうじゅきょうという経文には、案外おめでたい文字があると言う。

たとえば、寿限無じゅげむ

寿命限りなしというから、これはめでたい。

五劫ごこうのすり切れず、というのがあるが、三千年に一度天人が天下って羽衣はごろもで岩をなで、それがすり切れてなくなってしまうのが一劫いちごうだから、五劫というと何億年か勘定できない。

海砂利水魚かいじゃりすいぎょは数えきれないものをまとめて呼んだ言葉。

水行末すいぎょうまつ雲来末うんらいまつ風来末ふうらいまつはどこまで行っても果てしない大宇宙を表す。

衣食住は人に大切だから、田中食う寝るところに住むところ。

やぶらこうじぶらこうじというのもあり、正月の飾りに使う藪柑子やぶこうじだからめでたい。

またほかに、少々長いが、パイポ、シューリンガ、グーリンダイ、ポンポコピー、ポンポコナーというのがある。

パイポは唐のアンキリア国の王さま、グーリンダイはお妃、ポンポコピーとポンポコナーは 二人の王子で、そろってご長命……それだけ聞けばたくさんで、あれこれ選ぶのはめんどうと熊さん、出てきた名を全部付けてしまう。

この子が成長して小学校に行くと、大変な腕白わんぱくだから、始終近所の子を泣かす。

「ワーン、おばさんとこの寿限無寿限無五劫のすり切れず海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところ藪ら柑子ぶら柑子パイポパイポパイポのシューリンガ、シューリンガーのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピ、ポンポコナの長久命の長助が、あたいの頭を木剣でぶったアー」

言いつけているうちに、コブがひっこんだ。

しりたい】 

ルーツは

仏教の教説をもとにした噺です。

野村無名庵のむらむみょうあん(野村元雄、1888-1945、落語評論家)は、この噺の原典として、民話集『聴耳草子ききみみぞうし』中の小ばなしを挙げています。

その中の子供の名は、「一丁ぎりの丁ぎりの、丁々ぎりの丁ぎりの、あの山越えて、この山越えて、チャンバラチャク助、木挽こびき挽助ひきすけ」で、長いだけで特に長寿には関係ありません。

話の終わりは、子供が井戸に落ち、長い名を皆で連呼して、和尚まで経文のような節で呼ぶので子供が「だぶだぶだぶ」と溺死してしまいます。

寿限無が死んでしまう、のです。

ここがミソ。

だから、あんまり長い名前は付けないほうがいいよ、とでも言いたそうなご仏教的な教訓が漂っているんですね。

無名庵は東京大空襲の犠牲となりました。

こちらは寿限無とは無関係に亡くなったのでしょうが。

大阪の演出(「長命のせがれ」)もこれと同じで、残酷な幕切れになります。

「劫」には「石劫せきこう」と「芥子劫けしこう」があります。前者がこの噺の隠居の解釈。後者の「芥子劫」は、方四十里の城の中の芥子一粒を、三年に一度おおとりがくわえていき、これがすべてなくなる時間です。

演者によって変わりますが、「五劫」そのものの定義なら前者、名前として無限の寿命を強調するなら後者でしょう。

言い立てのリズムを重んじれば「すりきれ」、はなしの内容重視なら「すりきれず」というところ。

そこで、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は、客には「すりきれず」と聞こえさせ、実際には「すりきれ」と言っているという、苦肉の妥協案を編み出しました。

こうる」という言葉があります。長い年月を経る、年季を積む、といった意味で使います。石劫も芥子劫も原初では同根です。

「劫」の字は濁らずに「こう」と読むと、とてつもなく長い時間をさすのですから。

甲羅は劫臈の混同だそうです。

臈は僧侶の修行年数をさします。劫も臈も時間にからむ言葉なのですね。

となると、亀の甲羅を長生きの目安にするのもわかります。

芥子は罌粟。かつて、僧侶の修行には必須のアイテムでした。

EGO-WRAPPINの「くちばしにチェリー」。

おそらくは罌粟がはばかれるのでチェリーにしているのでしょう。

芥子劫の理を説く歌だったことがよくわかります。深いなあ。

大看板の前座噺

「寿限無」は前座の口ならしの噺で、大看板の師匠連はさすがにあまり手がけません。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は信仰篤かったためか、滋味あふれる語り口で、この噺をホール落語でも演じました。

戦後の大物では、自分の飼い犬に「寿限無」と名づけた三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、熊五郎が無類におかしかった九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、それぞれ得意にしました。

聴きどころ

長い名が近所の子から母親、父親と渡りゼリフになるところが、この噺のおかしみでしょう。

母親が、「あーら、悪かったねえ。ちょいとおまいさん、たいへんだよ。『寿……』が金ちゃんの……」と言うとオヤジが、「なんだと。するとナニか、『寿……』の野郎が……」と繰り返します。

もっとも、安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説家、評論家)は『落語国・紳士録』(青蛙房、1959年、→旺文社文庫→ちくま文庫→平凡社ライブラリー)の中で、気の利いた「こぼれ噺」を創作しています。

例によって長い名でしかられている寿限無に、友達が「どうしたの、寿っちゃん」と尋ねたりしているのです。

世界一の長寿者?

古代はともかく、近世以降での長寿記録保持者は「武江年表」などに記載されている、志賀随翁にとどめをさすでしょう。

なにせ、この怪老人、享保10年(1725)の時点で数え178歳。

逆算すると天文18年(1548)の生まれ。はっきりした没年はわかりませんから、ひょっとすると、まだ生きているかもしれません。

これが文句なしに人類史上最長寿、と思っていたら、やっぱり現れました、対抗馬が。世界は広い。

臼田昭『ロンドン塔の宝探し 英文学零話』(駸々堂出版、1988年)に登場する英国代表ヘンリー・ジェンキンズは169歳(1501-1670)、ついで、かの有名なウイスキー銘柄のラベルになったオールド・パーが152歳(1483-1635)の由。

まあ、三人とも、怪しげなことではいい勝負ですが、なんにしても、あやかりたいものです。

「の・ようなもの」にも登場

『の・ようなもの』(森田芳光監督、1981年)。落語映画の最高峰、不朽の傑作です。

都電荒川線の駅を降りて、浴衣姿の志ん魚と志ん菜が落語を教えにいった先は「下町女子高」。

落研の面々が大声で「寿限無」を棒読みしていました。

そのシーンが素っ気なくて無機的で、なんともおかしい。笑っちゃいます。

落研下級生の中にはなんと、「エド・はるみ」さんもまじっていたのです。

昭和56年(1981)のこと。

その頃はもちろんそんな名前じゃなかったわけですが、未来の「エド・はるみ」さんは当時、日出学園高校(千葉県市川市)の2年生、17歳でした。

オーディションに合格し、『の・ようなもの』でみごと映画デビューを果たしたのです。

存在感ありました。40年以上たった今でもしっかり覚えてます。すごいなあ。

「エド・はるみ」は手前中央の子
右奥の浴衣娘は落研部長、竹内まりや(五十嵐知子)
「の・ようなもの」(森田芳光監督、1981年)より




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こがねもち【黄金餅】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

円朝作。
逝った西念を弔う。
下谷から麻布。
焼き場は桐ヶ谷で。
金兵衛の執念が笑いを誘う。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡おんぼうと呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

https://www.youtube.com/watch?v=fi7PTr_ppfg

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけた。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。

円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。

藤浦(周吉)はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしく。どうだろう。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。

山崎町はみんな貧乏だったんだから。

円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。

志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。

桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治大正の新聞雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だった。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。

文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。

依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。

ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。

麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。

絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」とか、貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。

「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う

。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。

この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

(古木優)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

はなよめのへ【花嫁の屁】落語演目


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【どんな?】

もとは、小咄かマクラ程度の軽い噺だったものです。

【あらすじ】

ある田舎で婚礼があった。

ところが、いよいよ三三九度という時、花嫁が衆人環視の中、「プーッ」と一発。

面目ないと、あっという間に裏の井戸に身を投げた。

すると、花嫁の両親も、娘の不始末のおわびと、同じく井戸にドボン。

今度は婿さんが、嫁の一家だけ死なせては義理が立たないと、これも井戸へ飛び込んだ。

これを見ていた婿さんの両親、せがれと嫁が死ぬならあたしたちもと、これまた井戸底に直行。

最後に残った仲人夫婦、みなさんがお飛び込みなら、あたしたちもこうしてはいられないと、後を追って飛び込もうとしたら、井戸のところに赤い札で「満員」。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

時代を感じさせるオチ

オチは、路面電車に、当時(明治末から大正初期)「満員」の赤札が下がったことからきています。

噺としてはおもしろいのですが、時代色がつき過ぎ、現代の客にはまるで理解できないので、このあたりをうまく改作しないと、とうてい高座には掛けられないでしょう。

当時の東京の市電はやたらに故障し、満員になると、どんなに客が待っていてもあっさり通過してしまうので、評判は最悪だったとか。

大正中期ですが、「東京節」(添田さつき)の一節には、こんなものが。

東京の名物満員電車
いつまで待ってても乗れやしねえ 
乗るにゃケンカ越し命がけ 
やっとこさと空いたのが来やがっても 
ダメ、ダメと手を振って 
そのまま乗せずに行きゃあがる 
なんだ、故障車か
ボロ電車め

誰かやらないか?

速記、音源はおろか、口演記録もまったくない幻の珍品です。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が明治末期、立花家左近時代に作ったという掌編です。マクラにでも使っていたのでしょう。

それにしては、実に皮肉な、カラシがきいた逸品で、埋もれさせるにはちと惜しいブラック落語です。

円馬に前座・二つ目時代に仕込まれた八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が自伝『あばらかべっそん』中であらすじを紹介しています。


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やなぎだかくのしん【柳田格之進】落語演目


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【どんな?】


正直者でも魔がさす? 草彅剛主演で映画になりました!

 別題:碁盤割り 柳田の堪忍袋

あらすじ

もと藤堂家とうどうけの家臣、柳田格之進。

ゆえあって浪人し、今は浅草東仲町の、越前屋作左衛門地借りの裏長屋に、妻、娘の花との三人暮らし。

地主の作左衛門とは碁仇ごがたきで、毎日のように越前屋を訪れては、奥座敷で盤を囲んでいる。

ある日、いつものように二人が対局していると、番頭の久兵衛が百両の掛け金を革財布ごと届けにきた。

作左衛門、碁に夢中で生返事ばかり。

久兵衛はしかたなく、財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出る。

格之進が帰った後、作左衛門ふと金のことを思い出し、久兵衛に尋ねる。

「たしかに、だんなさまのおひざに置きました」

そんなことを言うばかり。

覚えがないので、座敷の隅々まで探したが、金は出てこない。

番頭は 「疑わしいのは、柳田さまだけ」 と言い出す。

「いくらふだんは正直でも、魔がさすことはある」

作左衛門が止めるのも聞かず、格之進の長屋に乗り込む。

疑われた格之進、浪人はしてもいやしくも武士、金子などに手を付けることはないと強く否定する。

久兵衛は脅す。

「どうしても覚えがないというなら、お上に訴え出て白黒をつけるよりないから、そのつもりでいてほしい」

お家に帰参が決まっているので、格之進は 「そんなことになれば、さしさわりが出るから、自分の名は出さないでくれ」 と頼むが、久兵衛は聞き入れない。

しばし考えた格之進。

「まことに申し訳ない。貧に迫られた出来心で百両盗んだ」

格之進は打ち明けた。

格之進は 「金は返すから明後日まで待ってくれ」 と頼み、代わりに武士の魂の大小を預けた。

二日後。

久兵衛が行ってみると、格之進は一分銀まじりで百両を手渡して 「財布はないので勘弁してくれ」 と言う。

久兵衛が帰ろうとすると、格之進は 「勘違いということがある。もしその百両が現れた場合、その方と、主人作左衛門殿の首を申し受けるが、よいか」

久兵衛は 「私も男。どんなご処分でも受けます」 と安請け合いを。

大晦日。

煤掃きの最中に、作左衛門が欄間の額の後ろを掃除しようとのぞくと、例の金包みが挟まっていた。

自分が小用に立ったとき、無意識に膝の包みをそこに挟んだと思い出したときは、もう手遅れ。

久兵衛が
「実は、金が出たらだんなの首がころげる手はず」
と打ち明けると、作左衛門は仰天。

作左衛門は、久兵衛をすぐさま格之進の家に向かわせる。

「金を返して、あれは町人風情の冗談でございます、と謝ってこい!」

あたふたとなる久兵衛。

今はお家に帰参した格之進を藤堂家上屋敷に訪ね、久兵衛は平謝り。

それを見た格之進。

「金は世話になった礼だ」

格之進は金を改めて返した。

「あの金は娘花が吉原松葉家に身を売って作ったもの。娘に別れるとき、もし金が出たら、憎い久兵衛と作左衛門の首を私にお見せください、と頼まれた。勘弁しては娘に済まん」

久兵衛はまたまた仰天。

久兵衛はあたふたと店に逃げ帰ると、後を追って格之進が乗り込んできた。

「申し訳ございません。この上はご存分に」
「かねてから約定の品、申し受ける」

格之進、かたわらの碁盤を取り、見事にまっ二つ。

「この品がなかったら、間違いは起こらなかったろう。以後は慎みましょう」

世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……。格之進碁盤割りの一席。

底本:三代目春風亭柳枝



しりたい

講談からの脚色か

別題は「柳田の堪忍袋」「碁盤割り」。講談から人情噺に脚色されたようですが、はっきりしません。

明治25年(1892)、「碁盤割」の題で『百花園』に掲載された三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)の速記が、唯一の古い記録です。

柳枝はマクラで「このお話は随筆にもあります」と断っているので、なんらかのネタ本があると思われます。未詳です。

志ん生好みの人情噺

明治期にはよく演じられていたようです。

昭和初期から先の大戦後にかけては、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の独壇場でした。

井戸の茶碗」と同系統の、一徹な武士(それも浪人)が登場する人情噺です。

三代目柳枝の速記のほかは、古い口演記録がありません。

例によって志ん生のほうは、いつどこで仕入れたのか不明の噺です。講釈師時代に聞き覚えたのかもしれません。

人情噺なので本来、オチはありません。志ん生が「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(=将棋)になった」という地口のオチをつけたことがあります。

ただし、これはめったに使わず、ほとんどは従来どおりオチなしで演じていました。

志ん生没後は、二人の息子、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)と、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)がやっていました。

志ん朝のものは音源もあります。ちくま文庫版に収載された速記では、ほぼ父親通りの演出です。

大団円の円楽版

五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が好んで演じました。

五代目円楽は、この後、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、生まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

碁盤

裏側の丸いくぼみは、待ったした者の首を載せるところ、という俗説があります。

浅草東仲町

台東区雷門1、2丁目にあたります。浅草寺門前で、今も昔も飲食店が多い繁華街です。

藤堂家

藤堂氏は武家の一族です。発祥地は、近江国犬上郡いぬかみぐん藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町こうらちょう在士ざいじ)。

戦国時代に藤堂高虎とうどうたかとら(1556-1630)が出て、家名を上昇させていきました。

この人ほど、転職回数の多かった武将はいないでしょう。たんに主君を替えたというだけなら、浅井長政→阿閉貞征あつじさだゆき→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→豊臣秀保→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光と、ゆうに11回も。

この頃は、まだ武士道なるものはありませんでした。生き残るための功利が優先されていました。

秀吉が天下と統一した直後の1591年には、藤堂高虎は伊予板島(愛媛県宇和島市あたり)と伊予今治(愛媛県今治市あたり)を領する大名となります。

家康が開幕すると、1608年には、伊賀上野(三重県伊賀市あたり)と伊勢津(三重県津市あたり)を領する津藩主へと転封された結果、大出世しました。代表的な外様大名です。

子孫は代々この地を領し、明治維新を迎えます。華族の伯爵家に列しました。


 



ことばよみいみ
娼妓しょうぎ遊女
将棋しょうぎ盤上のゲーム

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やんまきゅうじ【やんま久次】落語演目

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【どんな?】

初代志ん生、円朝、三遊一朝から林家彦六へ。
そして世紀末、五街道雲助師が復活させました。
円朝がやれば、久次のモデルは息子朝太郎だったでしょう。

別題:大べらぼう

【あらすじ】

番町御廐谷の旗本の二男、青木久次郎。

兄貴がいるので家督は継げず、他家に養子にも行けずに無為の日々を送るうち、やけになって道楽に身を持ち崩し、家を飛び出して本所辺の博打場でトグロを巻いている。

背中一面に大やんまのトンボの刺青を彫ったので、人呼んで「やんま久次」。

今日も博打で負けてすってんてんになり、悪友の入れ知恵で女物の着物、尻をはしょって手拭いで頬かぶりというひどいなりで、番町の屋敷へ金をせびりにやってくる。

例によって用人の伴内に悪態をつき、凶状持ちになったので旅に出なくてはならないから、旅費をよこせと無理難題。

どっかと座敷に座り込み、酒を持ってこいとどなり散らす。

ちょうど来合わせたのが、兄弟に幼いころ剣術を教えた、浜町で道場を営む大竹大助という先生。

久次がお錠口でどなっているのを聞きつけ、家名に傷がつくから、今日という今日は、あやつに切腹させるよう、兄の久之進に勧める。

老母が久次をかわいがっているので、自分の手に掛けることもできず、今まではつい金をやって追い払っていた兄貴も「もうこれまで」と決心し、有無を言わせず弟の首をつかんで引きずり、一間にほうり込むと、そこには鬼のような顔の先生。

「これ久次郎。きさまのようなやくざ者を生けおいては、当家の名折れになる。きさまも武士の子、ここにおいて潔く腹を切れ」

さすがの久次も青くなり、泣いて詫びるが、大助は許さない。

そこへ母親が現れ、
「今度だけは」
と命乞いをしたので、やっと
「老母の手前、今回はさし許すが、二度とゆすりに来るようなことがあれば、必ずその首打ち落とす」
と、大助に釘をさされて放免された。

いっしょに帰る道すがら。

大助は、
「実はさっきのはきさまを改心させるための芝居だった」
と明かし、三両手渡して、
「これで身支度を整え、どこへなりと侍奉公して、必ず老母を安心させるように」
と、さとす。

久次も泣いて
「きっと真人間になりやす」
と誓ったので、大助は安心して別れていく。

大助の後ろ姿に、久次は
「おめっちの道楽といやあ、金魚の子をふやかしたり、朝顔にどぶ泥をひっかけたり。三道楽煩悩のどれ一つ、てめえは楽しんだことはあるめえ。俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ」

【しりたい】

江戸の創作落語  【RIZAP COOK】

初代古今亭志ん生(清吉、1809-56、八丁荒らしの)作と伝わりますが、はたしてどうか。元の題は「大べらぼう」です。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の人情噺「緑林門松竹みどりのはやしかどのまつたけ」の原話となったものに、芝居噺「下谷五人盗賊」があります。

五人という人数合わせのための作為で、筋との関連はなく、のちに削除されている人物でした。

その長講噺の中の「またかのお関」のくだりに、「やんま久次郎」が端役で登場しています。

円朝門下の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)老人から、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)に直伝され、戦後は正蔵の一手専売でした。

彦六は昭和57年(1982)に逝きました。

その後は手掛ける者がありませんでしたが、平成6年(1995)に五街道雲助が復活させました。さすが、人間国宝!

彦六懐古談  【RIZAP COOK】

この噺、前述のように、もとは長編人情噺でした。

続きがあったと思われますが、不明です。

「このはなしを一朝おじいさんがやって、円朝師匠にほめられたそうです。『私はおまえみたいに、ゆすりはうまくやれないよ』といって……(中略)最後は『おおべらぼうめー』といって、昔は寄席の花道へ引っ込んだものです。『湯屋番』でこの手を遣った人がいましたね。『おまえさんみたいな人はいらないから出ていっとくれ』『そうかい、おれもこんなおもしろくねえところにはいたかねえ』といって、花道を引き上げるんです」

(八代目林家正蔵談)

「やんま」は遊び人のしるし  【RIZAP COOK】

やんまは「馬大頭」と書きます。やんまには隠語で「お女郎」の意味があり、お女郎遊びを「やんまい」「んやまい」などとも称しました。

久次郎のやんまの刺青は、それを踏まえた、自嘲の意味合いもあったのでしょう。

怪人「べらぼう」  【RIZAP COOK】

江戸っ子のタンカで連発される「ベラボーメ」。「ばか野郎」と「無粋者(野暮天)」の両方を兼ねた言葉です。

万治から寛文年間(1658-72)にかけて、江戸や大坂で、全身真っ黒けの怪人が見世物に出され、大評判になりました。それを「へらぼう」「べらぼう」と呼んだことが始まりとか。

言い逃れ、インチキのことを「へらを遣う」と呼びました。その意味も含んでいるのでしょう。

三道楽煩悩  【RIZAP COOK】

飲む、打つ、買うの三道楽。

「さんどら」の「どら」は「のら」(怠け者)からの転訛です。「ドラ息子」の語源です。

お錠口  【RIZAP COOK】

武家屋敷の表と奥を仕切る出入り口です。

杉戸を立て、門限以後は錠を下ろすのが慣わしでした。

御厩谷  【RIZAP COOK】

おんまやたに。東京都千代田区三番町、大妻学院前バス停付近の坂下をいいました。この坂は御廐谷坂おんまやたにざか

近接の靖国神社北側一帯が幕府の騎射馬場御用地であったことにちなみます。付近はすべて旗本屋敷でしたが、「青木」という家名はむろん架空です。

やんま久次のモデルは、円朝の不肖の息子、朝太郎のイメージととらえてよいかもしれません。要は、どら息子です。

この噺そのものが円朝作かどうかはよくわかりません。「緑林門松竹」に久次がちょい役で出てくる、というだけのこと。

ただ、円朝は、「福禄寿」など、ことあるごとにさまざまな場面でろくでもない息子の所業を描いています。

円朝、終生の悩みのたねだったのです。おかげで、人生も想定外の方向に行ってしまいました。

ことばよみいみ
御廐谷 おんまやだに
三道楽煩悩 さんどらぼんのう
緑林門松竹 みどりのはやしかどのまつたけ



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ふくろくじゅ【福禄寿】落語演目

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【どんな?】

年の瀬、実家に戻った禄太郎。
父にはないしょで母に無心を。
円朝噺。円朝の悩みはわが子朝太郎に。
22歳の朝太郎、いまだ定まらず。

【あらすじ】

年の瀬、深川万年町。

福徳屋万右衛門の喜寿の祝いをしている家。

こっそり帰ってきた、長男の禄太郎。

無心に戻ってきたのだ。

母は、父にないしょで金を渡す。

その金で遊ぶ心づもりの禄太郎だった。

金をうっかり落としてしまった。

おのれの器量や才覚を悟った禄太郎。

一念発起、開墾に携わるため北海道に渡る。

出典:岩波版「円朝全集」第7巻

【しりたい】

禄太郎と朝太郎

禄太郎は、あきらかに円朝の不肖の息子、朝太郎のイメージでしょう。

この噺、朝太郎の一件をあらかじめ知っていれば、円朝がどんな思いで創作したのかは容易に想像がつきます。

北海道に渡る禄太郎。

これが円朝の願望だったのでしょうか。朝太郎にはなにかをきっかけに悟り社会的に更生してほしい、という思いがにじみ出ている噺ではないでしょうか。

朝太郎が実際に渡ったのは、北海道ではなく小笠原でした。

その直後の連載が「熱海土産温泉利書」となっていきます。


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ちきりいせや【ちきり伊勢屋】落語演目

↖この赤いマークが「ちきり」です。

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【どんな?】

柳家系の噺ですが、円生や彦六も。
「易」に振り回される若者の物語です。
キメの「積善の家に余慶あり」は心学や儒学のキモ。

別題:白井左近

あらすじ

旧暦きゅうれき七月の暑い盛り。

麹町こうじまち五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎でんじろうが、平河町ひらかわちょうの易の名人白井左近しらいさこんのところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡てんがんきょうでじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天こくてんが現れているから、あなたは来年二月十五日九ツ(午前0時)に死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門でんえもんは、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果いんがが子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行ぜんぎょうを積み、来世らいせの安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛とうべえにこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨きしゃし続ける。

ある日。

弁慶橋べんけいばしのたもとに来かかると、母娘が今しも、ぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世の名残なごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌ゆかん代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間たいこもちを残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが、予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪たかなわの通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸たかなわおおきど裏店うらだな住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札ノ辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

原話や類話は山ほど  【RIZAP COOK】

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井すすはらい』中の「人相見にんそうみ」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「陰徳延寿いんとくえんじゅ」。

それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記ここんかんにんき』(青木鷺水あおきろすい、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。

さらにその焼き直しが『耳嚢みみぶくろ』(根岸鎮衛ねぎしやすもり著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲ひうんの渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難いんとくきなんを遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が双璧  【RIZAP COOK】

明治27年(1894)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

小さん代々に伝わる噺です。ただ、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は手掛けていません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が、晩年に熱演しました。

円生は二代目禽語楼小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。

戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近とは  【RIZAP COOK】

白井左近の実録については不詳です。

二代目小さん以来、左近の易断えきだんにより、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。

この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり  【RIZAP COOK】

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。

同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。

下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。

これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

ちきりの形は「ちきり清水商店」の社標をご参照ください。

「ああ、あれね」と合点がいくことでしょう。

ちきり清水商店(静岡県焼津市)は鰹節卸の大手老舗です。

弁慶橋  【RIZAP COOK】

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、こんなふうになっています。

……赤坂の田町たまちへまいりました。一日駕籠に乗っているので腰が痛くてたまらないから、もう歩いたところでいくらもないからというので、駕籠は帰してしまいます。食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……そんなものに本場というのもないが、あそこはたいそう首くくりが多かったという……

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが、千代田区岩本町2丁目にかかっていた橋。

設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。

藍染川あいぞめがわに架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

これを「トランク状」とする記述もあります。

「トランク状」とは、直角の狭いカーブが二つ交互につながっている道路形状のもので、日本語にすれば「枡形道路」となります。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋(千代田区紀尾井町1丁目)とは方向が違うわけです。

「赤坂の」といってしまえば港区となりますが、ここは港区と千代田区の境となっているのです。住所でいえば「千代田区紀尾井町1丁目」となるんですね。

ではなぜ、円生は、弁慶橋を「神田の」ではなくて「赤坂の」として語ったのでしょうか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町5丁目にあることから、伝二郎の地理的感覚からうかがえば、神田よりも赤坂の方に現実味を感じたからなのではないでしょうか。

円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。

本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

千代田区の文化財」(千代田区立日比谷図書文化館の文化財事務室)には、赤坂の弁慶橋について、以下のような記述があります。

この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた愛染川にあった同名の橋の廃材を用いて1889年(明治22年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋に取り付けられていた青銅製の擬宝珠は、『新撰東京名所図会』によれば、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所として親しまれ、絵葉書や版画の題材にもなりました。とりわけ清水谷の桜は美しく、『新撰東京名所図会』には、“爛漫の桜花を見ることができ、橋を渡るとまるで絵の中に入ったようだ”と周辺の美しさが記されています。また、橋の上からは周辺を通行する人々や車馬、付近に建っていた北白川宮邸・閑院宮邸などが見えたそうです。明治以来の橋は1927年(昭和2年)に架け替えられ、さらに1985年(昭和60年)にコンクリート橋に架け替えられました。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

これを信じれば、江戸時代にはこの場所には弁慶橋はなかったわけですから、円生の創作だということは明白となります。

ちなみに、川瀬巴水(川瀬文治郎、1883-1957)の作品に「赤坂弁慶橋」があります。昭和6年(1931)の頃の、のどかな風情です。

川瀬巴水「赤坂弁慶橋」

食い違い  【RIZAP COOK】

赤坂の「食い違い」は「喰違御門くいちがいごもん」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。

その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。

大久保利通が、明治10年(1877)5月14日に惨殺されていますが、正確な場所は紀尾井町清水谷です。

それでも、後世、この事件を「紀尾井坂事件」とか「紀尾井坂の変」とか呼んでいるのは、よほど「紀尾井坂」という名称が人々の興味を引いたのでしょう。

江戸時代には、紀州徳川家の中屋敷、尾張徳川家の中屋敷、彦根井伊家の中屋敷が並んでいた武家町だったことから、各家から1字ずつとって町名としたわけです。

小岩井農場、大田区、国立市、小美玉市、東御市など、日本人好みの命名法なんですね、きっと。

ここは、千代田区としては、東部に平河町、南部に永田町、北部に麹町が、それぞれ接しています。

ホテルニューオータニの向かい側には清水谷公園があります。

都内を練り歩くデモの出発地点でもあり、集会場所としても名所です。

池泉もありますが、40年ほど前までは崖斜面からは湧水が出ていたもので、まさに「清水谷」でした。

さて。

円生が参考にした禽語楼小さんの速記は、明治27年(1894)1月『百花園』です。

これによれば、以下の通り。適宜読みやすく直してあります。

まるでお医者さまを見たようでござります。かくすること七月下旬から八月、九月と来ました。あるときのこと、施しをいたしていづくからの帰りがけか、ただいま食い違いへかかってまいりました。その頃から食い違いは大変な首くくりのあったところで、伝二郎すかして見ると、しかも首をくくるようす。

伝次郎が親子の首くくりに出会わすシーンです。

「食い違い」とありますが、「弁慶橋」とはありません。

小さんがこの噺を語った頃に、食い違いには弁慶橋が掛かってはありましたが、なにせこの噺は江戸時代が舞台ですから、食い違いに弁慶橋を出すわけにはいかなかったのです。

出してしまったら、客からブーイングが飛んだことでしょう。

円生の時代には、その感覚がまったくなくなっているわけですから、食い違いに「弁慶橋」の名を出してしまっても、文句を言う人もいなかったのですね。

札ノ辻  【RIZAP COOK】

港区芝5丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

江戸には大高札場が、日本橋南詰、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝車町札ノ辻、以上6か所にありました。

高札場  【RIZAP COOK】

慶長11年(1606)に「永楽銭通用停止」の高札が日本橋に掲げられたのが第一号でした。

高札の内容は、日常生活にからむ重要事項や重大ニュースが掲示されていたわけではありませんでした。

忠孝の奨励、毒薬売買の禁止、切支丹宗門の禁止、伝馬てんま賃銭の定めなどが主でした。その最も重要な掲示場所は日本橋南詰みなみづめでした。

西側に大高札場だいこうさつばがあり、東側にさらし場がありました。

歌川広重「東海道五拾三次 日本橋朝之景」 赤丸部分のあたりが高札場。南詰の西側になりますね

麹町  【RIZAP COOK】

喜多川歌麿きたがわうたまろ(北川信美、1753-1806)の春画本『艶本えんぽん とこの梅』第一図には、以下のようなセリフが記されています。

男「こうして二三てふとぼして、また横にいて四五てふ本当に寝て五六てふ茶臼で六七てふ 麹町のお祭りじゃやァねへが、廿てふくれへは続きそうなものだ」

女「まためったには逢われねえから、腰の続くだけとぼしておきな」

男「お屋敷ものの汁だくさんな料理を食べつけちゃ、からっしゃぎな傾城のぼぼはどうもうま味がねえ」

※表記は読みやすく適宜直しました。

女は年増の奥女中、男は奥女中の間男という関係のようです。

奥女中がなにかの代参で出かけた折を見て男とのうたかたの逢瀬を、という場面。

男が「麹町のお祭りじゃねえが」と言いながら何回も交合を楽しめる喜びを表現しています。

麹町のお祭りとは日枝神社ひえじんじゃの大祭のこと。

麹町は1丁目から13町目までありました。

こんなに多いのも珍しい町で、江戸の人々は回数の多さをいつも麹町を引き合いに表現していました。

この絵はそこを言っているわけです。

ちきり伊勢屋は麹町5丁目とのことですが、切絵図を見ると、武家地の番町に対して、麹町は町家地だったのですね。

食い違いからも目と鼻の先で、円生の演出は理にかなっています。

麹町は、半蔵門から1丁目がが始まって、四ッ谷御門の手前が10丁目。麹町11丁目から13丁目まではの三町は四ッ谷御門の外にありました。

寛政年間に外濠そとぼりの工事があって、その代地をもらったからといわれています。

麹町という町名は慶長年間に付けられたそうで、江戸では最も古い地名のひとつとされています。

喜多川歌麿『艶本 床の梅』第一図
ことばよみいみ
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがいくさび
千木 ちぎ質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

おせつとくさぶろう【おせつ徳三郎】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

日本橋の大店の娘と手代が相思相愛。
二人で木場まで逃げて、身投げして……。
オチは「鰍沢」と同型。「おのみ」の型は付会。

 別題:隅田馴染め(改作、または中のみ) 花見小僧(上のみ) 刀屋(下のみ)

あらすじ

日本橋横山町の大店おおだなの娘おせつ。

評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。

だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。

これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつのお供をして向島まで花見に行った小僧の定吉を脅した。

案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。

そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。

なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという話が流れ、徳三郎はカッときた。

しかも、蔵前辺のご大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにした、という。

「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに。かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。

老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。

徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。

親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えはやめてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思いとどまったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。

おせつが婚礼の席から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎だっとのごとく飛び出して、両国橋へ。

お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。

追っ手が迫っている。

切羽つまった二人。

深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。

ところが、木場だから下はいかだが一面にもやってある。

その上に落っこちた。

「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(=題目)で助かった」

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なりたちと演者など  【RIZAP COOK】

もとは、初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)がつくった人情噺です。

長い噺なので、古くから上下、または上中下に分けて演じられることが多いです。

小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。

この部分を、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、「隅田馴染め」としてくすぐりを付け加えて、改作しました。

その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。

それに続いて、徳三郎が叔父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされます。

普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。

後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題して、しばしば独立して演じられています。

明治期の古い速記としては、以下のものが残っています。

原作にもっとも忠実なのは、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)。

「上」のみでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のもの(「恋の仮名文」明治23年)、初代円遊のもの(「隅田の馴染め」明治22年)。

「下」のみでは、二代目三遊亭新朝(山田岩吉、?-1892)のもの(明治23年)、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)のもの、など。

オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木で助かった」は父親のセリフになっています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)も、「刀屋」でこれを踏襲しました。

「刀屋」で、おやじが自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型です。

現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。

先の大戦後では、六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も得意にしていました。

円生と志ん生は「下」のみを演じました。

その次の世代では、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものなどが、傑出していました。

馬生の「おせつ徳三郎」では、筏に落ちたおせつが、これじゃ死ねないから水を飲めば死ねるとばかりに、水をすくい「徳や、おまえもおのみ」と終わっていました。

これはこれで、妙におかしい。現在は、この終わり方の師匠も少なからずいます。

柳家喬太郎の「おせつ徳三郎」では、本当に心中させています。「お材木で」のオチが流布され尽くしたことへのはねっかえりでしょうか。予定調和で聴いている方は裏切られます。2人の愛の昇華は心中なのでしょうし。本当に死んじゃうのもたまにはおもしろい、というかんじですかね。

現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多いようです。「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外ではあまり単独口演されません。

村松町の刀屋  【RIZAP COOK】

この噺のとおり、日本橋の村松町むらまつちょう(中央区東日本橋1丁目など)と、向かいの久松町ひさまつちょう(中央区日本橋久松町)には刀剣商が軒を並べていました。

喜田川守貞きたがわもりさだの『守貞漫稿もりさだまんこう』には
「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」
とあります。

喜田川守貞きたがわもりさだ(1810-?)は、大坂生まれ、江戸で活躍した商人。

江戸との往来でその差異に興味を抱き、風俗考証に専心しました。砂糖商の北川家を継ぎ、深川に寓居をいとなみました。

『守貞漫稿』は上方(京と大坂)と江戸との風俗や民間諸事の差異を見聞で収集分類した珍書。江戸期ならではといえます。

明治41年(1908)に『類聚るいじゅう近世風俗志』という題で刊行されました。岩波文庫(全5冊)でも『近世風俗志』で、まだかろうじて手に入ります。

明治41年となると、江戸の風情がものすごいスピードで東京から消え去っていた頃です。人は消えいるものをあたたかくいつくしむのですね。

徳三郎が買おうとしたのは、2分と200文の脇差わきざしです。

深川・木場の川並  【RIZAP COOK】

木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。

その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。大小の材木問屋が軒を並べました。

掘割ほりわりに貯材所として常時木材を貯え、それを「川並かわなみ」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて、いかだに組んで運んだものです。

法華の信者  【RIZAP COOK】

「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。

こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。

一般には、商家や下級武家に多かったと言われています。刀剣商、甲冑商、刀鍛冶、鋳物師などのだんびら商売、芸妓、芸人、音曲、絵師などの芸道稼業、札差(両替)や質商などの金融業では、法華の信心者がとりわけ多かったのも事実でした。

身延山や小室山などのキーワードがあらかじめ出てきて法華の信心をにおわせている「鰍沢」と同様、「おせつ徳三郎」では日本橋の大店や刀屋が登場することで、当時の聴衆は法華をたやすく連想できたことでしょう。

「お材木で助かった」のオチにも無理はなく、自然な流れで受け入れられたのです。現代のわれわれとはやや異なる感覚ですね。

江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず、「法華ほっけ」という呼び名の方が一般的でした。日蓮が宗祖となる宗派は、「法華経ほけきょう」を唯一最高の経典と尊重したからです。

天台宗も「法華経」を重視していましたから、「天台法華宗」とも呼ばれていました。その呼称にならって、日蓮の法華宗のほうは「日蓮法華宗」とも呼ばれていました。

「日蓮宗」という宗派名が初めて使われるようになるのは、新井日薩あらいにっさつが法華の各宗務に大同団結の声をかけた、明治5年(1872)に入ってからです。その後、紆余曲折はありましたが、今日まで「日蓮宗」でひとくくりとなっています。

それにしても、宗祖の名が宗派の名になったのは日蓮宗のみ。親鸞宗も道元宗も一遍宗もないわけですから、思えば奇妙です。江戸時代には浄土宗とは因縁の対立(営業上の競合ともいえます)が続いていました。題目(法華系)と念仏(浄土系)との競合や対立は、落語や川柳でのお約束のひとつです。

【おことわり】「おせつ徳三郎」の別題に「隅田馴染め」があります。この題の素直な読み方は誰が読んでも「すみだのなれそめ」に決まっていいるかもしれません。本サイトが底本に使っている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)で、当該頁(第1巻54頁下段)には「隅田馴染め」の「隅田」部分に「すだ」とルビが振られてあります。その真意はわかりません。たんなる誤植ならすべては解決しますが、明治期のぞっきな落語集とは異なり、しっかりした校訂を経て刊行されている本シリーズではたんなる誤植とも考えにくいのです。同様に、「隅田の花見」(「長屋の花見」の別題)でも「隅田」は「すだ」とルビが振られてあり(第7巻296頁下段)、決して「すみだ」ではないのです。古代から中世には「隅田」を「須田」と記して「すだ」とも呼んでいました。近世でも古雅な呼称として「すだ」は残っていました。とまれ、われわれは、確認が取れるまでは「隅田馴染め」の読み方を「すだのなれそめ」「すみだのなれそめ」と、「隅田の花見」も「すだのはなみ」「すみだのはなみ」と併記しておきます。思い込みや強説採用は排すべきものと心得ます。

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あけがらす【明烏】落語演目



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 【どんな?】

堅物がもてるという、廓が育む理想形の物語。
ビギナーズラックでしょうか、はたまた普遍の成功譚。
こんな放蕩なら、一度は経験してみたいものです。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼あいかたに振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(→八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が台頭するまで、先の大戦後は、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中頃とし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原玉屋の遊女美吉野と、呉服屋の若だんな伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈りゅうていりじょう為永春水ためながしゅんすいが「明烏後正夢あけがらすのちのまさゆめ」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」は、幕末にその発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木門かぶきもん。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。

吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町2丁目。

日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7年=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

八代目桂文楽のおはこ。文楽存命の間はだれもやらずにいた。のちに、馬生がやった。志ん朝がやった。小三治がやった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。これが宮戸川心中事件といわれるもの。

江戸時代、「呉服」は絹織物のこと、「太物」は綿や麻織物でつくった普段着のこと。呉服商と太物商は扱う品物が違ったため、区別されていたものです。

事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生されていった。

うぶな男がもてて半可通が振られるという型は、江戸の遊里を描いた洒落本にはありがちなもの。もてるもてないはどこか才のかげんで、修行しても始まらないようである。

この噺のすごい魅力は、まるごと「吉原入門」はたまた「吉原指南」になっているところ。吉原での遊び方のおおかたがわかるのだ。便利であるなあ。

(古木優)

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)

 



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ふなとく【船徳】落語演目

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【どんな?】

船頭にあこがれた、勘当若だんな。
客を乗せて大川へ。
いやあ、見上げたもんです。

別題: お初徳兵衛 後の船徳

あらすじ】 

道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿・大枡だいますの二階で居候の身の上の若だんな、徳兵衛。

暇をもてあました末、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」などと、言いだす始末。

親方始め船宿の若い者の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と宣言してしまった。

お暑いさかりの四万六千日しまんろくせんにち

なじみ客の通人が二人やってきた。あいにく船頭が出払っている。

柱に寄り掛かって居眠りしている徳を認めた二人は引き下がらない。

船宿の女将おかみが止めるのもきかず、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことに。

舟を出したのはいいが、同じところを三度も回ったり、石垣に寄ったり。

徳「この舟ァ、石垣が好きなんで。コウモリ傘を持っているだんな、石垣をちょいと突いてください」

傘で突いたのはいいが、石垣の間に挟まって抜けずじまい。

徳「おあきらめなさい。もうそこへは行きません」

さんざん二人に冷や汗をかかせて、大桟橋へ。

目前、浅瀬に乗りあげてしまう。

客は一人をおぶって水の中を歩いて上にあがったが、舟に残された徳、青い顔をして「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」

底本:八代目桂文楽

しりたい】 

文楽のおはこ   【RIZAP COOK】

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)の極めつけでした。

文楽以後、無数の落語家が「船徳」を演じていますが、はなしの骨格、特に、前半の船頭たちのおかしみ、「四万六千日、お暑い盛りでございます」という決め文句、客を待たせてひげを剃る、若だんな船頭の役者気取り、舟中での「この舟は三度っつ回る」などのギャグ、正体不明の「竹屋のおじさん」の登場などは、刷り込まれたDNAのように、どの演者も文楽に右にならえです。

ライバルの五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、前半の、若だんなの船頭になるくだりは一切カットし、川の上でのドタバタのみを、ごくあっさりと演じていました。

この噺はもともと、幕末の初代古今亭志ん生(清吉、1809-56、八丁荒らしの)作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を、明治の爆笑王、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)がパロディー化し、こっけい噺に仕立てたものです。

元の心中がらみの人情噺は、五代目志ん生が「お初徳兵衛」として時々演じました。

四万六千日さま   【RIZAP COOK】

浅草の観世音菩薩の縁日で、旧暦7月10日にあたります。現在の8月なかば、もちろん猛暑のさ中です。

この日にお参りすれば、四万六千日(約128年)毎日参詣したのと同じご利益が得られるという便利な日です。なぜ四万六千日なのかは分かりません。

この噺の当日を四万六千日に設定したのは明治の三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)といわれます。

「お初徳兵衛浮名桟橋」のあらすじ   【RIZAP COOK】

(上)勘当された若だんな徳兵衛は船頭になり、幼なじみの芸者お初を送る途中、夕立ちにあったのがきっかけで関係を結ぶ。

(中)お初に横恋慕する油屋九兵衛の策謀で、徳兵衛とお初は心中に追い込まれる。

(下)二人は死に切れず。船頭の親方のとりなしで徳兵衛の勘当もとけ、晴れて二人は夫婦に。

竹屋のおじさん   【RIZAP COOK】

客を乗せて船出した後、徳三郎が「竹屋のおじさぁん、今からお客を 大桟橋まで送ってきますゥッ」と橋上の人物に呼びかけ、このおじさんなる人が、「徳さんひとりかいッ? 大丈夫かいッ?」と悲痛に絶叫して、舟中のだんな衆をふるえあがらせるのが、「船徳」の有名なギャグです。

「竹屋」は、今戸橋の橋詰、向島に渡す「竹屋の渡し」の山谷堀側にあった、同名の有名船宿を指すと思われます。

端唄「夕立や」に「堀の船宿、竹屋の人と呼子鳥」という文句があります。

渡船場に立って、「竹屋の人ッ」と呼ぶと、船宿から船頭が艪を漕いでくるという、夏の江戸情緒にあふれた光景です。

噺の場面も、多分この唄からヒントを得たものでしょう。

舫う

舟を岸につなぎとめておくこと。

「おい、なにやってんだよ。舟がまだもやってあるじゃねえか。いや、まだつないであるってんだよ」

古今亭志ん朝

「舫う」という古めかしい言葉が「繋ぐ」意味だということを客の話しぶりで解説していることろが秀逸でした。

東北風

ならい。東日本の海沿いで吹く、冬の寒い風。東北地方から三重県あたりまでのおおざっぱな一帯で吹きます。

「あーた、船頭になるって簡単におっしゃいますけどね、沖へ出て、東北風ならいにでもごらんなさい。驚くから」

三代目古今亭志ん朝

知っている人は知っている言葉、としか言いようがありません。知らない人はこれを機会に。落語の効用です。

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こごとねんぶつ【小言念仏】落語演目



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【どんな?】

短くってすじもへったくれもない噺。
念仏の宗旨をちゃかしています。

別題:世帯念仏(上方)

あらすじ

親父が、仏壇の前で小言を言う。

ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

「鉄瓶が煮立っている」
「飯がこげている」
「花に水ゥやれ」
と、さんざんブツブツ言った後、
「表にドジョウ屋が通るから、ナマンダブ、ナマンダブ、買っときなさい、ナアミダブ、ドジョウ屋ァッナムアミダブ、鍋に酒ェ入れなさいナムアミダブ、一杯やりながらナムアミダブ、あの世ィ行きゃナマンダブ、極楽往生だナマンダブ、畜生ながら幸せなナムアミダブ、野郎だナマンダブ、暴れてるかナマンダブ、蓋取ってみなナムアミ、腹だしてくたばりゃあがった? ナムアミダブ、ナマンダブ、ざまァみゃがれ」

しりたい

仏教への風刺  【RIZAP COOK】

原話は不明で、上方落語「世帯念仏」を、そのまま東京に移したものです。移植の時期はおそらく明治期と思われます。

上方でもともと「宗論」「淀川(後生鰻)」などのマクラに振っていた小咄だったものが、東京で一席の独立した小品となりました。

念仏を唱えながらドジョウをしめさせるくだりは「後生鰻」と同じく、通俗化した仏教、とくにその殺生戒の偽善性を、痛烈に風刺したものといえるでしょう。

しかも、念仏ですから、浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などをちゃかしているわけです。「後生鰻」も念仏系の噺です。

小言  【RIZAP COOK】

これすらも、昨今は死語化しつつあるようですが、小言は「叱事(言)」の当て字。

特に小さな、些細なことを、重箱の隅をほじくるようにネチネチと説教するニュアンスが、「小」によく表れています。江戸では「小言坊」「小言八百」などの言葉があり、「カス(を食う)」というのも類語でした。

  【RIZAP COOK】

どじょう。「泥鰌」「鯲」とも記します。歴史的仮名遣いでは「どぢやう」「どぜう」です。

鰻にくらべて安価で、精のつくものとして、江戸のころは、八つ目うなぎとともに庶民層に好まれました。

我事と 鰌の逃げる 根芹かな
なべぶたへ 力を入る どじょう汁
念仏も 四五へん入る どじょう汁

さまざまに詠まれています。最後のは、煮ながらせめてもどじょうの極楽往生を願う心で、この噺のおやじよりはまだましですね。

どじょうを買うときは一升の升で量りますが、必死で踊り乱れるので、なかなか数が入らず、同じ値段でも損をすることになります。

こわそうに 鯲の升を 持つ女   初3

おっかなびっくりの女。この句は、女はおぼこで、どじょうの暴れるさまを慣れない男性器にたとえているのかもしれません。そこで、どじょうをおとなしくさせるまじないとして、碗の蓋の一番小さいものをヘソに当ててにらみつければ、たちどころにどじょうは観念し、同じ大きさの升でも二倍入ると、『耳嚢』(根岸鎮衛著)にあります。ホントでしょうか。

金馬や小三治の苦い笑い  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後まで、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

明るい芸風の人だったので、風刺やブラックユーモアが苦笑にとどまり、不快感を与えなかったのでしょう。

短いため、さまざまな演者が今も手がけますが、柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の「小言念仏」は自然に日本人の嗜虐性を表現していて、うならせてくれました。

上方の「世帯念仏」は桂米朝(中川清、1925-2015)が継承していました。

東西ともオチは同じですが、四代目五明楼玉輔(原新左衛門または平野新左衛門、1856-1935、小言念仏の)の速記では「ドジョウ屋が脇見をしているすきに、二、三匹つかみ込め」と、オチています。

【語の読みと注】
世帯念仏 しょたいねんぶつ
耳嚢 みみぶくろ



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おやこざけ【親子酒】落語演目






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【どんな?】

「こんなぐるぐる回る家は欲しくない!」
のんべえ親子の愉快なお話です。

別題:親子の生酔い

【あらすじ】

父子とも大酒のみの家。

先のあるせがれに間違いがあってはと、おやじの方がお互いに禁酒の提案をする。

せがれも承知してしばらくは無事にすんだが、十日目十五日目あたりになると、そろそろ怪しくなってくる。

ちょうど、せがれがお呼ばれに出掛けた留守、おやじは鬼の居ぬ間にと、かみさんに
「昼間用足しに出て、くたくたなんだが、なにかこう、疲れの抜けるものはないかい」
と、ねだる。

「じゃ、唐辛子」
「金魚が目をまわしたんじゃねえ。ひさびさだからその、一杯ぐらい……」

せがれが帰ったら言い訳できないと渋るのを、むりやり拝み倒して銚子一本。

こうなると、
「もう一本だけ」
「もうちょっと」
「もう一本」
「もう半分」
しまいには
「持って来ォいッ」

結局、ベロベロに。

「なにィ? 酔ってる ご冗談でしょう。大丈夫ですったら大丈夫だよッ。ナニ、あいつが帰ってきた? 早いね。膳をかたづけて、お父さんは奥で調べ物してますって言って、玄関で時間をつないどきなさい」

さすがにあわてて、酔いをごまかそうと無理に座りなおし、懸命に鬼のような顔を作って、障子の方をにらみつけている。

一方、せがれ。

こちらもグデングデンでご帰還。

なんでも、ひいきのだんながのめのめと勧めるのを、男と男の約束ですからと断ると怒って、強情張ると出入りを差し止めるというので意地になり、のまないと言ったらのまないと突っぱねた。

「えらいッ、その意気でまず一杯ッ」
と乗せられて、結局、二人で二升五合とか。

二人で気まずそうににらめっこ。

おやじは無理ににらんで
「なぜ、そうおまえは酒をのみたがる。おばあさん、こいつの顔がさっきから三つに見えます。化け物だね。こんな者に身代は渡せませんよ」
と言うと、せがれが
「あたしだって、こんなぐるぐる回る家は欲しくない」

底本:五代目古今亭志ん生 五代目柳家小さん

【しりたい】

三百年来、のんべえ噺

現存する最古の原話は、宝永4年(1707)刊で初代露の五郎兵衛(1643-1703)の笑話本『露休置土産』中の「親子共に大上戸」です。

「親子茶屋」と並んでのんべえ噺としては最古のものです。

原話では、「ぐるぐる回る家……」の後におやじが、「あのうんつく(=ばか者)め、おのれが面(つら)は二つに見ゆるは」と言うところでオチをつけています。

その後、安永2年(1773)刊の『坐笑産』中の「親子生酔」ほか、いくつかの類話が見られますが、大筋は変わっていません。

重宝なマクラ噺

落語としては上方ダネで、短い噺なので、もともと一席噺として演じられることは少なく、酒の噺のマクラや、小咄の寄せ集めのオムニバスの一編に用いられるなど、重宝な使われ方をしています。

野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論)が著書『落語通談』の中で紹介している柳派(柳家小さん系統)のネタ帳「昔噺百々」(明治42年)には、426席が掲載されていますが、この噺の演題はなく、「親子酒」という独立した題が付いたのも大正以後の、かなり新しいことと思われます。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が、明治期に「親子の生酔い」として速記を残しているのは、珍しい例でしょう。

戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)と、酒の噺が得意だった巨匠連が一席物として演じました。

中でも志ん生は、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、実生活でも「親子酒」を地でいっていました。

「上戸」と「生酔い」

よく言われる「上戸」はむろん、瓶などに水を注ぐ道具からきています。「大戸」「戸大」ともいいました。

「戸」は家の入口そのものを指し、質のよいジョウゴできれいに水を注ぐように、体内への入口である口から、絶え間なく酒が胃の腑に流れ込む意味です。

この噺は別題を「親子の生酔い」ともいいますが、「生酔い」は、「生」が、「生乾き」など、それほど程度が進まない状態を表すので、泥酔の一歩手前の「ほろ酔い」を意味するという解釈があります。

噺の中の親子は、どう見てもベロンベロンとしか思えませんね。






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うどんや【うどん屋】落語演目

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【どんな?】

屋台の鍋焼きうどん屋。
客がつかずさんざんな寒い夜。
もうからない噺です。

別題:風邪うどん(上方)

あらすじ

ある寒い夜。

屋台の鍋焼きうどん屋が流していると、酔っぱらいが
「チンチンチン、えちごじしィ」
と唄いながら、千鳥足で寄ってくる。

屋台をガラガラと揺すぶった挙げ句、おこした火に手をかざして、ながながとからむ。

「おめえ、世間をいろいろ歩いてると付き合いも長えだろう。仕立屋の太兵衛ってのを知ってるか」
「いえ、存じません」

そんなところから始まって、
「太兵衛は付き合いがよく、かみさんは愛嬌者、一人娘の美ィ坊は歳は十八でべっぴん、今夜婿を取り、祝いに呼ばれると上座に座らされて茶が出て、変な匂いがすると思うと桜湯で、家のばあさんはあんなものをのんでも当たらないから不思議な腹で、床の間にはおれが贈ったものが飾ってあって、娘の衣装は金がかかっていて、頭に白い布を巻いて「おじさん、さてこのたびは」と立ってあいさつして、このたびはなんて、よっぽど学問がなくちゃあ言えなくて、小さいころから知っていて、おんぶしてお守りしてやって、青っぱなを垂らしてぴいぴい泣いていたのがりっぱになって、ああめでてえなあうどん屋」
というのを、二度繰り返す。

「水をくれ」
というから、
「へいオシヤです」
とうどん屋が出せば、
「水に流してというのを、オシヤに流してって言うかばか野郎
とからみ、やたらに水ばかりガブガブのむから、
「うどんはどうです」
と、うどん屋はそろそろ商売にかかると、
「タダか」
と聞きてくる。

「いえ、お代はいただきます」
「それじゃ、おれはうどんは嫌えだ。あばよッ」

今度は女が呼び止めたので、張り切りかけると
「赤ん坊が寝てるから静かにしとくれ」

「どうも今日はさんざんだ」
とくさっていると、とある大店の木戸が開いて
「うどんやさん」
とか細い声。

「ははあ、奥にないしょで奉公人がうどんの一杯も食べて暖まろうということか」
とうれしくなり、
「へい、おいくつで」
「ひとつ」

その男、いやにかすれた声であっさり言ったので、うどん屋はがっかり。

それでも、
「ことによるとこれは斥候で、うまければ代わりばんこに食べに来るかもしれない、ないしょで食べに来るんだから、こっちもお付き合いしなくては」
と、うどん屋も同じように消え入るような小声で
「へい、おまち」

客は勘定を置いて、またしわがれ声で、
「うどん屋さん、あんたも風邪をひいたのかい」

しりたい

小さん三代の十八番

上方で「風うどん」として演じられてきたものを、明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植。

その高弟の四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944)を経て、戦後は五代目小さんが磨きをかけ、他の追随を許しませんでした。

酔っ払いのからみ方、冬の夜の凍るような寒さの表現がポイントとされますが、五代目は余計なセリフや、七代目可楽のように炭を二度おこさせるなどの演出を省き、動作のみによって寒さを表現しました。

見せ場だったうどんをすするしぐさとともに、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)によって、「うどんや」はより見て楽しむ要素が強くなったわけです。

原話はマツタケ売り

安永2年(1773)江戸板『座笑産ざしょうさん』の後編「近目貫きんめぬき」中の「小ごゑ」という小ばなしが原話です。

その設定は、男はマツタケ売り、客は娘となっています。

改作「しなそば屋」

大正3年(1914)の二代目柳家つばめ(浦出祭次郎、1875-1927)の速記では、酔っ払いがいったん食わずに行きかけるのを思い直してうどんを注文したあと、さんざんイチャモンを付けたあげく、七味唐辛子を全部ぶちまけてしまいます。

これを、昭和初期に六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が応用し、軍歌を歌いながらラーメンの上にコショウを全部かけてしまう、改作「しなそば屋」としてヒットさせました。

夜泣きうどん事始

東京で夜店の鍋焼きうどん屋が現れたのは明治維新後。したがってこの噺はどうしても明治以後に設定しなければならないわけです。

読売新聞の明治14年(1881)12月26日付には、以下の記事が見えます。

「近ごろは鍋焼饂飩なべやきうどんが大流行で、夜鷹蕎麦よたかそばとてはふ人が少ないので、府下ぢうに鍋焼饂飩を売る者が八百六十三人あるが、夜鷹蕎麦を売る者はたった十一人であるといふ」

「夜鷹そば」(「時そば」参照)に代わって「夜泣きうどん」という呼び名も流行しました。三代目小さんが初めてこの噺を演じたときの題は、「鍋焼きうどん」でした。

大阪の製薬会社「うどんや風一夜薬本舗」は、ショウガと温かいうどんが解熱作用があるということで、風邪薬、しょうが飴、のど飴などを製造販売しています。

もとは、末広勝風堂という名で明治に創業しました。

「末広(いつまでも)」「勝風(風に勝つ)」と、明治らしいわかりやすい命名です。

「うどん」と「風邪」とは縁語なのですね。

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うきよねどい【浮世根問】落語演目


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【どんな?】

「根問」とつくのは、上方噺です。
「どーして? どーして?」としつこく尋ねるのが「根問」。
いまではめったに聴けない噺。ちょっと残念です。

あらすじ

三度に一度は他人の家で飯を食うことをモットーとしている、八五郎。

今日もやって来るなり「お菜は何ですか?」と聞く厚かましさに、隠居は渋い顔。

隠居が本を読んでいるのを見て八五郎、
「本てえのはもうかりますか」
と聞くので
「ばかを言うもんじゃない。もうけて本を読むものじゃない。本は世間を明るくするためのもので、おかげでおまえが知らないことをあたしは知っているのだから、なんでも聞いてごらん」
と隠居が豪語する。

そこで八五郎は質問責め。

まず、今夜嫁入りがあるが、女が来るんだから女入りとか娘入りと言えばいいのに、なぜ嫁入りかと聞く。

隠居、
「男に目が二つ、女に目が二つ、二つ二つで四目入りだ」
「目の子勘定か。八つ目鰻なら十六目入りだ」

話は正月の飾りに移った。

「鶴は千年、亀は万年というけど、鶴亀が死んだらどこへ行きます?」
「おめでたいから極楽だろう」
「極楽てえのはどこにあります?」
西方弥陀さいほうみだ浄土じょうど十万億土じゅうまんおくどだ」
「サイホウてえますと?」
「西の方だ」
「西てえと、どこです?」

隠居、うんざりして、
「もうお帰り」
と言っても八五郎、御膳が出るまで頑張ると動じない。

八五郎の言うのには、この間、岩田の隠居に 「宇宙をぶーんと飛行機で飛んだらどこへ行くでしょう」 と聞くと、 「行けども行けども宇宙だ」 とゴマかすので、 「じゃあ、その行けども行けども宇宙を、ぶーんと飛んだらどこへ行くでしょう?」と。

行けどもぶーん、行けどもぶーんで三十分。

岩田の隠居は喘息ぜんそく持ちだから、だんだん顔が青ざめてきた。

「その先は朦々もうもうだ」
「そんな牛の鳴き声みてえな所は驚かねえ。そこんところをぶーんと飛んだら?」
「いっそう朦々だ」
「そこんところをぶーん」

……モウモウブーン、イッソウブーンで、四十分。

「そこから先は飛行機がくっついて飛べない」
「そんな蠅取り紙のような所は驚かねえ。そこんところをぶーん」

岩田の隠居はついに降参。八五郎に五十銭くれた。

「おまえさんも極楽が答えられなかったら、五十銭出すかい?」
「誰がやるか。極楽はここだ」
と、隠居が連れていったのが仏壇。

こしらえものの蓮の花、線香をけば紫の雲。鐘と木魚が妙なる音楽、というわけ。

「じゃ、鶴亀もここへ来て仏になりますか?」
「あれは畜生だからなれない」
「じゃ、なにになります?」
「ごらん。この通りロウソク立てになってる」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

根問

ねどい。「根問」とは、「根元まで問い詰める」「質問を繰り返す」「根掘り葉掘り聞く」「細かく尋ねる」といった意味です。

上方由来のことばですが、江戸の町でも使われていました。

「根問」とつく噺は、概して上方噺です。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は入門する前から「浮世根問」をそらんじて、近所の悪ガキ相手に聴かせていたそうです。その頃は「根問」を「ねもん」と読むものだと勝手に思っていたそうです。

ということは、昭和の東京では「根問」ということば、すでにすたれていたのかもしれませんね。

物語のない噺

上方噺の「根問もの」の代表作。明治期に東京に移されたものです。

上方では短くカットして前座の口ならしに演じられます。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の貴重な音源が残っています。

どこで切っても噺にはなるので、「物語のない噺」とされています。

えんえんと、「根問」が繰り返されるだけの、

「薬缶」と「浮世根問」

明治時代にはまだ、東京では「薬缶」と「浮世根問」の区別が曖昧あいまいでした。

たとえば、明治期の四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)の速記はかなり長く、「無学者」の題で残っています。

いろいろな魚の名前の由来を聞いていく前半は、「薬缶」と共通しています。

とはいえ、「薬缶」の隠居は知ったかぶりの、えせ知識。「浮世根問」の隠居は、もの知りで誠実なご仁。八五郎のしつこさにへきえきしているわけ。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)によれば、同じ隠居でも、ぜんぜん違うタイプなのだそうです。

弟子筋の七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)によれば、「違いがわからねえ」と言ってはいますが。

聴いてみると、たしかに小さんの見立てがかなっているように思えます。この噺のキモなのかもしれません。

ここでのあらすじは、師匠の四代目柳家さん(大野菊松、1888-1947)譲りで演じた、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)のものを底本にしました。

二代にわたる小さんが上方のやり方を尊重し、この噺を独立した一編として確立したわけです。

「浮世根問」は、いまでは、物語のない噺で、柳家の芸とされています。

鶴亀のろうそく立て

オチの「ろうそく立て」については、今ではなんのことやらさっぱりわからなくなっているので、現行の演出ではカットし、最後までいかないことが多くなっています。

これは、寺などで使用した燭台で、亀の背に鶴が立ち、その頭の上にろうそくを立てるものです。

鶴亀はいずれも長寿を象徴しますから、要するに縁起ものでしょう。

目の子

「目の子勘定かんじょう」といって、公正を期すため、金銭などを目の前で見て数えることです。

黙阿弥もくあみの歌舞伎世話狂言「髪結新三かみゆいしんざ」で、大家の長兵衛が悪党の新三の目の前で小判を一枚一枚並べる場面が有名です。

原話について

もっとも古いものは、露の五郎兵衛(1643-1703)の『露休置土産ろきゅうおきみやげ』中の「鶴と鷺の評論」です。五郎兵衛は京都辻ばなしの祖です。

これは、二人の男が鶴の絵の屏風について論じ合い、一人が「この鳥は白鳥にしてはちょっと足が長い」と言うと、もう一人が「はて、わけもない。これは鷺だ」と反論します。見かねた主人が「これは鶴の絵ですよ」と口をはさむと、後の男が「人をばかにするでない。鶴なら、ろうそく立てをくわえているはずだ」。

安永5年(1776)、江戸で刊行された『鳥の町』中の小ばなし「根問」になると、以下のようになっています。

「鶴は千年生きるというが、本当かい?」
「そうさ。千年生きる証拠に、鎌倉には頼朝の放したという鶴がまだ生きているじゃないか」
「じゃ、千年たったらどうなる?」
「死ぬのさ」
「死んでどうなる?」
「十万億土(極楽)に行くのさ」
「極楽へ行ってどうする?」
「うるさい野郎だな。ろうそく立てになるんだ」

現行にぐっと近くなります。

四代目小さんがよく登場させていた、ご隠居です。「ろくろ首」にも出てきます。

噺に直接登場するわけではないのですが、噂話や立ち話などの中で間接的に出てくる、陰の登場人物です。「のりやのばばあ」にどこか似ています。

現在、この噺を演じるのは、柳家の系統でもあまりいません。

あえてあげれば、四代目春雨や雷蔵くらいでしょうか。柳家ではありませんが。

先の大戦後には、五代目小さんのほかには、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)などでした。



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やかん【薬缶】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

なるほど、やかん命名の由来とは。
落語はまったくもってためになる、無学者もの

別題:浮世話 無学者 薬缶根問(上方)

【あらすじ】

この世に知らないものはないと広言する隠居。

長屋の八五郎が訪ねるたびに、別に何も潰れていないが、グシャ、グシャと言うので、一度へこましてやろうと物の名の由来を次から次へ。

ところが隠居もさるもの、妙てけれんなこじつけでケムにまく。

最初に、いろいろな魚の名前は誰がつけたかという質問で戦闘開始。

「おまえはどうしてそう、愚なることを聞く。そんなことは、どうでもよろしい」
「あっしは気になるんで。誰が名をつけたんです?」
「うるさいな。あれはイワシだ」

「イワシは下魚げぎょといわれるが、あれで魚仲間ではなかなか勢力がある」
とゴマかす。

「じゃ、イワシの名は誰がつけた」
と聞くと、ほかの魚が名をもらった礼に来て、
「ところであなたの名は」
と尋ねると、
「わしのことは、どうでも言わっし」

これでイワシ。

以下、まぐろは真っ黒だから。

ほうぼうは落ち着きがなく、ほうぼう泳ぎ回るから。

こちはこっちへ泳いでくるから。

ヒラメは平たいところに目があるから。

「カレイは平たいところに目が」
「それじゃヒラメと同じだ」
「うーん、あれはヒラメの家来で、家令かれいをしている」

うなぎはというと、昔はのろいのでノロといった。
あるときがノロをのみ込んで、
大きいので全部のめず四苦八苦。

鵜が難儀なんぎしたから、
鵜、難儀、鵜、難儀、鵜難儀でウナギ。

話は変わって日用品。

茶碗ちゃわんは、置くとちゃわんと動かないから茶碗。

土瓶どびんは土で、鉄瓶てつびんは鉄でできているから。

「じゃ、やかんは?」
「やでできて……ないか。昔は」
「ノロと言いました?」
「いや、これは水わかしといった」
「それをいうなら湯わかしでしょ」
「だからおまえはグシャだ。水を沸かして、初めて湯になる」
「はあ、それで、なぜ水わかしがやかんになったんで?」
「これには物語がある」

昔、川中島の合戦で、片方が夜討ちをかけた。

かけられた方は不意をつかれて大混乱。

ある若武者が自分のかぶとをかぶろうと、枕元を見たがない。

あるのは水わかしだけ。

そこで湯を捨て、兜の代わりにかぶった。

この若武者が強く、敵の真っただ中に突っ込む。

敵が一斉に矢を放つと、水わかしに当たってカーンという音。

矢が当たってカーン、矢カーン、やかん。

蓋は、ボッチをくわえて面の代わり。

つるはあごへかけての代わり。

やかんの口は、名乗りが聞こえないといけないから、耳代わり。

「あれ、かぶったら下を向きます。上を向かなきゃ聞こえない」
「その日は大雨。上を向いたら、雨が入ってきて中耳炎になる」
「それにしても、耳なら両方ありそうなもんだ」
「ない方は、枕をつけて寝る方だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

やかんが釜山から漂着  【RIZAP COOK】

明和9年(1772)刊『鹿餅』中の「薬罐やかん」は、この噺の後半部分の、もっとも現行に近い原話ですが、これは、日本の薬罐がはるばる朝鮮半島の釜山プサンまで流れ着き、現地の人が「これは兜ではないか」と議論することになっています。

さまざまな伸縮自在  【RIZAP COOK】

一昔前は、知ったかぶりを「やかん」と呼んだほど、よく知られた噺でした。

題名に直結する「矢があたってカーン」以外は、自由にギャグが入れられる伸縮自在の噺なので、昔から各師匠方が腕によりをかけて、工夫してきました。名前の由来に入る前の導入部も、演者によってさまざまです。

「矢がカーン」の部分では、隠居が「矢があたって」と言う前に八五郎がニヤリと笑い、「矢が当たるからカーンだね」と先取りする演出もあります。

オチまでいかず、文字通り「矢カン」の部分で切ることも、時間の都合でよくあります。

「やかん」のくすぐりいろいろ  【RIZAP COOK】

●蛇はノソノソして、尻っぽばかりの虫なので屁といった。そのあとビーとなった。(五代目古今亭志ん生)

●クジラは、必ず九時に起きるので、クジらあ。

●ステッキは、西洋人のは飾り付きで「すてっき」だから。

●ランプは、風が吹くとラン、プーと消えるから。

●ひょっとこは、不倫して、ヒョットして子ができるのではと、口をとがらしてふさいでばかりいると、月満ちてヒョッと産まれた子の口も曲がっていた。だから「ヒョット・子」(以上、初代三遊亭円遊)

「浮世根問」について  【RIZAP COOK】

五代目柳家小さん(1915-2002、小林盛夫)がよく演じた「浮世根問うきよねどい」は、上方の「根問もの」の流れをくみます。

「薬缶」とモチーフは似ていますが、別系統の噺です。「薬缶」に比べると噺もずっと長く、質問もはるかに難問ぞろいです。

上方では、別に「薬缶根問」という噺があります。

根問  【RIZAP COOK】

「根」はルーツ、物事の根源を意味します。それを「問う」わけですから、要はいろいろなテーマについて質問し、知ったかぶりの隠居がダジャレを含めてでたらめな回答をする、という形式の噺のことです。

上方の根問ねどいものには、テーマ別に「商売根問」「歌根問」「絵根問」など、さまざまなバージョンがありました。
                       
「薬缶」は、形式は似ていても、単に語源を次々と聞いていくだけですから、「根問もの」よりもずっと軽いはなしになっています。

ついでに  【RIZAP COOK】

「根問」という題名は上方のものに限定されます。どんなに似た内容の噺でも、「薬缶」「千早振る」など東京起源のものは「根問」とは呼びません。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

ちはやふる【千早振る】落語演目

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

無学者もの。
知ったかぶりの噺。
苦し紛れのつじつまあわせ。
あっぱれです。

別題:木火土金水 龍田川 無学者 百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平ありわらのなりひらの「千早ちはやふる 神代かみよも聞かず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
龍田川たつたがわってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫ちはやだゆう花魁道中おいらんどうちゅうに出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫かみよだゆうに口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず 龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代のころでさえ、龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め(=絞り染め)にされるとは、聞いたこともない。

とまあ、意味を知れば、おもしろくもおかしくもない歌です。

隠居の珍解釈の方が、よほど共感を呼びそうです。

「龍田川」は、奈良県生駒郡斑鳩いかるが町の南側を流れる川。古来、紅葉の名所で有名でした。

「くくる」とは、ここでは「くくり染め」の意味だということになっています。くくり染めとは絞り染めのこと。

川面がからくれない(韓紅=深紅色)の色に染まっている光景が、まるで絞り染めをしたように見えたという、古代人の想像力の産物です。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院ようぜいいん」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町にほんばしふきやちょうにあった「元吉原」といわれる寛永年間(1624-44)にさかのぼる、といわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋あげや(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

陽成院  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねの みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる」の珍解釈。京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」。見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持米をたまわったので、「声ぞつもりて扶持となりぬる」。しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

蛇足ながら、陽成院とは第57代の陽成天皇(869-949)が譲位されて上皇になられてのお名前です。この天皇、在位中にあんまりよろしくないことを連発されたため、時の権力者、藤原氏によってむりむり譲位させられてしまいました。

天皇としての在位は876年から884年のたった8年間でした。その後の人生は長かったわけで、なんせ8歳で即位されたわけですから、やんちゃな天子だったのではないでしょうか。そんなこと、江戸の人は知りもしません。百人一首のみやびなお方、というイメージだけです。

ちなみに、この時代の「譲位」というのは政局の切り札で、天皇から権力を奪う手段でした。

本人はまだやりたいと思っているのに、藤原氏などがその方を引きずりおろす最終ワザなのです。

五代目古今亭志ん生

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のざらし【野ざらし】落語演目



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【どんな?】

釣りの帰途、川べりに髑髏。
手向けの酒で回向を。
宵になれば。
お礼参りの幽霊としっぽりと。

別題:手向けの酒 骨釣り(上方)

あらすじ

頃は明治の初め。

長屋が根継ねつぎ(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくていい女のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島で釣りをしたら「間日まび(暇な日)というのか、雑魚ざこ一匹かからん」と、その帰り道、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかにあしが風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向たむけの回向えこうをしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それをまねて『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨がいこつの上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんなところに死骸をさらし、迷っていましたところ、今日、はからずもあなたのご回向えこうで浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音はいんにこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

※現行はここで終わり。

これを聞いていたのが、悪幇間わるだいこの新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間たいこでゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

しりたい

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛ちょうひが登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

男色めいたオチです。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『史記』『十八史略』の「鴻門こうもんの会」で名高い樊會はんかいが現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた男色めいたオチです。

この噺は、はじめから男色(釜掘り)がつきまとっていました。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若だんなが木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。「閨中のおとぎなどつかまつらん」「あんた、だれ?」「石川五右衛門」「ああ、やっぱり釜に縁がある」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものです。こちらも男色がらみ。どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」を、ちょっとまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻がうずくような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林屋正藏(不詳-不詳、沢善正蔵、実は三代目)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。これは陰気な噺。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。仏教がらみの噺の好みました。でも、陰気になる。

明治期に、それをまたひっくり返したのが、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)。明治の爆笑王です。

初代円遊は「手向たむけの酒」の題で演じています。

男色の部分を消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。円遊の「手向けの酒」が『百花園』に載ったのは明治26年(1893)のこと。

さらに、二代目三遊亭円遊(吉田由之助、1867-1924、実は四代目)が改良。八五郎の釣りの場面を工夫して、明るくにぎやかにしました。それ以降は、二代目円遊の形が通行します。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から現在にいたるまでは、初代円遊→二代目円遊の型が広まります。

明るくリズミカルな芸風で売った三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、端正な語り口の八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)までやらず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。現在はほとんどこのやり方が横行しています。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。

門跡さま

「門跡」の本来の意味は、祖師(宗派の教祖)の法灯(教え)を受け継いでいる寺院のこと。

京都には「門跡さま」は多数ありますが、江戸で「門跡さま」といえば、浄浄土真宗東本願寺派本山東本願寺のこと。これでは長すぎて言えません。一般には「浅草本願寺」と呼ばれていました。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が、誘われてこの寺院で節談説教(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)を聴いた際、説教僧が前座、二ツ目、真打ちの階級制度、高座と聴者の仕掛けなどが寄席とそっくりなことにびっくりした、という逸話が残っています。

浅草本願寺は、京都の東本願寺とは本院と別院の関係でしたが、昭和40年(1965)に関係を解消して、独立しています。通称も、浅草本願寺から東京本願寺へと変更されました。

「野ざらし」の江戸・明治期には、東本願寺の名称で、浄土真宗大谷派の別院でした。「門跡さま」で通っていたわけです。

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成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

はなみざけ【花見酒】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

酒のみの噺。
呑み助は呑み助らしく。
いろんなところでしくじるもんですね。

あらすじ

幼なじみの二人。

そろそろ向島の桜が満開という評判なので
「ひとつ花見に繰り出そうじゃねえか」
と話がまとまった。

ところが、あいにく二人とも金がない。

そこで兄貴分がオツなことを考えた。

横丁の酒屋の番頭に灘の生一本を三升借り込んで花見の場所に行き、小びしゃく一杯十銭で売る。

酒のみは、酒がなくなるとすぐにのみたくなるものなので、みんな花見でへべれけになっているところに売りに行けば必ずさばける。

もうけた金で改めて一杯やろうという、なんのことはないのみ代稼ぎである。

そうと決まれば桜の散らないうちにと、二人は樽を差し担いで、向島までやって来る。

着いてみると、花見客で大にぎわい。

さあ商売だという矢先、弟分は後棒で風下だから、樽の酒の匂いがプーンとしてきて、もうたまらなくなった。

そこで、「お互いの商売物なのでタダでもらったら悪いから、兄貴、一杯売ってくれ」
と言い出して、十銭払って、グビリグビリ。

それを見ていた兄貴分ものみたくなり、やっぱり十銭出してグイーッ。

「俺ももう一杯」
「じゃまた俺も」
「それ一杯」
「もう一杯」
とやっているうちに、三升の樽酒はきれいさっぱりなくなってしまった。

二人はもうグデングデン。

「感心だねえ。このごった返している中を酒を売りにくるとは。けれど、二人とも酔っぱらってるのはどうしたわけだろう」
「なーに、このくらいいい酒だというのを見せているのさ」

なにしろ、おもしろい趣向だから買ってみようということで、客が寄ってくる。

ところが、肝心の酒が、樽を斜めにしようが、どうしようが、まるっきり空。

「いけねえ兄貴、酒は全部売り切れちまった」
「えー、お気の毒さま。またどうぞ」

またどうぞもなにもない。

客があきれて帰ってしまうと、まだ酔っぱらっている二人、売り上げの勘定をしようと、財布を樽の中にあけてみると、チャリーンと音がして十銭銀貨一枚。

「品物が三升売れちまって、売り上げが十銭しかねえというのは?」
「ばか野郎、考えてみれば当たり前だ。あすこでオレが一杯、ちょっと行っててめえが一杯。またあすこでオレが一杯買って、またあすこでてめえが一杯買った。十銭の銭が行ったり来たりしているうちに、三升の酒をみんな二人でのんじまったんだあ」
「あ、そうか。そりゃムダがねえや」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

経済破綻を予言 『花見酒の経済』   【RIZAP COOK】

昭和37年(1962)に出版され、話題になった笠信太郎(1900-67、朝日新聞、全面講和、安保改定可、CIA協力)の『“花見酒”の経済』。

当時の高度経済成長のただなか、なれ合いで銭が二人の間を行ったり来たりするだけのこの噺をひとつの寓話として、当局の手厚い保護下で資本が同じところをぐるぐるまわるだけの日本経済のもろさを指摘しました。

のちに現実となった、昭和48年(1973)のオイルショックによる経済破綻を見事に予見しました。

つまりは、この噺をこしらえた不明の作者は、遠く江戸時代から、はるか未来を見通していたダニエルのごとき大預言者だった、ということになりましょうか。

向島の桜  【RIZAP COOK】

八代将軍吉宗(1684-1751、在位1716-45)の肝いりで整備され、文化年間(1804-18)には押しも押されもせぬ江戸近郊有数の観光名所となりました。

向島は浅草から見て、隅田川の対岸一帯を指した名称です。

江戸の草創期には、文字通りいくつもの島でした。

花見は三囲神社から、桜餅で名高い長命寺までの堤が有名です。明治期には、枕橋から千住まで、約4kmに渡って、ソメイヨシノのトンネルが見られました。

復活待たれる噺  【RIZAP COOK】

八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)や六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が手がけました。

おもしろく、皮肉なオチも含めてよくできた噺なのに、とかく小ばなし、マクラ噺扱いされがちのせいか、近年ではあまり聞きません。

明治期の古い速記では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)のが残っています。二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)のものも。明治41年(1908)の円喬の速記では、酒といっしょに兄貴分がつり銭用に、強引に酒屋に十銭借りていくやり方で、二人は「辰」と「熊」のコンビです。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

ちょうたん【長短】落語演目

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【どんな?】

短気者とのんびり屋。
二人の極端な違いが最高の笑いを誘います。

別題:気の長短

あらすじ

気の長い長さんと、むやみに気短な短七の二人は幼なじみ。

性格が正反対だが、なぜか気が合う。

ある日、長さんが短七の家に遊びに来て、
「ゆうべええ、よなかにいい、しょんべんが、でたく、なって、おれがあ、べんじょい、こおう、よろうと、おもって、あまどをお、あけたら……うーん、はえええ、はなしがあ」
とゆっくりゆっくり話し始めたから、短七、
「ちっとも早かねえ」
と、早くもイライラ。

星が出ていなくて空が真っ赤だったから、明日は悪くすると雨かなと思ったら、とうとう今日は雨が降っちゃった、と、ただそれだけのことを言うのに、昨夜の小便から始めるのだから、かなわない。

菓子を食わせれば食わせたで、いつまでもモチャモチャやっているから、じれた短七、
「腐っちまう」
と、ひったくって、自分で丸のみ。

長さん、煙草を吸いだしたはいいが
「たんひっ、つぁんは、きが、みじかい、から、おれの、することが、まどろっこしくて、みて、られない」

そう言いながら、悠然と煙管に煙草を詰めてから、火玉を盆に落とすまで、あまりに間延びしているので、
「それじゃ生涯かかっても煙草に火がつきゃしない」
と、
「煙草なんてもなァ、そう何服も何服もね、吸い殻が皿ん中で踊るほどのむもんじゃないんだよ。オレなんか、急ぐときなんざ、火をつけねえうちにはたいちまうんだ」
と、短七、あっという間に一動作やってしまう。

気のいい長さんが感心してると、あまりせっかちすぎて、火玉が自分のたもとに入ってしまうが、そそっかしいのでいっこうに気がつかない。

これを見た長さん、
「これでたんひっつぁんは、きがみじかいから、しとにものォおそわったりすると、おこるだろうね」
「ああ、大嫌いだ」
「おれが、おしえても、おこるかい?」
「おめえとオレとは子供のころからの友達だ。オレに悪いとこがあったら教えてくれ。怒らないから」
「……ほんとに、おこらないかい? そ、ん、な、ら、いうけどね、さっき、たんひっつぁんが、にふくめの、たばこを、ぽんとはたいた、すいがらね、たばこぼんのなかィはいらないで、しだりのたもとんなかィ、すぽおっと、はいっちまやがって、……だんだんケムがつよくなってきたが、ことによったら、けしたほうが」
「ことによらなくたっていいんだよ。なんだって早く教えねえんだッ。みろ、こんなに焼けっ焦がしができちゃった」
「それみねえ、そんなにおこるからさ、だからおせえねえほうがよかった」

底本:三代目桂三木助

しりたい

ルーツは中国笑話

明末の文人、馮夢竜(1574-1645)が撰した笑話集『笑府』巻六の殊稟(=奇人)部にある「性緩」という小咄が、オチの着物が焦げる部分の原話です。

これにもさらにネタ本があるらしく、宋代の巷談集『古今事文類聚』(1246年ごろ)に載っていた実話をおもしろおかしく脚色したもののようです。

この原話では、スローモー男と普通人の会話になっていますが、内容は現行の落語にそっくりです。

これを翻案したのが、寛文7年(1667)刊の仮名草子『和漢りくつ物語』巻一の「裳の焦げたるを驚かぬこと」で、主人公はそのままもろこし(=中国)の「生れ付きゆたかにして、物事に騒がぬ人」となっています。

安永9(1780)年刊『初登』中の「焼抜」が同話のコピーです。

これには「物事については、よく見届けないうちは発言しないものだ」というもったいぶった「教訓」が付いています。

『笑府』をネタ本に、無数の江戸小咄が作られていますが、その多くはバレ噺です。

現行の落語では「三軒長屋」「松山鏡」「まんじゅうこわい」が『笑府』由来です。

噺のバーター取引?

この噺、もともと小咄かマクラ噺扱いだったらしく、古い口演記録や速記が見つかりません。したがって、いつ誰が一席の噺としてまとめたのかはっきりしないのですが、戦後は、三代目桂三木助、次いで五代目柳家小さんの十八番でした。

三木助は短気な方、小さんは気長な方に、それぞれ芸風が出ていました。実は、三木助が「長短」を教える代わりに、弟分の小さんから「大工調べ」を移してもらったというエピソードが残っています。ご存じのように、二人は義兄弟の仲でした。

三木助のマクラ

「……戦争に負けてッからこっち、なんだか知らないけど、どんどん、どんどん、日がたッちゃいますな。われわれこのゥ日本人てェものが、みんなこうせッかちンなりましてな、(大きな声で)こんちや、ッてぇと、(さらにまた大きな声で)さいならッてぇん。なんにも用なんかいわないで帰ッちゃうンですからな、やっぱし、あれ、気が短いッてンでしょうなァ……」(安藤鶴夫『三木助歳時記』より)

先の大戦後間もない昭和24年(1949)春、再建されたばかりの人形町末広で、橘ノ円時代の三木助が勉強会に「長短」を演じる場面。

「食い物は、何が好きだい?」
「おさしみ」
「うーん、お酒によくっておマンマにいいんだからね。で、ワサビをきかして?」
「いんや、オレはジャムをつけて食ってみてえ」

同じく、後年の「長短」のマクラ。いささかゲテながら、人の好き好き→性格の違いから、本題に入っています。

ことばよみいみ
笑府しょうふ明末の笑い話集。馮夢竜編
馮夢竜
ふうぼうりょう1574?-1645、明末の小説家。『喩世明言』『警世通言』『醒世恒言』『古今小説』『笑府』など
腰から下にまとった衣服の総称
橘ノ円 たちばなのまどかここでは、三代目桂三木助の前名

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ももかわ【百川】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

舞台は日本橋の料亭を舞台。
客と店の者とのちぐはぐなおなはし。
実話なんだそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困った旦那は、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、今年はそれをどうするかで、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うっひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから、一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「四神剣の掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですから、どうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんども、はァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、初五郎は慈姑くわいのきんとんを差し出して、
「ここんところは一つ、慈姑(=具合)をぐっとのみ込んで(=見逃して)いただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて、下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいやながらも二階に上がる。

「うっひぇッ」

その奇声に二階の連中は驚いたが、百兵衛が椋鳥むくどりでただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と、見下すように言いつける。

「名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろ」と言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに「かの字のつく名高い人」とそこらへんの職人に尋ねれば「鴨池かもじ先生のことだろう」と医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生の弟子は「袈裟けさがけに斬られた」と誤解。

弟子はすぐさま、先生に伝える。

「あの連中は気が荒いからな。自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と使いの者に伝えるよう、弟子に言いつける。

百兵衛、にこにこ顔で戻ってきた。

百兵衛の伝言を聞いた若い衆、
「歌女文字の師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。

「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「抜け作とは。どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実際にあった本膳料理の店、百川が宣伝のため、実際に店で起こったちょっとした事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。

いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、「百川」だけでしょう。

落語というものが、というか、江戸文化というものが、かなり自由闊達であったことが、なんとなくうかがえますね。

創業は安永期か  【RIZAP COOK】

「百川」は代々、日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。

もとは卓袱しっぽく(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。

創業時期の詳細はわかりません。ネットでは天明3年(1783)との説も出ていますが、上述のように、安永期には繁盛していたようですから、よくわかりません。

明治32年(1899)1月3日号「文藝倶楽部」掲載の「百川」は、二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-98)の速記でした。

ここには、芳町よしちょう(=葭町)にあった料亭「百尺」の分店だったとされています。

天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。

この店の最後の華は、安政元年(1854)にペリーの一行が日米和親条約を締結が再来航した際、百川一店のみ饗応を受け負ったことでした。

幕命で、予算は千両だったそうです。こりゃ、すごい。

この人、何者?

藤堂藩の伊賀者(無足人ではない!)です。在郷で忍者職をこなしながらの、れっきとした武士でした。

「伊賀者」とは忍者職の武士なんだそうです。澤村家では当主が代々「甚三郎」を名乗ります。忍者です。

この人、べつに黒装束で船に潜入したわけではありません。

侍のいでたちで、ふつうに、なにくわぬ顔で、目立たないかんじで、宴会メンバーに加わっていたのでした。

甚三郎の任務遂行は、どれほどのものだったのか。

はっきり言って、たいしたことはない。

あちらの将校とくだらない話(もちろん通訳を介して)をして、米ドル紙幣を一枚もらってきた程度のものでした。

幕末の政局にいかなる利をもたらしたのかは、推して知るべしです。

ただ、言えることは、澤村も百川の献立に舌鼓を打ったであろうこと。これはすごい。むしろ、こっちのほうが価値ある「任務遂行」だったかもしれません。

そのときの百川の名菜献立が残っているそうです。なかでも、柿にみりんをあしらったデザートは、米将校らを喜ばせたとか。柿にみりん。悪くない新味かも。

そんな百川も明治元年(1868)には廃業しています。時勢のあおりでしょうか。

忍者も明治になると、軍隊や警察に入って得意技を駆使する人もいましたが、多くは市井の闇に消え落ちました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町むろまち2丁目の東側を入った横丁。

明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

現在のコレド室町、ビルに囲まれて立つ福徳神社あたりに、百川があったそうです。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗しじんきです。

四神は四方の神の意味で、青竜せいりゅう(東)、白虎びゃっこ(西)、朱雀すざく(南、朱=深い赤)、玄武げんぶ(北、玄=黒、武=亀と蛇の歩み)の図が描かれ、旗竿にほこがついていたため、この名があります。

神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

神田大明神御祭図。国輝。安政4年(1857)。大判錦絵3枚続。。祭りの壮大な雰囲気が伝わります。国立音楽大学附属図書館(竹内文庫)所蔵

椋鳥  【RIZAP COOK】

むくどり。椋鳥とは、秋から春にかけて江戸に出稼ぎに来た奉公人のことをいいます。

噺の中で若い衆は百兵衛を「椋鳥むくどり」と呼んでいます。

たんに田舎者をののしるだけのことばではなく、地方から江戸に上がってきてそのまま居ついてしまった人たちをもさしました。

多くは人足などの力仕事に従事していました。渡り鳥の椋鳥のように集団で往復することから、江戸者はそのように呼びました。

さげすんだりののしったりする意味合いの強いことばではありません。

慈姑  【RIZAP COOK】

くわい。オモダカ科の多年草。小芋に似た地下の球根を食用とします。

渋を抜き、煮て食べます。原産が中国で、日本では奈良時代には食べられていたそうです。苦みが残って、あまり美味な食材でもなさそうですが。

その頃は、精力食品ながらも食べ過ぎると腎水を減らすと考えられていたようです。

ところが江戸期に入ると、精力増強の側面は忘れ去られて、食べると水分を減らすということだけが強調されるようになりました。

江戸期を通して、慈姑は水分を取るもの、が通り相場でした。水がよく出る田んばに慈姑を植えると水を吸い取ってくれる、という笑い話さえ残るほど。

成分にカリウムが多いので利尿作用があるため、水を取ると思われていたのでしょう。天明の飢饉ききんでは救荒作物きゅうこうさくもつとして評価されたせいか、おせち料理に使われたりするのも人々にありがたい食物だから、ということからなのでしょう。

ちなみに、欧米では観賞専用で、食用にするのは東アジア圏だけだそうです。

慈姑のきんとん  【RIZAP COOK】

くわいのきんとん。この噺では「慈姑」そのものではなく「慈姑のきんとん」として登場しています。

慈姑のきんとんは、慈姑をすりつぶして使うのですが、この噺では慈姑が丸ごときんとんの中に入っているふうに描かれています。

一般に、慈姑のきんとんの意味するものは、見かけは栗きんとんに似ているのになかなかのどに通らないということ。

そこで、 理解や納得のしにくい事柄のたとえで使います。久保田万太郎(1889-1963、赤貝のひもで窒息死)は、小説「樹蔭」に「命令とあれば、無理にものみこまなければならない慈姑のきんとんで」と書き残しています。

久保田万太郎は「百川」を踏まえて使っていますね。

さらに、万太郎は小説「春泥」で、「だってあのこのごろ来た女中。―まるッきし分らないんだ、話が。―よッぽど慈姑のきんとんに出来上っているんだ。」とも。

この表現を推しはかると、 そっけない、人当たりの悪い人間の意味で使っているようです。

山家やまがもん(=地方出身者)の百兵衛の影がちらつきます。久保田はよほどの「百川」好みだったのがわかりますね。

そこで結論。

慈姑のきんとん=百兵衛。

慈姑のきんとんは百兵衛の表象である、ということなのだと思います。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留ほりどめ二丁目の大通り東側にある路地です。

入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道じんみちと呼びました。

鹿野武左衛門(安次郎、1649-99.9.6)や古山師重(古山太郎兵衛、17世紀後半)などが住んでいたことでも知られています。

鹿野武左衛門は江戸落語の元祖、古山師重は浮世絵師。菱川師宣の弟子が、いっときは菱川師重を名乗っていた時期もありました。

近くには芝居小屋もあって、芸事にからんだ人々が多く住んでいた、にぎやかで艶っぽい町。それが長谷川町の特色でした。元吉原の近所でもありますし。

人形町末広の跡地には、現在、読売IS(読売新聞社の系列社でチラシ制作など)の社屋が建っています。

この隣には「うぶけや」(天明3年=1783年開業)も。刃物製造販売の老舗です。

店の中に掛かる「うぶけや」の扁額。これがすごい。日下部鳴鶴(日下部東作、1838-1922)の門下による寄せ書きです。日下部鳴鶴は近代の書家です。揮毫したのは、「う」=伊原雲涯(1868-1928)、「ぶ」=丹羽海鶴(丹羽正長、1864-1931)、「け」=岩田鶴皐(岩田要輔、1866-1938)、「や」=近藤雪竹(近藤富寿、1863-1928)。さらに。店の外に掲げられた「うぶけや」の看板。これは丹羽海鶴の揮毫なんだそうです。なんだか、すごいです。

通りの向かいから眺めるこの一角だけの渋い光景は、一瞬、江戸の当時にに導いてくれます。

玄冶店  【RIZAP COOK】

げんやだな。うぶけやは玄冶店げんやだなといわれるところにあります。

近くには、花街の頃から残っている料亭の濱田家はまだやがありますが、こちらも「玄冶店 濱田家」と称しています。

ミシュランガイドや防衛庁の密談(守屋次官と山田商会の)で、一般にも知られるようになりましたね。

玄冶店は、三代将軍家光の御典医だった岡本玄冶おかもとげんやの敷地でした。家光の疱瘡ほうそうを治したことから、そのご褒美にと土地を拝領。

玄冶は借家を建てて人々に貸したので、ここら一帯は玄冶店と呼ばれるようになりました。町名は新和泉町しんいずみちょう。玄冶店は俗称です。

歌舞伎『与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし』の、与三郎がお富をゆする場は玄冶店の妾宅。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)はこの地に住んでいたことから「玄冶店の師匠」とも呼ばれました。

天保期には歌川国芳うかがわくによし(井草孫三郎、1798-1861)が玄冶店に住んでいました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839.4.1-1900.8.11)は少年時に国芳門となって絵師をめざしました。

国芳が日蓮宗の篤信家で絵も描かず連日連夜の題目三昧に気味悪がって、湯島大根畑の実家に戻ってしまいました。

ここらへんは、居職の人々が多く住んでいたようです。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。今輔のでは百兵衛ではなく、杢太左衛門という名前でした。

古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)は、義父の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)から継承していました。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も時折、演じました。

志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」という独自のもの。

これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまりおもしろくはありません。

八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)のやる百兵衛は「木下百兵衛」という姓が付いていました。江戸者と山出し(地方出身者)の差異や聞き違いを強調していました。

昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったものでした。円生の型が標準になってしまいました。

円生没後は、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)らが次代に伝えていました。小三治も円生の型でした。

十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)は「鴨池道哲先生」と言っていました。始まりが二階の若い衆の場面からで、円生の型とはちょっと違っていました。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のは円生の型でした。絶品でした。

六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)も伝えていました。

三遊亭歌司は、円生から小三治に伝わったものをさらった旨を前ぶりに語っています。混乱ぶりがにじみ出ていて、独自の味があります。

小三治も円生の「百川」を踏襲しています。志ん朝のと同じ型です。円生や志ん朝の「百川」と際立った違いはありません。

ただ、慈姑のきんとんを食べて目を白黒させるようなところは、さすがは五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)の弟子だけあって、みごとなしぐさでした。円生や志ん朝を超えていました。

江戸者の視線から田舎者を笑うというやり方も薄まっていて、粗忽者ばかりが早とちりを繰り返しています。

いまどき、江戸者が田舎者を笑う構図は受け入れられないでしょうから、そこらへんは工夫が必要となるのでしょう。

カモジ先生  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。

実在も実在、本名が清水左近源元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳かもいけげんりん

鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。

実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍家斉の御典医を務めたほどの漢方外料(=外科)の名医。

瘍科撮要ようかさつよう』全三巻を口述し、日本医学史に名を残しています。

本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したそうです。

まさに「赤ひげ」そのものでした。

ついでに、八丁堀について

八丁堀は、町奉行付きの与力や同心の居住区でした。

与力は幕府からの拝領地に屋敷を構えていたのですが、その土地はとても広くて半分は使えないままとなります。

そこで与力の副業として、医家、儒学者、歌人、国学者などといった身元判明の諸家に土地を貸していました。

中村静夫「新作八丁堀組屋敷」には、幕末期、原鶴右衛門はらつるえもんの組屋敷に太田元礼(医)、藤島勾当、河辺東山(医)、鴨池元琳(医)が借地していたことが記されています。

他の組屋敷でも医家の借地が多く見られます。

与力が医家に多く貸すのは、御用絡みでけが人が出た場合に急場の施療を頼める心強さも下心にはあったのでしょう。

「袈裟がけに斬られた」事件は、鴨池先生には驚くほどのものではなかったのでしょう。

元吉原の地霊  【RIZAP COOK】

この噺を聴いた明治期東京の人々は「長谷川町三光新道の鴨池元琳先生」ときたら、すぐに岡本玄冶を思い起こしたことでしょう。

鴨池先生が八丁堀にいたことはわかっていますが、三光新道で開業していたかどうかは不明。ここは噺家の脚色かもしれません。

脚色でいいのです。

知られた御典医、岡本玄冶を連想させる噺家のたくらみだったのですから。

長谷川町の隣は元吉原の一帯です。

現在の日本橋人形町界隈。明暦3年(1657)8月には遊郭が浅草裏に移転したため、跡地には地霊がとり憑いたまま私娼窟と化しました。

土地はそんなにたやすく変容しないもの。

見えずとも、地の霊は残るのです。

近所には堺町さかいちょう葺屋町ふきやちょう

こちらは芝居町で、歌舞伎の中村座と市村座、浄瑠璃座や人形操座なんかもあります。

上方から移ってきた芸能系の人々によって町が形成されていった地区です。

その頃の歌舞伎役者は男娼も兼ねていましたから、元吉原変じての葭町には陰間茶屋かげまぢゃやができていきました。

1764年(明和元年)には12軒も。

ところが、1841年(天保12年)10月7日暁七つ半(午前5時)、堺町の水茶屋から起こった火事で、ここら一帯が丸焼けに。

芝居小屋はすべて浅草猿若町に移転させられました。

天保の改革の無粋で厳格な規制によって陰間茶屋は消え、葭町は芳町に変じて艶っぽくてほの明るい花街に模様替えされきました。

深川や霊巌島れいがんじまの花街から移ってきた芸妓たちによって新興の花街が生まれたのです。

明治、大正期には怪しげな私娼窟もありましたが、蠣殻町かきがらちょうが米相場の町に、兜町かぶとちょうが株式の町に変容し、成金が芸妓と安直に遊ぶ町に形成されていきました。

東京でいちばん粋な街です。今もこのあたりの路地裏を歩くと、どこか艶めいた空気を感じるのは、いまだ地霊がひっそりと息遣いしているせいかもしれません。

「百川」は取るに足りないのんきな噺に聴こえます。

じつは、日本橋一帯の表の顔と裏の顔が見え隠れする、きわめてあやしげな上級コースの噺に仕上がっているのだと思います。一度くらいじゃわかりません。

何度も何度もいろんな噺家の「百川」を聴いていくと、見えてくるものがあります。味わい深く楽しめます。

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成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

のめる【のめる】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

軽い「くせ噺」。
小気味よくておもしろい。
時折演じられるので聴ける好機多々。

別題:二人癖(上方)

【あらすじ】

無尽に当たっても
「つまらねえ」
と言うので、
「当たってこぼすことはねえ」
ととがめると
「当たらねえやつはつまらねえ」
という。

お互いに悪い癖だから、一言でも口癖を言ったら、一回百円の罰金を取ろうと取り決めたが、なんとか「つまらねえ」を言わせて金をせしめようと、隠居に相談に来る。

その間にも
「百円ありゃア、一杯のめる」
と、もうやっている始末。

隠居、それなら印半纏に着替えて向こうの家に行き、手にちょっと糠をつけて
「練馬に叔母さんがいて、大根をいま百本もらった。沢庵に漬けようと思うんだが、あいにく四斗樽がないから、物置きを探すと醤油樽が出てきた。その中へ百本の大根を漬けようと思うが、つまるかねえ」
と持ちかけてみな、と策を授ける。

そうすると向こうが
「百本の大根といやあ、かなり嵩がある。それはどうしてもつまらない」
と、ここで引っかかるだろうと言うので、これはいいと、さっそく出かけていく。

その場になるとセリフを忘れてしまい、しどろもどろでようやく
「醤油樽へつまろうか」
までこぎつけた。

相手は
「そりゃあとてもつま」
まで言いかけてニヤリと笑い
「へえりきらねえ」

「つまろうか?」
「残るよ」
「つまろうか?」
「たががはじける」
「足で押し込んで」
「底が抜けるよ」

どうしてもダメ。

これから外出するというので、
「どこへ」
と聞くと、
「伊勢屋の婚礼だ」
という。

「婚礼? うまくやってやがる。のめるな」

逆にワナに落ち、百円せしめられる。

婚礼は真っ赤なうそ。

再び隠居に泣きつくと、
「今度は相手の遊びに来る時間を見計らい、将棋盤を前に、詰め将棋を考えている振りをしろ」
と言う。

持ち駒は歩が三枚に金、銀。

どうせ詰まないから、口を出してきた時を見計らって
「つまろうか?」
と聞くと、相手も夢中になっているだろうから、きっと引っかかるという作戦。

将棋などやったこともないから、盤と駒を借りてしきりにウンウンうなっていると、「つまらない」がやってきた。

間のいいことに、これが無類の将棋好き。

「待ちな待ちな。あたまへ金を打って、下がって……駒は? それっきり? 誰に教わった? 床屋の親方? からかわれたんだ。これじゃ、どうしてもつまらねえ」

これを言わせるために艱難辛苦したのだから、興奮して胸ぐらをつかむ。

「いてて、ばか、よせ。うーん、こりゃ一杯食った。てめえの知恵にしちゃできすぎだ。よし、決めを倍にして二百円やろう」
「ありがてえ、一杯のめる」
「おっと、それでさっ引きだ」

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【しりたい】

原話は「癖はなおらぬ」  【RIZAP COOK】

原話は古く、元禄14年(1701)、京都で刊行された『百登瓢箪』巻二「癖はなおらぬ」です。

これは、鼻を横なでする癖のある者と頭をたたく癖のある者が申し合わせて癖をやめることにしますが、つい話に熱中するうちに二人ともまたやらかすという、たわいない話です。

登場人物が二人という以外は、現行とは内容が違うので、遠い原型というくらいでしょうか。

くせの噺は、昔から小咄、マクラ噺としては多数あり、くせの種類も、口ぐせから動作までさまざまです。特に、動作では、八代目雷門助六が「しらみ茶屋」で見せた畳のケバむしり、鼻くそとばしの応酬が抱腹絶倒でした。ビジュアルな名人芸の見せ所なのでしょう。

なくて七癖、噺もいろいろ  【RIZAP COOK】

登場する人数も、一人(一人癖)、二人(二人癖)、三人(三人癖)と増えるにつれ、演じ分けも難しくなっていきます。あまり出ませんが、「四人癖」では、鼻こすり、眼こすり、そで引っ張り、「こいつはいい」(手をたたく)の四人が登場、四人が失敗して、勝った「こいつはいい」が最後に罰金で一杯やれるというので「なるほどこいつはいい」でオチになります。

「のめる」は、くせ噺としてはもっとも洗練されたもので、上方の演題はそのものずばり「二人癖」です。いずれにせよ、ルーツは民話、昔話にあるのでしょう。

名人連の二つ目噺  【RIZAP COOK】

東京では、大阪通りの「二人癖」で演じた、明治29年(1896)3月の三代目柳家小さんの速記があり、同時代の四代目橘家円喬も得意でした。円喬は三遊派の旗頭でした。

円喬のは、SPレコードからの復刻音源が残されています。オチは、円喬だけは変わっています。

「一本歯の下駄を頼みに行くんだ」
「一本歯の下駄なら(前に)のめるだろう」
「今ので差っ引きだ」

現在はこれを使う演者はいないでしょう。

六代目三遊亭円生が「軽い噺で、二つ目程度がやる噺」と述べていますが、なかなかどうして、昭和初期から戦後ではその円生のほか、八代目春風亭柳枝、三代目三遊亭金馬ら多くの大看板が手がけていて、現在もよく高座に掛けられます。

三代目金馬は「のめる」でなく「うめえ」を口癖にしていたので、当然演題は「二人癖」でした。

たくあん事始   【RIZAP COOK】

京都大徳寺の住職時代の沢庵宗彭(たくあんそうほう)が寛永16年(1639)に発明したとされますが、疑問があります。「じゃくあん」「たくわえづけ」からの転訛で、単に沢庵の名と結び付けられただけというのが、真説のようです。

その他、沢庵の創建した品川東海寺では、三代将軍家光の命名伝説もありますが、珍説は、沢庵の墓石がタクアン石に似ていたから、というもの。

東海寺では、タクアンの名をはばかって「百本」というそうですが、他の宗派(東海寺は臨済宗大徳寺派)や寺院でも、名僧への非礼を避け「香の物」などと呼ぶことが多いようです。

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はんぶんあか【半分垢】落語演目

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【どんな?】

お相撲さんが出てくる噺。
小ばなしが元になった軽い笑いです。

別題:垢相撲 付け焼刃 富士の雪

あらすじ】 

巡業から久しぶりに帰ってきた関取。

疲れからぐっすり眠っているところへひいきの客が訪ねてくる。

かみさんに、寝ているなら起こさないでいいと言い、相撲取りは巡業に出ると太るというから、さぞ大きくなったろう、と尋ねる。

おかみさん、ここぞとばかり。

戸口から入れないので格子を外さなければならなかったとホラを吹く。

それを奥で聞いていた関取。

客が帰った後、おかみさんに
「三島の宿しゅくで茶屋から富士を見て、大きなものだと感心していたら、そこの婆さんが『大きく見えても、あれは半分雪です』と、普通なら日本一の山をお国自慢するところを、逆に謙虚に言った。その奥ゆかしさに、かえって富士が大きく見えた」 と語り、人間は謙虚であれば、他人は実際より自分を大きく見てくれるのだから自慢はするな、と説教した。

そこへまた別のひいきの客が来た。

おかみさん、今度は
「関取は細くなって、格子こうし隙間すきまから入れるぐらいです」

関取がびっくりして顔を出すと、客は
「とてもそうは見えない。大きくなった」
「いえ、これで半分は垢です」

出典:五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)

【しりたい】 

二つの小ばなしから

富士山を謙遜するくだりが、寛政元年(1789)刊の笑話本『室の梅』中の「駿河客」、「半分は垢です」のオチの部分が元禄14年(1701)刊『百成瓢箪ひゃくなりびょうたん』中の「肥満男」と、以上二つの小ばなしから構成されています。

相撲取りが登場する噺

このほかにもいくつかの噺があります。

たった3尺2寸(97cm)の鍬潟くわがたが6尺5寸・45貫(197cm、170kg)の雷電為右衛門らいでんためえもんを転がす「鍬潟」、第六代横綱の出世譚しゅっせたん阿武松おうのまつ」、大関にそっくりなばっかりに……の「花筏はないかだ」、バレ噺の「大男の毛」など。

見て楽しむ

この噺にでもわかりますが、昔の相撲は、体の大きいことをことさら気にし、大きいと言われることを極端にいやがる傾向があったようです。

一般人との体格差があまりにも激しかったからです。

190cmを超える若者や100kgを超える少年は、相撲が弱くても見世物扱いで土俵入りをさせられたり、ただでさえ好奇の目で見られることが多かったからでしょう。

この噺をよく演じた五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の速記でも、「二階の屋根の上に関取の顔があった」、「十枚も布団をたして掛けた」、「顔は四斗樽よんとだる、目はタドン」「道中で牛を二、三頭踏み殺した」と、言いたい放題です。

二階の屋根から顔

身長で歴代第3位(227cm)の記録を持ち、巨人の代名詞としてしばしば引き合いに出される大関、釈迦ヶ嶽雲右衛門しゃかがたけくもえもん(1749-75)の逸話です。

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おうのまつ【阿武松】落語演目

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【どんな?】

大食いで武隈関から追い出された男。
板橋宿でたらふく食って死のうとする。
旅籠の主人に救われて錣山部屋へ。
錣山では大食いがすすめられた。
男はたちまち大出世。
とうとう長州公のお抱え力士に。

これぞ第六代横綱、阿武松の出世譚。

別題:出世力士

あらすじ

京橋観世新道かんぜじんみちに住む武隈文右衛門たけくまぶんえもんという幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至ふげし鵜川うかわ村字七海しつみの在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車おぐるまという四股名しこなを与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから、追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ、相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分金をやって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分金で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾宿の橘家善兵衛という旅籠はたごに泊まり、一期いちごの思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみると、これこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山しころやま喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている。相撲取りが飯を食わないではどうにもならない。一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑という四股名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助おうのまつみどりのすけと出世を遂げるという一席。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

阿武松緑之助  【RIZAP COOK】

おうのまつみどりのすけ。寛政3年(1791)-嘉永4年(1851)。第六代横綱。長州藩抱え。実際は武隈部屋。文政5年(1822)10月入幕、同9年(1826)10月大関、同11年(1828)2月横綱免許。天保6年(1835)10月、満44歳で引退。

四股名の由来は、お抱え先の長州・萩の名所「阿武あぶの松原」から。 

板橋宿  【RIZAP COOK】

地名の由来は、石神井川に架かる板橋から。日本橋から二里八丁(11.2km)。

中仙道の親宿(起点)で、四宿(非公認の遊郭。品川、新宿、千住、板橋)の一つ。上宿、中宿、平尾宿(下宿)に分かれていました。宿泊専用の平旅籠以外に、飯盛り女(宿場女郎)を置く飯盛り旅籠があり、そっちの方でもにぎわいました。

縁切り榎で有名です。十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮に目障りとされ、薦巻きにされたといいます。のちの新選組を組織する近藤勇や土方歳三らも中山道を京に向かいました。

戸田川は荒川のこと。隅田川の上流で、板橋宿の外れ、志村の在には戸田の渡し場がありました。

観世新道  【RIZAP COOK】

かんぜじんみち。中央区銀座一丁目。

講談から脚色  【RIZAP COOK】

講釈をもとにできた噺。講談(講釈)には、「谷風情け相撲」など、相撲取りの出世譚は多いのですが、落語化されたものは珍しいです。

大阪の五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946、赤馬生、おもちゃ屋の)から教わった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、得意にしていた人情噺。弟子の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が継承しました。

「阿武松じゃあるめえし」  【RIZAP COOK】

文政13年(1830)3月、横綱阿武松は、江戸城での将軍家上覧相撲結びの一番でライバルの稲妻雷五郎(1795-1877、第七代横綱)と顔を合わせ、勝ちはしたものの、マッタしたというのが江戸っ子の顰蹙ひんしゅくを買い、それ以後、人気はガタ落ちに。

借金を待ってくれというのを「阿武松じゃあるめえし」というのが流行語になったとか。平戸藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にある逸話です。

実録の阿武松は、柳橋のこんにゃく屋に奉公しているところをスカウトされたということです。

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あなごでからぬけ【穴子でからぬけ】落語演目

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【どんな?】

与太郎にからかわれる短い噺です。
円生の逃げ噺としても使われました。

【あらすじ】

与太郎が、源さんとなぞなぞの賭けをする。

まず十円賭けて
「まっ黒で大きくて、角があって足が四本あって、モーッと鳴くもの、なんだ」
「てめえが考えつくのはせいぜいその程度だ。牛に決まってら」

これでまず、十円負け。

今度は、よせばいいのに二十円に値上げして
「じゃ、もっと難しいの。やっぱり黒くて嘴があって空飛んで、カアーッって鳴くもの」
「どこが難しい。カラスだろ」

次は犬を出して簡単に当てられる。

いくら取られても懲りない与太郎、こともあろうに今度は五百円で、
「絶対に当たらない」
という問題。

「長いのがあれば短いのもある。太いのも細いのもあって、つかむとヌルヌルするもの、なあーんだ」
「この野郎、オレがヘビだと言やあウナギ、ウナギと言やあヘビと言うつもりだな。ずるいぞ」
「じゃ、両方言ってもいいや」
「ヘビにウナギだ」
「へへっ、残念。穴子でからぬけ」

与太郎、次にまた同じ問題を出すので、源さん
「ヘビにウナギに穴子だな」
ってえと与太郎、
「へへっ、今度はずいきの腐ったのだ」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

なぞかけ勝負

最後の「長いのもあれば……」のくだりの原話は明和9年(1772)刊の小咄本『楽牽頭』中の「なぞ」で、ここでは、最初にまともに「うなぎ」と言い当てられ、続けて同じ問題で、今度は「蛇」と答えたのを「おっと、うなぎのつら(面)でござい」と落としています。

前の二問も、おそらくそれぞれネタ本があったか、代々の落語家がいろいろに考えたものが、いつしかこの形に固定したのでしょう。

原話では、このなぞなぞ遊びは「四割八分」の賭けになっています。

これは、勝つと掛け金が5倍につくという、ハイレートのバクチで、最初は一両のビットですから、「うなぎ」と答えた方は五両のもうけですが、これが恐ろしい罠。

イカサマ同然の第二問にまんまとひっかかり、今度は何と二十五両の負けになったしまったわけです。こうなると遊びどころではなく、血の雨が降ったかもしれません。

からぬけ

完全に言い逃れた、または出し抜いたの意味です。

題名は、穴子はぬるぬるしていて、つかむとするりと逃げることから、それと掛けたものでしょう。

ずいき

サトイモの茎で、「随喜」と当て字します。

特に「肥後ずいき」として、江戸時代には淫具として有名でした。

艶笑落語や小咄には、たびたび登場します。

オチの通り、帯状の細長いもので、これを何回りも男のエテモノに巻きつけて用いたものですが、効果のほどは疑問です。

隠れた「円生十八番」

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)が、いわゆる「逃げ噺」として客がセコなとき(客種が悪く、気が乗らない高座)で演じた噺の一つです。

円生のこの種の噺では、ほかに「四宿の屁」「おかふい」などが有名でした。普通は前座噺、またはマクラ噺で、円生は普通「穴子でからぬけだ」で切っていました。

「からぬけ」からの噺家

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、その『芸談聞書き』(安藤鶴夫・述)で、昔は楽屋内で「『穴子でからぬけ』からやった」というと、天狗連から化けたのではなく、前座からちゃんとした修行を積んだという証しで、大変な権威になっていた、と語っていました。

明治大正では、入門して一番最初に教わるのが、この噺であることが多かったのでしょう。相撲で言う「序の口(前相撲)から取った」と同じことですね。

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せいしょうこうさかや【清正公酒屋】落語演目



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【どんな?】

宗旨違いの家の男女の色恋。
落語版「ロミオとジュリエット」。
だからやっぱり陽気なんです。

別題:縁結び浮き名の恋風

あらすじ

酒屋の肥後屋の若だんなで一人息子の清七と、向かいの菓子屋・虎屋の娘お仲は恋仲だが、両家は昔から仲が悪く、二人は許されない恋。

それというのも、もともと宗旨が一向宗と日蓮宗、商売が酒と饅頭で、上戸と下戸。

すべての利害が対立している上、肥後屋は清正公崇拝で、その加藤清正は毒饅頭で暗殺されたという俗説があるから、なおさらのこと。

もう一つ、虎屋だけに、虎退治の清正とは仇同士。

というわけで、とんだロミオとジュリエットだが、この若だんな、おやじの清兵衛に、お仲を思い切らないと勘当だと、脅かされてもいっこうに動じない。

勘当はおやじの口癖で聞き飽きているし、こっちは跡取りで、代わりがいないというバーゲニングパワーもある。

思い切れませんから勘当結構、さっそく取りかかりましょうと開き直られると、案の定おやじの旗色が悪い。

結局、お決まりで番頭が中に入り、清七の処分は保留、「未決」のまま、お仲から隔離するため、親類預けということになった。

そうなると虎屋の方も放ってはおけず、お仲も同じく親類預け。

二人は哀れ、離れ離れで幽閉の身に。

ところが抜け道はあるもので、饅頭屋のお手伝いと、酒屋の小僧の長松が、こっそり二人の手紙を取り次ぐ手はずができた。

ある日、お仲から、夜中にそっと忍んで来てくれという手紙。

若だんなは勇気百倍、脱走して深夜、お仲を連れ出す。

結局駆け落ちしかないというので、二人は手に手を取って夜霧に消えていく。

しかし、しょせん添われぬ二人の仲。

心中しようと決まり、ここで梅川忠兵衛よろしく、
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
とくればはまるのだが、あいにく男の宗旨は法華(日蓮宗)。

「覚悟はよいか」
「南無妙法蓮華経」
……いやに陽気な心中となった。

ナムミョウホウレンゲッキョウナムミョウホウレンゲッキョと蛙の交配期のようにデュエットし、にぎやかに水中へドボン……その時突如、ドロドロと怪しの煙。

ここで芝居がかりになり、
「やあ待て両人、早まるな」
「こは、いずこの御方なるか」
「おお、我こそはそちが日ごろ信心なす、清正公大神祗なるぞ」
「ちぇー、かたじけない。この上は改宗なしたる女房お仲の命を助けてくださりませ」
「イヤ、たとい改宗なしたりとも、お仲の命は助けられぬわ」
「そりゃまた、なぜに」
と聞くと清正、ニヤっと笑って
「なあに、オレの敵の饅頭屋だから」

底本:六代目桂文治

しりたい

宗派対立  【RIZAP COOK】

江戸時代の基本的な知識として、法華系(日蓮宗など)と念仏系(浄土宗、浄土真宗、時宗など)との宗派同士の対立がつねにあった、ということです。

江戸の町内でもことあるごとに諍いが絶えませんでした。

これは、念仏系では穢土と浄土との二元的な救われ方に比べて、法華では法華経以外では絶対救われないという一元的な見方が原因です。

お互い、相容れられない考え方なのです。

清正公さま  【RIZAP COOK】

せいしょうこうさま。縮めて「セイショコさま」とも呼んでます。戦国時代の英傑・加藤清正の霊を神として祀ったものです。

武運・金運をつかさどりますが、清正が法華宗の信徒だったところから法華(日蓮宗)信者の信仰を集めました。

江戸はほかの地方に比べて法華の宗旨が多く、「法華長屋」「甲府い」「鰍沢」「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」など、落語にも法華の登場する噺はたくさんあります。

江戸の清正公(清正公神祇、清正公大神祇)は2か所あります。

一つは浜町の清正公で、現在の中央区日本橋・浜町公園内。寺の名前は「清正公寺」といいます。意外に新しく、文久元年(1861)の創建です。

この地には熊本藩細川家の下屋敷がありました。藩主細川斎護が熊本の本妙寺に安置する「加藤清正公」を勧請(神仏霊のおすそわけ)して分霊とし、下屋敷内に清正公として祀りました。

明治になってからは「加藤神社」と称した時期もありましたが、明治18年(1885)に「清正公堂」と改められて、管理を本妙寺に委託しました

。関東大震災で焼失し、震災後につくられた浜町公園内に移されました。戦災でもまたも焼失して、戦後、新たに再建されました。

この噺に登場するのはこちらです。「浜町の清正公さま」のほうです。おまちがいのなきよう。

もう一つは港区白金の覚林寺境内に祀られる「白金の清正公」で、こちらが本家とされます。

清正の画像、ゆかりの品を所蔵していますが、こちらも細川家の白金の中屋敷がすぐ近くで、同家は清正の加藤家が国替え(のちお取りつぶし)後、後釜に肥後熊本に封じられたため、清正の霊を慰める意味もあり、清正公神祇を手厚く庇護したといいます。

中世に形成された神仏習合の流れに、「法華神道」といわれる信仰がありました。

日蓮宗の教えと神道が結びついた信仰形態です。崇める対象に日本の神さまや人物が入ってきますが、その中に清正公神祇がありました。

寺院の境内の中に祠をこさえ、柏手を打って祈るのです。江戸時代の平和な時間の中で「清正公さま」はこのような形に収まっていきました。

慶応4年(1868)3月、明治政府は神道国教化の一環として、神仏判然令を出し、神仏分離を急速に推し進めました。

それまでの日本国内にはたしかに、神仏が融合したよくわからない神社仏閣がたくさんあったのですが、政府の方針は短兵急でした。

この流れの中で、浜町の清正公さまは神社になったり寺院になったりと、揺れ動いたのですね。

暗殺伝説に由来する噺  【RIZAP COOK】

豊臣家の支柱であった加藤清正が慶長16年(1611)、徳川家康の手により、毒饅頭(毒酒説も)で暗殺されたという俗説に基づいて作られた噺です。

オチは文字通りダジャレで、アン殺されたから饅頭が天敵、というわけ。このフレーズ、ドラマ「タイガー&ドラゴン」でも使われてました。

明治期に六代目桂文治が「縁結び浮き名の恋風」の題で得意にしました。この題名は、芝居噺が得意だった文治が、後半の道行きの部分を芝居噺仕立てにしたためです。

その後、八代目文治、四代目柳家つばめ、戦後も六代目三升家小勝が手掛けましたが、其の後は立川談志が手掛けたぐらいで、残念ながら忘れられかけた噺といっていいでしょう。

なんせこの噺、かつての「東京かわら版」発行の『寄席演芸年鑑』索引にも「せ」でなく、「き」の部で載っていたくらいですから。

お題目のデュエット  【RIZAP COOK】

心中場面のこのくすぐりは、「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」にも取り入れられています。どれが「本家」かはわかりませんが。

【語の読み】
清正公 せいしょうこう
本妙寺 ほんみょうじ
覚林寺 かくりんじ



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ひゃくねんめ【百年目】落語演目

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【どんな?】

上方の噺。
大店の堅い番頭の裏の顔。
人間こうでなくちゃおもしろくないです。

あらすじ

ある大店の一番番頭、冶兵衛。

四十三だが、まだ独り身で店に居付き。

この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っている。

茶屋遊びで午前さま(御前さまの洒落)になった二番番頭。

それをとがめた治兵衛のせりふはふるっている。

「芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか、教えてほしい」

この皮肉だ。

ある朝。

いつものように、治兵衛が小僧や手代にうるさく説教した。

「番町のお屋敷をまわってくる」

そう言って、番頭は外出した。

ところが、外で待っていたのは、幇間の一八。

今日は、こっそり入りびたっている柳橋の芸者、幇間連中を引き連れて、向島へ花見に繰り出そうという趣向。

菓子舗の二階で、とっておきの、大津絵を染めだした長襦袢、結城縮みの着物と羽織に着替え、屋形船を出す。

ところが、治兵衛は小心だ。

すれ違う舟から顔をのぞかれるとまずいので、ぴったり障子を締め切らせていたほど。

向島に着いた。

酒が入って大胆になる。

扇子を首に縛りつけて顔を隠し、長襦袢一枚に。

桜が満開の向島土手で、陽気に騒ぐ、一番番頭の治兵衛。

一方、こちらは大店のだんな。

おたいこ医者・玄伯をお供に、これまた花見にやってきている。

玄伯老が冶兵衛を認めた。

「あれはお宅の番頭さんでは」

そう言っても、だんなは平然としている。

「悪堅い番頭に、あんな派手なまねはできない」

まったく取り合わない。

そのうち、ひょんなはずみで二人は土手の上で鉢合わせ。

避けようとするだんなに、冶兵衛は芸者と勘違いしてむしゃぶりつき、はずみでばったり顔が合った。

いちばんこわい相手に現場を見られて、冶兵衛は動転。

「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」

酔いもいっぺんで醒めた冶兵衛。

逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまう。

あんな醜態をだんなに見られたからにはクビは確実だ、と頭を抱えた冶兵衛。

いっそ夜逃げしようかと、一晩悶々として、翌朝、帳場に座っても、生きた心地がない。

そこへ、だんなのお呼び。

「そら、おいでなすった」と、びくびくして母屋の敷居をまたぐ治兵衛。

意外にも、だんな、昨日のことはおくびにも出さず、天竺(インド)の栴檀の大木と天南草という雑草の話を始める。

栴檀は天南草を肥やしにして生き、天南草は栴檀の下ろす露で繁殖する。

持ちつ持たれつで、家ではあたし、店ではおまえさんが栴檀で、若い者が天南草。

天南草が枯れれば栴檀のおまえも枯れ、あたしも同じだから、厳しいのはいいが、もう少しゆとりを持ってやりなさいと、やんわりさとす。

「ところで、昨日はおもしろそうだったな」

いよいよきた。冶兵衛、取引先のお供でなどとしどろもどろの言いわけを。

だんなは少しも怒らない。

「金を使うときは、商いの切っ先が鈍るから、決して先方に使い負けてくれるな」

だんなはきっぱり。

「実は、帳簿に穴が空いているのではと気になり、密かに調べたが、これぽっちも間違いはなかった」

だんなは冶兵衛を褒めた。

「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ。約束通り来年はおまえさんに店を持ってもらう」

そう言ってくれたので、冶兵衛は感激して泣き出す。

「それにしても、昨日『お久しぶりでございます』と言ったが、一つ家にいながらごぶさたてえのも……。なぜあんなことを言ったんだい」

だんなは不思議そう。

「へえ、堅いと思われていましたのをあんなざまでお目にかかり、もう、これが百年目と思いました」

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番頭

「番頭はん」というと、若き藤山寛美(稲垣完治、1929-90、喜劇役者)の阿呆丁稚に悩まされる、曽我廼家五郎八(西岡幸一、1902-98、松竹新喜劇役者)の絶妙の「受けの芝居」を、懐かしく思い出される方も多いかもしれません。

知らなけりゃ、それまでですが。

小僧(上方では丁稚)から手代を経て、番頭に昇格するわけです。

普通、中規模の商家で2人、大店になると3人以上いることもありました。

居付き(店に寝泊まり)の番頭と通い番頭があり、後者は所帯を持った若い番頭が裏長屋に住み、そこから店に通ったものです。

普通、番頭になって10年無事に勤め上げると、別家独立させるしきたりが、東京でも大阪でもありました。

この噺の治兵衛は、40歳を越してもまだ独身で、しかも、主人に重宝がられて別家独立が延び延びになり、店に居ついている珍しいケースです。

支配人

大店の一番番頭を、明治になると、「支配人」と呼びました。

明治41年(1908)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記でもそうなっています。のちにこの名称が、大会社の大物重役にも適用されるようになりました。

支配人、つまり大番頭ともなると、店の金の出納権限を握っているので、株式などの理財で個人的にもうけることも可能だったわけです。

江戸時代だと、こっそり店の金を「ドガチャカ」、つまり業務上横領して、米相場に投資するなどでしょう。

そういうリスクはあっても、主人といえども、店の金の運用には、番頭の意向を無視できませんでした。

そうやって自分ももうけ、店にも利益をもたらす番頭を「白ねずみ」と呼びました。これは、金銀の精、または福の神を意味します。

「帯久」にも出てきますが、特に功労のあった「白ねずみ」に店の屋号を与え、親類扱いで分家させることもよくありました。

上方落語の大ネタ

大阪では、幹部クラスの名人連しか演じられない大ネタを「切りネタ」と呼びますが、この噺はその切りネタの代表格でしょう。

上方落語のイメージが強いため、東京にはかなり最近紹介されたように思われがちなのですが、実は、江戸でも同題名で文化年間(1804-18)から口演されてきました。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が得意にしましたが、今回のあらすじは円生のものを参考にしました。

東西で、やり方に大きな違いはありませんが、たとえば大阪では、舞台が桜の宮で、番頭が、初めは2、3人の小人数で行こうと考えていたのに、ほかの芸妓に知れわたりやむなくはでな散財になった、というように、細部の設定が多少異なります。/

志ん生は、主人の天南草のセリフを省くなど、ごくあっさりと演じていました。

上方ではもちろん、三代目桂米朝(中川清、1925.11.6-2015.3.19)が絶品でしたし、五代目桂文枝(長谷川多持、1930.4.12-2005.3.12、三代目桂小文枝→)も得意としていました。

東京では、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が円生譲りのやり方でたまに高座にかけました。

百年目

古来まれな、百年の長寿を保ったとしても、結局最後には死を免れないところから、究極の、もうどうにも逃れようもない命の瀬戸際をいいます。

敵討ちの口上などの紋切り型で、「ここで逢ったが百年目」というのは、昔からよく使われ、今も耳にする文句です。

意味を「百年に一度の奇跡」と解しがちですが、実は「(おまえにとっての)百年目で、もう逃れられない」という意味です。

番頭の絶望観を表すことばとして、このオチは見事に効いています。

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たいこばら【幇間腹】落語演目



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【どんな?】

昔は道楽者やばかでも医者になれたみたい。
現代とおなじか。

あらすじ】

道楽者の若だんな、家が金持ちであるのをいいことに、あらゆる悪行をし尽くして、もうすることがなくなってしまった。

そこで、はたと考え込み、
「こうやって道楽をして生涯を終わってしまうのは、実にもったいない。これからはせめて、同じことなら人助けになる道楽をしてみよう」
と妙な改心をした挙げ句、
「人助けならいっそ医者だが、なるのが大変だから、どうせなら簡単に免許が取れそうな鍼医はりいにでもなってやろう」
と、「でもしか医者」を思いつく。

思い立ったが吉日、とさっそく杉山流の鍼の先生に弟子入りしたが、書物の講釈ばかりして一行に鍼を持たせてくれない。

根がお調子者で気まぐれだから、じきに飽きてしまい、すぐにでも「人体実験」をしてみたくてたまらなくなった。

猫を突っついてみても練習にはならない。

やっぱり人間でなければと、そこで思い出したのが欲深の幇間の一八。

「金の五両もやれば文句はあるまい」
と喜び勇んで一八の家に出かけていく。

一八もこのところ不景気なので、久しぶりに現れた若旦那を見て
「さあ、いい獲物がかかった」
と大はりきり。

その上、若だんなに
「三百人も芸人とつき合った中で、頼りになるのはおまえ一人」
とおだてられ、つい調子に乗って
「若だんなのためなら一命も捨てます」
と口走ったのが運の尽き。

若だんなの
「一生の頼み」
と聞いて仰天したがもう遅く、いやいやながら五両で「実験台」を引き受けさせられてしまう。

「南無阿弥陀仏」
と唱え、
「今日がこの世の見納め」
と観念して横になると、舌なめずりの若だんな、初めてなので手が震える。

まずは一本、水落ちへブッスリ。

スッと入るのでおもしろくなって、全部入れちまったからさあ抜けない。

「こういう時はもう一本、友達のハリを打って、意見をして連れ戻してもらうよりしかたがない」
というので、もう一本。

またも抜けない。

「若い奴を迎えにやったから、ミイラ取りがミイラになって、いっしょに遊んじまってるんだ、ウン。今度は年寄りのハリを送って、連れ帰ってもらおう」
と、もう一本。

またまた抜けない。

どうしようもなくなって、爪を掛けてグーッと引っ張ったから、皮は破れて血はタラタラ。

あまりの痛さに一八が
「アレー」
と叫んだから、若だんな、びっくりして逃げ出してしまった。

「一八さん、どうしたい。切腹でもしたのかい」
「冗談じゃねえ。これこれこういうわけで、若だんなを逃がしちまって、一文にもならない」
「ああ、ならないわけだよ。破れだいこ(たいこ=幇間)だから、もう鳴らない」

しりたい

原話の方が過激?

もっとも古い原型は、安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』(「子ほめ」「てれすこ」参照)巻二「賢だて第七話」。

ついで、元禄16年(1703)刊『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』中の「言いぬけの(もがり)」です。

この二話ではともに、鍼を打って患者を殺し、まんまと逃げてしまいます。

前者では、鍼医が瀕死の病人の天突の穴(のどの下の胸骨のくぼみで、急所)にズブリとやり、病人の顔色が変わったので家族が騒ぎ出すのを一喝しておいて、鍼を抜くと同時に「さあ泣け」。

わっと泣き出したどさくさに、風をくらって退散、という業悪ぶりです。

時代がくだって明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「金銀の針」、安永5年(1776)刊の『年忘れ噺角力はなしずもう』中の「鍼の稽古」になると、ぐっと現行に近くなります。

「迎え鍼」のくすぐりも加わって、加害者は客、被害者が幇間になります。

若だんなの異名は「ボロッ買い」

この噺、もともとは上方から東京に移されたものです。

あまり大ネタ扱いされず、速記や音源も多くありません。

明治27年(1894)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残されているのは貴重です。

今回のあらすじは、その小さんのものを底本にしました。

この中で一八は尾羽おは打ち枯らした老幇間、若だんなは15歳から21歳の今日まで、ありとあらゆる女という女を賞味し尽くし、「人類ことごとく試してみて、牝馬のお尻まで犯してはみたが、まだ幇間のお尻を試したことは無い」。

江戸ことばで、誰とでも見境なく寝る意味の「ボロッ買い」という大変な代物という設定です。

現行と少し違うのは、出入りの按摩にそそのかされて「人体実験」を思いつくのと、若だんなが直接、一八宅に押しかけるところでしょう。

一八が承知する最後の決め手が「公債証書の五枚に地面(=土地)の一か所」というのが、いかにも時代です。

文楽、志ん生に教わる

八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が「幇間腹」を覚えようと、「孝ちゃん」こと柳家甚語楼時代の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)に教わりに行った、というエピソードがあります。昭和初期のことです。

ということは、その頃には、この噺は、大看板の師匠連で演じる者はなく、やっているのは無頼の悪名高い、悪友の甚語楼(五代目志ん生)くらいしかいなかった、ということのようです。

文楽は、結局ものにならず、いさぎよく「幇間腹」を断念します。

後年、あれほど幇間噺を得意にした文楽が、なぜモノにできなかったかは、よくわかりません。

あまりにもギャグだくさんでおにぎやかなだけの噺で、同じ幇間噺の「鰻の幇間」などと違って、自分の目指す幇間のペーソスや陰影が出しにくく、このまま覚えてもとうてい甚語楼には勝てないと思ったのかもしれません。興味深い逸話です。

杉山流

鍼医術しんいじゅつの一派で、天和2年(1682)、目の不自由だった杉山和一すぎやまわいち(1610-94、検校)が幕命を受け、鍼治講習所を設置したのが始まり。

江戸をはじめ全国に爆発的に普及しました。

志ん生の「幇間腹」

先の大戦後は、三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、五代目志ん生が得意にしました。

とはいえ、やはり、なんと言っても志ん生のものでしょうね。

志ん生は、後半の鍼を打ち込むくだりは、むしろあっさりと演じ、「迎え鍼」の部分では、二本目が折れたところで若だんなは逃げてしまいます。

その分、前半はみっちり。

たとえば若だんなの凝っているものがわからずに不安になって、「え? ゴルフ?」「え? ビリヤードですかァ? 」 と懸命にヨイショして聞き出そうとしたり、「おまえに鍼を打つ」と言われ、動揺をごまかすため、「そんなこたァ、嘘だー」と泣き出しそうな唄い調子で言ったり、「芸人はてめえだけじゃない」と若だんなに居直られると、また節をつけて「いやだよォ、あなたは」と媚びるなど、感情を押し隠さず、ナマの人間としての幇間を率直に表現する志ん生ならではの真骨頂でした。

志ん生はこの噺をごく若いころからよく演じていて、晩年の速記でも、一八が「マーチャン」(麻雀のこと)に凝っているという設定から、時代背景をを昭和初期のまま固定していたことがうかがわれます。

麻雀が日本で普及するのは、関東大震災(大正12年=1923)以降のことです。



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さじかげん【匙加減】落語演目

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【どんな?】

大岡政談のひとつ。
なんとも痛快なお裁きものです。

【あらすじ】

享保の頃。

三田に阿部玄渓という名医がいた。

その息子の玄益は二十五歳で、医道の腕はいいが、まじめ一辺倒の堅物男。

気晴らしは神社仏閣めぐりという、なんとも色気がない。

今日も今日とて、川崎大師にお参りに向かった。

帰りは雨模様となって、途中の品川宿で、急きょ、雨宿りとなる。

なんでもいいからと、狩野屋なる茶店に上がった。

美しい芸妓が現れた。うぶがちな色気が漂う。お奈美という。

神のおぼしめしか。

玄益はお奈美にひとめぼれ。

翌日からは、狩野屋通いに精出す始末。

玄益はやることなすこと、すべてが一本気の構えだ。

やがて手持ちも不如意となり、ついには、父親の医書を質入れして、金の算段に。

それがばれて、父からは勘当とあいなった。

なんとも絵にかいたような放蕩の顛末。

この一件で、はたと目が覚めた玄益。

心を入れ替えて、実家を離れる。

八丁堀の一隅に「医」の看板を掲げる。

今度は、医道に一本気に突き進んだ。

一心不乱、精進し続けて、玄益ならぬ現役丸出しの評判医へと。

一本気と一心不乱で、二年がたった。

ゆとりを見せた玄益。

「少し休んだくらいでも、減益とはなるまい」

南の品川宿へ。

狩野屋にあがり、なじみだったお奈美に会おうとした。気にはなっていたのだ。

えびす顔で出てきたのは、狩野屋主人。

かつては贔屓として、顔なじみだった男。だが、こんな顔には用はない。

「若先生、二年前に、お奈美と夫婦の約束をしたんですかい」

そう聞かれて玄益、あたまをかきかき、苦い白状となる。

「ははは、冗談にも、そんなことを言ったやもしれませんなあ」
「それそれ。お奈美は、若先生のそれを本気にしていましたんで。さりながら、若先生はまもなく勘当のおん身に。ここへも来られなくなっちまいましてね。お奈美は『そのうちに若先生が迎えに来る』と信じているうちに、二年たちまして。とうとう、気がおかしくなっちまいました。ぶらぶら病で。そもそも、お奈美は松本屋義平の抱え芸者でして。ぶらぶら病では、座敷へ出すこともできませんので。今じゃあ、店奥の座敷牢に入ってるんですよ」

主人の話を聞き、驚いた玄益。

「ややっ。いやはや、面目ない。それでは、わたしがお奈美を引き取りましょうぞ」

とは、大胆な告白。

内心ほくそえんだのは狩野屋。

「そんなら、あたしが松本屋へ話をつけますんで、三両出してくださいな」

玄益からの三両を手にした狩野屋は、その後さっそく、松本屋へ出向いた。

「お奈美を若先生に追っ付けましょうよ。三両出してくだされ。話をまとめますんで」

悪い野郎もあったもんで。

松本屋は渡りに舟、とばかりに三両を手文庫から取り出した。

両者から三両ずつ、しめて六両を自分の懐に入れ込んだ狩野屋。悪さの始まりだ。

さて玄益。

その日のうちにお奈美を引き取り、駕籠を出して、長屋に連れてきた。

その日からは、玄益自らが付きっ切りでお奈美の治療にあたった。

その甲斐あってか、お奈美は半年ほどで全快とあいなる。

そのようすを遠巻きに見ていた父親の玄渓。

お奈美の美しくも気立てのいいのを知り得て、二人を夫婦にした。

めでたし、めでたし。

と、いきたいところだが、これでは噺が終わってしまう。もう少しある。

さて。

この「めでたし」を知った、品川宿の狩野屋。

こいつは、すぐに松本屋へ飛び込んでいった。悪さが浮かんだ。

「お奈美が治ったそうですぜ。あいつを返してもらいましょうや。今度は、座敷牢ではなく、座敷へ出せば、まだまだ稼げるタマじゃ、あーりませんか」

狩野屋の申し出を聞いた松本屋義平は、血相変える。

「なあにを言ってる。お奈美は玄益先生が身請けをしたんだ。できるわけがない」
「年季証文はどうなっていますんで」
「え、ああ、あんとき、玄益先生に渡すのを忘れてたな」
「それそれ。ふふふ。証文がこっちにあるんなら、身請けをしたことにゃ、ならねえんで。わたしがうまくまとめますぜ。うまくいったら、十両をいただきやしょうや」

翌日。

狩野屋は、八丁堀の玄益宅に向かった。

「お奈美を引き取らせていただきやしょう」

こう言って、ねじ込んだ。

玄益はびっくり。

「わたしが身請けをしたはずじゃないですか」
「若先生、なにを言ってやがるんで。年季証文は松本屋んとこにあるんだ。出るところへ出りゃあ、あんた、書いた証文が口を利くことになりやすぜ。へへへ」

これでは玄益も声高になる。

双方ともに必死で、甲論乙駁、口論が止まらない。

近くでふだんでないようすを耳にした大家が、間に入ってきた。

「明日、あたしの家に来てくださいな。話をまとめておきますから」

とは、また、骨太な介入で。

いったんは、狩野屋を帰してみたのである。

そして、翌朝。

大家は、すでに一計を案じていた。

大家は、長屋中の欠けた瀬戸物を集めて足の取れかかった膳の上に乗っけて、狩野屋が来るのを待っていた。

狩野屋が来た。

「お奈美は玄益先生が身請けしたはずじゃ、ありませんかい」

大家はここで、玄益の味方につくことを宣言したわけ。

怒ったのは狩野屋だ。

「な、なにを言いやがる」

狩野屋は、体を前に迫り出して、膳を倒して瀬戸物の山を崩してしまった。

あげくのはてには、狩野屋、大家がいつも猫に餌を出してやる皿までぶっ壊してしまった。

大家が怒った。

狩野屋は膳を持って振り上げたので、話し合いは、もつれたまんまとなった。

これはもう、とうとう、お白洲への一本道。

狩野屋が、松本屋義平の名で南町奉行所大岡越前守さまへ、「お恐れながら」と訴え出たのだ。

判決の日。

お奉行は、玄益に申し渡した。

「年季証文が松本屋にあるからは、お奈美を身請けしたことにはならない。身柄は松本屋へ引き渡すのじゃ。よいな」

驚く、玄益ら。

なに、これ。これじゃ、大岡政談にならない。

お奉行はさらに、松本屋にも申し渡した。

「お奈美を治療してもらったのであるから、玄益に薬料、手当て代を支払うように」

その上で、お奉行は玄益にひとこと。

「なみの薬料、手当て代はどれほどじゃ?」

玄益は「そんなの、いりません」と断る。堅物だから。

お奉行はしつこくも「受け取るのじゃ」と言いふくめる。

おっかけて、大家も玄益にけしかける。

「高い値をふっかけなさいよ。ここがお奉行さまの匙加減なんですから」

お奉行が下す。

「試しに算段いたしたところ、薬料は一日に六両、ひと月に百八十両。それに手当て代を一日一両として、月に三十両。お奈美を完治させるのに半年かかったのであるから、お奈美の薬料、手当て代の合計は、千二百六十両である」

これを聞いて、松本屋は腰を抜かした。

「ひ、ひえー」

翌日早々。

狩野屋が大家のもとにやってきて、示談を申し入れた。

勝ち誇ったような言い分の大家。

「あんたは双方から三両ずつ、計六両を懐に入れたんだってね。それはあんたの働きだからいいでしょうよ。だがねえ、膳と瀬戸物を壊したのは間違いなくあんたです。とりわけ猫の皿は高い。しめて千二百六十両いただきやしょう」

狩野屋が「ひ、ひえー、ひえー。ご、ご勘弁ねがいやす」というから、大家が「では、十両で」ということで示談となった。

すごすごと帰る狩野屋。烏が泣いている。

話の顛末をそばで聴いていた大家のかみさんが、大家に話しかける。

「猫の皿は夜店で二文で買ったもんでしょう。それを十両で売るなんて、ずいぶんじゃないですか」
「狩野屋は若先生から三両くすねて、あの始末だ。十両くらいじゃ、まだ足りねえんだよ」
「はいはい。それはそうと、こんなに丸くおさまるというのも、お大岡さまのありがたい、匙加減のおかげですねえ」
「そうだなあ。みんなが、すくわれた(=救われた)」

匙だけに。

【知りたい】

もとは講談ネタ

六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)が、六代目小金井芦州(岩間虎雄、1926-2003)から習って落語に仕立て上げたそうです。

円窓以外には入船亭扇辰なども演じています。

匙加減の意味

「匙加減」とは、「薬の調合の加減」の意味。そこから転じて、「手加減」という意味にもなっています。

この噺では、両義がうまく「匙加減」されています。なかなかのもんです。

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さるまるだゆう【猿丸太夫】落語演目



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【どんな?】

「太夫」は「だゆう」と読みます。
俳句に凝っている馬子。
乗り合わせた江戸っ子はひとつからかってやろうと。
俳句や和歌が飛び出る道中舞台の都鄙ものの滑稽噺。

【あらすじ】

昔の旅は命がけ。

友達と泣きの涙で水杯を交わし、東海道を西に向かった男、原宿の手前で雇った馬子が、俳句に凝っているというので、江戸っ子ぶりを見せびらかしてやろうと、
「オレは『今芭蕉』という俳句の宗匠だ」
とホラを吹く。

そこで馬子が、
「この間、立場の運座で『鉢たたき』という題が出て閉口したので、ひとつやって見せてくれ」
と言い出す。

先生、出まかせに
「鉢たたき カッポレ一座の 大陽気」
とやってケムに巻いたが、今度は「くちなし」では、と、しつこい。

「くちなしや 鼻から下が すぐにあご」

だんだん怪しくなる。

すると、また馬子が今度は難題。

「『春雨』という題だが、中仙道から板橋という結びで、板か橋の字を詠み込まなくてはならない」
と言うと、やっこさん、すまし顔で
「船板へ くらいつきけり 春の鮫」

「それはいかねえ。雨のことだ」
「雨が降ると、鮫がよく出てくる」

。そうこうしているうちに、馬子の被っている汚い手拭いがプンプンにおってくるのに閉口した今芭蕉先生、新しいのを祝儀代わりにやると、馬子は喜んで
「もうそろそろ馬を止めるだから、最後に紅葉で一句詠んでおくんなせえ」
と頼む。

しかたがないので
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は来にけり」
と聞いたような歌でごまかす。

そこへ向こうから朋輩の馬子が空馬を引いてきて
「作、どうした。新しい手拭いおっ被って。アマっ子にでももらったのか」
「なに、馬の上にいる猿丸太夫にもらった」

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【しりたい】

江戸っ子、じつは「猿」

原話は、宝暦5年(1755)刊、京都で刊行の笑話本『口合恵宝袋』中の「高尾の歌」です。

これは、京の高尾へ紅葉狩りに行った男の話。

帰りに雇った駕籠かきに、歌を詠んだかと聞かれ、「奥山の……」の歌でごまかす筋は、まったく同じで、オチも同一です。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、箱根で「猿丸太夫」をめぐる、そっくり同じようなやりとりがあり、これをタネ本にしたことがわかります。

江戸や京大坂の人が、旅先で、在所の人を無知と侮り、手痛い目にあう実話は、けっこうありました。

オチは、馬子が「奥山」の歌を知っていて皮肉ったわけです。

深読みをすれば、知ったかぶりの江戸っ子を、「猿」と嘲る、痛烈な風刺ともとれます。

円朝も演じた噺

この噺の、江戸を出発するところ、俳句の問答を除いた馬子とのくだりは、「三人旅」にそっくりなので、これを改作したものと思われます。

小咄だったのを、「三人旅」から流用した発端を付け、一席に独立させたものなのでしょう。

古くは、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が「道中の馬子」の題で速記を残しています。

大正13年(1924)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記も残っていますが、今はすたれた噺です。

猿丸太夫

正体不明の歌人です。生没年、伝記は一切不明。

「猿丸太夫集」なる歌集はありますが、そこに採られている歌は、当人の作と確認されたものが一首もありません。

「小倉百人一首」に「奥山に」が選ばれていますが、これが実は『古今和歌集』の「よみ人しらず」の歌であることから、平安時代の歌人といわれます。

別に、柿本人麻呂説もあります。

運座

うんざ。各人各題、あるいは一つの題について俳句を作り、互選しあう会です。

座には宗匠、執筆(=記録係)、連衆(句の作り手)で成り立ちます。

18世紀末の安永・天明期以後、俳諧(俳句)人口は全国的に広がり、同時に高尚さが薄れて遊芸化しました。

したがって、この噺のような馬子が俳句に凝ることも、十分考えられたのです。

江戸後期の日本人の教養レベルは、われわれが想像するよりはるかに高かったわけです。われわれ現代人の教養は劣化しています。

馬子などの多くは非識字者であるはず、と思われていました。それが字を知っているばかりか、江戸っ子なんかよりもはるかに博識であるという、落語的な逆転の発想がみられます。

赤ん坊が大男を投げ飛ばすような、小気味いい構図です。



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うまやかじ【厩火事】落語演目

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【どんな?】

髪結いの女房と三道楽ばか亭主。
女房が皿を割った。
皿か、女房か。
究極の選択です。

【あらすじ】

女髪結いで、しゃべりだすともう止まらないお崎が、仲人なこうどのだんなのところへ相談にやってくる。

亭主の八五郎とは七つ違いのあねさん女房で、所帯を持って八年になるが、このところ夫婦げんかが絶えない。

それというのも、この亭主、同業で、今でいう共稼ぎだが、近ごろ酒びたりで仕事もせず、女房一人が苦労して働いているのに、少し帰りが遅いと変に勘ぐって当たり散らすなど、しまつに負えない。

もういいかげん愛想あいそが尽きたから別れたい、というわけ。

ところが、だんなが
「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」
と突き放すと、お崎はうって変わって、
「そんなに言わなくてもいいじゃありませんか」
と、亭主をかばい始め、はては、
「あんな優しい、いい人はない」
と、逆にノロケまで言い出す始末。

あきれただんな、
「それじゃひとつ、八の料簡を試してみろ」
と、参考に二つの話を聞かせる。

その一。

昔、もろこし(中国)の国の孔子という偉い学者が旅に出ている間に、うまやから火が出て、かわいがっていた白馬が焼け死んでしまった。

どんなおしかりを受けるかと青くなった使用人一同に、帰ってきた孔子は、馬のことは一言も聞かず、
「家の者に、けがはなかったか」

これほど家来を大切に思ってくださるご主人のためなら命は要らない、と一同感服したという話。

その二。

麹町こうじまちに、さる殿さまがいた。

「猿の殿さまで?」
「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」

その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥さまが運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。

殿さま、真っ青になって、
「皿は大丈夫か。皿皿皿皿」
と、息もつかず三十六回。

あとで奥さまの実家から、
「妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれない」
と離縁され、殿さまは一生寂しく独身で過ごした、という話。

「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、なにか大切にしているものを、わざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」

帰ったお崎、たまたま亭主が、「さる殿さま」よりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出し、それを持ち出すと、台所でわざとすべって転ぶ。

「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」
「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」
「なんでえ、そのモロコシてえのは」
「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」
「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒をのめねえ」

https://www.youtube.com/watch?v=GVUyIj6gRHE

【しりたい】

題名は『論語』から

厩とは、馬小屋のこと。

文化年間(1804-18)から口演されていたという、古い江戸落語です。

演題の「厩火事」は『論語』郷党きょうとう編十二からつけられています。

うまやけたり。ちょうより退き、『人を傷つけざるや』とのみ、いひて問いたまはず」

江戸時代には『論語』『小倉百人一首』などが町人の共有する教養でした。引用も多いのですね。

明治の速記では、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)のものが残っています。

文楽の十八番

戦後は八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が、お崎の年増の色気や人物描写の細やかさで、押しも押されぬ十八番としました。

ライバル五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も得意にし、お崎のガラガラ女房ぶりで沸かせました。

志ん生は、マクラの「三角関係」(出雲の神さまが縁結びの糸をごちゃごちゃにする)で笑わせ、「どうしてあんな奴といっしょになったの?」「だって、一人じゃさぶい(寒い)んだもん」という小ばなしで男女の機微を見事に表現し、すうっと「厩火事」に入りました。

女髪結い

寛政年間(1789-1801)の初め、三光新道さんこうじんみち(中央区日本橋人形町三丁目あたり)の下駄屋お政という女が、アルバイトに始めたのが発祥とされています。

文化年間から普及しましたが、風俗紊乱びんらんのもととなるとの理由で、天保の改革に至るまで、たびたびご禁制になっています。

噺にもランクあり

雷門福助(川井初太郎、1901-86)は晩年には名古屋で活躍しましたが、「落語界のシーラカンス」といわれた噺家でした。

この人の回想によれば、兄弟子で師匠でもある八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に「『厩火事』を稽古してください」と頼むと、「ああいいよ、早く真打ちになるんだよ。真打ちになったら稽古してやる」と言われた、ということです。

それだけ、ちょっとやそっとでは歯が立たない噺ということで、昔は、二つ目が「厩火事」なぞやろうものなら「張り倒された」。

それが今では、二つ目どころか前座でも平気で出しかねません。

いい時代になりました。聴かされるほうはつらいですが。

芝居の「皿屋敷」は

同じ「皿屋敷」でも、一枚の皿が欠けたため腰元お菊をなぶり殺しにする青山鉄山は麴町の猿よりさらに悪質。

これに対して、岡本綺堂おかもときどう(1872-1939)の戯曲『番町皿屋敷』の青山播磨はモロコシ……ですが、芝居だけに一筋縄ではいかず、播磨はりまは自分の真実の恋を疑われ、自分を試すために皿を割られた怒りと悲しみで、残りの皿を全部粉々にした後、お菊を成敗します。

昭和初期の名横綱・玉錦三右衛門たまにしきさんえもん(1903-38)はモロコシだったようで、大切にしていた金屛風きんびょうぶを弟子がぶっ壊しても怒らず、「おまえたちにけがさえなきゃいい」と、鷹揚おうようなところを見せたそうです。さすがです。

 

 

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

すとくいん【崇徳院】落語演目

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【どんな?】

若者が恋わずらいで寝込む。
昔は多かったようです。
朝ドラ「わろてんか」にも。

別題:皿屋 花見扇

【あらすじ】

若だんながこのところ患いつき、飯も喉に通らないありさまで衰弱するばかり。

医者が
「これはなにか心に思い詰めていることが原因で、それをかなえてやれば病気は治る」
と言うので、しつこく問いただしても、いっこうに口を割らない。

ようやく、
「出入りの熊さんになら話してもいい」
と若だんなが言うので、大だんなは大急ぎで呼びにやる。

熊さんが部屋に入ってみると、若だんなは息も絶え絶え、葬儀屋にいったほうが早道というようす。

話を聞いても笑わないことを条件に、熊さんがやっと聞き出した病気のもとというのが、恋煩い。

二十日ばかり前に上野の清水さまに参詣に行った時、清水堂の茶店に若だんなが腰を掛けて景色を眺めていると、目の前にお供の女を三人つれたお嬢さんが腰を掛けた。

それがまた、水のしたたるようないい女で、若だんなが思わず見とれていると、娘もじっとこちらを見る。

しばらくすると、茶袱紗ちゃぶくさを落としたのも気がつかず立ち上がるので、追いかけて手渡したちょうどその時、桜の枝から短冊が、糸が切れてはらりと落ちてきた。

見ると
「瀬を早み岩にせかるる滝川の」
と書いてある。

これは下の句が
「われても末に逢はむとぞ思ふ」
という崇徳院の歌。

娘はそれを読むと、なにを思ったか、若だんなの傍に短冊を置き軽く会釈して、行ってしまった。

この歌は、別れても末には添い遂げようという心なので、それ以来、なにを見てもあのお嬢さんの顔に見える、というわけ。

熊さん、
「なんだ、そんなことなら心配ねえ、わっちが大だんなに掛け合いましょう」
と安請け合いして、短冊を借りると、さっそく報告。

大だんな、
「いつまでも子供だ子供だと思っていたが」
とため息をつき、
「その娘をなんとしても捜し出してくれ」
と、熊に頼む。

「もし捜し出せなければ、せがれは五日以内に間違いなく死ぬから、おまえはせがれの仇、必ず名乗って出てやる」
と、脅かされたから、熊はもう大変。

熊は帰って、かみさんに相談。

かみさんは
「もし見つければあの大だんなのこと、おまえさんを大家にしてくれるかもしれない」
と、尻をたたく。

「とにかく手掛かりはこの歌しかないから、湯屋だろうが、床屋だろうが、往来だろうが、人の大勢いるところを狙って歌をがなってお歩き。今日中に見つけないと家に入れないよ」
と追い出される。

さあ、それから湯屋に十八軒、床屋に三十六軒。

「セヲハヤミセヲハヤミー」
とがなって歩いて、夕方にはフラフラ。

「ことによると、若だんなよりこちとらの方が先ィ行っちまいかねねえ」
と嘆いていると、三十六軒目の床屋で、突然飛び込んできた男が、
「出入り先のお嬢さんが恋煩いで寝込んでいて、日本中探しても相手の男を探してこいというだんなの命令で、これから四国へ飛ぶところだ」
と話すのが、耳に入った。

さあ、
「もう逃がさねえ」
と熊五郎、男の胸ぐらに武者振りついた。

「なんだ。じゃ、てめえん所の若だんなか。てめえを家のお店に」
「てめえこそ、家のお店に」
ともみ合っているうち、床屋の鏡を壊した。
「おい、話をすりゃあわかるんだ。家の鏡を割っちまってどうするんだ」
「親方、心配するねえ。割れても末に買わんとぞ思う」

底本:三代目桂三木助

古今亭志ん朝 二朝会 CDブック

【しりたい】

類話「花見扇」  【RIZAP COOK】

初代桂文治(1773-1815)作の上方落語を東京に移植したものです。文治の作としてはほかに「洒落小町」「たらちね」があります。

ただし、江戸にもほとんど筋が同じの「花見扇」(皿屋)という噺があり、どちらも種本は同じと思われますが、はっきりしません。

オチの部分が異なっていて、「花見扇」では、だんなに頼まれた本屋の金兵衛が、床屋で鳶頭の胸ぐらを夢中でつかんだため、「苦しい。放せ」「いや、放さねえ。合わせ(結婚させ)る」というオチでした。

先方が皿屋の娘という設定のこの噺は、今はすたれましたが、人情噺「三年目」の発端だったともいわれます。

「瀬を早み……」  【RIZAP COOK】

百人一首第七十七歌です。もとは『詞花和歌集』に収められています。

崇徳院(1119-64)は、鳥羽天皇(1103-56)第一皇子で、即位して崇徳天皇。父・鳥羽上皇の横車から異母弟・近衛天皇に譲位させられ、その没後も、今度は同母弟が後白河天皇として即位したので、腹心・藤原頼長とはかって保元の乱(1156)を起こしましたが、事破れて讃岐に流され、憤死しました。

歌意は「川の流れが急なので、水が滝になって岩に当たり、二つに割れる。しかし、貴女との仲は割れることなく、添い遂げよう」です。

鳶頭  【RIZAP COOK】

かしら。「とびがしら」と読みがちですが、この二字で「かしら」と呼びならわしています。町火消の組頭で、頭取の下。各町内に一人はいました。町の雑用に任じ、ドブさらいからもめごとの仲裁まで一切合財引き受けていました。特に、地主や出入りの商家の主人には、手当てや盆暮れの祝儀をもらっている手前、何か事があると、すぐ駆けつけてしゃしゃり出ます。落語にはいやというほど登場しますが、あまりりっぱなのはいません。

三木助の十八番  【RIZAP COOK】

戦後は、三代目桂三木助の十八番で、清水寺で短冊が舞い落ちてくるくだりは、三木助の工夫です。

上方では、高津(こうづ)神社絵馬堂前の設定で、桂米朝は、茶屋の料紙に娘が書き付けるやり方でした。

上野の清水さま  【RIZAP COOK】

寛永寺境内に現存する、清水観音堂のことです。

寛永8年(1631)、寛永寺寺域内の摺鉢山に建立されたもので、同11年、寿昌院焼失後、現在地であるその跡地に移りました。

京の清水寺を模した舞台造りで有名で、桜の名所。本尊の千手観音像は恵心僧都の作です。



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さいぎょう【西行】落語演目



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【どんな?】

佐藤義清がお堂で内侍と逢い引き
歌の応酬で打ち解けた。
義「またの逢瀬」 内「阿漕」。
義清は意味わからず。西行となって歌道行脚に。
バレ噺、いや、デタラメ噺です。

別題:恋の歌法師

【あらすじ】

遍歴の歌人として名高い西行法師。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達した。

内侍は気の毒におぼしめして、佐藤義清さとうのりきよあてに御文おふみをしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。

西行、その頃は、佐藤兵衛尉ひょうえのじょう義清という禁裏きんり警護の北面武士ほくめんのぶしだった。

染殿内侍そめどののないしが南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、
「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」
と詠まれたのに対し、義清が
「一羽にて千鳥といえる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」
と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。

「佐藤さん、郵便」
というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。

喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、
「この世にては逢わず、あの世にても逢わず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」
とある。

「はて、この意味は」
と思いめぐらしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。

この世にては逢わずというから、今夜は逢えないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。

三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。

地に実は、草木も露を含んだ深夜。

人間絶えし後は丑三うしみツ時。

西方浄土さいほうじょうどは、西の方角にある阿弥陀堂あみだどうで待っていろということだろう、と気づいた。

ところが義清、待ちくたびれて、ついまどろんでしまう。

そこへ内侍が現れ
「我なればとり鳴くまでも待つべきに思わねばこそまどろみにけり」
と詠んで帰ろうとしたとたんに義清、あやうく目を覚まし、
よいは待ち夜中は恨みあかつきは夢にや見んとしばしまどろむ」
と返した。

これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねた。

翌朝、別れる時に義清が、
「またの逢瀬おうせは」
と尋ねると内侍は
阿漕あこぎであろう」
と袖を払ってお帰り。

さあ義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。

歌道かどうをもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起いちねんほっきして武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。

諸国修行の道すがら、伊勢いせの国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子まごが、
「ハイハイドーッ。さんざん前宿まえやどで食らいやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」

これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、
「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」
「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

【しりたい】

阿漕

阿漕とは、
伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ
という「古今六帖こきんろくじょう」の古歌こかから。

阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。

「阿漕」は当初、「たびかさなる」という意味で使われていました。

「阿漕ヶ浦に引く網」も、やがては熟してことわざの仲間入りをして、「隠しごともたび重なると人に知られる」ということのたとえに使われるようになりました。

江戸時代に入ると転じて、「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」の意味に変わりました。

阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸にあります。

伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。

病気の母を思った平次なる男が、禁断を犯して魚を取ったため、簀巻すまきにされたという伝説が残りました。

ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦たむらまろすずかがっせん』(勢州阿漕浦せいしゅうあこぎがうら)などがつくられました。

先行作品には、能『阿漕』や御伽草子おとぎぞうし『阿漕の草子』があります。

ただ、これらには「平次」の名はありません。

「阿漕」は歌枕うたまくらとして残りました。

過去に何度も歌われた結果、言葉のイメージを誰もが抱くようになったものを、歌枕と呼びます。

染殿内侍

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえて、ぴしゃりと言い渡したわけです。

馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのです。

西行先生は、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、
「二回もさせたげたのに、未練な男ね」
と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。

このあたりが落語の機微です。

歌をひねくりまわしているうちに、いつの間にかエロ噺と化しているのですね。

下半身ネタといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。

なるほど。見習いたいものです。

染殿内侍という女性が実在したのかどうは、はっきりしません。

染殿内侍が登場する『大和物語やまとものがたり』や『伊勢物語いせものがたり』から察すれば、在原業平ありわらのなりひらと同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。

永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。

南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。

西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。

落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。

それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。

在原業平には三人の息子がいた、とされています。

三男滋春しげはるの母親が染殿内侍だとされています。

これは『伊勢物語』の冷泉家れいぜいけ流古注本に記されています。

文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりも、そういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが、大切なのです。

少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。

染殿内侍は、在原業平と契った女性ということになります。

これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。

染殿というのは、藤原良房ふじわらのよしふさの邸宅をさします。

京の都は、「一条大路の南、正親町小路おおぎまちこうじの北、京極大路の西、富小路とみのこうじの東」のあたりにあったそうです。

良房は、臣下しんかとしては初の太政大臣だいじょうだいじん摂政せっしょうとなり、藤原北家ふじわらほっけ繁栄のきっかけを作った人です。

染殿大臣そめどののおとどなどと呼ばれていました。

その娘の明子めいし文徳もんとく天皇に入内じゅだいして、のちの清和せいわ天皇を生みました。

明子は染殿后そめどののきさきと呼ばれていました。

染殿后は美麗であったそうです。

『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。

内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のこと。

染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。

ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮さいぐうりょうでの仕事をつかさどっていたんだそうです。

斎宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇の名代みょうだいです。

内侍と伊勢神宮とはかかわりが深かったようです。

隠者いんじゃの歌詠み」として後世に名を残した西行。

その大先輩が在原業平といえるでしょう。

「むかし男ありけり、その男、身をようなきものに思いなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。

業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで、貴族の間では最高の教養文芸でした。

業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。

流浪るろうする業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。

聖と俗を両有しているのですね。

その業平の思い人の一人が染殿内侍です。

これはすごい。

業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(「ドクターノオ」の)か、あるいは、若林映子わかばやしあきこさん(「007は二度死ぬ」の)といったところでしょうか。

あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。

西行の存在

西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。

残した歌は約2300首。

歌人の最高峰です。

江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。

この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。

みんなが知っている教養をさかなに笑う、という趣向だったのでしょう。

西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。

源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。 『西行物語』と『選集抄せんじゅうしょう』がその双璧そうへきです。

さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。

江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麻呂と双璧です。

蓑笠みのがさをつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。

そんな逸話の一つ。 西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付けびん姿で、つまり俗人のなりで参宮さんぐうしたといわれています。

なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

存疑の歌といわれています。

見えない神さまに接して落涙するというもの。

われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。

伊勢では二見浦ふたみがうらいおりを結び、地元の神職者荒木田あらきだ氏と交わったそうです。

と、このように記していって、見えてくるものがありました。

西行、伊勢、和歌、女性、浦……。

江戸人が抱く西行のイメージ。

そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。

登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達じざいかったつ融通無碍ゆうづうむげな雰囲気が、いかにも江戸人の西行像なのでしょう。

西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人として形成されていきました。

寺院や宗派を超えて(高野山の、真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、世俗に理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。

この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の柳亭痴楽がたまに演じていました。

いまや、どうでもよいことですね。

参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって?『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)

史実がらみの噺

二村文人ふたむらふみと氏といえば、現在は富山大学の教授です。

二村氏が城北埼玉高校の教諭だった頃に、「落語と俗伝」という小論を『國語と國文学』(東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)に発表しています。

これが、なかなか刺激的な内容なのです。

まず、二村氏は、落語を6種類に分類して、そこから抜け落ちてしまう噺があることを指摘します。

それが、史実を扱った噺。

史実とはいっても、しょせんは落語ですから、俗伝であり通俗史をもとにした噺にすぎません。

具体的にはどんな噺のことのでしょうか。

二村氏は、この小論で「朝友」「西行」「お血脈」「紀州」を例示しています。

なるほど。

そこで、「西行」。

二村氏は「西行は落語になっても、芭蕉は落語にならない」と指摘します。

なぜなのでしょう。

二村氏によれば、以下の二点が、歴史上の人物が落語に採用される条件である、としています。

(1) その人物の伝説化が進行していること。
(2) 伝記に謎の部分をもっていること。

西行の足跡にはわからない部分が多いけど芭蕉にはあまりない、と言いたいのでしょうか。

たしかに、現在でも、芭蕉の研究者は圧倒的に多く、西行のほうはたいしたことありません。

ただ、地方に行けば、芭蕉のあやしげな伝説もちらほら見えたりします。芭蕉が明らかに行ってもいないところに、芭蕉の句碑があったりとか。

そんな地方では芭蕉の伝説化も静かに進行しているでしょうし、謎の部分(忍者説とか水道工事監督時代とか)もないことはないでしょう。

二村氏の説が妥当かどうか、それはもう少し咀嚼そしゃくしたいところですが、この一文、刺激にあふれています。

だって、落語の評論でそんなところをほじくる人はいませんでしたし、いまも現れていません。

この二村論文を起爆剤に、われわれも少し考えてみたいところです。それにしても1985年の論文ですから、斯界の研究はすでに進んでいるのかもしれませんが。いやあ、どうかなあ。

ことばよみいみ
染殿内侍そめどののないし
佐藤義清さとうのりきよ西行のこと
阿漕あこぎ阿漕ヶ浦
藤原良房 ふじわらのよしふさ
正親町小路おおぎまちこうじ
染殿大臣そめどののおとど
明子あきらけこ、あきらけいこ
入内じゅだい嫁ぐ
染殿后 そめどののきさき



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

こうやちがい【高野違い】落語演目



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【どんな?】

ところどころで古典の知識が試される、ペダンチックな噺です。

【あらすじ】

出入りの鳶頭が店に年始に行くと、だんなが子供たち相手にカルタをやっている。

鳶頭はカルタなど見たことがないので珍しく、あれこれトンチンカンなことを言うので、だんながウンチクをひけらかして、ご説明。

洗い髪で、たいそうごてごてと着物を着ている女がいると言うと、それは下げ髪、着物は十二単で、百人一首の中の右近と教えられる。

同じような女が二人いるが、赤染衛門に、紫式部。

赤に紫に黄色(鬱金色=右近)で、まるで紺屋の色見本のよう。

紫とやらいう女の歌が
「巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」

誰かに逢いたいと神に願掛けしている歌だと聞いて
「そりゃ、合羽屋の庄太ですよ。借金を返しゃあがらねえ」
「おまえの話じゃないよ」

太田道灌が
「急がずば 濡れざらましを 旅人の跡 より晴るる 野路の村雨」

弘法大師の歌が
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 高野の奥の たま川の水」

これは六玉川のうち、紀州は高野山の玉川の水は毒があるため、のまないよう戒めた歌だというので、鳶頭、親分が大和巡りに行くから知らせてくると飛び出す。

「それで、その歌はなんだ」
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 跡より晴るる 野路の村雨」
「それじゃ尻取りだ。下は『たかのの奥の 玉川の水』というんだろ」

鳶頭、先に言われたので、しゃくなので揚げ足を取ろうと
「親分、タカノじゃなくてコウヤでしょう」
「同じことだ。仏説にはタカノとある」

またへこまされたので、それではと
「ごまかしたって、こっちにゃ洗い髪の女がついてるんだ。じゃ、こんなのはどうです。『巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな』。さあ驚いたろう」
「驚くもんか。それは誰の歌だ」
「ナニ、着物であったな、鳶色式部だ」
「鳶色式部てえのはない。紫だろ」
「紫と鳶色は昔は同じだったんで。これは仏説だ」
「そんな仏説があるか。大変に違わあ」
「へえ、そうですか。それじゃ、紺屋が間違えたんでしょう」

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【しりたい】

現代人にはわからない

古風な噺で、和歌の教養がないと、今ではよくわからないでしょう。江戸時代には「小倉百人一首」がごく一般に普及していて、これくらいの和歌はわかりあっていたのです。明治にいたっても同様です。共有の文化でした。

原話は、文化8年(1811)ごろ刊行された、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)作の噺本『種が島』中の「源氏物語」です。

無知な男が、和歌の解釈を聞きかじって、トンチンカンなひけらかしで失敗するパターンは現行通りです。

原話では紫式部の歌でなく、謡曲「源氏供養」にある、式部が石山寺の観音の化身だという伝説から、「鳶色式部」を出しています。

オチは、弘法大師(高野山)と太田道灌の歌の上下をとり違えたのと、「紫(色)」と「鳶(色)」の間違いを掛け、色→紺屋の連想から、紺屋=高野のダジャレオチとしています。

原話のオチは、「ナアニ、おれがそそっかしいのじゃアねえ。ぜんてえ、せんに(=だいたい、前に)高野で間違った」というものです。こちらの方がわかりやすいかもしれません。

紺屋の色見本

紺屋形ともいいます。今でもある、服地のサンプルまたはカタログです。

紺屋は、初期は藍で紺色を染めるだけだったのが、のちに染料の進歩により、様々な色の染物ができるようになりました。

特に紺屋の女房になった、吉原の六代目高尾太夫考案の、浅黄色の早染め(かめのぞき)は評判になりました。

かめのぞき」については「紺屋高尾」をお読みください。

オチは、高野山弘法大師の歌の間違いに、そそっかしい紺屋が、色見本を見ても紛らわしい紫と鳶色を染め間違えたことを掛けてあるわけです。

六玉川

むたまがわ。歌枕に詠まれる全国の六つの玉川のこと。

山城の井出の玉川
摂津の卯の花の玉川
近江の野路の玉川
陸奥の野田の玉川
武蔵の調布の玉川
紀伊の高野の玉川

高野の玉川は、高野山奥の院弘法大師廟のそばを流れる川です。

川水の毒については、噺の中でだんなの解釈する通り、弘法大師のこの歌が載っている『風雅和歌集』の詞書に「高野奥院へまいる道に玉川という河のみなかみ(=上流)に毒虫の多かりければ、この流れを飲むまじき(飲んではならない)由を示しおきて後よみはべりける」とあって、実際に中毒の危険を示唆しています。

高野山には女人禁制であったため、
「毒水を 飲む気づかひは 女なし」
という川柳もありました。

別の説では、名水をいたずらに酌むなという教訓がのちに「毒水」と誤伝されたものともいわれますが。

鳶色式部

鳶色は、鳶の羽色の茶褐色のこと。

布地では「鳶八丈」を指します。

鳶八丈とは、鳶色の地に、黒または黄の格子縞の着物です。

明治中期に、袴の色から、女学生の異名に用いられたこともあり、あるいは、それもかけられているかもしれません。

円喬のオハコ

古くから口演された江戸落語で、明治28年(1895)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

円喬はこの噺を好み、よく高座に掛けたようです。

名人の名を後世に残しながら、ややキザで教養をひけらかす臭みがあったという、この人が好みそうな噺かもしれませんね。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)という、兄弟弟子だった二人が、ともに手掛けました。

「やかん先生」の金馬はファンに愛されながらも、そのペダンチックが嫌われもしました。

このような古ぼけたうんちく噺は、円喬や金馬のように、才気ばしった落語家でないと衒学趣味だけが鼻につき、さまにならないのかもしれません。

現在は、ほとんど演じられていません。

【語の読みと注】
鳶頭 とびのかしら
十二単 じゅうにひとえ
右近 うこん
赤染衛門 あかぞめえもん
紺屋 こうや
六玉川 むたまがわ



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

おおやままいり【大山詣り】落語演目



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

噺のおおよそは参詣の帰途が舞台。
宿で泥酔し、仲間から総スカンの熊。
熊が遂げる仕返しは凝ってます。

別題:百人坊主(上方)

あらすじ

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

しりたい

大山とは  【RIZAP COOK】

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁ろうべんが造ったといわれる雨降山あぶりさん大山寺だいせんじがありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現せきそんだいごんげんがあります。これは縄文時代以来の古い信仰です。時代が下る(奈良、平安期ですが)と、神仏混交、修験道の聖地となるのですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利おおやまあぶり神社に。仏の山から神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益  【RIZAP COOK】

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離みずごり(体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。

金は、先達せんだつ(先導者)が月掛けで徴収しました。

帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。

それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者 なし藤沢へ 出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れと知るべし  【RIZAP COOK】

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。旧暦に40日たすと、実際の季節になります。

だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ネタは狂言から  【RIZAP COOK】

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂刊「西鶴諸国ばなし」中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰  【RIZAP COOK】

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は明治期の名人です。

江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、円喬はこの噺のマクラで、マゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年(1896)のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。

実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。

いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。

その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。

朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

名人上手が磨いた噺  【RIZAP COOK】

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、とうとうたる顔ぶれが好んで演じました。

三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も師匠の八代目可楽譲りで若いころから得意にしていましたが、いまも若手を含め多くの落語家が手がける人気演目です。

上方では「百人坊主」  【RIZAP COOK】

落語としては上方が原産です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川どろかわまたは下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈(池田八右衛門→八蔵、?-1841)の「大山道中栗毛俊足」にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

相模の女  【RIZAP COOK】

この噺の背景にはちょっと重要なパラダイムがひそんでいます。

「相模の下女は淫奔」という江戸人のお約束事です。川柳や浮世絵などでもさかんに出てきます。

相模国(神奈川県西部)出身の女性には失礼きわまりないことですがね。「池袋の下女は夜に行灯の油をなめる」といった類の話です。

大山は相模国にあります。

江戸の男たちは「相模に行けば、なにかよいことがあるかもね、むふふ」といった下心を抱きつつ勇んで向かったのでしょう。

大山詣りがにぎわうわけです。

投げ込んで くんなと頼む 下女が文  三24

枕を交わす男から寝物語に「明日大山詣りに行くんだぜ」と聞いた相模出身の下女は「ならばこの手紙を実家に持っていってよ」と頼んでいるところを詠んでいます。こんなことが実際にあったのか。あったのかもしれませんね。

江の島   【RIZAP COOK】

大山詣りの帰りの道筋に選ばれます。近場の行楽地ですが、霊験あらたかな場所でもあります。

浪へ手を あわせて帰る 残念さ   十八02

これだけで江の島を詠んでいるとよくわかるものですなんですね。「浪へ手をあわせて」でなんでしょうかね。島全体が霊場だったということですか。

江の島は ゆふべ話して けふの旅   四33

江の島は 名残をおしむ 旅でなし   九25

江の島へ 硫黄の匂ふ 刷毛ついで   初24

硫黄の匂いがするというのは、箱根の湯治帰りの人。コースだったわけです。大山詣りも同じですね。

江の島へ 踊子ころび ころびいき   十六01

「踊子」とは元禄期ごろから登場する遊芸の女性です。酒宴の席で踊ったり歌ったりして興を添えるのをなりわいとする人。

日本橋橋町あたりに多くいました。

文化頃に「芸者」の名が定着しました。各藩の留守居役とのかかわりが川柳に詠まれます。

江の島で 一日やとふ 大職冠   初15

大職冠たいしょくかん」とは、大化年間(最新の学説ではこの元号は甚だあやしいとされていますが)の孝徳天皇の時代に定めれらた冠位十二階の最高位です。

のちの「正一位しょういちい」に相当します。実際にこの位を授けられたのは藤原鎌足かまたりですが、「正一位」は稲荷神の位でもあります。

謡曲「海士あま」からの連想です。

ここでは鎌足と息子の不比等ふひとを当てています。

ことばよみいみ
良弁ろうべん華厳宗の僧。東大寺の開山。689-774
雨降山あぶりさん大山寺の寺号。神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院。大山不動。本尊は不動明王。開基(創立者)は良弁。高幡山金剛寺、成田山新勝寺とで「関東の三大不動」。
神仏習合しんぶつしゅうごう神道と仏教が調和的に折衷され、融合、同化、一体化された信仰。神仏に対する信仰を一体化する考え方をもさす。「神と仏は一体」という考え。神社境内に寺院を建てたり、寺院境内に神社があったり、神前で祝詞奏上と読経がセットでいとまれたり、神体と仏像がいっしょに祀られる状態。明治維新まではそれが普通だった。

【RIZAP COOK】



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

みやとがわ【宮戸川】落語演目





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【どんな?】

隅田川が舞台。
お花半七なれそめの噺。
後半は悲惨ですが。
江戸の噺です。

別題:お花半七馴れ染め

あらすじ

日本橋は小網町こあみちょうの質屋、茜屋半右衛門あかねやはんえもんのせがれ、半七。

堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。

頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。

気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。

こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。

友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日頃から折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。

いつしか二人はばったり。

話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島れいがんじまのおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。

「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。

結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。

一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。

違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。

「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」

下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。

下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。

二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。

こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。

翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。

ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。

おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。

出典:三代目春風亭柳枝

五街道雲助の「宮戸川」

しりたい

実際の心中事件に取材

六代将軍家宣いえのぶが亡くなった正徳しょうとく2年(1712)。

この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が、同年、浄瑠璃「長町裏女腹切ながまちおんなのはらきり」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが芝居や音曲で大流行しました。

それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四代目鶴屋南北(勝次郎、1755-1829)が江戸・玉川座に書き下ろした「宿花千人禿やよいのはなせんにんかむろ」(茜屋半七)が大当たりしました。

落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。

すたれた後半部分

明治中期までは、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがありました。

三代目柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。

この項でのあらすじは、三代目柳枝の速記の前半部分を参照しました。

その後、古風な芝居ばなしがすたれるとともに、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。

昭和に入って、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)といった名人連が得意にしました。

ただ、いずれも前半のみで、円生一門の五代目三遊亭圓楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されていました。

三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)、柳家小満ん五街道雲助金原亭世之介古今亭圓菊柳家喬太郎などが、後半を含めてやったことがあります。

後半のあらすじ

前半から四年ほどのちの夏。

お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。

傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花はしゃくを起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。

承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。

雇った船頭もぐるとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。

三人の渡りゼリフで。

「亭主というは、うぬであったか」
「ハテ、よいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」

……というところで起こされた。

お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。

じつは夢だったという筋立ては「夢金」と同じです。オチは「鼠穴」に似ています。

宮戸川

夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名です。

隅田川の、吾妻橋から厩橋のあたり「宮戸川」と呼んだそうです。

「宮戸」は、三社権現さんじゃごんげんの参道入り口を流れていたことから、この名がついたのだとか。

この付近は、白魚や紫鯉の名産地でした。汽水なんですね。

文政年間(1818-30)、浅草駒形町の醤油酢問屋、内田屋甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になったそうです。ここは居酒屋もあきなっていたとか。

小網町

現在の東京都中央区日本橋小網町。

小網町3丁目の行徳河岸ぎょうとくがしから下総(千葉県北部)の行徳まで三里八丁(約12.9km)を、行徳船ぎょうとくぶねという、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。

ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。

霊岸島

現在の東京都中央区新川1、2丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り、島だったのでした。

船宿

舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。

柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。

【もっとしりたい 後半のあらすじ】

芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。

この噺は、前半と後半がある。

今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。

後半とは、どんな噺なのか。

霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。

実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。

半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」

結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。聴衆を弄んでる。筋の悪い同人誌を読む思い。できのよくない筋運びといえよう。オチもどこかで聞いたことのある、とってつけたようなものだし、それだけですでに凡庸でしかないう。

だからなのか、今では演じる者がいない。えんえんと長いし。

ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知れば、おのずとわかる。

宮戸川とは隅田川の別称である。おおざっぱには、駒形あたりから上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。

噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷あたりとなる。

ともに隅田川がらみの地だ。なによりも、お花が投げ捨てられたのが吾妻橋である。

隅田川は汽水の地。聖と俗、善と悪、生と死、うぶとなれが交錯し、すべてを洗い流してしまう象徴となる。

この噺は前半と後半で際立つ。「宮戸川」と題するのもそこに噺の核が隠されているからだろう。どこまでいっても隅田川まみれの噺なのである。

古木優





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ねずみあな【鼠穴】落語演目




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【どんな?】

金にまつわる壮大、シリアスな人間ドラマ、と思いきや……。

【あらすじ】

酒と女に身を持ち崩した、百姓の竹次郎。

おやじに譲られた田地田畑も、みんな人手に渡った。

しかたなく、江戸へ出て商売で成功している兄のところへ尋ねた。

奉公させてくれと頼むが、兄はそれより自分で商売してみろと励まし、元手を貸してくれる。

竹次郎は喜び、帰り道で包みを開くと、たったの三文。

馬鹿にしやがって、と頭に血が昇った。

ふと気が変わった。

地べたを掘っても三文は出てこない、と思い直した。

これで藁のさんだらぼっちを買い集め、ほどいて小銭をくくる「さし」をこしらえ、売りさばいた金で空俵を買って草鞋わらじを作る、という具合に一心不乱に働く。

その甲斐あって二年半で十両ため、女房も貰って女の子もでき、ついに十年後には深川蛤町はまぐりちょうに蔵が三戸前みとまえある立派な店の主人におさまった。

ある風の強い日、番頭に火が出たら必ず蔵の目塗りをするように言いつけ、竹次郎が出かけたのはあの兄の店。

十年前に借りた三文と、別に「利息」として二両を返し、礼を述べると、兄は喜んで酒を出し、
「あの時におまえに五両、十両の金を貸すのはわけなかったが、そうすれば景気付けに酒をのんでしまいかねない。だからわざと三文貸し、それを一分にでもしてきたら、今度は五十両でも貸してやろうと思った」
と、本心を語る。

「さぞ恨んだだろうが勘弁しろ」
と詫びられたので、竹次郎も泣いて感謝する。

店のことが心配になり、帰ろうとすると兄は、
「積もる話をしたいから泊まっていけ。もしおめえの家が焼けたら、自分の身代を全部譲ってやる」
とまで言ってくれたので、竹次郎も言葉に甘えることにした。

深夜半鐘が鳴り、蛤町方向が火事という知らせ。

竹次郎がかけつけるとすでに遅く、蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。

わずかに持ち出したかみさんのへそくりを元手に、掛け小屋で商売してみた。

うまくは行かず、親子三人裏長屋住まいの身となった。

悪いことにはかみさんが心労で寝付いた。

どうにもならず、娘のお芳を連れて兄に五十両借りにいく。

ところが
「元の身代ならともかく、今のおめえに五十両なんてとんでもねえ」
と、けんもほろろ。

店が焼けたら身代を譲ると言ったとしても、
「それは酒の上の冗談だ」
と突っぱねられる。

「お芳、よく顔を見ておけ、これがおめえのたった一人のおじさんだ。人でねえ、鬼だ。おぼえていなせえッ」

親子でとぼとぼ帰る道すがら、七つのお芳が、
「あたしがお女郎じょろうさんになっ、てお金をこしらえる」
とけなげに言ったので、泣く泣く娘を吉原のかむろに売り、二十両の金を得る。

その帰りに、大切な金をすられてしまった。

絶望した竹次郎。

首をくくろうと念仏を唱え、乗っていた石をぽんとけると、そのとたんに
「竹、おい、起きろ」

気がつくと兄の家。

酔いつぶれて夢を見ていたらしいとわかり、竹次郎、胸をなでおろす。

「ふんふん、えれえ夢を見やがったな。しかし竹、火事の夢は焼けほこるというから、来年、われの家はでかくなるぞ」
「ありがてえ、おらあ、あんまり鼠穴ァ気にしたで」
「ははは、夢は土蔵どぞう(=五臓ごぞう)の疲れだ」

【しりたい】

夢は五臓の疲れ   【RIZAP COOK】

五臓は心・肝・肺・腎・。陰陽五行説で、万物をすべて木・火・土・こん・水の五性に分類する思想の名残です。

「夢は五臓のわずらい」ともいいます。

それにしても、普通、夢の「悪役」(しかも現実には恩人)に面と向かって、馬鹿正直に「あんたが人非人に変わる夢を見ました」なんぞとしゃべりませんわなあ。

なんぞ、含むところがあるのかと思われてもしかたありません。

精神科医なら、どう診断するでしょう。

ハッピーエンドの方が、実は夢だった、とでもひっくり返せば、少しはマシな「作品」になるでしょうが。誰か改作しないですかね。

このオチ、「宮戸川」に似ています。

深川蛤町   【RIZAP COOK】

東京都江東区門前仲町の一部です。

三代将軍・家光公に蛤を献上したのが町名の起こりで、樺太探検で名高い間宮林蔵(1775–1844)の終焉の地でもあります。

三戸前   【RIZAP COOK】

「戸前」は、土蔵の入り口の戸を立てる場所。

そこから、蔵の数を数える数詞になりました。

三戸前みとまえ」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちのバロメーターでした。

さんだらぼっち   【RIZAP COOK】

俵の上下に付いた、ワラで編んだ丸いふた。桟俵さんだわらともいいます。

演者   【RIZAP COOK】

大正から昭和にかけての名人、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)へと継承されました。

円生は昭和28年に初演して以来、ほとんど一手専売にしていましたが、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)とその一門に伝わり、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)も、その一門もけっこうやっています。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)もよく演じましたが、田舎ことばは、この人がもっとも愛嬌があって達者でしたね。

あ、それと   【RIZAP COOK】

十代目小三治師匠といえば、昭和14年(1939)12月生まれで都立青山高校卒であることは有名な話ですが、東宝が、いや、日本が誇るアジアン・ビューティー、若林映子あきこさんも同年12月生まれで都立青山高校を出ています。

お二人は同級生だったそうです。

若い頃の小三治師匠(小たけ時代とか)に「郡山クン、おつかれさま」とかなんとか言って楽屋に差し入れを持って来てくれてたのでしょうか。勝手に想像しちゃいます。

彼女は「不良少女モニカ」とか呼ばれてたんだとか。ベルイマンのですかい。粋です。

    日本の至宝、若林映子さん。美女の頂点





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こほめ【子ほめ】落語演目

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【どんな?】

他人の子。
心にもなくほめる。
いやあ、気を使います。
愚者が半端に真似して。
失敗するおかしさが秀逸。

別題:年ほめ 赤子ほめ(上方)

あらすじ

人間がおめでたくできている熊五郎がご隠居のところに、人にただ酒をのましてもらうにはどうすればいいかと聞いてくる。

そこで、人に喜んでごちそうしようという気にさせるには、まずうそでもいいからお世辞の一つも言えなけりゃあいけないと教えられ、例えば、人は若く言われると気分がいいから、四十五の人には厄(四十一~三歳)そこそこ、五十なら四十五と、四、五歳若く言えばいいとアドバイスされる。

たまたま仲間の八五郎に赤ん坊が生まれたので、祝いに行けば酒をおごってもらえると算段している熊公、赤ん坊のほめ方はどうすればいいか聞くと、隠居がセリフを教えてくれる。

「これはあなたさまのお子さまでございますか。あなたのおじいさまに似てご長命の相でいらっしゃる。栴檀せんだん双葉ふたばより芳しく、じゃすんにしてその気をのむ。私も早くこんなお子さまにあやかりたい」

喜んで町に出ると、顔見知りの伊勢屋の番頭に会ったから、さっそく試してやろうと、年を聞くと四十歳。

四十五より下は聞いていないので、むりやり四十五と言ってもらい、
「えー、あなたは大変お若く見える」
「いくつに見える?」
「どう見ても厄そこそこ」
「ばか野郎ッ」
としくじった。

さて、八つぁんの家。

男の子で、奥に寝ているというから上がると、
「妙な餓鬼がきィ産みゃあがったな。生まれたてで頭の真ん中が禿げてやがる」
「そりゃあ、おやじだ」

いよいよほめる段になって、
「あなたのおじいさまに似て長命丸ちょうめいがんの看板で、栴檀の石は丸く、あたしも早くこんなお子さまにかやつりてえ」
「なんでえ、それは」
「時に、この赤ん坊の歳はいくつだい?」
「今日はお七夜だ」
「初七日」
「初七日じゃねえ。生まれて七日だからまだ一つだ」
「一つにしちゃあ大変お若い」
「ばか野郎、一つより若けりゃいくつだ」
「どう見てもタダだ」

しりたい

これも『醒睡笑』から

安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』(「てれすこ」参照)巻一中の「鈍副子どんふうす 第十一話」が原話です。副子とは、禅寺の会計を担当する僧侶のこと。

これは、脳に霞たなびく小坊主が、人の歳をいつも多く言うというので和尚にしかられ、使いに行った先で、そこの赤ん坊を見て、「えー、息子さんはおいくつで?」「今年生まれたから、片子かたこですよ」「片子にしてはお若い」というもので、「子ほめ」のオチの原型になっています。片子とは、満一歳未満の子、赤子をさします。

小咄こばなしがいくつか合体してできた噺の典型で、自由にくすぐり(ギャグ)も入れやすく、時間がないときはいつでも途中で切れる、「逃げ噺」の代表格です。

大看板も気軽に

そういうわけで、「子ほめ」は、逃げ噺、前座噺として扱われます。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目金馬(加藤専太郎、1894-1964)といったかつての大物も、時々気軽に演じました。

五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)の、ぶっきらぼうな口調も耳に残っています。

オチは、満年齢が定着した現在は、通じにくくなりつつあるため、難しいものがあります。

上方の三代目桂米朝(中川清、1925-2015)は、「今朝、生まれたばかりや」「それはお若い。どう見てもあさってに見える」としていました。

蛇は寸にしてその気をのむ

「その気を得る」「その気を顕す」ともいいます。

解釈は「栴檀せんだん双葉ふたばより芳し」と同じで、大人物は幼年からすでに才気を表している、という意味。「寸」は体長が一寸(3cm)の幼体のことです。

長命丸は四つ目屋から

俗に薬研堀やげんぼり、実は両国米沢町の「四つ目屋」で売り出していた強精剤、催淫剤です。

四つ目屋は、このほか「女悦丸」「朔日丸」(避妊薬)など、その方面のあやししげな薬を一手に取り扱っていました。

両国といわれると、いまではつい両国駅あたりを思い浮かべてしまいますが、四つ目屋の両国は両国橋西詰で、日本橋側です。となると、だいぶ印象が違ってきます。

さて、長命丸。

田舎のおやじが、長生きの妙薬と勘違いして長命丸を買っていき、セガレの先に塗るのだと教えられていたので、さっそく、ばか息子の与太郎の頭に塗りたくると、夜中に頭がコックリコックリ持ち上がった、という艶笑噺があります。

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ごしょううなぎ【後生鰻】落語演目

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【どんな?】

小動物を放つと功徳(よい報い)が。
本末転倒のばかばかしさ。
珍妙無比の最高傑作です。
これはもう志ん生のが絶品。

別題:放生会ほうじょうえ 淀川(上方)

【RIZAP COOK】

あらすじ

さる大家たいけ(金持ち)の主人。

すでにせがれに家督(財産)を譲って隠居の身だが、これが大変な信心家で、殺生せっしょう(生き物を殺す)が大嫌い。

夏場に蚊が刺していても、つぶさずに、必死にかゆいのをがまんしているほど。

ある日、浅草の観音さまへお参りに行った帰りがけ、天王橋のたもとに来かかった。

ちょうど、そこの鰻屋のおやじが蒲焼きをこしらえようと、ぬるりぬるりと逃げる鰻と格闘中。

隠居、さっそく義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。

「あたしの目の黒いうちは、一匹の鰻も殺させない」
「それじゃあ、ウチがつぶれちまう」
と、すったもんだの末、二円で買い取って、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳くどくをした」

翌日。

同じ鰻屋で、同じように二円で。

ボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

その翌日はスッポンで、今度は八円とふっかけられた。

「生き物の命はおアシには換えられない、買いましょう」
「ようがす」
というわけで、またボチャーン。

これが毎日で、喜んだのは鰻屋。

なにしろ隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、たちまち左うちわ。

仲間もうらやんで、
「おい、おめえ、いい隠居つかめえたな。どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」
などという連中も出る始末。

ところがそのうち、当の隠居がぱったりと来なくなった。

少しふっかけ過ぎて、ほかの鰻屋にまわったんじゃないかと、女房と心配しているところへ、久しぶりに向こうから「福の神」。

「ちょっとやせたんじゃないかい」
「患ってたんだよ。ああいうのは、いつくたばっちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくっとこう」

ところが、毎日毎日隠居を当てにしていたもんだから、商売は開店休業。

肝心の鰻もスッポンも、一匹も仕入れていない。

「生きてるもんじゃなきゃ、しょうがねえ。あの金魚……ネズミ……しょうがねえな、もう来ちゃうよ。うん、じゃ、赤ん坊」

生きているものならいいだろうと、先日生まれたわが子を裸にして、割き台の上に乗っけた。

驚いたのは隠居。

「おいおい、その赤ちゃん、どうすんだ」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「ばか野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」

隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

後生  【RIZAP COOK】

ごしょう。昔はよく「後生が悪い」とか「後生がいい」とかいう言い方をしました。後生とは仏教の輪廻転生説でいう、来世のこと。

現世で生き物の命を助けて功徳(よい行い=善行)を積めば、生まれ変わった来世は安楽に暮らせると、この隠居は考えたわけです。

五代将軍徳川綱吉(1646-1709)の「生類憐みの令」も、この思想が権力者により、ゆがんだ、極端な形で庶民に強制された結果の悲劇です。

悲劇と言い切れるかどうか。昨今は、綱吉の治世が再評価されてつつあります。社会福祉優先、文化優先の善政であった、と。これは別の機会に。

  【RIZAP COOK】

江戸市中に鰻の蒲焼きが大流行したのは、天明元年(1781)の初夏でした。てんぷらも、同じ年にブームになっています。

それまでは、鰻は丸焼きにして、たまり醤油などをつけて食べられていたものの、脂が強いので、馬方など、エネルギーが要る商売の人間以外は食べなかったとは、よく言い習わされている説ですね。

それまでも、眼病治療には効果があるので、ヤツメウナギの代わりとして、薬食いのように食べられることは多かったようです。

屈指のブラック名品  【RIZAP COOK】

オチが効いています。

こともあろうに、落語にモラルを求める野暮で愚かしい輩は、ごらんの結末ゆえに、この噺を排撃しようとしますが、料簡違いもはなはだしい。

このブラックなオチにこそ、えせヒューマニズムをはるかに超えた、人間の愚かしさへの率直な認識が見られます。

一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような名編の一つでしょう。

志ん生、金馬のやり方  【RIZAP COOK】

上方落語の「淀川」を東京に移したものです。明治期では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)がそれぞれの個性で得意にしていました。

志ん生、金馬は、信心家でケチな隠居が、亀を買って放してやろうとし、一番安い亀を選んだので、残った亀が怒って、「とり殺してやるっ」という小ばなしをマクラにしていました。

小円朝は、ふつう隠居が「いい功徳をした」と言うところを、「ああ、いい後生をした」とし、あとに「凝っては思案にあたわず」と付け加えるなど、細かい工夫、配慮をしていました。

この噺は、別題を「放生会ほうじょうえ」といいます。

これは旧暦八月十五日に生き物を放してやると功徳を得られるという、仏教行事にちなんだものです。

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あたごやま【愛宕山】落語演目




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【どんな?】

京でだんなが野駆け。
かわらけ代わりに小判投げ。
見るや幇間が傘で降下。

あらすじ

ころは明治の初年。

だんなのお供で、朋輩ほうばい(仲間)の繁八や芸者連中とうちそろって京都見物に出かけた幇間の一八。

負けず嫌いで、なにを聞かれても
「朝飯前でげす」
と安請け合いをするのが悪い癖。

あらかた市内見物も済み、今度は愛宕山に登ろうという時に、だんなに、
「愛宕山は高いから、おまえにゃ無理だろう」
と言われたが、一八は
「冗談言っちゃいけませんよ。あたしだって江戸っ子です。あんな山の一つや二つ、朝飯前でげす」
と見栄を張ったばっかりに、死ぬ思いでヒイヒイ言いながら登る羽目になった。

弟弟子の繁八をなんとか言いくるめて脱走しようとするが、だんなは先刻お見通しで、繁八に見張りを言いつけてあるから、逃がすものではない。

おまけに、途中でだんなに
早蕨さわらびの 握り拳を振り上げて 山の横面 春(=張る)風ぞ吹く」
という歌を自慢げに披露したまではいいが、
「それじゃ、早蕨(芽を出したばかりの蕨)ってえのはなんのことだ」
と逆に聞かれて、シドロモドロ。

おかげで十円の祝儀をもらい損なう。

ようやく山頂にたどり着くと、ここでは、かわらけ投げが名物。

茶屋のばあさんから平たい円盤を買って、頂上からはるか下の的に向かって投げる。

だんなは慣れていて百発百中。

夫婦投げという二枚投げも自由自在だが、一八がまた「朝飯前」と挑戦しても、全くダメ。

そのうちだんな、酔狂にもかわらけの代わりに本物の小判を投げ始めたから、さあ一八は驚いた。

「もったいない」
と止めると、
「おまえには遊びの味がわからない」
と、とうとう三十枚全部放ってしまう。

拾った奴のものだと言うので、欲にかられた一八、だんなが止めるのも聞かばこそ、千尋の谷底目がけ、傘でふわりふわりと落下。血走りまなこで落ちていた三十枚全部かき集めた。

「おーい、金はあったかー」
「ありましたァー」
「全部てめえにやるぞー」
「ありがとうございますゥー」
「どうやって登るゥー」
「あっ、しまった」
「欲張りめ。狼に食われてしまえ」

奴さん、何を考えたか、素っ裸になると着物を残らすビリビリと引き裂き、長い紐をこしらえると、そいつを嵯峨竹に引っかけ、竹の弾力を利用して、反動で空高く舞い上がるや、
「ただいまっ」
「えらいっ、きさまを生涯贔屓ひいきにしてやるぞ」
「ありがとう存じますっ」
「金は?」
「あっ、忘れてきた」

【RIZAP COOK】

底本:八代目桂文楽

しりたい

黒門町!  【RIZAP COOK】

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)からの直伝で「黒門町」こと八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が継承し、磨きに磨いて、一字一句ゆるがない名人芸に仕上げました。

特に後半の、竹をたわめる場面は体力を要するので、晩年、侍医に止められましたが、文楽は最後まで「愛宕山」に固執したといいます。

ひいさん   【RIZAP COOK】

この噺に出てくるだんなは、文楽のパトロンだったひいさんこと樋口由恵ひぐちよしえがモデルです。

樋口由恵ひぐちよしえ(1895-1974)は山梨県増穂町(富士川町)出身の経営者。

大正期に上京、昭和初期に川崎陸送を創業し成功させた立志伝中の人です。

桂文楽の話を正岡容(1904-58)が聞き書きしてまとめた『芸談あばらかべっそん』(桂文楽、青蛙房、1957年→朝日ソノラマ文庫、1967→ちくま文庫、1992年)。

こんなくだりが載っています。以下、ご参考まで。

私を大へんひいきにして下すったお方のひとりに樋口由恵さんとおっしゃるお方がございます。「東京新聞」の須田栄先生をやせさせたような感じの方です。
お家は甲府で、お父さんは樋口半六という県会議員もなすった方で、御本業は運送屋さんで、お邸の中にレールまでしいてあるという、すばらしい御商売振りなんです。
丁ど、大地震のすぐあとでしたネ、各派が一しょになって焼けのこった山の手の席をうっているころのことでした。
私は芝の席がトリでしたが、四谷の喜よしへ向嶋の待合から電話がかかって来ましてネ、
「ぜひ来て下さいよ。来て下さらないと。そのお客さまが大へんなんです」
と、こうなんです。
ところが生憎そのときはカケモチが何軒もあるので、
「折角ですが今晩は伺えません」
そういって断わると、一、二日してまた電話が、今度は幇間(たいこもち)からかかって来て、
「師匠助けるとおもって来て下さ