ばけものつかい【化け物つかい】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

【どんな?】

使い方の荒い男の噺。
権助ばかりか化け物まで。
こき使っちゃったりして。
モーレツにすごいです。

【あらすじ】

田舎から出てきた、意地っ張りの権助ごんすけ

日本橋葭町よしちょう桂庵けいあんから紹介された奉公人の口が、人使いが荒くて三日ともたないと評判の本所の隠居の家。

その分、給金はいいので、権助は
「天狗に使われるんじゃあるめえし」
と、強情を張って、その家に住み込むことに。

行ってみると、さすがの権助も度肝を抜かれた。

今日はゆっくり骨休みしてくれと言うので、
「なんだ、噂ほどじゃねえな」
と思っていると、その骨休みというのが、薪を十把じっぱ割り、炭を切り、どぶをさらい、草をむしり、品川へ使いに行って、
「その足でついでに千住に回ってきてくれ。帰ったら目黒へ行って、サンマを買ってこい」
というのだから。

しかも、
「今日一日は骨休みだから、飯は食わせない」
ときた。

それでも辛抱して三年奉公したが、隠居が今度、幽霊が出るという評判の家を安く買いたたき、今までの家を高く売って間もなく幽霊屋敷に引っ越すと聞かされ、権助の我慢も限界に。

化け物に取り殺されるのだけはまっぴらと、隠居に掛け合って三年分の給金をもらい、
「おまえさま、人はすりこぎではねえんだから、その人使え(い)を改めねえと、もう奉公人は来ねえだぞ」

毒づいて、暇を取って故郷に帰ってしまった。

化け物屋敷に納まった隠居、権助がいないので急に寂しくなり、いっそ早く化け物でも現れればいいと思いながら、昼間の疲れかいつの間にか居眠りしていたが、ふと気がつくと真夜中。

ぞくぞくっと寒気がしたと思うと、障子がひとりでに開き、現れたのは、かわいい一つ目小僧。

隠居は、奉公人がタダで雇えたと大喜び。

皿洗い、水汲み、床敷き、肩たたきとこき使い、おまけに、明日は昼間から出てこいと命じたから、小僧はふらふらになって、消えていった。

さて翌日。

やはり寒気とともに現れたのはのっぺらぼうの女。

これは使えると、洗濯と縫い物をどっさり。

三日目には、、やけにでかいのが出たと思えば、三つ目入道。

脅かすとブルブル震える。こいつに力仕事と、屋根の上の草むしり。

これもすぐ消えてしまったので、隠居、少々物足りない。

四日目。

化け物がなかなか出ないので、隠居がいらいらしていると、障子の外に誰かいる。

ガラっと開けると、大きな狸が涙ぐんでいる。

「てめえだな、一つ目や三つ目に化けていたのは。まあいい、こってい入れ」
「とんでもねえ。今夜かぎりお暇をいただきます」
「なんで」
「あなたっくらい化け物つかいの荒い人はいない」

    
底本:七代目立川談志

【しりたい】

明治末の新作  【RIZAP COOK】

明治末から大正期にかけての新作と思われます。

原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「ばけ物やしき」や、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「化物屋敷」などとされています。

興津要は、『武道伝来記』(井原西鶴、貞享4=1687年刊)巻三「按摩とらする化物屋敷」としています。

桂庵  【RIZAP COOK】

江戸時代における、奉公や縁談の斡旋業で、現在のハローワークと結婚相談所を兼ね、口入れ屋とも呼びました。

日本橋葭町には、男子専門の千束屋ちづかや、大坂屋、東屋、大黒屋、藤屋、女子専門の越前屋などがありました。

名の由来は、承応年間(1652-55)の医師・大和桂庵が、縁談の斡旋をよくしたことからついたとか。

慶庵、軽庵、慶安とも。

転じて、「桂庵口」とは、双方に良いように言いつくろう慣用語となりました。

名人連も手掛けた噺  【RIZAP COOK】

昭和後期でこの噺を得意にした七代目立川談志は、八代目林家正蔵(彦六)から習ったといいます。

その彦六は同時代の四代目柳家小さんから移してもらったとか。

いずれにしても、柳派系統の噺だったのでしょう。

昭和では七代目三笑亭可楽、三代目桂三木助、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝も演じました。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ぶんしちもっとい【文七元結】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

【どんな?】

博打三昧の長兵衛。娘が吉原に身売りに。
手にした大金でドラマがはじけます。
円朝噺。演者によってだいぶ違う噺に。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町だるまよこちょうに住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打ばくちに凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん。

法被はっぴ一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添のちぞいの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持てあましていると、出入り先の吉原、佐野槌さのづちから使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと内儀おかみさんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、内儀さんのかたわらでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打熱をやめさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、内儀さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、内儀さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日おおみそかまでに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら

「あたしも鬼になるよ」
と言い放ち、さらには、
「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、
「必ず迎えに来るから」
とお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋あずまばしに来かかった時。

若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛。

抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲べっこう問屋近江屋卯兵衛おうみやうへえの手代、文七。

橋を渡った小梅おうめの水戸さま(水戸藩下屋敷)で掛け取りに行き、受け取った五十両を枕橋まくらばしですられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなの卯兵衛は
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心。

長兵衛が文七に話した「吉原佐野槌」という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出す。

翌日。

卯兵衛は文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねる。

長兵衛夫婦は、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入った卯兵衛が事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠かごに乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと申し出る。

これから、文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂かいさかに元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

円朝の高弟、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が継承して得意にしました。

明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、五代目円生(村田源治、1884-1940、デブの)など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)に伝えました。

この二人が先の大戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の円楽、談志、志ん朝ももちろん得意にしていました。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なります。

円朝と円生とでは、吉原佐野槌→京町一丁目角海老、五十両→百両、日本橋横山町近江屋→白銀町三丁目近卯、麹町六丁目→麹町貝坂と、それぞれ異同があります。

五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、「佐野槌」「横山町近江屋」「五十両」が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町2丁目の近惣としていました。

五代目円生が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志(松岡克由、1935-2011)は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。

元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。

江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町1丁目から2丁目に登る坂です。

元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町6丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)です。

長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれました。

「人情噺文七元結」として、代表的な人気世話狂言になっています。

六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化は7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。

この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐります。

大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。

落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。

ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。

そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。

戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。

立女形たておやま(歌舞伎の立役や座頭ざがしらの相手役をつとめる座で最高位の女形)にして映画俳優でもあった、四代目中村雀右衛門(青木清治、1920-2012、七代目大谷友右衛門)の若き日ですね。

長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。

しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

https://www.youtube.com/watch?v=7FfdnIA5E_I

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

おばけながや【お化け長屋】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

江戸っ子は見かけとは裏腹に。
小心でこわがり。
そんな噺です。

別題:借家怪談 化け物長屋

あらすじ

長屋にだなの札。

長屋が全部埋まってしまうと大家の態度が大きくなり、店賃たなちんの値上げまでやられかねない。

そこで店子たなごの古株、古狸ふるだぬき杢兵衛もくべえが世話人の源兵衛と相談し、たなを借りにくる人間に怪談噺をして脅かし、追い払うことにした。

最初に現れた気の弱そうな男は、杢兵衛に
「三日目の晩、草木も眠る丑三うしみどき、独りでに仏前の鈴がチーン、縁側えんがわ障子しょうじがツツーと開いて、髪をおどろに振り乱した女がゲタゲタゲタっと笑い、冷たい手で顔をサッ」
雑巾ぞうきんで顔をなでられて、悲鳴をあげて逃げ出した。

おまけに六十銭入りのがま口を置き忘れて行ったから、二人はホクホク。

次に現れたのは威勢のいい職人。

なじみの吉原の女が年季が明けるので、所帯を持つという。

これがどう脅かしてもさっぱり効果がない。

仏さまの鈴がリーンと言うと
「夜中に余興があるのはにぎやかでいいや」
「ゲタゲタゲタと笑います」
「愛嬌があっていいや」

最後に濡れ雑巾をなすろうとすると
「なにしやがんでえ」
と反対に杢兵衛の顔に押しつけ、前の男が置いていったがま口を持っていってしまう。

この男、さっそく明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越してくる。

男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。

日頃から男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折を見てかねをチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。

仕上げは金槌かなづちで額をゴーンというひどいもの。

作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込んだ。

長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩あんまに、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら
「モモンガア」
と目をむいてくれと頼み、五人は蒲団のすそに潜って、大入道に見せかける。

ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。

按摩だけが残され
「モモンガア」。

「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間にいっぱい食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰しっこしがねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」

底本:五代目古今亭志ん生

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しりたい

作者は滝亭鯉丈  【RIZAP COOK】

江戸後期の滑稽本こっけいぼん(コミック小説のようなもの)作者で落語家を兼ねて稼ぎまくっていた滝亭鯉丈りゅうていりじょう(➡猫の皿)が、文政6年(1823)に出版した『和合人』初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。当然、作者当人も高座で演じたことでしょう。

上方落語では、「借家怪談」として親しまれています。初代桂小南(岩田秀吉、1880-1947)が東京に移したともいわれますが、すでに明治40年(1907)には、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)の速記もあり、そのへんははっきりしません。

なかなか聴けない「完全版」  【RIZAP COOK】

長い噺で、二転三転する上に、人物の出入りも複雑なので、演出やオチもさまざまに工夫されています。

ふつうは上下に分けられ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)など、大半は、二番目の男が財布を持っていってしまうところで切ります。

先の大戦後、最後まで演じたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)と六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)くらいで、志ん生も、めったにオチまでいかず、男が親方の家に駆け込んで、「幽霊がゲンコでなぐったが、そのゲンコの堅えのなんの」と、ぼやくところで切っていました。

尻腰がねえ  【RIZAP COOK】

オチの前の「尻腰しっこしがねえ」は、東京ことばで「いくじがない」という意味です。

昭和初期の頃には、すでに通じなくなっていたようです。

高級長屋  【RIZAP COOK】

このあらすじは、先の大戦後、この噺をもっとも得意とした五代目志ん生の速記をもとにしました。

登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した、けっこう高級な物件という設定を、志ん生はしています。

当然、それだけ高いはずで、時代は、最初の男が置いていった六十銭で「二人でヤスケ(寿司)でも食おう」と杢兵衛が言いますから、寿司の「並一人前」が二十五銭-三十銭だった大正末期か昭和初期の設定でしょうか。

志ん生は本題に入る前、この長屋では大家がかなり離れたところに住み、目が届かないので杢兵衛に「業務委託」している事情、住人が減ると、家主が店賃値上げを遠慮するなど、大家と店子、店子同士ののリアルな人間関係、力関係を巧みに説明しています。

貸家札  【RIZAP COOK】

志ん生は「貸家の札」といっています。

古くは「貸店かしだなの札」といい、半紙に墨書して、斜めに張ってあったそうです。

ももんがあ  【RIZAP COOK】

按摩を脅かす文句で出てきます。

ももんがあとは、ももんじいともいい、毛深く口が大きな、ムササビに似た架空の化物です。

ムササビそのものの異称でもありました。

口を左右に引っ張り、「ほら、モモンガアだ」と子供を脅しました。

リレー落語  【RIZAP COOK】

長い噺では、上下に分け、二人の落語家がそれぞれ分担して演じる「リレー落語」という趣向が、よくレコード用や特別の会であります。この噺はその代表格です。

【語の読みと注】
滝亭鯉丈 りゅうていりじょう

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

いどのちゃわん【井戸の茶碗】落語演目

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【どんな?】

細川家の若侍がくず屋から買った仏像中から五十両。
くず屋は金を売り主の浪人に。浪人は引き換えに茶碗を。
これが名器。藩主は三百両で。浪人は引き換えに娘を。
く「磨けば美人に」若「よそう。また小判が」

【あらすじ】

麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛。

古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、それが嫌だと言って、本当の紙くずしか買わないという正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。

ある日、とある裏長屋に入っていくと、十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められ、家に入ると、待っていたのはその父親で、千代田卜斎と名乗る。

うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人。

もとはしかるべき所に仕官していたが、今は昼間は子供に手習いを教え、夜は街に出て売卜(易者)をして、娘のお市と二人で、細々と暮らしを立てているという。

その卜斎が、家に古くから伝わるという、すすけた仏像を出し、これを二百文で買ってもらいたいと、頼む。

清兵衛は、本当なら品物は買わないが、親子の貧に迫られたようすに同情し、これを売ってもうけがあれば、いくらかでもこちらに持ってくると、約束して買い取る。

この仏像を御膳かごという竹かごに入れ、白金あたりを流して歩くと、細川さまの屋敷の高窓から、まだ二十三、四の侍が声を掛け、仏像を見て気に入ったのか、三百文で買ってくれた。

その侍、名を高木佐太夫といい、まだ独り身で、従僕の良造と二人暮らし。

さっそく、すすけた仏像を磨いていると、中で音がするので、これは腹籠りの仏で、中にもう一つ小さな仏像が入っていると見て取った佐太夫、中を開けてみると、なんと小判で五十両入っていた。

驚いて、仏像を売るようではよほど貧乏しているに違いないから、これは返してやらなければ、と思ったものの、あの、くず屋のほかに手掛かりはない。

そこで、良造に命じて毎日見張らせ、屑屋が通る度に顔を改めたので、これが業界の評判になり、多分仇でも探しているんだろうという噂になる。

清兵衛もこの話を聞きつけ、甘酒屋のふりをして細川邸の前を通り過ぎようとしたが、見つかって、佐太夫の前に連れていかれた。

佐太夫は金のことを話し、即刻届けてまいれと言いつけたので、清兵衛は驚いて卜斎の家に行き、金を渡すが、律儀一徹の卜斎、売ったからにはもうこの金は自分のものではないから受け取るわけにはいかないと、突っぱねる。

しつこくすすめると、手討ちにすると、怒りだしたから、清兵衛は慌てて長屋に逃げ帰った。

相談された大家が中に入り、五十両を三つに分け、佐太夫と卜斎に二十両ずつ、残りの十両は正直な清兵衛にやってくれと、提案。

佐太夫は承知したが、卜斎はまだ拒絶する。

それなら、金と引き換えに何か品物を佐太夫さまにお贈りになれば、あなたもお気が済むでしょうと、大家が口をきき、それではと、祖父の代からの古い茶碗を渡すことで、金の件は落着。

ところが、この茶碗が細川侯のお目にとまった。

これは「井戸の茶碗」といって世に二つとない名器だからと、佐太夫から三百両でお買い上げになる。

この半分の百五十両を卜斎に届けさせたが、卜斎は佐太夫の誠実さに打たれ、娘をもらってくれるよう、清兵衛を介して申し入れ、佐太夫も承知。

清「あの娘をご新造にして磨いてご覧なさい。大した美人になります」
佐「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

出典:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

もとは講談

もとは講談で、「細川茶碗屋敷由来」を人情噺にしたものです。

「茶碗屋敷」と題した、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)の古い速記(明治24年)が残っています。

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)と三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)の親子の系統ですね。

志ん朝のは絶品

志ん朝の「井戸の茶碗」は、はっきり言ってすばらしい。絶品です。涙が出ちゃいます。

落語には、オチのある落とし噺とオチのない人情噺、怪談噺があります。

これは、人情噺ですから、本来はオチなどなかったのですが、志ん生はこんなふうにオチをつけています。

オチがあったほうが、聴いているほうも「終わった」という安心感があるものです。

井戸の茶碗とは

「井戸の茶碗」とは、室町時代に朝鮮半島から渡ってきた高麗茶碗の中でもすこぶる有名なもの。奈良の興福寺の井戸氏が所有していたので、こう呼ばれていました。

細川氏は骨董好きな大名で有名なので、不自然な設定ではありません。

高木佐太夫が顔を出して、清兵衛を呼び止める「高窓」というものが登場しますが、これは、「曰窓いわく」ともいい、横桟一本だけがはめられた、武家屋敷の窓です。 

ちょうど、「論語」なんかでおなじみの「子、曰く……」の「曰」の字の形に似ているので、そう呼ばれていました。

江戸詰めの勤番侍

佐太夫のような江戸詰めの勤番侍の住居は、藩邸内の「長屋」で、二階建てが普通でした。

下は中間・小者、上に主人が住んでいます。

行商人からものを買うときには、表通りに面した高窓から声をかけ、そこからざるを下ろして品物を引き上げます。

これは、「石返し」という噺にも登場します。

売卜のこと

ところで、この噺では、易者のことを「売卜」と呼んでいます。

「卜」とは、骨片などを加熱してその割れ方から占うことをいいます。

古代の人は、こんなことで不可視なものを見ようとしていたんですね。

まあ、今では「占」と同じように使っています。

「占卜」とか「卜占」とかいった言葉もありますが、どっちも「占い」の意味です。

しかるに、「売卜」とは、占いを売る。言葉の遊びとはいえ、ちょっとおもしろくありませんか。

「千代田卜斎」とは、「千代田(=江戸)城の堀端で営業中の易者」というだけの意味で、世をしのぶ仮の名前。本名ではないのでしょうね、きっと。

卜斎先生のような大道の易者は、筋違御門から新橋にいたるまでの大通りに、最も多く出たといいます。

麹町や赤坂、四谷、愛宕下、上野の山下などの繁華街にも出没していたそうです。

山の手が多いのは、易者には卜斎同様に、浪人くずれが多かったためでしょうか。

中には名人もいたでしょうが、卜斎先生の腕のほどは、さあ、わかりません。

麻布谷町

清兵衛がいた麻布谷町は、正式には今井谷町いまいだにまちといい、現在の港区六本木二丁目あたり。アメリカ大使館宿舎の一部になっています。

今はともかく、当時はあまり豊かでない人たちが住んでいました。東京もずいぶんさま変わりしたものです。

正直清兵衛さん

ところで、この清兵衛さん、前々回に取り上げた「もう半分」にちょこっと紹介しています。

「もう半分」に似た因業で悲惨な噺「正直清兵衛」の主人公です。

こっちでは殺されちゃったりして、悲劇のおじさんでしたが、今回は、なかなかの老け役ですね。

こんなふうに、落語のキャラクターは、さまざまな噺に手を変え品を変えて登場するもの。

これも、落語のお楽しみのひとつといえますね。

【もっと知りたい】

3代目春風亭柳枝が「茶碗屋敷」として明治24(1891)年にやった速記では、浪人が高木佐太夫、細川藩士が吉田清十郎とある。

大正期の三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の「井戸の茶碗」では、今の形だ。

鶯亭金升(長井総太郎、1868.03.16-1954.10.31、雑誌記者or新聞記者or遊芸的文芸作者、竹葉亭昌安or竹葉亭金升or鶯亭化七or台山辺人など)の由来譚では、巣鴨の中屋敷が舞台で仏像を買ったのはそこの門番、売ったのは神田裏長屋の夫婦だとか。

今の形に至るまでには若干の異同があったようである。

五代目志ん生が得意とした。次男志ん朝の「井戸の茶碗」にいたっては絶品だった。親父のを超えていた。

井戸の茶碗とは、興福寺の井戸家が有した高麗渡来の茶碗なのだという。

この説明は噺には出てこない。

聴者は最後まで「井戸の茶碗」の正体を知らずじまい。

それでも別段不満は残らない。おかしな噺である。

登場する者すべてが善人である。

小悪党が憎めない「業の肯定」を尊ぶ落語には珍しい。

もとは「細川茶碗屋敷の由来」という講談だから、無理もない。

ここまでの善意を見せつけられると現代人には奇異にしか思えないものだが、この手の噺は冗長な運びだと目も当てられない。

善意に臭みが漂ってきて、聴いていられなくなるのだ。

志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。善意の臭さに気づく余裕もなく、三者のすがすがしさが小気味よい佳作だ。

古木優

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

よだんめ【四段目】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

『忠臣蔵』四段目、判官切腹の場が題材。
芝居好きのおかしさ爆発。

別題:芝居道楽 野球小僧 蔵丁稚(上方)

あらすじ

小僧の定吉は芝居好き。

今日もお使いに出たきり戻らないので、だんなはカンカン。

この前、だんなが後をつけて、芝居小屋に入るのを見届けているので、言い訳はきかない。

「今日こそはみっちり小言を言います」
と、だんなが待ち構えているのも知らず、定吉、ご機嫌でご帰還。

問いただされると、
「日本橋の加賀屋さんへ伺っておりまして、『今日は伺いかねる用がありますから、両三日中に伺いますのでよろしく』と、おっしゃいました」
と言い訳するが、当の加賀屋のだんながつい先刻まで来ていたのだから、とうにバレている。

それでもめげずに、
「あたしは芝居なんて嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、実に、この、けしからんもんで」

往生際が悪いので、だんなは一計を案じ、
「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、おまえは留守番だ」
と言い渡す。

定吉が焦り出すのを見て、
「今度の歌舞伎座の『忠臣蔵』は、歌右衛門の師直と勘三郎の与市兵衛の評判がいいそうだ」
とカマをかけると、たちまち罠にかかった。

「女方の歌右衛門が敵役の師直なんぞ、やるわけがねえ。あたしは今見てきました」
「この野郎ッ。こういうやつだ。今日という今日は勘弁なりません」

二、三日蔵へ。

「出してはなりません」
と、だんなの厳命で、定吉はとうとう幽閉の身。

しかたなく、今日見てきた『忠臣蔵』四段目・判官切腹の場を一人芝居で演じて気を紛らわしているうち、車輪になって熱が入り、
「御前ッ」
「由良之助かァ、待ちかねたァ」
とやったところで、腹が減ってどうしようもなくなった。

番頭が握り飯をこっそり差し入れてくれると約束したのに、忘れてしまったらしく、いっこうに届かない。

こうなれば、本格的に芝居をして空腹を忘れようと、蔵の箪笥を探すと、うまい具合に裃とお膳が出てきた。          

その上、ご先祖が差した九寸五分の短刀まであったから、定吉、大喜びで、お膳を三宝代わりに
「力弥、由良之助は」
「いまだ参上、つかまつりませぬ」
「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」
と九寸五分を腹へ。

そこへ女中がようすを見にきて、定吉が切腹すると勘違い。

あわててご注進すると、だんなも仰天。

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだ、間違いがあってはならない」
と、自分で鉢を抱えて、蔵の前にバタバタバタ。

戸前をガラリと開けると
「ご膳(御前)ッ」
「蔵のうちで(由良之助)かァ」
「ははッ」
「待ちかねたァ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

日本一の猪?  【RIZAP COOK】

天明8年(1788)刊江戸板『千年草』中の「忠信蔵」が原話で、上方落語「蔵丁稚」が東京に移されたものです。

原話の小咄では、商家の若だんなが丁稚を連れてお呼ばれに行き、早く着きすぎたので二人とも腹ペコ。そこで声色で忠臣蔵ごっこをして気をまぎらわそうとし、熱が入って「いまだ参上……」のセリフになったとき二階で「もし、御膳をあげましょう」の声。若だんなが「まま(飯)待ちかねたわやい」というもの。

上方の「蔵丁稚」は、船場の商家が舞台で、筋は同じですが、桂米朝では、だんなが「雁治郎と仁左衛門が五段目の猪をやる。日本一のイノシシや」とだまします。

東京のやり方  【RIZAP COOK】

明治32年(1899)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の速記では「碁泥」につなげて演じられています。六代目文治は芝居好きで知られます。

定吉が芝居小屋で赤ん坊の尻をこっそりつねって泣かせ、そのたびにあやそうと乳母が差し出す食べ物を失敬するという場面が前についていますが、この部分は現在は省かれます。

昭和に入ってからは、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)がよく演じましたが、現在はそれほど演じられていないようです。

仮名手本忠臣蔵  【RIZAP COOK】

人形浄瑠璃としては赤穂浪士の討ち入りから半世紀ほどを経た寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演されました。

二世竹田出雲(1691-1756、浄瑠璃作者、千前軒、外記)、並木宗輔(1695-1751、浄瑠璃作者、初代並木千柳)、三好松洛(?-1771、浄瑠璃作者)の合作で、歌舞伎では翌寛延2年2月、江戸森田座の上演が僅差でもっとも早いようです。記念すべき初代の大星由良之助役は山木京四郎、塩冶判官役は花井才三郎と、記録にあります。

四段目・判官切腹の場は、前段の高師直(=吉良上野介)への刃傷で切腹を命じられた塩冶判官(=浅野内匠頭)が九寸五分の短刀を腹に突き立てたとたん、花道からバタバタと大星由良之助(=大石内蔵助)が駆けつける名場面です。

江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用しました。

ちなみに、二世竹田出雲、並木宗輔、三好松洛の3人は、義太夫狂言の三大名作とされる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』とを作り上げた竹本座の作者です。

改作と類話  【RIZAP COOK】

二代目三遊亭円歌が芝居を現代風に野球に代え、「野球小僧」と改作したものを演じていました。

上方では、発端は「蔵丁稚」と同じですが、番頭が店の金を使い込んで女と芝居を見ていることを丁稚がだんなにバラし、番頭がクビになる「足あがり」があります。

忠臣蔵の噺  【RIZAP COOK】

「忠臣蔵」を題材とした噺は多くあります。「二段目」「五段目」「六段目」「七段目」「九段目」についても同題の噺があるほか、十段目についても艶笑小咄「天河屋義平」があります。

現在演じられるのは「四段目」と「七段目」くらいで、たまに別題「吐血」の「五段目」が「蛙茶番」ほか、芝居を扱った噺のマクラに振られます。

ことばよみいみ
蔵丁稚くらでっち
師直もろなお
高師直 こうのもろなお
与市兵衛 よいちべえ
箪笥 たんす
裃 かみしも
塩冶判官 えんやはんがん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

あさとも【朝友】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

仏教説話が原初の魂の入れ替わりが素材。
説話の「伊勢や日向の物語」も味付けに。

別題:朝友ともふさ 冥土の雪

【あらすじ】

病気で、この世とおさらばした男。

気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。

うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。

よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。小日向水道町松月堂の娘だ。

再会を喜び合ううちに
「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいからあなたのそばに置いてください」
と、女が言う。

男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょうという者の息子。

いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と夫婦約束。

ついでに、意気揚々と三途さんずの川も渡ってしまった。

ところが、地獄では閻魔えんま大王がお里に一目ぼれ。

生塚しょうづかの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。

亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。

そこはさすがに金貸しの息子。

親父が棺に入れておいてくれた、娑婆しゃばのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。

たどりついた三途の川のほとり。

生塚の婆さんの家では、毎日毎日、あわれ、お里が婆さんに責めさいなまされている。

「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華えいようえいがは望み次第。玉の輿こしじゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」

婆さん、お里の襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。

折しも、降りしきる雪。

極楽の鐘の音がゴーン。

男が難なく塀を乗り越え
「お里さん」
「そういう声は康次郎さん」

急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだした。

そのとたん、娑婆しゃばでは「ウーン」とお里が棺の中で息を吹き返す。

それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。

生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。

来あわせた坊さんが
「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向ひゅうが松月朝友まつづきともふさという方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀ふんやのやすひで。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向こびなた松月堂しょうげつどう、向こうが伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょう。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」
「でも和尚さん、向こうの都合もあります」
「いや、幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」

出典:四代目橘家円喬『百花園』13巻124号 明治27年6月20日

【しりたい】

文屋氏の読み方

平安時代前期の歌人で六歌仙の一、文屋康秀(?-885?)。小倉百人一首でも知られています。

吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ  小倉百人一首22番

文屋ふんや氏は文室ふんや氏のこと。八色やくさかばねの第一位である真人まひとを天武天皇から賜った一族です。

文屋の読みは「ふみや」→「ふんや」と訛ったようです。江戸時代には「ぶんや」と読む人も出てきました。元のいわれがわからなくなったからなのでしょう。われわれ現代人と同じです。

この一族、スタートは官人=文人だったのでしょうが、地方に赴任するごとに武人の要素が濃くなっていきます。

寛平の韓寇(893-4)で活躍した文屋善友、刀伊の入寇(1019)で活躍した文室忠光などは同族だったといわれます。「軍事貴族」と呼ばれる人々。武芸にひいでた貴族です。この人々は子孫は武士になっています。

文屋康秀は官人で歌人でしたが、これは平安初期だからで、その後の文屋氏=文室氏からは武人が多く輩出しているのです。

どちらにしても、「文屋」は「ふんや」と呼ばれていました。「ぶんや」ではありません。小倉百人一首の文屋康秀を「ぶんややすひで」と読む人はいません。

ただし、文屋康秀がいったいどんな人物だったのかは、よくわかっていません。現在では、小野小町や猿丸大夫といった伝説的な歌人の一人としてとらえられているだけです。

噺のなりたち

文屋康秀を題材とする民間伝承に加えて、『日本霊異記』(景戒、822年頃)や『今昔物語集』(作者不詳、1120年頃)に多く見られる死人が蘇生して地獄のさまを語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。

二書とも唐の「冥報記」(唐臨選、7世紀半ば)の影響を強く受けた説話集です。「朝友」の原型となる話は「冥報記」にも載っています。

江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の『軽口はるの山』中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)年刊『軽口夜明烏』中巻「死んでも盗人」が原話とされます。

前者では、幽霊がゴーストバスターに墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。

と、これはこれでつじつまは合っているのですが、文屋康秀が出てこないのが気がかりです。

そこで、『和漢三才図会』(寺島良安編著、1712年)。江戸時代の百科事典です。寺島は大坂の医師で、『三才図会』(明・王圻、1609年)に倣った大巻でした。三才とは天、地、人をさし、万物を意味します。なんでも、という意味ですね。この中の第71巻地理部「伊勢」の項目に「伊勢国安濃郡内田村天台宗長源寺の縁起」として載っています。

ここらへんは、二村文人氏の論考に従って、私も現物を確認していったまでのお話です。
長源寺の縁起譚は「雲林院」「西鶴名残の友」「国姓爺後日合戦」「たとへづくし」などにも使われているそうですから、寺島はそのような人口に膾炙された話を『和漢三才図会』にすくい取ったのでしょう。

「伊勢物語知顕抄」(和歌知顕抄とも、鎌倉期成立)は「伊勢物語」の注釈書ですが、ここには、伊勢の文屋吉員と日向の佐伯経基の話で使われています。

ここで文屋がやっと出てきました。

宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、これらの結果を咀嚼して、『和漢三才図会』を骨子としたうえで、「知顕抄」の説話を加味してこさえたのが「朝友」なのではないかと推測しています。

さらに。

二村氏によれば、文化12年(1829)刊の読本「伊勢日向 寄生木草紙」(栗杖鬼卵作)が、足利尊氏のお家騒動に「伊勢や日向の物語」のモチーフを取り込んでいるのだそうです。私は未見です。

この読本は、作者が「朝友」をつくるうえで参考にしたのかもしれません。

文屋吉員も佐伯経基も江戸の人にはピンときませんから、百人一首で名が知られた文屋康秀にまとめて親近感を与えようとしたのかとも思います。

話のこさえ方そのものが「伊勢や日向」なんですね。

歌舞伎では、「伊勢日向物語」(大坂新四郎座、1730年)や「伊勢や日向の物語」(大坂中山文七座、1759年)などが上演されているそうです。

すべてに共通するのは、抜け殻の肉体に魂が入れ替わることで蘇生する、というモチーフです。

そんなところではないでしょうか。

お里が生塚の婆さんに雪責めにされるところは、新内の「明烏夢淡雪」(「明烏」参照)中の遊女浦里雪責めの場面を採ったものです。

魂が肉体から抜け出てなにやらの所作をする噺には、「悋気の火の玉」があります。魂は登場しませんが、「粗忽長屋」もこの種の仲間に入れてよいでしょう。この噺は近代的な洗練を感じます。

上方噺には「魂の入れ替え」があります。

宇井無愁は「魂の入れ替え」と「朝友」を『落語のみなもと』(中公新書、1983年)で同列に論じています。たしかに同工の噺です。「魂の入れ替え」は柳家一琴師がやっています。

松月朝友

詳細は不詳です。

あらすじの参考にした四代目橘家円喬の明治27年(1894)の速記では、「ともふさ」とルビが振ってあります。

ただ、おもしろいことに、江戸期を通して、江戸の小日向には、伊勢屋という質屋で財を成した大金持ちが住んでいました。土地持ちです。

小日向の伊勢屋。

うまく使えばよかったのかもしれませんが。

でも、「朝友」の作者はどうも、日向と伊勢が遠く離れていることに眼目を置きたかったようですから、小日向と日本橋伊勢町という、このくらいの距離感が欲しかったのでしょう。まあ、しょうがない。

高利貸し

民間では座頭金といいます。

盲人の位階で最下位の座頭が、溜め込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位の検校ともなれば、大名貸しで巨富を築くものも少なくありませんでした。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)作「真景累ヶ淵」の発端で、旗本・深見新左衛門の屋敷に、貸金の取り立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦も、この座頭金を営み、その金利は5両に1分で返済期限4月という、とんでもない高利でした。

生塚の婆さん

脱衣婆だつえばのこと。地獄の入り口、三途の川の岸辺で無一文の亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹えりょうじゅという木の上にいる懸衣翁けんえおう(奪衣婆の隣に座っている老人の鬼爺)に渡すのが仕事の鬼婆です。通行料の六文銭があれば、そのまま渡れます。仏教での話です。

「生塚」は「正塚」とも書きますが、「三途河」がなまったものです。

水木しげるの怪奇漫画では常連ですね。

落語でも、「地獄八景」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場します。

「朝友」では本来の悪役ですが、このキャラ、どちらかというと、コミカルな情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原・山名屋のやり手のおかやばばあです。

完全に絶えた噺、と思いきや

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)以後、ほとんどやり手がなかったようです。

昭和になって、『名作落語全集』(騒人社、1929年)中に四代目円喬の速記が復刻されて以来、この噺は何度か活字化されています。でも、すべての活字はソースが円喬のものです。

四代目円喬以前も以後も、現在にいたるまで、音源も含めて、他の演者の記録はありませんでした。

地獄を脱出するサスペンスなど、なかなか捨てがたいので、どなたかがテキストレジーの上、復活してくれるとおもしろいのですがね。

と言っているうちに、時代はめぐりまして。

ところがなんとまあ、いまでは、桃月庵白酒柳家三之助柳亭左龍鈴々舎馬桜などがやっています。いやあ、これまたびっくり。至福の時代です。

文屋と朝友

円喬の速記によると、伊勢国(三重県)の文屋康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。

困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国(宮崎県)の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変わっていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという、奇妙キテレツな死人蘇生譚です。

円喬は、坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本については未詳です。

実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明。

わずかに、三河掾みかわのじょう(三河国の地方官の三席)となって赴任するときに、小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。

伊勢や日向

この噺は、「伊勢や日向」という俗諺(ことわざ)が下敷きになっています。

『岩波古語辞典 補訂版』には「伊勢」の項目に、「伊勢や日向」が説明されています。

物事の内容が食いちがって、まちがっていること。「伊勢や日向の物語」とも。

引用例は以下の通り。

げにげに、伊勢や日向のことは、たれかとさだめるべき  謡「雲林院」

謡曲からとられているわけで、「伊勢や日向」は中世の戦乱期に生まれた俗諺なのでしょう。人の死が日常的にあった時代での、人々の切なる願いがこのような噺に姿を変えたのではないかと思います。

とはいえ、今では聴いたことも使ったこともないことわざですが、話のつじつまが合わないこと、物事の順序がよくわからないことのたとえで使われていたようです。

魂の入れ替え噺が伊勢町のせがれと小日向の娘との間で繰り広げられるのは、このことわざの落語らしい「本歌取り」です。

【参考文献】宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)、二村文人「落語と俗伝」(「國語と國文学」東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)、関山和夫『説教の歴史的研究』(法蔵館 1973年)

【おことわり】「朝友」はなんと読むべきなのか。「あさとも」「ともふさ」と両方の読み方があるようです。本サイトが底本にしている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)では、当該頁(第3巻108頁下段)に、題名「朝友」のルビで「あさとも」と振られてあります。そうなのか、と思って噺を読んでいくと、本文の終わりに「松月朝友」の名が登場し、ルビは「まつゞきともふさ」とありました。表記の不統一です。厳密さに欠ける明治期らしい表記にあきれるべきなのか、そのおおらかさにほほえむべきなのか、はたまた、われわれのうかがい知れないところからの底意を汲みとるべきなのか。疑問は千々に乱れます。不勉強なわれわれのこと、この手の追究は遅々として進みません。いつの日かわれわれが腑に落ちるまでは、「朝友」の読み方を「あさとも」「ともふさ」と併記します。ちなみに、「とも」は「ふたつがいっしょになる状態」、「ふさ」は「いくつかが集まる状態」が、古語の解釈です。噺の真意をどこか暗示しているように見えます。ということは、「ともふさ→あさとも」と変遷していったのかなと、仮説も立てられます。この噺が流布されて以来百余年。「あさとも」の読みも通行していたわけですから、これを一方的に否定するのはいかがなものかと思います。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しにがみ【死神】落語演目

 

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

米津玄師も唸る幽冥落語の逸品。
元ネタはドイツ、はたまたイタリア由来とか。
ローソク使った寿命の可視化が真骨頂。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめたッ」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまったくらい。西本晃二『落語「死神」の世界』(青蛙房、2002年)です。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したのがイタリアのルイージ・リッチとフェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」で、この筋か、または、グリム童話「死神の名付け親」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴(源一郎、1841-1906、幕臣→劇作家、東京日日新聞社長、衆院議員)あたりから聞き込んで、落語に翻案したものといわれています。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。古来、日本にはこんなイメージがありません。日本では死神があんまり出てこないのです。

この噺で語られる死神はというと、ぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとったやせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

しかし、こんなのは日本文化にはなじまないもの。明らかに明治期に西洋から入ってきた死神の図像的な翻案です。

とはいえ、円朝は死神像をでたらめにこさえたわけでもありません。

江戸時代も後期になると、聖書を漢訳本で読んだ国学者たちの間で醸成していった西洋と日本の掛け合わせ折衷文化が庶民の日常にもじわじわと及ぼしてきます。

ついには、これまでの日本人がまったく抱いてこなかった「死を招く霊」が登場するのです。

たとえば、下図は『絵本百物語』(桃山人著、竹原春泉斎画、天保12年=1841年)の「死神」。このようにすっとんきょうな、乞食のようなじいさんのような姿の死神像も一例です。

日本の「死神」は古くからあまりイメージされてきていませんから、人々の心の中に一定のイメージがあるわけではありませんでした。

それでも「死神」というからには死を連想させるわけで、老人、病人、貧者の姿がおさまりよいのでしょう。異形のなりではありますが。

円朝の「死神」では、筋の上では西洋の翻案のためか、ギリシア風の死をつかさどる神とい、新しいイメージが加わっているようにも見えます。

日本では死神に対する誰もが抱く共通した図象イメージがなかったことが、円朝にはかえっておあつらえ向きだったことでしょう。

ローソクを人の寿命に見立てる考えなども、日本人にはまったくなかった発想でした。ここでの死神は、じつは、明治=近代の意識丸出しのそれなんですね。

「古典落語」といいながらも、大正期にできた噺までも許容しているわけです。

古典落語を注意深く聴いていると、妙に「近代」が潜り込んでいることに気づくときもあります。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家芸です。

明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味とユーモアが渾然一体で絶品でした。八五郎役は森川正太(新井和夫、1953-2020)。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」。昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承します。

先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意としました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、オチも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種でした。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のは、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

りんきのひのたま【悋気の火の玉】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「悋気」は「ねたみ」。
「吝嗇」は「けち」。
この噺はねたみがテーマなんですね。

【あらすじ】

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。

堅物を画に描いたような人間で、女房のほかは一人として女を知らなかった。

ある時、つきあいで強引に吉原へ誘われ、一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまった。

とどのつまりは、いい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになる。

本妻の方は、このごろだんながひんぱんに外泊するからどうもあやしいと気づいて調べてみると、やっぱり根岸の方にオンナがいることがわかったから、さあ頭に血がのぼる。

本妻はちくりちくりといやみを言い、だんなが飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」
という調子でふてくされるので、亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくない。

次第に本宅から足が遠のき、月の大半は根岸泊まりとなる。

そうなると、ますます収まらない本妻。

あの女さえ亡き者にしてしまえば、と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めた。

藁人形に五寸釘、恨みを込めて打ちつける。

その噂が根岸にも聞こえ、今度は花魁だった愛人の方が頭にくる。

「よーし、それなら見といで」
とばかり、こちらは六寸釘でカチーン。

それがまた知れると、本妻が負けじと七寸釘。

八寸、九寸と、エスカレートするうち、呪いが相殺して、二人とも同日同時刻にぽっくり死んでしまった。

自業自得とはいえ、ばかを見たのはだんなで、葬式をいっぺんに二つ出す羽目になり、泣くに泣けない。

それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立った。

鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。

ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、火花を散らして死闘を演じる、というのだ。

これを聞くとだんな、このままでは店の信用にかかわると、番頭を連れて大音寺前まで出かけていく。

ちょうど時刻は丑三ツ時。

番頭と話しているうちに根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、フンワリフンワリこちらへ飛んできて、三べん回ると、ピタリと着地。

「いや、よく来てくれた。いやね、おまえの気持ちもわかるが、そこは、おまえは苦労人なんだから、なんとかうまく下手に出て……時に、ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」
と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。

「いや、待ってました。いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

【しりたい】

これも文楽十八番  【RIZAP COOK】

安永年間(1772-81)に、吉原の大見世の主人の身に起きた実話をもとにしていると言われます。

原話は笑話本『延命養談数』中の「火の玉」です。

これは天保4年(1833)刊、桜川慈悲成(1762-1833)によるもの。

現行は、この小咄のほとんどそのままの踏襲で、オチも同じ。

わずかに異なるのが、落語では、オチの伏線になる本妻の、「あたしのお給仕なんかじゃ…」というセリフを加えるなど、前半のの筋に肉付けしてあるのと、原話では、幽霊鎮めに最初、道心坊(乞食坊主)を頼んで効果がなく、その坊さんの忠告でしぶしぶだんあ一人で出かけることくらいです。

この噺を十八番の一つとした八代目桂文楽は、仲介者を麻布絶口木蓮寺の和尚にして復活させていました。

文楽は、だんながお妾と本妻にそれぞれ白髪と黒髪を一本ずつ抜かれ、往復するうちに丸坊主、というマクラを振っていました。

文楽の没後は五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)がよく演じ、現在でも高座に掛けました。

音源は文楽のみです。

ケチと悋気は親類?  【RIZAP COOK】

悋(ねたむ)と吝(おしむ)は同訓で、悋には吝嗇(吝も嗇もおしむ)、つまりケチと嫉妬(悋気)の二重の意味があります。

一つの漢語でこの二つを同時に表す「吝嫉りんしつ」という言葉もあるため、ケチとヤキモチは裏腹の関係、ご親類という解釈だったのでしょう。

こじつけめきますが、よく考えれば原点はどちらも独占欲で、他人が得ていて自分にない(または足りない)ものへの執着。

それが物質面にのみ集中し、内向すればケチに、広く他人の金、愛情、地位などに向かえば嫉妬。

悋気は嫉妬の中で、当事者が女、対象が性欲と、限定された現れなのでしょう。

やきもちは遠火で焼け  【RIZAP COOK】

「ヤキモチは 遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず 味わいもよし、なんてえことを申します」
「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」
というのは、落語の悋気噺のマクラの紋切り型です。

別に、「チンチン」「岡チン」「岡焼き」などともいいます。

「チンチン」の段階では、まだこんろの火が少し熾きかけた程度ですが、焼き網が焦げ出すと要注意、という、なかなか味わい深いたとえです。

花川戸  【RIZAP COOK】

花川戸は、現在の台東区花川戸一、二丁目。

西は浅草、東は大川(隅田川)、北は山の宿で、奥州街道が町を貫き、繁華街・浅草と接している場所柄、古くから開けた土地でした。

芝居では、なんと言っても花川戸助六と幡随院長兵衛の二大侠客の地元で名高いところです。

花川戸から北の、山の宿(現在は台東区花川戸に統合)にかけて、先の大戦前まではこの噺の通り、下駄や雪駄の鼻緒問屋が軒を並べていました。今は靴などの製造卸業が多く並びます。

そういえば、舞台で助六が髭の意休の頭に下駄を乗せますが、まさか、スポンサーの要請では……。

大音寺  【RIZAP COOK】

台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺をさします。

向かいは、樋口一葉(樋口なつ、1872-96)ゆかりの地、かつての下谷竜泉寺町です。

箕輪の浄閑寺(浄土宗、荒川区南千住二丁目)、新鳥越橋南詰(台東区浅草七丁目)にあった西方寺(浄土宗、俗称は土手の道哲、豊島区西巣鴨に移転)とともに、吉原のお女郎さんのむくろが投げ込まれる、投げ込み寺でもありました。

蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した物騒なところで、幽霊など、まだかわいい方です。

【語の読みと注】
悋気 りんき
吝嗇 りんしょく
悋嫉 りんしつ

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やってみたい人

おけちみゃく【お血脈】落語演目

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【どんな?】

善光寺で「血脈の御印」をもらえば極楽に行ける。
その結果、地獄は閑古鳥状態。
地獄の起死回生、御印盗みに石川五右衛門を。
五右衛門は善光寺に乗り込み、御印を見つけた。
会話なし。噺家が語り進めていく地噺。

別題:血脈 骨寄せ(上方) 善光寺骨寄せ(上方)

【あらすじ】

信濃の善光寺で、お血脈の御印というのを売り出した。

これは、百文出して額に印を押してもらえば、どんな罪を犯しても極楽往生間違いなしという、ありがたい代物。

なにしろ、たった百文出せば、人を何万人絞め殺そうが罪業消滅というのだから、世界中から人が押しかけ、ハンコ一つで一人残らず極楽へ行ってしまい、しまいには地獄へ来るものが一人もなくなった。

おかげで地獄では不景気風が吹き荒れ、浄玻璃の鏡などの貴重品はおろか、鬼の金棒に至るまですべて供出させ、シャバの骨董屋に売っぱらってしまうありさま。

赤鬼も青鬼も栄養失調で餓生(?)寸前。

虎の皮のフンドシまで売りとばし、前を隠してフラフラと血の池をさまよっている。

元締めの閻魔大王も、このままでは失脚必至とあって、幹部を集めて対策会議。

部下の見る目と嗅ぐ鼻(ともに探査係)が、こうなれば誰か腕のいい大泥棒を雇い、元凶の、例のお血脈を盗み出すほかないと提案し、全会一致でそれに決まった。

問題は泥棒の人選で、ありとあらゆる大泥棒のリストをあさったが、いずれも帯に短したすきに長しで、結局、最後は人格力量抜群のご存じ、石川五右衛門と決定。

さて五右衛門、地獄の釜の中で都々逸どどいつを三十六曲歌ってのぼせているところ。

大王からのお召しとあって、シャバにいたころそのままに、黒の三枚小袖、朱鞘の大小、素網を着て、重ね草鞋、月代を森のごとくに生やし、六方を踏みながらノソリノソリと御前へ。

「……これこれしかじかだが、血脈の印を盗み出せるのはその方以外になし。やってのけたら重役にしてやる」
「ハハー、いとやすきことにござりまする」

というわけで、久しぶりにシャバに舞い戻った五右衛門、さすがに手慣れたもので、昼間は善光寺へ参詣するように見せかけて入り込み、ようすを探った上で、夜中に奥殿に忍び入って血脈を探したが、なかなか見当たらない。

そのうち立派な箱が見つかったので、中を改めるとまさしくお血脈の印。

見つかったらさっさと地獄へ持って帰ればいいものを、この泥棒、芝居気があるから、
「ありがてえ、かっちけねえ。まんまと首尾しゅびよく善光寺の、奥殿おくどのへ忍び込み奪い取ったるお血脈の印。これせえあれば大願成就」
と押しいただいて、そのままスーッと極楽へ。

底本:四代目橘家円蔵、六代目三遊亭円生

【しりたい】

善光寺の伝承に由来

はっきりした原話は不明ですが、信濃の善光寺にまつわる縁起・伝承が起源とみられます。

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の明治44年(1911)の速記が残っています。

その円蔵の演出を踏襲して、戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしました。

円蔵、円生ともにマクラに釈迦の逸話と善光寺の由来を滑稽化して入れています。

上方では、芝居の「骨寄せの岩藤」の趣向を取り入れ、五右衛門のバラバラになった骨を集めて蘇生させるというやり方なので「善光寺骨寄せ」「骨寄せ」の題でも演じます。

お血脈

おけちみゃく。

六代目円生が生前、善光寺に参詣していただいてきたと語っていました。

それによると、上書きに「信州善光寺、融通念仏血脈譜、別当大勧進」とあり、裏は中央に「浄業者」、脇に「念佛弟子、日課、百遍」、紙包みの中には半紙一枚に、中央に「良忍上人直授元祖聖應大師」、以下、多数の大僧正、上人、阿闍梨(高位の僧侶)の名が書きつらねてある、とのこと。

「血脈」とは、仏教で師匠から弟子に伝えられる戒律や系譜書です。

それを伝えることを「血脈相承」といい、在家の信者にその儀式を省略して護符のように分け与えたのが「お血脈」の始まりとか。

のちに札になりましたが、かつては額に直接押印していました。

ただしタダではなく、浄財百疋(一疋=二十五文)が必要です。

たった二分ちょっとで極楽往生できれば、安いものです。

善光寺

長野市元善光寺町にあります。

無宗派の単立寺院。天台宗と浄土宗とで運営管理されている、珍しい寺です。

本尊は三国伝来一光三尊阿弥陀如来。

天竺(=インド)から閻浮檀金という身の丈一寸八分の阿弥陀像が渡来、それを「仏敵」の物部守屋が難波ヶ池に簀巻きにして放り込み、「処刑」。

それを見つけた本多善光が、仏像を信州に勧請(神仏の分霊を迎える)して寺ができた、というのが沿革です。

本多善光が実在したかどうか。今のところ、可能性は薄いそうです。

石川五右衛門

伝説上の人物として、長く小説、芝居、落語などさまざまなジャンルで取り上げられてきました。

当人が主人公として直接登場するものは意外に少なく、落語ではこの「お血脈」でしょう。

ほかに、歌舞伎では「絶景かな……」で有名な「楼門の場」を含む「釜渕双級巴」、小説では古くは司馬遼太郎の「梟の城」、平成になってからは赤木駿介の「石川五右衛門」、劇画ではケン月影の「秀吉に挑んだ男石川五右衛門」などが、主なところでしょうか。

地噺

じばなし。セリフがほとんどなく、演者の地の語りを中心に進める噺のこと。

その意味では講談に近いわけですが、あれほどエクセントリックではなく、淡々と語ります。

「あたま山」「西行」「紀州」など、歴史上の人物の逸話や民間伝承、寺社縁起などを題材にしたものが多く、江戸前落語特有のジャンルといえます。

短くても笑いが少なく、地味なものが多いので、飽きずに聴かせるには円熟した話芸が必要です。生半可な噺家にはこなせません。

そういう意味では、いまどきははやらないでしょう。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)などは、滋味あふれる地噺の名手で、その語り口は、晩年にはさながら高僧の説教のような趣があったものです。いささか眠くなりますが。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やってみたい人

ねこのさら【猫の皿】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

お目当ては皿か猫か。
柳家小三治師匠が最後にやった演目です。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

あらすじ

明治の初年。

ある端師はたしが、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

しりたい

滝亭鯉丈

原作は、滝亭鯉丈りゅうていりじょう(?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。

鯉丈という人は、滑稽本作者、つまり、今でいう流行作家。

滑稽本というのは、『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のようなユーモア小説、コミック小説です。鯉丈は落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。

自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。

原作では猫じゃなくて猿! 

それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。

汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。

改めて、鯉丈について文学辞典ふうに。

滝亭鯉丈、本名は池田八右衛門。

生年は不明ですが、没年は天保12年(1841)6月10日です。

享年(数え年での没年齢)は60余とのこと。小石川の称名寺に葬られています。養家に入った池田家は300石取りの旗本でしたが、鯉丈が入婿した時には禄を失っていたそうです。

下谷広徳寺門前稲荷町で櫛屋を商っていましたが、浅草伝法院前に移り、さらに浅草駒形町河岸通りに引っ越しました。

三田村鳶魚みたむらえんぎょが取材した鯉丈の曽孫の話では、乗物師、または縫箔屋だったとか。

新内節の名手で遊芸にも通じ、寄席芸人だったとのこと。

器用な人だったのですね。これは、鯉丈の著作や弟だという話もある為永春水の著作からうかがえることです。

滑稽本作者としては、最初は十返舎一九や式亭三馬の亜流のようなものをいくつか出していましたが、一九と三馬の作風をまぜこぜにしたような『八笑人』初編-四編追加(文政3-天保5年刊)と『和合人』初-三編(文政6-天保12年刊)で知られるようになりました。

「廃頽期の江戸町人の低俗な遊戯生活を写実的に描いて独自の位置を占め、鯉丈の名が文学史に記録されるのは、この二作によるものである。他には、文政年間の二世南仙笑楚満人(為永春水)の作に合作者として関与したこともあり、人情本に『明烏後正夢あかがらすのちのまさゆめ』初-三編(文政二-五年刊)、『霊験浮名滝水』(同九年刊)があるが、いうに足りない」

これは『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985年)での神保五弥じんぼかずや(1923-2009、早大、江戸文学)の言。

手厳しいですが、文学史的にはそんなところなのでしょう。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。

「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立やたて(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。

この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬うわぐすりで黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。

梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でした。

絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当といえるでしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。

なかなかおもしろい見方です。

志ん生がただのいきあたりばったりでなく、相当な勉強家でもあったこともよくわかります。

最近のでいちばんのおすすめは、柳家小三治でした。

この方に尽きました。

あのすっとぼけたかんじがね、なんともね、よかったのでした。ザンネン。

【蛇足】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。

骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。

オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。表現力の乏しい噺家には意外に難しいかもしれない。

もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから、今ではこの題が一般的になってしまった。

志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪うちくるわだけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形ますがたもこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋うまやばし、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20年(1887) 
厩橋   明治26年(1893) 
両国橋  明治37年(1904) 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。

さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44年(1911)のもの。彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころの話のようである。とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-17)刊行の滝亭鯉丈『大山道中膝栗毛』に「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて、
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん、
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

古木優

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やってみたい人

しばはま【芝浜】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

明け方、浜で財布を拾った間抜けな棒手振り。
大金手にして奈落の幕開け。賢い女房が悪運うっちゃる。
三題噺のせいかむちゃくちゃな筋運び。円朝噺。

別題:うまいり 芝浜の皮財布 芝浜の財布

あらすじ

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。

腕はいいし人間も悪くないが、大酒のみで怠け者。

金が入ると片っ端から質入してのんでしまい、仕事もろくにしないから、年中裏店住まいで店賃もずっと滞っているありさま。

今年も師走で、年越しも近いというのに、勝公、相変わらず仕事を十日も休み、大酒を食らって寝ているばかり。

女房の方は今まで我慢に我慢を重ねていたが、さすがにいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

亭主はぶつくさ言って嫌がるが、盤台もちゃんと糸底に水が張ってあるし、包丁もよく研いであり、わらじも新しくなっているという用意のよさだから文句も言えず、しぶしぶ天秤棒を担ぎ、追い出されるように出かける。

外に出てみると、まだ夜は明けていない。

カカアの奴、時間を間違えて早く起こしゃあがったらしい、ええいめえましいと、勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。

海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてきた。

顔を洗おうと波打ち際に手を入れると、何か触るものがある。

拾ってみるとボロボロの財布らしく、指で中をさぐると確かに金。

二分金で四十二両。

さあ、こうなると、商売どころではない。

当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ますと、年を越せないから仕入れに行ってくれと言う。

金は四十二両もあるじゃねえかとしかると、どこにそんな金がある、おまえさん夢でも見てたんだよ、と、思いがけない言葉。

聞いてみるとずっと寝ていて、昼ごろ突然起きだし、友達を呼んでドンチャン騒ぎをした挙げ句、また酔いつぶれて寝てしまったという。

金を拾ったのは夢、大騒ぎは現実というから念がいっている。

今度はさすがに魚勝も自分が情けなくなり、今日から酒はきっぱりやめて仕事に精を出すと、女房に誓う。

それから三年。

すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。

得意先もつき、金もたまって、今は小さいながら店も構えている。

大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両。

実は亭主が寝た後思い余って大家に相談に行くと、拾った金など使えば後ろに手が回るから、これは奉行所に届け、夢だったの一点張りにしておけという忠告。

そうして隠し通してきたが、落とし主不明でとうにお下がりになっていた。

おまえさんが好きな酒もやめて懸命に働くのを見るにつけ、辛くて申し訳なくて、陰で手を合わせていたと泣く女房。

「とんでもねえ。おめえが夢にしてくれなかったら、今ごろ、おれの首はなかったかもしれねえ。手を合わせるのはこっちの方だ」

女房が、もうおまえさんも大丈夫だからのんどくれと、酒を出す。

勝、そっと口に運んで、
「よそう。……また夢になるといけねえ」

https://www.youtube.com/watch?v=MldXGcZWrQk

しりたい

三題噺から

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が幕末に、「酔っ払い」「芝浜」「財布」の三題で即席にまとめたといわれる噺です。➡鰍沢

先の大戦後、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、四代目柳家つばめ(深津龍太郎、1892-1961)と安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説、評論)のアドバイスで、白魚船のマクラ、夜明けの空の描写、オチ近くの夫婦の情愛など、独特の江戸情緒をかもし出す演出で十八番とし、昭和29年度の芸術祭賞を受賞しましたが……。

アンツルも三木助も自己陶酔が鼻につき、あまりにもクサすぎるとの評価が当時からあったようです。

まあ、聴く人によって、好き嫌いは当然あるでしょう。

芝浜の河岸

現在の港区芝浦1丁目付近に、金杉浜町という漁師町がありました。

そこに雑魚場という、小魚を扱う小規模な市があり、これが勝五郎の「仕事場」だったわけです。

桜の皮

今と違って、昔は、活きの悪い魚を買ってしまうこともありました。

あす来たら ぶてと桜の 皮をなめ   五25

魚屋に鮮度の落ちた鰹を売りつけられた時には、桜の皮をなめること。毒消しになると信じられていました。

いわし売り

そうは言っても、鰹以上に鰯は鮮度の落ちるのが早いものです。

気の迷いさと 取りかへる いわし売   六19

長屋のかみさんが鰯の目利きをしている光景のようです。

「気の迷いさ」とは魚屋の常套句なんですね。

鰯はちょっと変わった魚です。たとえがおもしろい。「鰯」と言ったら、錆びた刀の意味にも使われます。「赤鰯」とも。

たがや」などに登場します。武士をあざける象徴としての言葉です。

本阿弥の いわしは見れど 鯨見ず   十三

鰯と鯨の対比とは大仰な。鰯は取るに足りない意味で持ちだされます。

「いわしのかしらも信心から」ということわざは今でも使われます。江戸時代に生まれた慣用句です。

「取るに足りないつまらないものでも、信心すればありがたいご利益や効験があるものだ」といった意味ですね。

いわし食った鍋

「鰯煮た鍋」「鰯食った鍋」という慣用句も使われました。

「離れがたい間柄」といった意味です。

そのココロは、鰯を煮た鍋はその臭みが離れないから、というところから。

いわし煮た 鍋で髪置 三つ食ひ   十

「髪置」とは「かみおき」で、今の七五三の行事の、三歳の子供が初めて髪を蓄えること。

今は「七五三」とまとめて言っていますが、江戸時代にはそれぞれ独自の行事でした。「帯解」は「おびとき」で七歳の女児の行事、「袴着」は「はかまぎ」で三歳の男児の行事、これはのちに五歳だったり七歳だったりと変化しました。

それと、三歳女児の「髪置」。三つともお祝い事であることと、11月15日あたりの行事であることで、明治時代以降、「七五三」と三つにまとめられてしまいました。

それだけ、簡素化したわけです。といった前提知識があると、上の川柳もなかなかしみじみとした含蓄がにじみ出るものです。「大仏餅」参照。

「芝浜だけに……」

2020年に開業した山手線の新駅がありました。

場所は、品川駅と田町駅の間にです。名称は結局のところ、「高輪ゲートウェイ駅」に決まりました。

ふりかえれば、駅名を公募で決めることが、2018年6月に発表されました。ネット上ではさまざまな予想が談論風発でした。

地域は芝浦です。落語演目の「芝浜」がいいのではないか、と予想する人が多数いたのは当然の現象でしょう。

ウェブ上での投票数で「芝浜駅」は3位でした。

1位でなかったのは、この演目がまだ一般には浸透していないあかしでしょう。噺ができてもう160年にもなるのに。惜しい。

結果は「高輪ゲートウェイ駅」でした。

「夢になっちゃったね。芝浜だけに」

ネット上での投稿が、こんなことばであふれかえったものでした。いまとなっては懐かしい椿事です。ある噺家さんは「えん高輪たかなわゲートウェイ」と。さすがですなあ。

ゲートシティは大崎ですね

ことばよみ意味
店賃たなちん家賃



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ときそば【時そば】落語演目



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【どんな?】

落語と言えばこれでしょうか。
みんなが知ってる「なんどきだい」のアレ。
名人がやるとがぜん映えますね。
侮れない噺なんです。

別題:時うどん(上方)

あらすじ

夜鷹そばとも呼ばれた、屋台の二八にはちそば屋。

冬の寒い夜、屋台に飛び込んできた男、
「おうッ、何ができる? 花巻きにしっぽく? しっぽくゥ、しとつ、こしらえてくんねえ。寒いなァ」
「今夜はたいへんお寒うございます」
「どうでえ商売は? いけねえか? まあ、アキネエってえぐらいだから、飽きずにやんなきゃいけねえ」
と最初から調子がいい。

待って食う間中、
「看板が当たり矢で縁起がいい、あつらえが早い、割り箸を使っていて清潔だ、いい丼を使っている、鰹節をおごっていてダシがいい、そばは細くて腰があって、ちくわは厚く切ってあって……」
と、歯の浮くような世辞をとうとうと並べ立てる。

食い終わると
「実は脇でまずいそばを食っちゃった。おまえのを口直しにやったんだ。一杯で勘弁しねえ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手ェ出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「九ツで」
「とお、十一、十二……」

すーっと行ってしまった。

これを見ていたのがぼーッとした男。

「あんちきしょう、よくしゃべりやがったな。はなからしまいまで世辞ィ使ってやがら。てやんでえ。値段聞くことねえ。十六文と決まってるんだから。それにしても、変なところで時刻を聞きやがった、あれじゃあ間違えちまう」
と、何回も指を折って
「七つ、八つ、何どきだい、九ツで」
とやった挙げ句
「あ、少なく間違えやがった。何刻だい、九ツで、ここで一文かすりゃあがった。うーん、うめえことやったな」

自分もやってみたくなって、翌日早い時刻にそば屋をつかまえる。

「寒いねえ」
「へえ、今夜はだいぶ暖かで」
「ああ、そうだ。寒いのはゆんべだ。どうでえ商売は? おかげさまで? 逆らうね。的に矢が……当たってねえ。どうでもいいけど、そばが遅いねえ。まあ、オレは気が長えからいいや。おっ、感心に割り箸を……割ってあるね。いい丼だ……まんべんなく欠けてるよ。のこぎりに使えらあ。鰹節をおごって……ぶあっ、塩っからい。湯をうめてくれ。そばは……太いね。ウドンかい、これ。まあ、食いでがあっていいや。ずいぶんグチャグチャしてるね。こなれがよくっていいか。ちくわは厚くって……おめえんとこ、ちくわ使ってあるの? 使ってます? ありゃ、薄いね、これは。丼にひっついていてわからなかったよ。月が透けて見えらあ。オレ、もうよすよ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手を出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「四ツで」
「五つ六つ七つ八つ……」

しりたい

夜鷹そば   【RIZAP COOK】

夜鷹は、本所吉田町や柳原土手やなぎはらどてを縄張りにした、「野天営業」の街娼ですが、その夜鷹がよく食べたことからこの名がつきました。

ですから、本来は夜鷹の営業区域に屋台を出す夜泣きそば屋だけに限った名称だったはずなのです。

夜泣きそば(夜鷹)は一杯16文と相場が決まっていて、異名の二八そばは二八の十六からきたとも、そば粉とつなぎの割合からとも諸説あります。

夜鷹そばの値上げ

種物たねものが充実して、夜鷹そばが盛んになったのは文化ぶんか年間(1804-18)から。

ちなみに、夜鷹の料金は一回24文で、それより8文安かったわけですが、幕末には20文に、さらに24文に値が上がりました。

明治になると、新興の「夜泣きうどん屋」に客を奪われ、すっかり衰退しました。

何どきだい?   【RIZAP COOK】

冬の夜九ツ刻ここのつどきはおよその刻、午前0-2時。

江戸時代の時刻は明け六ツから、およそ2時間ごとに五四九八七、六五四九八七とくり返します。

後の間抜け男が現れたのは四ツですから、夜の10-0時。

あわてて2時間早く来すぎたばっかりに、都合8文もぼられたわけです。

ひょっとこそば   【RIZAP COOK】

この噺を得意にしていた三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、マクラに「ひょっとこそば」の小ばなしを振っています。

客が食べてみるとえらく熱いので、思わずフーフー吹く、「あァたのそのお顔が、ひょっとこでござんす」

これは、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)もやりました。

蛇足   【RIZAP COOK】

それまでそばの代金の数え方を「ひいふうみい」とする演者が多かったのを、時刻との整合から、「一つ、二つ」と改めたのは三代目三木助でした。

なるほど、こうでなければそば屋はごまかされません。今ではほとんど三木助通りです。

たしか、先代・春風亭柳橋だったと記憶しますが、「何どきだい?」「へい九ツで」のところで、お囃子のように、二人が間を置かず、「なんどきだーいここのつでー」とやっていたのが、たまらないおかしさでした。

これだと、そば屋も承知でいっしょに遊んでいるようで、本当は変なのですが。

もっとも古い原話   【RIZAP COOK】

享保きょうほう11年(1726)、京都で刊行された笑話本『軽口初笑かるくちはつわらい』中の「他人は喰より」がもっとも古い形です。

それによると、主人公は中間ちゅうげん(武家屋敷の奉公人)、そば(そばきり)の値段は六文で、「四ツ、五ツ、六ツ……」と失敗します。

享保のころは、まだ物価が安かったということでしょう。

この噺は夜鷹そばの屋台が登場するため、生粋きっすいの江戸の噺と思われがちですが、実は上方落語の「時うどん」を、明治中期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移したものです。

なんだかんだいっても、弟子の真打ち襲名披露で三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が本牧亭でやった「時そば」、これはすこぶるの絶品でした。



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まんじゅうこわい【饅頭こわい】落語演目



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【どんな?】

菓子屋がこわいという辰に、若い衆がまんじゅうをどっさり。
「まんじゅうこわいよ」と辰はムシャムシャ。だまされたッ。
「こんちくしょう、なにがこわいんだ」
「今度は、お茶がこわい」

別題:饅頭きらい 好きとこわい こわいもの

【あらすじ】

町内の若い衆が集まって、好きな食べ物をああだこうだと言っているうち、人には好き嫌いがあるという話になる。

虫が好かないというが、人は胞衣えなを埋めた土の上を初めて通った生き物を嫌いになるという言い伝えがある。

蛙なら蛙が嫌いになり、蛇なら蛇。

嫌いな虫を言い合い、蜘蛛くも、ヤモリ、オケラ、百足むかでと、いろいろ出た。

嫌いなものはこわい。

黙っている辰さんに
「おめえは、どんなもんがこわい?」
と聞くと
「ないッ」
「でも、なんかあるだろう」
としつこく突っ込むと
「おととい、カカアの炊いた飯がコワかった」
「そのコワいじゃなくて、動けなくなるようなこわいものだ」
と言うと
「カカアがふんどしを洗ったとき、糊をうんとくっつけちゃった。コワくって歩けねえ」

ああ言えばこう言うだから癪にさわって、
「蛇はどうだ」
と聞くと、
「あんなものは、頭痛のときの鉢巻にする」
とうそぶく。

トカゲは三杯酢にして食ってしまうし、蟻はゴマ塩代わりに飯にかける。

いまいましいので、
「なにか一つくらいないのか」
と食い下がると
「へへ、実は、それはあるよ。それを言うと、体中総毛立そうげだって震えてくる」
「へえ、なんだい」
「一度しか言わないよ。……まんじゅう」

一同-然。

「どうして」
と聞くと、
「因果で、オレのえなの上に子供が饅頭を落っことしたのに違いない」
という。

「菓子屋の前に行くと目をつぶって駆け出すし、思っただけでも、こう総毛立って」
と辰さん、急にブルブル震えだす。

「こわいッ、こわいよォッ」

泣き出して、とうとう寝込んでしまった。

そこで一同、あいつはふだんから、み屋の割り前は払わないし、けんかは強いからかなわない。いいことを聞いたから、一度ひどい目にあわせてやろうと、計略を練る。

「話を聞いてさえあんなに震えるんだから、実物を見たらきっとひっくり返って、身体中ブチになって死んじまうかもしれねえ、いるとじゃまだから、アン殺でアンコロしちまおう」
というわけで、菓子屋から山のように饅頭を買ってくる。

枕元に置くと、
「おい、辰さん、起きねえ。天丼を食おうてんだ。つき合いなよッ」

まだ蒲団をかぶって
「饅頭怖いよッ」
とうめいていた辰さん、枕元を見るなり
「ウワーッ」
と絶叫。

「うわあッ、こんなもの、だれがッ。怖いよッ。唐饅頭がこわい。こわいよッ」
と叫びながら、饅頭をムシャムシャ平らげ始めた。

障子の陰でワクワクして見ていた連中、だまされたと知ってカンカン。

「おう、こわいこわいと言ってたまんじゅうを食いやがって。こんちくしょう、てめえはいったい、なにが怖いんだ」
「うわーッ、こわいよ。今度は、お茶がこわい」

【しりたい】

ネタは中国から

中国明代の笑話本『五雑組ござっそ(五雑俎とも)』や『笑府しょうふ』に原型があります。

江戸では小ばなし程度の扱いで、一席ものの落語としてはむしろ上方が本場でした。

まんこわ

明治末期に三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらく(本間弥太郎、1864-1914)が東京に移植。

「饅頭嫌い」の演題で初演して以来、「まんこわ」で通るほどの人気演目になりました。

三代目馬楽は奇行でならし、「狂馬楽」「弥太っぺ馬楽」「きちがい馬楽」などとも呼ばれました。

さまざまなやり方

古くから演じられた噺だけに、さまざまな演者によって、細部が整えられてきました。

柳家小さん系や、後輩の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に写してもらい十八番にした三代目桂三木助(小林七郎、1902-1961)では、饅頭男を「松公」で演じます。

饅頭を準備するとき、「腰高饅頭かい? おあとは? 唐饅頭? お次は? 酒饅頭? おあとは? そば饅頭……栗饅頭……」というように、いろいろな饅頭の名を並べ立てるのが型になっています。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、むしろすっきりと短く演じています。

くすぐりもいろいろ

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、饅頭男がこわがる場面で、「クモの糸を納豆代わりに食う」「ミミズはトマトソースでマカロニ代わりに食う」といった、ゲテ物趣味的なギャグを加えました。

これは、五代目小さん、三木助もやっています。

ちなみに、四代目小さんは昭和22年(1947)9月30日、上野鈴本演芸場で新作「鬼娘」の口演後に楽屋で急逝しました。

三木助では、最後に男がこわいこわいと言いながら饅頭をふところに入れてしまい、「風呂敷はねえか」と、ずうずうしく言うくすぐり、また、こわいものを言い合う場面で、「おれァ、そばがいけない。うどんがいけない。だからフンドシもしめない」などがあります。

饅頭

饅頭の日本渡来は、14世紀に禅僧が元(中国)から帰国する際、伴った中国人が、奈良で店を開いたのが最初、との説があります。

源頼朝が次男(実朝)誕生の百日の祝いに近親や重臣に配った「十字」という菓子が始まりだ、との説も。

これだと11世紀末期に宋(中国)から渡ってきたことがうかがえます。

おおざっぱに言って、日本には中世(鎌倉室町期)に中国から僧侶が持ち込んだようです。

胞衣

えな。胎児を包む膜ですが、胎盤をいうこともあります。

噺の発端になる「初めて通った生き物を……」という俗信は古くからあって、『誹風柳多留はいふうやなぎたる』巻十六(天明元=1781年刊)に、こんな句が載っています。

ゑなの上 初手しょてどらものに ふませたい

「ゑな」は胞衣、「初手」は最初、「どらもの」は放蕩者のことです。



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じゅげむ【寿限無】落語演目

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志ん朝

【どんな?】

生まれた男児に名前を付けます。隠居を寄るべにしたら、無量寿経から命名されて。

あらすじ

待望の男の子が生まれ、おやじの熊五郎、お七夜しちやに名前を付けなければならないが、いざとなるとなかなかいいのが浮かばない。

自分の熊の字を取って熊右衛門とでもするか、加藤清正が好きだから、名字の下にぶる下げて「田中加藤清正」と付けるか……いや、ハイカラな名前でネルソン、寝ると損をするから、稼ぐように……と考えあぐねて、平山の隠居のところへ相談に行く。

何か好みがあるかと聞かれ、三日の間に五万円拾うような名前、と欲張ったが、そんなのはダメだと言われ、それなら長生きするような名前を、ということになった。

隠居、松、竹、梅、鶴、亀と、長命そうな字がつくのを並べるが、どれも平凡過ぎて気に入らない。

「そんなら、長助てえのはどうだ? 長く親を助ける」
「いいねえ。けど、あっしども一手販売いってはんばいで長生きするってえ、世間に例がねえなめえはないですかね」

隠居、しばらく考え、今お経に凝っているが、無量寿経むりょうじゅきょうという経文には、案外おめでたい文字があると言う。

たとえば、寿限無じゅげむ

寿命限りなしというから、これはめでたい。

五劫ごこうのすり切れず、というのがあるが、三千年に一度天人が天下って羽衣はごろもで岩をなで、それがすり切れてなくなってしまうのが一劫いちごうだから、五劫というと何億年か勘定できない。

海砂利水魚かいじゃりすいぎょは数えきれないものをまとめて呼んだ言葉。

水行末すいぎょうまつ雲来末うんらいまつ風来末ふうらいまつはどこまで行っても果てしない大宇宙を表す。

衣食住は人に大切だから、田中食う寝るところに住むところ。

やぶらこうじぶらこうじというのもあり、正月の飾りに使う藪柑子やぶこうじだからめでたい。

またほかに、少々長いが、パイポ、シューリンガ、グーリンダイ、ポンポコピー、ポンポコナーというのがある。

パイポは唐のアンキリア国の王さま、グーリンダイはお妃、ポンポコピーとポンポコナーは 二人の王子で、そろってご長命……それだけ聞けばたくさんで、あれこれ選ぶのはめんどうと熊さん、出てきた名を全部付けてしまう。

この子が成長して小学校に行くと、大変な腕白わんぱくだから、始終近所の子を泣かす。

「ワーン、おばさんとこの寿限無寿限無五劫のすり切れず海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところ藪ら柑子ぶら柑子パイポパイポパイポのシューリンガ、シューリンガーのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピ、ポンポコナの長久命の長助が、あたいの頭を木剣でぶったアー」

言いつけているうちに、コブがひっこんだ。

しりたい】 

ルーツは

仏教の教説をもとにした噺です。

野村無名庵のむらむみょうあん(野村元雄、1888-1945、落語評論家)は、この噺の原典として、民話集『聴耳草子ききみみぞうし』中の小ばなしを挙げています。

その中の子供の名は、「一丁ぎりの丁ぎりの、丁々ぎりの丁ぎりの、あの山越えて、この山越えて、チャンバラチャク助、木挽こびき挽助ひきすけ」で、長いだけで特に長寿には関係ありません。

話の終わりは、子供が井戸に落ち、長い名を皆で連呼して、和尚まで経文のような節で呼ぶので子供が「だぶだぶだぶ」と溺死してしまいます。

寿限無が死んでしまう、のです。

ここがミソ。

だから、あんまり長い名前は付けないほうがいいよ、とでも言いたそうなご仏教的な教訓が漂っているんですね。

無名庵は東京大空襲の犠牲となりました。

こちらは寿限無とは無関係に亡くなったのでしょうが。

大阪の演出(「長命のせがれ」)もこれと同じで、残酷な幕切れになります。

「劫」には「石劫せきこう」と「芥子劫けしこう」があります。前者がこの噺の隠居の解釈。後者の「芥子劫」は、方四十里の城の中の芥子一粒を、三年に一度おおとりがくわえていき、これがすべてなくなる時間です。

演者によって変わりますが、「五劫」そのものの定義なら前者、名前として無限の寿命を強調するなら後者でしょう。

言い立てのリズムを重んじれば「すりきれ」、はなしの内容重視なら「すりきれず」というところ。

そこで、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は、客には「すりきれず」と聞こえさせ、実際には「すりきれ」と言っているという、苦肉の妥協案を編み出しました。

こうる」という言葉があります。長い年月を経る、年季を積む、といった意味で使います。石劫も芥子劫も原初では同根です。

「劫」の字は濁らずに「こう」と読むと、とてつもなく長い時間をさすのですから。

甲羅は劫臈の混同だそうです。

臈は僧侶の修行年数をさします。劫も臈も時間にからむ言葉なのですね。

となると、亀の甲羅を長生きの目安にするのもわかります。

芥子は罌粟。かつて、僧侶の修行には必須のアイテムでした。

EGO-WRAPPINの「くちばしにチェリー」。

おそらくは罌粟がはばかれるのでチェリーにしているのでしょう。

芥子劫の理を説く歌だったことがよくわかります。深いなあ。

大看板の前座噺

「寿限無」は前座の口ならしの噺で、大看板の師匠連はさすがにあまり手がけません。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は信仰篤かったためか、滋味あふれる語り口で、この噺をホール落語でも演じました。

戦後の大物では、自分の飼い犬に「寿限無」と名づけた三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、熊五郎が無類におかしかった九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、それぞれ得意にしました。

聴きどころ

長い名が近所の子から母親、父親と渡りゼリフになるところが、この噺のおかしみでしょう。

母親が、「あーら、悪かったねえ。ちょいとおまいさん、たいへんだよ。『寿……』が金ちゃんの……」と言うとオヤジが、「なんだと。するとナニか、『寿……』の野郎が……」と繰り返します。

もっとも、安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説家、評論家)は『落語国・紳士録』(青蛙房、1959年、→旺文社文庫→ちくま文庫→平凡社ライブラリー)の中で、気の利いた「こぼれ噺」を創作しています。

例によって長い名でしかられている寿限無に、友達が「どうしたの、寿っちゃん」と尋ねたりしているのです。

世界一の長寿者?

古代はともかく、近世以降での長寿記録保持者は「武江年表」などに記載されている、志賀随翁にとどめをさすでしょう。

なにせ、この怪老人、享保10年(1725)の時点で数え178歳。

逆算すると天文18年(1548)の生まれ。はっきりした没年はわかりませんから、ひょっとすると、まだ生きているかもしれません。

これが文句なしに人類史上最長寿、と思っていたら、やっぱり現れました、対抗馬が。世界は広い。

臼田昭『ロンドン塔の宝探し 英文学零話』(駸々堂出版、1988年)に登場する英国代表ヘンリー・ジェンキンズは169歳(1501-1670)、ついで、かの有名なウイスキー銘柄のラベルになったオールド・パーが152歳(1483-1635)の由。

まあ、三人とも、怪しげなことではいい勝負ですが、なんにしても、あやかりたいものです。

「の・ようなもの」にも登場

『の・ようなもの』(森田芳光監督、1981年)。落語映画の最高峰、不朽の傑作です。

都電荒川線の駅を降りて、浴衣姿の志ん魚と志ん菜が落語を教えにいった先は「下町女子高」。

落研の面々が大声で「寿限無」を棒読みしていました。

そのシーンが素っ気なくて無機的で、なんともおかしい。笑っちゃいます。

落研下級生の中にはなんと、「エド・はるみ」さんもまじっていたのです。

昭和56年(1981)のこと。

その頃はもちろんそんな名前じゃなかったわけですが、未来の「エド・はるみ」さんは当時、日出学園高校(千葉県市川市)の2年生、17歳でした。

オーディションに合格し、『の・ようなもの』でみごと映画デビューを果たしたのです。

存在感ありました。40年以上たった今でもしっかり覚えてます。すごいなあ。

「エド・はるみ」は手前中央の子
右奥の浴衣娘は落研部長、竹内まりや(五十嵐知子)
「の・ようなもの」(森田芳光監督、1981年)より




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

こがねもち【黄金餅】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

円朝作。
逝った西念を弔う。
下谷から麻布。
焼き場は桐ヶ谷で。
金兵衛の執念が笑いを誘う。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡おんぼうと呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

https://www.youtube.com/watch?v=fi7PTr_ppfg

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけた。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。

円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。

藤浦(周吉)はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしく。どうだろう。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。

山崎町はみんな貧乏だったんだから。

円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。

志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。

桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治大正の新聞雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だった。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。

文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。

依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。

ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。

麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。

絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」とか、貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。

「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う

。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。

この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

(古木優)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

はなよめのへ【花嫁の屁】落語演目


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【どんな?】

もとは、小咄かマクラ程度の軽い噺だったものです。

【あらすじ】

ある田舎で婚礼があった。

ところが、いよいよ三三九度という時、花嫁が衆人環視の中、「プーッ」と一発。

面目ないと、あっという間に裏の井戸に身を投げた。

すると、花嫁の両親も、娘の不始末のおわびと、同じく井戸にドボン。

今度は婿さんが、嫁の一家だけ死なせては義理が立たないと、これも井戸へ飛び込んだ。

これを見ていた婿さんの両親、せがれと嫁が死ぬならあたしたちもと、これまた井戸底に直行。

最後に残った仲人夫婦、みなさんがお飛び込みなら、あたしたちもこうしてはいられないと、後を追って飛び込もうとしたら、井戸のところに赤い札で「満員」。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

時代を感じさせるオチ

オチは、路面電車に、当時(明治末から大正初期)「満員」の赤札が下がったことからきています。

噺としてはおもしろいのですが、時代色がつき過ぎ、現代の客にはまるで理解できないので、このあたりをうまく改作しないと、とうてい高座には掛けられないでしょう。

当時の東京の市電はやたらに故障し、満員になると、どんなに客が待っていてもあっさり通過してしまうので、評判は最悪だったとか。

大正中期ですが、「東京節」(添田さつき)の一節には、こんなものが。

東京の名物満員電車
いつまで待ってても乗れやしねえ 
乗るにゃケンカ越し命がけ 
やっとこさと空いたのが来やがっても 
ダメ、ダメと手を振って 
そのまま乗せずに行きゃあがる 
なんだ、故障車か
ボロ電車め

誰かやらないか?

速記、音源はおろか、口演記録もまったくない幻の珍品です。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が明治末期、立花家左近時代に作ったという掌編です。マクラにでも使っていたのでしょう。

それにしては、実に皮肉な、カラシがきいた逸品で、埋もれさせるにはちと惜しいブラック落語です。

円馬に前座・二つ目時代に仕込まれた八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が自伝『あばらかべっそん』中であらすじを紹介しています。


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やなぎだかくのしん【柳田格之進】落語演目


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【どんな?】


正直者でも魔がさす? 草彅剛主演で映画になりました!

 別題:碁盤割り 柳田の堪忍袋

あらすじ

もと藤堂家とうどうけの家臣、柳田格之進。

ゆえあって浪人し、今は浅草東仲町の、越前屋作左衛門地借りの裏長屋に、妻、娘の花との三人暮らし。

地主の作左衛門とは碁仇ごがたきで、毎日のように越前屋を訪れては、奥座敷で盤を囲んでいる。

ある日、いつものように二人が対局していると、番頭の久兵衛が百両の掛け金を革財布ごと届けにきた。

作左衛門、碁に夢中で生返事ばかり。

久兵衛はしかたなく、財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出る。

格之進が帰った後、作左衛門ふと金のことを思い出し、久兵衛に尋ねる。

「たしかに、だんなさまのおひざに置きました」

そんなことを言うばかり。

覚えがないので、座敷の隅々まで探したが、金は出てこない。

番頭は 「疑わしいのは、柳田さまだけ」 と言い出す。

「いくらふだんは正直でも、魔がさすことはある」

作左衛門が止めるのも聞かず、格之進の長屋に乗り込む。

疑われた格之進、浪人はしてもいやしくも武士、金子などに手を付けることはないと強く否定する。

久兵衛は脅す。

「どうしても覚えがないというなら、お上に訴え出て白黒をつけるよりないから、そのつもりでいてほしい」

お家に帰参が決まっているので、格之進は 「そんなことになれば、さしさわりが出るから、自分の名は出さないでくれ」 と頼むが、久兵衛は聞き入れない。

しばし考えた格之進。

「まことに申し訳ない。貧に迫られた出来心で百両盗んだ」

格之進は打ち明けた。

格之進は 「金は返すから明後日まで待ってくれ」 と頼み、代わりに武士の魂の大小を預けた。

二日後。

久兵衛が行ってみると、格之進は一分銀まじりで百両を手渡して 「財布はないので勘弁してくれ」 と言う。

久兵衛が帰ろうとすると、格之進は 「勘違いということがある。もしその百両が現れた場合、その方と、主人作左衛門殿の首を申し受けるが、よいか」

久兵衛は 「私も男。どんなご処分でも受けます」 と安請け合いを。

大晦日。

煤掃きの最中に、作左衛門が欄間の額の後ろを掃除しようとのぞくと、例の金包みが挟まっていた。

自分が小用に立ったとき、無意識に膝の包みをそこに挟んだと思い出したときは、もう手遅れ。

久兵衛が
「実は、金が出たらだんなの首がころげる手はず」
と打ち明けると、作左衛門は仰天。

作左衛門は、久兵衛をすぐさま格之進の家に向かわせる。

「金を返して、あれは町人風情の冗談でございます、と謝ってこい!」

あたふたとなる久兵衛。

今はお家に帰参した格之進を藤堂家上屋敷に訪ね、久兵衛は平謝り。

それを見た格之進。

「金は世話になった礼だ」

格之進は金を改めて返した。

「あの金は娘花が吉原松葉家に身を売って作ったもの。娘に別れるとき、もし金が出たら、憎い久兵衛と作左衛門の首を私にお見せください、と頼まれた。勘弁しては娘に済まん」

久兵衛はまたまた仰天。

久兵衛はあたふたと店に逃げ帰ると、後を追って格之進が乗り込んできた。

「申し訳ございません。この上はご存分に」
「かねてから約定の品、申し受ける」

格之進、かたわらの碁盤を取り、見事にまっ二つ。

「この品がなかったら、間違いは起こらなかったろう。以後は慎みましょう」

世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……。格之進碁盤割りの一席。

底本:三代目春風亭柳枝



しりたい

講談からの脚色か

別題は「柳田の堪忍袋」「碁盤割り」。講談から人情噺に脚色されたようですが、はっきりしません。

明治25年(1892)、「碁盤割」の題で『百花園』に掲載された三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)の速記が、唯一の古い記録です。

柳枝はマクラで「このお話は随筆にもあります」と断っているので、なんらかのネタ本があると思われます。未詳です。

志ん生好みの人情噺

明治期にはよく演じられていたようです。

昭和初期から先の大戦後にかけては、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の独壇場でした。

井戸の茶碗」と同系統の、一徹な武士(それも浪人)が登場する人情噺です。

三代目柳枝の速記のほかは、古い口演記録がありません。

例によって志ん生のほうは、いつどこで仕入れたのか不明の噺です。講釈師時代に聞き覚えたのかもしれません。

人情噺なので本来、オチはありません。志ん生が「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(=将棋)になった」という地口のオチをつけたことがあります。

ただし、これはめったに使わず、ほとんどは従来どおりオチなしで演じていました。

志ん生没後は、二人の息子、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)と、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)がやっていました。

志ん朝のものは音源もあります。ちくま文庫版に収載された速記では、ほぼ父親通りの演出です。

大団円の円楽版

五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が好んで演じました。

五代目円楽は、この後、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、生まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

碁盤

裏側の丸いくぼみは、待ったした者の首を載せるところ、という俗説があります。

浅草東仲町

台東区雷門1、2丁目にあたります。浅草寺門前で、今も昔も飲食店が多い繁華街です。

藤堂家

藤堂氏は武家の一族です。発祥地は、近江国犬上郡いぬかみぐん藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町こうらちょう在士ざいじ)。

戦国時代に藤堂高虎とうどうたかとら(1556-1630)が出て、家名を上昇させていきました。

この人ほど、転職回数の多かった武将はいないでしょう。たんに主君を替えたというだけなら、浅井長政→阿閉貞征あつじさだゆき→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→豊臣秀保→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光と、ゆうに11回も。

この頃は、まだ武士道なるものはありませんでした。生き残るための功利が優先されていました。

秀吉が天下と統一した直後の1591年には、藤堂高虎は伊予板島(愛媛県宇和島市あたり)と伊予今治(愛媛県今治市あたり)を領する大名となります。

家康が開幕すると、1608年には、伊賀上野(三重県伊賀市あたり)と伊勢津(三重県津市あたり)を領する津藩主へと転封された結果、大出世しました。代表的な外様大名です。

子孫は代々この地を領し、明治維新を迎えます。華族の伯爵家に列しました。


 



ことばよみいみ
娼妓しょうぎ遊女
将棋しょうぎ盤上のゲーム

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やんまきゅうじ【やんま久次】落語演目

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【どんな?】

初代志ん生、円朝、三遊一朝から林家彦六へ。
そして世紀末、五街道雲助師が復活させました。
円朝がやれば、久次のモデルは息子朝太郎だったでしょう。

別題:大べらぼう

【あらすじ】

番町御廐谷の旗本の二男、青木久次郎。

兄貴がいるので家督は継げず、他家に養子にも行けずに無為の日々を送るうち、やけになって道楽に身を持ち崩し、家を飛び出して本所辺の博打場でトグロを巻いている。

背中一面に大やんまのトンボの刺青を彫ったので、人呼んで「やんま久次」。

今日も博打で負けてすってんてんになり、悪友の入れ知恵で女物の着物、尻をはしょって手拭いで頬かぶりというひどいなりで、番町の屋敷へ金をせびりにやってくる。

例によって用人の伴内に悪態をつき、凶状持ちになったので旅に出なくてはならないから、旅費をよこせと無理難題。

どっかと座敷に座り込み、酒を持ってこいとどなり散らす。

ちょうど来合わせたのが、兄弟に幼いころ剣術を教えた、浜町で道場を営む大竹大助という先生。

久次がお錠口でどなっているのを聞きつけ、家名に傷がつくから、今日という今日は、あやつに切腹させるよう、兄の久之進に勧める。

老母が久次をかわいがっているので、自分の手に掛けることもできず、今まではつい金をやって追い払っていた兄貴も「もうこれまで」と決心し、有無を言わせず弟の首をつかんで引きずり、一間にほうり込むと、そこには鬼のような顔の先生。

「これ久次郎。きさまのようなやくざ者を生けおいては、当家の名折れになる。きさまも武士の子、ここにおいて潔く腹を切れ」

さすがの久次も青くなり、泣いて詫びるが、大助は許さない。

そこへ母親が現れ、
「今度だけは」
と命乞いをしたので、やっと
「老母の手前、今回はさし許すが、二度とゆすりに来るようなことがあれば、必ずその首打ち落とす」
と、大助に釘をさされて放免された。

いっしょに帰る道すがら。

大助は、
「実はさっきのはきさまを改心させるための芝居だった」
と明かし、三両手渡して、
「これで身支度を整え、どこへなりと侍奉公して、必ず老母を安心させるように」
と、さとす。

久次も泣いて
「きっと真人間になりやす」
と誓ったので、大助は安心して別れていく。

大助の後ろ姿に、久次は
「おめっちの道楽といやあ、金魚の子をふやかしたり、朝顔にどぶ泥をひっかけたり。三道楽煩悩のどれ一つ、てめえは楽しんだことはあるめえ。俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ」

【しりたい】

江戸の創作落語  【RIZAP COOK】

初代古今亭志ん生(清吉、1809-56、八丁荒らしの)作と伝わりますが、はたしてどうか。元の題は「大べらぼう」です。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の人情噺「緑林門松竹みどりのはやしかどのまつたけ」の原話となったものに、芝居噺「下谷五人盗賊」があります。

五人という人数合わせのための作為で、筋との関連はなく、のちに削除されている人物でした。

その長講噺の中の「またかのお関」のくだりに、「やんま久次郎」が端役で登場しています。

円朝門下の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)老人から、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)に直伝され、戦後は正蔵の一手専売でした。

彦六は昭和57年(1982)に逝きました。

その後は手掛ける者がありませんでしたが、平成6年(1995)に五街道雲助が復活させました。さすが、人間国宝!

彦六懐古談  【RIZAP COOK】

この噺、前述のように、もとは長編人情噺でした。

続きがあったと思われますが、不明です。

「このはなしを一朝おじいさんがやって、円朝師匠にほめられたそうです。『私はおまえみたいに、ゆすりはうまくやれないよ』といって……(中略)最後は『おおべらぼうめー』といって、昔は寄席の花道へ引っ込んだものです。『湯屋番』でこの手を遣った人がいましたね。『おまえさんみたいな人はいらないから出ていっとくれ』『そうかい、おれもこんなおもしろくねえところにはいたかねえ』といって、花道を引き上げるんです」

(八代目林家正蔵談)

「やんま」は遊び人のしるし  【RIZAP COOK】

やんまは「馬大頭」と書きます。やんまには隠語で「お女郎」の意味があり、お女郎遊びを「やんまい」「んやまい」などとも称しました。

久次郎のやんまの刺青は、それを踏まえた、自嘲の意味合いもあったのでしょう。

怪人「べらぼう」  【RIZAP COOK】

江戸っ子のタンカで連発される「ベラボーメ」。「ばか野郎」と「無粋者(野暮天)」の両方を兼ねた言葉です。

万治から寛文年間(1658-72)にかけて、江戸や大坂で、全身真っ黒けの怪人が見世物に出され、大評判になりました。それを「へらぼう」「べらぼう」と呼んだことが始まりとか。

言い逃れ、インチキのことを「へらを遣う」と呼びました。その意味も含んでいるのでしょう。

三道楽煩悩  【RIZAP COOK】

飲む、打つ、買うの三道楽。

「さんどら」の「どら」は「のら」(怠け者)からの転訛です。「ドラ息子」の語源です。

お錠口  【RIZAP COOK】

武家屋敷の表と奥を仕切る出入り口です。

杉戸を立て、門限以後は錠を下ろすのが慣わしでした。

御厩谷  【RIZAP COOK】

おんまやたに。東京都千代田区三番町、大妻学院前バス停付近の坂下をいいました。この坂は御廐谷坂おんまやたにざか

近接の靖国神社北側一帯が幕府の騎射馬場御用地であったことにちなみます。付近はすべて旗本屋敷でしたが、「青木」という家名はむろん架空です。

やんま久次のモデルは、円朝の不肖の息子、朝太郎のイメージととらえてよいかもしれません。要は、どら息子です。

この噺そのものが円朝作かどうかはよくわかりません。「緑林門松竹」に久次がちょい役で出てくる、というだけのこと。

ただ、円朝は、「福禄寿」など、ことあるごとにさまざまな場面でろくでもない息子の所業を描いています。

円朝、終生の悩みのたねだったのです。おかげで、人生も想定外の方向に行ってしまいました。

ことばよみいみ
御廐谷 おんまやだに
三道楽煩悩 さんどらぼんのう
緑林門松竹 みどりのはやしかどのまつたけ



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ふくろくじゅ【福禄寿】落語演目

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【どんな?】

年の瀬、実家に戻った禄太郎。
父にはないしょで母に無心を。
円朝噺。円朝の悩みはわが子朝太郎に。
22歳の朝太郎、いまだ定まらず。

【あらすじ】

年の瀬、深川万年町。

福徳屋万右衛門の喜寿の祝いをしている家。

こっそり帰ってきた、長男の禄太郎。

無心に戻ってきたのだ。

母は、父にないしょで金を渡す。

その金で遊ぶ心づもりの禄太郎だった。

金をうっかり落としてしまった。

おのれの器量や才覚を悟った禄太郎。

一念発起、開墾に携わるため北海道に渡る。

出典:岩波版「円朝全集」第7巻

【しりたい】

禄太郎と朝太郎

禄太郎は、あきらかに円朝の不肖の息子、朝太郎のイメージでしょう。

この噺、朝太郎の一件をあらかじめ知っていれば、円朝がどんな思いで創作したのかは容易に想像がつきます。

北海道に渡る禄太郎。

これが円朝の願望だったのでしょうか。朝太郎にはなにかをきっかけに悟り社会的に更生してほしい、という思いがにじみ出ている噺ではないでしょうか。

朝太郎が実際に渡ったのは、北海道ではなく小笠原でした。

その直後の連載が「熱海土産温泉利書」となっていきます。


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ちきりいせや【ちきり伊勢屋】落語演目

↖この赤いマークが「ちきり」です。

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【どんな?】

柳家系の噺ですが、円生や彦六も。
「易」に振り回される若者の物語です。
キメの「積善の家に余慶あり」は心学や儒学のキモ。

別題:白井左近

あらすじ

旧暦きゅうれき七月の暑い盛り。

麹町こうじまち五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎でんじろうが、平河町ひらかわちょうの易の名人白井左近しらいさこんのところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡てんがんきょうでじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天こくてんが現れているから、あなたは来年二月十五日九ツ(午前0時)に死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門でんえもんは、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果いんがが子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行ぜんぎょうを積み、来世らいせの安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛とうべえにこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨きしゃし続ける。

ある日。

弁慶橋べんけいばしのたもとに来かかると、母娘が今しも、ぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世の名残なごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌ゆかん代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間たいこもちを残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが、予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪たかなわの通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸たかなわおおきど裏店うらだな住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札ノ辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

原話や類話は山ほど  【RIZAP COOK】

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井すすはらい』中の「人相見にんそうみ」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「陰徳延寿いんとくえんじゅ」。

それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記ここんかんにんき』(青木鷺水あおきろすい、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。

さらにその焼き直しが『耳嚢みみぶくろ』(根岸鎮衛ねぎしやすもり著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲ひうんの渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難いんとくきなんを遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が双璧  【RIZAP COOK】

明治27年(1894)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

小さん代々に伝わる噺です。ただ、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は手掛けていません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が、晩年に熱演しました。

円生は二代目禽語楼小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。

戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近とは  【RIZAP COOK】

白井左近の実録については不詳です。

二代目小さん以来、左近の易断えきだんにより、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。

この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり  【RIZAP COOK】

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。

同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。

下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。

これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

ちきりの形は「ちきり清水商店」の社標をご参照ください。

「ああ、あれね」と合点がいくことでしょう。

ちきり清水商店(静岡県焼津市)は鰹節卸の大手老舗です。

弁慶橋  【RIZAP COOK】

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、こんなふうになっています。

……赤坂の田町たまちへまいりました。一日駕籠に乗っているので腰が痛くてたまらないから、もう歩いたところでいくらもないからというので、駕籠は帰してしまいます。食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……そんなものに本場というのもないが、あそこはたいそう首くくりが多かったという……

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが、千代田区岩本町2丁目にかかっていた橋。

設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。

藍染川あいぞめがわに架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

これを「トランク状」とする記述もあります。

「トランク状」とは、直角の狭いカーブが二つ交互につながっている道路形状のもので、日本語にすれば「枡形道路」となります。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋(千代田区紀尾井町1丁目)とは方向が違うわけです。

「赤坂の」といってしまえば港区となりますが、ここは港区と千代田区の境となっているのです。住所でいえば「千代田区紀尾井町1丁目」となるんですね。

ではなぜ、円生は、弁慶橋を「神田の」ではなくて「赤坂の」として語ったのでしょうか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町5丁目にあることから、伝二郎の地理的感覚からうかがえば、神田よりも赤坂の方に現実味を感じたからなのではないでしょうか。

円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。

本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

千代田区の文化財」(千代田区立日比谷図書文化館の文化財事務室)には、赤坂の弁慶橋について、以下のような記述があります。

この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた愛染川にあった同名の橋の廃材を用いて1889年(明治22年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋に取り付けられていた青銅製の擬宝珠は、『新撰東京名所図会』によれば、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所として親しまれ、絵葉書や版画の題材にもなりました。とりわけ清水谷の桜は美しく、『新撰東京名所図会』には、“爛漫の桜花を見ることができ、橋を渡るとまるで絵の中に入ったようだ”と周辺の美しさが記されています。また、橋の上からは周辺を通行する人々や車馬、付近に建っていた北白川宮邸・閑院宮邸などが見えたそうです。明治以来の橋は1927年(昭和2年)に架け替えられ、さらに1985年(昭和60年)にコンクリート橋に架け替えられました。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

これを信じれば、江戸時代にはこの場所には弁慶橋はなかったわけですから、円生の創作だということは明白となります。

ちなみに、川瀬巴水(川瀬文治郎、1883-1957)の作品に「赤坂弁慶橋」があります。昭和6年(1931)の頃の、のどかな風情です。

川瀬巴水「赤坂弁慶橋」

食い違い  【RIZAP COOK】

赤坂の「食い違い」は「喰違御門くいちがいごもん」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。

その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。

大久保利通が、明治10年(1877)5月14日に惨殺されていますが、正確な場所は紀尾井町清水谷です。

それでも、後世、この事件を「紀尾井坂事件」とか「紀尾井坂の変」とか呼んでいるのは、よほど「紀尾井坂」という名称が人々の興味を引いたのでしょう。

江戸時代には、紀州徳川家の中屋敷、尾張徳川家の中屋敷、彦根井伊家の中屋敷が並んでいた武家町だったことから、各家から1字ずつとって町名としたわけです。

小岩井農場、大田区、国立市、小美玉市、東御市など、日本人好みの命名法なんですね、きっと。

ここは、千代田区としては、東部に平河町、南部に永田町、北部に麹町が、それぞれ接しています。

ホテルニューオータニの向かい側には清水谷公園があります。

都内を練り歩くデモの出発地点でもあり、集会場所としても名所です。

池泉もありますが、40年ほど前までは崖斜面からは湧水が出ていたもので、まさに「清水谷」でした。

さて。

円生が参考にした禽語楼小さんの速記は、明治27年(1894)1月『百花園』です。

これによれば、以下の通り。適宜読みやすく直してあります。

まるでお医者さまを見たようでござります。かくすること七月下旬から八月、九月と来ました。あるときのこと、施しをいたしていづくからの帰りがけか、ただいま食い違いへかかってまいりました。その頃から食い違いは大変な首くくりのあったところで、伝二郎すかして見ると、しかも首をくくるようす。

伝次郎が親子の首くくりに出会わすシーンです。

「食い違い」とありますが、「弁慶橋」とはありません。

小さんがこの噺を語った頃に、食い違いには弁慶橋が掛かってはありましたが、なにせこの噺は江戸時代が舞台ですから、食い違いに弁慶橋を出すわけにはいかなかったのです。

出してしまったら、客からブーイングが飛んだことでしょう。

円生の時代には、その感覚がまったくなくなっているわけですから、食い違いに「弁慶橋」の名を出してしまっても、文句を言う人もいなかったのですね。

札ノ辻  【RIZAP COOK】

港区芝5丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

江戸には大高札場が、日本橋南詰、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝車町札ノ辻、以上6か所にありました。

高札場  【RIZAP COOK】

慶長11年(1606)に「永楽銭通用停止」の高札が日本橋に掲げられたのが第一号でした。

高札の内容は、日常生活にからむ重要事項や重大ニュースが掲示されていたわけではありませんでした。

忠孝の奨励、毒薬売買の禁止、切支丹宗門の禁止、伝馬てんま賃銭の定めなどが主でした。その最も重要な掲示場所は日本橋南詰みなみづめでした。

西側に大高札場だいこうさつばがあり、東側にさらし場がありました。

歌川広重「東海道五拾三次 日本橋朝之景」 赤丸部分のあたりが高札場。南詰の西側になりますね

麹町  【RIZAP COOK】

喜多川歌麿きたがわうたまろ(北川信美、1753-1806)の春画本『艶本えんぽん とこの梅』第一図には、以下のようなセリフが記されています。

男「こうして二三てふとぼして、また横にいて四五てふ本当に寝て五六てふ茶臼で六七てふ 麹町のお祭りじゃやァねへが、廿てふくれへは続きそうなものだ」

女「まためったには逢われねえから、腰の続くだけとぼしておきな」

男「お屋敷ものの汁だくさんな料理を食べつけちゃ、からっしゃぎな傾城のぼぼはどうもうま味がねえ」

※表記は読みやすく適宜直しました。

女は年増の奥女中、男は奥女中の間男という関係のようです。

奥女中がなにかの代参で出かけた折を見て男とのうたかたの逢瀬を、という場面。

男が「麹町のお祭りじゃねえが」と言いながら何回も交合を楽しめる喜びを表現しています。

麹町のお祭りとは日枝神社ひえじんじゃの大祭のこと。

麹町は1丁目から13町目までありました。

こんなに多いのも珍しい町で、江戸の人々は回数の多さをいつも麹町を引き合いに表現していました。

この絵はそこを言っているわけです。

ちきり伊勢屋は麹町5丁目とのことですが、切絵図を見ると、武家地の番町に対して、麹町は町家地だったのですね。

食い違いからも目と鼻の先で、円生の演出は理にかなっています。

麹町は、半蔵門から1丁目がが始まって、四ッ谷御門の手前が10丁目。麹町11丁目から13丁目まではの三町は四ッ谷御門の外にありました。

寛政年間に外濠そとぼりの工事があって、その代地をもらったからといわれています。

麹町という町名は慶長年間に付けられたそうで、江戸では最も古い地名のひとつとされています。

喜多川歌麿『艶本 床の梅』第一図
ことばよみいみ
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがいくさび
千木 ちぎ質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

おせつとくさぶろう【おせつ徳三郎】落語演目

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【どんな?】

日本橋の大店の娘と手代が相思相愛。
二人で木場まで逃げて、身投げして……。
オチは「鰍沢」と同型。「おのみ」の型は付会。

 別題:隅田馴染め(改作、または中のみ) 花見小僧(上のみ) 刀屋(下のみ)

あらすじ

日本橋横山町の大店おおだなの娘おせつ。

評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。

だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。

これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつのお供をして向島まで花見に行った小僧の定吉を脅した。

案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。

そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。

なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという話が流れ、徳三郎はカッときた。

しかも、蔵前辺のご大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにした、という。

「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに。かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。

老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。

徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。

親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えはやめてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思いとどまったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。

おせつが婚礼の席から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎だっとのごとく飛び出して、両国橋へ。

お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。

追っ手が迫っている。

切羽つまった二人。

深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。

ところが、木場だから下はいかだが一面にもやってある。

その上に落っこちた。

「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(=題目)で助かった」

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なりたちと演者など  【RIZAP COOK】

もとは、初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)がつくった人情噺です。

長い噺なので、古くから上下、または上中下に分けて演じられることが多いです。

小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。

この部分を、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、「隅田馴染め」としてくすぐりを付け加えて、改作しました。

その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。

それに続いて、徳三郎が叔父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされます。

普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。

後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題して、しばしば独立して演じられています。

明治期の古い速記としては、以下のものが残っています。

原作にもっとも忠実なのは、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)。

「上」のみでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のもの(「恋の仮名文」明治23年)、初代円遊のもの(「隅田の馴染め」明治22年)。

「下」のみでは、二代目三遊亭新朝(山田岩吉、?-1892)のもの(明治23年)、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)のもの、など。

オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木で助かった」は父親のセリフになっています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)も、「刀屋」でこれを踏襲しました。

「刀屋」で、おやじが自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型です。

現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。

先の大戦後では、六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も得意にしていました。

円生と志ん生は「下」のみを演じました。

その次の世代では、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものなどが、傑出していました。

馬生の「おせつ徳三郎」では、筏に落ちたおせつが、これじゃ死ねないから水を飲めば死ねるとばかりに、水をすくい「徳や、おまえもおのみ」と終わっていました。

これはこれで、妙におかしい。現在は、この終わり方の師匠も少なからずいます。

柳家喬太郎の「おせつ徳三郎」では、本当に心中させています。「お材木で」のオチが流布され尽くしたことへのはねっかえりでしょうか。予定調和で聴いている方は裏切られます。2人の愛の昇華は心中なのでしょうし。本当に死んじゃうのもたまにはおもしろい、というかんじですかね。

現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多いようです。「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外ではあまり単独口演されません。

村松町の刀屋  【RIZAP COOK】

この噺のとおり、日本橋の村松町むらまつちょう(中央区東日本橋1丁目など)と、向かいの久松町ひさまつちょう(中央区日本橋久松町)には刀剣商が軒を並べていました。

喜田川守貞きたがわもりさだの『守貞漫稿もりさだまんこう』には
「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」
とあります。

喜田川守貞きたがわもりさだ(1810-?)は、大坂生まれ、江戸で活躍した商人。

江戸との往来でその差異に興味を抱き、風俗考証に専心しました。砂糖商の北川家を継ぎ、深川に寓居をいとなみました。

『守貞漫稿』は上方(京と大坂)と江戸との風俗や民間諸事の差異を見聞で収集分類した珍書。江戸期ならではといえます。

明治41年(1908)に『類聚るいじゅう近世風俗志』という題で刊行されました。岩波文庫(全5冊)でも『近世風俗志』で、まだかろうじて手に入ります。

明治41年となると、江戸の風情がものすごいスピードで東京から消え去っていた頃です。人は消えいるものをあたたかくいつくしむのですね。

徳三郎が買おうとしたのは、2分と200文の脇差わきざしです。

深川・木場の川並  【RIZAP COOK】

木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。

その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。大小の材木問屋が軒を並べました。

掘割ほりわりに貯材所として常時木材を貯え、それを「川並かわなみ」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて、いかだに組んで運んだものです。

法華の信者  【RIZAP COOK】

「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。

こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。

一般には、商家や下級武家に多かったと言われています。刀剣商、甲冑商、刀鍛冶、鋳物師などのだんびら商売、芸妓、芸人、音曲、絵師などの芸道稼業、札差(両替)や質商などの金融業では、法華の信心者がとりわけ多かったのも事実でした。

身延山や小室山などのキーワードがあらかじめ出てきて法華の信心をにおわせている「鰍沢」と同様、「おせつ徳三郎」では日本橋の大店や刀屋が登場することで、当時の聴衆は法華をたやすく連想できたことでしょう。

「お材木で助かった」のオチにも無理はなく、自然な流れで受け入れられたのです。現代のわれわれとはやや異なる感覚ですね。

江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず、「法華ほっけ」という呼び名の方が一般的でした。日蓮が宗祖となる宗派は、「法華経ほけきょう」を唯一最高の経典と尊重したからです。

天台宗も「法華経」を重視していましたから、「天台法華宗」とも呼ばれていました。その呼称にならって、日蓮の法華宗のほうは「日蓮法華宗」とも呼ばれていました。

「日蓮宗」という宗派名が初めて使われるようになるのは、新井日薩あらいにっさつが法華の各宗務に大同団結の声をかけた、明治5年(1872)に入ってからです。その後、紆余曲折はありましたが、今日まで「日蓮宗」でひとくくりとなっています。

それにしても、宗祖の名が宗派の名になったのは日蓮宗のみ。親鸞宗も道元宗も一遍宗もないわけですから、思えば奇妙です。江戸時代には浄土宗とは因縁の対立(営業上の競合ともいえます)が続いていました。題目(法華系)と念仏(浄土系)との競合や対立は、落語や川柳でのお約束のひとつです。

【おことわり】「おせつ徳三郎」の別題に「隅田馴染め」があります。この題の素直な読み方は誰が読んでも「すみだのなれそめ」に決まっていいるかもしれません。本サイトが底本に使っている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)で、当該頁(第1巻54頁下段)には「隅田馴染め」の「隅田」部分に「すだ」とルビが振られてあります。その真意はわかりません。たんなる誤植ならすべては解決しますが、明治期のぞっきな落語集とは異なり、しっかりした校訂を経て刊行されている本シリーズではたんなる誤植とも考えにくいのです。同様に、「隅田の花見」(「長屋の花見」の別題)でも「隅田」は「すだ」とルビが振られてあり(第7巻296頁下段)、決して「すみだ」ではないのです。古代から中世には「隅田」を「須田」と記して「すだ」とも呼んでいました。近世でも古雅な呼称として「すだ」は残っていました。とまれ、われわれは、確認が取れるまでは「隅田馴染め」の読み方を「すだのなれそめ」「すみだのなれそめ」と、「隅田の花見」も「すだのはなみ」「すみだのはなみ」と併記しておきます。思い込みや強説採用は排すべきものと心得ます。

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あけがらす【明烏】落語演目



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 【どんな?】

堅物がもてるという、廓が育む理想形の物語。
ビギナーズラックでしょうか、はたまた普遍の成功譚。
こんな放蕩なら、一度は経験してみたいものです。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼あいかたに振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(→八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が台頭するまで、先の大戦後は、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中頃とし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原玉屋の遊女美吉野と、呉服屋の若だんな伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈りゅうていりじょう為永春水ためながしゅんすいが「明烏後正夢あけがらすのちのまさゆめ」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」は、幕末にその発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木門かぶきもん。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。

吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町2丁目。

日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7年=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

八代目桂文楽のおはこ。文楽存命の間はだれもやらずにいた。のちに、馬生がやった。志ん朝がやった。小三治がやった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。これが宮戸川心中事件といわれるもの。

江戸時代、「呉服」は絹織物のこと、「太物」は綿や麻織物でつくった普段着のこと。呉服商と太物商は扱う品物が違ったため、区別されていたものです。

事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生されていった。

うぶな男がもてて半可通が振られるという型は、江戸の遊里を描いた洒落本にはありがちなもの。もてるもてないはどこか才のかげんで、修行しても始まらないようである。

この噺のすごい魅力は、まるごと「吉原入門」はたまた「吉原指南」になっているところ。吉原での遊び方のおおかたがわかるのだ。便利であるなあ。

(古木優)

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)

 



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ふなとく【船徳】落語演目

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【どんな?】

船頭にあこがれた、勘当若だんな。
客を乗せて大川へ。
いやあ、見上げたもんです。

別題: お初徳兵衛 後の船徳

あらすじ】 

道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿・大枡だいますの二階で居候の身の上の若だんな、徳兵衛。

暇をもてあました末、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」などと、言いだす始末。

親方始め船宿の若い者の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と宣言してしまった。

お暑いさかりの四万六千日しまんろくせんにち

なじみ客の通人が二人やってきた。あいにく船頭が出払っている。

柱に寄り掛かって居眠りしている徳を認めた二人は引き下がらない。

船宿の女将おかみが止めるのもきかず、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことに。

舟を出したのはいいが、同じところを三度も回ったり、石垣に寄ったり。

徳「この舟ァ、石垣が好きなんで。コウモリ傘を持っているだんな、石垣をちょいと突いてください」

傘で突いたのはいいが、石垣の間に挟まって抜けずじまい。

徳「おあきらめなさい。もうそこへは行きません」

さんざん二人に冷や汗をかかせて、大桟橋へ。

目前、浅瀬に乗りあげてしまう。

客は一人をおぶって水の中を歩いて上にあがったが、舟に残された徳、青い顔をして「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」

底本:八代目桂文楽

しりたい】 

文楽のおはこ   【RIZAP COOK】

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)の極めつけでした。

文楽以後、無数の落語家が「船徳」を演じていますが、はなしの骨格、特に、前半の船頭たちのおかしみ、「四万六千日、お暑い盛りでございます」という決め文句、客を待たせてひげを剃る、若だんな船頭の役者気取り、舟中での「この舟は三度っつ回る」などのギャグ、正体不明の「竹屋のおじさん」の登場などは、刷り込まれたDNAのように、どの演者も文楽に右にならえです。

ライバルの五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、前半の、若だんなの船頭になるくだりは一切カットし、川の上でのドタバタのみを、ごくあっさりと演じていました。

この噺はもともと、幕末の初代古今亭志ん生(清吉、1809-56、八丁荒らしの)作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を、明治の爆笑王、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)がパロディー化し、こっけい噺に仕立てたものです。

元の心中がらみの人情噺は、五代目志ん生が「お初徳兵衛」として時々演じました。

四万六千日さま   【RIZAP COOK】

浅草の観世音菩薩の縁日で、旧暦7月10日にあたります。現在の8月なかば、もちろん猛暑のさ中です。

この日にお参りすれば、四万六千日(約128年)毎日参詣したのと同じご利益が得られるという便利な日です。なぜ四万六千日なのかは分かりません。

この噺の当日を四万六千日に設定したのは明治の三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)といわれます。

「お初徳兵衛浮名桟橋」のあらすじ   【RIZAP COOK】

(上)勘当された若だんな徳兵衛は船頭になり、幼なじみの芸者お初を送る途中、夕立ちにあったのがきっかけで関係を結ぶ。

(中)お初に横恋慕する油屋九兵衛の策謀で、徳兵衛とお初は心中に追い込まれる。

(下)二人は死に切れず。船頭の親方のとりなしで徳兵衛の勘当もとけ、晴れて二人は夫婦に。

竹屋のおじさん   【RIZAP COOK】

客を乗せて船出した後、徳三郎が「竹屋のおじさぁん、今からお客を 大桟橋まで送ってきますゥッ」と橋上の人物に呼びかけ、このおじさんなる人が、「徳さんひとりかいッ? 大丈夫かいッ?」と悲痛に絶叫して、舟中のだんな衆をふるえあがらせるのが、「船徳」の有名なギャグです。

「竹屋」は、今戸橋の橋詰、向島に渡す「竹屋の渡し」の山谷堀側にあった、同名の有名船宿を指すと思われます。

端唄「夕立や」に「堀の船宿、竹屋の人と呼子鳥」という文句があります。

渡船場に立って、「竹屋の人ッ」と呼ぶと、船宿から船頭が艪を漕いでくるという、夏の江戸情緒にあふれた光景です。

噺の場面も、多分この唄からヒントを得たものでしょう。

舫う

舟を岸につなぎとめておくこと。

「おい、なにやってんだよ。舟がまだもやってあるじゃねえか。いや、まだつないであるってんだよ」

古今亭志ん朝

「舫う」という古めかしい言葉が「繋ぐ」意味だということを客の話しぶりで解説していることろが秀逸でした。

東北風

ならい。東日本の海沿いで吹く、冬の寒い風。東北地方から三重県あたりまでのおおざっぱな一帯で吹きます。

「あーた、船頭になるって簡単におっしゃいますけどね、沖へ出て、東北風ならいにでもごらんなさい。驚くから」

三代目古今亭志ん朝

知っている人は知っている言葉、としか言いようがありません。知らない人はこれを機会に。落語の効用です。

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こごとねんぶつ【小言念仏】落語演目



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【どんな?】

短くってすじもへったくれもない噺。
念仏の宗旨をちゃかしています。

別題:世帯念仏(上方)

あらすじ

親父が、仏壇の前で小言を言う。

ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

「鉄瓶が煮立っている」
「飯がこげている」
「花に水ゥやれ」
と、さんざんブツブツ言った後、
「表にドジョウ屋が通るから、ナマンダブ、ナマンダブ、買っときなさい、ナアミダブ、ドジョウ屋ァッナムアミダブ、鍋に酒ェ入れなさいナムアミダブ、一杯やりながらナムアミダブ、あの世ィ行きゃナマンダブ、極楽往生だナマンダブ、畜生ながら幸せなナムアミダブ、野郎だナマンダブ、暴れてるかナマンダブ、蓋取ってみなナムアミ、腹だしてくたばりゃあがった? ナムアミダブ、ナマンダブ、ざまァみゃがれ」

しりたい

仏教への風刺  【RIZAP COOK】

原話は不明で、上方落語「世帯念仏」を、そのまま東京に移したものです。移植の時期はおそらく明治期と思われます。

上方でもともと「宗論」「淀川(後生鰻)」などのマクラに振っていた小咄だったものが、東京で一席の独立した小品となりました。

念仏を唱えながらドジョウをしめさせるくだりは「後生鰻」と同じく、通俗化した仏教、とくにその殺生戒の偽善性を、痛烈に風刺したものといえるでしょう。

しかも、念仏ですから、浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などをちゃかしているわけです。「後生鰻」も念仏系の噺です。

小言  【RIZAP COOK】

これすらも、昨今は死語化しつつあるようですが、小言は「叱事(言)」の当て字。

特に小さな、些細なことを、重箱の隅をほじくるようにネチネチと説教するニュアンスが、「小」によく表れています。江戸では「小言坊」「小言八百」などの言葉があり、「カス(を食う)」というのも類語でした。

  【RIZAP COOK】

どじょう。「泥鰌」「鯲」とも記します。歴史的仮名遣いでは「どぢやう」「どぜう」です。

鰻にくらべて安価で、精のつくものとして、江戸のころは、八つ目うなぎとともに庶民層に好まれました。

我事と 鰌の逃げる 根芹かな
なべぶたへ 力を入る どじょう汁
念仏も 四五へん入る どじょう汁

さまざまに詠まれています。最後のは、煮ながらせめてもどじょうの極楽往生を願う心で、この噺のおやじよりはまだましですね。

どじょうを買うときは一升の升で量りますが、必死で踊り乱れるので、なかなか数が入らず、同じ値段でも損をすることになります。

こわそうに 鯲の升を 持つ女   初3

おっかなびっくりの女。この句は、女はおぼこで、どじょうの暴れるさまを慣れない男性器にたとえているのかもしれません。そこで、どじょうをおとなしくさせるまじないとして、碗の蓋の一番小さいものをヘソに当ててにらみつければ、たちどころにどじょうは観念し、同じ大きさの升でも二倍入ると、『耳嚢』(根岸鎮衛著)にあります。ホントでしょうか。

金馬や小三治の苦い笑い  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後まで、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

明るい芸風の人だったので、風刺やブラックユーモアが苦笑にとどまり、不快感を与えなかったのでしょう。

短いため、さまざまな演者が今も手がけますが、柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の「小言念仏」は自然に日本人の嗜虐性を表現していて、うならせてくれました。

上方の「世帯念仏」は桂米朝(中川清、1925-2015)が継承していました。

東西ともオチは同じですが、四代目五明楼玉輔(原新左衛門または平野新左衛門、1856-1935、小言念仏の)の速記では「ドジョウ屋が脇見をしているすきに、二、三匹つかみ込め」と、オチています。

【語の読みと注】
世帯念仏 しょたいねんぶつ
耳嚢 みみぶくろ



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おやこざけ【親子酒】落語演目






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【どんな?】

「こんなぐるぐる回る家は欲しくない!」
のんべえ親子の愉快なお話です。

別題:親子の生酔い

【あらすじ】

父子とも大酒のみの家。

先のあるせがれに間違いがあってはと、おやじの方がお互いに禁酒の提案をする。

せがれも承知してしばらくは無事にすんだが、十日目十五日目あたりになると、そろそろ怪しくなってくる。

ちょうど、せがれがお呼ばれに出掛けた留守、おやじは鬼の居ぬ間にと、かみさんに
「昼間用足しに出て、くたくたなんだが、なにかこう、疲れの抜けるものはないかい」
と、ねだる。

「じゃ、唐辛子」
「金魚が目をまわしたんじゃねえ。ひさびさだからその、一杯ぐらい……」

せがれが帰ったら言い訳できないと渋るのを、むりやり拝み倒して銚子一本。

こうなると、
「もう一本だけ」
「もうちょっと」
「もう一本」
「もう半分」
しまいには
「持って来ォいッ」

結局、ベロベロに。

「なにィ? 酔ってる ご冗談でしょう。大丈夫ですったら大丈夫だよッ。ナニ、あいつが帰ってきた? 早いね。膳をかたづけて、お父さんは奥で調べ物してますって言って、玄関で時間をつないどきなさい」

さすがにあわてて、酔いをごまかそうと無理に座りなおし、懸命に鬼のような顔を作って、障子の方をにらみつけている。

一方、せがれ。

こちらもグデングデンでご帰還。

なんでも、ひいきのだんながのめのめと勧めるのを、男と男の約束ですからと断ると怒って、強情張ると出入りを差し止めるというので意地になり、のまないと言ったらのまないと突っぱねた。

「えらいッ、その意気でまず一杯ッ」
と乗せられて、結局、二人で二升五合とか。

二人で気まずそうににらめっこ。

おやじは無理ににらんで
「なぜ、そうおまえは酒をのみたがる。おばあさん、こいつの顔がさっきから三つに見えます。化け物だね。こんな者に身代は渡せませんよ」
と言うと、せがれが
「あたしだって、こんなぐるぐる回る家は欲しくない」

底本:五代目古今亭志ん生 五代目柳家小さん

【しりたい】

三百年来、のんべえ噺

現存する最古の原話は、宝永4年(1707)刊で初代露の五郎兵衛(1643-1703)の笑話本『露休置土産』中の「親子共に大上戸」です。

「親子茶屋」と並んでのんべえ噺としては最古のものです。

原話では、「ぐるぐる回る家……」の後におやじが、「あのうんつく(=ばか者)め、おのれが面(つら)は二つに見ゆるは」と言うところでオチをつけています。

その後、安永2年(1773)刊の『坐笑産』中の「親子生酔」ほか、いくつかの類話が見られますが、大筋は変わっていません。

重宝なマクラ噺

落語としては上方ダネで、短い噺なので、もともと一席噺として演じられることは少なく、酒の噺のマクラや、小咄の寄せ集めのオムニバスの一編に用いられるなど、重宝な使われ方をしています。

野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論)が著書『落語通談』の中で紹介している柳派(柳家小さん系統)のネタ帳「昔噺百々」(明治42年)には、426席が掲載されていますが、この噺の演題はなく、「親子酒」という独立した題が付いたのも大正以後の、かなり新しいことと思われます。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が、明治期に「親子の生酔い」として速記を残しているのは、珍しい例でしょう。

戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)と、酒の噺が得意だった巨匠連が一席物として演じました。

中でも志ん生は、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、実生活でも「親子酒」を地でいっていました。

「上戸」と「生酔い」

よく言われる「上戸」はむろん、瓶などに水を注ぐ道具からきています。「大戸」「戸大」ともいいました。

「戸」は家の入口そのものを指し、質のよいジョウゴできれいに水を注ぐように、体内への入口である口から、絶え間なく酒が胃の腑に流れ込む意味です。

この噺は別題を「親子の生酔い」ともいいますが、「生酔い」は、「生」が、「生乾き」など、それほど程度が進まない状態を表すので、泥酔の一歩手前の「ほろ酔い」を意味するという解釈があります。

噺の中の親子は、どう見てもベロンベロンとしか思えませんね。






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うどんや【うどん屋】落語演目

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【どんな?】

屋台の鍋焼きうどん屋。
客がつかずさんざんな寒い夜。
もうからない噺です。

別題:風邪うどん(上方)

あらすじ

ある寒い夜。

屋台の鍋焼きうどん屋が流していると、酔っぱらいが
「チンチンチン、えちごじしィ」
と唄いながら、千鳥足で寄ってくる。

屋台をガラガラと揺すぶった挙げ句、おこした火に手をかざして、ながながとからむ。

「おめえ、世間をいろいろ歩いてると付き合いも長えだろう。仕立屋の太兵衛ってのを知ってるか」
「いえ、存じません」

そんなところから始まって、
「太兵衛は付き合いがよく、かみさんは愛嬌者、一人娘の美ィ坊は歳は十八でべっぴん、今夜婿を取り、祝いに呼ばれると上座に座らされて茶が出て、変な匂いがすると思うと桜湯で、家のばあさんはあんなものをのんでも当たらないから不思議な腹で、床の間にはおれが贈ったものが飾ってあって、娘の衣装は金がかかっていて、頭に白い布を巻いて「おじさん、さてこのたびは」と立ってあいさつして、このたびはなんて、よっぽど学問がなくちゃあ言えなくて、小さいころから知っていて、おんぶしてお守りしてやって、青っぱなを垂らしてぴいぴい泣いていたのがりっぱになって、ああめでてえなあうどん屋」
というのを、二度繰り返す。

「水をくれ」
というから、
「へいオシヤです」
とうどん屋が出せば、
「水に流してというのを、オシヤに流してって言うかばか野郎
とからみ、やたらに水ばかりガブガブのむから、
「うどんはどうです」
と、うどん屋はそろそろ商売にかかると、
「タダか」
と聞きてくる。

「いえ、お代はいただきます」
「それじゃ、おれはうどんは嫌えだ。あばよッ」

今度は女が呼び止めたので、張り切りかけると
「赤ん坊が寝てるから静かにしとくれ」

「どうも今日はさんざんだ」
とくさっていると、とある大店の木戸が開いて
「うどんやさん」
とか細い声。

「ははあ、奥にないしょで奉公人がうどんの一杯も食べて暖まろうということか」
とうれしくなり、
「へい、おいくつで」
「ひとつ」

その男、いやにかすれた声であっさり言ったので、うどん屋はがっかり。

それでも、
「ことによるとこれは斥候で、うまければ代わりばんこに食べに来るかもしれない、ないしょで食べに来るんだから、こっちもお付き合いしなくては」
と、うどん屋も同じように消え入るような小声で
「へい、おまち」

客は勘定を置いて、またしわがれ声で、
「うどん屋さん、あんたも風邪をひいたのかい」

しりたい

小さん三代の十八番

上方で「風うどん」として演じられてきたものを、明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植。

その高弟の四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944)を経て、戦後は五代目小さんが磨きをかけ、他の追随を許しませんでした。

酔っ払いのからみ方、冬の夜の凍るような寒さの表現がポイントとされますが、五代目は余計なセリフや、七代目可楽のように炭を二度おこさせるなどの演出を省き、動作のみによって寒さを表現しました。

見せ場だったうどんをすするしぐさとともに、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)によって、「うどんや」はより見て楽しむ要素が強くなったわけです。

原話はマツタケ売り

安永2年(1773)江戸板『座笑産ざしょうさん』の後編「近目貫きんめぬき」中の「小ごゑ」という小ばなしが原話です。

その設定は、男はマツタケ売り、客は娘となっています。

改作「しなそば屋」

大正3年(1914)の二代目柳家つばめ(浦出祭次郎、1875-1927)の速記では、酔っ払いがいったん食わずに行きかけるのを思い直してうどんを注文したあと、さんざんイチャモンを付けたあげく、七味唐辛子を全部ぶちまけてしまいます。

これを、昭和初期に六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が応用し、軍歌を歌いながらラーメンの上にコショウを全部かけてしまう、改作「しなそば屋」としてヒットさせました。

夜泣きうどん事始

東京で夜店の鍋焼きうどん屋が現れたのは明治維新後。したがってこの噺はどうしても明治以後に設定しなければならないわけです。

読売新聞の明治14年(1881)12月26日付には、以下の記事が見えます。

「近ごろは鍋焼饂飩なべやきうどんが大流行で、夜鷹蕎麦よたかそばとてはふ人が少ないので、府下ぢうに鍋焼饂飩を売る者が八百六十三人あるが、夜鷹蕎麦を売る者はたった十一人であるといふ」

「夜鷹そば」(「時そば」参照)に代わって「夜泣きうどん」という呼び名も流行しました。三代目小さんが初めてこの噺を演じたときの題は、「鍋焼きうどん」でした。

大阪の製薬会社「うどんや風一夜薬本舗」は、ショウガと温かいうどんが解熱作用があるということで、風邪薬、しょうが飴、のど飴などを製造販売しています。

もとは、末広勝風堂という名で明治に創業しました。

「末広(いつまでも)」「勝風(風に勝つ)」と、明治らしいわかりやすい命名です。

「うどん」と「風邪」とは縁語なのですね。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

うきよねどい【浮世根問】落語演目


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【どんな?】

「根問」とつくのは、上方噺です。
「どーして? どーして?」としつこく尋ねるのが「根問」。
いまではめったに聴けない噺。ちょっと残念です。

あらすじ

三度に一度は他人の家で飯を食うことをモットーとしている、八五郎。

今日もやって来るなり「お菜は何ですか?」と聞く厚かましさに、隠居は渋い顔。

隠居が本を読んでいるのを見て八五郎、
「本てえのはもうかりますか」
と聞くので
「ばかを言うもんじゃない。もうけて本を読むものじゃない。本は世間を明るくするためのもので、おかげでおまえが知らないことをあたしは知っているのだから、なんでも聞いてごらん」
と隠居が豪語する。

そこで八五郎は質問責め。

まず、今夜嫁入りがあるが、女が来るんだから女入りとか娘入りと言えばいいのに、なぜ嫁入りかと聞く。

隠居、
「男に目が二つ、女に目が二つ、二つ二つで四目入りだ」
「目の子勘定か。八つ目鰻なら十六目入りだ」

話は正月の飾りに移った。

「鶴は千年、亀は万年というけど、鶴亀が死んだらどこへ行きます?」
「おめでたいから極楽だろう」
「極楽てえのはどこにあります?」
西方弥陀さいほうみだ浄土じょうど十万億土じゅうまんおくどだ」
「サイホウてえますと?」
「西の方だ」
「西てえと、どこです?」

隠居、うんざりして、
「もうお帰り」
と言っても八五郎、御膳が出るまで頑張ると動じない。

八五郎の言うのには、この間、岩田の隠居に 「宇宙をぶーんと飛行機で飛んだらどこへ行くでしょう」 と聞くと、 「行けども行けども宇宙だ」 とゴマかすので、 「じゃあ、その行けども行けども宇宙を、ぶーんと飛んだらどこへ行くでしょう?」と。

行けどもぶーん、行けどもぶーんで三十分。

岩田の隠居は喘息ぜんそく持ちだから、だんだん顔が青ざめてきた。

「その先は朦々もうもうだ」
「そんな牛の鳴き声みてえな所は驚かねえ。そこんところをぶーんと飛んだら?」
「いっそう朦々だ」
「そこんところをぶーん」

……モウモウブーン、イッソウブーンで、四十分。

「そこから先は飛行機がくっついて飛べない」
「そんな蠅取り紙のような所は驚かねえ。そこんところをぶーん」

岩田の隠居はついに降参。八五郎に五十銭くれた。

「おまえさんも極楽が答えられなかったら、五十銭出すかい?」
「誰がやるか。極楽はここだ」
と、隠居が連れていったのが仏壇。

こしらえものの蓮の花、線香をけば紫の雲。鐘と木魚が妙なる音楽、というわけ。

「じゃ、鶴亀もここへ来て仏になりますか?」
「あれは畜生だからなれない」
「じゃ、なにになります?」
「ごらん。この通りロウソク立てになってる」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

根問

ねどい。「根問」とは、「根元まで問い詰める」「質問を繰り返す」「根掘り葉掘り聞く」「細かく尋ねる」といった意味です。

上方由来のことばですが、江戸の町でも使われていました。

「根問」とつく噺は、概して上方噺です。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は入門する前から「浮世根問」をそらんじて、近所の悪ガキ相手に聴かせていたそうです。その頃は「根問」を「ねもん」と読むものだと勝手に思っていたそうです。

ということは、昭和の東京では「根問」ということば、すでにすたれていたのかもしれませんね。

物語のない噺

上方噺の「根問もの」の代表作。明治期に東京に移されたものです。

上方では短くカットして前座の口ならしに演じられます。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の貴重な音源が残っています。

どこで切っても噺にはなるので、「物語のない噺」とされています。

えんえんと、「根問」が繰り返されるだけの、

「薬缶」と「浮世根問」

明治時代にはまだ、東京では「薬缶」と「浮世根問」の区別が曖昧あいまいでした。

たとえば、明治期の四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)の速記はかなり長く、「無学者」の題で残っています。

いろいろな魚の名前の由来を聞いていく前半は、「薬缶」と共通しています。

とはいえ、「薬缶」の隠居は知ったかぶりの、えせ知識。「浮世根問」の隠居は、もの知りで誠実なご仁。八五郎のしつこさにへきえきしているわけ。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)によれば、同じ隠居でも、ぜんぜん違うタイプなのだそうです。

弟子筋の七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)によれば、「違いがわからねえ」と言ってはいますが。

聴いてみると、たしかに小さんの見立てがかなっているように思えます。この噺のキモなのかもしれません。

ここでのあらすじは、師匠の四代目柳家さん(大野菊松、1888-1947)譲りで演じた、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)のものを底本にしました。

二代にわたる小さんが上方のやり方を尊重し、この噺を独立した一編として確立したわけです。

「浮世根問」は、いまでは、物語のない噺で、柳家の芸とされています。

鶴亀のろうそく立て

オチの「ろうそく立て」については、今ではなんのことやらさっぱりわからなくなっているので、現行の演出ではカットし、最後までいかないことが多くなっています。

これは、寺などで使用した燭台で、亀の背に鶴が立ち、その頭の上にろうそくを立てるものです。

鶴亀はいずれも長寿を象徴しますから、要するに縁起ものでしょう。

目の子

「目の子勘定かんじょう」といって、公正を期すため、金銭などを目の前で見て数えることです。

黙阿弥もくあみの歌舞伎世話狂言「髪結新三かみゆいしんざ」で、大家の長兵衛が悪党の新三の目の前で小判を一枚一枚並べる場面が有名です。

原話について

もっとも古いものは、露の五郎兵衛(1643-1703)の『露休置土産ろきゅうおきみやげ』中の「鶴と鷺の評論」です。五郎兵衛は京都辻ばなしの祖です。

これは、二人の男が鶴の絵の屏風について論じ合い、一人が「この鳥は白鳥にしてはちょっと足が長い」と言うと、もう一人が「はて、わけもない。これは鷺だ」と反論します。見かねた主人が「これは鶴の絵ですよ」と口をはさむと、後の男が「人をばかにするでない。鶴なら、ろうそく立てをくわえているはずだ」。

安永5年(1776)、江戸で刊行された『鳥の町』中の小ばなし「根問」になると、以下のようになっています。

「鶴は千年生きるというが、本当かい?」
「そうさ。千年生きる証拠に、鎌倉には頼朝の放したという鶴がまだ生きているじゃないか」
「じゃ、千年たったらどうなる?」
「死ぬのさ」
「死んでどうなる?」
「十万億土(極楽)に行くのさ」
「極楽へ行ってどうする?」
「うるさい野郎だな。ろうそく立てになるんだ」

現行にぐっと近くなります。

四代目小さんがよく登場させていた、ご隠居です。「ろくろ首」にも出てきます。

噺に直接登場するわけではないのですが、噂話や立ち話などの中で間接的に出てくる、陰の登場人物です。「のりやのばばあ」にどこか似ています。

現在、この噺を演じるのは、柳家の系統でもあまりいません。

あえてあげれば、四代目春雨や雷蔵くらいでしょうか。柳家ではありませんが。

先の大戦後には、五代目小さんのほかには、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)などでした。



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やかん【薬缶】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

なるほど、やかん命名の由来とは。
落語はまったくもってためになる、無学者もの

別題:浮世話 無学者 薬缶根問(上方)

【あらすじ】

この世に知らないものはないと広言する隠居。

長屋の八五郎が訪ねるたびに、別に何も潰れていないが、グシャ、グシャと言うので、一度へこましてやろうと物の名の由来を次から次へ。

ところが隠居もさるもの、妙てけれんなこじつけでケムにまく。

最初に、いろいろな魚の名前は誰がつけたかという質問で戦闘開始。

「おまえはどうしてそう、愚なることを聞く。そんなことは、どうでもよろしい」
「あっしは気になるんで。誰が名をつけたんです?」
「うるさいな。あれはイワシだ」

「イワシは下魚げぎょといわれるが、あれで魚仲間ではなかなか勢力がある」
とゴマかす。

「じゃ、イワシの名は誰がつけた」
と聞くと、ほかの魚が名をもらった礼に来て、
「ところであなたの名は」
と尋ねると、
「わしのことは、どうでも言わっし」

これでイワシ。

以下、まぐろは真っ黒だから。

ほうぼうは落ち着きがなく、ほうぼう泳ぎ回るから。

こちはこっちへ泳いでくるから。

ヒラメは平たいところに目があるから。

「カレイは平たいところに目が」
「それじゃヒラメと同じだ」
「うーん、あれはヒラメの家来で、家令かれいをしている」

うなぎはというと、昔はのろいのでノロといった。
あるときがノロをのみ込んで、
大きいので全部のめず四苦八苦。

鵜が難儀なんぎしたから、
鵜、難儀、鵜、難儀、鵜難儀でウナギ。

話は変わって日用品。

茶碗ちゃわんは、置くとちゃわんと動かないから茶碗。

土瓶どびんは土で、鉄瓶てつびんは鉄でできているから。

「じゃ、やかんは?」
「やでできて……ないか。昔は」
「ノロと言いました?」
「いや、これは水わかしといった」
「それをいうなら湯わかしでしょ」
「だからおまえはグシャだ。水を沸かして、初めて湯になる」
「はあ、それで、なぜ水わかしがやかんになったんで?」
「これには物語がある」

昔、川中島の合戦で、片方が夜討ちをかけた。

かけられた方は不意をつかれて大混乱。

ある若武者が自分のかぶとをかぶろうと、枕元を見たがない。

あるのは水わかしだけ。

そこで湯を捨て、兜の代わりにかぶった。

この若武者が強く、敵の真っただ中に突っ込む。

敵が一斉に矢を放つと、水わかしに当たってカーンという音。

矢が当たってカーン、矢カーン、やかん。

蓋は、ボッチをくわえて面の代わり。

つるはあごへかけての代わり。

やかんの口は、名乗りが聞こえないといけないから、耳代わり。

「あれ、かぶったら下を向きます。上を向かなきゃ聞こえない」
「その日は大雨。上を向いたら、雨が入ってきて中耳炎になる」
「それにしても、耳なら両方ありそうなもんだ」
「ない方は、枕をつけて寝る方だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

やかんが釜山から漂着  【RIZAP COOK】

明和9年(1772)刊『鹿餅』中の「薬罐やかん」は、この噺の後半部分の、もっとも現行に近い原話ですが、これは、日本の薬罐がはるばる朝鮮半島の釜山プサンまで流れ着き、現地の人が「これは兜ではないか」と議論することになっています。

さまざまな伸縮自在  【RIZAP COOK】

一昔前は、知ったかぶりを「やかん」と呼んだほど、よく知られた噺でした。

題名に直結する「矢があたってカーン」以外は、自由にギャグが入れられる伸縮自在の噺なので、昔から各師匠方が腕によりをかけて、工夫してきました。名前の由来に入る前の導入部も、演者によってさまざまです。

「矢がカーン」の部分では、隠居が「矢があたって」と言う前に八五郎がニヤリと笑い、「矢が当たるからカーンだね」と先取りする演出もあります。

オチまでいかず、文字通り「矢カン」の部分で切ることも、時間の都合でよくあります。

「やかん」のくすぐりいろいろ  【RIZAP COOK】

●蛇はノソノソして、尻っぽばかりの虫なので屁といった。そのあとビーとなった。(五代目古今亭志ん生)

●クジラは、必ず九時に起きるので、クジらあ。

●ステッキは、西洋人のは飾り付きで「すてっき」だから。

●ランプは、風が吹くとラン、プーと消えるから。

●ひょっとこは、不倫して、ヒョットして子ができるのではと、口をとがらしてふさいでばかりいると、月満ちてヒョッと産まれた子の口も曲がっていた。だから「ヒョット・子」(以上、初代三遊亭円遊)

「浮世根問」について  【RIZAP COOK】

五代目柳家小さん(1915-2002、小林盛夫)がよく演じた「浮世根問うきよねどい」は、上方の「根問もの」の流れをくみます。

「薬缶」とモチーフは似ていますが、別系統の噺です。「薬缶」に比べると噺もずっと長く、質問もはるかに難問ぞろいです。

上方では、別に「薬缶根問」という噺があります。

根問  【RIZAP COOK】

「根」はルーツ、物事の根源を意味します。それを「問う」わけですから、要はいろいろなテーマについて質問し、知ったかぶりの隠居がダジャレを含めてでたらめな回答をする、という形式の噺のことです。

上方の根問ねどいものには、テーマ別に「商売根問」「歌根問」「絵根問」など、さまざまなバージョンがありました。
                       
「薬缶」は、形式は似ていても、単に語源を次々と聞いていくだけですから、「根問もの」よりもずっと軽いはなしになっています。

ついでに  【RIZAP COOK】

「根問」という題名は上方のものに限定されます。どんなに似た内容の噺でも、「薬缶」「千早振る」など東京起源のものは「根問」とは呼びません。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

ちはやふる【千早振る】落語演目

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

無学者もの。
知ったかぶりの噺。
苦し紛れのつじつまあわせ。
あっぱれです。

別題:木火土金水 龍田川 無学者 百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平ありわらのなりひらの「千早ちはやふる 神代かみよも聞かず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
龍田川たつたがわってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫ちはやだゆう花魁道中おいらんどうちゅうに出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫かみよだゆうに口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず 龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代のころでさえ、龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め(=絞り染め)にされるとは、聞いたこともない。

とまあ、意味を知れば、おもしろくもおかしくもない歌です。

隠居の珍解釈の方が、よほど共感を呼びそうです。

「龍田川」は、奈良県生駒郡斑鳩いかるが町の南側を流れる川。古来、紅葉の名所で有名でした。

「くくる」とは、ここでは「くくり染め」の意味だということになっています。くくり染めとは絞り染めのこと。

川面がからくれない(韓紅=深紅色)の色に染まっている光景が、まるで絞り染めをしたように見えたという、古代人の想像力の産物です。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院ようぜいいん」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町にほんばしふきやちょうにあった「元吉原」といわれる寛永年間(1624-44)にさかのぼる、といわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋あげや(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

陽成院  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねの みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる」の珍解釈。京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」。見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持米をたまわったので、「声ぞつもりて扶持となりぬる」。しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

蛇足ながら、陽成院とは第57代の陽成天皇(869-949)が譲位されて上皇になられてのお名前です。この天皇、在位中にあんまりよろしくないことを連発されたため、時の権力者、藤原氏によってむりむり譲位させられてしまいました。

天皇としての在位は876年から884年のたった8年間でした。その後の人生は長かったわけで、なんせ8歳で即位されたわけですから、やんちゃな天子だったのではないでしょうか。そんなこと、江戸の人は知りもしません。百人一首のみやびなお方、というイメージだけです。

ちなみに、この時代の「譲位」というのは政局の切り札で、天皇から権力を奪う手段でした。

本人はまだやりたいと思っているのに、藤原氏などがその方を引きずりおろす最終ワザなのです。

五代目古今亭志ん生

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のざらし【野ざらし】落語演目



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【どんな?】

釣りの帰途、川べりに髑髏。
手向けの酒で回向を。
宵になれば。
お礼参りの幽霊としっぽりと。

別題:手向けの酒 骨釣り(上方)

あらすじ

頃は明治の初め。

長屋が根継ねつぎ(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくていい女のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島で釣りをしたら「間日まび(暇な日)というのか、雑魚ざこ一匹かからん」と、その帰り道、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかにあしが風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向たむけの回向えこうをしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それをまねて『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨がいこつの上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんなところに死骸をさらし、迷っていましたところ、今日、はからずもあなたのご回向えこうで浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音はいんにこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

※現行はここで終わり。

これを聞いていたのが、悪幇間わるだいこの新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間たいこでゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

しりたい

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛ちょうひが登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

男色めいたオチです。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『史記』『十八史略』の「鴻門こうもんの会」で名高い樊會はんかいが現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた男色めいたオチです。

この噺は、はじめから男色(釜掘り)がつきまとっていました。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若だんなが木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。「閨中のおとぎなどつかまつらん」「あんた、だれ?」「石川五右衛門」「ああ、やっぱり釜に縁がある」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものです。こちらも男色がらみ。どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」を、ちょっとまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻がうずくような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林屋正藏(不詳-不詳、沢善正蔵、実は三代目)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。これは陰気な噺。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。仏教がらみの噺の好みました。でも、陰気になる。

明治期に、それをまたひっくり返したのが、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)。明治の爆笑王です。

初代円遊は「手向たむけの酒」の題で演じています。

男色の部分を消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。円遊の「手向けの酒」が『百花園』に載ったのは明治26年(1893)のこと。

さらに、二代目三遊亭円遊(吉田由之助、1867-1924、実は四代目)が改良。八五郎の釣りの場面を工夫して、明るくにぎやかにしました。それ以降は、二代目円遊の形が通行します。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から現在にいたるまでは、初代円遊→二代目円遊の型が広まります。

明るくリズミカルな芸風で売った三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、端正な語り口の八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)までやらず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。現在はほとんどこのやり方が横行しています。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。

門跡さま

「門跡」の本来の意味は、祖師(宗派の教祖)の法灯(教え)を受け継いでいる寺院のこと。

京都には「門跡さま」は多数ありますが、江戸で「門跡さま」といえば、浄浄土真宗東本願寺派本山東本願寺のこと。これでは長すぎて言えません。一般には「浅草本願寺」と呼ばれていました。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が、誘われてこの寺院で節談説教(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)を聴いた際、説教僧が前座、二ツ目、真打ちの階級制度、高座と聴者の仕掛けなどが寄席とそっくりなことにびっくりした、という逸話が残っています。

浅草本願寺は、京都の東本願寺とは本院と別院の関係でしたが、昭和40年(1965)に関係を解消して、独立しています。通称も、浅草本願寺から東京本願寺へと変更されました。

「野ざらし」の江戸・明治期には、東本願寺の名称で、浄土真宗大谷派の別院でした。「門跡さま」で通っていたわけです。

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成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

はなみざけ【花見酒】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

酒のみの噺。
呑み助は呑み助らしく。
いろんなところでしくじるもんですね。

あらすじ

幼なじみの二人。

そろそろ向島の桜が満開という評判なので
「ひとつ花見に繰り出そうじゃねえか」
と話がまとまった。

ところが、あいにく二人とも金がない。

そこで兄貴分がオツなことを考えた。

横丁の酒屋の番頭に灘の生一本を三升借り込んで花見の場所に行き、小びしゃく一杯十銭で売る。

酒のみは、酒がなくなるとすぐにのみたくなるものなので、みんな花見でへべれけになっているところに売りに行けば必ずさばける。

もうけた金で改めて一杯やろうという、なんのことはないのみ代稼ぎである。

そうと決まれば桜の散らないうちにと、二人は樽を差し担いで、向島までやって来る。

着いてみると、花見客で大にぎわい。

さあ商売だという矢先、弟分は後棒で風下だから、樽の酒の匂いがプーンとしてきて、もうたまらなくなった。

そこで、「お互いの商売物なのでタダでもらったら悪いから、兄貴、一杯売ってくれ」
と言い出して、十銭払って、グビリグビリ。

それを見ていた兄貴分ものみたくなり、やっぱり十銭出してグイーッ。

「俺ももう一杯」
「じゃまた俺も」
「それ一杯」
「もう一杯」
とやっているうちに、三升の樽酒はきれいさっぱりなくなってしまった。

二人はもうグデングデン。

「感心だねえ。このごった返している中を酒を売りにくるとは。けれど、二人とも酔っぱらってるのはどうしたわけだろう」
「なーに、このくらいいい酒だというのを見せているのさ」

なにしろ、おもしろい趣向だから買ってみようということで、客が寄ってくる。

ところが、肝心の酒が、樽を斜めにしようが、どうしようが、まるっきり空。

「いけねえ兄貴、酒は全部売り切れちまった」
「えー、お気の毒さま。またどうぞ」

またどうぞもなにもない。

客があきれて帰ってしまうと、まだ酔っぱらっている二人、売り上げの勘定をしようと、財布を樽の中にあけてみると、チャリーンと音がして十銭銀貨一枚。

「品物が三升売れちまって、売り上げが十銭しかねえというのは?」
「ばか野郎、考えてみれば当たり前だ。あすこでオレが一杯、ちょっと行っててめえが一杯。またあすこでオレが一杯買って、またあすこでてめえが一杯買った。十銭の銭が行ったり来たりしているうちに、三升の酒をみんな二人でのんじまったんだあ」
「あ、そうか。そりゃムダがねえや」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

経済破綻を予言 『花見酒の経済』   【RIZAP COOK】

昭和37年(1962)に出版され、話題になった笠信太郎(1900-67、朝日新聞、全面講和、安保改定可、CIA協力)の『“花見酒”の経済』。

当時の高度経済成長のただなか、なれ合いで銭が二人の間を行ったり来たりするだけのこの噺をひとつの寓話として、当局の手厚い保護下で資本が同じところをぐるぐるまわるだけの日本経済のもろさを指摘しました。

のちに現実となった、昭和48年(1973)のオイルショックによる経済破綻を見事に予見しました。

つまりは、この噺をこしらえた不明の作者は、遠く江戸時代から、はるか未来を見通していたダニエルのごとき大預言者だった、ということになりましょうか。

向島の桜  【RIZAP COOK】

八代将軍吉宗(1684-1751、在位1716-45)の肝いりで整備され、文化年間(1804-18)には押しも押されもせぬ江戸近郊有数の観光名所となりました。

向島は浅草から見て、隅田川の対岸一帯を指した名称です。

江戸の草創期には、文字通りいくつもの島でした。

花見は三囲神社から、桜餅で名高い長命寺までの堤が有名です。明治期には、枕橋から千住まで、約4kmに渡って、ソメイヨシノのトンネルが見られました。

復活待たれる噺  【RIZAP COOK】

八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)や六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が手がけました。

おもしろく、皮肉なオチも含めてよくできた噺なのに、とかく小ばなし、マクラ噺扱いされがちのせいか、近年ではあまり聞きません。

明治期の古い速記では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)のが残っています。二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)のものも。明治41年(1908)の円喬の速記では、酒といっしょに兄貴分がつり銭用に、強引に酒屋に十銭借りていくやり方で、二人は「辰」と「熊」のコンビです。



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ちょうたん【長短】落語演目

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【どんな?】

短気者とのんびり屋。
二人の極端な違いが最高の笑いを誘います。

別題:気の長短

あらすじ

気の長い長さんと、むやみに気短な短七の二人は幼なじみ。

性格が正反対だが、なぜか気が合う。

ある日、長さんが短七の家に遊びに来て、
「ゆうべええ、よなかにいい、しょんべんが、でたく、なって、おれがあ、べんじょい、こおう、よろうと、おもって、あまどをお、あけたら……うーん、はえええ、はなしがあ」
とゆっくりゆっくり話し始めたから、短七、
「ちっとも早かねえ」
と、早くもイライラ。

星が出ていなくて空が真っ赤だったから、明日は悪くすると雨かなと思ったら、とうとう今日は雨が降っちゃった、と、ただそれだけのことを言うのに、昨夜の小便から始めるのだから、かなわない。

菓子を食わせれば食わせたで、いつまでもモチャモチャやっているから、じれた短七、
「腐っちまう」
と、ひったくって、自分で丸のみ。

長さん、煙草を吸いだしたはいいが
「たんひっ、つぁんは、きが、みじかい、から、おれの、することが、まどろっこしくて、みて、られない」

そう言いながら、悠然と煙管に煙草を詰めてから、火玉を盆に落とすまで、あまりに間延びしているので、
「それじゃ生涯かかっても煙草に火がつきゃしない」
と、
「煙草なんてもなァ、そう何服も何服もね、吸い殻が皿ん中で踊るほどのむもんじゃないんだよ。オレなんか、急ぐときなんざ、火をつけねえうちにはたいちまうんだ」
と、短七、あっという間に一動作やってしまう。

気のいい長さんが感心してると、あまりせっかちすぎて、火玉が自分のたもとに入ってしまうが、そそっかしいのでいっこうに気がつかない。

これを見た長さん、
「これでたんひっつぁんは、きがみじかいから、しとにものォおそわったりすると、おこるだろうね」
「ああ、大嫌いだ」
「おれが、おしえても、おこるかい?」
「おめえとオレとは子供のころからの友達だ。オレに悪いとこがあったら教えてくれ。怒らないから」
「……ほんとに、おこらないかい? そ、ん、な、ら、いうけどね、さっき、たんひっつぁんが、にふくめの、たばこを、ぽんとはたいた、すいがらね、たばこぼんのなかィはいらないで、しだりのたもとんなかィ、すぽおっと、はいっちまやがって、……だんだんケムがつよくなってきたが、ことによったら、けしたほうが」
「ことによらなくたっていいんだよ。なんだって早く教えねえんだッ。みろ、こんなに焼けっ焦がしができちゃった」
「それみねえ、そんなにおこるからさ、だからおせえねえほうがよかった」

底本:三代目桂三木助

しりたい

ルーツは中国笑話

明末の文人、馮夢竜(1574-1645)が撰した笑話集『笑府』巻六の殊稟(=奇人)部にある「性緩」という小咄が、オチの着物が焦げる部分の原話です。

これにもさらにネタ本があるらしく、宋代の巷談集『古今事文類聚』(1246年ごろ)に載っていた実話をおもしろおかしく脚色したもののようです。

この原話では、スローモー男と普通人の会話になっていますが、内容は現行の落語にそっくりです。

これを翻案したのが、寛文7年(1667)刊の仮名草子『和漢りくつ物語』巻一の「裳の焦げたるを驚かぬこと」で、主人公はそのままもろこし(=中国)の「生れ付きゆたかにして、物事に騒がぬ人」となっています。

安永9(1780)年刊『初登』中の「焼抜」が同話のコピーです。

これには「物事については、よく見届けないうちは発言しないものだ」というもったいぶった「教訓」が付いています。

『笑府』をネタ本に、無数の江戸小咄が作られていますが、その多くはバレ噺です。

現行の落語では「三軒長屋」「松山鏡」「まんじゅうこわい」が『笑府』由来です。

噺のバーター取引?

この噺、もともと小咄かマクラ噺扱いだったらしく、古い口演記録や速記が見つかりません。したがって、いつ誰が一席の噺としてまとめたのかはっきりしないのですが、戦後は、三代目桂三木助、次いで五代目柳家小さんの十八番でした。

三木助は短気な方、小さんは気長な方に、それぞれ芸風が出ていました。実は、三木助が「長短」を教える代わりに、弟分の小さんから「大工調べ」を移してもらったというエピソードが残っています。ご存じのように、二人は義兄弟の仲でした。

三木助のマクラ

「……戦争に負けてッからこっち、なんだか知らないけど、どんどん、どんどん、日がたッちゃいますな。われわれこのゥ日本人てェものが、みんなこうせッかちンなりましてな、(大きな声で)こんちや、ッてぇと、(さらにまた大きな声で)さいならッてぇん。なんにも用なんかいわないで帰ッちゃうンですからな、やっぱし、あれ、気が短いッてンでしょうなァ……」(安藤鶴夫『三木助歳時記』より)

先の大戦後間もない昭和24年(1949)春、再建されたばかりの人形町末広で、橘ノ円時代の三木助が勉強会に「長短」を演じる場面。

「食い物は、何が好きだい?」
「おさしみ」
「うーん、お酒によくっておマンマにいいんだからね。で、ワサビをきかして?」
「いんや、オレはジャムをつけて食ってみてえ」

同じく、後年の「長短」のマクラ。いささかゲテながら、人の好き好き→性格の違いから、本題に入っています。

ことばよみいみ
笑府しょうふ明末の笑い話集。馮夢竜編
馮夢竜
ふうぼうりょう1574?-1645、明末の小説家。『喩世明言』『警世通言』『醒世恒言』『古今小説』『笑府』など
腰から下にまとった衣服の総称
橘ノ円 たちばなのまどかここでは、三代目桂三木助の前名

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ももかわ【百川】落語演目

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【どんな?】

舞台は日本橋の料亭を舞台。
客と店の者とのちぐはぐなおなはし。
実話なんだそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困った旦那は、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、今年はそれをどうするかで、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うっひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから、一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「四神剣の掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですから、どうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんども、はァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、初五郎は慈姑くわいのきんとんを差し出して、
「ここんところは一つ、慈姑(=具合)をぐっとのみ込んで(=見逃して)いただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて、下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいやながらも二階に上がる。

「うっひぇッ」

その奇声に二階の連中は驚いたが、百兵衛が椋鳥むくどりでただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と、見下すように言いつける。

「名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろ」と言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに「かの字のつく名高い人」とそこらへんの職人に尋ねれば「鴨池かもじ先生のことだろう」と医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生の弟子は「袈裟けさがけに斬られた」と誤解。

弟子はすぐさま、先生に伝える。

「あの連中は気が荒いからな。自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と使いの者に伝えるよう、弟子に言いつける。

百兵衛、にこにこ顔で戻ってきた。

百兵衛の伝言を聞いた若い衆、
「歌女文字の師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。

「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「抜け作とは。どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実際にあった本膳料理の店、百川が宣伝のため、実際に店で起こったちょっとした事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。

いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、「百川」だけでしょう。

落語というものが、というか、江戸文化というものが、かなり自由闊達であったことが、なんとなくうかがえますね。

創業は安永期か  【RIZAP COOK】

「百川」は代々、日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。

もとは卓袱しっぽく(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。

創業時期の詳細はわかりません。ネットでは天明3年(1783)との説も出ていますが、上述のように、安永期には繁盛していたようですから、よくわかりません。

明治32年(1899)1月3日号「文藝倶楽部」掲載の「百川」は、二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-98)の速記でした。

ここには、芳町よしちょう(=葭町)にあった料亭「百尺」の分店だったとされています。

天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。

この店の最後の華は、安政元年(1854)にペリーの一行が日米和親条約を締結が再来航した際、百川一店のみ饗応を受け負ったことでした。

幕命で、予算は千両だったそうです。こりゃ、すごい。

この人、何者?

藤堂藩の伊賀者(無足人ではない!)です。在郷で忍者職をこなしながらの、れっきとした武士でした。

「伊賀者」とは忍者職の武士なんだそうです。澤村家では当主が代々「甚三郎」を名乗ります。忍者です。

この人、べつに黒装束で船に潜入したわけではありません。

侍のいでたちで、ふつうに、なにくわぬ顔で、目立たないかんじで、宴会メンバーに加わっていたのでした。

甚三郎の任務遂行は、どれほどのものだったのか。

はっきり言って、たいしたことはない。

あちらの将校とくだらない話(もちろん通訳を介して)をして、米ドル紙幣を一枚もらってきた程度のものでした。

幕末の政局にいかなる利をもたらしたのかは、推して知るべしです。

ただ、言えることは、澤村も百川の献立に舌鼓を打ったであろうこと。これはすごい。むしろ、こっちのほうが価値ある「任務遂行」だったかもしれません。

そのときの百川の名菜献立が残っているそうです。なかでも、柿にみりんをあしらったデザートは、米将校らを喜ばせたとか。柿にみりん。悪くない新味かも。

そんな百川も明治元年(1868)には廃業しています。時勢のあおりでしょうか。

忍者も明治になると、軍隊や警察に入って得意技を駆使する人もいましたが、多くは市井の闇に消え落ちました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町むろまち2丁目の東側を入った横丁。

明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

現在のコレド室町、ビルに囲まれて立つ福徳神社あたりに、百川があったそうです。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗しじんきです。

四神は四方の神の意味で、青竜せいりゅう(東)、白虎びゃっこ(西)、朱雀すざく(南、朱=深い赤)、玄武げんぶ(北、玄=黒、武=亀と蛇の歩み)の図が描かれ、旗竿にほこがついていたため、この名があります。

神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

神田大明神御祭図。国輝。安政4年(1857)。大判錦絵3枚続。。祭りの壮大な雰囲気が伝わります。国立音楽大学附属図書館(竹内文庫)所蔵

椋鳥  【RIZAP COOK】

むくどり。椋鳥とは、秋から春にかけて江戸に出稼ぎに来た奉公人のことをいいます。

噺の中で若い衆は百兵衛を「椋鳥むくどり」と呼んでいます。

たんに田舎者をののしるだけのことばではなく、地方から江戸に上がってきてそのまま居ついてしまった人たちをもさしました。

多くは人足などの力仕事に従事していました。渡り鳥の椋鳥のように集団で往復することから、江戸者はそのように呼びました。

さげすんだりののしったりする意味合いの強いことばではありません。

慈姑  【RIZAP COOK】

くわい。オモダカ科の多年草。小芋に似た地下の球根を食用とします。

渋を抜き、煮て食べます。原産が中国で、日本では奈良時代には食べられていたそうです。苦みが残って、あまり美味な食材でもなさそうですが。

その頃は、精力食品ながらも食べ過ぎると腎水を減らすと考えられていたようです。

ところが江戸期に入ると、精力増強の側面は忘れ去られて、食べると水分を減らすということだけが強調されるようになりました。

江戸期を通して、慈姑は水分を取るもの、が通り相場でした。水がよく出る田んばに慈姑を植えると水を吸い取ってくれる、という笑い話さえ残るほど。

成分にカリウムが多いので利尿作用があるため、水を取ると思われていたのでしょう。天明の飢饉ききんでは救荒作物きゅうこうさくもつとして評価されたせいか、おせち料理に使われたりするのも人々にありがたい食物だから、ということからなのでしょう。

ちなみに、欧米では観賞専用で、食用にするのは東アジア圏だけだそうです。

慈姑のきんとん  【RIZAP COOK】

くわいのきんとん。この噺では「慈姑」そのものではなく「慈姑のきんとん」として登場しています。

慈姑のきんとんは、慈姑をすりつぶして使うのですが、この噺では慈姑が丸ごときんとんの中に入っているふうに描かれています。

一般に、慈姑のきんとんの意味するものは、見かけは栗きんとんに似ているのになかなかのどに通らないということ。

そこで、 理解や納得のしにくい事柄のたとえで使います。久保田万太郎(1889-1963、赤貝のひもで窒息死)は、小説「樹蔭」に「命令とあれば、無理にものみこまなければならない慈姑のきんとんで」と書き残しています。

久保田万太郎は「百川」を踏まえて使っていますね。

さらに、万太郎は小説「春泥」で、「だってあのこのごろ来た女中。―まるッきし分らないんだ、話が。―よッぽど慈姑のきんとんに出来上っているんだ。」とも。

この表現を推しはかると、 そっけない、人当たりの悪い人間の意味で使っているようです。

山家やまがもん(=地方出身者)の百兵衛の影がちらつきます。久保田はよほどの「百川」好みだったのがわかりますね。

そこで結論。

慈姑のきんとん=百兵衛。

慈姑のきんとんは百兵衛の表象である、ということなのだと思います。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留ほりどめ二丁目の大通り東側にある路地です。

入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道じんみちと呼びました。

鹿野武左衛門(安次郎、1649-99.9.6)や古山師重(古山太郎兵衛、17世紀後半)などが住んでいたことでも知られています。

鹿野武左衛門は江戸落語の元祖、古山師重は浮世絵師。菱川師宣の弟子が、いっときは菱川師重を名乗っていた時期もありました。

近くには芝居小屋もあって、芸事にからんだ人々が多く住んでいた、にぎやかで艶っぽい町。それが長谷川町の特色でした。元吉原の近所でもありますし。

人形町末広の跡地には、現在、読売IS(読売新聞社の系列社でチラシ制作など)の社屋が建っています。

この隣には「うぶけや」(天明3年=1783年開業)も。刃物製造販売の老舗です。

店の中に掛かる「うぶけや」の扁額。これがすごい。日下部鳴鶴(日下部東作、1838-1922)の門下による寄せ書きです。日下部鳴鶴は近代の書家です。揮毫したのは、「う」=伊原雲涯(1868-1928)、「ぶ」=丹羽海鶴(丹羽正長、1864-1931)、「け」=岩田鶴皐(岩田要輔、1866-1938)、「や」=近藤雪竹(近藤富寿、1863-1928)。さらに。店の外に掲げられた「うぶけや」の看板。これは丹羽海鶴の揮毫なんだそうです。なんだか、すごいです。

通りの向かいから眺めるこの一角だけの渋い光景は、一瞬、江戸の当時にに導いてくれます。

玄冶店  【RIZAP COOK】

げんやだな。うぶけやは玄冶店げんやだなといわれるところにあります。

近くには、花街の頃から残っている料亭の濱田家はまだやがありますが、こちらも「玄冶店 濱田家」と称しています。

ミシュランガイドや防衛庁の密談(守屋次官と山田商会の)で、一般にも知られるようになりましたね。

玄冶店は、三代将軍家光の御典医だった岡本玄冶おかもとげんやの敷地でした。家光の疱瘡ほうそうを治したことから、そのご褒美にと土地を拝領。

玄冶は借家を建てて人々に貸したので、ここら一帯は玄冶店と呼ばれるようになりました。町名は新和泉町しんいずみちょう。玄冶店は俗称です。

歌舞伎『与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし』の、与三郎がお富をゆする場は玄冶店の妾宅。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)はこの地に住んでいたことから「玄冶店の師匠」とも呼ばれました。

天保期には歌川国芳うかがわくによし(井草孫三郎、1798-1861)が玄冶店に住んでいました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839.4.1-1900.8.11)は少年時に国芳門となって絵師をめざしました。

国芳が日蓮宗の篤信家で絵も描かず連日連夜の題目三昧に気味悪がって、湯島大根畑の実家に戻ってしまいました。

ここらへんは、居職の人々が多く住んでいたようです。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。今輔のでは百兵衛ではなく、杢太左衛門という名前でした。

古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)は、義父の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)から継承していました。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も時折、演じました。

志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」という独自のもの。

これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまりおもしろくはありません。

八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)のやる百兵衛は「木下百兵衛」という姓が付いていました。江戸者と山出し(地方出身者)の差異や聞き違いを強調していました。

昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったものでした。円生の型が標準になってしまいました。

円生没後は、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)らが次代に伝えていました。小三治も円生の型でした。

十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)は「鴨池道哲先生」と言っていました。始まりが二階の若い衆の場面からで、円生の型とはちょっと違っていました。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のは円生の型でした。絶品でした。

六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)も伝えていました。

三遊亭歌司は、円生から小三治に伝わったものをさらった旨を前ぶりに語っています。混乱ぶりがにじみ出ていて、独自の味があります。

小三治も円生の「百川」を踏襲しています。志ん朝のと同じ型です。円生や志ん朝の「百川」と際立った違いはありません。

ただ、慈姑のきんとんを食べて目を白黒させるようなところは、さすがは五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)の弟子だけあって、みごとなしぐさでした。円生や志ん朝を超えていました。

江戸者の視線から田舎者を笑うというやり方も薄まっていて、粗忽者ばかりが早とちりを繰り返しています。

いまどき、江戸者が田舎者を笑う構図は受け入れられないでしょうから、そこらへんは工夫が必要となるのでしょう。

カモジ先生  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。

実在も実在、本名が清水左近源元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳かもいけげんりん

鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。

実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍家斉の御典医を務めたほどの漢方外料(=外科)の名医。

瘍科撮要ようかさつよう』全三巻を口述し、日本医学史に名を残しています。

本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したそうです。

まさに「赤ひげ」そのものでした。

ついでに、八丁堀について

八丁堀は、町奉行付きの与力や同心の居住区でした。

与力は幕府からの拝領地に屋敷を構えていたのですが、その土地はとても広くて半分は使えないままとなります。

そこで与力の副業として、医家、儒学者、歌人、国学者などといった身元判明の諸家に土地を貸していました。

中村静夫「新作八丁堀組屋敷」には、幕末期、原鶴右衛門はらつるえもんの組屋敷に太田元礼(医)、藤島勾当、河辺東山(医)、鴨池元琳(医)が借地していたことが記されています。

他の組屋敷でも医家の借地が多く見られます。

与力が医家に多く貸すのは、御用絡みでけが人が出た場合に急場の施療を頼める心強さも下心にはあったのでしょう。

「袈裟がけに斬られた」事件は、鴨池先生には驚くほどのものではなかったのでしょう。

元吉原の地霊  【RIZAP COOK】

この噺を聴いた明治期東京の人々は「長谷川町三光新道の鴨池元琳先生」ときたら、すぐに岡本玄冶を思い起こしたことでしょう。

鴨池先生が八丁堀にいたことはわかっていますが、三光新道で開業していたかどうかは不明。ここは噺家の脚色かもしれません。

脚色でいいのです。

知られた御典医、岡本玄冶を連想させる噺家のたくらみだったのですから。

長谷川町の隣は元吉原の一帯です。

現在の日本橋人形町界隈。明暦3年(1657)8月には遊郭が浅草裏に移転したため、跡地には地霊がとり憑いたまま私娼窟と化しました。

土地はそんなにたやすく変容しないもの。

見えずとも、地の霊は残るのです。

近所には堺町さかいちょう葺屋町ふきやちょう

こちらは芝居町で、歌舞伎の中村座と市村座、浄瑠璃座や人形操座なんかもあります。

上方から移ってきた芸能系の人々によって町が形成されていった地区です。

その頃の歌舞伎役者は男娼も兼ねていましたから、元吉原変じての葭町には陰間茶屋かげまぢゃやができていきました。

1764年(明和元年)には12軒も。

ところが、1841年(天保12年)10月7日暁七つ半(午前5時)、堺町の水茶屋から起こった火事で、ここら一帯が丸焼けに。

芝居小屋はすべて浅草猿若町に移転させられました。

天保の改革の無粋で厳格な規制によって陰間茶屋は消え、葭町は芳町に変じて艶っぽくてほの明るい花街に模様替えされきました。

深川や霊巌島れいがんじまの花街から移ってきた芸妓たちによって新興の花街が生まれたのです。

明治、大正期には怪しげな私娼窟もありましたが、蠣殻町かきがらちょうが米相場の町に、兜町かぶとちょうが株式の町に変容し、成金が芸妓と安直に遊ぶ町に形成されていきました。

東京でいちばん粋な街です。今もこのあたりの路地裏を歩くと、どこか艶めいた空気を感じるのは、いまだ地霊がひっそりと息遣いしているせいかもしれません。

「百川」は取るに足りないのんきな噺に聴こえます。

じつは、日本橋一帯の表の顔と裏の顔が見え隠れする、きわめてあやしげな上級コースの噺に仕上がっているのだと思います。一度くらいじゃわかりません。

何度も何度もいろんな噺家の「百川」を聴いていくと、見えてくるものがあります。味わい深く楽しめます。

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成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

のめる【のめる】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

軽い「くせ噺」。
小気味よくておもしろい。
時折演じられるので聴ける好機多々。

別題:二人癖(上方)

【あらすじ】

無尽に当たっても
「つまらねえ」
と言うので、
「当たってこぼすことはねえ」
ととがめると
「当たらねえやつはつまらねえ」
という。

お互いに悪い癖だから、一言でも口癖を言ったら、一回百円の罰金を取ろうと取り決めたが、なんとか「つまらねえ」を言わせて金をせしめようと、隠居に相談に来る。

その間にも
「百円ありゃア、一杯のめる」
と、もうやっている始末。

隠居、それなら印半纏に着替えて向こうの家に行き、手にちょっと糠をつけて
「練馬に叔母さんがいて、大根をいま百本もらった。沢庵に漬けようと思うんだが、あいにく四斗樽がないから、物置きを探すと醤油樽が出てきた。その中へ百本の大根を漬けようと思うが、つまるかねえ」
と持ちかけてみな、と策を授ける。

そうすると向こうが
「百本の大根といやあ、かなり嵩がある。それはどうしてもつまらない」
と、ここで引っかかるだろうと言うので、これはいいと、さっそく出かけていく。

その場になるとセリフを忘れてしまい、しどろもどろでようやく
「醤油樽へつまろうか」
までこぎつけた。

相手は
「そりゃあとてもつま」
まで言いかけてニヤリと笑い
「へえりきらねえ」

「つまろうか?」
「残るよ」
「つまろうか?」
「たががはじける」
「足で押し込んで」
「底が抜けるよ」

どうしてもダメ。

これから外出するというので、
「どこへ」
と聞くと、
「伊勢屋の婚礼だ」
という。

「婚礼? うまくやってやがる。のめるな」

逆にワナに落ち、百円せしめられる。

婚礼は真っ赤なうそ。

再び隠居に泣きつくと、
「今度は相手の遊びに来る時間を見計らい、将棋盤を前に、詰め将棋を考えている振りをしろ」
と言う。

持ち駒は歩が三枚に金、銀。

どうせ詰まないから、口を出してきた時を見計らって
「つまろうか?」
と聞くと、相手も夢中になっているだろうから、きっと引っかかるという作戦。

将棋などやったこともないから、盤と駒を借りてしきりにウンウンうなっていると、「つまらない」がやってきた。

間のいいことに、これが無類の将棋好き。

「待ちな待ちな。あたまへ金を打って、下がって……駒は? それっきり? 誰に教わった? 床屋の親方? からかわれたんだ。これじゃ、どうしてもつまらねえ」

これを言わせるために艱難辛苦したのだから、興奮して胸ぐらをつかむ。

「いてて、ばか、よせ。うーん、こりゃ一杯食った。てめえの知恵にしちゃできすぎだ。よし、決めを倍にして二百円やろう」
「ありがてえ、一杯のめる」
「おっと、それでさっ引きだ」

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【しりたい】

原話は「癖はなおらぬ」  【RIZAP COOK】

原話は古く、元禄14年(1701)、京都で刊行された『百登瓢箪』巻二「癖はなおらぬ」です。

これは、鼻を横なでする癖のある者と頭をたたく癖のある者が申し合わせて癖をやめることにしますが、つい話に熱中するうちに二人ともまたやらかすという、たわいない話です。

登場人物が二人という以外は、現行とは内容が違うので、遠い原型というくらいでしょうか。

くせの噺は、昔から小咄、マクラ噺としては多数あり、くせの種類も、口ぐせから動作までさまざまです。特に、動作では、八代目雷門助六が「しらみ茶屋」で見せた畳のケバむしり、鼻くそとばしの応酬が抱腹絶倒でした。ビジュアルな名人芸の見せ所なのでしょう。

なくて七癖、噺もいろいろ  【RIZAP COOK】

登場する人数も、一人(一人癖)、二人(二人癖)、三人(三人癖)と増えるにつれ、演じ分けも難しくなっていきます。あまり出ませんが、「四人癖」では、鼻こすり、眼こすり、そで引っ張り、「こいつはいい」(手をたたく)の四人が登場、四人が失敗して、勝った「こいつはいい」が最後に罰金で一杯やれるというので「なるほどこいつはいい」でオチになります。

「のめる」は、くせ噺としてはもっとも洗練されたもので、上方の演題はそのものずばり「二人癖」です。いずれにせよ、ルーツは民話、昔話にあるのでしょう。

名人連の二つ目噺  【RIZAP COOK】

東京では、大阪通りの「二人癖」で演じた、明治29年(1896)3月の三代目柳家小さんの速記があり、同時代の四代目橘家円喬も得意でした。円喬は三遊派の旗頭でした。

円喬のは、SPレコードからの復刻音源が残されています。オチは、円喬だけは変わっています。

「一本歯の下駄を頼みに行くんだ」
「一本歯の下駄なら(前に)のめるだろう」
「今ので差っ引きだ」

現在はこれを使う演者はいないでしょう。

六代目三遊亭円生が「軽い噺で、二つ目程度がやる噺」と述べていますが、なかなかどうして、昭和初期から戦後ではその円生のほか、八代目春風亭柳枝、三代目三遊亭金馬ら多くの大看板が手がけていて、現在もよく高座に掛けられます。

三代目金馬は「のめる」でなく「うめえ」を口癖にしていたので、当然演題は「二人癖」でした。

たくあん事始   【RIZAP COOK】

京都大徳寺の住職時代の沢庵宗彭(たくあんそうほう)が寛永16年(1639)に発明したとされますが、疑問があります。「じゃくあん」「たくわえづけ」からの転訛で、単に沢庵の名と結び付けられただけというのが、真説のようです。

その他、沢庵の創建した品川東海寺では、三代将軍家光の命名伝説もありますが、珍説は、沢庵の墓石がタクアン石に似ていたから、というもの。

東海寺では、タクアンの名をはばかって「百本」というそうですが、他の宗派(東海寺は臨済宗大徳寺派)や寺院でも、名僧への非礼を避け「香の物」などと呼ぶことが多いようです。

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はんぶんあか【半分垢】落語演目

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【どんな?】

お相撲さんが出てくる噺。
小ばなしが元になった軽い笑いです。

別題:垢相撲 付け焼刃 富士の雪

あらすじ】 

巡業から久しぶりに帰ってきた関取。

疲れからぐっすり眠っているところへひいきの客が訪ねてくる。

かみさんに、寝ているなら起こさないでいいと言い、相撲取りは巡業に出ると太るというから、さぞ大きくなったろう、と尋ねる。

おかみさん、ここぞとばかり。

戸口から入れないので格子を外さなければならなかったとホラを吹く。

それを奥で聞いていた関取。

客が帰った後、おかみさんに
「三島の宿しゅくで茶屋から富士を見て、大きなものだと感心していたら、そこの婆さんが『大きく見えても、あれは半分雪です』と、普通なら日本一の山をお国自慢するところを、逆に謙虚に言った。その奥ゆかしさに、かえって富士が大きく見えた」 と語り、人間は謙虚であれば、他人は実際より自分を大きく見てくれるのだから自慢はするな、と説教した。

そこへまた別のひいきの客が来た。

おかみさん、今度は
「関取は細くなって、格子こうし隙間すきまから入れるぐらいです」

関取がびっくりして顔を出すと、客は
「とてもそうは見えない。大きくなった」
「いえ、これで半分は垢です」

出典:五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)

【しりたい】 

二つの小ばなしから

富士山を謙遜するくだりが、寛政元年(1789)刊の笑話本『室の梅』中の「駿河客」、「半分は垢です」のオチの部分が元禄14年(1701)刊『百成瓢箪ひゃくなりびょうたん』中の「肥満男」と、以上二つの小ばなしから構成されています。

相撲取りが登場する噺

このほかにもいくつかの噺があります。

たった3尺2寸(97cm)の鍬潟くわがたが6尺5寸・45貫(197cm、170kg)の雷電為右衛門らいでんためえもんを転がす「鍬潟」、第六代横綱の出世譚しゅっせたん阿武松おうのまつ」、大関にそっくりなばっかりに……の「花筏はないかだ」、バレ噺の「大男の毛」など。

見て楽しむ

この噺にでもわかりますが、昔の相撲は、体の大きいことをことさら気にし、大きいと言われることを極端にいやがる傾向があったようです。

一般人との体格差があまりにも激しかったからです。

190cmを超える若者や100kgを超える少年は、相撲が弱くても見世物扱いで土俵入りをさせられたり、ただでさえ好奇の目で見られることが多かったからでしょう。

この噺をよく演じた五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の速記でも、「二階の屋根の上に関取の顔があった」、「十枚も布団をたして掛けた」、「顔は四斗樽よんとだる、目はタドン」「道中で牛を二、三頭踏み殺した」と、言いたい放題です。

二階の屋根から顔

身長で歴代第3位(227cm)の記録を持ち、巨人の代名詞としてしばしば引き合いに出される大関、釈迦ヶ嶽雲右衛門しゃかがたけくもえもん(1749-75)の逸話です。

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おうのまつ【阿武松】落語演目

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【どんな?】

大食いで武隈関から追い出された男。
板橋宿でたらふく食って死のうとする。
旅籠の主人に救われて錣山部屋へ。
錣山では大食いがすすめられた。
男はたちまち大出世。
とうとう長州公のお抱え力士に。

これぞ第六代横綱、阿武松の出世譚。

別題:出世力士

あらすじ

京橋観世新道かんぜじんみちに住む武隈文右衛門たけくまぶんえもんという幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至ふげし鵜川うかわ村字七海しつみの在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車おぐるまという四股名しこなを与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから、追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ、相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分金をやって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分金で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾宿の橘家善兵衛という旅籠はたごに泊まり、一期いちごの思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみると、これこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山しころやま喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている。相撲取りが飯を食わないではどうにもならない。一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑という四股名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助おうのまつみどりのすけと出世を遂げるという一席。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

阿武松緑之助  【RIZAP COOK】

おうのまつみどりのすけ。寛政3年(1791)-嘉永4年(1851)。第六代横綱。長州藩抱え。実際は武隈部屋。文政5年(1822)10月入幕、同9年(1826)10月大関、同11年(1828)2月横綱免許。天保6年(1835)10月、満44歳で引退。

四股名の由来は、お抱え先の長州・萩の名所「阿武あぶの松原」から。 

板橋宿  【RIZAP COOK】

地名の由来は、石神井川に架かる板橋から。日本橋から二里八丁(11.2km)。

中仙道の親宿(起点)で、四宿(非公認の遊郭。品川、新宿、千住、板橋)の一つ。上宿、中宿、平尾宿(下宿)に分かれていました。宿泊専用の平旅籠以外に、飯盛り女(宿場女郎)を置く飯盛り旅籠があり、そっちの方でもにぎわいました。

縁切り榎で有名です。十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮に目障りとされ、薦巻きにされたといいます。のちの新選組を組織する近藤勇や土方歳三らも中山道を京に向かいました。

戸田川は荒川のこと。隅田川の上流で、板橋宿の外れ、志村の在には戸田の渡し場がありました。

観世新道  【RIZAP COOK】

かんぜじんみち。中央区銀座一丁目。

講談から脚色  【RIZAP COOK】

講釈をもとにできた噺。講談(講釈)には、「谷風情け相撲」など、相撲取りの出世譚は多いのですが、落語化されたものは珍しいです。

大阪の五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946、赤馬生、おもちゃ屋の)から教わった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、得意にしていた人情噺。弟子の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が継承しました。

「阿武松じゃあるめえし」  【RIZAP COOK】

文政13年(1830)3月、横綱阿武松は、江戸城での将軍家上覧相撲結びの一番でライバルの稲妻雷五郎(1795-1877、第七代横綱)と顔を合わせ、勝ちはしたものの、マッタしたというのが江戸っ子の顰蹙ひんしゅくを買い、それ以後、人気はガタ落ちに。

借金を待ってくれというのを「阿武松じゃあるめえし」というのが流行語になったとか。平戸藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にある逸話です。

実録の阿武松は、柳橋のこんにゃく屋に奉公しているところをスカウトされたということです。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

あなごでからぬけ【穴子でからぬけ】落語演目

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【どんな?】

与太郎にからかわれる短い噺です。
円生の逃げ噺としても使われました。

【あらすじ】

与太郎が、源さんとなぞなぞの賭けをする。

まず十円賭けて
「まっ黒で大きくて、角があって足が四本あって、モーッと鳴くもの、なんだ」
「てめえが考えつくのはせいぜいその程度だ。牛に決まってら」

これでまず、十円負け。

今度は、よせばいいのに二十円に値上げして
「じゃ、もっと難しいの。やっぱり黒くて嘴があって空飛んで、カアーッって鳴くもの」
「どこが難しい。カラスだろ」

次は犬を出して簡単に当てられる。

いくら取られても懲りない与太郎、こともあろうに今度は五百円で、
「絶対に当たらない」
という問題。

「長いのがあれば短いのもある。太いのも細いのもあって、つかむとヌルヌルするもの、なあーんだ」
「この野郎、オレがヘビだと言やあウナギ、ウナギと言やあヘビと言うつもりだな。ずるいぞ」
「じゃ、両方言ってもいいや」
「ヘビにウナギだ」
「へへっ、残念。穴子でからぬけ」

与太郎、次にまた同じ問題を出すので、源さん
「ヘビにウナギに穴子だな」
ってえと与太郎、
「へへっ、今度はずいきの腐ったのだ」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

なぞかけ勝負

最後の「長いのもあれば……」のくだりの原話は明和9年(1772)刊の小咄本『楽牽頭』中の「なぞ」で、ここでは、最初にまともに「うなぎ」と言い当てられ、続けて同じ問題で、今度は「蛇」と答えたのを「おっと、うなぎのつら(面)でござい」と落としています。

前の二問も、おそらくそれぞれネタ本があったか、代々の落語家がいろいろに考えたものが、いつしかこの形に固定したのでしょう。

原話では、このなぞなぞ遊びは「四割八分」の賭けになっています。

これは、勝つと掛け金が5倍につくという、ハイレートのバクチで、最初は一両のビットですから、「うなぎ」と答えた方は五両のもうけですが、これが恐ろしい罠。

イカサマ同然の第二問にまんまとひっかかり、今度は何と二十五両の負けになったしまったわけです。こうなると遊びどころではなく、血の雨が降ったかもしれません。

からぬけ

完全に言い逃れた、または出し抜いたの意味です。

題名は、穴子はぬるぬるしていて、つかむとするりと逃げることから、それと掛けたものでしょう。

ずいき

サトイモの茎で、「随喜」と当て字します。

特に「肥後ずいき」として、江戸時代には淫具として有名でした。

艶笑落語や小咄には、たびたび登場します。

オチの通り、帯状の細長いもので、これを何回りも男のエテモノに巻きつけて用いたものですが、効果のほどは疑問です。

隠れた「円生十八番」

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)が、いわゆる「逃げ噺」として客がセコなとき(客種が悪く、気が乗らない高座)で演じた噺の一つです。

円生のこの種の噺では、ほかに「四宿の屁」「おかふい」などが有名でした。普通は前座噺、またはマクラ噺で、円生は普通「穴子でからぬけだ」で切っていました。

「からぬけ」からの噺家

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、その『芸談聞書き』(安藤鶴夫・述)で、昔は楽屋内で「『穴子でからぬけ』からやった」というと、天狗連から化けたのではなく、前座からちゃんとした修行を積んだという証しで、大変な権威になっていた、と語っていました。

明治大正では、入門して一番最初に教わるのが、この噺であることが多かったのでしょう。相撲で言う「序の口(前相撲)から取った」と同じことですね。

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せいしょうこうさかや【清正公酒屋】落語演目



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【どんな?】

宗旨違いの家の男女の色恋。
落語版「ロミオとジュリエット」。
だからやっぱり陽気なんです。

別題:縁結び浮き名の恋風

あらすじ

酒屋の肥後屋の若だんなで一人息子の清七と、向かいの菓子屋・虎屋の娘お仲は恋仲だが、両家は昔から仲が悪く、二人は許されない恋。

それというのも、もともと宗旨が一向宗と日蓮宗、商売が酒と饅頭で、上戸と下戸。

すべての利害が対立している上、肥後屋は清正公崇拝で、その加藤清正は毒饅頭で暗殺されたという俗説があるから、なおさらのこと。

もう一つ、虎屋だけに、虎退治の清正とは仇同士。

というわけで、とんだロミオとジュリエットだが、この若だんな、おやじの清兵衛に、お仲を思い切らないと勘当だと、脅かされてもいっこうに動じない。

勘当はおやじの口癖で聞き飽きているし、こっちは跡取りで、代わりがいないというバーゲニングパワーもある。

思い切れませんから勘当結構、さっそく取りかかりましょうと開き直られると、案の定おやじの旗色が悪い。

結局、お決まりで番頭が中に入り、清七の処分は保留、「未決」のまま、お仲から隔離するため、親類預けということになった。

そうなると虎屋の方も放ってはおけず、お仲も同じく親類預け。

二人は哀れ、離れ離れで幽閉の身に。

ところが抜け道はあるもので、饅頭屋のお手伝いと、酒屋の小僧の長松が、こっそり二人の手紙を取り次ぐ手はずができた。

ある日、お仲から、夜中にそっと忍んで来てくれという手紙。

若だんなは勇気百倍、脱走して深夜、お仲を連れ出す。

結局駆け落ちしかないというので、二人は手に手を取って夜霧に消えていく。

しかし、しょせん添われぬ二人の仲。

心中しようと決まり、ここで梅川忠兵衛よろしく、
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
とくればはまるのだが、あいにく男の宗旨は法華(日蓮宗)。

「覚悟はよいか」
「南無妙法蓮華経」
……いやに陽気な心中となった。

ナムミョウホウレンゲッキョウナムミョウホウレンゲッキョと蛙の交配期のようにデュエットし、にぎやかに水中へドボン……その時突如、ドロドロと怪しの煙。

ここで芝居がかりになり、
「やあ待て両人、早まるな」
「こは、いずこの御方なるか」
「おお、我こそはそちが日ごろ信心なす、清正公大神祗なるぞ」
「ちぇー、かたじけない。この上は改宗なしたる女房お仲の命を助けてくださりませ」
「イヤ、たとい改宗なしたりとも、お仲の命は助けられぬわ」
「そりゃまた、なぜに」
と聞くと清正、ニヤっと笑って
「なあに、オレの敵の饅頭屋だから」

底本:六代目桂文治

しりたい

宗派対立  【RIZAP COOK】

江戸時代の基本的な知識として、法華系(日蓮宗など)と念仏系(浄土宗、浄土真宗、時宗など)との宗派同士の対立がつねにあった、ということです。

江戸の町内でもことあるごとに諍いが絶えませんでした。

これは、念仏系では穢土と浄土との二元的な救われ方に比べて、法華では法華経以外では絶対救われないという一元的な見方が原因です。

お互い、相容れられない考え方なのです。

清正公さま  【RIZAP COOK】

せいしょうこうさま。縮めて「セイショコさま」とも呼んでます。戦国時代の英傑・加藤清正の霊を神として祀ったものです。

武運・金運をつかさどりますが、清正が法華宗の信徒だったところから法華(日蓮宗)信者の信仰を集めました。

江戸はほかの地方に比べて法華の宗旨が多く、「法華長屋」「甲府い」「鰍沢」「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」など、落語にも法華の登場する噺はたくさんあります。

江戸の清正公(清正公神祇、清正公大神祇)は2か所あります。

一つは浜町の清正公で、現在の中央区日本橋・浜町公園内。寺の名前は「清正公寺」といいます。意外に新しく、文久元年(1861)の創建です。

この地には熊本藩細川家の下屋敷がありました。藩主細川斎護が熊本の本妙寺に安置する「加藤清正公」を勧請(神仏霊のおすそわけ)して分霊とし、下屋敷内に清正公として祀りました。

明治になってからは「加藤神社」と称した時期もありましたが、明治18年(1885)に「清正公堂」と改められて、管理を本妙寺に委託しました

。関東大震災で焼失し、震災後につくられた浜町公園内に移されました。戦災でもまたも焼失して、戦後、新たに再建されました。

この噺に登場するのはこちらです。「浜町の清正公さま」のほうです。おまちがいのなきよう。

もう一つは港区白金の覚林寺境内に祀られる「白金の清正公」で、こちらが本家とされます。

清正の画像、ゆかりの品を所蔵していますが、こちらも細川家の白金の中屋敷がすぐ近くで、同家は清正の加藤家が国替え(のちお取りつぶし)後、後釜に肥後熊本に封じられたため、清正の霊を慰める意味もあり、清正公神祇を手厚く庇護したといいます。

中世に形成された神仏習合の流れに、「法華神道」といわれる信仰がありました。

日蓮宗の教えと神道が結びついた信仰形態です。崇める対象に日本の神さまや人物が入ってきますが、その中に清正公神祇がありました。

寺院の境内の中に祠をこさえ、柏手を打って祈るのです。江戸時代の平和な時間の中で「清正公さま」はこのような形に収まっていきました。

慶応4年(1868)3月、明治政府は神道国教化の一環として、神仏判然令を出し、神仏分離を急速に推し進めました。

それまでの日本国内にはたしかに、神仏が融合したよくわからない神社仏閣がたくさんあったのですが、政府の方針は短兵急でした。

この流れの中で、浜町の清正公さまは神社になったり寺院になったりと、揺れ動いたのですね。

暗殺伝説に由来する噺  【RIZAP COOK】

豊臣家の支柱であった加藤清正が慶長16年(1611)、徳川家康の手により、毒饅頭(毒酒説も)で暗殺されたという俗説に基づいて作られた噺です。

オチは文字通りダジャレで、アン殺されたから饅頭が天敵、というわけ。このフレーズ、ドラマ「タイガー&ドラゴン」でも使われてました。

明治期に六代目桂文治が「縁結び浮き名の恋風」の題で得意にしました。この題名は、芝居噺が得意だった文治が、後半の道行きの部分を芝居噺仕立てにしたためです。

その後、八代目文治、四代目柳家つばめ、戦後も六代目三升家小勝が手掛けましたが、其の後は立川談志が手掛けたぐらいで、残念ながら忘れられかけた噺といっていいでしょう。

なんせこの噺、かつての「東京かわら版」発行の『寄席演芸年鑑』索引にも「せ」でなく、「き」の部で載っていたくらいですから。

お題目のデュエット  【RIZAP COOK】

心中場面のこのくすぐりは、「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」にも取り入れられています。どれが「本家」かはわかりませんが。

【語の読み】
清正公 せいしょうこう
本妙寺 ほんみょうじ
覚林寺 かくりんじ



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ひゃくねんめ【百年目】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

上方の噺。
大店の堅い番頭の裏の顔。
人間こうでなくちゃおもしろくないです。

あらすじ

ある大店の一番番頭、冶兵衛。

四十三だが、まだ独り身で店に居付き。

この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っている。

茶屋遊びで午前さま(御前さまの洒落)になった二番番頭。

それをとがめた治兵衛のせりふはふるっている。

「芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか、教えてほしい」

この皮肉だ。

ある朝。

いつものように、治兵衛が小僧や手代にうるさく説教した。

「番町のお屋敷をまわってくる」

そう言って、番頭は外出した。

ところが、外で待っていたのは、幇間の一八。

今日は、こっそり入りびたっている柳橋の芸者、幇間連中を引き連れて、向島へ花見に繰り出そうという趣向。

菓子舗の二階で、とっておきの、大津絵を染めだした長襦袢、結城縮みの着物と羽織に着替え、屋形船を出す。

ところが、治兵衛は小心だ。

すれ違う舟から顔をのぞかれるとまずいので、ぴったり障子を締め切らせていたほど。

向島に着いた。

酒が入って大胆になる。

扇子を首に縛りつけて顔を隠し、長襦袢一枚に。

桜が満開の向島土手で、陽気に騒ぐ、一番番頭の治兵衛。

一方、こちらは大店のだんな。

おたいこ医者・玄伯をお供に、これまた花見にやってきている。

玄伯老が冶兵衛を認めた。

「あれはお宅の番頭さんでは」

そう言っても、だんなは平然としている。

「悪堅い番頭に、あんな派手なまねはできない」

まったく取り合わない。

そのうち、ひょんなはずみで二人は土手の上で鉢合わせ。

避けようとするだんなに、冶兵衛は芸者と勘違いしてむしゃぶりつき、はずみでばったり顔が合った。

いちばんこわい相手に現場を見られて、冶兵衛は動転。

「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」

酔いもいっぺんで醒めた冶兵衛。

逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまう。

あんな醜態をだんなに見られたからにはクビは確実だ、と頭を抱えた冶兵衛。

いっそ夜逃げしようかと、一晩悶々として、翌朝、帳場に座っても、生きた心地がない。

そこへ、だんなのお呼び。

「そら、おいでなすった」と、びくびくして母屋の敷居をまたぐ治兵衛。

意外にも、だんな、昨日のことはおくびにも出さず、天竺(インド)の栴檀の大木と天南草という雑草の話を始める。

栴檀は天南草を肥やしにして生き、天南草は栴檀の下ろす露で繁殖する。

持ちつ持たれつで、家ではあたし、店ではおまえさんが栴檀で、若い者が天南草。

天南草が枯れれば栴檀のおまえも枯れ、あたしも同じだから、厳しいのはいいが、もう少しゆとりを持ってやりなさいと、やんわりさとす。

「ところで、昨日はおもしろそうだったな」

いよいよきた。冶兵衛、取引先のお供でなどとしどろもどろの言いわけを。

だんなは少しも怒らない。

「金を使うときは、商いの切っ先が鈍るから、決して先方に使い負けてくれるな」

だんなはきっぱり。

「実は、帳簿に穴が空いているのではと気になり、密かに調べたが、これぽっちも間違いはなかった」

だんなは冶兵衛を褒めた。

「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ。約束通り来年はおまえさんに店を持ってもらう」

そう言ってくれたので、冶兵衛は感激して泣き出す。

「それにしても、昨日『お久しぶりでございます』と言ったが、一つ家にいながらごぶさたてえのも……。なぜあんなことを言ったんだい」

だんなは不思議そう。

「へえ、堅いと思われていましたのをあんなざまでお目にかかり、もう、これが百年目と思いました」

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番頭

「番頭はん」というと、若き藤山寛美(稲垣完治、1929-90、喜劇役者)の阿呆丁稚に悩まされる、曽我廼家五郎八(西岡幸一、1902-98、松竹新喜劇役者)の絶妙の「受けの芝居」を、懐かしく思い出される方も多いかもしれません。

知らなけりゃ、それまでですが。

小僧(上方では丁稚)から手代を経て、番頭に昇格するわけです。

普通、中規模の商家で2人、大店になると3人以上いることもありました。

居付き(店に寝泊まり)の番頭と通い番頭があり、後者は所帯を持った若い番頭が裏長屋に住み、そこから店に通ったものです。

普通、番頭になって10年無事に勤め上げると、別家独立させるしきたりが、東京でも大阪でもありました。

この噺の治兵衛は、40歳を越してもまだ独身で、しかも、主人に重宝がられて別家独立が延び延びになり、店に居ついている珍しいケースです。

支配人

大店の一番番頭を、明治になると、「支配人」と呼びました。

明治41年(1908)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記でもそうなっています。のちにこの名称が、大会社の大物重役にも適用されるようになりました。

支配人、つまり大番頭ともなると、店の金の出納権限を握っているので、株式などの理財で個人的にもうけることも可能だったわけです。

江戸時代だと、こっそり店の金を「ドガチャカ」、つまり業務上横領して、米相場に投資するなどでしょう。

そういうリスクはあっても、主人といえども、店の金の運用には、番頭の意向を無視できませんでした。

そうやって自分ももうけ、店にも利益をもたらす番頭を「白ねずみ」と呼びました。これは、金銀の精、または福の神を意味します。

「帯久」にも出てきますが、特に功労のあった「白ねずみ」に店の屋号を与え、親類扱いで分家させることもよくありました。

上方落語の大ネタ

大阪では、幹部クラスの名人連しか演じられない大ネタを「切りネタ」と呼びますが、この噺はその切りネタの代表格でしょう。

上方落語のイメージが強いため、東京にはかなり最近紹介されたように思われがちなのですが、実は、江戸でも同題名で文化年間(1804-18)から口演されてきました。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が得意にしましたが、今回のあらすじは円生のものを参考にしました。

東西で、やり方に大きな違いはありませんが、たとえば大阪では、舞台が桜の宮で、番頭が、初めは2、3人の小人数で行こうと考えていたのに、ほかの芸妓に知れわたりやむなくはでな散財になった、というように、細部の設定が多少異なります。/

志ん生は、主人の天南草のセリフを省くなど、ごくあっさりと演じていました。

上方ではもちろん、三代目桂米朝(中川清、1925.11.6-2015.3.19)が絶品でしたし、五代目桂文枝(長谷川多持、1930.4.12-2005.3.12、三代目桂小文枝→)も得意としていました。

東京では、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が円生譲りのやり方でたまに高座にかけました。

百年目

古来まれな、百年の長寿を保ったとしても、結局最後には死を免れないところから、究極の、もうどうにも逃れようもない命の瀬戸際をいいます。

敵討ちの口上などの紋切り型で、「ここで逢ったが百年目」というのは、昔からよく使われ、今も耳にする文句です。

意味を「百年に一度の奇跡」と解しがちですが、実は「(おまえにとっての)百年目で、もう逃れられない」という意味です。

番頭の絶望観を表すことばとして、このオチは見事に効いています。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たいこばら【幇間腹】落語演目



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【どんな?】

昔は道楽者やばかでも医者になれたみたい。
現代とおなじか。

あらすじ】

道楽者の若だんな、家が金持ちであるのをいいことに、あらゆる悪行をし尽くして、もうすることがなくなってしまった。

そこで、はたと考え込み、
「こうやって道楽をして生涯を終わってしまうのは、実にもったいない。これからはせめて、同じことなら人助けになる道楽をしてみよう」
と妙な改心をした挙げ句、
「人助けならいっそ医者だが、なるのが大変だから、どうせなら簡単に免許が取れそうな鍼医はりいにでもなってやろう」
と、「でもしか医者」を思いつく。

思い立ったが吉日、とさっそく杉山流の鍼の先生に弟子入りしたが、書物の講釈ばかりして一行に鍼を持たせてくれない。

根がお調子者で気まぐれだから、じきに飽きてしまい、すぐにでも「人体実験」をしてみたくてたまらなくなった。

猫を突っついてみても練習にはならない。

やっぱり人間でなければと、そこで思い出したのが欲深の幇間の一八。

「金の五両もやれば文句はあるまい」
と喜び勇んで一八の家に出かけていく。

一八もこのところ不景気なので、久しぶりに現れた若旦那を見て
「さあ、いい獲物がかかった」
と大はりきり。

その上、若だんなに
「三百人も芸人とつき合った中で、頼りになるのはおまえ一人」
とおだてられ、つい調子に乗って
「若だんなのためなら一命も捨てます」
と口走ったのが運の尽き。

若だんなの
「一生の頼み」
と聞いて仰天したがもう遅く、いやいやながら五両で「実験台」を引き受けさせられてしまう。

「南無阿弥陀仏」
と唱え、
「今日がこの世の見納め」
と観念して横になると、舌なめずりの若だんな、初めてなので手が震える。

まずは一本、水落ちへブッスリ。

スッと入るのでおもしろくなって、全部入れちまったからさあ抜けない。

「こういう時はもう一本、友達のハリを打って、意見をして連れ戻してもらうよりしかたがない」
というので、もう一本。

またも抜けない。

「若い奴を迎えにやったから、ミイラ取りがミイラになって、いっしょに遊んじまってるんだ、ウン。今度は年寄りのハリを送って、連れ帰ってもらおう」
と、もう一本。

またまた抜けない。

どうしようもなくなって、爪を掛けてグーッと引っ張ったから、皮は破れて血はタラタラ。

あまりの痛さに一八が
「アレー」
と叫んだから、若だんな、びっくりして逃げ出してしまった。

「一八さん、どうしたい。切腹でもしたのかい」
「冗談じゃねえ。これこれこういうわけで、若だんなを逃がしちまって、一文にもならない」
「ああ、ならないわけだよ。破れだいこ(たいこ=幇間)だから、もう鳴らない」

しりたい

原話の方が過激?

もっとも古い原型は、安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』(「子ほめ」「てれすこ」参照)巻二「賢だて第七話」。

ついで、元禄16年(1703)刊『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』中の「言いぬけの(もがり)」です。

この二話ではともに、鍼を打って患者を殺し、まんまと逃げてしまいます。

前者では、鍼医が瀕死の病人の天突の穴(のどの下の胸骨のくぼみで、急所)にズブリとやり、病人の顔色が変わったので家族が騒ぎ出すのを一喝しておいて、鍼を抜くと同時に「さあ泣け」。

わっと泣き出したどさくさに、風をくらって退散、という業悪ぶりです。

時代がくだって明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「金銀の針」、安永5年(1776)刊の『年忘れ噺角力はなしずもう』中の「鍼の稽古」になると、ぐっと現行に近くなります。

「迎え鍼」のくすぐりも加わって、加害者は客、被害者が幇間になります。

若だんなの異名は「ボロッ買い」

この噺、もともとは上方から東京に移されたものです。

あまり大ネタ扱いされず、速記や音源も多くありません。

明治27年(1894)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残されているのは貴重です。

今回のあらすじは、その小さんのものを底本にしました。

この中で一八は尾羽おは打ち枯らした老幇間、若だんなは15歳から21歳の今日まで、ありとあらゆる女という女を賞味し尽くし、「人類ことごとく試してみて、牝馬のお尻まで犯してはみたが、まだ幇間のお尻を試したことは無い」。

江戸ことばで、誰とでも見境なく寝る意味の「ボロッ買い」という大変な代物という設定です。

現行と少し違うのは、出入りの按摩にそそのかされて「人体実験」を思いつくのと、若だんなが直接、一八宅に押しかけるところでしょう。

一八が承知する最後の決め手が「公債証書の五枚に地面(=土地)の一か所」というのが、いかにも時代です。

文楽、志ん生に教わる

八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が「幇間腹」を覚えようと、「孝ちゃん」こと柳家甚語楼時代の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)に教わりに行った、というエピソードがあります。昭和初期のことです。

ということは、その頃には、この噺は、大看板の師匠連で演じる者はなく、やっているのは無頼の悪名高い、悪友の甚語楼(五代目志ん生)くらいしかいなかった、ということのようです。

文楽は、結局ものにならず、いさぎよく「幇間腹」を断念します。

後年、あれほど幇間噺を得意にした文楽が、なぜモノにできなかったかは、よくわかりません。

あまりにもギャグだくさんでおにぎやかなだけの噺で、同じ幇間噺の「鰻の幇間」などと違って、自分の目指す幇間のペーソスや陰影が出しにくく、このまま覚えてもとうてい甚語楼には勝てないと思ったのかもしれません。興味深い逸話です。

杉山流

鍼医術しんいじゅつの一派で、天和2年(1682)、目の不自由だった杉山和一すぎやまわいち(1610-94、検校)が幕命を受け、鍼治講習所を設置したのが始まり。

江戸をはじめ全国に爆発的に普及しました。

志ん生の「幇間腹」

先の大戦後は、三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、五代目志ん生が得意にしました。

とはいえ、やはり、なんと言っても志ん生のものでしょうね。

志ん生は、後半の鍼を打ち込むくだりは、むしろあっさりと演じ、「迎え鍼」の部分では、二本目が折れたところで若だんなは逃げてしまいます。

その分、前半はみっちり。

たとえば若だんなの凝っているものがわからずに不安になって、「え? ゴルフ?」「え? ビリヤードですかァ? 」 と懸命にヨイショして聞き出そうとしたり、「おまえに鍼を打つ」と言われ、動揺をごまかすため、「そんなこたァ、嘘だー」と泣き出しそうな唄い調子で言ったり、「芸人はてめえだけじゃない」と若だんなに居直られると、また節をつけて「いやだよォ、あなたは」と媚びるなど、感情を押し隠さず、ナマの人間としての幇間を率直に表現する志ん生ならではの真骨頂でした。

志ん生はこの噺をごく若いころからよく演じていて、晩年の速記でも、一八が「マーチャン」(麻雀のこと)に凝っているという設定から、時代背景をを昭和初期のまま固定していたことがうかがわれます。

麻雀が日本で普及するのは、関東大震災(大正12年=1923)以降のことです。



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さじかげん【匙加減】落語演目

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【どんな?】

大岡政談のひとつ。
なんとも痛快なお裁きものです。

【あらすじ】

享保の頃。

三田に阿部玄渓という名医がいた。

その息子の玄益は二十五歳で、医道の腕はいいが、まじめ一辺倒の堅物男。

気晴らしは神社仏閣めぐりという、なんとも色気がない。

今日も今日とて、川崎大師にお参りに向かった。

帰りは雨模様となって、途中の品川宿で、急きょ、雨宿りとなる。

なんでもいいからと、狩野屋なる茶店に上がった。

美しい芸妓が現れた。うぶがちな色気が漂う。お奈美という。

神のおぼしめしか。

玄益はお奈美にひとめぼれ。

翌日からは、狩野屋通いに精出す始末。

玄益はやることなすこと、すべてが一本気の構えだ。

やがて手持ちも不如意となり、ついには、父親の医書を質入れして、金の算段に。

それがばれて、父からは勘当とあいなった。

なんとも絵にかいたような放蕩の顛末。

この一件で、はたと目が覚めた玄益。

心を入れ替えて、実家を離れる。

八丁堀の一隅に「医」の看板を掲げる。

今度は、医道に一本気に突き進んだ。

一心不乱、精進し続けて、玄益ならぬ現役丸出しの評判医へと。

一本気と一心不乱で、二年がたった。

ゆとりを見せた玄益。

「少し休んだくらいでも、減益とはなるまい」

南の品川宿へ。

狩野屋にあがり、なじみだったお奈美に会おうとした。気にはなっていたのだ。

えびす顔で出てきたのは、狩野屋主人。

かつては贔屓として、顔なじみだった男。だが、こんな顔には用はない。

「若先生、二年前に、お奈美と夫婦の約束をしたんですかい」

そう聞かれて玄益、あたまをかきかき、苦い白状となる。

「ははは、冗談にも、そんなことを言ったやもしれませんなあ」
「それそれ。お奈美は、若先生のそれを本気にしていましたんで。さりながら、若先生はまもなく勘当のおん身に。ここへも来られなくなっちまいましてね。お奈美は『そのうちに若先生が迎えに来る』と信じているうちに、二年たちまして。とうとう、気がおかしくなっちまいました。ぶらぶら病で。そもそも、お奈美は松本屋義平の抱え芸者でして。ぶらぶら病では、座敷へ出すこともできませんので。今じゃあ、店奥の座敷牢に入ってるんですよ」

主人の話を聞き、驚いた玄益。

「ややっ。いやはや、面目ない。それでは、わたしがお奈美を引き取りましょうぞ」

とは、大胆な告白。

内心ほくそえんだのは狩野屋。

「そんなら、あたしが松本屋へ話をつけますんで、三両出してくださいな」

玄益からの三両を手にした狩野屋は、その後さっそく、松本屋へ出向いた。

「お奈美を若先生に追っ付けましょうよ。三両出してくだされ。話をまとめますんで」

悪い野郎もあったもんで。

松本屋は渡りに舟、とばかりに三両を手文庫から取り出した。

両者から三両ずつ、しめて六両を自分の懐に入れ込んだ狩野屋。悪さの始まりだ。

さて玄益。

その日のうちにお奈美を引き取り、駕籠を出して、長屋に連れてきた。

その日からは、玄益自らが付きっ切りでお奈美の治療にあたった。

その甲斐あってか、お奈美は半年ほどで全快とあいなる。

そのようすを遠巻きに見ていた父親の玄渓。

お奈美の美しくも気立てのいいのを知り得て、二人を夫婦にした。

めでたし、めでたし。

と、いきたいところだが、これでは噺が終わってしまう。もう少しある。

さて。

この「めでたし」を知った、品川宿の狩野屋。

こいつは、すぐに松本屋へ飛び込んでいった。悪さが浮かんだ。

「お奈美が治ったそうですぜ。あいつを返してもらいましょうや。今度は、座敷牢ではなく、座敷へ出せば、まだまだ稼げるタマじゃ、あーりませんか」

狩野屋の申し出を聞いた松本屋義平は、血相変える。

「なあにを言ってる。お奈美は玄益先生が身請けをしたんだ。できるわけがない」
「年季証文はどうなっていますんで」
「え、ああ、あんとき、玄益先生に渡すのを忘れてたな」
「それそれ。ふふふ。証文がこっちにあるんなら、身請けをしたことにゃ、ならねえんで。わたしがうまくまとめますぜ。うまくいったら、十両をいただきやしょうや」

翌日。

狩野屋は、八丁堀の玄益宅に向かった。

「お奈美を引き取らせていただきやしょう」

こう言って、ねじ込んだ。

玄益はびっくり。

「わたしが身請けをしたはずじゃないですか」
「若先生、なにを言ってやがるんで。年季証文は松本屋んとこにあるんだ。出るところへ出りゃあ、あんた、書いた証文が口を利くことになりやすぜ。へへへ」

これでは玄益も声高になる。

双方ともに必死で、甲論乙駁、口論が止まらない。

近くでふだんでないようすを耳にした大家が、間に入ってきた。

「明日、あたしの家に来てくださいな。話をまとめておきますから」

とは、また、骨太な介入で。

いったんは、狩野屋を帰してみたのである。

そして、翌朝。

大家は、すでに一計を案じていた。

大家は、長屋中の欠けた瀬戸物を集めて足の取れかかった膳の上に乗っけて、狩野屋が来るのを待っていた。

狩野屋が来た。

「お奈美は玄益先生が身請けしたはずじゃ、ありませんかい」

大家はここで、玄益の味方につくことを宣言したわけ。

怒ったのは狩野屋だ。

「な、なにを言いやがる」

狩野屋は、体を前に迫り出して、膳を倒して瀬戸物の山を崩してしまった。

あげくのはてには、狩野屋、大家がいつも猫に餌を出してやる皿までぶっ壊してしまった。

大家が怒った。

狩野屋は膳を持って振り上げたので、話し合いは、もつれたまんまとなった。

これはもう、とうとう、お白洲への一本道。

狩野屋が、松本屋義平の名で南町奉行所大岡越前守さまへ、「お恐れながら」と訴え出たのだ。

判決の日。

お奉行は、玄益に申し渡した。

「年季証文が松本屋にあるからは、お奈美を身請けしたことにはならない。身柄は松本屋へ引き渡すのじゃ。よいな」

驚く、玄益ら。

なに、これ。これじゃ、大岡政談にならない。

お奉行はさらに、松本屋にも申し渡した。

「お奈美を治療してもらったのであるから、玄益に薬料、手当て代を支払うように」

その上で、お奉行は玄益にひとこと。

「なみの薬料、手当て代はどれほどじゃ?」

玄益は「そんなの、いりません」と断る。堅物だから。

お奉行はしつこくも「受け取るのじゃ」と言いふくめる。

おっかけて、大家も玄益にけしかける。

「高い値をふっかけなさいよ。ここがお奉行さまの匙加減なんですから」

お奉行が下す。

「試しに算段いたしたところ、薬料は一日に六両、ひと月に百八十両。それに手当て代を一日一両として、月に三十両。お奈美を完治させるのに半年かかったのであるから、お奈美の薬料、手当て代の合計は、千二百六十両である」

これを聞いて、松本屋は腰を抜かした。

「ひ、ひえー」

翌日早々。

狩野屋が大家のもとにやってきて、示談を申し入れた。

勝ち誇ったような言い分の大家。

「あんたは双方から三両ずつ、計六両を懐に入れたんだってね。それはあんたの働きだからいいでしょうよ。だがねえ、膳と瀬戸物を壊したのは間違いなくあんたです。とりわけ猫の皿は高い。しめて千二百六十両いただきやしょう」

狩野屋が「ひ、ひえー、ひえー。ご、ご勘弁ねがいやす」というから、大家が「では、十両で」ということで示談となった。

すごすごと帰る狩野屋。烏が泣いている。

話の顛末をそばで聴いていた大家のかみさんが、大家に話しかける。

「猫の皿は夜店で二文で買ったもんでしょう。それを十両で売るなんて、ずいぶんじゃないですか」
「狩野屋は若先生から三両くすねて、あの始末だ。十両くらいじゃ、まだ足りねえんだよ」
「はいはい。それはそうと、こんなに丸くおさまるというのも、お大岡さまのありがたい、匙加減のおかげですねえ」
「そうだなあ。みんなが、すくわれた(=救われた)」

匙だけに。

【知りたい】

もとは講談ネタ

六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)が、六代目小金井芦州(岩間虎雄、1926-2003)から習って落語に仕立て上げたそうです。

円窓以外には入船亭扇辰なども演じています。

匙加減の意味

「匙加減」とは、「薬の調合の加減」の意味。そこから転じて、「手加減」という意味にもなっています。

この噺では、両義がうまく「匙加減」されています。なかなかのもんです。

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さるまるだゆう【猿丸太夫】落語演目



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【どんな?】

「太夫」は「だゆう」と読みます。
俳句に凝っている馬子。
乗り合わせた江戸っ子はひとつからかってやろうと。
俳句や和歌が飛び出る道中舞台の都鄙ものの滑稽噺。

【あらすじ】

昔の旅は命がけ。

友達と泣きの涙で水杯を交わし、東海道を西に向かった男、原宿の手前で雇った馬子が、俳句に凝っているというので、江戸っ子ぶりを見せびらかしてやろうと、
「オレは『今芭蕉』という俳句の宗匠だ」
とホラを吹く。

そこで馬子が、
「この間、立場の運座で『鉢たたき』という題が出て閉口したので、ひとつやって見せてくれ」
と言い出す。

先生、出まかせに
「鉢たたき カッポレ一座の 大陽気」
とやってケムに巻いたが、今度は「くちなし」では、と、しつこい。

「くちなしや 鼻から下が すぐにあご」

だんだん怪しくなる。

すると、また馬子が今度は難題。

「『春雨』という題だが、中仙道から板橋という結びで、板か橋の字を詠み込まなくてはならない」
と言うと、やっこさん、すまし顔で
「船板へ くらいつきけり 春の鮫」

「それはいかねえ。雨のことだ」
「雨が降ると、鮫がよく出てくる」

。そうこうしているうちに、馬子の被っている汚い手拭いがプンプンにおってくるのに閉口した今芭蕉先生、新しいのを祝儀代わりにやると、馬子は喜んで
「もうそろそろ馬を止めるだから、最後に紅葉で一句詠んでおくんなせえ」
と頼む。

しかたがないので
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は来にけり」
と聞いたような歌でごまかす。

そこへ向こうから朋輩の馬子が空馬を引いてきて
「作、どうした。新しい手拭いおっ被って。アマっ子にでももらったのか」
「なに、馬の上にいる猿丸太夫にもらった」

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【しりたい】

江戸っ子、じつは「猿」

原話は、宝暦5年(1755)刊、京都で刊行の笑話本『口合恵宝袋』中の「高尾の歌」です。

これは、京の高尾へ紅葉狩りに行った男の話。

帰りに雇った駕籠かきに、歌を詠んだかと聞かれ、「奥山の……」の歌でごまかす筋は、まったく同じで、オチも同一です。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、箱根で「猿丸太夫」をめぐる、そっくり同じようなやりとりがあり、これをタネ本にしたことがわかります。

江戸や京大坂の人が、旅先で、在所の人を無知と侮り、手痛い目にあう実話は、けっこうありました。

オチは、馬子が「奥山」の歌を知っていて皮肉ったわけです。

深読みをすれば、知ったかぶりの江戸っ子を、「猿」と嘲る、痛烈な風刺ともとれます。

円朝も演じた噺

この噺の、江戸を出発するところ、俳句の問答を除いた馬子とのくだりは、「三人旅」にそっくりなので、これを改作したものと思われます。

小咄だったのを、「三人旅」から流用した発端を付け、一席に独立させたものなのでしょう。

古くは、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が「道中の馬子」の題で速記を残しています。

大正13年(1924)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記も残っていますが、今はすたれた噺です。

猿丸太夫

正体不明の歌人です。生没年、伝記は一切不明。

「猿丸太夫集」なる歌集はありますが、そこに採られている歌は、当人の作と確認されたものが一首もありません。

「小倉百人一首」に「奥山に」が選ばれていますが、これが実は『古今和歌集』の「よみ人しらず」の歌であることから、平安時代の歌人といわれます。

別に、柿本人麻呂説もあります。

運座

うんざ。各人各題、あるいは一つの題について俳句を作り、互選しあう会です。

座には宗匠、執筆(=記録係)、連衆(句の作り手)で成り立ちます。

18世紀末の安永・天明期以後、俳諧(俳句)人口は全国的に広がり、同時に高尚さが薄れて遊芸化しました。

したがって、この噺のような馬子が俳句に凝ることも、十分考えられたのです。

江戸後期の日本人の教養レベルは、われわれが想像するよりはるかに高かったわけです。われわれ現代人の教養は劣化しています。

馬子などの多くは非識字者であるはず、と思われていました。それが字を知っているばかりか、江戸っ子なんかよりもはるかに博識であるという、落語的な逆転の発想がみられます。

赤ん坊が大男を投げ飛ばすような、小気味いい構図です。



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うまやかじ【厩火事】落語演目

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【どんな?】

髪結いの女房と三道楽ばか亭主。
女房が皿を割った。
皿か、女房か。
究極の選択です。

【あらすじ】

女髪結いで、しゃべりだすともう止まらないお崎が、仲人なこうどのだんなのところへ相談にやってくる。

亭主の八五郎とは七つ違いのあねさん女房で、所帯を持って八年になるが、このところ夫婦げんかが絶えない。

それというのも、この亭主、同業で、今でいう共稼ぎだが、近ごろ酒びたりで仕事もせず、女房一人が苦労して働いているのに、少し帰りが遅いと変に勘ぐって当たり散らすなど、しまつに負えない。

もういいかげん愛想あいそが尽きたから別れたい、というわけ。

ところが、だんなが
「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」
と突き放すと、お崎はうって変わって、
「そんなに言わなくてもいいじゃありませんか」
と、亭主をかばい始め、はては、
「あんな優しい、いい人はない」
と、逆にノロケまで言い出す始末。

あきれただんな、
「それじゃひとつ、八の料簡を試してみろ」
と、参考に二つの話を聞かせる。

その一。

昔、もろこし(中国)の国の孔子という偉い学者が旅に出ている間に、うまやから火が出て、かわいがっていた白馬が焼け死んでしまった。

どんなおしかりを受けるかと青くなった使用人一同に、帰ってきた孔子は、馬のことは一言も聞かず、
「家の者に、けがはなかったか」

これほど家来を大切に思ってくださるご主人のためなら命は要らない、と一同感服したという話。

その二。

麹町こうじまちに、さる殿さまがいた。

「猿の殿さまで?」
「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」

その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥さまが運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。

殿さま、真っ青になって、
「皿は大丈夫か。皿皿皿皿」
と、息もつかず三十六回。

あとで奥さまの実家から、
「妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれない」
と離縁され、殿さまは一生寂しく独身で過ごした、という話。

「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、なにか大切にしているものを、わざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」

帰ったお崎、たまたま亭主が、「さる殿さま」よりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出し、それを持ち出すと、台所でわざとすべって転ぶ。

「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」
「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」
「なんでえ、そのモロコシてえのは」
「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」
「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒をのめねえ」

https://www.youtube.com/watch?v=GVUyIj6gRHE

【しりたい】

題名は『論語』から

厩とは、馬小屋のこと。

文化年間(1804-18)から口演されていたという、古い江戸落語です。

演題の「厩火事」は『論語』郷党きょうとう編十二からつけられています。

うまやけたり。ちょうより退き、『人を傷つけざるや』とのみ、いひて問いたまはず」

江戸時代には『論語』『小倉百人一首』などが町人の共有する教養でした。引用も多いのですね。

明治の速記では、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)のものが残っています。

文楽の十八番

戦後は八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が、お崎の年増の色気や人物描写の細やかさで、押しも押されぬ十八番としました。

ライバル五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も得意にし、お崎のガラガラ女房ぶりで沸かせました。

志ん生は、マクラの「三角関係」(出雲の神さまが縁結びの糸をごちゃごちゃにする)で笑わせ、「どうしてあんな奴といっしょになったの?」「だって、一人じゃさぶい(寒い)んだもん」という小ばなしで男女の機微を見事に表現し、すうっと「厩火事」に入りました。

女髪結い

寛政年間(1789-1801)の初め、三光新道さんこうじんみち(中央区日本橋人形町三丁目あたり)の下駄屋お政という女が、アルバイトに始めたのが発祥とされています。

文化年間から普及しましたが、風俗紊乱びんらんのもととなるとの理由で、天保の改革に至るまで、たびたびご禁制になっています。

噺にもランクあり

雷門福助(川井初太郎、1901-86)は晩年には名古屋で活躍しましたが、「落語界のシーラカンス」といわれた噺家でした。

この人の回想によれば、兄弟子で師匠でもある八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に「『厩火事』を稽古してください」と頼むと、「ああいいよ、早く真打ちになるんだよ。真打ちになったら稽古してやる」と言われた、ということです。

それだけ、ちょっとやそっとでは歯が立たない噺ということで、昔は、二つ目が「厩火事」なぞやろうものなら「張り倒された」。

それが今では、二つ目どころか前座でも平気で出しかねません。

いい時代になりました。聴かされるほうはつらいですが。

芝居の「皿屋敷」は

同じ「皿屋敷」でも、一枚の皿が欠けたため腰元お菊をなぶり殺しにする青山鉄山は麴町の猿よりさらに悪質。

これに対して、岡本綺堂おかもときどう(1872-1939)の戯曲『番町皿屋敷』の青山播磨はモロコシ……ですが、芝居だけに一筋縄ではいかず、播磨はりまは自分の真実の恋を疑われ、自分を試すために皿を割られた怒りと悲しみで、残りの皿を全部粉々にした後、お菊を成敗します。

昭和初期の名横綱・玉錦三右衛門たまにしきさんえもん(1903-38)はモロコシだったようで、大切にしていた金屛風きんびょうぶを弟子がぶっ壊しても怒らず、「おまえたちにけがさえなきゃいい」と、鷹揚おうようなところを見せたそうです。さすがです。

 

 

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すとくいん【崇徳院】落語演目

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【どんな?】

若者が恋わずらいで寝込む。
昔は多かったようです。
朝ドラ「わろてんか」にも。

別題:皿屋 花見扇

【あらすじ】

若だんながこのところ患いつき、飯も喉に通らないありさまで衰弱するばかり。

医者が
「これはなにか心に思い詰めていることが原因で、それをかなえてやれば病気は治る」
と言うので、しつこく問いただしても、いっこうに口を割らない。

ようやく、
「出入りの熊さんになら話してもいい」
と若だんなが言うので、大だんなは大急ぎで呼びにやる。

熊さんが部屋に入ってみると、若だんなは息も絶え絶え、葬儀屋にいったほうが早道というようす。

話を聞いても笑わないことを条件に、熊さんがやっと聞き出した病気のもとというのが、恋煩い。

二十日ばかり前に上野の清水さまに参詣に行った時、清水堂の茶店に若だんなが腰を掛けて景色を眺めていると、目の前にお供の女を三人つれたお嬢さんが腰を掛けた。

それがまた、水のしたたるようないい女で、若だんなが思わず見とれていると、娘もじっとこちらを見る。

しばらくすると、茶袱紗ちゃぶくさを落としたのも気がつかず立ち上がるので、追いかけて手渡したちょうどその時、桜の枝から短冊が、糸が切れてはらりと落ちてきた。

見ると
「瀬を早み岩にせかるる滝川の」
と書いてある。

これは下の句が
「われても末に逢はむとぞ思ふ」
という崇徳院の歌。

娘はそれを読むと、なにを思ったか、若だんなの傍に短冊を置き軽く会釈して、行ってしまった。

この歌は、別れても末には添い遂げようという心なので、それ以来、なにを見てもあのお嬢さんの顔に見える、というわけ。

熊さん、
「なんだ、そんなことなら心配ねえ、わっちが大だんなに掛け合いましょう」
と安請け合いして、短冊を借りると、さっそく報告。

大だんな、
「いつまでも子供だ子供だと思っていたが」
とため息をつき、
「その娘をなんとしても捜し出してくれ」
と、熊に頼む。

「もし捜し出せなければ、せがれは五日以内に間違いなく死ぬから、おまえはせがれの仇、必ず名乗って出てやる」
と、脅かされたから、熊はもう大変。

熊は帰って、かみさんに相談。

かみさんは
「もし見つければあの大だんなのこと、おまえさんを大家にしてくれるかもしれない」
と、尻をたたく。

「とにかく手掛かりはこの歌しかないから、湯屋だろうが、床屋だろうが、往来だろうが、人の大勢いるところを狙って歌をがなってお歩き。今日中に見つけないと家に入れないよ」
と追い出される。

さあ、それから湯屋に十八軒、床屋に三十六軒。

「セヲハヤミセヲハヤミー」
とがなって歩いて、夕方にはフラフラ。

「ことによると、若だんなよりこちとらの方が先ィ行っちまいかねねえ」
と嘆いていると、三十六軒目の床屋で、突然飛び込んできた男が、
「出入り先のお嬢さんが恋煩いで寝込んでいて、日本中探しても相手の男を探してこいというだんなの命令で、これから四国へ飛ぶところだ」
と話すのが、耳に入った。

さあ、
「もう逃がさねえ」
と熊五郎、男の胸ぐらに武者振りついた。

「なんだ。じゃ、てめえん所の若だんなか。てめえを家のお店に」
「てめえこそ、家のお店に」
ともみ合っているうち、床屋の鏡を壊した。
「おい、話をすりゃあわかるんだ。家の鏡を割っちまってどうするんだ」
「親方、心配するねえ。割れても末に買わんとぞ思う」

底本:三代目桂三木助

古今亭志ん朝 二朝会 CDブック

【しりたい】

類話「花見扇」  【RIZAP COOK】

初代桂文治(1773-1815)作の上方落語を東京に移植したものです。文治の作としてはほかに「洒落小町」「たらちね」があります。

ただし、江戸にもほとんど筋が同じの「花見扇」(皿屋)という噺があり、どちらも種本は同じと思われますが、はっきりしません。

オチの部分が異なっていて、「花見扇」では、だんなに頼まれた本屋の金兵衛が、床屋で鳶頭の胸ぐらを夢中でつかんだため、「苦しい。放せ」「いや、放さねえ。合わせ(結婚させ)る」というオチでした。

先方が皿屋の娘という設定のこの噺は、今はすたれましたが、人情噺「三年目」の発端だったともいわれます。

「瀬を早み……」  【RIZAP COOK】

百人一首第七十七歌です。もとは『詞花和歌集』に収められています。

崇徳院(1119-64)は、鳥羽天皇(1103-56)第一皇子で、即位して崇徳天皇。父・鳥羽上皇の横車から異母弟・近衛天皇に譲位させられ、その没後も、今度は同母弟が後白河天皇として即位したので、腹心・藤原頼長とはかって保元の乱(1156)を起こしましたが、事破れて讃岐に流され、憤死しました。

歌意は「川の流れが急なので、水が滝になって岩に当たり、二つに割れる。しかし、貴女との仲は割れることなく、添い遂げよう」です。

鳶頭  【RIZAP COOK】

かしら。「とびがしら」と読みがちですが、この二字で「かしら」と呼びならわしています。町火消の組頭で、頭取の下。各町内に一人はいました。町の雑用に任じ、ドブさらいからもめごとの仲裁まで一切合財引き受けていました。特に、地主や出入りの商家の主人には、手当てや盆暮れの祝儀をもらっている手前、何か事があると、すぐ駆けつけてしゃしゃり出ます。落語にはいやというほど登場しますが、あまりりっぱなのはいません。

三木助の十八番  【RIZAP COOK】

戦後は、三代目桂三木助の十八番で、清水寺で短冊が舞い落ちてくるくだりは、三木助の工夫です。

上方では、高津(こうづ)神社絵馬堂前の設定で、桂米朝は、茶屋の料紙に娘が書き付けるやり方でした。

上野の清水さま  【RIZAP COOK】

寛永寺境内に現存する、清水観音堂のことです。

寛永8年(1631)、寛永寺寺域内の摺鉢山に建立されたもので、同11年、寿昌院焼失後、現在地であるその跡地に移りました。

京の清水寺を模した舞台造りで有名で、桜の名所。本尊の千手観音像は恵心僧都の作です。



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さいぎょう【西行】落語演目



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【どんな?】

佐藤義清がお堂で内侍と逢い引き
歌の応酬で打ち解けた。
義「またの逢瀬」 内「阿漕」。
義清は意味わからず。西行となって歌道行脚に。
バレ噺、いや、デタラメ噺です。

別題:恋の歌法師

【あらすじ】

遍歴の歌人として名高い西行法師。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達した。

内侍は気の毒におぼしめして、佐藤義清さとうのりきよあてに御文おふみをしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。

西行、その頃は、佐藤兵衛尉ひょうえのじょう義清という禁裏きんり警護の北面武士ほくめんのぶしだった。

染殿内侍そめどののないしが南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、
「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」
と詠まれたのに対し、義清が
「一羽にて千鳥といえる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」
と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。

「佐藤さん、郵便」
というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。

喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、
「この世にては逢わず、あの世にても逢わず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」
とある。

「はて、この意味は」
と思いめぐらしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。

この世にては逢わずというから、今夜は逢えないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。

三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。

地に実は、草木も露を含んだ深夜。

人間絶えし後は丑三うしみツ時。

西方浄土さいほうじょうどは、西の方角にある阿弥陀堂あみだどうで待っていろということだろう、と気づいた。

ところが義清、待ちくたびれて、ついまどろんでしまう。

そこへ内侍が現れ
「我なればとり鳴くまでも待つべきに思わねばこそまどろみにけり」
と詠んで帰ろうとしたとたんに義清、あやうく目を覚まし、
よいは待ち夜中は恨みあかつきは夢にや見んとしばしまどろむ」
と返した。

これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねた。

翌朝、別れる時に義清が、
「またの逢瀬おうせは」
と尋ねると内侍は
阿漕あこぎであろう」
と袖を払ってお帰り。

さあ義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。

歌道かどうをもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起いちねんほっきして武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。

諸国修行の道すがら、伊勢いせの国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子まごが、
「ハイハイドーッ。さんざん前宿まえやどで食らいやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」

これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、
「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」
「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

【しりたい】

阿漕

阿漕とは、
伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ
という「古今六帖こきんろくじょう」の古歌こかから。

阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。

「阿漕」は当初、「たびかさなる」という意味で使われていました。

「阿漕ヶ浦に引く網」も、やがては熟してことわざの仲間入りをして、「隠しごともたび重なると人に知られる」ということのたとえに使われるようになりました。

江戸時代に入ると転じて、「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」の意味に変わりました。

阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸にあります。

伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。

病気の母を思った平次なる男が、禁断を犯して魚を取ったため、簀巻すまきにされたという伝説が残りました。

ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦たむらまろすずかがっせん』(勢州阿漕浦せいしゅうあこぎがうら)などがつくられました。

先行作品には、能『阿漕』や御伽草子おとぎぞうし『阿漕の草子』があります。

ただ、これらには「平次」の名はありません。

「阿漕」は歌枕うたまくらとして残りました。

過去に何度も歌われた結果、言葉のイメージを誰もが抱くようになったものを、歌枕と呼びます。

染殿内侍

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえて、ぴしゃりと言い渡したわけです。

馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのです。

西行先生は、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、
「二回もさせたげたのに、未練な男ね」
と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。

このあたりが落語の機微です。

歌をひねくりまわしているうちに、いつの間にかエロ噺と化しているのですね。

下半身ネタといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。

なるほど。見習いたいものです。

染殿内侍という女性が実在したのかどうは、はっきりしません。

染殿内侍が登場する『大和物語やまとものがたり』や『伊勢物語いせものがたり』から察すれば、在原業平ありわらのなりひらと同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。

永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。

南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。

西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。

落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。

それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。

在原業平には三人の息子がいた、とされています。

三男滋春しげはるの母親が染殿内侍だとされています。

これは『伊勢物語』の冷泉家れいぜいけ流古注本に記されています。

文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりも、そういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが、大切なのです。

少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。

染殿内侍は、在原業平と契った女性ということになります。

これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。

染殿というのは、藤原良房ふじわらのよしふさの邸宅をさします。

京の都は、「一条大路の南、正親町小路おおぎまちこうじの北、京極大路の西、富小路とみのこうじの東」のあたりにあったそうです。

良房は、臣下しんかとしては初の太政大臣だいじょうだいじん摂政せっしょうとなり、藤原北家ふじわらほっけ繁栄のきっかけを作った人です。

染殿大臣そめどののおとどなどと呼ばれていました。

その娘の明子めいし文徳もんとく天皇に入内じゅだいして、のちの清和せいわ天皇を生みました。

明子は染殿后そめどののきさきと呼ばれていました。

染殿后は美麗であったそうです。

『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。

内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のこと。

染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。

ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮さいぐうりょうでの仕事をつかさどっていたんだそうです。

斎宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇の名代みょうだいです。

内侍と伊勢神宮とはかかわりが深かったようです。

隠者いんじゃの歌詠み」として後世に名を残した西行。

その大先輩が在原業平といえるでしょう。

「むかし男ありけり、その男、身をようなきものに思いなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。

業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで、貴族の間では最高の教養文芸でした。

業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。

流浪るろうする業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。

聖と俗を両有しているのですね。

その業平の思い人の一人が染殿内侍です。

これはすごい。

業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(「ドクターノオ」の)か、あるいは、若林映子わかばやしあきこさん(「007は二度死ぬ」の)といったところでしょうか。

あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。

西行の存在

西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。

残した歌は約2300首。

歌人の最高峰です。

江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。

この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。

みんなが知っている教養をさかなに笑う、という趣向だったのでしょう。

西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。

源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。 『西行物語』と『選集抄せんじゅうしょう』がその双璧そうへきです。

さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。

江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麻呂と双璧です。

蓑笠みのがさをつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。

そんな逸話の一つ。 西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付けびん姿で、つまり俗人のなりで参宮さんぐうしたといわれています。

なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

存疑の歌といわれています。

見えない神さまに接して落涙するというもの。

われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。

伊勢では二見浦ふたみがうらいおりを結び、地元の神職者荒木田あらきだ氏と交わったそうです。

と、このように記していって、見えてくるものがありました。

西行、伊勢、和歌、女性、浦……。

江戸人が抱く西行のイメージ。

そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。

登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達じざいかったつ融通無碍ゆうづうむげな雰囲気が、いかにも江戸人の西行像なのでしょう。

西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人として形成されていきました。

寺院や宗派を超えて(高野山の、真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、世俗に理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。

この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の柳亭痴楽がたまに演じていました。

いまや、どうでもよいことですね。

参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって?『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)

史実がらみの噺

二村文人ふたむらふみと氏といえば、現在は富山大学の教授です。

二村氏が城北埼玉高校の教諭だった頃に、「落語と俗伝」という小論を『國語と國文学』(東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)に発表しています。

これが、なかなか刺激的な内容なのです。

まず、二村氏は、落語を6種類に分類して、そこから抜け落ちてしまう噺があることを指摘します。

それが、史実を扱った噺。

史実とはいっても、しょせんは落語ですから、俗伝であり通俗史をもとにした噺にすぎません。

具体的にはどんな噺のことのでしょうか。

二村氏は、この小論で「朝友」「西行」「お血脈」「紀州」を例示しています。

なるほど。

そこで、「西行」。

二村氏は「西行は落語になっても、芭蕉は落語にならない」と指摘します。

なぜなのでしょう。

二村氏によれば、以下の二点が、歴史上の人物が落語に採用される条件である、としています。

(1) その人物の伝説化が進行していること。
(2) 伝記に謎の部分をもっていること。

西行の足跡にはわからない部分が多いけど芭蕉にはあまりない、と言いたいのでしょうか。

たしかに、現在でも、芭蕉の研究者は圧倒的に多く、西行のほうはたいしたことありません。

ただ、地方に行けば、芭蕉のあやしげな伝説もちらほら見えたりします。芭蕉が明らかに行ってもいないところに、芭蕉の句碑があったりとか。

そんな地方では芭蕉の伝説化も静かに進行しているでしょうし、謎の部分(忍者説とか水道工事監督時代とか)もないことはないでしょう。

二村氏の説が妥当かどうか、それはもう少し咀嚼そしゃくしたいところですが、この一文、刺激にあふれています。

だって、落語の評論でそんなところをほじくる人はいませんでしたし、いまも現れていません。

この二村論文を起爆剤に、われわれも少し考えてみたいところです。それにしても1985年の論文ですから、斯界の研究はすでに進んでいるのかもしれませんが。いやあ、どうかなあ。

ことばよみいみ
染殿内侍そめどののないし
佐藤義清さとうのりきよ西行のこと
阿漕あこぎ阿漕ヶ浦
藤原良房 ふじわらのよしふさ
正親町小路おおぎまちこうじ
染殿大臣そめどののおとど
明子あきらけこ、あきらけいこ
入内じゅだい嫁ぐ
染殿后 そめどののきさき



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こうやちがい【高野違い】落語演目



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【どんな?】

ところどころで古典の知識が試される、ペダンチックな噺です。

【あらすじ】

出入りの鳶頭が店に年始に行くと、だんなが子供たち相手にカルタをやっている。

鳶頭はカルタなど見たことがないので珍しく、あれこれトンチンカンなことを言うので、だんながウンチクをひけらかして、ご説明。

洗い髪で、たいそうごてごてと着物を着ている女がいると言うと、それは下げ髪、着物は十二単で、百人一首の中の右近と教えられる。

同じような女が二人いるが、赤染衛門に、紫式部。

赤に紫に黄色(鬱金色=右近)で、まるで紺屋の色見本のよう。

紫とやらいう女の歌が
「巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」

誰かに逢いたいと神に願掛けしている歌だと聞いて
「そりゃ、合羽屋の庄太ですよ。借金を返しゃあがらねえ」
「おまえの話じゃないよ」

太田道灌が
「急がずば 濡れざらましを 旅人の跡 より晴るる 野路の村雨」

弘法大師の歌が
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 高野の奥の たま川の水」

これは六玉川のうち、紀州は高野山の玉川の水は毒があるため、のまないよう戒めた歌だというので、鳶頭、親分が大和巡りに行くから知らせてくると飛び出す。

「それで、その歌はなんだ」
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 跡より晴るる 野路の村雨」
「それじゃ尻取りだ。下は『たかのの奥の 玉川の水』というんだろ」

鳶頭、先に言われたので、しゃくなので揚げ足を取ろうと
「親分、タカノじゃなくてコウヤでしょう」
「同じことだ。仏説にはタカノとある」

またへこまされたので、それではと
「ごまかしたって、こっちにゃ洗い髪の女がついてるんだ。じゃ、こんなのはどうです。『巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな』。さあ驚いたろう」
「驚くもんか。それは誰の歌だ」
「ナニ、着物であったな、鳶色式部だ」
「鳶色式部てえのはない。紫だろ」
「紫と鳶色は昔は同じだったんで。これは仏説だ」
「そんな仏説があるか。大変に違わあ」
「へえ、そうですか。それじゃ、紺屋が間違えたんでしょう」

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【しりたい】

現代人にはわからない

古風な噺で、和歌の教養がないと、今ではよくわからないでしょう。江戸時代には「小倉百人一首」がごく一般に普及していて、これくらいの和歌はわかりあっていたのです。明治にいたっても同様です。共有の文化でした。

原話は、文化8年(1811)ごろ刊行された、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)作の噺本『種が島』中の「源氏物語」です。

無知な男が、和歌の解釈を聞きかじって、トンチンカンなひけらかしで失敗するパターンは現行通りです。

原話では紫式部の歌でなく、謡曲「源氏供養」にある、式部が石山寺の観音の化身だという伝説から、「鳶色式部」を出しています。

オチは、弘法大師(高野山)と太田道灌の歌の上下をとり違えたのと、「紫(色)」と「鳶(色)」の間違いを掛け、色→紺屋の連想から、紺屋=高野のダジャレオチとしています。

原話のオチは、「ナアニ、おれがそそっかしいのじゃアねえ。ぜんてえ、せんに(=だいたい、前に)高野で間違った」というものです。こちらの方がわかりやすいかもしれません。

紺屋の色見本

紺屋形ともいいます。今でもある、服地のサンプルまたはカタログです。

紺屋は、初期は藍で紺色を染めるだけだったのが、のちに染料の進歩により、様々な色の染物ができるようになりました。

特に紺屋の女房になった、吉原の六代目高尾太夫考案の、浅黄色の早染め(かめのぞき)は評判になりました。

かめのぞき」については「紺屋高尾」をお読みください。

オチは、高野山弘法大師の歌の間違いに、そそっかしい紺屋が、色見本を見ても紛らわしい紫と鳶色を染め間違えたことを掛けてあるわけです。

六玉川

むたまがわ。歌枕に詠まれる全国の六つの玉川のこと。

山城の井出の玉川
摂津の卯の花の玉川
近江の野路の玉川
陸奥の野田の玉川
武蔵の調布の玉川
紀伊の高野の玉川

高野の玉川は、高野山奥の院弘法大師廟のそばを流れる川です。

川水の毒については、噺の中でだんなの解釈する通り、弘法大師のこの歌が載っている『風雅和歌集』の詞書に「高野奥院へまいる道に玉川という河のみなかみ(=上流)に毒虫の多かりければ、この流れを飲むまじき(飲んではならない)由を示しおきて後よみはべりける」とあって、実際に中毒の危険を示唆しています。

高野山には女人禁制であったため、
「毒水を 飲む気づかひは 女なし」
という川柳もありました。

別の説では、名水をいたずらに酌むなという教訓がのちに「毒水」と誤伝されたものともいわれますが。

鳶色式部

鳶色は、鳶の羽色の茶褐色のこと。

布地では「鳶八丈」を指します。

鳶八丈とは、鳶色の地に、黒または黄の格子縞の着物です。

明治中期に、袴の色から、女学生の異名に用いられたこともあり、あるいは、それもかけられているかもしれません。

円喬のオハコ

古くから口演された江戸落語で、明治28年(1895)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

円喬はこの噺を好み、よく高座に掛けたようです。

名人の名を後世に残しながら、ややキザで教養をひけらかす臭みがあったという、この人が好みそうな噺かもしれませんね。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)という、兄弟弟子だった二人が、ともに手掛けました。

「やかん先生」の金馬はファンに愛されながらも、そのペダンチックが嫌われもしました。

このような古ぼけたうんちく噺は、円喬や金馬のように、才気ばしった落語家でないと衒学趣味だけが鼻につき、さまにならないのかもしれません。

現在は、ほとんど演じられていません。

【語の読みと注】
鳶頭 とびのかしら
十二単 じゅうにひとえ
右近 うこん
赤染衛門 あかぞめえもん
紺屋 こうや
六玉川 むたまがわ



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おおやままいり【大山詣り】落語演目



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【どんな?】

噺のおおよそは参詣の帰途が舞台。
宿で泥酔し、仲間から総スカンの熊。
熊が遂げる仕返しは凝ってます。

別題:百人坊主(上方)

あらすじ

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

しりたい

大山とは  【RIZAP COOK】

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁ろうべんが造ったといわれる雨降山あぶりさん大山寺だいせんじがありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現せきそんだいごんげんがあります。これは縄文時代以来の古い信仰です。時代が下る(奈良、平安期ですが)と、神仏混交、修験道の聖地となるのですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利おおやまあぶり神社に。仏の山から神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益  【RIZAP COOK】

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離みずごり(体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。

金は、先達せんだつ(先導者)が月掛けで徴収しました。

帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。

それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者 なし藤沢へ 出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れと知るべし  【RIZAP COOK】

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。旧暦に40日たすと、実際の季節になります。

だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ネタは狂言から  【RIZAP COOK】

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂刊「西鶴諸国ばなし」中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰  【RIZAP COOK】

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は明治期の名人です。

江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、円喬はこの噺のマクラで、マゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年(1896)のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。

実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。

いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。

その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。

朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

名人上手が磨いた噺  【RIZAP COOK】

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、とうとうたる顔ぶれが好んで演じました。

三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も師匠の八代目可楽譲りで若いころから得意にしていましたが、いまも若手を含め多くの落語家が手がける人気演目です。

上方では「百人坊主」  【RIZAP COOK】

落語としては上方が原産です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川どろかわまたは下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈(池田八右衛門→八蔵、?-1841)の「大山道中栗毛俊足」にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

相模の女  【RIZAP COOK】

この噺の背景にはちょっと重要なパラダイムがひそんでいます。

「相模の下女は淫奔」という江戸人のお約束事です。川柳や浮世絵などでもさかんに出てきます。

相模国(神奈川県西部)出身の女性には失礼きわまりないことですがね。「池袋の下女は夜に行灯の油をなめる」といった類の話です。

大山は相模国にあります。

江戸の男たちは「相模に行けば、なにかよいことがあるかもね、むふふ」といった下心を抱きつつ勇んで向かったのでしょう。

大山詣りがにぎわうわけです。

投げ込んで くんなと頼む 下女が文  三24

枕を交わす男から寝物語に「明日大山詣りに行くんだぜ」と聞いた相模出身の下女は「ならばこの手紙を実家に持っていってよ」と頼んでいるところを詠んでいます。こんなことが実際にあったのか。あったのかもしれませんね。

江の島   【RIZAP COOK】

大山詣りの帰りの道筋に選ばれます。近場の行楽地ですが、霊験あらたかな場所でもあります。

浪へ手を あわせて帰る 残念さ   十八02

これだけで江の島を詠んでいるとよくわかるものですなんですね。「浪へ手をあわせて」でなんでしょうかね。島全体が霊場だったということですか。

江の島は ゆふべ話して けふの旅   四33

江の島は 名残をおしむ 旅でなし   九25

江の島へ 硫黄の匂ふ 刷毛ついで   初24

硫黄の匂いがするというのは、箱根の湯治帰りの人。コースだったわけです。大山詣りも同じですね。

江の島へ 踊子ころび ころびいき   十六01

「踊子」とは元禄期ごろから登場する遊芸の女性です。酒宴の席で踊ったり歌ったりして興を添えるのをなりわいとする人。

日本橋橋町あたりに多くいました。

文化頃に「芸者」の名が定着しました。各藩の留守居役とのかかわりが川柳に詠まれます。

江の島で 一日やとふ 大職冠   初15

大職冠たいしょくかん」とは、大化年間(最新の学説ではこの元号は甚だあやしいとされていますが)の孝徳天皇の時代に定めれらた冠位十二階の最高位です。

のちの「正一位しょういちい」に相当します。実際にこの位を授けられたのは藤原鎌足かまたりですが、「正一位」は稲荷神の位でもあります。

謡曲「海士あま」からの連想です。

ここでは鎌足と息子の不比等ふひとを当てています。

ことばよみいみ
良弁ろうべん華厳宗の僧。東大寺の開山。689-774
雨降山あぶりさん大山寺の寺号。神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院。大山不動。本尊は不動明王。開基(創立者)は良弁。高幡山金剛寺、成田山新勝寺とで「関東の三大不動」。
神仏習合しんぶつしゅうごう神道と仏教が調和的に折衷され、融合、同化、一体化された信仰。神仏に対する信仰を一体化する考え方をもさす。「神と仏は一体」という考え。神社境内に寺院を建てたり、寺院境内に神社があったり、神前で祝詞奏上と読経がセットでいとまれたり、神体と仏像がいっしょに祀られる状態。明治維新まではそれが普通だった。

【RIZAP COOK】



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みやとがわ【宮戸川】落語演目





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【どんな?】

隅田川が舞台。
お花半七なれそめの噺。
後半は悲惨ですが。
江戸の噺です。

別題:お花半七馴れ染め

あらすじ

日本橋は小網町こあみちょうの質屋、茜屋半右衛門あかねやはんえもんのせがれ、半七。

堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。

頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。

気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。

こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。

友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日頃から折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。

いつしか二人はばったり。

話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島れいがんじまのおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。

「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。

結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。

一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。

違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。

「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」

下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。

下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。

二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。

こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。

翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。

ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。

おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。

出典:三代目春風亭柳枝

五街道雲助の「宮戸川」

しりたい

実際の心中事件に取材

六代将軍家宣いえのぶが亡くなった正徳しょうとく2年(1712)。

この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が、同年、浄瑠璃「長町裏女腹切ながまちおんなのはらきり」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが芝居や音曲で大流行しました。

それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四代目鶴屋南北(勝次郎、1755-1829)が江戸・玉川座に書き下ろした「宿花千人禿やよいのはなせんにんかむろ」(茜屋半七)が大当たりしました。

落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。

すたれた後半部分

明治中期までは、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがありました。

三代目柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。

この項でのあらすじは、三代目柳枝の速記の前半部分を参照しました。

その後、古風な芝居ばなしがすたれるとともに、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。

昭和に入って、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)といった名人連が得意にしました。

ただ、いずれも前半のみで、円生一門の五代目三遊亭圓楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されていました。

三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)、柳家小満ん五街道雲助金原亭世之介古今亭圓菊柳家喬太郎などが、後半を含めてやったことがあります。

後半のあらすじ

前半から四年ほどのちの夏。

お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。

傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花はしゃくを起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。

承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。

雇った船頭もぐるとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。

三人の渡りゼリフで。

「亭主というは、うぬであったか」
「ハテ、よいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」

……というところで起こされた。

お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。

じつは夢だったという筋立ては「夢金」と同じです。オチは「鼠穴」に似ています。

宮戸川

夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名です。

隅田川の、吾妻橋から厩橋のあたり「宮戸川」と呼んだそうです。

「宮戸」は、三社権現さんじゃごんげんの参道入り口を流れていたことから、この名がついたのだとか。

この付近は、白魚や紫鯉の名産地でした。汽水なんですね。

文政年間(1818-30)、浅草駒形町の醤油酢問屋、内田屋甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になったそうです。ここは居酒屋もあきなっていたとか。

小網町

現在の東京都中央区日本橋小網町。

小網町3丁目の行徳河岸ぎょうとくがしから下総(千葉県北部)の行徳まで三里八丁(約12.9km)を、行徳船ぎょうとくぶねという、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。

ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。

霊岸島

現在の東京都中央区新川1、2丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り、島だったのでした。

船宿

舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。

柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。

【もっとしりたい 後半のあらすじ】

芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。

この噺は、前半と後半がある。

今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。

後半とは、どんな噺なのか。

霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。

実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。

半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」

結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。聴衆を弄んでる。筋の悪い同人誌を読む思い。できのよくない筋運びといえよう。オチもどこかで聞いたことのある、とってつけたようなものだし、それだけですでに凡庸でしかないう。

だからなのか、今では演じる者がいない。えんえんと長いし。

ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知れば、おのずとわかる。

宮戸川とは隅田川の別称である。おおざっぱには、駒形あたりから上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。

噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷あたりとなる。

ともに隅田川がらみの地だ。なによりも、お花が投げ捨てられたのが吾妻橋である。

隅田川は汽水の地。聖と俗、善と悪、生と死、うぶとなれが交錯し、すべてを洗い流してしまう象徴となる。

この噺は前半と後半で際立つ。「宮戸川」と題するのもそこに噺の核が隠されているからだろう。どこまでいっても隅田川まみれの噺なのである。

古木優





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ねずみあな【鼠穴】落語演目




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【どんな?】

金にまつわる壮大、シリアスな人間ドラマ、と思いきや……。

【あらすじ】

酒と女に身を持ち崩した、百姓の竹次郎。

おやじに譲られた田地田畑も、みんな人手に渡った。

しかたなく、江戸へ出て商売で成功している兄のところへ尋ねた。

奉公させてくれと頼むが、兄はそれより自分で商売してみろと励まし、元手を貸してくれる。

竹次郎は喜び、帰り道で包みを開くと、たったの三文。

馬鹿にしやがって、と頭に血が昇った。

ふと気が変わった。

地べたを掘っても三文は出てこない、と思い直した。

これで藁のさんだらぼっちを買い集め、ほどいて小銭をくくる「さし」をこしらえ、売りさばいた金で空俵を買って草鞋わらじを作る、という具合に一心不乱に働く。

その甲斐あって二年半で十両ため、女房も貰って女の子もでき、ついに十年後には深川蛤町はまぐりちょうに蔵が三戸前みとまえある立派な店の主人におさまった。

ある風の強い日、番頭に火が出たら必ず蔵の目塗りをするように言いつけ、竹次郎が出かけたのはあの兄の店。

十年前に借りた三文と、別に「利息」として二両を返し、礼を述べると、兄は喜んで酒を出し、
「あの時におまえに五両、十両の金を貸すのはわけなかったが、そうすれば景気付けに酒をのんでしまいかねない。だからわざと三文貸し、それを一分にでもしてきたら、今度は五十両でも貸してやろうと思った」
と、本心を語る。

「さぞ恨んだだろうが勘弁しろ」
と詫びられたので、竹次郎も泣いて感謝する。

店のことが心配になり、帰ろうとすると兄は、
「積もる話をしたいから泊まっていけ。もしおめえの家が焼けたら、自分の身代を全部譲ってやる」
とまで言ってくれたので、竹次郎も言葉に甘えることにした。

深夜半鐘が鳴り、蛤町方向が火事という知らせ。

竹次郎がかけつけるとすでに遅く、蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。

わずかに持ち出したかみさんのへそくりを元手に、掛け小屋で商売してみた。

うまくは行かず、親子三人裏長屋住まいの身となった。

悪いことにはかみさんが心労で寝付いた。

どうにもならず、娘のお芳を連れて兄に五十両借りにいく。

ところが
「元の身代ならともかく、今のおめえに五十両なんてとんでもねえ」
と、けんもほろろ。

店が焼けたら身代を譲ると言ったとしても、
「それは酒の上の冗談だ」
と突っぱねられる。

「お芳、よく顔を見ておけ、これがおめえのたった一人のおじさんだ。人でねえ、鬼だ。おぼえていなせえッ」

親子でとぼとぼ帰る道すがら、七つのお芳が、
「あたしがお女郎じょろうさんになっ、てお金をこしらえる」
とけなげに言ったので、泣く泣く娘を吉原のかむろに売り、二十両の金を得る。

その帰りに、大切な金をすられてしまった。

絶望した竹次郎。

首をくくろうと念仏を唱え、乗っていた石をぽんとけると、そのとたんに
「竹、おい、起きろ」

気がつくと兄の家。

酔いつぶれて夢を見ていたらしいとわかり、竹次郎、胸をなでおろす。

「ふんふん、えれえ夢を見やがったな。しかし竹、火事の夢は焼けほこるというから、来年、われの家はでかくなるぞ」
「ありがてえ、おらあ、あんまり鼠穴ァ気にしたで」
「ははは、夢は土蔵どぞう(=五臓ごぞう)の疲れだ」

【しりたい】

夢は五臓の疲れ   【RIZAP COOK】

五臓は心・肝・肺・腎・。陰陽五行説で、万物をすべて木・火・土・こん・水の五性に分類する思想の名残です。

「夢は五臓のわずらい」ともいいます。

それにしても、普通、夢の「悪役」(しかも現実には恩人)に面と向かって、馬鹿正直に「あんたが人非人に変わる夢を見ました」なんぞとしゃべりませんわなあ。

なんぞ、含むところがあるのかと思われてもしかたありません。

精神科医なら、どう診断するでしょう。

ハッピーエンドの方が、実は夢だった、とでもひっくり返せば、少しはマシな「作品」になるでしょうが。誰か改作しないですかね。

このオチ、「宮戸川」に似ています。

深川蛤町   【RIZAP COOK】

東京都江東区門前仲町の一部です。

三代将軍・家光公に蛤を献上したのが町名の起こりで、樺太探検で名高い間宮林蔵(1775–1844)の終焉の地でもあります。

三戸前   【RIZAP COOK】

「戸前」は、土蔵の入り口の戸を立てる場所。

そこから、蔵の数を数える数詞になりました。

三戸前みとまえ」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちのバロメーターでした。

さんだらぼっち   【RIZAP COOK】

俵の上下に付いた、ワラで編んだ丸いふた。桟俵さんだわらともいいます。

演者   【RIZAP COOK】

大正から昭和にかけての名人、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)へと継承されました。

円生は昭和28年に初演して以来、ほとんど一手専売にしていましたが、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)とその一門に伝わり、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)も、その一門もけっこうやっています。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)もよく演じましたが、田舎ことばは、この人がもっとも愛嬌があって達者でしたね。

あ、それと   【RIZAP COOK】

十代目小三治師匠といえば、昭和14年(1939)12月生まれで都立青山高校卒であることは有名な話ですが、東宝が、いや、日本が誇るアジアン・ビューティー、若林映子あきこさんも同年12月生まれで都立青山高校を出ています。

お二人は同級生だったそうです。

若い頃の小三治師匠(小たけ時代とか)に「郡山クン、おつかれさま」とかなんとか言って楽屋に差し入れを持って来てくれてたのでしょうか。勝手に想像しちゃいます。

彼女は「不良少女モニカ」とか呼ばれてたんだとか。ベルイマンのですかい。粋です。

    日本の至宝、若林映子さん。美女の頂点





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こほめ【子ほめ】落語演目

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【どんな?】

他人の子。
心にもなくほめる。
いやあ、気を使います。
愚者が半端に真似して。
失敗するおかしさが秀逸。

別題:年ほめ 赤子ほめ(上方)

あらすじ

人間がおめでたくできている熊五郎がご隠居のところに、人にただ酒をのましてもらうにはどうすればいいかと聞いてくる。

そこで、人に喜んでごちそうしようという気にさせるには、まずうそでもいいからお世辞の一つも言えなけりゃあいけないと教えられ、例えば、人は若く言われると気分がいいから、四十五の人には厄(四十一~三歳)そこそこ、五十なら四十五と、四、五歳若く言えばいいとアドバイスされる。

たまたま仲間の八五郎に赤ん坊が生まれたので、祝いに行けば酒をおごってもらえると算段している熊公、赤ん坊のほめ方はどうすればいいか聞くと、隠居がセリフを教えてくれる。

「これはあなたさまのお子さまでございますか。あなたのおじいさまに似てご長命の相でいらっしゃる。栴檀せんだん双葉ふたばより芳しく、じゃすんにしてその気をのむ。私も早くこんなお子さまにあやかりたい」

喜んで町に出ると、顔見知りの伊勢屋の番頭に会ったから、さっそく試してやろうと、年を聞くと四十歳。

四十五より下は聞いていないので、むりやり四十五と言ってもらい、
「えー、あなたは大変お若く見える」
「いくつに見える?」
「どう見ても厄そこそこ」
「ばか野郎ッ」
としくじった。

さて、八つぁんの家。

男の子で、奥に寝ているというから上がると、
「妙な餓鬼がきィ産みゃあがったな。生まれたてで頭の真ん中が禿げてやがる」
「そりゃあ、おやじだ」

いよいよほめる段になって、
「あなたのおじいさまに似て長命丸ちょうめいがんの看板で、栴檀の石は丸く、あたしも早くこんなお子さまにかやつりてえ」
「なんでえ、それは」
「時に、この赤ん坊の歳はいくつだい?」
「今日はお七夜だ」
「初七日」
「初七日じゃねえ。生まれて七日だからまだ一つだ」
「一つにしちゃあ大変お若い」
「ばか野郎、一つより若けりゃいくつだ」
「どう見てもタダだ」

しりたい

これも『醒睡笑』から

安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』(「てれすこ」参照)巻一中の「鈍副子どんふうす 第十一話」が原話です。副子とは、禅寺の会計を担当する僧侶のこと。

これは、脳に霞たなびく小坊主が、人の歳をいつも多く言うというので和尚にしかられ、使いに行った先で、そこの赤ん坊を見て、「えー、息子さんはおいくつで?」「今年生まれたから、片子かたこですよ」「片子にしてはお若い」というもので、「子ほめ」のオチの原型になっています。片子とは、満一歳未満の子、赤子をさします。

小咄こばなしがいくつか合体してできた噺の典型で、自由にくすぐり(ギャグ)も入れやすく、時間がないときはいつでも途中で切れる、「逃げ噺」の代表格です。

大看板も気軽に

そういうわけで、「子ほめ」は、逃げ噺、前座噺として扱われます。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目金馬(加藤専太郎、1894-1964)といったかつての大物も、時々気軽に演じました。

五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)の、ぶっきらぼうな口調も耳に残っています。

オチは、満年齢が定着した現在は、通じにくくなりつつあるため、難しいものがあります。

上方の三代目桂米朝(中川清、1925-2015)は、「今朝、生まれたばかりや」「それはお若い。どう見てもあさってに見える」としていました。

蛇は寸にしてその気をのむ

「その気を得る」「その気を顕す」ともいいます。

解釈は「栴檀せんだん双葉ふたばより芳し」と同じで、大人物は幼年からすでに才気を表している、という意味。「寸」は体長が一寸(3cm)の幼体のことです。

長命丸は四つ目屋から

俗に薬研堀やげんぼり、実は両国米沢町の「四つ目屋」で売り出していた強精剤、催淫剤です。

四つ目屋は、このほか「女悦丸」「朔日丸」(避妊薬)など、その方面のあやししげな薬を一手に取り扱っていました。

両国といわれると、いまではつい両国駅あたりを思い浮かべてしまいますが、四つ目屋の両国は両国橋西詰で、日本橋側です。となると、だいぶ印象が違ってきます。

さて、長命丸。

田舎のおやじが、長生きの妙薬と勘違いして長命丸を買っていき、セガレの先に塗るのだと教えられていたので、さっそく、ばか息子の与太郎の頭に塗りたくると、夜中に頭がコックリコックリ持ち上がった、という艶笑噺があります。

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ごしょううなぎ【後生鰻】落語演目

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【どんな?】

小動物を放つと功徳(よい報い)が。
本末転倒のばかばかしさ。
珍妙無比の最高傑作です。
これはもう志ん生のが絶品。

別題:放生会ほうじょうえ 淀川(上方)

【RIZAP COOK】

あらすじ

さる大家たいけ(金持ち)の主人。

すでにせがれに家督(財産)を譲って隠居の身だが、これが大変な信心家で、殺生せっしょう(生き物を殺す)が大嫌い。

夏場に蚊が刺していても、つぶさずに、必死にかゆいのをがまんしているほど。

ある日、浅草の観音さまへお参りに行った帰りがけ、天王橋のたもとに来かかった。

ちょうど、そこの鰻屋のおやじが蒲焼きをこしらえようと、ぬるりぬるりと逃げる鰻と格闘中。

隠居、さっそく義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。

「あたしの目の黒いうちは、一匹の鰻も殺させない」
「それじゃあ、ウチがつぶれちまう」
と、すったもんだの末、二円で買い取って、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳くどくをした」

翌日。

同じ鰻屋で、同じように二円で。

ボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

その翌日はスッポンで、今度は八円とふっかけられた。

「生き物の命はおアシには換えられない、買いましょう」
「ようがす」
というわけで、またボチャーン。

これが毎日で、喜んだのは鰻屋。

なにしろ隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、たちまち左うちわ。

仲間もうらやんで、
「おい、おめえ、いい隠居つかめえたな。どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」
などという連中も出る始末。

ところがそのうち、当の隠居がぱったりと来なくなった。

少しふっかけ過ぎて、ほかの鰻屋にまわったんじゃないかと、女房と心配しているところへ、久しぶりに向こうから「福の神」。

「ちょっとやせたんじゃないかい」
「患ってたんだよ。ああいうのは、いつくたばっちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくっとこう」

ところが、毎日毎日隠居を当てにしていたもんだから、商売は開店休業。

肝心の鰻もスッポンも、一匹も仕入れていない。

「生きてるもんじゃなきゃ、しょうがねえ。あの金魚……ネズミ……しょうがねえな、もう来ちゃうよ。うん、じゃ、赤ん坊」

生きているものならいいだろうと、先日生まれたわが子を裸にして、割き台の上に乗っけた。

驚いたのは隠居。

「おいおい、その赤ちゃん、どうすんだ」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「ばか野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」

隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

後生  【RIZAP COOK】

ごしょう。昔はよく「後生が悪い」とか「後生がいい」とかいう言い方をしました。後生とは仏教の輪廻転生説でいう、来世のこと。

現世で生き物の命を助けて功徳(よい行い=善行)を積めば、生まれ変わった来世は安楽に暮らせると、この隠居は考えたわけです。

五代将軍徳川綱吉(1646-1709)の「生類憐みの令」も、この思想が権力者により、ゆがんだ、極端な形で庶民に強制された結果の悲劇です。

悲劇と言い切れるかどうか。昨今は、綱吉の治世が再評価されてつつあります。社会福祉優先、文化優先の善政であった、と。これは別の機会に。

  【RIZAP COOK】

江戸市中に鰻の蒲焼きが大流行したのは、天明元年(1781)の初夏でした。てんぷらも、同じ年にブームになっています。

それまでは、鰻は丸焼きにして、たまり醤油などをつけて食べられていたものの、脂が強いので、馬方など、エネルギーが要る商売の人間以外は食べなかったとは、よく言い習わされている説ですね。

それまでも、眼病治療には効果があるので、ヤツメウナギの代わりとして、薬食いのように食べられることは多かったようです。

屈指のブラック名品  【RIZAP COOK】

オチが効いています。

こともあろうに、落語にモラルを求める野暮で愚かしい輩は、ごらんの結末ゆえに、この噺を排撃しようとしますが、料簡違いもはなはだしい。

このブラックなオチにこそ、えせヒューマニズムをはるかに超えた、人間の愚かしさへの率直な認識が見られます。

一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような名編の一つでしょう。

志ん生、金馬のやり方  【RIZAP COOK】

上方落語の「淀川」を東京に移したものです。明治期では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)がそれぞれの個性で得意にしていました。

志ん生、金馬は、信心家でケチな隠居が、亀を買って放してやろうとし、一番安い亀を選んだので、残った亀が怒って、「とり殺してやるっ」という小ばなしをマクラにしていました。

小円朝は、ふつう隠居が「いい功徳をした」と言うところを、「ああ、いい後生をした」とし、あとに「凝っては思案にあたわず」と付け加えるなど、細かい工夫、配慮をしていました。

この噺は、別題を「放生会ほうじょうえ」といいます。

これは旧暦八月十五日に生き物を放してやると功徳を得られるという、仏教行事にちなんだものです。

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あたごやま【愛宕山】落語演目




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【どんな?】

京でだんなが野駆け。
かわらけ代わりに小判投げ。
見るや幇間が傘で降下。

あらすじ

ころは明治の初年。

だんなのお供で、朋輩ほうばい(仲間)の繁八や芸者連中とうちそろって京都見物に出かけた幇間の一八。

負けず嫌いで、なにを聞かれても
「朝飯前でげす」
と安請け合いをするのが悪い癖。

あらかた市内見物も済み、今度は愛宕山に登ろうという時に、だんなに、
「愛宕山は高いから、おまえにゃ無理だろう」
と言われたが、一八は
「冗談言っちゃいけませんよ。あたしだって江戸っ子です。あんな山の一つや二つ、朝飯前でげす」
と見栄を張ったばっかりに、死ぬ思いでヒイヒイ言いながら登る羽目になった。

弟弟子の繁八をなんとか言いくるめて脱走しようとするが、だんなは先刻お見通しで、繁八に見張りを言いつけてあるから、逃がすものではない。

おまけに、途中でだんなに
早蕨さわらびの 握り拳を振り上げて 山の横面 春(=張る)風ぞ吹く」
という歌を自慢げに披露したまではいいが、
「それじゃ、早蕨(芽を出したばかりの蕨)ってえのはなんのことだ」
と逆に聞かれて、シドロモドロ。

おかげで十円の祝儀をもらい損なう。

ようやく山頂にたどり着くと、ここでは、かわらけ投げが名物。

茶屋のばあさんから平たい円盤を買って、頂上からはるか下の的に向かって投げる。

だんなは慣れていて百発百中。

夫婦投げという二枚投げも自由自在だが、一八がまた「朝飯前」と挑戦しても、全くダメ。

そのうちだんな、酔狂にもかわらけの代わりに本物の小判を投げ始めたから、さあ一八は驚いた。

「もったいない」
と止めると、
「おまえには遊びの味がわからない」
と、とうとう三十枚全部放ってしまう。

拾った奴のものだと言うので、欲にかられた一八、だんなが止めるのも聞かばこそ、千尋の谷底目がけ、傘でふわりふわりと落下。血走りまなこで落ちていた三十枚全部かき集めた。

「おーい、金はあったかー」
「ありましたァー」
「全部てめえにやるぞー」
「ありがとうございますゥー」
「どうやって登るゥー」
「あっ、しまった」
「欲張りめ。狼に食われてしまえ」

奴さん、何を考えたか、素っ裸になると着物を残らすビリビリと引き裂き、長い紐をこしらえると、そいつを嵯峨竹に引っかけ、竹の弾力を利用して、反動で空高く舞い上がるや、
「ただいまっ」
「えらいっ、きさまを生涯贔屓ひいきにしてやるぞ」
「ありがとう存じますっ」
「金は?」
「あっ、忘れてきた」

【RIZAP COOK】

底本:八代目桂文楽

しりたい

黒門町!  【RIZAP COOK】

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)からの直伝で「黒門町」こと八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が継承し、磨きに磨いて、一字一句ゆるがない名人芸に仕上げました。

特に後半の、竹をたわめる場面は体力を要するので、晩年、侍医に止められましたが、文楽は最後まで「愛宕山」に固執したといいます。

ひいさん   【RIZAP COOK】

この噺に出てくるだんなは、文楽のパトロンだったひいさんこと樋口由恵ひぐちよしえがモデルです。

樋口由恵ひぐちよしえ(1895-1974)は山梨県増穂町(富士川町)出身の経営者。

大正期に上京、昭和初期に川崎陸送を創業し成功させた立志伝中の人です。

桂文楽の話を正岡容(1904-58)が聞き書きしてまとめた『芸談あばらかべっそん』(桂文楽、青蛙房、1957年→朝日ソノラマ文庫、1967→ちくま文庫、1992年)。

こんなくだりが載っています。以下、ご参考まで。

私を大へんひいきにして下すったお方のひとりに樋口由恵さんとおっしゃるお方がございます。「東京新聞」の須田栄先生をやせさせたような感じの方です。
お家は甲府で、お父さんは樋口半六という県会議員もなすった方で、御本業は運送屋さんで、お邸の中にレールまでしいてあるという、すばらしい御商売振りなんです。
丁ど、大地震のすぐあとでしたネ、各派が一しょになって焼けのこった山の手の席をうっているころのことでした。
私は芝の席がトリでしたが、四谷の喜よしへ向嶋の待合から電話がかかって来ましてネ、
「ぜひ来て下さいよ。来て下さらないと。そのお客さまが大へんなんです」
と、こうなんです。
ところが生憎そのときはカケモチが何軒もあるので、
「折角ですが今晩は伺えません」
そういって断わると、一、二日してまた電話が、今度は幇間(たいこもち)からかかって来て、
「師匠助けるとおもって来て下さいな。でないと我々が困るんです」
と、こういうんです。
「じゃあ伺いましょう。けど、あと三軒歩きますから十一時過ぎになりますが……」
「それでもいいから、とにかく一ぺん来て下さい」
それから席を二、三すませていったから、もう十二時ちかくでしょう。
そのじぶんですから或いは十二時過ぎていたかもしれませんが、
「今晩は……」
と入ってゆくと、その待合じゅうがシーンとしているんです。
女将もでて来なけりゃ、第一、階下でシャダレがふてくされて、二、三人ねそべっている。
ところへさっき電話をかけて来た幇間がでて来て、
「よく来てました。ヒーさんてえお客さまなんですがネ、この間の晩、師匠がおいで頂けなかったでしょう。そうしたら、ヤイてめえンとこじゃ文楽はよべねえのかって、芸者が引叩かれる、つねられる、だもンで今夜もみんなイヤがってアアやって寄付かないんですよ」
いわれて私もいささかコワクなりましたが、ソーッと二階へ上がっていって障子の穴から透き見をしてみると、成程、皿小鉢がこわれて、そのお客さまはうなだれて、
「ウーム……ウーム」
とうなっています。
「今晩は……」
そこで私が低くこういいながら入っていったら、とたんに一と目みて、
「ヨーッ来たな」
そのマー喜びようたらないんです。
「オイオイ師匠がみえたじゃないか。何をしているんだ。早くそこらを片付けろ片付けろ」
って、急いで女中たちに皿小鉢を片付けさせて、ガラッと一ぺんに世界が変わったように明るくなってしまったんです。
「オイ文楽さん、私は前から君のファン(というコトバはまだなかったでしょうが)なんだよ」
といった塩梅で御祝儀を下すって、その晩は泊ってゆけとおっしゃるんですが、私ははじめてのお客の前で不見転を買うのはいやだから御辞退したんだが、先方さんはすぐ妓をよんで下すっていて、
「じゃこの妓じゃ師匠の気に入らないんだろう。面食(めんく)いだネこの人は……」
てんで、次々とかえては三人もよんで、
とうとう女将が私を次の間によんで、
「師匠が泊って下さらないと、またヒーさんがお怒りになりますから」
てんで、それから私も心得てすぐひけ(寝る)てえことにしましたら、
「ハハーあの妓はきに入ったんだな」
てんで、大へんなごきげんでかえっていった。連中みんなはじめてホッとしたそうで、何しろ大へんな荒れようだったんだから、そりゃマーそうでしょうよ。

米朝の「愛宕山」  【RIZAP COOK】

文楽演出を尊重しながらも、いかにも大阪らしい「愛宕山」を演じて、これも十八番、名人芸です。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)始め上方バージョンでは、東京と異なり、大阪ミナミの幇間の一八と繁八が、京都・室町のだんなのお供で野駆のがけ(ピクニック)に出かけ、ついでに愛宕山に参詣を、となります。

だんながあまり大阪をくさす(ケチをつける)ので、腹を立てた二人が、だんながかわらけ投げをしているのを、「京の人間はシミったれやさかい、あんなもんしかよう放らん」と、いやみを言い、だんなが怒って小判を投げるという設定です。

同じ取り持ち稼業でも、大阪の幇間は決してイエスマンでなく、反骨精神旺盛だったようですね。

かわらけ投げ  【RIZAP COOK】

江戸でも、王子の飛鳥山、谷中の道灌山でさかんに行われていました。

日ぐらしは 壱文ずつが 飛んでいき
かわらけが 逸れて桜の 花が散り

春の行楽の風物詩でした。「日ぐらし」とは日暮らしの里。現在の荒川区日暮里あたりをさします。

京都の愛宕山  【RIZAP COOK】

京都市右京区上嵯峨北西部にあり、海抜は924m(3049尺)とけっこう高い山です。

京都市の北東の比叡山(848m)と並ぶ霊峰。

愛宕山は五つの峰(朝日山、大鷲峰、龍上山、高雄山、鎌倉山)からなる総称をいいます。

中国の五台山にならって、「愛宕五峰」「愛宕五坊」などと呼ばれました。

朝日峰の山頂には、本宮にイザナミを、若宮に火産霊神ほむすびのかみ(軻遇突智命かぐつちのみこととも)をまつる愛宕神社があります。

若宮の神はイザナミの子で、イザナミが出産した際にホト(陰部)をやけどしてしまい、その傷がもとで死んでしまいます。

怒ったイザナギは十拳剣とつかのつるぎでこの神を刺し殺します。

剣からしたたり落ちた血から神々が生まれました。すごい話です。

愛宕神社は、神仏習合(神祇信仰と仏教が融合した信仰形態)だった頃は白雲寺と呼ばれていました。明治初期の神仏分離令で廃寺となり、愛宕神社にさまがわりしました。

朝日峰  愛宕権現白雲寺→愛宕神社 変容存続
大鷲峰  月輪寺 存続 天台宗
高雄山  神護寺 存続 真言宗
龍上山  日輪寺 廃寺
鎌倉山  伝法寺 廃寺

ここは修験道の道場でもありました。

さらには、さえの神信仰(土地の境界を守る神への信仰)や陰陽道おんみょうどう、天狗信仰、勝軍地蔵しょうぐんじぞう信仰(軍神)、おまけに火の神を仰ぐところから火除ひよけの信仰も篤く、信仰の百貨店のようなさまでした。

火迺要慎ひのようじん」と記された愛宕神社の火伏せ札は、京都の台所や厨房に張られています。

「愛宕の三つ参り」として、三歳までにお詣りすると生涯火災に遭遇することがないと伝えられています。

重要なのは火伏せの神として尊崇されていることです。

明治期より前には、火除け、火伏せの神はより多く信仰されていました。

一年を通じてにぎわいましたが、特に、陰暦6月24日の愛宕千日詣では有名です。

京都の人々には「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山には月参り」とうたわれました。

火の神さまは愛宕神社以外には、秋葉山本宮秋葉神社(浜松市)を頂点とする秋葉神社や野々宮神社(京都市右京区、東京都港区など)でまつられています。

『都名所図会』には、「月ごとの縁日にも老人は皿竹輿さらかごをかりてたすけられ、婦人童子のわかちもなく、万仭のけわしきをいとわず、坂路の茶店に休らえば、白雲目の前を横とう。あるいは、土器なげに興じて足の重きを忘れる」とあるほど。

登山の途中で一八がひけらかす「早蕨の……」の狂歌は、当人が知っていたかどうかは定かではありませんが、大田南畝おおたなんぽ(1749-1823)の作です。南畝は蜀山人しょくさんじんのこと、江戸天明狂歌のパイオニアです。

東京の愛宕山は港区愛宕1丁目にありますが、こちらは京の愛宕大権現を慶長8年(1603)に勧請かんじょう(神仏の分霊をお願いして迎えること)しました。東京支店ですね。

かしくのこぼればなし  【RIZAP COOK】

「私はこれをかしく師匠(引用者注:二代目文の家かしく、のち三代目笑福亭福松。1884-1962)に習ったのですが『愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな』と言うと『行ったらやれんようになるで。この噺嘘ばっかりやさかい』と言われて……」 

『米朝ばなし 上方落語地図』(桂米朝、毎日新聞社→講談社文庫、1981年)

何度も記しますが、古い同題の上方噺を三代目円馬が東京風に脚色しました。

円馬から八代目桂文楽に伝わる。文楽のおはこでした。

東京の噺家が語る上方を舞台にした噺の一。

「三十石船」などほかにもありますが、中国人俳優が日本人役として登場するハリウッド映画のような珍妙ぶり。

愛宕山とは、もちろん京都のです。東京のではありません。

修験道の聖地です。山頂には愛宕神社があります。

「堀の内」の上方版「いらちの愛宕まいり」も、ここが舞台となっています。

茶店の傘  【RIZAP COOK】

この手の茶店には傘が常備されてありました。

そこからの発想なのでしょう。

借りたら返さなくてはいけないわけで、ということは、その店を再訪しなくてはいけないため、せちがらい現代社会には耐えられず、消えていく風習となっていったのですね。

ことばよみいみ
朋輩ほうばい仲間。友達
火産霊神ほむすびのかみ京都の愛宕神社の祭神。鍛冶、土器、消防、火の神。火が全てを浄化するところから祓いの神となる。全てを燃やし尽くすところからの発想で、物事を初期状態に戻す帳消しの神、リセットの神としても
軻遇突智命かぐつちのみこと火の神。『古事記』では「迦具土神」とある。イザナミノミコトが神生みの最後に生んだ神で,イザナミは陰部を焼かれて死に至る
十拳剣とつかのつるぎ神話に登場する剣の総称。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」などの表記も
皿竹輿さらかごかわらけなどを入れる竹で編んだかご
万仭 ばんじん七万尺。「仞」は七尺。とほうもない長さ




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たぬさい【狸賽】落語演目



 




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【どんな?】

男、子狸にチョボイチのさいころに化けさせてどんな目でも出させる。
賭場とばで男は大当たり。最後の勝負では「目を読むな」と制される。
開いた目は五。男は「梅鉢だッ。天神さまだ」とやった。
勝負ッ。狸が冠かぶりしゃく持ってふんぞりかえってた。

別題:狸 たぬき賽(上方)

あらすじ

ある博打打ちの男。

誰か夜中に訪ねてきたので開けてみると、なんと子狸。

昼間、悪童たちにいじめられているのを男に助けられたので、その恩返しに来たのだという。

「なんでもお役に立つから、しばらく置いてください」
というので、家に入れて試してみると、なんにでも化けられるので、なるほどこれは便利。

小僧に化けて家事一切をやってくれたり、葉書を札に化けさせて、米をかすり取ってきたり。

そこで男が思いついたのが今夜の「ご開帳」。

チョボイチだから、狸をサイコロに化けさせて持っていけば、自分の好きな目が出放題、というわけ。

さっそく訓練してみると、あまり転がすと目が回るなどと、頼りないが、何とか仕込んで、勇躍賭場へ。

強引に胴を取ると、男が張る目張る目がみんな大当たりで、たちまち男の前には札束の山。

ところが、やたら
「今度は一だ」
「三だよッ、三だ三だ三だ」
などと、いちいちしつこく指示を出すので、一同眉に唾をつけ始める。

儲けるだけ儲けて退散しようとすると、最後の勝負というので先に張られてしまい、てめえが変なことを言うとその通りの目が出るから、もう目を読むなと釘をさされる。

開いた目は五。

五と言えないので、
「うーん、今度はなんだ、梅鉢だ。えー、まーるくなって、一つ真ん中になるだろ。加賀さまだ。加賀さまの紋が梅鉢で、梅鉢は天神さま。なッ。天神さまだよ、頼むぜッ」

「勝負ッ」
と転がすと、狸が冠かぶって、しゃく持ってふんぞりかえってた。

「この野郎!」

底本:五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん

しりたい

さまざまな狸噺  【RIZAP COOK】

原話は、宝暦13年(1763)刊の笑話本『軽口太平楽』中の「狸」です。

本来、軽く短い噺なので、「狸の札」「狸の釜」「狸の鯉」などの同類の狸噺とオムニバスで続ける場合があります。

「狸賽」を入れた四話をまとめて、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)のように「狸」と題することもあります。

それぞれ、狸が恩返しに来るという発端は共通していて、化けて失敗するものが違うだけです。

「狸の鯉」は、狸を鯉に化けさせ、親方の家に持っていくと料理されそうになり、「鯉」が積んだ薪を伝わって窓から逃げたので「あれが鯉の薪(=滝)のぼりです」と地口で落とすもの。

「狸の札」は、札に化けさせられ、相手のガマ口に入れられた狸が苦しくなって逃げ帰り、「ついでにガマ口の銭も持ってきました」というもの。

「狸の釜」は、釜に化けて和尚に売られた狸が火にかけられて逃げ出し、小坊主があれは狸だったと報告すると、「道理で半金かたられた」「包んだ風呂敷が八丈でございます」とオチるもので、狸の睾丸が八畳敷きというのと、布地の八丈縞を掛けたもの。

ぶんぶく茶釜伝説のパロディーです。

今では、あまり演じられません。

珍品、小さんの狸  【RIZAP COOK】

明治期では四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記があります。

五代目志ん生も得意にしましたが、代々の柳家小さん系に伝わる噺です。

まあ、三代目から五代目の小さんが、そろって狸に似ていたという縁もあるでしょうが。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が演じると、狸を助ける場面、狸とのやりとり、「サイン」を打ち合わせるくだりなどがわりにあっさり演じた志ん生に比べて詳しくて、特に、オチの部分を、笏を持った天神のしぐさで表現するのが特色でした。

その抱腹絶倒の表情は、いまだに記憶に強烈に残っています。

小さんは「狸の札」を「狸賽」のマクラに用い、つなげて演じることも多く、その際は「狸」の題名で演じていました。

志ん生の方は、同じ「狸」の演題でも、「狸の鯉」とつなげることが多かったようです。

五代目小さんの弟子筋を中心に、若手にもよく演じられる噺です。

チョボイチ  【RIZAP COOK】

一つ粒ともいいます。

サイコロ一つを使ってやる、きわめてギャンブル性の強いバクチです。

胴元の出した目に張ると、配当は四倍になります。

同じチョボでも狐チョボになると、サイコロ三つで勝負します。

志ん生が絶妙だった「今戸の狐」にも出てきます。隠語の「狐」がからみます。

上方では  【RIZAP COOK】

発端が、少し東京と異なります。

バクチに負けた旅人が、空腹のあまり狸塚に子供たちが供えたぼた餅をつまみ食いすると狸が現れて因縁をつけてきます。

もしサイコロに化けて自分の言う通りの目を出してくれたら、ぼた餅など山のように食わしてやる、と持ちかけ、狸の賽を持ってバクチ場へ行くという段取りです。

オチは小さんと同じく、天神さまのしぐさオチになります。

原話の『軽口太平楽』中の小咄では、こうです。

化け狸が住み着いた貸家に越してきた男を、狸がありとあらゆる妖怪に化けて脅しますが、いっこうに動じないので、とうとう根負けして降参。男の頼みを聞いてサイコロに化けることに。

オチは少し変わっています。

男が五の目を出させようと「梅の花、梅の花」と言うと、狸が勘違いして(梅に縁ある)ウグイスに化けてしまいます。

これがオチ。

「この野郎!」   【RIZAP COOK】

あらすじの最後の「この野郎!」は、五代目志ん生が加えたものです。

はっきりしたオチにはなっていません。

これだと噺がまだあとに続きそうで、すわりは悪いものの、印象に残るちょっとおもしろい終わり方ですね。




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こんにゃくもんどう【蒟蒻問答】落語演目



葷酒山門に入るを許さずともいわず!?


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【どんな?】

蒟蒻屋と托鉢僧との問答。
無言の話芸。
仕方噺の極致。

別題:餅屋問答(上方)

あらすじ

八王子在のある古寺は、長年住職のなり手がなく、荒れるに任されている。

これを心配した村の世話人・蒟蒻屋の六兵衛は、江戸を食い詰めて自分のところに転がり込んできている八五郎に、出家してこの寺の住職になるように勧めたので、当人もどうせ行く当てのない身、二つ返事で承知して、にわか坊主ができあがった。

二、三日はおとなしくしていた八五郎だが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、寺男の権助と二人でくだを巻いている。

金がないので
「葬式でもない日にゃあ、坊主の陰干しができる。早く誰かくたばりゃあがらねえか」
とぼやいているところへ、玄関で
「頼もう」
と声がする。

出てみると蘆白笠あじろがさを手にしたお坊さん。

越前永平寺の僧で沙弥托善しゃみたくぜんと名乗り、
「諸国行脚の途中立ち寄ったが、看板に『葷酒くんしゅ山門さんもんるを許さず』とあるので禅寺と見受けた、ぜひ、ご住職に一問答お願いしたい」
と言う。

なんだかわけがわからないが、権助が言うには、
「問答に負けると如意棒にょいぼうでぶったたかれた上、笠一本で寺から追い出される」
とのこと。

住職は留守だと追っ払おうとしたが、
「しからば、命の限りお待ち申す」
という。

大変な坊主に見込まれたものだと、八五郎が逃げ支度をしていると、やって来たのが六兵衛。

事情を聞くと、
「俺が退治してやろう」
と身代わりを買って出た。

「問答を仕掛けてきたら、黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないと言え。それで承知しやがらなかったら、せき払いを合図に飛びかかってぶち殺しちめえ」

翌日。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。

「法界に魚あり、尾もなく頭もなく、中の鰭骨きこつを保つ。大和尚、この義はいかに」

六兵衛もとより、なんにも言わない。

坊主、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧せっそうもと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。

十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。

三本の指にはアッカンべー。

托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げ出した。

八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と申すと『大海たいかいのごとし』というお答え。『十方世界じっぽうせかいは』と申せば『五戒ごかいで保つ』と仰せられ、『三尊さんそん弥陀みだは』との問いには『目の下にあり』。いや、恐れ入りました」

六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。ばかにしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、こォんなに大きいと言ってやった。十でいくらだと抜かすから、五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した沙弥托善  【RIZAP COOK】

この噺、千住焼き場の僧侶から落語家になったといわれる二代目林屋正藏(沢善正蔵、19世紀前半、三代目説も)が、嘉永年間(1848-54)に作ったものだそうです。

噺の中であやうく殺されかかる(?)旅の禅僧・托善(沙弥は出家し立ての少年僧のこと)は、正蔵の修行僧時代の名です。

原典については、このほかに、やはり禅僧出身の二代目三笑亭可楽(本名不詳、?-1847、中橋の→楽翁)とする説、もっとずっと古く、貞享年間(1684-88)刊の笑話本『当世はなしの本』中の「ばくちうち長老になる事」とする説もあります。

仏教と落語の深い関係  【RIZAP COOK】

「落語家の元祖」といわれる安楽庵策伝あんらくあんさくでん(平林平太夫、1554-1642)からして、浄土宗の高僧でしたし、「寿限無」「後生鰻」「宗論」など、仏教の教説に由来する噺は少なくありません。

仏教と落語の結びつきは、きわめて強いのです。

落語はもともと、浄土真宗の節談説教ふしだんせっきょう(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)から起こったといわれているのです。

関山和夫(1929-2013)の一連の著作が根拠となります。

前座、二つ目、真打ちなどという語も、節談説教の世界では当たり前のように使われていました。

明治後期、浅草の本願寺でたまたまその光景を覗いた四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)がびっくりしたという話は、それ以前のどこかの時点で仏教と落語のかかわりが途切れた証しでしょう。

とはいえ、落語協会会長だった(中澤信夫、1932-2017)が日蓮宗門の僧籍(中澤圓法)にあったのは、落語の伝統からして別に珍しいことではない、ということになります。

ビジュアルで楽しむ仕方噺  【RIZAP COOK】

「蒟蒻問答」では、後半の六兵衛と托善の禅問答は無言で、パントマイムのみになります。

このように、動作のみによって噺の筋を展開するものを「仕方噺しかたばなし」といいます。目で見る落語のことです。

いまなら、ビジュアル噺とでもいえば、伝わりがよいかもしれません。

愛宕山」「狸賽」「死神」「麻のれん」など、一部分に仕方噺を取り入れている噺は多いのです。

ただ、「蒟蒻問答」ほど長くて、しかもストーリーの重要部分をジェスチャーだけで進めるものは、ほかにありません。

苦肉の実況解説付き  【RIZAP COOK】

そのため、実際に寄席やテレビなど目の前で見ている客はいいのですが、レコードやラジオなどで耳だけで聞いていると、噺のもっともオイシイ部分で音声がとぎれてしまい、なにがなんだかわからなくなってしまいます。

そこで、この噺を得意にした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)がこの噺をラジオ放送したときは、苦肉の策で、なんと歌舞伎並みの同時解説がつきました。「山藤章二の志ん生ラクゴニメ」の音源も同じのを使っています。

このように手間がかかるためか、昔から「蒟蒻問答」のレコードや放送は数少なく、現在出ているCDは、志ん生、八代目正蔵のものくらいです。

ホントはくだらない禅問答  【RIZAP COOK】

噺では、六兵衛のジェスチャーを托善が勝手に誤解し、一人で恐れ入って退散してしまいますが、最初の「法界に魚あり……」は、魚という字から頭と尾(上下)を取れば、残るのは「田」。そこから、鰭骨きこつ(=中骨)、つまり|の部分を取り除けば、「日」の字になります。単なる言葉遊びです。これこそハッタリというものでしょう。

次の「十方世界じっぽうせかい」は、東、西、南、北、うしとら(北東)、たつみ(東南)、ひつじさる(南西)、いぬい(西北)の八方位に、上、下を加えた十の世界のことで、広大無辺の宇宙を表します。全世界をさします。

五戒ごかい」は禅の戒律(おきて)で、殺さない殺生戒せっしょうかい、盗まない偸盗戒ちゅうとうかい、エッチしない邪淫戒じゃいんかい、うそつかない妄語戒もうごかい、酒を飲まない飲酒戒いんしゅかい。その五つをさします。

葷酒山門に入るを  【RIZAP COOK】

葷酒くんしゅ山門さんもんるを許さず」は禅寺の表看板として紋切型ですね。

くん」とはネギやニンニなど臭気を放つ野菜のことです。以下は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の思い出話。

明治の昔、大阪の二代目桂文枝(渡辺儀助、1844-1916→桂文左衛門)が上京して、柳派の寄席に出演。ところがさらに、対立する三遊派の席にも出て稼ごうとすると止められました。楽屋内の張り紙に「文枝、三遊に入るを許さず」と。

ことばよみいみ
仕方噺しかたばなし動作の説明だけで筋を展開する噺
鰭骨きこつ魚のひれを支えている骨。中骨。「鰭」は「ひれ」
うしとら北東。音読みは「ごん」
たつみ東南。辰巳とも。音読みは「そん」
ひつじさる南西。音読みは「こん」
いぬい西北。音読みは「けん」
葷酒くんしゅネギやニンニなど臭気を放つ野菜(葷)と酒。禅寺では「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)とある。修行僧の心を乱すもととされるから




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

あさのれん【麻のれん】落語演目




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【どんな?】

落語の按摩さんは、負け惜しみの強い人ばかりです。

別題:按摩の蚊帳

【あらすじ】

按摩の杢市は、強情で自負心が強く、目の見える人なんかに負けないと、いつも胸を張っている。

今日も贔屓のだんなの肩を揉んで、車に突き当たるのは決まってまぬけな目の見える人だという話をしているうちに夜も遅くなった。

だんなが泊まっていけと言って、離れ座敷に床を取らせ、夏のことなので、蚊帳も丈夫な本麻のを用意してくれた。

女中が部屋まで連れていくというのを、勝手知っているから大丈夫だと断り、一人でたどり着いたはいいが、入り口に麻ののれんが掛かっているのを蚊帳と間違え、くぐったところでぺったり座ってしまう。

まだ外なので、布団はない。

いやに狭い部屋だと、ぶつくさ言っているうちに、蚊の大群がいいカモとばかり、大挙して来襲。

杢市、一晩中寝られずに応戦しているうち、力尽きて夜明けにはコブだらけ。

まるで、金平糖のようにされてしまった。

翌朝、だんながどうしたのと聞くので、事情を説明すると、だんなは、蚊帳をつけるのを忘れたのだと思って、杢市に謝まって女中をしかるが、杢市が蚊帳とのれんの間にいたことを聞いて苦笑い。

「いったい、おまえは強情だからいけない」
と注意して、
「今度は意地を張らずに案内させるように」
と、さとす。

しばらくたって、また同じように遅くなり、泊めてもらう段になった。

また懲りずに、杢市の意地っ張りが顔を出した。

だんなが止めるのも聞かず、またも一人で寝所へ。

今度は女中が気を利かせて麻のれんを外しておいたのを知らず、杢市は蚊帳を手で探り出すと
「これは麻のれん。してみると、次が蚊帳だな」

二度まくったから、また外へ出た。

底本:五代目古今亭志ん生

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

ジュアル噺の典型

原話は不明です。

この噺を得意にしていた晩年の三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)は、「按摩の蚊帳」と題した速記(1924年)を残しています。

もともとオチを含め、「こんにゃく問答」などと同じく、実際に寄席で「目で見る」噺なのです。ビジュアル噺です。

速記も少なく、音源もあまりありません。

昭和に入って、ラジオ放送やレコードが盛んになっても、このため、これらのメディアに取り上げられることも少なかったようです。

小さんにはオチのところに工夫があります。

杢市が最初、のれんにそっと触れ、次に両手を広げて大きな動作で触る、というものです。

これも、目で見ていないと、その芸の細かさはわからないでしょう。

志ん生の隠れた逸品

上述のように、先の大戦後のしばらくは五代目志ん生の独壇場でした。志ん生がいつ、誰からこの噺を教わったか、よくわかっていません。

やり方は、三代目小さんのものを踏襲しながらのスタイル。

「目をあいてりゃァなんか見りゃァほしくなってくるでしょ?……それェ見ただけで、エエほしいなッと思うことが、自分の思ったことが通らない。じゃァ情けないじゃァありませんか。それよか目が見 め)えなきゃなんにも見ないですからねェ、ええ。これいちばんいいですよォ。ああァ目あきは気の毒だ……」というようなセリフに、杢市の片意地、負けず嫌いと、その裏にある身障者の屈折した心理が、より色濃く出ているといえるでしょう。

志ん生没後は、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が時々演じたくらいでした。

オチも普通に寄席で演じるときはしぐさオチで、蚊帳の外に出たところを動作で表現しますが、レコードやラジオではそうはいかず、先の大戦後、この噺を一手専売にした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も、速記では「また向こうへ出ちゃった」と地の説明で終わっています。

現代は現代で、やる人はあまりいません。概して昨今は、盲人をことさらにする噺は控えめの風潮です。

その風潮にあらがうかのように、春風亭一之輔はあえて演じて、風通しのよい視覚的な「麻のれん」を気持ちよく仕上げています。みごとなものです。

三代目小さん以来、前半に杢市がだんなに語る、提灯を持っていて暗闇で人に突き当たられ、「おまえさんみたいな、そそっかしい目あきに突き当たられんのが嫌だから、こうやって提灯を持ってるんだァ」と毒づいたはいいが、実は提灯の灯はもともと消えていた、という体験談を入れるのがお決まりでした。

これまでは、いろいろな意味で誤解を生じやすく、やりにくくなっているのが現状のように思えました。

昨今は、日本社会も成熟してきたのか、このネタは、春風亭一之輔も踏襲しています。同様に、柳家喬太郎も「按摩の炬燵」で使っています。よいことだと思います。

蚊帳にもいろいろ

蚊帳は、古くは竿を通し、天井から吊り下げました。

部屋の大きさによって、五六(五六は縦横の割合。三畳用)や六七(四畳半用)などの種類がありました。これを「箱蚊帳」といいます。

子供用、または一人用のは簡易な「幌蚊帳」です。

材質は麻がいちばん。軽くて丈夫で風通しがよくて雷除けにもなりました。

麻と木綿との混織もありましたが、蚊帳はなんといっても麻にかぎりました。

この噺で杢市が寝かされるのは八畳間で、本式には八十のサイズになりますが、三代目小さんの速記では六八(正確には七八。六畳用)で代用しています。

これも蚊帳の一種です。↓

女性の按摩さん

按摩の按は「おさえる」、摩は「なでる」。古来東西問わず、手技の療法です。

心臓の位置から手足に向かって、遠心性にもみしだく施術をさします。筋肉内の血流を良くして新陳代謝をうながすと考えられるもの。

「按摩」はその行為をさしますが、その行為者をもさします。

行為者としての「按摩」は「按摩取り」ともいい、マッサージ師や鍼灸師の古称です。

江戸時代には、目の不自由な人がほとんどでした。

四代目鶴屋南北(勝次郎、1755-1829)の歌舞伎『東海道四谷怪談』の宅悦、河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93)の『加賀鳶』での熊鷹道玄とおさすりお兼のように、健常者もいました。

当然ながら、女性の按摩さんもけっこういました。

女性の按摩さんには、まれに、按摩以外にも売春をする人もいたようです。「枕つきのもみ療治、二朱より安い按摩はしないよ」と居直る、尾上多賀之丞のお兼のセリフは有名です。歌舞伎での話ですが。そんなのがどれほどいたのかはあやしいかぎりですが。

男性の按摩さんたちの間には、「当道座」という全国的な互助組合がありました。

女性の按摩さんには「瞽女座」というのがありました。「盲御前」がなまって「瞽女」となったということです。

瞽女座は全国組織ではなく、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)、越後(新潟県)あたりにとどまります。瞽女座の多くは、藩が抱えていました。

瞽女の主な仕事は、三味線を弾いて、歌って、流すこと。

とりわけ、長岡藩では藩主牧野氏と縁故があった山本ごいが瞽女頭となり、瞽女屋敷を拝領しました。その継承は徒弟制でした。代々の瞽女頭は「ごい」を名乗りました。

初代山本ごいは18世紀の人です。18世紀の江戸時代は社会全体に経済的余力がつき、いまでいう社会福祉にも気配りが行き届くようになってきたわけです。

何人かで連れ合って各地を巡遊し、昼は門付け、夜は瞽女宿で寄席を催して地域の人々をなごませます。

門付けとは、芸能の一種です。

古代の宮中では芸能で仕える来訪神まろうどとされていた祝言人ほがいびとが淵源です。時節に応じて、門ごとに神が訪れては祝福を意味することば、うた、おどりを垂れたという民俗信仰と深くかかわります。元来は、その神の姿をして来訪する神人の印象が濃厚な芸能でした。

在の人々は、瞽女たちの来訪を心待ちにしていたものです。

振りの按摩さん

流しのもみ療治を「振りの按摩」といいましたが、振りでも固定客がつけば、なかなか羽振りはよくなります。

「按摩上下十六文」と、芝居の中でよく朗誦して流していく按摩が登場しますが、実際は三十二文から四十八文が相場。

自宅で診療所のように「足力」を営む場合は、鍼灸付きで幕末には百文。

ステータスと技術は、「振り」とは段違いに本格でした。

「あんまはりの療治」というその看板の文句は「あやまった(しまった)」という意味の地口として、「あやまはりの……」と、よく使われました。

いちな

この噺に登場するのは「杢市」で、芝居や落語に登場する按摩さんはよく「徳の市」とか「恭城」とか、名前の後に「いち」が付いています。

これは、かつて琵琶法師にだけ与えられた「城」「都」「市」「一」「壱」(いずれも「いち」と読みます)の字を名前に添える「いちな」というものです。

検校、勾当、座頭、衆分の順で格付けされた当道座(按摩、琵琶法師など視覚障害者の同業組合)の世界で通用する認定証のような名称でした。

江戸時代になると、当道座とは関係のない人たちも「いちな」を付けるようになっていきました。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ちゃのゆ【茶の湯】落語演目

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【どんな?】

お金儲けは簡単に熟せても、文化は熟しがたいもんです。

あらすじ

家督を息子に譲った大店おおだなのご隠居、小僧を一人付けて、根岸の隠居所でのんびり暮らしているが、毎日することがなく、退屈でしかたがない。 若旦那わかだんなは少し茶の湯のたしなみがあるので、いくらかは気が紛れるだろうと気を利かせて、茶室を作ってくれたが、隠居の方はまるで風流気がなく、道具なども放ったまま。 しかし、さすがに退屈に耐えかねて、まあちょっとやってみようかと小僧と相談するが、何をそろえていいのだか、二人ともとんとわからない。 青い粉ならとにかくよかろうと、買ってきたのが青黄粉あおきなこ茶筅ちゃせんでガラガラかき回してみたものの、黄粉だから沸騰もしなければ泡も立たない。 これではしかたがないと、何か泡立つものをというので、小僧がむくの皮を買ってきた。 もともとシャボン代わりに使うものだから、これはブクブクと派手に泡ばかり。 とてものめる代物ではないが、そうしているうちに二人ともだんだんおもしろくなり、お客を呼びたくなった。 呼ばれる奴こそいい面の皮だが、みんなお店に義理があるから、渋々ながらゾロゾロやってくる。 のんでみると青黄粉に椋の皮のお茶。 一同、のどに通らず、脂汗あぶらあせをダラリダラリ。 「あのォ、口直しを」 「茶の湯に口直しはありません」 しかたなく、お茶受けの羊羹ようかんを毒消しにと、来る人来る人が羊羹ばかり食らうので、もともとケチで通った隠居のこと、こう菓子代ばかり高くついたのではたまらないと、茶菓子も自前で作ることにした。 といって、作り方など知るわけがなく、サツマ芋をして、砂糖は高いから蜜で練って、とやっているうちに、粘って型から抜けなくなる。 「ええいッ、ままよ」と灯油を塗ってスポッと抜いたからさあ、ものすごいものができあがった。 これを「利休饅頭りきゅうまんじゅう」と勝手に名づけ、羊羹の代わりにふるまったから、もう救いがない。 こんなヘドロのようなものを食わされた上、青黄粉と椋の皮では、命がいくつあっても足りないと、とうとうだれも寄りつかなくなった。 ある日、そんなこととは知らない金兵衛さんが訪ねてきたので、しばらく茶の湯をやれなかった隠居は大はりきり。 出されたものが、例の利休饅頭。 さあ、てえへんなものォ食わしゃあがったと、思わず吐き出して、残りはこっそり袂へ。 せめてお茶で口をゆすごうと、のんだが運の尽きで青黄粉と椋の皮。 慌てて便所に逃げ込み、捨てる場所はないかと見渡すと、窓の外には建仁寺垣けんにんじがきの向こうの田んぼ。 田舎道ならかまわないだろうと、垣根越しにエイッとほうると百姓の顔にベチャッ。 「あ、痛ァ、また茶の湯か」

しりたい

不運な人々

殺人的ティーパーティーに招かれる面々は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)の演出では、手習いの師匠、豆腐屋、鳶頭とびのかしらの3人でした。 この隠居が、長屋の居付き地主、つまり地主と大家を兼ねているため、行かないと店立たなだてを食らって追い出されるので、しぶしぶながら出かけます。 「寝床」と同じ悲喜劇です。泣く子と隠居には勝てません。 青黄粉は、ウグイス餅などにまぶす青みの粉、椋の皮は石鹸の代用品で、煮ると泡立ちます。 さぞ、ものすごい代物だったでしょう。

円生、三代目金馬の十八番

この犠牲者3人がそろって茶の作法を知らないので、恥をかくのがいやさに夜逃げしようとしたりするドタバタは、円生ならではのおかしさでした。 茶をのむ場面は、仕草で表現する仕方噺しかたばなしのように三者三様を演じ分けます。 茶道の心得のある人間が見るとなおおかしいでしょうと、円生は述べていますが、演ずる側も素養は必要でしょう。 若い頃、年下の円生に移してもらった三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の当たり芸でもありました。 十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)のも、抱腹絶倒でした。ザンネン。

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あんまのこたつ【按摩の炬燵】落語演目

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【どんな?】

生き炬燵とは驚き。
按摩さんが炬燵代わりに。
実に奇妙な炬燵のおはなしです。

【あらすじ】

冬の寒い晩、出入りの按摩に腰を揉ませている、ある大店の番頭。

「年を取ると寒さが身にこたえる」
とこぼすので、按摩が
「近ごろは電気炬燵という、けっこうな物が出てきたのに、おたくではお使いではないんですかい」
と聞くと
「若い者はとかく火の用心が悪いから、店を預かる者として、万一を考えて使わない」
という。

番頭は下戸なので、酒で体を暖めることもできない。

按摩は同情して
「昔から生き炬燵といって、金持ちのご隠居が、十代の女の子を二人寝かしておいて、その間に入って寝たという話があるが、自分は酒は底なしの方で、酔っていい心持ちになると、からだが火のようにほてって、十分その生炬燵になるから、ひとつ私で温まってください」
と申し出た。

「いくらなんでも、それは」
と遠慮しても
「ぜひに」
と言うので、番頭も好意に甘えることにし、按摩にしこたま飲ませて、背中に足を乗せて行火代わり。

おかげで、番頭は気持ちよさそうに寝入ってしまう。

ところが、ようすを聞いた店の若い連中が、我も我もと押し寄せたから、さあ大変。

ぎゅうぎゅう詰めで、我先にむしゃぶりついたから、そのうるさいこと。

歯ぎしりする奴やら寝言を言う奴やらで、さすがの「生き炬燵」もすっかり閉口。

そのうち、十一になる丁稚の定吉が、活版屋の小僧とけんかしている夢でも見たか、大声で寝言を言ったので
「ああ、かわいいもんだ」
と、思わず
「しっかりやれ」
とハッパをかけたのが間違いのもと。

定吉、夢の中で
「なにを言ってやがる。まごまごしやがると小便をひっかけるぞ」
と叫ぶが早いか、本当にやってしまった。

おかげで「炬燵」の周りは大洪水。

番頭も目を覚まし、布団を替えたり寝巻きを着替えたりで大騒ぎ。

「せっかく温まったところを、定吉のためにまた冷えてしまった。気の毒だが、もういっぺん炬燵になっとくれ」
「もういけません。今の小便で火が消えました」

底本:三代目柳家小さん

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

この噺の原話とは?

原話は古く、寛文12年(1672)刊の笑話本『つれづれ御伽草』中の「船中の火焼」です。

大坂の豪商、鴻池が仕立てた、江戸へ伊丹の酒を運ぶ、二百石積の大型廻船の船中でのできごととなっています。

乗船している鴻池の手代が、冬の海上であまり寒いので、大酒のみの水夫を頼んでぐでんぐでんに酔わせ、、その男に抱きついて寝ることになります。

その後、元禄11年(1698)刊の『露新軽口ばなし』中の「上戸の火焼」、明和5年(1768)刊の『軽口春の山』中の「旅の火焼」、安永8年(1779)刊の『鯛味噌津』中の「乞食」と、改作されながら現行の落語に近づきました。

「乞食」では、なんと犬を炬燵代わりにします。

このやり方は落語には伝わらず、やはり酔っ払いの「人間ストーブ」に落ち着きました。

上方から伝えたのは誰?

上方噺であるこの噺、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が東京に移植したものです。

今回のあらすじは、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の円熟期、大正11年(1922)の速記をもとにしました。

大阪では、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の十八番の一つで、音源も残されています。先の大戦後、東京では、三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、三升亭小つね→代地の、せっかちの)から移された八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が得意にしていました。

八代目文楽演出は三代目小さんのものと少し変わっていて、番頭の方から按摩に頼む形を取っていました。

現在、柳家喬太郎のそれはみごとなものです。文楽流をもとに独自のアレンジで噺に深みを増しています。

噺の骨格は、①おたなの小僧たちが番頭に布団の増しを申し出て却下される、②それでも番頭が通いの按摩米市を炬燵にしようと掛けあう、③米市が酒五合をはぜの佃煮を肴にじっくり飲み干す、④炬燵になった米市が小僧に寝小便をかけられる、4つの場面に分かれています。

喬太郎のは、小僧の悲哀、按摩の心根、番頭と按摩が幼なじみだったことなどがていねいに語られて、人情噺じみたものに仕上がっています。おたなの一夜の奇妙な噺です。

ほかに、六代目笑福亭生喬、立川談春春風亭一之輔などもやります。

炬燵とは?

この噺の速記(1922年)に登場した「電気炬燵」はどんなものか。

ヒントとなるのは、大正8年(1919)12月14日付の読売新聞です。

生活改善展覧会という催しを報じる記事に、「電気炬燵」が登場しています。

「婦人用椅子は箱の装置になってゐて、内方に電熱應用の電氣炬燵が設けられ何様暖かさうな腰掛でした」とありますから、現在の仕様とは少々異なります。行火のようなものに見えます。

残念ながら、普及はしませんでした。

一般的な炬燵は、昭和の初期に至るまで、やぐらの底に板を張って、移動可能の土製の火いれを置いたもの。行火と同じく炭火を用いたものでした。

電気炬燵が普及する前は、掘り炬燵が一般的でした。

そもそも掘り炬燵なるものは、バーナード・リーチ(陶芸家、デザイナー、1887-1979)が発案したのだったとか。民藝の推進者だった柳宗悦(美術評論、1889-1961)のよき協力者です。掘り炬燵を日本と西洋の融合のようにみえてしまうのは、リーチ・ワールドのゆえんだったのですね。

毎年旧暦10月の初の亥の日を玄猪げんちょと呼び、「お厳重」とも表記します。この日から火の用心を厳重にするということです。

各戸ではこの日を「炬燵開き」とし、火鉢も出しました。

これを「の祝い」といい、客に亥の子餅(ぼた餅)を配る習慣がありました。

節約を旨とする商家では、炬燵開きを遅らせて、かなの亥の日(二度目の亥の日)としていました。

やぐら式の電気炬燵が発売されたのは、先の大戦後です。昭和32年(1957)に東芝が「電気やぐらこたつ」を発売。これが大ヒットしました。これが今日も普及している炬燵の形ですね。

ことばよみいみ
按摩あんま患部をなでたりさすったりする手技を施すことで症状を改善する療法、またはそれをする人
大店おおだな規模の大きい商店
電気炬燵でんきごたつ電熱を利用した炬燵。大正期に登場
生き炬燵いきごたつ人の体温を使って炬燵=暖房器具の代用をする
行火あんか内蔵の火入れに炭火やたどんを入れて、上に布を掛け、手足を入れて温める一人用暖房器具。寝床に入れて使う
玄猪げんちょ旧暦10月の初の亥の日。火の用心の始まる日。炬燵開き

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なきしお【泣き塩】落語演目

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【どんな?】

無筆とは、字が読めないこと。
志ん生の「手遅れであるぞ」が妙におかしくて。
主題を「リテラシー」にすれば、ビビッドになるかも。

別題:当てずっぽう 塩屋 焼き塩(上方)

あらすじ

若侍が、往来でいきなり若い娘に声をかけられる。

娘は田舎から出てきて、女中奉公をしているお花。

故郷の母親が病気で心配しているところへ、田舎から赤紙付きの手紙がきたが、自分は字が読めないので、どうか変わりに読んでほしいという、頼み。

侍、さっと手紙に目を通すと
「あー、残念だ。手遅れであるぞ。くやしい。無念じゃ。あきらめろ」

いきなり泣き出したから、お花は仰天。

母親が死んだと思い込み、これもわっと泣き出した。

これを見ていた二人の町人、
「あの二人は一つ屋敷に奉公する小姓と奥女中で人目を忍ぶ仲だが、不義はお家のご法度、ついにバレてお手討ちになるところを奥さまのお情けで永の暇になったんで、女の方が男の胤を宿しちまって、あなたに捨てられては生きていけませんからってんで泣くと、男も、そんならいっしょに死のう、てんで泣いているんだ」
と、勝手なことを言い合う。

そこへ通りかかったのが、天秤を担いだ焼き塩売りの爺さん。

二人を見ると
「もしもし、若い身空でどうなすったんです。あなたもまだお若いお武家さま。あたくしにもあなたと同じくらいのせがれがおりますが、道楽者で行方知れず。親の身で片時も忘れたことはありません。無分別なことをしないで、手前の家にいらっしゃい。決して悪いことは申しません」
と説教しながら、これも泣き出した。

「あそこはきっと泣きどころかもしれねえ」
と、二人が首をかしげていると、お花のおじさんがやってきた。

事情を聞いて手紙を読んでみると、お花の母親は全快し、許婚の茂助が年期明けで、のれん分けしてもらって商売するので、お花を田舎に呼んで祝言するという、めでたい知らせ。

お花は喜んで行ってしまう。

まだ侍が
「残念だ、手遅れだ」
と泣いているので、伯父さんがわけを尋ねると
「それがしは生まれついての学問嫌い。武芸はなに一つ習わぬものはないが、字が読めない。あのお女中に手紙を突きつけられ、武士たる者が、読めぬとは申されぬ。それで身の腑甲斐なさを泣いていたのじゃ」

そばで塩屋の爺さんもまだ泣いている。

「私はね、なにかあると、すぐ涙が出るたちでして」
「へえ、そうかい」
「へい、あたしの商売がそうなんです」

天秤棒を肩に当てると
「泣き塩ォーッ」

底本:初代三遊亭円右

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しりたい

円馬、円右から志ん生へ  【RIZAP COOK】

原話は安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔隨訳』中の小咄です。

上方で「焼き塩」の題で演じられていたものを、明治末、三代目桂文団治(1856-1924)の演出をもとに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が東京に移植。円馬よりはるかに先輩の初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が「当てずっぽう」の題でよく演じ、同人の死の前年、大正12年(1923)の速記も残っています。

昭和初期には七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)が「塩屋」の演題で速記を残しましたが、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の独壇場でした。

塩屋  【RIZAP COOK】

江戸時代、塩売りはおもに老人のなりわいでした。

この噺に登場する通り、塩を載せた浅いざるを二つ、天秤で担って売り歩きます。

天秤ほか、商売道具はすべて借り物なので、元手はかかりません。

焼き塩は、ニガリを多く含む赤穂塩などでは雨の日などにべとべとになるため軽くあぶってさらさらにしたもの。別名を撓め塩ともいい、天文年間(1532-55)に、堺の塩商人、壷塩屋藤太夫が初めて製造販売したとされます。

現在も、スーパーなどで普通に売っています。

壷塩屋藤太夫  【RIZAP COOK】

現在、台所用の塩壷は施釉製共蓋の粗陶。茶道の茶碗や水指しなどに「塩笥」と称するものがあります。

元は朝鮮半島の塩入れであるそうですが、共蓋のものは見当たらないようです。

江戸時代に堺あたりから壷に入った焼き塩である「壷塩」をつくり全国に売り出しました。壷の形は同じようなものですが、おおざっぱには筒形をして蓋が付いています。

高さは8~10cm、口径は約7.5cm。赤粘土の素焼き煉瓦のような赤褐色。

手づくりか型づぐりです。時代によっては蓋や胴の側部にその時期の印が捺されてあります。

堺の船待神社には女院御所より賜った奉書と、奉行の石河土佐守から伊織家への書状を保管しています。

船待神社には元文三年(1738)に壷塩屋が寄進した竹公像の画幅があるそうです。

裏面に願文があって、元祖藤太夫慶本、二世慶円、三世宗慶、四世宗仁、五世宗仙、六世円了、七世了讃、八世休心、九世藤左衛門の署名と印が残っています。

天文年間(1532-55年)、藤太夫という人が京都の幡枝土器の方法で壷をつくり、塩を大れて堺湊村から売り出し、代々「藤左衛門」と称し「伊織」の呼名を用いました。

八代休心の時にはすでに大坂に出店を設け、のちに大坂に移って代々「浪華伊織」と称して、今も焼き塩の製造販売を営業しています。

『堺鑑』に初代を藤太郎としているのは「藤太夫」の誤りだそうです。

「泉州麻生」「泉州麿生」の印のあるものは伊織家の壷塩を模倣したものであるそうです。

後継者のない噺  【RIZAP COOK】

志ん生は、この地味な噺をかなり淡々とオーソドックスに演じていました。

円右の速記では、女は京屋のお蝶という上方女、場所が石町新道となっているほか、最後に登場して手紙を読む人物は、円右では町役の甚兵衛ですが、志ん生ではその時により無名の人物になったりしました。

受けない、笑いの少ない噺なので、志ん生以後、これといった後継者は出ません。

上方では、三代目桂米朝(中川清、1925.11.6-2015.3.19)が手掛けていました。

「手紙無筆」はこの噺の別題ではなく、本来まったくの別話です。

ことばよみいみ
永の暇 ながのいとま辞める
胤を宿す たねをやどす妊娠する
撓め塩 いためじおいたんだ塩。「撓」はたわめる意

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はないかだ【花筏】落語演目

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【どんな?】

体調不良の花筏の影武者に提灯屋が駆り出され、上総の興行へ。
網元のせがれが力士連を投げ倒して負けなし、千秋楽はついに花筏と。
土俵で。提灯屋が恐怖で目をつぶり両手を突いたら、せがれが先に尻餠。
客「花筏の張り手は大したもんだ」。張り手がいいのは提灯屋だから。

別題:提灯屋相撲(上方)

【あらすじ】

提灯屋の七兵衛の家を、知り合いの相撲の親方が訪ねてきた。

聞けば、患っている部屋の看板力士・大関花筏が、明日をも知れない容体だという。

実は親方、銚子で相撲の興行を請け負ったが、向こうは花筏一人が目当てで、顔を見せるだけでも連れていかないわけにいかず、かといって延期もできないしと、頭を抱えていた時思い出したのが提灯屋で、太っていてかっぷくがよく、顔は花筏に瓜二つ。

この際、こいつを替え玉にと、頼みにやって来た次第。

相撲は取らなくてもいいし、手間賃は一日二分出すという。

提灯張りの手間賃の倍だから、七兵衛もその気になった。

その上、のみ放題食い放題、どっかとあぐらをかき、相撲を見ていればいいというのだからおいしい話。

早速、承知して、銚子へ乗り込むことになった。

相撲の盛んな土地で、飛び入りで土地の者も大勢とっかかる中、際立って強いのが、千鳥ヶ浜大五郎と名乗る網元のせがれ。

プロを相手に六日間負けなしで、いよいよ明日が千秋楽。

こうなると勧進元が、どうしても大関花筏と取らせろと、きかない。

病人だと断っても「宿で聞いてみたら、酒は一日二升、大飯は食らうし、色艶はいい、あんな病人はない」と言われれば、親方も返す言葉がなく、しぶしぶ承知してしまった。

驚いたのは提灯屋。

あんなものすごいのとやったら、投げ殺される。

約束が違うから帰ると怒るのを、親方がなだめすかす。

当人もよくないもので、大酒大飯だけならまだしも、宿の女中に夜這いに行ったのを見られては、どうにもならない。

「立ち会いに前へ手をパッと出し、相手の体に触れたと思ったら後ろへひっくり返れ。そうすれば、客も病気のせいだと納得して大関の名に傷もつかず、五体満足で江戸へ帰れる」と親方に言い含められ、七兵衛も泣く泣く承知。

一方、千鳥ヶ浜のおやじは、せがれが明日大関と取り組むと知って、愕然。

向こうは今までわざと負けて花を持たせてくれたのがわからないかと、息子をしかる。

明日は千秋楽だから、あとは野となれで、腕の一本どころか投げ殺されかねない。

どうしても取るなら勘当だと、言い渡す。

翌朝、千鳥ヶ浜は辞退しようとしたがもう遅く、名前を呼び上げられ、いつの間にか土俵に押し上げられてしまった。

提灯屋、相手を見ると怖いから、目をつぶって仕切っていたが、これでは呼吸が合わず、行司がいつまでたっても「まだまだッ」

しびれを切らして目を開けると、千鳥ヶ浜の両目がギラリと光ったから、驚いた。

これは間違いなく命はないと悲しくなり、思わず涙がポロポロ。

脇の下から、冷や汗がたらたらと流れる。

土俵に吸い込まれるように錯覚して、思わず「南無阿弥陀仏」

これを見て驚いたのが千鳥ヶ浜で、土俵で念仏とは、さてはオレを投げ殺す気だと、こちらも涙がポロリ、

冷や汗タラリで「南無阿弥陀仏」。

両方で泣きながらナムアミダブツ、ナムアミダブツとやっているから、まるでお通夜。

行司、しかたなくいい加減に「ハッケヨイ」と立ち上がらせると、提灯屋は目をつぶって両手を突き出し、「わァッ」と後ろへひっくり返ったが、片方は恐怖のあまり立ち遅れて、目と鼻の間に提灯屋の指が入り、先に尻餠。

客が「どうだい。さすがは花筏。あの人の張り手は大したもんだ」

張り(=貼り)手がいいわけで、提灯屋だから。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

上方落語を東京に移植

もともと講釈(講談)ダネで、古くからある上方落語「提灯屋相撲」を、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移植したものです。

東京では、昭和20-30年代に八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が得意としたほか、現在でも結構高座にかかっています。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)は「花筏」で演じ、場所を播州高砂(兵庫県高砂市)のできごとととしていますが、大阪では古くは、江州長浜(滋賀県長浜市)に設定することが多かったようです。

上方版では、花筏は大阪相撲の大関という設定です。

昭和2年(1927)1月、大日本大角力(相撲)協会が発足するまで、東京のほか大阪、京都にも協会があり、独自に興行して、横綱免許もそれぞれ勝手に出していました。

強さは大阪は東京の敵でなく、京都はさらに落ちました。

大阪横綱で、レベルは東京の小結・関脇クラスだったようです。

提灯屋

江戸時代は、傘屋を兼業している場合がほとんどでした。

番傘と提灯は、製造技術、材料などに共通点が多かったためでしょう。

提灯づくりは、菊座という型に丸く輪にした竹ひごをはめ、その上から和紙を貼っていきます。

提灯の起源は室町時代といわれますが、江戸時代に入ると、ほおずき提灯、馬上提灯、弓張り提灯、ぶら提灯など、用途に応じてさまざまな種類が考案されました。

なお、提灯屋が登場する落語としては、新装開店した提灯屋に、皆であの手この手でタダで紋を描かせるという、そのものずばり「提灯屋」があります。

実在した花筏

江戸のころ、本当に「花筏」という関取が実在したかどうかはかなり怪しいものです。

明治以後、記録に残っているかぎりでは、一人だけ「花筏」を名乗った力士がいます。

昭和41年(1966)春場所に、一場所かぎり西十両十七枚目に顔を出した「花筏健」がその人。

この四股名は、幕下時分に落語好きだった彼が寄席で聞いたこの「花筏」にあやかって、三度目の改名をしたものです。

落語家に知友が多く、贔屓もされたようですが、不幸にしてケガのため、花を咲かせぬまま廃業しました。

「総理大臣になりたきゃ、落語をお聞きなさい」とは、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)の決まり文句でしたが、その伝にならえば、相撲界で「横綱になりたきゃ、落語をお聞きなさい」といきそうだったエピソードですが。惜しい。

晩春の風物、花筏

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

うなぎのたいこ【鰻の幇間】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

売れない野幇間の一八。
だんなに取り付いて鰻をせしめようと作戦に。
これぞ代表作。文楽と志ん生、どちらも秀逸。

別題:鰻屋の幇間 釣り落とし

あらすじ

真夏の盛り。

炎天下の街を、陽炎のようにゆらゆらとさまよいながら、なんとかいい客を取り込もうとする野幇間の一八にとって、夏はつらい季節。

なにしろ、金のありそうなだんなはみな、避暑だ湯治だと、東京を後にしてしまっているのだから。

今日も一日歩いて、一人も客が捕まらない。このままだと幇間の日干しが出来上がるから、こうなったら手当たり次第と覚悟を決め、向こうをヒョイと見ると、どこかで見かけたようなだんな。

浴衣がけで手拭を下げて……。

はて、どこで会ったか。

この際、そんなことは気にしていられないので、
「いよっ、だんな。その節はご酒をいただいて、とんだ失礼を」
「いつ、てめえと酒をのんだ」
「のみましたヨ。ほら、向島で」
「なに言ってやがる。てめえと会ったのは清元の師匠の弔いで、麻布の寺じゃねえか」

話がかみ合わない。

だんなが、
「俺はこの通り湯へ行くところだが、せっかく会ったんだから鰻でも食っていこうじゃねえか」
と言ってくれたので、一八はもう夢見心地。

で、そこの鰻屋。

だんなが、
「家は汚いよ」
と釘をさした通り、とても繁盛しているとは見えない風情。

「まあ、この際はゼイタクは禁物、とにかくありがたい獲物がかかった」
と一八、腕によりをかけてヨイショし始める。

「いいご酒ですな。……こりゃけっこうな香の物で……。そのうちお宅にお伺いを……お宅はどちらで?」
「先のとこじゃねえか」
「あ、ああ、そう先のとこ。ずーっと行って入り口が」
「入り口のねえ家があるもんか」

そのうちに、蒲焼きが来る。

大将、ちょっとはばかりへ行ってくると、席を立って、なかなか戻らない。

一八、取らぬ狸で、
「ご祝儀は十円ももらえるかもしらん、お宅に出入りできたら、奥方からもなにか……」
と、楽しい空想を巡らすが、あまりだんなが遅いので、心配になって便所をのぞくと、モヌケのから。

「えらいっ! 粋なもんだ、勘定済ましてスーッと帰っちまうとは」

ところが、仲居が
「勘定お願いします」
とくる。

「お連れさんが、先に帰るが、二階で羽織着た人がだんなだから、あの人にもらってくれと」
「じょ、冗談じゃねえ。どうもセンから目つきがおかしいと思った。家ィ聞くとセンのとこ、センのとこってやがって……なんて野郎だ」

その上、勘定書が九円八十銭。「だんな」が六人前土産を持ってったそうだ。

一八、泣きの涙で、女中に八つ当たりしながら、なけなしの十円札とオサラバし、帰ろうとするとゲタがない。

「あ、あれもお連れさんが履いてらっしゃいました」

底本:八代目桂文楽

しりたい

文楽十八番  【RIZAP COOK】

明治中期の実話がもとといわれますが、詳細は不明です。

「あたしのは一つ残らず十八番です!」と豪語したという八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の、その十八番のうちでも自他共に認める金箔付きがこの噺、縮めて「ウナタイ」。

文楽以前には、遠く明治末から大正中期にかけ、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が得意にしていました。

文楽は小せんのものを参考に、40年以上も、セリフの一語一語にいたるまで磨きあげ、野幇間の哀愁を笑いのうちにつむぎ出す名編に仕立てました。

幇間  【RIZAP COOK】

幇間は、宝暦年間(1751-64)から使われ出した名称です。

幇間の「幇」は「助ける」という意味で、遊里やお座敷で客の遊びを取り持ち、楽しませ、助ける稼業ですね。

ほかに「タイコモチ」「太夫」「男芸者」「末社」「太鼓衆」「ヨイショ」などと呼ばれました。

太夫は、浄瑠璃の河東節や一中節の太夫が幇間に転身したことから付いた異称です。

「ヨイショ」という呼び方も一般的で、これは幇間が客を取り持つとき、決まって「ヨイショ」と意味不明の奇声を発することから。

「おべんちゃらを並べる」意味として、今も生き残っている言葉です。

もっともよく使われる「タイコモチ」の語源は諸説あってはっきりしません。

太閤秀吉を取り巻いた幇間がいたから、「タイコウモチ」→「タイコモチ」となったというダジャレ説もありますが、これはあまり当てになりませんな。

「おタイコをたたく」というのも前項「ヨイショ」と同じ意味です。

おだん  【RIZAP COOK】

だんな、つまり金ヅルになるパトロンを「おだん」、客を取り巻いてご祝儀にありつく営業を「釣り」、客を「魚」というのが、幇間仲間の隠語です。

「おだん」は落語家も昔から使います。

この噺の一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけですが、一八の設定は野幇間で、今風でいえばフリー。

「のだいこ」と読みます。そう、「坊ちゃん」に登場のあの「野だいこ」ですね。

正式の幇間は各遊郭に登録済みで、師匠のもとで年季奉公五年、お礼奉公一年でやっと座敷に顔を出せたくらいで座敷芸も取り持ちの技術も、野幇間とは雲泥の差でした。

噺家と天狗(素人噺家)との差くらいでしょうか。

志ん生流と文楽流  【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の「鰻の幇間」は、文楽演出を尊重し踏襲しながらも、志ん生独特のさばき方で、すっきりと噺のテンポを早くした、これも逸品でした。

文楽の、なにかせっぱつまったような悲壮感に比べ、志ん生の一八はどこかニヒルが感じられます。

ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼ぶりをよく出しています。

オチは文楽が「お供さんが履いていきました」で止めるのに対し、志ん生はさらに「それじゃ、オレの履いてきたのを出してくれ」「あれも風呂敷に包んで持っていきました」と、ダメを押しています。

両者を聴き比べてみるのは、落語の楽しみのひとつですね。

さらに。三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)の至芸も聴きたくなります。軸足はどっちにあったのでしょう。

ことばよみいみ
野幇間のだいこ自称たいこもち
一八いっぱち落語での幇間の典型名



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

きゅうしゅうふきもどし【九州吹き戻し】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

あまりかかることのない、珍しい噺です。
粗っぽくて、いやはや、どうも。

【あらすじ】

放蕩の挙げ句、お決まりで勘当された、元若だんなのきたり喜之助。

それならいっそ、遊びのしみ込んだ体を生かそうと幇間になったが、金を湯水のごとく使った癖が抜けず、増えるのは不義理と借金ばかり。

これでは江戸にいられないと、夜逃げ同然に流れ流れてとうとう肥後の熊本城下へ。

一目で一文なしとわかるみずぼらしい風体になったので、どの宿屋も呼び込んでくれない。

ふと眼についたのが、江戸屋という旅籠の看板。

江戸という名の懐かしさに、
「えい、なんとかなるだろう」
とずうずうしく上がり込み、明日は明日の風が吹くとばかり、その夜は酒をのんでぐっすり寝入ってしまった。

翌朝、
「おや、喜之さんじゃなか」
と誰かが声を掛けるので、ひょいと見ると昔なじみで、湯屋同朋町にいた大和屋のだんな。

このだんなも商売をしくじり、江戸を売ってはるばるこの地へ流れ着き、今ではこの旅籠の主人。

喜之助、地獄に仏とばかり、だんなに頼んで板場を手伝わせてもらい、時には幇間の「本業」を生かして座敷にも出るといったわけで、客の取り持ちはさすがにうまいので、にわかに羽振りがよくなった。

こうして足掛け四年辛抱して、貯まった金が九十六両。

ある日、だんなが、
「おまえさんの辛抱もようやく身を結んできたんだから、あと百両も貯めたらおかみさんをもらい、江戸屋ののれんを分けて末永く兄弟分になろう」
と言ってくれたが、喜之助はここに骨を埋める気はさらさらない。

日ごと夜ごと、江戸恋しさはつのるばかり。

そこでだんなに、
「一人のおふくろが心配で」
と切り出すと、
「おまえさんのおっかさんはもう亡くなっているはずだが」
と、苦笑しながらも、
「まあ、そんなに帰りたければ」
と、親切にも贔屓のだんな衆に奉賀帳を回して二十両余を足し前にし、餞別代わりに渡してくれた。

出発の前夜、夢にまで見た江戸の地が踏めると、もういても立ってもいられない喜之助、夜が明けないうちに江戸屋を飛び出し、浜辺をさまよっていると、折よく千五百石積の江戸行きの元船(荷船)の水手に出会った。

便船(荷船に客を乗せること)は天下のご法度だが、病気のおふくろに会いに行くならいいだろうと、特別に乗せてもらうことになった。

海上に出てしばらくは申し分ないよい天気で、船は追い風をはらんで矢のように進んだが、玄界灘にさしかかるころ、西の空から赤い縞のような雲が出たと思うと、雷鳴とともにたちまち大嵐となった。

帆柱は折れ、荷打ちといって米俵以外の荷は全て海に投げ込み、一同、水天宮さまに祈ったが、嵐は二日二晩荒れ狂う。

三日目の夜明けに打ち上げられたのが、薩摩の桜島。

江戸までは四百里、熊本からは二百八里。

帰りを急ぎ過ぎたため、百二十里も吹き戻されたという話。

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【しりたい】

円朝もサジ投げた噺

原話や成立過程などはいっさい不明です。

初代古今亭志ん生(清吉、1809-1856、八丁荒らしの)が得意にしていました。

おそらく、天保年間(1830-44)のことでしょう。

その志ん生も、初代鈴々舎馬風(津国屋長兵衛、1802-68、→初代五明楼玉輔)から金千疋(約二両二分)で譲ってもらったというので、起源はかなり古いと思われます。

初代志ん生は、江戸後期の人情噺の名手で、若い頃の三遊亭円朝の芸風を買っていて、なにかとかわいがっていたといわれています。

そのようなからみからか、円朝は若き日に初代志ん生の「九州吹きもどし」を聴き、とても自分はできないと断念します。後年、門下にも口演を禁じたほどでした。

談志や雲助が復活

円朝の没後、その「禁」を破って、孫弟子の三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が大正期に高座にかけ、十八番としました。

円馬と同時期では、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)も演じていました。

先の大戦後には、四代目円馬(森田彦太郎、1899-1984)が師匠譲りで持ちネタにしました。

その後はまったく絶えていたのを、立川談志(松岡克由、1935-2011)が復活しました。

筋としてはかなり荒っぽい噺ですが、後半はスケールが大きなスペクタクルで、芸格の大きな人が演じると、引き立つ噺でしょう。

近年では、五街道雲助の持ちネタです。

きたり喜之助

主人公の名ですが、これは江戸の言葉遊びで、「来たり」(よしきた!)の頭韻を合わせただけの洒落を、そのまま人名にしたものです。

「きたり喜の字屋」も同じです。

                       
山東京伝作(1761-1816)の黄表紙(絵入り読み物)「江戸生艶気樺焼」にも使われ、表記では「北里喜之助」とあります。 

奉賀帳

ほうがちょう。もともとは、社寺に寄進する金額を記した帳面で、のちには寄付を募った時、その金額と氏名を記録する台帳の意味で使われました。

「奉加帳を回す」といえば、仲間がピンチのとき、有志が友人一同に、義援金を集めて回ること。

つまりは、カンパのことですね。

元船

もとぶね。親船ともいい、荷船の中でも特に大船を指します。

ここでは薩摩藩の船という設定です。

実際、薩摩のものが最も大きく、二千八百石積みと記録にあります。

だいたい、400トン積み程度でしょう。

幕府は三千石以上の船の建造を許しませんでした。軍艦改造と海外渡航を防ぐためです。

ことばよみいみ
幇間たいこもち
旅籠はたご
贔屓ひいき
餞別せんべつ
水手かこ船乗り
江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき山東京伝作の洒落本



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

よどごろう【淀五郎】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

実話が基に。
「四段目」「中村仲蔵」と並ぶ忠臣蔵の芝居噺。

別題:中村秀鶴

【あらすじ】

ある年の暮れ。

「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。

由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、代役を立てなければならない。

団蔵、鶴の一声で「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」

その沢村淀五郎は芝居茶屋の息子で、相中といわれる下回り役者。

判官の大役をさせられる身分ではない。そこで急遽、当人を名題に抜擢する。

淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。

いよいよ初日。

三段目のけんか場までなんとか無事に済み、見せ場の四段目・判官切腹の場になった。

淀五郎扮する判官が浅黄の裃、白の死装束で切腹の場へ。

本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、それを合図に花道からバタバタと、団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、舞台中央に来て
「御前」
「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵は
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。

幕が閉まってから、おそるおそる団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」

帰宅して工夫したが、翌日も同じ。

こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」

物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。

どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、その足で仲蔵を訪ねる。

仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。

悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。

「おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、五万三千石の大名の無念さが伝わらない。判官が刀を腹に当てるとき、膝頭から手を下ろすと品がない」
などと、心、型の両面から親切に助言し、励まして帰す。

翌日。

三段目が済むと団蔵が驚いた。

「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。おらァ、本当に斬られるかと思った」

こうなると四段目が楽しみになる。出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」

ツツツと近寄って
「御前」

淀五郎、花道を見るといないから、今日は出てもこないかと、がっかり。

それでも声がしたようだが、と見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」

【しりたい】

円生、正蔵、志ん生と百花繚乱  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。

明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は変わっていません。

オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが、芸道ものの大ネタです。

戦後では八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。

円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、微に入り細をうがって詳しいのが特色です。

正蔵の速記では省かれていますが、円生にならって判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと注意を入れる演者が多くなっています。

オチの後、正蔵は「こりゃ本当に待ちかねました」とダメを押しましたが、円生はムダとして省いています。

志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、詳細すぎる説明をカットし、人情噺のエキスを保ちながら、軽快なテンポで十八番の一つとしました。

その下の世代でも、円楽、志ん朝などが掛けていました。

今でも、小朝らベテランから中堅、若手に至るまで多くの演者に高座に掛けられています。

八代目正蔵のやり方は、門下の八光亭春輔がもっとも忠実に継承しています。

イジワル団蔵は何代目か  【RIZAP COOK】

「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵でこの異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)です。

芸がいぶし銀のように渋かったことからで、六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが、これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。

噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は四代目が正しいことになるのですが。

実録・淀五郎  【RIZAP COOK】

実在の沢村淀五郎は、初代から三代目まで数えられます。

三代目は、前記四代目団蔵が没した1か月後に襲名しているので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。

忠臣蔵評判記『古今いろは談林』の「安永8年(=1779年)森田座」の項に「塩冶判官 沢村淀五郎 大星由良之助 市川団蔵」という記録があります。

三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという記録はなく、これはフィクションでしょう。

仲蔵は東西に二人  【RIZAP COOK】

同題の芸道噺に主役で登場します。詳しくは「中村仲蔵」をお読みください。

初代仲蔵の生涯について興味のある方には、松井今朝子の小説『仲蔵狂乱』(講談社文庫)にビビッドに描かれていてます。

同時代に同名の中村仲蔵がもう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗っていました。

この人は屋号「姫路屋」で通称「白万」。実事を得意とし、寛政9年(1797)に没しています。

以来、江戸東京と上方にそれぞれ四代目までの仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは明治14年(1881)でした。

一般に、江戸の初代、三代、大坂の初代、四代が名高いと語り草です。

現在、仲蔵の名跡は空き名跡です。勘五郎から平成元年(1989)4月に襲名した五代目が、平成4年(1992)12月に没して以来、名乗りはいません。

「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」「中村仲蔵」をお読みください。

江戸三座  【RIZAP COOK】

市村座、中村座、森田座の江戸三座は天保の改革で、天保13年(1842)、猿若町(台東区浅草六丁目)に強制移転。

天保の改革の一環ででした。町名もその時に付けられました。

ことばよみいみ
相中あいちゅう

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たがや【たがや】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

川開き。
魔封じの花火。
ごったがえす両国橋で職人と武士のいさかいが。
江戸前、夏の噺です。

あらすじ

安永年間(1772-81)、五月二十八日は両国の川開き。

両国橋の上は見物人でごったがえす。

花火をめでると「玉屋」の声しきり。

本所方向(東側)から旗本の一行。

前には二人の供侍、中間は槍を持っている。

「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。

反対側の広小路方向(西側)から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。

「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。もっと早く気がつきゃァよかったなあ。といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。しかたがねえ。通してもらおう。すみません」

もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。

恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り、
「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」

たがやはあやまるが、侍は容赦しない。

開き直ったたがや、
「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」

必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。

最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。

突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。

まわりにいた見物人が
「上がった上がったィ。たァがやァい」

底本:三代目桂三木助

【RIZAP COOK】

しりたい

夏休み限定落語  【RIZAP COOK】

生粋の江戸前落語。詳しい起源や原話は不明です。

両国の川開きで、花火が年中行事化したのは享保2年(1717)ですから、少なくともそれ以後の作でしょう。

かつては三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)などが威勢のよさを競いました。

現在でも、花火をあてこんで、夏になると高座にかかる納涼ばなしです。

底本に使ったのは、三木助の速記です。

時代を、江戸中期の安永年間(1772-81)、十代将軍家治の治世としています。

元はたがやの首が飛び  【RIZAP COOK】

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は、逆にたがやの首を飛ばすオチでした。

これがオリジナルのやり方。

そうでなければ、「上がった上がった、たァがやァい」という最後の掛け声の意味がなくなります。

この改変に関する解説は、どれも判で押したように、以下の通り。

侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、首ならぬ職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった彼らが寄席に大勢来るようになったので、職人仲間のたがやをヒーローにしてハッピーエンドに変え、ニワカ客のごきげんをうかがったため。

本当でしょうか。

いくら幕府の権勢が地に落ちたとはいえ、あの恐怖政治の井伊大老が、こんな武士への冒涜を許しておくとも考えにくいもの。

案外、季節違いとはいえ、その井伊直弼の首が飛んだこと(1860年3月3日)がきっかけなのではないか、と勘ぐってしまうのですが。

たがや  【RIZAP COOK】

大道で桶を修理したり、たが(箍)を交換したりする職人です。

たがとは、桶や樽などの周りを巻いて、外れないように締める竹の輪。極限までばか力でギリギリと締めてある上、竹ですから一度外れた場合の反発力はすさまじいものでしょう。

というわけで、この噺の笠を跳ね飛ばす場面はたいへんにリアルで、無理がありません。

木樽に巻かれた箍

玉屋  【RIZAP COOK】

両国にあった花火屋です。

日本橋横山町の老舗、鍵屋の番頭がのれん分けした店でした。

以来、業界の勢力を主家筋の鍵屋と二分し、川開きでも「鍵屋」「玉屋」と平等に声が掛かるまでになりました。

天保14年(1843)、自火を出したとしてお上のおとがめを受け、玉屋は廃業処分とあいなりました。

鍵屋の陰謀のにおいが、プンプンしますがね。

ところが、それ以来判官びいきの江戸っ子の同情を一身に集め、店はなくなったのに、掛け声だけは「玉屋」「玉屋」の一点張り。

「鍵屋」のカの字もなくなったのは、皮肉です。

本当かどうか、これもあやしい話が。

柱暦  【RIZAP COOK】

はしらごよみ。

たがやのタンカの中に登場しますが、縦長の暦で、柱に張っておくものです。

暦のたぐいは、表向き町人や百姓は所持を禁じられていましたが、ないと生活に不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。

千段巻き  【RIZAP COOK】

槍の柄を籐で巻いて、漆を塗った部分です。

手は見せんぞ  【RIZAP COOK】

侍の言う「手は見せんぞ」というのは、時代劇では昔から常套句です。

刀を抜く手さばきも見えないほど、素早く斬ってしまう、という脅しです。

両国橋  【RIZAP COOK】

両国橋は万治2年(1659)に架けられました。

その2年前の明暦の大火からの教訓によるものです。

全長94間(171m)。これは長い。

この橋が架かったことから、川向こうの開発が進み、江戸が巨大化していくきっかけとなりました。

両国橋は何度も架け替えられました。

洪水によるものです。

橋のちょっと上流に隅田川が大きく曲がっているため、洪水のとばっちりを受けやすかったのです。

上流から流れてくる壊れた橋の流木が両国橋にぶつかって、しまいには両国橋そのものが倒壊してしまうのです。

その対策として、ちょっと上流に芥留杭が流れに並んで打たれていました。

これが「死神」の舞台となる千本杭です。

流木の流れを修正する意図でしたが、大きな洪水では効果ありません。

重り石と呼ばれる10貫目(37.5kg)以上の石を東西の橋詰に1000個も置いて、とにかく橋が流されるのを食い止めようとしました。

武蔵国と下総国とを結ぶので「両国」と呼ばれたというのは知られていますが、川の西側は町奉行が支配(管理)で、東側は本所奉行の支配でした。

正徳3年(1713)に、本所深川は町奉行支配に変更されました。

享保4年(1719)になると、武家地は普請奉行に、道路、橋、水路関係は勘定奉行に支配が移り、本所奉行は廃止となりました。

一般行政や町民に請け負わせていた作業の支配は、町奉行の中にに「本所見廻」という役職が設けられました。

こうして、18世紀前半には川向こうの深川あたりも都市化していっていたのですね。

両国、両国といっても、両国橋西詰の西両国と東詰の東両国ではだいぶ雰囲気が違っていました。

ともに、橋詰には広小路(道幅の広い街路)がありましたが、西両国のほうは芝居小屋、茶店、料理屋、揚弓場などが並ぶただの繁華街でした。

東両国のほうは、回向院があって、死者の霊を弔う雰囲気でした。

回向院は諸宗山無縁寺といわれる寺院で、明暦の大火、浅間山噴火(死者が上流から多数流れてきた)、安政の大地震など災害死の無縁仏を供養してきました。

街の発祥がこんなところからでしたが、鎮魂や悪疫除けから隅田川の花火が享保18年(1733)から始まったり、大相撲の勧進興行が寛政3年(1791)から始まったりして、次第ににぎやかな街に発展していきました。

大相撲の勧進興行の始まりは、回向院が浅間山噴火の死者を川から引き揚げて荼毘に付すまでの費用捻出が本音でした。

さらには、両国橋東詰の近くには「大山詣り」の水垢離場がありました。

西両国はたんなる江戸一の繁華街でしたが、東両国はつねに死者とのかかわりから発展していったのです。

両国橋

西両国の繁栄  【RIZAP COOK】

両国橋西詰、つまり、西両国は江戸で一番の繁華街でした。

ここの広小路では、幕府は橋番や水防を請け負う町人に区画を決めて土地を貸し出していました。

町人たちは床見世、水茶屋、芝居小屋、髪結床などを商いさせて地代店賃を取っていました。

この収入を水防請け負いなど費用に充当していました。

床見世の内訳は、古着、煙管、絵草紙、鼈甲細工、扇など。

三人兄弟芝居(のちの明治座)、春五郎芝居、勘九郎芝居、おででこ芝居、らん杭芝居などの小屋が軒を並べていました。

ここで使われる菰や筵は灘や伊丹から届いた下り酒の樽を覆っていたものです。

芝居小屋と筵や菰のイメージは西両国でのイメージだったのですね。

川開き  【RIZAP COOK】

毎年、5月28日(川開き)から8月28日(川仕舞い)までの3か月間は、船宿、茶屋、うろうろ船(移動販売船)などの商売が許可されていました。

花火はその間、毎晩打ち上げられました。

両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が受け持っていました。

天保14年以降は鍵屋の独占ですね。花火には悪疫除けと鎮魂と、江戸っ子の切なる思いがこめられていました。

川開き

ことばよみいみ
三一さんぴん下級侍
生粋きっすいまじりけがない
とうつる性の茎が伸びる植物。ラタン
https://www.youtube.com/watch?v=YQCJZ-FTTA8

【RIZAP COOK】

 

 

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ぎぼし【擬宝珠】落語演目 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

金ッ気をなめたくてしょうがない人がいました。

別題:金の味

あらすじ

日本橋あたりのご大家の若だんなが、三年越しの大病。 跡取り息子なので両親も頭が痛い。 診てもらっても、医者は 「なにか心に思い詰めたことがかなえられれば治る」 と言うばかり。 そこでだんな、たまたまご機嫌伺いにまかり出た幇間の桜川長光に、 「礼ははずむから、せがれが思い悩んでいることを聞き出してほしい」 と頼んだ。 こいつはうまいと、さっそく若だんなにヨイショして聞き出そうとすると 「おまえ、あたしの願いをもし当てて見せたら、土地八百坪やるよ」 「へえ、鳥も通わぬ山奥で、三日目に虎に食われて死んじまうような所じゃあないでげしょうね」 「ばかァ言え、ちゃんとした神田の土地だよ」 「それじゃ、招魂社(靖国神社)の鳥居を盗んでみたいとか」 「違うっ」 若だんなはおもむろに 「あたしの考えは深いことだから、おまえにはわかるまい、一緒においで」 と連れ出されのが、浅草寺の境内。 「おまえ、この二百円をやるから、頼みたいことがある。もし聞いて笑ったら、おまえと刺し違えて相果てるよ」 「物騒だね、こりゃ。なんです?」 「五重塔のてっぺんの、擬宝珠の青いところをなめてみたい」 思わず吹き出しかけた長光、若だんながピストルを出しかけたのであわてて、住職にこれこれと願い出ると、 「ウーン、唐土もろこし莫耶ばくやという人が鉄の気を好んで、名剣を鍛えたという例もあるから、まんざらない話でもなかろう」 ということで許しが出た。 さっそく、鳶頭が出張して足場を組むという騒ぎで、境内は黒山の人だかり。 若だんな、勇んでてっぺんに登ると、ベロベロベロベロとうまそうになめるわ、なめるわ。 そこへ心配して駆けつけた両親、 「せがれは?」 「なめてらっしゃいます」 「こいつは驚いた。実はオレもばあさんも、擬宝珠が大好物なんだ。やっぱり血は争えねえなあ、ばあさん」 「あたしは、ニコライ堂のが一番おいしかったよ」 「神田橋のも京橋のもいけたなあ。めいめい味が変わっていて、いいや」 大変な一家があるものと、一同あきれていると、さすがに堪能したのか、若だんなが元気いっぱいになって下りてくる。 「おい、うまかったか」 「タクアンの味がしました」 「塩っ気が強かったか。タクアンの塩ならどのくらいだ。四升か五升か」 「いえ、六升(=緑青)の味がしました」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

しりたい

鋭い嗅覚  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、元禄16年(1703)刊『軽口御前男』(初代米沢彦八、大坂)の巻一「鼻自慢」という笑話です。くしくも、この年は赤穂浪士切腹の年です。 初代米沢彦八(?-1714)は初めて大坂生玉神社境内に葦簾ばりの小屋掛けで一席うかがった伝説の人で、上方落語の祖ともいえる存在です。 この「鼻自慢」は、題名からも推測されるように、なめるのではなく金物の匂いを嗅ぐのが好きな男の話です。 男が四天王寺の塔の九輪を投石で打ち落とし、匂いをかいで、「三具足(仏前に置く花瓶、燭台、香炉)と同じ匂いだ」という、ごく当たり前なオチ。 今なら文化財保護法違反で、即御用です。

観音さま塩気足りず  【RIZAP COOK】

その後、明和5年(1768)刊『軽口春の山』中の「ねぶり好き」では、現行にだいぶ近づき、東寺の塔の九輪をなめたあと、「三条大橋の擬宝珠と同じ味だ」というご託宣。 さらに、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「金物」になると、舞台は江戸になります。 現行通り、浅草五重塔の擬宝珠を味わって、「思ったほどうまくない。橋の擬宝珠から塩気を抜いたようなもんだな」という、ソムリエ顔負けの厳しい判定。 これが、オチを除けば、東京版の直接の原型でしょう。 上方落語の演出では、古くから東寺の塔をなめるのが普通です。

金属嗜好症  【RIZAP COOK】

実態は不明です。 類話に、お嬢さんが癪の薬にとヤカンをなめたがる「梅見の薬缶」があります。 銅(もしくは鉄、錫)に一種の麻薬的効果があるのかどうか、疑問です。 鉄なら、あるいはミネラル不足のため、体が無意識に要求するのかもしれませんが、銅に空気中の水分と二酸化炭素が付着して生じる「緑青」は明らかに猛毒のはずです。 毒と知って「逆療法」として用いたか、または、醤油の飲み比べなども行われた幕末デカダンの名残なのでしょうか。

擬宝珠  【RIZAP COOK】

ぎぼうしゅ。ぎぼうし。 もともとはネギの花の別名であるため、これに似た形の、欄干の柱に付ける飾りをいいました。 日本橋には全部で10本の男柱や中柱があり、それぞれに銅製の擬宝珠が付けられていました。 このうち4本は万治元年(1658)に日本橋が再建された際に取り付けられたことがわかっています。 明暦の大火(1657年)で日本橋のかなりの部分が焼失していたのですね。 擬宝珠のある橋は大橋で、日本橋など市街の中心部にしかないため、明治大正までは、東京の繁華街の寄席に出演できる一流の芸人を「擬宝珠の芸人」と称しました。

干将と莫耶  【RIZAP COOK】

古代中国、春秋時代(BC771-BC403)のこと。 呉の刀鍛冶干将かんしょうとその妻莫耶ばくやが、呉王(一説に楚王)の妃が鉄の精を宿して産んだ鉄塊を、協力して名剣に鍛えたという故事から「干将莫耶の剣」という成語があります。 略して「干莫(干鏌)」とも。 元ネタは『呉越春秋』(趙曄、後漢初期=1世紀)や『捜神記』(干宝、東晋=4世紀)に出てくる故事(物語)です。 不思議なことに、干将莫邪はいわくつきの名剣でしかなく、この言葉に潜む教訓とかたとえはありません。 仇討ちの熱い思いだけが「干将莫邪」かもしれません。 ここでは、『捜神記』巻十一「三王墓」をもとにあらすじを記しましょう。 王の求めに応じて、干将と莫邪は苦労の末に雌雄二振りの剣をつくりました。雄剣を干将、雌剣を莫邪と名づけます。剣名と人名が同じ名なのでややこしいのですが。干将は雄剣を隠し、雄剣だけを王に献上します。雄剣がないことで怒った王は干将を殺します。残った莫邪は男児を産みます。眉間尺と名づけます。眉間尺は父の仇を討つことに精を込めて成長します。眉間尺は仇討ちの夢を見続けます。王も夢でこれに気づきます。ここが古代の不思議なところです。眉間尺には懸賞金が出てお尋ね者に。眉間尺は山に逃げ、泣きます。通りかかった旅人。泣くわけと尋ねます。眉間尺が打ち明けます。旅人は「それには剣とあんたの首が必要だ。ならば王に会える。私が仇を討とう」と。眉間尺は自らの首をはねました。首のない死体は、旅人が「約束は必ず守るぞ」と言うと倒れました。首を携えた旅人は王に謁見できました。首実見した王は大喜び。旅人は「これは勇者の首だから湯で煮とろかさなければなりません」と。王は従いました。三日煮ても首は溶けません。にらみつけさえしています。旅人は「王が鍋を覗けば溶けます」と。王が覗いたその刹那、旅人は剣で王の首をはね、自らの首もはねました。二首は湯の中に落ち、眉間尺の首と合わせて三首が煮とろけて見分けがつかなくなりました。いっそ、まるごと埋葬されることに。この墓は「三王墓」といわれ、いまでも汝南県にあります。 どろどろの話です。 この故事は干将、莫邪、眉間尺の登場で日本人に好まれ、日本では『今昔物語』や『太平記』などに伝わっています。 歌舞伎の時代狂言にはたびたび登場しています。話に尾ひれが付き、なかなか一本化できません。剣、首、仇討ち。これだけが共通しています。 歌舞伎では、たとえば「実盛物語」で。 平清盛の魔手から源氏の源義賢の室・葵御前と遺児を守るため、実盛が、葵御前が人の腕を産んだと強弁。 その先例として、長々とこの莫耶の剣の講釈をし、鉄の塊を出産したためしがあるのだから腕が産まれるのも不思議ではないとマカフシギな論証(?)で、敵方をケムに巻きます。 魯迅(周樹人、1881-1936)は、『故事新編』に「鋳剣」(前題「眉間尺」)という作品でこの故事を脚色して収録しています。 「眉間尺」(演目)や「干将莫邪」(故事成語)もご参照ください。

喬太郎の芸  【RIZAP COOK】

この噺、明治期は初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)、大正期に入って初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が得意としました。 今回のあらすじでは、明治25年(1892)の初代円遊の速記を参考にしました。 円遊はテリガラフ(テレグラフ=電信)、ステンショ(駅)、鹿鳴館など、文明開化の風俗をふんだんに取り入れています。 先の大戦後は、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)が演じました。 あまりやり手がありませんでしたが、2005年7月の「落語研究会」で柳家喬太郎師が好演。 主人公を思いっ切りヘンタイ的にやりました。この噺は、喬太郎師の口舌によって新境地が開かれました。喬太郎師にとっても画期的かつ革命的な高座だったのでしょう。 今では、「擬宝珠」といえば、喬太郎師を連想してしまいます。
ことばよみいみ
幇間たいこもち/ほうかん宴席をとりもつ遊芸の人
招魂社しょうこんしゃのちの靖国神社
擬宝珠ぎぼうしゅ/ぎぼし橋の欄干に置かれたおしるし
唐土もろこし西の大陸。外国
莫耶ばくや名剣。干将莫邪を見よ
しゃく胃痙攣

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

にばんせんじ【二番煎じ】落語演目

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【どんな?】

自身番での飲酒はご法度。
登場人物の巧みな演じ分けが醍醐味です。

あらすじ】 

火事は江戸の華で、特に真冬は大火事が耐えないので、町内で自身番を置き、商家のだんな衆が交代で火の番として、夜回りすることになった。

寒いので手を抜きたくても、定町廻り同心の目が光っているので、しかたがない。

そこで月番のだんなの発案で、二組に分かれ、交代で、一組は夜回り、一組は番小屋で酒をのんで待機していることに決めた。

最初の組が見回りに出ると、凍るような寒さ。

みな手を出したくない。

宗助は提灯を股ぐらにはさんで歩くし、拍子木のだんなは両手を袂へ入れたまま打つので、全く音がしない。

鳴子なるこ係のだんなは前掛けに紐をぶら下げて、歩くたびに膝で蹴る横着ぶりだし、金棒かなぼう持ちの辰つぁんに至っては、握ると冷たいから、紐を持ってずるずる引きずっている。

誰かが
「火の用心」
と大声で呼ばわらなくてはならないが、拍子木のだんなにやらせると低音で
「ひィのよォじん」
と、謡の調子になってしまうし、鳴子のだんなだと
「チチチンツン、ひのよおおじいん、よっ」
と新内。

辰つぁんは辰つぁんで、若いころ勘当されて吉原の火廻りをしたことを思い出し、
「ひのよおおじん、さっしゃりましょおお」
と廓の金棒引き。

一苦労して戻ってくると、やっと火にありつける。

一人が月番に、酒を持ってきたからみなさんで、と申し出た。

「ああたッ、ここをどこだと思ってるんです。自身番ですよ。役人に知れたら大変です」
とはいうものの、それはタテマエ。

酒だから悪いので、煎じ薬のつもりならかまわないだろうと、土瓶の茶を捨てて「薬」を入れ、酒盛りが始まる。

そうなると肴が欲しいが、おあつらえ向きにもう一人が、猪の肉を持ってきたという。

それも、土鍋を背中に背負ってくるソツのなさ。

一同、先程の寒さなどどこへやら、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

辰つぁんの都々逸がとっ拍子もない蛮声で、たちまち同心の耳に届く。

「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ」

慌てて土瓶と鍋を隠したが、全員酔いも醒めてビクビク。

「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」

「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」

役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」

しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。ところで、さっき鍋のようなものを」
「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」

もう一杯もう一杯と、酒も肉もきれいに片づけられてしまう。

「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」

しりたい】 

火の番  【RIZAP COOK】

自身番については「粗忽長屋」で触れましたが、町内の防火のため、表通りに面した町家では、必ず輪番で人を出し、火の番、つまり冬の夜の夜回りをすることになっていました。

といっても、それはタテマエで、たいてい「番太郎」と呼ぶ番人をやとって、火の番を代行させることが黙認されていたのです。

ところが、この噺はそろそろ物情騒然としてきた幕末の設定ということで、お奉行所のお達しでやむなく旦那衆がうちそろって出勤し、慣れぬ厳冬の夜回りで悲喜こもごもの騒動を引き起こします。

与力、同心

二番煎じ  【RIZAP COOK】

漢方薬を一度煎じた後、さらに水を加え、薄めて煮出したものです。金気をきらい、土瓶などを用いました。

吉原の火回り  【RIZAP COOK】

歌舞伎「助六所縁江戸桜」で、序幕に二人の廓の若い衆が、鉄棒を突き、棒先の鉄輪を鳴らしながら登場するシーンを、芝居好きの方ならご記憶と思います。

あれが「金棒ひき」で、火回りの際はもちろん、おいらん道中など、重要なイベントの前にも、先触れとして出ます。

「火の用心、さっしゃりましょう」という掛け声は、吉原に限られていました。

長屋のこうるさいかみさん連中が「金棒引き」と呼ばれるのは、火の番が鉄輪をガチャガチャ鳴らして歩くように、町内のうわさをあることないことかまびすしく触れて回ることからきています。

今では、ちょっとしたことをおおげさにふれまわること、あるいはその人をさして「金棒引き」と言っていますね。

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こわかれ【子別れ】落語演目

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【どんな?】

大工の熊は吉原の女にほうけて、女房子供を追い出す。
長屋に入った女は飯も炊かなければ仕事もせず。出ていった。
数年後。熊は左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。
息子と再会し鰻食いを約束。それが機縁で元の鞘に。子は鎹の一席。

別題:女の子別れ 強飯こわめしの女郎買い(上) 子はかすがい(中と下で)

【あらすじ】

腕はいいが、大酒飲みで遊び人、大工の熊五郎。

ある日、山谷の隠居の弔いですっかりいい心持ちになり、このまま吉原へ繰り込んで精進落としだと怪気炎。

来合わせた大家が、そんな金があるなら女房子供に着物の一つも買ってやれと意見するのもどこ吹く風。

途中で会った紙屑屋の長さんが、三銭しか持っていないと渋るのを、今日はオレがおごるからと無理やり誘い、葬式で出された強飯の煮しめがフンドシに染み込んだと大騒ぎの挙げ句に三日も居続け。

四日目の朝。

神田堅大工町の長屋にご機嫌で帰ってくると、かみさんが黙って働いている。

さすがに決まりが悪く、あれこれ言い訳をしているうちに、かみさんが黙って聞いているものだからだんだん図に乗って、こともあろうに女郎の惚気話まで始める始末。

これでかみさんも堪忍袋の緒が切れ、夫婦げんかの末、もう愛想もこそも尽き果てたと、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。

うるさいのがいなくなって清々したとばかり、なじみのおいらんが年季が明けると家に引っ張り込むが、やはり野に置け蓮華草、前のかみさんとは大違いで、飯も炊かなければ仕事もせず。

挙げ句に、こんな貧乏臭いところはイヤだと、さっさと出ていってしまった。

一方、夫婦別れしたかみさん。

女の身とて決まった仕事もなく、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てている。

ある日、亀坊がいじめられて泣いていると、後ろから声を掛けた男がいる。

振り返ると、なんと父親。

身なりもすっかり立派になって、新しい半纏を着込んでいる。仕事の帰りらしい。

あれから一人になった熊五郎、つくづく以前の自分が情けなくなり、心機一転、好きな酒もすっかり絶って仕事に励み出したので、もともと腕はいい男、得意先も増え、すっかり左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。

偶然に親子涙の再会とあいなり、熊はせがれに五十銭の小遣いをやってようすを聞くと、女房はまだ自分のことを思い切っていないらしいとわかる。

内心喜ぶが、まだ面目なくて会えない。

その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊に約束し、その日は別れる。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、おやじに、おれに会ったことはまだおっかさんに言うなと口止めされているので、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかすが、もの堅い母親は聞き入れない。

貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない、人さまのお金をとるなんて、なんてさもしい料簡を起こしてくれたと泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまう。

聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれないが、やはり、まだよりを戻すのははばかられる。

その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやるが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。

こうして、子供のおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まるという、「子は鎹(かすがい)」の一席。

【しりたい】

長い噺   【RIZAP COOK】

初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)の作。長い噺なので、上中下に分けられています。

普通は、中と下は通して演じられ、別題を「子はかすがい」といいます。

かすがいは大工が使う、大きな木材をつなぐためのカギ型の金具です。

打ち込むのにゲンノウを用いるので、母親が「ゲンノウでぶつよ」と脅かす場面が、幕切れの「子はかすがい」という地のサゲとぴたりと付きます。

「かすがいを打つ」   【RIZAP COOK】

という慣用句もあり、人の縁をつなぎ止める意味です。

上は五代目古今亭志ん生が、「強飯こわめしの女郎買い」として独立させ、紙屑屋を吉原に誘う場面の掛け合いで客席を沸かせました。

むろん、後半の「子別れ」は別にみっちりと演じています。

志ん生は母親の表現に優れ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、上の通夜の場面から綿密に演じました。

戦後では、やはりこの二人が双璧だったでしょう。

熊&紙長さんの「掛け合い漫才」   【RIZAP COOK】

熊「いくらあんだい? 一両もあんのかい一両も?」
長「一円? 一円なんぞあるもんか」
熊「八十銭かァ?」
長「八十銭ありゃしないよ」
熊「六十銭か」
長「六十銭…までありゃいいんだがね」
熊「五十銭だな」
長「五十銭にちょいと足りねえんだ」
熊「じゃ四十銭だ」
長「もうすこしってとこだ」
熊「三十五銭か」
長「もう、ちょいとだ」
熊「三十銭か」(このあたりで客席にジワ)
長「もうすこしだ」
熊「二十五銭だな」
長「うう、もうちょいと」
熊「二十銭かァ」
長「うう、くやしいとこだ」(爆笑)
熊「十五銭かァ?」
長「もうすこし」
熊「十銭か」
長「うう、もうちょいと」(高っ調子で)
熊「五銭だな?」
長「もうすこしィ」
熊「三銭か」
長「あ当たった」
熊「あこら三銭だよ」

最後の「三銭だよ」に絶妙の間で客の大爆笑がかぶさります。志ん生のライブならではの醍醐味。

活字では、とうてい表現しきれません。

ゲンノウでぶつ   【RIZAP COOK】

母親が五十銭の出所を白状させようと、子供を脅す場面があります。

ゲンノウ(玄翁)は言うまでもなく、大工が使う大型の鉄の槌です。

六代目三遊亭円生は、カナヅチ(金槌)でやりました。

芸談によると、古今亭志ん生に注意され、なるほど、女が持つにはゲンノウは重くて大きすぎると気がついたそうです。

当の志ん生はというと、当然ながら「ここにお父っつァんの置いてったカナヅチがあるから、このカナヅチで頭ァ、たたき割るぞッ」と言っています。

もっとも、単なる脅かしですし、大きいから子供が怖がると考えれば、ゲンノウでもいいと思います。

昔の落語家は、噺の中のちょっとした小道具にも常にリアリティーを考え、気を使っていたことがわかるような逸話ですが、当の志ん生だって、火焔太鼓を手に持ってお屋敷に乗り込むわけですから、どこかでのリアリティーなのか、あやしいもんです。

「女の子別れ」   【RIZAP COOK】

明治初期に三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)は、柳枝の原作を脚色し、あべこべに、出て行くほうがかみさん(母親)で、亭主(父親)が子供と暮らすという「女の子別れ」として演じました。

やはりゲンノウの場面を気にして、ゲンノウで脅すなら父親の方が自然だろう、というのが直接の動機だったようです。

なによりも、「男の子は父親につく」という夫婦別れのときの慣習や、亭主の方が家を出るのは(当時としては)不自然というのが、円朝の頭にあったのでしょう。

この「女の子別れ」は、円朝の高弟、二代目三遊亭円馬(竹沢釜太郎、1854-1918)が大阪に伝えています。

明治33年(1900年)、円馬は大阪にいたのを、円朝危篤の報でいったん帰京しました。

8月11日、円朝が亡くなります。

すぐに大阪に戻るよう、藤浦三周(円朝のパトロン)に命じられ、ついでに京都の天竜寺に立ち寄り、9月の葬儀に読経してくれるよう、交渉したそうです。

そんなこんなで東西を往還していた結果でしょうか、明治期の大阪では、三代目月亭文都(梅川五兵衛、幕末-1918、立ち切れの)が「女の子別れ」を得意にしていました。

今は、東西ともこのやり方で演ずることはありません。

東京嫌いの宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、「子供をカセにお涙ちょうだいのあの手この手を使った、ウエットなヒネクレ落語で、ドライな笑いを好む大阪の水には合いにくい」と述べています。

下足番に習った「子別れ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が生前、対談でこんな回想をしています。

志ん生がまだ二つ目で、旅興行でさすらい歩いていたとき。

流れ着いた甲府の稲積亭といううらぶれた席で、「子別れ」を一席やったところ、そこの下足番の爺さんに、「あすこんとこはまずい」と注意されたので、なに言ってやがる、と思ったそうです。

よく聞いてみると、この爺さん、昔は四代目三升亭小勝(石井清兵衛、1856-1906、狸の)の弟子で「小常」といったれっきとした噺家。

旅興行のドサまわりをしているうちにここに落ち着き、とうとう下足番になり、年を取ってしまったとのこと。

昔はこういうケースはよくあったようです。

志ん生は夏の暑いさ中、爺さんのボロ小屋で虫に食われながら「子別れ」をさらってもらったそうです。

なんだか哀れな、ものさびしい話です。

でも、志ん生の自伝『びんぼう自慢』では、小常から習ったのは「甚五郎の大黒」(→三井の大黒)ということになっていています。

こうなると、どちらが本当なのか、もはやわかりません。

ちなみに、小勝は四代目までは「三升家」ではなく「三升亭」でした。

「三升亭小常」だったという元噺家。

四代目小勝の弟子には「小つね」というのがいました。のちの三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、代地の、せっかちの)です。大看板でした。

「小常」と「小つね」。この話そのもの、どうもあやしいにおいがしますが、心に残る悪くない逸話ではありますね。

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たのきゅう【田能久】落語演目

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【どんな?】

田能久と言えば若大将。
噺の舞台は徳島県。
浅草でも赤坂でもないんですね。

別題:棚牡丹 田之紀

あらすじ

阿波あわ(徳島県)の在(奥まったところ)、田能村たのうつむらの農民、久兵衛。

芝居が好きで上手なので、村芝居の人気者。

とうとう趣味が高じて「田能久一座」を結成、本業そっちのけであちこちを興行して歩いている。

あるとき、伊予いよ(愛媛県)の宇和島から依頼が来たので出かけ、これが大好評。

ところが、ちょうど五日目に、おふくろが急病との知らせが届き、親孝行なたちなので、急いで、愛用のかつらだけを風呂敷に包み、帰り道を急いだ。

途中、法華津峠ほけつとうげを越え、鳥坂峠とさかとうげに差しかかると、一天にわかにかき曇り、雨がポツリポツリ。

山から下りてきた木こりに、この峠は化け物が出るという噂だから、夜越よごしはやめろと忠告されたが、母親の病状が気にかかり、それを聞き流して山越えにかかる。

山中でとっぷり日が暮れ、途方にくれていると、木こり小屋があったので、これ幸いと、そこで夜明かしをすることに決めた。

昼間の疲れでぐっすり寝込んだ田能久、山風の冷気で夜中にふと目を覚ますと、白髪で白髭の老人が枕元に立っている。

気味が悪いので狸寝入りを決めると、老人
「おい、目を開いたままイビキをかくやつがあるか」

実は、この老人は大蛇の化身。

人間の味もすっかり忘れていたから、素直にオレの腹の中へ入れと舌なめずり。

田能久、震えあがり、実は母親が病気でこれこれと泣き落としで命乞いするが、もちろん聞かばこそ。

田能久、そこでとっさの機転で、
「狸で人間に化けているだけだ」
と、うそをついた。

大蛇は
「ふーん。これが本当の狸寝入りか。阿波の徳島は狸の本場と聞いたが、呑むものがなくなって狸を呑んだとあっちゃ、ウワバミ仲間に顔向けできねえ」
と、しばし考え、
「本当に狸なら化けてみせろ」
と言う。

これには困ったが、ふと風呂敷の中のかつらを思い出し、それを被って女や坊主、果ては石川五右衛門にまでなって見せたので、大蛇は感心して、オレの寝ぐらはすぐそばなので、帰りにぜひ尋ねてきてくれと、すっかり信用してしまった。

近づきになるには、なんでも打ち明けなければと、互いの怖いものの噺になる。

大蛇の大の苦手は煙草のヤニ。体につくと、骨まで腐ってしまうという。

田能久は
「金が仇の世の中だから、金がいちばん怖い」
と口から出まかせ。

夜が明けて、オレに会ったことは決して喋るなと口止めされ、ようよう解放された。

麓に下り、これこれこういうわけと話をすると、これはいいことを聞いたと、さっそく木こりたちが峠に上がり、大蛇にヤニをぶっかけると、大蛇は悲鳴をあげて退散した。

帰ると、母親の病気はすっかり治っていたので、安心して一杯やって寝ていると、その夜、ドンドンと戸をたたく者がいる。

出てみると、血だらけで老人の姿になった大蛇。

「よくもしゃべったな。おまえがおれの苦手なものをしゃべったから、おれもおまえのいちばん嫌いなものをやるから覚悟しろ」

抱えていた箱を投げ出し、そのまま消えた。

開けてみると、中には小判で一万両。

うんちく

久さんの正体   【RIZAP COOK】

『日本昔話集成』(関敬吾編、角川書店、1973年)には「田之久たのきゅう」の題で収録され、高知県の民話にはこの噺の原型となるものがあります。

その他、全国に流布する「親孝行が長者となる伝説」の要素が加わっています。

宇井無愁ういむしゅう(宮本鉱一郎、1909-92)の考証によれば、「田能」とは本来田楽でんがくのことで、田能久は村の鎮守の祭礼に、吉例のお神楽かぐらを奉納する田楽師でんがくしだとか。

ウワバミにいっぱい食わせる小道具も、したがって噺のような芝居の衣装でなく、お神楽の面をいろいろに取り換えただけといいます。

なるほど、だからこそ、あっという間の変身が可能だったわけで、それにだまされるウワバミの知能も、牛並みだったということでしょう。

田楽とは  【RIZAP COOK】

始まりは平安期あたりから。田植え作業の効率化と田の神をまつることから始まった芸能です。

笛や鼓を鳴らして田のあぜで歌い舞った田舞でんぶに始まります。

軽妙な音楽と単純な踊りのため、やがて専門の田楽法師でんがくほうしが生まれ、腰鼓ようこ、笛、銅鈸子どびょうし編木びんざさらなどの楽器を用いた群舞と、さらには高足たかあしに乗ったり、品玉しなだまを使ったり、刀剣を投げ渡したりするなどの曲芸にまで変化していきました。

鎌倉期から室町期には田楽能でんがくのうと呼ばれて、さかんに流行しました。

本座や新座などの座までつくられていき、物まね中心のの猿楽さるがくと影響しあっていきました。観世かんぜ能楽のうがくが洗練化していくと、田楽は衰退の一途をたどります。

現在は、さまざまなものが民俗芸能として各地に残っている状態です。

三遊本流に継承   【RIZAP COOK】

本来は上方落語です。

主人公を沢村田之助の弟子で沢村田之紀という下回り役者で演じる場合は、演題も「田之紀」とし、ほかに「棚牡丹」という別題もあります。

東京にいつ伝わったかはわかりません。明治31年(1898)1月、『百花園』に掲載された四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)の速記が残っています。

円蔵は「イヤ、孝行の徳に依って思はぬ幸いを得ましたが、幸福の天に有る、このへんを申しましたものでございましょう」と、地でオチています。

その高弟の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)、義理の息子の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が継承し、よく高座にかけました。

円蔵以来、やり方はほとんど変わりません。六代目円生は、大蛇がヤニをかけられて苦しむさまなどを、より緻密に描写しました。

大蛇の「タヌキ寝入り」うんぬんのくすぐりは今ではあまり受けません。どの演者でもそのまま踏襲しているようです。

珍しい、ご当地落語   【RIZAP COOK】

意外に数少ない、特定の地方を舞台にしたご当地噺です。登場する地名はすべて実在のものです。阿波(徳島県)は昔から芸能のさかんな土地柄で、阿波人形浄瑠璃の本場でもあります。

阿波は、歌舞伎や文楽でよく上演される『傾城阿波鳴門けいせいあわのなると』の舞台にもなっています。

これは、近松門左衛門ちかまつもんざえもん浄瑠璃じょうるり夕霧阿波鳴渡ゆうぎりあわのなると』にもとづいたもの。阿波玉木家の御家騒動に、夕霧伊左衛門ゆうぎりいざえもん情話じょうわ阿波十郎兵衛あわのじゅうべえ巷説こうせつを張り交ぜています。八段目「巡礼歌の段」が有名です。

歌舞伎では、明治35年(1902)に改作され、どんどろ大師前の場面となったため、「どんどろ」と呼ばれています。

四代目円蔵は、法華津峠を法月峠、鳥坂峠を戸坂峠としましたが、のちに弟子の六代目円生がこれを訂正しています。

養老の滝   【RIZAP COOK】

孝行の 心を天も 水にせず 酒と汲まする 養老の滝

「田能久」のマクラに使われる狂歌です。作者は浅草庵市人せんそうあんいちんど(大垣(伊勢屋)久右衛門、1755-1821)。本業は浅草の質商です。

四方赤良よものあから(大田南畝おおたなんぽ、1749-1823)に入門し、つむりひかり(岸宇右衛門、1754-96)の伯楽連ばくろうれんに属して、狂歌界の重鎮となっていきました。

別号に壺々陳人つぼつぼちんじんなどもありますが、晩年に向島に隠居してからは墨用盧ぼくようろを名乗りました。

編著に『男踏歌おどうか』、『東遊あずまあそび』など。『東遊』の画は葛飾北斎かつしかほくさいによるものです。浅草庵市人は浅草の人。ああ、やっぱり、田能久は浅草と縁あるのですね。



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ほんぜん【本膳】落語演目



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【どんな?】

庄屋の娘の婚礼で食事をすることに。
誰も本膳の作法を知らないことから……。
今も悩ますテーブルマナー。
ハレの食事でのさまざまな作法。
恥かきたくないから知ったかぶりでごまかして。

【あらすじ】

ある村のむらおさ(庄屋)の家で嫁取りをした。

村の衆が婚礼の際に祝物を贈った返礼に、今夜、村のおもだった者三十六人が招待され、ごちそうになることになったが、誰も本膳の作法や礼式を知らない。

恥をかきたくないので、江戸者の手習いのお師匠さんに頼んで、泥縄で教えてもらうことにした。

相談された師匠、
「今夜ではとても一人ずつ稽古する時間はないから、上中下どこの席についても、自分のすることをまねするように」
と言い、
「羽織りだけは着ていくように」
と注意する。

「それなら間違えがねえ」
と一同安心して、いよいよ宴席。

主人があいさつし、盃が回された後、いよいよ本膳。

師匠が汁碗の蓋を取ると、一同同じように蓋を取る。

師匠が一口吸うと、隣の男が次席の者に
「これ、二口吸うでねえぞ。礼式に外れるだ。一口だぞ。一口一口」

これを順番に同じ文句で隣の人間に伝えていくのだから、末席まで伝わるのにえらく時間がかかる。

今度はご飯を一口食うと、同じように
「たんと食ってはダミだぞ」
と伝達が回る。

師匠、おかしくなってクスリと笑うと、とたんに鼻先に飯粒が二粒くっついた。

一同、さあ、食うだけでは礼式を違えると、一斉に飯粒を鼻へ。

間違って五粒くっつけてしまった男が、あわてて三粒食ってしまう騒ぎ。

平碗が出て、中身は悪いことに里芋の煮っころがし。しかも箸が塗り箸だから、ヌルヌルしてはさめない。

師匠、不覚にもつるっと箸がすべって、膳の上に芋が転がり出た。

仕方なく箸で突っ付いていると、さっそくあちらでもこちらでも芋をコロコロコロ。箸でコツンコツンやるから、膳は傷だらけ。

先生、
「今のは違う違う」
といくら注意しても聞こえないから、隣の脇腹を拳固で突いた。

「あいてッ、今度の礼式はいてえぞ」
とまた、その隣をドン。それがまた隣をドン。

「いてえ、あにするだ」
「本膳の礼式だ。受け取ったら次へまわせ」
「さあ、この野郎」
「そっとやれ」
「そっとはやれねえ。覚悟スろ。ひのふのみ」
「いててッ」

最後の三十六人目が思いきり突いてやろうと隣を見ても誰もいない。

「先生さまぁ、この礼式はどこへやるだ?」

底本:八代目林家正蔵(彦六) 三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

時代や地域に変わりなく

後漢(25-220)の笑話集『笑林』中の「-人欲相共只喪」が最古の原話とされます。

これは、葬列で足を踏まれた人が怒って「バカ」と罵ったのを後ろの者が追悼の儀礼と勘違いし、一同まねして「バカ」と叫んだというお話。 

日本の笑話では、元和年間(1615-24)刊の『戯言養気集』中の無題の小咄があります。

信濃国深志の連中が伊勢参宮して御師(=伊勢神宮の神職)に膳をふるまわれ、先達の坊さんが山椒にむせて顔をしかめ、水をのんだのを全員まねする、というお笑い。

万治2年(1659)刊の『百物語』にも。

にゅう麺の薬味の山椒にむせてクシャミをし、四つんばいで退出するのをまた一同まねする小咄があります。

民話に類話があるようです。

現代の結婚式風景などを見ても、テーブルマナーなるものが時代や地域を問わず、いかに人々を悩ませてきたかがうかがわれる噺です。

本膳

日本料理の正式の膳立てで、ふつうは三の膳まであります。

最初に出る一の膳を本来「本膳」と呼びますが、三の膳までひっくるめてそう呼ぶ場合もあります。

正式なマナーとしては、和え物と煮物に続けて箸をつけない、菜と汁をいっしょに食べない、迷い箸をしない、おかわりの時は飯碗を受け取ったら必ず一度膳に置く、などがあります。

いやはや、うるさいこと。

本膳では、一の膳に飯がつくのがふつうだそうです。

彦六、小さんが得意に

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から四代目小さん(大野菊松、1888-1947)を経て、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)に受け継がれてました。

三代目小さんの養子だった二代目柳家つばめ(浦出祭次郎、1875-1927)に教わって、八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)もよく演じました。

地味で笑いも少なく、ウケにくい噺なので、現在はほとんど手掛ける者がなく、CDが出ているのは五代目小さんのものです。

正蔵のものは、小さん系のやり方とほとんど変わりませんが、招待されるきっかけが違っています。

三代目小さんの大正3年(1914)の速記では名主の家へ江戸者の婿が来る披露で、庄屋以下が出かける設定です。

江戸の人間に村の恥を見せたくないという見栄が、師匠に作法を習いに行く動機になっているわけです。

正蔵ではこの要素を省き、村長の招待で村民一同が出かけることにしてあります。

これで、名主と庄屋は同じであるのに、同じ地方の一つの村に同時にいるのはおかしいという矛盾を解消しています。

オチは、五代目小さんは「この拳はどこへやるだ?」としていました。

村長

むらおさ。庄屋、名主に同じです。

藩主(天領の場合は幕府→代官)の任命で、地頭(代官)の下で年貢そのほか、村の事務を司りました。

関東以北では名主、関西では庄屋と呼びました。

講談にも類話

講談「荒茶の湯」は類話でしょう。

福島正則(1561-1624)以下の無骨な侍が、茶の席で上座の加藤清正(1562-1611)を、逐一まねして失敗します。



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しんぶんきじ【新聞記事】落語演目

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【どんな?】

新聞が新鮮だった明治期。
殺人事件と天ぷらで一席の噺が。

別題:阿弥陀が池(上方、改作)

あらすじ】 

あわて者で少しぼーっとした八五郎。

ご隠居のところでバカを言っているうちに、
「おまえ、新聞は読むか」
と聞かれる。

「へえ、月初めに一月分」
「そりゃ古新聞だろ。じゃ、まだ今朝のを見てないな」

急に隠居の声が低くなって、
「おまえの友達の天ぷら屋の竹さんが、昨夜、夜中に泥棒に殺された」
という。

竹さんが寝ていると、枕元でガサガサ物音がするので電気をつけると、身のたけ六尺(180cm)はあろうという大男。

そいつがギラリと日本刀を抜いて、
「静かにしろ」
と脅したが、竹さん、なまじ剣術の心得があるものだから、護身用のかしの棒を取るとピタリと正眼に構えた。

泥棒は逆上して、ドーンと突いてくる。竹さん、ヒラリとかわして馬乗りになり、縛ろうとすると、泥棒がのんでいたあいくちで胸元をグサッ! 

「あっ」
と後ろへのけぞって一巻の終わり。

家は右往左往の大騒ぎで、そのすきに泥棒は逃げ出した。

しかし、悪いことはできないもので、五分たつかたたないうちにアゲられた。

それもそのはず、天ぷら屋……。

なんのことはない、落とし噺でからかわれただけ。

ところが八五郎、これを聞いてすっかり感心し、自分もやってみたくなった。

当の本人の家で
「天ぷら屋の竹が殺されたよ」
とやって、ほうほうのていで逃げ出した。

それでもまだりずに、もう一人のところへ上がり込んだ。

隠居の
「おい、ばあさん、八っつあんが来たよ。茶を出してやんな」
のセリフからそっくり始めたから、
「おい、なんでウチの女房をばあさんにしやがるんだ」
とケンツクを食らわされてミソをつける。

こうなれば、もう乗りかけた船。

強引に殺人事件を吹きまくるが、ところどころおかしくなり、泥棒の身のたけが一尺六寸(48cm)になったり、あいくちが出てこないで包丁になったり、竹さんがヒラリとタイをかわした、のタイが思い出せずに、二つ並んでいる→布袋大黒ほていだいこく恵比寿えびすさま→釣り竿→魚→たいで連想ゲームまでやってのける。

ようやく最後の、五分たつかたたないうちに、というところまで行き着いたが、またも肝心の「あげられた」が出ない。

四苦八苦していると、向こうが先に
「アゲられただろ。天ぷら屋だからな」
とやってしまった。

それを言いたいためだけに連想ゲームまで演じたのだから、立つ瀬がない。

「ところでおめえ、その話の続きを知ってるかい? 竹さんのかみさんが、亭主が死んで、もう二度とだんなは持たないと、尼さんになったてえのは」
「どうして」
「もとが天ぷら屋のかみさんだけに、衣をつけたがらあ」

底本:三代目三遊亭円歌

しりたい】 

上方落語の改作   【RIZAP COOK】

昭和初期、二代目昔々亭桃太郎せきせきていももたろう(山下喜久雄、1910-70、自称二十四代目)が「百田芦生ももたあしお」の筆名で作ったものです。

上方噺の「阿弥陀あみだが池」の改作で、桃太郎は元ネタの後半の筋立てをうまく取り入れ、東京風にすっきり仕上げています。

桃太郎没後は四代目柳亭痴楽(藤田重雄、1921-1993.12.1)に継承され、ついで三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)のレパートリーにもなりました。ギャグも豊富で、筋立てもおもしろいので、多くの若手が手がけています。

「阿弥陀が池」   【RIZAP COOK】

日露戦争後に初代桂文屋ぶんや(1867-1909)が作ったといわれ、今も上方落語の代表作となっています。

「新聞記事」と筋は似ていますが、ちょいと違います。

ヨタ話のネタの主人公は戦死した将校夫人の尼さん。忍んで来る泥棒が偶然夫の元部下で、それがわかって許しをうと、「おまえが来たのも仏教の輪廻りんね。誰かが行けと教えたのであろう」「阿弥陀が行け言いました」という、尼寺のある場所(阿弥陀が池のほとり)と掛けた洒落話で隠居にだまされる筋立てです。ブンヤがつくったからシンブンキジに似ているわけですね。どおりで。

桃太郎のこと   【RIZAP COOK】

作者の二代目昔々亭桃太郎は、初代柳家金語楼きんごろう(山下敬太郎、1901-72)の実弟です。

昭和初期から戦後にかけ、「桃太郎さんでございます」という開口一番のフレーズとともに、「桃太郎後日」など自作自演の明るい新作落語で親しまれました。

兄弟ともに才能あふれていたのですね。実弟は時折、東条英機に落語を聴かせていたとか。三代目桃太郎が時折高座で話してますが、おもしろいですねえ。

噺のカンどころ   【RIZAP COOK】

「おうむと呼ばれる、くり返しの面白さで笑わせるはなしだけに、しこみ、つまり前半の部分の演じ方がむずかしいところなのです」
                                       

(三代目三遊亭円歌)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

せんりょうみかん【千両みかん】落語演目

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【どんな?】

真夏の大店。
病に伏した若だんな。
みかんを食べたいと言い出す。
ご下命の番頭は四苦八苦。

【あらすじ】

ある呉服屋の若だんなが急に患いつき、食事も受け付けなくなった。

大切な跡取り息子なので両親も心配して、あらゆる名医に診てもらうが、決まって
「これは気の病で、なにか心に思っていることがかないさえすれば、きっと全快する」
と言うばかり。

そこで、だんなは番頭の佐兵衛を呼んで、
「おまえはせがれを小さい時分からめんどうを見ているんだから、気心は知れている。なにを思い詰めているか聞き出してほしい。なんだろうとせがれの命には換えられないから、きっとかなえてやる」
という命令。

若だんなに会って聞きただすと、
「どうせかなわないことだから、かえって不孝になるので、言わずにこのまま死んでいく」
と、なかなか口を割らない。

どうせどこかの女の子に恋患いでもしたんだろうと察して、
「必ずどうにかしますから」
とようやく白状させてみると、
「それじゃ、おまえだけに言うがね、実は、……みかんが食べたい」

あっけに取られた番頭、そんなことなら座敷中みかんで埋めてあげますと請け合って、喜んで主人に報告。

ところがだんな、難しい顔で、
「とんでもないことを言ったもんだ。じゃ、きっと買ってくるな」
「もちろんです」
「どこにみかんがある」

それもそのはず、時は真夏、土用の八月。

はっと気づいたが、もう遅い。

「おまえが今さら、ないと言えば、せがれは気落ちして死んでしまう。そうなれば主殺し。はりつけだ。きっと召し連れ訴えてやるからそう思え。それがイヤなら……」

それがイヤなら、江戸中探してもみかんを手に入れてこいと脅され、佐兵衛、かたっぱしから果物屋を当たるが、今と違って、どこにもあるわけがない。

ハリツケ柱が目にちらつく。

しまいに金物屋に飛び込む始末。

同情した主人から、神田多町の問屋街へ行けばひょっとすると、と教えられ、わらにもすがる思いで問い合わせると
「あります」
「え、ある? ね、値段は?」
「千両」

蔵にたった一つ残った、腐っていないみかんが、なんと千両。

とても出すまいと思ってだんなに報告すると
「安い。せがれの命が千両で買えれば安いもんだ」

これに佐兵衛はびっくり。

「あのケチなだんなが、みかん一つに惜しげもなく千両。皮だって五両ぐらい。スジも二両、一袋百両。あー、もったいない」
と思いつつもみかんを買ってきた。

喜んで食べた若だんな、三袋残して、
「これを両親とお祖母さんに」
と言う。

「オレが来年別家してもらう金がせいぜい三十両……。この三袋で……えーい、長い浮き世に短い命、どうなるものかいっ」

番頭、みかん三袋持ってずらかった。

【しりたい】

古い上方落語   【RIZAP COOK】

明和9年(1772)刊の笑話本『鹿子餅こもち』中の「蜜柑みかん」を、大阪の松(笑)福亭系の祖で、文政、天保期(1818-44)に活躍した初代松富久亭松竹しょうふくていしょちくが落語に仕立てたものです。

生没年など初代についての詳しいことはよくわかっていません。

オチにすぐれ、かつての大坂船場せんばの商家の人間模様も織り込んだ、古い上方落語の名作です。東京に移されたのは比較的新しく、戦後と思われます。

東西の演者   【RIZAP COOK】

東京では八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が演じました。

正蔵は、みかん問屋を万屋惣兵衛よろずやそうべえとしました。「万惣まんそう」は神田多町かんだたちょうの老舗問屋で、のちに千疋屋せんびきやと並ぶ有名なフルーツパーラーになりました。現在は閉店中。

志ん生のくすぐりでは、金物屋かなものやで番頭が、引き回しやハリツケの場面を聞かされて腰を抜かすくだりが抱腹ですが、この部分は上方の演出を踏襲しています。

上方の三代目桂米朝(中川清、1925.11.6-2015.3.19)のは、事情を説明すると問屋が同情してタダでくれると言うのを、番頭が大店おおだなの見栄で、金に糸目はつけないとしつこいので、問屋も意地になって千両とふっかける、という段取りでした。

青物市場   【RIZAP COOK】

みかんを始め、青果を扱う市場は、江戸では神田多町、大坂では天満てんまで、多数の問屋が並び、それぞれこの噺の東西の舞台です。

神田多町の方は、開設は元禄元年(1688)です。

それ以前の慶長年間(1596-1615)に、草創名主くさわけなぬし河津五郎太夫かわづごろうだゆうという人が、すでに野菜市を開いていたとのことです。

大坂・天満は、京橋片原町きょうばしかたはらまち(大阪市都島区片町)にあった市を承応しょうおう2年(1653)に現在の天満橋北詰きたづめに移したものです。

天満には当時からみかん専門店がありました。

「夏は、穴ぐらか、それとも夏でもひんやりする土蔵の中で、何重にも特殊な梱包をして、残そうとしたのでしょうか。囲うということをやった」(桂米朝)

みかん   【RIZAP COOK】

栽培は古く、垂仁すいにん天皇のころ、田道間守たじまのもり常世とこよの国につかわし、非時香菓ときじくのかくのこのみを求めさせたというくだりが『日本書紀』にありますが、事実のわけはありません。

ただし、飛鳥時代にはすでに栽培されていて、「万葉集」にも数歌に詠みこまれています。

当時はユヅ、ダイダイなどかんきつ類一般を「たちばな」と呼びました。

時代は飛んで、江戸に紀州(和歌山県)の有田みかんが初入荷したのは、寛永11年(1634)11月。

その時にもう、京橋に初のみかん問屋が開業しています。

価値観の横滑り  【RIZAP COOK】

とまれ、この噺は人情噺のようでいて人情噺でない、不思議な感覚を覚える噺ですね。

現代人の感性からすると、価値観を横滑りさせた番頭の最後の独白が、しごくもっともと感じられるせいでしょうか。

たった一房のみかんをねこばばして、すたこらとんづらする番頭の後ろ姿。痛快のようだけど、鼻くそほどのばかばかしい刹那感覚。どこか心中にも似ています。

志ん生の人生観をしっかり見せつけられた思いです。

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たかさごや【高砂や】落語演目

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【どんな?】

祝宴席での「高砂や」は上謡です。
落語流では妙ちきりんな世界へ。

別題:仲人役

【あらすじ】

八五郎が、質両替屋・伊勢久の婚礼に仲人役を仰せつかった。

伊勢久と言えば財産家。

長屋住まいの八五郎が仲人とはちと不釣り合い。

これには、わけがある。

若だんなのお供で深川不動に参詣の帰り、木場の材木町辺を寄り道した。

若だんな、そこの女にひとめぼれ。

八五郎がいっしょにいてまとまったので、ぜひ八五郎に仲人を、ということになったわけ。

八五郎、隠居の所に羽織袴を借りにきた。

ついでに仲人の心得を教えてもらい、
「仲人ともなればご祝儀に『高砂やこの浦舟に帆をあげて』ぐらいはやらなくてはいけない」
と隠居にさとされる。

謡などとは、無縁の八五郎はびっくり。

「ほんの頭だけうたえば、あとはご親類方がつけるから」
との、隠居の言葉だけをたよりに、
「とーふー」
と豆腐屋の売り声を試し声とし、なんとか、出だしだけはうたえるようになった。

隠居からは羽織を借りて、女房と伊勢久へ。

婚礼の披露宴なかばで、
「お仲人さまに、ここらでご祝儀をひとつ」
と頼まれた八五郎、いきなり
「とーふー」
と声の調子を試したあと、「高砂」をひとくさりやって、
「あとはご親類方で」
と言うと、
「親類一同不調子で、仲人さんお先に」

八五郎は泣きっつら。

「高砂やこの浦舟に帆を下げて」
「下げちゃ、だめですよ」
「高砂やこの浦舟に帆をまた上げて」
などとやっているうち、一同が巡礼歌の節で「高砂や」をうたいだす。

一同そろって「婚礼にご報謝(=巡礼にご報謝)」

底本:四代目柳亭左楽

【しりたい】

高砂

世阿弥(大和猿楽結崎座の猿楽師、1363-1443)の能で、相生あいおいの松と高砂の浦(兵庫県高砂市)の砂が夫婦であるという伝説に基づきます。

うたいの部分は昔から夫婦愛、長寿の理想をあらわした歌詞として有名で、「高砂」を朗々と吟詠するのは、婚礼の席の祝儀には欠かせない儀式でした。

詞章は次のとおりです。

高砂や 
この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に 帆を上げて
月もろともに 出汐いでしお
波の淡路の 島影や
遠く鳴尾の 沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり
はやすみのえに 着きにけり

四海しかい波 静かにて
国も治まる 時つ風枝を鳴らさぬ
御代みよなれや

あひに相生の松こそ
めでたかれげにや仰ぎても 
事もおろかやかかるに住める 
民とて豊かなる君の恵みぞ 
ありがたき君の恵みぞ 
ありがたき

巡礼歌

霊場の巡礼にうたうご詠歌で、短歌体(五七五七七)です。

オチの「巡礼にご報謝」は、巡礼が喜捨を乞うときの決まり文句で、歌舞伎の「楼門五三桐さんもんごさんのきり」で、巡礼姿で笈鶴おいづるを背負った真柴久吉(=羽柴秀吉)が南禅寺楼門上の石川五右衛門を見上げて言うセリフで有名です。

明治以来のやり手

古い速記では、「仲人役」と題した、明治32年(1899)の四代目柳亭左楽(福田太郎吉、1856-1911)のものが残っています。謡が豆腐屋の売り声になるくすぐりはそれ以来、変わりません。

よくも百年以上も同じくすぐりを使い古しているものと、つくづく感心します。

その後は、昭和に入って八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)がよく演じました。

いずれにしても古色蒼然、若手がやりたい意欲のわく噺とも思えません。

オチの変遷

上方では、一同が謡をつけないので困って、「浦舟」にかけて「助け舟」と叫ぶオチで、古くは東京でもこのやり方だったといいます。

明治中期から、あらすじのように「巡礼にご報謝」とすることが多くなり、前述の四代目左楽もこのオチです。

しかし、最近では当然ながらこのシャレが通じなくなり、帆を上げたか下げたか忘れてしまったところで「先祖返り」して「助け舟」とすることもあるようです。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

もんざぶろういなり【紋三郎稲荷】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

紋三郎稲荷とは笠間稲荷のことなんですね。
茨城県が江戸落語に登場するとはビックリ。

【あらすじ】

常陸国ひたちのくに(茨城県)笠間かさま八万石、牧野越中守まきのえっちゅうのかみの家臣、山崎平馬やまざきへいま

参勤交代で江戸勤番に決まったが、風邪をひき、朋輩より二、三日遅れて国元を出発した。

もう初冬の旧暦十一月で、病み上がりだから、かなり厚着をしての道中。

取手とりでの渡しを渡ると、往来に駕籠舁かごかきが二人。

病後でもあり、風も強いので乗ることにし、駕籠舁きが八百文欲しいと言うのを、気前よく酒手さかて(チップ)込みで一貫文はずんだ。

途中、心地よくうとうとしているうち、駕籠舁きの後棒が先棒に、この節は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえかと話しているのが、耳に入った。

はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えると、寒いので背割羽織せわりばおりの下に、胴服どうぶくといって狐の毛皮を着込んでいる。

その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ているから、稲荷の化身の狐と間違われたことに気づく。

洒落気がある平馬、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠舁きは仰天。

そこで、「わしは紋三郎(稲荷)の眷属けんぞく(親類)だ」と出まかせを言ったから、駕籠舁きはすっかり信じ込む。

その上、途中の立て場でべらべら吹聴ふいちょうするので、ニセ稲荷はすっかり閉口。

松戸まつどの本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれる。

下りて駕籠賃を渡すと駕籠舁き、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐やこのすることだ」

主人の清左衛門、駕籠舁きから話を聞いて大喜び。

羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加みょうがに余る次第にございます。中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
とあいさつしたから、平馬は
「駕籠舁きのやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
と思ったが、いっそしばらく化け込もうと決める。

清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言い出すので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになるとなんでも食うから、酒のよいのと、ここの名物の鯰鍋なまずなべこいこくもよい」

えらくぜいたくな狐だと思いながら、粗相そそうがあってはと、主人みずから給仕する歓待ぶり。

平馬、酔っぱらって調子に乗り、「この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をした」などと吹きまくる。

そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊まりと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、平馬、
「それは奇特なことである。もし供物くもつ賽銭さいせんなどあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」

喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ。

もうかったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切り戸を開けると一目散。

ほこらの下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

円生十八番、若手が復活  【RIZAP COOK】

原話は、寛政10年(1798)刊『無事志有意ぶじしうい』中の「玉」。

明治から大正にかけ、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)が得意にした噺です。

これを門下の三遊亭円玉(1866-1921)が受け継ぎ、当時若手の、のちの二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)に伝えました。

円歌のレコードも残っていますが、その没(1964年)後は円生の独壇場で、CD「円生百席」収録の音源が現在、唯一のスタンダードとなっています。

その円生も「実は私は師匠のは一度も聞いたことがありません」と述べているので円蔵もめったにやる噺ではなかったのでしょう。

円生は、それまで笠間藩主を「牧さま」としていたのを史実通りに改めています。「牧野さま」で。

円生没後、継承者がありませんでした。

円生の弟子でありながら円歌から「紋三郎稲荷」を習った三遊亭好生(長坂静樹、1935.10.21-81.7.9、→三代目春風亭一柳)の例もありましたが、この因縁話は別の項目で。

2003年1月、TBS落語研究会で柳家一琴が演じ、その後、入船亭扇辰柳家小せんなどが手掛けるようになりました。

紋三郎稲荷  【RIZAP COOK】

茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。「胡桃下くるみがしたの稲荷」ともいいます。

「紋三郎」の通称の由来は、常陸国笠間藩(譜代)、牧野家初代藩主の牧野貞通まきのさだみち(1707-49、日向延岡藩主→)の一族・牧野紋三郎(門三郎とも)にちなむものとされます。紋三郎自身が信心篤かったことによるのだそうです。

祭神は宇迦之御魂神うかのみたまのかみ(=お稲荷さん)で、創建は白雉はくち年間(650-654)。稲荷神は秦氏が連れてきた外来の神で、稲の神、つまりは生産、豊穣の神です。稲荷社のご神体はどこもこの神さまです。

「ウカ」は「ウケ」とも通じて、食や豊かさを象徴します。

伏見稲荷(京都府)、豊川稲荷(愛知県)とともに、日本三大稲荷の一つとされています。

異説は多いのですが、とりあえず。

初詣では、茨城県内では一の宮の鹿島神宮を抜いて第1位の動員80万人を数えます。

現在も、五穀豊穣の祭神として信仰を集めているということですね。

坂本九(大島九、1941.12.10-85.8.12、)は結婚式を笠間稲荷で挙げました。

坂本家は笠間稲荷の信心篤い一家だったのですね。坂本九自身は日本航空123便墜落事故に巻き込まれて、帰らぬ人となりました。残念。

そのかかわりからでしょうか、笠間市内のJR駅の発車メロディーは「上を向いて歩こう」が使われています。

笠間稲荷は東京にもあります。

牧野家の下屋敷跡に、笠間稲荷神社東京別社(中央区日本橋浜町2丁目)として建っています。明治21年(1888)、牧野家が本所緑町に引っ越すにあたって、跡地に分祀されました。現在の社殿は空襲での焼失後、復興されたものです。いまは、日本橋七福神の寿老神の役回りも担っています。

背割羽織  【RIZAP COOK】

別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。

武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。

稲荷信仰  【RIZAP COOK】

京都市伏見区の伏見稲荷大社を中心とした信仰。

神社は2,970社、摂社や末社は32,000社を超えるといわれています。しめて約35,000社。

八幡社の20,000社をはるかにしのいでいます。

東日本に広く分布しているようです。

稲荷神は渡来系の秦氏の氏神のため、もとは外来の神さまです。

秦氏は中央アジアから韓半島を経て渡ってきたといわれますから、稲荷神の本当の神はそこらへんの神さまなのでしょう。

一般にはウカノミタマノカミ(古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂大神)とされています。

「ウカ」とか「ウケ」とかという古語は、食物や豊かさを意味します。

中世には伊勢神宮外宮にまつられるトヨウケビメ(古事記では豊宇気毘売神、日本書紀では記載なし)と同じ神とされるようになりました。

とはいえ、稲荷神社の祭神がウカノミタマノカミであるというのは室町後期以降です。

つまり、この神社の神がなにものなのかは、本当のところはよくわかりません。

日本の神さまには、いまだによくわからないのがけっこうあります。

稲荷というくらいですから農業神だったようですが、米が流通や商業とも深くかかわることから、商業神、漁業神、福神として平安時代から篤信されてきました。

豊かさをつかさどる神さまということで現代まで崇信されてきたのですね。

このような稲荷信仰の効用から想像すれば、秦氏は東西の十字路で豊穣と富裕の象徴とされるサマルカンドあたりから移ってきたのかもしれません。

教王護国寺(東寺)の鎮守でもあり、真言宗系とも深く結びついてきました。

神仏習合思想における稲荷神は、江戸時代までは仏教における十一面観音や聖観音を本地仏(本来の姿の仏)とされるとともに、江戸時代以降は荼枳尼天だきにてん(夜叉やしゃ、護法善神)とも同一視されてきました。

伏見稲荷大社の神宮寺じんぐううじ(神社付属の寺。明治になるまでは普通にあった)である愛染寺でも荼枳尼天がまつられていました。

明治元年(1868)の神仏分離(→廃仏毀釈)後も、稲荷神を荼枳尼天としてまつる寺院があります。

その代表例は、豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市、曹洞宗)と最上稲荷妙教寺(岡山市北区、日蓮宗)。最上稲荷では最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天の本地であるとされています。

このように稲荷神は、時代を経るとともに融通無碍ゆうづうむげにさまざまな神仏と融合合体して信仰を集めてきました。

これほどの篤信盛況ぶりは、稲とかかわる神であることで日本人に最も強い結びつきを示す神であったこと、秦氏や東寺といった巨大勢力と結ばれていたこと、下級宗教家によって、稲荷ずし、お狐さま、正一位(稲荷神の神階で最高位)といった、わかりやすい状態で布教されていったことが大きいのでしょう。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

どうぐや【道具屋】落語演目

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 【どんな?】

ご存じ、与太郎の商売。
屑物売りで抱腹絶倒の噺が生まれます。

別題:道具の開業 露天の道具屋

あらすじ】  

神田三河町かんだみかわちょうの大家、杢兵衛もくべえおいの与太郎。

三十六にもなるが頭は少し鯉のぼりで、ろくに仕事もしないで年中ぶらぶらしている。

この間、珍しくも商売気を出し、伝書鳩を売ったら、自分の所に帰ってくるから丸もうけだとうまいことを考えたが、鳥屋に帰ってしまってパー、という具合。

心配したおじさん、自分が副業に屑物くずものを売る道具屋をやっているので、商売のコツを言い聞かせ、商売道具一切を持たせて送り出す。

その品物がまたひどくて、おひなさまの首が抜けたのだの、火事場で拾った真っ赤にびたのこぎりだの、はいてひょろっとよろけると、たちまちビリッと破れる「ヒョロビリの股引ももひき」だので、ろくなものがない。

「元帳があるからそれを見て、倍にふっかけて後で値引きしても二、三銭のもうけは出るから、それで好きなものでも食いな」
と言われたので、与太郎、早くも舌なめずり。

やってきたのが蔵前の質屋、伊勢屋の脇。

煉瓦塀れんがべいの前に、日向ぼっこしている間に売れるという、昼店の天道干てんとぼしの露天商が店を並べている。

いきなり
「おい、道具屋」
「へい、なにか差し上げますか」
「おもしれえな。そこになる石をさしあげてみろい」

道具屋のおやじ、度肝を抜かれたが、ああ、あの話にきいている杢兵衛さんの甥で、少し馬……と言いかけて口を押さえ、品物にはたきをかけておくなど、商売のやり方を教えてくれる。

当の与太郎、そばのてんぶら屋ばかり見ていて、上の空。

最初の客は、大工の棟梁とうりゅう

釘抜きを閻魔えんまだの、ノコが甘いのと、符丁ふちょうで言うからわからない。

火事場で拾った鋸と聞き、棟梁は怒って行ってしまう。

「見ろ、小便されたじゃねえか」

つまり、買わずに逃げられたこと。

次の客は隠居。

唐詩選とうしせん」の本を見れば表紙だけ、万年青おもとだと思ったらシルクハットの縁の取れたのと、ろくな代物がないので渋い顔。

毛抜きを見つけてひげを抜きはじめ、
「ああ、さっぱりした。伸びた時分にまた来る」

その次は車屋。

股引きを見せろと言う。

「あなた、断っときますが、小便はだめですよ」
「だって、割れてるじゃねえか」
「割れてたってダメです」

これでまた失敗。

お次は田舎出の壮士風。

「おい、その短刀を見せんか」

刃を見ようとするが、錆びついているのか、なかなか抜けない。

与太郎も手伝って、両方からヒノフノミィ。
「抜けないな」
「抜けません」
「どうしてだ」
「木刀です」

しかたがないので、鉄砲を手に取って
「これはなんぼか」
「一本です」
「鉄砲の代じゃ」
かしです」
「金じゃ」
「鉄です」
「ばかだな、きさま。値じゃ」
「音はズドーン」

底本:五代目柳家小さん

しりたい】 

円朝もやった  【RIZAP COOK】

古くからある小咄を集めてできたものです。

前座の修行用の噺とされますが、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の速記も残っています。

大円朝がどんな顔でアホの与太郎を演じたのか、ぜひ聴いてみたかったところです。

切り張り自在  【RIZAP COOK】

小咄の寄せ集めでどこで切ってもよく、また、新しい人物(客)も登場させられるため、寄席の高座の時間調整には重宝がられます。

したがって、オチは数多くあります。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のは、小刀の先が切れないので負けてくれと言われ、「これ以上負けると、先だけでなく元が切れない(=原価割れ)」というものです。

そのほか、隠居の部分で切ったり、小便されたくだりで切ることもあります。

侍の指が笛から抜けなくなり、ここぞと値をふっかけるので「足元を見るな」「手元を見ました」というもの、その続きで、指が抜けたので与太郎があわてて「負けます」と言うと、「抜けたらタダでもいやだ」とすることも。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は、侍の家まで金を取りに行き、格子に首をはさんで抜けなくなったので、「そちの首と、身どもの指で差っ引きだ」としていました。

天道干し  【RIZAP COOK】

てんとうぼし。

露天の古道具商で、昼店でむしろの上に古道具、古書、荒物あらものなどを敷き並べただけの零細れいさいな商売です。

実態もこの噺に近く、ほとんどゴミ同然でロクなものがなかったらしく、お天道さまで虫干しするも同様なのでこの名がつきました。

品物は、古金買いなどの廃品回収業者から仕入れるのが普通です。

こうした露天商に比べれば、「火焔太鼓かえんだいこ」の甚兵衛などはちゃんとした店舗を構えているだけ、ずっとましです。

くすぐりあれこれ  【RIZAP COOK】

与太郎が伯父おじさんに、ねずみの捕り方を教える。
「わさびおろしにオマンマ粒を練りつけてね、ねずみがこう、夜中にかじるでしょ。土台がわさびおろしだからねずみがすり減って、朝には尻尾だけ。これがねずみおろしといって」

三脚を買いに来た客に。
「これがね、二つ脚なんで」
「それじゃ、立つめえ」
「だから、石の塀に立てかけてあるんです。この家に話して、塀ごとお買いなさい」

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)では、隠居が髭を剃りながら与太郎の身の上を
「おやじの墓はどこだ」
まで長々聞く。

これを二回繰り返し、与太郎がそっくり覚えて先に言ってしまうという、「うどんや」の酔っ払いのくだりと同パターンのリピートくすぐり。

弓と太鼓で「どんかちり」  【RIZAP COOK】

意外なことですが、落語には「弓矢」があまり出てきません。

刀剣と違って弓矢は、町民には縁遠いものだったのでしょうか。

ところが、浅草などの盛り場には「土弓場どきゅうば」という店がありました。土を盛ったあづちに掛けた的を「楊弓ようきゅう」で射る遊びを客にさせる店です。

土弓場は、寛政年間(1789-1801)には「楊弓場ようきゅうば」と混同していました。

土弓場は「矢場やば」ともいいます。客を接待する店の女はときに売春もしました。

男たちは弓よりもこっちが目的だったのですね。

この女たちを「矢場女」「土弓むす」「矢取り女」などと呼びました。

店はおしなべて、寺社仏閣の境内に設けた「葭簀張よしずばり」にあったそうです。

葭簀張りというのは「ヒラキ」といわれていた、簡易な遊芸施設です。葭簀張りというのがその施設名だったのです。

明治中頃まで栄えていました。

土弓場は「どんかちり」とも呼ばれていました。

店でつるした的の後ろに太鼓をつるし、弓が的に当たると後ろの太鼓が「かちり」と鳴り、はずれると「どん」と鳴るため、二つ合わせて「どんかちり」と。転じて、歌舞伎囃子でも「どんかちり」と呼びました。

弓と太鼓は性的な連想をたやすく膨らませてくれます。

土弓場へけふも太鼓を打ちに行き   十三30

江戸人はこうも暇だったのでしょうか。

今なら駅前のパチンコ店に繰り出すようなものでしょう。

もうそれもないか。

吉原に行くには少々覚悟がいるような手合いが、安直に出入りできる遊び場だったと想像できます。

楊弓について  【RIZAP COOK】

混同された「楊弓」についても記しておきます。

こちらは、長さ2尺8寸(約85cm)の遊び用の小弓のことです。

古くは楊柳ようりゅう、つまりはやなぎの木でつくっていたからだそうです。

雀を射ることもあったため、雀弓すずめゆみとも呼ばれていました。

唐の玄宗が楊貴妃と楊弓をたのしんだ故事があります。

そこで江戸の人は、楊弓は中国から渡来したものと思っていました。

いずれにしても、9寸(約27cm)の矢を、直径3寸(約9cm)の的に向けて、7間半(約13.5m)離れて座ったまま射る遊びです。

その歴史は古く、平安時代には子供や女房の遊び道具でした。

室町時代でも公家の遊び道具で、七夕行事にも使われたそうです。

江戸時代になると、広く伝わって各所で競技会も開かれました。

寛政年間(1789-1801)には、寺社の境内や盛り場に「楊弓場」が登場。これは主に上方での呼称だったようです。

江戸ではこの頃になると「土弓場」と混同されていきます。

江戸では「矢場」とも呼ばれて、土弓場とごちゃごちゃに。

金紙張りの1寸の的、銀紙張りの2寸の的などを使って、賭け的遊びもしたそうですが、賭博までは発達しなかったといいます。

理由は安易に想像できます。モノの出来具合がヤワで粗末だったからでしょうね。

それよりも、矢場は矢取り女という名の私娼の表看板になっていきました。

男たちの主眼はこっちに移ったのです。

江戸の遊び人は女性の陰部を的にたとえてにんまりしたわけです。

となると、上の川柳も意味深です。

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きんめいちく【金明竹】落語演目

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【どんな?】

骨董を題材にした前座噺。
小気味いい言い立てが聴きどころです。
耳に楽しい一席。

別題:長口上 骨皮 夕立 与太郎

【あらすじ】

骨董屋こっとうやのおじさんに世話になっている与太郎よたろう

少々頭にかすみがかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品のじゃ傘を貸してしまって、それっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使いものにならないから、き付けにするので物置ものおきへ放り込んであると断るんだ」
しかった。

すると、ねずみが暴れて困るので、猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相そそうがあってはならないから、またたびをめさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利めききを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で、小言ばかり。

次に来たのは上方者かみがたものらしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋なかばし加賀屋佐吉かがやさきち方から参じました。先度せんど、仲買いの弥市やいちの取り次ぎました道具七品どうぐななしなのうち、祐乗ゆうじょう宗乗そうじょう光乗こうじょう三作の三所物みところもの、並びに備前長船びぜんおさふね則光のりみつ四分一しぶいちごしらえ横谷宗珉よこやそうみん小柄こつか付きの脇差わきざし柄前つかまえはな、旦那はんが鉄刀木たがやさんやといやはって、やっぱりありゃ埋もれ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。自在じざいは、黄檗山おうばくさん金明竹きんめいちく寸胴ずんどうの花いけには遠州宗甫えんしゅうそうほめいが入っております。織部おりべ香合こうごう、のんこの茶碗ちゃわん古池ふるいけかわずとびこむ水の音、と申します。あれは、風羅坊正筆ふうらぼうしょうひつの掛け物で、沢庵たくあん木庵もくあん隠元禅師いんげんぜんじ貼り交ぜの小屏風こびょうぶ、あの屏風びょうぶはなあ、もし、わての旦那の檀那寺だんなでらが、兵庫ひょうごにおましてな、この兵庫ひょうご坊主ぼうずの好みまする屏風びょうぶじゃによって、表具ひょうぐへやって兵庫ひょうご坊主ぼうず屏風びょうぶにいたしますと、かようにおことづけを願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買いの弥市が気がふれて、遊女ゆうじょ孝女こうじょで、掃除そうじが好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに寸胴斬ずんどぎりにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆いんげんまめ沢庵たくあんばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前びぜんの国に親船おやふねで行こうとしたら、兵庫ひょうごへ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風びょうぶを立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗叔いしいそうしゅく(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。

「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵はやしやしょうぞう(1781-1842)が天保てんぽう5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰ひゃっかせん』中に入れた「阿呆あほう口上こうじょうナ」が原話。

これは与太郎が笑太郎しょうたろうとなっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉きくていじゅぎょう)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つです。

前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは、明治時代になってからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意しんぼち(出家したての僧)で、ワキが住職。

檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断った。聞いた住職が怒り、新発意が「お師匠さまが門前の女とナニしているのは『駄狂い』だ」と口答えして、大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。

三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗叔いしいそうしゅくは医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮ほねかわ」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬えんきょう(柴田清五郎、1865-1912)、さらに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が得意にしました。

円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目円生、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)など、多数の大看板が手がけました。

なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは三巨匠それぞれ残っています。

口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のもあります。

言い立ての中身

この噺の言い立て、要は道具七品を説明しているのです。整理してみましょう。

その1 備前長船則光の脇差
脇差とは一般的な日本刀よりも短い刀剣。後藤祐乗(1440-1512、初代)、後藤宗乗(1461-1538、二代)、後藤光乗(1529-1620、四代)は後藤家の金工。後藤は金細工の流派。三所物とは、刀の柄の目貫、小柄、笄の三品で、備前長船の柄のこしらえ(飾り)。目貫は柄の中央の表裏に据えられた小さな金具。小柄は刀の鞘に付けられた細工用の小刀。笄は刀の差表に挿しておき、髪をなでつけるのに用いるもの。拵えとは刀の外装。横谷宗珉の四分一分(銀と銅の合金、その割合で、灰黒色の金物)とは小柄の拵のこと。柄前とは刀の柄、刀の柄の体裁、柄のつくりをさします。柄前は鉄刀木ではなく埋もれ木。埋もれ木とは地層中に埋もれて化石ようになった樹木。ここでは、三所物と脇差で一品と数えているようです。

その2 金明竹の自在鉤
自在鉤じざいかぎとは、囲炉裏いろりの上にぶら下がっている金属製の鉤をつなげた竹のこと。金明竹とは、マダケの栽培品種。かん(茎のこと)、枝は黄色を帯び、緑条が入ります。竹の皮は黄色。別名は、しまだけ、ひょんちく、あおきたけ、きんぎんちく、べっこうちく。

その3 金明竹の花いけ
金明竹を寸胴に切った素朴な花いけ。寸胴は上から下まで同じように太いこと。遠州宗甫は小堀遠州のこと。小堀遠州(1579-1647)は茶人。宗甫の銘(器物に刻み記した作者の名前)が入った花いけですが、華道遠州という生花の流派があります。小堀遠州を祖と仰いでいます。これとは別に、茶道には遠州流という流派があります。

その4 織部の香合
織部は古田織部(1544-1614)。武将で茶人。利休七哲の一人です。織部が作った香合。香合とは茶道で香を入れる蓋付き容器です。

その5 のんこの茶碗
のんことは、楽焼らくやき本家の三代目楽吉左衛門家当主の楽道入らくどうにゅう(1599-1656)の俗称。ここでは、道入の作った楽焼茶碗のことです。

その6 松尾芭蕉の掛け軸
風羅坊とは松尾芭蕉(1644-94)の坊号。正筆は真筆。芭蕉が書いた掛け軸ということですね。

その7 沢庵、木庵、隠元禅師貼り交ぜの小屏風
三人の僧侶がそれぞれに記した書を、ひとつの屏風に貼り合わせたもの。貼り交ぜの常識では、隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)、木庵性瑫もくあんしょうとう(1611-84)、即非如一そくひじょいつ(1616-1671)の三人が一般的で、これは煎茶に用いる道具です。三者とも黄檗宗の高僧です。沢庵宗澎たくあんそうほう(1573-1646)のは抹茶に用いるもの。ですから、沢庵、木庵、隠元の貼り交ぜはありません。こういうところは落語的ですね。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗ごとうゆうじょう(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政あしかがよしまさ庇護ひごを受け、特に目貫めぬきにすぐれた作品が多く残ります。

後藤光乗ごとうこうじょう(1529-1620)はその曽孫そうそんで、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船おさふねは鎌倉時代の備前国びぜんのくに(岡山県)の刀工・長船氏。備前派、長船派といわれる刀工グループです。

祖の光忠みつただは鎌倉時代の人。子の長光ながみつ(1274-1304)、弟子の則光のりみつなど、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉よこやそうみん(1670-1733)は江戸時代中期の金工きんこうで、絵画風彫金ちょうきんの考案者。小柄こつか獅子牡丹ししぼたんなどの絵彫りを得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省ふっけんしょう原産の黄金色の名竹です。

福建省の黄檗山万福寺おうばくさんまんぷくじから日本に渡来し、黄檗宗おうばくしゅうの開祖となった隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。

観賞用、または筆軸、煙管きせる羅宇らおなどの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴にげんきんの師匠の飼い猫・三毛子みけこの珍セリフとして書かれている「天璋院てんしょういん様の御祐筆ごゆうひつの妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」。

これは、落語マニアで三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)や初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利はんどうかずとし氏)があります。

落語にはこの手のくすぐりがかなりあるもので、なんとも言えません。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

うめみのやかん【梅見の薬缶】落語演目

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【どんな?】

「勘違い」がテーマのはなしですね。

別題:癪の合薬 薬缶なめ 茶瓶ねずり(上方)

【あらすじ】

町内の源さんと八つぁん。

髪結床でバカ話をしているうちに、ちょうど向島の花屋敷の臥龍梅が見ごろなので、梅見としゃれこもうと話がまとまり、さっそく舟に乗り込む。

ちょうど相客に、十八くらいのきれいなお嬢さん。

どこか大店の娘らしく、侍女を連れている。

源さん、たちまちでれでれで、よせばいいのにずうずうしく話しかける。

この男、お世辞にもモテるタイプでなく、おまけに四十を過ぎて、もう頭がピカピカ。

それでも口八丁、なんだかだとお世辞を並べて気を引こうとするが、女の方がなにやら、ようすがおかしい。

いやにジロジロと、源さんの顔を見つめてばかり。

そのうち、舟が向こう岸に着き、娘の一行は三囲神社みめぐりじんじゃの土手を下りていく。

二人がいぶかしがりながら言問橋のたもとまで来ると、後ろから先ほどの侍女が追いかけてきて、源さんに、
「お嬢さんが、いま三囲の茶店で待っているので、ぜひおいで願いたい。お願いしたいことがあります」
と頼んだから、さあ源さんは有頂天。

うまくすると、あのお嬢さんに見初められて入婿にでも、とワクワクし、ぶつぶつ文句をいう八つぁんを五円でなだめて、いそいそと二人で茶屋まで出かけていく。

ところが、案の定というか当然というか、侍女が言い出したことには、お嬢さんがこのごろしゃくの持病が出て困っているが、癪には銅をなめるのが一番。

だが、このへんにはなく、難渋していたところ、あなたの頭は見たところ薬缶そっくりで、なめれば銅同様の効き目がありそうだから、ぜひにというわけ。

さあ喜んだのが八。

「どうせそんなこったろうと思った、てめえのツラはどう見ても情夫てえツラじゃねえ」
と、調子に乗って
「その男の頭はたいへんうまいと評判ですから、たっぷりおなめなさい」

源さん、悔しがってももう遅い。

不承不承、頭を差し出すと、お嬢さん、遠慮なくベロベロとナメナメ。

そのうち急に発作が起きたと見え、薬缶頭をガブリ。
「あら、お気の毒さま。どこもお傷がついてはおりませんか」
「なーに、傷はつきましたが、漏ってはいません」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

スキンヘッドは口に苦し?

「金の味」、別題「擬宝珠」では、銅をなめたくなる金属嗜好症がテーマなのですが、この噺は逆に、ある種の病気には銅をなめるのがよい、という俗信に基づくものです。

原話と思われる小咄は三種あります。

最も古いのは万治2年(1659)刊の『百物語』巻下ノ四にある無題のもので、これはある男が意気がって山椒を大量になめ、むせかえって苦し紛れに、山椒でむせたときには銅をなめればよいと、通りがかりの侍の薬缶頭にいきなりかぶりつきます。

無礼者ッと、バッサリ斬られそうになりますが、往来の町衆が栄耀食いでなく、薬食いなのでご勘弁を」と取りなしてくれ、なんとか収まるというお笑い。

宝永7年(1710)刊『軽口都男かるくちみやこおとこ』中の「薬罐やかん」では、ハゲあたまの大金持ちの屋敷に夜、三人組の盗賊が侵入。おやじが物音で目覚め、賊が外へ盗品を運び出すのを出窓からそっとうかがっていると、月光でアタマが光り輝き、ヤカンと間違えた盗賊は、これもついでに頂こうと、むんずとつかんだので、仰天したおやじが大声でわめきます。

そうなればブッスリやる方が早いのに、賊の方もあわてて、「山椒にむせたので、通りがかりにだんなの頭を見て、やかんと勘違いしてつい、なめようと……」と、わけのわからない言い訳をするもの。

続いて明和9年(1772)刊の『鹿の子餅』中の「盗人」は、これを短くしたもので、盗人が盗品を運び出す穴を土蔵に空け、目覚めた主人が不審に思って、ピカピカ頭を穴から出したのを外にいる一味が勘違い。「あ、ヤカンから先か」というオチです。これは落語「薬缶泥」の直接の原話でもあります。

こうした小咄を、怪談ばなしの始祖でもある初代林屋正蔵(1781-1842)が一席噺にまとめたというのが、野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論家)が『落語通談』で述べている説です。

根拠に乏しく、あまりあてにはなりませんが。

本家上方の「茶瓶ねずり」

上方落語「茶瓶ねずり」が東京に移されたものが現行の型です。

「ねずる」は、しゃぶる、なめるの意。

上方のやり方では、女中を連れて野歩きしていた奥方が、へびを見て持病の癪を起こします。

癪は茶瓶(=薬缶)をなめれば治るというので、女中が、通りかかった薬缶頭の武士に決死の覚悟で頼んで、代用に頭をなめさせてもらうというものです。

オチは供の下男と侍の会話で、東京と同じです。

あらすじは、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記を参照しましたが、これは今ではちょっと珍しい演出。

東京では現在は「薬缶なめ」の演題が普通で、その場合、円遊の前半のお色気をカットした上、癪を起こすのを大家のかみさんとし、あとはほぼ上方通りに演じます。

古いオチの型と演者

オチは、古くは、侍の下男が「あなたが謡をうたって歩くから、狐が化かしたんでしょう」と言うと侍が、「狐か。道理で野干 野狐の古称。やかんと掛けた)を好んだ」とオチていましたが、わかりにくいので円遊が変えたものでしょう。

東京では長く絶えていたのを、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)が復活。

ただ、それ以前、二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が「癪の合薬」の名で演じました。

小文治は、先の大戦後、東京に定住し、上方落語を広く東京落語界に紹介した人です。

臥龍梅

江東区亀戸3丁目にあった伊勢屋喜右衛門の別荘「清香庵」は、「梅屋敷」の異称で知らぬ者はなかったほどの梅の名所でした。

中でも、竜がとぐろを巻くように枝がうねっているところから「臥龍梅」と名づけられた白梅は、江戸一番と賞され、シーズンには見物人が絶えなかったとか。

この梅は、吉原の名妓、初代高尾太夫から喜右衛門の先祖が譲り受けたもので、その命名者は徳川光圀でした。水戸黄門で知られた人す。

夏目漱石(夏目金之助、1867-1916)の有名な「修善寺大患」とともに必ず語られる明治43年(1910)の大水害で惜しくも枯れました。

『武江年表』の寛政4年(1792)の項に、「七月二十一日、亀戸梅屋敷の梅旧根消失するよし、『江戸砂子書入』といふ草書にあり」とあるので、それ以前に少なくとも一度は枯れ、接ぎ木したようです。

『武江年表』は、斎藤家三代にわたって書き記してきた年代記。

孫の斎藤月岑が明治初年に編みました。

江戸時代全般の江戸の世相がよくわかる奇書です。

【語の読みと注】
臥龍梅 がりょうばい
大店 おおだな
三囲神社 みめぐりじんじゃ
言問橋 ことといばし
癪 しゃく:胃けいれん
擬宝珠 ぎぼし
栄耀食い えようぐい:美食
薬食い くすりぐい:治療食

【RIZAP COOK】

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ためしざけ【試し酒】落語演目

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【どんな?】

今村信雄の新作。
いや、快楽亭ブラックの。
いやいや、中国笑話だとか。
そもそもは、ルバイヤートから。諸説紛々。

あらすじ

ある大家の主人。

客の近江屋おうみやと酒のみ談義となる。

お供で来た下男久造きゅうぞうが大酒のみで、一度に五升はのむと聞いて、とても信じられないと言い争い。

挙げ句の果てに賭けをすることになる。

もし久造が五升のめなかったら近江屋のだんなが二、三日どこかに招待してごちそうすると取り決めた。

久造は渋っていたが、のめなければだんなの面目が丸つぶれの上、散財しなければならないと聞き
「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」
と、表へ出ていったまま帰らない。

さては逃げたかと、賭けが近江屋の負けになりそうになった時、やっと戻ってきた久造、
「ちょうだいすますべえ」

一升入りの盃で五杯、息もつかさずあおってしまった。

相手のだんな、すっかり感服して小遣いをやったが、しゃくなので
「おまえにちょっと聞きたいことがあるが、さっき考えてくると言って表へ出たのは、あれは酔わないまじないをしに行ったんだろう。それを教えとくれよ」
「いやあ、なんでもねえだよ。おらァ、五升なんて酒ェのんだことがねえだから、心配でなんねえで、表の酒屋へ行って、試しに五升のんできただ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

今村次郎、信雄

今村信雄いまむらのぶお(1894-1959)が昭和初期にものした新作といわれています。

父は講談や落語を専門とした速記者、今村次郎いまむらじろう(1868-1937)。明治期に始まった第一次落語研究会の発起人の一人でもありました。

息子の信雄も速記者です。

落語研究家も兼ねていて、『落語の世界』(青蛙房せいあぼう→平凡社ライブラリー、1956年)などの著作があるほど。

諸説紛々

ところが、この噺には筋がそっくりな先行作があります。

明治の豪人落語家、初代快楽亭かいらくていブラックが明治24年(1891)3月、演芸雑誌『百花園ひゃっかえん』に速記を残した「英国えいこく落話おとしばなし」がそれです。

主人公が英国ウーリッチの連隊の兵卒ジョン、のむ酒がビールになっている以外、まったく同じなのです。

このときの速記者が今村次郎ということもあり、今村信雄はこのブラックの速記を日本風に改作したのでは、と思われます。

では、オリジナルはブラックの作または英国産の笑話かというと、それも怪しいらしく、さらにさかのぼって、中国(おそらく唐代)の笑話に同パターンのものがあるともいわれます。

具体的な文献ははっきりしません。

結局、この種のジョークは気の利いた文才の持ち主なら誰でも思いつきやすいということでしょう。

類話はユーラシア全般に流布しているものと思われます。

本サイトでは、「英国の落とし噺」として別に項目を立てています。

噺の淵源がわかればこちらでお知らせすつもりです。

小さん十八番

初演は七代目三笑亭可楽さんしょうていからくです。

その可楽の演出を戦後、五代目柳家小さんが継承、ほぼ古典落語化するほどの人気作にしました。

今村信雄自身も『落語の世界』で、「今(1956年)『試し酒』をやる人は、柳橋りゅうきょう三木助みきすけ小勝こかつ、小さんの四人であるが、(中略)中で小さん君の物が一番可楽に近いので、今、先代可楽をしのぶには、小さんの『試し酒』を聞いてくれるのが一番よいと思う」と述べています。

のんべえ噺を得意にしていた人だけに、大杯たいはいをあおる場面の息の継ぎ方のうまさなど今さら言うまでもありません。

その小さん門下を中心に、現在もよく演じられ、大阪では桂米朝べいちょうの持ちネタでもありました。

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みけんじゃく【眉間尺】落語演目

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【どんな?】

八五郎が先生に家紋「三つ巴」を尋ねる。
先生のうんちくは干将莫邪の故事へと。
その結果、三つ巴は縁起よくない、と。
八「片喰も」 先生「?」 八「三人の尻だから」

別題:三つ巴

【あらすじ】

八五郎が先生のところにやってきた。

八「紋なんてものは、どんなもんだぁ」
先「やぶからぼうに。おまえんとこの紋はなんだ」
八「ねえのです」
先「家々に紋のない者があるか。紋はその人のうじより出たものだ」
八「お茶のようだね」
先「宇治うじでははい。うじだ」
八「おやじの紋は知ってまさあ」
先「なんの紋を付けたな」
八「ウワバミです」
先「カタバミだろう」
八「そうそう。わっちは縁起のよさそうな太鼓の紋にしようと思いまさぁ」
先「太鼓の紋というのがあるか」
八「太鼓の紋を知らねえのかえ。どの太鼓にも付いてまさあ」
先「あれはともえの紋だ。縁起の良いものではないな」
八「なぜです」
先「むかし、楚国そこく干将かんしょうという者があったな」
八「そこくてなあ、なんです」
先「もろこしだ」
八「物干しに干瓢かんぴょうがあったら、雨が降ると困りますね」
先「物干しじゃねえ。唐のことだ」
八「ちゃんちゃんかね」
先「これはむかしのことだ。干将というのはもろこし一番の鍛冶かじだな」
八「へえー。神田の大火事たぁどっちが大きかったね」
先「刀鍛冶かたなかじのことだ。その妻を莫邪ばくやという」
八「寄席の楽屋かえ」
先「だまって聴いていな。時に、楚王そおうの妃、かれ身肥えたるゆえに夏の日の暑さに堪えず、日夜、黒鉄くろがねぼうを抱いて」
八「助兵衛すけべえな奴だね」
先「なにが助兵衛だ」
八「だって、真っ黒な棒を抱いて寝るなんて」
先「これこれ。からだを冷やすためにさ」
八「へえー。冷たい棒がありますかね」
先「鉄の棒だ。不思議なことには、ついにははらんだな」
八「それ、ごらんなせえ。とうとう孕みやがった。言わねえこっちゃねえ。それから」
先「月重なりて鉄のまるかせを産んだな」
八「なにを産んだね。鉄のまるかせ……。助兵衛な、そんなものばかりを産むやつがあるものか」
先「まるかせといって、鉄の玉を産んだのだ。楚王はあまりの珍しきことに、そのまた鉄の性のよきことを見て、国中をたずねて鍛冶を求める。ここに干将莫邪を召したな」
八「口の曲がったやつ」
先「なんだ」
八「癇性かんしょう
先「違っていらあ。干将だ。干将と莫邪。その鍛冶を二人召して剣二振ふたふりを作らしむ。その二剣を干将莫邪と名づけたり」
八「あいあい、さようでござい。あちらでも御用とおっしゃる」
先「そうぞうしい。干将、剣を打ち上げてみると、古今無双の金味だ。その味のよいことな」
八「その棒を抱いて寝やがったのだ」
先「干将はあまりの上出来ゆえ、一振りを楚王にたてまつられて、残る一振りを隠したな」
八「うーん、とうとう一剣を隠しやがったな」
先「これ、なにを言うのだ。そのとき、楚王はこれを知って大いに怒って、干将莫邪夫婦をからめとって首を斬る。その子にせきという者がある。この人は眉間の広さが一尺(15.8cm)あったな」
八「おそろしいデコスケですねえ。大文字屋だいもんじやの先祖かね」
先「これを知った楚王は赤を捕らえようと捕り手を向かわした。赤は剣を持って山中に隠れた」
八「そんなオオデコじゃ、どこに隠れたってアタマで知れらあ」
先「洒落るな。赤は山中で泣いた。そのとき、侠客だてびとがやってきた。だてびととは侠気をはらんだ男子、つまりは侠客きょうかくのことだな」
八「山ん中に侠客きょうかくがきょう来たか」
先「赤よ、おまえの親の仇を討つのは難しい。おまえがおれに剣を渡し、おまえの首をおれに渡せば、おれはおまえのために王を討ってやろう」
八「オオデコの首をなににするんで。見世物にして銭もうけをやろうというんだな。唐人うまくやりやがるな。サア、これはこのたび、もろこしから渡りました、オオデコオオデコ、デコデコ、評判評判」
先「黙っていなさい。侠客に向かって、赤は喜んで自ら首をねた。しかし、死骸むくろは倒れず。立ったきりだ」
八「なるほど。元が棒から起こったことだから、棒を呑んで化け者てなあ、このことだな」
先「侠客は赤の死骸に向かって、おれはおまえとの約束は必ず守ると誓いを立てれば、死骸はばったりと倒れたり。さあ、これから、侠客は赤の首を持って王に報じて実検を願った。王は赤の首を見ると、生きているようだと言った」
八「なにか食わせたんでしょう」
先「まあ、聴きなさい。その首を三日三晩煮た」
八「ちったあ、軟らかくなりましたかね」
先「少しもただれず(くずれない)。このことを王に申し上げるや、王は自ら来たりて釜の中をのぞく。その後ろより、侠客は干将の剣をもって王の首を討ち落とした。その首、釜の中で生けるがごとくにして、赤の首と戦うもののごとし。侠客はこれを見て、赤の加勢をしようと、自らの首を刎ねて釜の中に入った。三つの首がまわりて爛亡ただりょうせぬ(くずれない)ということは、『小説瑯琊代酔編ろうやだいすいへん』という本にある。後の世にあまり罪深いものなので、太鼓にその形を付けて打ちたたいて罪を滅しようと計る。その頃、国もことごとく乱れてい家々の軒の下に太鼓を吊るし置いて、非常なる時はこれを打てば村中集まりきたって、大勢で防ぐ。ここからだんだんと太平になって、いつも太鼓は必要なくなった。太鼓にはつたをからみとりが来たって時辰ときを作る(時刻を告げる)」
八「ははあ、それで軒下の瓦に巴の紋を付けるんだ」
先「それはわからないが、しかし、巴は三人の首の形だ。あんまりめでたいものでもないな」
八「へー、なるほど。それじゃ、酢漿かたばみもよしやしょう」
先「なぜだ」
八「三人の尻だろう」

底本:明治29年9月15日刊「江戸の華」二代目三遊亭円馬

【しりたい】

眉間尺とは

噺ではなんの説明もありませんが、「赤」なる青年が「眉間尺」という勇者なのですね。

これは、中国春秋時代(BC771-BC403)の話です。この時代の1尺は15.8cm。現在の中国では33.33cmです。15.8cmであっても、そうとうなものですが。

楚の王になっていますが、干将莫邪の伝説は、多くは呉越の争いが背景にあります。王は、呉王闔閭になっている書もあります。おもしろい話なので、時代を経てどうとでも脚色されていったのでしょう。

干将莫邪の故事は、これそのものがかなりおもしろいものです。これを落語にしてしまうのは驚きですが、話のすじはほとんど脚色されていないところも、ほかのこじつけ噺とは違って、意外な驚きです。ほかの噺とは一線を画しています。

干将莫邪については、「擬宝珠」(演目)や「干将莫邪」(故事成語)をご覧ください。

ちゃんちゃん

この噺は明治29年(1896)に高座にかかったものです。日清戦争で日本が勝利したのがこの前年。急速に清国をさげすむ風潮が、国内に蔓延していました。

そんな流れの中での「ちゃんちゃん」。清国人の弁髪姿さす言葉です。「ちゃちゃん坊主」とか「ちゃんちゃん野郎」とか呼んで、彼らをさんざんばかにしていました。速記には「豚尾ちゃんちゃん」とあります。

大文字屋

吉原の京町1丁目にあった妓楼。

創業者の初代村田市兵衛は大頭で短身だったことから、そういう体型の男を「大文字屋」とこぞって呼んだ時期がありました。

まるかせ

球状のものをさします。「まるがせ」とも。

ここでは、八五郎がどうも下ネタに持っていこうと、まるかせを金玉に無理押ししているのが、ほのみえます。

三つ巴

「三つ巴」の意味は、①三つのものが互いに対立して入り乱れること、②三人が向かい合って座ること、③紋所・文様の名。巴を三つ組み合わせて円形にしたもの、の3つがあります。この噺では、最初に③の家紋についての話題が出てきて、その後、干将莫邪の段にになると、①についての意味が濃厚になってきています。

太鼓に描かれた三つ巴のうんちくも。

こんな具合に、日本ではごく普通に三つ巴は目にするものです。しかし、これがなにを意味するのかは、いまだに不分明なところがあります。

中国では「太極」の図像が巴に似ています。万物の根源をなす陰陽をかたどっているものとされています。周辺地域に伝播したようです。欧米でも少ないですが、使われます。

日本特有の図像ではありません。神社行事に結びつけるようになるのは鎌倉期以降のことです。江戸時代にさまざまに図案化されていきました。古くはありません。

この噺は、その「巴」の不明瞭部分を突いているように思えて、なんだかおかしいものです。

ついでに、かたばみにも。

かたばみは「酢漿草」「片喰」「傍食」などと記されます。カタバミ科カタバミ属の多年草です。「すいば」「かがみぐさ」「すずめぐさ」「しょっぱぐさ」「もんかたばみ」「ねこあし」など、180種以上の言い方があります。中国では「三葉酸草」「老鴨嘴」「酸味草」「満天星」などとも。

たしかに、三人にお尻に見えなくもないし。こっちも笑っちゃいますね。

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はつてんじん【初天神】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

悪ガキの上をいく、ピンボケなすれたおやじ、熊五郎の噺。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳、19世紀の人)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)、三遊亭円弥(林光男、1936-2006)、上方では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)でしたが、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)から継承した三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)も得意としていました。

オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。

みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

 

 

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さんごうじごう【山号寺号】落語演目

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【どんな?】

これぞ醍醐味、軽口の応酬。
だじゃれなんかじゃありません。

別題:恵方詣り

【あらすじ】

若だんなが丁稚の丁松をお供に、おやじの代参で新年の恵方(えほう)参りに出かけた。

途中、上野広小路あたりでひいきの幇間の一八に出会うと、例によって下らないヨイショを並べた後、どちらへと聞くので、「うん、成田山だ」「へえ、新勝寺でげすか」「わからねえ男だな。成田山だってえのに」「だから新勝寺でげしょう。成田山は新勝寺、東叡山寛永寺、金龍山浅草寺、一縁山妙法寺、どこでも山号に寺号がつきます」「そうかい、きっとどこにでもあるな?」正面切ってそう言われると、さしもの一八もシドロモドロ。

ところが若だんな、粋なもので、「どうだい、寺でなくても山号寺号を出してみな。一つ言うごとに半助(五十銭)やろうじゃないか」

金と聞いては見逃せない一八、さあ張り切って、あらん限り絞り出す。

「按摩さん揉み療治、漬物屋さん金山寺、時計屋さん今十時、お乳母さん子大事、お巡りさん棒大事」と大分取られた。

若だんな、「今度はオレがやろう。今やった祝儀を全部ここィ出しな」「へえ、こう出しまして」「これをオレが懐へ入れて」「入れまして」「一目散随徳寺」

ひどい奴があるもの。風を食らって逃げだした。

「あっ、南無三、し損じ」
と悔しがると丁稚が
「だんなさんよい感じ」

底本:初代三遊亭円遊

【しりたい】

由緒ある噺

原話は古く、初代露の五郎兵衛(1643-1703)の遺稿集『露休置土産』(宝永2=1705年刊)中の「はやる物は山号寺号」です。この人は京都辻噺のパイオニアにして、落語家のもっとも重要な始祖の一人です。

それから一世紀以上を経た文政4年(1821)刊の松浦静山(1760-1841)の随筆『甲子夜話』には現行の落語により近い小咄が紹介されていて、「一目散随徳寺」「南無三し損じ」の洒落もあります。

いくらでも新しいシャレが加えられるため、演者によって融通無碍、自由自在の噺です。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は「小秀(明治の痴情殺人犯の芸者時代の名)さん暴療治」「おまわりさん棒大事」など、明治の新風俗も織り込みました。

前座噺の扱いですが、昭和以後では八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が得意で、柳枝は大阪のオチにならって「南無三し損じ」で切っていました。

山号寺号

古くからある言葉遊びです。原話の『露休置土産』所載の小咄では、琵琶湖から大津までの乗合船である矢橋(やばせ)船に乗り合わせた江戸、大坂、京都の人間がお国自慢する趣向の中に織り込まれます。

この中に、江戸で名高い医者のあだ名を「医王山薬師寺」などとシャレるくだりがありますが、これは薬師如来が医療の守護神であったところから来ています。

そこからも、古くは「山号寺号」が単なるダジャレでなく俳句の付け合いの趣向を採った見立て遊びであったことがうかがえます。

オチで、京者が「京の島原には、『みなさんご存じ』と申す太夫がござる」と、これはダジャレでしめていて、こうしたたわいないダジャレの部分だけ落語の「山号寺号」に残ったといえるでしょう。

ズイッと随徳寺

「ずいっ」と逃げ出すので、寺の名に引っ掛けただけです。

わき目も振らずに逃げ出す意味の「一目散」を山号にして前に付け、「一目散(山)随徳寺」。これは、戦前まではごくふつうの日常語でした。

一説には、昔あった随徳寺という寺の和尚が夜逃げしたことからきたともいいますが、さて、どうでしょう。

「山号」は、初期の仏教では多くの寺が山中に建てられたところから付いたものです。

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ほりのうち【堀の内】落語演目

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【どんな?】

法華宗が噺の中心。
ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。
法華噺でもあり、粗忽噺でもあり。

別題:あわてもの 粗忽者 粗忽者一家 愛宕詣り いらちの愛宕詣り(上方)

あらすじ

粗忽者そこつものの亭主。

片方草履ぞうりで、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。

薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

しりたい

小ばなしの寄せ集め  【RIZAP COOK】

粗忽そこつ(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利かるくちふくどくり』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意ぶじしうい』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

『無事志有意』は烏亭焉馬うていえんば(中村英祝、1743-1822)の作です。

焉馬は、本所相生町あいおいちょうの大工で、和泉屋和助いずみやわすけ立川焉馬たてかわえんば立川談洲楼たてかわだんじゅうろう談洲楼焉馬だんじゅうろうえんば鑿釿言墨曲尺のみのちょうなごんすみかねなどの名を持っていました。

天明6年(1786)、向島の料亭、武蔵家権之方で「噺の会」を主宰しました。

一方の寄席の始まりといわれています。

墓所は、本所表町(墨田区東駒形1丁目)の最勝寺。天台宗の寺院で、目黄不動の通称で知られています。

門弟には、初代朝寝房夢羅久あさねぼうむらく(里見晋兵衛、1777-1831)、初代立川金馬(日吉善蔵、生没年不詳、→二代目朝寝坊むらく)、初代立川談笑(足袋屋庄八、?-1811)、初代談語楼銀馬(松塚幸太郎、生没年不詳)、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)、二代目烏亭焉馬(山崎嘗次郎、1792-1862)などがいました。

上方版「いらちの愛宕詣り」  【RIZAP COOK】

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま  【RIZAP COOK】

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗(江戸時代は法華宗と呼んでいました)の名刹です。

「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

妙法寺は、もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でした。元和年間(1615-24)に日円上人が開基して法華宗(日蓮教団)に改宗。

明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。

こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

法華宗の本気度  【RIZAP COOK】

「開帳」とは、厨子(仏像を安置するケース)のとばりを開いて、中に納められた本尊の秘仏を拝ませることです。

地方の由緒ある寺院が江戸に出向いて開帳するようなことを「出開帳」と呼びました。

今の美術館などでの展覧会のような催しです。

もちろん、「開帳」の第二義は、「女性の腰巻があらわになること」ですが、これはまた別の機会に。

法華宗(日蓮教団)の出開帳は、宝永2年(1705)の京都・本圀寺の江戸出開帳が最初だそうです。『武江年表』などで見ると、この年から明治6年(1873)までに行われた出開帳は131件だったそうです。

これは、出開帳全体の約半分だったとか。開帳の中身の約6割は、日蓮の肖像、つまり祖師像だったといいます。

これで法華宗の諸寺は何を示すかといえば、厄除け祖師といったように、厄除け、開運、火除け、延命、子安、日切り願満などを掲げました。

法華宗は他宗派と違って、期限の通例60日を延長するすることも、人寄せのため境内に見世物小屋などを設けることもせず、それでも参詣者は集うたといわれます。

法華宗(日蓮教団)を無視して、江戸の町は語れません。

参考文献:日本思想大系34『近世仏教の思想』月報所収「近世日蓮教団の祖師信仰」(高木豊)



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けいこや【稽古屋】落語演目

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【どんな?】

音曲噺。
鳴り物入りでにぎやかに。
太っ腹な滑稽がえんえんと。

別題:稽古所 歌火事(上方) 

あらすじ

少し間の抜けた男、隠居のところに、女にもてるうまい方法はないかと聞きにくる。

「おまえさんのは、顔ってえよりガオだね。女ができる顔じゃねえ。鼻の穴が上向いてて、煙草の煙が上ェ出て行く」

顔でダメなら、金。

「金なら、ありますよ」
「いくら持ってんの」
「しゃべったら、おまえさん、あたしを絞め殺す」
「なにを言ってんだよ」
「おばあさんがいるから言いにくい」
というから、わざわざ湯に出させ、猫まで追い出して、
「さあ、言ってごらん」
「三十銭」

どうしようもない。

隠居、こうなれば、人にまねのできない隠し芸で勝負するよりないと、横丁の音曲の師匠に弟子入りするよう勧める。

「だけどもね、そういうとこィ稽古に行くには、無手じゃ行かれない」
「薪ざっぽ持って」
「けんかするんじゃない。膝突きィ持ってくんだ」

膝突き、つまり入門料。

強引に隠居から二円借りて出かけていく。

押しかけられた師匠、芸事の経験はあるかと聞けば、女郎買いと勘違いして「初会」と答えるし、なにをやりたいかと尋ねてもトンチンカンで要領を得ない。

師匠は頭を抱えるが、とりあえず清元の「喜撰」を、ということになった。

「世辞で丸めて浮気でこねて、小町桜のながめに飽かぬ……」
と、最初のところをやらせてみると、まるっきり調子っ外れ。

これは初めてではむりかもしれないと、短い「すりばち」という上方唄の本を貸し、持って帰って、高いところへ上がって三日ばかり、大きな声で練習するように、そうすれば声がふっ切れるからと言い聞かせる。

「えー、海山を、越えてこの世に住みなれて、煙が立つる……ってとこは肝(高調子)になりますから、声をずーっと上げてくださいよ」
と細かい指示。

男はその晩、高いところはないかとキョロキョロ探した挙げ句、大屋根のてっぺんによじ登って、早速声を張り上げた。

大声で
「煙が立つゥ、煙が立つーゥ」
とがなっているので、近所の連中が驚いて
「おい辰っつあん、あんな高え屋根ェ上がって、煙が立つって言ってるぜ」
「しようがねえな。このごろは毎晩だね。おーい、火事はどこだー」
「煙が立つゥー」
「だから、火事はどこなんだよォー」
「海山越えて」
「そんなに遠いんじゃ、オレは(見に)行かねえ」

底本::五代目古今亭志ん生

しりたい

音曲噺  【RIZAP COOK】

おんぎょくばなし。「おんぎょく」と濁ります。この噺は、今は絶滅したといってもいい、音曲噺の名残りをとどめた、貴重な噺です。

音曲噺とは、高座で実際に落語家が、義太夫、常磐津、端唄などを、下座の三味線付きでにぎやかに演じながら進めていく形式の噺です。

したがって、そちらの素養がなければ絶対にできないわけです。

今残るのは、この「稽古屋」の一部と、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が得意にした「豊竹屋」くらいのものでしょう。

昔の寄席には「音曲師」という芸人が大勢いて、三味線を片手に、渋い声でありとあらゆる音曲や俗曲をおもしろおかしく弾き語りしていたものです。

音曲噺というジャンルも、そうした背景のもとに成立しました。

明治・大正の頃までは、演じる側はもちろん、聞く客の方も、大多数は稽古事などを通して、長唄や常磐津、清元などが自然の教養として日常生活に溶け込んでいたからこそ、こうした噺を自然に楽しめたのでしょうね。

上方の「稽古屋」  【RIZAP COOK】

発端の隠居とのやりとりは、上方で最も多く演じられてきた「稽古屋」から。初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)が得意にしました。

主人公でアホの喜六(東京の与太郎)が稽古所へ出かけるまでの大筋は同じです。

大阪のは隠居(甚兵衛)や師匠とのやりとりにくすぐりが多く、兄弟子の稽古を見ているうちに、子供の焼イモを盗み食いするなどのドタバタのあと、「稽古は踊りだすか、唄だすか」「どっちゃでもよろし。色事のできるやつを」「そんなら、私とこではできまへん」「なんで」「恋は指南(=思案)のほかでおます」と、ダジャレオチになります。

東京では、春風亭小朝がこのやり方で演じます。

「稽古所」  【RIZAP COOK】

次の「喜撰」を習うくだりは、東京でも演じられてきた音曲噺で、別題「稽古所」。オチはありません。

最後の屋根に上がってがなるくだりからオチまでは、明治末に四代目笑福亭松鶴(森村米吉、1869-1942、→笑福亭松翁)が上京した際、「歌火事」と題して演じたものです。

先の大戦後、初代桂小南(岩田秀吉、1880-1947)、ついで二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が「稽古屋」として、松鶴のやり方で東京で演じました。

以上三種類の「稽古屋」を、最後の「歌火事」を中心に五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が一つにまとめ、音曲噺というより滑稽噺として演じました。

今回のあらすじは、その志ん生のものをテキストにしました。

これが、次男の古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に継承されていたものです。

バレ噺の「稽古屋」  【RIZAP COOK】

もう一つ、正体不明の「稽古屋」と題した速記が残っています。

こんな噺です。

常磐津の師匠をめぐって二人の男が張り合い、振られた方が、雨を口実に強引に泊まり込んだ上、暗闇にまぎれて情夫になりすまし、師匠の床に忍び込んでまんまと思いを遂げます。最後はバレますが、とっさに二階から落ちて頭を打ったことにしてゴマかし、女の母親が「痛いのなら唾をおつけなさい」と言うと、「はい、入れるときつけました」と卑猥なオチになります。

むろん演者は不明。音曲の場面もなく、たぶん大正初年にできたバレ噺の一つと思われます。

音曲の師匠  【RIZAP COOK】

ここに登場するのは、義太夫、長唄、清元、常磐津と、なんでもござれの「五目の師匠」。

今はもう演じ手のない「五目講釈」という噺もあります。

「五目」は上方ことばで「ゴミ」のことで、転じて、いろいろなものがごちゃごちゃ、ショウウインドウのように並んでいるさまをいいます。

こういう師匠は、邦楽のデパートのようなものです。

街場によくある、鰻屋なのに天丼もカツ丼も出すという類の店と同じく、素人向きに広く浅く、なんでも教えるので重宝がられました。

次は、音曲噺ついでに「豊竹屋」でもいかがでしょうか。

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すどうふ【酢豆腐】落語演目

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【どんな?】

町内の若い衆が暑気払いを。金がない。
「なんかねえかなぁ」
与太郎が釜に放り込んだ豆腐の残り。腐ってる。
キザな若だんなに「舶来物」と。食わせる魂胆。
鼻をつまんで若だんな。「乙でげす」
上方に上って「ちりとてちん」に。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若だんな。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若だんなァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若だんな、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若だんな、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若旦那、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若だんな、恐れ入りました。ところで、これは、なんてエものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽



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【しりたい】

若だんなは半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差のだんな衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の『大通法語』に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の『文藝倶楽部』に掲載された初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の速記から、若旦那の洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げエせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫(赤塚藤雄、1935-2008)のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。

それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、古今亭志ん朝(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意としました。志ん朝の若だんなは嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別の演出で、石鹸を食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)から、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)に伝わっていました。

「あくぬけ」のオチは、「若だんな、それは石鹸で……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)門下だった初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。

大阪に移植され、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)も得意にしました。

東京では、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)などがこちらの型で演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。

「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

ことばよみいみ
おついいことも悪いことも
かんざし髪にとめる金具
江戸生艶気樺焼 
えどうまれうわきのかばやき山東京伝の黄表紙。3冊。天明5年(1785)刊。挿し絵は北尾政演。つまり、山東京伝本人による。版元は蔦屋重三郎
拙 せつわたし

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てれすこ【てれすこ】落語演目

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【どんな?】

捕れた魚の名が不明。
奉行所は名を知る者に百両を。
茂兵衛が「てれすこ」と。
いぶかる奉行は同じ魚を干物に。
茂兵衛は「ステレンキョウ」。
死罪に!
潔白信じ断食する妻と面会。
茂「子供にはイカの干したのをスルメと言わせるな」
奉「言い訳相立った。無罪」
かみさんが火物(=干物)断ちをしたから。

別題:すてれんきょう 長崎の代官

あらすじ

ある漁村で、珍しい魚が捕れたが、専門家の漁師たちにも名前がわからない。

そこで奉行所に聞きに行ったが、もとより役人が知るはずがない。

困って、これこれの魚の名を存じる者は申し出れば百両の賞金をつかわすという高札が立った。

これが評判になり、近在から人が押し寄せる。

それに目をつけたのが、多度屋茂兵衛たどやもへえという商人。

金に目がくらみ、「これは『てれすこ』と申す魚にございます」とでたらめを申し立てたが、役人の方も本当か嘘か証明できないので、茂兵衛はまんまと賞金をせしめる。

これは臭いと眉に唾をした奉行、一計を案じて、魚を干物にし、「この度もかような珍魚が捕れた。この名を知っている者は役宅へ申し出よ。百両つかわす」と、前と同じような高札を出した。

計略とは知らない茂兵衛、欲にかられてまた奉行所に出向き、「これはステレンキョウと申します」と言い立てたから運の尽き。

「上をいつわる不届き者。吟味中、入牢申しつけるッ」と、たちまち縛られてしまう。

吟味の末「多度屋茂兵衛。その方、『てれすこ』と申せし魚をまた『すてれんきょう』と申し、上をいつわり、金子をかたり取ったる罪軽からず。重き咎にも行うべきところなれど、お慈悲をもって打ち首申しつける」と判決が下った。

世にいう「てれすこ裁判」。最後に何か望みがあれば、一つはかなえてつかわすというので、茂兵衛うなだれて「妻子に一目、お会わせを願いとう存じます」

かみさんがやせ衰えた姿で、乳飲ちのみ子を抱いて出頭した。

茂兵衛が驚いてようすを聞くと、亭主が身の証が立つようにと、断食をしていたが、赤ん坊のお乳が出ないのはかわいそうなので、そば粉を水で溶いたものをすすっていたという。

「それほどわしの身を案じてくれてありがたい。もう死んでいく身、思い残すことはないが、子供が大きくなっても、決してイカの干したのをスルメと言わせてくれるな」と茂兵衛が遺言ゆいごん

それを伝え聞いた奉行、膝を打って「多度屋茂兵衛、言い訳あい立った。無罪を申し渡す」

首のなくなるのを、スルメ一枚で助かった。

助かるはずで、かみさんが火物ひもの(=干物ひもの)断ちをしたから。

しりたい

民話がルーツのとんち噺

土壇場で口をついて出た苦し紛れの頓知とんちで、あやうく命が助かる噺ですが、類話は各地の民話にあります。

地方によって、最初のでたらめな魚名(てれすこ)は「きんぷくりん」「ばばくろう」、二度目(ステレンキョウ)が「かんぷくりん」などと変わるようです。

「てれすこ」は実は何のことはなく、「テレスコピョ」つまりテレスコープ、望遠鏡のこと。「ステレンキョウ」はよく分りませんが、立体メガネのことだという説もあります。

直接の原話は、笑話本『醒睡笑せいすいしょう』(安楽庵策伝あんらくあんさくでん寛永かんえい5年=1628年)巻六「うそつき」第二話です。

ここでは、舞台がの国(摂津せっつ)兵庫浦ひょうごがうら

男がとがめられ、「無塩(鮮魚)のときはほほらほ、今はさがり(干からび)なのでばくくらく」と言い訳するのがオチになっています。

円生十八番は上方ダネ

もとは上方落語で、大阪の五代目金原亭馬生(「長崎の赤飯」参照)が得意にしていました。

大阪では、桂米朝の持ちネタでした。

東京では先の大戦後、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)がよく演じました。その後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)の一手専売になりました。

円生は場所を明確にしていませんが、漁業の盛んな地方で奉行がいるから、長崎だろうというので、そのものずばり「長崎の代官」の別題で演じられることもあります。

サゲはダジャレで、本来「干物絶ちをしたから助かったのはあたりめ(スルメの忌み言葉=当たり前を掛けたもの)と説明しますが、円生は、それは蛇足だというので、本あらすじのように切っていました。

火物絶ちって?

一定期間、満願まで、火を通して料理した食物を断ち、願掛けをすることです。



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ふろしき【風呂敷】落語演目

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【どんな?】

長屋で間男してないのはいない。
そう言う、熊五郎のかみさんも……。
不倫、不貞、間男。
意表をつく風呂敷の使い方。
ためになりますかね。

別題:褄重ね 不貞妻 風呂敷の間男

【あらすじ】

亭主の熊五郎の留守に、かみさんが間男を引きずり込み、差しつ差されつ、しっぽり濡れている。

男の方はおっかなびっくり。

かみさんは、この長屋で間男していないかみさんはないから、みな「お相手」がいると、いっこうに気にしない。

「ウチの宿六は、年がら年中稼ぎもしないで遊び放題で、もう愛想が尽きたから、牛を馬に乗り換えて、おまえさんと末永く、共白髪まで添い遂げたいねえ」
と言っては、気を引く。

馬肉や精進揚げをたらふく食って酒をのみ、
「どうせ亭主は横須賀に行っていて帰りは明日だから、今夜はゆっくり」
というところに、路地のどぶ板で足音。

戸をとんとんたたいて
「おい、今、けえった」

かみさん、あわてて間男を戸棚に押し込んだ。

どうせ酔っぱらっているから、すきを見て逃がす算段。

ところが熊五郎、家に入るなり、たいそう御膳が出ているなと言いながら、当の戸棚の前に寝そべると、そのまま高いびき。

これでは戸を開けられないので、かみさんが困っていると、そこへ現れたのが鳶頭。

かみさん、拝み倒して成り行きを白状し、
「ひとつ助けてくださいな」
と頼むので、鳶頭、
「見捨てるわけにもいかねえな」
と、かみさんを外に出し、熊をゆさぶり起こす。

寝ぼけ眼の熊に、かみさんは買い物に行ったとごまかして
「今日友達の家に行ったらな、おかしな話があったんだ。そこの亭主というのはボンヤリしたやつで、稼ぎもろくろく出来ねえから、かみさんが間男をしやがった」
「へえ、とんでもねえアマだ」
「どうせ宿六は帰るめえと思って、情夫を引きずり込んで一杯やってるところへ、亭主が不意に帰ってきたと思え。で、そのカカアがあわ食って、戸棚に男を隠しちまった」
「へえー」
「すると、亭主が酔っぱらって、その戸棚の前に寝ちまった」
「そりゃ、困ったろう」
「そこで、オレがかみさんに頼まれて、そいつを逃がしてやった」

熊が
「どんなふうに逃がしたか聞かしてくれ」
と頼むので、鳶頭
「おめえみたいに寝ころんでたやつを、首に手をこうかけて起こして」
「ふんふん」
「キョロキョロ見ていけねえから、脇の風呂敷ィ取って亭主の顔へこう巻き付けて……どうだ、見えねえだろう。そこでオレも安心して、戸をこういう塩梅にガラリと開けたと思いねえ」

間男を出し、拝んでねえで逃げろと目配せしておいて、
「そいつが影も形もなくなったとたんに、戸を閉めて、それから亭主にかぶせた風呂敷を、こうやって」
とぱっと取ると、熊が膝をポンとたたいて
「なあるほど、こいつはいい工夫だ」

底本:初代三遊亭円遊、五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は諸説紛々

興津要説では落語草創期から口演されてきた古い噺。矢野誠一説では幕末の安政5年(1858)に没した中平泰作なる実在人の頓知ばなしが元とか。

出自については風呂敷だけに、唐草模様のごとく諸説入り乱れ、マジメに追究するだけ野暮というものです。

ともかく生粋の江戸前艶笑落語ですが、珍しく上方に「輸出」され、東西で演じられます。一応、安政2年(1855)刊『落噺笑種蒔』中の「みそかを」が原話らしきものとされます。

これは、間男をとっさに四斗樽の中に隠して風呂敷をかけた女房が、亭主に「これはなんだ」と聞かれたら「焚き付け(風呂焚き用のかんな屑)です」と答えようと決めていたのに、いざとなると震えて言葉が出ず、思わず樽の中の間男が「たきつけ、たきつけ」という、それこそかんな屑のようにつまらないもの。

この噺は少なくともそれ以前から演じられていたようなので、これはずっと古い出典のコピーか、逆に落語を笑話化したものの可能性があります。

「風呂敷」史 検閲逃れの悪戦苦闘

江戸時代には粋なお上のお目こぼしで、間男不義密通不倫噺として、大手を振って演じられていたわけですが、幕府の瓦解で薩長の田舎侍どもが天下を取ると、そうはいかなくなります。

明治、大正、戦前までは、「姦通罪」が厳として存在し、映画、演劇、芸能の端にいたるまで、人妻を口説く場面などもってのほか。台本などの事前検閲はもちろん、厳重をきわめました。

落語も例外ではなく、「不貞妻」と題したこの噺の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記(明治25年)では、官憲をはばかって間男に「道ならねえことをするのだからあんまりよい心持ちじゃねえな」と言わせるなど、弁解に苦心しているのがありあり。

大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)になると、女房はお女郎さんあがりで、以前のなじみ客に会ったので、あくまで昔話をするということで家に入れる設定になっています。

ここでのあらすじは、初代円遊の古い型を参照しました。

実際にはこれ以後、現在に至るまで通常の寄席の高座で演じる「風呂敷」からは本来の不倫噺の要素がほとんど消えています。

この噺を好んで演じたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)。

やはり間男噺としては演じず、男はただの知人で、嫉妬深い亭主の誤解を避けるため押し入れに隠すやり方をとりました。

濡れ場などはカットした上で、鳶頭が「女は三階(=三界)に家なし」「貞女屏風(=両夫)にまみえず」などのダジャレで、実際は不倫をしていなくても、誤解を招くことをしないよう女房に訓戒をたれる配慮をしていました。

現在もこのやり方がほとんどです。

もっとも、いくら何でも女房が不倫を打ち明けて鳶頭に助けを請うのは不自然で、鳶頭がそれをいいよいいよと簡単に請合うのもおかしな話なので、噺の流れとしては今のやり方の方がずっと自然でしょう。

風呂敷ことはじめ

古くは平裏ひらつづみと呼ばれ、平安時代末期から使われました。源平争乱期には、当然、討ち取った生首を包むのにも。

江戸時代初期、銭湯が発達して、ぬか袋などを包むのに使われたため、この名が付きました。

なかには、布団が包める3m四方以上の大きなもの(大風呂敷)もあり、これが「ホラ吹き」を意味する「大風呂敷を広げる」という表現の元となったわけですね。



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ぎょけい【御慶】落語演目

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【どんな?】

小さんが代々伝えてきました。
にぎやかでなんとなくめでたい。
江戸の噺。

別題:千両富 鶴亀 富八 八五郎年始

あらすじ

この三年この方、富くじに入れ込み過ぎてる八五郎。

はずれてもはずれてもあきらめるどころか、一攫千金への果てなき夢は燃えさかるばかり。

おかげで商売は放りっぱなし、おかみさんが、いくら当たりっこない夢から覚めて、まじめに働いとくれと、意見をしても、馬の耳に念仏。

もう愛想あいそが尽きたから、これ以上富を買うのなら別れると、脅してもダメ。

はや、年の暮れが近づき、借金を申し込んでも、もう誰も貸してくれる者がいないから、富くじ代一分どころか、年を越せるだけの金もない。

そんなことは富さえ当たれば万事済むと、八五郎はむりやりかみさんの半纏をむしり取り、質屋でマゲて、千両富のくじ代をこしらえると、湯島天神へまっしぐら。

八が強気なのはわけがあって、昨夜見たのが鶴がはしごの上に止まっている夢。

必至に夢解きをした結果、鶴は千年、はしごはハシゴで八四五。

だから、鶴の千八百四十五番のくじを買えば大当たり間違いなしというわけ。

途中に大道易者が出ていたので、夢のことを話して占ってもらうと、
「なるほど。それで鶴の千八百四十五とは考えたが、そこが素人の甘さだな」
「なぜ?」
「ハシゴは下るより登る方に役立つもの。八百四十五と下りてくるより、逆に五百四十八と登るのが本当だ。鶴の五百四十八番にしなさい」

なるほどと思って、興奮しながらその札を買う。

いよいよ、子供のかん高い声で当たり籤の読み上げ。

「つるのおォ、ごひゃくゥ、よんじゅう、はちばーん」
「あ、あた、あたあたあたたた……」

八五郎、腰を抜かして気絶寸前。

当たりは千両だが、すぐ受け取ると二百両差し引かれる。

来年までなんぞ待ってられるけえと、二十五両の切り餠で八百両受け取ると、宙を飛ぶように長屋へ。

聞いて、かみさんは卒倒。

水をのんで息を吹き返すと
「だからあたしゃ、おまえさんに富をお買いって言った」
「うそつきゃあがれ、こんちくしょー」

さあ、それから大変な騒ぎ。

正月の年始回り用に、着たこともない裃と脇差しを買い込むやら、大家に家賃を二十五両たたきつけるやら。

酒屋が来て餠屋が来てまだ暮れの二十八日というのに、一足先にこの世の春。

年が明けて、元旦。

大家に、年始のあいさつを聞きに行くと、一番短い「御慶」を教えられたので、八五郎、裃袴かみしもはかまに突き袖(たもとの中に手を入れたままに隠して袖の先を前に張り出す)をして、しゃっちょこばり、長屋中をやたら
「ギョケイ、ギョケイッ」
とどなって歩く。

仲間の半公、虎公、留公がまゆ玉を持って向こうから来るので、まとめて三人分と、
「ギョケ、ギョケ、ギョケイッ」
「なんでえ、鶏が卵産んだのかと思ったら八公か」
「てやんでえ、ギョケイッ言ったんだい」
「ああ、恵方(えほう)詣りィ行ってきた」


【しりたい】

御慶あれこれ

大家の説明の中に、「長松が親の名で来る御慶かな」「銭湯で裸同士の御慶かな」などの句を入れるのが普通です。

子供のしつけとして、七、八歳になると、親の名代として近所に年始参りに行かせる習慣がありました。

「永日」という挨拶があります。

これは、噺の中で八五郎が、年始先で屠蘇などを勧められた場合、全部回りきれなくなると言うので、大家が「春永(日が長くなってから)になってお目にかかりましょう」の意で、「永日」と言って帰れと教える通り、別れの挨拶です。

小さん代々の演出

純粋の江戸落語で、柳家小さん系に代々伝わる噺です。

「御慶」の演題は、昭和に入って四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が採用したもので、それまでは「八五郎年始」「富の八五郎」が使われました。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)が継承し、八五郎が大家に「御慶」を教わるくだりを、富くじに当った当日ではなく、元日に年始に行った時にするなど工夫を加え、十八番の一つとしていました。

富くじ

千両富はめったになく、五百両富がほとんどでした。

即日受け取ると、実際は二割でなく、三割程度は引かれ、二月まで待っても、寄付金名目で一割は差し引かれたようです。詳しくは「宿屋の富」で。

恵方詣り

陰陽道おんみょうどうの考え方によるものです。

歳徳神としとくじん(年神)のつかさどる方位を「恵方えほう」といいます。毎年変わるものです。

その年の干支に基いて定めた吉の方角で、「あきのかた(明きの方)」ともいいます。

「恵方詣り」は、その吉の方角に当たる神社に参拝することです。

この行事は平安時代からありましたが、江戸時代になって庶民に普及し、さかんに行われるようになりました。

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ねこさだ【猫定】落語演目

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【どんな?】

おもしろくて、なかなかの傑作。
円生没後は、雲助が。
三三もおはこに。

【あらすじ】

八丁堀玉子屋新道たまごやじんみちの長屋に住む、魚屋定吉という男。

肩書は魚屋だが、実態は博徒ばくと

朝湯の帰り、行きつけの三河屋という居酒屋で一杯やっていると、二階でゴトゴト音がする。

てっきり博打を開帳していると思って聞いてみると、実は店の飼い猫で、泥棒癖があるので、ふん縛って転がしてあるのが暴れる、という。

川にほうり込んで殺してしまうというので、それくらいなら、といくらか渡して譲り受けた。

これが全身真っ黒で、いわゆる烏猫からすねこ

大の猫嫌いのかみさんに文句を言われ、しかたなく始終懐に入れて出歩くうち、猫はすっかりなついたので、これを熊と名付け、一杯やるごとになでながら、「恩返しをしろよ」と言い聞かせる。

猫は魔物というから、ひょっとするとと思い、試してみると、賽の目で丁(奇数)が出たときは「ニャー」と一声、半(偶数)が出たときは二声鳴く。

何度くり返しても全部当てるので、これはいいと喜び、さっそく賭場に連れて行ってたちまち大もうけ。

いつも猫を連れてくるところから「猫定」とあだ名がついた。

この定吉、しばらくして、江戸にいては具合の悪いことができ、二月ばかり旅に出ることになった。

猫を連れては行けないので、かみさんに「大切にしてくれ」と預けて江戸を離れたそのすきに、かみさんのお滝が若い燕を引き込んだ。

こうなると、亭主がじゃま。

ほとぼりが冷め、江戸に戻った猫定は全くそれに気づかない。

ある日、愛宕下の薮加藤やぶかとうという旗本屋敷で博打ばくちの開帳があり、猫定が猫を連れて泊まり掛けで出かけた留守に、かみさんは間男まおとこを呼んで相談し、亭主をそろそろ片づける算段。

一方、定吉。

この日に限って猫がうんともすんとも鳴かず、おかげで大損してしまう。

しかたなく、早めに見切りをつけ、熊がどこか具合が悪いのかと心配しながら、通りかかった夜更けの采女うねめヶ原がはら

折からざあっと篠つく雨。

立ち小便をしているすきを狙い、後をつけていた間男が、棕櫚箒しゅろぼうきの先を削いだ竹槍で、横腹をブッスリ。

あっという間に、姿を消す。

家で待っていたかみさん。

急に天井の引き窓のひもがぶっつり切れ、なにか黒い物が飛び込んできて、悲鳴をあげたのがこの世の別れ。

翌朝、月番がお滝の死骸むくろを見つけ、長屋中大騒ぎ。

間もなく定吉の死骸が発見されたが、かたわらで間男が喉を噛みちぎられて、これも死んでいた。

検死も済んで、その晩は通夜。

一人が線香が切れているので火をつけようとひょいと見ると、すさまじい形相をした二人の死骸が、目をぱっちりと見開いて立っているから、驚いたのなんの。

みんな逃げ出し、残ったのは目の見えない按摩あんまの三味の市だけ。

大家が来て、魔がさしたんだと言っているところへ、所用から遅く帰った信州松本の浪人・真田某がやってくる。

真田は話を聞き、あたりを調べると、腰張りの紙がぺらぺらっと動き、その度にホトケが踊り出すので、さてはあやしいと脇差わきざしでブッツリと突くと、黒猫が両手に人の喉の肉をつかんで息絶えていた。

さては猫が恩返しに仇討ちをしたのだと、これが評判になり、町奉行・根岸肥前守ねぎしひぜんのかみが二十五両の金を出し、両国回向院えこういんに猫塚を建てて供養したという、猫塚の由来。

【RIZAP COOK】

しりたい

玉子屋新道  【RIZAP COOK】

東京都中央区八丁堀3丁目、旧八丁堀岡崎町にあった路地です。

付近に玉子屋があったのでこの名がついたと思われますが、詳細は未詳です。

采女ヶ原  【RIZAP COOK】

うねめがはら。東京都中央区銀座5丁目。現在の歌舞伎座前から新橋演舞場にかけて広がっていた馬場です。旧采女町(1869-1931)。

享保9年(1724)まで、伊予今治藩(10万石)の第四代藩主、松平采女正定基まつだいらうねめのしょうさだもと(1687-1759、久松松平家)の上屋敷がありました。屋敷はこの年全焼し、麹町三丁目に移されました。

「釆女」は古代の官職で、天皇や皇后に近侍して食事や雑事の世話をする人。宮内省に属する官司(役人)です。「釆女正」は「うねめのかみ」で、その役所の長官のこと。この官職は平安中期以降はなくなってしまったようですが、武家官職には使われ続けました。武家の世界にはこんな仕事があるわけないのですが、語呂がよかったのでしょうか、「釆女正」は残りました。「うねめのしょう」と呼んでいたようです。武家官職はもはやまったくの名ばかりで、官職名を名前代わりに呼び合っていたものです。「小栗上野介おぐりこうずけのすけ」とか「石田治部いしだじぶ」とか「大石内蔵助おおいしくらのすけ」とか「勝安房かつあわ」とか。

松平家が移されたため、この地は空き地となりました。3年ほど後に馬場が開かれました。ここを釆女ヶ原と呼ぶようになったのです。釆女橋は昭和5年(1930)に架けられましたが、釆女町という町名からの由来です。すべては、松平釆女正定基まつだいらうねめのしょうさだもとの上屋敷があったところからの発端です。

幕末には、見世物小屋や露店、講釈場などが並ぶ、ちょっとした繁華街、行楽地となっていました。夜が更けると、追いはぎが出没する物騒なところでした。

釆女ヶ原では、馬場文耕ばばぶんこうナ(中井文右衛門、1718-59)が講釈を打っていた時期があったそうです。伊予(愛媛県)の出身で、幕府御家人の経験もあったという浪人。伊予の人ですから、釆女ヶ原ともどこかで縁があったのかもしれません。文耕の住まいは松島町(日本橋人形町)で、そこから通っていました。たいした距離ではありません。馬場文耕という名も釆女ヶ原の馬場で講釈するおのれのなりを名乗ったのですね。

文耕はその後、金森騒動かなもりそうどうを講釈にして、幕府の裁可が下る前に見てきたような講釈をしていたところから、目をつけられて御用に。結局、市中引き回し、打ち首となりました。講釈師の犯罪では異例の重罪でした。幕藩体制の恐怖政治は、この時期には十分機能していたわけです。この話はまた別の機会に。

猫は魔物  【RIZAP COOK】

「猫忠」「猫怪談」ほかで、猫の怪異は落語ではおなじみです。

この俗信を利用し、熱い鉄板の上に放り投げて訓練した猫が、条件反射で踊りだすのを、「化け猫」と称して見世物にすることがありました。

テネシー・ウィリアムズもはだしで逃げ出す、てえとこでしょうなぁ。

もっとも、中世ヨーロッパでは「アダムの子」にこれをやったらしく、グリム童話に、悪い王妃に真っ赤に焼けた鉄の靴をはかせて処刑するシーンがありました。

猫じゃ猫じゃ  【RIZAP COOK】

前項の猫踊りを「猫じゃ猫じゃ」といい、三味線の合い方で

♪猫じゃ猫じゃとおっしゃいますな  猫が下駄はいて絞りの浴衣で来るものか  おっちょこちょいのちょい

と、囃します。

俗曲にもなり、明治から昭和初期にかけて音曲の名人で、「女大名」の異名をとった、前の立花家橘之助(1868-1935)が得意にしました。

魚屋定吉  【RIZAP COOK】

魚屋を詐称した博徒は、「梅若礼三郎」でも登場しました。詳しくは、そちらをご参照ください。

通夜は猫又除け  【RIZAP COOK】

通夜は、かつては夜明かしするのが常でした。

昔は、死亡の判定がかなりいい加減で納棺後どころか、土葬した後でも吸血鬼のごとく蘇る亡者が少なくなかったためでしょう。

加えて、線香が絶えると不吉とされ、猫又が取り憑いて亡者に魔がさすという恐怖から、「猫怪談」のような騒動を防ぐための魔除けの意味もあったわけです。

まあ、本当に蘇生したホトケでも、魔がさしたと疑われ、よってたかって本当に殺されたということも、あったかも知れませんが。

なお、噺の結びに登場する回向院の猫塚は今も鼠小僧次郎吉の墓の前にあります。

当然、魔物のたたりを封じ込めるための供養塔ですが、鼠が猫封じとは、何やら物事があべこべですね。

ようやく雲助が復活  【RIZAP COOK】

大正期には、二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)が得意にしました。

その後、五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946、赤馬生、おもちゃ屋の)がよく高座に掛けたのを、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)が習い覚えて工夫を加え「円生百席」にも選びました。

古風な噺なので、円生没後、あまり演じ手がいませんでしたが、五街道雲助が復活。

柳家三三も、2007年に独演会で演じました。

円生没後も久しく、どの噺もこの噺も「円生百席」止まりでは困るので、現役がこうしたネタを一回限りでなく、新たに十八番にして後世に伝えてほしいものです。

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

いいわけざとう【言い訳座頭】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

大晦日の噺。
甚兵衛夫婦は年を越せるのか? 
座頭の舌先三寸しだいで、なんとか。

あらすじ

借金がたまってにっちもさっちも行かず、このままでは年を越せない長屋の甚兵衛じんべえ夫婦。

大晦日おおみそか

かみさんが、口のうまい座頭ざとうとみいちに頼んで、借金取りを撃退してもらうほかはないと言うので、甚兵衛はなけなしの一円を持ってさっそく頼みにいく。

富の市、初めは金でも借りに来たのかと勘違いして渋い顔をしたが、これこれこうとわけを聞くと
「米屋でも酒屋でも、決まった店から買っているのなら義理のいい借金だ。それじゃああたしが行って断ってあげよう」
と、快く引き受けてくれる。

「商人は忙しいから、あたしがおまえさんの家で待っていて断るのはむだ足をさせて気の毒だから」
と、直接、敵の城に乗り込もうという寸法。

富の市は
「万事あたしが言うから、おまえさんは一言も口をきかないように」
とくれぐれも注意して、二人はまず米屋の大和屋やまとやに出かけていく。

大和屋の主人は、有名なしみったれ。

富の市が頼み込むと、
「今日の夕方にはなんとかする、という言質げんちをとってある以上、待てない」
と突っぱねる。

富の市は居直って
「たとえそうでも、貧乏人で、逆さにしても払えないところから取ろうというのは理不尽だ。こうなったら、ウンというまで帰らねえ」
と、店先に座り込み。

他の客の手前、大和屋も困って、結局、来春まで待つことを承知させられた。

次は、薪屋の和泉屋いずみや

ここの家は、富の市が始終揉み療治に行くので懇意だから、かえってやりにくい。

しかも親父は名うての頑固一徹。

ここでは強行突破で
「どうしても待てないというなら、頼まれた甚さんに申し訳が立たないから、あたしをここで殺せ、さあ殺しゃあがれ」
と往来に向かってどなる。

挙げ句の果ては、「人殺しだ」とわめくので、周りはたちまちの人だかり。

和泉屋、外聞が悪いのでついに降参。

今度は、魚金うおきん

これはけんかっ早いから、和泉屋のような手は使えない。

「さあ殺せ」
と言えば、すぐ殺されてしまう。

こういう奴は下手に出るに限るというので、
「実は甚兵衛さんが貧乏で飢え死にしかかっているが、たった一つの冥土のさわりは、魚金の親方への借金で、これを返さなければ死んでも死にきれない」
と、うわ言のように言っている、と泣き落としで持ちかけ、これも成功。

ところが、その当の甚兵衛が目の前にいるので、魚金は
「患ってるにしちゃあ、ばかに顔色がいい」
と、きつい皮肉。

さすがの富の市もあわてて、
「熱っぽいから、ほてっている」
とシドロモドロでやっとゴマかした。

そうこうするうちに、除夜の鐘。ぼーん。

富の市は急に、
「すまないが、あたしはこれで帰るから」
と言い出す。

「富さん、まだ三軒ばかりあるよ」
「そうしちゃあいられねえんだ。これから家へ帰って自分の言い訳をしなくちゃならねえ」

底本:五代目柳家小さん

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しりたい

明治の新作落語  【RIZAP COOK】

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が明治末に創作した噺です。

三代目小さんは漱石も絶賛した名人です。

小さんは、四代目橘家円喬たちばなやえんきょう(柴田清五郎、1865-1912)から「催促座頭」という噺(内容不明)があるのを聞き、それと反対の噺を、と思いついたとか。

してみると、「催促座頭」は、文字通り借金の催促に座頭が雇われる筋だったということでしょう。

初演は、明治44年(1911)2月、日本橋常盤木倶楽部ときわぎくらぶでの第一次落語研究会の第70回高座でした。

師走の掛け取り狂騒曲  【RIZAP COOK】

借金の決算期を「節季せっき」ともいい、盆と暮れの二回ですが、特に歳末は、商家にとっては掛け売りの貸し金が回収できるか、また、貧乏人にとっては時間切れ逃げ切りで踏み倒せるかが、ともに死活問題でした。

そこで、この噺や「掛け取り万歳」に見られるような壮絶な「攻防戦」が展開されたわけです。

むろん、ふだん掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内のなじみの生活必需品(酒屋、米屋、炭屋、魚屋など)に限られます。

落語では結局、うまく逃げ切ってしまうことが多いのですが、現実はやはりキビしかったのでしょう。

大晦日の噺  【RIZAP COOK】

井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)の『世間胸算用せけんむねさんよう』が、江戸時代前半期の上方(京と大坂)の節季の悲喜劇を描いて有名ですが、落語で大晦日を扱ったものは、ほかにも「狂歌家主」「尻餅」「睨み返し」「引越しの夢」「芝浜」など多数あります。

こうした噺のマクラには、大晦日の川柳を振るのがお決まりです。

大晦日 首でも取って くる気なり
大晦日 首でよければ やる気なり

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が使っていたものも秀逸です。

大晦日 もうこれまでと 首くくり
大晦日 とうとう猫は 蹴飛ばされ

三代目小さんの作品だけあって、小さんの系統がやります。

九代目入船亭扇橋いりふねていせんきょう(橋本光永、1931-2015)の亡き後は、それでも、柳家小里こりん、柳家権太楼ごんたろうあたりとか。

炭屋  【RIZAP COOK】

子別れ」では、家を飛び出したかみさんが子供を連れ、炭屋の二階に間借りしている設定でした。

裏長屋住まいの連中は、高級品は買えないため、ふだんは「中粉」という、炭を切るときに出るカス同然の粉を量り売りで買ったり、粉に粘土を加えて練る炭団たどんを利用しました。

当然、どちらも火の着きはかなり悪かったわけです。

捨てきれない噺   【RIZAP COOK】

この噺、柳家小里ん師匠によれば、プロから見ると暗い噺なんだそうです。

柳家小さん(五代目)の持ちネタの中ではいちばんまとまっていないデキだったとも。にっちもさっちもいかない暮れの噺といえば、 「睨み返し」 のほうが笑いを取れるので、落語会で「受けなきゃならない」ときにはつい「睨み返し」をやってしまうんだそうです。だから、「言い訳座頭」はあまりやる噺家がいないんだと。

それでも、小里ん師匠は、この噺には魅力があるといいます。

僕らが子供時代に体験したような、大晦日の寒さ、情景が出ている。寒い中を歩いていると、除夜の鐘が鳴って、というのがいい。だから、噺として捨てきれない。

柳家小里ん、石井徹也(聞き手)『五代目小さん芸語録』(中央公論新社、2012年)より

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

おちゃくみ【お茶汲み】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

遊郭を舞台にした艶っぽい噺。
なんだかまぬけなんですがね。
圧倒的に人気ある噺です。

別題:女郎の茶 茶汲み 黒玉つぶし(上方) 涙の茶(改作)

あらすじ

吉原から朝帰りの松つぁんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから70銭ポッキリでいいと若えが言うので、あがったのが「安大黒やすだいこく」という小見世こみせ(大衆店)。

そこで、額の抜け上がった、ばかに目の細い花魁おいらんを指名したが、女は松つぁんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、むらさきというその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡のざいもの(いなかの人)だが、近所の清三郎という男と恋仲になったこと。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手もとでに清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨のつぶて。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界くがい(遊女の境遇)の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心かみしんじんをして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季ねんきが明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くどくうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目のふちになすりつけて、その茶殻ちゃがらがくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

しりたい

原作は狂言

大蔵流おおくらりゅうの狂言「墨塗すみぬり」が元の話とされています。

これは、主人が国許くにもとへ帰るので、太郎冠者たろうかじゃを連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬しっと深い女のところへいとまいに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋まぶたにこすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋かるくちごしきがみ』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里遊びが過ぎて勘当かんどうされかかった若だんなが、罰として薩摩さつま国(鹿児島県)の親類方に当分預けられるので、なじみのお女郎に暇乞いとまごいに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶殻に代えた「涙の茶」。

これを初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚々実々のだまし合いをリアルに活写。

現行の東京版「お茶汲み」が完成しました。

と、こんなストーリーがこれまでの種明かしでした。

でも、以下をお読みいただければ、この噺がもっと古いところから来ているのがおわかりになるでしょう。

小せんから志ん生へ

初代柳家小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が直伝で継承しました。

初代小せんは、廓噺の名手で、女遊びが過ぎて失明した上に足が立たなくなったといわれている人です。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、先の大戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎たごととしていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のものがCD化されていました。桂歌丸(椎名巌、1936-2018)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のものも。

本家の「黒玉つぶし」の方は、先の大戦後に東京で上方落語を演じた二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が得意にしていました。

歌舞伎でも

閑話休題。

「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、じつは、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平貞文たいらのさだふん(872-923、平定文、平中へいちゅう)の逸話中にすでにある、といわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九じっぺんしゃいっく(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛ぞくひざくりげ』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』の「鮨屋すしや」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)以来の音羽屋おとわやの型です。

歌舞伎のほうは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。

まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

「平中」をさらに

平貞文の通称がなぜ「平中」なのか、これは、国文学の世界では諸説あって、いまだによくわかっていません。

950年頃に成立した「平中物語へいちゅうものがたり」(平仲物語、へいちう物語とも)という歌物語うたものがたり(和歌にまつわる話題でつくられた物語)の主人公が平貞文で、「平中」は平貞文をさしているのです。

ここでは「平定文」と書いて「たいらのさだふん」と呼んでいます。「平貞文」と記した伝本もあります。

だいたいこの「平中物語」は、「平仲物語」と記したものもあって、中世から近世頃までは「へいじゅうものがたり」と呼び習わしていたそうです。

「平中物語」は、ある時期には「平中日記」と記されていたりしています。

名称の表記ばかりか、かつては、物語、日記、家集(歌集)といったジャンル分けのボーダーもあいまいでゆるやかだったのでしょう。

日記か、物語か、家集か、といったジャンル分けの考えは、およそ近代的なとらえ方なのかもしれません。

なぜそんなことをいうかといえば、「平中物語」が一般の人々が読めるようになるのは、宮田和一郎が校注した『王朝三日記新釈』(建文社、1948年)が刊行されてからのことです。

この本はお得な中身でして、「篁日記たかむらにっき」(10~13世紀成立)「平中日記へいちゅうにっき」(950年頃成立)「成尋母日記じょうじんのははのにっき」(1070年頃成立)が丸ごと収められています。

「篁日記」は「篁物語たかむらものがたり」のこと、「平中日記」は「平中物語へいちゅうものがたり」のこと、「成尋母日記」は「成尋阿闍梨母集じょうじんあじゃりのははのしゅう」(家集)のことです。

これを見ると、日記も物語も家集も、区分けが難しいし、区分けすることになんの意味があるのかがわからなくなってきます。

「平中物語」には、平定文(平貞文)がしでかした、さまざまな失敗譚が記されています。

持参した水だと思って、顔に墨を付けてしまった話が載っています。

これは、「源氏物語」末摘花すえつむはな帖にある、光源氏が自分の鼻に赤い色を塗って紫の上と戯れる場面の元ネタとされています。

ところがこの話は、いまに残る「平中物語」の本文にはなく、これまでのいくつかの注釈書に記されてきた内容から、われわれは知るだけなのです。

「平中物語」は、おそらく「古本説話集こほんせつわしゅう」(12世紀成立)にあった話を下敷きにしていたと思われます。

と、このように、話の淵源はなかなか昔までさかのぼるもので、中国、インド、ペルシャ、ギリシャなどに原点を求めることも難しくはありません。

平貞文という人は、一昔前の在原業平ありわらのなりひら(825-880)と並び称されることが多く、二人は、歌詠み、色好み、官歴などの点で、不思議に共通していました。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(=午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょう。

明治末から大正初期で、大見世(=高級店)では揚げ代(=入場料)のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。

これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。

こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

ことばよみいみ
勘当かんどう親が子と縁を切る ≒義絶
花魁おいらん吉原での高位の遊女
梨の礫 なしのつぶて音信のないこと。投げた小石(礫)は返ってこない(なし→梨)ことからの洒落



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しかせいだん【鹿政談】落語演目

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【どんな?】

春日社の鹿は神の使いだから、あやめれば死罪。
豆腐屋、店のキラズを食べる鹿を犬と間違えて殴り殺した。
神鹿は死に、豆腐屋はお縄となってお白州へ。
お奉行「これは犬か。どうじゃ。切らずにやるぞ」

別題:春日の鹿 鹿殺し 

【あらすじ】

奈良、春日大社かすがたいしゃの神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子いしこ詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文ごかんもんの罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺こうふくじ東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛しょうじきろくべえという男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口でなにやら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばったやつをピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿しんろく

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹ほうたん、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代もくだい(代官)の塚原出雲つかはらいづもの屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全りょうぜんの連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守ねぎしひぜんのかみの取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

【しりたい】

上方落語を東京に移植    【RIZAP COOK】

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守まつのかわちのかみ」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生十八番

先の大戦後、東京では、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしたほか、音曲に長けた七代目橘家円太郎(有馬寅之助、1901-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)も手がけ、本場上方では先の大戦後は、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。オチは普通、東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守    【RIZAP COOK】

根岸肥前守は根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)のこと。

名奉行ながらすぐれた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢みみぶくろ』の著者としても有名です。

最近では、風野真知雄かぜのまちお「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。

根岸肥前守は「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿    【RIZAP COOK】

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当(統括)である興福寺の私法でした。

ただし、石子詰めは江戸時代には行われていません。

春日大社と興福寺は、神仏習合の時代(明治以前)にはでセットの宗教施設です。

しかも、藤原氏の氏社で氏寺。鹿島神宮も藤原氏の氏社でした。

江戸幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置きました。

歴代の奉行は、興福寺と事を構えるのを嫌いました。

この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

どうでもよい話ですが、春日神社の鹿の数と燈籠とうろうの数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

ちなみに、春日大社の鹿は、常陸国ひたちのくに(茨城県)一宮いちのみや鹿島神宮かしまじんぐうにいる鹿を連れてきたことが知られています。

8世紀、藤原氏が春日大社を創建する際、鹿島神宮を勧請かんじょう(分霊を迎える)し、神鹿も約1年かけて陸路、奈良まで運んだそうです。

途中で亡くなった鹿を葬った地が、鹿骨ししぼね(東京都江戸川区)と名づけられたりもしています。

地元では知られた話です。

鹿島神宮の不思議

鹿島神宮の「神宮」とは、天皇家とのかかわりを示します。特別な施設でした。

律令の細則を定めた延喜式えんぎしき神名帳しんめいちょうに記された神社を「式内社しきないしゃ」と呼び、今でも高い地位にあります。

ここに記された「神宮」は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三宮のみです。

熱田神宮、橿原神宮、平安神宮、明治神宮などの「神宮」は、後世に付けられたもの。

となると、鹿島神宮と香取神宮の存在意義は、がぜん重要視されてきます。

縄文時代での人口は、東日本と西日本では、100対10以上の差がありました。東高西低だったのです。

当時の鹿島と香取の周辺は霞ケ浦が太平洋とつながっていて、広大な内海を形成しており、黒潮を利用して外海との交流もさかんでした。

当時の日本の中心地はこのあたりだったようです。

鹿島と香取に「神宮」が冠せられるのは、このことともかかわります。

さて。

春日大社も興福寺も藤原氏の氏社氏寺でした。

春日大社が祀るのは建御雷神たけみかづちのかみで、鹿島神宮からの勧請です。軍神です。

中臣なかとみ氏の氏神うじがみです。

中臣鎌足なかたみのかまたりが死の直前に天智てんじ天皇から藤原姓を賜っています。

奈良に鹿島の神鹿を連れてきたのは、そんなところとかかわりがありました。

すべての中臣氏が藤原氏になったのではなく、鎌足の系統だけでした。

中臣氏は忌部いんべ(斎部)氏と同じく、神事や祭祀を受け持った中央豪族です。

根岸肥前守の子孫    【RIZAP COOK】

幕末の時期ですが、根岸鎮衛ねぎしやすもりの曽孫に根岸衛奮ねぎしもりいさむ(1821-76)という人物がいました。

この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの3年間、奈良奉行を務めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

きんじつむすこ【近日息子】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

近日を明日と思い込んでいる息子。
大家の親父が嘆く。親父の不機嫌ぶりを見た。
息子は「変だ」と医者を。葬儀屋まで。
長屋連中が悔やみに。でも、親父はピンピン。
忌中札には「近日」と。あらら。上方噺。

【あらすじ】

三十歳近くになるが、ぼんくらな一人息子に、親父が説教している。

芝居の初日がいつ開くか見てきてくれと頼むと、帰ってきて明日だと言うから、楽しみにして出かけてみると「近日開演」の札。

「バカヤロ、近日てえのは近いうちに開けますという意味だ」
と親父がしかると、
「だっておとっつぁん、今日が一番近い日だから近日だ」

なにしろ、ふだんから、気を利かせるということをまるで知らない。

「おとっつぁんが煙管きせる煙草たばこを詰めたら煙草盆を持ってくるとか、えへんと言えば痰壺たんつぼを持ってくるとか、それくらいのことをしてみろ。そのくせ、しかるとふくれっ面ですぐどっかへ行っちまいやがって」
とガミガミ言っているうち、親父、厠かわやに行きたくなったので、
「紙を持ってこい」
と言いつけると、出したのは便箋と封筒。

「まったくおまえにかかると、よくなった体でも悪くなっちまう」
と、また小言を言えば、せがれ、プイといなくなってしまった。

しばらくして医者の錆田さびた先生を連れて戻ってきたから、わけを聞くと
「お宅の息子さんが『おやじの容態が急に変わったので、あと何分ももつまいから、早く来てくれ』と言うから、取りあえずリンゲルを持って」
「えっ? あたしは何分ももちませんか」
「いやいや、一応お脈を拝見」
というので、みても、せがれが言うほど悪くないから、医者は首をかしげる。

それを見ていた息子、急いで葬儀屋へ駆けつけ、ついでに坊主の方へも手をまわしたから、説教の薬が効きすぎた。

長屋の連中も、大家おおやが死んだと聞きつけて、
「あのばか息子が早桶はやおけ担いで帰ってきたというから間違いないだろう、そうなると悔やみに行かなくっちゃなりません」
と相談する。

そこで口のうまい男がまず
「このたびはなんとも申し上げようがございません。長屋一同も、生前ひとかたならないお世話になりまして、あんないい大家さんが亡くなるなん……」
と言いかけてヒョイと見上げると、ホトケが閻魔えんまのような顔で、煙草をふかしながらにらんでいる。

「へ、こんちは、さよならっ」
「いいかげんにしろ。おまえさん方まで、ウチのばか野郎といっしょになって、あたしの悔やみに来るとは、どういう料簡だっ」
「へえ、それでも、表に白黒の花輪、葬儀屋がウロついていて、忌中札まで出てましたもんで」
「え、そこまで手がまわって……ばか野郎、表に忌中札きちゅうふだまで出しやがって」
とおやじが怒ると、
「へへ、長屋の奴らもあんまし利口じゃねえや。よく見ろい、忌中のそばに近日と書いてあらァ」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

「近日」は芝居用語

江戸時代の芝居興行では、予定通りに幕が開かないことがしばしばでした。

金主きんぬし(スポンサー)と座主ざぬし(プロデューサー)のトラブル、資金繰りの不能、役者の「もっといい役をつけろ!」というクレームや、ライバル役者同士の序列争いなど、さまざまな原因です。

それを見越して、初日のだいぶ前から、「近日開演」の札を出して予防線を張っていたものです。

「近日札」といいました。

大阪・道頓堀の劇場街では、昭和に入っても戦争前まで、このしきたりが残っていたそうです。

古くは、上方ではこれを「前繰さきぐり」とも呼びました。

民話が原型

「病人に坊主」という民話が原型といわれます。

小ばなしでは、先走って寺に知らせるくだりは安永2年(1774)、上方で刊行された笑話本『茶の子餅』中の「忌中」、オチの「近日札」の部分は、その前年、つまり安永2年(1773)、江戸で刊行の仕形噺本『口拍子くちびょうし』中の「手まはし」がそれぞれ原話です。

二つをミックスして、落語に仕立てたのでしょう。

特に後者は、すでに現在の「近日息子」の後半とほとんど同じです。

三木助の当たり噺

もとは上方の噺です。

吹き替え息子」(干物箱)と同じく、「息子」という言い回しも大阪のものです。

東京で口演されるようになったのは明治40年(1907)頃からです。

東京の落語家はほとんど手がけず、もっぱら上方から下ってきた二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)などが、大阪のものをそのまま演じていた程度でした。

大阪での修行時代に二代目桂春団治(河合浅次郎、1894-1953)からこの噺を伝授された三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が戦後になってから磨きをかけ、独特の現代的くすぐりをふんだんに入れて大当たり。

十八番に仕上げました。三代目三木助は生粋の江戸っ子です。三木助演出の特徴は、年代を大正末期に設定してあるため、長屋の連中の会話がデスマス調でていねいなこと。

登場人物も「錆田」に「長谷川」と、新作落語のような印象が新鮮な点でしょう。

三木助のくすぐりから

●(長屋の住人の会話。昨夜乙が湯屋で会った大家が死んだと聞いて)

甲「なんですか? ゆうべ湯に行って帰りにざるを二杯食べると、今朝死ねませんか」
乙「死ねないって理屈はないでしょうけどねえ」
甲「あのね、イースーピン(一四筒)が通ってもチーピン(七筒)が通らない場合があるン」

「イースーピン」のくすぐりは、戦後の麻雀ブームでサラリーマンや学生客に大ウケだったとか。

●(早桶をかついできた息子)

「おとっつあん、ちょっと入ってみてねえ、そいで具合が悪いようだったら、あの、今のうちならね、(寝棺と)取り換えてくれるって」

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ふじまいり【富士詣り】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

山岳信仰の噺。
今では聴きません。
現代性と国際性を神仏習合に加味すれば新味。

別題:五合目 六根清浄

【あらすじ】

長屋の連中。

日ごろの煩悩を清めようというわけで、大家を先達にして、ぞろぞろと富士登山に出かけた。

五合目まで来ると、全員くたくた。

そのうちにあたりが暗くなってきた。

「これは、一行の中に五戒を犯した者がいるから、山の神さまのお怒りに触れたんだ。一人一人懺悔をしなくちゃいけねえ」
ということになって、一同、天狗に股裂きにされるのがこわくて、次々と今までの悪事を白状する。

出るわ出るわ。

留さんは湯へ行った時、自分の下駄が一番汚いので、上等なのをかっさらい、ついでに番台から釣り銭をありったけ懐に入れて逃げた、偸盗戒。

八五郎は、屋台で天ぷらを二十一食ったが、親父に「いくつ食った」と聞くと、親父は間違えて「十五だ」と答えたので、差し引き天ぷら六つ偸盗戒。

先達さんがひょいと見ると、貞坊が青くなり震えている。

聞いてみると「粋ごと戒でェ」。要は邪淫戒だとか。それも人のかみさんと。おもしろくなってきた。

貞坊の告白が始まる。

去年の六月ごろから最近までのことだ。

女湯の前を通ったら湯上がりの年増にぞっこん。跡をつけたら二丁目の新道の路地へ。その裏でまごまごしていたら、女が手桶さげてやってきた。

「井戸端の青苔に足をすべらすといけやせんから」
と、代わりに水をくんであげ、その後はお釜を焚きつけ、米を洗って、まるで権助。

そんなこんなで、お茶を飲んだり堅餠をかじったりの仲に。

このおかみさんを口説こうとしたがなかなか「うん」と言わない。

結局、今日まで「うん」と言わない。

先達「なんだ、つまらねえ。いったいどこの女だい」
貞坊「いいのかい」
先達「いいよ、言っちまいな」
貞坊「先達さん、おまえさんのだ」
先達「とんでもねえッ」

元さんも青ざめている。

大便をがまんしているという。

「半紙を五、六枚敷いてその上に用を足して、四隅を持って谷へほうるんだ」
と、先達が勧めるので、念仏を唱えながら用を足し
「もったいない、もったいない」
と、この半紙を袂に入れてしまった。

先達「自分の大便を袂に入れる奴があるか。おめえ、山に酔ったな」
元「へえ、ここが五合目でございッ」

【しりたい】

なつかしの柳朝節  【RIZAP COOK】

原話は不詳。明治34年(1901)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残っています。

昭和初期には七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、先の大戦後では三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)と、どちらかといば地味な、腕っこきの噺家が好んで演じました。

印象深いのは五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)で、独特のぶっきらぼうな口調が、間男(近年では熊五郎)の、神をも恐れぬふてぶてしさを表現して逸品でした。

オチは、現行では「先達つぁん、おまえのだ」で切ることが多く、こちらの方がシャープでしょう。

前半の懺悔の内容は、演者によってまちまちです。

富士講  【RIZAP COOK】

意外な話ですが、享保17年(1732)という年は大飢饉で、翌年には、江戸で初めての打ちこわしが起こったほど。

このさなか、江戸の油商、伊藤伊兵衛は、富士登山45回の実績にかんがみて、無為無策の武家政治を批判しました。

自らを「食行身禄」と名乗り、世直し実現を祈って富士山七合目で35日間の断食を敢行、入滅しました。

目的完遂です。

人々はこの偉業をたたえて余光にあずかろうと、19世紀前後になると、富士講がさかんになっていきました。

富士講は、先達、講元、世話人の三役で運営されます。

富士は古くから修験道の聖地で、一般人の入山は固く禁じられていました。

室町後期から民間でも富士信仰が盛んになり、男子に限り、一定の解禁期間のみ登山を許されるようになりました。

富士講の開祖といわれるのは角行という行者です。室町後期から江戸初期の人。

江戸時代には「富士講」と呼ばれる信者の講中が組織され、山開きの旧暦六月一日から七月二十六日まで約二か月間、頂上の富士浅間神社参拝の名目で登山が許可されました。

富士講は、地域などを中心に組織され、有力な富士講は富士山自体を近所に勧請して富士塚を築きました。

あらかじめ三日か七日の精進潔斎を済ませることが前提です。

隅田川などで水垢離をするのです。白衣に、首に大数珠をかけて金剛杖を突いて、先達にくっついて「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら登っていきます。

あくまで信仰が目的。命がけの神聖な行事なので、大山参りのような物見遊山半分とはわけが違い、五戒(妄語戒、殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、飲酒戒)を保つのは当然。

したがって、この噺のようなお茶らけた連中は論外で、必ずや神罰がくだったことでしょう。

江戸の富士信仰  【RIZAP COOK】

富士登山は大変な行事で、それこそ一生に何度もないというほど。

江戸からは往復十日の日程がかかり、費用もばかになりません。

山伏でもない一般市民が、近代的登山装備もなく、富士山頂上に登ろうというのですから、それこそ生還すら保障されません。

そこで、江戸にいながらお手軽に、危険もなく金もヒマも要らず、富士登山の疑似体験をしたいという熱望に応え、こしらえたのがミニ富士山。

富士塚、お富士さんと呼ばれたこの小ピラミッド、高いものでも標高わずか十メートル程度ながら、どうして、形は本格的な「ミニチュア」でした。

頂上には当然、富士浅間神社を勧請(分霊を迎える)。

はるばる本物の富士から溶岩を運んで築き、一合目から始まって、つづら折りの「登山道」までこしらえる凝りようでした。

富士開きの旧暦6月1日(7月10日頃)に同時に解禁。

富士講の連中が金欠で本物に登れないとき、富士塚に「代参」で済ませることも多く、登山のしきたりは「女人禁制」を含め、本物とほとんど同じタテマエ。

富士塚  【RIZAP COOK】

最初のニセ富士=富士塚は、安永8年(1779)に築かれた高田富士。現在の早稲田大学構内あたりにあったといいます。水稲荷内です。

次は、千駄ヶ谷村(渋谷区千駄ヶ谷)の鎮守、鳩森八幡の境内に造られた富士塚で、寛政元年(1789)です。

都の有形民俗文化財に指定されています。

国指定重要民俗文化財として、以下の三基が現存しています。

坂本富士 文政11年(1829)、台東区下谷二丁目
高松富士 文久2年(1862)、豊島区高松二丁目
江古田富士 天保10年(1839)、練馬区小竹町

次の二基は広重の「江戸名所百景」にも描かれています。

目黒の元富士 文化9年(1812)
新富士 文政2年(1819)

駒込富士権現分社、浅草富士権現分社、深川八幡、神田明神、茅場町薬師、高田水稲荷などの境内に築かれたものが、いまも親しまれています。

高田富士  【RIZAP COOK】

高田稲荷社は、戸塚村の鎮守でした。

元禄15年(1702)に境内榎の中から水が湧き出し、これを霊泉として、眼病が治るという評判でした。それで、水稲荷ともいいます。

ここにある高田富士が最古の富士塚とされています。

富士の五合目以上を模した高台の全体を富士山の溶岩で覆い、富士山らしく見せ、奥宮、登山道標石、胎内、経ヶ岳題目碑、石尊碑などを設けるという、設置様式がありました。

高田富士は高さ五メートルながら、延べ数千人の講者が無償協力(ボランティア)で築造したものです。

朱楽管江が『大抵御覧』で紹介したことで、有名になり、さまざまな理由で実際の富士まいりができない人々が疑似体験するようになりました。

これを口火に、江戸府内に多くの富士塚がつくられていきます。

朱楽菅江  【RIZAP COOK】

元文3年(1837)生まれ。狂歌師、戯作者。幕臣。山崎景基(のちに景貫)。

市谷二十騎町に住みました。

内山椿軒に和歌を学びました。

同門には太田南畝がいます。

ともに、安永年間あたりから狂歌を始めました。

妻女は狂歌作者の節松嫁々です。寛政10年(1798)没。富士塚を取り上げた『大抵御覧』は安永8年(1879)の刊行です。

もちろん、「太平御覧」ももじった命名ですね。

これは北宋の類書(百科事典)で、983年に成りました。「御覧」と略されます。

そもそもの富士信仰

富士山への信仰は、縄文中期から見いだせます。

静岡県富士宮市上条の千居遺跡には、富士山を遥拝したまつりの場所があったといわれています。

日本の神社で、石や岩がご神体というところは、もとは縄文時代からの信仰を引き継ぐ古い形態の信仰やまつりをうかかがれるものといわれています。

富士信仰はその典型です。

富士神は浅間神と呼ばれます。富士信仰は浅間神社が取り仕切っています。

富士山頂に奥宮を持つ富士山本宮浅間神社は、全国の浅間神社の総本宮で、富士信仰の中心です。

富士宮市にある「人穴ひとあな」は、浅間大菩薩御在所であるとされ、その後、人穴信仰もさかんになっていきました。

浅間の「あさま」は火山の古語といわれます。

古代では、富士山も浅間山も火を噴く山として同じものとみていたようです。

食行身禄  【RIZAP COOK】

寛文11年1月17日(1671年2月26日)-享保18年7月13日(1733年8月22日)。本名は伊藤伊兵衛。食行身禄じきぎょうみろくは富士講修行者としての名前です。

伊藤食行身禄、伊藤食行などとも呼ばれます。

伊勢国一志郡美杉村川上(三重県津市)出身です。

生家には身禄の産湯が残り、子孫によって石碑が建てられているそうです。

元禄元年(1688)、江戸に入って、角行の四世(五世とも)弟子である富士行者月行に弟子入りし、油商を営みながら修行を積みました。

「身禄」とは、弥勒菩薩から取ったといわれます。

弥勒菩薩は、釈迦が入滅して56億7千万年たってから出現して世直しをするという神です。

もう一方の富士講の指導者、村上光清が私財をなげうって、荒廃していた北口本宮冨士浅間神社を復興させて「大名光清」と呼ばれたのに対して、食行身禄は貧しい庶民に教線を広げ「乞食身禄」と呼ばれました。

対照的ですね。

享保18年(1733)6月10日、駒込の自宅を出て富士山七合五勺目(現在は吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定しました。

63歳でした。

ここまでの逸話は『食行身禄御由緒伝記』に記されています。

板橋の宿で、身禄との別れを惜しむ妻子や弟子との、涙なしでは読めない逸話、縁切り榎の由来の逸話も、この本に載っています。

江戸時代には感動ものの一書として読まれました。

身禄が死んだ後、身禄の娘や門人が枝講(派生した講集団)を次々と増やし、「江戸八百八講」と呼ばれるまでになりました。

身禄は開祖角行といっしょに富士講の信者の崇敬を集めました。

身禄は救世主、教祖的な存在として、現世に不満を抱く人々から熱狂的に迎え入れられ、新宗教団体としての「富士講」が誕生することになりました。

身禄の教えを受け継いだ各派富士講の一つに、身禄の三女・伊藤一行(お花)の系統を受け継いだ、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(埼玉県川口市)の小谷三志の「不二道」があります。

教派神道の「実行教」となって今日に至っています。

教派神道十三派中、「扶桑教」「丸山教」には身禄の教えが受け継がれています。

墓所は東京都文京区の海蔵寺。区の指定文化財に指定されています。

身禄は呪術による加持祈祷を否定しました。

正直と慈悲をもって勤労に励むことを信仰の原点としたのです。

米を菩薩と称し、最も大切にすべきものと説きました。

陰陽思想から来る男女の和合、身分差別の現実を認めたうえでの武士、百姓、町人の協調と和合、「世のおふりかわり」という世直しにつながる考え方など、江戸時代を生き抜くための独自の倫理観を説いています。

身禄の教えは、その後の富士講の流行を生みました。

庶民が徒党を組むことを嫌った江戸幕府から再三の禁止令を受けましたが、その教えは江戸の人々に静かに広がっていきました。

六根清浄  【RIZAP COOK】

ろっこんしょうじょう。聖なる場所を汚さないよう心身を清浄にして見えないものに接する、という意味が込められています。

「六根」とは、仏教で説く、認識作用を起こす六つの器官をさします。

眼、耳、鼻、舌、身、意。これを「げん、にー、びー、ぜーつ、しん、にい」と一気に繰り返し唱えます。

富士信仰のような山岳信仰では、山の精霊に告げることばとされています。

富士登山では、「懺悔懺悔、六根清浄、お山は晴天」と唱えます。

「懺悔」は「さんげ」と読み、気合の入った掛け声のようなもの。

山の霊地で過去の罪障を懺悔する意味であり、実際にそのような行為もあったそうです。

自分の罪障をことばに発しなければ、富士山に棲息するという、富士太郎(陀羅尼坊)や小御嶽正真坊といった天狗に身体を八つ裂きにされないよう、「懺悔懺悔、六根罪障、大峰八大おしめにはったい、金剛童子、大山大正不動明王、石尊大権現せきそんだいごんげん、大天狗、小天狗」と唱えます。

懺悔の内容は、たいていは、間男したとか、借金踏み倒したとかのようですが。

ことばよみいみ
先達 せんだつ引率者
懺悔さんげ気合の入った掛け声のようなもの
勧請 かんじょう 神仏の分霊を請じ迎えまつること 
食行身禄 じきぎょうみろく富士講の指導者。本名は伊藤 伊兵衛。1671-1733
人穴 ひとあな

【RIZAP COOK】


六根清浄👆

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

あくびしなん【あくび指南】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

【どんな?】

あくびのお稽古に行こうという、江戸っ子の突拍子。
よほど暇なのでしょうか、ちょっとあこがれちゃいます。
でもまあ、じつにくだらないお噺で。いいですねえ。

別題:あくびの稽古(上方)

あらすじ

町内の、もと医者が住んでいた空家に、最近変わった看板がかけられた。

墨黒々と「あくび指南所」。

「常盤津や長唄、茶の湯の稽古所は聞いたことがあるが、あくびの稽古てのは聞いたことがねえ、金を取って教えるからにゃあ、どこか違っているにちがいないから、ちょいと入ってみようじゃねえか」
と、好奇心旺盛な男、渋る友達を無理やり引っ張って、
「へい、ごめんなさいまし」

応対に出てきたのが品のよさそうな老人。

夫婦二人暮らしで、取り次ぎの者もいないらしい。

お茶を出され
「こりゃまた、けっこうな粗茶で……。すると、こちらが愚妻さんで」
とまぬけなことを口走ったりした後、相棒が、
「ばかばかしいから俺は嫌だ」
というので、熊一人で稽古ということになる。

師匠の言うことには、
「ふだんあなた方がやっているあくびは、あれは駄あくびといって、一文の値打ちもない。あくびという人さまに失礼なものを、風流な芸事にするところに趣がある」
との講釈。

すっかり関心していると
「それではまず季節柄、夏のあくびを。夏はまず、日も長く、退屈もしますので、船中のあくびですかな。……その心持ちは、八つ下がり大川あたりで、客が一人。船頭がぼんやり煙草をこう、吸っている。体をこうゆすって。……船がこう揺れている気分を出します。『おい、船頭さん、船を上手へやってくんな。……日が暮れたら、堀からあがって吉原でも行って、粋な遊びのひとつもしよう。船もいいが、一日乗ってると、退屈で、退屈で、……あーあ、ならねえ』とな」
「へえ。……えー、吉原へ……こないだ行ったら勘定が足りなくなって」
「そんなことはどうでもよろしい」
「船もいいが一日乗っていると、退屈で退屈で……ハークショイッ」

これをえんえんと聞かされている相棒、あまりの阿呆らしさに、
「あきれけえったもんだ。教わる奴も奴だが、教える方もいい年しやがって。さんざ待たされているこちとらの方が、退屈で退屈で、あーあ……ならねえ」
「ほら、お連れさんの方がお上手だ」

底本:三代目三遊亭小円朝

しりたい

たくさんあった指南噺   【RIZAP COOK】

かつては「地口指南」「泥棒指南」など、多くの指南ものの噺がありました。

今ではこの「あくび指南」と「磯の鮑」(別題「女郎買いの教授」)を除けば、すたれてしまいました。

この噺を含めて指南ものは、安永年間(1772-81)以後、町人の間に経済的な余力ができて、習い事が盛んになっっていった時期に出てきたものです。

「あくび指南」も、文化年間(1804-17)にはすでに口演されていました。

「喧嘩指南」というのもあり、弟子入り早々、先制攻撃で師匠に「マゴマゴしてやがると張り倒すぞ」とやると、師匠が「うん、てめえはものになる」というもの。

これは、「あくび指南」のマクラ小ばなしとして生き残っています。

同じくマクラとして、師匠が釣り糸に糸を垂らした弟子を下からひっぱり落としたので、「先生ひどい。今のはなんの魚がかかったんです?」「今のは河童だ」とオチる「釣り指南」を付けることもあります。

「下手くそにやれ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)などが、よく演じました。

金馬によれば、この噺は昔から、待っている友達(登場人物)より、聞いている客の方があくびをするように、ことさらまずく演じるのが口伝だといいます。

まずくやって客を退屈させるのが口伝とは。

ジョークなのか、奥深い演出なのか。わかりません。

昔、ある落語家がこの噺でオチ近くになったとき、客が大あくびをしたので、「あのお客さまはご器用な方だ」と即興でオチをつけて、そのまま高座を下りたとか。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、「後でオチのあくびが引き立つように師匠のあくびは、ごくあっさりとやるのがコツ」と芸談を残しています。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)は、若い頃からこの噺をおもしろくやっていました。志ん生の影響を受けたんだそうです。

ところが、師匠の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)からは「あんなに笑わせちゃいけねえんだ」と渋い顔をされたとか。

金馬や四代目小さんなんかと通じるお説ですね。

小三治のあのとぼけたおかしさ。いっそう笑いを増幅させたのでしょう。なつかしい。

現在でも東西問わずよく口演され、音源も数多い噺です。

上方のものでは、二代目桂枝雀(前田達、1939-99)が漫画的で報復絶倒、あくびをしている余裕など与えないおかしさでした。でも、これではだめなんですね、きっと。

原話は「あくび売り」   【RIZAP COOK】

安永5年(1776)、大坂板『立春噺大集』坤巻一の二「あくびの寄合」が原話です。

あくび売りが「薩摩のあくび」「仙台のあくび」「今橋筋のあくび」などをかごに入れて売り歩く趣向です。

これが上方落語「あくびの稽古」となり、かなり早く江戸にも移されたと思われます。

上方では、入れ事として「風呂に入って月をながめるときのあくび」「将棋で相手の長考を待つときのあくび」など、演者によってさまざまに工夫されていました。

川船   【RIZAP COOK】

隅田川を遊びで行き来するのは「川遊山かわゆさん」です。

「屋形船」という名称をよく聞きますが、これは、元禄年間(1688-1703)の前までは大いに流行した船で、主に武士連中が乗るものでした。

その後はすたれてしまいました。

落語で語られる時代は、寄席が始まった寛政10年(1798)以降です。

となると、屋形船はもう存在しません。

あるのは「屋根」と「猪牙」。

川遊山に使われたのは、600艘ほどあった屋根船と、屋根のなくて揺れがひどくて高速の猪牙船で、こちらは700艘あったそうです。

屋根船は船頭が1人か2人でこぐ「日よけ船」とも呼ばれるもので、4人ほどの客が乗れました。

屋根があっても、武士でなければ障子はご法度で、代わりに竹のすだれを下げたそうです。

ドラマや映画の雰囲気とはだいぶ違いますね。

ただ、船頭に酒手さかて(チップ)をはずめば、船頭は隠してあった障子を出しててききっちり閉めて、首尾の松あたりにもやい、適当な頃合いまでどこかに消えてしまうという味なこともしてくれたそうです。

首尾の松は、浅草御蔵にあった川遊山の目印となった松をいいます。

こんな客が多くて、ここはひっきりなしに船がもやう場所だったようです。

この噺での船はどちらでしょうか。まあ、どちらでもよいのでしょうが、屋根船のほうが無聊を慰めるにはお手頃かもしれませんね。

浅草御蔵、四番堀と五番堀の間には首尾の松

指南所   【RIZAP COOK】

今でも荒川区界隈ではそんなものですが、街場の人々は子供たちに習い事をさせるものでした。

子供たちばかりか、大人もいろいろな指南を受けたがるのが下町の美風でした。

指南所は、稽古所、稽古屋などともいいます。

芸は身を助けるという街場の知恵だったわけでしょう。

色っぽい独り身の女師匠が出てくるのは「汲み立て」「猫忠」ですね。

どの町内にも一人はいたといわれるほど、ごく普通のなりわいでした。

これをお目当てに通う野郎連中は、張って張りぬく経師屋連きょうじやれん、あわよくばと心願うはあわよか連、機会を見つけて野獣の本性をむき出しにする狼連おおかみれんなどが横行するのだそうです。ホントかどうかはわかりませんが。志ん生なんかはそんなことをよく言っていました。

「張る」とは見張って付け狙うことで、経師屋は書画、屏風、ふすまなどを表装する職人のことですが、ここでは紙を張るのと、女を張るのを掛けているのです。落語ではよく出てくる表現ですね。

六代目蝶花楼馬楽(河原三郎、1908-87) 四代目小さんの弟子でした
春風亭一之輔
十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021) ちょっと若い頃の



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あおな【青菜】落語演目

【RIZAP COOK】



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【どんな?】

お屋敷で聞きかじった隠し言葉を、長屋でまねる植木屋。
訪れた熊を相手に、植木屋が「おーい、奥や」
女房が「鞍馬山から牛若丸がいでましてその名を九郎判官義経」
女房が先に言ってしまったから、植木屋は「うーん、弁慶にしておけ」

別題:弁慶

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方かみがた柳影やなぎかげという「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山くらまやまから牛若丸うしわかまるいでまして、名を九郎判官くろうほうがん
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう(=九郎)」、「それならよしとけ(=義経)」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返おうむがえし……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、上方から東京に移した噺です。

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。

冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。

これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。

江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。

夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。

これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。

4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。

上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。

これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ長官伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ次官副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう判官祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん主典史、録、属、疏、志、典、目
四等官の内訳

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。

義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。

もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。

朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。

戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い、武骨で好色な青年はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。

検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。

検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことです。

兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつです。

義経たちの最後の戦いとなった「衣川の合戦」では、主君義経を守るべく、武蔵坊弁慶は大長刀を杖にして、橋の上で立ったまま、壮絶な死を遂げました。

その故事から、「弁慶の立ち往生」ということばが生まれたのでした。

「弁慶の立ち往生」とは、進むことも退くこともできず動けなくなることをいいます

「うーん、弁慶にしておけ」は、この「立ち往生」の意味を利かせているのです。

亭主が言うべきの「義経」を女房が先に言ってしまったので、亭主は困ってしまって立ち往生、という絵です。

『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現代では、説明なしには通じなくなっているかもしれませんね。

上方では人におごられることを「弁慶」といいます。これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています。この噺での「弁慶」には、その意味も加わっているのでしょう。

ところで、弁慶は、『吾妻鏡』の中では「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょうか。負け組ですから。

それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。

ならば、芸談好きの代表格、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の芸談を聴いてみましょう。弟子の小里ん師が語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

「青菜」の演者

三代目小さんが持ってきた話ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も得意にしていました。四代目から五代目に。

柳家の噺家はよくやります。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)も引き継いでいました。文句なし。絶品でした。還暦を過ぎた頃からのが聴きごたえありまました。



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もぐらどろ【もぐら泥】落語演目

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【どんな?】

明治の初め頃を舞台にした噺です。
三遊亭円生がやっていました。

別題:おごろもち盗人(上方)

【あらすじ】

大晦日だというのに、女房がむだ遣いしてしまい、やりくりに困っているだんな。

ぶつくさ言いながら帳簿をつけていると、縁の下で、なにやらゴソゴソ。

いわゆる「もぐら」という泥棒で、昼間のうち、物乞いに化けて偵察しておき、夜になると、雨戸の敷居の下を掘りはじめる。

ところが、昼間印をつけた桟までの寸法が合わず、悪戦苦闘。

だんなが
「ええと、この金をこう融通してと、ああ、もう少しなんだがなあ」
とこぼしていると、下でも
「もう少しなんだがなあ」

「わずかばかりで勘定が追っつかねえってのは、おもしろくねえなあ」
「わずかばかりで届かねえってのは、おもしろくねえなあ」

これが聞こえて、かみさんはなにも言っていないというので、おかしいとヒョイと土間をのぞくと、そこから手がにゅっと出ている。

ははあ、こいつは泥棒で、桟を弾いて入ろうってんだと気づいたから、
「とんでもねえ野郎だ。こっちが泥棒に入りたいくらいなんだ」

捕まえて警察に突き出し、あわよくば褒賞金で穴埋めしようと、だんなは考えた。

だんな、そっと女房に細引きを持ってこさせると、やにわに手をふん縛ってしまった。

泥棒、しまったと思ってももう遅く、どんなに泣き落としをかけてもかんべんしてくれない。

おまけにもぐり込んできた犬に小便をかけられ、縁の下で泣きっ面に蜂。

そこへ通りかかったのが廓帰りの男で、行きつけの女郎屋に三円の借金があるのでお履き物を食わされた(追い出された)ところ。

おまけに兄貴分に、明日ぱっと遊ぶんだから、それまでに五円都合しとけと命令されているので、金でも落ちてないかと、下ばかり見て歩いている。

「おい、おい」
「ひえッ、誰だい。脅かすねえ」
「大きな声出すな。下、下」

見ると、縁の下に誰か寝ている。

酔っぱらいかと思うと、
「ちょっとおまえ、しゃごんで(しゃがんで)くれねえか。実は、オレは泥棒なんだ」

一杯おごるから、腹掛けの襷の中からがま口を出し、その中のナイフをオレに持たしてくれ、と頼まれる。

男は
「どこんとこだい。……あ、あったあった。こん中に入ってんのか。へえ、だいぶ景気がいいんだな」
「いくらもねえ。五十銭銀貨が六つ、二円札が二枚、みんなで五円っかねえんだ」

五円と聞いて男、これはしめたと、がま口ごと持ってスタスタ。

「あッ、ちくしょう、泥棒ーう」

【しりたい】

古きよき時代とともに  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、上方では「おごろもち盗人」といいます。「おごろもち」は、関西でもぐらのこと。

昭和初期に五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)がよく演じ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)もたまにやりました。

速記が残るのは、六代目蝶花楼馬楽(河原三郎、1908-87)くらい。

東西とも、現在ではあまり演じられません。

オチは皮肉がきいていて、なかなかいいので、すたれるには惜しい噺なのですが。

「第十七捕虜収容所」泥は時代遅れ  【RIZAP COOK】

こうした、軒下に穴を掘って侵入する手口を文字通り「もぐら」と称しました。

もちろん「泥」にかぎらず、戦争映画などでよく見る通り、捕虜収容所や刑務所からの脱走も、穴を掘って鉄条網の向こうに出る「もぐら」方式がもっとも確実だったのですが……。

特に都会で、軒下というものがほとんど姿を消し、、穴を掘ろうにも土の地面そのものがなくなった現代、こうしたクラシックな泥棒とともに、この噺も姿を消す運命にあったのは、当然でしょう。

「ギザ」の使いみちは?  【RIZAP COOK】

50銭銀貨は、明治4年(1871)、表がドラゴン、裏に太陽を刻印したものが大小2種類発行されたのが最初です。俗に「旭日龍」と呼ばれました。

明治39年(1906)のリニューアルで表の龍が消え、通称は「旭日」に。ついで大正11年(1922)、従来より小型で銀の含有量の少ない「鳳凰」デザインのものに統一。

これは「ギザ」「イノシシ」とも呼ばれ、昭和13年(1938)、戦時経済統制で銀貨が姿を消すまで、事実上、流布した最高額の補助貨幣でした。

どんなに使いでがあったかを、大正11年前後の商品価格で調べてみると、50銭銀貨1枚で釣りがきたものは……。

寿司・並2人前、鰻重、天丼・並各1人前、もりそば5-6枚、卵8個、トンカツ3皿、二級酒4合、ビール大瓶1本、ゴールデンバット10本入り8個、炭5kg。湯銭大人1人10日分。

お履き物  【RIZAP COOK】

廓で、長く居続ける客を早く帰すため、履き物に灸をすえるまじないがあったことから、女郎屋を追い立てられる、または出入り差し止めになることを「お履き物を食わされる」といいました。

五代目古今亭志ん生は、たんに「おはきもん」と言っていました。

くすぐりから  【RIZAP COOK】

かみさんが、あとで泥棒仲間に仕返しで火でもつけられたら困るから、逃がしてしまえとだんなに言う。

泥「(調子にのって)ほんとだい、ほんとだい。仲間が大勢いて無鉄砲だから、お宅に火を つけちゃ申し訳ねえ」
亭「つけるんならつけてみろい。どうせオレの家じゃねえや」

……ごもっとも。             

                                       六代目蝶花楼馬楽

【RIZAP COOK】

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ごもくこうしゃく【五目講釈】落語演目

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【どんな?】

若だんなが語るでたらめ講釈。「若だんな勘当もの」の一。
寝床」と「船徳」、その他いろいろがごっちゃまぜに。

別題:居候講釈 端物講釈

あらすじ】  

お決まりで、道楽の末に勘当となった若だんな。

今は、親父に昔世話になった義理で、さる長屋の大家が預かって居候の身。

ところがずうずうしく寝て食ってばかりいるので、かみさんが文句たらたら。

板挟みになった大家、
「ひとつなにか商売でもおやんなすったらどうか」
と水を向けると、若だんな、
「講釈師になりたい」
と、のたまう。

「それでは、あたしに知り合いの先生がいますから、弟子入りなすったら」
大家がと言うと
「私は名人だから弟子入りなんかすることはない、すぐ独演会を開くから長屋中呼び集めろ」
と、大変な鼻息。

若だんな、五十銭出して、
「これで菓子でも買ってくれ」
と気前がいいので、
「まあそんなら」
とその夜、いよいよ腕前を披露することにあいなった。

若だんな、一人前に張り扇を持ってピタリと座り、赤穂義士の討ち入りを一席語り出す。

「ころは元禄十五年極月ごくげつなかの四日、軒場に深く降りしきる雪の明かりは見方のたいまつ」
と出だしはよかったが、そのうち雲行きが怪しくなってくる。

大石内蔵助が吉良邸門外に立つと
「われは諸国修行の勧進かんじんなり。関門開いてお通しあれと弁慶が」
といつの間にか、安宅あたかの関に。

「それを見ていた山伏にあらずして天一坊てんいちぼうよな、と、首かき斬らんとお顔をよく見奉れば、年はいざようわが子の年輩」
熊谷陣屋くまがいじんや

そこへ政岡まさおかが出てくるわ、白井権八しらいごんぱちが出るわ、果ては切られ与三郎まで登場して、もう支離滅裂のシッチャカメッチャ。

「なんだいあれは。講釈師かい」
「横町の薬屋のせがれだ」
「道理で、講釈がみんな調合してある」

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しりたい】  

またも懲りない若だんな  【RIZAP COOK】

原話は、安永5年(1776)刊『蝶夫婦ちょうつがい』中の「時代違いの長物語」です。

これは、後半のデタラメ講釈のくだりの原型で、歌舞伎の登場人物を、それこそ時代もの、世話ものの区別なく、支離滅裂に並べ立てた噴飯物ふんぱんもの。いずれにしても、客が芝居を熟知していなければなにがなにやら、さっぱりわからないでしょう。

前半の発端は「湯屋番」「素人車」「船徳」などと共通の、典型的な「若だんな勘当もの」のパターンです。道楽が過ぎたさまは「寝床」にも似ています。

江戸人好みパロディー落語  【RIZAP COOK】

四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)の、明治31年(1898)の速記が残っています。

柳枝は「子別れ」「お祭り佐七」「宮戸川」などを得意とした、当時の本格派でした。姉の養子が三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)でした。 

寄席の草創期から高座に掛けられていた、古い噺ですが、柳枝がマクラで、「お耳あたらしい、イヤ……お目あたらしいところをいろいろとさし代えまして」と断っているので、明治も中期になったこの当時にはすでにあまり口演されなくなっていたのでしょう。

講談や歌舞伎が庶民生活に浸透していればこそ、こうしたパロディー落語も成り立つわけで、講釈(講談)の衰退とともに、現在ではほとんど演じられなくなった噺です。

CD音源は五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものが出ています。

興津要おきつかなめ(1924-99、日本近世文学)はこの噺について「連想によってナンセンス的世界を展開できる楽しさや、ことば遊び的要素があるところから江戸時代の庶民の趣味に合致したもの」と述べています。

五目  【RIZAP COOK】

もともとは、上方語で「ゴミ」。

転じて、いろいろなものがごちゃごちゃと並んでいること。

現在は「五目寿司」など料理にその名が残っています。

遊芸で「五目の師匠」といえば、専門はなにと決まらず、片っ端から教える人間で、江戸でも大坂でも町内に必ず一人はいたものです。

別題は「端物講釈」。「端物」とは、「はしたもの」と読むと「中途半端」を意味し、「はもの」なら「短い噺」のことです。その伝でいけば、この噺は「はしたものこうしゃく」となるのですが。そうもいきませんね。

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てんさい【天災】落語演目



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【どんな?】

八五郎が心学先生に心服。
鸚鵡返しで長屋にまき散らして俄先生に。
典型的な心学噺です。

別題:先妻 俄心学 人の悪き(上方)

【あらすじ】

隠居の家に気短な八五郎がいきなり飛び込んできて
「女房のとおふくろのと、離縁状を二本書いてくれ」
と言う。

鯵を猫に盗まれたことから夫婦げんかになり、 止めに入ったおふくろをけっ飛ばしてきた というので、あきれた隠居、
長谷川町新道はせがわちょうじんみちの煙草屋裏に、紅羅坊名丸べにらぼうなまる(⇒べらぼうになまけるのもじり)という偉い心学しんがくの先生がいるから話を聞いて精神修行をし、心を和らげてこい」
と紹介状を書いて送り出す。

八五郎は先方に着くや、
「ヤイ、べらぼうになまける奴、出てきやがれッ」
とどなり込んだから先生も驚いた。

紹介状を見て
「おまえさんは気が荒くて、よく人とけんかをするそうだが、短気は損気。堪忍の成る堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するが堪忍、気に入らぬ風もあろうに柳かな」
「堪忍の袋を常に首へかけ破れたら縫え破れたら縫え」
と諭すが、いっこうに通じない。

先生が
「往来で人に突き当たられたらどうするか」
と聞くと、八は
「殴りつける」
と言うし、
「もし軒下を歩いていて屋根瓦が落ちてきてけがをしたら」
と問うと
「そこの家に暴れ込まァ」
「家の人がしたのではないぞ」
「しなくたってかまわねえ」
「それでは、表で着物の裾に水を掛らけられたら? 子供なら堪忍しますか」
「しねえ。その家に暴れ込む」

「それでは」と先生。

「五町四方もある原っぱでにわかの夕立、びっしょり濡れて避ける所もないときは、誰を相手にけんかする?」
と突っ込むと、さすがの八五郎もこれには降参。

「それ、ごらん。そこです。天災というもので、災難はちゃんとその日にあることに決まっている。先の屋根から落ちた瓦もそうです。わざわざこちらからかかりに行くようなもので、災難天災といいます。人間は天災てえことを知って、何事も勘弁しなければいけません」

わかったのかわからないのか、ともかく八五郎、すっかり心服して、
「なるほどお天道さまがすると思えば腹も立たない、天災だ天災だ」
と、すっかり人間が丸くなって帰る。

なにやら隣の家で言い争っているので、何事かと聞くと、吉兵衛が、かみさんの知らぬ間に女を連れ込んでもめているという。

ここぞと止めに入った八五郎、
「まあ落ち着け。ぶっちゃあいけねえ。奈良の堪忍、駿河堪忍」
「なんだよ」
「気に入らぬ風も蛙かな。ずた袋よ。破れたら縫うだろう?」
「だからなんでえ」
「原ン中で夕立ちにあって、びっしょり濡れたらどうする? 天災だろう」「なに、天災じゃねえ。先妻だ」

底本:二代目古今亭今輔、八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

心学

京都の石田梅岩(1685-1744)が創始しました。「心学」は梅岩の人生哲学と、それをもとにした民衆教化運動の、両方を指します。

この噺を見るかぎり、単なる運命肯定、「諦めの勧め」と理解されやすいのですが、実際は、人間の本性を率直にとらえ、人間の尊厳を通俗的なたとえで平易に説いた教えです。

そこから四民平等、商業活動の正当性を最初に提唱したのも梅岩一派だったといわれています。

石門心学ともいい、梅岩門下によって天保年間(1830-44)にいたるまで、町人を中心に大いに興隆しました。

この噺のように、師弟の辛抱強い問答によって教義を理解させる方法が特徴で、原則として教習料はタダでした。

意外な人気作

原話は不詳。かなり古くから江戸で口演されてきた噺のようです。

明治22年(1889)の二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)の速記が残っています。原型に近いものとして。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)へと伝わりました。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)のは、晩年の三代目小さんからの直伝だそうです。

地味で笑いも少なく、短いので前座噺の扱いを受けることもあって、滅亡寸前と思いきや、意外に人気があって、現在も比較的よく演じられています。

心学噺、ほかには

心学の登場する噺は、昔はかなりあったようです。

現在は「中沢道二」「由辰」が生き残っているほか、「堪忍袋」も心学の教義が根底にあるといわれます。

上方の「人の悪き」は、「人の悪きはわが悪きなり」と教わって、帰りに薪屋の薪を割らせてもらい、「人の割る木はわが割る木なり」と地口(ダジャレ)で落とすものです。

「天災」とよく似ていますが、同じ心学噺でも別系統のようです。

心学は江戸中期に町人に人気を得た倫理観です。武士中心の近世社会の下でなんとか生きていく町人(都市生活者)と百姓(町人以外の人々)に具体的な生き方を示したものです。明治に入ると、急速にすたれてしまいました。いちおうの平等社会が用意されたからです。

こんな具合ですから、心学噺は現代の価値観からは物足りなさを強く感じるわけです。その結果、明治時代に入ってからは省みられることがなくなり、世間からあっという間に消えてしまいました。



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ねどこ【寝床】落語演目



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【どんな?】

だんなの道楽はへたくそな義太夫。
これを聴く羽目となる長屋連の苦し紛れ。
断る言い訳、またも聴く言い訳が絶妙です。
文楽流と志ん生流の二系統があります。

別題:素人義太夫 素人浄瑠璃(上方)

あらすじ

ある商家のだんな、下手な義太夫に凝っている。

それも人に聴かせたがるので、みな迷惑。

今日も、家作の長屋の連中を集めて自慢のノドを聞かせようと、大張りきり。

「最初は御簾内みすうちだ。それから橋弁慶はしべんけい、あとへひとつ艶容女舞衣あですがたおんなまいぎぬ三勝半七酒屋さんかつはんしちいざかやの段をやって、伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ御殿政岡忠義ごてんまさおかちゅうぎの段と、あと、久しぶりにそうですな、太閤記たいこうき・十段目尼崎あまがさきを。ついで菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ松王丸屋敷まつおうまるやしきから寺子屋てらこやを熱演して、次に関取千両幟せきとりせんりょうのぼり稲川内いながわうちの段から櫓太鼓やぐらだいこ曲弾きょくひきになって、ここは三味線しゃみせんにちょっともうけさせておいて、このへんで私の十八番、三十三間堂棟由来さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい平太郎住居へいたろうすみかから木遣きやり、玉藻前旭袂たまものまえあさひのたもと・三段目道春館みちはるやかたの段、本朝二十四孝ほんちょうにじゅうしこう・三段目勘助住家かんじゅうろうすみかの段、生写朝顔日記しょううつしあさがおにっき宿屋やどやから大井川おおいがわでは満場をうならせるから。あとへ、彦山権現誓助剣ひこさんごんげんちかいのすけだち毛谷村六助家けやむらろくすけいえの段、播州皿屋敷ばんしゅうさらやしき鉄山館てつさんやかたの段、恋娘昔八丈こいむすめむかしはちじょう・お駒才三こまさいざ城木屋しろきやから鈴ヶ森すずがもりを熱演して、近頃河原達引ちかごろかわらのたてひき・お俊伝兵衛堀川しゅんでんべえほりかわの段、あとへ、碁盤太平記ごばんたいへいき白石噺吉原揚屋しらいしばなしよしわらあげやの段、一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんきを語って、伊賀越道中双六いがごえどうちゅうすごろく沼津千本松原ぬまづせんぼんまつばらをいきましょう。それから、忠臣蔵ちゅうしんぐら大序だいじょから十一段ぶっ通して、後日ごじつ清書きよがきまで語るから」

番頭の茂造に長屋を回って呼び集めさせ、自分は小僧の定吉さだきちに、さらしに卵を買ってこい、お茶菓子はどうした、料理は、見台けんだいは、と、うるさいこと。

ところが、茂造が帰ると、雲行きが怪しくなる。

義太夫好きを自認する提灯屋ちょうちんやは、お得意の開業式で三百さんぞくほど請け負ったので来られず、小間物屋は、かみさんが臨月りんげつで急に虫がかぶり(産気さんけづき)、鳶頭とびのかしらは、ごたごたの仲裁と、口実を設けて誰も来ないとわかると、だんなはカンカン。

店の一番番頭の卯兵衛うへえまで、二日酔いで二階で寝ていると言うし、他の店の者も、やれ脚気かっけだ、胃痙攣いけいれんだと、仮病けびょうを使って出てこない。

「それじゃ、おまえはどうなんだ」
「へえ、あたしはその、一人で長屋を回ってまいりまして……」

しどろもどろで言い訳しようとすると、だんながにらむので
「ええ、あたしは因果と丈夫で。よろしゅうございます。覚悟いたしました。伺いましょう。あたしが伺いさえすりゃ」
と、涙声。

だんなは怒り心頭で
「ああよござんす、どうせあたしの義太夫はまずいから、そうやってどいつもこいつも仮病を使って来ないんだろ。やめます。だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに店ァ貸しとくわけにはいかないから、明日十二時限り明け渡すように、長屋の連中に言ってこい」
と大変な剣幕。

返す刀で、
「まずい義太夫はお嫌でしょう、みんな暇をやるから国元へ帰っとくれ」
と言い渡して、だんなはふて寝。

しかたなく、店の者がもう一度長屋を回ると、店だてを食うよりはと、一同渋々やってくる。

茂造が、みんなさわりだけでも聞きたがっていると、うって変わってお世辞を並べたので、意地になっていただんな、現金なもので、ころりと上機嫌。

長屋の連中、陰で、横町の隠居がだんなの義太夫で「ギダ熱」を患ったとか、佐々木さんとこの婆さんは七十六にもなって気の毒だとかぶつくさ。

だんな、あわただしく準備をし直し、張り切ってどら声を張り上げる。

どう見ても、人間の声とは思えない。

動物園の脇を通るとあんな声が聞こえる、この家の先祖が義太夫語りを絞め殺したのがたたってるんだと、一同閉口。

まともに義太夫が頭にぶつかると即死だから、頭を下げて、とやっているうち、酒に酔って残らずその場でグウグウ。

三味線は玄人ながら、オヤマカチャンリンで弾いている。

だんな、静かになったので、感動して聞いているんだろうと、御簾内から覗くとこのありさまで、家は木賃宿じゃないと怒っていると、隅で定吉が一人泣いている。

だんなが喜んで、
「子供でさえ義太夫の情がわかるのに、恥ずかしくないか」
と説教し、定吉に
「どこが悲しかった? やっぱり、子供が出てくるところだな。『馬方三吉子別うまかたさんきちこわかれ』か? 『宗五郎そうごろうの子別れ』か? そうじゃない? あ、『先代萩せんだいはぎ』だな」
「そんなとこじゃない、あすこでござんす」
「あれは、あたしが義太夫を語ったとこじゃないか」
「あたくしは、あすこが寝床でございます」

底本:八代目桂文楽

しりたい

日常語だった「寝床」

上方落語「素人浄瑠璃しろうとじょうるり」を、「狂馬楽きょうばらく」と呼ばれた奇人の三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらく(本間弥太郎、1864-1914)が明治中期に東京に移したとされます。

ただ、明治22年(1889)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残るので、それ以前から東京でも演じられていた、ということでしょう。

古くから東西で親しまれた噺です。少なくとも戦前までは「下手の横好き」のことを「寝床」といって普通に通用したほどです。

佐々木邦ささきくに(1883-1964)著『ガラマサどん』(太白書房、1948年)では、ビール会社のワンマン社長が社員相手に「寝床」をそっくり再現して笑いを誘いました。これもむろん落語が下敷きになっています。初出は昭和5年(1930)、月刊誌『キング』(講談社)に連載されました。古川ロッパ(古川郁郎、1903-61)主演で、舞台や映画でも人気を集めました。

原話と演者など

江戸初期の寛永年間(1624-44)刊行の笑話本『醒睡笑せいすいしょう』や『きのふはけふの物語』に類話があります。

最も現行に近い原話は、安永4年(1775)刊『和漢咄会わかんはなしかい』中の「日待ひまち」です。オチも同じです。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が上方のやり方を踏襲して演じ、それを弟子筋の八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が直伝で継承、十八番としました。

主人公がいかにへたくそとはいえ、演じる側に義太夫の素養がないとこなしきれないため、大看板でも口演できるものは限られます。

文楽のほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)が子供義太夫語りの前身を生かして「豊竹屋とよたけや」とともに自慢ののどを聞かせ、三代目金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も演じました。

異色の志ん生版「寝床」

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、「正統型」の文楽・円生に対抗して、ナンセンスに徹した「異色型」の「寝床」を演じました。

前半を短くまとめ、後半、だんなが逃げる番頭を追いかけながら義太夫を語り、「獲物」が蔵に逃げ込むと、その周りを悪霊のようにグルグル回ったあげく、とうとう蔵の窓から語り込み、中で義太夫が渦を巻いて、番頭が悶絶というすさまじいもの。オチは「今ではドイツにいるらしい」という奇想天外。

実はこれ、師匠だった初代柳家三語楼さんごろう(山口慶三、1875-1938)のやり方をそのまま踏襲したものです。志ん生が三語楼の話財をいただいた好例でしょう。

三語楼は、英語まじりのくすぐりを連発するなど、生涯エログロナンセンスの異端児で通した人でした。志ん生の次男である三代目古今亭志ん朝の本名、「強次」の名付け親です。名づけたら、まもなくみまかってしまいました。

むろん、このやり方では「寝床」の題のいわれもわからず、正道とはいえません。長いこと無頼の人生を送った志ん生は、師匠の反逆精神にどこか共鳴し、それを引き継いでいたのでしょうか。このやり方で演じるのは少数です。あまりよいできとも思えませんが、これはこれで楽しめる珍品です。

要は、「寝床」には、①円馬→文楽、円生、金馬、可楽の系統と、②三語楼→志ん生の系統がある、ということです。

義太夫

大坂の竹本義太夫(1651-1714)が貞享2年(1685)ごろ、播磨流浄瑠璃はりまりゅうじょうるりから創始、二世義太夫(1691-1744)が大成し、人形芝居(文楽)とともに、上方文化のいしずえとして興隆しました。

噺に登場する「先代萩」など三編はいずれも今日でも文楽の重要なレパートリーになっている代表作です。義太夫が庶民間に根付き、必須の教養だった明治期までは、このほか「釜入かまいりの五郎市ごろいち」「志度寺しどじ坊太郎ぼうたろう」などの子役を並べました。

オヤマカチャンリン

明治10年代にはやったことば。相手を軽く見て「わかったよ」といったニュアンスのことば。

三味線の師匠は、金さえもらえば「もうどうでもいいや」という投げやりの心持ちで弾いているのが、このことばからわかります。

いまも使われる「親馬鹿チャンリン」は、「オヤマカチャンリン」のもじりかと。

明治12年(1879)1月17日付の読売新聞で、幸堂得知こうどうとくち(高橋利平、1843-1913、根岸派、黄表紙流の作家)が「寄書よせぶみ(寄稿欄)」で、滑稽味ある記事を寄せています。ここに「親馬鹿チャンリン」が登場します。

何でも唐の唐人の真似さへさせればよいと思ってゐるから、親馬鹿チャンリンなどといはれるのだ

うーん、わかったような、わからないような。

ただ、嘲りや侮りが感じられる点では「オヤマカチャンリン」と同じ語感です。

だんなの強権

この噺の長屋は通りに面した表長屋おもてながやで、おそらく二階建て。義太夫だんなは、居附き地主といって、地主と大家を兼ねています。

表長屋は、店子たなごは鳶頭など、比較的富裕で、今で言う中産階級の人々が多いのですが、単なる賃貸関係でなく、店に出入りして仕事をもらっている者が大半なので、 とても「泣く子とだんな」には逆らえません。

加えて、江戸時代には、引越しして新しい長屋を借りるにも、元の家主の身元保証が必要な仕組みで、二重三重に、義太夫の騒音に命がけで耐えなければならないしがらみがあったわけです。

お次は音曲がらみで、「稽古屋」はいかがでしょうか。

 



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ことばよみいみ
束 そく百の異称。「三百」を「さんぞく」と呼ぶなど

まつやまかがみ【松山鏡】落語演目

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【どんな?】

いまだ自分の姿を見る手段を持たない人々の村。
鏡に映る自分が死んだ父親だと思い込む男。
仏教典や謡曲などが入り込んで磨かれた噺です。

別題:羽生村の鏡(上方)

あらすじ

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文あおざしごかんもんのほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と、下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋なや古葛籠ふるつづらの中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に乱れて泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

しりたい

ルーツはインド   【RIZAP COOK】

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経ひゃくゆきょう』巻三十五「宝篋ほうきょうの鏡のたとえ」が最古の出典といわれます。

中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。

その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。

これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も   【RIZAP COOK】

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘(佐藤三吉、1837-1906、薬研堀の)の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、志ん生の長男十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)も演じました。現在では十一代目桂文治がなかなかです。

累伝説のパロディー   【RIZAP COOK】

上方では「羽生村の鏡」と題します。

筋は東京と変わりませんが、舞台をかさねの怪談で有名な下総羽生村とします。

この村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村   【RIZAP COOK】

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりでなんらかの実話があったのかもしれません。

地頭   【RIZAP COOK】

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび   【RIZAP COOK】

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰   【RIZAP COOK】

大山詣り 」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の愛人になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山詣り」ではおかみさんたちを、「剃刀(坊主の遊び)」ではお女郎さんを、それぞれ丸刈りにしています。

インチキなまり   【RIZAP COOK】

八代目文楽が『芸談 あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

ことばよみいみ
青緡 あおざし青繦。銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの
貫文かんもん銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫
宝篋の鏡の喩 ほうきょうのかがみのたとえ
東頸城郡 ひがしくびきぐん
八咫鏡やたのかがみ
葛籠つづら
北越雪譜 ほくえつせっぷ江戸後期の地誌。鈴木牧之の著作
累伝説 かさねでんせつ

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はまののりゆき【浜野矩随】落語演目

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【どんな?】

彫金職人の一途な噺。
元は講釈ネタ。
ものつくりの哀歓がにじむ一席。

別題:名工矩随

あらすじ

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫り」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

浜野矩随  【RIZAP COOK】

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚  【RIZAP COOK】

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家です。

若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末  【RIZAP COOK】

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。

ところが、五代目志ん生はこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。

いうまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた出来だと思います。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋  【RIZAP COOK】

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。

久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。久保田万太郎は戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家、俳人です。『浅草風土記』などで有名ですが、久保田を師と仰いだ小島政二郎は『円朝』という作品を残しています。

水垢離  【RIZAP COOK】

みずごり。神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。

東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

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すずふり【鈴ふり】落語演目

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【どんな?】

遊行寺が舞台。
仏道の修行。
禁欲の証に鈴を託して。
バレ噺の傑作。
「甚五郎作」も併載。

別題:鈴まら

【あらすじ】

藤沢の遊行寺ゆぎょうじという名刹。この寺の住職は大僧正だいそうじょうの位にあって、千人もの若い弟子が一心に修行に励んでいる。

なにせ弟子の数が多いので、さしもの大僧正も、この中から誰を自分の跡継ぎに選んだらよいか、さっぱりわからない。

そこでいろいろ相談した結果、迷案がまとまった。

旧暦五月のある日、いよいよ次の住職を決める旨のお触れが出る。

その当日、誰も彼も、ひょっとして俺が、いや愚僧ぐそうがというので、寺の客殿には末寺から押し寄せた千人の僧侶がひしめき合って、青々としてカボチャ畑のような具合。

そこでなにをするかというと、千人一人一人の男のモノに、太白の紐が付いた小さな金の鈴をちょいと結んで
「どうぞ、こちらへ」

次々と奥に通される。

一同驚いていると、やがて御簾みすの内から大僧正の尊きお声。

「遠路ご苦労である。今日は吉例吉日たるによって、御酒ごしゅ、魚類を食するように」

ただでさえ生臭物は厳禁の寺で、酒をのめ、それ鰻だ、卵焼きだというのだから、どうなっているのかと目を白黒させていると、なんとお酌に、新橋、柳橋のえりすぐりの芸者がずらりと並んで入ってくる。

しかも、そろって十七、八から二十という若いきれいどころ。色気たっぷりにしなだれかかってくるものだから、ふだん女色禁制で免疫のできていない坊さんたちはたまったものではない。

色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき
と必死に股間を押さえていると、隣で水もしたたる美女が
「あなた、何をそう、下ばかり向いて」
と、背中をぽんとたたく。

「あっ」
と手を放したとたんに、親ではなくセガレの方が上を向き、くだんの鈴がチリーン。

たちまち、あっちでもこっちでもチリーン、チリーン、チリチリリーン。

千個の鈴の妙なる音色、どころではない。

そのかまびすしい音を聴いて、大僧正、嘆くまいことか。

涙にくれて、
「ああ情けなや。もう仏法も終わりである。千人の全部が全部、鈴を鳴らそうとは」

ところがふと見ると、年のころ二十くらいの若い坊さんがただ一人、数珠じゅずをつまぐりながら座禅を組んでいる。

よく聞くと、その坊さんの股間からだけは、鈴の音なし。

大僧正、感激の涙にむせび、これで合格者は決まったと、さっそく呼び寄せて前をまくってみたら鈴がない。

「はい、とっくに振り切れました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生おはこのバレ噺 【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の一手専売だったバレ噺(エロ噺)です。

ネタがネタだけに、当人も寄席ではやれず、特殊な会やお座敷だけのサービス品でした。

ただし、珍しくずうずうしくも昭和36年(1961)5月の東横落語会とうよこらくごかいで堂々と演じたライブの音源は、脳出血で倒れる半年ほど前の、元気な頃の最後の高座のものです。

「鈴ふり」のマクラに志ん生が必ずつけたのが、関東十八檀林だんりんの言い立て。檀林とはお坊さんを養成する学校のことです。

挙げられる十八か寺は、浄土宗で大僧正となるために修行しなければならない関東の諸名刹です。

この噺の舞台、藤沢の遊行寺は、一遍上人いっぺんしょうにんの「踊り念仏」で有名な時宗じしゅうの総本山。

正しくは藤沢山とうたくざん無量光院むりょうこういん清浄光寺しょうじょうこうじといいます。

「時宗」という呼称は寛永8年(1631)から。江戸幕府から時宗274寺の総本山と認められるところから始まります。

意外に新しいのです。

一遍は鎌倉時代の人ではあるのですが。

この一派、規模が小さいことと、同じ念仏宗派のため、浄土宗系寺院と重なるようにみえますが、この噺のごちゃごちゃぶりはさすがに落語的。

時宗と浄土宗の混在はでたらめ。よくこんなので、長いこと通用しているものです。逆に、落語の底知れぬ奥行きに偉大さを感じてしまいます。

江戸時代の時宗

時宗は自らの檀林(時宗では学寮といいます)は1784年までなかったといわれています。

現在は全国に500余の寺院がありますが、江戸時代には2000を超えるほどだったそうです。

それなりの宗派だったのですが、なんせ踊り念仏を旨とするため、定着性が薄く、他の宗派のような法灯を絶やさず、といった思いも弱く、それでも、江戸幕府の宗門制度に合わせて本山、末寺の管理を厳密化するようになったことで、本山を藤沢の清浄光寺にまとめたのです。

志ん生の「鈴ふり」

志ん生の長男で、まじめそのものの芸風だった(ここがまたいいのですが)十代目金原亭馬生きんげんていばしょう(美濃部清、1928-82)もたまに演じていました。

そこのギャップがなかなかに心愉しいものでした。

昭和33年(1958)10月11日の「第67回三越落語会」。

志ん生はトリで「黄金餅こがねもち」をやる予定でした。

その前に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が「藁人形わらにんぎょう」を。これは関係者の不手際ふてぎわによるものでした。

ひとつの興行で同じ傾向の噺が続くのを「噺がつく」とむのが落語の世界です。

そこで、志ん生は客にことわって「鈴ふり」をみっちりやったといいます。こういうところが志ん生のいきなところですね。

関東十八檀林の言い立て 【RIZAP COOK】

「檀林」とはお坊さんの修行道場で学問所。

ここでいう「関東十八檀林」は浄土宗の寺院をさします。

浄土宗は徳川家康が信仰していたことから、宗派間における地位は優越でした。

江戸の町では、浄土宗と日蓮宗(当時は法華宗といいました)が信者獲得競争に明け暮れしており、その勢力と知名度では他宗派をしのいでいました。

浄土宗のお坊さんは寺を巡るごとに出世していったわけです。

志ん生の言い立てを再現してみましょう。

その修行の一番はなへ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院ばんずいいんという寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣こうのす勝願寺しょうがんじという寺へ入る。この勝願寺を抜けまして、川越の蓮馨寺れんけいじへ。蓮馨寺を抜けまして、岩槻の浄国寺じょうこくじという寺に入る。浄国寺を抜けまして、下総小金しもうさこがね東漸寺とうぜんじという寺に入り、東漸寺を抜けて、生実おゆみ大巌寺だいがんじへ入り、滝山の大善寺へ入る。ここから、常陸江戸崎ひたちえどさき大念寺へ入って、上州館林じょうしゅうたてばやし善導寺へ入る。それから、本所の霊山寺れいざんじへ入って、下総結城しもうさゆうき弘経寺ぐぎょうじへ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行をしなければならない。それから、下総国飯沼しもうさいいぬま弘経寺ぐぎょうじというところへ入る。ここは十八檀林のうちで、隠居檀林といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを、一心になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊巌寺れいがんじに入り、霊巌寺を抜けて、上州新田じょうしゅうにった大光院に入って、常陸瓜連ひたちうりづら常福寺に入って、そうして、紫の衣二枚になって、それより、えー、小石川の伝通院でんづういんへ入り、伝通院を抜けて、鎌倉の光明寺こうみょうじへ入って、そこでの衣一枚となって、それより、江戸は芝の増上寺ぞうじょうじに入って、増上寺で修行をして、緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位となるという……ここまでの修行が大変であります。

「甚五郎作」 【RIZAP COOK】

「鈴ふり」が短い噺なので、志ん生は「甚五郎作」という小咄をセットで語っていました。

これもバレ噺です。

昭和31年(1956)1月8日号の『サンケイ読物』で、志ん生は福田蘭童らんどうと対談をしています。

タイトルは「かたい話やわらかい話」で、二人で昔の吉原の思い出を肴に笑っています。

その中で、志ん生は「甚五郎作」を語っていました。

対談を読むと、志ん生にとって「甚五郎作」は相当なお気に入りの噺だったように思えるのですが、当の福田蘭童は「なるほど。きれいなオチですね」とかえした程度。

福田の笑いのセンスは志ん生のそれとはズレていたようです。

残念な人です。

では、福田が聴いた「甚五郎作」を再現してみましょう。

昔はいいとこの娘でも、行儀見習いといって、大名屋敷へ奉公へ行ったでしょう。方向へ上がるてえとみんな女ばかり。年頃となってくると男なしではいられない。といって、不義はお家のご法度、男は絶対に近づけられない。そこへつけこんで商売を始めたのが張り形屋。つまり、男の代用品ですね。両国の四ツ目屋よつめやなんぞへ、御殿女中がこれを買いにやってくる。ある家の娘が、やはりこのご奉公に上がって、体の具合が悪くなって帰ってきた。医者にみせると妊娠しているという。おっかさんが驚いて、娘に相手は誰かと聞く。娘は「相手なんかいない」というんです。相手がなくて妊娠するわけはないと問い詰めて、娘の手文庫てぶんこを調べたら、中から張り形が出てきた。「おまえ、これで赤ん坊ができるわけがないよ」と言って、張り形の裏を返したら「左甚五郎作」と彫ってあった。左甚五郎の作ったものは、生き物のように飛び出るという、あれですね。

志ん生という人は、元来、こういうスマートな噺を好んだようです。粋だなあ。

ところで、福田蘭童(石渡幸彦、1905-76)。

この人は、青木繁(画家)の長男で、尺八、フルート、バイオリン、ピアノなんかを演奏する音楽家にして、随筆家。

かつてはこのような、得体のしれない型破りの通人がごろごろいたもんです。

息子の石橋エータロー(石橋英市、1927-94)もそんな範疇の方なんでしょう、きっと。

ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーで、桜井センリとのピアノ連弾なんですから。人生の後半は料理研究家でした。

■関東十八檀林

名称内訳現在地
下谷の幡随院新知恩寺。浄土宗系単立寺院。本尊は阿弥陀如来東京都小金井市前原町
鴻巣の勝願寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県鴻巣市本町
川越の蓮馨寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県川越市連雀町
岩槻の浄国寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来埼玉県さいたま市岩槻区
下総小金の東漸寺浄土宗千葉県松戸市小金
生実の大巌寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来千葉県千葉市中央区 
滝山の大善寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都八王子市大谷町
常陸江戸崎の大念寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県稲敷市江戸崎甲
上州館林の善導寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来群馬県館林市楠町
本所の霊山寺浄土宗。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来東京都墨田区横川
下総結城の弘経寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来。隠居檀林茨城県結城市西町
下総飯沼の弘経寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県常総市豊岡町
深川の霊巌寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都江東区白河
上州新田の大光院浄土宗。本尊は阿弥陀如来群馬県太田市金山町
常陸瓜連の常福寺浄土宗。本尊は阿弥陀如来茨城県那珂市瓜連
小石川の伝通院浄土宗。本尊は阿弥陀如来東京都文京区小石川
鎌倉の光明寺浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来
神奈川県鎌倉市材木座
芝の増上寺浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来東京都港区芝公園



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