さじかげん【匙加減】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

大岡政談のひとつ。
なんとも痛快なお裁きものです。

【あらすじ】

享保の頃。

三田に阿部玄渓という名医がいた。

その息子の玄益は二十五歳で、医道の腕はいいが、まじめ一辺倒の堅物男。

気晴らしは神社仏閣めぐりという、なんとも色気がない。

今日も今日とて、川崎大師にお参りに向かった。

帰りは雨模様となって、途中の品川宿で、急きょ、雨宿りとなる。

なんでもいいからと、狩野屋なる茶店に上がった。

美しい芸妓が現れた。うぶがちな色気が漂う。お奈美という。

神のおぼしめしか。

玄益はお奈美にひとめぼれ。

翌日からは、狩野屋通いに精出す始末。

玄益はやることなすこと、すべてが一本気の構えだ。

やがて手持ちも不如意となり、ついには、父親の医書を質入れして、金の算段に。

それがばれて、父からは勘当とあいなった。

なんとも絵にかいたような放蕩の顛末。

この一件で、はたと目が覚めた玄益。

心を入れ替えて、実家を離れる。

八丁堀の一隅に「医」の看板を掲げる。

今度は、医道に一本気に突き進んだ。

一心不乱、精進し続けて、玄益ならぬ現役丸出しの評判医へと。

一本気と一心不乱で、二年がたった。

ゆとりを見せた玄益。

「少し休んだくらいでも、減益とはなるまい」

南の品川宿へ。

狩野屋にあがり、なじみだったお奈美に会おうとした。気にはなっていたのだ。

えびす顔で出てきたのは、狩野屋主人。

かつては贔屓として、顔なじみだった男。だが、こんな顔には用はない。

「若先生、二年前に、お奈美と夫婦の約束をしたんですかい」

そう聞かれて玄益、あたまをかきかき、苦い白状となる。

「ははは、冗談にも、そんなことを言ったやもしれませんなあ」
「それそれ。お奈美は、若先生のそれを本気にしていましたんで。さりながら、若先生はまもなく勘当のおん身に。ここへも来られなくなっちまいましてね。お奈美は『そのうちに若先生が迎えに来る』と信じているうちに、二年たちまして。とうとう、気がおかしくなっちまいました。ぶらぶら病で。そもそも、お奈美は松本屋義平の抱え芸者でして。ぶらぶら病では、座敷へ出すこともできませんので。今じゃあ、店奥の座敷牢に入ってるんですよ」

主人の話を聞き、驚いた玄益。

「ややっ。いやはや、面目ない。それでは、わたしがお奈美を引き取りましょうぞ」

とは、大胆な告白。

内心ほくそえんだのは狩野屋。

「そんなら、あたしが松本屋へ話をつけますんで、三両出してくださいな」

玄益からの三両を手にした狩野屋は、その後さっそく、松本屋へ出向いた。

「お奈美を若先生に追っ付けましょうよ。三両出してくだされ。話をまとめますんで」

悪い野郎もあったもんで。

松本屋は渡りに舟、とばかりに三両を手文庫から取り出した。

両者から三両ずつ、しめて六両を自分の懐に入れ込んだ狩野屋。悪さの始まりだ。

さて玄益。

その日のうちにお奈美を引き取り、駕籠を出して、長屋に連れてきた。

その日からは、玄益自らが付きっ切りでお奈美の治療にあたった。

その甲斐あってか、お奈美は半年ほどで全快とあいなる。

そのようすを遠巻きに見ていた父親の玄渓。

お奈美の美しくも気立てのいいのを知り得て、二人を夫婦にした。

めでたし、めでたし。

と、いきたいところだが、これでは噺が終わってしまう。もう少しある。

さて。

この「めでたし」を知った、品川宿の狩野屋。

こいつは、すぐに松本屋へ飛び込んでいった。悪さが浮かんだ。

「お奈美が治ったそうですぜ。あいつを返してもらいましょうや。今度は、座敷牢ではなく、座敷へ出せば、まだまだ稼げるタマじゃ、あーりませんか」

狩野屋の申し出を聞いた松本屋義平は、血相変える。

「なあにを言ってる。お奈美は玄益先生が身請けをしたんだ。できるわけがない」
「年季証文はどうなっていますんで」
「え、ああ、あんとき、玄益先生に渡すのを忘れてたな」
「それそれ。ふふふ。証文がこっちにあるんなら、身請けをしたことにゃ、ならねえんで。わたしがうまくまとめますぜ。うまくいったら、十両をいただきやしょうや」

翌日。

狩野屋は、八丁堀の玄益宅に向かった。

「お奈美を引き取らせていただきやしょう」

こう言って、ねじ込んだ。

玄益はびっくり。

「わたしが身請けをしたはずじゃないですか」
「若先生、なにを言ってやがるんで。年季証文は松本屋んとこにあるんだ。出るところへ出りゃあ、あんた、書いた証文が口を利くことになりやすぜ。へへへ」

これでは玄益も声高になる。

双方ともに必死で、甲論乙駁、口論が止まらない。

近くでふだんでないようすを耳にした大家が、間に入ってきた。

「明日、あたしの家に来てくださいな。話をまとめておきますから」

とは、また、骨太な介入で。

いったんは、狩野屋を帰してみたのである。

そして、翌朝。

大家は、すでに一計を案じていた。

大家は、長屋中の欠けた瀬戸物を集めて足の取れかかった膳の上に乗っけて、狩野屋が来るのを待っていた。

狩野屋が来た。

「お奈美は玄益先生が身請けしたはずじゃ、ありませんかい」

大家はここで、玄益の味方につくことを宣言したわけ。

怒ったのは狩野屋だ。

「な、なにを言いやがる」

狩野屋は、体を前に迫り出して、膳を倒して瀬戸物の山を崩してしまった。

あげくのはてには、狩野屋、大家がいつも猫に餌を出してやる皿までぶっ壊してしまった。

大家が怒った。

狩野屋は膳を持って振り上げたので、話し合いは、もつれたまんまとなった。

これはもう、とうとう、お白洲への一本道。

狩野屋が、松本屋義平の名で南町奉行所大岡越前守さまへ、「お恐れながら」と訴え出たのだ。

判決の日。

お奉行は、玄益に申し渡した。

「年季証文が松本屋にあるからは、お奈美を身請けしたことにはならない。身柄は松本屋へ引き渡すのじゃ。よいな」

驚く、玄益ら。

なに、これ。これじゃ、大岡政談にならない。

お奉行はさらに、松本屋にも申し渡した。

「お奈美を治療してもらったのであるから、玄益に薬料、手当て代を支払うように」

その上で、お奉行は玄益にひとこと。

「なみの薬料、手当て代はどれほどじゃ?」

玄益は「そんなの、いりません」と断る。堅物だから。

お奉行はしつこくも「受け取るのじゃ」と言いふくめる。

おっかけて、大家も玄益にけしかける。

「高い値をふっかけなさいよ。ここがお奉行さまの匙加減なんですから」

お奉行が下す。

「試しに算段いたしたところ、薬料は一日に六両、ひと月に百八十両。それに手当て代を一日一両として、月に三十両。お奈美を完治させるのに半年かかったのであるから、お奈美の薬料、手当て代の合計は、千二百六十両である」

これを聞いて、松本屋は腰を抜かした。

「ひ、ひえー」

翌日早々。

狩野屋が大家のもとにやってきて、示談を申し入れた。

勝ち誇ったような言い分の大家。

「あんたは双方から三両ずつ、計六両を懐に入れたんだってね。それはあんたの働きだからいいでしょうよ。だがねえ、膳と瀬戸物を壊したのは間違いなくあんたです。とりわけ猫の皿は高い。しめて千二百六十両いただきやしょう」

狩野屋が「ひ、ひえー、ひえー。ご、ご勘弁ねがいやす」というから、大家が「では、十両で」ということで示談となった。

すごすごと帰る狩野屋。烏が泣いている。

話の顛末をそばで聴いていた大家のかみさんが、大家に話しかける。

「猫の皿は夜店で二文で買ったもんでしょう。それを十両で売るなんて、ずいぶんじゃないですか」
「狩野屋は若先生から三両くすねて、あの始末だ。十両くらいじゃ、まだ足りねえんだよ」
「はいはい。それはそうと、こんなに丸くおさまるというのも、お大岡さまのありがたい、匙加減のおかげですねえ」
「そうだなあ。みんなが、すくわれた(=救われた)」

匙だけに。

【知りたい】

もとは講談ネタ

六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)が、六代目小金井芦州(岩間虎雄、1926-2003)から習って落語に仕立て上げたそうです。

円窓以外には入船亭扇辰なども演じています。

匙加減の意味

「匙加減」とは、「薬の調合の加減」の意味。そこから転じて、「手加減」という意味にもなっています。

この噺では、両義がうまく「匙加減」されています。なかなかのもんです。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ももかわ【百川】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

舞台は日本橋の料亭を舞台。
客と店の者とのちぐはぐなおなはし。
実話なんだそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困った旦那は、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、今年はそれをどうするかで、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うっひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから、一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「四神剣の掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですから、どうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんども、はァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、初五郎は慈姑くわいのきんとんを差し出して、
「ここんところは一つ、慈姑(=具合)をぐっとのみ込んで(=見逃して)いただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて、下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいやながらも二階に上がる。

「うっひぇッ」

その奇声に二階の連中は驚いたが、百兵衛が椋鳥むくどりでただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と、見下すように言いつける。

「名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろ」と言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに「かの字のつく名高い人」とそこらへんの職人に尋ねれば「鴨池かもじ先生のことだろう」と医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生の弟子は「袈裟けさがけに斬られた」と誤解。

弟子はすぐさま、先生に伝える。

「あの連中は気が荒いからな。自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と使いの者に伝えるよう、弟子に言いつける。

百兵衛、にこにこ顔で戻ってきた。

百兵衛の伝言を聞いた若い衆、
「歌女文字の師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。

「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「抜け作とは。どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実際にあった本膳料理の店、百川が宣伝のため、実際に店で起こったちょっとした事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。

いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、「百川」だけでしょう。

落語というものが、というか、江戸文化というものが、かなり自由闊達であったことが、なんとなくうかがえますね。

創業は安永期か  【RIZAP COOK】

「百川」は代々、日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。

もとは卓袱しっぽく(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。

創業時期の詳細はわかりません。ネットでは天明3年(1783)との説も出ていますが、上述のように、安永期には繁盛していたようですから、よくわかりません。

明治32年(1899)1月3日号「文藝倶楽部」掲載の「百川」は、二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-98)の速記でした。

ここには、芳町よしちょう(=葭町)にあった料亭「百尺」の分店だったとされています。

天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。

この店の最後の華は、安政元年(1854)にペリーの一行が日米和親条約を締結が再来航した際、百川一店のみ饗応を受け負ったことでした。

幕命で、予算は千両だったそうです。こりゃ、すごい。

この人、何者?

藤堂藩の伊賀者(無足人ではない!)です。在郷で忍者職をこなしながらの、れっきとした武士でした。

「伊賀者」とは忍者職の武士なんだそうです。澤村家では当主が代々「甚三郎」を名乗ります。忍者です。

この人、べつに黒装束で船に潜入したわけではありません。

侍のいでたちで、ふつうに、なにくわぬ顔で、目立たないかんじで、宴会メンバーに加わっていたのでした。

甚三郎の任務遂行は、どれほどのものだったのか。

はっきり言って、たいしたことはない。

あちらの将校とくだらない話(もちろん通訳を介して)をして、米ドル紙幣を一枚もらってきた程度のものでした。

幕末の政局にいかなる利をもたらしたのかは、推して知るべしです。

ただ、言えることは、澤村も百川の献立に舌鼓を打ったであろうこと。これはすごい。むしろ、こっちのほうが価値ある「任務遂行」だったかもしれません。

そのときの百川の名菜献立が残っているそうです。なかでも、柿にみりんをあしらったデザートは、米将校らを喜ばせたとか。柿にみりん。悪くない新味かも。

そんな百川も明治元年(1868)には廃業しています。時勢のあおりでしょうか。

忍者も明治になると、軍隊や警察に入って得意技を駆使する人もいましたが、多くは市井の闇に消え落ちました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町むろまち2丁目の東側を入った横丁。

明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

現在のコレド室町、ビルに囲まれて立つ福徳神社あたりに、百川があったそうです。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗しじんきです。

四神は四方の神の意味で、青竜せいりゅう(東)、白虎びゃっこ(西)、朱雀すざく(南、朱=深い赤)、玄武げんぶ(北、玄=黒、武=亀と蛇の歩み)の図が描かれ、旗竿にほこがついていたため、この名があります。

神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

神田大明神御祭図。国輝。安政4年(1857)。大判錦絵3枚続。。祭りの壮大な雰囲気が伝わります。国立音楽大学附属図書館(竹内文庫)所蔵

椋鳥  【RIZAP COOK】

むくどり。椋鳥とは、秋から春にかけて江戸に出稼ぎに来た奉公人のことをいいます。

噺の中で若い衆は百兵衛を「椋鳥むくどり」と呼んでいます。

たんに田舎者をののしるだけのことばではなく、地方から江戸に上がってきてそのまま居ついてしまった人たちをもさしました。

多くは人足などの力仕事に従事していました。渡り鳥の椋鳥のように集団で往復することから、江戸者はそのように呼びました。

さげすんだりののしったりする意味合いの強いことばではありません。

慈姑  【RIZAP COOK】

くわい。オモダカ科の多年草。小芋に似た地下の球根を食用とします。

渋を抜き、煮て食べます。原産が中国で、日本では奈良時代には食べられていたそうです。苦みが残って、あまり美味な食材でもなさそうですが。

その頃は、精力食品ながらも食べ過ぎると腎水を減らすと考えられていたようです。

ところが江戸期に入ると、精力増強の側面は忘れ去られて、食べると水分を減らすということだけが強調されるようになりました。

江戸期を通して、慈姑は水分を取るもの、が通り相場でした。水がよく出る田んばに慈姑を植えると水を吸い取ってくれる、という笑い話さえ残るほど。

成分にカリウムが多いので利尿作用があるため、水を取ると思われていたのでしょう。天明の飢饉ききんでは救荒作物きゅうこうさくもつとして評価されたせいか、おせち料理に使われたりするのも人々にありがたい食物だから、ということからなのでしょう。

ちなみに、欧米では観賞専用で、食用にするのは東アジア圏だけだそうです。

慈姑のきんとん  【RIZAP COOK】

くわいのきんとん。この噺では「慈姑」そのものではなく「慈姑のきんとん」として登場しています。

慈姑のきんとんは、慈姑をすりつぶして使うのですが、この噺では慈姑が丸ごときんとんの中に入っているふうに描かれています。

一般に、慈姑のきんとんの意味するものは、見かけは栗きんとんに似ているのになかなかのどに通らないということ。

そこで、 理解や納得のしにくい事柄のたとえで使います。久保田万太郎(1889-1963、赤貝のひもで窒息死)は、小説「樹蔭」に「命令とあれば、無理にものみこまなければならない慈姑のきんとんで」と書き残しています。

久保田万太郎は「百川」を踏まえて使っていますね。

さらに、万太郎は小説「春泥」で、「だってあのこのごろ来た女中。―まるッきし分らないんだ、話が。―よッぽど慈姑のきんとんに出来上っているんだ。」とも。

この表現を推しはかると、 そっけない、人当たりの悪い人間の意味で使っているようです。

山家やまがもん(=地方出身者)の百兵衛の影がちらつきます。久保田はよほどの「百川」好みだったのがわかりますね。

そこで結論。

慈姑のきんとん=百兵衛。

慈姑のきんとんは百兵衛の表象である、ということなのだと思います。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留ほりどめ二丁目の大通り東側にある路地です。

入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道じんみちと呼びました。

鹿野武左衛門(安次郎、1649-99.9.6)や古山師重(古山太郎兵衛、17世紀後半)などが住んでいたことでも知られています。

鹿野武左衛門は江戸落語の元祖、古山師重は浮世絵師。菱川師宣の弟子が、いっときは菱川師重を名乗っていた時期もありました。

近くには芝居小屋もあって、芸事にからんだ人々が多く住んでいた、にぎやかで艶っぽい町。それが長谷川町の特色でした。元吉原の近所でもありますし。

人形町末広の跡地には、現在、読売IS(読売新聞社の系列社でチラシ制作など)の社屋が建っています。

この隣には「うぶけや」(天明3年=1783年開業)も。刃物製造販売の老舗です。

店の中に掛かる「うぶけや」の扁額。これがすごい。日下部鳴鶴(日下部東作、1838-1922)の門下による寄せ書きです。日下部鳴鶴は近代の書家です。揮毫したのは、「う」=伊原雲涯(1868-1928)、「ぶ」=丹羽海鶴(丹羽正長、1864-1931)、「け」=岩田鶴皐(岩田要輔、1866-1938)、「や」=近藤雪竹(近藤富寿、1863-1928)。さらに。店の外に掲げられた「うぶけや」の看板。これは丹羽海鶴の揮毫なんだそうです。なんだか、すごいです。

通りの向かいから眺めるこの一角だけの渋い光景は、一瞬、江戸の当時にに導いてくれます。

玄冶店  【RIZAP COOK】

げんやだな。うぶけやは玄冶店げんやだなといわれるところにあります。

近くには、花街の頃から残っている料亭の濱田家はまだやがありますが、こちらも「玄冶店 濱田家」と称しています。

ミシュランガイドや防衛庁の密談(守屋次官と山田商会の)で、一般にも知られるようになりましたね。

玄冶店は、三代将軍家光の御典医だった岡本玄冶おかもとげんやの敷地でした。家光の疱瘡ほうそうを治したことから、そのご褒美にと土地を拝領。

玄冶は借家を建てて人々に貸したので、ここら一帯は玄冶店と呼ばれるようになりました。町名は新和泉町しんいずみちょう。玄冶店は俗称です。

歌舞伎『与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし』の、与三郎がお富をゆする場は玄冶店の妾宅。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)はこの地に住んでいたことから「玄冶店の師匠」とも呼ばれました。

天保期には歌川国芳うかがわくによし(井草孫三郎、1798-1861)が玄冶店に住んでいました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839.4.1-1900.8.11)は少年時に国芳門となって絵師をめざしました。

国芳が日蓮宗の篤信家で絵も描かず連日連夜の題目三昧に気味悪がって、湯島大根畑の実家に戻ってしまいました。

ここらへんは、居職の人々が多く住んでいたようです。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。今輔のでは百兵衛ではなく、杢太左衛門という名前でした。

古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)は、義父の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)から継承していました。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も時折、演じました。

志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」という独自のもの。

これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまりおもしろくはありません。

八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)のやる百兵衛は「木下百兵衛」という姓が付いていました。江戸者と山出し(地方出身者)の差異や聞き違いを強調していました。

昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったものでした。円生の型が標準になってしまいました。

円生没後は、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)らが次代に伝えていました。小三治も円生の型でした。

十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)は「鴨池道哲先生」と言っていました。始まりが二階の若い衆の場面からで、円生の型とはちょっと違っていました。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のは円生の型でした。絶品でした。

六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)も伝えていました。

三遊亭歌司は、円生から小三治に伝わったものをさらった旨を前ぶりに語っています。混乱ぶりがにじみ出ていて、独自の味があります。

小三治も円生の「百川」を踏襲しています。志ん朝のと同じ型です。円生や志ん朝の「百川」と際立った違いはありません。

ただ、慈姑のきんとんを食べて目を白黒させるようなところは、さすがは五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)の弟子だけあって、みごとなしぐさでした。円生や志ん朝を超えていました。

江戸者の視線から田舎者を笑うというやり方も薄まっていて、粗忽者ばかりが早とちりを繰り返しています。

いまどき、江戸者が田舎者を笑う構図は受け入れられないでしょうから、そこらへんは工夫が必要となるのでしょう。

カモジ先生  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。

実在も実在、本名が清水左近源元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳かもいけげんりん

鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。

実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍家斉の御典医を務めたほどの漢方外料(=外科)の名医。

瘍科撮要ようかさつよう』全三巻を口述し、日本医学史に名を残しています。

本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したそうです。

まさに「赤ひげ」そのものでした。

ついでに、八丁堀について

八丁堀は、町奉行付きの与力や同心の居住区でした。

与力は幕府からの拝領地に屋敷を構えていたのですが、その土地はとても広くて半分は使えないままとなります。

そこで与力の副業として、医家、儒学者、歌人、国学者などといった身元判明の諸家に土地を貸していました。

中村静夫「新作八丁堀組屋敷」には、幕末期、原鶴右衛門はらつるえもんの組屋敷に太田元礼(医)、藤島勾当、河辺東山(医)、鴨池元琳(医)が借地していたことが記されています。

他の組屋敷でも医家の借地が多く見られます。

与力が医家に多く貸すのは、御用絡みでけが人が出た場合に急場の施療を頼める心強さも下心にはあったのでしょう。

「袈裟がけに斬られた」事件は、鴨池先生には驚くほどのものではなかったのでしょう。

元吉原の地霊  【RIZAP COOK】

この噺を聴いた明治期東京の人々は「長谷川町三光新道の鴨池元琳先生」ときたら、すぐに岡本玄冶を思い起こしたことでしょう。

鴨池先生が八丁堀にいたことはわかっていますが、三光新道で開業していたかどうかは不明。ここは噺家の脚色かもしれません。

脚色でいいのです。

知られた御典医、岡本玄冶を連想させる噺家のたくらみだったのですから。

長谷川町の隣は元吉原の一帯です。

現在の日本橋人形町界隈。明暦3年(1657)8月には遊郭が浅草裏に移転したため、跡地には地霊がとり憑いたまま私娼窟と化しました。

土地はそんなにたやすく変容しないもの。

見えずとも、地の霊は残るのです。

近所には堺町さかいちょう葺屋町ふきやちょう

こちらは芝居町で、歌舞伎の中村座と市村座、浄瑠璃座や人形操座なんかもあります。

上方から移ってきた芸能系の人々によって町が形成されていった地区です。

その頃の歌舞伎役者は男娼も兼ねていましたから、元吉原変じての葭町には陰間茶屋かげまぢゃやができていきました。

1764年(明和元年)には12軒も。

ところが、1841年(天保12年)10月7日暁七つ半(午前5時)、堺町の水茶屋から起こった火事で、ここら一帯が丸焼けに。

芝居小屋はすべて浅草猿若町に移転させられました。

天保の改革の無粋で厳格な規制によって陰間茶屋は消え、葭町は芳町に変じて艶っぽくてほの明るい花街に模様替えされきました。

深川や霊巌島れいがんじまの花街から移ってきた芸妓たちによって新興の花街が生まれたのです。

明治、大正期には怪しげな私娼窟もありましたが、蠣殻町かきがらちょうが米相場の町に、兜町かぶとちょうが株式の町に変容し、成金が芸妓と安直に遊ぶ町に形成されていきました。

東京でいちばん粋な街です。今もこのあたりの路地裏を歩くと、どこか艶めいた空気を感じるのは、いまだ地霊がひっそりと息遣いしているせいかもしれません。

「百川」は取るに足りないのんきな噺に聴こえます。

じつは、日本橋一帯の表の顔と裏の顔が見え隠れする、きわめてあやしげな上級コースの噺に仕上がっているのだと思います。一度くらいじゃわかりません。

何度も何度もいろんな噺家の「百川」を聴いていくと、見えてくるものがあります。味わい深く楽しめます。

評価 :3/3。

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のざらし【野ざらし】落語演目



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【どんな?】

釣りの帰途、川べりに髑髏。
手向けの酒で回向を。
宵になれば。
お礼参りの幽霊としっぽりと。

別題:手向けの酒 骨釣り(上方)

あらすじ

頃は明治の初め。

長屋が根継ねつぎ(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくていい女のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島で釣りをしたら「間日まび(暇な日)というのか、雑魚ざこ一匹かからん」と、その帰り道、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかにあしが風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向たむけの回向えこうをしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それをまねて『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨がいこつの上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんなところに死骸をさらし、迷っていましたところ、今日、はからずもあなたのご回向えこうで浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音はいんにこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

これを聞いていたのが、悪幇間わるだいこの新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間たいこでゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

しりたい

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国・明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛ちょうひが登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『十八史略』中の「鴻門こうもんの会」で名高い英雄・樊會はんかいが現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた臭気ただようオチです。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若だんなが木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。これがまた、尻を提供するというので、「ああ、それで釜割りにきたか」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものですが、どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」をまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻がうずくような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林家正蔵(生没年不詳)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。

ところが、明治になって、それをまたひっくり返したのが、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)。明治の爆笑王です。

円遊は「手向たむけの酒」の題で演じ、男色の部分は消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から戦後にかけては、明るくリズミカルな芸風で売った三三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、端正な語り口の八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)まで演らず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。今はほとんどこのやり方です。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。

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これは便利かも!落語ツール

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さるまるだゆう【猿丸太夫】落語演目



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【どんな?】

「太夫」は「だゆう」と読みます。
俳句に凝っている馬子。
乗り合わせた江戸っ子はひとつからかってやろうと。
俳句や和歌が飛び出る道中舞台の都鄙ものの滑稽噺。

【あらすじ】

昔の旅は命がけ。

友達と泣きの涙で水杯を交わし、東海道を西に向かった男、原宿の手前で雇った馬子が、俳句に凝っているというので、江戸っ子ぶりを見せびらかしてやろうと、
「オレは『今芭蕉』という俳句の宗匠だ」
とホラを吹く。

そこで馬子が、
「この間、立場の運座で『鉢たたき』という題が出て閉口したので、ひとつやって見せてくれ」
と言い出す。

先生、出まかせに
「鉢たたき カッポレ一座の 大陽気」
とやってケムに巻いたが、今度は「くちなし」では、と、しつこい。

「くちなしや 鼻から下が すぐにあご」

だんだん怪しくなる。

すると、また馬子が今度は難題。

「『春雨』という題だが、中仙道から板橋という結びで、板か橋の字を詠み込まなくてはならない」
と言うと、やっこさん、すまし顔で
「船板へ くらいつきけり 春の鮫」

「それはいかねえ。雨のことだ」
「雨が降ると、鮫がよく出てくる」

。そうこうしているうちに、馬子の被っている汚い手拭いがプンプンにおってくるのに閉口した今芭蕉先生、新しいのを祝儀代わりにやると、馬子は喜んで
「もうそろそろ馬を止めるだから、最後に紅葉で一句詠んでおくんなせえ」
と頼む。

しかたがないので
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は来にけり」
と聞いたような歌でごまかす。

そこへ向こうから朋輩の馬子が空馬を引いてきて
「作、どうした。新しい手拭いおっ被って。アマっ子にでももらったのか」
「なに、馬の上にいる猿丸太夫にもらった」

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【しりたい】

江戸っ子、じつは「猿」

原話は、宝暦5年(1755)刊、京都で刊行の笑話本『口合恵宝袋』中の「高尾の歌」です。

これは、京の高尾へ紅葉狩りに行った男の話。

帰りに雇った駕籠かきに、歌を詠んだかと聞かれ、「奥山の……」の歌でごまかす筋は、まったく同じで、オチも同一です。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、箱根で「猿丸太夫」をめぐる、そっくり同じようなやりとりがあり、これをタネ本にしたことがわかります。

江戸や京大坂の人が、旅先で、在所の人を無知と侮り、手痛い目にあう実話は、けっこうありました。

オチは、馬子が「奥山」の歌を知っていて皮肉ったわけです。

深読みをすれば、知ったかぶりの江戸っ子を、「猿」と嘲る、痛烈な風刺ともとれます。

円朝も演じた噺

この噺の、江戸を出発するところ、俳句の問答を除いた馬子とのくだりは、「三人旅」にそっくりなので、これを改作したものと思われます。

小咄だったのを、「三人旅」から流用した発端を付け、一席に独立させたものなのでしょう。

古くは、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が「道中の馬子」の題で速記を残しています。

大正13年(1924)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記も残っていますが、今はすたれた噺です。

猿丸太夫

正体不明の歌人です。生没年、伝記は一切不明。

「猿丸太夫集」なる歌集はありますが、そこに採られている歌は、当人の作と確認されたものが一首もありません。

「小倉百人一首」に「奥山に」が選ばれていますが、これが実は『古今和歌集』の「よみ人しらず」の歌であることから、平安時代の歌人といわれます。

別に、柿本人麻呂説もあります。

運座

うんざ。各人各題、あるいは一つの題について俳句を作り、互選しあう会です。

座には宗匠、執筆(=記録係)、連衆(句の作り手)で成り立ちます。

18世紀末の安永・天明期以後、俳諧(俳句)人口は全国的に広がり、同時に高尚さが薄れて遊芸化しました。

したがって、この噺のような馬子が俳句に凝ることも、十分考えられたのです。

江戸後期の日本人の教養レベルは、われわれが想像するよりはるかに高かったわけです。われわれ現代人の教養は劣化しています。

馬子などの多くは非識字者であるはず、と思われていました。それが字を知っているばかりか、江戸っ子なんかよりもはるかに博識であるという、落語的な逆転の発想がみられます。

赤ん坊が大男を投げ飛ばすような、小気味いい構図です。



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うまやかじ【厩火事】落語演目

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【どんな?】

髪結いの女房と三道楽ばか亭主。
女房が皿を割った。
皿か、女房か。
究極の選択です。

【あらすじ】

女髪結いで、しゃべりだすともう止まらないお崎が、仲人なこうどのだんなのところへ相談にやってくる。

亭主の八五郎とは七つ違いのあねさん女房で、所帯を持って八年になるが、このところ夫婦げんかが絶えない。

それというのも、この亭主、同業で、今でいう共稼ぎだが、近ごろ酒びたりで仕事もせず、女房一人が苦労して働いているのに、少し帰りが遅いと変に勘ぐって当たり散らすなど、しまつに負えない。

もういいかげん愛想あいそが尽きたから別れたい、というわけ。

ところが、だんなが
「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」
と突き放すと、お崎はうって変わって、
「そんなに言わなくてもいいじゃありませんか」
と、亭主をかばい始め、はては、
「あんな優しい、いい人はない」
と、逆にノロケまで言い出す始末。

あきれただんな、
「それじゃひとつ、八の料簡を試してみろ」
と、参考に二つの話を聞かせる。

その一。

昔、もろこし(中国)の国の孔子という偉い学者が旅に出ている間に、うまやから火が出て、かわいがっていた白馬が焼け死んでしまった。

どんなおしかりを受けるかと青くなった使用人一同に、帰ってきた孔子は、馬のことは一言も聞かず、
「家の者に、けがはなかったか」

これほど家来を大切に思ってくださるご主人のためなら命は要らない、と一同感服したという話。

その二。

麹町こうじまちに、さる殿さまがいた。

「猿の殿さまで?」
「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」

その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥さまが運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。

殿さま、真っ青になって、
「皿は大丈夫か。皿皿皿皿」
と、息もつかず三十六回。

あとで奥さまの実家から、
「妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれない」
と離縁され、殿さまは一生寂しく独身で過ごした、という話。

「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、なにか大切にしているものを、わざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」

帰ったお崎、たまたま亭主が、「さる殿さま」よりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出し、それを持ち出すと、台所でわざとすべって転ぶ。

「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」
「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」
「なんでえ、そのモロコシてえのは」
「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」
「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒をのめねえ」

【しりたい】

題名は『論語』から

厩とは、馬小屋のこと。

文化年間(1804-18)から口演されていたという、古い江戸落語です。

演題の「厩火事」は『論語』郷党きょうとう編十二からつけられています。

うまやけたり。ちょうより退き、『人を傷つけざるや』とのみ、いひて問いたまはず」

江戸時代には『論語』『小倉百人一首』などが町人の共有する教養でした。引用も多いのですね。

明治の速記では、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)のものが残っています。

文楽の十八番

戦後は八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が、お崎の年増の色気や人物描写の細やかさで、押しも押されぬ十八番としました。

ライバル五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も得意にし、お崎のガラガラ女房ぶりで沸かせました。

志ん生は、マクラの「三角関係」(出雲の神さまが縁結びの糸をごちゃごちゃにする)で笑わせ、「どうしてあんな奴といっしょになったの?」「だって、一人じゃさぶい(寒い)んだもん」という小ばなしで男女の機微を見事に表現し、すうっと「厩火事」に入りました。

女髪結い

寛政年間(1789-1801)の初め、三光新道さんこうじんみち(中央区日本橋人形町三丁目あたり)の下駄屋お政という女が、アルバイトに始めたのが発祥とされています。

文化年間から普及しましたが、風俗紊乱びんらんのもととなるとの理由で、天保の改革に至るまで、たびたびご禁制になっています。

噺にもランクあり

雷門福助(川井初太郎、1901-86)は晩年には名古屋で活躍しましたが、「落語界のシーラカンス」といわれた噺家でした。

この人の回想によれば、兄弟子で師匠でもある八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に「『厩火事』を稽古してください」と頼むと、「ああいいよ、早く真打ちになるんだよ。真打ちになったら稽古してやる」と言われた、ということです。

それだけ、ちょっとやそっとでは歯が立たない噺ということで、昔は、二つ目が「厩火事」なぞやろうものなら「張り倒された」。

それが今では、二つ目どころか前座でも平気で出しかねません。

いい時代になりました。聴かされるほうはつらいですが。

芝居の「皿屋敷」は

同じ「皿屋敷」でも、一枚の皿が欠けたため腰元お菊をなぶり殺しにする青山鉄山は麴町の猿よりさらに悪質。

これに対して、岡本綺堂おかもときどう(1872-1939)の戯曲『番町皿屋敷』の青山播磨はモロコシ……ですが、芝居だけに一筋縄ではいかず、播磨はりまは自分の真実の恋を疑われ、自分を試すために皿を割られた怒りと悲しみで、残りの皿を全部粉々にした後、お菊を成敗します。

昭和初期の名横綱・玉錦三右衛門たまにしきさんえもん(1903-38)はモロコシだったようで、大切にしていた金屛風きんびょうぶを弟子がぶっ壊しても怒らず、「おまえたちにけがさえなきゃいい」と、鷹揚おうようなところを見せたそうです。さすがです。

 

 

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すとくいん【崇徳院】落語演目

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【どんな?】

若者が恋わずらいで寝込む。
昔は多かったようです。
朝ドラ「わろてんか」にも。

別題:皿屋 花見扇

【あらすじ】

若だんながこのところ患いつき、飯も喉に通らないありさまで衰弱するばかり。

医者が
「これはなにか心に思い詰めていることが原因で、それをかなえてやれば病気は治る」
と言うので、しつこく問いただしても、いっこうに口を割らない。

ようやく、
「出入りの熊さんになら話してもいい」
と若だんなが言うので、大だんなは大急ぎで呼びにやる。

熊さんが部屋に入ってみると、若だんなは息も絶え絶え、葬儀屋にいったほうが早道というようす。

話を聞いても笑わないことを条件に、熊さんがやっと聞き出した病気のもとというのが、恋煩い。

二十日ばかり前に上野の清水さまに参詣に行った時、清水堂の茶店に若だんなが腰を掛けて景色を眺めていると、目の前にお供の女を三人つれたお嬢さんが腰を掛けた。

それがまた、水のしたたるようないい女で、若だんなが思わず見とれていると、娘もじっとこちらを見る。

しばらくすると、茶袱紗ちゃぶくさを落としたのも気がつかず立ち上がるので、追いかけて手渡したちょうどその時、桜の枝から短冊が、糸が切れてはらりと落ちてきた。

見ると
「瀬を早み岩にせかるる滝川の」
と書いてある。

これは下の句が
「われても末に逢はむとぞ思ふ」
という崇徳院の歌。

娘はそれを読むと、なにを思ったか、若だんなの傍に短冊を置き軽く会釈して、行ってしまった。

この歌は、別れても末には添い遂げようという心なので、それ以来、なにを見てもあのお嬢さんの顔に見える、というわけ。

熊さん、
「なんだ、そんなことなら心配ねえ、わっちが大だんなに掛け合いましょう」
と安請け合いして、短冊を借りると、さっそく報告。

大だんな、
「いつまでも子供だ子供だと思っていたが」
とため息をつき、
「その娘をなんとしても捜し出してくれ」
と、熊に頼む。

「もし捜し出せなければ、せがれは五日以内に間違いなく死ぬから、おまえはせがれの仇、必ず名乗って出てやる」
と、脅かされたから、熊はもう大変。

熊は帰って、かみさんに相談。

かみさんは
「もし見つければあの大だんなのこと、おまえさんを大家にしてくれるかもしれない」
と、尻をたたく。

「とにかく手掛かりはこの歌しかないから、湯屋だろうが、床屋だろうが、往来だろうが、人の大勢いるところを狙って歌をがなってお歩き。今日中に見つけないと家に入れないよ」
と追い出される。

さあ、それから湯屋に十八軒、床屋に三十六軒。

「セヲハヤミセヲハヤミー」
とがなって歩いて、夕方にはフラフラ。

「ことによると、若だんなよりこちとらの方が先ィ行っちまいかねねえ」
と嘆いていると、三十六軒目の床屋で、突然飛び込んできた男が、
「出入り先のお嬢さんが恋煩いで寝込んでいて、日本中探しても相手の男を探してこいというだんなの命令で、これから四国へ飛ぶところだ」
と話すのが、耳に入った。

さあ、
「もう逃がさねえ」
と熊五郎、男の胸ぐらに武者振りついた。

「なんだ。じゃ、てめえん所の若だんなか。てめえを家のお店に」
「てめえこそ、家のお店に」
ともみ合っているうち、床屋の鏡を壊した。
「おい、話をすりゃあわかるんだ。家の鏡を割っちまってどうするんだ」
「親方、心配するねえ。割れても末に買わんとぞ思う」

底本:三代目桂三木助

古今亭志ん朝 二朝会 CDブック

【しりたい】

類話「花見扇」  【RIZAP COOK】

初代桂文治(1773-1815)作の上方落語を東京に移植したものです。文治の作としてはほかに「洒落小町」「たらちね」があります。

ただし、江戸にもほとんど筋が同じの「花見扇」(皿屋)という噺があり、どちらも種本は同じと思われますが、はっきりしません。

オチの部分が異なっていて、「花見扇」では、だんなに頼まれた本屋の金兵衛が、床屋で鳶頭の胸ぐらを夢中でつかんだため、「苦しい。放せ」「いや、放さねえ。合わせ(結婚させ)る」というオチでした。

先方が皿屋の娘という設定のこの噺は、今はすたれましたが、人情噺「三年目」の発端だったともいわれます。

「瀬を早み……」  【RIZAP COOK】

百人一首第七十七歌です。もとは『詞花和歌集』に収められています。

崇徳院(1119-64)は、鳥羽天皇(1103-56)第一皇子で、即位して崇徳天皇。父・鳥羽上皇の横車から異母弟・近衛天皇に譲位させられ、その没後も、今度は同母弟が後白河天皇として即位したので、腹心・藤原頼長とはかって保元の乱(1156)を起こしましたが、事破れて讃岐に流され、憤死しました。

歌意は「川の流れが急なので、水が滝になって岩に当たり、二つに割れる。しかし、貴女との仲は割れることなく、添い遂げよう」です。

鳶頭  【RIZAP COOK】

かしら。「とびがしら」と読みがちですが、この二字で「かしら」と呼びならわしています。町火消の組頭で、頭取の下。各町内に一人はいました。町の雑用に任じ、ドブさらいからもめごとの仲裁まで一切合財引き受けていました。特に、地主や出入りの商家の主人には、手当てや盆暮れの祝儀をもらっている手前、何か事があると、すぐ駆けつけてしゃしゃり出ます。落語にはいやというほど登場しますが、あまりりっぱなのはいません。

三木助の十八番  【RIZAP COOK】

戦後は、三代目桂三木助の十八番で、清水寺で短冊が舞い落ちてくるくだりは、三木助の工夫です。

上方では、高津(こうづ)神社絵馬堂前の設定で、桂米朝は、茶屋の料紙に娘が書き付けるやり方でした。

上野の清水さま  【RIZAP COOK】

寛永寺境内に現存する、清水観音堂のことです。

寛永8年(1631)、寛永寺寺域内の摺鉢山に建立されたもので、同11年、寿昌院焼失後、現在地であるその跡地に移りました。

京の清水寺を模した舞台造りで有名で、桜の名所。本尊の千手観音像は恵心僧都の作です。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ちはやふる【千早振る】落語演目

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

無学者もの。
知ったかぶりの噺。
苦し紛れのつじつまあわせ。
あっぱれです。

別題:木火土金水 龍田川 無学者 百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平ありわらのなりひらの「千早ちはやふる 神代かみよも聞かず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
龍田川たつたがわってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫ちはやだゆう花魁道中おいらんどうちゅうに出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫かみよだゆうに口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず 龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代でさえ、龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め (=しぼり染め)にされるとは聞いたこともない。

とまあ、意味を知ればおもしろくもおかしくもない歌です。隠居の珍解釈の方がよほど共感を呼びそうです。

龍田川は、奈良県生駒郡斑鳩いかるが町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院ようぜいいん」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町にほんばしふきやちょうにあった「元吉原」といわれる寛永年間(1624-44)にさかのぼるといわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋あげや(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

陽成院  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねの みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる」の珍解釈。京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」。見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持米をたまわったので、「声ぞつもりて扶持となりぬる」。しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

蛇足ながら、陽成院とは第57代の陽成天皇(869-949)が譲位されて上皇になられてのお名前です。この天皇、在位中にあんまりよろしくないことを連発されたため、時の権力者、藤原氏によってむりむり譲位させられてしまいました。

天皇としての在位は876年から884年のたった8年間でした。その後の人生は長かったわけで、なんせ8歳で即位されたわけですから、やんちゃな天子だったのではないでしょうか。そんなこと、江戸の人は知りもしません。百人一首のみやびなお方、というイメージだけです。

ちなみに、この時代の「譲位」というのは政局の切り札で、天皇から権力を奪う手段でした。本人はまだやりたいと思っているのに、藤原氏などがその方を引きずりおろす最終ワザなのです。

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

あさとも【朝友】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

仏教説話が原初の魂の入れ替わりが素材。
「伊勢や日向の物語」も味付けに。

別題:朝友ともふさ 冥土の雪

【あらすじ】

病気で、この世とおさらばした男。

気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。

うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。

よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。小日向水道町松月堂の娘だ。

再会を喜び合ううちに
「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいからあなたのそばに置いてください」
と、女が言う。

男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょうという者の息子。

いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と夫婦約束。

ついでに、意気揚々と三途さんずの川も渡ってしまった。

ところが、地獄では閻魔えんま大王がお里に一目ぼれ。

生塚しょうづかの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。

亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。

そこはさすがに金貸しの息子。

親父が棺に入れておいてくれた、娑婆しゃばのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。

たどりついた三途の川のほとり。

生塚の婆さんの家では、毎日毎日、あわれ、お里が婆さんに責めさいなまされている。

「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華えいようえいがは望み次第。玉の輿こしじゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」

婆さん、お里の襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。

折しも、降りしきる雪。

極楽の鐘の音がゴーン。

男が難なく塀を乗り越え
「お里さん」
「そういう声は康次郎さん」

急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだした。

そのとたん、娑婆しゃばでは「ウーン」とお里が棺の中で息を吹き返す。

それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。

生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。

来あわせた坊さんが
「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向ひゅうが松月朝友まつづきともふさという方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀ふんやのやすひで。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向こびなた松月堂しょうげつどう、向こうが伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょう。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」
「でも和尚さん、向こうの都合もあります」
「いや、幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」

出典:四代目橘家円喬『百花園』13巻124号 明治27年6月20日

【しりたい】

文屋氏の読み方

平安時代前期の歌人で六歌仙の一、文屋康秀(?-885?)。小倉百人一首でも知られています。

吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ  小倉百人一首22番

文屋ふんや氏は文室ふんや氏のこと。八色やくさかばねの第一位である真人まひとを天武天皇から賜った一族です。

文屋の読みは「ふみや」→「ふんや」と訛ったようです。江戸時代には「ぶんや」と読む人も出てきました。元のいわれがわからなくなったからなのでしょう。われわれ現代人と同じです。

この一族、スタートは官人=文人だったのでしょうが、地方に赴任するごとに武人の要素が濃くなっていきます。

寛平の韓寇(893-4)で活躍した文屋善友、刀伊の入寇(1019)で活躍した文室忠光などは同族だったといわれます。歴史学で使う「軍事貴族」に類する人々。武芸を好む貴族ですね。

文屋康秀は官人で歌人でしたが、これは平安初期だからで、その後の文屋氏=文室氏からは武人が多く輩出しているのです。

どちらにしても、「文屋」は「ふんや」と呼ばれていました。「ぶんや」ではありません。小倉百人一首の文屋康秀を「ぶんややすひで」と読む人はいません。

ただし、文屋康秀がいったいどんな人物だったのかは、よくわかっていません。現在では、小野小町や猿丸大夫といった伝説的な歌人としてとらえられているだけです。

噺のなりたち

文屋康秀を題材とする民間伝承に加えて、「日本霊異記」(景戒、822年頃)や「今昔物語集」(作者不詳、1120年頃)に多く見られる死人が蘇生して地獄のさまを語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。

二書とも唐の「冥報記」(唐臨選、7世紀半ば)の影響を強く受けた説話集です。「朝友」の原型となる話は「冥報記」にも載っているそうです。

江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の『軽口はるの山』中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)年刊『軽口夜明烏』中巻「死んでも盗人」が原話とされます。

前者では、幽霊がゴーストバスターに墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。

と、これはこれでつじつまは合っているのですが、文屋康秀が出てこないのが気がかりです。

そこで、『和漢三才図会』(寺島良安編著、1712年)。江戸時代の百科事典です。寺島は大坂の医師で、『三才図会』(明・王圻、1609年)に倣った大巻でした。三才とは天、地、人をさし、万物を意味します。なんでも、という意味ですね。この中の第71巻地理部「伊勢」の項目に「伊勢国安濃郡内田村天台宗長源寺の縁起」として載っています。

ここらへんは、二村文人氏の論考に従って、私も現物を確認していったまでのお話です。
長源寺の縁起譚は「雲林院」「西鶴名残の友」「国姓爺後日合戦」「たとへづくし」などにも使われているそうですから、寺島はそのような人口に膾炙された話を『和漢三才図会』にすくい取ったのでしょう。

「伊勢物語知顕抄」(和歌知顕抄とも、鎌倉期成立)は「伊勢物語」の注釈書ですが、ここには、伊勢の文屋吉員と日向の佐伯経基の話で使われています。

ここで文屋がやっと出てきました。

宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、これらの結果を咀嚼して、『和漢三才図会』を骨子としたうえで、「知顕抄」の説話を加味してこさえてのが「朝友」なのではないかと推測しています。

さらに。

二村氏によれば、文化12年(1829)刊の読本「伊勢日向 寄生木草紙」(栗杖鬼卵作)が、足利尊氏のお家騒動に「伊勢や日向の物語」のモチーフを取り込んでいるのだそうです。私は未見です。

この読本は、作者が「朝友」をつくるうえで参考にしたのかもしれません。

文屋吉員も佐伯経基も江戸の人にはピンときませんから、百人一首で名が知られた文屋康秀にして、親近感を与えようとしたのかと思います。

話のこさえ方そのものが「伊勢や日向」なんですね。

歌舞伎では、「伊勢日向物語」(大坂新四郎座、1730年)や「伊勢や日向の物語」(大坂中山文七座、1759年)などが上演されているそうです。

すべてに共通するのは、抜け殻の肉体に魂が入れ替わることで蘇生する、というモチーフです。

そんなところではないでしょうか。

お里が生塚の婆さんに雪責めにされるところは、新内の「明烏夢淡雪」(「明烏」参照)中の遊女浦里雪責めの場面を採ったものです。

魂が肉体から抜け出てなにやらの所作をする噺には「悋気の火の玉」があります。魂は登場しませんが、「粗忽長屋」もこの種の仲間に入れてよいでしょう。この噺は近代的な洗練を感じます。

上方噺には「魂の入れ替え」があります。

宇井無愁は「魂の入れ替え」と「朝友」を『落語のみなもと』(中公新書、1983年)で同列に論じています。たしかに同工の噺です。「魂の入れ替え」は柳家一琴師がやっています。

松月朝友

詳細は不詳です。

あらすじの参考にした四代目橘家円喬の明治27年(1894)の速記では、「ともふさ」とルビが振ってあります。

ただ、おもしろいことに、江戸期を通して、小日向には伊勢屋という質屋で財を成した大金持ちが住んでいました。土地持ちです。

小日向の伊勢屋。

うまく使えばよかったのかもしれませんが。

でも、「朝友」の作者はどうも、日向と伊勢が遠く離れていることに眼目を置きたかったようですから、小日向と日本橋伊勢町という、このくらいの距離感が欲しかったのでしょう。まあ、しょうがない。

高利貸し

民間では座頭金といいます。

盲人の位階で最下位の座頭が、溜め込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位の検校ともなれば、大名貸しで巨富を築くものも少なくありませんでした。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)作「真景累ヶ淵」の発端で、旗本・深見新左衛門の屋敷に、貸金の取り立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦も、この座頭金を営み、その金利は5両に1分で返済期限4月という、とんでもない高利でした。

生塚の婆さん

脱衣婆だつえばのこと。地獄の入り口、三途の川の岸辺で無一文の亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹えりょうじゅという木の上にいる懸衣翁けんえおう(奪衣婆の隣に座っている老人の鬼爺)に渡すのが仕事の鬼婆です。通行料の六文銭があれば、そのまま渡れます。

「生塚」は「正塚」とも書きますが、「三途河」がなまったものです。

水木しげるの怪奇漫画では常連ですね。

落語でも、「地獄八景」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場します。

「朝友」では本来の悪役ですが、ほとんどは、どちらかというと、コミカルな情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原・山名屋のやり手のおかやばばあです。

完全に絶えた噺、と思いきや

明治の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)以後、ほとんどやり手がなかったようです。

昭和になって、『名作落語全集』(騒人社、1929年)中に四代目円喬の速記が復刻されて以来、この噺は何度か活字化されています。でも、すべての活字はソースが円喬のものです。

四代目円喬以前も以後も、現在にいたるまで、音源も含めて、他の演者の記録はありませんでした。

地獄を脱出するサスペンスなど、なかなか捨てがたいので、どなたかがテキストレジーの上、復活してくれるとおもしろいのですがね。

と言っているうちに、時代はめぐりまして。

ところがなんとまあ、いまでは、桃月庵白酒柳家三之助柳亭左龍鈴々舎馬桜などがやっています。いやあ、これまたびっくり。至福の時代です。

文屋と朝友

円喬の速記によると、伊勢国(三重県)の文屋康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。

困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国(宮崎県)の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変わっていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという、奇妙キテレツな死人蘇生譚です。

円喬は、坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本については未詳です。

実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明。

わずかに、三河掾みかわのじょう(三河国の地方官の三席)となって赴任するときに、小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。

伊勢や日向

この噺は、「伊勢や日向」という俗諺(ことわざ)が下敷きになっています。

『岩波古語辞典 補訂版』には「伊勢」の項目に、「伊勢や日向」が説明されています。

物事の内容が食いちがって、まちがっていること。「伊勢や日向の物語」とも。

引用例は以下の通り。

げにげに、伊勢や日向のことは、たれかとさだめるべき  謡・雲林院

謡曲からとられているわけで、「伊勢や日向」は中世の戦乱期に生まれた俗諺なのでしょう。人の死が日常的にあった時代での、人々の切なる願いがこのような噺に姿を変えたのではないかと思います。

とはいえ、今では聴いたことも使ったこともないことわざですが、話のつじつまが合わないこと、物事の順序がよくわからないことのたとえで使われていたようです。

魂の入れ替え噺が伊勢町のせがれと小日向の娘との間で繰り広げられるのは、このことわざの落語らしい「本歌取り」です。

【参考文献】宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)、二村文人「落語と俗伝」(「國語と國文学」東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)、関山和夫『説教の歴史的研究』(法蔵館 1973年)

【おことわり】「朝友」はなんと読むべきなのか。「あさとも」「ともふさ」と両方の読み方があるようです。本サイトが底本にしている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)では、当該頁(第3巻108頁下段)に、題名「朝友」のルビで「あさとも」と振られてあります。そうなのか、と思って噺を読んでいくと、本文の終わりに「松月朝友」の名が登場し、ルビは「まつゞきともふさ」とありました。表記の不統一でです。現代では許されません。厳密さに欠ける明治期らしい表記にあきれるべきなのか、そのおおらかさにほほえむべきなのか、はたまた、われわれのうかがい知れないところからの底意を汲みとるべきなのか。疑問は千々に乱れます。不勉強なわれわれのこと、この手の追究は遅々として進みません。いつの日かわれわれが腑に落ちるまでは、「朝友」の読み方を「あさとも」「ともふさ」と併記しておくことにします。ちなみに、「とも」は「ふたつがいっしょになる状態」、「ふさ」は「いくつかが集まる状態」が、古語としての解釈です。噺の真意をどこか暗示しているようです。ということは、おそらく「ともふさ→あさとも」と変遷していったのかなと、仮説も立てられます。この噺が流布されて以来百余年、「あさとも」の読みも通行していたわけですから、これを一方的に否定するのはいかがなものかと思うのです。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

さいぎょう【西行】落語演目



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【どんな?】

佐藤義清がお堂で内侍と逢い引き
歌の応酬で打ち解けた。
義「またの逢瀬」 内「阿漕」。
義清は意味わからず。西行となって歌道行脚に。
バレ噺、いや、デタラメ噺です。

別題:恋の歌法師

【あらすじ】

遍歴の歌人として名高い西行法師。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達した。

内侍は気の毒におぼしめして、佐藤義清さとうのりきよあてに御文おふみをしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。

西行、その頃は、佐藤兵衛尉ひょうえのじょう義清という禁裏きんり警護の北面武士ほくめんのぶしだった。

染殿内侍そめどののないしが南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、
「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」
と詠まれたのに対し、義清が
「一羽にて千鳥といえる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」
と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。

「佐藤さん、郵便」
というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。

喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、
「この世にては逢わず、あの世にても逢わず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」
とある。

「はて、この意味は」
と思いめぐらしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。

この世にては逢わずというから、今夜は逢えないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。

三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。

地に実は、草木も露を含んだ深夜。

人間絶えし後は丑三うしみツ時。

西方浄土さいほうじょうどは、西の方角にある阿弥陀堂あみだどうで待っていろということだろう、と気づいた。

ところが義清、待ちくたびれて、ついまどろんでしまう。

そこへ内侍が現れ
「我なればとり鳴くまでも待つべきに思わねばこそまどろみにけり」
と詠んで帰ろうとしたとたんに義清、あやうく目を覚まし、
よいは待ち夜中は恨みあかつきは夢にや見んとしばしまどろむ」
と返した。

これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねた。

翌朝、別れる時に義清が、
「またの逢瀬おうせは」
と尋ねると内侍は
阿漕あこぎであろう」
と袖を払ってお帰り。

さあ義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。

歌道かどうをもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起いちねんほっきして武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。

諸国修行の道すがら、伊勢いせの国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子まごが、
「ハイハイドーッ。さんざん前宿まえやどで食らいやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」

これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、
「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」
「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

【しりたい】

阿漕

阿漕とは、
伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ
という「古今六帖こきんろくじょう」の古歌こかから。

阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。

「阿漕」は当初、「たびかさなる」という意味で使われていました。

「阿漕ヶ浦に引く網」も、やがては熟してことわざの仲間入りをして、「隠しごともたび重なると人に知られる」ということのたとえに使われるようになりました。

江戸時代に入ると転じて、「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」の意味に変わりました。

阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸にあります。

伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。

病気の母を思った平次なる男が、禁断を犯して魚を取ったため、簀巻すまきにされたという伝説が残りました。

ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦たむらまろすずかがっせん』(勢州阿漕浦せいしゅうあこぎがうら)などがつくられました。

先行作品には、能『阿漕』や御伽草子おとぎぞうし『阿漕の草子』があります。

ただ、これらには「平次」の名はありません。

「阿漕」は歌枕うたまくらとして残りました。

過去に何度も歌われた結果、言葉のイメージを誰もが抱くようになったものを、歌枕と呼びます。

染殿内侍

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえて、ぴしゃりと言い渡したわけです。

馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのです。

西行先生は、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、
「二回もさせたげたのに、未練な男ね」
と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。

このあたりが落語の機微です。

歌をひねくりまわしているうちに、いつの間にかエロ噺と化しているのですね。

下半身ネタといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。

なるほど。見習いたいものです。

染殿内侍という女性が実在したのかどうは、はっきりしません。

染殿内侍が登場する『大和物語やまとものがたり』や『伊勢物語いせものがたり』から察すれば、在原業平ありわらのなりひらと同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。

永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。

南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。

西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。

落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。

それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。

在原業平には三人の息子がいた、とされています。

三男滋春しげはるの母親が染殿内侍だとされています。

これは『伊勢物語』の冷泉家れいぜいけ流古注本に記されています。

文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりも、そういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが、大切なのです。

少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。

染殿内侍は、在原業平と契った女性ということになります。

これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。

染殿というのは、藤原良房ふじわらのよしふさの邸宅をさします。

京の都は、「一条大路の南、正親町小路おおぎまちこうじの北、京極大路の西、富小路とみのこうじの東」のあたりにあったそうです。

良房は、臣下しんかとしては初の太政大臣だいじょうだいじん摂政せっしょうとなり、藤原北家ふじわらほっけ繁栄のきっかけを作った人です。

染殿大臣そめどののおとどなどと呼ばれていました。

その娘の明子めいし文徳もんとく天皇に入内じゅだいして、のちの清和せいわ天皇を生みました。

明子は染殿后そめどののきさきと呼ばれていました。

染殿后は美麗であったそうです。

『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。

内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のこと。

染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。

ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮さいぐうりょうでの仕事をつかさどっていたんだそうです。

斎宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇の名代みょうだいです。

内侍と伊勢神宮とはかかわりが深かったようです。

隠者いんじゃの歌詠み」として後世に名を残した西行。

その大先輩が在原業平といえるでしょう。

「むかし男ありけり、その男、身をようなきものに思いなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。

業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで、貴族の間では最高の教養文芸でした。

業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。

流浪るろうする業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。

聖と俗を両有しているのですね。

その業平の思い人の一人が染殿内侍です。

これはすごい。

業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(「ドクターノオ」の)か、あるいは、若林映子わかばやしあきこさん(「007は二度死ぬ」の)といったところでしょうか。

あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。

西行の存在

西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。

残した歌は約2300首。

歌人の最高峰です。

江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。

この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。

みんなが知っている教養をさかなに笑う、という趣向だったのでしょう。

西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。

源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。 『西行物語』と『選集抄せんじゅうしょう』がその双璧そうへきです。

さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。

江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麻呂と双璧です。

蓑笠みのがさをつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。

そんな逸話の一つ。 西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付けびん姿で、つまり俗人のなりで参宮さんぐうしたといわれています。

なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

存疑の歌といわれています。

見えない神さまに接して落涙するというもの。

われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。

伊勢では二見浦ふたみがうらいおりを結び、地元の神職者荒木田あらきだ氏と交わったそうです。

と、このように記していって、見えてくるものがありました。

西行、伊勢、和歌、女性、浦……。

江戸人が抱く西行のイメージ。

そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。

登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達じざいかったつ融通無碍ゆうづうむげな雰囲気が、いかにも江戸人の西行像なのでしょう。

西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人として形成されていきました。

寺院や宗派を超えて(高野山の、真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、世俗に理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。

この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の柳亭痴楽がたまに演じていました。

いまや、どうでもよいことですね。

参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって?『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)

史実がらみの噺

二村文人ふたむらふみと氏といえば、現在は富山大学の教授です。

二村氏が城北埼玉高校の教諭だった頃に、「落語と俗伝」という小論を『國語と國文学』(東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)に発表しています。

これが、なかなか刺激的な内容なのです。

まず、二村氏は、落語を6種類に分類して、そこから抜け落ちてしまう噺があることを指摘します。

それが、史実を扱った噺。

史実とはいっても、しょせんは落語ですから、俗伝であり通俗史をもとにした噺にすぎません。

具体的にはどんな噺のことのでしょうか。

二村氏は、この小論で「朝友」「西行」「お血脈」「紀州」を例示しています。

なるほど。

そこで、「西行」。

二村氏は「西行は落語になっても、芭蕉は落語にならない」と指摘します。

なぜなのでしょう。

二村氏によれば、以下の二点が、歴史上の人物が落語に採用される条件である、としています。

(1) その人物の伝説化が進行していること。
(2) 伝記に謎の部分をもっていること。

西行の足跡にはわからない部分が多いけど芭蕉にはあまりない、と言いたいのでしょうか。

たしかに、現在でも、芭蕉の研究者は圧倒的に多く、西行のほうはたいしたことありません。

ただ、地方に行けば、芭蕉のあやしげな伝説もちらほら見えたりします。芭蕉が明らかに行ってもいないところに、芭蕉の句碑があったりとか。

そんな地方では芭蕉の伝説化も静かに進行しているでしょうし、謎の部分(忍者説とか水道工事監督時代とか)もないことはないでしょう。

二村氏の説が妥当かどうか、それはもう少し咀嚼そしゃくしたいところですが、この一文、刺激にあふれています。

だって、落語の評論でそんなところをほじくる人はいませんでしたし、いまも現れていません。

この二村論文を起爆剤に、われわれも少し考えてみたいところです。それにしても1985年の論文ですから、斯界の研究はすでに進んでいるのかもしれませんが。いやあ、どうかなあ。

ことばよみいみ
染殿内侍そめどののないし
佐藤義清さとうのりきよ西行のこと
阿漕あこぎ阿漕ヶ浦
藤原良房 ふじわらのよしふさ
正親町小路おおぎまちこうじ
染殿大臣そめどののおとど
明子あきらけこ、あきらけいこ
入内じゅだい嫁ぐ
染殿后 そめどののきさき



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

こうやちがい【高野違い】落語演目



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【どんな?】

ところどころで古典の知識が試される、ペダンチックな噺です。

【あらすじ】

出入りの鳶頭が店に年始に行くと、だんなが子供たち相手にカルタをやっている。

鳶頭はカルタなど見たことがないので珍しく、あれこれトンチンカンなことを言うので、だんながウンチクをひけらかして、ご説明。

洗い髪で、たいそうごてごてと着物を着ている女がいると言うと、それは下げ髪、着物は十二単で、百人一首の中の右近と教えられる。

同じような女が二人いるが、赤染衛門に、紫式部。

赤に紫に黄色(鬱金色=右近)で、まるで紺屋の色見本のよう。

紫とやらいう女の歌が
「巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」

誰かに逢いたいと神に願掛けしている歌だと聞いて
「そりゃ、合羽屋の庄太ですよ。借金を返しゃあがらねえ」
「おまえの話じゃないよ」

太田道灌が
「急がずば 濡れざらましを 旅人の跡 より晴るる 野路の村雨」

弘法大師の歌が
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 高野の奥の たま川の水」

これは六玉川のうち、紀州は高野山の玉川の水は毒があるため、のまないよう戒めた歌だというので、鳶頭、親分が大和巡りに行くから知らせてくると飛び出す。

「それで、その歌はなんだ」
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 跡より晴るる 野路の村雨」
「それじゃ尻取りだ。下は『たかのの奥の 玉川の水』というんだろ」

鳶頭、先に言われたので、しゃくなので揚げ足を取ろうと
「親分、タカノじゃなくてコウヤでしょう」
「同じことだ。仏説にはタカノとある」

またへこまされたので、それではと
「ごまかしたって、こっちにゃ洗い髪の女がついてるんだ。じゃ、こんなのはどうです。『巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな』。さあ驚いたろう」
「驚くもんか。それは誰の歌だ」
「ナニ、着物であったな、鳶色式部だ」
「鳶色式部てえのはない。紫だろ」
「紫と鳶色は昔は同じだったんで。これは仏説だ」
「そんな仏説があるか。大変に違わあ」
「へえ、そうですか。それじゃ、紺屋が間違えたんでしょう」

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【しりたい】

現代人にはわからない

古風な噺で、和歌の教養がないと、今ではよくわからないでしょう。江戸時代には「小倉百人一首」がごく一般に普及していて、これくらいの和歌はわかりあっていたのです。明治にいたっても同様です。共有の文化でした。

原話は、文化8年(1811)ごろ刊行された、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)作の噺本『種が島』中の「源氏物語」です。

無知な男が、和歌の解釈を聞きかじって、トンチンカンなひけらかしで失敗するパターンは現行通りです。

原話では紫式部の歌でなく、謡曲「源氏供養」にある、式部が石山寺の観音の化身だという伝説から、「鳶色式部」を出しています。

オチは、弘法大師(高野山)と太田道灌の歌の上下をとり違えたのと、「紫(色)」と「鳶(色)」の間違いを掛け、色→紺屋の連想から、紺屋=高野のダジャレオチとしています。

原話のオチは、「ナアニ、おれがそそっかしいのじゃアねえ。ぜんてえ、せんに(=だいたい、前に)高野で間違った」というものです。こちらの方がわかりやすいかもしれません。

紺屋の色見本

紺屋形ともいいます。今でもある、服地のサンプルまたはカタログです。

紺屋は、初期は藍で紺色を染めるだけだったのが、のちに染料の進歩により、様々な色の染物ができるようになりました。

特に紺屋の女房になった、吉原の六代目高尾太夫考案の、浅黄色の早染め(かめのぞき)は評判になりました。

かめのぞき」については「紺屋高尾」をお読みください。

オチは、高野山弘法大師の歌の間違いに、そそっかしい紺屋が、色見本を見ても紛らわしい紫と鳶色を染め間違えたことを掛けてあるわけです。

六玉川

むたまがわ。歌枕に詠まれる全国の六つの玉川のこと。

山城の井出の玉川
摂津の卯の花の玉川
近江の野路の玉川
陸奥の野田の玉川
武蔵の調布の玉川
紀伊の高野の玉川

高野の玉川は、高野山奥の院弘法大師廟のそばを流れる川です。

川水の毒については、噺の中でだんなの解釈する通り、弘法大師のこの歌が載っている『風雅和歌集』の詞書に「高野奥院へまいる道に玉川という河のみなかみ(=上流)に毒虫の多かりければ、この流れを飲むまじき(飲んではならない)由を示しおきて後よみはべりける」とあって、実際に中毒の危険を示唆しています。

高野山には女人禁制であったため、
「毒水を 飲む気づかひは 女なし」
という川柳もありました。

別の説では、名水をいたずらに酌むなという教訓がのちに「毒水」と誤伝されたものともいわれますが。

鳶色式部

鳶色は、鳶の羽色の茶褐色のこと。

布地では「鳶八丈」を指します。

鳶八丈とは、鳶色の地に、黒または黄の格子縞の着物です。

明治中期に、袴の色から、女学生の異名に用いられたこともあり、あるいは、それもかけられているかもしれません。

円喬のオハコ

古くから口演された江戸落語で、明治28年(1895)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

円喬はこの噺を好み、よく高座に掛けたようです。

名人の名を後世に残しながら、ややキザで教養をひけらかす臭みがあったという、この人が好みそうな噺かもしれませんね。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)という、兄弟弟子だった二人が、ともに手掛けました。

「やかん先生」の金馬はファンに愛されながらも、そのペダンチックが嫌われもしました。

このような古ぼけたうんちく噺は、円喬や金馬のように、才気ばしった落語家でないと衒学趣味だけが鼻につき、さまにならないのかもしれません。

現在は、ほとんど演じられていません。

【語の読みと注】
鳶頭 とびのかしら
十二単 じゅうにひとえ
右近 うこん
赤染衛門 あかぞめえもん
紺屋 こうや
六玉川 むたまがわ



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おおやままいり【大山詣り】落語演目



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【どんな?】

噺のおおよそは参詣の帰途が舞台。
宿で泥酔し、仲間から総スカンの熊。
熊が遂げる仕返しは凝ってます。

別題:百人坊主(上方)

あらすじ

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

しりたい

大山とは  【RIZAP COOK】

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁ろうべんが造ったといわれる雨降山あぶりさん大山寺だいせんじがありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現せきそんだいごんげんがあります。これは縄文時代以来の古い信仰です。時代が下る(奈良、平安期ですが)と、神仏混交、修験道の聖地となるのですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利おおやまあぶり神社に。仏の山から神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益  【RIZAP COOK】

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離みずごり(体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。

金は、先達せんだつ(先導者)が月掛けで徴収しました。

帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。

それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者 なし藤沢へ 出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れと知るべし  【RIZAP COOK】

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。旧暦に40日たすと、実際の季節になります。

だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ネタは狂言から  【RIZAP COOK】

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂刊「西鶴諸国ばなし」中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰  【RIZAP COOK】

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は明治期の名人です。

江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、円喬はこの噺のマクラで、マゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年(1896)のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。

実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。

いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。

その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。

朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

名人上手が磨いた噺  【RIZAP COOK】

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、とうとうたる顔ぶれが好んで演じました。

三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も師匠の八代目可楽譲りで若いころから得意にしていましたが、いまも若手を含め多くの落語家が手がける人気演目です。

上方では「百人坊主」  【RIZAP COOK】

落語としては上方が原産です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川どろかわまたは下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈(池田八右衛門→八蔵、?-1841)の「大山道中栗毛俊足」にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

相模の女  【RIZAP COOK】

この噺の背景にはちょっと重要なパラダイムがひそんでいます。

「相模の下女は淫奔」という江戸人のお約束事です。川柳や浮世絵などでもさかんに出てきます。

相模国(神奈川県西部)出身の女性には失礼きわまりないことですがね。「池袋の下女は夜に行灯の油をなめる」といった類の話です。

大山は相模国にあります。

江戸の男たちは「相模に行けば、なにかよいことがあるかもね、むふふ」といった下心を抱きつつ勇んで向かったのでしょう。

大山詣りがにぎわうわけです。

投げ込んで くんなと頼む 下女が文  三24

枕を交わす男から寝物語に「明日大山詣りに行くんだぜ」と聞いた相模出身の下女は「ならばこの手紙を実家に持っていってよ」と頼んでいるところを詠んでいます。こんなことが実際にあったのか。あったのかもしれませんね。

江の島   【RIZAP COOK】

大山詣りの帰りの道筋に選ばれます。近場の行楽地ですが、霊験あらたかな場所でもあります。

浪へ手を あわせて帰る 残念さ   十八02

これだけで江の島を詠んでいるとよくわかるものですなんですね。「浪へ手をあわせて」でなんでしょうかね。島全体が霊場だったということですか。

江の島は ゆふべ話して けふの旅   四33

江の島は 名残をおしむ 旅でなし   九25

江の島へ 硫黄の匂ふ 刷毛ついで   初24

硫黄の匂いがするというのは、箱根の湯治帰りの人。コースだったわけです。大山詣りも同じですね。

江の島へ 踊子ころび ころびいき   十六01

「踊子」とは元禄期ごろから登場する遊芸の女性です。酒宴の席で踊ったり歌ったりして興を添えるのをなりわいとする人。

日本橋橋町あたりに多くいました。

文化頃に「芸者」の名が定着しました。各藩の留守居役とのかかわりが川柳に詠まれます。

江の島で 一日やとふ 大職冠   初15

大職冠たいしょくかん」とは、大化年間(最新の学説ではこの元号は甚だあやしいとされていますが)の孝徳天皇の時代に定めれらた冠位十二階の最高位です。

のちの「正一位しょういちい」に相当します。実際にこの位を授けられたのは藤原鎌足かまたりですが、「正一位」は稲荷神の位でもあります。

謡曲「海士あま」からの連想です。

ここでは鎌足と息子の不比等ふひとを当てています。

ことばよみいみ
良弁ろうべん華厳宗の僧。東大寺の開山。689-774
雨降山あぶりさん大山寺の寺号。神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院。大山不動。本尊は不動明王。開基(創立者)は良弁。高幡山金剛寺、成田山新勝寺とで「関東の三大不動」。
神仏習合しんぶつしゅうごう神道と仏教が調和的に折衷され、融合、同化、一体化された信仰。神仏に対する信仰を一体化する考え方をもさす。「神と仏は一体」という考え。神社境内に寺院を建てたり、寺院境内に神社があったり、神前で祝詞奏上と読経がセットでいとまれたり、神体と仏像がいっしょに祀られる状態。明治維新まではそれが普通だった。

【RIZAP COOK】



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

ひゃくねんめ【百年目】落語演目



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

上方の噺。大店の堅い番頭の裏の顔。
人間こうでなくちゃおもしろくないです。

あらすじ

ある大店の一番番頭、冶兵衛。

四十三だが、まだ独り身で店に居付き。

この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っている。

茶屋遊びで午前さま(御前さまの洒落)になった二番番頭。

それをとがめて治兵衛は、
「芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか、教えてほしい」
と皮肉を言うほど。

ある朝。

治兵衛が小僧や手代にうるさく説教した後、
「番町のお屋敷をまわってくる」
と外出した。

ところが、外で待っていたのは、幇間の一八。

今日は、こっそり入りびたっている柳橋の芸者、幇間連中を引き連れて、向島へ花見に繰り出そうという趣向。

菓子屋の二階で、とっておきの、大津絵を染めだした長襦袢、結城縮みの着物と羽織に着替え、屋形船を出す。

ところが、治兵衛は小心。

すれ違う舟から顔をのぞかれるとまずいので、ぴったり障子を締め切らせていたほど。

向島に着いた。

酒が入って大胆になる。

扇子を首に縛りつけて顔を隠し、長襦袢一枚に。

桜が満開の向島土手で、陽気に騒ぐ、一番番頭の治兵衛。

一方、こちらは大店のだんな。

おたいこ医者・玄伯をお供に、これまた花見にやってきている。

玄伯老が冶兵衛を認めて、
「あれはお宅の番頭さんでは」
と言っても、だんなは
「悪堅い番頭にあんなはでなまねはできない」
と取り合わない。

そのうち、ひょんなはずみで二人は土手の上で鉢合わせ。

避けようとするだんなに、冶兵衛は芸者と勘違いしてむしゃぶりつき、はずみでばったり顔が合った。

いちばんこわい相手に現場を見られ、冶兵衛は動転。

「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」

酔いもいっぺんで醒めた冶兵衛、逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまう。

あんな醜態をだんなに見られたからにはクビは確実だと頭を抱えた冶兵衛、いっそ夜逃げしようかと、一晩悶々として、翌朝、帳場に座っても生きた心地がない。

そこへ、だんなのお呼び。

そらおいでなすったと、びくびくして母屋の敷居をまたぐと、意外にも、だんな、昨日のことはおくびにも出さず、天竺の栴檀の大木と南縁草という雑草の話を始める。

栴檀は南縁草を肥やしにして生き、南縁草は栴檀の下ろす露で繁殖する。

持ちつ持たれつで、家ではあたし、店ではおまえさんが栴檀で、若い者が南縁草。

南縁草が枯れれば栴檀のおまえも枯れ、あたしも同じだから、厳しいのはいいが、もう少しゆとりを持ってやりなさいと、やんわりさとす。

「ところで、昨日はおもしろそうだったな」
と、いよいよきたから、冶兵衛、取引先のお供でしどろもどろで言いわけ。

だんなは少しも怒らず、
「金を使うときは、商いの切っ先が鈍るから、決して先方に使い負けてくれるな」
ときっぱり言う。

「実は、帳簿に穴が空いているのではと気になり、密かに調べたが、これぽっちも間違いはなかった」
と、だんなは冶兵衛を褒め
「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ。約束通り来年はおまえさんに店を持ってもらう」
と言ってくれたので、冶兵衛は感激して泣き出す。

「それにしても、昨日『お久しぶりでございます』と言ったが、一つ家にいながらごぶさたてえのも……。なぜあんなことを言ったんだい」
「へえ、堅いと思われていましたのをあんなざまでお目にかかり、もう、これが百年目と思いました」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

番頭

「番頭はん」というと、若き藤山寛美(稲垣完治、1929-90、喜劇役者)の阿呆丁稚に悩まされる、曽我廼家五郎八(西岡幸一、1902-98、松竹新喜劇役者)の絶妙の「受けの芝居」を、懐かしく思い出される方も多いかもしれません。知らなけりゃ、それまでですが。

小僧(上方では丁稚)から手代を経て、番頭に昇格するわけです。

普通、中規模の商家で2人、大店になると3人以上いることもありました。

居付き(店に寝泊まり)の番頭と通い番頭があり、後者は所帯を持った若い番頭が裏長屋に住み、そこから店に通ったものです。

普通、番頭になって10年無事に勤め上げると、別家独立させるしきたりが、東京でも大阪でもありました。

この噺の治兵衛は、40歳を越してもまだ独身で、しかも、主人に重宝がられて別家独立が延び延びになり、店に居ついている珍しいケースです。

支配人

大店の一番番頭を、明治以後は「支配人」と呼びました。

明治41年(1908)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記でもそうなっています。

のちにこの名称が、大会社の大物重役にも適用されるようになりました。

支配人、つまり大番頭ともなると、店の金の出納権限を握っているので、株式などの理財で個人的にもうけることも可能だったわけです。

江戸時代だと、こっそり店の金を「ドガチャカ」、つまり業務上横領して、米相場に投資するなどでしょう。

そういうリスクはあっても、主人といえども、店の金の運用には、番頭の意向を無視できませんでした。

そうやって自分ももうけ、店にも利益をもたらす番頭を「白ねずみ」と呼びました。これは、金銀の精、または福の神を意味します。

「帯久」にも出てきますが、特に功労のあった「白ねずみ」に店の屋号を与え、親類扱いで分家させることもよくありました。

上方落語の大ネタ

大阪では、幹部クラスの名人連しか演じられない大ネタを「切りネタ」と呼びますが、この噺はその切りネタの代表格でしょう。

上方落語のイメージが強いため、東京にはかなり最近紹介されたように思われがちなのですが、実は、江戸でも同題名で文化年間(1804-18)から口演されてきました。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が得意にしましたが、今回のあらすじは円生のものを参考にしました。

東西で、やり方に大きな違いはありませんが、たとえば大阪では、舞台が桜の宮で、番頭が、初めは2、3人の小人数で行こうと考えていたのに、ほかの芸妓に知れわたりやむなくはでな散財になった、というように、細部の設定が多少異なります。

志ん生は、主人の南縁草のセリフを省くなど、ごくあっさりと演じていました。

上方ではもちろん、三代目桂米朝(中川清、1925.11.6-2015.3.19)が絶品でしたし、五代目桂文枝(長谷川多持、1930.4.12-2005.3.12、三代目桂小文枝→)も得意としていました。東京では、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が円生譲りのやり方でたまに高座にかけました。

百年目

古来まれな、百年の長寿を保ったとしても、結局最後には死を免れないところから、究極の、もうどうにも逃れようもない命の瀬戸際をいいます。

敵討ちの口上などの紋切り型で、「ここで逢ったが百年目」というのは、昔からよく使われ、今も耳にする文句です。

意味を「百年に一度の奇跡」と解しがちですが、実は「(おまえにとっての)百年目で、もう逃れられない」という意味です。

番頭の絶望観を表す言葉として、このオチは見事に効いています。

評価 :3/3。



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ときそば【時そば】落語演目



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【どんな?】

落語と言えばこれでしょうか。
みんなが知ってる「なんどきだい」のアレ。
名人がやるとがぜん映えますね。
侮れない噺なんです。

別題:時うどん(上方)

あらすじ

夜鷹そばとも呼ばれた、屋台の二八にはちそば屋。

冬の寒い夜、屋台に飛び込んできた男、
「おうッ、何ができる? 花巻きにしっぽく? しっぽくゥ、しとつ、こしらえてくんねえ。寒いなァ」
「今夜はたいへんお寒うございます」
「どうでえ商売は? いけねえか? まあ、アキネエってえぐらいだから、飽きずにやんなきゃいけねえ」
と最初から調子がいい。

待って食う間中、
「看板が当たり矢で縁起がいい、あつらえが早い、割り箸を使っていて清潔だ、いい丼を使っている、鰹節をおごっていてダシがいい、そばは細くて腰があって、ちくわは厚く切ってあって……」
と、歯の浮くような世辞をとうとうと並べ立てる。

食い終わると
「実は脇でまずいそばを食っちゃった。おまえのを口直しにやったんだ。一杯で勘弁しねえ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手ェ出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「九ツで」
「とお、十一、十二……」

すーっと行ってしまった。

これを見ていたのがぼーッとした男。

「あんちきしょう、よくしゃべりやがったな。はなからしまいまで世辞ィ使ってやがら。てやんでえ。値段聞くことねえ。十六文と決まってるんだから。それにしても、変なところで時刻を聞きやがった、あれじゃあ間違えちまう」
と、何回も指を折って
「七つ、八つ、何どきだい、九ツで」
とやった挙げ句
「あ、少なく間違えやがった。何刻だい、九ツで、ここで一文かすりゃあがった。うーん、うめえことやったな」

自分もやってみたくなって、翌日早い時刻にそば屋をつかまえる。

「寒いねえ」
「へえ、今夜はだいぶ暖かで」
「ああ、そうだ。寒いのはゆんべだ。どうでえ商売は? おかげさまで? 逆らうね。的に矢が……当たってねえ。どうでもいいけど、そばが遅いねえ。まあ、オレは気が長えからいいや。おっ、感心に割り箸を……割ってあるね。いい丼だ……まんべんなく欠けてるよ。のこぎりに使えらあ。鰹節をおごって……ぶあっ、塩っからい。湯をうめてくれ。そばは……太いね。ウドンかい、これ。まあ、食いでがあっていいや。ずいぶんグチャグチャしてるね。こなれがよくっていいか。ちくわは厚くって……おめえんとこ、ちくわ使ってあるの? 使ってます? ありゃ、薄いね、これは。丼にひっついていてわからなかったよ。月が透けて見えらあ。オレ、もうよすよ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手を出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「四ツで」
「五つ六つ七つ八つ……」

しりたい

夜鷹そば   【RIZAP COOK】

夜鷹は、本所吉田町や柳原土手やなぎはらどてを縄張りにした、「野天営業」の街娼ですが、その夜鷹がよく食べたことからこの名がつきました。

ですから、本来は夜鷹の営業区域に屋台を出す夜泣きそば屋だけに限った名称だったはずなのです。

夜泣きそば(夜鷹)は一杯16文と相場が決まっていて、異名の二八そばは二八の十六からきたとも、そば粉とつなぎの割合からとも諸説あります。

夜鷹そばの値上げ

種物たねものが充実して、夜鷹そばが盛んになったのは文化ぶんか年間(1804-18)から。

ちなみに、夜鷹の料金は一回24文で、それより8文安かったわけですが、幕末には20文に、さらに24文に値が上がりました。

明治になると、新興の「夜泣きうどん屋」に客を奪われ、すっかり衰退しました。

何どきだい?   【RIZAP COOK】

冬の夜九ツ刻ここのつどきはおよその刻、午前0-2時。

江戸時代の時刻は明け六ツから、およそ2時間ごとに五四九八七、六五四九八七とくり返します。

後の間抜け男が現れたのは四ツですから、夜の10-0時。

あわてて2時間早く来すぎたばっかりに、都合8文もぼられたわけです。

ひょっとこそば   【RIZAP COOK】

この噺を得意にしていた三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、マクラに「ひょっとこそば」の小ばなしを振っています。

客が食べてみるとえらく熱いので、思わずフーフー吹く、「あァたのそのお顔が、ひょっとこでござんす」

これは、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)もやりました。

蛇足   【RIZAP COOK】

それまでそばの代金の数え方を「ひいふうみい」とする演者が多かったのを、時刻との整合から、「一つ、二つ」と改めたのは三代目三木助でした。

なるほど、こうでなければそば屋はごまかされません。今ではほとんど三木助通りです。

たしか、先代・春風亭柳橋だったと記憶しますが、「何どきだい?」「へい九ツで」のところで、お囃子のように、二人が間を置かず、「なんどきだーいここのつでー」とやっていたのが、たまらないおかしさでした。

これだと、そば屋も承知でいっしょに遊んでいるようで、本当は変なのですが。

もっとも古い原話   【RIZAP COOK】

享保きょうほう11年(1726)、京都で刊行された笑話本『軽口初笑かるくちはつわらい』中の「他人は喰より」がもっとも古い形です。

それによると、主人公は中間ちゅうげん(武家屋敷の奉公人)、そば(そばきり)の値段は六文で、「四ツ、五ツ、六ツ……」と失敗します。

享保のころは、まだ物価が安かったということでしょう。

この噺は夜鷹そばの屋台が登場するため、生粋きっすいの江戸の噺と思われがちですが、実は上方落語の「時うどん」を、明治中期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移したものです。

なんだかんだいっても、弟子の真打ち襲名披露で三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が本牧亭でやった「時そば」、これはすこぶるの絶品でした。



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評価 :1/3。

こうぼう【工房】高田裕史

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【 ごあいさつ 】

学生時代、徹底的にこの世を茶化し抜いた江戸の戯作にのめり込み過ぎたせいで、その毒気にあてられ、いつの間にやらこの世を斜に構えてしか見られない、困った精神構造が根つきました。

テレビ番組のコメディーだろうが漫画だろうが、ちょっとやそっとではクスリとも笑えない心根に変質。

もっとも、草創期のテレビ番組や少年漫画雑誌に耽溺した小学校時分でも、本当に腹八分目以上に笑わされたのは「トムとジェリー」「おそ松くん」にクレージーキャッツくらいでしたから、幼い頃から性根がカーブしていたのかもしれません。

落語に本格的にのめり込みだしたのは大学時分のこと。のめり込むといっても、そのネジ曲がった自らのフィルターを通してでしか、噺も噺家も評価はできません。

落語の価値基準は、以下の二つです。

①噺は優れた短編小説のように短くシャープであるべき。

②オチが噺の価値の大半を決めるものだが、湿ったものよりもドライなファース(farce)で構成された噺がより好ましい。

捕捉するなら、「毒」をどこかに隠している噺、それを洒脱に演じられる噺家はさらにお好みである。

とまあ、こんなふうに决めています。勝手なお好みですが。

立川談志がよく「落語は業の肯定」と念仏のように唱えていましたが、「毒をもって毒を制す」という通り、今や本当に必要なのは清濁併せ持つダイナミズムと、どんな時代にも存在した社会の「毒」への耐性を少しでも取り戻すことではないでしょうか。

その点、リニューアルした本サイトを通して、落語の持つものすごい魅力を、ほんの少しばかりの知性と業と毒の絶妙な加減の上にあることを、向こう見ずにも大いに喧伝したいと思っております。

お引き立てのほどをよろしく願い上げます。

【RIZAP COOK】

【私の好きな落語家7傑】

四代目春風亭柳朝

四代目柳家小せん

十代目桂文治

八代目古今亭志ん馬

三代目八光亭春輔

二代目春風亭梅橋

上位3傑は志ん生、志ん朝、馬生で決まり。4位以下の7人です。順不同。

■高田裕史の主な著書
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)古木優と共編著 A5判 1995年
『千字寄席 噺の筋がわかる落語事典 下巻』(PHP研究所)古木優と共編著 A5判 1996年
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)古木優と共編著 文庫判 2000年
『図解 落語のおはなし』(PHP研究所)古木優と共編著 B5判 2006年

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こや【小屋】古木優



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不定期連載  日本史コラム  2021年11月13日

東宝名人会の体験

寄席といったら東宝名人会でしょう。

私の場合はね。

日比谷映画街にあった、あそこですよ。桂歌丸の真打ち襲名披露を間近に見たのは懐かしい思い出。

昭和43年(1968)3月、小学5年生の春休みの頃でした。

へええ、落語家っていうのは、こんなことをして一人前になるんだなあとしげしげと。ずいぶん儀式ばっているわけで、それがなんだか心地よかったもんです。

私は、毎週日曜日、北関東の奥地からたいへんな思いをして親に連れられてくるもんでして。

有楽町駅から少し歩いた都会丸出しのビル街、古風なしっかりしたエレベーターでたしか5階でしたか、ホールはいつも立ち見客でいっぱいでした。

出てくるのはほとんどがテレビでおなじみの人気者ばかり。まるで夢を見ているようでした。

なんせ、袖で立って高座を見ていると、その脇を文楽(八代目)やら円生(六代目)やらが通り過ぎるもんでして。感動どころか、演芸界というのはなぜかこんなふうにお近いものなのか、とすぐになじんだりして。

青空球児・好児の「よきすがたなあ」なんて、あそこで聴いて腹を抱えたもんでした。あのネタ、いまでも健在なんですから、うれしくなっちゃいます。

東宝名人会の特殊性は、小学生にはわかっていませんでした。

親の気まぐれで、たまに鈴本や末広亭に行ったりすると、なんだかうらぶれた風情で、次々と出てくるのはまったく知らない芸人ばかりで、ここはどこか格落ちの場所なのだろうかといぶかるほど。野良でさえずるのど自慢を又聞きしてるような心持ちでした。

そんな体験をしたのちに、後日、またもひさかたぶりに東宝名人会に赴けば、やっぱりここでしょ。そんな、安堵に浸れる至福な時間がやさしく包んでくれてました。

日比谷のここは、ほかの寄席とは違うな、という匂いと風格をあらためて感じてしまいました。

そんな、夢みる時間も昭和55年(1980)8月いっぱいでおしまいに。日劇の取り壊しで日劇ミュージックホールが日比谷に移ってきて、玉突きのように、東宝名人会は流浪の寄席とあいなったのでした。

五代目小さんが「ストリップに追い出されまして」とか、ぼやいてましたっけ。

東宝名人会の名称は、2005年(平成17)まで続きはしましたが、ひっきりなしに場所を代えてのさまよえる演芸場に。すでに威容と高邁は、昔日の感となり果ててました。

ガキの時分の寄席通いは、みなさんさまざまに自慢の種にするもんです。

ただ、どうしたことか、東宝名人会に足を踏み入れていた元少年に出会ったことは、いまだありません。

気の利いたところで、人形町末広あたりです。東京育ちでも「寄席は日比谷」というのはレアだったんでしょうかね。

あの頃の私は、東宝名人会と北京放送に胸躍らせる日々でした。

大学紛争なんかのニュースを北京放送で聴いていると、東京はとんでもないことになっているように手に汗に握ったもんです。これはこれで、話芸のなせる技なのでしょうね。

■古木優プロフィル
1956年高萩市出身。高田裕史と執筆編集した「千字寄席」の原稿を版元に持ち込み、1995年に「立川志の輔監修」付きで刊行してもらいました。これがどうも不本意で。サイト運営で完全版をめざそうと思い立ち、2004年10月16日からココログで始めました。これも勝手がいまいち。さらに一念発起、2019年7月31日からは独自ドメイン(https://senjiyose.com)を取得して「落語あらすじ事典 web千字寄席」として再始動しました。噺に潜む「物語の力」を知るべく奮闘中。

主な著書など
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)高田裕史と共編著 A5判 1995年
『千字寄席 噺の筋がわかる落語事典 下巻』(PHP研究所)高田裕史と共編著  A5判 1996年
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)高田裕史と共編著 文庫判 2000年
『図解 落語のおはなし』(PHP研究所)高田裕史と共編著 B5判 2006年
『粋と野暮 おけら的人生』(廣済堂出版)畠山健二著 全書判 2019年 ※編集協力

■主な執筆稿
数知れず。ゴーストライターもあまた。売文の限りを尽くしました。

バックナンバー

【草戸千軒】2019年8月3日

【志ん生のひとこと】001.2020年1月2日

【志ん生のひとこと】002.2020年2月2日

【白戸若狭守】2022年11月17日

志ん生と忍者】2023年9月26日

【志ん生のひとこと】003.2023年9月27日



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みやとがわ【宮戸川】落語演目





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【どんな?】

隅田川が舞台。
お花半七なれそめの噺。
後半は悲惨ですが。
江戸の噺です。

別題:お花半七馴れ染め

あらすじ

日本橋は小網町こあみちょうの質屋、茜屋半右衛門あかねやはんえもんのせがれ、半七。

堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。

頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。

気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。

こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。

友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日頃から折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。

いつしか二人はばったり。

話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島れいがんじまのおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。

「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。

結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。

一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。

違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。

「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」

下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。

下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。

二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。

こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。

翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。

ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。

おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。

出典:三代目春風亭柳枝

五街道雲助の「宮戸川」

しりたい

実際の心中事件に取材

六代将軍家宣いえのぶが亡くなった正徳しょうとく2年(1712)。

この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が、同年、浄瑠璃「長町裏女腹切ながまちおんなのはらきり」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが芝居や音曲で大流行しました。

それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四代目鶴屋南北(勝次郎、1755-1829)が江戸・玉川座に書き下ろした「宿花千人禿やよいのはなせんにんかむろ」(茜屋半七)が大当たりしました。

落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。

すたれた後半部分

明治中期までは、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがありました。

三代目柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。

この項でのあらすじは、三代目柳枝の速記の前半部分を参照しました。

その後、古風な芝居ばなしがすたれるとともに、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。

昭和に入って、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)といった名人連が得意にしました。

ただ、いずれも前半のみで、円生一門の五代目三遊亭圓楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されていました。

三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)、柳家小満ん五街道雲助金原亭世之介古今亭圓菊柳家喬太郎などが、後半を含めてやったことがあります。

後半のあらすじ

前半から四年ほどのちの夏。

お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。

傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花はしゃくを起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。

承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。

雇った船頭もぐるとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。

三人の渡りゼリフで。

「亭主というは、うぬであったか」
「ハテ、よいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」

……というところで起こされた。

お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。

じつは夢だったという筋立ては「夢金」と同じです。オチは「鼠穴」に似ています。

宮戸川

夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名です。

隅田川の、吾妻橋から厩橋のあたり「宮戸川」と呼んだそうです。

「宮戸」は、三社権現さんじゃごんげんの参道入り口を流れていたことから、この名がついたのだとか。

この付近は、白魚や紫鯉の名産地でした。汽水なんですね。

文政年間(1818-30)、浅草駒形町の醤油酢問屋、内田屋甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になったそうです。ここは居酒屋もあきなっていたとか。

小網町

現在の東京都中央区日本橋小網町。

小網町3丁目の行徳河岸ぎょうとくがしから下総(千葉県北部)の行徳まで三里八丁(約12.9km)を、行徳船ぎょうとくぶねという、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。

ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。

霊岸島

現在の東京都中央区新川1、2丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り、島だったのでした。

船宿

舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。

柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。

【もっとしりたい 後半のあらすじ】

芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。

この噺は、前半と後半がある。

今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。

後半とは、どんな噺なのか。

霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。

実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。

半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」

結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。聴衆を弄んでる。筋の悪い同人誌を読む思い。できのよくない筋運びといえよう。オチもどこかで聞いたことのある、とってつけたようなものだし、それだけですでに凡庸でしかないう。

だからなのか、今では演じる者がいない。えんえんと長いし。

ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知れば、おのずとわかる。

宮戸川とは隅田川の別称である。おおざっぱには、駒形あたりから上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。

噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷あたりとなる。

ともに隅田川がらみの地だ。なによりも、お花が投げ捨てられたのが吾妻橋である。

隅田川は汽水の地。聖と俗、善と悪、生と死、うぶとなれが交錯し、すべてを洗い流してしまう象徴となる。

この噺は前半と後半で際立つ。「宮戸川」と題するのもそこに噺の核が隠されているからだろう。どこまでいっても隅田川まみれの噺なのである。

古木優





  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

おやこざけ【親子酒】落語演目






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【どんな?】

「こんなぐるぐる回る家は欲しくない!」
のんべえ親子の愉快なお話です。

別題:親子の生酔い

【あらすじ】

父子とも大酒のみの家。

先のあるせがれに間違いがあってはと、おやじの方がお互いに禁酒の提案をする。

せがれも承知してしばらくは無事にすんだが、十日目十五日目あたりになると、そろそろ怪しくなってくる。

ちょうど、せがれがお呼ばれに出掛けた留守、おやじは鬼の居ぬ間にと、かみさんに
「昼間用足しに出て、くたくたなんだが、なにかこう、疲れの抜けるものはないかい」
と、ねだる。

「じゃ、唐辛子」
「金魚が目をまわしたんじゃねえ。ひさびさだからその、一杯ぐらい……」

せがれが帰ったら言い訳できないと渋るのを、むりやり拝み倒して銚子一本。

こうなると、
「もう一本だけ」
「もうちょっと」
「もう一本」
「もう半分」
しまいには
「持って来ォいッ」

結局、ベロベロに。

「なにィ? 酔ってる ご冗談でしょう。大丈夫ですったら大丈夫だよッ。ナニ、あいつが帰ってきた? 早いね。膳をかたづけて、お父さんは奥で調べ物してますって言って、玄関で時間をつないどきなさい」

さすがにあわてて、酔いをごまかそうと無理に座りなおし、懸命に鬼のような顔を作って、障子の方をにらみつけている。

一方、せがれ。

こちらもグデングデンでご帰還。

なんでも、ひいきのだんながのめのめと勧めるのを、男と男の約束ですからと断ると怒って、強情張ると出入りを差し止めるというので意地になり、のまないと言ったらのまないと突っぱねた。

「えらいッ、その意気でまず一杯ッ」
と乗せられて、結局、二人で二升五合とか。

二人で気まずそうににらめっこ。

おやじは無理ににらんで
「なぜ、そうおまえは酒をのみたがる。おばあさん、こいつの顔がさっきから三つに見えます。化け物だね。こんな者に身代は渡せませんよ」
と言うと、せがれが
「あたしだって、こんなぐるぐる回る家は欲しくない」

底本:五代目古今亭志ん生 五代目柳家小さん

【しりたい】

三百年来、のんべえ噺

現存する最古の原話は、宝永4年(1707)刊で初代露の五郎兵衛(1643-1703)の笑話本『露休置土産』中の「親子共に大上戸」です。

「親子茶屋」と並んでのんべえ噺としては最古のものです。

原話では、「ぐるぐる回る家……」の後におやじが、「あのうんつく(=ばか者)め、おのれが面(つら)は二つに見ゆるは」と言うところでオチをつけています。

その後、安永2年(1773)刊の『坐笑産』中の「親子生酔」ほか、いくつかの類話が見られますが、大筋は変わっていません。

重宝なマクラ噺

落語としては上方ダネで、短い噺なので、もともと一席噺として演じられることは少なく、酒の噺のマクラや、小咄の寄せ集めのオムニバスの一編に用いられるなど、重宝な使われ方をしています。

野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論)が著書『落語通談』の中で紹介している柳派(柳家小さん系統)のネタ帳「昔噺百々」(明治42年)には、426席が掲載されていますが、この噺の演題はなく、「親子酒」という独立した題が付いたのも大正以後の、かなり新しいことと思われます。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が、明治期に「親子の生酔い」として速記を残しているのは、珍しい例でしょう。

戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)と、酒の噺が得意だった巨匠連が一席物として演じました。

中でも志ん生は、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、実生活でも「親子酒」を地でいっていました。

「上戸」と「生酔い」

よく言われる「上戸」はむろん、瓶などに水を注ぐ道具からきています。「大戸」「戸大」ともいいました。

「戸」は家の入口そのものを指し、質のよいジョウゴできれいに水を注ぐように、体内への入口である口から、絶え間なく酒が胃の腑に流れ込む意味です。

この噺は別題を「親子の生酔い」ともいいますが、「生酔い」は、「生」が、「生乾き」など、それほど程度が進まない状態を表すので、泥酔の一歩手前の「ほろ酔い」を意味するという解釈があります。

噺の中の親子は、どう見てもベロンベロンとしか思えませんね。






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評価 :2/3。

ねずみあな【鼠穴】落語演目




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【どんな?】

金にまつわる壮大、シリアスな人間ドラマ、と思いきや……。

【あらすじ】

酒と女に身を持ち崩した、百姓の竹次郎。

おやじに譲られた田地田畑も、みんな人手に渡った。

しかたなく、江戸へ出て商売で成功している兄のところへ尋ねた。

奉公させてくれと頼むが、兄はそれより自分で商売してみろと励まし、元手を貸してくれる。

竹次郎は喜び、帰り道で包みを開くと、たったの三文。

馬鹿にしやがって、と頭に血が昇った。

ふと気が変わった。

地べたを掘っても三文は出てこない、と思い直した。

これで藁のさんだらぼっちを買い集め、ほどいて小銭をくくる「さし」をこしらえ、売りさばいた金で空俵を買って草鞋わらじを作る、という具合に一心不乱に働く。

その甲斐あって二年半で十両ため、女房も貰って女の子もでき、ついに十年後には深川蛤町はまぐりちょうに蔵が三戸前みとまえある立派な店の主人におさまった。

ある風の強い日、番頭に火が出たら必ず蔵の目塗りをするように言いつけ、竹次郎が出かけたのはあの兄の店。

十年前に借りた三文と、別に「利息」として二両を返し、礼を述べると、兄は喜んで酒を出し、
「あの時におまえに五両、十両の金を貸すのはわけなかったが、そうすれば景気付けに酒をのんでしまいかねない。だからわざと三文貸し、それを一分にでもしてきたら、今度は五十両でも貸してやろうと思った」
と、本心を語る。

「さぞ恨んだだろうが勘弁しろ」
と詫びられたので、竹次郎も泣いて感謝する。

店のことが心配になり、帰ろうとすると兄は、
「積もる話をしたいから泊まっていけ。もしおめえの家が焼けたら、自分の身代を全部譲ってやる」
とまで言ってくれたので、竹次郎も言葉に甘えることにした。

深夜半鐘が鳴り、蛤町方向が火事という知らせ。

竹次郎がかけつけるとすでに遅く、蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。

わずかに持ち出したかみさんのへそくりを元手に、掛け小屋で商売してみた。

うまくは行かず、親子三人裏長屋住まいの身となった。

悪いことにはかみさんが心労で寝付いた。

どうにもならず、娘のお芳を連れて兄に五十両借りにいく。

ところが
「元の身代ならともかく、今のおめえに五十両なんてとんでもねえ」
と、けんもほろろ。

店が焼けたら身代を譲ると言ったとしても、
「それは酒の上の冗談だ」
と突っぱねられる。

「お芳、よく顔を見ておけ、これがおめえのたった一人のおじさんだ。人でねえ、鬼だ。おぼえていなせえッ」

親子でとぼとぼ帰る道すがら、七つのお芳が、
「あたしがお女郎じょろうさんになっ、てお金をこしらえる」
とけなげに言ったので、泣く泣く娘を吉原のかむろに売り、二十両の金を得る。

その帰りに、大切な金をすられてしまった。

絶望した竹次郎。

首をくくろうと念仏を唱え、乗っていた石をぽんとけると、そのとたんに
「竹、おい、起きろ」

気がつくと兄の家。

酔いつぶれて夢を見ていたらしいとわかり、竹次郎、胸をなでおろす。

「ふんふん、えれえ夢を見やがったな。しかし竹、火事の夢は焼けほこるというから、来年、われの家はでかくなるぞ」
「ありがてえ、おらあ、あんまり鼠穴ァ気にしたで」
「ははは、夢は土蔵どぞう(=五臓ごぞう)の疲れだ」

【しりたい】

夢は五臓の疲れ   【RIZAP COOK】

五臓は心・肝・肺・腎・。陰陽五行説で、万物をすべて木・火・土・こん・水の五性に分類する思想の名残です。

「夢は五臓のわずらい」ともいいます。

それにしても、普通、夢の「悪役」(しかも現実には恩人)に面と向かって、馬鹿正直に「あんたが人非人に変わる夢を見ました」なんぞとしゃべりませんわなあ。

なんぞ、含むところがあるのかと思われてもしかたありません。

精神科医なら、どう診断するでしょう。

ハッピーエンドの方が、実は夢だった、とでもひっくり返せば、少しはマシな「作品」になるでしょうが。誰か改作しないですかね。

このオチ、「宮戸川」に似ています。

深川蛤町   【RIZAP COOK】

東京都江東区門前仲町の一部です。

三代将軍・家光公に蛤を献上したのが町名の起こりで、樺太探検で名高い間宮林蔵(1775–1844)の終焉の地でもあります。

三戸前   【RIZAP COOK】

「戸前」は、土蔵の入り口の戸を立てる場所。

そこから、蔵の数を数える数詞になりました。

三戸前みとまえ」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちのバロメーターでした。

さんだらぼっち   【RIZAP COOK】

俵の上下に付いた、ワラで編んだ丸いふた。桟俵さんだわらともいいます。

演者   【RIZAP COOK】

大正から昭和にかけての名人、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)へと継承されました。

円生は昭和28年に初演して以来、ほとんど一手専売にしていましたが、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)とその一門に伝わり、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)も、その一門もけっこうやっています。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)もよく演じましたが、田舎ことばは、この人がもっとも愛嬌があって達者でしたね。

あ、それと   【RIZAP COOK】

十代目小三治師匠といえば、昭和14年(1939)12月生まれで都立青山高校卒であることは有名な話ですが、東宝が、いや、日本が誇るアジアン・ビューティー、若林映子あきこさんも同年12月生まれで都立青山高校を出ています。

お二人は同級生だったそうです。

若い頃の小三治師匠(小たけ時代とか)に「郡山クン、おつかれさま」とかなんとか言って楽屋に差し入れを持って来てくれてたのでしょうか。勝手に想像しちゃいます。

彼女は「不良少女モニカ」とか呼ばれてたんだとか。ベルイマンのですかい。粋です。

    日本の至宝、若林映子さん。美女の頂点





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こほめ【子ほめ】落語演目

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【どんな?】

他人の子。
心にもなくほめる。
いやあ、気を使います。
愚者が半端に真似して。
失敗するおかしさが秀逸。

別題:年ほめ 赤子ほめ(上方)

あらすじ

人間がおめでたくできている熊五郎がご隠居のところに、人にただ酒をのましてもらうにはどうすればいいかと聞いてくる。

そこで、人に喜んでごちそうしようという気にさせるには、まずうそでもいいからお世辞の一つも言えなけりゃあいけないと教えられ、例えば、人は若く言われると気分がいいから、四十五の人には厄(四十一~三歳)そこそこ、五十なら四十五と、四、五歳若く言えばいいとアドバイスされる。

たまたま仲間の八五郎に赤ん坊が生まれたので、祝いに行けば酒をおごってもらえると算段している熊公、赤ん坊のほめ方はどうすればいいか聞くと、隠居がセリフを教えてくれる。

「これはあなたさまのお子さまでございますか。あなたのおじいさまに似てご長命の相でいらっしゃる。栴檀せんだん双葉ふたばより芳しく、じゃすんにしてその気をのむ。私も早くこんなお子さまにあやかりたい」

喜んで町に出ると、顔見知りの伊勢屋の番頭に会ったから、さっそく試してやろうと、年を聞くと四十歳。

四十五より下は聞いていないので、むりやり四十五と言ってもらい、
「えー、あなたは大変お若く見える」
「いくつに見える?」
「どう見ても厄そこそこ」
「ばか野郎ッ」
としくじった。

さて、八つぁんの家。

男の子で、奥に寝ているというから上がると、
「妙な餓鬼がきィ産みゃあがったな。生まれたてで頭の真ん中が禿げてやがる」
「そりゃあ、おやじだ」

いよいよほめる段になって、
「あなたのおじいさまに似て長命丸ちょうめいがんの看板で、栴檀の石は丸く、あたしも早くこんなお子さまにかやつりてえ」
「なんでえ、それは」
「時に、この赤ん坊の歳はいくつだい?」
「今日はお七夜だ」
「初七日」
「初七日じゃねえ。生まれて七日だからまだ一つだ」
「一つにしちゃあ大変お若い」
「ばか野郎、一つより若けりゃいくつだ」
「どう見てもタダだ」

しりたい

これも『醒睡笑』から

安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』(「てれすこ」参照)巻一中の「鈍副子どんふうす 第十一話」が原話です。副子とは、禅寺の会計を担当する僧侶のこと。

これは、脳に霞たなびく小坊主が、人の歳をいつも多く言うというので和尚にしかられ、使いに行った先で、そこの赤ん坊を見て、「えー、息子さんはおいくつで?」「今年生まれたから、片子かたこですよ」「片子にしてはお若い」というもので、「子ほめ」のオチの原型になっています。片子とは、満一歳未満の子、赤子をさします。

小咄こばなしがいくつか合体してできた噺の典型で、自由にくすぐり(ギャグ)も入れやすく、時間がないときはいつでも途中で切れる、「逃げ噺」の代表格です。

大看板も気軽に

そういうわけで、「子ほめ」は、逃げ噺、前座噺として扱われます。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目金馬(加藤専太郎、1894-1964)といったかつての大物も、時々気軽に演じました。

五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)の、ぶっきらぼうな口調も耳に残っています。

オチは、満年齢が定着した現在は、通じにくくなりつつあるため、難しいものがあります。

上方の三代目桂米朝(中川清、1925-2015)は、「今朝、生まれたばかりや」「それはお若い。どう見てもあさってに見える」としていました。

蛇は寸にしてその気をのむ

「その気を得る」「その気を顕す」ともいいます。

解釈は「栴檀せんだん双葉ふたばより芳し」と同じで、大人物は幼年からすでに才気を表している、という意味。「寸」は体長が一寸(3cm)の幼体のことです。

長命丸は四つ目屋から

俗に薬研堀やげんぼり、実は両国米沢町の「四つ目屋」で売り出していた強精剤、催淫剤です。

四つ目屋は、このほか「女悦丸」「朔日丸」(避妊薬)など、その方面のあやししげな薬を一手に取り扱っていました。

両国といわれると、いまではつい両国駅あたりを思い浮かべてしまいますが、四つ目屋の両国は両国橋西詰で、日本橋側です。となると、だいぶ印象が違ってきます。

さて、長命丸。

田舎のおやじが、長生きの妙薬と勘違いして長命丸を買っていき、セガレの先に塗るのだと教えられていたので、さっそく、ばか息子の与太郎の頭に塗りたくると、夜中に頭がコックリコックリ持ち上がった、という艶笑噺があります。

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ごしょううなぎ【後生鰻】落語演目

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【どんな?】

小動物を放つと功徳(よい報い)が。
本末転倒のばかばかしさ。
珍妙無比の最高傑作です。
これはもう志ん生のが絶品。

別題:放生会ほうじょうえ 淀川(上方)

【RIZAP COOK】

あらすじ

さる大家たいけ(金持ち)の主人。

すでにせがれに家督(財産)を譲って隠居の身だが、これが大変な信心家で、殺生せっしょう(生き物を殺す)が大嫌い。

夏場に蚊が刺していても、つぶさずに、必死にかゆいのをがまんしているほど。

ある日、浅草の観音さまへお参りに行った帰りがけ、天王橋のたもとに来かかった。

ちょうど、そこの鰻屋のおやじが蒲焼きをこしらえようと、ぬるりぬるりと逃げる鰻と格闘中。

隠居、さっそく義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。

「あたしの目の黒いうちは、一匹の鰻も殺させない」
「それじゃあ、ウチがつぶれちまう」
と、すったもんだの末、二円で買い取って、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳くどくをした」

翌日。

同じ鰻屋で、同じように二円で。

ボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

その翌日はスッポンで、今度は八円とふっかけられた。

「生き物の命はおアシには換えられない、買いましょう」
「ようがす」
というわけで、またボチャーン。

これが毎日で、喜んだのは鰻屋。

なにしろ隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、たちまち左うちわ。

仲間もうらやんで、
「おい、おめえ、いい隠居つかめえたな。どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」
などという連中も出る始末。

ところがそのうち、当の隠居がぱったりと来なくなった。

少しふっかけ過ぎて、ほかの鰻屋にまわったんじゃないかと、女房と心配しているところへ、久しぶりに向こうから「福の神」。

「ちょっとやせたんじゃないかい」
「患ってたんだよ。ああいうのは、いつくたばっちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくっとこう」

ところが、毎日毎日隠居を当てにしていたもんだから、商売は開店休業。

肝心の鰻もスッポンも、一匹も仕入れていない。

「生きてるもんじゃなきゃ、しょうがねえ。あの金魚……ネズミ……しょうがねえな、もう来ちゃうよ。うん、じゃ、赤ん坊」

生きているものならいいだろうと、先日生まれたわが子を裸にして、割き台の上に乗っけた。

驚いたのは隠居。

「おいおい、その赤ちゃん、どうすんだ」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「ばか野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」

隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

後生  【RIZAP COOK】

ごしょう。昔はよく「後生が悪い」とか「後生がいい」とかいう言い方をしました。後生とは仏教の輪廻転生説でいう、来世のこと。

現世で生き物の命を助けて功徳(よい行い=善行)を積めば、生まれ変わった来世は安楽に暮らせると、この隠居は考えたわけです。

五代将軍徳川綱吉(1646-1709)の「生類憐みの令」も、この思想が権力者により、ゆがんだ、極端な形で庶民に強制された結果の悲劇です。

悲劇と言い切れるかどうか。昨今は、綱吉の治世が再評価されてつつあります。社会福祉優先、文化優先の善政であった、と。これは別の機会に。

  【RIZAP COOK】

江戸市中に鰻の蒲焼きが大流行したのは、天明元年(1781)の初夏でした。てんぷらも、同じ年にブームになっています。

それまでは、鰻は丸焼きにして、たまり醤油などをつけて食べられていたものの、脂が強いので、馬方など、エネルギーが要る商売の人間以外は食べなかったとは、よく言い習わされている説ですね。

それまでも、眼病治療には効果があるので、ヤツメウナギの代わりとして、薬食いのように食べられることは多かったようです。

屈指のブラック名品  【RIZAP COOK】

オチが効いています。

こともあろうに、落語にモラルを求める野暮で愚かしい輩は、ごらんの結末ゆえに、この噺を排撃しようとしますが、料簡違いもはなはだしい。

このブラックなオチにこそ、えせヒューマニズムをはるかに超えた、人間の愚かしさへの率直な認識が見られます。

一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような名編の一つでしょう。

志ん生、金馬のやり方  【RIZAP COOK】

上方落語の「淀川」を東京に移したものです。明治期では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)がそれぞれの個性で得意にしていました。

志ん生、金馬は、信心家でケチな隠居が、亀を買って放してやろうとし、一番安い亀を選んだので、残った亀が怒って、「とり殺してやるっ」という小ばなしをマクラにしていました。

小円朝は、ふつう隠居が「いい功徳をした」と言うところを、「ああ、いい後生をした」とし、あとに「凝っては思案にあたわず」と付け加えるなど、細かい工夫、配慮をしていました。

この噺は、別題を「放生会ほうじょうえ」といいます。

これは旧暦八月十五日に生き物を放してやると功徳を得られるという、仏教行事にちなんだものです。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

しにがみ【死神】落語演目




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

米津玄師も唸る幽冥落語の逸品。
元ネタはドイツ、はたまたイタリア由来とか。
ローソク使った寿命の可視化が真骨頂。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめたッ」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまったくらい。西本晃二『落語「死神」の世界』(青蛙房、2002年)です。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したのがイタリアのルイージ・リッチとフェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」で、この筋か、または、グリム童話「死神の名付け親」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴(源一郎、1841-1906、幕臣→劇作家、東京日日新聞社長、衆院議員)あたりから聞き込んで、落語に翻案したものといわれています。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。古来、日本にはこんなイメージがありません。日本では死神があんまり出てこないのです。

この噺で語られる死神はというと、ぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとったやせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

しかし、こんなのは日本文化にはなじまないもの。明らかに明治期に西洋から入ってきた死神の図像的な翻案です。

とはいえ、円朝は死神像をでたらめにこさえたわけでもありません。

江戸時代も後期になると、聖書を漢訳本で読んだ国学者たちの間で醸成していった西洋と日本の掛け合わせ折衷文化が庶民の日常にもじわじわと及ぼしてきます。

ついには、これまでの日本人がまったく抱いてこなかった「死を招く霊」が登場するのです。

たとえば、下図は『絵本百物語』(桃山人著、竹原春泉斎画、天保12年=1841年)の「死神」。このようにすっとんきょうな、乞食のようなじいさんのような姿の死神像も一例です。

日本の「死神」は古くからあまりイメージされてきていませんから、人々の心の中に一定のイメージがあるわけではありませんでした。

それでも「死神」というからには死を連想させるわけで、老人、病人、貧者の姿がおさまりよいのでしょう。異形のなりではありますが。

円朝の「死神」では、筋の上では西洋の翻案のためか、ギリシア風の死をつかさどる神とい、新しいイメージが加わっているようにも見えます。

日本では死神に対する誰もが抱く共通した図象イメージがなかったことが、円朝にはかえっておあつらえ向きだったことでしょう。

ローソクを人の寿命に見立てる考えなども、日本人にはまったくなかった発想でした。ここでの死神は、じつは、明治=近代の意識丸出しのそれなんですね。

「古典落語」といいながらも、大正期にできた噺までも許容しているわけです。

古典落語を注意深く聴いていると、妙に「近代」が潜り込んでいることに気づくときもあります。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家芸です。

明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味とユーモアが渾然一体で絶品でした。八五郎役は森川正太(新井和夫、1953-2020)。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」。昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承します。

先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意としました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、オチも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種でした。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のは、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。






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あたごやま【愛宕山】落語演目




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【どんな?】

京でだんなが野駆け。
かわらけ代わりに小判投げ。
見るや幇間が傘で降下。

あらすじ

ころは明治の初年。

だんなのお供で、朋輩ほうばい(仲間)の繁八や芸者連中とうちそろって京都見物に出かけた幇間の一八。

負けず嫌いで、なにを聞かれても
「朝飯前でげす」
と安請け合いをするのが悪い癖。

あらかた市内見物も済み、今度は愛宕山に登ろうという時に、だんなに、
「愛宕山は高いから、おまえにゃ無理だろう」
と言われたが、一八は
「冗談言っちゃいけませんよ。あたしだって江戸っ子です。あんな山の一つや二つ、朝飯前でげす」
と見栄を張ったばっかりに、死ぬ思いでヒイヒイ言いながら登る羽目になった。

弟弟子の繁八をなんとか言いくるめて脱走しようとするが、だんなは先刻お見通しで、繁八に見張りを言いつけてあるから、逃がすものではない。

おまけに、途中でだんなに
早蕨さわらびの 握り拳を振り上げて 山の横面 春(=張る)風ぞ吹く」
という歌を自慢げに披露したまではいいが、
「それじゃ、早蕨(芽を出したばかりの蕨)ってえのはなんのことだ」
と逆に聞かれて、シドロモドロ。

おかげで十円の祝儀をもらい損なう。

ようやく山頂にたどり着くと、ここでは、かわらけ投げが名物。

茶屋のばあさんから平たい円盤を買って、頂上からはるか下の的に向かって投げる。

だんなは慣れていて百発百中。

夫婦投げという二枚投げも自由自在だが、一八がまた「朝飯前」と挑戦しても、全くダメ。

そのうちだんな、酔狂にもかわらけの代わりに本物の小判を投げ始めたから、さあ一八は驚いた。

「もったいない」
と止めると、
「おまえには遊びの味がわからない」
と、とうとう三十枚全部放ってしまう。

拾った奴のものだと言うので、欲にかられた一八、だんなが止めるのも聞かばこそ、千尋の谷底目がけ、傘でふわりふわりと落下。血走りまなこで落ちていた三十枚全部かき集めた。

「おーい、金はあったかー」
「ありましたァー」
「全部てめえにやるぞー」
「ありがとうございますゥー」
「どうやって登るゥー」
「あっ、しまった」
「欲張りめ。狼に食われてしまえ」

奴さん、何を考えたか、素っ裸になると着物を残らすビリビリと引き裂き、長い紐をこしらえると、そいつを嵯峨竹に引っかけ、竹の弾力を利用して、反動で空高く舞い上がるや、
「ただいまっ」
「えらいっ、きさまを生涯贔屓ひいきにしてやるぞ」
「ありがとう存じますっ」
「金は?」
「あっ、忘れてきた」

【RIZAP COOK】

底本:八代目桂文楽

しりたい

黒門町!  【RIZAP COOK】

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)からの直伝で「黒門町」こと八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が継承し、磨きに磨いて、一字一句ゆるがない名人芸に仕上げました。

特に後半の、竹をたわめる場面は体力を要するので、晩年、侍医に止められましたが、文楽は最後まで「愛宕山」に固執したといいます。

ひいさん   【RIZAP COOK】

この噺に出てくるだんなは、文楽のパトロンだったひいさんこと樋口由恵ひぐちよしえがモデルです。

樋口由恵ひぐちよしえ(1895-1974)は山梨県増穂町(富士川町)出身の経営者。

大正期に上京、昭和初期に川崎陸送を創業し成功させた立志伝中の人です。

桂文楽の話を正岡容(1904-58)が聞き書きしてまとめた『芸談あばらかべっそん』(桂文楽、青蛙房、1957年→朝日ソノラマ文庫、1967→ちくま文庫、1992年)。

こんなくだりが載っています。以下、ご参考まで。

私を大へんひいきにして下すったお方のひとりに樋口由恵さんとおっしゃるお方がございます。「東京新聞」の須田栄先生をやせさせたような感じの方です。
お家は甲府で、お父さんは樋口半六という県会議員もなすった方で、御本業は運送屋さんで、お邸の中にレールまでしいてあるという、すばらしい御商売振りなんです。
丁ど、大地震のすぐあとでしたネ、各派が一しょになって焼けのこった山の手の席をうっているころのことでした。
私は芝の席がトリでしたが、四谷の喜よしへ向嶋の待合から電話がかかって来ましてネ、
「ぜひ来て下さいよ。来て下さらないと。そのお客さまが大へんなんです」
と、こうなんです。
ところが生憎そのときはカケモチが何軒もあるので、
「折角ですが今晩は伺えません」
そういって断わると、一、二日してまた電話が、今度は幇間(たいこもち)からかかって来て、
「師匠助けるとおもって来て下さいな。でないと我々が困るんです」
と、こういうんです。
「じゃあ伺いましょう。けど、あと三軒歩きますから十一時過ぎになりますが……」
「それでもいいから、とにかく一ぺん来て下さい」
それから席を二、三すませていったから、もう十二時ちかくでしょう。
そのじぶんですから或いは十二時過ぎていたかもしれませんが、
「今晩は……」
と入ってゆくと、その待合じゅうがシーンとしているんです。
女将もでて来なけりゃ、第一、階下でシャダレがふてくされて、二、三人ねそべっている。
ところへさっき電話をかけて来た幇間がでて来て、
「よく来てました。ヒーさんてえお客さまなんですがネ、この間の晩、師匠がおいで頂けなかったでしょう。そうしたら、ヤイてめえンとこじゃ文楽はよべねえのかって、芸者が引叩かれる、つねられる、だもンで今夜もみんなイヤがってアアやって寄付かないんですよ」
いわれて私もいささかコワクなりましたが、ソーッと二階へ上がっていって障子の穴から透き見をしてみると、成程、皿小鉢がこわれて、そのお客さまはうなだれて、
「ウーム……ウーム」
とうなっています。
「今晩は……」
そこで私が低くこういいながら入っていったら、とたんに一と目みて、
「ヨーッ来たな」
そのマー喜びようたらないんです。
「オイオイ師匠がみえたじゃないか。何をしているんだ。早くそこらを片付けろ片付けろ」
って、急いで女中たちに皿小鉢を片付けさせて、ガラッと一ぺんに世界が変わったように明るくなってしまったんです。
「オイ文楽さん、私は前から君のファン(というコトバはまだなかったでしょうが)なんだよ」
といった塩梅で御祝儀を下すって、その晩は泊ってゆけとおっしゃるんですが、私ははじめてのお客の前で不見転を買うのはいやだから御辞退したんだが、先方さんはすぐ妓をよんで下すっていて、
「じゃこの妓じゃ師匠の気に入らないんだろう。面食(めんく)いだネこの人は……」
てんで、次々とかえては三人もよんで、
とうとう女将が私を次の間によんで、
「師匠が泊って下さらないと、またヒーさんがお怒りになりますから」
てんで、それから私も心得てすぐひけ(寝る)てえことにしましたら、
「ハハーあの妓はきに入ったんだな」
てんで、大へんなごきげんでかえっていった。連中みんなはじめてホッとしたそうで、何しろ大へんな荒れようだったんだから、そりゃマーそうでしょうよ。

米朝の「愛宕山」  【RIZAP COOK】

文楽演出を尊重しながらも、いかにも大阪らしい「愛宕山」を演じて、これも十八番、名人芸です。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)始め上方バージョンでは、東京と異なり、大阪ミナミの幇間の一八と繁八が、京都・室町のだんなのお供で野駆のがけ(ピクニック)に出かけ、ついでに愛宕山に参詣を、となります。

だんながあまり大阪をくさす(ケチをつける)ので、腹を立てた二人が、だんながかわらけ投げをしているのを、「京の人間はシミったれやさかい、あんなもんしかよう放らん」と、いやみを言い、だんなが怒って小判を投げるという設定です。

同じ取り持ち稼業でも、大阪の幇間は決してイエスマンでなく、反骨精神旺盛だったようですね。

かわらけ投げ  【RIZAP COOK】

江戸でも、王子の飛鳥山、谷中の道灌山でさかんに行われていました。

日ぐらしは 壱文ずつが 飛んでいき
かわらけが 逸れて桜の 花が散り

春の行楽の風物詩でした。「日ぐらし」とは日暮らしの里。現在の荒川区日暮里あたりをさします。

京都の愛宕山  【RIZAP COOK】

京都市右京区上嵯峨北西部にあり、海抜は924m(3049尺)とけっこう高い山です。

京都市の北東の比叡山(848m)と並ぶ霊峰。

愛宕山は五つの峰(朝日山、大鷲峰、龍上山、高雄山、鎌倉山)からなる総称をいいます。

中国の五台山にならって、「愛宕五峰」「愛宕五坊」などと呼ばれました。

朝日峰の山頂には、本宮にイザナミを、若宮に火産霊神ほむすびのかみ(軻遇突智命かぐつちのみこととも)をまつる愛宕神社があります。

若宮の神はイザナミの子で、イザナミが出産した際にホト(陰部)をやけどしてしまい、その傷がもとで死んでしまいます。

怒ったイザナギは十拳剣とつかのつるぎでこの神を刺し殺します。

剣からしたたり落ちた血から神々が生まれました。すごい話です。

愛宕神社は、神仏習合(神祇信仰と仏教が融合した信仰形態)だった頃は白雲寺と呼ばれていました。明治初期の神仏分離令で廃寺となり、愛宕神社にさまがわりしました。

朝日峰  愛宕権現白雲寺→愛宕神社 変容存続
大鷲峰  月輪寺 存続 天台宗
高雄山  神護寺 存続 真言宗
龍上山  日輪寺 廃寺
鎌倉山  伝法寺 廃寺

ここは修験道の道場でもありました。

さらには、さえの神信仰(土地の境界を守る神への信仰)や陰陽道おんみょうどう、天狗信仰、勝軍地蔵しょうぐんじぞう信仰(軍神)、おまけに火の神を仰ぐところから火除ひよけの信仰も篤く、信仰の百貨店のようなさまでした。

火迺要慎ひのようじん」と記された愛宕神社の火伏せ札は、京都の台所や厨房に張られています。

「愛宕の三つ参り」として、三歳までにお詣りすると生涯火災に遭遇することがないと伝えられています。

重要なのは火伏せの神として尊崇されていることです。

明治期より前には、火除け、火伏せの神はより多く信仰されていました。

一年を通じてにぎわいましたが、特に、陰暦6月24日の愛宕千日詣では有名です。

京都の人々には「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山には月参り」とうたわれました。

火の神さまは愛宕神社以外には、秋葉山本宮秋葉神社(浜松市)を頂点とする秋葉神社や野々宮神社(京都市右京区、東京都港区など)でまつられています。

『都名所図会』には、「月ごとの縁日にも老人は皿竹輿さらかごをかりてたすけられ、婦人童子のわかちもなく、万仭のけわしきをいとわず、坂路の茶店に休らえば、白雲目の前を横とう。あるいは、土器なげに興じて足の重きを忘れる」とあるほど。

登山の途中で一八がひけらかす「早蕨の……」の狂歌は、当人が知っていたかどうかは定かではありませんが、大田南畝おおたなんぽ(1749-1823)の作です。南畝は蜀山人しょくさんじんのこと、江戸天明狂歌のパイオニアです。

東京の愛宕山は港区愛宕1丁目にありますが、こちらは京の愛宕大権現を慶長8年(1603)に勧請かんじょう(神仏の分霊をお願いして迎えること)しました。東京支店ですね。

かしくのこぼればなし  【RIZAP COOK】

「私はこれをかしく師匠(引用者注:二代目文の家かしく、のち三代目笑福亭福松。1884-1962)に習ったのですが『愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな』と言うと『行ったらやれんようになるで。この噺嘘ばっかりやさかい』と言われて……」 

『米朝ばなし 上方落語地図』(桂米朝、毎日新聞社→講談社文庫、1981年)

何度も記しますが、古い同題の上方噺を三代目円馬が東京風に脚色しました。

円馬から八代目桂文楽に伝わる。文楽のおはこでした。

東京の噺家が語る上方を舞台にした噺の一。

「三十石船」などほかにもありますが、中国人俳優が日本人役として登場するハリウッド映画のような珍妙ぶり。

愛宕山とは、もちろん京都のです。東京のではありません。

修験道の聖地です。山頂には愛宕神社があります。

「堀の内」の上方版「いらちの愛宕まいり」も、ここが舞台となっています。

茶店の傘  【RIZAP COOK】

この手の茶店には傘が常備されてありました。

そこからの発想なのでしょう。

借りたら返さなくてはいけないわけで、ということは、その店を再訪しなくてはいけないため、せちがらい現代社会には耐えられず、消えていく風習となっていったのですね。

ことばよみいみ
朋輩ほうばい仲間。友達
火産霊神ほむすびのかみ京都の愛宕神社の祭神。鍛冶、土器、消防、火の神。火が全てを浄化するところから祓いの神となる。全てを燃やし尽くすところからの発想で、物事を初期状態に戻す帳消しの神、リセットの神としても
軻遇突智命かぐつちのみこと火の神。『古事記』では「迦具土神」とある。イザナミノミコトが神生みの最後に生んだ神で,イザナミは陰部を焼かれて死に至る
十拳剣とつかのつるぎ神話に登場する剣の総称。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」などの表記も
皿竹輿さらかごかわらけなどを入れる竹で編んだかご
万仭 ばんじん七万尺。「仞」は七尺。とほうもない長さ




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

たぬさい【狸賽】落語演目



 




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【どんな?】

男、子狸にチョボイチのさいころに化けさせてどんな目でも出させる。
賭場とばで男は大当たり。最後の勝負では「目を読むな」と制される。
開いた目は五。男は「梅鉢だッ。天神さまだ」とやった。
勝負ッ。狸が冠かぶりしゃく持ってふんぞりかえってた。

別題:狸 たぬき賽(上方)

あらすじ

ある博打打ちの男。

誰か夜中に訪ねてきたので開けてみると、なんと子狸。

昼間、悪童たちにいじめられているのを男に助けられたので、その恩返しに来たのだという。

「なんでもお役に立つから、しばらく置いてください」
というので、家に入れて試してみると、なんにでも化けられるので、なるほどこれは便利。

小僧に化けて家事一切をやってくれたり、葉書を札に化けさせて、米をかすり取ってきたり。

そこで男が思いついたのが今夜の「ご開帳」。

チョボイチだから、狸をサイコロに化けさせて持っていけば、自分の好きな目が出放題、というわけ。

さっそく訓練してみると、あまり転がすと目が回るなどと、頼りないが、何とか仕込んで、勇躍賭場へ。

強引に胴を取ると、男が張る目張る目がみんな大当たりで、たちまち男の前には札束の山。

ところが、やたら
「今度は一だ」
「三だよッ、三だ三だ三だ」
などと、いちいちしつこく指示を出すので、一同眉に唾をつけ始める。

儲けるだけ儲けて退散しようとすると、最後の勝負というので先に張られてしまい、てめえが変なことを言うとその通りの目が出るから、もう目を読むなと釘をさされる。

開いた目は五。

五と言えないので、
「うーん、今度はなんだ、梅鉢だ。えー、まーるくなって、一つ真ん中になるだろ。加賀さまだ。加賀さまの紋が梅鉢で、梅鉢は天神さま。なッ。天神さまだよ、頼むぜッ」

「勝負ッ」
と転がすと、狸が冠かぶって、しゃく持ってふんぞりかえってた。

「この野郎!」

底本:五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん

しりたい

さまざまな狸噺  【RIZAP COOK】

原話は、宝暦13年(1763)刊の笑話本『軽口太平楽』中の「狸」です。

本来、軽く短い噺なので、「狸の札」「狸の釜」「狸の鯉」などの同類の狸噺とオムニバスで続ける場合があります。

「狸賽」を入れた四話をまとめて、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)のように「狸」と題することもあります。

それぞれ、狸が恩返しに来るという発端は共通していて、化けて失敗するものが違うだけです。

「狸の鯉」は、狸を鯉に化けさせ、親方の家に持っていくと料理されそうになり、「鯉」が積んだ薪を伝わって窓から逃げたので「あれが鯉の薪(=滝)のぼりです」と地口で落とすもの。

「狸の札」は、札に化けさせられ、相手のガマ口に入れられた狸が苦しくなって逃げ帰り、「ついでにガマ口の銭も持ってきました」というもの。

「狸の釜」は、釜に化けて和尚に売られた狸が火にかけられて逃げ出し、小坊主があれは狸だったと報告すると、「道理で半金かたられた」「包んだ風呂敷が八丈でございます」とオチるもので、狸の睾丸が八畳敷きというのと、布地の八丈縞を掛けたもの。

ぶんぶく茶釜伝説のパロディーです。

今では、あまり演じられません。

珍品、小さんの狸  【RIZAP COOK】

明治期では四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記があります。

五代目志ん生も得意にしましたが、代々の柳家小さん系に伝わる噺です。

まあ、三代目から五代目の小さんが、そろって狸に似ていたという縁もあるでしょうが。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が演じると、狸を助ける場面、狸とのやりとり、「サイン」を打ち合わせるくだりなどがわりにあっさり演じた志ん生に比べて詳しくて、特に、オチの部分を、笏を持った天神のしぐさで表現するのが特色でした。

その抱腹絶倒の表情は、いまだに記憶に強烈に残っています。

小さんは「狸の札」を「狸賽」のマクラに用い、つなげて演じることも多く、その際は「狸」の題名で演じていました。

志ん生の方は、同じ「狸」の演題でも、「狸の鯉」とつなげることが多かったようです。

五代目小さんの弟子筋を中心に、若手にもよく演じられる噺です。

チョボイチ  【RIZAP COOK】

一つ粒ともいいます。

サイコロ一つを使ってやる、きわめてギャンブル性の強いバクチです。

胴元の出した目に張ると、配当は四倍になります。

同じチョボでも狐チョボになると、サイコロ三つで勝負します。

志ん生が絶妙だった「今戸の狐」にも出てきます。隠語の「狐」がからみます。

上方では  【RIZAP COOK】

発端が、少し東京と異なります。

バクチに負けた旅人が、空腹のあまり狸塚に子供たちが供えたぼた餅をつまみ食いすると狸が現れて因縁をつけてきます。

もしサイコロに化けて自分の言う通りの目を出してくれたら、ぼた餅など山のように食わしてやる、と持ちかけ、狸の賽を持ってバクチ場へ行くという段取りです。

オチは小さんと同じく、天神さまのしぐさオチになります。

原話の『軽口太平楽』中の小咄では、こうです。

化け狸が住み着いた貸家に越してきた男を、狸がありとあらゆる妖怪に化けて脅しますが、いっこうに動じないので、とうとう根負けして降参。男の頼みを聞いてサイコロに化けることに。

オチは少し変わっています。

男が五の目を出させようと「梅の花、梅の花」と言うと、狸が勘違いして(梅に縁ある)ウグイスに化けてしまいます。

これがオチ。

「この野郎!」   【RIZAP COOK】

あらすじの最後の「この野郎!」は、五代目志ん生が加えたものです。

はっきりしたオチにはなっていません。

これだと噺がまだあとに続きそうで、すわりは悪いものの、印象に残るちょっとおもしろい終わり方ですね。




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評価 :2/3。

こんにゃくもんどう【蒟蒻問答】落語演目



葷酒山門に入るを許さずともいわず!?


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【どんな?】

蒟蒻屋と托鉢僧との問答。
無言の話芸。
仕方噺の極致。

別題:餅屋問答(上方)

あらすじ

八王子在のある古寺は、長年住職のなり手がなく、荒れるに任されている。

これを心配した村の世話人・蒟蒻屋の六兵衛は、江戸を食い詰めて自分のところに転がり込んできている八五郎に、出家してこの寺の住職になるように勧めたので、当人もどうせ行く当てのない身、二つ返事で承知して、にわか坊主ができあがった。

二、三日はおとなしくしていた八五郎だが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、寺男の権助と二人でくだを巻いている。

金がないので
「葬式でもない日にゃあ、坊主の陰干しができる。早く誰かくたばりゃあがらねえか」
とぼやいているところへ、玄関で
「頼もう」
と声がする。

出てみると蘆白笠あじろがさを手にしたお坊さん。

越前永平寺の僧で沙弥托善しゃみたくぜんと名乗り、
「諸国行脚の途中立ち寄ったが、看板に『葷酒くんしゅ山門さんもんるを許さず』とあるので禅寺と見受けた、ぜひ、ご住職に一問答お願いしたい」
と言う。

なんだかわけがわからないが、権助が言うには、
「問答に負けると如意棒にょいぼうでぶったたかれた上、笠一本で寺から追い出される」
とのこと。

住職は留守だと追っ払おうとしたが、
「しからば、命の限りお待ち申す」
という。

大変な坊主に見込まれたものだと、八五郎が逃げ支度をしていると、やって来たのが六兵衛。

事情を聞くと、
「俺が退治してやろう」
と身代わりを買って出た。

「問答を仕掛けてきたら、黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないと言え。それで承知しやがらなかったら、せき払いを合図に飛びかかってぶち殺しちめえ」

翌日。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。

「法界に魚あり、尾もなく頭もなく、中の鰭骨きこつを保つ。大和尚、この義はいかに」

六兵衛もとより、なんにも言わない。

坊主、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧せっそうもと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。

十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。

三本の指にはアッカンべー。

托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げ出した。

八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と申すと『大海たいかいのごとし』というお答え。『十方世界じっぽうせかいは』と申せば『五戒ごかいで保つ』と仰せられ、『三尊さんそん弥陀みだは』との問いには『目の下にあり』。いや、恐れ入りました」

六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。ばかにしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、こォんなに大きいと言ってやった。十でいくらだと抜かすから、五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した沙弥托善  【RIZAP COOK】

この噺、千住焼き場の僧侶から落語家になったといわれる二代目林屋正藏(沢善正蔵、19世紀前半、三代目説も)が、嘉永年間(1848-54)に作ったものだそうです。

噺の中であやうく殺されかかる(?)旅の禅僧・托善(沙弥は出家し立ての少年僧のこと)は、正蔵の修行僧時代の名です。

原典については、このほかに、やはり禅僧出身の二代目三笑亭可楽(本名不詳、?-1847、中橋の→楽翁)とする説、もっとずっと古く、貞享年間(1684-88)刊の笑話本『当世はなしの本』中の「ばくちうち長老になる事」とする説もあります。

仏教と落語の深い関係  【RIZAP COOK】

「落語家の元祖」といわれる安楽庵策伝あんらくあんさくでん(平林平太夫、1554-1642)からして、浄土宗の高僧でしたし、「寿限無」「後生鰻」「宗論」など、仏教の教説に由来する噺は少なくありません。

仏教と落語の結びつきは、きわめて強いのです。

落語はもともと、浄土真宗の節談説教ふしだんせっきょう(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)から起こったといわれているのです。

関山和夫(1929-2013)の一連の著作が根拠となります。

前座、二つ目、真打ちなどという語も、節談説教の世界では当たり前のように使われていました。

明治後期、浅草の本願寺でたまたまその光景を覗いた四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)がびっくりしたという話は、それ以前のどこかの時点で仏教と落語のかかわりが途切れた証しでしょう。

とはいえ、落語協会会長だった(中澤信夫、1932-2017)が日蓮宗門の僧籍(中澤圓法)にあったのは、落語の伝統からして別に珍しいことではない、ということになります。

ビジュアルで楽しむ仕方噺  【RIZAP COOK】

「蒟蒻問答」では、後半の六兵衛と托善の禅問答は無言で、パントマイムのみになります。

このように、動作のみによって噺の筋を展開するものを「仕方噺しかたばなし」といいます。目で見る落語のことです。

いまなら、ビジュアル噺とでもいえば、伝わりがよいかもしれません。

愛宕山」「狸賽」「死神」「麻のれん」など、一部分に仕方噺を取り入れている噺は多いのです。

ただ、「蒟蒻問答」ほど長くて、しかもストーリーの重要部分をジェスチャーだけで進めるものは、ほかにありません。

苦肉の実況解説付き  【RIZAP COOK】

そのため、実際に寄席やテレビなど目の前で見ている客はいいのですが、レコードやラジオなどで耳だけで聞いていると、噺のもっともオイシイ部分で音声がとぎれてしまい、なにがなんだかわからなくなってしまいます。

そこで、この噺を得意にした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)がこの噺をラジオ放送したときは、苦肉の策で、なんと歌舞伎並みの同時解説がつきました。「山藤章二の志ん生ラクゴニメ」の音源も同じのを使っています。

このように手間がかかるためか、昔から「蒟蒻問答」のレコードや放送は数少なく、現在出ているCDは、志ん生、八代目正蔵のものくらいです。

ホントはくだらない禅問答  【RIZAP COOK】

噺では、六兵衛のジェスチャーを托善が勝手に誤解し、一人で恐れ入って退散してしまいますが、最初の「法界に魚あり……」は、魚という字から頭と尾(上下)を取れば、残るのは「田」。そこから、鰭骨きこつ(=中骨)、つまり|の部分を取り除けば、「日」の字になります。単なる言葉遊びです。これこそハッタリというものでしょう。

次の「十方世界じっぽうせかい」は、東、西、南、北、うしとら(北東)、たつみ(東南)、ひつじさる(南西)、いぬい(西北)の八方位に、上、下を加えた十の世界のことで、広大無辺の宇宙を表します。全世界をさします。

五戒ごかい」は禅の戒律(おきて)で、殺さない殺生戒せっしょうかい、盗まない偸盗戒ちゅうとうかい、エッチしない邪淫戒じゃいんかい、うそつかない妄語戒もうごかい、酒を飲まない飲酒戒いんしゅかい。その五つをさします。

葷酒山門に入るを  【RIZAP COOK】

葷酒くんしゅ山門さんもんるを許さず」は禅寺の表看板として紋切型ですね。

くん」とはネギやニンニなど臭気を放つ野菜のことです。以下は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の思い出話。

明治の昔、大阪の二代目桂文枝(渡辺儀助、1844-1916→桂文左衛門)が上京して、柳派の寄席に出演。ところがさらに、対立する三遊派の席にも出て稼ごうとすると止められました。楽屋内の張り紙に「文枝、三遊に入るを許さず」と。

ことばよみいみ
仕方噺しかたばなし動作の説明だけで筋を展開する噺
鰭骨きこつ魚のひれを支えている骨。中骨。「鰭」は「ひれ」
うしとら北東。音読みは「ごん」
たつみ東南。辰巳とも。音読みは「そん」
ひつじさる南西。音読みは「こん」
いぬい西北。音読みは「けん」
葷酒くんしゅネギやニンニなど臭気を放つ野菜(葷)と酒。禅寺では「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)とある。修行僧の心を乱すもととされるから




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じゅげむ【寿限無】落語演目

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志ん朝

【どんな?】

生まれた男児に名前を付けます。隠居を寄るべにしたら、無量寿経から命名されて。

あらすじ

待望の男の子が生まれ、おやじの熊五郎、お七夜しちやに名前を付けなければならないが、いざとなるとなかなかいいのが浮かばない。

自分の熊の字を取って熊右衛門とでもするか、加藤清正が好きだから、名字の下にぶる下げて「田中加藤清正」と付けるか……いや、ハイカラな名前でネルソン、寝ると損をするから、稼ぐように……と考えあぐねて、平山の隠居のところへ相談に行く。

何か好みがあるかと聞かれ、三日の間に五万円拾うような名前、と欲張ったが、そんなのはダメだと言われ、それなら長生きするような名前を、ということになった。

隠居、松、竹、梅、鶴、亀と、長命そうな字がつくのを並べるが、どれも平凡過ぎて気に入らない。

「そんなら、長助てえのはどうだ? 長く親を助ける」
「いいねえ。けど、あっしども一手販売いってはんばいで長生きするってえ、世間に例がねえなめえはないですかね」

隠居、しばらく考え、今お経に凝っているが、無量寿経むりょうじゅきょうという経文には、案外おめでたい文字があると言う。

たとえば、寿限無じゅげむ

寿命限りなしというから、これはめでたい。

五劫ごこうのすり切れず、というのがあるが、三千年に一度天人が天下って羽衣はごろもで岩をなで、それがすり切れてなくなってしまうのが一劫いちごうだから、五劫というと何億年か勘定できない。

海砂利水魚かいじゃりすいぎょは数えきれないものをまとめて呼んだ言葉。

水行末すいぎょうまつ雲来末うんらいまつ風来末ふうらいまつはどこまで行っても果てしない大宇宙を表す。

衣食住は人に大切だから、田中食う寝るところに住むところ。

やぶらこうじぶらこうじというのもあり、正月の飾りに使う藪柑子やぶこうじだからめでたい。

またほかに、少々長いが、パイポ、シューリンガ、グーリンダイ、ポンポコピー、ポンポコナーというのがある。

パイポは唐のアンキリア国の王さま、グーリンダイはお妃、ポンポコピーとポンポコナーは 二人の王子で、そろってご長命……それだけ聞けばたくさんで、あれこれ選ぶのはめんどうと熊さん、出てきた名を全部付けてしまう。

この子が成長して小学校に行くと、大変な腕白わんぱくだから、始終近所の子を泣かす。

「ワーン、おばさんとこの寿限無寿限無五劫のすり切れず海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところ藪ら柑子ぶら柑子パイポパイポパイポのシューリンガ、シューリンガーのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピ、ポンポコナの長久命の長助が、あたいの頭を木剣でぶったアー」

言いつけているうちに、コブがひっこんだ。

しりたい】 

ルーツは

仏教の教説をもとにした噺です。

野村無名庵のむらむみょうあん(野村元雄、1888-1945、落語評論家)は、この噺の原典として、民話集『聴耳草子ききみみぞうし』中の小ばなしを挙げています。

その中の子供の名は、「一丁ぎりの丁ぎりの、丁々ぎりの丁ぎりの、あの山越えて、この山越えて、チャンバラチャク助、木挽こびき挽助ひきすけ」で、長いだけで特に長寿には関係ありません。

話の終わりは、子供が井戸に落ち、長い名を皆で連呼して、和尚まで経文のような節で呼ぶので子供が「だぶだぶだぶ」と溺死してしまいます。

寿限無が死んでしまう、のです。

ここがミソ。

だから、あんまり長い名前は付けないほうがいいよ、とでも言いたそうなご仏教的な教訓が漂っているんですね。

無名庵は東京大空襲の犠牲となりました。

こちらは寿限無とは無関係に亡くなったのでしょうが。

大阪の演出(「長命のせがれ」)もこれと同じで、残酷な幕切れになります。

「劫」には「石劫せきこう」と「芥子劫けしこう」があります。前者がこの噺の隠居の解釈。後者の「芥子劫」は、方四十里の城の中の芥子一粒を、三年に一度おおとりがくわえていき、これがすべてなくなる時間です。

演者によって変わりますが、「五劫」そのものの定義なら前者、名前として無限の寿命を強調するなら後者でしょう。

言い立てのリズムを重んじれば「すりきれ」、はなしの内容重視なら「すりきれず」というところ。

そこで、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は、客には「すりきれず」と聞こえさせ、実際には「すりきれ」と言っているという、苦肉の妥協案を編み出しました。

こうる」という言葉があります。長い年月を経る、年季を積む、といった意味で使います。石劫も芥子劫も原初では同根です。

「劫」の字は濁らずに「こう」と読むと、とてつもなく長い時間をさすのですから。

甲羅は劫臈の混同だそうです。

臈は僧侶の修行年数をさします。劫も臈も時間にからむ言葉なのですね。

となると、亀の甲羅を長生きの目安にするのもわかります。

芥子は罌粟。かつて、僧侶の修行には必須のアイテムでした。

EGO-WRAPPINの「くちばしにチェリー」。

おそらくは罌粟がはばかれるのでチェリーにしているのでしょう。

芥子劫の理を説く歌だったことがよくわかります。深いなあ。

大看板の前座噺

「寿限無」は前座の口ならしの噺で、大看板の師匠連はさすがにあまり手がけません。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は信仰篤かったためか、滋味あふれる語り口で、この噺をホール落語でも演じました。

戦後の大物では、自分の飼い犬に「寿限無」と名づけた三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、熊五郎が無類におかしかった九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、それぞれ得意にしました。

聴きどころ

長い名が近所の子から母親、父親と渡りゼリフになるところが、この噺のおかしみでしょう。

母親が、「あーら、悪かったねえ。ちょいとおまいさん、たいへんだよ。『寿……』が金ちゃんの……」と言うとオヤジが、「なんだと。するとナニか、『寿……』の野郎が……」と繰り返します。

もっとも、安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説家、評論家)は『落語国・紳士録』(青蛙房、1959年、→旺文社文庫→ちくま文庫→平凡社ライブラリー)の中で、気の利いた「こぼれ噺」を創作しています。

例によって長い名でしかられている寿限無に、友達が「どうしたの、寿っちゃん」と尋ねたりしているのです。

世界一の長寿者?

古代はともかく、近世以降での長寿記録保持者は「武江年表」などに記載されている、志賀随翁にとどめをさすでしょう。

なにせ、この怪老人、享保10年(1725)の時点で数え178歳。

逆算すると天文18年(1548)の生まれ。はっきりした没年はわかりませんから、ひょっとすると、まだ生きているかもしれません。

これが文句なしに人類史上最長寿、と思っていたら、やっぱり現れました、対抗馬が。世界は広い。

臼田昭『ロンドン塔の宝探し 英文学零話』(駸々堂出版、1988年)に登場する英国代表ヘンリー・ジェンキンズは169歳(1501-1670)、ついで、かの有名なウイスキー銘柄のラベルになったオールド・パーが152歳(1483-1635)の由。

まあ、三人とも、怪しげなことではいい勝負ですが、なんにしても、あやかりたいものです。

「の・ようなもの」にも登場

『の・ようなもの』(森田芳光監督、1981年)。落語映画の最高峰、不朽の傑作です。

都電荒川線の駅を降りて、浴衣姿の志ん魚と志ん菜が落語を教えにいった先は「下町女子高」。

落研の面々が大声で「寿限無」を棒読みしていました。

そのシーンが素っ気なくて無機的で、なんともおかしい。笑っちゃいます。

落研下級生の中にはなんと、「エド・はるみ」さんもまじっていたのです。

昭和56年(1981)のこと。

その頃はもちろんそんな名前じゃなかったわけですが、未来の「エド・はるみ」さんは当時、日出学園高校(千葉県市川市)の2年生、17歳でした。

オーディションに合格し、『の・ようなもの』でみごと映画デビューを果たしたのです。

存在感ありました。40年以上たった今でもしっかり覚えてます。すごいなあ。

「エド・はるみ」は手前中央の子
右奥の浴衣娘は落研部長、竹内まりや(五十嵐知子)
「の・ようなもの」(森田芳光監督、1981年)より




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あさのれん【麻のれん】落語演目




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【どんな?】

落語の按摩さんは、負け惜しみの強い人ばかりです。

別題:按摩の蚊帳

【あらすじ】

按摩の杢市は、強情で自負心が強く、目の見える人なんかに負けないと、いつも胸を張っている。

今日も贔屓のだんなの肩を揉んで、車に突き当たるのは決まってまぬけな目の見える人だという話をしているうちに夜も遅くなった。

だんなが泊まっていけと言って、離れ座敷に床を取らせ、夏のことなので、蚊帳も丈夫な本麻のを用意してくれた。

女中が部屋まで連れていくというのを、勝手知っているから大丈夫だと断り、一人でたどり着いたはいいが、入り口に麻ののれんが掛かっているのを蚊帳と間違え、くぐったところでぺったり座ってしまう。

まだ外なので、布団はない。

いやに狭い部屋だと、ぶつくさ言っているうちに、蚊の大群がいいカモとばかり、大挙して来襲。

杢市、一晩中寝られずに応戦しているうち、力尽きて夜明けにはコブだらけ。

まるで、金平糖のようにされてしまった。

翌朝、だんながどうしたのと聞くので、事情を説明すると、だんなは、蚊帳をつけるのを忘れたのだと思って、杢市に謝まって女中をしかるが、杢市が蚊帳とのれんの間にいたことを聞いて苦笑い。

「いったい、おまえは強情だからいけない」
と注意して、
「今度は意地を張らずに案内させるように」
と、さとす。

しばらくたって、また同じように遅くなり、泊めてもらう段になった。

また懲りずに、杢市の意地っ張りが顔を出した。

だんなが止めるのも聞かず、またも一人で寝所へ。

今度は女中が気を利かせて麻のれんを外しておいたのを知らず、杢市は蚊帳を手で探り出すと
「これは麻のれん。してみると、次が蚊帳だな」

二度まくったから、また外へ出た。

底本:五代目古今亭志ん生

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

ジュアル噺の典型

原話は不明です。

この噺を得意にしていた晩年の三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)は、「按摩の蚊帳」と題した速記(1924年)を残しています。

もともとオチを含め、「こんにゃく問答」などと同じく、実際に寄席で「目で見る」噺なのです。ビジュアル噺です。

速記も少なく、音源もあまりありません。

昭和に入って、ラジオ放送やレコードが盛んになっても、このため、これらのメディアに取り上げられることも少なかったようです。

小さんにはオチのところに工夫があります。

杢市が最初、のれんにそっと触れ、次に両手を広げて大きな動作で触る、というものです。

これも、目で見ていないと、その芸の細かさはわからないでしょう。

志ん生の隠れた逸品

上述のように、先の大戦後のしばらくは五代目志ん生の独壇場でした。志ん生がいつ、誰からこの噺を教わったか、よくわかっていません。

やり方は、三代目小さんのものを踏襲しながらのスタイル。

「目をあいてりゃァなんか見りゃァほしくなってくるでしょ?……それェ見ただけで、エエほしいなッと思うことが、自分の思ったことが通らない。じゃァ情けないじゃァありませんか。それよか目が見 め)えなきゃなんにも見ないですからねェ、ええ。これいちばんいいですよォ。ああァ目あきは気の毒だ……」というようなセリフに、杢市の片意地、負けず嫌いと、その裏にある身障者の屈折した心理が、より色濃く出ているといえるでしょう。

志ん生没後は、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が時々演じたくらいでした。

オチも普通に寄席で演じるときはしぐさオチで、蚊帳の外に出たところを動作で表現しますが、レコードやラジオではそうはいかず、先の大戦後、この噺を一手専売にした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も、速記では「また向こうへ出ちゃった」と地の説明で終わっています。

現代は現代で、やる人はあまりいません。概して昨今は、盲人をことさらにする噺は控えめの風潮です。

その風潮にあらがうかのように、春風亭一之輔はあえて演じて、風通しのよい視覚的な「麻のれん」を気持ちよく仕上げています。みごとなものです。

三代目小さん以来、前半に杢市がだんなに語る、提灯を持っていて暗闇で人に突き当たられ、「おまえさんみたいな、そそっかしい目あきに突き当たられんのが嫌だから、こうやって提灯を持ってるんだァ」と毒づいたはいいが、実は提灯の灯はもともと消えていた、という体験談を入れるのがお決まりでした。

これまでは、いろいろな意味で誤解を生じやすく、やりにくくなっているのが現状のように思えました。

昨今は、日本社会も成熟してきたのか、このネタは、春風亭一之輔も踏襲しています。同様に、柳家喬太郎も「按摩の炬燵」で使っています。よいことだと思います。

蚊帳にもいろいろ

蚊帳は、古くは竿を通し、天井から吊り下げました。

部屋の大きさによって、五六(五六は縦横の割合。三畳用)や六七(四畳半用)などの種類がありました。これを「箱蚊帳」といいます。

子供用、または一人用のは簡易な「幌蚊帳」です。

材質は麻がいちばん。軽くて丈夫で風通しがよくて雷除けにもなりました。

麻と木綿との混織もありましたが、蚊帳はなんといっても麻にかぎりました。

この噺で杢市が寝かされるのは八畳間で、本式には八十のサイズになりますが、三代目小さんの速記では六八(正確には七八。六畳用)で代用しています。

これも蚊帳の一種です。↓

女性の按摩さん

按摩の按は「おさえる」、摩は「なでる」。古来東西問わず、手技の療法です。

心臓の位置から手足に向かって、遠心性にもみしだく施術をさします。筋肉内の血流を良くして新陳代謝をうながすと考えられるもの。

「按摩」はその行為をさしますが、その行為者をもさします。

行為者としての「按摩」は「按摩取り」ともいい、マッサージ師や鍼灸師の古称です。

江戸時代には、目の不自由な人がほとんどでした。

四代目鶴屋南北(勝次郎、1755-1829)の歌舞伎『東海道四谷怪談』の宅悦、河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93)の『加賀鳶』での熊鷹道玄とおさすりお兼のように、健常者もいました。

当然ながら、女性の按摩さんもけっこういました。

女性の按摩さんには、まれに、按摩以外にも売春をする人もいたようです。「枕つきのもみ療治、二朱より安い按摩はしないよ」と居直る、尾上多賀之丞のお兼のセリフは有名です。歌舞伎での話ですが。そんなのがどれほどいたのかはあやしいかぎりですが。

男性の按摩さんたちの間には、「当道座」という全国的な互助組合がありました。

女性の按摩さんには「瞽女座」というのがありました。「盲御前」がなまって「瞽女」となったということです。

瞽女座は全国組織ではなく、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)、越後(新潟県)あたりにとどまります。瞽女座の多くは、藩が抱えていました。

瞽女の主な仕事は、三味線を弾いて、歌って、流すこと。

とりわけ、長岡藩では藩主牧野氏と縁故があった山本ごいが瞽女頭となり、瞽女屋敷を拝領しました。その継承は徒弟制でした。代々の瞽女頭は「ごい」を名乗りました。

初代山本ごいは18世紀の人です。18世紀の江戸時代は社会全体に経済的余力がつき、いまでいう社会福祉にも気配りが行き届くようになってきたわけです。

何人かで連れ合って各地を巡遊し、昼は門付け、夜は瞽女宿で寄席を催して地域の人々をなごませます。

門付けとは、芸能の一種です。

古代の宮中では芸能で仕える来訪神まろうどとされていた祝言人ほがいびとが淵源です。時節に応じて、門ごとに神が訪れては祝福を意味することば、うた、おどりを垂れたという民俗信仰と深くかかわります。元来は、その神の姿をして来訪する神人の印象が濃厚な芸能でした。

在の人々は、瞽女たちの来訪を心待ちにしていたものです。

振りの按摩さん

流しのもみ療治を「振りの按摩」といいましたが、振りでも固定客がつけば、なかなか羽振りはよくなります。

「按摩上下十六文」と、芝居の中でよく朗誦して流していく按摩が登場しますが、実際は三十二文から四十八文が相場。

自宅で診療所のように「足力」を営む場合は、鍼灸付きで幕末には百文。

ステータスと技術は、「振り」とは段違いに本格でした。

「あんまはりの療治」というその看板の文句は「あやまった(しまった)」という意味の地口として、「あやまはりの……」と、よく使われました。

いちな

この噺に登場するのは「杢市」で、芝居や落語に登場する按摩さんはよく「徳の市」とか「恭城」とか、名前の後に「いち」が付いています。

これは、かつて琵琶法師にだけ与えられた「城」「都」「市」「一」「壱」(いずれも「いち」と読みます)の字を名前に添える「いちな」というものです。

検校、勾当、座頭、衆分の順で格付けされた当道座(按摩、琵琶法師など視覚障害者の同業組合)の世界で通用する認定証のような名称でした。

江戸時代になると、当道座とは関係のない人たちも「いちな」を付けるようになっていきました。



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評価 :1/3。

ちゃのゆ【茶の湯】落語演目

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【どんな?】

お金儲けは簡単に熟せても、文化は熟しがたいもんです。

あらすじ

家督を息子に譲った大店おおだなのご隠居、小僧を一人付けて、根岸の隠居所でのんびり暮らしているが、毎日することがなく、退屈でしかたがない。 若旦那わかだんなは少し茶の湯のたしなみがあるので、いくらかは気が紛れるだろうと気を利かせて、茶室を作ってくれたが、隠居の方はまるで風流気がなく、道具なども放ったまま。 しかし、さすがに退屈に耐えかねて、まあちょっとやってみようかと小僧と相談するが、何をそろえていいのだか、二人ともとんとわからない。 青い粉ならとにかくよかろうと、買ってきたのが青黄粉あおきなこ茶筅ちゃせんでガラガラかき回してみたものの、黄粉だから沸騰もしなければ泡も立たない。 これではしかたがないと、何か泡立つものをというので、小僧がむくの皮を買ってきた。 もともとシャボン代わりに使うものだから、これはブクブクと派手に泡ばかり。 とてものめる代物ではないが、そうしているうちに二人ともだんだんおもしろくなり、お客を呼びたくなった。 呼ばれる奴こそいい面の皮だが、みんなお店に義理があるから、渋々ながらゾロゾロやってくる。 のんでみると青黄粉に椋の皮のお茶。 一同、のどに通らず、脂汗あぶらあせをダラリダラリ。 「あのォ、口直しを」 「茶の湯に口直しはありません」 しかたなく、お茶受けの羊羹ようかんを毒消しにと、来る人来る人が羊羹ばかり食らうので、もともとケチで通った隠居のこと、こう菓子代ばかり高くついたのではたまらないと、茶菓子も自前で作ることにした。 といって、作り方など知るわけがなく、サツマ芋をして、砂糖は高いから蜜で練って、とやっているうちに、粘って型から抜けなくなる。 「ええいッ、ままよ」と灯油を塗ってスポッと抜いたからさあ、ものすごいものができあがった。 これを「利休饅頭りきゅうまんじゅう」と勝手に名づけ、羊羹の代わりにふるまったから、もう救いがない。 こんなヘドロのようなものを食わされた上、青黄粉と椋の皮では、命がいくつあっても足りないと、とうとうだれも寄りつかなくなった。 ある日、そんなこととは知らない金兵衛さんが訪ねてきたので、しばらく茶の湯をやれなかった隠居は大はりきり。 出されたものが、例の利休饅頭。 さあ、てえへんなものォ食わしゃあがったと、思わず吐き出して、残りはこっそり袂へ。 せめてお茶で口をゆすごうと、のんだが運の尽きで青黄粉と椋の皮。 慌てて便所に逃げ込み、捨てる場所はないかと見渡すと、窓の外には建仁寺垣けんにんじがきの向こうの田んぼ。 田舎道ならかまわないだろうと、垣根越しにエイッとほうると百姓の顔にベチャッ。 「あ、痛ァ、また茶の湯か」

しりたい

不運な人々

殺人的ティーパーティーに招かれる面々は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)の演出では、手習いの師匠、豆腐屋、鳶頭とびのかしらの3人でした。 この隠居が、長屋の居付き地主、つまり地主と大家を兼ねているため、行かないと店立たなだてを食らって追い出されるので、しぶしぶながら出かけます。 「寝床」と同じ悲喜劇です。泣く子と隠居には勝てません。 青黄粉は、ウグイス餅などにまぶす青みの粉、椋の皮は石鹸の代用品で、煮ると泡立ちます。 さぞ、ものすごい代物だったでしょう。

円生、三代目金馬の十八番

この犠牲者3人がそろって茶の作法を知らないので、恥をかくのがいやさに夜逃げしようとしたりするドタバタは、円生ならではのおかしさでした。 茶をのむ場面は、仕草で表現する仕方噺しかたばなしのように三者三様を演じ分けます。 茶道の心得のある人間が見るとなおおかしいでしょうと、円生は述べていますが、演ずる側も素養は必要でしょう。 若い頃、年下の円生に移してもらった三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の当たり芸でもありました。 十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)のも、抱腹絶倒でした。ザンネン。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

まんじゅうこわい【饅頭こわい】落語演目



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【どんな?】

菓子屋がこわいという辰に、若い衆がまんじゅうをどっさり。
「まんじゅうこわいよ」と辰はムシャムシャ。だまされたッ。
「こんちくしょう、なにがこわいんだ」
「今度は、お茶がこわい」

別題:饅頭きらい 好きとこわい こわいもの

【あらすじ】

町内の若い衆が集まって、好きな食べ物をああだこうだと言っているうち、人には好き嫌いがあるという話になる。

虫が好かないというが、人は胞衣えなを埋めた土の上を初めて通った生き物を嫌いになるという言い伝えがある。

蛙なら蛙が嫌いになり、蛇なら蛇。

嫌いな虫を言い合い、蜘蛛くも、ヤモリ、オケラ、百足むかでと、いろいろ出た。

嫌いなものはこわい。

黙っている辰さんに
「おめえは、どんなもんがこわい?」
と聞くと
「ないッ」
「でも、なんかあるだろう」
としつこく突っ込むと
「おととい、カカアの炊いた飯がコワかった」
「そのコワいじゃなくて、動けなくなるようなこわいものだ」
と言うと
「カカアがふんどしを洗ったとき、糊をうんとくっつけちゃった。コワくって歩けねえ」

ああ言えばこう言うだから癪にさわって、
「蛇はどうだ」
と聞くと、
「あんなものは、頭痛のときの鉢巻にする」
とうそぶく。

トカゲは三杯酢にして食ってしまうし、蟻はゴマ塩代わりに飯にかける。

いまいましいので、
「なにか一つくらいないのか」
と食い下がると
「へへ、実は、それはあるよ。それを言うと、体中総毛立そうげだって震えてくる」
「へえ、なんだい」
「一度しか言わないよ。……まんじゅう」

一同-然。

「どうして」
と聞くと、
「因果で、オレのえなの上に子供が饅頭を落っことしたのに違いない」
という。

「菓子屋の前に行くと目をつぶって駆け出すし、思っただけでも、こう総毛立って」
と辰さん、急にブルブル震えだす。

「こわいッ、こわいよォッ」

泣き出して、とうとう寝込んでしまった。

そこで一同、あいつはふだんから、み屋の割り前は払わないし、けんかは強いからかなわない。いいことを聞いたから、一度ひどい目にあわせてやろうと、計略を練る。

「話を聞いてさえあんなに震えるんだから、実物を見たらきっとひっくり返って、身体中ブチになって死んじまうかもしれねえ、いるとじゃまだから、アン殺でアンコロしちまおう」
というわけで、菓子屋から山のように饅頭を買ってくる。

枕元に置くと、
「おい、辰さん、起きねえ。天丼を食おうてんだ。つき合いなよッ」

まだ蒲団をかぶって
「饅頭怖いよッ」
とうめいていた辰さん、枕元を見るなり
「ウワーッ」
と絶叫。

「うわあッ、こんなもの、だれがッ。怖いよッ。唐饅頭がこわい。こわいよッ」
と叫びながら、饅頭をムシャムシャ平らげ始めた。

障子の陰でワクワクして見ていた連中、だまされたと知ってカンカン。

「おう、こわいこわいと言ってたまんじゅうを食いやがって。こんちくしょう、てめえはいったい、なにが怖いんだ」
「うわーッ、こわいよ。今度は、お茶がこわい」

【しりたい】

ネタは中国から

中国明代の笑話本『五雑組ござっそ(五雑俎とも)』や『笑府しょうふ』に原型があります。

江戸では小ばなし程度の扱いで、一席ものの落語としてはむしろ上方が本場でした。

まんこわ

明治末期に三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらく(本間弥太郎、1864-1914)が東京に移植。

「饅頭嫌い」の演題で初演して以来、「まんこわ」で通るほどの人気演目になりました。

三代目馬楽は奇行でならし、「狂馬楽」「弥太っぺ馬楽」「きちがい馬楽」などとも呼ばれました。

さまざまなやり方

古くから演じられた噺だけに、さまざまな演者によって、細部が整えられてきました。

柳家小さん系や、後輩の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に写してもらい十八番にした三代目桂三木助(小林七郎、1902-1961)では、饅頭男を「松公」で演じます。

饅頭を準備するとき、「腰高饅頭かい? おあとは? 唐饅頭? お次は? 酒饅頭? おあとは? そば饅頭……栗饅頭……」というように、いろいろな饅頭の名を並べ立てるのが型になっています。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、むしろすっきりと短く演じています。

くすぐりもいろいろ

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、饅頭男がこわがる場面で、「クモの糸を納豆代わりに食う」「ミミズはトマトソースでマカロニ代わりに食う」といった、ゲテ物趣味的なギャグを加えました。

これは、五代目小さん、三木助もやっています。

ちなみに、四代目小さんは昭和22年(1947)9月30日、上野鈴本演芸場で新作「鬼娘」の口演後に楽屋で急逝しました。

三木助では、最後に男がこわいこわいと言いながら饅頭をふところに入れてしまい、「風呂敷はねえか」と、ずうずうしく言うくすぐり、また、こわいものを言い合う場面で、「おれァ、そばがいけない。うどんがいけない。だからフンドシもしめない」などがあります。

饅頭

饅頭の日本渡来は、14世紀に禅僧が元(中国)から帰国する際、伴った中国人が、奈良で店を開いたのが最初、との説があります。

源頼朝が次男(実朝)誕生の百日の祝いに近親や重臣に配った「十字」という菓子が始まりだ、との説も。

これだと11世紀末期に宋(中国)から渡ってきたことがうかがえます。

おおざっぱに言って、日本には中世(鎌倉室町期)に中国から僧侶が持ち込んだようです。

胞衣

えな。胎児を包む膜ですが、胎盤をいうこともあります。

噺の発端になる「初めて通った生き物を……」という俗信は古くからあって、『誹風柳多留はいふうやなぎたる』巻十六(天明元=1781年刊)に、こんな句が載っています。

ゑなの上 初手しょてどらものに ふませたい

「ゑな」は胞衣、「初手」は最初、「どらもの」は放蕩者のことです。



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評価 :2/3。

あんまのこたつ【按摩の炬燵】落語演目

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【どんな?】

生き炬燵とは驚き。
按摩さんが炬燵代わりに。
実に奇妙な炬燵のおはなしです。

【あらすじ】

冬の寒い晩、出入りの按摩に腰を揉ませている、ある大店の番頭。

「年を取ると寒さが身にこたえる」
とこぼすので、按摩が
「近ごろは電気炬燵という、けっこうな物が出てきたのに、おたくではお使いではないんですかい」
と聞くと
「若い者はとかく火の用心が悪いから、店を預かる者として、万一を考えて使わない」
という。

番頭は下戸なので、酒で体を暖めることもできない。

按摩は同情して
「昔から生き炬燵といって、金持ちのご隠居が、十代の女の子を二人寝かしておいて、その間に入って寝たという話があるが、自分は酒は底なしの方で、酔っていい心持ちになると、からだが火のようにほてって、十分その生炬燵になるから、ひとつ私で温まってください」
と申し出た。

「いくらなんでも、それは」
と遠慮しても
「ぜひに」
と言うので、番頭も好意に甘えることにし、按摩にしこたま飲ませて、背中に足を乗せて行火代わり。

おかげで、番頭は気持ちよさそうに寝入ってしまう。

ところが、ようすを聞いた店の若い連中が、我も我もと押し寄せたから、さあ大変。

ぎゅうぎゅう詰めで、我先にむしゃぶりついたから、そのうるさいこと。

歯ぎしりする奴やら寝言を言う奴やらで、さすがの「生き炬燵」もすっかり閉口。

そのうち、十一になる丁稚の定吉が、活版屋の小僧とけんかしている夢でも見たか、大声で寝言を言ったので
「ああ、かわいいもんだ」
と、思わず
「しっかりやれ」
とハッパをかけたのが間違いのもと。

定吉、夢の中で
「なにを言ってやがる。まごまごしやがると小便をひっかけるぞ」
と叫ぶが早いか、本当にやってしまった。

おかげで「炬燵」の周りは大洪水。

番頭も目を覚まし、布団を替えたり寝巻きを着替えたりで大騒ぎ。

「せっかく温まったところを、定吉のためにまた冷えてしまった。気の毒だが、もういっぺん炬燵になっとくれ」
「もういけません。今の小便で火が消えました」

底本:三代目柳家小さん

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

この噺の原話とは?

原話は古く、寛文12年(1672)刊の笑話本『つれづれ御伽草』中の「船中の火焼」です。

大坂の豪商、鴻池が仕立てた、江戸へ伊丹の酒を運ぶ、二百石積の大型廻船の船中でのできごととなっています。

乗船している鴻池の手代が、冬の海上であまり寒いので、大酒のみの水夫を頼んでぐでんぐでんに酔わせ、、その男に抱きついて寝ることになります。

その後、元禄11年(1698)刊の『露新軽口ばなし』中の「上戸の火焼」、明和5年(1768)刊の『軽口春の山』中の「旅の火焼」、安永8年(1779)刊の『鯛味噌津』中の「乞食」と、改作されながら現行の落語に近づきました。

「乞食」では、なんと犬を炬燵代わりにします。

このやり方は落語には伝わらず、やはり酔っ払いの「人間ストーブ」に落ち着きました。

上方から伝えたのは誰?

上方噺であるこの噺、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が東京に移植したものです。

今回のあらすじは、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の円熟期、大正11年(1922)の速記をもとにしました。

大阪では、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の十八番の一つで、音源も残されています。先の大戦後、東京では、三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、三升亭小つね→代地の、せっかちの)から移された八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が得意にしていました。

八代目文楽演出は三代目小さんのものと少し変わっていて、番頭の方から按摩に頼む形を取っていました。

現在、柳家喬太郎のそれはみごとなものです。文楽流をもとに独自のアレンジで噺に深みを増しています。

噺の骨格は、①おたなの小僧たちが番頭に布団の増しを申し出て却下される、②それでも番頭が通いの按摩米市を炬燵にしようと掛けあう、③米市が酒五合をはぜの佃煮を肴にじっくり飲み干す、④炬燵になった米市が小僧に寝小便をかけられる、4つの場面に分かれています。

喬太郎のは、小僧の悲哀、按摩の心根、番頭と按摩が幼なじみだったことなどがていねいに語られて、人情噺じみたものに仕上がっています。おたなの一夜の奇妙な噺です。

ほかに、六代目笑福亭生喬、立川談春春風亭一之輔などもやります。

炬燵とは?

この噺の速記(1922年)に登場した「電気炬燵」はどんなものか。

ヒントとなるのは、大正8年(1919)12月14日付の読売新聞です。

生活改善展覧会という催しを報じる記事に、「電気炬燵」が登場しています。

「婦人用椅子は箱の装置になってゐて、内方に電熱應用の電氣炬燵が設けられ何様暖かさうな腰掛でした」とありますから、現在の仕様とは少々異なります。行火のようなものに見えます。

残念ながら、普及はしませんでした。

一般的な炬燵は、昭和の初期に至るまで、やぐらの底に板を張って、移動可能の土製の火いれを置いたもの。行火と同じく炭火を用いたものでした。

電気炬燵が普及する前は、掘り炬燵が一般的でした。

そもそも掘り炬燵なるものは、バーナード・リーチ(陶芸家、デザイナー、1887-1979)が発案したのだったとか。民藝の推進者だった柳宗悦(美術評論、1889-1961)のよき協力者です。掘り炬燵を日本と西洋の融合のようにみえてしまうのは、リーチ・ワールドのゆえんだったのですね。

毎年旧暦10月の初の亥の日を玄猪げんちょと呼び、「お厳重」とも表記します。この日から火の用心を厳重にするということです。

各戸ではこの日を「炬燵開き」とし、火鉢も出しました。

これを「の祝い」といい、客に亥の子餅(ぼた餅)を配る習慣がありました。

節約を旨とする商家では、炬燵開きを遅らせて、かなの亥の日(二度目の亥の日)としていました。

やぐら式の電気炬燵が発売されたのは、先の大戦後です。昭和32年(1957)に東芝が「電気やぐらこたつ」を発売。これが大ヒットしました。これが今日も普及している炬燵の形ですね。

ことばよみいみ
按摩あんま患部をなでたりさすったりする手技を施すことで症状を改善する療法、またはそれをする人
大店おおだな規模の大きい商店
電気炬燵でんきごたつ電熱を利用した炬燵。大正期に登場
生き炬燵いきごたつ人の体温を使って炬燵=暖房器具の代用をする
行火あんか内蔵の火入れに炭火やたどんを入れて、上に布を掛け、手足を入れて温める一人用暖房器具。寝床に入れて使う
玄猪げんちょ旧暦10月の初の亥の日。火の用心の始まる日。炬燵開き

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評価 :1/3。