【唖の釣り】おしのつり 落語演目 あらすじ
【どんな?】
もう聴けない噺です。
物語の底力に魅力横溢なので、
こちらで笑ってください。
【あらすじ】
ばかの与太郎に、釣りをする奴はばかと言われた七兵衛、思わずむっとして、殺生禁断の不忍池で鯉を密猟し、売りさばいてもうけていることをばらしてしまう。
弱みを握られ、その夜、与太郎を連れて「仕事」に行く羽目に。
そこで七兵衛、
「見張りの役人に見つかったら、どうせ4発はぶたれるから、出る涙を利用し『長の患いの両親に、精のつく鯉を食べさせたいが金がなく、悪いこととは知りながら孝行のため釣りました。親の喜ぶ顔さえ見れば名乗って出るつもりでした』と泣き落とせば、孝行奨励はお上の方針、見逃してくれる」
と知恵をつける。
ところが与太郎、あまりに簡単に釣れたので大はしゃぎ。
案の定、捕まって10発も余計にぶたれたが、教えられた泣き落としがなんとか効き、お目こぼしでほうほうの体で逃げていく。
一方、七兵衛、池の反対側でせっかくこっそり釣っていたのに、与太郎のとばっちりで見つかり、これまたポカポカポカ。
恐怖と痛さで腰が抜け、ついでにあごも外れてしまう。
とっさにこれを利用して、アーウーアーウーと身振り手振りを交えて大熱演。
役人、
「口がきけない奴ではしかたがない」
と、これまためでたく釈放。
許してつかわす、と言われて思わず
「ありがたいッ」
【しりたい】
これも上方発祥
口の不自由な者が最後に口を利くというオチの部分の原話はかなり古く、京都辻ばなしの祖とされる初代露の五郎兵衛(1643-1703)が元禄11年(1698)に刊行した『露新軽口ばなし』中の笑話「又言ひさうなもの」です。
この人は、日蓮宗の談義僧(仏教の教えをわかりやすく語る僧)の出身でした。
おしゃべりが得意だったわけです。
上方落語「唖の魚釣り」として細部が整えられ、東京には八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)に教わったものを移しました。
場所は、大阪では天王寺の池とし、東京では正蔵あたりは寛永寺の池としていますが、具体的には言わないのが一般的のようです。
正蔵は、大阪で甚兵衛といっている主人公の名を七兵衛と変えましたが、これは身振り手振りで名前が出やすいように、という配慮なんだそうです。
殺生禁断
江戸時代、寺社の池はどこも仏教の殺生戒により、殺生禁断が寺社奉行より申し渡されていましたが、上野の近辺は寛永寺の将軍家御霊屋があるため、不忍池では禁忌が特に厳しく徹底されていたわけです。
下手をすれば密漁者は死罪に処さなければならないので、番人もなるべく未遂で済まそうと警戒怠りなかったのでしょう。
蛇足ですが、松竹新喜劇の人気演目『浪花の鯉の物語』(平戸敬二作)は、やはり狩猟禁止の大坂・厳島神社の鯉の密漁騒動をめぐる人情喜劇で、あるいは落語になんらかのヒントを得ているのかもしれません。
オチが同じ「ひねりや」
正蔵も芸談で触れていますが、今はもうやり手のいない、古い江戸落語「ひねりや」はオチが「唖の釣り」と同じで、明治33年(1900)の初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909)の速記が残っています。
円左は円朝の弟子で、明治33年は円朝の没年にあたります。
あらすじは、町内一のひねり屋(=変わり者、あまのじゃく)捻屋素根右衛門が、沢庵石に注連縄を張って拝んだ結果、素根吉という男の子を授かります。
この子が成長するとひきこもりになり、本ばかり読んでいるので、親父が「明烏」よろしく、道楽をしないと勘当だと脅すので、しぶしぶ大八車で吉原へ。
これが親父まさりのひねくれで、さんざん妙なものを注文したあげく、目が三つあるような変わった花魁を出してくれたら、ご祝儀に二十両、花魁には百両はずむと言い出したので、欲にかられた帳場では目は不自由ながら耳は聞こえるという女郎を「急造」して座敷に出します。
にわか花魁、百両欲しさに目をむいて身振り手振りで大奮闘。ムームー言っているうち、女の名前を「権兵衛」と聞き違えた素根吉若だんな、喜んで百両出すと、女は感激のあまり「ああら、ちょいと、ありがとう」「おや、口をきいた」。
すたれさせるにはもったいないエスプリの利いた噺です。
時代の趨勢、「唖の釣り」同様まったく演じられません。
「唖の釣り」はもはや無理だとしても、「ひねりや」は工夫次第で復活できるかもしれません。