ねずみ【鼠】落語演目

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【どんな?】

主人公は左甚五郎。胸のすく匠の噺です。

【あらすじ】

名工・左甚五郎は、十年も江戸・日本橋橘町の棟梁・政五郎の家に居候の身。

その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしている。

ある年。

まだ見ていない奥州松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきた。

十二、三の男の子が寄ってきて、
「ぜひ家に泊まってほしい」
と頼むので承知すると、
「うちの旅籠は鼠屋(ねずみや)といって小さいけど、おじさん、布団がいるなら損料(そんりょう)を払って借りてくるから、二十文前金でほしい」
と、言う。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。

前に虎屋という大きな旅籠(はたご)があり、繁盛している。

案内を乞うと、出てきた主人、
「うちは使用人もいめせんので、申し訳ありませんが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでください」
と言うから、ますますたまげた。

その上、子供が帰ってきて、
「料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしい」
と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

いたいけな子供が客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞いた。

このおやじ、卯兵衛(うへえ)といい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。

性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置に押し込め、店を乗っ取った。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋(いこまや)の世話になっていたが、子供の卯之吉が健気(けなげ)にも、
「このままでは物乞いと変わらない。おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう」
と訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳から、日本一の彫り物名人と知って、卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊まりを」
と書いて、看板代わりに入り口に揚げさせ、出発した。

この看板を見た近在の農民が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。

これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。

新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほど。

そのうち客から客へ、虎屋の今の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまう。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人・飯田丹下(いいだ・たんげ)に大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。

それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
と手紙を書いた。

不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴ってはるばる仙台に駆けつけ、虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いかい?」
としかると、
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

三木助人情噺  【RIZAP COOK】

三代目桂三木助が、浪曲師の広沢菊春に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。

「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年(1956)7月に初演しました。

竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の名工・甚五郎の逸話ものですが、録音を聴いてみると、三木助がことに子供の表現に優れていたことがよくわかります。

お涙ちょうだいに陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところが、この人のよさでしょう。

左甚五郎(1594-1651)については「三井の大黒」をお読みください。

日本橋橘町  【RIZAP COOK】

東京都中央区東日本橋三丁目にあたります。

甚五郎の在世中、明暦の大火(1657)以前は旧西本願寺門前の町屋でした。

「立花町」とも書かれますが、町名の由来は、当時このあたりに橘の花を売る店が多かったことからきたと言われています。

飯田丹下  【RIZAP COOK】

実在の彫工で、仙台藩・伊達家のお抱えでした。

生没年など、詳しい伝記は不詳です。

三代将軍家光(1604-51)の御前で、甚五郎と競って鷹を彫り、敗れて日本一の面目を失ったという逸話があります。

こぼれ噺  【RIZAP COOK】

三代目三木助(小林七郎、1902-61)がこの噺のマクラに、 「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃァいろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたらお向かいの猫が飛びついてきたってえン」 とやったそのねずみ男のモデルが、安藤鶴夫(1908-69)だったことは安藤当人の「巷談本牧亭」((1962年読売新聞連載,1963年刊行、直木賞受賞作)に書いています。

演劇評論家や作家で当時のマスコミで活躍していた安藤鶴夫は、三木助の熱烈な支持者で有名でした。

好みの偏りが過ぎる人で、落語界に残した功罪はなかなかです。

現在も  【RIZAP COOK】

三木助没後は、五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)が得意にしました。

三木助門下だった九代目入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)などを経て、若手にも伝わっています。演じ手の多い噺ですね。

志ん朝

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たけのすいせん【竹の水仙】落語演目

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【どんな?】

三島に投宿して酒びたりの左甚五郎は、宿の主人から追い立てを食らう。

甚五郎、中庭の竹を一本切って、竹造りの水仙に仕上げてみた。

翌朝、見事な花を咲かせた。竹なのに。これを長州公が百両でお買い上げ。

旅立つ甚五郎に、主人は「もう少しご逗留になったら」。

講談の「甚語郎もの」を借用した一席。オチはありません。

【あらすじ】

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎は言い渡した。

「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」

これはただ者ではないと、佐平が感嘆。

なんとその翌朝。

水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になった。

このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公は言った。

「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然とひとこと。

「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

甚五郎がいよいよ出発という時。

甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平はゲンキンなもの。

「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

【しりたい】

小さんの人情噺  

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。

古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸(椎名巌、1936-2018)がやっていました。

柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚 

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一節を落語化したものとみられます。

黄金の大黒」「」など、落語の「甚五郎もの」はいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「黄金の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があるんだそうです。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、「鼠」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご:宿屋、旅館

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かわずちゃばん【蛙茶番】落語演目

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【どんな?】

町内で繰り広げられる素人芝居。

抱腹絶倒です。

別題:素人芝居 舞台番

【あらすじ】

町内の素人芝居で「天竺徳兵衛」の「忍術ゆずり場」を出すことになった。

大盗賊の徳兵衛が、赤松満祐の幽霊から忍術の極意を伝授され、ドロンドロンとガマに化ける場面である。

ところが、そのガマの役にくじ引きで当たってしまったのが、伊勢屋の若だんな。

やりたくないから、当然、仮病を使って出てこない。

困った世話役の番頭、しかたなく芝居好きの丁稚の定吉をなだめすかし、ガマ賃をやる約束で、ようやく代役を承知させる。

安心したのもつかの間、今度は、舞台のソデで客の騒ぎを鎮める役である舞台番をつとめる建具屋の半公が来ない。

この男、通称バカ半、ハネ半と呼ばれるほどお調子者。

とにかく舞台番がいないと幕が開かないので、定吉に呼びに行かせると、この前、だんなに
「今度、化物芝居の座頭に頼む」
と言われたのがしゃくで、
「誰が行ってやるもんか」
と大変な剣幕。

困った番頭、一計を案じて定吉に、
「半公が岡惚れしている小間物屋のみい坊が、『役者なんかしないで舞台番と逃げたところが半さんらしくていい』と誉めていたと言って、だまして連れてこい」
と言いつける。

これを聞いて有頂天になった半公、どうせならと、自慢の緋縮緬のフンドシを質屋から急いで請け出し、湯屋で入念に「男」を磨く。

ところが、催促に来た定吉に
「早く来ないとみいちゃんが帰っちまう」
とせかされ、あわてて湯から上がって外へ飛び出したのはいいが、肝心のフンドシを締め忘れ、マル出しのまま気づかずに……。

さて、半公が息せききって駆けつけ、ようやく開幕。

客はもちろん、舞台番なんぞに目もくれない。

半公、ソデからみいちゃんをキョロキョロ探すが、いるワケがない。

しかたなく、フンドシの趣向だけでも見せようと
「しょっしょっ、騒いじゃいけねえ」
と客が静かに芝居を見ているのに、一人で騒ぎ立てる。

あまりのうるささに一同ひょいと舞台番を見ると、半公の股間から妙なものがカマ首をもたげている。

「あれは作り物じゃない」
と場内騒然。

「ようよう、半公、日本一! 大道具!」

誉められた半公、喜んでいっそうはでに尻をまくり、客席の方に乗り出した……。

この間にも芝居は進んで、いよいよ見せ場の忍術ゆずり場。

ドロンドロンと大どろになるが、ガマの定吉が出てこない。

「おいおい、ガマはどうした。おい、定、早く出なきゃあだめだよ」
「へへっ、出られません」
「なぜ」
「あすこで、青大将がねらってます」

底本:三代目三遊亭金馬ほか

しりたい

茶番

もとは歌舞伎のの大部屋の役者が、毎年五月二十九日の曽我祭の日に酒宴を催し、その席で、当番がおもしろおかしく口上をのべたのが始まりです。

それを「酒番」といいましたが、享保年間(1716-36)の末に、下戸の初代澤村宗十郎が酒席を茶席に代えたので、酒番も茶番になったわけです。

宝暦年間(1751-64)になると、遊里や戯作者仲間、一般町人の間にもこの「口上茶番」が広まり、いろいろな道具を並べてシャレながら口上を言う「見立て茶番」、素人芝居に口上茶番の趣向を加味した「素人茶番」も生まれました。

この噺のイベントはその「素人茶番」、別名「立茶番」です。「芝居」と銘打つとお上がうるさいので、あくまでタテマエは茶番とし、商家の祝い事や町内の催しものに、アトラクションとして盛んに行われました。

落語では、ほかに「権助芝居」(「一分茶番」)があります。

天竺徳兵衛

ここに登場する芝居は、正式な外題を「天竺徳兵衛韓噺てんじくとくべえいこくばなし」といい、現在も市川猿之助劇団のレパートリーになっています。

四代目鶴屋南北(1755-1829)が、文化元年(1804)七月の河原崎座に書き下ろした作品です。

日本がまだ海外渡航できた寛永10年(1633)の頃。

インド(天竺)に渡航して「天竺聞書」を出版した徳兵衛。

徳兵衛を題材にしたもの。

徳兵衛が天下をねらい、ガマの妖術をあやつる大盗賊に仕立てた、壮大な歌舞伎狂言です。

19世紀初頭の南北にとって、17世紀前半に海外で活躍した徳兵衛の生涯は奇異に映ったのでしょう。

金馬の「サクラ」作戦

「素人芝居」(別題「五段目」「吐血」)という長い噺の後半が独立したものです。

オリジナルは、明治29年(1896)の四代目橘家円喬。

円喬のの速記が残っています。

戦後は三代目三遊亭金馬の十八番でしたが、その金馬がまだ円洲といった大正末期のこと。

神田・立花亭の独演会でこの噺を演じたとき、客席に潜ませた子分の春風亭小柳、のちの三代目桂三木助に「ガマが出ないじゃないか」と叫ばせ、待ってましたとばかり、「あそこで青大将がねらってます」とサゲて下りるという、派手な演出をしたそうです。

弾圧にめげず

バレ噺の色が濃いため、明治のころ、これを口演した円朝のライバル・初代談洲楼燕枝を始め、戦前にはかなりの落語家が警察署に呼ばれ、油をしぼられたといいます

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ごんすけざかな【権助魚】落語演目

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【どんな?】

女通いのだんな、口止めに権助を買収します。権助はだんなに冷たくて。

【あらすじ】

だんながこのところ外に女を作っているらしい、と嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬しっとで黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助ごんすけを呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、饅頭まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路りょうごくひろこうじあたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんのところへ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれる人なので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、手を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若たいぜんじじゃく

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くなら、だんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

駒止こまどめで田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺もくぼじから植半うえはんでひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴やまぐちともえ、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものはかつおの片身に伊勢海老、目刺しにかまぼこ。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川にカマボコが泳いでるんだね」
「ハア、道理で網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように周りから見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、少年SF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。作者の藤子・F・不二雄(藤本弘、1933-96)は大の落語ファンとして有名でした。ほかにも落語のプロットをさまざまな作品に流用しています。「21エモン」は『週刊少年サンデー』(1968-69年)などで連載されました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923)や二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残しています。

前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王ごおう(護符)」の別題で演じられたこともありました。

この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれました。

明治21年(1888)ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び評判になった、と山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』(1936年、第一書房→中公文庫)にあります。

山本笑月は東京朝日新聞などで活躍したジャーナリスト。

深川の材木商の生まれ。

長谷川如是閑(長谷川萬次郎、1875-1969)や大野静方(山本兵三郎、1882-1944)の実兄にあたります。

長谷川如是閑は日本新聞や大阪朝日新聞などので活躍したジャーナリスト、大野静方は水野年方門の日本画家です。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、旦那が外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、旦那夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪辣あくらつな算段なのですが……。

いや、けっこう笑えます。おあとはどうなりますやら。

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ごんすけぢょうちん【権助提灯】演目

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【どんな?】

短い噺。マクラに振る噺家もいますね。素っ気ないほどにおかしみが。

【あらすじ】

さるご大家(たいけ)のだんな。

おめかけさんを囲っているが、おかみさんがいたってものわかりがよく、またおめかけさんの方も本妻を立てるので、家内は円満、だんなは本宅と妾宅に交互にお泊まりという、大変にうらやましい境涯。

ある夜、だんなが本宅に帰ると、おかみさんが、
「今夜は火のもとが心配だから、あちらに行っておやりなさい」
と言うので、だんなはその言葉に甘えて、飯炊きの権助に提灯を付けさせて供をさせ、妾宅に引き返した。

するとおめかけさんの方でも、本妻に義理を立てて、
「おかみさんに済まないから、今夜はお帰りください」
と言う。

またも本宅へ引き返すと、おかみさんが承知せず、こうして何度も本宅と妾宅を行ったり来たりするうち、提灯の火が消えた。

「おい、権助、提灯に火を入れな」
「それには及ばねえ。もう夜が明けちまっただ」

底本:三代目柳家小さん、三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

権助

もともと、個人名というより、地方出身ながら商家の使用人、特に飯炊き専門に雇われた男の総称。職業名を示す普通名詞です。

権七とも呼ばれましたが、落語では「権助芝居」「権助魚」「かつぎや」「王子の幇間」ほか、多数の噺に狂言回しとして登場、笑いをふりまきます。

時に「清蔵」「久蔵」「百兵衛」など、実名で呼ばれることもありますが、みな同じで、「ゴンスケの○兵衛」というのが正確なところです。

上方では久三といいますが、落語にはほとんど登場せず、代わりに「おもよ」という、大和言葉らしい田舎言葉を使う女中が「貝野村」その他に登場します。

こちらはよくある名前というだけで、個人名です。

どんな呼び方をされても落語における「権助」の条件は、田舎言葉を使うことです。

落語世界の田舎言葉

権助のお国なまりは、六代目三遊亭円生によると下総(千葉県北部)なまりに近いということですが、やはり落語独特の架空のものです。

このなまりは、権助のほかに「お見立て」や「五人回し」に登場する田舎大尽(だいじん=大金持ち)の杢兵衛(もくべえ)も使います。

江戸を支えた権助の群れ

19世紀初頭の文化・文政年間以後、江戸では越後を始め、地方から出てきた人々が急増。

わけあり水呑の次・三男が大多数でしたが、庄屋や本百姓の子息で、江戸遊学で来ていた人々もけっこういたようです。

逃散(ちょうさん)などにおける幕府の禁令がゆるんだこともあります。

これも、そんなことを言っていられない時代の流れでした。

江戸っ子がいくら「椋鳥(むくどり)」などと小ばかにしても、実際にはこうした労働力なしには、すでに江戸の経済は成り立ちませんでした。これは当然、大坂も同じです。

寛政元年(1789)刊『廻し枕』には、「今宵の旦那も明朝にはたちまち権七さんになる」とあります。

飯炊き男や下男のすべてが、田舎者ではなかったはずです。

職業としてのおめかけさん

享保年間(1716-36)から、江戸でも武士、町人、僧侶など、階層を問わず富裕な者はおめかけさんを持つことが一般化しました。

安政大地震(1855)以後、下級武士や町家の娘が、生活の助けにおめかけさんとして身を売るケースが増え、今で言う契約愛人がドライな「商売」として成り立つようになったのです。

複数のだんなと、別個に契約を結ぶおめかけさんも現れ、共同妾宅に二、三人で住むこともありました。

安囲いと半囲い

「安囲い」という、おめかけさんの商売がありました。一月または二月契約で、月2-5両の手当の者は、だんなが通ってくる日数まで契約で決まっていたとか。

「半囲い」と呼ばれる形態は、商家の番頭や僧侶がパトロンとなって、女に船宿、茶屋などの店を出させるものです。作家の永井荷風もこの「半囲い」をやっていました。

小便組

明和年間(1764-72)から文化年間(1804-18)にかけ、「小便組」と呼ばれる詐欺が横行しました。

これは、美女をおめかけさん業に斡旋し、初夜にその女性が寝小便して、わざと追い出されるよう仕組みます。支度金(契約金)をだまし取る手口でした。

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きんのだいこく【黄金の大黒】落語演目

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【どんな?】

この噺、長屋の喧騒な雰囲気がよく出てますね。 

【あらすじ】

長屋の一同に大家から呼び出しがかかった。

日ごろ、店賃なんぞは爺さんの代に払ったきりだとか、店賃? まだもらってねえ、などどいう輩ばかりだから、てっきり滞納で店立ての通告か、と戦々恐々。

ところが、聞いてみるとさにあらず、子供たちが普請場で砂遊びをしていた時、大家のせがれが黄金の大黒さまを掘り出したという。

めでたいことなので、長屋中祝ってお迎えしなければならないから、みんな一張羅を着てきてくれと大家の伝言。

ごちそうになるのはいいが、一同、羽織なぞ持っていない。

中には、羽織の存在さえ知らなかった奴もいて、一騒動。

やっと一人が持っていたはいいが、裏に新聞紙、右袖は古着屋、左袖は火事場からかっぱらってきたという大変な代物だ。

それでも、ないよりはましと、かわるがわる着て、トンチンカンな祝いの口上を言いに行く。

いよいよ待ちに待ったごちそう。

鯛焼きでなく本物の鯛が出て寿司が出て、みんな普段からそんなものは目にしたこともない連中だから、さもしい根性そのままに、ごちそうのせり売りを始める奴がいると思えば、寿司をわざと落として、「落ちたのはきたねえからあっしが」と六回もそれをやっているのもいる始末。

そのうち、お陽気にカッポレを踊るなど、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

ところが、床の間の大黒さまが、俵を担いだままこっそり表に出ようとするので、見つけた大家が、
「もし、大黒さま、あんまり騒々しいから、あなたどっかへ逃げだすんですか」
「なに、あんまり楽しいから、仲間を呼んでくるんだ」

【しりたい】

金語楼が東京に紹介 

明治末から昭和初期にかけて、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の十八番だった上方噺を、初代柳家金語楼(1901-72、山下敬太郎)が東京に持ってきて、脚色しました。

金語楼は、戦前には「兵隊」ほか新作落語で売れに売れ、戦後はコメディアンとして舞台、映画、テレビと大活躍した人、三大喜劇人(エノケン、ロッパ、キンゴロー)の一人に数えられる人です。

現在も、けっこう演じられるポピュラーな噺ですが、なぜか音源は少なく、現在CDで聴けるのは立川談志(松岡克由、1935-2011)と大阪の三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)のものだけです。

初代春団治、金語楼とも、残念ながらレコードは残されていません。

オチはいろいろ

東京では、上のあらすじで紹介した「仲間を呼んでくる」がスタンダードです。

大阪のオチは、長屋の一同が「豊年じゃ、百(文)で米が三升」と騒ぐと大黒が、「安うならんうちに、わしの二俵を売りに行く」と、いかにも上方らしい世知辛いものです。

そのほか、「わしも仲間に入りたいから、割り前を払うため米を売りに行く」というのもありますが、ちょっと冗長でくどいようです。

大黒さまは軍神 

大黒天は、もとはインドの戦いの神で、頭が三つあり、怒りの表情をして、剣先に獲物を刺し通している、恐ろしい姿で描かれていました。

ところが、軍神として仏法を守護するところから、五穀豊穣をつかさどるとされ、のちには台所の守護神に転進。

えらい変わりようであります。

日本に渡来してから、イナバのシロウサギ伝説で知られるとおり、大国主信仰と結びつき、「大黒さま」として七福神の一柱にされました。

血なまぐさいいくさ神から福の神に。これほどエエカゲンな神サマは、世界中見渡してもいないように見えますが、これは現代人の狭い見方でしかありません。

戦争はたしかに破壊の象徴のように見えます。

でも、その後に復興して富をもたらすことはこれまた人類の変わらないいとなみ。

冬のあとに春が来るという、あれです。

怖い形相は魔を退けるおしるしです。

不思議なことではないのです。

これこそが、古代人のとらえ方の特徴なのです。

七福神の一員としてのスタイルはおなじみで、狩衣に頭巾をかぶり、左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持って、米俵を踏まえています。

福の神として広く民間に信仰され、この噺でも、当然、袋をかついで登場します。

江戸の風物詩、大黒舞い 

江戸時代には、大黒舞いといい、正月に大黒天の姿をまねて、打ち出の小槌の代わりに三味線を手に持ち、門口に立って歌、舞いから物まね、道化芝居まで演じる芸人がありました。

吉原では、正月二日から二月の初午はつうまにかけて、大黒舞いの姿が見られたといいます。

「黄金の大黒」のくすぐりから 

大家が自分のせがれのことを、
「わが子だと思って遠慮なくしかっておくれ」
と言うと、一人が、この間、大家の子が小便で七輪の火を消してしまったので、
「軽くガンガンと……」
「げんこつかい?」
「金づちで」
「そりゃあ乱暴な」
「へえ、お礼にはおよびません」

左甚五郎 

江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。講談、浪曲、落語、芝居などで有名で、「左甚五郎作」と伝えられる作品も各地にあります。

「甚五郎作」といわれる彫り物は全国各地にゆうに100か所近くあるそうです。

その製作年間は安土桃山期、江戸後期まで300年にもわたり、出身地もさまざまのため、左甚五郎とは伝説上の人物と考えるのが妥当だろう、というのが現在の定説です。

各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたと考えてもよいでしょう。

江戸中期になると、寺社建築に彫り物を多用することになりますが、その頃に名工を称賛する風潮が醸成されていったようです。

ポイントは「江戸初期」。

破壊と略奪の戦国時代が終わって、復興と繁栄が始まる息吹の時代です。

江戸幕府は、応仁の乱以来焼亡した寺社の再建に積極的に乗り出しました。

多くの腕自慢の職人が活躍した時期が「江戸初期」だったのです。

甚五郎が登場する落語や講談の作品は、以下のとおりです。

「三井の大黒」
「竹の水仙」
「鼠」
「甚五郎作(四ツ目屋)」
「掛川の宿」
「木彫りの鯉」
「陽明門の間違い」
「水呑みの龍」
「天王寺の眠り猫」
「千人坊主」
「猫餅の由来」
「あやめ人形」
「知恩院の再建」
「叩き蟹」

ついでに、左甚五郎の伝承を持つ主な作品を掲げておきます。時期も場所も多岐にわたっています。

眠り猫(日光東照宮)
閼伽井屋の龍(園城寺)
鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市)眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市)本殿「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市)子宝・子育ての虎、つなぎの龍
泉福寺(埼玉県桶川市)正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町)野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町)夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)
上野東照宮(東京都台東区)唐門「昇り龍」「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市)山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)本堂欄間
長国寺(長野県長野市)霊屋 破風の鶴
静岡浅間神社(静岡県静岡市)神馬
龍潭寺(静岡県浜松市)龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市)山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市)閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都府京都市東山区)鶯張りの廊下
知恩院(京都府京都市東山区)御影堂天井「忘れ傘」、鶯張りの長廊下
祇園祭 (京都府)鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市)力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加田)
出雲大社(島根県出雲市)八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)鳳凰の欄間
飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市) 稲喰神馬(黒駒)

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さいぎょう【西行】落語演目

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【どんな?】

佐藤義清が染殿内侍に恋い焦がれるところ、内侍から隠し文が届く。

義清は判読して阿弥陀堂で待つと、ついに内侍が来た。

歌の応酬で二人は打ち解け、義清が「またの逢瀬」を尋ねるや、「阿漕」と。

義清はこの意味がわからないのを恥じて、西行と改名し、歌道修行に行脚。

西行と染殿内侍とが逢い引き! バレ噺、いやいや、デタラメ噺です。

【あらすじ】

遍歴へんれきの歌人として名高い西行法師。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達し、気の毒に思しめして、佐藤義清さとうのりきよあてに御文おふみをしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。

西行、もとは佐藤兵衛尉ひょうえのじょう義清という禁裏きんり警護の北面武士ほくめんのぶしだった。

染殿内侍そめどののないしが南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、
「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」
と詠まれたのに対し、義清が
「一羽にて千鳥といえる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」
と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。

「佐藤さん、郵便」
というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。

喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、
「この世にては逢わず、あの世にても逢わず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」
とある。

「はて、この意味は」
と思いめぐらしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。

この世にては逢わずというから、今夜は逢えないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。

三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。

地に実は、草木も露を含んだ深夜。

人間絶えし後は丑三うしみツ時。

西方浄土さいほうじょうどは、西の方角にある阿弥陀堂あみだどうで待っていろということだろう、と気づいた。

ところが義清、待ちくたびれて、ついまどろんでしまう。

そこへ内侍が現れ
「我なればとり鳴くまでも待つべきに思わねばこそまどろみにけり」
と詠んで帰ろうとしたとたんに義清、あやうく目を覚まし、
よいは待ち夜中は恨みあかつきは夢にや見んとしばしまどろむ」
と返した。

これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねた。

翌朝、別れる時に義清が、
「またの逢瀬おうせは」
と尋ねると内侍は
阿漕あこぎであろう」
と袖を払ってお帰り。

さあ義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。

歌道かどうをもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起いちねんほっきして武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。

諸国修行の道すがら、伊勢いせの国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子まごが、
「ハイハイドーッ。さんざん前宿まえやどで食らいやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」

これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、
「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」
「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

【しりたい】

阿漕

阿漕とは、
伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ
という「古今六帖こきんろくじょう」の古歌こかから。

阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。

「阿漕」は当初、「たびかさなる」という意味で使われていました。

「阿漕ヶ浦に引く網」も、やがては熟してことわざの仲間入りをして、「隠しごともたび重なると人に知られる」ということのたとえに使われるようになりました。

江戸時代に入ると転じて、「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」の意味に変わりました。

阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸にあります。

伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。

病気の母を思った平次なる男が、禁断を犯して魚を取ったため、簀巻すまきにされたという伝説が残りました。

ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』(勢州阿漕浦)などがつくられました。

先行作品には、能『阿漕』や御伽草子おとぎぞうし『阿漕の草子』があります。

ただ、これらには「平次」の名はありません。

「阿漕」は歌枕うたまくらとして残りました。

過去に何度も歌われた結果、言葉のイメージを誰もが抱くようになったものを、歌枕と呼びます。

染殿内侍

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえて、ぴしゃりと言い渡したわけです。

馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのです。

西行先生は、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、
「二回もさせたげたのに、未練な男ね」
と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。

このあたりが落語の機微です。

歌をひねくりまわしているうちに、いつの間にかエロ噺と化しているのですね。

下半身ネタといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。

なるほど。見習いたいものです。

染殿内侍という女性が実在したのかどうは、はっきりしません。

染殿内侍が登場する『大和物語やまとものがたり』や『伊勢物語いせものがたり』から察すれば、在原業平ありわらのなりひらと同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。

永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。

南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。

西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。

落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。

それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。

在原業平には三人の息子がいた、とされています。

三男滋春しげはるの母親が染殿内侍だとされています。

これは『伊勢物語』の冷泉家れいぜいけ流古注本に記されています。

文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりも、そういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが、大切なのです。

少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。

染殿内侍は、在原業平と契った女性ということになります。

これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。

染殿というのは、藤原良房ふじわらのよしふさの邸宅をさします。

京の都は、「一条大路の南、正親町小路おおぎまちこうじの北、京極大路の西、富小路とみのこうじの東」のあたりにあったそうです。

良房は、臣下しんかとしては初の太政大臣だいじょうだいじん摂政せっしょうとなり、藤原北家ふじわらほっけ繁栄のきっかけを作った人です。

染殿大臣そめどののおとどなどと呼ばれていました。

その娘の明子めいし文徳もんとく天皇に入内じゅだいして、のちの清和せいわ天皇を生みました。

明子は染殿后そめどののきさきと呼ばれていました。

染殿后は美麗であったそうです。

『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。

内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のこと。

染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。

ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮さいぐうりょうでの仕事をつかさどっていたんだそうです。

斎宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇の名代みょうだいです。

内侍と伊勢神宮とはかかわりが深かったようです。

隠者いんじゃの歌詠み」として後世に名を残した西行。

その大先輩が在原業平といえるでしょう。

「むかし男ありけり、その男、身をようなきものに思いなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。

業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで貴族の間では最高の教養文芸でした。

業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。

流浪るろうする業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。

聖と俗を両有しているのですね。

その業平の思い人の一人が染殿内侍です。

これはすごい。

業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(「ドクターノオ」の)か、はたまた若林映子わかばやしあきこさん(「007は二度死ぬ」の)といったところでしょうか。

あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。

西行の存在

西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。

残した歌は約2300首。

歌人の最高峰です。

江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。

この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。

みんなが知っている教養をさかなに笑う、という趣向だったのでしょう。

西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。

源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。 『西行物語』と『選集抄せんじゅうしょう』がその双璧そうへきです。

さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。

江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麻呂と双璧です。

蓑笠みのがさをつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。

そんな逸話の一つ。 西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付けびん姿で、つまり俗人のなりで参宮さんぐうしたといわれています。

なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

存疑の歌といわれています。

見えない神さまに接して落涙するというもの。

われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。

伊勢では二見浦ふたみがうらいおりを結び、地元の神職者荒木田あらきだ氏と交わったそうです。

と、このように記していって、見えてくるものがありました。

西行、伊勢、和歌、女性、浦……。

江戸人が抱く西行のイメージ。

そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。

登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達じざいかったつ融通無碍ゆうづうむげな雰囲気が、いかにも江戸人の西行像なのでしょう。

西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人として形成されていきました。

寺院や宗派を超えて(高野山の、真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、世俗に理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。

この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の柳亭痴楽がたまに演じていました。

いまや、どうでもよいことですね。

参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって?『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)

史実がらみの噺

二村文人ふたむらふみと氏といえば、現在は富山大学の教授です。

城北埼玉高校の教師だった頃に、「落語と俗伝」という小論を『國語と國文学』(東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)に発表しています。

これが、なかなか刺激的なのです。

まず、二村氏は、落語を6種類に分類して、そこから抜け落ちてしまう噺があることを指摘します。

それが史実を扱った噺。

史実とはいっても、しょせんは落語ですから、俗伝であり通俗史をもとにした噺にすぎません。

具体的にはどんな噺のことのでしょうか。

二村氏は、この小論で「朝友」「西行」「お血脈」「紀州」を例示しています。

なるほど。

そこで、「西行」。

二村氏は「西行は落語になっても、芭蕉は落語にならない」と指摘します。

なぜなのでしょう。

二村氏によれば、以下の二点が歴史上の人物が落語に採用される条件である、としています。

(1) その人物の伝説化が進行していること。
(2) 伝記に謎の部分をもっていること。

西行の足跡にはわからない部分が多いけど芭蕉にはあまりない、と言いたいのでしょうか。

たしかに、現在でも、芭蕉の研究者は圧倒的に多く、西行はたいしたことありません。

ただ、地方に行けば、芭蕉のあやしげな伝説もちらほら見えたりします。

芭蕉が明らかに行ってもいないところに、芭蕉の句碑があったりとか。

そんな地方では芭蕉の伝説化も静かに進行しているでしょうし、謎の部分(忍者説とか水道工事監督時代とか)もないことはないでしょう。

二村氏の説が妥当かどうか、それはもう少し咀嚼そしゃくしたいところですが、この一文、刺激にあふれています。

だって、落語の評論でそんなところをほじくる人はいませんし。

この二村論文を起爆剤に、われわれも少し考えてみたいところです。

それにしても1985年の論文ですから、斯界の研究はすでに進んでいるのかもしれません。

【語の読みと注】
染殿内侍 そめどののないし
佐藤義清 さとうのりきよ:西行のこと
阿漕 あこぎ:阿漕ヶ浦
藤原良房 ふじわらのよしふさ
正親町小路 おおぎまちこうじ
染殿大臣 そめどののおとど
明子 あきらけこ、あきらけいこ
入内 じゅだい:嫁ぐ
染殿后 そめどののきさき

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おけちみゃく【お血脈】落語演目

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【どんな?】

信州の善光寺で「血脈の御印」をもらえば極楽に行ける。

その結果、地獄は閑古鳥状態。

地獄の起死回生で、御印を盗むために石川五右衛門が選ばれた。

五右衛門は善光寺に乗り込み、御印を見つけた。

会話がほとんどなく、噺家が語り進めていく地噺です。 

別題:血脈 骨寄せ(上方) 善光寺骨寄せ(上方)

【あらすじ】

信濃の善光寺で、お血脈の御印というのを売り出した。

これは、百文出して額に印を押してもらえば、どんな罪を犯しても極楽往生間違いなしという、ありがたい代物。

なにしろ、たった百文出せば、人を何万人絞め殺そうが罪業消滅というのだから、世界中から人が押しかけ、ハンコ一つで一人残らず極楽へ行ってしまい、しまいには地獄へ来るものが一人もなくなった。

おかげで地獄では不景気風が吹き荒れ、浄玻璃の鏡などの貴重品はおろか、鬼の金棒に至るまですべて供出させ、シャバの骨董屋に売っぱらってしまうありさま。

赤鬼も青鬼も栄養失調で餓生(?)寸前。

虎の皮のフンドシまで売りとばし、前を隠してフラフラと血の池をさまよっている。

元締めの閻魔大王も、このままでは失脚必至とあって、幹部を集めて対策会議。

部下の見る目と嗅ぐ鼻(ともに探査係)が、こうなれば誰か腕のいい大泥棒を雇い、元凶の、例のお血脈を盗み出すほかないと提案し、全会一致でそれに決まった。

問題は泥棒の人選で、ありとあらゆる大泥棒のリストをあさったが、いずれも帯に短したすきに長しで、結局、最後は人格力量抜群のご存じ、石川五右衛門と決定。

さて五右衛門、地獄の釜の中で都々逸どどいつを三十六曲歌ってのぼせているところ。

大王からのお召しとあって、シャバにいたころそのままに、黒の三枚小袖、朱鞘の大小、素網を着て、重ね草鞋、月代を森のごとくに生やし、六方を踏みながらノソリノソリと御前へ。

「……これこれしかじかだが、血脈の印を盗み出せるのはその方以外になし。やってのけたら重役にしてやる」
「ハハー、いとやすきことにござりまする」

というわけで、久しぶりにシャバに舞い戻った五右衛門、さすがに手慣れたもので、昼間は善光寺へ参詣するように見せかけて入り込み、ようすを探った上で、夜中に奥殿に忍び入って血脈を探したが、なかなか見当たらない。

そのうち立派な箱が見つかったので、中を改めるとまさしくお血脈の印。

見つかったらさっさと地獄へ持って帰ればいいものを、この泥棒、芝居気があるから、
「ありがてえ、かっちけねえ。まんまと首尾しゅびよく善光寺の、奥殿おくどのへ忍び込み奪い取ったるお血脈の印。これせえあれば大願成就」
と押しいただいて、そのままスーッと極楽へ。

底本:四代目橘家円蔵、六代目三遊亭円生

【しりたい】

善光寺の伝承に由来

はっきりした原話は不明ですが、信濃の善光寺にまつわる縁起・伝承が起源とみられます。

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の明治44年(1911)の速記が残っています。

その円蔵の演出を踏襲して、戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしました。

円蔵、円生ともにマクラに釈迦の逸話と善光寺の由来を滑稽化して入れています。

上方では、芝居の「骨寄せの岩藤」の趣向を取り入れ、五右衛門のバラバラになった骨を集めて蘇生させるというやり方なので「善光寺骨寄せ」「骨寄せ」の題でも演じます。

お血脈

おけちみゃく。

六代目円生が生前、善光寺に参詣していただいてきたと語っていました。

それによると、上書きに「信州善光寺、融通念仏血脈譜、別当大勧進」とあり、裏は中央に「浄業者」、脇に「念佛弟子、日課、百遍」、紙包みの中には半紙一枚に、中央に「良忍上人直授元祖聖應大師」、以下、多数の大僧正、上人、阿闍梨(高位の僧侶)の名が書きつらねてある、とのこと。

「血脈」とは、仏教で師匠から弟子に伝えられる戒律や系譜書です。

それを伝えることを「血脈相承」といい、在家の信者にその儀式を省略して護符のように分け与えたのが「お血脈」の始まりとか。

のちに札になりましたが、かつては額に直接押印していました。

ただしタダではなく、浄財百疋(一疋=二十五文)が必要です。

たった二分ちょっとで極楽往生できれば、安いものです。

善光寺

長野市元善光寺町にあります。

無宗派の単立寺院。天台宗と浄土宗とで運営管理されている、珍しい寺です。

本尊は三国伝来一光三尊阿弥陀如来。

天竺(=インド)から閻浮檀金という身の丈一寸八分の阿弥陀像が渡来、それを「仏敵」の物部守屋が難波ヶ池に簀巻きにして放り込み、「処刑」。

それを見つけた本多善光が、仏像を信州に勧請(神仏の分霊を迎える)して寺ができた、というのが沿革です。

本多善光が実在したかどうか。今のところ、可能性は薄いそうです。

石川五右衛門

伝説上の人物として、長く小説、芝居、落語などさまざまなジャンルで取り上げられてきました。

当人が主人公として直接登場するものは意外に少なく、落語ではこの「お血脈」でしょう。

ほかに、歌舞伎では「絶景かな……」で有名な「楼門の場」を含む「釜渕双級巴」、小説では古くは司馬遼太郎の「梟の城」、平成になってからは赤木駿介の「石川五右衛門」、劇画ではケン月影の「秀吉に挑んだ男石川五右衛門」などが、主なところでしょうか。

地噺

じばなし。セリフがほとんどなく、演者の地の語りを中心に進める噺のこと。

その意味では講談に近いわけですが、あれほどエクセントリックではなく、淡々と語ります。

「あたま山」「西行」「紀州」など、歴史上の人物の逸話や民間伝承、寺社縁起などを題材にしたものが多く、江戸前落語特有のジャンルといえます。

短くても笑いが少なく、地味なものが多いので、飽きずに聴かせるには円熟した話芸が必要です。生半可な噺家にはこなせません。

そういう意味では、いまどきははやらないでしょう。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)などは、滋味あふれる地噺の名手で、その語り口は、晩年にはさながら高僧の説教のような趣があったものです。いささか眠くなりますが。

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あさとも【朝友】落語演目

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スヴェンソンの増毛ネット

志ん朝

【どんな?】

伊勢町文屋の康次郎と小日向松月堂のお朝、冥途でともに夫婦になろうと。

奪衣婆に縛られたお朝を康次郎が助け、閻魔の目をかいくぐり二人は生き返った。

伊勢の文屋康秀が生き返る体がなく、松月の朝友の体を借りて生還したという。

文屋康次郎と松月お朝、似ている。「苦情は?」「幽霊の結婚、あしはつかない」

ちぐはぐな噺。出どころのよくわからない謎めいた噺でもあります。

別題:ともふさ

【あらすじ】

病気でこの世とおさらばした男。

気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。

うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。

よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。

再会を喜び合ううちに
「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいから、あなたのそばに置いてください」
と女が言う。

男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校という者の息子。

いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と、夫婦の約束。

ついでに、意気揚々と三途の川も渡ってしまった。

ところが、地獄では閻魔大王がお里に一目ぼれ。ショウヅカの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。

亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。

そこはさすがに金貸しの息子、親父が棺に入れておいてくれた、シャバのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。

たどりついた三途の川のほとり、ショウヅカの婆さんの家では、毎日毎日、あわれ、お里が婆さんに責めさいなまされている。

「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華は望み次第。玉の輿じゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」
と、襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。

折しも、降りしきる雪。

極楽の鐘の音がゴーン。

男が難なく塀を乗り越え
「お里さん」
「そういう声は康次郎さん」

急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだしたとたん、シャバでは
「ウーン」
とお里が棺の中で息を吹き返す。

それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。

生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。

来あわせた坊さんが
「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向の松月朝友という方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向の松月堂、向こうが伊勢町の文屋検校。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」
「でも和尚さん、向こうの都合もあります」
「いや幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」

底本:五代目古今亭志ん生

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

噺のなりたち

文屋康秀ふんやのやすひでを題材とする民間伝承に、同じく平安時代成立の『日本霊異記にほんりょういき』や『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』に多く見られる死人が蘇生して地獄のさまを語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。

ただ、さまざまに謎の多い噺です。

文屋康秀は三十六歌仙の一人。と、そう言われながらも、詳しいことがわかっていない人物です。

江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の『軽口はるの山』中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)刊『軽口夜明烏』中巻「死んでも盗人」が原話とされます。

前者では、幽霊が「ゴーストバスター」に墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。

お里がショウヅカの婆さん(=奪衣婆)に雪責めにされるところは、新内しんないの「明烏夢淡雪あけがらすゆめのあわゆき」中の遊女浦里うらさと雪責めの場面を採ったものです。

と記したところで、この噺のなりたち、なんのことやらわかりません。

伊勢や日向

では、あらためまして。

宇井無愁ういむしゅう(宮本鉱一郎、1909-92)によれば、この噺の根底には、「伊勢や日向」または「伊勢や日向の物語」ということわざが関係しているようです。

その意味は、「ことの前後がはっきりしないまとまりのない話」や「見当はずれなこと」です。

『伊勢物語知顕抄』には、こんな話が記されてあります。

伊勢の男と日向の男が死んだ時、閻魔の庁では、まだ寿命のある伊勢の男を生き返らせようとしたが、すでに火葬してしまって灰になっていたので、日向の男の体に生き返らせた。そしたら、体と心が別人で、言うことがちぐはぐになってしまった。

蘇生の失敗バージョンですね。

このことを「伊勢や日向」と言っているようです。要は「ちぐはぐ」ということですね。

「朝友」は、「ちぐはぐ」がキーワードなのです。

伊勢は三重県の、日向は宮崎県の旧国名です。

噺には、なんとしてもこれらを入れておかないと、当時の人々の理解をや賛意を得られなかったのでしょう。

ことわざが生きませんからね。

江戸時代には、わりと使われていたことわざだったようですから、こんな噺が生まれても奇妙ではなかったのかもしれません。

この噺、なんだかばかばかしくおかしくて笑っちゃう噺なのですが、現代のわれわれが理解するにはちょっと難易度が高いかもしれませんね。

松月朝友

詳細は不詳です。あらすじの参考にした、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の明治27年(1894)の速記では「トモフサ」とルビが振ってあります。

座頭金

民間では座頭金といいます。江戸期での視覚障害者の位階で最下位となる「座頭」がため込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位レベルの「検校」ともなれば、大名貸しで巨富を築くものも少なくありませんでした。

当道座

男性視覚障害者の自治的互助組織を当道座とうどうざといい、女性のそれには瞽女座ごぜざがありました。国の当道座をまとめる「惣検校そうけんぎょう」を最高位として京都の仏光寺近くに置き、江戸には関東の座の取り締まりをする「惣録検校そうろくけんぎょう」を本所に置きました。

彼らには階級が厳しくあって、おおざっぱには、別当→勾当→座頭の順です。さらに細分化されていて、73階級もあったそうです。

円朝作の「真景累ヶ淵」の発端で旗本、深見新左衛門の屋敷に、貸金の取り立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦もこの座頭金を営み、その金利は五両に一分で返済期限四月という高利でした。

ショウヅカの婆さん

奪衣婆ともいい、地獄の入り口、三途の川の岸辺で亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹という木の上にいる懸衣翁に渡すのが仕事の鬼婆です。

「ショウヅカ」は「生塚」とも書きます。「三途河」がなまったものです。柳田國男は「障塚」が由来と言っています。水木しげるの怪奇漫画では常連ですね。

落語でも「地獄八景」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場。この「朝友」では本来の悪役ですが、ほとんどは、どちらかというとコミカルな、情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原山名屋のやり手のおかや婆あです。

「正塚の婆さん」

かつて「正塚の婆さん」というタイトルのテレビドラマがありました。

昭和38年(1963)10月25日19時30分-20時56分、TBS系列の「近鉄金曜劇場」で放映された単発のテレビドラマ。

意地悪婆さんの正塚くに(三益愛子)が検察審査会の委員に選ばれて、ヤクザの家屋損壊事件を追究していきながら、日本の民主主義政治の実態を問う、という社会派法廷ドラマでした。

原作は橋本忍(1918-2018)。この方、『七人の侍』『幻の湖』などで名を残した邦画界の重鎮です。
タイトルが奪衣婆からの命名なのは明々白々です。これを安直とみるか。

60年前の日本社会では、奪衣婆=ショウヅカの婆さんは十分通じていたのですね。

完全に絶えた噺

四代目円喬以後、ほとんどやり手がなかったようで、昭和になって、昭和4年騒人社刊「名作落語全集」中に円喬の速記が復刻されて以来、何度か活字化されていますが、すべてソースは円喬のものばかり。彼以前も以後も、現在にいたるまで、音源も含めて、他の演者の記録はまったくありません。

地獄を脱出するサスペンスなど、なかなか捨てがたいので、どなたかがテキストレジーの上、復活してくれるとおもしろいのですがね。

文屋と朝友

円喬の速記によると、伊勢国の文屋の康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変っていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという奇妙キテレツな死人蘇生譚です。

円喬は坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本についてはまったく未詳です。

実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明で、わずかに、三河掾みかわのじょう(三河国で第3位の国司)となって赴任するときに小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。

【語の読みと注】
三途河 さんずか
三途河の婆さん しょうづかのばあさん
座頭金 ざとうがね
奪衣婆 だつえば
衣領樹 えりょうじゅ
障塚 さえつか
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
正塚の婆さん しょうづかのばあさん

スヴェンソンの増毛ネット

志ん朝

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

きんじつむすこ【近日息子】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

「近日」を「明日」と思い込んでいるばか息子を、大家の親父が嘆く。

親父の不機嫌ぶりを見て、息子は「ようすが変だ」と医者を呼び、葬儀屋まで。

長屋の連中が悔やみに駆け付けると、親父はピンピン。

表の忌中札をよく見ると、そばに「近日」の文字が。

上方噺。いい年した、この息子は滑稽ですが、ご近所さんだとちょいと迷惑。

【あらすじ】

三十歳近くになるが、ぼんくらな一人息子に、親父が説教している。

芝居の初日がいつ開くか見てきてくれと頼むと、帰ってきて明日だと言うから、楽しみにして出かけてみると「近日開演」の札。

「バカヤロ、近日てえのは近いうちに開けますという意味だ」
と親父がしかると、
「だっておとっつぁん、今日が一番近い日だから近日だ」

なにしろ、ふだんから、気を利かせるということをまるで知らない。

「おとっつぁんが煙管きせる煙草たばこを詰めたら煙草盆を持ってくるとか、えへんと言えば痰壺たんつぼを持ってくるとか、それくらいのことをしてみろ。そのくせ、しかるとふくれっ面ですぐどっかへ行っちまいやがって」
とガミガミ言っているうち、親父、厠かわやに行きたくなったので、
「紙を持ってこい」
と言いつけると、出したのは便箋と封筒。

「まったくおまえにかかると、よくなった体でも悪くなっちまう」
と、また小言を言えば、せがれ、プイといなくなってしまった。

しばらくして医者の錆田さびた先生を連れて戻ってきたから、わけを聞くと
「お宅の息子さんが『おやじの容態が急に変わったので、あと何分ももつまいから、早く来てくれ』と言うから、取りあえずリンゲルを持って」
「えっ? あたしは何分ももちませんか」
「いやいや、一応お脈を拝見」
というので、みても、せがれが言うほど悪くないから、医者は首をかしげる。

それを見ていた息子、急いで葬儀屋へ駆けつけ、ついでに坊主の方へも手をまわしたから、説教の薬が効きすぎた。

長屋の連中も、大家おおやが死んだと聞きつけて、
「あのばか息子が早桶はやおけ担いで帰ってきたというから間違いないだろう、そうなると悔やみに行かなくっちゃなりません」
と相談する。

そこで口のうまい男がまず
「このたびはなんとも申し上げようがございません。長屋一同も、生前ひとかたならないお世話になりまして、あんないい大家さんが亡くなるなん……」
と言いかけてヒョイと見上げると、ホトケが閻魔えんまのような顔で、煙草をふかしながらにらんでいる。

「へ、こんちは、さよならっ」
「いいかげんにしろ。おまえさん方まで、ウチのばか野郎といっしょになって、あたしの悔やみに来るとは、どういう料簡だっ」
「へえ、それでも、表に白黒の花輪、葬儀屋がウロついていて、忌中札まで出てましたもんで」
「え、そこまで手がまわって……ばか野郎、表に忌中札きちゅうふだまで出しやがって」
とおやじが怒ると、
「へへ、長屋の奴らもあんまし利口じゃねえや。よく見ろい、忌中のそばに近日と書いてあらァ」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

「近日」は芝居用語

江戸時代の芝居興行では、予定通りに幕が開かないことがしばしばでした。

金主きんぬし(スポンサー)と座主ざぬし(プロデューサー)のトラブル、資金繰りの不能、役者の「もっといい役をつけろ!」というクレームや、ライバル役者同士の序列争いなど、さまざまな原因です。

それを見越して、初日のだいぶ前から、「近日開演」の札を出して予防線を張っていたものです。

「近日札」といいました。

大阪・道頓堀の劇場街では、昭和に入っても戦争前まで、このしきたりが残っていたそうです。

古くは、上方ではこれを「前繰さきぐり」とも呼びました。

民話が原型

「病人に坊主」という民話が原型といわれます。

小ばなしでは、先走って寺に知らせるくだりは安永2年(1774)、上方で刊行された笑話本『茶の子餅』中の「忌中」、オチの「近日札」の部分は、その前年、つまり安永2年(1773)、江戸で刊行の仕形噺本『口拍子くちびょうし』中の「手まはし」がそれぞれ原話です。

二つをミックスして、落語に仕立てたのでしょう。

特に後者は、すでに現在の「近日息子」の後半とほとんど同じです。

三木助の当たり噺

もとは上方落語です。

「吹き替え息子(干物箱)」と同じく「息子」という言い回しも大阪のものです。

東京で口演されるようになったのは明治40年(1907)頃からです。

東京の落語家はほとんど手がけず、もっぱら上方から下ってきた二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)などが、大阪のものをそのまま演じていた程度でした。

大阪での修行時代に二代目桂春団治(河合浅次郎、1894-1953)からこの噺を伝授された三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が戦後になってから磨きをかけ、独特の現代的くすぐりをふんだんに入れて大当たり。

十八番に仕上げました。三代目三木助は生粋の江戸っ子です。

三木助演出の特徴は、年代を大正末期に設定してあるため、長屋の連中の会話がデスマス調でていねいなこと。

登場人物も「錆田」に「長谷川」と、新作落語のような印象が新鮮な点でしょう。

三木助のくすぐりから

●(長屋の住人の会話。昨夜乙が湯屋で会った大家が死んだと聞いて)

甲「なんですか? ゆうべ湯に行って帰りにざるを二杯食べると、今朝死ねませんか」
乙「死ねないって理屈はないでしょうけどねえ」
甲「あのね、イースーピン(一四筒)が通ってもチーピン(七筒)が通らない場合があるン」

「イースーピン」のくすぐりは、戦後の麻雀ブームでサラリーマンや学生客に大ウケだったとか。

●(早桶をかついできた息子)

「おとっつあん、ちょっと入ってみてねえ、そいで具合が悪いようだったら、あの、今のうちならね、(寝棺と)取り換えてくれるって」

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

あたまやま【あたま山】落語演目

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

花見あとのさくらんぼを食べたら頭から。何度聴いてもはぐらかされる不思議。

  別題:頭が池 さくらんぼ

あらすじ

春は花見の季節

周りはみな趣向をこらして桜の下でのみ放題食い放題のドンチャン騒ぎをやらかすのが常だが、ここに登場の吝兵衛けちべえという男、名前通りのしみったれ。

そんなことに一文も使えないというので、朝から晩までのまず食わずで、ただ花をぼんやり見ながらさまよい歩いているだけ。

しかし、さすがに腹が減ってきた。

地べたをひょいと見ると、ちょうど遅咲きの桜が、もうサクランボになって落ちているのに気づき、「こりゃ、いいものを見つけた」と、泥の付いているのもかまわず、一粒残さずむさぼり食った。

翌朝。どういうわけか頭がひどく痛んできて、はて、おかしいと思っているうちに、昨日泥の付いたサクランボを食ったものだから、頭の上にチェリーの木の芽が吹いた。

さあ大変なことになったと、女房に芽をハサミで切らせたが、時すでに遅く、幹がにょきにょきっと伸び出し、みるみる太くなって、気がついた時は周りが七、八尺もある桜の大木に成長。

さあ、これが世間の大評判になる。

野次馬が大勢押しかけて、吝兵衛の頭の上で花見をやらかす。

茶店を出す奴があると思うと、酔っぱらってすべり落ち、耳のところにハシゴを掛けて登ってくる奴もいる。

しまいには、頭の隅に穴を開けて、火を燃やして酒の燗をするのも出てくる始末。

さすがに吝兵衛、閉口して、「いっそ花を散らしてしまえ」というので、ひとふり頭を振ったからたまらない。

頭の上の連中、一人残らず転がり落ちた。

これから毎年毎年、頭の上で花が咲くたびにこんな騒ぎを起こされた日にはかなわないと、吝兵衛、町中の人を頼んで、桜の木をエンヤラヤのドッコイと引っこ抜いた。

ところが、あまり根が深く張っていたため、後にぽっかりと大きな穴が開き、表で夕立ちに逢うと、その穴に満々と水がたまる。

よせばいいのに、この水で行水すれば湯銭が浮くとばかりに、そのままためておいたのがたたって、だんだんこれが腐ってきて、ボウフラがわく、鮒がわく、鯰がわく、鰻がわく、鯉がわく……とうとう、今度は頭の池に養魚場ができあがった。

こうなると釣り師がどっと押しよせ、吝兵衛の鼻の穴に針を引っかけるかと思えば、釣り舟まで出て、芸者を連れてのめや歌えの大騒ぎ。

吝兵衛、つくづくイヤになり、こんな苦労をするよりは、いっそ一思いに死んでしまおうと、南無阿弥陀仏と唱えて、自分の頭の池にドボーン。

底本:八代目林家正蔵(彦六)

しりたい

昔はケチの小咄だった   【RIZAP COOK】

昔は、ちょっと毛色の変わったケチの小咄程度としか見られていませんでした。

マクラ噺として扱われていたのですが、なかなかどうして。

その奇想といい、シュールこの上ないオチの見事さといい、屈指の傑作落語といっていいでしょう。

八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)が、頭池に釣り舟が出るくだりを加えるなどして、一席の噺にまとめあげました。

その正蔵も、それでもまだ短いので、最初に、河童の子が逆に人間に尻子玉を抜かれ、親が「素人にしちゃ上出来だ」と感心する小咄を振ったりもしていました。五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は「もう半分」のマクラに、この噺を用いています。

「頭の池に身を投げた」というオチは、「考えオチ」といいます。

客をケムに巻くものですが、両師匠の芸風については次の項目をお読みください。

ケチ兵衛の投身自殺   【RIZAP COOK】

どうやって自分の頭の池にざんぶり飛び込んだか。彦六、志ん生両師匠の見解は?

●彦六

年寄りに聞くってえと、細長いひもをぬう場合、最初は糸目を上にしてぬって、ぬいあがると物差しをあてがって、一つ宙返りをさせる。すると完全な細ひもになる。理屈はあれと同じで、頭に池があれば、人間がめくれめくれて、みんな池の中にへえっちまう。

●志ん生

おかァさまが、赤ちゃんの付けひもなどをぬうときに、スーッとぬっといて、クルッとこうひっくり返します。煙草入れの筒も、そうなんで、ぬっといて、キュッとやって、クルクルクルッとひっくりかえす。で、まァ、ケチ兵衛さんが、自分で自分で自分の頭の池に身を投げたのは、やっぱりその型でな、グルグルグルグルッと(指先で三つばかり円を描いて)こうなって、えー、そうして、えー、身を投げた。

これでおわかりでしょうか?

ほらふき男爵の冒険    【RIZAP COOK】

泥のついた桜の実を種ごとかじったのが、ケチ兵衛の災厄の始まり。

ところが、世界中には似たような話もあるもの。

ドイツのゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが18世紀に残した「ミュンヒハウゼン物語(ほらふき男爵の冒険)」にこんな話があります。

主人公のミュンヒハウゼン男爵が鹿撃ちに出かけ、猟銃に弾丸とまちがえてサクランボの種をこめて撃ったところ、見事命中。一年後に同じ場所に行ってみると、出会った大鹿の頭に桜の枝が生い茂っていたというホラ話。

ビュルガーはゲッティンゲン派の詩人です。18世紀に勃興した民俗学、口承文芸、神話学、伝説学などの影響を受け、これらを題材にパロディーやホラ話をさかんに創作しました。大学をりっぱに出ながらも、無給、薄給、不倫、重婚など、不遇な人生の繰り返しでした。

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

にしきのけさ【錦の袈裟】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

町内の若い衆がこぞって、錦の褌を締めて吉原に繰り出すことを考えた。

質流れの錦を仕立てて褌をつくったが、一人分足りない。

あぶれた与太郎は、お寺の坊さんから錦の袈裟を借りて乗り込む。

そのせいか、与太郎ばかりがもててしまった。

もとは上方の噺。これも廓噺なんでしょうかね。

別題:袈裟茶屋(上方) ちん輪

【あらすじ】

町内の若い衆わけえし
「久しぶりに今夜吉原なかに繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。

それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中。

やつらが、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん一丁になってカッポレの総踊りをやらかして、
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。

そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうということに。
相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦のふんどしをそろいであつらえ、相撲甚句じんくに合わせて裸踊りとしゃれこもう、と。

幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てる。

ただ、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。

与太郎は、女郎じょおろ買いに行きたい一心。

鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。

そこで、かみさんの入れ知恵を。

与太郎、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込むという作戦に。

なんとか、これで全員そろった。

一同、その晩は、予定通りにどんちゃん騒ぎ。

お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めた。

驚いたのは、廓の連中一同。

特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪けさわという白い輪がぶーらぶら。

そこで
「あれは、実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。

そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。

残りは、全部きれいに振られた。

こうなると、おもしろくないのが「家来」連中。

翌朝。

ぶつくさ言いながら、殿さまを起こしに行く。

当人は花魁おいらんとしっぽり濡れて、
「起きたいけど花魁が起こしてくれない」
と、のろけまで言われて、踏んだり蹴ったり。

「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」

どうにもならなくて、「家来」は与太郎を寝床から引きずり出そうとする。

与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝ァ、帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。

「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。

東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンです。

上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。

東京では、この噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。

このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっています。

東京移植後間もなくの頃で、大阪の設定に近いことがわかります。

円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。

これを現行の形に改造したのは、大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)とみられます。

先の大戦後、この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。

それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。

江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。

かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船

こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称・住吉踊り。

明治初期に東京で豊年斎梅坊主ほうねんさいうめぼうず(松本梅吉、1854-1927、初代かっぽれ梅坊主)が、願人坊主の大道芸だったかっぽれ芸をより洗練された踊りに仕上げて大流行しました。

新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。

尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。

尾崎紅葉は、「金色夜叉」で一世を風靡した明治の小説家です。

この作品、じつはアメリカの小説に元ネタがあったことがすでにわかっていますが、それは別の機会に記しましょう。

紅葉は、若気のいたりだったのでしょうか。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。

なんだか、わかったようなわからないような。

インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。

中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。

これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。

大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。

こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。

与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。

これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。

貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。

僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。

緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。

七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。

これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足のコラム】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。

もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。

若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。

ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。

落語の格好の題材となる。

海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。

たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。

「ちん輪」という野卑な別題もある。

この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。

大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。

会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。

円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。

円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。

この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。

どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだ。いいかげんなものなんだなあ。

古木優

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

こうふい【甲府い】落語演目


  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

甲府から江戸に出てきた善吉、浅草で金を盗まれて無一文に。

法華信徒の豆腐屋に助けられ、その店で一途に奉公、十年。

人柄が見込まれ入り婿むこに。家業に励んだ。

二人は身延山にお礼参りに。「甲府ぃ、お参り、願ほどきぃ」。

日蓮宗(当時は法華宗)を称揚した、古い江戸前の噺です。

別題:出世の島台

もっと知りたい方は、【あらすじ】と【しりたい】をどうぞ。

【あらすじ】

甲府育ちの善吉ぜんきち

早くから両親をなくし、伯父おじ夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山みのぶさんに断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺せんそうじ境内けいだい巾着きんちゃくをすられ、無一文むいちもんに。

腹を減らして市中しじゅうをさまよったが、これではいけないと葭町よしちょう千束屋ちづかやという口入れ屋をめざすうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆わけえしが袋だたきにしようというのを、主人が止めた。

事情を聞いてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々の法華宗ほっけしゅうで、
「これもお祖師そしさまの引き合わせだ」
と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金きゅうきんは出ないが、商高あきないだかに応じて歩合ぶあいが取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向かげひなたなく懸命に
「豆腐ィ、胡麻ごま入り、がんもどき」
と売って歩いた。

愛想あいそがよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、ほおっておくと虫がつくから、早く婿むこを取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨しゅうしも合うし、まじめな働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し
「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪雑把まきざっぽ持ってこい」
と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分ふぜいが、と遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付いつき地主に。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所ざいしょへは一度も帰っていないので、
「両親の十三回忌じゅうさんかいきと身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」
と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度たびじたくしてやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若旦那、どちらへお出かけで?」
と聞かれて善吉が振り向き
「甲府(=豆腐)ィ」
と言えば、お孝が
「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前の噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、四代目桂文治の息)の速記が残っています。大筋は現行とほとんど変わりません。六代目文治は円朝と同時代の噺家です。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、先の大戦後は、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英、1968-)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。

流罪を許されて身延に隠棲いんせいした日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井はきい氏から寄進を受けて開いたものです。

日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝にっちょう(1422-1500)が、現在の山梨県南巨摩郡みなみこまぐん身延町に移してますます発展させました。

日蓮宗の本拠としては、江戸・池上の本門寺ほんもんじがあるので、江戸の信徒(檀越だんのつ)は通常、ここに参詣すればよいとされました。池上は日蓮の亡くなった地です。

江戸時代には、「日蓮宗」という名称はまだ一般的ではなく、「法華」「法華宗」と呼ぶことが多かったようです。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増したのは、宝永ほうえい年間(1704-11)といわれています。

宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録もあります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語にひんぱんに登場する「大家」は差配さはいともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人のことです。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多かったようです。その場合、地主と大家を兼ねていることになります。

こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋おもてながやです。通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁とうりゅう鳶頭とびのかしらなど、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付き地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵むめいあん(野村元雄、1888-1945)は『落語通談』に記しています。

斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った。

この「古老扇橋」とは、声色こわいろ(声帯模写)の名人としても知られた、八代目入船亭扇橋(宗匠の扇橋、進藤大次郎、1865-1944)のことでしょう。「でっち直す」という言い方もおもしろいですね。

改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりません。『落語通談』によれば、筋は大同小異とのこと。この『落語通談』は、初出が1943年9月刊。中公文庫版(1982年)は品切れですが、古本市場でまだ入手できるかも。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。

主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、しゅうと夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房にまかせてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居にもなった「模範落語」

『落語通談』によれば、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、先の大戦中、報国紙芝居ほうこくかみしばいにもなったとのこと。

いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局(内務省や文部省など)にとって「期待される人間像」の典型であったかがわかろうというもの。でも、泣かせます。

野村無名庵は当時の政府の片棒をかついで、昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度そんたくの人でした。空襲の犠牲となりました。

『落語通談』には、こんなことも記しています。

何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった。

そういう噺、つまりは、悪くない噺なんですね。

よくわかる日蓮宗

日蓮が開いた、鎌倉新仏教のひとつです。

最高の教えは「法華経」にある、というのが日蓮の教えです。

「南無妙法蓮華経」と唱える宗派です。題目ですね。

後醍醐天皇からは、法華宗という名称をいただきました。

鎌倉新仏教の特徴は「易行いぎょう」です。

修行や教えがわかりやすくてカンタン、ということ。

女性や一般人にも、手を差し伸べたのです。

とはいえ、当時の人々からは胡散臭うさんくさく思われていたようです。

信者が増えたのは応仁の乱以降。

死が日常的になった頃からでした。

次第に大きくなって、江戸時代にはものすごい勢力となっていました。

当時は、法華、法華宗などと呼ばれてたものです。

法華のライバルは、念仏宗。

これは、歌舞伎や落語ではお決まりの知識です。

念仏宗とは、「南無阿弥陀仏」という、念仏を唱える宗派のこと。

浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などが、念仏宗と呼ばれていました。

江戸の町では、法華と念仏が、信者獲得に必死でした。

「宗論」は、両宗派の対立が噺になっています。

法華の各宗派が束になって「日蓮宗」となったのは、明治5年(1872)のこと。

その後、紆余曲折あって名称が変更に。

「宗教法人・日蓮宗」となるには、昭和16年(1941)まで待たねばなりませんでした。

日蓮宗、歴史的には新しい名称だったのですね。

目からウロコの総本山、大本山、本山

日蓮宗の寺格はこんなかんじです。寺格とは、宗派内の寺の等級のこと。

宗派最高の寺院は、身延山久遠寺で、総本山とされています。山梨県にあります。

ここの住職は、法主と呼ばれます。

その下に、日蓮や日蓮宗に関わりの深い重要な寺院として、大本山があります。

大本山は、以下の七寺院です。

誕生寺たんじょうじ(千葉県)

清澄寺せいちょうじ(千葉県)

中山法華経寺なかやまほけきょうじ(千葉県)

北山本門寺(静岡県)

池上本門寺(東京都)

妙顕寺みょうけんじ(京都府)

本圀寺ほんこくじ(京都府)

日蓮の出身地が房総半島だったからか、圧倒的に関東に集中しているのがわかります。

大本山の下には由緒寺院があって、これは42寺院あります。

「堀の内」で有名な妙法寺は、由緒寺院に入ります。

ほかに霊跡寺院があって、これは大本山の7寺院と由緒寺院の7寺院の計14寺院が、そう呼ばれています。。

妙法寺のホームページには「本山」とあります。

総本山→大本山→本山の序列です。

由緒寺院はすべて本山です。

霊跡寺院には大本山が7寺院、本山が7寺院あります。

ということは、本山は計49寺院ある、ということになります。ややこしいです。

意外なかんじ、著名な信者

日蓮宗は、いまでは約5200寺、信者は330万人を抱えます。

信者を檀越と呼びます。「だんのつ」「だんおつ」と呼びます。

有名な檀越は、ざっと思いついても、以下のような方々があげられます。

狩野永徳(1543-90)

長谷川等伯(1539-1610)

葛飾北斎(1760-1849)

太田南畝なんぽ(1749-1823)

橋本雅邦(1835-1908)

辰野金吾(1854-1920)

石橋湛山たんざん(1884-1973)

芥川龍之介(1892-1927)

宮沢賢治(1896-1933)

美空ひばり(1937-1989)

芸人や芸者には多く、珍しくもありません。たとえば。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)※晩年の4年間

三代目三遊亭円右(粕谷泰三、1923-2006)

二代目古今亭円菊(藤原淑、1929-2012)

三代目三遊亭円歌(中沢信夫、1932-2017)

とまあ、数え上げたら、きりないほど。

【語の読みと注】
薪雑把 まきざっぱ まきざっぽう:切ったり割ったりした薪。まき。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

かじむすこ【火事息子】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

火事好きのせがれ。家出の果ては全身文身の臥煙に。火事が親子の対面とは。

あらすじ

神田三河町の、伊勢屋という大きな質屋。

ある日近所で出火し、火の粉が降りだした。

火事だというのに大切な蔵に目塗りがしていないと、だんながぼやきながら防火に懸命だが、素人で慣れないから、店中おろおろするばかり。

その時、屋根から屋根を、まるで猿のようにすばしこく伝ってきたのが一人の火消し人足。

身体中見事な刺青で、ざんばら髪で後ろ鉢巻に法被という粋な出で立ち。

ぽんと庇の間に飛び下りると、
「おい、番頭」

声を掛けられて、番頭の左兵衛、仰天した。

男は火事好きが高じて、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当になったまま行方知れずだったこの家の一人息子・徳三郎。

慌てる番頭を折れ釘へぶら下げ、両手が使えるようにしてやった。

「オレが手伝えば造作もねえが、それじゃあおめえの忠義になるめえ」

おかげで目塗りも無事に済み、火も消えて一安心。

見舞い客でごった返す中、おやじの名代でやってきた近所の若だんなを見て、だんなはつくづくため息。

「あれはせがれと同い年だが、親孝行なことだ、それに引き換えウチのばか野郎は今の今ごろどうしていることやら……」
と、そこは親。

しんみりしていると、番頭がさっきの火消しを連れてくる。

顔を見ると、なんと「ウチのばか野郎」。

「徳か」と思わず声を上げそうになったが、そこは一徹なだんな。

勘当したせがれに声など掛けては世間に申し訳がないと、やせ我慢。

わざと素っ気なく礼を言おうとするが、こらえきれずに涙声で、
「こっちィ来い、このばかめ。……親ってえものはばかなもんで、よもやよもやと思っていたが、やっぱりこんな姿に……しばらく見ないうちに、たいそういい絵が書けなすった……親にもらった体に傷を付けるのは、親不孝の極みだ。この大ばか野郎」

そこへこけつまろびつ、知らせを聞いた母親。

甘いばかりで、せがれが帰ったので大喜び。

「鳥が鳴かぬ日はあっても、おまえを思い出さない日はなかった、どうか大火事がありますようにと、ご先祖に毎日手を合わせていた」
と言い出したから、おやじは目をむいた。

母親が
「法被一つでは寒いから、着物をやってくれ」
と言うと、だんなはそこは父親。

「勘当したせがれに着物をやってどうする」
と、まだ意地づく。

「そのぐらいなら捨てちまえ」
「捨てたものなら拾うのは勝手……」

意味を察して、母親は大張り切り。

「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう。お小遣いは千両も捨てて……」

しまいには、
「この子は小さいころから色白で黒が似合うから、黒羽二重の紋付きを着せて、小僧を供に……」
と言いだすから、
「おい、勘当したせがれに、そんななりィさせて、どうするつもりだ」
「火事のおかげで会えたんですから、火元へ礼にやります」

しりたい

命知らずの臥煙渡世   【RIZAP COOK】

ここでは、徳三郎は町火消ではなく、定火消、すなわち武家屋敷専門の火消人足になっている設定です。

これは臥煙とも呼ばれますが、身分は旗本の抱え中間(武家奉公人)で、飯田町(今の飯田橋辺)ほか、10か所に火消屋敷という役宅がありました。もっぱら大名、旗本屋敷のみの鎮火にあたります。平時は役中間部屋の大部屋で起居しています。太い丸太ん棒を枕にしてざこ寝して、いざ火事となると不寝番が丸太ん棒の端っこを叩いて起こす、という粗っぽさ。法被一枚、下帯一本で火事場に駆けつけます。家々を回って穴開き銭の緡縄を高値で押し売りしたり、役中間部屋では年中賭場を開いたりしている、江戸のダニです。やくざです。それでも火事となるといさみにましらのごとく屋根から屋根を飛び移っては消火に励むわけで、まさに役に参ずる人たちでした。

せがれが臥煙にまで「身を落とした」ことを聞いたときの父親の嘆きが推量できますが、この連中は町火消のように刺し子もまとわず、法被一枚で火中に飛び込むのを常としたため、死亡率も相当高かったわけです。

小説「火事息子」   【RIZAP COOK】

落語の筋とは直接関係ありませんが、劇作家・演出家でもあった久保田万太郎(1889-1963)に、やはり、爽やかな明治の江戸っ子の生涯を描いた同名の小説があります。

これは、作者の小学校同窓であった、山谷の名代の料亭「重箱」の主人の半生をモデルとしたものです。重箱は、今も赤坂にある鰻屋。超高級店です。江戸時代には山谷にありました。当時の山谷は避暑地でした。

八代目正蔵の生一本   【RIZAP COOK】

徳三郎は、番頭を折釘にぶらさげて動けるようにしてやるだけで、目塗りを直接には手伝わず、また父親も、必死にこみあげる情を押さえ通して、最後まで「勘当を許す」と自分では口にしません。

ともすれば、お涙ちょうだいに堕しがちな展開を、この親子の心意気で抑制させた、すぐれた演出です。

こうした、筋が一本通った古きよき江戸者の生きざまを、数ある演者の中で、特に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が朴訥に、見事に表現しました。

明治期には初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、二代目円朝)の十八番でした。昭和に入っては、正蔵、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)など、名だたる大看板が競演しています。

火消屋敷

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

まつひき【松曳き】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

粗忽噺。殿さま、三太夫、八五郎が、粗忽者同士の珍妙なやりとり。

別題:粗忽大名(上方)

あらすじ

ある大名の江戸屋敷。

殿さまがそそっかしく、家老の田中三太夫がこれに輪をかけて粗忽者そこつもの

同気相求どうきあいもとめるで、これが殿さまの大のお気に入り。

ある日、殿さまが、
「庭の築山つきやまの脇にある赤松の大木たいぼくが月見のじゃまになるので、泉水せんすいの脇にきたいが、どうであるか」
と三太夫にご下問。

三太夫が
「あれはご先代さまご秘蔵の松でございますので、もし枯らすようなことがありますと、ご先代さまを枯らすようなものではないかと心得ます」
いさめる。

殿さまは、
「枯れるか枯れないかわからないから、いま屋敷に入っている植木屋に直接聞いてみたい」
と言い張る。

そこで呼ばれたのが、代表者の八五郎。

「さっそく御前おんまえへまかりはじけろ(もっと前に出ろ)」
と言うんで、八五郎がまかりはじけたら、三太夫が側でうるさい。

「あー、もっとはじけろ」
「頭が高い。これ、じかに申し上げることはならん。手前が取り次いで申し上げる」
「それには及ばん。直接申せ」
「はっ。こ、これ、八五郎。ていねいに申し上げろ」

頭に「お」、終わりに「たてまつる」をつければよいと言われた八五郎、
「えー、お申し上げたてまつります。お築山のお松さまを、手前どもでお太いところへは、おするめさまをお巻き申したてまつりまして、おひきたてまつれば、お枯れたてまつりません。恐惶謹言きょうこうきんげん、お稲荷いなりさんでござんす」

よくわからないが、殿さまは、枯れないらしいと知って、大喜び。

植木屋に無礼講ぶれいこうで酒をふるまっていると、三太夫に家から急な迎え。

国元くにもとから書状が来ているというので、見ると字が書いていない。

「旦那さま、そりゃ裏で」
「道理でわからんと思った。なになに、国表くにおもてにおいて、殿さま姉上さまご死去あそばし……」

これは容易ならぬと、あわてて御前へ。

殿さま、
「なに? 姉上ご死去? 知らぬこととは言いながら、酒宴など催して済まぬことをいたした。して、ご死去はいつ、なんどきであった?」
「ははっ……、とり急ぎまして」
「そそっかしいやつ。すぐ見てまいれ」

アワを食って、家にトンボ返り。

動転して、書状が自分のふところに入っているのも気がつかない。

やっと落ち着いて読みなおすと
「……お国表において、ご貴殿姉上さま……?」

自分の姉が死んだのを殿と読み間違えた。

三太夫、いまさら申し訳が立たないので、いさぎよく切腹してお詫びしようとする。

家来が、殿に正直に申し上げれば、百日の蟄居ちっきょぐらいで済むかもしれないのに、あわてて切腹しては犬死いぬじにになると止めたので、それもそうだと三太夫、しおしお御前へまかり出た。

これこれでと報告すると、殿さまは
「ナンジャ? 間違いじゃ? けしからんやつ。いかに粗忽とは申せ、武士がそのようなことを取り違えて、相済むと思うか」
「うへえ、恐れ入りました。この上はお手討ちなり、切腹なり、存分に仰せつけられましょう」
「手討ちにはいたさん。切腹申しつけたぞ」
「へへー、ありがたき幸せ」
「余の面前で切腹いたせ」

三太夫が腹を切ろうとすると、しばらく考えていた殿さま、
「これ、切腹には及ばん。考えたら、余に姉はなかった」

底本:初代三遊亭金馬=二代目三遊亭小円朝

しりたい

使いまわしのくすぐりでも

「粗忽の使者」とよく似た、侍の粗忽噺です。特に、職人がていねいな言葉遣いを強要され、「おったてまつる」を連発するくすぐりは「粗忽の使者」のほか、「妾馬」でも登場します。

ただ、基本形は同じでも、それぞれの噺で状況も八五郎(「粗忽の使者」では留五郎)の職業もまったく違うわけです。

この「松曳き」では殿さまの前でひたすらかしこまるおかしみ、「粗忽の使者」では後で地が出て態度がなれなれしくなる対照のおかしさと、それぞれ細部は違い、演者の工夫もあって、同じくすぐりを用いても、まったく陳腐さを感じさせないところが、落語のすぐれた点だと思います。

殿さまの正体

御前に出た八五郎に、三太夫が叱咤しったして「まかりはじけろ」と言います。「もっと前に出ろ」という意味ですが、実は、これは仙台地方の方言だそうです。

とすれば、このマヌケな殿さまは、恐れ多くも仙台59万5千石の藩主、伊達宰相にあらせられる、ということになりますが。

小里ん語り、小さんの芸談

この噺は、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、十代目金原亭馬生、立川談志あたりがやっていました。その流れで、柳家喜多八(林寬史、1949-2016)や桃月庵白酒(雲助の弟子)も。

あまり聴かない噺ですが、以下は小さんが弟子の小里んに語った芸談です。芸の奥行きをしみじみ感じさせます。

語りの芸は演じきっちゃいけないだなァ。
それと師匠は「昔は大名が職人と酒盛りなんかするわけがない。それは噺のウソだってことは腹に入れとかなくちゃいけない」と言ってました。ありえないことだけれど、それを愉しく演じなきゃいけない。かといって、無理に拵えた理屈をつけてはいけない。「ウソだと分かって演るなら、ウソでいいんだ」と言ってたのは、「噺のウソを、ウソのまま取っておく大らかさが落語にはあった方がいい」という教えですね。無理に辻褄合わせで理屈をつけると解説になって理屈っぽくなっちゃうでしょ。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

できごころ【出来心】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

オチによっては「花色木綿」とも。泥棒噺。江戸前。間抜け泥、いかにもの笑い。

別題:花色木綿

あらすじ

ドジな駆け出しの泥棒。

親分に、
「てめえは素質がないから廃業した方がいい」
と言われる。

心を入れ替えて悪事に励むと誓って、この間土蔵と間違って寺の練塀を切り破って向こうに出たとか、電話がひいてあるので入ったら交番だったなどと話すので、親分はあきれて、おめえにまともな盗みはできねえから、空き巣狙いでもやってみろと、こまごまと技術指導。

まず声をかけて、返事がなかったら入るが、ふいに人が出てきたら
「失業しておりまして、貧の盗みの出来心でございます」
と泣き落としで謝ってしまう。

返事があったら人の家を訪ねるふりをして
「何の何兵衛さんはどちらで?」
とゴマかせばいいと教えられ、さっそく仕事に出かける。

ある家で
「ええ、何の何兵衛さんはどちらで?」
「なにを?」
「いえその、イタチ西郷兵衛さんは……」
としどろもどろで逃げ出した。

次の家では、主人が二階にいるのも気づかず、羊羹を盗み食いして見つかり、
「イタチ西郷兵衛さんはどちらで?」
「オレだよ」
「えっ? その、もっといい男の西郷兵衛」
「なにを?」
「よろしく申しました」
「誰が?」
「あたしが」
「この野郎ッ」
……あわてて逃げ出す。

「あんな、まぬけの名の野郎が本当にいるとは思わなかった」
と胸をなで下ろしながらたどり着いたのが、長屋の八五郎の家。

畳はすり切れ、根太はボロボロ。

転がっているのは汚い褌一本きり。

しかたなく懐に入れ、八五郎が帰ってきたので、あわてて縁の下に避難。

八五郎は、粥が食い散らされているのを見て、
「ははあ泥棒か」
と見当をつけるが、かえって泥棒を言い訳に家賃を待ってもらおうと、大家を呼びに行った。

「それじゃしかたがねえ。待ってやろう」
とそこまではいいが、盗難届けを出さなくてはならないと、盗品をいちいち聞かれるから、はたと困った。

苦し紛れに布団をやられたと嘘をつくと
「どんな布団だ? 表の布地はなんだ?」
「大家さんとこに干してあるやつで」
「あれは唐草だ。裏は?」
「行きどまりです」
「布団の裏だよ」
「大家さんのは?」
「家は、丈夫であったけえから、花色木綿だ」
「家でもそれなんで」

羽二重も帯も蚊帳も南部の鉄瓶も、みんな裏が花色木綿。

「あきれて話しにならねえ。あとは?」
「お礼で。裏は花色木綿」

縁の下の泥棒、これを聞いて我慢できずに下から這い出てくる。

「さっきから聞いてりゃ、ばかばかしい。笑わせるない」
「おやっ、そんなとこから這いだしゃあがって。てめえは泥棒だな?」
「この家にはなにも盗めるものなんぞねえ」

警察に突き出すと言われ、あわてて
「えー、どうも申し訳ござんせん。失業しておりまして、六十五を頭に三人の子供が……これもほんの貧の出来心で……と哀れっぽく持ちかけたら、銭の少しもくれますか?」
「誰がやるもんか。八、てめえもてめえだ」

お鉢が回ってきたので、八五郎、こそこそ縁の下へ。

「おい、なにも盗られてねえそうじゃねえか。どうしてあんな、うそばかり並べたんだ?」
「これもほんの出来心でございます」

しりたい

「出来心」ならお上のお慈悲?

落語には泥棒噺が多く、「穴泥」「もぐら泥」「だくだく」「釜泥」「締め込み」「転宅」「夏どろ」……まだまだあります。

そのほとんどが、まぬけで愛すべき空き巣の失敗をおおらかに笑う噺で、いかにのどかな江戸時代でも犯罪の実態は陰惨なものが多かったことを考えれば、落語の泥棒は、むしろ、こういう泥テキばかりなら……という庶民の願望のあらわれともいえるでしょう。

しかし、現実にはお奉行のお裁きは峻厳だったのです。

十両盗めば初犯でも死罪は有名ですが、窃盗を重ねて盗んだ金額が累積で十両に達すれば、その時点で一巻の終わりです。空き巣で初犯なら「出来心」でお上のお慈悲にあずかれますが、土蔵を切り破ったり、家人の在宅しているところに押し入れば、重罪の押し込み強盗ですから、初犯、かつ未遂でも主犯は原則死罪でした。

三度目で首が飛ぶ

空き巣では初犯敲き、再犯刺青、再々犯は有無を言わさず首が飛びました。

極端にいえば、一回に三文盗んだ場合は敲きで済みますが、初犯一文、再犯一文、再々犯一文と三回に分けて合計三文盗めば、あわれ、この世の別れというわけ。

1994年に米カリフォルニア州で制定された「スリーストライク法(三振法)」も、重罪を三度重ねれば仮釈放ナシの禁固25年-終身刑という過酷さ。なんと空き巣三回、三回目にたった152ドル盗んだだけで懲役52年という判決が出て、世論を震撼させたことがあります。こちらは命がないのですから、まさに究極の「スリーストライク、アウト」でしょう。

オチで変わる演題

泥棒噺は、柳家小さん代々が得意にした江戸前の滑稽噺の典型です。この噺も、三代目から五代目小さんまで継承され、五代目春風亭柳朝、入船亭扇橋、桂文朝などの持ちネタでもあります。特に柳朝の泥棒のすっとぼけた味は絶品でした。

泥棒が入る家の主人の珍名は、演者によって「ちょうちん屋ブラ右衛門」などと変わります。

オチは二通りあります。あらすじで紹介した小さんのものが基本形ですが、現実にはそこまでいきません。 寄席などでは「下駄を忘れてきちゃった」で終わる「間抜け泥」が多いようです。 八代目春風亭柳枝のように、大家と泥棒の会話でのもあります。

大「どこから入った?」
泥「裏です」
大「裏はどこだ?」
泥「裏は花色木綿」

このオチでの演目は「花色木綿」となります。

花色木綿

「花色」は「縹色」の省略で、薄い藍色の木綿地になります。

「出来心」も死語に

噺のタイトルにもなっているこの言葉も、最近はだんだん使われなくなってきているようです。

「出来」はこの場合、「とっさに」「即席に」という意味。古くは、即席のシャレのことを「出来口」といいました。

要するに、計画してやった犯行ではなく、ついとっさに魔がさしたものなのでご勘弁を、という言い訳ですね。

コソ泥どころか、重大な犯罪をしでかしても、しおらしく謝るどころか、「逆ギレ」して居直るヤカラばかりが増えた昨今ですから、こんな言葉が消えていくのも無理はありません。

小里ん語り、小さんの芸談

こういうネタは「間抜けな奴が本気じゃないといけない」と師匠も言ってました。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

しょうちくばい【松竹梅】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

めでたい噺。礼儀知らずの長屋三人組が婚礼に招かれ、忌み言葉めぐり一騒動。

あらすじ

長屋の松五郎、梅吉、竹蔵の三人組。

そろって名前がおめでたいというので、出入り先のお店のお嬢さまの婚礼に招かれた。

ところがこの三人、名前だけでなく、心持ちもおめでたいので、席上どうしたらいいか、隠居に相談に行く。

隠居は、ついでなら鯨飲馬食してくるだけが能でないから、何か余興をやってあげたらどうかと勧め、「なったあ、なったあ、蛇(じゃ)になった、当家の婿殿蛇になった、何の蛇になあられた、長者になぁられた」という言い立てを謡(うたい)の調子で割りゼリフで言えばいいと、教えてくれる。

終わりに「お開きにいたしましょう」と締めるというわけ。

いざ練習してみると、松五郎は
「な、な、納豆」
「豆腐ーい」
と全部物売りになってしまうし、竹蔵は竹蔵で
「デデンデデン、なあんのおおおう」と義太夫調子。

危なっかしいが、道々練習しながらお店に着く。

いきなり「まことにご愁傷さま」とやりかけて肝を冷やすが、だんなは、おめでたい余興と聞いて大喜び。

親戚一同も一斉に手をたたくものだから、三人、あがってボーッとなる。

それでも、松と竹はどうやら無事に切り抜けたが、梅吉が
「長者になられた」
を忘れ、
「風邪……いや番茶……大蛇……」
と、とんでもないことを言いだし、その都度やり直し。

最後に
「なんの蛇になあられた」
「亡者になあられた」

……これで座はメチャクチャ。

三人が隠居に報告に来て
「これこれで、開き損なっちまいまして」
「ふーん、えらいことを言ったな。それで梅さんはどうしてる」
「決まり悪そうにグルグル回って、床の間に飛び込んで、隅の方で小さくなってしおれてました」
「ああ、それは心配ない。梅さんのことだ、今ごろは一人で開いて(帰って)いるだろう」

しりたい

作者は出自不明

上方の笑福亭系の落語家の祖とされる初代・松富久亭松竹が作ったといわれている噺です。

この松竹という人、生没年や詳細な伝記はもちろん、そもそも存在したかどうかもよくわかりません。

したがって、松竹が「松竹梅」の作者だというのも伝説の域を出ないわけです。

まさか、演題と芸名にゴロを合わせたヨタではないでしょうが。

ただ、オチの部分のネタ元になったとみられる小ばなしはあって、文政6年(1823)に江戸で刊行された、初代三笑亭可楽(1777-1833)『江戸自慢』中の「春の花むこ」がそれです。

これは、植物仲間で「仙人」と尊称される梅の古木が、庭の隅の桃の木に「老いらくの恋」をし、姫ゆりを仲人に頼んで、キンセンカを持参金代わりにめでたく婿入り。ところが婚礼の夜、突然植木屋が(もちろん人間)庭に乱入し、花々が恐怖におののいて小さくなってしまいます。これを見た植木屋、「ははあ、これは今夜、花婿が来るのだな。こういうときに切っては無情というものだ」と帰っていったので、仲人の姫ゆりがほっとして顔を持ち上げ、「さあさあ皆さん、お開きなさい」という、童話的でほほえましいお話です。

東京移植は「オットセイ」

古くから上方落語としてはポピュラーな噺でしたが、これを明治30年ごろ、四代目柳亭左楽が東京に移しました。

左楽はぼおっとした容貌と、ふだんの少々間の抜けた言動で、「オットセイ」とあだ名され、奇談がたくさんあります。

ちょうどこの噺の東京初演と思われる、明治31年(1898)の速記が残っていますが、よほど気に入ったとみえ、もともと持ちネタが少ないこともあって、一時期「松竹梅」ばかりやっていたとか。

この人の、師匠の談洲楼燕枝が亡くなった(明治33年2月)ときの追悼句がふるっていてます。

悲しさや 師匠も亡者に なあられた

当の「オットセイ」ご本人が「亡者になあられた」のは、明治44年(1911)11月4日、享年55でした。

「あっちの会長」柳橋十八番

謡の調子で、割ゼリフにしてご祝儀の言い立てをやり、「亡者になあられた」で失敗するのがこの噺の笑わせどころです。

このあらすじの参考にした、かって落語芸術協会に会長として君臨した六代目春風亭柳橋は、戦後この噺をよく高座にかけ、特に謡を稽古する場面でのくすぐりを充実させ、飄々とした中にもより笑いの多い噺に仕上げました。

その意味で十八番といってよいのですが、残念ながら音源は残されていません。

「なったなった……」は北海道?

「なったなった」のお囃子は、関西地方の婚礼の習俗と思われますが、はっきりわかりません。

前項の左楽の速記では、隠居が「北海道から八十里ばかり入った小さな村で」もっぱら行なっていると説明していますが、左楽は自分のあだ名を逆手にとって、やたらに「北海道」を連発してウケをねらったそうですから、もちろんこれは嘘八百でしょう。

忌み言葉

「開く」は今でもよく使われる、結婚式の忌み言葉ですが、「忌み言葉」というのは、使用を避ける言葉と、代わりにめでたく言い換える言葉の両方を意味します。

ただ、言い換えられる場合と、それもできず、禁止されるだけの場合があり、どちらかというと後の方が多いようです。

いずれにしても、太古から言霊信仰が根強く、何か不吉な言葉を吐くとそれが現実になってしまうという病的な恐怖心を先祖代々に受け継いできたわれわれ特有の習慣です。日本文化の一端でもあります。

以下、婚礼のタブーの語をいくつか。

「帰る」
「戻る」
「出て行く」
「死ぬ」
「引く」
「別れる」
「出る」
「割る」
「割く」
「出かける」
「欠ける」
「犬」(=「去ぬ」)
「猿」(=「去る」)
「殺す」
「離れる」
「話す」
「放す」
「まかる」
「落ちる」
「悲しい」……

これじゃ、うっかり舌禍を起こしちまいそうですねえ。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

いぬのめ【犬の目】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

眼病の男。医師が目玉を抜き洗って干す。それを犬が食べて。逃げ噺。

あらすじ

目が悪くなって、医者に駆け込んだ男。

かかった医者がヘボンの弟子でシャボンという先生。

ところが、その先生が留守で、その弟子というのが診察する。

「これは手術が遅れたので、くり抜かなくては治らない」

さっさと目玉をひっこ抜き、洗ってもとに戻そうとすると、水でふやけてはめ込めない。

困って、縮むまで陰干しにしておくと、犬が目玉を食ってしまった。

「犬の腹に目玉が入ったから、春になったら芽を出すだろう」
「冗談じゃねえ。どうするんです」

しかたがないので、「犯犬」の目玉を罰としてくり抜き、男にはめ込む。

今までのより遠目が利いてよかったが、
「先生、ダメです。これじゃ外に出られません」
「なぜ?」
「小便する時、自然に足が持ち上がります」

しりたい

オチはいろいろ

軽い「逃げ噺」なので、オチはやり手によってさまざまに工夫され、変えられています。

艶笑がかったものでは、「夜女房と取り組むとき、自然に後ろから……」なんていうものも。

「まだ鑑札を受けていません」というのもあります。

原話である安永2年(1773)刊『聞上手』中の「眼玉」では、「紙屑屋を見ると、吠えたくなる」というものです。

明治時代でのやり方

明治・大正の名人の一人で、六代目三遊亭円生の大師匠にあたる四代目橘家円蔵(品川の円蔵)の速記が残っています。

円蔵は男を清兵衛、医者を横町の山井直という名にし、前半で、知り合いの源兵衛に医者を紹介してもらうくだりを入れています。

ギャグも、「洗うときはソーダを効かさないでくれ」「枕元でヒョイと見回してウーンとうなる」など、気楽に挿入していますが、「ソーダ」のような化学用語に、いかにも明治のにおいを感じさせるものの、今日では古めかしすぎて、クスリとも笑えないでしょう。

円蔵は、目が落ちそうだと訴えるのに、中で目玉をふやかす薬を与えていて、そのあたりも現行と異なります。

三平の「貴重な」古典

昭和初期には、五代目三升家小勝が「目玉違い」の題で演じましたが、なんといっても先代林家三平の「湯屋番」「源平盛衰記」と並んでたった三席だけ残る貴重な(?)古典落語の音源の一つが、この「犬の目」です。その内容については……、言うだけヤボ、というものでしょう。

おおらかなナンセンス

類話「義眼」のシュールで秀逸なオチに比べ、「犬の目」では古めかしさが目立ち、そのためか最近はあまり演じられないようですが、こうした単純明快なばかばかしいナンセンスは今では逆に貴重品で、ある意味では落語の原点、エッセンスといえます。

新たなくすぐりやオチの創作次第では、まだまだ生きる噺だけに、若いやり手のテキストレジーに期待したいものです。

ヘボン先生

ヘボンは、明治学院やフェリス女学院をつくったアメリカ人の医師で熱心なキリスト教徒でした。

正しくは、ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn、1815-1911)といいます。姓の「Hepburn」はオードリー・ヘップバーンと同じつづりのため、最近では「ジェームス・カーティス・ヘップバーン」と表記されることもあります。

1世紀以上も「ヘボン」に慣れた私たちには、「ヘップバーンとはおれのことかとヘボン言い」といった違和感を覚えるわけですね。

米国長老派教会の医療伝道宣教師であり医師でもあったため、来日中は伝道と医療に貢献しました。

ヘボン式ローマ字の考案者として知られています。ヘボンが編纂した初の和英辞典『和英語林集成』に記載された日本語の表記法が原型となっています。

日本人の眼患い

ヘボンが来日してまず驚いたのは、日本人があまりにも眼病をわずらっていることでした。

これは、淋菌の付いた指で目をこすって「風眼」という淋菌性の眼病にかかる人が多かったからとのこと。「文違い」なんかにも出てきますね。

それだけ、日本人の性は、倫理もへったくれもなく、やり放題で、その結果、性病が日常的だったわけでもあるのですがね。

眼病となると、それが性病由来なのかどうかさえもわかっていなかったようです。

遊郭や岡場所などが主な元凶で、二次感染の温床は銭湯だったわけです。

衛生的にどうしたとかいう以前に、性があんまりにもおおっぴらだったことの証明なのでしょう。

ですから、この噺が、ヘボン先生の弟子のシャボン先生(そんなのいるわけありません)が登場するのは眼病とヘボンという、当時の人ならすぐに符合するものをくっつけて作っているところが、ミソなんですね。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

こんにゃくもんどう【蒟蒻問答】落語演目

 

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

無言の話芸、仕方噺の極致。古寺に居合わした蒟蒻屋と托鉢僧との問答。

別題:餅屋問答(上方)

あらすじ

八王子在のある古寺は、長年住職のなり手がなく、荒れるに任されている。

これを心配した村の世話人・蒟蒻屋の六兵衛は、江戸を食い詰めて自分のところに転がり込んできている八五郎に、出家してこの寺の住職になるように勧めたので、当人もどうせ行く当てのない身、二つ返事で承知して、にわか坊主ができあがった。

二、三日はおとなしくしていた八五郎だが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、寺男の権助と二人でくだを巻いている。

金がないので
「葬式でもない日にゃあ、坊主の陰干しができる。早く誰かくたばりゃあがらねえか」
とぼやいているところへ、玄関で
「頼もう」
と声がする。

出てみると蘆白(あじろ)笠を手にした坊さん。

越前永平寺の僧で沙弥托善と名乗り、
「諸国行脚の途中立ち寄ったが、看板に『葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず』とあるので禅寺と見受けた、ぜひご住職に一問答お願いしたい」
と言う。

なんだかわけがわからないが、権助が言うには、
「問答に負けると如意棒でぶったたかれた上、笠一本で寺から追い出される」
とのこと。

住職は留守だと追っ払おうとしたが、
「しからば命の限りお待ち申す」
という。

大変な坊主に見込まれたものだと、八五郎が逃げ支度をしていると、やって来たのが六兵衛。

事情を聞くと、
「俺が退治してやろう」
と身代わりを買ってでた。

「問答を仕掛けてきたら黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないと言え。それで承知しやがらなかったら、咳払いを合図に飛びかかってぶち殺しちめえ」

さて翌日。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。

「法界に魚あり、尾も無く頭もなく、中の鰭骨を保つ。大和尚、この義はいかに」

六兵衛もとより、なんにも言わない。

坊主、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧もと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。

十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。

三本の指にはアッカンべー。

托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げ出した。

八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と申すと『大海のごとし』というお答え。『十方世界は』と申せば『五戒で保つ』と仰せられ、『三尊の弥陀は』との問いには『目の下にあり』。いや恐れ入りました」

六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。ばかにしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、こォんなに大きいと言ってやった。十でいくらだと抜かすから、五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した沙弥托善  【RIZAP COOK】

この噺、禅僧から落語家になったという二代目林家(屋)正蔵が、幕末の嘉永年間に作ったものだそうです。

噺の中であやうく殺されかかる(?)旅の禅僧・托善(沙弥は出家し立ての少年僧のこと)は、正蔵の修行僧時代の名です。

原典については、このほかに、やはり禅僧出身の二代目三笑亭可楽とする説、もっとずっと古く、貞享年間(1684-88)刊の笑話本『当世はなしの本』中の「ばくちうち長老になる事」とする説もあります。

仏教と落語の深い関係  【RIZAP COOK】

まあ、こういうことを言い出すと辛気臭くなって、落語がおもしろくなくなるかもしれませんが、「落語家の元祖」といわれる安楽庵策伝(「てれすこ」「子ほめ」参照)からして高僧でしたし、「寿限無」「後生鰻」「宗論」など、仏教の教説に由来する噺は少なくありません。

仏教と落語の結びつきはきわめて強いのです。

落語はもともと、節談説教(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)から起こったといわれているのです。関山和夫の一連の著作が根拠となります。

前座、二つ目、真打ちなどという語も、節談説教の世界では当たり前のように使われていました。明治後期、浅草の本願寺でたまたまその光景を覗いた四代目橘家円喬がびっくりしたという話は、それ以前のどこかの時点で仏教と落語のかかわりが途切れた証しでしょう。とはいえ、落語協会会長だった三代目三遊亭円歌が日蓮宗の僧籍にあったのは、落語の伝統からして別に珍しいことではない、ということになります。

ビジュアルで楽しむ仕方噺  【RIZAP COOK】

「蒟蒻問答」では、後半の六兵衛と托善の禅問答は無言で、パントマイムのみになります。このように、動作のみによって噺の筋を展開するものを「仕方噺」といいます。目で見る落語のことです。

「愛宕山」「狸賽」「死神」など、一部分に仕方噺を取り入れている噺は多いのですが、「蒟蒻問答」ほど長くて、しかもストーリーの重要部分をジェスチャーだけで進めるものはほかにありません。

苦肉の実況解説付き  【RIZAP COOK】

そのため、実際に寄席やテレビなど目の前で見ている客はいいのですが、レコードやラジオなどで耳だけで聞いていると、噺のもっともオイシイ部分で音声がとぎれてしまい、なにがなんだかわからなくなってしまいます。

そこで、この噺を得意にした五代目古今亭志ん生がこの噺をラジオ放送したときは、苦肉の策で、なんと歌舞伎並みの同時解説がつきました。「山藤章二の志ん生ラクゴニメ」の音源も同じのを使っています。

このように手間がかかるためか、昔から「蒟蒻問答」のレコードや放送は数少なく、現在出ているCDは、志ん生、八代目正蔵のものくらいです。

ホントはくだらない禅問答  【RIZAP COOK】

噺では、六兵衛のジェスチャーを托善が勝手に誤解し、一人で恐れ入って退散してしまいますが、最初の「法界に魚あり……」は、魚という字から頭と尾(上下)を取れば、残るのは「田」。そこから、鰭骨(きこつ=中骨)、つまり|の部分を取り除けば、「日」の字になります。単なる言葉遊びです。これこそハッタリというものでしょう。

次の「十万世界」は、東西南北、艮(北東)、巽(東南)、坤(南西)、乾(西北)の八方位に上下を加えた世界で、広大無辺の宇宙を表します。

「五戒」は禅の戒律(タブー)で、殺生戒 殺さない偸盗戒 盗まない邪淫戒 エッチしない妄語戒 うそをつかない飲酒戒 酒を飲まないの五つをさします。

こぼればなし  【RIZAP COOK】

「葷酒山門に入るを許さず」は禅寺の表看板として紋切型ですね。「葷」とは、ネギやニンニなど臭気を放つ野菜のことです。以下は、三代目三遊亭金馬の思い出話。

明治の昔、大阪の二代目桂文枝が上京して、柳派の寄席に出演。ところがさらに、対立する三遊派の席にも出て稼ごうとすると止められました。楽屋内の張り紙に「文枝、三遊に入るを許さず」

【語の読みと注】

仕方噺 しかたばなし:動作の説明だけで筋を展開する噺
鰭骨 きこつ:中骨
艮 うしとら:北東
巽 たつみ:東南
坤 ひつじさる:南西
乾 いぬい:西北
葷酒 くんしゅ:ネギやニンニなど臭気を放つ野菜

【RIZAP COOK】

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

まんじゅうこわい【饅頭こわい】落語演目

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【どんな?】

好きなのに嫌いといってまんまとせしめる噺。前座がよくやってます。

町内の若い衆が集まって、好きな食べ物をああだこうだと言っているうち、人には好き嫌いがあるという話になる。

虫が好かないというが、人は胞衣えなを埋めた土の上を初めて通った生き物を嫌いになるという言い伝えがある。

蛙なら蛙が嫌いになり、蛇なら蛇。

嫌いな虫を言い合い、蜘蛛くも、ヤモリ、オケラ、百足むかでと、いろいろ出た。

嫌いなものは怖い。

黙っている辰さんに
「おめえは、どんなもんが怖い?」
と聞くと
「ないッ」
「でも、なんかあるだろう」
としつこく突っ込むと
「おととい、カカアの炊いた飯がコワかった」
「そのコワいじゃなくて、動けなくなるような怖いものだ」
と言うと
「カカアがふんどしを洗ったとき、糊をうんとくっつけちゃった。コワくって歩けねえ」

ああ言えばこう言うだから癪にさわって、
「蛇はどうだ」
と聞くと、
「あんなものは、頭痛のときの鉢巻にする」
とうそぶく。

トカゲは三杯酢にして食ってしまうし、蟻はゴマ塩代わりに飯にかける。

いまいましいので、
「なにか一つくらいないのか」
と食い下がると
「へへ、実は、それはあるよ。それを言うと、体中総毛立そうげだって震えてくる」
「へえ、なんだい」
「一度しか言わないよ。……まんじゅう」

一同-然。

「どうして」
と聞くと、
「因果で、オレのえなの上に子供が饅頭を落っことしたのに違いない」
という。

「菓子屋の前に行くと目をつぶって駆け出すし、思っただけでも、こう総毛立って」
と辰さん、急にブルブル震えだす。

「怖いッ、怖いよォッ」

泣き出して、とうとう寝込んでしまった。

そこで一同、あいつはふだんから、み屋の割り前は払わないし、けんかは強いからかなわない。いいことを聞いたから、一度ひどい目にあわせてやろうと、計略を練る。

「話を聞いてさえあんなに震えるんだから、実物を見たらきっとひっくり返って、身体中ブチになって死んじまうかもしれねえ、いるとじゃまだから、アン殺でアンコロしちまおう」
というわけで、菓子屋から山のように饅頭を買ってくる。

枕元に置くと、
「おい、辰さん、起きねえ。天丼を食おうてんだ。つき合いなよッ」

まだ蒲団をかぶって
「饅頭怖いよッ」
とうめいていた辰さん、枕元を見るなり
「ウワーッ」
と絶叫。

「うわあッ、こんなもの、だれがッ。怖いよッ。唐饅頭がこわい。怖いよッ」
と叫びながら、饅頭をムシャムシャ平らげ始めた。

障子の陰でワクワクして見ていた連中、だまされたと知ってカンカン。

「おう、怖い怖いと言ってた饅頭を食いやがって。こんちくしょう、てめえはいったい、なにが怖いんだ」
「うわーッ、怖いよ。今度は、お茶が怖い」

【しりたい】

ネタは中国から

中国明代の笑話本『五雑組ござっそ(五雑俎とも)』や『笑府しょうふ』に原型がありますが、江戸では小ばなし程度の扱いで、一席ものの落語としてはむしろ上方が本場でした。

まんこわ

明治末期に三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらく(本間弥太郎、1864-1914)が東京に移植。「饅頭嫌い」の演題で初演して以来、「まんこわ」で通るほどの人気演目になりました。三代目馬楽は奇行でならし、「狂馬楽」「弥太っぺ馬楽」「きちがい馬楽」などとも呼ばれました。

さまざまなやり方

古くから演じられた噺だけに、さまざまな演者によって、細部が整えられてきました。柳家小さん系や、後輩の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に写してもらい十八番にした三代目桂三木助(小林七郎、1902-1961)では、饅頭男を「松公」で演じます。

饅頭を準備するとき、「腰高饅頭かい? おあとは? 唐饅頭? お次は? 酒饅頭? おあとは? そば饅頭……栗饅頭……」というように、いろいろな饅頭の名を並べ立てるのが型になっています。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、むしろすっきりと短く演じています。

くすぐりもいろいろ

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、饅頭男がこわがる場面で、「クモの糸を納豆代わりに食う」「ミミズはトマトソースでマカロニ代わりに食う」といった、ゲテ物趣味的なギャグを加えました。これは、五代目小さん、三木助もやっています。ちなみに、四代目小さんは昭和22年(1947)9月30日、上野鈴本演芸場で新作「鬼娘」の口演後に楽屋で急逝しました。

三木助では、最後に男がこわいこわいと言いながら饅頭をふところに入れてしまい、「風呂敷はねえか」と、ずうずうしく言うくすぐり、また、こわいものを言い合う場面で、「おれァ、そばがいけない。うどんがいけない。だからフンドシもしめない」などがあります。

饅頭

日本渡来は、14世紀に禅僧が元(中国)から帰国する際、伴った中国人が、奈良で店を開いたのが最初ととの説があります。または、源頼朝が次男(実朝)誕生の百日の祝いに近親や重臣に配った「十字」という菓子が始まりだとの説も。これだと11世紀末期に宋(中国)から渡ってきたことがうかがえます。おおざっぱ言って、日本には中世(鎌倉室町期)に中国から僧侶が持ち込んだようです。

胞衣

えな。胎児を包む膜ですが、胎盤をいうこともあります。噺の発端になる「初めて通った生き物を……」という俗信は古くからあって、『誹風柳多留はいふうやなぎたる』巻十六(天明元=1781年刊)に、こんな句が載っています。

ゑなの上 初手しょてどらものに ふませたい

「ゑな」は胞衣、「初手」は最初、「どらもの」は放蕩者のことです。

しゃれこまち【洒落小町】落語演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

亭主の女遊びを陰で支える女房。歌道から洒落へ。業平故事を使った噺。

別題:口合小町(上方)

【あらすじ】

ガチャガチャのお松とあだ名される騒々しい女房。

亭主が近ごろ、吉原で穴っぱいり(浮気)して帰ってこないと、横町の隠居に相談に来る。

隠居は
「おまえが四六時中あまりうるさくて、家がおもしろくないので亭主が穴っぱいりする。昔、在原業平ありわらのなりひらが、愛人の生駒姫いこまひめの所に毎晩通ったが、奥方の井筒姫いづつひめは嫌な顔ひとつせず送りだすばかりか、ある嵐の晩、さすがに業平が外出しかねているのを、こういう晩に行かなければ不実と思われてあなたの名にかかわるから、無理をしても行きなさいと言う。嫉妬しっとするのが当たり前なのに、あまりものわかりがよすぎるから、業平は不審に思って、出かけたふりをして庭先に隠れてようすをうかがうと、縁の戸が開き、井筒姫が琴を弾きながら『風吹けば 沖津白波おきつしらなみたつ田山たやま 夜半よわにや君が 一人越ゆらん』と悲しげに詠んだので、それに感じて業平は河内かわち通いをやめたという故事がある。おまえも亭主が帰ったら、たとえ歌は無理としても、優しい言葉のひとつもかけ、洒落しゃれのひとつも言ったら、亭主はきっと外に出なくなる」
と、さとす。

「ご隠居さん、歌というのはけっこうですね」
「そりゃそうだ。小野小町おののこまちは歌を詠んで雨を降らせた、というくらいだからな」

家に帰ったお松、亭主の気を引こうと、さっそく洒落攻め。

大家おおやのところへ行くと言うと
「大家(=高野)さん弘法大師こうぼうだいし
「隣の茂兵衛もへえさんに喜兵衛きへえさん……」
「隣の茂兵衛(=モチ)つきゃ喜兵衛(=キネ)の音」

「うるせえな」
とどなると
「うさぎうさぎ、なに見てはねる」

あまり下らないのを連発するから、亭主はお松が頭がおかしくなったと思い、二、三日出かけずにいた。

ある日、雨が降ってきた。

これを待っていたお松、いきなり隣の水屋みずやからみのかさを借りてきて、うやうやしく亭主に着せかけると、そのまま外へ突き飛ばした。

亭主が行ってしまったので、ここぞと井筒姫の歌のつもりで間違えて
「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉いずみなる 信田しのだの森の うらくずの葉」
とやったが、いっこうに帰らない。

また心配になって隠居に掛け合うと、
「そりゃ狐の歌じゃないか」
「あ、道理でまた穴っぱいりだ」

【しりたい】

東西で異なるやり方

古風で、実に粋な噺です。こういう噺を達者にこなせる落語家は、もう絶えていないでしょう。

初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815 →千早ふる)がおそらく文化年間に作った古い上方落語を東京に移したもので、上方では「口合小町くっちゃいこまち」です。

「口合」は地口じくち駄洒落だじゃれのこと。

東西でやり方がもっとも変わる部分は、西(上方)では、かみさんが亭主のあとをつけて女郎屋に入るのを突き止め、乗り込んで大げんかになるのと、オチが異なり、狐の部分がないことです。

戦後、東京では八代目桂文治(山路梅吉、1883-1955)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900年9月3日-79年9月3日)の後は、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)がよく演じました。

小野小町の歌

古今和歌集こきんわかしゅう』の六歌仙ろっかせん紅一点こういってん、小野小町が、京に百日も大日照りがあったとき、神泉苑しんせんえん(現在の二条城の向かい)で、「ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた あめが下とは」という雨乞あまごいの歌を詠んだところ、七日続いて雨が降ったという「雨乞い小町」の伝説があります。上方の「口合小町」のオチはこれを踏まえ、亭主が降参して、茶屋通いはやめると謝ると、「まあうれしい。百日の日照りがあったら知らして」「どないするのや?」「口合(洒落)で、雨降らせてみせるわ」と、なっています。

今で言う、男の浮気のことです。愛人のもとに行ったきり帰らないのを、狐が穴にもることにたとえたものです。

もっとも、これでは今はまったく通じないでしょう。

穴っぱいり

浮気を意味します。「狐」は女性器を意味する隠語でもあるため、当然、下ネタの意味もきかしてあります。

「風吹けば……」

伊勢物語いせものがたり』第二十三段中の歌です。

意味は「風が吹くと沖の白波が立つ、その龍田山たつたやまを、今ごろ夜中にあなたが一人で越えているのでしょうか(心配です)」。

「恋しくば……」

浄瑠璃じょうるり芦屋道満大内鑑あしやどうまんおおうちかがみ』(葛の葉子別れ)の四段目で、陰陽師おんみょうじ安部保名あべのやすな(安部晴明あべのせいめいの父)と夫婦になっためす白狐びゃっこ(晴明の母)が、自分が化けた、夫のかつての恋人が訪ねてきたので、泣きの涙で身を引き、夫と子供を残して去る、その別れ際に障子しょうじに書き残す歌です。この白狐は「信田狐しのだぎつね」と呼ばれています。初代竹田出雲たけだいづも(?-1747)の作品です。この人は『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』の作者の一人でもあります。

ゆめきん【夢金】落語演目

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船宿に駆け込んできた男と女。金銭欲丸出しの船頭との取り合わせで。

あらすじ

山谷堀さんやぼりの吉田屋という船宿ふなやど

そこの船頭せんどう、熊五郎は、このところ毎晩のように超現実的な寝言をうなっている。

「金が欲しいな。二十両欲しい。だれかくれぇ」

ある夜、いつものように熊の
「金くれえ」
が始まったころ合いに、門口で大声で案内を乞う者がある。

亭主が出てみると、年のころは三十ばかり、赤羽二重あかはぶたえ黒紋くろもん羽織はおり献上博多けんじょうはかたの帯のぼろぼろになったのを着た侍が、お召し縮緬ちりめんの小袖に蝦夷錦えぞにしきの帯を締め、小紋こもんの羽織、文金高島田ぶんきんたかしまだしとやかにお高祖頭巾こそずきんをかぶった十六、七の娘を連れて、雪の中を素足で立っている。

話を聞くと、今日妹を連れて芝居見物に行ったが、遅くなり、この雪の中を難渋しているので、大橋おおはしまで屋根舟を一艘いっそう仕立ててもらいたいという。

今、船頭は相変わらず
「二十両くれえ」
とやっている熊五郎しかいない。

「大変に欲張りなやつですから、酒手さかて(チップ)の無心でもするとお気の毒ですので」
と断っても
「かまわない」
と言うので、急いで熊を起こして支度をさせる。

舟はまもなく大川の中へ。

酒手の約束につられてしぶしぶ起き出した熊五郎、出がけにグイっとあおってきたものの、雪の中。寒さにブルブル震えながら漕いでいる。

娘の顔をちらちら見て
「こいつら兄妹じゃねえな」
と踏んだが、まあなんにしろ
「早くゼニをくれればいい、酒手をくれ、早く一分くれ」
と独り言を言っていると、侍が舟の障子をガラリと開け
「おい、船頭。ちょっともやえ(止めろ)。きさまに話がある」

女は寝入っている。

「この娘は実は妹ではなく、今日、吉原土手よしわらどてのところで犬に取り巻かれて難儀していたのを助けてやったもの。介抱しながら懐に手を入れると、大枚二百両を持っていたから、これからこの女をさんざんなぐさんだ上、金をとってぶち殺すので手伝え」
という。

熊が仰天して断ると、侍は
「大事を明かした上は命はもらう」
とすごむ。

「それじゃあ、いくらおくんなさいます」
「さすがは欲深いその方。震えながらも値を決めるのは感心だ。二両でどうだ」
「冗談言っちゃいけねえ。二両ばかりの目くされ金で、大事な首がかけられるけえ。山分け、百両でどうでやす。イヤなら舟を引っくり返してやる」

とにかく話がまとまった。

舟中でやるのは証拠が残るからと言って中洲なかすまで漕ぎつけ、侍が先に上がったところをいっぱいにさおを突っ張り、舟を出す。

「ざまあみろ。土左衛門どざえもんになりゃあがれ」

これから娘を親元である本町ほんちょう三丁目の糸屋林蔵に届け、二十両の礼金をせしめる。

思わず金を握りしめた瞬間
「あちいッ」

夢から覚めると熊、おのれの熱いキンを握っていた。

しりたい

六代目円生の芸談

戦後、稠密ちょうみつな人物描写の妙で、この噺には定評のあった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、「これは初めから終わりまで夢……まことにたあいのない噺ですが、出てくる人物の表現、言葉のやりとり、そういったものを形から何からととのえてやれば面白く聞けるというのが、むずかしいところでもあるわけです。(中略)とりわけこの『夢金』なぞは、まずくやったら聞いちゃいられないという噺でございます」と語り残しています。

「芝浜」などと同じく、最後まで夢であると客に悟らせず、緊密な構成と描写力で噺を運ぶ力量が必要とされる、大真打の出し物でしょう。

我欲の浅ましさ

古くは別題を「欲の熊蔵」ともいいましたが、その通り、熊に代表される人間の金銭欲のすさまじさ、浅ましさが中心になります。

ただ、その場合も落語のよいところで、その欲望を誰もが持っている業として、苦笑とともに認めることで、この熊五郎も実に愛すべき、今でもどこにでもいそうな人間に思えてきます。

円生は、金銭欲の深さを説明するのに、マクラで「百万円やるからおまえさんをぶち殺させろ」と持ちかけられた男が、「半分の五十万円でいいから、半殺しにしてくれ」という小ばなしを振っています。

オチの改訂

昔からそのものずばり、夢うつつで金玉を握り、その痛さで目覚めるというのが本当で、これでこそ「カネ」と「キン」の洒落でオチが成立するのですが、やはり下品だというので、そのあたりをぼやかす演者も少なくありません。

たとえば、「錦嚢」と題した明治23年(1890)の二代目古今亭今輔の速記では、熱いと思ったらきんたま火鉢(火鉢を股間に挟んで温まる)をして寝ていた、と苦肉の改訂をしていますし、立川談志は、金玉の部分をまったくカットして、「静にしろッ、熊公ッ」と初めの寝言の場面に戻り、親方にどなられて目覚める幕切れにしていました。

明治の珍演出

『落語鑑賞』(安藤鶴夫、苦楽社、1949年)には「小さん・聞書」と題された四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の芸談が収められています。これによると、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)は、「夢金」を演ずるとき、始めから終わりまで、人物のセリフも地の語りもすべて、人気役者や故人の落語家、講釈師の声色(声帯模写)で通したということです。

これは「夢金」だけに限られたといいますから、それだけこの噺は、芝居がかったセリフが目立つということなのでしょう。

お召し縮緬と蝦夷錦

お召し縮緬は、横に強い撚りをかけた糸を織り込み、織ったあと、ぬるま湯に入れてしぼり立てた絹織物です。しま、無地、紋、錦紗きんしゃなどの種類があります。

「お召し」とは貴人が着用したことから付いた名称です。蝦夷錦えぞにしきは、繻子地しゅすじに金糸、銀糸と染め糸で雲竜の紋を織り出した錦。清でつくられたものが、満洲(中国東北部)→樺太→蝦夷(北海道)経由で入ってきたため、この名があります。清朝の役人がアイヌと交易していたのです。このような密交易は清朝では禁じられていました。密輸ですね。アイヌの族長が蝦夷錦を羽織って得意顔の絵の数々は、蠣崎波響かきざきはきょうの作品群の中でも特徴的です。

夷酋列像「チョウサマ(超殺麻)ウラヤスベツ乙名」蠣崎波響・筆

文金高島田

日本髪で、島田髷しまだまげの根を高く上げ、油で固めて結ったものです。高尚、優美な髪型で、江戸時代には御殿女中、明治維新後は花嫁の正装となりました。これに似せた「文金風」は男の髪型で、髷の根を上げて前に出し、月代さかやきに向かって急傾斜させた形です。

お高祖頭巾

おこそずきん。四角な切地に紐を付けた頭巾で、頭、面、耳を隠し、目だけを出します。婦人の防寒用で、袖頭巾ともいいます。時代劇で、ワケありの女がお忍びで夜出歩くときに、よく紫地のものをかぶっていますね。お高祖とは日蓮をさします。

りんきのこま【悋気の独楽】落語演目

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「悋気」とは嫉妬のこと。浮気の旦那、小僧相手に行くか行かぬか独楽で占い。

【あらすじ】

旦那が田中さんのところへ行くと言って、夜出かけていった。

やきもち焼きのおかみさん、これは女のところだと当たりを付け、小僧の長吉に提灯ちょうちんの火を頼りに後をつけさせるが、これに気づいた旦那が、長吉を買収しようとおめかけさん宅へ連れていく。

長吉は抜け目がなく、口八丁手八丁くちはっちょうてはっちょう

小僧は口も身上しんじょうも軽いと脅し、酒をたらふく呑んだ挙げ句、二十銭で寝返ることにする。

「えー、まさに賄賂わいろ受納つかまつりました」

だんなは
「帰ったら、山田さん宅をのぞいてオレに声をかけられたことにし、ただいま碁が始まるようすですから、今夜のお帰りはないでしょう、と言え」
と言い含める。

証拠物件にと、
「これは旦那さまが店の者に食わせろとおっしゃったと、こう言うんだ」
と餡ころ餠まで渡す周到さ。

そうしているうち、長吉がきれいな箱を見つけた。

中には三つの独楽。

それぞれ違った紋がついている。

旦那が言うには、花菱はなびしの紋はおめかけさんの独楽。

「はあ、副細君ふくさいくんで」
「変な言い方をするな。こっちの三柏みつかしわがうちのやつのだ」
「ご本妻の」
「これが抱茗荷だきみょうがで、おれのだ。これを三つ一度にまわす。そこで、おれの独楽が花菱の方へ着けばここに泊まるという、辻占つじうらの独楽だ」

遊びに独楽売りから買ったものだからと、旦那が独楽をくれたので、長吉は喜んで、そろそろ引き揚げることにした。

「決してご心配ありません。お楽しみ」
「お楽しみだけ余計だ。こっちへ来たら時々寄れ」
「へい、日に三、四度」
「そんなに来られてたまるか」

どうせおかみさんからも、にせ情報を流した上二十銭ふんだくるつもり。

店はもう戸締まりしていたので、
「旦那のお帰り」
と大声で叫んで堂々と通ると、さっそく
「おかみさんがお呼びだ」
という。

旦那の筋書きが功を奏して、執拗な尋問をなんとかかわしたと思ったら、
「奉公人が用をするのは当たり前だよ」
と、なにもくれない。

逆に、肩をたたいてくれと言いつけられる。

しぶしぶ肩につかまっているうち、眠くなるので、長吉、本店のお嬢さんがこの間、踊りのおさらいにお出になったときの「喜撰きせん」はよかったと、
「チャチャチャンチン、世辞せじで丸めて浮気うわきでこねてェ、ツチドンドン」
と拍子に乗って背中を突いた。

その拍子に、独楽がポロリ。

紋がついているのでごまかしきれず、ついにすべて白状させられる。

おかみさんが
「やってお見せ」
と言うので実演すると、だんなの独楽はツツツーと花菱の方へ。

「えー、あちらにお泊まりです」
「おまえのやり方が悪いんだ。もう一度おやり」
「へい。……あっ、おかみさんの独楽が近づいた。旦那の独楽が逃げる逃げる逃げる……あちらへお泊まりです」

おかみさん、カンカンで、
「こっちィおよこし」
と自分でまわすが、なぜか旦那の独楽がまわらない。

「これはまわらないわけです。心棒しんぼう(=辛抱)が狂いました」

【しりたい】

やり手など

幕末には純粋な上方落語でした。明治になって三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しましたが、あまり根付かなかったらしく、速記は小さんのほかは、八代目春風亭柳枝のものくらいです。

戦後では、やはり上方の三代目林家染丸(大橋駒次郎、1906-68)、東京で上方落語を演じた二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)が得意にし、小南門下だった二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)もレパートリーにしていました。

だんなと本妻の虚虚実実の腹の探りあいがニヤリとさせ、「権助提灯」などよりずっとおもしろいのに、あまりやり手がいないのは惜しいことです。

四代目志ん生の改作

四代目古今亭志ん生(鶴本勝太郎、1877-1926)は、五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の二度目の師匠で、俗に「鶴本の志ん生」。

「転宅」「あくび指南」などを得意とした、江戸前の粋な芸風でしたが、その志ん生が音曲の素養を生かし、この噺を「喜撰」と題して改作しています。

後半の独楽回しの部分を切り、小僧が清元きよもとの「喜撰」に熱中するあまりおかみさんを小突くので、「おまえ、人を茶にするね(=馬鹿にするね)」「へい、今のが喜撰(宇治茶の銘柄と掛けた)です」というサゲにしました。これは一代限りで継承者はなく、五代目志ん生にも伝わっていません。

独楽

こま。日本渡来は平安時代以前で、コマは高麗こまから渡ったことから付いた名称です。

江戸時代になり、八方独楽はっぽうこま銭独楽ぜにこま博多独楽はかたこまなど、さまざまな種類が作られ、賭博とばく曲独楽きょくこまもさかんに行われました。

「喜撰」

歌舞伎舞踊「六歌仙容彩ろっかせんすがたいろどり」の四段目で、『古今和歌集』で有名な六歌仙のそれぞれを、それぞれの性格に応じて踊り分けるものです。

第一段が僧正遍昭そうじょうへんじょう(義太夫)、以下、文屋康秀ふんやのやすひで(清元)、在原業平ありわらのなりひら(長唄)、喜撰法師きせんほうし(清元・長唄の掛け合い)、大伴黒主おおとものくろぬし(長唄)となり、それぞれに小野小町おののこまちと、その分身である茶汲み女・祇園のお梶がからみます。天保2年(1831)3月中村座初演で、代々の坂東三津五郎ばんどうみつごろうのお家芸となっています。

「世辞で丸めて浮気でこねて」は、喜撰が花道に登場するときの冒頭の歌詞で、浮き立つようなしゃれた節回しで有名です。

それにつけても、一介の商家の小僧にまで踊りや音曲の素養が根付いていた、かつての江戸東京の文化水準の高さには驚かされます。

花菱

はなびし。家紋の一つです。わりと一般的です。

菱とは、ヒシ科の一年生植物。池、沼などの中に生えて、水面に浮かんでいます。葉の形状は菱状三角形です。夏に四弁の白い小花が咲きます。実は硬くて、角状のトゲが目立ち、中の白い種子は食用になります。

花菱とは、この菱の葉に似た四つの弁を並べて、花びらに見立てた形からつきました。唐花菱からはなびし唐花からはなとも呼ばれます。大陸由来の文様とされています。平安期には有識ゆうそく文様として、公家の調度品や衣装などに用いられていました。

使いはじめは、甲斐の武田氏でした。「武田菱」は有名です。江戸期には、松田氏、安芸氏、板倉氏、松前氏なども使っていました。

三柏

みつかしわ。家紋です。日本十大家紋の一つとされています。

三柏は、柏紋の中でも一般的に広く使われています。さまざまなバリエーションがついて派生しています。「丸に三柏」「蔓柏」「剣三柏」「鬼三柏」「三土佐柏」「三巴柏」「実付き三柏」「八重三柏」などがあります。

抱茗荷

だきみょうが。こちらも家紋。ミョウガの花を図案化したものです。こちらも日本十大家紋の一つです。

バリエーションは70種類以上ありますが、実際に使われている紋のほとんどは「抱茗荷」と、それを丸で囲んだ「丸に抱茗荷」です。

普及したのは戦国時代以後で、しかも摩多羅神またらしんの神紋として用いられるのが大きな特徴です。

さらには、音が「冥加みょうが」に通じることから、神仏の加護が得られる縁起のよい紋と考えられています。神社や寺などでよく目にします。

そばのとのさま【蕎麦の殿さま】落語演目

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お仕えの噺。そばにまつわる噺は数あれど、かほど過酷な噺はなかりしや。

あらすじ

あるお大名。

ご親類にお呼ばれで、山海の珍味を山とごちそうになり、大満足で屋敷に帰ろうというところで、
「お帰り際をお止め申して恐れ入るが、家来のうちにそばの打ち方に妙を得ている者がおりますので、ほんの御座興にその者を呼び、御目前にて打たせて差し上げたいと存ずるゆえ、しばらくお待ちを」
と。

言われて殿さま、そばなんぞはただ長いものと聞いているだけで、見たことも聞いたこともなかったので、興味津々。

実際に木鉢の粉をすりつぶし、こねて切ってゆでて……という名人芸を目のあたりにして、すっかり感心。

根が単純なので、自分もやってみたくてたまらなくなってしまう。

帰ると、早速家来どもを集め、鶴の一声で「実演」に取りかかる。

山のようにそば粉を運ばせる。

小さな入れ物ではダメというので、馬の行水用のたらいを用意させ、殿さま、さっそうとたすきを十字にかけ、はかまの股立ちを高々と取る。

まるで果たし合いにでも行こうという出立ち。

「……これ、水を入れよ。……うん、これはちと柔らかい。粉を足せ。……ありゃ、今度は固すぎる。水じゃ。あコレコレ、柔らかい。粉じゃ。固いぞ。水。柔らかい。粉。水、粉、水、粉、粉水水粉粉水水粉……」

というわけで、馬だらいの中はヘドロのようなものが山盛り。

その上、殿さまが興奮して、鼻水は垂らしっぱなし。

汗はダラダラ。

おまけにヨダレまで、ことごとく馬だらいの「そば」の中に練りこまれるから、家来一同、あれを強制的に食わされるかと思うと、生きた心地もない。

いよいよ、恐怖の試食会。

宮仕えの悲しさ、イヤと言うわけにもいかないから、グチャグチャドロドロのやつを、脂汗を流しながら一同口に入れる。

「あー、どうじゃ、美味であろう」
「ははー、まことにけっこうな……」
「しからば、代わりを取らせる」

汗と唾とよだれと鼻水で調味してあるそばを、腹いっぱい詰め込まされたものだから、翌日は家来全員真っ青な顔で登城する。

みんな、その夜一晩中ひどい下痢でかわやへ通い詰め。

そこへまたしても殿のお召し。

「あー、コレ、一同の者がそば好きじゃによって、本日もそばを打っておいたゆえ、遠慮なく食せ。明日も打ってとらせる」
「殿、恐れながら申し上げます」
「なんじゃ」
「おそばを下しおかれますなら、一思いに切腹を仰せつけ願わしゅう存じまする」

【しりたい】

すまじきものは宮仕え

将棋の殿さま」と並んで、ご家来衆受難の一席。この種の噺に、今はもう演じ手がありませんが、三遊亭円朝(1839-1900、出淵次郎吉)の作といわれる「華族の医者」があります。

維新後のはなしで、医術に凝った元殿さまが、怪しげな薬で家来を虫の息にしてしまい、「それは幸い。今度は解剖じゃ」。

サディスティックさの度合い、精神の病根の深さは「蕎麦殿」や「将棋殿」など、メじゃあありませんね。

ぜひどなたかに復活していただきたいものです。ああこれこれ、「実演」するでないぞ。してよいのは余だけじゃ。

そばと殿さま

松江藩(出雲、島根県)の七代藩主で、茶人としても知られた松平治郷まつだいらはるさと(不昧公ふまいこう、「目黒のさんま」の)が飢饉対策のため、藩内に信州から蕎麦を移植したいきさつは、出雲系そば屋の由来書の紋切りです。

不昧公は名君、茶人として知られます。いやしくもこの噺のそば殿のモデルになったとは思えませんが、殿さまがズルズルとそばをたぐっている姿を想像すると、漱石ではありませんが、なんとなく「俳味はいみ」があります。ただ、次項目に記したように、茶人としての散財は目を覆うほどでしたので、「蕎麦殿」の雰囲気も漂っていたのかもしれません。あくまでも推測です。

そばと茶道

不昧公は茶人としても高名でした。そこでもう一つ付け加えますが、実はこの噺の発端で、殿さまが茶坊主に命じて、そば粉を調達させるくだりが、あらすじで参考にした、明治の二代目柳家小さん(禽語楼きんごろう小さん→柳家禽語楼、1848-98、大藤楽三郎)の速記にはあります。

このことから、そばきりは茶懐石の添え物として供されたことがうかがわれます。そばは、いやしき町人のみが好物としていたのではないのですね。

ちなみに、「不昧」とは松平治郷が文化3年(1806)に剃髪ていはつした後に号したもので、僧号のようです。現役時代から「不昧」を名乗っていたのではありません。治郷は十代将軍徳川家治いえはるから偏諱へんきをたまわったものです。偏諱とは、高位者から名の一字をさずかること。こういうことから特別な主従関係が生じると意識したわけです。菩提寺は松江の月照寺(浄土宗)です。

不昧を名乗ってからは、江戸・大崎の下屋敷(茶室が11もあった!)で屋敷全部を使った大がかりな茶会を催したりして、松江藩の財政をしっかり逼迫ひっぱくさせています。朝鮮人参の栽培など振興には活発ながら政治には口出ししなかったそうですから、ある意味ではたしかに名君だったのでしょうが、どうもね。

幻の後日談?

目黒のさんま」でもふれましたが、明治期に、武士や殿さまの噺を得意としたのが、延岡藩(日向、宮崎県)の藩士だった二代目柳家小さん(禽語楼小さん)です。

「そばの殿さま」の最古の速記が、明治27年(1894)『百花園』所載の二代目小さんのものですが、現在のやり方とあまり大きくは違っていません。戦後では六代目三遊亭円生(1900-79、山﨑松尾、柏木の師匠)がよく演じました。

『円生全集』第二巻(青蛙房、1980年)所収の速記では、円生はオチは使わず、殿さまが謝った後、「今度は精進料理で失敗するという……」と「続編」をにおわせてサゲていましたが、これについてはいまのところ不明です。

「そばの殿さま」のくすぐり

●家来がイヤイヤそばを食う場で

「中から粉が出ますな」
「貴殿のは粉だからよろしい。拙者のはワラが出ます」
「壁土じゃござらん」

 …………………………………………

「いやしくも侍一人、戦場で捨てる命は惜しまねど、そばごときと刺し違えて相果てるは遺憾至極」
「遺憾もキンカンもくねんぼもダイダイもない。このそばをもって一命を捨てるのも、やはり忠死のひとり」
「宅を出るとき、家内と水杯をいたしてくればよかった」

せんりょうみかん【千両みかん】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

 

病床の若旦那、真夏にみかんを食べたいと。番頭は四苦八苦。

【あらすじ】

ある呉服屋の若旦那が急に患いつき、食事も受け付けなくなった。

大切な跡取り息子なので両親も心配して、あらゆる名医に診てもらうが、決まって
「これは気の病で、なにか心に思っていることがかないさえすれば、きっと全快する」
と言うばかり。

そこで、旦那は番頭の佐兵衛を呼んで、
「おまえはせがれを小さい時分からめんどうを見ているんだから、気心は知れている。なにを思い詰めているか聞き出してほしい。なんだろうとせがれの命には換えられないから、きっとかなえてやる」
という命令。

若旦那に会って聞きただすと、
「どうせかなわないことだから、かえって不孝になるので、言わずにこのまま死んでいく」
と、なかなか口を割らない。

どうせどこかの女の子に恋患いでもしたんだろうと察して、
「必ずどうにかしますから」
とようやく白状させてみると、
「それじゃ、おまえだけに言うがね、実は、……みかんが食べたい」

あっけに取られた番頭、そんなことなら座敷中みかんで埋めてあげますと請け合って、喜んで主人に報告。

ところがだんな、難しい顔で、
「とんでもないことを言ったもんだ。じゃ、きっと買ってくるな」
「もちろんです」
「どこにみかんがある」

それもそのはず、時は真夏、土用の八月。

はっと気づいたが、もう遅い。

「おまえが今さら、ないと言えば、せがれは気落ちして死んでしまう。そうなれば主殺し。はりつけだ。きっと召し連れ訴えてやるからそう思え。それがイヤなら……」

それがイヤなら、江戸中探してもみかんを手に入れてこいと脅され、佐兵衛、かたっぱしから果物屋を当たるが、今と違って、どこにもあるわけがない。

ハリツケ柱が目にちらつく。

しまいに金物屋に飛び込む始末。

同情した主人から、神田多町の問屋街へ行けばひょっとすると、と教えられ、わらにもすがる思いで問い合わせると
「あります」
「え、ある? ね、値段は?」
「千両」

蔵にたった一つ残った、腐っていないみかんが、なんと千両。

とても出すまいと思ってだんなに報告すると
「安い。せがれの命が千両で買えれば安いもんだ」

これに佐兵衛はびっくり。

「あのケチなだんなが、みかん一つに惜しげもなく千両。皮だって五両ぐらい。スジも二両、一袋百両。あー、もったいない」
と思いつつもみかんを買ってきた。

喜んで食べた若旦那、三袋残して、
「これを両親とお祖母さんに」
と言う。

「オレが来年別家してもらう金がせいぜい三十両……。この三袋で……えーい、長い浮き世に短い命、どうなるものかいっ」

番頭、みかん三袋持ってずらかった。

【しりたい】

古い上方落語   【RIZAP COOK】

明和9年(1772)刊の笑話本『鹿子餅こもち』中の「蜜柑みかん」を、大阪の松(笑)福亭系の祖で、文政、天保期(1818-44)に活躍した初代松富久亭松竹しょうふくていしょちくが落語に仕立てたものです。生没年など初代についての詳しいことはよくわかっていません。

オチにすぐれ、かつての大坂船場せんばの商家の人間模様も織り込んだ、古い上方落語の名作です。東京に移されたのは比較的新しく、戦後と思われます。

東西の演者   【RIZAP COOK】

東京では八代目林家正蔵(彦六)、五代目古今亭志ん生が演じました。

正蔵は、みかん問屋を万屋惣兵衛よろづやそうべえとしました。「万惣まんそう」は神田多町かんだたちょうの老舗問屋で、のちに千疋屋せんびきやと並ぶ有名なフルーツパーラーになりました。現在は閉店中。

志ん生のくすぐりでは、金物屋かなものやで番頭が、引き回しやハリツケの場面を聞かされて腰を抜かすくだりが抱腹ですが、この部分は上方の演出を踏襲しています。

上方の桂米朝のは、事情を説明すると問屋が同情してタダでくれると言うのを、番頭が大店の見栄で、金に糸目はつけないとしつこいので、問屋も意地になって千両とふっかける、という段取りでした。

青物市場   【RIZAP COOK】

みかんを始め、青果を扱う市場は、江戸では神田多町、大坂では天満てんまで、多数の問屋が並び、それぞれこの噺の東西の舞台です。

多町の方は、開設は元禄元年(1688)です。それ以前の慶長年間(1596-1615)に、草創名主くさわけなぬし河津五郎太夫かわづごろうだゆうという人が、すでに野菜市を開いていたとのことです。

大坂・天満は、京橋片原町きょうばしかたはらまち(大阪市都島区片町)にあった市を承応しょうおう2年(1653)に現在の天満橋北詰に移したものです。天満には当時からみかん専門店がありました。

「夏は、穴ぐらか、それとも夏でもひんやりする土蔵の中で、何重にも特殊な梱包をして、残そうとしたのでしょうか。囲うということをやった」(桂米朝)

みかん   【RIZAP COOK】

栽培は古く、垂仁すにん天皇のころ、田道間守たじまのもり常世とこよの国につかわし、非時香菓ときじくのかくのこのみを求めさせたというくだりが『日本書紀』にありますが、事実のわけはありません。

ただし、飛鳥時代にはすでに栽培されていて、「万葉集」にも数歌に詠みこまれています。当時はユヅ、ダイダイなどかんきつ類一般を「たちばな」と呼びました。

時代は飛んで、江戸に有田みかんが初入荷したのは寛永11年(1634)11月。その時にもう、京橋に初のみかん問屋が開業しています。

とめれ、この噺は人情噺のようでいて人情噺でない、不思議な感覚を覚える噺ですね。現代人の感性からすると、番頭の最後の独白が、しごくもっともと感じられるせいでしょうか。どんな忠義者といえども、この若だんなや親ばかだんなのような連中には、いくらなんでもつき合っていられないでしょうからねえ。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

まめや【豆屋】落語演目

商いの噺。物売りの豆屋、売れても売れなくても客に怒られる始末。

【あらすじ】

ある、ぼんくらな男。

何の商売をやっても長続きせず、今度は近所の八百屋の世話で豆売りをやることにして、知り合いの隠居のところへ元手をせびりに行く。

隠居からなんとか二円借りたにわか豆屋、出発する時、八百屋に、物を売る時には何でも掛け値をし、一升十三銭なら二十銭と言った後、だんだんまけていくもんだと教えられたので、それだけが頭にこびりついている。

この前は売り物の名を忘れたが、今度は大丈夫そうで
「ええ、豆、そら豆の上等でございッ」
と教えられた通にがなって歩いていると、とある裏路地で
「おい、豆屋」
「豆屋はどちらで」
「豆屋はてめえだ」
「一升いくらだ」
と聞くので
「二十銭でございます」
と答えると
「おい、お松、逃げねえように戸を閉めて、しんばり棒をかっちまえ。薪ざっぽうを一本持ってこいッ」

豆屋はなんのことかと思っていたら、
「この貧乏長屋へ来て、こんな豆を一升二十銭で売ろうとは、てめえ、命が惜しくねえか」
と脅かされ、二銭に値切られてしまった。

その上、山盛りにさせられ、こぼれたのまでかっさらわれて、さんざん。

泣く泣く、また別の場所で
「豆、豆ッ」
とやっていると、再び
「豆屋ァ」
の声。

前よりもっとこわそうな顔。

「一升いくらだ」
と聞かれ、
「へい、二…十」
を危うくのみ込んで
「へえ、二…銭で」
「おい、お竹、逃げねえように戸を閉めて、しんばり棒をかっちまえ。薪ざっぽうを一本持ってこいッ。一升二銭なんぞで買っちゃ、仲間うちにツラ出しができねえ」
と言う。

もう観念して
「それじゃ、あの一銭五厘に」
「ばか野郎。だれがまけろと言った。もっと高くするんだ」

豆屋がおそるおそる値を上げると
「十五銭? ケチなことを言いやがるな」
「二十銭? それっぱかりのはした銭で豆ェ買ったと言われちゃ、仲間うちに…」
というわけで、とうとう五十銭に。

いい客が付いたと喜んで、盛りをよくしようとすると
「やいやいッ、なにをしやがるんだ。商売人は中をふんわり、たくさん詰めたように見せかけるのが当たり前だ。真ん中を少しへこませろ。ぐっと減らせ、ぐっと。薪ざっぽうが見えねえか。よし、すくいにくくなったら、升を逆さにして、ポンとたたけ」
「親方、升がからっぽです」
「おれんとこじゃ、買わねえんだい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

江戸の野菜売り  【RIZAP COOK】

江戸時代、この豆屋のように一種類の野菜を行商で売り歩く八百屋を「前栽売せんざいうり」と呼びました。落語ではほかに「唐茄子屋政談」「かぼちゃ屋」の主人公も同じです。いずれも天秤棒に「前栽籠」という浅底の竹籠をつるして担ぎ歩きます。同じ豆屋でも枝豆売りは子持ちの貧しい女性が多かったといいます。

十代目文治のおはこ  【RIZAP COOK】

かつては「えへへの柳枝」と呼ばれた七代目春風亭柳枝(1893-1941)がよく演じましたが、その後は、十代目桂文治(1924-2004)が伸治時代から売り物にしていました。評逸なおかしみは無類で、あのカン高い声の「まめやァー!」は今も耳に残っています。立川談志(1935-2011)は、豆屋を与太郎としていました。

逃げ噺の代表格  【RIZAP COOK】

「豆屋」は短い噺ですが、オチもなかなか塩が効いていて、捨てがたい味があります。持ち時間が少ないとき、早く高座を下りる必要のあるときなどにさらっと演じる「逃げ噺」の代表格です。

古くは、六代目三升家小勝(1908-71)の「味噌豆」、八代目桂文楽(1892-1971)の「馬のす」、五代目古今亭志ん生(1890-1973)の「義眼」、六代目三遊亭円生(1900-79)の「四宿の屁」「おかふい」「悔やみ」など、一流の演者はそれぞれ自分の逃げ噺を持っていました。

薪ざっぽう  【RIZAP COOK】

「真木撮棒」と書きます。すでに伐ったり割ったりしてある薪で、十分に殺傷能力のある、コワイ代物です。「まきざっぽ」とも言います。

ちなみに、「真木」はひのきの美称。「真木割く」という枕詞がありますが、「檜」に掛かります。たんに「まき」と言った場合、「ま」は「き」の美称となります。「まき」は「立派な木」くらいの意味。古来、杉や檜をさします。古語に「真木立つ山」という言葉がありますが、これは、杉や檜が生い茂った山で、神の気配を感じさせる山のことです。

【RIZAP COOK】

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しょうぎのとのさま【将棋の殿さま】落語演目

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主君にはさからえない時代の話。とどのつまりは暇なんですね。

あらすじ

ある殿さま、ふとしたことから将棋に懲り、家来を相手に毎日熱中する。

それはいいが、自分が負けそうになると決まって「お取り払い」、つまり、王手の駒を強制的に除かせたり、「お飛び越し」、飛車が金銀を飛び越えて成ってしまったりと、やりたい放題。

文句を言うと、
「主の命に背くか」
と居直るので始末に負えない。

これでは連戦連勝は当たり前で
「うーん、その方たちは弱いのう。鍛えてつかわさんため、今日からは負けたる者は、この鉄扇で頭を打つからさよう心得よ」

始まれば、お取り払いにお飛び越しで、殿さまは負ける気遣いはないから、家来の頭はたちまちコブだらけ。

そこへ現れたのが御意見番の三太夫という、骨のある爺さん。

しばらく病気で出仕しなかったが、お飛び越しの一件を聞くと、これは怪しからんと憤慨し、さっそく殿さまの前へ。

殿さま、子供の頃から育てられているので、三太夫は大の苦手。

いやな爺が来た、と渋い顔をするが、三太夫はいっこうにかまわず
「将棋は畳の上の戦、軍学の修練にもなり、武士の嗜みとしては大いにけっこう。このじいも、年は取ってもまだまだお上のごときナマクラには負け申さん。たちまち、お上のおつむりをコブだらけにしてお目にかけるが、もしお上がお勝ち遊ばし、それがしの白髪頭をお打ちになっても、戦場で鍛えし鋼のごとき頭、ご遠慮は無用」
と挑発した。

それで殿さまも熱くなり、このくそ爺、ほえヅラをかくなと、試合開始。

家臣一同、あのうるさいのがコブだらけになるところを見たいと、ワクワクして見守る中、みるみる殿さまの形勢悪くなり、案の定
「これ、その歩で桂馬を取ってはならん。主命じゃ。控えよ」
「これはけしからん。戦場においては、君臣の区別はござらん。桂馬は侍、歩は雑兵。それが一騎当千の侍を討ち取るときは、末頼もしき奴。帰城の折りは取り立てつかわしたく存じますに、敵の大将がとやかく申したからとて、その言葉に従えましょうや」

理屈でくるから、どうにもならない。

お飛び越しを命じると
「飛車は軍師、その軍師が陣法に従わず、卑怯未練にも道なき所を飛び越して参るとは言語道断。首をはねて梟木に掛けますから、お引き渡しを」と、くる。

とどのつまり、殿さまは実力通り雪隠詰め。

剣の心得のある三太夫に思い切り打たれて、殿さま、涙ポロポロ。

「うーん、一同の者、盤を焼き捨てい。明日より将棋を指す者は、切腹申しつける」

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うんちく

上さまの御前で 【RIZAP COOK】

講談の「大久保彦左衛門将棋の意見」を落語化したものといわれます。異説には「江戸寄席落語の祖」初代三笑亭可楽(1777-1833、京屋又五郎)の作とも。可楽は、こともあろうにこの噺を十一代将軍家斉の御前で口演したとか。

やる方も命知らずなら、聴く上さまの方もなかなかシャレがわかる……とほめたくなりますが、いくらなんでもこれは伝説です。落語界にはこんな不確か情報が意外に漂っています。円歌が昭和天皇の御前でとか、円朝が明治天皇の御前でとか。誤情報です。

それはともかく。寄席草創期の化政期からある古い噺で、明治期では二代目柳家小さん(禽語楼小さん)の明治22年(1889)9月付の速記があります。

禽語楼小さんは、自身も延岡藩(日向、宮崎県)の藩士だったこともあり、この噺を含めて殿さま噺を得意にしていました。

古い速記では他に、昭和9年(1934)の八代目桂文治のものがあります。

上方では「落語の殿さま」 【RIZAP COOK】

上方の「大名将棋」では、殿さまが「紀州侯」と特定されているほかは、東京のやり方と変りませんが、この後があります。

将棋に懲りた殿さま、今度はこともあろうに落語に凝りだしたから、一難去ってまた一難。その場が氷河期と化すようなダジャレの連発に一同が凍り付いていると「みなの者笑え」と、例によって無理難題。笑わないとまた鉄扇だと、仕方なく無理にワキの下をくすぐりあって笑うと、殿さま、いい気になって、「鶴がいて亀がいて、鶴は千年亀は万年、東方朔は九千歳……」と、締めのダジャレがいつの間にか厄払い(「厄払い」参照)のセリフに。そこで家来一同「笑いまひょ、笑いまひょ」。

最後はやはり「払いまひょ」の地口で、厄払いでオチます。

大名のサディズム 【RIZAP COOK】

家来をあらぬ趣味で苦しめる殿さま噺に「蕎麦の殿さま」がありますが、異色なのが三遊亭円朝「華族の医者」です。

医術に凝った元殿さまが、怪しげな薬で家来を虫の息にしてしまい、「それは幸い。今度は解剖じゃ」。明治維新を迎えても、「殿さま、ご乱心」はいっこうに変わりがなかったようです。もっとも、無茶苦茶の度合は、「幇間腹」の若旦那の方が上を行きますが。

幕府の将棋保護 【RIZAP COOK】

幕府が寺社奉行管轄下に「将棋所」を設けたのが慶長12年(1607)。大橋宗桂(1555-1634)をその司としました。

禄高は五十石二人扶持で、以来、大橋家は将棋の宗家として代々宗桂を名乗り、明治まで十二代を数えました。

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くらまえかご【蔵前駕籠】落語演目

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維新間際、駕籠客狙う追い剥ぎの一党が。すさんだ世情も落語にかかれば、ほら。

あらすじ

ご維新の騒ぎで世情混乱を極めているさなか。

神田・日本橋方面と吉原を結ぶ蔵前通りに、夜な夜な追いぎが出没した。

それも十何人という徒党を組み、吉原通いの、金を持っていそうな駕籠かご客を襲って、氷のような刃を突きつけ
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるので、その方に所望いたす。命が惜しくば、身ぐるみ脱いで置いてゆけ」
と相手を素っ裸にむくと
「武士の情け。ふんどしだけは勘弁してやる」
「へえ、ありがとうございます」

こんなわけで、蔵前茅町くらまえかやちょう江戸勘えどかんのような名のある駕籠屋は、評判にかかわるので暮れ六ツの鐘を合図に、それ以後は一切営業停止。

ある商家のだんな。

吉原の花魁おいらんから、ぜひ今夜来てほしいとの手紙を受け取ったため、意地づくでも行かねばならない。

そこで、渋る駕籠屋に掛け合って、
「追いはぎが出たらおっぽり出してその場で逃げてくれていい、まさか駕籠ぐるみぶら下げてさらっていくことはないだろうから、翌朝入れ物だけ取りに来ればいい」
と、そば屋にあつらえるようなことを言い、駕籠賃は倍増し、酒手は一人一分ずつという条件もつけてようやく承知させる。

こっちも支度があるからと、何を思ったかだんな、くるくるとふんどし一つを残して着物を全部脱いでしまった。

それをたたむと、煙草入れや紙入れを間に突っ込み、駕籠の座ぶとんの下に敷いてどっかと座り、
「さあ、やれ」

駕籠屋が
「だんな、これから風ェ切って行きますから寒いでしょう」
とからかうと、
「向こうにきゃ暖め手がある」
と変なノロケを言いながら、いよいよ問題の蔵前通りに差しかかる。

天王橋てんのうばしを渡り、前方に榧寺かやでら門前の空地を臨むと、なにやら怪しい影。

「だんな、もう出やがったあ。お約束ですから、駕籠をおっぽりますよっ」
と言い終わるか終わらないかのうちに、ばらばらっと取り囲む十二、三人の黒覆面。

駕籠屋はとっくに逃げている。

ぎらりと氷の刃を抜くと、
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるのでその方に所望いたす。命が惜しくば……これ、中におるのは武家か町人か」

刀の切っ先で駕籠のすだれをぐいと上げると、素っ裸の男が腕組み。

「うーん、もう済んだか」

しりたい

江戸の駕籠屋

蔵前茅町の江戸勘、日本橋本町にほんばしはしもとちょう赤岩あかいわ芝神明しばしんめい初音屋はつねやを、江戸三駕籠屋と称しました。

江戸勘と赤岩は吉原通い、初音屋は品川通いの客が多く利用したものです。

これを宿駕籠しゅくかごといい、個人営業の辻駕籠つじかごとは駕籠そのものも駕籠舁かごかきも、むろん料金も格段に違いました。

駕籠にもランクがあり、宝仙寺ほうせんじ、あんぽつ、四ツ手と分かれていましたが、もっとも安い四ツ手は垂れ駕籠(むしろのすだれを下ろす)、あんぽつになると引き戸でした。

ルーツは『今昔物語』に

いかにも八代目正蔵(彦六)が得意にしていた噺らしい、地味で小味こあじな一編ですが、原話は古く、平安末期成立の説話集『今昔物語こんじゃくものがたり』巻二十八中の「阿蘇あそさかん、盗人にあひて謀りて逃げし語」です。ちなみに、「史」は令制りょうせい四等官しとうかんの最下位「主典さかん」をさします。

時代がくだって安永4年(1775)刊の笑話集『浮世はなし鳥』中の「追剥おいはぎ」では、駕籠屋の方が気を利かせてあらかじめ客を裸にし、大男の追い剥ぎが出るや「アイ、これはもふ済みました」と、すでに「蔵前駕籠」と同じオチになっています。

榧寺門前

榧寺かやでらは現在の東京都台東区蔵前三丁目、池中山盈満院正覚寺じちゅうざんようまんいんしょうがくじのことです。浄土宗で芝の増上寺に属します。

昔、境内に榧の大木があったので、この名が付いたといわれますが、その榧の木は、秋葉山の天狗が住職と賭け碁をして勝ち、そのかたに実を全部持って行ったために枯れ、その枯れ木で天狗の木像を刻んで本尊としたという伝説があります。

江戸時代は水戸街道に面し、表門から本堂までかなり長かったといいます。

はつてんじん【初天神】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

悪ガキの上手をいく、ピンボケな、すれたおやじ、熊五郎の噺です。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では柳家小三治、三遊亭円弥、上方では桂米朝でしたが、六代目松鶴から継承した笑福亭仁鶴も得意としていました。オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

めぐろのさんま【目黒のさんま】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

おなじみのお噺ですが、ここでは少々古い型を紹介します。

あらすじ】

雲州うんしゅう松江藩十八万石の第八代藩主、松平出羽守斉恒なりつね月潭公げったんこうとも呼ばれ、文武両道に秀でた名君だけあり、在府中は馬の遠乗りを欠かさない。

ある日、早朝から、目黒不動尊参詣を名目に、二十騎ほどを供に従え、赤坂御門内の上屋敷から目黒まで早駆けした。

参詣を終えたが、昼時には間があるので、あちらこちらと散歩。

いつしか目黒不動の地内を出て、上目黒辺の景色のいい田舎道にかかった時、殿さま、戦場の訓練に息の続くまで駆け、自分を追い抜いた者は褒美を取らすと宣言。

自分から走り出したので、家来どもも慌てて後を追いかける。

ところが、腰に大小と馬杓を差したままだから、なかなかスピードが上がらない。

結局、ついて来れたのは三人だけ。

雲州公、松の切り株に腰を下ろして一息つき、遅れて着いた者に小言を言ううち、にわかに腹がグウと鳴った。

陽射しを見ると、もう八ツ(午後二時)過ぎらしい。

その時、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきた。

殿さまのこと、下魚のサンマなどは見たこともない。

家来に、「あれは何の匂いじゃ」とご下問になる。

「おそれながら、下様でさんまと申し、丈は一尺ほどで、細く光る魚でございます。近所の農家で焼いておると存じます」
「うむ、しからば、それを求めてまいれ」
「それは相かないません。下様の下人どもが食します魚、俗に下魚と称しますもの。高位の君の召し上がるものでは」
「そのほうは、治にいて乱を忘れずの心がけがない。もし戦場で敗走し、何も食うものがないとき、下様のものとて食わずに餓死するか。大名も下々も同じ人。下々が食するものを大名が食せんということはない。求めてまいれ」

家来はしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、あばら家で農民の爺さんが五、六本串に刺して焼いている。

これこれで、高貴なお方が食したいとの仰せだから、譲ってくれと頼むと、爺さん、たちまち機嫌が悪くなり、「人にものを頼むのに笠をかぶったまま突っ立っているのは、礼儀を知らないニセ侍だから、そんな者に意地でもやれねえ」と突っぱねる。

殿さまが名君だけに分別のわかった侍だから、改めて無礼を詫び、やっと譲ってもらって御前へ。

松江公、空腹だからうまいのうまくないの。

これ以来病み付きになり、屋敷内に四六時中もうもうと煙が立ち込めるありさま。

しまいには江戸中のさんまを買い上げた。

それではあきたらず、朋輩の諸大名に、ことあるごとにさんまの講釈を並べ立てるから、おもしろくないのは黒田候。

負けじと各地の網元に手をまわして買いあさったが、重臣どもが「このように脂の多いものを差し上げては」と余計な気をまわし、塩気と脂を残らず抜いて調理させたから、パサパサでまずいことこの上ない。

怒った黒田候、江戸城で雲州公をつかまえ、あんなまずいものはないと文句を言う。

「して貴殿、いずれからお取り寄せになりました」
「家来に申しつけ、房州の網元から」
「ああ、房州だからまずい。さんまは目黒に限る」

出典:禽語楼小さん

しりたい

元サムライの殿さまばなし   【RIZAP COOK】

古くからよく知られた噺です。

「サンマは目黒に限る」というオチは、落語をご存知ない方でも、一度は耳にされたことがおありでは? もちろん、現在でも前座から大看板まで、頻繁に口演されます。

ここでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の、明治24年(1891)の速記を元にあらすじを構成しました。

二代目禽語楼小さんは明治中期まで活躍した噺家です。延岡の内藤藩士という、れっきとしたサムライでした。それだけに、「目黒のさんま」ばかりか、「将棋の殿さま」「そばの殿さま」などの殿さまばなしなら、右に出る者はいなかったとか。この噺も、小さんが原型を作ったと言ってよく、大筋の演出は現行とそうは違いません。

ただ、オチで小さんが「房州の網元から」としているのを、現在では「日本橋の魚河岸」となるなど、細部はかなり変わっています。

殿さまの正体   【RIZAP COOK】

演者によってもっとも大きく分かれるのが、殿さまのモデルです。

二代目小さんのように雲州公とする場合と、三代将軍家光公とする場合があります。

たとえば、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は家光公で演じ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)や、門下の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)は殿さまを特定していません。

目黒一帯は将軍家のお狩場だったところで、家光公が鷹狩りの途中、偶然立ち寄ってサンマを食し、たいへん気に入ったという伝説があります。

雲州公で演ずる場合、二代目小さんは第八代松江藩主・松平斉恒としていますが、以後は現在まで、その父で茶人や食通として名高く、出雲にそばを移植したので有名な、不昧公ふまいこう治郷はるさと(1751-1818)としています。

演出によっては、家来が爺さんともめているところへ、殿さまがニコニコして現れ、「許せよ」と丁重に頼むので、爺さんが機嫌を直すやり方もあります。

もっとも、これは「ただの殿さま」の雲州公だからよいので、将軍家が来てこんなにゴネればハリツケものでしょう。

目黒不動とサンマ   【RIZAP COOK】

「目黒のお不動さま」は、現在の東京都目黒区下目黒三丁目の瀧泉寺りゅうせんじ(天台宗、泰叡山)境内にあります。目黒不動尊で、江戸の五色不動の一つ。家光も鷹狩りに来ています。歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」のせりふにも「金竜山の客殿から目黒不動の尊像まで」とあり、江戸の人々にとっては行動範囲の南限だったようです。

そのあかしに、境内では富くじの抽選が催されました。わざわざここまで当たりを見に来たわけです。湯島天神、谷中天満宮とともに江戸三大突き富といわれました。

この噺の爺さんがいた「爺が茶屋」がどこにあったのかは、諸説あって不明です。

サンマはその短刀に似た形から、通称九寸五分。江戸に入荷するのは、九十九里沖で獲れたものがほとんどでした。輸送の関係で生のものはなかなか出回らず、干物で売られることが多かったのです。

この噺でも、重臣たちが心配するように脂が多いものなので、労働量の多い農民や、町人でも、馬喰ばくろうなどの肉体労働者に好まれました。

「また築山を見ようか」   【RIZAP COOK】

以下は榎本滋民えのもとしげたみ(1930-2003)の『殺し文句の研究』から。

十代目金原亭馬生が好演した「目黒のさんま」をはじめとして、落語に登場する殿さまは、わがままで下情に暗く苦労知らずと、相場はきまっているが、単純に偏向した戯画化ばかりではないのが、さすがにエスプリのきいた話芸である。最高級魚の鯛など、食べあきていて、ひと箸ほどしかつけないから、勝手元不如意の節、不経済な残りを出さないように、御膳番は仕入れを少なくしている。ところが、たまには御意に召すことがあり、ひと箸つけただけで、「代わりをもて」と命じる。そんなときに限って、あいにく一匹の余分もない。近習がさそくの機転で、築山の美景の鑑賞を促し、殿さまが目をやったすきに、皿の鯛を裏返して、お代わりをと言上する。またひと箸つけた殿さま、さらに御意に召してか、また「代わりをもて」。さあ、もうあとがない。近習が苦悶していると、殿さまは涼やかに、「いかがいたした。また築山を見ようか」。ちゃんと下情をお見通しだったのである。ときには、知らないふりをしなければならないのも、統率者のたしなみの一つだし、部下の手抜きの指摘に当たっては、微笑をたたえたおうようさが好もしい。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

これは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の長男、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)のエスプリでした。さすがですなあ。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席