【干物箱】ひものばこ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
声色が天下一品の善公。
若だんなの身代わりに。
おやじを最初はだませたが。
別題:大原女 作生 吹き替え息子(上方)
【あらすじ】
銀之助は、遊び好きの若だんな。
外出を親父に禁止されている。
「湯へ行く」と偽り、貸本屋の善公の長屋へ。
借金漬けの善公、声色は天下一品。
亀清楼の宴会で銀之助の声色をしたら大ウケだった。
厠から戻った銀之助の親父が「家で留守番していろというのに、またてめえ来やがって」と、怒りだしたほどだ。
その一件を思い出した若だんな、自分が花魁に会っている間、善公に家での身代わりを頼む。
善公は羽織一枚と十円の報酬で引き受けた。
「お父っつぁん、ただいま帰りました。おやすみなさい」
と善公、うまく二階に上がりはしたが、
「今朝、お向こうの尾張屋からもらった北海道の干物は何の干物だった」
との父親の質問には
「お魚の干物です」
「青物の干物があるかい。どこに入れといた」
には
「干物箱」
と、しどろもどろ。
「干物箱? どんな箱だい」
「これは困った。羽織一枚と十円ぐらいじゃ割が合わねえ。今ごろ若だんなは芸者、幇間とばか騒ぎかよ」
などと長い独り言。
「変な声を出しやがって」
と、いよいよ親父が二階に上がってしまい、善公であることがばれる。
そこへ、忘れ物を取りに戻ってきた若だんな。
「この罰当たりめ。どこォ、のそのそ歩いてやがる」
親父のどなり声を聞いて
「はっはァ、善公は器用だ。親父そっくりだ」
底本:八代目桂文楽
【しりたい】
亀清楼 【RIZAP COOK】
安政元年(1854)創業にして現在も台東区柳橋に健在のこの店こそ、日本の近代史の裏側を見つめてきた貴重な老舗でしょう。
伊藤博文はじめ、政府高官が柳橋花柳界とともに贔屓にしたことで知られる「亀清楼」。
150年以上にもわたり、その奥座敷は歴史を左右した談合が何度も行われてきた密会場です。森鷗外の「青年」にも登場します。
ルーツは上方 【RIZAP COOK】
原話は古く、延享4年(1747)京都板の笑話集『軽口花咲顔』の「物まねと入れ替り」で、筋は現行の噺とほぼ同じです。
オチらしいオチはなく、身代わりを頼まれた悪友が親父に踏み込まれ、「こは不調法」と言って逃げた、というだけです。
別題としては上方落語版で使われる「吹き替え息子」が一般的です。
「大原女」「作生」とも呼ばれています。
「大原女」は、東京で五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやった演出に由来するものです。
「作生」とは禅問答での「作麼生」のことで、禅語で尋ねることば。
長老の禅師が若い雲水に「さあどうだ」「いかに」と矢継ぎ早に質問する時に使うわけです。
畳みかけるようなおやじの「作麼生」に、善公が苦し紛れに「説破」しようとしているさまを、禅問答に見立てているわけです。しゃれてますね。
鼻の円遊から文楽、志ん生へ 【RIZAP COOK】
明治期の東京では、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が独特のくすぐりを入れごと満載で改作し、十八番にしていました。
明治22年(1889)5月20日刊『百花園』掲載の円遊の速記「乾物箱」では、若だんなは金之助、身代わりになるのは取り巻きのお幇間医者竹庵となっています。
昭和期には八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がともに好んで演じました。ここでのあらすじは、よりスタンダードな文楽版を参考にしています。
志ん生のやり方を改めて。
文楽のものとはやや趣を違えています。
若だんなが親父の代理で出席した俳諧の運座(出席者が俳句を作り秀句を互選するサークルで、19世紀初頭に一般化)で出た、「大原女も 今朝新玉の 裾長し」の句を、親父と身代わり(善公)とのやり取りに使っています。
親父が若だんな宛の花魁の手紙を読み、自分の悪口が書いてあるのを見つけ、怒って二階へ上がるというやり方も。
【語の読みと注】
作生 さくなま 要は「作麼生」の意味
大原女 おはらめ
新玉 あらたま