ぐいちかすざけひげにつく【ぐいち粕酒髭につく】むだぐち ことば

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愚人夏の虫」で出た五二(=ぐに)同様、やはり双六博打で、五一(=ぐいち)も悪い目。

三六とともに、意味のないまったくのカス目で、そこから五一三六=どっちもどっち、どんぐりの背比べという慣用句も生まれました。

しゃれとしては、ぐいちから「ぐい」と酒をあおると掛け、「カス目」から粕酒(=どぶろく)とつなげています。

最後の「ひげ」は、博打で目が出ず「ひけ(=負け)を取る」のダジャレ。

やけ酒をあおっても、口の周りや髭に、賽の目同様何の役にも立たない酒粕がくっつくだけ。踏んだり蹴ったりというところでしょう。

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そのことあわせにひとえもの【そのこと袷に単衣物】むだぐち ことば

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江戸の古いしゃれことば。

もともと、相手の意を受けて「そのこと、そのこと」と、大賛成という意向を即座に伝えるものです。

それを重ねことばとせず、着物でしゃれているわけです。

「そのこと」は「布子ぬのこと」という地口。

布子は綿入れになった木綿の生地。

それを二枚重ねに縫って秋冬用のあわせにし、夏用には一枚で裏地なしのひとえものにします。

もう一つ、「ことあわせ」は「事合わせ」で、万象のリズムがよく合うこと。

動詞で「こと合う」などとも言います。

これで、相手への同意と、同時に「合わせ=袷」でダブル、すなわち「そのこと」の反復をも示すわけです。

なかなか手が込んでいます。

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そうそうへんじょうあまつかぜ【早々返上天津風】むだぐち ことば

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「すぐにお返しします」というだけの実です。

名前と自慢の和歌を、後世の江戸の町人どもにもてあそばれた、お気の毒な例。

僧正遍昭そうじょうへんじょうの代表歌「あまつ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」(古今和歌集)は「百人一首」の一首で、江戸時代の人々には親しまれていました。

僧正遍昭は六歌仙の一人。

出典をいくつか見ると、どうやら盃のやりとりのときのむだぐちのようです。

相手に盃をさされて「はい、それでは早速ご返杯」と、今でもよくみられる光景です。

特に歌の文句と関連はないようですが、もし「吹き閉じよ」「お止め」で、「はい、もうこれ切り。後の盃はご辞退申します」という心を含ませているのなら、なかなかのしゃれ者です。

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そうかもんいんのべっとう【そうか門院の別当】むだぐち ことば

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江戸のだじゃれの典型です。人物名の音からの勝手きままな連想です。

相手の言葉に「そうか」と、直接自分で反応しているとも取れます。

これもダジャレで、元は「皇嘉門院別当こうかもんいんのべっとう」。

この人物は本名、正没年月日未詳で、平安末期の女流歌人。

百人一首に選ばれた「難波江なにわえの あし仮寝かりねの ひとゆゑ 身を尽くしてや 恋わたるべき」がよく知られています。

むだぐちとの直接な関連はなく、ただ名前を借りられただけでしょう。

ここでも「百人一首」からの拝借です。

「そうかもんいん」は、「そうか、もういい」のダジャレがプンプンにおいます。

「別当」は、ずばり「べっかっこう」(あかんべえ)の、これまたダジャレでしょう。

名前をいいようにおもちゃにされています。

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そういやそうれんぼうずがぼってくる【そういや葬礼坊主が追ってくる】むだぐち ことば

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「そう」という返事をさらにまぜっ返したしゃれです。

「そう」と「葬礼」を掛け、葬式に付き物の坊さんを出したもの。

締めくくりに「ぼうず」から「ぼって」と、頭韻でことばのリズムを効かせています。

「ぼってくる」は「追ってくる」で、愛知県の方言。むだぐち自体がこの地方のローカルでしょう。

「ぼって」はあるいは、お布施を「ぼる」、高く搾り取るの意味も掛けているのかもしれません。

類型としては、「坊主」以下の代わりに「葬式饅頭うまかった」と付けることも。

このフレーズはいまも生きていますね。

これだといっそうバチ当たりになりますが、「そう」を三回続けることできれいに頭韻がそろい、より快いリズムになっています。

「そう」の揚げ足取りでは、同じ愛知県の「そういやそういやおかっつぁま」も。

さらには、「草加越谷千住の先だ」「そううまくは烏賊の金玉」など、それこそ無数にあります。

「草加……」は江戸近郊の地名でしゃれたもの。

後者は「いかない=烏賊」で、烏賊には金玉がないことから。子供の悪じゃれです。

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すこしおそしどう【少し御祖師堂】むだぐち ことば

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「遅い(遅し)」と「お祖師」を掛けただけの、きわめて単純明快なしゃれことば。

前後の会話の流れで、相手の遅れを軽くとがめたり、逆に自分が遅れた(遅れる)と告げる場合があります。

「お祖師さま」は、日蓮宗の信者が多かった江戸では宗祖の日蓮や同宗派の寺院をさします。

「堀之内のお祖師さま(妙法寺)」などが著名です。

単に「祖師堂」という場合には、広く各宗派でそれぞれの宗祖の業績を記念した尊像や位牌などを安置している堂宇(広くは寺そのもの)をさします。

中でも禅宗の始祖達磨(円覚)大師を祀った祖師堂をいう場合が多いのです。

江戸の町では、「祖師」といえば「日蓮」とすぐに連想がいきますから、「ああ、日蓮のね」とすんなり胸に落ち着きす。

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しくじっぴょうごにんぶち【四九十俵五人扶持】むだぐち ことば

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将棋のむだぐちです。

「しくじった」というのを「じった」から「じっぴょう」ともじり、俵取りの御家人の「十俵五人扶持」という安サラリーに掛けています。

意味としてはこれがすべてですが、細かく見ていくと、まだいくつかしゃれが隠れています。

「しく」で「四九」→「四苦八苦」を効かせ、八苦よりもさらに重い「十苦」→「重苦」の心で、最下級の侍、御家人の俸禄「十俵」を出します。

実は「十俵」自体、「失注しっちゅう(受注に失敗する)」または「失敗」のしゃれになっているので、なかなか手が込んでいます。

いずれにせよ、たかがヘボ将棋でおおげさなことで。

「十俵五人扶持」は年間支給蔵米分十俵+扶持米分で、計三十五俵相当。

幕末の相場では、およそ十二両と一分です。

町奉行所同心が三十俵二人扶持で四十俵+袖の下、大工の熊五郎でも、腕がよくて飲む打つ買うさえ控えれば、年間収入十三両くらいはいきます。

まあ、暮らしはなんとかカツカツといったところでしょう。

で、しゃれに戻ります。

最後の「五」はというと、ただの付けたりで済ますよりは、五=悟で、ぶちぎりの負けを悟ったり、とでも考えておきますか。

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すったこった【すったこった】むだぐち ことば

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「すべったころんだ」を短縮したものです。

「すぺったころんだ」「すべったりころんだり」とも。

愚痴や言い訳めいたつまらない繰り言を、いつまでもぐずぐず並べ立てること。

似た音形のことばに「すったもんだ」があり、これを「すったこった」と同じ意味とする説もありますが、疑問です。

「すったもんだ」は「擦った揉んだ」で、複数の人間が一所に集まって揉めること。

無理に関係を付けるとしたら、すったこったと世迷い言を並べる連中が複数集まると、必然的にすったもんだとけんかになるということでしょう。

下の動画は、宮沢りえを起用した「CANチューハイ」(宝酒造)のCMです。

1994年に放映されましたが、貴乃花と宮沢りえの婚約破棄騒動は生々しく、これより少し前の話題でした。

1992年11月、二人は婚約を発表したのですが、翌年1月には破棄へ。

このCMが放映された94年は我々の記憶も新しかったため、「すったもんだ」の掛けことばが生きたのです。

たちまち耳目となり、「すったもんだがありました」はこの年の新語・流行語大賞にも選ばれました。

すりおろしリンゴのチューハイとあの二人の珍騒動がうまくかけ合わさり、私たちに強烈なインパクトを与えてくれたものです。

どこか言い知れぬ闇を抱えたあの騒ぎの劇場的な後始末を、宮沢りえは見事に演じてくれたように見えました。

こんな形のなおらいもあるんだな、と。

タカラCanチューハイ(1994年)。宮沢りえの「すったもんだがありました」は新語・流行語大賞に

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すまないのじろうなおざね【済まないの次郎直実】むだぐち ことば

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「済まない」と「くまがい(熊谷次郎直実)」を無理に掛けただけのダジャレ。

よく注意すると、これと同レベルのダジャレがもう一つ潜んでいます。

1184年3月20日の少年惨殺事件の犯行現場、「須磨の浦(すまのうら)」と「すまない」。

油断も隙も敦盛です。

「くまがい」のままでは、いくらなんでもわかりません。

一度ダジャレで崩して「済まない」として初めて浮かび上がってくるという、凝ったといえば凝った代物です。

もう一つ。

「済まない」は、本来は「許せない」「納得できない」の意味もありますから、前後でどういう状況を受けて言っているかによって、怒っているのか謝っているのか、解釈も変わってきます。

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しょうしんしょうめいけぶけちりん【正真正銘けぶけちりん】むだぐち ことば

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席 正真正銘間違いなし、混じりっけなしの本物というのを、江戸っ子特有の大げさな軽口で強調したものです。 このあとに、普通は「現金掛け値なし」と続けてダメを押します。 「けちりん」は「毛一厘」が縮まった形。 否定、打ち消しをともなって「毛筋ほどの不純物もない」と、これも強調、アピール。 「けぶ」は不明ですが、「九分九厘」のしゃれでしょうか。 現金掛け値なしは、元禄年間(1688-1704)に日本橋の三井越後屋呉服店が始めた画期的な新商法。 一切の情実的な値引きをせず、公明正大に正札=正価のみで販売というもので、これが江戸のみならず全国的な評判を呼び、大繁盛。 のちの大財閥の礎を築きました。 転じて、「掛け値なし」が太鼓判、間違いなしという慣用語に。 同様の表現は、「金箔付きんぱくつき」「極め付き」「極印付ごくいんづき」「極印を打つ」「極め印付き」「正札付しょうふだつき」など、さまざまです。

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じゃまにならのきむくろんじ【邪魔に楢の木椋ろんじ】むだぐち ことば

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一見すると「邪魔になる」というだけのむだぐち。

「なる」と「なら」を掛けているわけです。何回か口に出して唱え、ことばのリズムを味わうと、自然にもう一つダジャレが隠れていることがわかります。

「じゃまに」と「山に」です。

最後の「椋ろんじ」。これがなかなか難物です。

辞書を引いてみれば、「むくろんじ」はムクノキ。落葉樹で、皮または実を煎じるとぶくぶく泡が出て、シャボン玉の液に。

「茶の湯」で、隠居が煎茶の泡を出すのに、青黄粉といっしょにぶち込んだのが、これでした。

木自体はなんの変哲もなく、「むくろ(ん)じは三年磨いても黒し」という諺から「進歩がない」ことのたとえでした。

「あってもさして役に立たない、うどの大木」ということで「邪魔」とつなげたと思われます。

考えてみれば、ほとんど愚かしいダジャレばかりのむだぐちに、しかつめらしい解釈などは本来、ヤボの極み。

遊び心という視点では、これはなにとなにを掛けて後にどうつなげているのか、謎解きのようなおもしろさがあるのもまた確かなのですが。

そこで、引っかかった「椋ろんじ」について、木だけに掘り返してみます。以下は、筆者(高田裕史)の私見です。

結論をいえば、これは「むぐらもち」のダジャレ。あの「モグラ」のことです。

ではなぜか。答えは、安政4年(1857)初編刊の滑稽本『妙竹林話七偏人』(梅亭金鵞作)に隠れていました。「山椒味噌まであればよい」と。

『七偏人』の主人公は七人の侍ならぬ七人の遊冶郎(=放蕩野郎)。なにかといえば七人が雁首そろえ、遊ぶことしか頭になし。

この連中が好むのは茶番です。

江戸中あっちこっちで野外芝居の趣向をこしらえ、最後にタネあかしで見物人をあっと言わせるのが生きがい。

で、今日も今日とて、ああだこうだとむだぐちを叩きあいながら、相談に余念あリません。その一人、虚呂松(きょろまつ)が、演出に熱が入りすぎて腹が減ったと七輪で餅を焼き始めます。

いわく「不器ッちやうに大きな網で、土俵のそとへ二、三寸はみ出すから」。……以下、「邪魔に楢の木」と、このざれぐち。

この男、でっぷり太って大食い。

キーワードは「餅」とわかります。

そこで「むぐらもち」→「モグラ」は太っている人のたとえだと。おまけに「もち」が出ます。

最後の「山椒味噌」。山椒の実が丸くてごろごろしているところから「ころり山椒味噌」。

これも大食い、肥満の異称です。

餅網が大きすぎ、七輪という土俵からふくれた餅がはみ出してコロコロリ。

「味噌でもつけて食っちまおう」というところ。

これで「むくろんじ」→「むぐらもち」のつじつまがどうにか合いました。

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しかられたんぼのしいなぐさ【叱られ田圃のしいな草】むだぐち ことば

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叱られてしょげているようすをからかったむだぐちです。

同じ形のしゃれに「心得たんぼ」があり、ともに語尾の「た」を「田んぼ」と掛けているだけ。

「しいな草」は萎れて実の入っていない草木や籾殻で「しおれ草」とも。落ち込んでいる精神状態を萎れた草にたとえたものです。

もう一つ、田んぼの「ぼ」は「坊」を効かせた可能性があります。

そうなると、「叱られん坊」「叱られた子供(男の子)」の意味が加わることになります。

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たまげたこまげたあずまげた【たまげた駒下駄東下駄】むだぐち ことば

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たまげた(=肝をつぶした)というのを、「げた」から駒下駄、東下駄と下駄尽くしでしゃれただけです。

脚韻を「げた」でそろえていて、口にするといいリズムです。

駒下駄は、爪先部分が馬蹄ばていのように丸くなっているもの。音が色っぽいところから、吉原通いの通人つうじんなどにも好まれました。

東下駄あずまげたはご婦人用で、畳表を張った薄歯の履き物。寛永年間(1624-44)に吾妻あずまという源氏名の花魁おいらんが履き始めたところから、こう呼ばれました。

江戸時代後期には、もっぱら色里の女や、男でも遊び人だけが履くものとされました。

別名日和下駄によりげた

晴れた日専用の下駄で、永井荷風の同名の東京探訪ルポ『日和下駄』でも知られています。

しゃれフリークの筆者(高田)としては、これだけでは物足りないので、「たまげた、こまった、ひょろげて(→ひよりげた)おつむ(→あずま)をぶっつげた」とでも悪ノリしておきます。

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ばけものつかい【化け物つかい】落語演目

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【どんな?】

使い方の荒い男の噺。
権助ばかりか化け物まで。
こき使っちゃったりして。
モーレツにすごいです。

【あらすじ】

田舎から出てきた、意地っ張りの権助ごんすけ

日本橋葭町よしちょう桂庵けいあんから紹介された奉公人の口が、人使いが荒くて三日ともたないと評判の本所の隠居の家。

その分、給金はいいので、権助は
「天狗に使われるんじゃあるめえし」
と、強情を張って、その家に住み込むことに。

行ってみると、さすがの権助も度肝を抜かれた。

今日はゆっくり骨休みしてくれと言うので、
「なんだ、噂ほどじゃねえな」
と思っていると、その骨休みというのが、薪を十把じっぱ割り、炭を切り、どぶをさらい、草をむしり、品川へ使いに行って、
「その足でついでに千住に回ってきてくれ。帰ったら目黒へ行って、サンマを買ってこい」
というのだから。

しかも、
「今日一日は骨休みだから、飯は食わせない」
ときた。

それでも辛抱して三年奉公したが、隠居が今度、幽霊が出るという評判の家を安く買いたたき、今までの家を高く売って間もなく幽霊屋敷に引っ越すと聞かされ、権助の我慢も限界に。

化け物に取り殺されるのだけはまっぴらと、隠居に掛け合って三年分の給金をもらい、
「おまえさま、人はすりこぎではねえんだから、その人使え(い)を改めねえと、もう奉公人は来ねえだぞ」

毒づいて、暇を取って故郷に帰ってしまった。

化け物屋敷に納まった隠居、権助がいないので急に寂しくなり、いっそ早く化け物でも現れればいいと思いながら、昼間の疲れかいつの間にか居眠りしていたが、ふと気がつくと真夜中。

ぞくぞくっと寒気がしたと思うと、障子がひとりでに開き、現れたのは、かわいい一つ目小僧。

隠居は、奉公人がタダで雇えたと大喜び。

皿洗い、水汲み、床敷き、肩たたきとこき使い、おまけに、明日は昼間から出てこいと命じたから、小僧はふらふらになって、消えていった。

さて翌日。

やはり寒気とともに現れたのはのっぺらぼうの女。

これは使えると、洗濯と縫い物をどっさり。

三日目には、、やけにでかいのが出たと思えば、三つ目入道。

脅かすとブルブル震える。こいつに力仕事と、屋根の上の草むしり。

これもすぐ消えてしまったので、隠居、少々物足りない。

四日目。

化け物がなかなか出ないので、隠居がいらいらしていると、障子の外に誰かいる。

ガラっと開けると、大きな狸が涙ぐんでいる。

「てめえだな、一つ目や三つ目に化けていたのは。まあいい、こってい入れ」
「とんでもねえ。今夜かぎりお暇をいただきます」
「なんで」
「あなたっくらい化け物つかいの荒い人はいない」

    
底本:七代目立川談志

【しりたい】

明治末の新作  【RIZAP COOK】

明治末から大正期にかけての新作と思われます。

原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「ばけ物やしき」や、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「化物屋敷」などとされています。

興津要は、『武道伝来記』(井原西鶴、貞享4=1687年刊)巻三「按摩とらする化物屋敷」としています。

桂庵  【RIZAP COOK】

江戸時代における、奉公や縁談の斡旋業で、現在のハローワークと結婚相談所を兼ね、口入れ屋とも呼びました。

日本橋葭町には、男子専門の千束屋ちづかや、大坂屋、東屋、大黒屋、藤屋、女子専門の越前屋などがありました。

名の由来は、承応年間(1652-55)の医師・大和桂庵が、縁談の斡旋をよくしたことからついたとか。

慶庵、軽庵、慶安とも。

転じて、「桂庵口」とは、双方に良いように言いつくろう慣用語となりました。

名人連も手掛けた噺  【RIZAP COOK】

昭和後期でこの噺を得意にした七代目立川談志は、八代目林家正蔵(彦六)から習ったといいます。

その彦六は同時代の四代目柳家小さんから移してもらったとか。

いずれにしても、柳派系統の噺だったのでしょう。

昭和では七代目三笑亭可楽、三代目桂三木助、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝も演じました。

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しからばごめんのこうむりばおり【然らば御免の蒙り羽織】むだぐち ことば

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武士の武張ぶばってする「しからば御免をこうむって=それでは、お言葉に甘えて失礼いたす」という挨拶を芝居などで町人が覚え、むだぐちにしたもの。

気取った言い回しなので、将棋の対局中にも、あるいは、酒の席などでも使われたことでしょう。

推測ですが、「こうむり」は「かぶり」に転化し、羽織を含め、着物をはしょって頭からかぶるラフな着方があるため、最後に羽織を出したのかもしれません。

もう一つ、「かぶる」は「かじる」の意味の同音異義語があるので、そこから「歯→はおり」としゃれたという見立てはどうでしょう。

いや、いくらなんでも、むだぐちでそこまで考えてはいませんね。

ことばというのは生き物ですから、人が意図しなくても、自然に暗号めいた符合が付いてしまうことが、よくあるものなのです。

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さましてたんとおあがり【冷ましてたんとお上がり】むだぐち ことば

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わざとらしくおだてられたとき、「なんとでもお言い、せいぜい冷やかしなさい」と拗ねた言い返し。

本気でむくれている場合と、からかっちゃあいけねえと多少照れて言う場合があります。

「冷やかすな」の逆表現で、「茶でも酒でも冷やしてお飲み」というアイロニー。

これは天明期(1781-89)ごろの、遊里の色模様を扱った洒落本によく出典が見られるので、やはりそちら方面の通言が出自でしょう。

いかにも、客か花魁が痴話げんかのときに使いそうな、むだぐちです。

「茶にする」「酒にする」は、茶化す、からかう意味があり、「冷ます」自体にも「けなす」「悪く言う」という用例があるので、かなり微妙な思惑も含まれていそうです。

第二の意味として、惚気けられたときに「ごちそうさま」と突き返す意味でも使われました。

別表現に「冷まして食え」などがあります。

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さんすけまったり【三助待ったり】むだぐち ことば

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三助とは、湯屋の窯焚き、あるいは、商家に雇われた飯炊きの奉公人。

ともに火を扱う仕事だけに、バタバタしやすいことから、「そんなにあわてず、落ち着いて待ちなさい」という意味の日常語となったものです。

そこからニュアンスを違えて「おっと待った、そうはさせない」とも。

こちらは将棋で、相手を牽制するむだぐちになるでしょう。

寛政年間(1789-1801)頃の流行語です。

元は「三助舞ったり」で、これは、からくりの玩具で獅子を舞わせるときの掛け声。

「獅子の洞入、洞返り、三介舞(待)ったり三介舞(待)待ったり」などと囃すもの。

これはお座敷芸でしょうが、大道芸の可能性もあり、どちらかはよくわかりません。

この掛け声自体、からくりの獅子がふらふら危なくて落ちそうなので、落ち着けということで「待ったり」と掛けているのかもしれません。

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しかたなかばしかんだばし【仕方中橋神田橋】むだぐち ことば

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「しかたがない」というのと、江戸の中橋を掛けたダジャレ。橋づくしで調子を整えるため、神田橋を出したものです。

中橋は、江戸時代初期まで、日本橋と京橋の中間に掛かっていた橋。

中央区日本橋三丁目と京橋一丁目との境、中央通りと八重洲通りが交差するあたりといわれますが、明暦年間(1655-58)にはもうなくなっていました。

その記憶だけが長く残り、もうとっくに「ない」というところから、「おぼしめしは中橋か」「気遣いは中橋」など「ない」というしゃれによく使われました。

江戸歌舞伎の始祖、中村勘三郎座が寛永元年(1624)に初めてこの橋のたもとで興行したことでも知られます。

神田橋の方も、「なんだかんだでしかたがない」というしゃれが考えられますが、さすがにうがち過ぎかも。

むしろ勘三郎の「勘」と神田の「神」のしゃれを考えた方がまだましそうです。

「しかたない」のほかのむだぐちでは、「仕方(地方、じかた=田舎と掛けた)はあっても親類がない」などがあります。

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さらになしじのじゅうばこ【更に梨地の重箱】むだぐち ことば

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「まったくない」「さらさら(さらに)」ない」のしゃれです。

状況によっては、「(その気は)まったくない」と、すっとぼけて否認するニュアンスにもなりそうです。

ことば遊びとしては、まず「皿」と、強い否定を導く副詞の「さらに」を掛け、皿から梨皿で「梨」を、梨から「無し」としゃれの連鎖。

さらに、梨からダメ押しで梨地の蒔絵の重箱を出したもの。

梨地は、梨の実の表面を模し、細かい点を散らした模様。

金と漆を用いた豪華な重箱に珍重されるデザインです。

そこから「重箱の隅をつっついても、なににも出ない」となります。

もう一つ、「重箱」には、遊里の隠語で、「幇間と芸者が花代や揚代を二重取りしてだまし取る」意味も。

そこから「重なる」という意味を効かせ、「さらにさらに」という否定の強調をも付け加えています。

むだぐちもこうなると、なんとも凝りに凝った言葉のタペストリーになりますね。

これでとぼける意味を加味すると、またまた「梨」から「木」→「気」のしゃれが加わり、「蒔絵」からは「まく」=だます→重箱=横領へと、際限なくことばのラビリンスが広がります。

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きたりきのじや【来たり喜の字屋】むだぐち ことば

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「ほいきた」「待ってました」というおちゃらけ。

「来」と「喜」、さらにおそらく「気」も掛けていて、遊客が、惚れている芸者やお女郎がやっと来たので、「やれ嬉しや」というところ。

「喜の字屋」は、吉原で仕出し料理屋の総称だったので、貸し座敷で料理を待ちかねた心あったでしょう。

この屋号は同時に、江戸三座の一つである守田座の座主、守田勘弥の屋号でもありますが、関係ははっきりしません。

「き」「き」という頭韻を踏んだ、リズムのいいしゃれたことばですね。

似たむだぐちに「来たり喜之助」があリます。

その名に特別な意味はなく、「き」の韻を整えるだけのもの。

この名はさまざまに転用され、天明5年(1785)刊の黄表紙『江戸生艶気樺焼』の北利(北里)喜之助、落語では「九州吹き戻し」の、名前もそのままの「きたり喜之助」が知られています。

「待っていた」という意味のむだぐちはほかに「来たか越後の紺がすり」「北山の武者所」など。

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きみょうちょうらいやのわかだんな【奇妙頂礼屋の若だんな】むだぐち ことば

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「奇妙」は現代語のニュアンスとは少し異なり、「不思議な」「珍しい」「趣があっておもしろい」の意。

「奇妙頂礼」は仏教用語の「帰命頂礼」のしゃれ。

「帰命頂礼」は仏に心から帰依すること。「帰依」とは仏にすべてを捧げること。

サンスクリット語「ナマス(namas)」の漢訳。「南無」は音訳です。「南」や「無」には意味がありません。

おしなべて古語は、音から推しはかるべきもので、文字から推測すると徒労に終わることが多いものです。

そんなわけで、帰依と南無は同義となります。

もっと具体的にいえば、「帰命頂礼」とは、頭を地面につけて礼拝し、仏に帰依する意思を伝えることです。さらに、仏を礼拝するときにとなえる文言ともなります。

「帰命」は「南無」の漢訳語です。「頂礼」は頭を地面につけて仏の足もとを拝む礼法をさします。ということは、「帰命」も「頂礼」も仏に従うという意味では同義となります。

そんなところから、信仰の証の唱え文句となったのですね。

世俗化した「奇妙頂礼」は、「恐れ入った、感服した」のニュアンスが強くなりまました。

さらには、「若だんな」と付けておどけ、ダメ押しに「よっ、妙で有馬の人形筆ェ!」などと囃したりもしました。

帰命到来屋の若だんな、よっ、妙で有馬の人形筆ェ!

ここまでくると、江戸語っぽくなっていますね。

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きがもめのおふじさん【気がもめのお富士さん】むだぐち ことば

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「気がかり」の意味のしゃれことば。「きがもめ」と地名の「こまごめ」を掛けているだけです。

「お富士さん」は駒込富士神社(文京区本駒込)のこと。江戸時代には富士信仰のため登山する「富士講」が組織されていました。

実際に富士詣りに行けない善男善女のため、最初、本郷の地に富士の形を模した築山を築き、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)から木花咲耶姫このはなさくやひめ勧請かんじょうして創建。

これが戦国末期、天正元年(1573)のことでした。

その後、寛永5年(1628)頃に現在地に移転して、今も参詣が絶えません。別にやはり駒込の、八百屋お七で名高い寺を出して「気がもめの吉祥寺」とも。つまり、語呂がよければなんでもよかったわけ。

「安芸の宮島廻れば七里」で参照した出典は、天保10年(1839)初編刊の人情本『閑情末摘花かんじょうすえつむはな』」(松亭金水しょうていきんすい作)。その中で、「安芸の……」に続けて、情夫まぶとの仲が冷えるのを心配したお女郎が「気がもめのお富士さんざますよ」とこぼすセリフがありました。

天保10年という年は三遊亭円朝が生まれた年にあたります。近代の萌芽です。

このむだぐち発祥の地、駒込富士神社。現在も敬虔な「江戸っ子」が境内で富士登山に励む

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かっちけなしのみありのたね【忝け梨の実ありの種】むだぐち ことば

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「かっちけなし」は「かたじけなし」の江戸なまりで、「ありがたい」の意。語尾の「なし」を梨の実に掛け、さらに、梨が「無し」に通じてみことばなので「有りの実」と呼ぶことから「ありがたい」としゃれています。

最後の「種」は「実」の縁語えんごでダメを押したもの。単なる感謝の意味を、二重三重に言葉遊び化してちゃかしているところに、江戸東京人のシャイかげんがうかがえます。

同義の表現に「かたじけなすびの香の物」「かたじけなすびのしぎ焼き」があります。こちらは「なし」を茄子なすとその料理法に掛けたしゃれですね。

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おみかぎりえじのたくひのよはもえて【お見限り衛士の焚く火の夜は燃えて】むだぐち ことば

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お見限りはご無沙汰、お見捨ての意。それを、平安時代に禁中の諸門を警備した「御垣守みかきもり」の衛士えじ(兵士)と掛けています。

「焚く火の…」以下は、この衛士が夜通し松明たいまつを焚いて詰めたことから。10世紀末成立の『蜻蛉日記かげろうにっき』に「火などちかき夜こそにぎははしけれ」「衛じのたくひはいつも」とあるのが元ネタ。

実は「お見限り」は、なじみの遊郭に不義理をし、しばらくぶりに登楼した客に、皮肉混じりに言われる言葉。だからこそ、その夜の「火は燃えて」は、何やら意味深長なわけですが。

と書いてきましたが、じつはこの歌、「百人一首」のうちの一首です。江戸時代には『徒然草つれづれぐさ』と「百人一首」はかなり幅広い階層に共有された教養だったので、落語でもよく引き合いに出されます。

御垣守 衛士の焚く火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ

詞花集しかしゅう 大中臣能宣おおなかとみのよしのぶ

皇居の御門を守る警護の者の焚くかがり火が夜は燃え昼は消えるように、私も夜は興奮勃起して昼はぐんにゃり萎えて心は物思いをすることだ。かがり火に、恋に身を焦がすわが身を重ねて詠んでいるところがミソです。

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おっとよしべえかわのきんちゃく【おっと由兵衛革の巾着】むだぐち ことば

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今でもたまに使われる「おっと合点承知之助」と同じで、「よしわかった」「万事呑み込んだから心配ご無用」の意味。

由来は歌舞伎種で、「良し」と梅の由兵衛(大坂の侠客)を掛けたものです。

由兵衛は本名を梅渋由兵衛といって、元禄2年(1689)に大坂千日前でお仕置きになった殺人犯。

これをモデルに並木五瓶が書いて、寛政8年(1796)に俗称『梅の由兵衛』として劇化されました。

主人公が女房小梅の弟長吉を殺し、革の巾着を奪う場面に掛けてしゃれています。

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いのちをとびたのいしやくし【命を飛田の石薬師】むだぐち ことば

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これは飛田という地名から、上方種のしゃれで、ただ「命が飛んだ」→「命を落とした」の意味に過ぎません。

『新版ことば遊び辞典』(鈴木棠三編)によれば、由来としては元禄年間(1688-1704)刊の『好色由来揃』にある故事からだそうです。

それによると、物乞いの拾った財布を横取りしたお女郎が、その報いではずかしめを受け、それを恥じて飛田(大阪市天王寺区)の石薬師に願をかけて後生を祈り、ついには断食して餓死した、ということです。

悲しい物語ですが、少し気になる話筋でもあります。

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ききにきたののほととぎす【聞きに北野の時鳥】むだぐち ことば

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「時鳥の声を聞きに来た」というのと、北野の天満宮の「北野」を掛けたしゃれに過ぎません。

「聞き」は、動詞の連用形が名詞化して「評判」という意味もあるので、「北野で名高い時鳥の噂を」という意味も含んでいるでしょう。

北野天満宮(京都市下京区)旧一ノ保社いちのほしゃは、かつて時鳥ほととぎす篇額へんがくを掲げていたため、「時鳥天満宮」の異名、「安楽寺天満宮」と称されて、神仏習合の施設でした。

寺と神社のごちゃまぜです。

天神社の縁起によると、北野の神殿には木彫りの時鳥があり、いつも奇声を上げていたとか。

一ノ保社の社殿が全焼した文安元年(1444)の「麹騒動」の際、木彫りの時鳥がこずえに止まって鳴くという奇譚がありました。

麹騒動とは、麹づくりをなりわいとする同業者の仲間の権利を巡るひともんちゃく。

この権利の仕切り役は天満宮の北野神人でした。神人じにんとは神社で働く人。麹室での麹づくりにからむ免税や独占製造権など、ここは金づるでした。

応永26年(1419)、幕府は北野神人に麹づくり特権を認めていました。

以来、別当の安楽寺が神仏分離令(廃仏毀釈)で明治元年に廃寺となるまで、時鳥の扁額は火災、疱瘡除ほうそうよけの霊宝とされ、毎年旧暦6月15日にかぎって開帳されていました。

まあ、以上、なんだか要領を得ない話ですが、時鳥がこの社の特別な名物だった由来は、なんとなくわかります。

北野天満宮ですから梅が名所。梅にうぐいす、といきたいところなのに、ここはほととぎすとなります。

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おかしいのみがひとふくろ【おか椎の実が一袋】むだぐち ことば

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これも単なるダジャレで、「おかしい」の「しい」と、椎の実とを掛けたに過ぎません。

椎の実(どんぐりの実)は、今では虫が湧くというので、ほとんど食用にはしませんが、貧しく飢えていた江戸時代の子どもたちには恰好のおやつでした。

黒文字で「しいのみ」と書かれた袋に入れ、「たんばほおづきしいのみひとふくろしもん(丹波鬼灯椎の実一袋四文)」と呼ばわって売り歩いていたそうです。

子供の遊びの中から生まれた慣用句なのでしょう。

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きんのしたにはふのくだゆう【金の下には歩の九太夫】むだぐち ことば

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これもまた将棋のむだぐち。「寝返ったな」という意味が込められています。

「歩の」から「斧九太夫」の「おの」に掛け、縁の下から覗く寝返った九太夫のさまを「金の下」に掛けているのですが、忠臣蔵のこの段がわからないと、まったく意味不明な難解むだぐちになって、使いようもありません。

意味そのものはあらかたのむだぐち同様、たいしたものではありません。

『仮名手本忠臣蔵』の「七段目 祇園一力茶屋の場」で、敵の高師直方に寝返った、もと塩冶家の次席家老、斧九太夫。大星由良之助が遊蕩にふけっている祇園の茶屋に、その真意を探るべく潜入してきます。

その九太夫、縁の下に隠れ、大星の手紙を盗み見。その場面で義太夫が語る、「縁の下には九太夫が、くりおろす文、月かげに、すかし読むとは神ならず、ほどけかかりし、おかるがかんざし」という章句のもじりがこれです。

そういうわけなので、この場合、自分の金の後ろにあるのは、敵がパチリと投入した、「寝返った」歩なのでしょう。

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きんかくではいけんならばいいつてがある【金角で拝見ならばいい伝手がある】むだぐち ことば

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金閣寺と金角のしゃれ。

毎度おなじみ、将棋のむだぐち。

金と角で攻めている(または攻められている)ときのものか、あるいは「拝見」から、手駒を見せてくれと言われた場合の反応か、具体的に詳しい状況は不明です。

元は『仮名手本忠臣蔵』九段目「山科閑居の場」の、大星の女房お石のセリフそのまま。

娘の小浪を、婚約中の大星の嫡男力弥と祝言させる談判に、はるばる鎌倉から訪ねてきた加古川本蔵の後妻、戸無瀬。

応対に出たお石はもとよりその気はなし。

はぐらかすように親切ごかしに「祇園清水知恩院、大仏様ご覧じたか。金閣寺拝見ならば、よい伝手があるぞえ」。

ということで、戸無瀬ともどもお疲れさま。

金角のむだぐちはほかに「金閣寺の和尚さま」「金角寺の和尚さま」などがあります。

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かくなりはつるはりのとうぜん【角なりはつるは理の当然】むだぐち ことば

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「かく=このように」と駒の角を引っ掛けた将棋さしのむだぐち。

「やっぱり、角が龍馬に成ってしまったか」というくらいの意味。

これは成った方か成られた方か、どちらのことばとも取れます。

角に掛けた将棋のむだぐちは多く、「角なるからは是非もなし」「角なり果てる身の因果」「角道の説法屁一つ」など。

最後のは「百日の説法屁一つ」のもじりで、たった一手のミスが命取りという勝負事の怖さ。

もう一つ、「角とだにえやは伊吹のさしも草」。これは藤原実方ふじわらのさねかたの「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」の上の句をそっくりいただいたもの。

「さし=指し」で、相手がそう来るとは知らなかった、という意味でしょうが、これは、和歌の知識がないと言えないかもしれません。

「百人一首」の一首です。

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かまわずともよしのくず【かまわずとも吉野葛】むだぐち ことば

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桜の名所の「吉野」と「よし=かまわない」を掛けたしゃれで、ご当地のもう一つの名産の葛粉を付けています。かまわないからほっておいてくれ、の意味。

「吉野葛」の代わりに「吉野木」とも。どちらも出典は明和7年(1770)刊の洒落本『遊子方言』なので、出自は遊里からでしょう。

もっとおどけて「おっとよしの木かしわの木さるすべり」と言うことも。

「吉野」が付くことばは無数にあるので、類似の言い回しはもっと多いかも知れません。

吉野の縁では、「青菜」の「義経にしておけ」も同意。

「かまわず」のしゃれの方は、上野の不忍池をもじった「かまわずの池」があります。

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おそれいりやのきしぼじん【恐れ入谷の鬼子母神】むだぐち ことば

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現代でも辛うじて生き残っていて、もっとも有名なむだぐちでしょう。

「恐れ入りました」と地名の「入谷」を掛け、そこから現地の鬼子母神を出したもの。

ここでは雑司が谷のそれではなく、台東区入谷の真源寺(法華宗本門流)の鬼子母神堂。

それでなければ、ダジャレが成り立ちません。

「恐れ入り」のしゃれはこのほかにも数多く、「入相」「煎り酒」「入谷の七合神」「入山」「入山形」「入山三了」「恐れ久松」「恐れ山猫」「恐れちゃんちき茶の袴」と、あげたらきりがありません。

最後に極めつけは、安政4年(1857)初編刊、梅亭金鵞の滑稽本『七偏人』から。「大酩酊に及んで、恐れ入谷の霜のもみぢば真赤にならの八重桜、池田いたみのお酒の香りが、京九重に匂ひぬるかなッ」。

なんともはや。

米テレビドラマ『0011 ナポレオン・ソロ』に相方で活躍するイリヤ・クリヤキン役のデビッド・マッカラムが女性にすごい人気でした。

「恐れいりやのクリヤキン」などと地口ってました。

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かかとがずつうやんであたまへせんきがのぼる【踵が頭痛病んで頭へ疝気がのぼる】むだぐち ことば

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とうていあり得ないことをコミカルにむだぐちにしたもの。

不可能を表すたとえは「煎り豆に花」「石が流れて木の葉が沈む」などがありますが、なんでもありのご時節、踵が頭痛病むくらいでなければ、誰も驚かないでしょう。

五代目古今亭志ん生の小咄に、胴と足が別々のところに奉公して……というのがあります。

落語こそ、動物はおろか、ナマ首まで口をきき、自分の頭の池に飛び込む異次元世界です。

ちなみに、西洋ではこういうのを「奇蹟」と呼びます。

『ノートルダム・ド・パリ』でビクトル・ユゴーが描く15世紀のパリには「奇蹟通り」と呼ぶ怪しげな一角がありました。

日が落ちると必ず「奇蹟」が起こり、歩けない人が駆け出し、目が見えない人がぱっちり目を開きます。

それからみんなそろって追い剥ぎに「変身」するわけですが。

もっとも、もうひとひねりして、「足が目を開け目が走り出す」くらいでないと、このむだぐちのレベルには達しません。

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おいてくりおのまんがんじ【措いて栗尾の満願寺】むだぐち ことば

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文語で「く」にはさまざまな意味がありますが、基本的には「放っておく」「やめておく」に大別されます。

それに命令形、または依頼形が付いて「やめてくれ」「かまうな」の意味。

「それはこっちにおいといて」という「おく」も同じでしょうか。

江戸では伝法でんぽうに「ええ、おきゃあがれ」とも。

芝居では「おかっせえ」と古風になリます。それをむだぐちにしたのが本項。

といっても、これは長野県のローカル限定で。「おいてくれ」のことば尻に地元の名刹の山号を付けてしゃれています。

栗尾山満願寺は、長野県安曇野市にある、聖武天皇の神亀2年(725)ごろ創建という古刹。

その後、新義真言宗豊山派しんぎしんごんしゅうぶざんはの寺院となり、今では地獄極楽図とつつじ公園が有名です。

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かんじんかしまのかなめいし【肝心鹿島の要石】むだぐち ことば

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慣用句の「かんじんかなめ」をしゃれたもの。

もっとも大切な要点という意味です。

鹿島の要石は、常陸国の一宮、鹿島神宮の境内にある神石。

「肝心春日」という異名もあり、地震の鎮め石と言われます。

おそらく、大鯰でも封じ込んでいるのでしょう。

意味自体は、名所古跡を洒落に織り込んだだけの単純なものですが、「か」の頭韻を重ねたリズムは耳に快く、これぞむだ口の真髄でしょう。

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おもちょうじちゃぎつねのかかとちゃんぎり【面丁子茶狐の踵ちゃんぎり】むだぐち ことば

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「おもしろい」のむだぐちですが、はるかに長ったらしく凝っています。

「面白狸の腹鼓」の言葉をどんどん変化させたもの。

まず白を丁子茶ちょうじちゃ(紅色がかった茶色)に、狸を狐に、腹をきびすに置き換えています。

最後の「ちゃんぎり」は、リズムを出すためのお囃子、口拍子で、当たりがねの異名を付けたもの。

当たり鉦は、江戸時代、願人坊主がんにんぼうずなどが用いた小型の鉦。

左手に持った鉦を右手の棒でこすって音を出し、托鉢たくはつして歩きました。

転じて歌舞伎の下座げざ音楽にもなり、「ちゃんぎり」はその陽気な音色から。似た言い回しに「面黒狐の腹鼓」があります。

これは機械的に白を黒、狸を狐にしただけですが、腹鼓を打つはずのない狐を持ってくることで、不釣り合いな滑稽さがより際だちます。

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おもえばくやししもんじゅのしし【思えばくや獅子文殊の獅子】むだぐち ことば

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「くやしい」とだけ言えば済むものを、言葉尻の「しい」から「獅子」を掛け、延々と言葉遊びにしています。

文殊は知恵を司る菩薩。獅子に乗っているという伝承があるので、こう付けたもの。

これも、将棋で負けたときのくやしまぎれのむだ口かもしれません。

この後さらにおふざけで「トッピキピイの角兵衛獅子」と続けることも。

こうなるともはやヤケのヤンパチで、芸者などが嫉妬のあまり、やけ酒をあおって毒づくようすが想像できます。

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おちょうしのごもんつき【お銚子のご紋付き】むだぐち ことば

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「ちょうし」は「銚子」と「調子」を掛けています。

ふだん言うことを聞かない子が、たまに客が来たときだけ、妙にいい子ぶって手伝いなどしたがるのはよくあること。それを親が冷やかす言葉。

まあ、小遣い目当てでしょうが、外面ばかりで調子のいいことと、客に出すお銚子を掛けています。

「ご紋付き」も、客を招いた改まった席の象徴に付けたもの。

からかう調子の裏に、今からこんなジキルとハイドじゃ、将来が思いやられるという親のため息が聞こえますね。

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おじゅんでんべえはやまわし【お順伝兵衛早回し】むだぐち ことば

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江戸時代、酒席でよく使われた洒落。

「お順に早く盃を回しましょう」の意味で、浄瑠璃「近頃河原達引ちかごろかわらのたっぴき」の登場人物「お俊伝兵衛猿回し」をもじったもの。

通称「お俊伝兵衛」は天明2年(1782)ごろ初演で、井筒屋伝兵衛と京都先斗町の近江屋抱えの遊女お俊の心中と、猿回し与次郎の孝行物語をからませています。

お俊の「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」の悲痛なセリフは有名で、明治大正までは誰もが知っていました。

昭和初期、衆議院議員の堀切善兵衛が代表質問に立ったとき、小声で聞き取れなかったので、すかさず議場から「そりゃ聞こえませぬ善兵衛さん」とヤジが飛んだという逸話があります。

かつては政治家でも粋でした。

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おおちがいのきしぼじん【大違いの鬼子母神】むだぐち ことば

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将棋で、相手の手を「そいつは大間違いだ」と牽制するときの洒落言葉。

鬼子母神は日蓮宗の名刹、威光山法明寺で、通称、雑司が谷の鬼子母神。豊島区南池袋にあります。

なんのことはなく、「おおちがい」と「ぞうしがや」を強引に掛けてダジャレにしただけ。

なんともひどい代物です。「大違い」には、他人の子供をむさぼり食ったという伝説の鬼子母神の、大いなる料簡違いをも指しているのかもしれません。

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おおしょうちのにゅうどう【大承知の入道】むだぐち ことば

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百も承知、と請け合う返事を洒落言葉にしたもの。

「おお」は強調語。これはダジャレで、「法性寺ほっしょうじ入道にゅうどう」と掛けたものです。

法性寺は、京都市東山区にある浄土宗西山禅林寺派の名刹。

法性寺の入道とは、関白藤原忠通ふじわらのただみち(1097-1164)のことで、出家後、この寺に住んだのでこう呼ばれました。

小倉百人一首の歌人の一人です。

その作者名が「法性寺入道前関白太政大臣藤原忠通ほっしょうじのにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじんふじわらのただみち」と、百人中もっとも長ったらしいため、後年、やたら長い名前の代名詞になりました。

寿限無」と同じです。

そのこととむだぐちとは特に関係なく、ただダジャレのために名前を借りられただけですね。

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おおきにおせわおちゃでもあがれ【大きにお世話お茶でもあがれ】むだぐち ことば

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ものの言いようの難しさの典型。

「大きにお世話」はきっちり「でござりました」などと結べば、普通に丁重な謝礼の言葉になります。ところが、言い捨ててしまうと、「余計なお世話。放っとけ」となり、けんかの元です。

この後の方に「お茶でも飲んでろ」とむだぐちをくっつけたのが本項。

これは、安永年間(1772-81)から、続く天明年間(1781-89)に、吉原などの遊里から出た流行語でした。

「茶」は「茶化す」「茶にする」というように、人を外らして揶揄する意味。

そこから、軽蔑の意味をこめて「お茶でも」と付けたのでしょう。

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おおいしかったきらまけた【大石勝った吉良負けた】むだぐち ことば

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なんのことはなく、「うまかった牛ゃ負けた」と同じ意味。

「おいしかった」と大石内蔵助を掛け、大石が討ち入りで勝利したから「かった=勝った」。そこから敗者の吉良上野介を出したむだぐち。

ただもう一つ、「大石」から漬物石を効かせ、そこから香の物の異称である「きら」を出したというのは、うがち過ぎでしょうか。

吉良家の官職の「こうずけ」から「香漬け」という洒落は、古くからありました。

もっとも、大石も「昼行灯」で、仇討ちもできない腑抜けとばかにされていた頃は「大石軽うてはりぬき石」と陰口を叩かれていたのですが。

「はりぬき石」は軽石のこと。

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おうらやまぶきひかげのもみじ【お浦山吹日陰の紅葉】むだぐち ことば

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「お羨ましい」と「浦(裏)山」を掛け、さらに「やまぶき」と、しりとりのように続けています。

「浦山」は日陰の境涯の自分の象徴。最後の「日陰の紅葉」でそれを強調しています。

小判にも例えられる山吹の黄金色と、朽ちてくすんだ紅葉の紅の対比。落ち目のおのれに引き比べ、相手の華やかな人生を羨む愚痴です。

むだぐちなので、これは皮肉。取って付けたようなていねい語の「お」がそれを物語ります。

現代でもよく見られますが、はぶりがよくなった同僚に「おい、おうやましいご身分だな。こちとら貧乏人に、少しお恵みいただけませんかね」など、毒を含んだ嘲りを浴びせる、あれですね。

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いうてもおくれなさよあらし【言うてもおくれな小夜嵐】むだぐち ことば   

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もとは明和年間(1764-72)から文政年間(1804-18)ごろまで、長く歌い継がれた上方の端唄「朝顔の盛り」(別名「かくれんぼ」)。

その末尾の一節を、日常の洒落言葉にしたものです。意味は「そんなことを言ってくれるな」で、相手の手厳しい拒絶を受けて少し甘え、なだめるような調子があります。

「さよあらし」は「さような(ことを)」のダジャレ(上方では口合)で、倒置表現で「言うても……」につなげています。

参考までに少し長いですが、元唄を。

※現代的仮名遣いに変えて読みやすくしています。

朝顔の
盛りは憎し迎いかご
夜は松虫ちんちんちろりちろり
見えつ隠れつかくれんぼ
行末は
誰が肌触れん紅の花
案じ過ごしを枕にかたれ
髪結わぬ夜のおみなえし
言うてもおくれな小夜嵐

優艷な三味線の三下がりの音じめで、盛りを過ぎて独り寝を余儀なくされた遊女の、夜ごとの憂悶を唄い上げています。

最後の二節で「結わぬ」と「言う」を掛け、さらに「小夜嵐」=夜半に吹き荒れる嵐で、このまま情人との恋が吹き散らされてしまうおびえが表現されています。

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おいでおいでどじょうのかばやきおはちじる【おいでおいで泥鰌の蒲焼きお鉢汁】むだぐち ことば

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将棋のむだぐちの一つ。相手の指し手を受け、「どうぞどうぞいらっしゃい。すぐ泥鰌どじょうの蒲焼きにして食ってやるから」という挑発です。泥鰌は「三匹目の泥鰌はいない」という言い回しがあるくらい、「カモ」の代名詞。それと「どうぞ」を掛けたひどいだじゃれ。

「おいでおいで」はもともと、子供を手招きするときの言葉なので、それだけ泥鰌ちょうろうの度が強いということでしょう。「お鉢」は女房詞で飯櫃めしびつのこと。仕上げに泥鰌汁にして煮てやるというだめ押しです。「お鉢が回る」で、「こっちの番」という意味も含んでいるかもしれません。

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かたじけなすび【かたじけ茄子】むだぐち ことば

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「かたじけない=ありがたい」というだけの意味に、ことばが連なるむだぐち。「かたじけない」の「な」から「なすび」に引っ張り込む腕力には驚きです。

「な」ならなんでもよいので、「かたじけ奈良茶」ともいいます。

そんならば、「かたじけナイスガイ」とか「かたじけ夏目雅子」とかは、どんなものでしょう。

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おもしろだぬきのはらつづみ【面白狸の腹鼓】むだぐち ことば

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「おもしろい」を「尾も白い」としゃれ、そこから動物の「狸」と付けたむだぐちです。尾が白い獣はいくらもいるのに、あえてなぜ狸かといえば、やはり腹鼓(狸囃子)の滑稽さからでしょう。あるいは、腹鼓から、腹が破けるほどおかしい意味合いもあるかもしれません。

狸を狐に変えた例もありますが、当然言い捨てで腹鼓はなし。「面白い」を狸に掛けた洒落、むだぐちはけっこうあります。

最後の部分だけあげると、「有馬山」「磯にはんべる」「金鍔焼き」など。

「面白い」自体のむだぐちはさらに多く、「面白山」「面白の魚田」「面ちょろし」「尾も白し頭も白し尾長鳥」「おもちょうじちゃぎつねのかかとちゃんきり」など。

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おどろきもものきさんしょのき【驚き桃の木山椒の木】むだぐち ことば

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「これは驚いたよー」という意味。

「おどろき」を木の種類のように、語呂合わせがうまくいって、人口に膾炙していますね。でも、これが「むだぐち」というものだとはつゆ知らず。

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おっとがってんしょうちのすけ【おっと合点承知之助】むだぐち ことば

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「わかってるよー」という意味。「引き受けたよ」ということも。いかにもありそうな人の名のようなものいいをするわけです。ホントにむだぐちですねえ。

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おちゃのこさいさいかっぱのへ【お茶の子さいさい河童の屁】むだぐち ことば

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ものごとがすらすらさらさらスムーズにできるという意味です。

俗謡のはやしことば「のんこさいさい」をもじっていることばです。

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うっとうしいものはまつまえにある【うっとうしいものは松前にある】むだぐち ことば

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気分がうっとうしい、気が晴れないとぼやく相手への、多少の慰めをこめての揚げ足取りです。

「松前」は直接には師走、正月前のこと。節季の支払いや借金に追われる煩わしさに比べたら、今の時期のうっとうしさなど物の数ではないよ、というわけ。

ついでに遠い北海道の「松前」と掛け、そこまではるばる旅しなければならない苦しみに比べれば、という意味を含めてダメを押しています。

「うっとうしい」は、気鬱なことと雑事で煩わしいことのほか、地方によってはあつかましい、騒がしいなどの意味も。

どちらにせよ、生活を悩ませる愚痴の種全般ですね。

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うっちゃっておけすすはきには出る【うっちゃって置け煤掃きには出る】むだぐち ことば


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「うっちゃって」はラ行五段活用の動詞「打っ棄る」「打っ遣る」の連用形。

「かまわないから放っておけ」と突き放す言い方に「すすはきには出る」と付け、ことば遊びにしたもの。

明和7年(1770)の『辰巳之園たつみのその』にそのまま男の台詞で出ています。

深川遊郭を舞台に男女の色模様が描かれてはいますが、これは洒落本。

有名な『春色辰巳園しゅんしょくたつみのその』は天保年間の人情本です。 文学史的には、洒落本が通人の文学なら、人情本は「いき」「はり」の文学とされています。

互いに50年ほどの時代差もありますから、心の表現に差異が出るのも当然です。

時代が下ると「通」もさらに洗練されて「いき」の境地に届くのでしょうか。

洒落本『辰巳之園』はいまだ「いき」の洗練まではありません。

洒落ことばで遊んでいるだけで。

人情本にいたると男女の色恋に妙な意気地や反語が出張ってきまして、やがては円朝や黙阿弥にいたれば、さらに複雑かつ霊妙な男女の心持ちが表現され、維新後は近代主義のがま口にのみこまれていくのです。

参考文献:『洒落本集成』第4巻(中央公論社、1977年)

「煤掃き」は大掃除で、何か大切なものをなくしたとき、「どうせ暮れの大掃除には出てくるから」と慰める形ですが、この場合、大掃除うんぬんは付けたりで、ただ茶化すために付けているだけでしょう。

「柳田格之進」では、武士の客が盗んだ疑いを掛けられた五十両の金包みが、煤掃で本当に見つかって、上へ下への大騒動になります。


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いらぬおせわのかばやき【いらぬお世話の蒲焼き】むだぐち ことば


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「いらねえ世話を焼かずと、放っておけ」という拒否宣言と、鰻の蒲焼きを掛けたもの。洒落になっているくらいなので、もとより本気ではありません。

男女の痴話げんかで、男の方がすねたそぶりを見せている、というところ。これはおそらく『江戸生艶気蒲焼えどうまれうわきのかばやき』あたりが発生源でしょう。天明5年(1785)にベストセラーになった山東京伝さんとうきょうでんの黄表紙です。

「お世話」は同じ意味で「お世世せせ」となる例もありますが、もともと「おせせ」はお女中言葉をもじったものなので、これを使うのは女の方になります。

「蒲焼き」は「焼き豆腐」と変わることもあります。


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いやならよしゃがれよしべえのこになれ【厭ならよしゃがれ芳兵衛の子になれ】むだぐち ことば


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遊びに誘ったのにはねつけられたときの、子供の悪態です。

「よし(=やめ)にする」から人名の「芳兵衛」と続けますが、「よしべえ」はおそらく「由兵衛」で、隠語で詐欺師のこと。同時に相手の「よすべえ」という断りと掛けた洒落にもなっています。

腹立ちが治まらない場合は、さらに後に「ぺんぺん(=三味線)弾きたきゃ芸者の子になれ、車が曳きたきゃ車力の子になれ」と続けます。

類似の悪態では、「嫌ならいやさきとんぼの女房」「嫌ならおけやれ桶屋の褌かぶって寝ろやれ」などが各地に伝わっています。「おけやれ」とは「よしとけ」の意。


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いちごんもなしのきさいかちさるすべり【一言も梨の木さいかち百日紅】むだぐち ことば


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「恐れ入りました」という無条件降伏宣言。

その言葉尻の「なし」と「梨」を掛けただけのダジャレです。

洒落だけにまじめに謝っているわけはなく、「恐れ入谷の鬼子母神」同様、おちゃらけですね。

「梨の木」の後に続けた二種類の木のつながりは、よくわかりません。

「さいかち」「猿」ともに「甲虫、兜虫(かぶとむし)」の異称であることから、あるいは「かぶとを脱いだ」の意味を含んでいるのかもしれません。

「百日紅」は「猿滑り」で、猿が木から落ちるようにしくじった、というニュアンスもあるでしょう。

類似のむだぐちに、江戸東京限定で「一言も内藤新宿」というのもあります。


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いじわるげんたかげすえ【意地悪源太景季】むだぐち ことば


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「いじわるげんだかげすえ」とも。将棋を起源としたむだぐちは、双六起源と並んで数多く、最大の供給源です。

これもその一つで、「いじわる」と「かじわら(梶原)」を強引に引っ掛けたダジャレ。

梶原源太景季(1162-1200)は源平時代の武将で、『平家物語』の「宇治川の先陣争い」で後世に名を残した人。芝居では「源太勘当」の主人公で、江戸時代には色男の代名詞でした。とんだとばっちりです。

将棋のむだぐちの発生源は、夏の風物詩で、お互いヘボの縁台将棋でしょう。同じ勝負事でもお固い囲碁では、ほとんどこの種のむだぐちは見られません。

江戸後期の滑稽本『浮世風呂』では、湯屋の二階の将棋で、壮絶な、むだぐち合戦が闘われます。


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こっちへきなこもち【こっちへきな粉餅】むだぐち ことば


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「来な」と「きな粉」を掛けた駄洒落の語呂合わせ。「こっちへ来な」と言っているだけのことです。「きな粉」は、黄な粉、黄粉、黄金粉などと記されます。

変形に「こっちへ来のめ(=木の芽)田楽」があり、この場合は地方により、「来」は「こ」とも発音します。

「きな粉餅」の用例でもっとも知られているのは、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」。寺の鐘供養で、大勢の僧侶(聞いたか坊主)が集まって騒いでいるところへ、白拍子花子に姿を変えた清姫の怨霊が出現。美貌で坊主たちを籠絡し、女人禁制の寺内へまんまと潜入しますが、その場面の歓迎の言葉が「さあさあ、こっちへきな粉餅きな粉餅」でした。

ほかに、戯作『春色辰巳之園』でも使われています。


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第620回 TBS落語研究会 寸評 2020年2月26日


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権助芝居 桂宮治
★★

初手から幇間顔負けの愛嬌全開。出るなり、メクリの陰でもうお辞儀する噺家も、昨今珍しい。これに当てられたか、疫病騒ぎで閑古鳥とまでいかずとも、その雛鳥がぴいぴいの客席が、やんやの大拍手。マクラからもうハイテンション。高座で新劇のハムレットの真似やらで大熱演。ところが不思議や、噺が進むにつれ、マスクの海はたちまち波静か。まるで閑古鳥の雛があっという間に成鳥になったよう。権助が農協ケースから飛び出すギャグはけっこうなれど、早口がなかなか聞き取れない難あり。権ちゃんがおだてられるたび、いちいち口笛を吹くくすぐりも、なんだか空回り。芝居の場面。ほとんど間がなくしゃべり続けなので、せっかく笑いの多い見せ場もいま一つ塩が利かず、故矢来町の師匠ご贔屓の某行列卵炒飯のよう。「曲者待った」のセリフの後、唐突に間延びするのが、かえって妙に新鮮だった。

巌流島 柳亭小痴楽
★★★

芸協自虐ネタでスタート。笑えるどころか、数年に一度しか出してもらえない悲哀に、思わず一掬同情の涙。人物一人一人の描写は丁寧で、ちゃんとお勉強なさっているのが好感持てる。ただ、型通りのくすぐりが今ひとつ徹底せず、それほど受けない。どうせなら志ん生流に、「なんだ町人のくせに。生意気に人間の形をしてやがる」くらいやってもよいのでは。じいさん侍の智謀と古狸ぶり、なかなかのもの。後半の野次馬どものやりとりは、もう少しメリハリを付けてスピーディーにすれば、もう少し面白くなるだろう。それにしてもこちとら年寄りは、コチラクと聞くとどうしてもあのアル中のお人をイメージしてしまう。死んでもう36年もたつというのに、ほんに罪作りな人ではある。

胴乱の幸助 桂吉弥
★★★★

たまに上方の師匠連をこうした席で拝聴すると、つくづくその過不足ないサービス精神、芸のレベルの高さに驚かされる。この師匠もそうだが、少なくとも東京では、失礼ながらほとんど知名度がないにもかかわらず、誰が出てきても客に、それなり以上の満足と笑いを置いていってくれる。東京に比べ、寄席の出番にも恵まれない中、五代目、六代目松鶴以来の上方落語への情熱が、変わらずに継承されているのだろう。で、この胴乱幸助。今となってはあまりに古風すぎるネタだが、手を抜かずきちんと仕上げていて、十分に楽しめた。ことに、後半の京都のお師匠さんの描写が秀逸。明治初年の市井の人物が、今そこにいるようにリアルに息づいているから、古臭さをまったく感じない。あえて言わせてもらえば、前半の、主人公がこちらに歩いてくるまでの清八喜六コンビの長い「漫才」が少々間延びして、あれでは相談がまとまらないうちに、親父が通り過ぎてしまうと思わせること。これは落語の「嘘」に違いないが、当人の大師匠の米朝や六代目松鶴なら、たとえ同じ時間を費やしても、決して客にそんなことを意識させなかったはず。そこだけ☆を一つ減らさせていただいた。さらに欲を言えば、「胴乱」(革製の煙草入れの袋)の意味は、やはり説明しておいたほうがよかっただろう。

ひなつば 桂やまと
★★★★

この人、昔どこかで見た誰かに似ていると思ったら、思い出した。あの森川信。風貌もそうだが、セリフのすっとぼけた物言い、微妙な間の外し方など、中年のころの同優を彷彿とさせる。まあ、当人は「男はつらいよ」くらいは見ていたとしても、年代的に森川信など知らないはずだから、単なる偶然だろうが、なんだか懐かしかった。そういう頭で「ひなつば」の植木屋夫婦のやり取りを聴いていると、会話のテンポもよく、爆笑といえるくすぐりはなくとも、あたかも森川がこの役を演じているような飄逸なおかしみが感じられ、好感が持てる。落語を先入観で聴くのも、そう悪いことではない。お八歳の悪たれ小僧の描写も、作られた不自然な誇張がなく、苦笑いを誘う。ただ、お店の大だんな自らが、自らケツをまくって辞めた植木屋の長屋にわざわざ訪ねてくるのは、当時の絶対的な上下関係からして異例。にしては、それまでの亭主の様子に、伏線としての後悔の念が感じられない。かといってまだ意地づくで突っ張っている様子もあまりなく、そのあたりの腹のうちを、もう少し明確にしてほしかった。

夢の酒 柳家喬太郎
★★★★★

しばらく見ないうちに、この人もすっかり真っ白けになったが、いまや押しも押されもせぬ大看板。その名にふさわしく、マクラから息をもつかせぬ大熱演。いや、☆をもう二つ献上したいくらいに堪能させていただいた。ネタは、昭和10年(1935)ごろ「夢の瀬川」を八代目桂文楽が改作したもの。今となっては古風に過ぎ、噺自体もあまり面白いとは言えないだけに、ちょいと心配したが、なかなかどうして。まずマクラで池袋演芸場の礼賛から始まり、その池袋の怪しげな雑居ビル。迷い込んだはエロDVD屋……という夢の顛末で、もうすっかり客をつかんでしまう。本題に入って、寝言を言っている亭主の顔を覗き込む若妻。むりやり起こして夫婦で夢の話。ここで、ワイフの言葉がどうにも山の手のお嬢さま風なのは、昭和初期の世相を反映している。時代背景の説明を飛ばしたため、亭主の、いかにも江戸の大店のあるじ然としたもっともらしい口調と水と油。違和感ありありで、「若だんな」というには老成し過ぎと文句をたれようと思ったが、後の、夢の女の圧倒的な色気にむせて圧倒され、そんなこたァどうでもよくなっちまう。とにかく、この女の色気と、それを笑いのオブラート、というより、ほんのり塩の利いた桜の葉で包んだような絶妙のコンビネーションこそ、この方の持ち味。座って立ってクネクネと、歌舞伎の「三千歳」のカリカチュアのように、抱腹絶倒の連続。しまいに、筋やサゲなどもうどうでもいいんじゃないの。いや、ごちそうさまでした。蛇足ながら、本日の出演者全員が口を揃えた「コロナネタ」の中で、この師匠の「本日のわれわれのギャラは……マスクです」がやはり秀逸でした。

高田裕史


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第619回 TBS落語研究会 寸評 2020年1月21日


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紙入れ 三遊亭わん丈 ★★

姦婦姦夫の濡れ場を、羽織の裏を布団に見立ててマイクにかぶせる新演出?が、かなりウケた。当人は落語史上記念すべき金字塔と自画自賛していたが、それほどのもんじゃなし。その他、笑ってくれないと楽屋うちで評判らしい研究会の客を、何とか攻略しようと、師匠譲りの劣化版枝雀、あの手この手奇声連発の涙ぐましい大奮闘。だんなに会う前に鳴り物入で夢の場を作り、うなされるくだりを入れるなど、努力を買って★一つ増し。ただし、「じいさんだから、けんかすりゃ勝てる」のサゲは思い切りスカ。

松竹梅 柳家小志ん ★

いや、こんな惨めな高座をこの席で初めて目撃した。それこそ、マクラからサゲまでたった一度、苦笑(?)らしきしわぶきが聞こえたのみ。完全に蹴られて、当人はこれから自棄酒じゃあるめえかと心配したほど。それもそのはずで、くすぐりは滑りっぱなし。それで焦ったか、字が読めない、ムヒツ、読めない読めないの連呼。後には婆さん婆さん納豆納豆の繰り返し。こういう悪あがきはかえって客を不快にさせるだけだから、やめた方がよろしい。だいいち、こんな古色蒼然たるネタを、いまどきウケさせようとする方が無理。しかも聴いたところ、謡も義太夫も素養はまったくなさそうだから、居直って古風に徹することもできない自縄自縛。お疲れサマ。

寝床 桃月庵白酒 ★★★★★

本日の白眉。終始客をダレさせず、確かな技量に裏付けされた、サービス満点の大熱演。何よりもいいのは、この噺にありがちなだんなのパワハラ的な暴君ぶりを、まったく感じさせなかった点。駄々っ子の幼稚園児のような、だんなの憎めないキャラクターを中心に、幇間じみたお相手の重蔵も、迷惑を被る長屋の面々も鳶頭も、みな承知で「寝床ごっこ」で遊んでいるような雰囲気。そのおおらかで洒落気たっぷりの気分が何ともいい。改めてこの噺には、そういう江戸の遊びの精神が不可欠なのを思い出させてくれる。ギャグとしては、冒頭の壊れたクラリネットのような「発声練習」、神さんが妊娠して来られないはずが豹変して「想像妊娠」、現実を突きつけられても諦めきれずに、今は語らないけど、そこを何とかと繰り返すおかしみ。最後は志ん生型で、義太夫を蔵から語り込む演出も付き、前二席の憂さが雲散霧消。

大工調べ 三遊亭遊馬 ★★★★

噺の前半、客席がほとんどくすりともしなかったのは、「松竹梅」の時と同じ。ただし、決定的に違うのは、この演者が決して変なウケ狙いのくすぐりを使わず、淡々と噺を進めていたこと。その内に溜め込んでいたエネルギーが、棟梁政五郎の胸のすくようなタンカで一気に爆発。前後およそ一分半はあろうかという、早口ながら、言葉はちゃんと粒立ち、まさにお江戸伝統の悪態。あまり惚れ惚れし、速記ができれば残らず書き取って置きたかったほど。もちろん、そこで火が付いたように客席はやんやの大喝采。それも、噺の力の配分が絶妙だからで、与太郎、棟梁、家主のそれぞれの描写も過不足なく見事。ただ惜しむらくは後半のお白洲で、大岡越前に貫目がいま一つ。通常の演出だと、奉行が叱りつけて一度政五郎に残り八百を払わせてから、改めてお呼び出しの手順だが、今回は続けて大家をへこましたので、インパクトに少々掛ける印象。ということで竜頭蛇尾とまではいかないが、惜しみつつ★マイナス1。

柳田格之進 三遊亭歌武蔵 ★★★

いやはや長い。特に後半はダラダラと変な思い入れの間まで置くから、打ち出しが21:15予定なのに、20分ほどもオーバーした。もともとこのお人、ガタイの大きさとガラガラ声が売りで、噺によってはそれがハマるのだが、こういう講釈種の古格な人情噺では、もろに力量が出る。特にこの噺、急に帰参がかなったり、帰参したらしたでなぜ父親が自分で請け出さないのかなど、不自然な設定が多いので、それを忘れさせる圧倒的な芸の力が必要なのだが。全体の演出は故人志ん朝そのまま、くすぐりに至るまでまったく同じで、志ん朝のビデオだと約45分だから、時間的にはそう違わないはず。ではどうしてこうまでダレが残るのか。やはり、親子の情感の表現、人物の動作や人間像の明確さ、畳み掛けるところで一気に畳み掛ける緩急の巧みさ、まあ、比べたら気の毒ながら、すべてが段違いなのだろう。それと、この演者にはどうあがいても、武家の17歳のお嬢様は無理。歌舞伎「妹背山」のいじめの官女のようなどら声では、楚々たる色気も女の情感もあったものでなし。結局、客の疲労感や眠気は、その全てが相俟ってのこと。新宿からの終バスに間に合って、本当によかった。  

高田裕史


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りゅうていふうし【柳亭風枝】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】二代目三遊亭百生(小河真之助、1895-1964)に入門
【前座】1963年6月、三遊亭百助で。1964年百生逝去に伴い、五代目柳家つばめ(木村 栄次郎、1928-1974)門下、柳家とんぼ
【二ツ目】1967年5月。つばめ逝去に伴い、74年9月五代目柳家小さん門下
【真打ち】1979年3月、初代柳亭風枝
【出囃子】男はつらいよらしき曲
【定紋】風神 ※オリジナル
【本名】佐藤治
【生年月日】1945年7月27日
【出身地】東京都葛飾区生まれ、浅草育ち
【学歴】東京都立葛󠄀飾野高校
【血液型】A型
【ネタ】竹の水仙 宗論 など
【出典】落語協会HP 柳亭風枝Wiki
【蛇足】口上芸、居合抜き。すさまじい芸達者

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かつらなんきょう【桂南喬】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会→落語協会
【入門】三代目三遊亭金馬に入門
【前座】1963年1月、三遊亭ゆたかで。金馬死去に伴い、1965年、二代目桂小南門下、桂ゆたか
【二ツ目】1967年10月、桂南笑
【真打ち】1977年4月、桂南喬。85年1月、落語芸術協会から落語協会に移籍。五代目柳家小さん門下に
【出囃子】吉原雀
【定紋】丸に剣片喰
【本名】末吉豊比古
【生年月日】1947年8月7日
【出身地】東京都中野区
【学歴】中野区立中野第三中学校
【血液型】AB型
【持ちネタ】牛ほめ 大工調べ 粗忽長屋 など
【出典】公式 落語協会 Wiki 
【蛇足】1984年、桂文朝(田上孝明、1942-2005)、桂文生らと落語芸術協会を脱退。その後、落語協会の五代目柳家小さん門下へ移籍。自転車が趣味。三遊亭円窓、柳家つば女らと落車会を結成

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かつらぶんしょう【桂文生】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会→落語協会
【入門】二代目桂枝太郎(池田芳次郎、1895-1978)に入門
【前座】1962年9月、桂枝平
【二ツ目】1966年4月、桂欣治
【真打ち】1974年10月、三代目桂文生
【出囃子】あほだら経
【定紋】違い鷹の羽
【本名】平稔
【生年月日】1939年8月23日
【出身地】宮城県石巻市
【学歴】宮城県立小牛田こごた農林高校
【血液型】O型
【持ちネタ】本膳 ずっこけ 馬の田楽 権助提灯 佐の山 お見立て 猿後家 民謡家主 王子の狐 位牌屋 棒鱈 蒟蒻問答 など
【出典】落語協会HP 桂文生Wiki
【蛇足】1984年、桂文朝(田上孝明、1942-2005)、桂南喬、弟子の桂きん治(→桂扇生)と落語芸術協会を脱退。その後、落語協会の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下へ移籍。84年は落語芸術協会と上野鈴本演芸場とが軋轢を生じさせていた頃でした。2006年、文化庁芸術祭優秀賞受賞。都々逸しぐれ吟社同人。過去に7人の「文生」がいたといわれますが、当代は三代目を称しています。上方に同音の桂文昇がいます。

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りゅうていきんしゃ【柳亭金車】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1964年6月、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に入門。柳家小丸で
【前座】1964年9月
【二ツ目】1968年5月
【真打ち】1978年3月、柳亭金車
【出囃子】鶴亀
【定紋】陰の花菱
【本名】宮崎悦男
【生年月日】1941年9月14日
【出身地】東京都江東区
【学歴】法政大学経済学部
【血液型】A型
【持ちネタ】
【出典】落語協会HP 柳亭金車Wiki
【蛇足】1975年、「たがや」でNHK新人演芸コンクール落語部門最優秀賞を受賞。キックボクシングのリングアナウンサーも務める。

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やなぎやこさん【柳家小さん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1963年4月、五代目柳家小さん五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に入門、柳家小太郎で
【前座】1963年9月
【二ツ目】1967年3月、小ゑん
【真打ち】1976年9月、三代目柳家三語楼。2002年、小さんの死去に伴い、四代目鈴々舎馬風門下に。2006年9月、六代目柳家小さん
【出囃子】楠公
【定紋】八ツ車
【本名】小堀義弘
【生年月日】1947年7月21日
【出身地】東京都豊島区
【学歴】豊島区立高田中学校
【血液型】B型
【ネタ】真二つ(山田洋次) 頓馬の使者 目玉 ひとり酒盛 紺屋高尾
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】五代目柳家小さん(小林則夫、1915-2002)は父、柳家花緑と小林十市は甥

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やなぎやこまん【柳家小満ん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)に入門
【前座】1961年5月、小勇で
【二ツ目】1965年3月。71年12月、文楽死去に伴い、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)門下に
【真打ち】1975年9月、三代目柳家小満ん
【出囃子】酔猩猩
【定紋】三ツ割桔梗
【本名】栗原理
【生年月日】1942年2月17日
【出身地】神奈川県横浜市
【学歴】横浜市立金沢高校→東京農工大学繊維工学部中退
【血液型】A型
【ネタ】居残り佐平次 本膳 宮戸川 など
【出典】落語協会 Wiki 柳家小満ん口演用「てきすと」
【蛇足】1973年、NHK新人演芸コンクール最優秀賞受賞。著書多数。『べけんや わが師、桂文楽』 (河出文庫、2005年)が参考になる。川田順造『人類学者の落語論』(青土社、2020年)に登場する。

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きんげんていはくらく【金原亭伯楽】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)に
【前座】1961年4月、金原亭桂太で
【二ツ目】1964年9月
【真打ち】1973年9月。80年3月、金原亭伯楽
【出囃子】鞍馬
【定紋】鬼蔦
【本名】津野良弘
【生年月日】1939年2月16日
【出身地】神奈川県横浜市
【学歴】法政大学
【血液型】A型
【持ちネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】著書多数ながら、代表作は『小説・落語協団騒動記』(本阿弥書店、2004年)『小説・古今亭志ん朝―芸は命、恋も命』(本阿弥書店、2007年)。どちらも絶品。

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やなぎやこはん【柳家小はん】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に入門
【前座】1960年4月、桂木久弥で。1961年3月三木助の死没で五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下、柳家さん弥に
【二ツ目】1964年10月
【真打ち】1973年9月。75年3月、二代目柳家小はん
【出囃子】並木駒形
【定紋】剣片喰
【本名】渡辺研三
【生没年月日】1941年12月18日-2022年4月25日 膵臓がん
【出身地】東京都足立区
【学歴】東京都立上野高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】落語協会HP Wiki
【蛇足】2022年4月25日、膵臓がんで死去。80歳。初代小はん(鶴見正四郎、1873-1953)は三代目柳家小さん(豊島銀之助、1853-1930)門下で、大正末期に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976)たちといっしょに革新派を結成した人。二代目登場まで40年以上も空白の名跡でした。またも空白になってしまいました。南無。

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「落語ディーパー!」を見る


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「落語ディーパー!~東出・一之輔の噺のはなし~」は、落語マニアの俳優、東出昌大の名ゼリフ「これを知らなきゃもったいない」で始まる落語番組。Eテレで。

彼と一之輔、さらに若手落語家たちが、名人上手の映像や音源から一つのネタについて語り合う、芸談中心で構成されている、一風変わったプログラムです。管見ながら、入門、初級コースをうろうろしている落語ファンのために、Eテレが放った「落語中級ファン促成番組」といえる福音です。

これまでの放送は不定期で気まぐれなのでゲリラっぽくて。これからの放送時間もよくわかりません。2019年は「いだてん」のからみで、あるいは、円朝生誕180年もからんで、ちょっと変わったスペシャルもありました。これまでの放送分は以下の通りです。

2017年
7月31日(月) 目黒のさんま
8月7日(月) あたま山 柳家花緑
8月21日(月) お菊の皿
8月28日(月) 大工調べ
2018年
5月6日(日) 地獄八景亡者戯 五代目桂米団治 上方SP
9月3日(月) 明烏
9月10日(月) 鼠穴
9月17日(月) 粗忽長屋
9月24日(月) 居残り佐平次
2019年
1月2日(水) 春風亭昇太 新作SP 吉笑も
3月4日(月) 長屋の花見
3月11日(月) 真田小僧
3月25日(月) 風呂敷 古今亭菊之丞 志ん生SP
3月26日(火) 火焔太鼓 古今亭菊之丞 志ん生SP
9月2日(月) 牡丹燈籠お札さがし 柳家喬太郎 円朝SP
9月9日(月) 死神 柳家喬太郎 円朝SP
9月16日(月) 船徳 
9月23日(月) 時そば
9月30日(月) わさび、小痴楽真打ち昇進SP(古木優)


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第617回TBS落語研究会 寸評 2019年11月26日


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一目上がり 入船亭小辰 ★★

マクラの間、早口の言葉が粒立たず聞き取れない、大家と隠居は同一人物なのか、など、アラを言えば切りがない。隠居が説明するくだり、ちゃんとしぐさ、目の動きをともなっているのはよい。マクラの、頭がタイムスリップした水道調査員は、まったく老人になっていないが、「え? どっちの三平だ」はけっこうウケた。

駒長 蜃気楼龍玉 ★★★

円朝作品に意欲的に取り組み、師匠(雲助)譲りで語り口にもどっしり貫目が付いてきた。おしむらくは言葉に重複とくどさが目立つ。女房が「丈八」と直前に言っているのに亭主が「深川から丈八という男が」と繰り返したり、「損料」で足りるのを「損料代」と重ねたり。だからか、夫婦の会話を含む前半がダレる。立板に水のベランメエは貴重品だけに、そのへんの整理を切に望みたい。

掛け取り 柳亭市馬 ★★★★★

本日の白眉。この人、噺家には珍しく、地声がよく響くバリトンなので、ネタによってはそれがかえって薄味な印象を与え、実力の割に損をする場合があるのだが、こうした音曲を聴かせる噺になると、まず当代の独壇場。特に義太夫は、変に上方風にしゃがれず、朗々とした江戸前でけっこうなもの。日頃きちんと稽古していなければこうは行かないだろう。全体の演出では、最後に芝居ごっこの掛け合いを入れる円生の型。「掛け取り」なので、万才のくだりはない。けんかで逆に証文を入れさせる抱腹絶倒なくすぐりも円生通りだが、後味の悪さを少しも感じさせず、洒落気分が横溢。シメに古風な歌舞伎の味を堪能させて、いや、バカンマ。ごちそうさまでげした。

将棋の殿さま 三笑亭夢丸 ★★★

殿さまのパワハラぶりがエスカレートするにつれ、要所に新規の過激なくすぐりを交え、楽しめた。「切腹申し渡す」と言葉で言う代わりに、その都度、電光石火のいぐさで示すのはいい工夫に見えた。言葉遣いからして武士が武士にならず、昭和初期の映画に見る、ワンマン社長の前で平蜘蛛のようにはいつくばる社畜リーマンのさまなのは奇異。言葉とがめどこ吹く風の爆笑路線を突っ走るのだろうが、それでも円蔵の域に達するには、もう少したたみかけるリズム感を身に着けてほしいように思った。

火事息子 五街道雲助 ★★★★★

自他ともに任ずる十八番ゆえ、もはやなんの茶々も入れどころなし。しっとりと落ち着いた語り口、風貌まで、近年、師匠(馬生)そっくりになってきた感。古希を超えてもはや円熟の至芸に見えた。だんなの描写は優れ、目塗りのやり方を滾々と言って聞かせるくだりは、確かにこの人物が小僧からたたき上げの苦労人と納得させられる。全体の運びとしては、後半の母親のすっとんきょうぶりで笑いを多く取ることにより、とかくお涙ちょうだいに陥りがちなこの噺に、すっきりとよりよいバランス感を与えている。

高田裕史


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第616回 TBS落語研究会  2019年10月25日 寸評


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2019年10月25日(金) 東京・国立小劇場 古木優

熊の皮 春風亭喜いち ★★

かけあいが平板。周りの客は寝ていた。二つ目なりたてだそうで、話し方には勢いがある。大いに可能性を感じた。噺を選べばよいのかも。登亭

田能久 入船亭扇辰 ★★★★★

マクラで客を引き込んでからは全編息もつかせない。流れる話柄に聴き酔えた。はずれのない噺ながら、客を最後までそらさないのも芸の内だろう。尾花

蒟蒻問答 三遊亭歌武蔵 ★★★★

「甲府い」でも驚いたが、どうしてこんなにうまいのだろう。しっかりした型で大いに見せてくれる。人物描写も自然。映像が湧き出た。のだや

天狗裁き 桂三木助 ★★

さすが小林家。かまない。高っ調子のスピード感ある流々とした話しぶりに酔いたかったが、人物がみんな同じ声帯で興醒め。立体感なくマンガ見てるよう。竹葉亭

たちきり 入船亭扇遊 ★★★★★

ぞくぞくするほど色っぽい。でも自然で。飽きない言葉の選び方に落語の芸の奥行きを感じた。大雨押して参じた甲斐あったというもの。つきじ宮川本廛


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第615回 TBS落語研究会  2019年9月27日 寸評


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2019年9月27日(金) 東京・国立小劇場 古木優

【RIZAP COOK】

普段の袴  古今亭志ん吉 ★★★

落ち着いている。「落語」になっている。おもざしは味気ないが、通る声で心地よい。上下の使い分けがどうも。工夫が必要。光るものを大いに感じた。竹葉亭

蛙茶番   春風亭柳朝  ★★

一本調子の通る声が新味。誰がなにを言っているのかがてんでわからない。寝る客続出。こんなんで十二年も張ってたのか。「落語」を聴かせてほしい。いづもや

こんな顔  桂文治    ★★★★★

短い噺だからえんえんとマクラが続く。これが絶妙。安定した笑いがお次を期待させる、よいテンポ。どう終わらすのか気になりつつも、気持ちのよい笑いを最後まで提供してくれた。のだや

野ざらし  古今亭文菊  ★★★★★

ふらがある。色気がある。面妖なしぐさがいい。落ち着いたいなせな語りぶりは役者じみてて小気味よい。人物の彫り込みもわかりやすい。ふとしたあわい、文菊ワールドだった。つきじ宮川本廛

猫の災難  橘家文蔵   ★★★★

畳にこぼれた酒をせこく飲み干すしぐさは絶妙。ささやくような話柄も色気が漂ってて悪くない。たまに都下のあんちゃんが操るような言葉遣いが。これは興醒め。喜代川


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第614回 TBS落語研究会 2019年8月26日 寸評


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2019年8月26日(月) 東京・国立小劇場 高田裕史

五目講釈 春風亭正太郎 ★★

難しい講釈場面もトチリなく、大熱演は大いに買える。案の定、クライマックスで息切れして、テンポ、リズムがどんどんずれてしまうのはしかたがない。前半、棟梁夫婦、若だんながみんな同じ人物に聞こえるのは、言うだけ野暮ながら、まあ年季の問題か。

弥次郎  柳家小せん  ★★★

パンフにもあった通り、当人が私淑する扇橋譲りで、寄席ではなかなかできないフル・バージョンで「道成寺」まで通した意欲はりっぱ。ただし、やはり長くてダレる。北海道も猪退治も、ここの客層には色褪せたくすぐりの積み重ねで、さほど笑いは取れない。むしろ新味のある「道成寺」にポイントを絞って練りこんだ方がベターだろう。

鰻の幇間 春風亭一之輔 ★★★★

もともと、この人のやり方は、客が逐電した後の、これでもかこれでもかこれでもかと畳み掛ける一八の悲痛な叫びが眼目。黒門町文楽のあの、明治の芸人の哀感などというレベルのきれいごとなど、みじんもない。最後は心まですっかりむしられた上、仲居さんの誕生会で座敷をたたき出される救いのなさ。加えて当人いわく、濃いカルピスの原液のように、意地でも笑わない落語研究会の客を、意地でも笑わさずにおこうかと、鬼気迫る執念が加わり背筋が寒くなった(笑)。まずは極上々吉、本日のMVP。

小言念仏 橘家円太郎  ★★★★

主人公の念仏とぼやきの背後の、家族の日常が鮮やかに浮かび上がる緻密な描写は秀逸。癇癪がだんだん高じて、やさしく「さん付け」にしていた嫁がいつの間にか呼び捨てになったり、孫の赤ん坊の粗相にいらいらするくだりなど、地味ながらこの演者ならでは手堅い技量が光る。小三治の隠居の、ギャグ漫画的なおもしろさとは違った持ち味で、トリのじゃまにならない理想的なヒザ替わり。

淀五郎  柳亭市馬  ★★★

お待ちかね。全体に手堅い演出だが、難を言えば、団蔵が独白の形で、自ら「なぜ判官の側へ行かないか」のネタばらしを早々にしてしまうので、後半の仲蔵のアドバイスが被って、ややくどい印象を受けた。

番外 主催者 -★★★★★

ただでさえロケーションが悪く、行きも帰りも路線バスはとうになくなっているのに、本日にかぎって帰りの劇場発バスは「ありません」と。なんだこりゃ。おかげでぞろぞろ。9時も過ぎて地下鉄まで延々と長蛇の列。客をなめてんのか。


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さんゆうていかしょう【三遊亭歌笑】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)に入門
【前座】1958年4月、歌寿美で
【二ツ目】1961年10月、三代目三遊亭歌笑。二代目円歌の死去に伴い、当時は二代目三遊亭歌奴だった三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)門下に
【真打ち】1973年9月
【出囃子】大名行列
【定紋】蔦
【本名】高水勉
【生年月日】1939年5月25日
【出身地】東京都あきる野市五日市
【学歴】東京都立五日市高校
【血液型】A型
【ネタ】純情詩集 馬大家 試し酒 うどんや
【出典】三遊亭歌笑ブログ 落語協会HP 三遊亭歌笑Wiki
【蛇足】二代目三遊亭歌笑(高水治男、1916-50)は叔父

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りゅうていさらく【柳亭左楽】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に
【前座】1957年5月、桂文平で
【二ツ目】1961年5月。1971年、文楽の死去に伴い、七代目橘家円蔵(市川虎之助、1902-1980)門下に
【真打ち】1973年9月。1980年、円蔵の死去に伴い、当時は五代目月の家円鏡だった八代目橘家円蔵(大山武雄、1934-2015)門下に。2001年3月、六代目柳亭左楽
【出囃子】毛谷村の物着
【定紋】片喰
【本名】原田昌明
【生年月日】1936年12月14日
【出身地】広島県竹原市
【学歴】広島県立竹原高校
【血液型】A型
【ネタ】寝床 明烏 素人鰻 鰻の幇間 厩火事 松山鏡 馬のす 悋気の火の玉 権兵衛狸 景清
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】2019年からは竹原市を中心に活動中

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やなぎやこのぶ【柳家小のぶ】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に
【前座】1956年5月、小延で
【二ツ目】1958年9月、小のぶ
【真打ち】1973年3月
【出囃子】元禄花見踊
【定紋】花菱
【本名】本田延吉
【生年月日】
【出身地】東京都港区芝
【学歴】
【血液型】
【持ちネタ】味噌蔵 芝浜 寝床 強情灸 品川心中 たがや 山崎屋 勘定板 火焔太鼓 高田の馬場 佃祭 小言念仏 宿屋の富 蛙茶番 妾馬 厩火事 粗忽長屋 幇間腹 野ざらし 宮戸川 こんにゃく問答 風呂敷 青菜 子はかすがい 三枚起請 寄合酒 明烏 あわびのし 薮入り 長短 抜け雀 景清 文七元結 宿屋の仇討 甲府い とうなすや 猫久 富久 時そば
【出典】落語協会 Wiki
【蛇足】寄席に出ない「幻の噺家」で通っている

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はやしやきくおう【林家木久扇】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会 相談役/トヨタアート
【入門】清水崑(清水幸雄、1912-74)の紹介で三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に
【前座】1960年8月、桂木久男で。師没後の61年2月、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982)門下に、初代林家木久蔵
【二ツ目】1965年9月
【真打ち】1973年9月。2007年9月、林家木久扇
【出囃子】宮さん宮さん
【定紋】中陰光琳蔦
【本名】豊田洋
【生年月日】1937年10月19日
【出身地】東京都中央区日本橋
【学歴】東京都立中野工業高校
【血液型】A型
【ネタ】新作:彦六伝 昭和芸能史 その時歴史が動いた 片岡千恵蔵伝 嵐勘寿郎伝 ラーメンは人類を救う  古典:目黒のさんま 湯屋番 蛇含草 鮑のし 道具屋
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】トヨタアートは自ら経営し自らも所属する芸能事務所。二代目林家木久蔵は息子

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かつらぶんらく【桂文楽】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に入門
【前座】1957年4月、桂小益で
【二ツ目】1959年6月。1971年、八代目桂文楽死去に伴い、七代目橘家円蔵(市川虎之助、1902-80)門下に
【真打ち】1973年3月。92年9月、九代目桂文楽
【出囃子】桑名の殿様
【定紋】三ツ割桔梗
【本名】武井弘一
【生年月日】1938年9月21日
【出身地】東京都台東区
【学歴】葛飾中学校
【血液型】B型
【持ちネタ】試し酒 など
【出典】公式 落語協会 Wiki 
【蛇足】落語協会相談役。趣味はゴルフ。ペヤングソース焼きそば(まるか食品)のCM出演は1975-82年(17年間)。おかみさんに『文楽でございます』(武井加津子著、ゴマブックス、2006)の著作あり。武井加津子さんは1941年台東区生まれの文京区育ち、二代目海老一海老蔵の息女で、誠之小→文京六中→上野鈴本演芸場。二代目海老一海老蔵は太神楽芸人で、海老一染之助・染太郎の師匠。染之助(村井正親、1934-2017)が弟で、染太郎(村井正秀、1932-2002)が兄で、三遊亭円駒(村井正彦、1899-1976、三代目三遊亭小円朝の弟子)の実子。

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さんゆうていえんそう【三遊亭圓窓】噺家


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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-1959)に入門
【前座】1959年3月、枝女吉で。59年10月、柳枝死去に伴い、六代目三遊亭円生

(山﨑松尾、1900-79)門下、三遊亭吉生で
【二ツ目】1962年11月
【真打ち】1969年3月、六代目三遊亭円窓。78年6月、円生に従い落語協会を脱会。円生没後の80年2月1日、落語協会に復帰
【出囃子】新曲浦島
【定紋】三ツ組橘
【本名】橋本八郎
【生没年月日】1940年10月3日-2022年9月15日 心不全
【出身地】東京都江東区(当時は深川区)深川生まれ、豊島区育ち
【学歴】東京都立文京高校
【血液型】B型
【持ちネタ】五百噺
【出典】三遊亭圓窓HP 落語協会HP 三遊亭圓窓Wiki 圓窓五百噺全集
【蛇足】落語協会相談役。息子は三遊亭窓輝。1970年6月21日から77年8月21日まで「笑点」の大喜利レギュラー。色紋付きはピンクだったにもかかわらず、地味でした。後任は三笑亭夢之助(佐藤信夫、1949-、2019廃業)。78年6月の落語協会分裂騒動で円生らと脱会。80年2月1日、落語協会に復帰。五百噺は2001年、名古屋市東区の含笑寺(曹洞宗)で完了。仏教知識に造詣の深い人でした。七代目三遊亭円生の襲名にに名乗りを上げましたが、2015年には取り下げました。。著書多数ながら、最初の作品『ふてくされ人生学―古典的生き方のすすめ』(社会思想社現代教養文庫、1972年)が秀逸でした。


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かつらしゅんちょう【桂春蝶】噺家


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【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】1994年8月、三代目桂春団治(河合一、1930-2016)に三代目春蝶で
【出囃子】神田祭
【定紋】中陰花菱
【本名】浜田大助
【生年月日】1975年1月14日
【出身地】大阪府吹田市
【学歴】北陽高校
【血液型】0型
【出典】公式 上方落語協会 Wiki
【蛇足】2009年、繁昌亭大賞爆笑賞 2013年、咲くやこの花賞 父は二代目桂春蝶(浜田憲彦、1941-93)


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志ん生が大陸で見たものは?


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五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭円生。気質も芸風もまるで水と油です。

この二人が戦争末期、連れ立って大陸慰問団に加わり、命からがらの苦難をなめたことは、落語ファンにはよく知られています。

中国東北部(旧満州)での大陸体験は、二人とも自伝にも語り残し、座談会や雑誌記事などでもさまざまな逸話が紹介されています。

ただ、双方の言い分にはかなりの食い違いがあります。

志ん生がどちらかというと、弥次喜多道中よろしくおもしろおかしく語っているのに対して、円生の方は、十歳上の志ん生の度外れた身勝手さに、どれだけヒドい目にあったかという、むしろ常識人が発するような恨みつらみをぶちまけている感があります。

いずれにせよ、真相はもはや闇の中です。

そこに割って入るのが森繁久彌。彼も当時の体験を記しています。二人を脇で見ていた男の目はほほ笑みながらも辛辣でした。

なかばフィクションにもかかわらず、まるでタイムマシンで見ているかのように、この大陸道中、出発のきっかけから志ん生帰国までのあらましがすべてわかってしまう、いや、わかった気にさせられてしまう、摩訶不思議な一冊があります。

井上ひさし『円生と志ん生』(集英社、2005年)。

井上の演出で、劇団こまつ座第75回公演として2005年2月~3月に東京・紀伊国屋ホールほかで上演された同名ミュージカルの台本を、そっくり収録したものです。

ソ連軍侵攻前後の中国東北部を舞台に、松尾こと円生(角野卓造)と孝蔵こと志ん生(辻萬長)を中心に、さまざまな人物が織り成す人間模様が描かれます。

この戯曲(本)の画期的なところは、生死の縁を病葉のようにさまよう中、二人がどのように「芸」に開眼していくかという物語なのです。

当時、55歳にしてようやく売れ出して、後年のシャープな芸風を確立しつつあった志ん生。敗色濃厚になるにつれ、禁演落語とやらで廓噺もダメ泥棒噺もご法度。

おまけに、開口一番で二人が国民服姿で登場することでわかるように、噺家の象徴であるトバ(着物)まで、空襲で逃げるときに引きずって走れないという、わけのわからない理由で事実上禁止され、フラストレーション爆発寸前。

そこへ、満州へ渡れば白飯も食い放題酒も呑み放題、軍属の少佐待遇でアゴアシ付き月150円という結構ずくめの話だから、たちまち飛びついて、いきなり楽屋で一声。

「松ちゃん、明日行こう」

重苦しい内地を離れると、芸に関しては志ん生は水を得た魚。十歳年下ながら、三遊の総帥、五代目円生の御曹司で豆落語家から順風満帆、真打ちも一年早かった円生に、たちまち遠慮もコンプも雲散霧消、万事師匠気取りの上から目線。あまつさえ、芸の「指導」までおっぱじめる。

一方、円生。

会計係を任されたのに、相方の志ん生は、日本に帰る資金作りと称して、片っ端からなけなしの金を強奪、あげくに博打でスッテンテン。怒り心頭でも、すっぱり別れられないなにかがあるのは、劇中に当人が告白するように、当時、四十半ばにして芸に行き詰まっていたから。

いっそ廃業して、とダンスホールや雀荘経営に手を出しても、借金の山が残るだけ。こちらもやけのやん八で大陸行きに乗ったものの、早くも追い立てを食いそうな大連の宿で、来るんじゃなかったと泣き言。

そこで、志ん生の一言がぐいっと胸を抉ります。

「おまえさんにはなんかある」

続いて、辛辣きわまるご託宣。

「松ちゃんはあいかわらずのそのそのそ、四角四面で行儀正しいだけで、ちっともおもしろくならねえ」

ごもっともと図星をつかれた松ちゃんですが、続けて、志ん生の言う円生の「なんか」というのが、ぶっ飛んでいます(第一幕第三場)。

「松ちゃんは、毎朝毎晩、歯をごしごし磨いている。それが、つまり、そのなんかなんだな」

噺家の商売道具は口と歯。歯なしでは噺はできない。だから、この人は死ぬまで噺家をやろうと心を決めているんだと。その後も志ん生の稽古は続きます。

場は進んで、吹雪の昭和20年暮れ。

ソ連軍に追われ追われて、大連遊郭街、逢坂町の娼妓置屋に居候している二人。

フグ雑炊の鍋を前に、「松ちゃんの上下の移り替えは大きすぎる」とやっつける志ん生。

テンポよく実演付きで「移り替えが大きいとその分、間が空くだろ」。

パパッと語ってストンと落とすから落とし噺、という志ん生。

今話しているのは誰か、客にはっきりわからせるために身振りをゆっくり大きく、という円生の言い分。

「客」の二人の娼妓の感想は、完全に志ん生に軍配が上がります。このやりとりは、おそらく作者の創作でしょうが、晩年に至るまでの二人の芸風の違いが、実によくわかります。

結局、円生は大家となってからも、テンポが遅くてくどい、という欠点を払拭できませんでしたが、志ん生の、当人の自負する落とし噺の切れ味にある種の憧れとコンプレックスを、生涯抱いていたのではないでしょうか。

ただ、自分にはとうてい志ん生のまねはできないと思い定めたとき、向こうが短距離走者ならこちらはマラソンランナーと、じっくり本格的に語り込む人情噺で芸を開花させていったわけです。

もう一つ。

この物語の買いは、志ん生、美濃部孝蔵のふだんの肉声が、よりリアルに「再現」されていること。

それも、ほとんどは作者が創作した可能性が高いにもかかわらず、あたかも生きた志ん生に傍で話を聴いているように、いや笑えること。

「あたしァね、朝めしを抜くと座り小便が出てしまうってえ病気持ちなんだ」

「とんちきおかみめ、はなし家の丸干しでもこさえようてえんだな」

「やーい、いきなり攻め込んできやがって。スターリンのヒキョーモン」

「おまえの髭は毛虫髭」

「その髭に柄をすげて歯ブラシにしてやるぞ」

これは「岸柳島」の船中の町人や「たがや」の弥次馬よろしくですが、まだまだいくらも堪能できます。

井上ひさしがいかに落語に造詣が深く、落語を愛し、自らの劇作の大きな源にしていたか、とりわけ志ん生の諧謔と江戸前の洒脱さを、この東北人が誰よりも深く理解していたことがうかがわれるのです。

もちろん、避難民の悲惨な体験を通しての戦争への告発も、作者の重要な意図であることは確かで、それは場の変わり目ごとに、二人を交えて霊の声のように唱和される歌に象徴されます。

筆者にはあくまで、落語という芸のデーモンに取り憑かれた二人、とりわけ志ん生が、どんな地獄の最中でも、最後の最後まで噺をしゃべり通しているということが印象的でした。

大団円近く、大連のとある修道院で、落語のラの字も知らない院長と三人の修道女を相手に、志ん生が必死に、「元日に坊さんが二人、すれちがって、これが本当の和尚がツー」……と三平並みの小咄を連発するくだりは鬼気迫るものがありました。

第一に腑に落ちたのは、円生と志ん生は、戦後どれほどいがみあいをしようと、原点は大陸で、命のきわを共にした戦友にしてケンカ友達だったということ。その二人の、どんな緻密な伝記作者でも描ききれない心の襞が、この「井上ひさしによる珍道中」で、垣間見せてもらった気がします。

高田裕史


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志ん生とオリンピックとはどんな関係か?


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2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』では、志ん生(北野たけし)が裏の主人公のような役回りを果たしていました。

どう考えても志ん生とオリンピックは関係なさそうなのに、宮藤官九郎の手になると、まるで志ん生が東京五輪を推進していたかのような錯覚に陥るものです。

落語好きには、それはそれでおもしろいドラマになっていましたね。

神木隆之介演じる古今亭五りんという落語家は、架空の人物でしょう。これがおもしろい。

もともと日本には宮本武蔵の『五輪書』という剣の奥義書があります。オリンピックの和訳語としての「五輪」は、川本信正(読売新聞→NHK→内閣情報局→スポーツ評論家、1906-96)の造語でした。

川本によれば、五輪の発想は『五輪書』を踏まえていたそうです。宮本武蔵のあらわした五輪は、地の巻、水の巻、火の巻、風の巻、空の巻をさすのだそうです。

まあ、それはともかく。

昭和11年(1936)7月25日付の読売の見出しに「五輪」が登場したのが初めてのことでした。登場したばっかりの頃は「五厘に通じて安っぽく感じる」という意見もあったそうです。

そうなんです。

「五厘」とは、明治の落語界ではつねに問題をはらんでいた寄席ブローカーの連中をさします。席亭(寄席の社長)と芸人の間で出演を仲介する人(ブローカー)のことです。

割のうち、五厘を天引きしたために、そう呼ばれました。一銭にもならない安っぽい連中という意味合いも込められていて、おしなべて芸人世界の嫌われ者でした。

円朝たち重鎮が五厘の一掃に腐心する姿こそが、明治演芸史での目立った一幕だったのです。

「五厘」のイメージをとうに忘れてしまった昭和になって、オリンピックの五大陸を輪でむすぶという発想からオリンピックの精神を、川本は「五輪」と訳したわけです。

川本は織田幹雄の弟子筋の人ですから、その身はしがない読売新聞の記者とはいえ、並みの記者ではありませんでした。発信力が違います。

映画『日本のいちばん長い日』にも情報局総裁秘書として登場するのですから。驚きです。

川本のアイデアが奏功して、朝日も中外商業日報(日経)も「五輪」を使うようになって、「五輪」はあっというまに日本中に定着しました。

そこで『いだてん』。

その五輪と五厘を掛けているところが、クドカンの凄味だなあと、私(古木優)は感心しています。

五輪の五色とは、旗の左側から青、黄、黒、緑、赤。輪を重ねて連結した形です。ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアの五大陸とその相互の結合と連帯を意味しているそうです。

五りんは架空の人物でも、隣にいつもいる、むかし家今松(荒川良々)はのちの古今亭円菊のこと。本名は藤原淑。昭和4年(1929)、静岡県島田市生まれ。地元の工場労働に見切りをつけて上京、志ん生に弟子入りしました。とちるしかむし覚えは悪いしで、悲惨な弟子でした。

それでも、倒れた志ん生を背負って、銭湯に行ったり寄席に行ったり。苦労して真打ちになります。当時の周囲は「おんぶ真打ち」などとさげすんでいましたが、いずれは独特のアクションを伴った「円菊落語」を創造していくのです。手話やレフェリーのかたわら、アクションに磨きをかけていきました。

ドラマで小泉今日子が演じたのは美濃部美津子。志ん生の長女で、大正14年(1925)生まれで、四人の子供の中で唯一のご存命。志ん生を脇から後ろから眺めてきたマネジャー役でした。こんな人がいらっしゃるのは、志ん生ファンとしては心強いかぎりです。著作も多く、すべてがすばらしい。

その昔、お宅にうかがってしばし志ん生師匠の思い出話を拝聴したことがありました。いい年したおばさんが志ん生師を「おとうさん」と呼んでいたのが印象的でした。この人の心の中には今でも志ん生=美濃孝蔵=おとうさんが生きているんだなあ、と。心のあったかさがしみじみ伝わる人でした。


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志ん生と孫


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「中央公論」1964年の新年特大号。

「うちの三代目」というグラビア特集で、志ん生が三人の孫娘に囲まれ、いかにも幸福そうにニコニコ笑っている写真があります。

いずれも長男十代目馬生の娘たちで、キャプションには当人の弁として「志津子は八つ、由起子は五つ、寿美子は三つである……名前は私と(馬生が)相談してつけた。……今が可愛いね。もう手がかからなくて一番いい頃。朝にはかならず飛び込むようにして私に会いに来る。おじいちゃん、おじいちゃんと言われると、全くたまらないね」という、孫のろけ。

志ん生は当時、病魔をやっと克服して、寄席に復帰したばかり。

その年の秋には紫綬褒章を受章します。

自伝(らしい)『びんぼう自慢』で紹介している通り、志ん生夫妻には「清のところに三人、喜美子のところに二人」で、後に次男志ん朝にも二人誕生して、都合七人の孫。

『びんぼう自慢』の巻頭には、昭和38年ごろの、その五人の孫を含む一家三代の集合写真も掲載されていました。

ところで、「志ん生の孫」でいちばん有名なのは女優の池波志乃。中尾彬夫人で、おしどり夫婦として知られていますね。

十代目馬生の長女で、本名は志津子。その志津子がずっと後、「文藝春秋」1989年9月号誌上に、祖父の回想を寄せています。

そのタイトルはかなり辛辣で「貧乏したのは家族だけだった『勝手な人』」。

で、彼女いわく、「私は初孫ですし、珍しいもんだから、おもちゃみたいに可愛がるんです。でも、元来子供の好きな人ではないので孫と遊ぶのは私であきてしまい、もう子供はうっとうしいと思ったのか、二人の妹のことは全くかまいませんでした」

そういえば、末っ子の志ん朝以外は、馬生を含む上の三人にはほとんどかまいつけず、そもそも、一年中ほとんど家にいなかったというワイルドな親父だった志ん生が、いくら功成り名遂げて金もできたところで、そう簡単に子供好きになるはずもなく、前記の、いかにも孫たちが目に入れても痛くないという風なコメントも、多分に外面の営業用に思えてきます。

「もう手がかからなくて」一番いい、というのは、当時の年齢からして、志津子だけのことでだったのでしょう。

そのほか、彼女の祖父批判は留まるところを知らず、家族がほとんど餓死寸前の極貧生活で、祖母りん夫人の内職だけで辛うじて食いつないでいるのに、祖父志ん生はどこ吹く風、毎日、酒だバクチだお女郎買いだと「別の次元にいるようだった」と、実に手厳しいものです。よほど、幼時に父や祖母から、散々愚痴や恨みつらみを聞かされていたのでしょうね。

この手記でおもしろいのは、批判が祖父だけではなく、後年貞女の鏡、聖女のように讃えられた祖母りんにまで及んでいること。

後年、テレビの志ん生貧乏譚の再現ドラマで、その祖母を演じていましたし、「いだてん」でも同様に演じていたほど、若い頃のりん刀自に瓜二つな池波志乃ですが、いわく「おじいちゃんが売れっ子になって生活がよくなってきたら、かつての貧乏生活の反動か、祖母の金の遣い方が派手になりました」。

祝儀の切り方も手当りた次第、千疋屋から高級メロンをあつらえると、使いの者にまで祝儀の大盤振る舞い。

若い頃はおじいちゃんがすっからかんすっからかんに使い、年取ってからは祖母が浪費して最後には何も残らず、だったよし。

まあ、それだけ長年貧窮を見てきた人だから、そのくらいは、とも思いますが、とかく女の子の家族を見る目というのはシビアなもの。

というより、そういう客観的で怜悧な観察力を、幼時から持ち合わせていたことが、池波志乃の女優としての類まれな資質で、これもまた、りっぱな「名人の系統」なのでしょうね。

高田裕史


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らくごげいじゅつきょうかい【落語芸術協会】

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公益社団法人です。略称は「芸協」。

葉茶屋と水茶屋は異なります。葉茶屋はお茶を売る店。水茶屋はお茶を飲ませる店。その違いは大きいです。茶舗か飲み屋か、ですから。

山下敬太郎の実家は芝の葉茶屋でした。三遊亭金勝が経営する店。敬太郎は金勝の息子です。この息子、7歳で初高座に。天才少年落語家としてまたたく間に知られていきます。のちの柳家金語楼が、その人。

NHKがラジオ放送を始めた頃、席亭はラジオを嫌がりました。席亭に隷従する芸人たちはNHKには出ませんでした。

それが金語楼は率先して出演します。先見の明があったのですが、席亭からは総スカンを食らいます。芸の世界から締め出されるわけです。でも、金語楼の人気はすさまじく。

そこで、この人が活躍する場を確保するために、吉本興行と千葉博己(大正昭和期のフィクサー)が出資して作ったのが、日本芸術協会でした。昭和5年(1930)10月のこと。この名称は昭和52年(1977)まで続きます。当初は会長は六代目春風亭柳橋、副会長が初代柳家金語楼でスタート。実質的には金語楼人気におんぶにだっこだったのですが。

当の金語楼は、昭和17年(1942)に落語家を廃業し、喜劇俳優に転向してしまいます。

昭和59年(1984)、桂米丸が会長のとき、鈴本演芸場と決裂して、以来、芸術協会は鈴本には出ていません。

その頃の芸協は100人にも満たない団体でした。「うちには芸術が入ってる。あっちはない」なんて言って笑わせているつもりの落語家もいました。そうは言っても、10日交代の定席では、「芸協が当番なら行くの、やめよう」という客が出るほどの不入りでした。「古典の協会、新作の芸協」といわれて、本寸法の古典落語を聴きたければ、落協のほうがおもしろい、というのが常識だったのです。

今ではそんな頼りなさからも払拭されて、陣容も200人近く数えます。りっぱなものです。おしむらくは、鈴本で聴けないこと。その分、国立で多めに聴けますが。まあこれも、遠からぬ日解消されることでしょう。

2019年6月、春風亭昇太師が会長に就任しました。

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かみなりもんすけろくはちだいめ【雷門助六 八代目】高田裕史


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八代目 雷門助六(1907-1991)

終生落語会の彗星のようにあっち行ったりこっち行ったり。悠然と非主流を歩み、時折忘れかけた頃合い、ひょこっと現れて自由闊達、しかも練れた芸を披露して、またすっといなくなっちまうという印象の人でした。

なんといっても、師の芸の魅力は仕方噺にありました。

つまり、長編の人情噺をしみじみ聴かせるたぐいの名人ではなく、短い噺を得意とし、実に巧みな仕草で笑わせ、うならせました。

いわば元祖「ビジュアル落語」。例えば、マクラの小咄で人それぞれの癖を演じるのが、この方の独壇場。

ある人はやたらに訪問先の畳のケバをむしる。挨拶をしてしゃべりながらでも、もう目線はさりげなく下に向いて、虎視眈々と畳を狙っている。その目の動きと指の動き、むしったケバをフッと吹くコンビネーションの見事さ。

「七段目」などの軽い芝居噺では、本格に歌舞伎の型を演じ、また、飄々とした踊りのうまさにも定評がありました。

晩年は足が悪く、常に高座に釈台を置いていましたが、いつもにこやかに明るい語り口で、名人気取りなど微塵もなく、客を気持ちよく帰す、という節度の効いたサービス精神に徹底していました。

こういう地味で古風ながら決して陰気にならず、「ゲラゲラ」ではなく「ニヤリ」と笑わせてくれる味な芸。二度とはお目にかかれないでしょう。

高田裕史


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らくごきょうかい【落語協会】

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1923年9月の関東大震災以後、東京で、落語家が大同団結して落語協会を結成しました。

五代目柳亭左楽が会長となりましたが、翌年5月、協会が分裂し、なんと、会長の五代目を含む多くが脱退して「睦会」(震災前にもあった)を再興しました。

その3年後、今度は落語協会が分裂しまして、人気の頂点にあった初代柳家三語楼が一門ごと退会して、全く同名の「落語協会」を設立しました。

話がややこしくなるので、これ以後、旧来の落語協会を「東京落語協会」、三語楼一門の協会を「三語楼協会」と俗称するようになりました。

その後、1978年5月にはまたまた大きな脱退騒動が起こりましたが、これについては、いずれ記します。

要は、この団体というか、落語家という人たちは、なかなか一筋縄にはいかなくて、細胞分裂を繰り返すのが定めのようです。すべては芸のため、とは名ばかりで、金、名声、好悪によるものです。

それでも落語協会は、国内に存在する落語家5団体のうちでは最大手です。他はまったく相手になりません。ついこないだまでの会長は山口那津男、いやまちがえた、柳亭市馬師です。懐メロ王。現在の会長は柳家さん喬師。こちらは踊りの名手です。

しかし、そんなものも全部ひっくるめて、彼らのなりふりすべては人間臭くて憎めなくて、落語の世界そのものではありませんか。たまりません。

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らくごかのかず【落語家の数】


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コロナ禍以前のこと。

五反田のとあるビルで、落語を聴きました。

立川半四楼立川談慶の、です。

半四楼は45歳(当時)の前座だ、というのがウリでした。

しかも。

東大を出ていて、間組や三菱商事なんかで海外駐在経験があって、スペイン語がペラペラなんだそうです。

なんだか、すごいです。

前座ですから、噺そのものはうまいわけではありませんでした。

でも、一生懸命やってて、なんの噺か忘れましたが、頭から湯気が出てる雰囲気でした。

その気迫というか一途な熱演に、近頃見ない風景だったのか、心動かされてしまいました。

落語家はたんにはなしの巧拙ばかりではなくて、このような「余芸」も芸の内で、これをも含めたすべてが「落語家」なのでしょう。

明治から、そんな落語家はうじゃうじゃいたもんです。

変わり種、というやつですね。

落語家って、われわれが抱くイメージとはおよそ異なる出自だったりするもんです。

そこがまたうれしいとこだし、楽しめるひとあじなんです。

会では、談慶師が「文七元結」を熱演したのですが、私はよく覚えておらず、この45歳の前座さんに強烈な印象を受けた次第。

談慶師も慶應義塾大学経済学部卒の元ワコール社員ですから、これはこれでお見事です。

「お互い学歴の無駄遣いをしているね、と楽屋なんかよく言うんです」とは、談慶師のひとこと。自慢でしょうかね。乙な土産話となりました。

立川半四楼、前座、45歳、東大卒。

このかましかたは、落語家の船出としては、とりあえず大成功かもしれません。

ところで、現在、日本には落語家と称する人たちは何人いるのでしょうか。数えてみました。

落語協会   305人
落語芸術協会 180人
三遊一門会  58人
落語立川流  58人
上方落語協会 280人
総計  881人

 2019年11月23日現在

ざっと900人弱、というところですね。日本相撲協会所属のお相撲さんは900人弱だそうですから、いい勝負です。

東京の落語家がざっと600人、上方の落語家がざっと300人、という具合です。

ほかに、名古屋、仙台、金沢もの若干名いるそうですが、「ざっと900人」の中に入れ込める人数です。

ただいま、落語家は900人、です。すごいなあ。

古木優


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らくご【落語】


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人の心を動かす話芸、とでもいうのでしょうか。

「小説」の始まりは『荘子』内編が初出だと、駒田信二が言っていました。

ある村に三本足の烏がいた。

これだけでもう小説なのだ、という例でした。

これを聴いたり読んだりすると、人は「え!」と驚くわけです。そんな烏はいないに決まっているからです。

人の心が動く。

それが小説なんだ、ということです。

ならば、落語だって同じでしょう。

小説の読者は作家の目の前にはいませんから、紙面を通しての交流というか伝達でしょうが、落語のような話芸は、客は目の前にいるわけです。

この人たちの心を動かすのは、笑いと涙にもっていかせたほうが手っ取り早いに決まっています。

涙よりも笑いのほうがにぎやかで儲かりそうだから、というようなわけで、落語は笑い中心の芸になっていったのでしょう。

おおざっぱですが、正解はこんなところにあるのだと思うのです。

ごちゃごちゃ考証してもおもしろいのですが、それでも、とどのつまりはここに行きつくものです。

もとより「落語」ということばは、そんなに古くありません。

ことばそのものは江戸期には生まれていましたが、定着したのは明治に入ってから、というかんじですね。

明治初期の寄席では「はなし」「むかしばなし」などと番付に記しています。

噺家の芸を、なんと称して当局に届け出ていいのか迷ったほどなのですから。

なんとも、こころもとない芸であり、職業です。

でも、それが落語なのでしょう。私はそこが好きです。

「落語」は「おとしばなし」から来た漢語表現ですし、つづめて言うのを好む日本人には「らくご」の語感が向いていたでしょうから、こちらが定着した、ということですね。

「オチ」があるのが落語、とかいわれていますが、別に、落語ばかりの専売特許でもありません。

小説にだって、映画にだって、オチがあるものです。ときに、どんでんがえしのなんていう、ものすごいオチもありますが。

『荘子』での「小説」の意味は「とるにたりない話」ということだそうですから、落語と同じくくりですね。

ということは、「三本足の烏」は小説でも落語でも使えるわけで、出元は同じといえるでしょう。

今では、高座でかかるもの全般、つまり、怪談、人情噺、滑稽噺などをひっくるめて、「落語」と呼んでいますね。

明治初期の、つまり、三遊亭円朝(1839-1900)がいたころの人たちには福音のことばだったんじゃないですかね。いちいち区別している向きもあったようです。

円朝なんか、番付には「新作」と記されています。今となっては笑える表記です。

落語といっても、始まりはなにも特別なものではありません。

われわれの心の中から湧き出てきた思いやおもしろさ、日常生活の中から長い時間をかけて生まれてきたもの、といえるのではないでしょうか。

古木優

【語の読みと注】
荘子 そうじ:荘周が編んだ道家のテキスト。内編は荘周、外編と雑編は偽書
駒田信二 こまだしんじ:中国文学者、作家。1914-1994


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つきていはっぽう【月亭八方】噺家


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【芸種】落語 
【所属】上方落語協会 月亭一門 吉本興行
【入門】1968年12月、初代月亭可朝(鈴木すずき、1938-2018)に入門 八方で
【出囃子】夫婦万歳
【定紋】月、結び柏
【本名】寺脇清三
【生年月日】1948年2月23日
【出身地】大阪市福島区
【学歴】浪商高校(現大坂体育大学浪商高校)→関西学院大学経済学部オープンカレッジコース
【血液型】O型
【出典】上方落語家名鑑 吉本興行 月亭八方Wiki 月亭八方twitter
【蛇足】上方落語協会顧問 息子は月亭八光 「竹の水仙」NHK日本の話芸2022年9月18日放送(2022年7月7日NHK大阪ホール収録)。※浪曲の広沢菊春に基づくものと本人自身がことわっている。大名は細川越中守


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まさおかしきふでまかせえんちょうのはなし【正岡子規『筆まかせ』円朝の話】円朝の迷宮


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正岡子規(正岡常規、1867-1902)の『筆まかせ』第1編にある「圓朝の話」。明治17~22年(1884~89)に書かれた、子規の身辺雑記です。

〇 円朝の話
ある時円朝の話しに、ある画師がある寺の本堂にて画をかきいるに、天人の処に至りしかば小菊という芸妓の顔を写したり。その時仏壇の下より一ヶ所の好男子現れ出で、実は小菊の兄にて故ありて世を憚る身なるが、何とぞかくまいくれまじくやといえば、画師承知して彼の男に小菊の着物をきせ頭を頭巾にて包み水桶と花とを持たしめ、墓参りの如くにいでたたせて出しやりたり。それと引き違えて入り来りしは女房にて、女房は天人の顔が小菊に似たりとてそろそろやきはじめければ、さにあらずと弁解しけるに女房「そんなこといったッてだめです、今此門口を出ていったのは誰です、あれはだれです。あれが小菊ではありませんか」。とさもねたましそうにいえば画師「ムムあれが小菊と見えたか」。女房「見えたかッて小菊はどう見たって小菊に」。画師「ムムそうか、とんだいい」トうれしそうにいうた処は女房の嫉妬に反映していかにも面白く。円朝の妙味ここにありと思えり。女房「何がとんだいいです、ほんとうにあなたは……小菊がきたならきたと、はっきりいっておしまいまさいヨ。……あなたもほんとうに……女房に……トくやしそうになきながらいう。画師「そう疑ぐっては困るじゃないか。小菊は何ですヨ。あの墓参りにきたのですヨ。水桶も花も持てたじゃないか。女房「墓参りなら花も持て来ましょうが、寺から花を持て出ることはありません……」トここらの具合を聞きて余は小説の趣向もかくこそありたけれと悟りたり。

底本:『子規全集』第10巻初期随筆集(講談社、1975年)「筆まか勢」 適宜直しました。

円朝の物語運びの妙に、子規はうなっています。かくや。


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もりおうがいしぶえちゅうさいにとうじょうするえんちょう【森鷗外『澀江抽斎』に登場する円朝】


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森鷗外『澀江抽斎』の「その百十三」に以下のようなくだりがありました。かなり終わりのほうです。

或日又五百と保とが寄席に往った。心打は円朝であったが、話の本題に入る前に、かう云ふ事を言った。「此頃緑町では、御大家のお嬢様がお砂糖屋をお始になって、殊の外御繁昌だと申すことでございます。時節柄結構なお思ひ立で、誰もさうありたい事と存じます」と云った。話の中に所謂心学を説いた円朝の面目が窺がはれる。五百は聴いて感慨に堪へなかったさうである。

 明治20年頃のこと。澀江抽斎の四女陸(くが)が稲葉氏の援助で本所緑町に砂糖店を開きました。評判を聞きつけた円朝は、さっそく高座にちょっとした話題としてマクラにかけたようです。維新後、士族が生活自立に苦労しているのを見るにつけ、このように「がんばってます」といった情報を伝えたかったのでしょう。文中の五百(いお)は保(たもつ)の母、保は陸の夫です。円朝はつねに世事の変化に敏感だったといえます。

ただ、澀江陸はある事情で、円朝はじめ士族のご婦人方の応援にこたえられず、まもなく砂糖店を店じまいすることになってしまいました。残念です。


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くさどせんけん【草戸千軒】古木優


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中世といいますか、戦国時代といいますか。

そこらへんがおもしろくて。

たとえば、斎藤道三。

この人は、僧侶から油売りを経て美濃を奪った梟雄であるかのように語られてきました。

司馬遼太郎の『国盗り物語』でもそんなふうに描かれています。

最近の研究では、こうです。

僧侶から油売りを経て美濃の守護、土岐家の家臣になったところまでは道三の父親で、土岐家を追い出して一国一城の主にのし上がったのが息子の道三だった、とのこと。

二世代にわたる異業績だったわけなんですね。

「まむし」とあだ名された人物のイメージもちょっと変わります。

乗っ取りの英才教育を授かったお坊ちゃん、というところでしょうか。

もひとつ、鉄砲伝来も。

1543年(天文12)に種子島に漂着したポルトガル人が持ってきて、領主の種子島時堯に2丁売った。これが鉄砲伝来だ。

なあんていうような話に、納得していました。

でも、鉄砲は、ですね。

その前すでに倭寇なんかが九州地方に持ち込んでいたことが、最新の研究でわかっているそうです。

南蛮船と呼ばれていたポルトガル人の船(じつはマラッカやルソンの人たちのほうが多かった)も、当時の日本は別に鎖国していたわけでもないし中央のコントロールが機能していなかったので、日本のどこに寄港しても不思議ではありませんでした。

関東や奥州の国人・地侍などが鉄砲を手にすることだってあり、だったのです。

鉄砲が軍制に組み込まれたのは、関東以北では1570年(元亀元)以降とされているのですが、いずれ新事実が明らかとなって、この通説も覆されるかもしれません。

いやいや、もうすでに。

さらに、落ち武者の流亡。

西国の某城で忠勤に励みながらも戦いに敗れて、命からがら逃れた果てが東国、またはみちのく。

この地方は元来穏やかで、いろんな面で遅れていました。だから、落ち武者たちはなにかと有用だったのです。鉄砲の扱い方を伝えたのはこの手の人たちでした。

と、この人たちが東国やみちのくで増えていくと、いくさはまるで西国落ち武者同士の傭兵戦争となって、次第に激しさを増していくのです。

これまで見たこともない戦法なんか使ったりして。あるいは、西国では見果てぬ夢だった思いが東国で実現できたりしたわけ。東漸です。

日本国内には「〇〇千軒」という古地名がいくつか残されています。

広島県福山市の「草戸千軒」がもっとも有名でしょうか。

ここでいう「千軒」とは「栄えた町」くらいの意味なのでしょう。今はさびれてしまったけれど、昔は栄えていたのだ、というようなニュアンスが込められているようです。

滅びてしまった理由はたいてい洪水や津波など天変地異によるもの。

今となってはふるさと自慢の素材のひとつというのが物悲しさを漂わせます。

ただ、「〇〇千軒」に共通するものがいくつかあります。

鉱山と港。近くの山で採れた金銀を海上交通を使ってどこかに運んだ、ということなのでしょうか。

買い手がいたのですね。

どこの誰にでしょうか。

モノばかりか、ヒトも運ばれていったのかもしれません。

毎日必ずどこかで殺し合いがあった戦国時代も、ちょっと見方を変えると別な世界がみえてくるかもしれません。

夢はふくらみますね。

千軒と千字寄席。

これはただの偶然ですが。

こんなふうに、これまで戦国時代の常識とされてきたことが少しずつ剥がされていきなんでもありなのが戦国時代だ、という認識が今日広まりつつあるようです。

ひるがえって、落語。

これはどうでしょうか。

落語史は戦国史と違って、ごく一部の真摯で優れた方々を除けば、いまだにまともな研究者や評論家がいません。

戦国史は多くの大学で学べても、落語史を学べる大学はあまりありません。

あったとしても、教授の片手間か気まぐれです。

落語評論なる文章も、先学諸兄の孫引きが目立って、当人は元が間違っていることにも気づかずにさらしたりしているようで。

それを誰もなにも言わずに放置の状態、なんていうことを見かけます。

われわれもその過ちを犯してきたのかもしれません。

どうにも曖昧模糊、なんだかなあ、いまだ霧の中にたたずんでいるのが落語史の研究。千鳥足の風情です。

いずれ誰かが全体を明らかにしてくれるのだろう。

と、心待ちにしていましたが、いつまで待ってもあまり変わり映えしそうもありません。

そんなこんなで、こちらの持ち時間もじわじわとさびしくなってきた昨今。

ここはもう知りたいことは自分でやるしかないかとばかり、心を入れ替え気合を込めてじわじわがつがつと落語について読み込んでいこうと覚悟を決めたというところです。

落語も戦国時代のような状態なのかもしれません。

われわれは、落語というものを、芸能史の流れ、つまり、口承、唱導、説教、話芸といった一連のたゆたい、舌耕芸態として見つめていきたいのです。

落語は聴いて笑うもので調べるものではない、などと言っている人がいます。

たしかに、落語研究などとは野暮の骨頂なのかもしれません。

ある種の人たちには、「笑い」を肩ひじ張って「研究」するなんてこっぱずかしいなりわいなのでしょう。

それでも。

たとえば、三遊亭円朝が晩年、臨済宗から日蓮宗に改宗したことの意味を、われわれはやはりもう少し深く知りたいものです。

そうすれば、いま残された42の作品の位置づけや意味づけも少し変わってくるかもしれませんし。

世間もわれわれも、なんであんなに「円朝」なるものを仰ぎ見ているのか。

その不思議のわけを知りたいものです。

もひとつ。

明治時代の寄席のありさま。

「寄席改良案」といったものが当時、しょっちゅう新聞ダネになっています。

「町内ごとに寄席はあったもんだ」なんて、まるで見てきたようなことを言っている人がいます。

どうなんでしょうか。

あるにはあったようですが、場末の端席と一流どころの定席では同じ「寄席」でくくるにはあまりにも不釣り合いなほどに異空間だったように思えます。

それはもちろん、今日、私たちが知る鈴本演芸場や新宿末広亭のようなあしらいの寄席とは、おそろしく異なるイメージの空間でもあったようなのです。

寄席で終日待ってても落語家が一人も来なかった、なんていう端席は普通にあったようです。

同席する客は褌一丁で上ははだけたかっこうの酒臭い車引きやひげもじゃ博労の連中がごろごろにょろにょろ。

床にひっくるかえっては時間をつぶし、あたら品ない世間話に花が咲く町内の集会所のようなものだったのでしょう。

これでは、良家の子女は近づきません。

まともな東京人は来ないわけです。

歌舞伎に客を取られてはならじ。

と、寄席や落語家の幹部連中はなんとかせねばとうずうずしていたのが、明治中期頃までの寄席の実態だったようです。

だからなんだ、と言われれば、それまでなんですが。

うーん、それでも、やっぱり、どうしてもそういうところを深く知りたい。

たとえば「藪入り」。

なんであんなヘンな噺が残っているのだろう。

そこには、当時の寄席の雰囲気を知ると見えてくるものがあるんじゃないだろうか、なんて思うわけです。

見たり聴いたり、五感を刺激される体験をしてみる。

それをまた違った形でもいちど味わってみたいという欲求にかられるのも人のさが。そんな人種もたまにはいるのです。

これを機会に、おぼろげでかそけき落語研究の世界について、テキストをしっかり読み込むことで、くっきり視界をさだめていこうと思っています。

いまとなっては、われわれには仰ぐべき師匠も依るべとなる先達もいません。

だから時間がかかります。

勘違いや間違いも、多々あるでしょう。

ご指摘あれば、すぐに直します。

われわれは、かたくなではありません。

そんなこんなで、手探りながらも地道に少しずつ前に進んでいきたい。

そう思います。

ご叱正、ご助言あれば、すこぶる幸い。

お暇な方は、どうぞおつきあいください。



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えどのまち【江戸の町】知っておきたい


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落語や時代劇に登場する江戸の町。そこに出てくることばを集めました。

■土地

江戸入府えどにゅうふ 天正18年(1590)8月1日、徳川家康が江戸城に入ったことをさす。=江戸入城 =江戸入国

御城おしろ 江戸城。江戸町人の日頃の呼称

御府内ごふない 江戸の正式名称

御用地ごようち 江戸幕府の土地

武家地ぶけち 江戸全体の69%

町地ちょうち 江戸全体の16%。町数まちすうは18世紀半ばで1678町

寺社地じしゃち 江戸全体の15%

ときかね 時刻を知らせる鐘。江戸城西ノ丸にあったものが、寛永3年(1626)に日本橋石町三丁目に移り、その後は12か所にも

■水運

江戸湊えどみなと 江戸城前の港。ここを中心に開かれた

河岸かし 町地の荷揚げ場

物揚ものあ 武家地の荷揚げ場

わたし 渡し船の発着する場所。渡船場とせんばとも

■屋敷

屋敷屋敷 家を建てることを許された土地

大名屋敷だいみょうやしき 諸国の大名が幕府から下賜された土地。明暦の大火(1657)以降には、上中下に分けて営むように

上屋敷かみやしき 藩主と家族が住む場所

中屋敷なかやしき 隠居した藩主が住む場所

下屋敷しもやしき 藩主の別荘。避難所や仮屋敷にも。四谷、駒込、下谷、本所などに多い

蔵屋敷くらやしき 湊や河岸にあって、年貢米や特産物を収納したり売ったりするための場所

大縄地おおなわち 大番以下の幕臣で同じ組に属する者にまとめて下賜された土地

上地あげち 幕府拝領地を返納や没収などで戻した土地

定火消屋敷じょうびけしやしき 幕府お抱えの火消しに任命された幕臣に下賜された土地。計10か所

■町地

ちょう 町地では「ちょう」。室町むろまちなどの古町こちょうは例外

まち 武家地では「まち」。番町ばんちょうなど江戸初期の町名には例外も

両側町りょうがわちょう 表通りを挟み、その両側でひとつの町となっているところ

片側町かたがわまち 町の片側だけでできた町。武家地によくあった

横町よこちょう 町地で表通りから横に入る道。幕府の許可制

横丁よこちょう 幕臣の宅地や寺町に入る道

新道じんみち 家屋ができた後にできた町地の道。幕府の許可制

小路こうじ 武家地の通りの呼称。横町に相応

たな 武家が拝領地を町人に貸して地代を取った土地。玄冶店げんやだな木原店きわらだななど。十軒店じっけんだなは例外

代地だいち 町の全部や一部が移転させられた土地

元、本、新もと、ほん、しん 町の丸ごと移転でできた町名。移転元は元や本が、移転先には新が冠された

門前町もんぜんちょう 寺社の前にできた町。寺社奉行支配(管轄)。町奉行所に権限がないため岡場所が発達

広小路ひろこうじ 町地の防火地帯、避難場所

火除明地ひよけあけち 武家地の防火地帯、避難場所。火除地ひよけちとも

■遊里

吉原よしわら 幕府公認の遊郭。初期は葭町に、明暦大火後は浅草田圃に

岡場所おかばしょ 非公認の遊里

四宿ししゅく 江戸の幹線道路に通じる宿場。品川(東海道)、新宿(甲州街道)、千住(奥州街道)、板橋(中山道)。飯盛女ましもりおんなや宿場女郎が黙認され岡場所としても発展


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日本史のあらすじ 目次

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【目次】

■先史・古代

旧石器・縄文時代
弥生時代
邪馬台国
古墳時代とヤマト政権
倭の五王
磐井の乱
部民制
仏教伝来
蘇我氏
大化改新
東アジアの小帝国
壬申の乱
律令国家
古代の女帝
古代荘園
国家仏教
古代家族
郡司
木簡
天智系と天武系
平安仏教
古代社会
十世紀の反乱
阿衡事件
受領
神仏習合
国風文化
四円寺と六勝寺
平安後期仏教
武士

■中世

中世王権
中世宗教
摂関政治
院政
中世荘園
僧侶
治承寿永の内乱
鎌倉幕府
宋元文化
南北朝
室町幕府
室町荘園
中世流通
室町仏教
応仁の乱
天皇と朝廷
畿内の政治権力
東国
戦国大名
中世身分制
中世都市
中世村社会
神祇と神道
中世史料
文字文化
中世合戦
中世城館
中世の女性と家
環境史

■近世

織豊政権
江戸幕府
村と百姓
都市支配
対外関係
幕府と朝廷
寺社支配
キリシタン
江戸幕府の法
参勤交代
幕藩関係
藩の財政
朱子学
米市場
地方商人
町人社会
地主と小作
負担と御救
後期の村社会
農業と漁業
土木技術
帯刀
被差別社会
近世仏教
観光
知の形成
女性
大塩事件
幕末の畿内
幕末の対外関係
幕末の天皇と朝廷

■近代・現代

西洋の衝撃
明治維新
文明開化
日清戦争
武士の近代化
初期議会
日露戦争
近代都市
地方社会
下層社会
交通
学校教育
アイヌと沖縄人
移民
新聞と雑誌
ナショナリズム
ジェンダー
近代家族
台湾
朝鮮
被差別部落
近代宗教
マルクス
近代科学
労働運動
政党政治
大正デモクラシー
大衆消費社会
医療社会
近代農村
国家神道
大戦間の国際関係
昭和天皇
官僚と政党
軍部
日本軍兵士
日中戦争
災害
大東亜共栄圏
日米戦争
戦時下
占領政策
象徴天皇
自民党支配
在日米軍基地
原子力
在日コリアン
高度経済成長
戦後社会
戦後学校教育
平和運動
戦後文化運動
冷戦史
戦後処理
公文書
オーラルヒストリー
環境問題
海外の日本史研究

参考文献:高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館、2016年)、藤尾慎一郎、松木武彦『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』(吉川弘文館、2019年)、中央公論新社編『歴史と人物5 ここまで変わった! 日本の歴史』(中央公論新社、2021年)、大津透ほか編『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店、2013~15年) 、岩城卓二ほか編『論点・日本史学』(ミネルヴァ書房、2022年)

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知りたくなる!故事成語のあらすじ 目次


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「呉越同舟」「臥薪嘗胆」「四面楚歌」……。ことばの奥に潜む物語が四字熟語の魅力です。物語の意味を知り改めて四文字の結びつきや組み立ての深淵や芳醇を感じることが四字熟語のおもしろさ。中国では「故事成語」といいます。落語にも通底する魅力です。ここでは、仏教由来、中国由来、和製の故事成語、さらには名言名句にまで材を求めて、古人の知恵と笑いをさぐってみましょう。2024年7月15日現在。

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あいえんきえん【合縁奇縁】人と人の交わりは不思議な縁によるもの

あいきこつりつ【哀毀骨立】親しい人が亡くなって、悲しくて痩せてしまった

あいきゅうおくう【愛及屋烏】→愛は屋烏に及ぶ

あいこうへんや【哀鴻遍野】難民であふれる

あいごせいもく【相碁井目】実力というものは人さまざま

あいぞうのぬし【愛憎の主】→余桃の罪

あいはおくうにおよぶ【愛は屋烏に及ぶ】人を好きになると周辺にも愛情が及ぶ

あいべつりく【愛別離苦】愛するものと別れる苦しみ

あいまいもこ【曖昧模糊】ぼんやりしていてはっきりしない

あいれんのせつ【愛蓮の説】→蓮は花の君子なる者なり

あうんのいき【阿吽の息】なにかをするときの互いの微妙な調子や気持ちの釣り合い

あおいろといき【青色吐息】弱ったときにでるため息

あおはあいよりいでてあいよりもあおし【青は藍より出でて藍よりも青し】→出藍の誉

あきたかくうまこゆ【秋高く馬肥ゆ】

あくいあくじき【悪衣悪食】質素な暮らしぶり

あくいんあっか【悪因悪果】悪い行いには悪い報いがつく

あくぎゃくむどう【悪逆無道】人の道に背く行い

あくじせんり【悪事千里】悪い行いはすぐに世間に知れる

あくせんくとう【悪戦苦闘】苦しいたたかい

あくにんしょうき【悪人正機】悪人こそ往生するにふさわしい

あくふはか【悪婦破家】心がけの悪い奥さんは家庭を壊す

あくぼくとうせん【悪木盗泉】困っていても他人に怪しまれる行いはしない

あこうのさ【阿衡の佐】名臣が政治を補佐する

あしたにみちをきかばゆうべにしすともかなり【朝に道を聞かば夕に死すとも可なり】

あたらしんみょう【可惜身命】命を大切にする

あつあくようぜん【遏悪揚善】悪を防ぎ、善を用いる

あつうんのきょく【遏雲之曲】雲も立ち止まるほどのすばらしい音楽

あっこうぞうごん【悪口雑言】悪口を言い放題

あつものにこりてなますをふく【羹に懲りて膾を吹く】

あてがいぶち【宛行扶持】一方的に決めた給料

あとぶつ【阿堵物】お金

あびきょうかん【阿鼻叫喚】むごたらしい

あめいせんそう【蛙鳴蝉噪】がやがや

あやうきことるいらんのごとし【危うきこと累卵の如し】

あやのあがん【阿爺の下頷】愚か者

あやまちてあらためざるこれをあやまちという【過ちて改めざる是を過ちと謂う】

あやまてばすなわちあらたむるにはばかることなかれ【過てば則ち改むるに憚ること勿れ】

あゆついしょう【阿諛追従】おもねりこびる

あゆべんねい【阿諛便佞】おもねり口先で立ち回る

あらたにもくするものはかならずかんむりをはじきあらたによくするものはかならずころもをふるう【新たに沐する者は必ず冠を弾き新たに浴する者は必ず衣を振るう】

あんうんていめい【暗雲低迷】穏やかならぬ状態が長く続く

あんえいのこきゅう【晏嬰の狐裘】倹約する

あんきょらくぎょう【安居楽業】落ち着いて好きな仕事ができる

あんこうそえい【暗香疎影】春の夕暮れ

あんしのぎょ【晏子の御】他人の権威におんぶして偉ぶる

あんしゃほりん【安車蒲輪】老人をもてなす

あんしょうのぜんじ【暗証の禅師】教理に暗い僧侶

あんじんりゅうめい【安心立命】天命にまかせ心の乱れがない

あんせんしょうじん【暗箭󠄀傷人】闇討ち

あんたくせいろ【安宅正路】仁と義とは安らかな家と整理された道

あんちゅうひやく【暗中飛躍】人知れずしのんで活躍する

あんちゅうもさく【暗中摸索】手探りで試みる

あんねいちつじょ【安寧秩序】社会に不安なく整然とした状態

あんぶんしゅき【安分守己】本文を守って生きる

いあくのしん【帷幄の臣】参謀

いいきのき【異域の鬼】客死

いいせいい【以夷制夷】外国同士を戦わせて自国を守る

いいだくだく【唯々諾々】人の言いなり

いいれんれん【依依恋恋】恋しくて離れられない

いおうえきぎょう【易往易行】念仏だけでたやすく往生できる

いかいくんとう【位階勲等】功績ある者に国家が与える栄典

いかんせんばん【遺憾千万】残念でたまらない

いかんそくたい【衣冠束帯】大げさな礼装

いきけんこう【意気軒高】元気はつらつ

いきじじょ【意気自如】いつもと同じく平然としている

いきしょうちん【意気消沈】しょげている

いきしょうてん【意気衝天】意気込みがさかん

いきそそう【意気阻喪】やる気なし

いきとうごう【意気投合】互いの心が通じ合う

いきようよう【意気揚揚】得意で誇らしげ

いきんかんきょう【衣錦還郷】出世し富や地位を得て故郷に戻る

いきんのえい【衣錦の栄】故郷へ錦を飾れるほまれ

いくえい【育英】

いくいくせいせい【郁郁青青】草木が香りよく青々と茂る

いくどうおん【異口同音】多くの人の意見が一致する

いげんのはい【韋絃之佩】おのれの性格の欠点をただすための戒め

いこくじょうしょ【異国情緒】外国の雰囲気が漂う

いこみき【已己巳己】互いに似ている

いしきもうろう【意識朦朧】意識がしっかりしない

いしにくちすすぎながれにまくらす【石に漱ぎ流れに枕す】

いしにたつや【石に立つ矢】→桃李言わざれども下自ら蹊を成す

いしはくじゃく【意志薄弱】自分でけ決められない

いしべきんきち【石部金吉】融通が利かない人

いしゅうばんさい【遺臭万載】悪い評判を後世までのこす

いじゅこううん【渭樹江雲】遠方の友を思う

いしょうさんたん【意匠惨憺】工夫をこらす苦心

いしょくたりてれいせつをしる【衣食足りて礼節を知る】

いしょくどうげん【医食同源】医療と食事は元は同じ

いしんでんしん【以心伝心】ことばに出さずとも互いの思いが伝わる

いたいどうしん【異体同心】→一心同体

いだてんそう【韋駄天走】足が速い

いたんじゃせつ【異端邪説】よこしまな考え

いちいせんしん【一意専心】そのことだけに心をくだく

いちいたいすい【一衣帯水】川や海を隔てながらも近接している

いちいんいったく【一飲一啄】自由に生きる

いちおういちらい【一往一来】行ったり来たり

いちげつさんしゅう【一月三舟】仏の教えも人によってさまざま

いちげいいちのう【一芸一能】得意とする技芸や技能を一つ持っている

いちげんこじ【一言居士】ひとこち言っておかなくてはおさまらない人

いちごいちえ【いちごいちえ】一生に一度の出会い

いちごいちじゅう【一伍一什】始めから終わりまで

いちごみょうち【一牛鳴地】距離が近い

いちじせんきん【一字千金】価値ある文字や文章

いちじつさんしゅう【一日三秋】待ち焦がれる

いちじつのちょう【一日の長】経験や技能がちょっとまさる

いちじつへんし【一日片時】わずかの時間

いちじふせつ【一字不説】釈迦は真理を説いていない

いちじほうへん【一字褒貶】一字の使い方次第で褒めたり貶したりする

いちじゅういっさい【一汁一菜】粗食

いちじゅのかげ【一樹の陰】このかかわりは前世から因縁による

いちじょうのしゅうむ【一場の春夢】人生の栄華ははかない

いちじりゅうこう【一時流行】時流に応じて変化する俳句

いちじんほっかい【一塵法界】一つの塵の中にも全宇宙が含まれる

いちぞくろうとう【一族郎党】家族と関係者すべて

いちだくせんきん【一諾千金】約束は重んじる

いちねんつうてん【一念通天】念じて努力すれば思いは天に通じて成功する

いちねんほっき【一念発起】決心する

いちばくじっかん【一暴十寒】ちょっと努力したあとずっと怠けていてはだめ

いちばつひゃっかい【一罰百戒】一人を罰して多くの人のいましめとする

いちびょうそくさい【一病息災】持病が一つあるほうが長生きする

いちぶいちりん【一分一厘】ほんの少し

いちぶしじゅう【一部始終】ことの顛末

いちぼうせんり【一望千里】見晴らしがよい

いちぼくいっそう【一木一草】無視できない小さいもの

いちまいかんばん【一枚看板】一座の大立者

いちみととう【一味徒党】仲間

いちもうだじん【一網打尽】一味を全員つかまえる

いちもうふばつ【一毛不抜】けち

いちもくじゅうぎょう【一目十行】理解力をもった速読の人

いちもくりょうぜん【一目瞭然】一度見ただけではっきりわかる

いちもんふつう【一文不通】一字もわからない

いちやけんぎょう【一夜検校】成金

いちやじっき【一夜十起】私心をなくすのは難しい

いちようおちててんかのあきをしる【一葉落ちて天下の秋を知る】些細な前兆から大事を予知する

いちようらいふく【一陽来復】冬至→冬が過ぎて春が来る→新年

いちりいちがい【一利一害】利もあれば害もある

いちりゅうひゃくぎょう【一粒百行】一粒の米には百の作業を経る

いちりゅうまんばい【一粒万倍】わずかなものが大きな利益をつくる

いちれんたくしょう【一蓮托生】運命をともにする

いちろへいあん【一路平安】道中無事で

いっかくせんきん【一攫千金】不労で巨利を得る

いっかんのふうげつ【一竿の風月】俗事にとらわれない生活

いっきいちゆう【一喜一憂】状況次第で落ち着かない心持ち

いっきかせい【一気呵成】ひといきにやり遂げる

いっきじっき【一饋十起】政治に熱心

いっきとうせん【一騎当千】一人で千人力

いっきのこう【一簣の功】仕上がり直前のちょっとした努力

いっきゅうのかく【一丘の狢】別物に見えてもよく見ると同類

いっきょいちどう【一挙一動】細かい動作

いっきょりょうとく【一挙両得】一つのことをして二つの利益を得る

いっけんらくちゃく【一件落着】一つの事柄や事件に決まりがつく

いっこうりょうぜつ【一口両舌】前に言ったことと後で言ったことが違う

いっこくせんきん【一刻千金】千金ほどのすばらしい時間

いっこけいせい【一顧傾城】美人

いっこせんきん【一壺千金】つまらない物でも時と場合次第では貴重品に

いっこのえき【一狐の腋】希少で珍重すべきもの

いっさいかいくう【一切皆空】すべてのものには実体がない。仏教

いっさいがっさい【一切合切】すべて

いっさいしゅじょう【一切衆生】生きているものすべて。仏教

いっしそうでん【一子相伝】奥義を自分の子どもにだけ伝える

いっしどうじん【一視同仁】人を分け隔てなくいつくしむ

いっしはんせん【一紙半銭】わずか

いっしゃせんり【一瀉千里】文章がすらすら書ける

いっしょういちえい【一觴一詠】一杯飲むたびに一編を作詩する

いっしょうさんたん【一唱三嘆】詩をほめる

いっしょくそくはつ【一触即発】危険な状態

いっしんいったい【一進一退】進んだり戻ったり

いっしんどうたい【いっしんどうたい】二人以上が強く結ばれる

いっしんふらん【一心不乱】集中する

いっすんのこういん【一寸の光陰】わずかな時間

いっせいのゆう【一世の雄】時代の英雄

いっせいふうび【一世風靡】時代の流行

いっせつたしょう【一殺多生】一人を殺して大勢を救う。仏教

いっせんそうちょう【一箭双雕】一石二鳥

いったんかんきゅう【一旦緩急】いざという時

いっちはんかい【一知半解】中途半端な知識

いっちょういっし【一張一弛】時に厳しく時におおらかに

いっちょういっせき【一朝一夕】わずかな時日

いっちょういったん【一長一短】いいところもあれば悪いところもある

いってきせんきん【一擲千金】大金を一度に使う

いってんいっかく【一点一画】構成要素

いってんばんじょう【一天万乗】天子

いっとうりょうだん【一刀両断】決断が早い

いっとくいっしつ【一得一失】得たりなくしたり

いっぱいちにまみれる【一敗地に塗れる】大敗

いっぱつせんきん【一髪千鈞】危険まるだし

いっぱんをみてぜんぴょうをぼくす【一斑を見て全豹を卜す】見識が狭い→ちょぼいち

いっぱんのむくい【一飯の報い】一度の飯の恩に報いる

いっぴんいっしょう【一顰一笑】顔に出る心の変化

いっぺきばんけい【一碧万頃】青々と広がる水面

いっぺんのひょうしん【一片の氷心】清く澄んだ心

いつぼうのあらそい【鷸蚌の争い】→漁父の利

いつやのらん【乙夜の覧】天子の読書

いつをもってろうをまつ【佚を以て労を待つ】

いっきょしゅいちとうそく【一挙手一投足】

いっけんかたちにほゆればひゃっけんこえにほゆ【一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ】

いっしょうこうなってばんこつかる【一将功成って万骨枯る】

いっしんどうたい【一心同体】

いっすいのゆめ【一炊の夢】

いったんのしいっぴょうのいん【一箪の食一瓢の飲】

いっていじをしらず【一丁字を識らず】

いっぱいちにまみる【一敗地に塗る】

いっぴんいっしょうをおしむ【一嚬一笑を愛しむ】

いっぷかんにあたればばんぷもひらくなし【一夫関に当たれば万夫も開く莫し】

いつぼうのあらそい【鷸蚌の争い】→漁父の利

いちもってこれをつらぬく【一以て之を貫く】

いのちながければすなわちはじおおし【寿ければ則ち辱多し】

いのなかのかわずたいかいをしらず【井の中の蛙大海を知らず】

いばしんえん【意馬心猿】

いへんさんぜつ【葦編三絶】

いんがおうほう【因果応報】善行には善報が、悪行には悪報が

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がんこうしはい【眼光紙背】文字づらばかりか文章の深意を知る

がんこうしゅてい【眼高手低】口ほどにもない 談志

かんしょうばくや【干将莫邪】伝説的な名剣

きゅうぎゅうのいちもう【九牛一毛】取るに足りない

けいぐんのいっかく【鶏群一鶴】凡人の中に一人傑物がいる

こうこうのしつ【膏肓の疾】不治の病

こうてんしんなくただとくをこれたすく【皇天親なく惟徳を是輔く】天は徳人を助ける

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しゅつらんのほまれ【出藍の誉】

せきあくのよおう【積悪余殃】悪を積んだ家ではその悪報が子孫に

せきぜんのよけい【積善余慶】善を積んだ家ではその余徳が子孫に

ぜんいんぜんか【善因善果】よい原因にはよい結果が

そうじょうのじん【宋襄の仁】いらぬ気遣い

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たざんのいし【他山の石】他人の悪行を見て自己の向上を図る

ちみもうりょう【魑魅魍魎】化け物いろいろ

ちんけんへいも【椿萱並茂】両親が健在

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はすははなのくんしなるものなり【蓮は花の君子なる者なり】

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ゆうずうむげ【融通無碍】のびのび 志ん生

ようしほうこう【雍歯封侯】部下を安心させるには嫌いな者をまず抜擢する

よとうのつみ【余桃の罪】

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参考文献:『中国故事物語』(後藤基巳ほか編、河出書房新社、1972年)、『中国名言物語』(寺尾善雄著、河出書房新社、1972年)、『日本故事物語』(池田弥三郎著、河出書房新社、1967年)、『中国の故事と名言五〇〇選』(駒田信二ほか編著、平凡社、1975年)、『新明解四字熟語辞典』(三省堂編修所編、三省堂、2010年)、『岩波四字熟語辞典』(岩波書店辞典編集部編、岩波書店、2002年)、『大漢和辞典 修訂第二版』(諸橋轍次編、大修館書店、1989-90年)

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ぶんしちもっとい【文七元結】落語演目

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【どんな?】

博打三昧の長兵衛。娘が吉原に身売りに。
手にした大金でドラマがはじけます。
円朝噺。演者によってだいぶ違う噺に。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町だるまよこちょうに住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打ばくちに凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん。

法被はっぴ一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添のちぞいの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持てあましていると、出入り先の吉原、佐野槌さのづちから使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと内儀おかみさんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、内儀さんのかたわらでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打熱をやめさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、内儀さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、内儀さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日おおみそかまでに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら

「あたしも鬼になるよ」
と言い放ち、さらには、
「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、
「必ず迎えに来るから」
とお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋あずまばしに来かかった時。

若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛。

抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲べっこう問屋近江屋卯兵衛おうみやうへえの手代、文七。

橋を渡った小梅おうめの水戸さま(水戸藩下屋敷)で掛け取りに行き、受け取った五十両を枕橋まくらばしですられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなの卯兵衛は
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心。

長兵衛が文七に話した「吉原佐野槌」という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出す。

翌日。

卯兵衛は文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねる。

長兵衛夫婦は、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入った卯兵衛が事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠かごに乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと申し出る。

これから、文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂かいさかに元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

円朝の高弟、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が継承して得意にしました。

明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、五代目円生(村田源治、1884-1940、デブの)など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)に伝えました。

この二人が先の大戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の円楽、談志、志ん朝ももちろん得意にしていました。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なります。

円朝と円生とでは、吉原佐野槌→京町一丁目角海老、五十両→百両、日本橋横山町近江屋→白銀町三丁目近卯、麹町六丁目→麹町貝坂と、それぞれ異同があります。

五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、「佐野槌」「横山町近江屋」「五十両」が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町2丁目の近惣としていました。

五代目円生が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志(松岡克由、1935-2011)は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。

元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。

江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町1丁目から2丁目に登る坂です。

元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町6丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)です。

長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれました。

「人情噺文七元結」として、代表的な人気世話狂言になっています。

六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化は7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。

この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐります。

大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。

落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。

ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。

そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。

戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。

立女形たておやま(歌舞伎の立役や座頭ざがしらの相手役をつとめる座で最高位の女形)にして映画俳優でもあった、四代目中村雀右衛門(青木清治、1920-2012、七代目大谷友右衛門)の若き日ですね。

長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。

しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

https://www.youtube.com/watch?v=7FfdnIA5E_I

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

こうてんしんなくただとくあるをこれたすく【皇天親なくただ徳をこれ輔く】故事成語 ことば

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

この故事成語が注目されているのは、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)でのシークエンスにあります。

ことばの意味は、こんなかんじです。

天はえこひいきすることなく、ひたすら徳をもった人にだけ援助するものだ。

「皇天」は広い天の意味で、天に敬称をつけた表現です。「皇」には「おおらかな」「広い」のニュアンスがあります。日本の「天皇」につながる語感です。

中国の「天」は、神のような意思をもちながらも茫漠とした存在です。天の仕業は人間には結果しか見えません。愛とか救済とかはないのです。人間の行いをたまに手伝うくらい(愚公山を移す、とか)。

初出は『書経(尚書とも)』から。孔子が編纂したとされる史書で五経の一。中国最古の書です。

ちなみに。

「天」で思い出すエピソードがあります。

昭和47年(1972)9月、田中角栄首相が電撃訪中したときのこと。

29日に日中国交回復を果たした田中は、中国の当時の首脳である毛沢東と周恩来に向けて、以下の七言絶句を送ったのでした。

国交途絶幾星霜 国交途絶して幾星霜
修好再開秋將到 修好再開して秋まさに到らんとす
隣人眼温吾人迎 隣人眼温かくして吾人迎ふ
北京空晴秋気深 北京空晴れて秋気深し

田中はコワモテ風なのに漢詩をつくるなんてすごいなあ、と私は思ったのですが、よく読むと漢字を並べただけの文字列でした。押韻もないし。

「吾人迎」は「隣人が自分を迎えてくれる」ということなら「迎吾人」がよいでしょう。「秋」が二回登場するのも詩心の欠如を感じます。

「北京の空」と言いたいのなら、「北京空」ではなく「北京天」がよいはずです。「空」は「むなしい」の意味にしか使いません。

「天」にはおおざっぱに、①空と②造物主の意味があります。田中の詩は①、「皇天親なく……」は②の意味となります。

田中の詩は、漢詩を愛好する人たちにはぼろくそでした。慶応義塾の中国文学科出身の柴田錬三郎(齋藤錬三郎、1917-78)なんかは、すさまじく憤ってましたねえ。

とはいえ、今太閤の田中なら専門家に代作させることだってたやすかったはずなのに、一人でがんばってつくったわけで、見上げたものです。すばらしいと思いました。

ドカチン出身の田中が見よう見まねでつくった漢詩。

その稚拙かつ無知のあけっぴろげぶりに、毛沢東も周恩来も、逆に感激したのではないでしょうか。

いまでも、中国の要人が訪日すると田中真紀子氏に挨拶しに行くのは、ホントのところは、この一件に由来するのかもしれません。

話が逸れ過ぎてしまいました。

閑話休題。

では、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)での、このことばが登場したシークエンスについてお話ししましょう。

実子の乃木憂助(堺雅人)に倒されたノゴーンベキ(役所広司)。

彼を葬るにあたって、バルカの次男ノコル(二宮和也)が電話で「墓はバルカに建てさせてほしいが、かまわないか」と、日本にいる長男の憂助に尋ねます。

憂助はすかさず「皇天親なく、ただ徳をこれ輔く。花を手向けるのはまだ先にするよ」と返しました。

これを聴いたノコルの表情は、少々険しかったように見えました。

じつはこのことば、故事成語の中では上級の部類です。

現在、日本での中型漢和辞典の代表格は『漢辞海』(三省堂)、『漢字源』(学研)、『新字源』(KADOKAWA)あたり。そのいずれにも載っていません。

読売新聞の過去40年間の記事にも一度も使われていません。新聞記者程度の学力や教養では、ちょっと無理でしょう。

われわれの生活では、まず使うことはない。知ることなしに人生を閉じてもどうってことないこたば。志ん生がよく言う「シャツの三つ目のボタン」というやつ。あってもなくてもよい。そんなかんじのことばなんですね。

知っていれば、人生豊かになるかもしれませんが、言ってみたところで相手に通じないなら、無意味です。これでは会話が成り立ちませんからね。

ノコルも意味がわからなかったのでしょう。「花を手向けるのはまだ先にするよ」にいたってはじめて、憂助の真意を解したかんじです。

ベキらが上原史郎(橋爪功)の自宅で憂助に倒されたにもかかわらず、その後、上原宅が全焼し、焼け跡から三つの焼死体が。

「スス同然で発見されました」と公安の野崎(阿部寛)が上原に報告し、上原は「そんなウソがまかり通るのか」とぼやいています。公安、ではなく、別班の仕業ですかね。

現場に居合わせた上原なのに、その件については言及を避けます。ベキが上原を狙ったのは40年前の私怨によるものだったことがわかり、うしろめたさが噴出したからなのでしょう。

ベキを倒した憂助。別班の任務。でも、しっかり親殺し。ベキの「死」をみとったのは憂助だけでした。ベキは死んだのか、生きているのか。「VIVANT」のこれまでの流れから見れば、そうとうにあやしい。

ベキは生きている。ならば、配下のピヨ(吉原光夫)も、バトラカ(林泰文)も。

ということは、このドラマは続編がある、ということです。

ベキは十二分に徳を抱いた人です。この成語にふさわしい人物でしょう。殺人集団の親玉でありながらも、その徳は「天」も黙っちゃいられないほどなのです。

われわれは、「VIVANTの最終回は?」でドラマの結末を予想しました。

テントの壊滅(→実は解体)、ベキの死(→実は生きている?)、ノコルの死(→たしかに生きている)、ピヨの死(→実は生きている?)、バトラカの生存(→実は生きている?)、ベキと憂助の親子の絆(→かたく結ばれたかんじ)、憂助の除隊(→実は辞めていない)……というぐあいに。

大筋では当ててますが、細部は予想外も。まあ、60点程度でしたかねえ。

テントの派手な爆死がなかったのは、最終回にいたって、制作費が枯渇したからでしょうか。最終回は動的描写があまりにもなかった。企業と政府の買収劇など、半沢直樹もどきがメインで。バルカくんだりでこんな屋内劇を見せられてもねえ。意外にしょぼかった。

「復讐して」。明美が放った断末魔のささやきは、ベキの心に40年間たゆとうていました。

ただ、復讐すべき相手が、かつて乃木卓(→ベキ)の上司である上原史郎(警視庁公安部外事課課長→内閣官房副長官)だった、という、このオチ。

これも正直、意外にしょぼかったです。

上原が内閣総理大臣に出世していたなら、大いに復讐し甲斐もあって、おもしろかろうものを。官僚出の官房副長官では、ちょっとねえ。

ここまで引っ張ってきて、土壇場のダウンサイジングはなんたること。ぽかーん。

最後に。

丸菱商事財務部の太田梨歩(飯沼愛)の正体。じつは、世界で暗躍する天才的な凄腕ハッカー、ブルーウォーカー(blue@walker)でした。

第4回では、太田が送金プログラムを改竄していたのが明るみになりました。

警視庁公安部が踏み込んだ太田の自宅からの押収品の中には、なんと、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の『文楽全集』(小学館)や『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)などがあったのです。

そのCD群の一枚に隠されていたハッキング記録を、野崎が発見。あの刹那、この子(太田梨歩=飯沼愛)はホントに落語ファンなのかい、と落語ファンの視聴者はいぶかしんだものです。

でも。

最終回では、彼女の作業部屋から「一丁入り」がまたも流れていました。これにはビックリ。

言わずと知れた、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の出囃子です。気が緩みます。

彼女はやはり、モノホンの落語ファン、それも本寸法のしんぶんマニア(志ん生と文楽のファン)とお見受けしました。上原のしょっぱい肩透かしは、むしろ太田のたっぷり好みに救われたかんじでしたね。

ウルトラセブンといい、ハリポタといい、「VIVANT」全編を通じての、この手の小物アソビは雲に御す喜びでした。

続編では何が出てくるのでしょう。待ち遠しいですね。



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                       伏線回収に期待が集まる下巻☟

だんしゅうろうえんし・しょだい【談洲楼燕枝・初代】噺家

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【芸種】落語
【所属】
【入門】
【前座】
【二ツ目】
【真打ち】
【出囃子】
【定紋】
【本名】
【生年月日】
【出身地】
【学歴】
【血液型】
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】

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らくごかのどこをみているのだろう【落語家のどこを見ているのだろう】古木優


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先日、落語家の「実力」って、なんだろう?という記事を見つけました。

ここには「落語家の偏差値」が載っていました。かつて、われわれ(高田裕史/古木優)がアップロードしていた記事です。

引っ越しやリニューアルのどさくさで散逸したままでした。もう、わが方には残っていません。懐かしかったので、孫引きさせていただきました。

それが、以下の通り。2.5刻み、河合塾方式のパロディーです。

[独断と偏見] 基準は、うまいかへたか、だけ。
70.0 小三治
67.5 雲助
65.0 さん喬 権太楼 桃太郎
62.5 小柳枝 鯉昇 喜多八 志ん輔 小里ん
60.0 小朝 川柳 馬桜 志ん五
57.5 志ん橋 正雀 小満ん 喬太郎
55.0 円太郎 小さん ぜん馬 竜楽
52.5 昇太 扇遊 菊春
50.0 歌之介 馬生 市馬 平治 白酒 扇治 正朝
47.5 玉の輔 たい平  扇辰 三三 兼好 文左衛門 金時
45.0 花緑 彦いち 志の輔 南なん 菊之丞 とん馬
42.5 志らく 一琴 白鳥 談春
40.0 三平 幸丸 楽輔
37.5 歌武蔵 談笑
35.0 正蔵
32.5 愛楽
30.0 

以上は、「HOME★9(ほめ・く) 偏屈爺さんの世迷い事」というブログからの転載です。勝手に転載してしまいましたが、お許しを。すみませーん。

「偏屈爺さん」は記事中、われわれの評価だけを記していたのではありません。

堀井憲一郎氏が『週刊文春』に載せた「東都落語家2008ランキング」をも引用して、両者を比較しているのです。

ともに、2008年当時の落語家を評価しているわけです。ちょっと凝った趣向です。おもしろい。

堀井氏のも孫引きしてみましょう。それが、以下の通り。

0 立川談志
1 柳家小三治
2 立川志の輔
3 春風亭小朝
4 柳家権太楼
5 春風亭昇太
6 立川談春
7 立川志らく
8 柳家喬太郎
9 柳家さん喬
10 柳亭市馬
11 柳家喜多八
12 林家たい平
13 柳家花緑
14 三遊亭白鳥
15 五街道雲助
16 古今亭志ん輔
17 三遊亭小遊三
18 古今亭菊之丞
19 三遊亭歌武蔵
20 三遊亭遊雀
21 林家正蔵
22 柳家三三
23 昔昔亭桃太郎
24 春風亭一朝
25 瀧川鯉昇
26 春風亭小柳枝
27 立川談笑
28 三遊亭歌之介
29 橘家文左衛門
30 林家彦いち
31 春風亭百栄
32 三遊亭圓丈
33 桃月庵白酒
34 入船亭扇辰
35 三遊亭兼好
36 入船亭扇遊
37 橘家圓太郎
38 春風亭正朝
39 桂歌春
40 むかし家今松
41 春風亭柳橋
42 三遊亭笑遊
43 古今亭志ん五
44 柳家蝠丸
45 柳家小満ん
46 川柳川柳
47 林家三平
48 古今亭寿輔
49 立川生志
50 桂歌丸
51 春風亭勢朝
52 林家正雀
53 柳家はん冶
54 林家木久扇
55 三遊亭圓歌
56 橘家圓蔵

壮観です。

わが方が56人までしか取り上げていないため、堀井氏のほうも56人どまりにして、比較の条件を同じくしています。工夫を見せてくれている。さすが。

そこで、「偏屈爺さん」の解析。

①1位から15位までは両者とも同じ、②16位以下ではだいぶ違っている、ということでした。

おおざっぱにはそんなところでしょう。同意いたします。

ただ。

われわれの視点と、堀井氏の視点には、じつは、決定的な違いがあります。

五街道雲助師についての評価です。

われわれは、「小三治の次は雲助」というのが、当時の評価の大眼目でした。

われわれは「うまいか、へたかだけ」しか見ていません。ですから、2008年時点の落語家の中で、「雲助は二番目にうまいんだ」という評価でした。小三治に次ぐ二番目、ということですね。

じつは、この一点だけのためにこさえたのが「落語家の偏差値」だったのです。誤解を恐れずに極論すれば、ほかはおにぎやかしです。

堀井氏のは、雲助を15位(談志を含めれば16位)に置いています。

ランキングですから、序列のように見えます。その結果、権太楼やさん喬よりも、雲助は下位となっています。

雲助の芸をあまり重視していなかった、というふうにも見えてしまいます。おそらく、堀井氏の心底はそんなところだったのでしょう。

ちなみに、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(広瀬和生著、光文社新書、2011年)という本。

このほほえましい怪著では、落語評論家の広瀬氏が、巻末付録に「落語家」「この一席」私的ランキング2010、というものを掲げています。

初出は2010年。われわれの評価よりも新しいはずなのですが、雲助は出てこない。

弟子の白酒は絶賛していても、師匠には言及がない。雲助の芸風は落語評論家の埒外である、と唱えているのかもしれません。

要約すれば。

堀井氏も落語評論家の広瀬氏も、雲助の芸はどうでもよい、という評価なのでしょう。

いまも、雲助への評価は、お二人とも変わらないのでしょうか。

落語家のどこを見ているのだろう、と思います。

世に落語家と称する方々は900人余いるようですが、噺を何度も聴いてみたいなと思えるのは、10人いるかな、といったところでしょうか。

話芸についての、この数は、いつの時代であっても、変わらないように思えます。

ただ。

それとはべつに、味わい深く、ちょいと乙な、えも言われずに心地よく、つい気になってしょうがない落語家というのが、じつは、いるものです。

落語家の芸は、噺を聴かせるだけではありません。

さまざまな所作で笑わせてくれるし、そこにいるだけで楽しくなるし、人の心をあたたかく豊かにしてくれます。

これらもまた、落語家の魅力です。

新東宝の67分間を暗がりで見ているうちに、情が移って岡惚れしてしまう女優がいるもんです。

織田おりた倭歌わかなんかが、私にはそんな人でした。(『の・ようなもの』にもちょっとだけ出てました)

あれにも似た感覚かなと思っています。

この、味わい深さとほんのりしたぬくもり。なんともいいもんです。

都内の寄席での10分程度のかかわりでは、「岡惚れ」は至難の業でしょうか。

いやいや、そうでもありますまい。

その昔、深夜寄席で見つけて以来のとっておきの面々も、大御所になっていますから。

今にして思えば、あの偏差値の方々の多くは、深夜寄席での「先物買い」だったのかもしれません。

※「HOME★9(ほめ・く) 偏屈爺さんの世迷い事」さん、ありがとうございました。


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