きんのだいこく【黄金の大黒】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

この噺、長屋の喧騒な雰囲気がよく出てますね。 

【あらすじ】

長屋の一同に大家から呼び出しがかかった。

日ごろ、店賃なんぞは爺さんの代に払ったきりだとか、店賃? まだもらってねえ、などどいう輩ばかりだから、てっきり滞納で店立ての通告か、と戦々恐々。

ところが、聞いてみるとさにあらず、子供たちが普請場で砂遊びをしていた時、大家のせがれが黄金の大黒さまを掘り出したという。

めでたいことなので、長屋中祝ってお迎えしなければならないから、みんな一張羅を着てきてくれと大家の伝言。

ごちそうになるのはいいが、一同、羽織なぞ持っていない。

中には、羽織の存在さえ知らなかった奴もいて、一騒動。

やっと一人が持っていたはいいが、裏に新聞紙、右袖は古着屋、左袖は火事場からかっぱらってきたという大変な代物だ。

それでも、ないよりはましと、かわるがわる着て、トンチンカンな祝いの口上を言いに行く。

いよいよ待ちに待ったごちそう。

鯛焼きでなく本物の鯛が出て寿司が出て、みんな普段からそんなものは目にしたこともない連中だから、さもしい根性そのままに、ごちそうのせり売りを始める奴がいると思えば、寿司をわざと落として、「落ちたのはきたねえからあっしが」と六回もそれをやっているのもいる始末。

そのうち、お陽気にカッポレを踊るなど、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

ところが、床の間の大黒さまが、俵を担いだままこっそり表に出ようとするので、見つけた大家が、
「もし、大黒さま、あんまり騒々しいから、あなたどっかへ逃げだすんですか」
「なに、あんまり楽しいから、仲間を呼んでくるんだ」

【しりたい】

金語楼が東京に紹介 

明治末から昭和初期にかけて、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の十八番だった上方噺を、初代柳家金語楼(1901-72、山下敬太郎)が東京に持ってきて、脚色しました。

金語楼は、戦前には「兵隊」ほか新作落語で売れに売れ、戦後はコメディアンとして舞台、映画、テレビと大活躍した人、三大喜劇人(エノケン、ロッパ、キンゴロー)の一人に数えられる人です。

現在も、けっこう演じられるポピュラーな噺ですが、なぜか音源は少なく、現在CDで聴けるのは立川談志(松岡克由、1935-2011)と大阪の三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)のものだけです。

初代春団治、金語楼とも、残念ながらレコードは残されていません。

オチはいろいろ

東京では、上のあらすじで紹介した「仲間を呼んでくる」がスタンダードです。

大阪のオチは、長屋の一同が「豊年じゃ、百(文)で米が三升」と騒ぐと大黒が、「安うならんうちに、わしの二俵を売りに行く」と、いかにも上方らしい世知辛いものです。

そのほか、「わしも仲間に入りたいから、割り前を払うため米を売りに行く」というのもありますが、ちょっと冗長でくどいようです。

大黒さまは軍神 

大黒天は、もとはインドの戦いの神で、頭が三つあり、怒りの表情をして、剣先に獲物を刺し通している、恐ろしい姿で描かれていました。

ところが、軍神として仏法を守護するところから、五穀豊穣をつかさどるとされ、のちには台所の守護神に転進。

えらい変わりようであります。

日本に渡来してから、イナバのシロウサギ伝説で知られるとおり、大国主信仰と結びつき、「大黒さま」として七福神の一柱にされました。

血なまぐさいいくさ神から福の神に。これほどエエカゲンな神サマは、世界中見渡してもいないように見えますが、これは現代人の狭い見方でしかありません。

戦争はたしかに破壊の象徴のように見えます。

でも、その後に復興して富をもたらすことはこれまた人類の変わらないいとなみ。

冬のあとに春が来るという、あれです。

怖い形相は魔を退けるおしるしです。

不思議なことではないのです。

これこそが、古代人のとらえ方の特徴なのです。

七福神の一員としてのスタイルはおなじみで、狩衣に頭巾をかぶり、左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持って、米俵を踏まえています。

福の神として広く民間に信仰され、この噺でも、当然、袋をかついで登場します。

江戸の風物詩、大黒舞い 

江戸時代には、大黒舞いといい、正月に大黒天の姿をまねて、打ち出の小槌の代わりに三味線を手に持ち、門口に立って歌、舞いから物まね、道化芝居まで演じる芸人がありました。

吉原では、正月二日から二月の初午はつうまにかけて、大黒舞いの姿が見られたといいます。

「黄金の大黒」のくすぐりから 

大家が自分のせがれのことを、
「わが子だと思って遠慮なくしかっておくれ」
と言うと、一人が、この間、大家の子が小便で七輪の火を消してしまったので、
「軽くガンガンと……」
「げんこつかい?」
「金づちで」
「そりゃあ乱暴な」
「へえ、お礼にはおよびません」

左甚五郎 

江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。講談、浪曲、落語、芝居などで有名で、「左甚五郎作」と伝えられる作品も各地にあります。

「甚五郎作」といわれる彫り物は全国各地にゆうに100か所近くあるそうです。

その製作年間は安土桃山期、江戸後期まで300年にもわたり、出身地もさまざまのため、左甚五郎とは伝説上の人物と考えるのが妥当だろう、というのが現在の定説です。

各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたと考えてもよいでしょう。

江戸中期になると、寺社建築に彫り物を多用することになりますが、その頃に名工を称賛する風潮が醸成されていったようです。

ポイントは「江戸初期」。

破壊と略奪の戦国時代が終わって、復興と繁栄が始まる息吹の時代です。

江戸幕府は、応仁の乱以来焼亡した寺社の再建に積極的に乗り出しました。

多くの腕自慢の職人が活躍した時期が「江戸初期」だったのです。

甚五郎が登場する落語や講談の作品は、以下のとおりです。

「三井の大黒」
「竹の水仙」
「鼠」
「甚五郎作(四ツ目屋)」
「掛川の宿」
「木彫りの鯉」
「陽明門の間違い」
「水呑みの龍」
「天王寺の眠り猫」
「千人坊主」
「猫餅の由来」
「あやめ人形」
「知恩院の再建」
「叩き蟹」

ついでに、左甚五郎の伝承を持つ主な作品を掲げておきます。時期も場所も多岐にわたっています。

眠り猫(日光東照宮)
閼伽井屋の龍(園城寺)
鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市)眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市)本殿「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市)子宝・子育ての虎、つなぎの龍
泉福寺(埼玉県桶川市)正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町)野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町)夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)
上野東照宮(東京都台東区)唐門「昇り龍」「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市)山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)本堂欄間
長国寺(長野県長野市)霊屋 破風の鶴
静岡浅間神社(静岡県静岡市)神馬
龍潭寺(静岡県浜松市)龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市)山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市)閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都府京都市東山区)鶯張りの廊下
知恩院(京都府京都市東山区)御影堂天井「忘れ傘」、鶯張りの長廊下
祇園祭 (京都府)鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市)力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加田)
出雲大社(島根県出雲市)八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)鳳凰の欄間
飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市) 稲喰神馬(黒駒)

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かさご【笠碁】落語演目



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【どんな?】

碁打ちの二人が「待った」で大げんか、はては絶交へ。
数日たつと、二人はそわそわしてきて、そんな雨の昼下がり。
旦那が菅笠かぶってやってきて、仲直りして碁打ちを。
雨はあがったのに、盤に水が漏るのは、どうしたことか。

別題:雨の将棋

あらすじ

碁がたきのだんなが二人。

両方ともザル碁で、下手同士だが、ウマがあって毎日のように石を並べあっている。

仲がいいとつい馴れ合うから、いつもお互いに待った、待ったの繰り返し。

そんなことでは上達しないからと、今後一切待ったはなしということにしようと取り決めたのはいいが、言い出しっ屁がついいつもの癖で
「そこ、ちょいと待っとくれ」

「おまえさんが待ったなしを言いだしたんだからダメだ」
と断ると、
「それはそうだが、そこは親切づくで一回ぐらいいいじゃあないか」
と、しつこい。

自分で作ったルールを破るのは身勝手だと「正論」を吐けば、おまえは不親切だ、理屈っぽすぎると、だんだん雲行きが怪しくなる。

しまいにはかんしゃくのあまり、昔金を貸したことまで持ち出すので、売り言葉に買い言葉。

「その恩義があるから大晦日には手伝いに行ってやれば蕎麦一杯出しゃがらねえ、このしみったれのヘボ碁め」
「帰れ」
「二度と来るもんか」

……という次第で決裂したが、意地を張っているものの、そこは「碁がたきは憎さも憎しなつかしし」。

雨の二、三日も降り続くと、退屈も手伝って、
「あの野郎、意地ィ張らずに早く来りゃあいいのに」
と、そぞろ気になって落ちつかない。

女房に鉄瓶の湯を沸かさせ、碁盤も用意させて、外ばかり見ながらソワソワ。

一方、相方も同じこと。

どうにもがまんができなくなり、こっそり出かけてようすを見てやろうと思うが、あいにく一本しか傘がないので、かみさんが、
「持っていかれると買い物にも行けない」
と苦情を言うから、しかたなく大山詣りの時の菅笠をかぶり、敵の家の前をウロウロと行ったり来たり。

それを見つけて、待ったのだんなは大喜び。

「やいやい、ヘボ」
「なに、どっちがヘボだ」
「ヘボかヘボでねえか、一番くるか」

めでたく仲直りして碁盤を囲んだのはいいが、なぜか盤に雨漏り。

それもそのはず、まだ菅笠をかぶったまま。

しりたい

碁敵

ごがたき。碁打ちのライバルをいいます。

この噺の原話は古く、初代露の五郎兵衛(1643-1703)作の笑話本で元禄4年(1691)刊『露がはなし』中の「この碁は手みせ金」です。「唖の釣り」をお読みください。

マクラに「碁敵は憎さも憎しなつかしし」という句を振るのがこの噺のお約束ですが、この句の出典は明和2年(1765)刊の川柳集『俳風柳多留』初編で、「なつかしし」は「なつかしさ」の誤伝です。

円朝をうならせた三代目小さんの至芸

明治に入ると、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、碁好きの緻密な心理描写と、いぶし銀のような話芸の妙で、十八番中の十八番としました。いまでは、柳家系の噺となったゆえんです。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も、はるか後輩の小さんの芸に舌を巻き、「もう決して自分は『笠碁』は演じない」と宣言したといいます。

三代目小さんは、円朝の存在をつねに敵視していました。円朝はそうでもなかったようなのですが、小さんだけが、です。

円朝のこの宣言は、三代目小さんには「ざまあみろ」といったところでしょうか。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)も、もちろん得意にしました。五代目の「笠碁」は、大師匠の三代目の直系ではなく、三代目柳亭燕枝(進藤勝利、1894-1955)に教わったものです。

従来は、待ったのだんなが家の中から碁敵を目で追うしぐさだけで表現したのを、笠をかぶって雨中をうろうろするところを描写するのが特徴でした。

「待った」はタブー

西洋のチェスでは、待った(Take Back)は即負け。「将棋の殿さま」では、殿さまが家来に待ったを強制する場面がありますが、碁盤、もしくは将棋盤の裏側のくぼんだところは、待ったをした者の首を乗せるためのものとか。

碁も、「いったん石を下ろしたら、もう手をつけることはできない」と「笠碁」のだんなの一人が言っていますが、これもチェスのTouch and move&quot(触れたら動かせ!)の原則と共通して、勝負事は洋の東西を問わず、厳しいものという証でしょう。

とはいえ、そう豪語した当人がすぐ臆面もなく「待った」するところが、落語の、人間の弱さに対する観察の行き届いたところです。

囲碁の出てくる噺は、ほかに「碁泥」「柳田格之進」があります。

志ん生の「雨の将棋」

楽屋内でも将棋マニアで知られ、素人離れしてかなり強かったという五代目古今亭志ん生。彼は「笠碁」を改作して碁を将棋に代え、「雨の将棋」と題して、より笑いの多いものに仕立てました。

オチは、奮戦しているうちに片方の王様が消え、あとで股ぐらから出てきたので、「かなわないから、金の後ろへ逃げた」という珍品です。

小里ん語り、小さんの芸談

「笠碁」の「笠」は、かならず「雨」をイメージさせるものなのですね。弟子の小里んが記憶の底から掘り出した、五代目小さんの芸談です。

師匠に言われたのは「これは秋の雨だぞ」ということです。「秋は人恋しくなるから、じっとしていると、出ていきたくなる。梅雨は鬱陶しいから、碁を打とうという気分とは違う。シトシトシトシトした、大降りじゃない、物悲しいような雨だ」と教わりました。「大山詣りの菅笠で凌げる程度の降りだから」ってね。(中略)「やっぱり、この噺は雨の音が聞こえるようじゃないとダメだ」とも言ってましたよ。喧嘩のあとの物悲しさが、雨で増すというかな。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん+石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年



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あけがらす【明烏】落語演目



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 【どんな?】

堅物がもてるという、廓が育む理想形の物語。
ビギナーズラックでしょうか、はたまた普遍の成功譚。
こんな放蕩なら、一度は経験してみたいものです。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼あいかたに振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、先の大戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈りゅうていりじょう為永春水ためながしゅんすいが「明烏後正夢あけがらすのちのまさゆめ」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木門かぶきもん。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。

吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。

日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

八代目桂文楽のおはこ。文楽存命の間はだれもやらずにいた。のちに、馬生がやった。志ん朝がやった。小三治がやった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。これが宮戸川心中事件といわれるもの。

事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生されていった。

うぶな男がもてて半可通が振られるという型は、江戸の遊里を描いた洒落本にはありがちなもの。もてるもてないはどこか才のかげんで、修行しても始まらないようである。

(古木優)

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)

 



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きんめいちく【金明竹】落語演目

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【どんな?】

骨董を題材にした前座噺。
小気味いい言い立てが聴きどころです。
耳に楽しい一席。

別題:長口上 骨皮 夕立 与太郎

【あらすじ】

骨董屋こっとうやのおじさんに世話になっている与太郎よたろう

少々頭にかすみがかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品のじゃ傘を貸してしまって、それっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使いものにならないから、き付けにするので物置ものおきへ放り込んであると断るんだ」
しかった。

すると、ねずみが暴れて困るので、猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相そそうがあってはならないから、またたびをめさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利めききを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で、小言ばかり。

次に来たのは上方者かみがたものらしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋なかばし加賀屋佐吉かがやさきち方から参じました。先度せんど、仲買いの弥市やいちの取り次ぎました道具七品どうぐななしなのうち、祐乗ゆうじょう宗乗そうじょう光乗こうじょう三作の三所物みところもの、並びに備前長船びぜんおさふね則光のりみつ四分一しぶいちごしらえ横谷宗珉よこやそうみん小柄こつか付きの脇差わきざし柄前つかまえはな、旦那はんが鉄刀木たがやさんやといやはって、やっぱりありゃ埋もれ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。自在じざいは、黄檗山おうばくさん金明竹きんめいちく寸胴ずんどうの花いけには遠州宗甫えんしゅうそうほめいが入っております。織部おりべ香合こうごう、のんこの茶碗ちゃわん古池ふるいけかわずとびこむ水の音、と申します。あれは、風羅坊正筆ふうらぼうしょうひつの掛け物で、沢庵たくあん木庵もくあん隠元禅師いんげんぜんじ貼り交ぜの小屏風こびょうぶ、あの屏風びょうぶはなあ、もし、わての旦那の檀那寺だんなでらが、兵庫ひょうごにおましてな、この兵庫ひょうご坊主ぼうずの好みまする屏風びょうぶじゃによって、表具ひょうぐへやって兵庫ひょうご坊主ぼうず屏風びょうぶにいたしますと、かようにおことづけを願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買いの弥市が気がふれて、遊女ゆうじょ孝女こうじょで、掃除そうじが好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに寸胴斬ずんどぎりにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆いんげんまめ沢庵たくあんばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前びぜんの国に親船おやふねで行こうとしたら、兵庫ひょうごへ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風びょうぶを立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗叔いしいそうしゅく(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。

「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵はやしやしょうぞう(1781-1842)が天保てんぽう5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰ひゃっかせん』中に入れた「阿呆あほう口上こうじょうナ」が原話。

これは与太郎が笑太郎しょうたろうとなっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉きくていじゅぎょう)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つです。

前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは、明治時代になってからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意しんぼち(出家したての僧)で、ワキが住職。

檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断った。聞いた住職が怒り、新発意が「お師匠さまが門前の女とナニしているのは『駄狂い』だ」と口答えして、大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。

三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗叔いしいそうしゅくは医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮ほねかわ」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬えんきょう(柴田清五郎、1865-1912)、さらに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が得意にしました。

円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目円生、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)など、多数の大看板が手がけました。

なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは三巨匠それぞれ残っています。

口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のもあります。

言い立ての中身

この噺の言い立て、要は道具七品を説明しているのです。整理してみましょう。

その1 備前長船則光の脇差
脇差とは一般的な日本刀よりも短い刀剣。後藤祐乗(1440-1512、初代)、後藤宗乗(1461-1538、二代)、後藤光乗(1529-1620、四代)は後藤家の金工。後藤は金細工の流派。三所物とは、刀の柄の目貫、小柄、笄の三品で、備前長船の柄のこしらえ(飾り)。目貫は柄の中央の表裏に据えられた小さな金具。小柄は刀の鞘に付けられた細工用の小刀。笄は刀の差表に挿しておき、髪をなでつけるのに用いるもの。拵えとは刀の外装。横谷宗珉の四分一分(銀と銅の合金、その割合で、灰黒色の金物)とは小柄の拵のこと。柄前とは刀の柄、刀の柄の体裁、柄のつくりをさします。柄前は鉄刀木ではなく埋もれ木。埋もれ木とは地層中に埋もれて化石ようになった樹木。ここでは、三所物と脇差で一品と数えているようです。

その2 金明竹の自在鉤
自在鉤じざいかぎとは、囲炉裏いろりの上にぶら下がっている金属製の鉤をつなげた竹のこと。金明竹とは、マダケの栽培品種。かん(茎のこと)、枝は黄色を帯び、緑条が入ります。竹の皮は黄色。別名は、しまだけ、ひょんちく、あおきたけ、きんぎんちく、べっこうちく。

その3 金明竹の花いけ
金明竹を寸胴に切った素朴な花いけ。寸胴は上から下まで同じように太いこと。遠州宗甫は小堀遠州のこと。小堀遠州(1579-1647)は茶人。宗甫の銘(器物に刻み記した作者の名前)が入った花いけですが、華道遠州という生花の流派があります。小堀遠州を祖と仰いでいます。これとは別に、茶道には遠州流という流派があります。

その4 織部の香合
織部は古田織部(1544-1614)。武将で茶人。利休七哲の一人です。織部が作った香合。香合とは茶道で香を入れる蓋付き容器です。

その5 のんこの茶碗
のんことは、楽焼らくやき本家の三代目楽吉左衛門家当主の楽道入らくどうにゅう(1599-1656)の俗称。ここでは、道入の作った楽焼茶碗のことです。

その6 松尾芭蕉の掛け軸
風羅坊とは松尾芭蕉(1644-94)の坊号。正筆は真筆。芭蕉が書いた掛け軸ということですね。

その7 沢庵、木庵、隠元禅師貼り交ぜの小屏風
三人の僧侶がそれぞれに記した書を、ひとつの屏風に貼り合わせたもの。貼り交ぜの常識では、隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)、木庵性瑫もくあんしょうとう(1611-84)、即非如一そくひじょいつ(1616-1671)の三人が一般的で、これは煎茶に用いる道具です。三者とも黄檗宗の高僧です。沢庵宗澎たくあんそうほう(1573-1646)のは抹茶に用いるもの。ですから、沢庵、木庵、隠元の貼り交ぜはありません。ここはおかしい。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗ごとうゆうじょう

(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政あしかがよしまさ庇護ひごを受け、特に目貫めぬきにすぐれた作品が多く残ります。

後藤光乗ごとうこうじょう(1529-1620)はその曽孫そうそんで、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船おさふねは鎌倉時代の備前国びぜんのくに(岡山県)の刀工・長船氏。備前派、長船派といわれる刀工グループです。

祖の光忠みつただは鎌倉時代の人。子の長光ながみつ(1274-1304)、弟子の則光のりみつなど、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉よこやそうみん(1670-1733)は江戸時代中期の金工きんこうで、絵画風彫金ちょうきんの考案者。小柄こつか獅子牡丹ししぼたんなどの絵彫りを得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省ふっけんしょう原産の黄金色の名竹です。

福建省の黄檗山万福寺おうばくさんまんぷくじから日本に渡来し、黄檗宗おうばくしゅうの開祖となった隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。

観賞用、または筆軸、煙管きせる羅宇らおなどの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴にげんきんの師匠の飼い猫・三毛子みけこの珍セリフとして書かれている「天璋院てんしょういん様の御祐筆ごゆうひつの妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」。

これは、落語マニアで三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)や初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利はんどうかずとし氏)があります。

落語にはこの手のくすぐりがかなりあるもので、なんとも言えません。

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たのきゅう【田能久】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

田能久と言えば「若大将」。
この噺の舞台は徳島県。
え、浅草でも赤坂でもないんだ。

別題:棚牡丹 田之紀

あらすじ

阿波あわ(徳島県)の在、田能村たうつむらの農民、久兵衛。

芝居が好きで上手なので、村芝居の人気者。

とうとう趣味が高じて「田能久一座」を結成、本業そっちのけであちこちを興行して歩いている。

あるとき、伊予いよ(愛媛県)の宇和島から依頼が来たので出かけ、これが大好評。

ところが、ちょうど五日目に、おふくろが急病との知らせが届き、親孝行なたちなので、急いで、愛用のかつらだけを風呂敷に包み、帰り道を急いだ。

途中、法華津峠ほけつとうげを越え、鳥坂峠とさかとうげに差しかかると、一天にわかにかき曇り、雨がポツリポツリ。

山から下りてきた木こりに、この峠は化け物が出るという噂だから、夜越よごしはやめろと忠告されたが、母親の病状が気にかかり、それを聞き流して山越えにかかる。

山中でとっぷり日が暮れ、途方にくれていると、木こり小屋があったので、これ幸いと、そこで夜明かしをすることに決めた。

昼間の疲れでぐっすり寝込んだ田能久、山風の冷気で夜中にふと目を覚ますと、白髪で白髭の老人が枕元に立っている。

気味が悪いので狸寝入りを決めると、老人
「おい、目を開いたままイビキをかくやつがあるか」

実は、この老人は大蛇の化身。

人間の味もすっかり忘れていたから、素直にオレの腹の中へ入れと舌なめずり。

田能久、震えあがり、実は母親が病気でこれこれと泣き落としで命乞いするが、もちろん聞かばこそ。

田能久、そこでとっさの機転で、
「狸で人間に化けているだけだ」
と、うそをついた。

大蛇は
「ふーん。これが本当の狸寝入りか。阿波の徳島は狸の本場と聞いたが、呑むものがなくなって狸を呑んだとあっちゃ、ウワバミ仲間に顔向けできねえ」
と、しばし考え、
「本当に狸なら化けてみせろ」
と言う。

これには困ったが、ふと風呂敷の中のかつらを思い出し、それを被って女や坊主、果ては石川五右衛門にまでなって見せたので、大蛇は感心して、オレの寝ぐらはすぐそばなので、帰りにぜひ尋ねてきてくれと、すっかり信用してしまった。

近づきになるには、なんでも打ち明けなければと、互いの怖いものの噺になる。

大蛇の大の苦手は煙草のヤニ。体につくと、骨まで腐ってしまうという。

田能久は
「金が仇の世の中だから、金がいちばん怖い」
と口から出まかせ。

夜が明けて、オレに会ったことは決して喋るなと口止めされ、ようよう解放された。

麓に下り、これこれこういうわけと話をすると、これはいいことを聞いたと、さっそく木こりたちが峠に上がり、大蛇にヤニをぶっかけると、大蛇は悲鳴をあげて退散した。

帰ると、母親の病気はすっかり治っていたので、安心して一杯やって寝ていると、その夜、ドンドンと戸をたたく者がいる。

出てみると、血だらけで老人の姿になった大蛇。

「よくもしゃべったな。おまえがおれの苦手なものをしゃべったから、おれもおまえのいちばん嫌いなものをやるから覚悟しろ」

抱えていた箱を投げ出し、そのまま消えた。

開けてみると、中には小判で一万両。

うんちく

久さんの正体   【RIZAP COOK】

『日本昔話集成』(関敬吾編、角川書店、1973年)には「田之久たのきゅう」の題で収録され、高知県の民話にはこの噺の原型となるものがあります。

その他、全国に流布する「親孝行が長者となる伝説」の要素が加わっています。

宇井無愁ういむしゅう(宮本鉱一郎、1909-92)の考証によれば、「田能」とは本来田楽でんがくのことで、田能久は村の鎮守の祭礼に、吉例のお神楽かぐらを奉納する田楽師でんがくしだとか。

ウワバミにいっぱい食わせる小道具も、したがって噺のような芝居の衣装でなく、お神楽の面をいろいろに取り換えただけといいます。

なるほど、だからこそ、あっという間の変身が可能だったわけで、それにだまされるウワバミの知能も、牛並みだったということでしょう。

田楽とは  【RIZAP COOK】

始まりは平安期あたりから。田植え作業の効率化と田の神をまつることから始まった芸能です。笛や鼓を鳴らして田のあぜで歌い舞った田舞でんぶに始まります。軽妙な音楽と単純な踊りのため、やがて専門の田楽法師でんがくほうしが生まれ、腰鼓ようこ、笛、銅鈸子どびょうし編木びんざさらなどの楽器を用いた群舞と、さらには高足たかあしに乗ったり、品玉しなだまを使ったり、刀剣を投げ渡したりするなどの曲芸にまで変化していきました。

鎌倉期から室町期には田楽能でんがくのうと呼ばれて、さかんに流行しました。本座や新座などの座までつくられていき、物まね中心のの猿楽さるがくと影響しあっていきました。観世かんぜ能楽のうがくが洗練化していくと、田楽は衰退の一途をたどります。現在は、さまざまなものが民俗芸能として各地に残っている状態です。

三遊本流に継承   【RIZAP COOK】

本来は上方落語です。

主人公を沢村田之助の弟子で沢村田之紀という下回り役者で演じる場合は、演題も「田之紀」とし、ほかに「棚牡丹」という別題もあります。

東京にいつ伝わったかはわかりません。明治31年(1898)1月、『百花園』に掲載された四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)の速記が残っています。

円蔵は「イヤ、孝行の徳に依って思はぬ幸いを得ましたが、幸福の天に有る、このへんを申しましたものでございましょう」と、地でオチています。

その高弟の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)、義理の息子の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が継承し、よく高座にかけました。

円蔵以来、やり方はほとんど変わりません。六代目円生は、大蛇がヤニをかけられて苦しむさまなどを、より緻密に描写しました。

大蛇の「タヌキ寝入り」うんぬんのくすぐりは今ではあまり受けません。どの演者でもそのまま踏襲しているようです。

珍しい、ご当地落語   【RIZAP COOK】

意外に数少ない、特定の地方を舞台にしたご当地噺です。登場する地名はすべて実在のものです。阿波(徳島県)は昔から芸能のさかんな土地柄で、阿波人形浄瑠璃の本場でもあります。

阿波は、歌舞伎や文楽でよく上演される『傾城阿波鳴門けいせいあわのなると』の舞台にもなっています。これは、近松門左衛門ちかまつもんざえもん浄瑠璃じょうるり夕霧阿波鳴渡ゆうぎりあわのなると』にもとづいたもの。阿波玉木家の御家騒動に、夕霧伊左衛門ゆうぎりいざえもん情話じょうわ阿波十郎兵衛あわのじゅうべえ巷説こうせつを張り交ぜています。八段目「巡礼歌の段」が有名です。歌舞伎では、明治35年(1902)に改作され、どんどろ大師前の場面となったため、「どんどろ」と呼ばれています。

四代目円蔵は、法華津峠を法月峠、鳥坂峠を戸坂峠としましたが、のちに弟子の六代目円生がこれを訂正しています。

養老の滝   【RIZAP COOK】

孝行の 心を天も 水にせず 酒と汲まする 養老の滝

「田能久」のマクラに使われる狂歌です。作者は浅草庵市人せんそうあんいちんど(大垣(伊勢屋)久右衛門、1755-1821)。本業は浅草の質商です。

四方赤良よものあから(大田南畝おおたなんぽ、1749-1823)に入門し、つむりひかり(岸宇右衛門、1754-96)の伯楽連ばくろうれんに属して、狂歌界の重鎮となっていきました。

別号に壺々陳人つぼつぼちんじんなどもありますが、晩年に向島に隠居してからは墨用盧ぼくようろを名乗りました。

編著に『男踏歌おどうか』、『東遊あずまあそび』など。『東遊』の画は葛飾北斎かつしかほくさいによるものです。浅草庵市人は浅草の人。ああ、やっぱり、田能久は浅草と縁あるのですね。

【RIZAP COOK】

あかいぬ【赤犬】川柳 ことば

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赤犬が紛失したと芝で言い  明五鶴03

【蛇足】「赤犬」と「芝」とをかませた連想から、この句の舞台は薩摩上屋敷(港区芝5丁目)あたりであることがわかります。芝では赤犬がいなくなるといわれる、当時の都市伝説があります。赤犬は薩摩屋敷のへんで忽然と消えるのだと。江戸の人が嫌う肉食を、薩摩侍は好むからだ、という噂がまことしやかに信じられていました。その噂はあらかたまことだったのでしょう。それを江戸の人々は気味悪がっていたのですね。赤犬は美味だというのも通り相場。そもそも赤犬とは、べつにそういう種類の犬がいるわけではありません。茶毛の犬を赤犬と称するだけのこと。とすれば、日本古来の犬はおおよそが赤犬となります。柴犬なんかですね。そうか、柴犬ならぬ芝犬となる。ということだったのですね。

赤犬は食いなんなよと女郎言い  明八義06

この句の「女郎」は品川遊郭の、ということになりますね。芝の近所の遊郭です。赤犬を食って精力みなぎったまんま来られたんじゃ、威勢よく突かれてアタシのカラダがどうにかなっちまうからさ、てなぐあい。

麹町芝の屋敷へ丸で売れ  拾十20

川柳で「芝」とセットに語られる「麹町」は、入り口にあった山奥屋という獣肉店をさします。ここの獣肉店に「芝の屋敷」(薩摩屋敷)から注文が入った、しかも「丸」で。「丸」は一匹丸ごとのことですから、上得意さんだったという詠みです。いまでも「駒形どぜう」などで「丸」と注文すれば、割いていないまんまのどじょうが皿にどっさり盛られてきますよね。こっちのほうが「さき」よりお得です。

いのししの口は国分でさっぱりし  明六智04

薩摩産の「国分」は高級煙草で、肉食のあとには煙草で口内をさっぱりされると。国分煙草は「国府煙草」とも記され、元禄年間(1688-1704)あたりから嗜まれていました。薩摩地方の食風習に「えのころ飯」というのがありました。えのころとは犬ころの意。皮を削いだ犬体からはらわたを取り、そこに米を詰めて蒸し焼きにして、その米を食べるというもの。大田南畝(覃、直次郎、1749-1823)が『一話一言補遺』に記しています。美味なんだとか。家畜のはらわたに米などを詰めて蒸し焼きにする食風習は太平洋全体に散見されます。あんまり珍しくはありません。ハワイのカルアピッグも祝祭用の豚の丸焼き料理で、同類といえます。犬食文化は、中国(とりわけ玉林市)、朝鮮半島、台湾、沖縄など広域にわたり、日本も例外ではありません。古代からほそぼそながらも連綿と続いてきた食文化でした。なにも、薩摩だけのものではなかったのです。現代のわれわれが犬食を毛嫌いする感覚は、明治になって入ってきた西洋人の価値観がわれわれが持っていた価値観に上塗りされたからです。ご先祖さまもなかなかのものでした。

よかものさなどと壷からはさみ出し  明五信06

「よかものさ」と薩摩訛りで「上物だ」と、自慢げに壷漬けの獣肉を箸でつまんでいる薩摩武士の奇矯な食道楽ぶり。江戸ではこのように詠まれていたわけで。

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はないかだ【花筏】落語演目

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【どんな?】

体調不良の花筏の影武者に提灯屋が駆り出され、上総の興行へ。
網元のせがれが力士連を投げ倒して負けなし、千秋楽はついに花筏と。
土俵で。提灯屋が恐怖で目をつぶり両手を突いたら、せがれが先に尻餠。
客「花筏の張り手は大したもんだ」。張り手がいいのは提灯屋だから。

別題:提灯屋相撲(上方)

【あらすじ】

提灯屋の七兵衛の家を、知り合いの相撲の親方が訪ねてきた。

聞けば、患っている部屋の看板力士・大関花筏が、明日をも知れない容体だという。

実は親方、銚子で相撲の興行を請け負ったが、向こうは花筏一人が目当てで、顔を見せるだけでも連れていかないわけにいかず、かといって延期もできないしと、頭を抱えていた時思い出したのが提灯屋で、太っていてかっぷくがよく、顔は花筏に瓜二つ。

この際、こいつを替え玉にと、頼みにやって来た次第。

相撲は取らなくてもいいし、手間賃は一日二分出すという。

提灯張りの手間賃の倍だから、七兵衛もその気になった。

その上、のみ放題食い放題、どっかとあぐらをかき、相撲を見ていればいいというのだからおいしい話。

早速、承知して、銚子へ乗り込むことになった。

相撲の盛んな土地で、飛び入りで土地の者も大勢とっかかる中、際立って強いのが、千鳥ヶ浜大五郎と名乗る網元のせがれ。

プロを相手に六日間負けなしで、いよいよ明日が千秋楽。

こうなると勧進元が、どうしても大関花筏と取らせろと、きかない。

病人だと断っても「宿で聞いてみたら、酒は一日二升、大飯は食らうし、色艶はいい、あんな病人はない」と言われれば、親方も返す言葉がなく、しぶしぶ承知してしまった。

驚いたのは提灯屋。

あんなものすごいのとやったら、投げ殺される。

約束が違うから帰ると怒るのを、親方がなだめすかす。

当人もよくないもので、大酒大飯だけならまだしも、宿の女中に夜這いに行ったのを見られては、どうにもならない。

「立ち会いに前へ手をパッと出し、相手の体に触れたと思ったら後ろへひっくり返れ。そうすれば、客も病気のせいだと納得して大関の名に傷もつかず、五体満足で江戸へ帰れる」と親方に言い含められ、七兵衛も泣く泣く承知。

一方、千鳥ヶ浜のおやじは、せがれが明日大関と取り組むと知って、愕然。

向こうは今までわざと負けて花を持たせてくれたのがわからないかと、息子をしかる。

明日は千秋楽だから、あとは野となれで、腕の一本どころか投げ殺されかねない。

どうしても取るなら勘当だと、言い渡す。

翌朝、千鳥ヶ浜は辞退しようとしたがもう遅く、名前を呼び上げられ、いつの間にか土俵に押し上げられてしまった。

提灯屋、相手を見ると怖いから、目をつぶって仕切っていたが、これでは呼吸が合わず、行司がいつまでたっても「まだまだッ」

しびれを切らして目を開けると、千鳥ヶ浜の両目がギラリと光ったから、驚いた。

これは間違いなく命はないと悲しくなり、思わず涙がポロポロ。

脇の下から、冷や汗がたらたらと流れる。

土俵に吸い込まれるように錯覚して、思わず「南無阿弥陀仏」

これを見て驚いたのが千鳥ヶ浜で、土俵で念仏とは、さてはオレを投げ殺す気だと、こちらも涙がポロリ、

冷や汗タラリで「南無阿弥陀仏」。

両方で泣きながらナムアミダブツ、ナムアミダブツとやっているから、まるでお通夜。

行司、しかたなくいい加減に「ハッケヨイ」と立ち上がらせると、提灯屋は目をつぶって両手を突き出し、「わァッ」と後ろへひっくり返ったが、片方は恐怖のあまり立ち遅れて、目と鼻の間に提灯屋の指が入り、先に尻餠。

客が「どうだい。さすがは花筏。あの人の張り手は大したもんだ」

張り(=貼り)手がいいわけで、提灯屋だから。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

上方落語を東京に移植

もともと講釈(講談)ダネで、古くからある上方落語「提灯屋相撲」を、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移植したものです。

東京では、昭和20-30年代に八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が得意としたほか、現在でも結構高座にかかっています。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)は「花筏」で演じ、場所を播州高砂(兵庫県高砂市)のできごとととしていますが、大阪では古くは、江州長浜(滋賀県長浜市)に設定することが多かったようです。

上方版では、花筏は大阪相撲の大関という設定です。

昭和2年(1927)1月、大日本大角力(相撲)協会が発足するまで、東京のほか大阪、京都にも協会があり、独自に興行して、横綱免許もそれぞれ勝手に出していました。

強さは大阪は東京の敵でなく、京都はさらに落ちました。

大阪横綱で、レベルは東京の小結・関脇クラスだったようです。

提灯屋

江戸時代は、傘屋を兼業している場合がほとんどでした。

番傘と提灯は、製造技術、材料などに共通点が多かったためでしょう。

提灯づくりは、菊座という型に丸く輪にした竹ひごをはめ、その上から和紙を貼っていきます。

提灯の起源は室町時代といわれますが、江戸時代に入ると、ほおずき提灯、馬上提灯、弓張り提灯、ぶら提灯など、用途に応じてさまざまな種類が考案されました。

なお、提灯屋が登場する落語としては、新装開店した提灯屋に、皆であの手この手でタダで紋を描かせるという、そのものずばり「提灯屋」があります。

実在した花筏

江戸のころ、本当に「花筏」という関取が実在したかどうかはかなり怪しいものです。

明治以後、記録に残っているかぎりでは、一人だけ「花筏」を名乗った力士がいます。

昭和41年(1966)春場所に、一場所かぎり西十両十七枚目に顔を出した「花筏健」がその人。

この四股名は、幕下時分に落語好きだった彼が寄席で聞いたこの「花筏」にあやかって、三度目の改名をしたものです。

落語家に知友が多く、贔屓もされたようですが、不幸にしてケガのため、花を咲かせぬまま廃業しました。

「総理大臣になりたきゃ、落語をお聞きなさい」とは、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)の決まり文句でしたが、その伝にならえば、相撲界で「横綱になりたきゃ、落語をお聞きなさい」といきそうだったエピソードですが。惜しい。

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だいくしらべ【大工調べ】落語演目



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【どんな?】

店賃滞納で大家に道具箱を取り上げられた大工の与太。
棟梁が乗り込んだが、功なくお白州へ。奉行は質株の有無を訊く。
道具箱が店賃のかたなら質株が要る。ないので大家にとがあり。
大家は与太に手間賃を払うことで一件落着。

別題:大岡裁き あた棒

あらすじ

神田小柳町かんだこやなぎちょうに住む大工の与太郎よたろう

ぐずでのろまだが、腕はなかなか。

老母と長屋暮らしの毎日だ。

ここのところ仕事に出てこない与太郎を案じた棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが長屋までやって来ると、店賃たなちんのかたに道具箱を家主いえぬし源六げんろくに持っていかれてしまったとか。

仕事に行きたくても行けないわけ。

四か月分、計一両八百文ためた店賃のうち、一両だけ渡して与太郎に道具箱を取りに行かせる。

政五郎に「八百ばかりはおんの字だ、あたぼうだ」と教えられた与太郎、うろおぼえのまま源六に「あたぼう」を振り回し、怒った源六に「残り八百持ってくるまで道具箱は渡せない」と追い返される。

与太郎が
「だったら一両返せ」
と言えば
「これは内金にとっとく」
と源六はこすい。

ことのなりゆきを聞いた政五郎、らちがあかないと判断。

与太郎とともに乗り込むが、源六は強硬だ。

「なに言ってやがんでえ。丸太ん棒と言ったがどうした。てめえなんざ丸太ん棒にちげえねえじゃねえか。血も涙もねえ、目も鼻も口もねえ、のっぺらぼうな野郎だから丸太ん棒てんだ。呆助ほうすけ藤十郎とうじゅうろう、ちんけいとう、芋っぽり、株かじりめ。てめえたちに頭を下げるようなおあにいさんとおあにいさんのできが、すこうしばかり違うんだ。ええ、なにを言いやがんだ。下から出りゃつけ上がり、こっちで言う台詞せりふだ、そりゃ。だれのおかげで大家おおやだの町役ちょうやくだの言われるようになったでえ。大家さん大家さんと、下から出りゃその気になりゃあがって、俺がてめえの氏素性うじすじょうをすっかり明かしてやるから、びっくりして赤くなったり青くなったりすんな。おう、おめえなんざな、元はどこの馬の骨だか牛の骨だかわかんねえまんま、この町内に流れ込んで来やがった。そん時のざまあ、なんでえ。寒空に向かいやがって、洗いざらしの浴衣ゆかた一枚でガタガタガタガタ震えやがって、どうかみなさんよろしくお願いしまうってんで、ペコペコ頭を下げてたのを忘れやしめえ。さいわいと、この町内の人はお慈悲じひ深いや。かわいそうだからなんとかしてやりましょうてんで、この常番じょうばんになったんだ。一文の銭、二文の銭をもらいやがって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、この町内の使いやっこじゃねえか。なあ、そのてめえの運の向いたのはなんだ。六兵衛番太ろくべえばんたが死んだからじゃねえか。六兵衛のことを忘れるとバチが当たるぞ。おう、源六さん、おなかがすいたら、うちのいもを持っていきなよ、寒かったらこの半纏はんてんを着たらだらどうだいってんで、なにくれとなくてめえのめんどうを見てた。この六兵衛が死んだあと、六兵衛のかかあにつけ込みやがって、おかみさん芋洗いましょう、まき割りましょうってんで、ずるずるべったりに、このうち入り込みやがったんだ。二人でもって爪に火ぃともすように金をためやがってな、高い利息で貧乏人に金貸し付けやがって、てめえのためには何人泣かされてるのかわかんねえんだ。人の恨みのかかった金で株を買いやがって、大家でござい、町役でござい、なに言いやがんだ、てめえなんざ大悪おおわるだ。六兵衛と違って、場違いな芋を買ってきやがって、き付けをしむから生焼なまやけのガリガリの芋だ。その芋を食って、何人死んだかわからねえんだ。この人殺しぃ」

怒った政五郎は 啖呵たんかを切った。

「この度与太郎事、家主源六に二十日余り道具箱を召し上げられ、老いたる母、路頭に迷う」
と奉行所へ訴えた。

お白州で、両者の申し立てを聞いた奉行は、与太郎に、政五郎から八百文を借り、すぐに源六に払うよう申し渡した。

源六は有頂天。

またもお白州。

奉行が源六に尋ねた。
「一両八百のかたに道具箱を持っていったのなら、その方、質株しちかぶはあるのか」
源六「質株、質株はないッ」
奉行「質株なくしてみだりに他人の物を預かることができるか。不届き至極の奴」

結局、質株を持たず道具箱をかたにとったとがで、源六は与太郎に二十日間の大工の手間賃として二百もんめ払うよう申しつけられてしまった。

奉行「これ政五郎、一両八百のかたに日に十匁の手間とは、ちと儲かったようだなァ」
政五郎「へえ、大工は棟梁、調べをごろうじろ(細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ)」

しりたい

大家のご乱心

お奉行所の質屋に対する統制は、それは厳しいものでした。質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるので当然なのです。

早くも元禄5年(1692)には惣代会所そうだいかいしょへ登録が義務付けられ、享保きょうほうの改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。

株仲間、つまり同業組合が組織されたのは明和年間(1764-72)といわれますが、そのころには株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。

いずれにしても、モグリの質行為はきついご法度。大家さん、下手するとお召し取りです。

この長屋の店賃、4か月分で一両八百ということは、月割りで一分二百。高すぎます。

店賃も地域、時代、長屋の形態によって変わりますから一概にはいえませんが、貧乏な裏長屋だと、文政年間(1818-30)の相場で、もっとも安いところで五百文、どんなにぼったくっても七百文がいいところ。ほぼ倍です。(銭約千文=一分、四分=一両)

日本橋の一等地の、二階建て長屋ならこの値段に近づきますが、神田小柳町かんだこやなぎちょうは火事で一町内ごと強制移転させられた代地ですから、地代も安く、店賃もそれほど無茶苦茶ではないはずです。

この噺でおもしろいのは、大家さんの素性です。どんな人が大家さんをしていたのかがうかがい知れるわけです。大家さんは長屋所有者の代行者に過ぎないのですね。

町年寄 名主 月行事

神田小柳町

かんだこやなぎちょう。現在の千代田区神田須田町かんだすだちょう一、二丁目、および神田鍛冶町かんだかじちょう三丁目にあたります。元禄11年(1698)の大火で下谷したや一丁目が焼けた際、代地だいちとして与えられました。

田島誓願寺たじませいがんじ(浄土宗)を経て寛永寺の寺地となっていたため、延享えんきょう2年(1745)以来、寺社奉行の直轄支配地となっています。柳原土手やなぎはらどての下にあったことから、土手の柳から小柳町という町名がついたそうです。

明治時代には「小柳亭」という寄席もありました。

町名は昭和8年(1933)に廃名となりました。

「まち」か「ちょう」か

ところで、落語で町名が出ると、いつも気になります。

田原町たわらまち稲荷町いなりちょう神田小川町かんだおがわまち神田小柳町かんだこやなぎちょう

「〇〇町」の「町」が「ちょう」と読むのか「まち」と読むのか、いつも釈然としません。

例外もあるのですべてに通用するわけではありませんが、江戸でも地方の城下町でも、武家の居住区は「まち」、町人の居住区は「ちょう」と呼びならわしていることが、江戸時代の基本形です。

ひとつの目安になりますね。

代地

江戸での話です。何かの理由で、幕府が強制的に収用した土地の代替地として、与えた別の土地のことです。

町を丸ごと扱う場合もあります。代地だいちに移転したり成立したりした町を、代地町だいちまちといいました。

あたぼう

語源は「当たり前」の「当た」に「坊」をつけた擬人名詞という説、すりこぎの忌み言葉「当たり棒」が元だという説などがあります。

一番単純明快なのは、「あったりめえでえッ、べらぼうめェッ」が縮まったとするもの。さらに短く「あた」とも。

でも、「あたぼう」は、下町では聞いたこともないという下町野郎は数多く、どうも、落語世界での誇張された言葉のひとつのようです。

落語というのは長い間にいろんな人がこねくりまわした果てに作り上げられたバーチャルな世界。

現実にはないものや使わないものなんかがところどころに登場するんです。

それはそれで楽しめるものですがね。

与太郎について

実は普通名詞です。

したがって、正確には「与太郎の〇〇(本名)と呼ばれるべきものでしょう。

元は浄瑠璃の世界の隠語で、嘘、でたらめを意味し、「ヨタを飛ばす」は嘘をつくことです。

落語家によって「世の中の余り者」の意味で馬鹿のイメージが定着されましたが、現立川談志が主張するように、「単なる馬鹿ではなく、人生を遊び、常識をからかっている」に過ぎず、世の中の秩序や寸法に自分を合わせることをしないだけ、と解する向きもあります。

頭と親方

かしらは職人の上に立つ人をさします。

大工、鳶、火消しなど。勇み肌、威勢のよい職業の棟梁とうりゅうを「かしら」と呼びます。火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたの長谷川平蔵も「かしら」です。勇み肌なんですね。

文字では「長官」と書いたりしますが、あれは便宜上のことで、現代的な呼び名です。自宅で仕事をする職人、これを居職いじょくと言いますが、居職の上に立つ人を親方おやかたといいます。親方は居職ばかりでもなく、役者や相撲の世界でも「親方」と呼ばれます。

こうなると、厳密な言い分けがあるようでないかんじですね。ややこしいことばです。

【蛇足】

大岡政談のひとつ。

裁き物には「鹿政談」「三方一両損」「佐々木政談」などがある。

政五郎の最後の一言は「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ」のしゃれ。

棟梁を「とうりょう」でなく「とうりゅう」と呼ぶ江戸っ子ことばがわからないとピンとこない。

明治24年(1891)に禽語楼きんごろう小さんがやった「大工の訴訟しらべ」の速記には、「棟梁」の文字に「とうりゃう」とルビが振られている。

これなら「とうりょう」と発音するのだが。落語を聴いていると、ときにおかしな発音に出くわすものだ。

「大工」は「でえく」だし、「若い衆」を「わけえし」「わかいし」と言っている。

「遊び」は「あすび」と聞こえるし、「女郎買い」は「じょうろかい」と聞こえる。

歯切れがよい発音を好み、次のせりふの言い回しがよいように変化させているようだ。

池波正太郎は、落語家のそんな誇張した言いっぷりが気に入らなかった。

「下町で使われることばはあんなものではなかった。いつかはっきり書いておかなくてはならない」と書き散らしたまま、逝ってしまった。はっきり書いておいてほしかったものである。

この噺では、貨幣が話題となっている。

江戸時代では、金、銀、銭の3種類の貨幣を併用していた。

ややこしいが、一般的なところを記しておく。

1両=4分=16朱。金1両=銀60匁=銭4貫文=4000文。

いまの価格にすると、1両は約8万円、1文は20円となるらしい。

ただし、消費天国ではなかったから、つましく暮らせば1両でしのげた時代。

いまの貨幣価値に換算する意味はあまりないのかもしれない。

1両2分800文とは、6800文相当となる。

幕末期には裏長屋の店賃が500文だった。

ということは、13か月余相当の額。

五代目古今亭志ん生は「4か月」ためた店賃が「1両800」とやっている。

月当たり1200文。うーん、与太郎は高級長屋に住んでいたのだろうか。

質株とは質屋の営業権。

江戸、京阪ともに株がないと質屋を開業できなかった。

享保8年(1723)、江戸市中の質屋は253組、2731人いたという。ずいぶんな数である。

もぐりも多くいたそうだから、このような噺も成り立ったのだろう。

勘兵衛の職業は家主。落語でおなじみの「大家さん」のことだ。

「大家といえば親も同然」と言われながらも、地主(家持)に雇われて長屋を管理するだけの人。

地主から給金をもらい、地主所有の家を無料で借りて住んでいる。

マンションの管理人のような存在である。オーナーではない。

この噺では、大家の因業ぶりがあらわだ。

こんなこすい大家もいたものかと、政五郎や与太郎以上に人間臭くて親近感がわいてくる。

古木優     

町奉行



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あかいしんにょ【赤い信女】川柳 ことば

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石塔せきとうの赤い信女をそそのかし  拾二09

【蛇足】「赤い信女」は夫に先立たれた女性。落語の世界では「後家さん」として登場します。「信女」とは仏式で葬った女性の戒名(僧が死者に付ける名)の付ける称号で、男性の場合は「信士」。先に亡くなった夫の墓に「〇〇信女」と法号を刻んで、この人の妻はまだ生きていますよというしるしに赤で字を塗るところから、「赤い信女」という熟語が生まれました。たいていの辞書には項目として載っています。川柳に登場する「赤い信女」なるものは、亡夫に操を立てたのはいいけれど、人生そう短くはなく、生きているうちに世間の誘惑に惑わされて後悔している妻の心境を詠む場合に登場します。これも川柳や落語での類型です。川柳の世界では、このような後家さんをまどわすのは寺の坊さんだというのが通り相場です。妻帯できない浄土真宗以外の各宗派の僧侶がこの手の女性を狙っている、というのが世間の常識でした。浄土真宗は略して「真宗」としても登場しますが、この宗派は、宗祖の親鸞自身が妻帯したため、今日まで真宗の僧侶は頭も丸めず妻帯しています。ただ、現在の仏教界では、真宗以外の各宗の坊さんも妻帯しています。これは明治以降のことです。日本の仏教界の現在は、戒律が緩い状態にあります。江戸時代のほうがまだ厳しかったのです。辻善之助が『日本仏教史』が唱えた「江戸時代以降、日本の仏教は葬式仏教に堕した」といった説は、最近は見直されてきています。そうはいっても、江戸時代、寺社は大きな幕府や各藩から禄をいただいていたために生活には困らず時間もしっかりもあったようで、そのような状態では、ろくでもない思いにいたる僧侶も少なくはなかっただろうという推測はかなうでしょうね。

信女の月をよどませる和尚也  筥二15

「月をよどませる」とは生理が止まった由。和尚がはらませた、ということ。「信女の月」は「真如の月」の洒落。「眞如」とは万物の本体。すべてに通じる絶対普遍の真理。「真如の月」は闇と照らすように真理が人の心の迷いを破ること。真理は迷妄を開くわけで、はらませれば別な迷妄が開く、というわけでしょうか。ろくでもない坊さんが描かれています。ちなみに、「真如の月」の対語は「無明長夜むみょうじょうや」。煩悩にとらわれて仏法の根本がわからずに迷った状態でいることで、光のない長い夜にたとえたものです。「無明の闇」といった表現でも登場します。真如の月=悟り、無明の闇=迷い、ということですね。

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ごんすけざかな【権助魚】落語演目



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【どんな?】

女通いのだんな、伴の権助を口止めに買収。突き止めようとおかみさんも買収。
だんなが高額なので、権助はこちらに。田中さんと向島で網打ち、と言えと。
指示通り、日暮れに魚屋で、鰹片身に伊勢海老、目刺し、蒲鉾を。だからバレた。
「どこの川に蒲鉾が泳いでる」「どうりで網をブッて捕った時、みんな死んでた」

別題:熊野の牛王

【あらすじ】

だんながこのところ外に女を作っているらしい、と嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬しっとで黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助ごんすけを呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、饅頭まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路りょうごくひろこうじあたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんのところへ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれる人なので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、手を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若たいぜんじじゃく

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くなら、だんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

駒止こまどめで田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺もくぼじから植半うえはんでひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴やまぐちともえ、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものはかつおの片身に伊勢海老、目刺しに蒲鉾。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川に蒲鉾が泳いでるんだい」
「ハア、どうりで網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように周りから見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、少年SF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

作者の藤子・F・不二雄(藤本弘、1933-96)は大の落語ファンとして有名でした。ほかにも落語のプロットをさまざまな作品に流用しています。

「21エモン」は『週刊少年サンデー』(小学館、1968-69年)などで連載されました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923)や二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残しています。

前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王ごおう(護符)」の別題で演じられたこともありました。

この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれました。

明治21年(1888)ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び評判になった、と山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』(1936年、第一書房→中公文庫)にあります。

山本笑月は東京朝日新聞などで活躍したジャーナリスト。

深川の材木商の生まれで、長谷川如是閑(長谷川萬次郎、1875-1969)や大野静方(山本兵三郎、1882-1944)の実兄にあたります。

長谷川如是閑は日本新聞や大阪朝日新聞などので活躍したジャーナリスト、大野静方は水野年方門の日本画家です。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪辣あくらつな算段なのですが……。

いやまあ、けっこう笑えます。おあとはどうなりますやら。



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こわかれ【子別れ】落語演目



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【どんな?】

大工の熊は吉原の女にほうけて、女房子供を追い出す。
長屋に入った女は飯も炊かなければ仕事もせず。出ていった。
数年後。熊は左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。
息子と再会し鰻食いを約束。それが機縁で元の鞘に。子は鎹の一席。

別題:女の子別れ 強飯こわめしの女郎買い(上) 子はかすがい(中と下で)

【あらすじ】

腕はいいが、大酒飲みで遊び人、大工の熊五郎。

ある日、山谷の隠居の弔いですっかりいい心持ちになり、このまま吉原へ繰り込んで精進落としだと怪気炎。

来合わせた大家が、そんな金があるなら女房子供に着物の一つも買ってやれと意見するのもどこ吹く風。

途中で会った紙屑屋の長さんが、三銭しか持っていないと渋るのを、今日はオレがおごるからと無理やり誘い、葬式で出された強飯の煮しめがフンドシに染み込んだと大騒ぎの挙げ句に三日も居続け。

四日目の朝。

神田堅大工町の長屋にご機嫌で帰ってくると、かみさんが黙って働いている。

さすがに決まりが悪く、あれこれ言い訳をしているうちに、かみさんが黙って聞いているものだからだんだん図に乗って、こともあろうに女郎の惚気話まで始める始末。

これでかみさんも堪忍袋の緒が切れ、夫婦げんかの末、もう愛想もこそも尽き果てたと、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。

うるさいのがいなくなって清々したとばかり、なじみのおいらんが年季が明けると家に引っ張り込むが、やはり野に置け蓮華草、前のかみさんとは大違いで、飯も炊かなければ仕事もせず。

挙げ句に、こんな貧乏臭いところはイヤだと、さっさと出ていってしまった。

一方、夫婦別れしたかみさん。

女の身とて決まった仕事もなく、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てている。

ある日、亀坊がいじめられて泣いていると、後ろから声を掛けた男がいる。

振り返ると、なんと父親。

身なりもすっかり立派になって、新しい半纏を着込んでいる。仕事の帰りらしい。

あれから一人になった熊五郎、つくづく以前の自分が情けなくなり、心機一転、好きな酒もすっかり絶って仕事に励み出したので、もともと腕はいい男、得意先も増え、すっかり左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。

偶然に親子涙の再会とあいなり、熊はせがれに五十銭の小遣いをやってようすを聞くと、女房はまだ自分のことを思い切っていないらしいとわかる。

内心喜ぶが、まだ面目なくて会えない。

その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊に約束し、その日は別れる。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、おやじに、おれに会ったことはまだおっかさんに言うなと口止めされているので、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかすが、もの堅い母親は聞き入れない。

貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない、人さまのお金をとるなんて、なんてさもしい料簡を起こしてくれたと泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまう。

聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれないが、やはり、まだよりを戻すのははばかられる。

その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやるが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。

こうして、子供のおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まるという、「子は鎹(かすがい)」の一席。

【しりたい】

長い噺   【RIZAP COOK】

初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)の作。長い噺なので、上中下に分けられています。

普通は、中と下は通して演じられ、別題を「子はかすがい」といいます。

かすがいは大工が使う、大きな木材をつなぐためのカギ型の金具です。

打ち込むのにゲンノウを用いるので、母親が「ゲンノウでぶつよ」と脅かす場面が、幕切れの「子はかすがい」という地のサゲとぴたりと付きます。

「かすがいを打つ」   【RIZAP COOK】

という慣用句もあり、人の縁をつなぎ止める意味です。

上は五代目古今亭志ん生が、「強飯こわめしの女郎買い」として独立させ、紙屑屋を吉原に誘う場面の掛け合いで客席を沸かせました。

むろん、後半の「子別れ」は別にみっちりと演じています。

志ん生は母親の表現に優れ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、上の通夜の場面から綿密に演じました。

戦後では、やはりこの二人が双璧だったでしょう。

熊&紙長さんの「掛け合い漫才」   【RIZAP COOK】

熊「いくらあんだい? 一両もあんのかい一両も?」
長「一円? 一円なんぞあるもんか」
熊「八十銭かァ?」
長「八十銭ありゃしないよ」
熊「六十銭か」
長「六十銭…までありゃいいんだがね」
熊「五十銭だな」
長「五十銭にちょいと足りねえんだ」
熊「じゃ四十銭だ」
長「もうすこしってとこだ」
熊「三十五銭か」
長「もう、ちょいとだ」
熊「三十銭か」(このあたりで客席にジワ)
長「もうすこしだ」
熊「二十五銭だな」
長「うう、もうちょいと」
熊「二十銭かァ」
長「うう、くやしいとこだ」(爆笑)
熊「十五銭かァ?」
長「もうすこし」
熊「十銭か」
長「うう、もうちょいと」(高っ調子で)
熊「五銭だな?」
長「もうすこしィ」
熊「三銭か」
長「あ当たった」
熊「あこら三銭だよ」

最後の「三銭だよ」に絶妙の間で客の大爆笑がかぶさります。志ん生のライブならではの醍醐味。

活字では、とうてい表現しきれません。

ゲンノウでぶつ   【RIZAP COOK】

母親が五十銭の出所を白状させようと、子供を脅す場面があります。

ゲンノウ(玄翁)は言うまでもなく、大工が使う大型の鉄の槌です。

六代目三遊亭円生は、カナヅチ(金槌)でやりました。

芸談によると、古今亭志ん生に注意され、なるほど、女が持つにはゲンノウは重くて大きすぎると気がついたそうです。

当の志ん生はというと、当然ながら「ここにお父っつァんの置いてったカナヅチがあるから、このカナヅチで頭ァ、たたき割るぞッ」と言っています。

もっとも、単なる脅かしですし、大きいから子供が怖がると考えれば、ゲンノウでもいいと思います。

昔の落語家は、噺の中のちょっとした小道具にも常にリアリティーを考え、気を使っていたことがわかるような逸話ですが、当の志ん生だって、火焔太鼓を手に持ってお屋敷に乗り込むわけですから、どこかでのリアリティーなのか、あやしいもんです。

「女の子別れ」   【RIZAP COOK】

明治初期に三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)は、柳枝の原作を脚色し、あべこべに、出て行くほうがかみさん(母親)で、亭主(父親)が子供と暮らすという「女の子別れ」として演じました。

やはりゲンノウの場面を気にして、ゲンノウで脅すなら父親の方が自然だろう、というのが直接の動機だったようです。

なによりも、「男の子は父親につく」という夫婦別れのときの慣習や、亭主の方が家を出るのは(当時としては)不自然というのが、円朝の頭にあったのでしょう。

この「女の子別れ」は、円朝の高弟、二代目三遊亭円馬(竹沢釜太郎、1854-1918)が大阪に伝えています。

明治33年(1900年)、円馬は大阪にいたのを、円朝危篤の報でいったん帰京しました。

8月11日、円朝が亡くなります。

すぐに大阪に戻るよう、藤浦三周(円朝のパトロン)に命じられ、ついでに京都の天竜寺に立ち寄り、9月の葬儀に読経してくれるよう、交渉したそうです。

そんなこんなで東西を往還していた結果でしょうか、明治期の大阪では、三代目月亭文都(梅川五兵衛、幕末-1918、立ち切れの)が「女の子別れ」を得意にしていました。

今は、東西ともこのやり方で演ずることはありません。

東京嫌いの宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、「子供をカセにお涙ちょうだいのあの手この手を使った、ウエットなヒネクレ落語で、ドライな笑いを好む大阪の水には合いにくい」と述べています。

下足番に習った「子別れ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が生前、対談でこんな回想をしています。

志ん生がまだ二つ目で、旅興行でさすらい歩いていたとき。

流れ着いた甲府の稲積亭といううらぶれた席で、「子別れ」を一席やったところ、そこの下足番の爺さんに、「あすこんとこはまずい」と注意されたので、なに言ってやがる、と思ったそうです。

よく聞いてみると、この爺さん、昔は四代目三升亭小勝(石井清兵衛、1856-1906、狸の)の弟子で「小常」といったれっきとした噺家。

旅興行のドサまわりをしているうちにここに落ち着き、とうとう下足番になり、年を取ってしまったとのこと。

昔はこういうケースはよくあったようです。

志ん生は夏の暑いさ中、爺さんのボロ小屋で虫に食われながら「子別れ」をさらってもらったそうです。

なんだか哀れな、ものさびしい話です。

でも、志ん生の自伝『びんぼう自慢』では、小常から習ったのは「甚五郎の大黒」(→三井の大黒)ということになっていています。

こうなると、どちらが本当なのか、もはやわかりません。

ちなみに、小勝は四代目までは「三升家」ではなく「三升亭」でした。

「三升亭小常」だったという元噺家。

四代目小勝の弟子には「小つね」というのがいました。のちの三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、代地の、せっかちの)です。大看板でした。

「小常」と「小つね」。この話そのもの、どうもあやしいにおいがしますが、心に残る悪くない逸話ではありますね。



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にわかに【庭蟹】落語演目

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【どんな?】

洒落のわからないだんなが、番頭に洒落を求める。「なにかお題を」。
「庭に蟹が這い出したが」「そうニワカニ(俄に)は洒落られません」
だんなはわからず。小僧が洒落になってると。だんなはもう一度と頼む。
「早急におっしゃられても、洒落られません」「うーん、これはうまい」

別題:洒落番頭

あらすじ

洒落のわからない、無粋なだんな。

得意先のだんなから、お宅の番頭さんは粋で洒落がうまいとほめられ、番頭に
「おまえさんは洒落がうまいと聞いたが、あたしはまだ洒落というものを見たことがない。ぜひ見せておくれ」
と頼む。

番頭が
「洒落は見せるものではないから、なにか題を出してください」
と言うので、
「庭に蟹が這い出したが、あれはどうだ」
「そうニワカニ(俄に)は洒落られません」

それなら、雨が振り出して、女が傘を半開きにしていくところではどうかと聞くと
「さようで。そう、さしかかっては(=差し当たっては)洒落られません」

だんな、
「主人のあたしがこれほど頼んでいるのに、洒落られないとはなんだ」
とカンカン。

そこへ小僧が来て、ちゃんと洒落になっていることを説明。

だんなは、なんだかまだわからないが、謝まって、ほめるからもう一度洒落てくれと頼むと、番頭、
「だんなのようにそう早急におっしゃられても、洒落られません」
「うーん、これはうまい」

底本:五代目古今亭志ん生

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しりたい

ダジャレを集めた逃げ噺

昭和では六代目三升家小勝(1971年没)が時折演じました。三代目三遊亭金馬が自著『浮世談語』中で梗概を紹介しているので、金馬のレパートリーにもあったと思われます。

ダジャレを寄せ集めただけの軽い噺で、小咄、マクラ噺、逃げ噺として扱われることが多く、洒脱で捨てがたい味わいを持ちながら、速記もなく、演者の記録も残りにくい性質のものです。

「洒落番頭」の別題もあるようですが、ほとんど使用例を聞きません。

志ん生の音源で

『志ん生、語る。』(岡本和明編著、アスペクト、2007年)は、家族、門弟、落語界の朋友・後輩たちが五代目志ん生の知られざる、とっておきの逸話を語る貴重なものですが、その付録CDで「小咄二題」として「小僧とぼた餅」とともに「庭蟹」が収録されています。

志ん生の「庭蟹」はこれまで、「化物つかい」のマクラとして音源化されたものはありましたが、まさに「幻の音源」にふさわしい、貴重なものです。

噺の進め方は極めてオーソドックスで、「庭蟹」「さしかかっては…」のダジャレのほか、「ついたて(=ついたち)二日三日」のシャレも入れ、きちんとオチまで演じています。

原話もダジャレの寄せ集め

安永9年(1780)刊の笑話本『初登』中の「秀句」が原話です。

「これは「庭蟹=にわかに」のくだりを始め、ほぼ」現行通りの内容ですが、オチは、下男の十助が茶を持って出て、「だんな、あがりませ」と言うのをだんながダジャレと勘違いし、「これはよい秀句」と言う、たわいないものです。

秀句傘

狂言「秀句傘」に原型があるともいわれます。「秀句」は本来、美辞麗句のことで、のち、テレビの大切りで言う「座布団もの」の秀逸な洒落を意味するようになりましたが、ここでは単なる地口、ダジャレに堕しています。

【RIZAP COOK】

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ながやのはなみ【長屋の花見】落語演目

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【どんな?】

貧乏長屋が花見に出かける。
茶を酒に、こうこを蒲鉾に、沢庵を玉子焼きに、酔ったふりする。
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるのかい」「酒柱が立ちました」

別題:隅田の花見 貧乏花見(上方)

【あらすじ】

貧乏長屋の一同が、朝そろって大家に呼ばれた。

みんな、てっきり店賃の催促だろうと思って、戦々恐々。

なにしろ、入居してから18年も店賃を一度も入れていない者もいれば、もっと上手はおやじの代から払っていない。

すごいのは
「店賃てな、なんだ」

おそるおそる行ってみると、大家が
「ウチの長屋も貧乏長屋なんぞといわれているが、景気をつけて貧乏神を追っぱらうため、ちょうど春の盛りだし、みんなで上野の山に花見としゃれ込もう」
と言う。

「酒も一升瓶三本用意した」
と聞いて、一同大喜び。

ところが、これが実は番茶を煮だして薄めたもの。

色だけはそっくりで、お茶けでお茶か盛り。

玉子焼きと蒲鉾の重箱も、
「本物を買うぐらいなら、むりしても酒に回す」
と大家が言う通り、中身は沢庵と大根のコウコ。

毛氈も、むしろの代用品。

「まあ、向こうへ行けば、がま口ぐれえ落ちてるかもしれねえ」
と、情なくも、さもしい料簡で出発した。

初めから意気があがらないことはなはだしく、出掛けに骨あげの話をして大家に怒られるなどしながら、ようやく着いた上野の山。

桜は今満開で、大変な人だかり。

毛氈のむしろを思い思いに敷いて、
「ひとつみんな陽気に都々逸でもうなれ」
と大家が言っても、お茶けでは盛り上がらない。

誰ものみたがらず、一口で捨ててしまう。

「熱燗をつけねえ」
「なに、焙じた方が」
「なにを言ってやがる」

「蒲鉾」を食う段になると
「大家さん、あっしゃあこれが好きでね、毎朝味噌汁の実につかいます。胃の悪いときには蒲鉾おろしにしまして」
「なんだ?」
「練馬の方でも、蒲鉾畑が少なくなりまして。うん、こりゃ漬けすぎで、すっぺえ」

玉子焼きは
「尻尾じゃねえとこを、くんねえ」

大家が熊さんに、
「おまえは俳句に凝ってるそうだから、一句どうだ」
と言うと
「花散りて死にとうもなき命かな」
「散る花をナムアミダブツと夕べかな」
「長屋中歯をくいしばる花見かな」

陰気でしかたがない。

月番が大家に、
「おまえはずいぶんめんどう見てるんだから、景気よく酔っぱらえ」
と命令され、ヤケクソで
「酔ったぞッ。オレは酒のんで酔ってるんだぞ。貧乏人だってばかにすんな。借りたもんなんざ、利息をつけて返してやら。くやしいから店賃だけは払わねえ」
「悪い酒だな。どうだ。灘の生一本だ」
「宇治かと思った」
「口あたりはどうだ」
「渋口だ」

酔った気分はどうだと聞くと
「去年、井戸へ落っこちたときと、そっくりだ」

一人が湯のみをじっと見て
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるのかい」
「酒柱が立ちました」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

明治の奇人、馬楽十八番

上方落語「貧乏花見」を、明治37年(1904)ごろ、三代目蝶花楼馬楽(本間弥太郎、1864-1914)が東京に移しました。

三代目馬楽は、奇人でならした薄幸の天才とされています。

明治38年(1905)3月の、日本橋常磐木倶楽部での第四回(第一次)落語研究会に、まだ二つ目ながら「隅田の花見」と題したこの噺を演じました。

これが事実上の東京初演で、大好評を博し、以後、この馬楽の型で多くの演者が手掛けるようになりました。

上方のものは、筋はほぼ同じですが、大家のお声がかりでなく、長屋の有志が自主的に花見に出かけるところが、江戸(東京)と違うところです。

馬楽から小さんへ

馬楽から、弟弟子の四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が継承しました。

小さんは、馬楽が出していた女房連をカット、くすぐりも入れて、より笑いの多い楽しめるものに仕上げました。

そのやり方は五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に伝えられ、さらにその門下の十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の極めつけへとつながっていきました。

オチは、馬楽のものは「酒柱」と「井戸へ落っこった気分」が逆で、後者で落としています。

このほか、上方のオチを踏襲して、長屋の一同がほかの花見客のドンチャン騒ぎをなれあい喧嘩で妨害し、向こうの取り巻きの幇間が酒樽片手になぐり込んできたのを逆に脅し、幇間がビビって「ちょっと踊らしてもらおうと」「うそォつけ。その酒樽はなんだ?」「酒のお代わりを持ってきました」とする場合もあります。

おなじみのくすぐり

どの演者でも、「長屋中歯を食いしばる」の珍句は入れますが、これは馬楽が考案し、百年も変わっていないくすぐりです。

いかに日本人がプロトタイプに偏執するか、これをもってもわかるというものです。

冒頭の「家賃てえのはなんだ」というのもこの噺ではお決まりですが、こちらは上方で使われていたくすぐりを、そのまま四代目小さんが取り入れたものです。

長屋

表長屋は表通りに面し、二階建てや間口の大きなものが多かったのに対し、裏長屋(裏店=うらだな)は新道や横丁、路地に面し、棟割(むねわり、一棟を間口九尺、奥行二間の何棟かに仕切ったもの)になっています。

同じ裏長屋でも、路地に面した外側は鳶頭や手習いの師匠など、ある程度の地位と収入のある者が、木戸内の奥は貧者が住むのが一般的でした。

上野の桜

「花の雲鐘は上野か浅草か」という、芭蕉の有名な句でも知られた上野山は、寛永年間(1624-44)から開けた、江戸でもっとも古く、由緒ある花の名所でした。

しかし、寛永寺には将軍家の霊廟があり、承応3年(1654)以来、皇族の門主の輪王寺宮が住職を務める、江戸でもっとも「神聖」な地となったため、下々の乱痴気騒ぎなどもってのほか。

「山同心」が常時パトロールして目を光らせ、暮れ六つ(午後六時ごろ)には山門は閉じられる上、花の枝を一本折ってもたちまち御用となるとあって、窮屈極まりないところでした。

そのため、上野の桜はもっぱら文人墨客の愛するものとなり、市民の春の行楽地としては、次第に後から開発された、品川の御殿山、王子の飛鳥山、向島に取って代わられました。

したがって、たとえ「代用品」ででも花見でのめや歌えをやらかそうと思えば、この噺にかぎっては、厳密には時代を明治以後にするか場所を向島にでも変えなければならないわけです。

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てれすこ【てれすこ】落語演目

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【どんな?】

捕れた魚の名が不明。奉行所は名を知る者に百両を。茂兵衛が「てれすこ」と。
いぶかる奉行は同じ魚を干物に。茂兵衛は「ステレンキョウ」。死罪に!
潔白信じ断食する妻と面会。茂「子供にはイカの干したのをスルメと言わせるな」
奉「言い訳相立った。無罪」。かみさんが火物(=干物)断ちをしたから。

別題:すてれんきょう 長崎の代官

あらすじ

ある漁村で、珍しい魚が捕れたが、専門家の漁師たちにも名前がわからない。

そこで奉行所に聞きに行ったが、もとより役人が知るはずがない。

困って、これこれの魚の名を存じる者は申し出れば百両の賞金をつかわすという高札が立った。

これが評判になり、近在から人が押し寄せる。

それに目をつけたのが、多度屋茂兵衛たどやもへえという商人。

金に目がくらみ、「これは『てれすこ』と申す魚にございます」とでたらめを申し立てたが、役人の方も本当か嘘か証明できないので、茂兵衛はまんまと賞金をせしめる。

これは臭いと眉に唾をした奉行、一計を案じて、魚を干物にし、「この度もかような珍魚が捕れた。この名を知っている者は役宅へ申し出よ。百両つかわす」と、前と同じような高札を出した。

計略とは知らない茂兵衛、欲にかられてまた奉行所に出向き、「これはステレンキョウと申します」と言い立てたから運の尽き。

「上をいつわる不届き者。吟味中、入牢申しつけるッ」と、たちまち縛られてしまう。

吟味の末「多度屋茂兵衛。その方、『てれすこ』と申せし魚をまた『すてれんきょう』と申し、上をいつわり、金子をかたり取ったる罪軽からず。重き咎にも行うべきところなれど、お慈悲をもって打ち首申しつける」と判決が下った。

世にいう「てれすこ裁判」。最後に何か望みがあれば、一つはかなえてつかわすというので、茂兵衛うなだれて「妻子に一目、お会わせを願いとう存じます」

かみさんがやせ衰えた姿で、乳飲ちのみ子を抱いて出頭した。

茂兵衛が驚いてようすを聞くと、亭主が身の証が立つようにと、断食をしていたが、赤ん坊のお乳が出ないのはかわいそうなので、そば粉を水で溶いたものをすすっていたという。

「それほどわしの身を案じてくれてありがたい。もう死んでいく身、思い残すことはないが、子供が大きくなっても、決してイカの干したのをスルメと言わせてくれるな」と茂兵衛が遺言ゆいごん

それを伝え聞いた奉行、膝を打って「多度屋茂兵衛、言い訳あい立った。無罪を申し渡す」

首のなくなるのを、スルメ一枚で助かった。

助かるはずで、かみさんが火物ひもの(=干物ひもの)断ちをしたから。

しりたい

民話がルーツのとんち噺

土壇場で口をついて出た苦し紛れの頓知とんちで、あやうく命が助かる噺ですが、類話は各地の民話にあります。

地方によって、最初のでたらめな魚名(てれすこ)は「きんぷくりん」「ばばくろう」、二度目(ステレンキョウ)が「かんぷくりん」などと変わるようです。

「てれすこ」は実は何のことはなく、「テレスコピョ」つまりテレスコープ、望遠鏡のこと。「ステレンキョウ」はよく分りませんが、立体メガネのことだという説もあります。

直接の原話は、笑話本『醒睡笑せいすいしょう』(安楽庵策伝あんらくあんさくでん寛永かんえい5年=1628年)巻六「うそつき」第二話です。

ここでは、舞台がの国(摂津せっつ)兵庫浦ひょうごがうら

男がとがめられ、「無塩(鮮魚)のときはほほらほ、今はさがり(干からび)なのでばくくらく」と言い訳するのがオチになっています。

円生十八番は上方ダネ

もとは上方落語で、大阪の五代目金原亭馬生(「長崎の赤飯」を参照)が得意にしていました。

大阪では、桂米朝の持ちネタでした。

東京では戦後、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌がよく演じました。その後は六代目円生の一手専売になりました。

円生は場所を明確にしていませんが、漁業の盛んな地方で奉行がいるから、長崎だろうというので、そのものずばり「長崎の代官」の別題で演じられることもあります。

サゲはダジャレで、本来「干物絶ちをしたから助かったのはあたりめ(スルメの忌み言葉=当たり前を掛けたもの)と説明しますが、円生は、それは蛇足だというので、本あらすじのように切っていました。

火物絶ちって?

一定期間、満願まで、火を通して料理した食物を断ち、願掛けをすることです。

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じゅぎょうちゅう【授業中】落語演目

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【どんな?】

小学校、国語の授業風景。生徒が教科書を朗読。
「くにさっだ忠治はいィィ男」
「どこサ、国定忠治なんで書いてある」
「あります」。見ると表紙に「国定教科書」

あらすじ

ある小学校に、ものすごいズーズー弁の先生が転任してきた。

最初の国語の授業。

「ツィみたつのスィんスィいわァ、どごがほがのガッコサぶっトンでィったッス」

「さ、みんな国語の本サおっぴろげて、本サ、おっぴろげろ。このヤロ、窓サ何でおっぴろげる。六十七ペーズ、おめえ立って読んでみろ」

「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。ああわれ人ととめゆきて、涙さしぐみ帰りきぬ。山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」

「よぐ読みた。その隣」
「ヤヤ、ヤマヤマヤマ、ヤ、山のアナ、山のアナアナアナアナ」
「狸だね。なんで穴ばっかり探すんだ」
「先生、そいつはダメ。吃音です」
「いいからその先サやれ」
「アナアナ、アナアナ、あなた、あなた、もう寝ましょうよ」
「寝ましょうよだけ、なんでスッと出るんだこのヤロ」

その次は、えらくダミ声。

「十九番、広沢虎造」
「のど自慢じゃねー。早く読め」
「お粗末ながら。(浪曲の節で)やまのあなたのおォ、そおォらとおく、さいわいすむとォ、人ォのいう、ああわれ人とォ」
「ええどええど、もっとやれ」
「なんだい、ひどい先生だね」

十九番、調子に乗って
「なみださしぐみィィィィかえりィきぬゥゥゥ、とンビィがとんでェるあっかぎッやまァァ、おとォこ一匹どこまでとばすゥ、くにさっだ忠治はいィィ男」
「このバカヤロ、どこサ、国定忠治なんで書いてある」
「あります」

よく見ると、教科書の表紙に「国定教科書」。

底本:三代目三遊亭円歌

【RIZAP COOK】

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うんちく

国定教科書 【RIZAP COOK】

その昔、学校の教科書は国家が作成したものを使っていました。

それが国定教科書です。

国定教科書は、国家が定める教育内容を各科目一種類の教科書で統一して、各学校に使用させるものです。

その歴史を駆け足で振り返りましょう。

明治37年(1904)度から第1期。

教科内容としては最もリベラルなもので、リンカーンやナイチンゲールが登場しました。

尋常小学1年用の国語の教科書の冒頭は、以下のような変遷がありました。

明治43年(1910)度 第2期 「ハダ、タコ、コマ」
大正7年(1918)度 第3期 「ハナ、ハト、マメ、マス」
昭和8年(1933)度 第4期 「サイタサイタサクラガサイタ」
昭和16年(1941)度 第5期 「アカイアカイアサヒアサヒ」

第5期には「尋常小学校」から「国民学校」に名称が変わりました。

敗戦直後には戦勝国の規制のもと、「墨塗り教科書」に。新たに教科書を作成する余裕がなかったわけ。

先生の指示のもと、民主日本にふさわしくない表現箇所に生徒がそれぞれに墨で塗りつぶしていったのです。

昭和22年(1947)度 第6期 「みんないいこ」

第6期からは、片仮名書きから平仮名書きに。

昭和24年(1949)度で国定教科書が終わり、複数の検定教科書時代に移り、現在にいたっています。

この噺の時代は戦前らしいのですが、カール・ブッセがいつ入っていたかは寡聞にして知りません。

「中沢信夫(円歌の本名)」氏の小学校入学時は第4期の「サイタサイタサクラ」教科書のはずです。

国定忠治 【RIZAP COOK】

侠客でも義賊でもなく、実際はただの逃亡殺人犯。

処刑のちょうど五か月前、中風で倒れ、ほどなく逮捕されたときはもう落ちぶれていたようです。

嘉永3年(1851)12月21日(1月22日)、カラっ風吹きすさぶ上州吾妻郡大戸村で磔刑に。享年40。戒名は遊道花楽居士。墓は生まれ在所の上州佐位郡国定村の養寿寺。

山のあなた 【RIZAP COOK】

この噺で一躍有名になった、ドイツ新ロマン派詩人カール・ブッセ(1872-1918)の詩です。

原題はUberdenBergenで、日本では上田敏(1874-1916)の訳詩集『海潮音』(明治38年=1905)でよく知られるようになりました。

広沢虎造 【RIZAP COOK】

昭和期、一世を風靡した浪曲師。本名・山田信一(1899-1964)。東京出身で、大阪の広沢虎吉門下。大正11年(1922)に真打ち。

得意は「スシ食いねえ」の「清水次郎長伝」、志ん生が落語版をやった「夕立勘五郎」、この噺に登場する「国定忠治」「天保六花撰」など。

山のあな、あな…… 【RIZAP COOK】

前述のように、三代目三遊亭円歌は本名中沢信夫、日蓮宗の法名円法。昭和4年(1929)1月10日、東京生まれ。

以上が定説でしたが、生前期の落語協会公式サイトでは「1932年1月10日」となっていて、3歳サバを読んでいました。真偽不明、奇ッ怪至極。

山手線新大久保駅員を経て、昭和20年(1945)9月、二代目円歌に入門。

前座名は歌治で、昭和23年(1948)4月、歌奴で二つ目。

昭和33年(1958)10月、同名で真打昇進。昭和45年(1970)10月、三代目円歌を襲名。

「授業中」は自作自演の新作で、昭和42年(1967)、爆発的に売れました。

「山のアナ」は流行語になり、歌奴はたちまち、テレビにひっぱりだこの売れっ子スターに。

続いて「浪曲社長」「月給日」「肥満小型」「中沢家の人々」など、ヒットを連発。

長く人気を保ち、平成8年(1996)、落語協会会長に就任。平成29年(2017)4月23日、山のあなたへ旅立ちました。享年88(85)。

それにしてもこの噺、今聴けば古色蒼然。なぜあんなに受けたのか。

この噺を解析すると当時の世相がわかるかもしれません。

落語家に日蓮宗の信徒が多いのは円朝の時代からのならいです。

ただ、この人の場合は、日蓮宗に出家して「円法」という法名をいただくほどでした。

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あいぼれ【相惚れ】川柳 ことば

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相ぼれの仲人実はまわしもの  五32

【蛇足】「相ぼれ」は相思相愛。大店おおだなの若だんなと遊里の花魁おいらんの、なんかが理想的なストーリー運びです。「まわしもの」は間者とかスパイ。大店のだんな(若者の親父)からの指示で、ひそかに乗り込んだ番頭とかのイメージでしょうか。好例は「山崎屋」ですね。

仲人なこうどのあとからできる面白さ  九31

仲人を地者じものとおもやたいこ持ち  一27

「地者」はふつうは素人女で、芸子や娼妓の対語として使います。ここでは素人男性のようですね。「地者とおもやたいこ持ち」は素人と思ったら幇間だった、という意。

相ぼれのおさきにつかふ隣の子  三十七27

「おさきにつかふ」は利用する。同じ町内の相思相愛を詠んだ句。

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あいのやま【相の山】川柳 ことば

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面白くなる銭のなくなる相の山  八十二18

【蛇足】「相の山」は伊勢神宮の内宮ないぐう外宮げぐうの間にある小高い山。間の山とも。江戸時代を通して有名な話ですが、ここには、三味線を弾いて参詣客から銭も乞う女がいました。客が女目当てに投げる銭をばちではじいてわが身に当たらせない特技が売り物でした。客は絶対当ててやろうとついつい銭を使ってしまうという、まるでゲーセン感覚の遊びです。いつも二人でやっていて、「お杉」「お玉」と名乗っていました。相の山→お杉お玉→銭当ての連想です。それにしても、すごい商売ですね。

抜打ぬきうちにお杉お玉へ銭つぶて  七十四02

客はいろんな手でお杉お玉を狙い撃ちです。

手がらなりお杉お玉をいたがらせ  宝十三松03

たまには当たるわけで。これも彼女らの手の内でしょうか。

毛のばちで弾けばあわれな相の山  宝七、十一

「毛のばち」とは胡弓こきゅうを連想させます。これでは銭をうまくはじけませんね。かわいそうな話ですが、「だったらいいな」という、ただの妄想でしょう。

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あいそう【愛想】川柳 ことば

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あいさうにふくぶくしいと嫁をほめ  二十九24

【蛇足】「愛想」はお世辞。おもてなしでの愛敬をさします。「ふくぶくしい」とは肥えていることで、近代以前は、肥えていることが美でしたし、器量のよしあしでした。ダイエットは近代の概念なんですね。

愛想のよいをほれられたと思ひ  八28

よくあること。愛想笑いを「おれに惚れてる」と勘違いしているわけ。色恋は勘違いから始まります。

ちっとづつ焼くのも女房あいそ也  天五智06

「焼く」と言えば嫉妬。女房が焼いてくれないと調子が出ない、という平和な風景です。

あいそうに傾城やけどさせる也  十六06

「傾城」は遊女。このシチュエーションで「やけど」と言えば、遊女が煙管の雁首を客の手やら腕やらにたたいてやけどさせるという、まさに焼いてる状態。これだって、遊里サービスの一環にすぎませんが。あまり遊んでない男は勘違いして本気になってしまいます。野暮の始まりです。

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あおな【青菜】落語演目

【RIZAP COOK】



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【どんな?】

お屋敷で聞きかじった隠し言葉を、長屋でまねる植木屋。
訪れた熊を相手に、植木屋が「おーい、奥や」
女房が「鞍馬山から牛若丸がいでましてその名を九郎判官義経」
女房が先に言ってしまったから、植木屋は「うーん、弁慶にしておけ」

別題:弁慶

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方かみがた柳影やなぎかげという「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山くらまやまから牛若丸うしわかまるいでまして、名を九郎判官くろうほうがん
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう(=九郎)」、「それならよしとけ(=義経)」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返おうむがえし……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、上方から東京に移した噺です。

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。

冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。

これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。

江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。

夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。

これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。

4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。

上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。

これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ(長官):伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ(次官):副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう(判官):祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん(主典):史、録、属、疏、志、典、目

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。

義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。

もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。

朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。

戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い、武骨で好色な青年はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。

検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。

検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことです。

兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつで、「立ち往生」の意味を利かせています。

今では、『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現在では、説明なしには通じなくなっているかもしれません。

上方では人におごられることを「弁慶」というので、(これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています)このシャレにはその意味も加わっているでしょう。

弁慶は、『吾妻鏡』には「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。

まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょう。

負け組ですから。

それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。

ならば、芸談好きの代表格、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の芸談を聴いてみましょう。弟子の小里ん師が語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

「青菜」の演者

三代目小さんが持ってきた話ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も得意にしていました。四代目から五代目に。

柳家の噺家はよくやります。

もちろん、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)も引き継いでいます。文句なしです。絶品です。還暦を過ぎた頃からのが聴きごたえあります。



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たぬさい【狸賽】落語演目

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【どんな?】

男、子狸にチョボイチの賽に化けさせてどんな目でも出させる。
賭場で男は大当たり。最後の勝負では「目を読むな」と制される。
開いた目は五。男は「梅鉢だッ。天神さまだ」とやった。
勝負ッ。狸が冠かぶり笏持ってふんぞりかえってた。

別題:狸 たぬき賽(上方)

あらすじ

ある博打打ちの男。

誰か夜中に訪ねてきたので開けてみると、なんと子狸。

昼間、悪童たちにいじめられているのを男に助けられたので、その恩返しに来たのだという。

「なんでもお役に立つから、しばらく置いてください」
というので、家に入れて試してみると、なんにでも化けられるので、なるほどこれは便利。

小僧に化けて家事一切をやってくれたり、葉書を札に化けさせて、米をかすり取ってきたり。

そこで男が思いついたのが今夜の「ご開帳」。

チョボイチだから、狸をサイコロに化けさせて持っていけば、自分の好きな目が出放題、というわけ。

さっそく訓練してみると、あまり転がすと目が回るなどと、頼りないが、何とか仕込んで、勇躍賭場へ。

強引に胴を取ると、男が張る目張る目がみんな大当たりで、たちまち男の前には札束の山。

ところが、やたら
「今度は一だ」
「三だよッ、三だ三だ三だ」
などと、いちいちしつこく指示を出すので、一同眉に唾をつけ始める。

儲けるだけ儲けて退散しようとすると、最後の勝負というので先に張られてしまい、てめえが変なことを言うとその通りの目が出るから、もう目を読むなと釘をさされる。

開いた目は五。

五と言えないので、
「うーん、今度はなんだ、梅鉢だ。えー、まーるくなって、一つ真ん中になるだろ。加賀さまだ。加賀さまの紋が梅鉢で、梅鉢は天神さま。なッ。天神さまだよ、頼むぜッ」

「勝負ッ」
と転がすと、狸が冠かぶって、笏持ってふんぞりかえってた。

「この野郎!」

底本:五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん

しりたい

さまざまな狸噺  【RIZAP COOK】

原話は宝暦13年(1763)刊の笑話本『軽口太平楽』中の「狸」です。本来軽く短い噺なので、「狸の札」「狸の釜」「狸の鯉」などの同類の狸噺とオムニバスで続ける場合があります。

「狸賽」を入れた四話をまとめて、五代目志ん生のように「狸」と題することもあります。

それぞれ、狸が恩返しに来るという発端は共通していて、化けて失敗するものが違うだけです。

「狸の鯉」は、狸を鯉に化けさせ、親方の家に持っていくと料理されそうになり、「鯉」が積んだ薪を伝わって窓から逃げたので「あれが鯉の薪(=滝)のぼりです」と地口で落とすもの。

「狸の札」は、札に化けさせられ、相手のガマ口に入れられた狸が苦しくなって逃げ帰り、「ついでにガマ口の銭も持ってきました」というもの。

「狸の釜」は、釜に化けて和尚に売られた狸が火にかけられて逃げ出し、小坊主があれは狸だったと報告すると、「道理で半金かたられた」「包んだ風呂敷が八丈でございます」とオチるもので、ぶんぶく茶釜伝説のパロディーですが、狸の睾丸が八畳敷きというのと、布地の八丈縞を掛けたもの。

今はあまり演じられません。

珍品、小さんの狸  【RIZAP COOK】

明治期では四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記があります。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も得意にしましたが、代々の柳家小さん系に伝わる噺です。

まあ、三代目から五代目の小さんが、そろって狸に似ていたという縁もあるでしょうが。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)が演じると、狸を助ける場面、狸とのやりとり、「サイン」を打ち合わせるくだりなどがわりにあっさり演じた志ん生に比べて詳しくて、特に、オチの部分を、笏を持った天神のしぐさで表現するのが特色でした。

その抱腹絶倒の表情は、いまだに記憶に強烈に残っています。

小さんは「狸の札」を「狸賽」のマクラに用い、つなげて演じることも多く、その際は「狸」の題名で演じていました。

志ん生の方は、同じ「狸」の演題でも、「狸の鯉」とつなげることが多かったようです。

五代目小さんの弟子筋を中心に、若手にもよく演じられる噺です。

チョボイチ  【RIZAP COOK】

一つ粒ともいいます。

サイコロ一つを使ってやる、きわめてギャンブル性の強いバクチです。

胴元の出した目に張ると、配当は四倍になります。

同じチョボでも狐チョボになると、サイコロ三つで勝負します。

志ん生が絶妙だった「今戸の狐」にも出てきます。隠語の「狐」がからみます。

上方では  【RIZAP COOK】

発端が少し東京と異なります。

バクチに負けた旅人が、空腹のあまり狸塚に子供たちが供えたぼた餅をつまみ食いすると狸が現れて因縁をつけてきます。

もしサイコロに化けて自分の言う通りの目を出してくれたら、ぼた餅など山のように食わしてやる、と持ちかけ、狸の賽を持ってバクチ場へ行くという段取りです。

オチは小さんと同じく、天神さまのしぐさオチになります。

原話の『軽口太平楽』中の小咄では、こうです。

化け狸が住み着いた貸家に越してきた男を、狸がありとあらゆる妖怪に化けて脅しますがいっこうに動じないので、とうとう根負けして降参。男の頼みを聞いてサイコロに化けることに。

オチは少し変わっていて、男が五の目を出させようと「梅の花、梅の花」と言うと、狸が勘違いして(梅に縁ある)ウグイスに化けてしまいます。

「この野郎!」   【RIZAP COOK】

あらすじの最後の「この野郎!」は五代目志ん生が加えたものです。

はっきりしたオチにはなっていませんが、これだと噺がまだあとに続きそうで、すわりは悪いものの、印象に残るちょっとおもしろい終わり方ですね。

【RIZAP COOK】

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いどのちゃわん【井戸の茶碗】落語演目

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【どんな?】

細川家の若侍がくず屋から買った仏像を磨いていたら、中から五十両。
五十両を返す。くず屋は売り主の浪人に。拒む浪人。引き換えに古い茶碗を預ける。
これ、じつは名器。藩主が若侍から三百両で。拒む浪人。引き換えに娘を預ける。
く「ご新造にして磨けば美人になります」 若「磨くのはよそう。また小判が出る」

【あらすじ】

麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛。

古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、それが嫌だと言って、本当の紙くずしか買わないという正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。

ある日、とある裏長屋に入っていくと、十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められ、家に入ると、待っていたのはその父親で、千代田卜斎と名乗る。

うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人。

もとはしかるべき所に仕官していたが、今は昼間は子供に手習いを教え、夜は街に出て売卜(易者)をして、娘のお市と二人で、細々と暮らしを立てているという。

その卜斎が、家に古くから伝わるという、すすけた仏像を出し、これを二百文で買ってもらいたいと、頼む。

清兵衛は、本当なら品物は買わないが、親子の貧に迫られたようすに同情し、これを売ってもうけがあれば、いくらかでもこちらに持ってくると、約束して買い取る。

この仏像を御膳かごという竹かごに入れ、白金あたりを流して歩くと、細川さまの屋敷の高窓から、まだ二十三、四の侍が声を掛け、仏像を見て気に入ったのか、三百文で買ってくれた。

その侍、名を高木佐太夫といい、まだ独り身で、従僕の良造と二人暮らし。

さっそく、すすけた仏像を磨いていると、中で音がするので、これは腹籠りの仏で、中にもう一つ小さな仏像が入っていると見て取った佐太夫、中を開けてみると、なんと小判で五十両入っていた。

驚いて、仏像を売るようではよほど貧乏しているに違いないから、これは返してやらなければ、と思ったものの、あの、くず屋のほかに手掛かりはない。

そこで、良造に命じて毎日見張らせ、屑屋が通る度に顔を改めたので、これが業界の評判になり、多分仇でも探しているんだろうという噂になる。

清兵衛もこの話を聞きつけ、甘酒屋のふりをして細川邸の前を通り過ぎようとしたが、見つかって、佐太夫の前に連れていかれた。

佐太夫は金のことを話し、即刻届けてまいれと言いつけたので、清兵衛は驚いて卜斎の家に行き、金を渡すが、律儀一徹の卜斎、売ったからにはもうこの金は自分のものではないから受け取るわけにはいかないと、突っぱねる。

しつこくすすめると、手討ちにすると、怒りだしたから、清兵衛は慌てて長屋に逃げ帰った。

相談された大家が中に入り、五十両を三つに分け、佐太夫と卜斎に二十両ずつ、残りの十両は正直な清兵衛にやってくれと、提案。

佐太夫は承知したが、卜斎はまだ拒絶する。

それなら、金と引き換えに何か品物を佐太夫さまにお贈りになれば、あなたもお気が済むでしょうと、大家が口をきき、それではと、祖父の代からの古い茶碗を渡すことで、金の件は落着。

ところが、この茶碗が細川侯のお目にとまった。

これは「井戸の茶碗」といって世に二つとない名器だからと、佐太夫から三百両でお買い上げになる。

この半分の百五十両を卜斎に届けさせたが、卜斎は佐太夫の誠実さに打たれ、娘をもらってくれるよう、清兵衛を介して申し入れ、佐太夫も承知。

清「あの娘をご新造にして磨いてご覧なさい。大した美人になります」
佐「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

出典:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

もとは講談

もとは講談で、「細川茶碗屋敷由来」を人情噺にしたものです。

「茶碗屋敷」と題した、三代目春風亭柳枝の古い速記(明治24年)が残っていますが、先の大戦後は、古今亭志ん生・志ん朝親子の系統ですね。

志ん朝のは絶品

志ん朝の「井戸の茶碗」は、はっきり言ってすばらしい。絶品です。涙が出ちゃいます。

落語には、オチのある落とし噺とオチのない人情噺、怪談噺があります。

これは、人情噺ですから、本来はオチなどなかったのですが、志ん生はこんなふうにオチをつけています。

オチがあったほうが、聴いているほうも「終わった」という安心感があるものです。

井戸の茶碗とは

「井戸の茶碗」とは、室町時代に朝鮮半島から渡ってきた高麗茶碗の中でもすこぶる有名なもの。奈良の興福寺の井戸氏が所有していたので、こう呼ばれていました。

細川氏は骨董好きな大名で有名なので、不自然な設定ではありません。

高木佐太夫が顔を出して、清兵衛を呼び止める「高窓」というものが登場しますが、これは、「曰窓いわく」ともいい、横桟一本だけがはめられた、武家屋敷の窓です。 

ちょうど、「論語」なんかでおなじみの「子、曰く……」の「曰」の字の形に似ているので、そう呼ばれていました。

江戸詰めの勤番侍

佐太夫のような江戸詰めの勤番侍の住居は、藩邸内の「長屋」で、二階建てが普通でした。

下は中間・小者、上に主人が住んでいます。

行商人からものを買うときには、表通りに面した高窓から声をかけ、そこからざるを下ろして品物を引き上げます。

これは、「石返し」という噺にも登場します。

売卜のこと

ところで、この噺では、易者のことを「売卜」と呼んでいます。

「卜」とは、骨片などを加熱してその割れ方から占うことをいいます。

古代の人は、こんなことで不可視なものを見ようとしていたんですね。

まあ、今では「占」と同じように使っています。

「占卜」とか「卜占」とかいった言葉もありますが、どっちも「占い」の意味です。

しかるに、「売卜」とは、占いを売る。言葉の遊びとはいえ、ちょっとおもしろくありませんか。

「千代田卜斎」とは、「千代田(=江戸)城の堀端で営業中の易者」というだけの意味で、世をしのぶ仮の名前。

本名ではないのでしょうね、きっと。

卜斎先生のような大道の易者は、筋違御門から新橋にいたるまでの大通りに、最も多く出たといいます。

麹町や赤坂、四谷、愛宕下、上野の山下などの繁華街にも出没していたそうです。

山の手が多いのは、易者には卜斎同様に、浪人くずれが多かったためでしょうか。

中には名人もいたでしょうが、卜斎先生の腕のほどは、さあ、わかりません。

麻布谷町

清兵衛がいた麻布谷町は、正式には今井谷町いまいだにまちといい、現在の港区六本木二丁目あたり。アメリカ大使館宿舎の一部になっています。

今はともかく、当時はあまり豊かでない人たちが住んでいました。東京もずいぶんさま変わりしたものです。

正直清兵衛さん

ところで、この清兵衛さん、前々回に取り上げた「もう半分」にちょこっと紹介しています。

「もう半分」に似た因業で悲惨な噺「正直清兵衛」の主人公です。

こっちでは殺されちゃったりして、悲劇のおじさんでしたが、今回は、なかなかの老け役ですね。

こんなふうに、落語のキャラクターは、さまざまな噺に手を変え品を変えて登場するもの。

これも、落語のお楽しみのひとつといえますね。

【もっと知りたい】

3代目春風亭柳枝が「茶碗屋敷」として明治24(1891)年にやった速記では、浪人が高木佐太夫、細川藩士が吉田清十郎とある。

ところが、大正期の 3代目柳家小さんの「井戸の茶碗」では今の形だ。

鶯亭金升の由来譚では、巣鴨の中屋敷が舞台で仏像を買ったのはそこの門番、売ったのは神田裏長屋の夫婦だとか。

今の形に至るまでには若干の異同があったようである。

五代目古今亭志ん生が得意としたが、次男志ん朝の「井戸の茶碗」は絶品だった。

井戸の茶碗とは、興福寺の井戸家が有した高麗渡来の茶碗なのだという。

この説明は噺には出てこない。

聴者は最後まで「井戸の茶碗」の正体を知らずじまい。

それでも別段不満は残らない。おかしな噺である。

登場する者すべてが善人である。

小悪党が憎めない「業の肯定」を尊ぶ落語には珍しい。

もとは「細川茶碗屋敷の由来」という講談だから、無理もない。

ここまでの善意を見せつけられると現代人には奇異にしか思えないものだが、この手の噺は冗長な運びだと目も当てられない。

善意に臭みが漂ってきて、聴いていられなくなるのだ。

志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。

善意の臭さに気づく余裕もなく、千代田卜斎、高木佐太夫、正直清兵衛三者の、すがすがしさが感動を呼んだ。

古木優

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ざっぱい【雑俳】落語演目



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【どんな?】

八五郎がご隠居に雑俳を習う。まずは「初雪」で。
隠「初雪や瓦の鬼も薄化粧」
八「初雪やこれが塩なら金もうけ」 わびさびなし。
「春雨」なら、八「船端をガリガリかじる春の鮫」 ひたすら珍句。

別題:歌根問い 天 初雪 りん廻し[前半] 雪てん[後半]

あらすじ

長屋の八五郎が、横町の隠居の所に遊びに行くと、このごろ雑俳に凝っていると言う。

題を出して五七五に読み込むというので、おもしろくなって、二人でやり始める。

最初の題は「りん」。

隠居が
「リンリンと 綸子りんず繻子しゅすの 振り袖を 娘に着せて ビラリシャラリン」
とやれば、八五郎が
「リンリンと 綸子や繻子はちと高い 襦袢じゅばんの袖は 安いモスリン」

隠「リンリンと リンと咲いたる 桃桜 嵐につれて 花はチリ(=散り)リン」
八「リンリンと リンとなったる 桃の実を さも欲しそうに あたりキョロリン」「リンリンと 淋病病みは 痛かろう 小便するたび チョビリチョビリン」

今度はぐっと風雅に「初雪」。

隠「初雪や 瓦の鬼も 薄化粧」
八「初雪や これが塩なら 金もうけ」

「春雨」では、八五郎の句が傑作。

「船端を ガリガリかじる 春の鮫」

隠居の俳句仲間が来て、この間「四足」の題で出されたつきあいができたという。

「狩人が 鉄砲置いて 月を見ん 今宵はしかと(=鹿と) 隈(=熊)もなければ……まだ天(最秀句)には上げられない」
と隠居が言うと八五郎、
「隠居さん、初雪や二尺あまりの大イタチこの行く末は何になるらん」
「うん、それなら貂(=天)だろう」

底本:初代三遊亭円遊ほか

【RIZAP COOK】

しりたい

雑俳  【RIZAP COOK】

万治年間(1658-61)に上方で始まり、元禄(1688-1704)以後、江戸を初め全国に広まった付け句遊びです。

七七の題の前に五七五を付ける「前句付け」は、「めでたくもあり めでたくもなし」の前に「門松は 冥土の旅の 一里塚」と付けるように。

五文字の題に七七を付ける「笠付け」、五文字の題を折り込む「折句」などがあり、そこから、「文字あまり」「段々付け」「小倉付け」「中入り」「切句」「尽くし物」「もじり」「廻文」「地口」など、さまざまな言葉遊びが生まれました。

  【RIZAP COOK】

俳諧で、句を添削・評価する人を「点者」といい、雑俳では、天・地・人の三段階で判定します。

柳昇の十八番  【RIZAP COOK】

文化13年(1816)刊の笑話本『弥次郎口』中の「和歌」ほか、いくつかの小ばなしを集めてできたものです。

前半で切る場合は「りん廻し」といい、伸縮自在なので、前座噺としてもポピュラーです。

新作落語を得意とした、春風亭柳昇の数少ない古典の持ちネタの一つで、その飄逸な個性で十八番にしていました。

柳昇がこの噺をやったときは、いつも爆笑の渦。

あの高っ調子で鼻に抜けるような「ふなばたを……」は今も耳に残ります。

最後の「大イタチ……」の狂歌は「三尺の」となっている速記もありますが、大田蜀山人(1749-1823)作と伝わっています。



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いまどのきつね【今戸の狐】落語演目

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【どんな?】

向かいのおかみさんの手引きで今戸焼の「狐」作りに励む良輔。
「狐」は賭場を示す隠語。半端に聞き知った遊び人が言い寄って。
「狐はどこで」「戸棚ん中です」
「マヌケめ!骨の寨は」「お向かいです」 

あらすじ

安政の頃。

乾坤坊良斎けんこんぼうりょうさいという自作自演の噺家の弟子で、良輔りょうすけという、こちらは作者専門の男。

どう考えても作者では食っていけないので、ひとつ、噺家に転向しようと、当時大看板で三題噺さんだいばなしの名人とうたわれている初代三笑亭可楽さんしょうていからくに無理に頼み込み、弟子にしてもらった。

ところが、期待とは大違い。

修行は厳しいし、客の来ない場末の寄席にしか出してもらえないので、食うものも食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。

内職をしたいが、師匠がやかましくて、見つかればたちまちクビは必定。

しかし、もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなくなった。

たまたま住んでいたのが今戸で、ここは今戸焼きという、素焼きの土器や人形の本場。

そこで良輔、もともと器用なたちなので、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいた。

良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋こまものやの家がある。

そこのかみさんは千住(通称、骨=コツ)のお女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これもなにか手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ、と強談判こわだんぱん

良輔も承知するほかない。

一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになった。

こちらは中橋なかばしの可楽の家。

師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽のらくが、夜中に寄席でクジを売ってもらった金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人。

博打ばくちに負けてすってんてんにされ、やけになっているところに前座の金を数える音がジャラジャラと聞こえてきたので、これはてっきりご法度はっとの素人博打を噺家が開帳していると思い込み、「これは金になる」とほくそ笑む。

翌朝。

さっそく、可楽のところに押しかけ、
「お宅では夜遅く狐チョボイチ(博打の一種)をなさっているようだが、しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したい」とゆする。

これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだ、と教える。

乃楽から道を聞き出し、今戸までやってきた虎、さっそく、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。

「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」

ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。

「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「まぬけめっ、オレが探してんのは、こつさいだっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

講釈名人の実話

江戸後期の講釈師、乾坤坊良斎(1769-1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。

良斎は神田松枝町かんだまつえだちょうで貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)門下の噺家になり、のちに講釈師に転じた人。

本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談しらこやせいだん」ほかの世話講談をものしました。

この噺は、良斎が初代菅良助(梅沢良助、1769-1860)の名で噺家だったころの体験談を弟子の二代目菅良助(本名不詳、生没年不詳)のこととして創作(あるいは述懐)しているため、話がややこしくなっています。

ちなみに、二代目良助はその後、初代立川談志となった人だとか。

良斎の若い頃なら文化年間(1804-18)ですが、この人が噺家をあきらめ、剃髪して講釈師に転じたのは天保末年(1840年ごろ)といわれます。

長命ではあったものの、もう晩年に近いので、やはり弟子のことにしないと無理が生じるため、噺の舞台は安政期(1854-60)に設定してあります。

志ん生専売の「楽屋ネタ」

明治期の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907)の速記が残っています。

古風な噺で、オチの「コツ」や今戸焼など、現在ではまったくわからなくなっています。

戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)しか演じ手がありませんでした。

志ん生の二人の子息、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-1982)と三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が継承して手掛けていました。

現在でもこの一門を中心に、ホール落語などではごくたまに聴かれます。

落語家自身が主人公になる話はたいへんに珍しく、その意味で、噺のマクラによくある「楽屋ネタ」をふくらませたものともいえるでしょう。

幕末の江戸の場末の風俗や落語家の暮らしぶりの貴重なルポになっているのが取り得の噺です。

志ん生も、一銭のうどんしかすすれなかったり「飯が好きじゃあ噺家になれねえよ」と脅されたりした昔の前座の貧しさをマクラでおもしろおかしく語り、客の興味をなんとかつなげようと苦心していました。

今戸焼

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が得意にした「今戸焼」にも登場します。

起源は天正年間(1573-91)に遡るという焼き物。

土器人形が主で、火鉢や灯心皿も作ります。

狐チョボイチ

単に「狐」、また「狐チョボ」ともいいます。

寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

本来、「チョボイチ」がサイコロ一つ、「丁半」が二つ、「狐」が三つと決まっているので、厳密には「狐チョボイチ」は誤りでしょう。

このバクチ、イカサマや張った目のすり替えが行われやすく、終いには狐に化かされたように、「誰が自分の銭ィ持ってっちゃったんだか、わからなくなっちまいます」(志ん生)ので、この名が付いたとか。

女郎のように人をたぶらかす習性の者を「狐」と呼んだので、噺の内容から、当然この言葉はそれと掛けてあるわけです。

チョボイチは「狸賽」でも登場します。「狐」に狸が化けるわけですね。

寄席くじ

江戸時代の寄席では、中入りの時、前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、前座の貴重な収入源でした。

これも志ん生によると、景品はきんか糖でこしらえた「鯛」や「布袋さま」と決まっていたようで、当たっても持っていく客は少なく、のべつ同じものが出ていたため、しまいには鯛のうろこが溶けてなくなってしまったとか。

コツ

千住小塚原(荒川区南千住八丁目)の異称です。

鈴ヶ森と並ぶ刑場で有名ですが、岡場所(私娼窟)があったことでも名高く、「藁人形」にも登場しました。

刑場から骨を連想し、骨ヶ原(コツガハラ)から小塚原(コヅカッパラ)となったもので、オチに通じる「コツの妻」は、骨製の安物の「さい」と「さい」を掛けた地口じくちです。

この噺、ここがわかっていないとオチで笑えません。

そこで志ん生は、噺の最初に千住を「コツ」と呼んでいたことを入念に話していました。

今戸中橋

いまどなかばし。今戸は、台東区今戸一、二丁目で、江戸郊外有数の景勝地でした。今は見る影もありません。

現在は埋め立てられた今戸橋は、文禄年間(1592-96)以前に架橋された古い橋で、その東詰ひがしづめには文人墨客ぶんじんぼっかくがよく訪れた有名な料亭・有明楼がありましたが、現在は墨田公園になっています。

南詰みなみづめには昭和4年(1929)、言問橋ことといばしが架けられるまで対岸の三囲神社みめぐりじんじゃとの間を渡船でつなぐ「竹屋の渡し」がありました。

中橋は中央区八重洲一丁目。「金明竹」「代脈」「中沢道二」ほかにも登場します。

【語の読みと注】
乾坤坊良斎 けんこんぼうりょうさい
質 たち
糊口をしのぐ ここうをしのぐ
乃楽 のらく
妻 さい

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そばせい【そば清】落語演目



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【どんな?】

そば賭けで金をせしめる清兵衛。
もっとそばを食べて、もうけたい。
草をなめて消化する蛇をまねて、草をぺろり。
すると、そばが羽織を着て座っていた。

類話:蛇含草(上方)

あらすじ

旅商人の清兵衛は、自分の背丈だけのそばが食べられるという、大変なそば好き。

食い比べをして負けたことがないので、もう誰も相手にならないほど。

ある時、越後えちごから信州の方に回った時、道に迷って、木陰で一休みしていると、向こうの松の木の下で狩人が居眠りをしている。

見ると、その木の上で大蛇だいじゃがトグロを巻いていて、あっと言う間もなく狩人を一のみ。

人間一匹丸のみしてさすがに苦しくなったのか、傍に生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめると、たちまち膨れていた腹が小さくなって、隠れて震えていた清兵衛に気づかずに行ってしまった。

「ははん、これはいい消化薬になる」
と清兵衛はほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰った。

これさえあれば、腹をこわさずに、無限にそばが食えるので、また賭けで一もうけという算段。

さっそく友達に、そばを七十杯食ってみせると宣言、食えたらそば代は全部友達持ち、おまけに三両の賞金ということで話が決まり、いよいよ清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。

いやその速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十、五十……。

このあたりでさすがの清兵衛も苦しくなり、肩で息を始める。

体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、少し休憩したいからと中入りを申し出て、皆を廊下に出した上、障子をピタリと閉めさせて、例の草をペロリペロリ……。

いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると、清兵衛の姿はない。

さては逃げだしたかとよくよく見たら、そばが羽織を着て座っていた。

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食いくらべ

有名なのは、文化14年(1817)3月、柳橋の万屋八郎兵衛方で催された大食・大酒コンクールです。

酒組、飯組、菓子組、鰻組、そば組などに分かれ、人間離れのした驚異的な記録が続出しました。

そば組だけの結果をみると、池之端いけのはたの山口屋吉兵衛(38歳)がもり63杯でみごと栄冠。

新吉原の桐屋惣左衛門(42歳)が57杯で2位、浅草の鍵屋長助(45歳)が49杯で3位となっています。

したがって、清兵衛の50余杯(惜しくも永遠に未遂)は決して荒唐無稽こうとうむけいではありません。

これこそデカダンの極北、醤油ののみ比べもありました。

これについては、高木彬光(1920-1995)の短編「飲醤志願」に実態が詳しく描写されています。まさしく死と隣り合わせです。

上方は餅食い競争

類話の上方落語「蛇含草じゃがんそう」は、餅を大食いした男が、かねて隠居にもらってあった蛇含草なる「消化薬」をこっそりのむ設定です。

したがってオチは「餅が甚兵衛(夏羽織)を着てあぐらをかいていた」となります。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、この上方演出をそのまま東京に移植して十八番とし、それ以来、「そば清」とは別に「蛇含草」も東京で演じられるようになりました。

三木助演出は「餅の曲食きょくぐい」が売り物で、「出世は鯉の滝登りの餅」「二ついっぺんに、お染久松相生そめひさまつあいおいの餅」と言いながら、調子よく仕草を交えて、餅をポンポンと腹に放り込んでいきます。

「そば清」の古いやり方

明治期には、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も演じました。

その型を忠実に踏襲した四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)の速記では、清兵衛がなめるとき、「だんだん腹がすいてきたようだ」とつぶやきます。

内臓が溶けつつあるのを、腹の中のそばが溶けたと勘違いしているわけで、笑いの中にも悲劇を予感させる一言ですが、今はこれを入れる人はいないようです。

そばを溶かす草の話

根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)は、『耳嚢みみぶくろ』巻二に「蕎麦そばを解す奇法の事」と題して、荒布あらめ(海藻の一種で食用)がそばを溶かす妙薬であるとの記述を残しています。

真偽のほどはわかりませんが。



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いなせやはんしち【いなせ家半七】噺家

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いなせ家半七師匠は、2023年5月11日(木)0時40分、膵臓がんのため亡くなりました。64歳でした。合掌。

【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1980年5月、五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)に
【前座】1981年11月、春風亭朝吉
【二ツ目】1985年3月、春風亭茶々丸。91年2月、師の没後、春風亭小朝門下
【真打ち】1996年3月、いなせ家半七
【出囃子】昼飯ひるまま
【定紋】光琳蔦
【本名】国本貴久
【生年月日】1959年3月13日-2023年5月11日 膵臓がん 64歳
【出身地】大阪府大阪市
【学歴】山口県立徳山高校→成蹊大学法学部中退
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】政治家めざして温泉博士に。最後の寄席出演は令和5年4月20日の鈴本演芸場でした。

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さんゆうていみよし【三遊亭美よし】噺家



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【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【前座】2019年2月、三遊亭遊吉に、三遊亭美よしで
【二ツ目】2023年3月
【真打ち】
【出囃子】ガイ・イズ・ア・ガイ(江利チエミ)
【定紋】
【本名】村田みゆき
【生年月日】1995年5月10日
【出身地】富山県高岡市
【学歴】近畿大学文芸学部英語コミュニケーション学科 
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は筋トレ、クロスフィット、ヨガ(RYT200取得)、神保町散策。主な職歴はスイミングインストラクター(3-15歳対象)、パティシエ(4年間)、パン屋(生地こね係)、歯科助手



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あいきょう【愛敬】川柳 ことば

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愛敬はこぼれてへらぬ宝也  六十一29

【蛇足】愛敬はこぼれるもので、減るものでもないのでいくらでも。若い女へのご教訓めいた句でしょうか。愛敬は人柄にも通じるようで、悪からぬ印象です。

愛きゃう娘そこからもここからも  十三10

「そこからもここからも」は縁談をさしているのですね。川柳は言外を察する気働きがないとわからないものですが、これも江戸の空気というもの。

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あいがさ【相傘】川柳 ことば

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相傘を淋しく通す京の町  三17

【蛇足】「相傘」は男女が一本の傘をさすこと。相合傘とも。相合傘の男女が歩いていても、穏やかな京の町では誰もひやかさない。江戸では悪口やひやかしの浴びせ倒しがあるから相合傘をするわけで、だいぶ違うものだ、という程度の話。いまは相合傘の男女がいてもひやかしたりはしませんが、昭和40年代までの東京の下町ではひやかしは当たり前でした。ご祝儀です。

相傘はだまって通すものでない  二十27

右の手と左でうまい傘をさし  明七満01

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あい【あい】川柳 ことば



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奥行おくゆきのない呉服屋はあいという  十三31

【蛇足】「あい」は「はい」という応答語。日本橋あたりの大きな呉服屋なら「あーい」と長ったらしくこたえる返事も、奥行きのない小さな店では「あいッ」と短い。それだけのこと。こんな、どうでもよいことでも江戸の人はおもしろがったのですね。

小半日こはんにちいなないてゐる呉服店ごふくだな  八31

こちらは、通行人にまで呼び込もうとしています。高級店じゃありません。新宿や銀座にもその手の店がありました。ある種の風物詩でしたが。



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あいさつ【挨拶】川柳 ことば

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あいさつに女はむだな笑ひあり  二05

【蛇足】いつも笑顔の女性は愛敬があるとされて世間では高評価なのですが、「むだな笑ひ」とはうわべだけの笑いや心にもない笑いのことで、この句はどうやら、飾ったり偽ったりの笑いはよろしくない、と暗に言っているようです。「女は愛敬」が当たり前の、江戸の価値観による句です。

前だれでふきふき内儀おかみあいさつし  宝十三松03

あいさつを内儀はくしで二ツかき  一34

あいさつに困りかんざし差し直し  五22

ちょっとした義理は天気の噂なり  三十七38

世間とどうつきあっていくか。そんなとき、「笑ひ」ばかりか、さまざまな所作が緩衝材になったりちょっとした手助けになったりしてくれるんですね。いまも同じでしょう。

ちなみに、挨拶は仏教語、しかも禅語です。『碧巌録』に載っています。「挨」はおす、「拶」はせまる。師僧と弟子との禅問答の応酬を意味し、これを何度も何度も繰り返します。だから、コミュニケーションの手始めを意味するようになったのですね。どこか厳しさが込められたことばなのですがね。

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