かたぼう【片棒】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

けちの噺。おやじが息子三人に自分の葬式案を語らせる。三者三様に大あきれ。

別題:赤螺屋(上方)

あらすじ

赤螺屋あかにしや吝兵衛けちべえという男。

一生食うものも食わずに金をため込んだが、寄る年波、そろそろ三人の息子の誰かに身代を譲らなくてはならない。

かといって、今のままでは三人の料簡がわからず、誰に譲ったらいいか迷ってしまう。

ある日、息子たちを呼んで、「俺がかりに、もし明日にでも目をつむったら後の始末はどうするつもりか」
と一人ずつ聞かせてもらいたいと言う。

まず、長男。

「おとっつぁんの追善ついぜんに、慈善事業に一万両ほど寄付する」
と言い出したから、おやじ、ど肝を抜かれた。

葬式もすべて特別あつらえの豪華版。

袴も紋付きも全部新規にこしらえ、料理も黒塗り金蒔絵きんまきえの重箱に、うまいものをぎっしり詰め、酒も極上の灘の生一本。

その上、車代に十両ずつ三千人分……。

吝兵衛、ショック死寸前。

「と、とんでもねえ野郎だ、葬式で身上をつぶされてたまるか」

次! 次男。

「お陽気に、歴史に残る葬儀にしたい」
と言いだしたから、おやじはまたも嫌な予感。

案の定、葬式に紅白の幕を飾った上、盛大な行列を仕立て、木遣きやり、芸者の手古舞てこまいに、にぎやかに山車だし神輿みこしを繰り出してワッショイワッショイ。

四つ角まで神輿に骨を乗せて担ぎ出す。

拍子木ひょうしぎがチョーンと入った後、親戚総代が弔辞ちょうじ
「赤螺屋吝兵衛くん、平素粗食に甘んじ、ただ預金額の増加を唯一の娯楽となしおられしが、栄養不良のためおっ死んじまった。ざまあみ……もとい、人生おもしろきかな、また愉快なり」
と並べると、一同そろって
「バンザーイ」

「この野郎、七生しちしょうまで勘当かんどうだっ!!」

次っ! 三男。

「おい、もうおまえだけが頼りだ。兄貴たちの馬鹿野郎とは違うだろうな」
「当然です。あんなのは言語道断ごんごどうだん、正気の沙汰さたじゃありません」

やっと、まともなのが出てきた。

おやじ、跡取りはコレに決まったと安心したが、
「死ぬってのは自然に帰るんですから、りっぱな葬式なんぞいりません。死骸は鳥につつかせて自然消滅。これが一番」
「おいおい、まさかそれをやるんじゃ」
「しかたがないから、まあお通夜を出しますが、入費がかかるから、一晩ですぐ焼いちまいます。出棺は十一時と言っといて八時に出しちまえば、菓子を出さずに済みます。早桶は菜漬けの樽の悪いので十分。抹香まっこうは高いからかんなくず。樽には荒縄を掛けて、天秤棒てんびんぼうで差しにないにしますが、人を頼むと金がかかりますから、あたしが片棒を担ぎます。ただ、後の片棒がいません」
「なに、心配するな。俺が出て担ぐ」

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しりたい

元は上方噺

宝永2年(1705)京都板『軽口あられ酒』巻二の七「きままな親仁」が原話といわれています。

この板本では親仁おやじに名前はありませんが、これが東京に行って「片棒」となると、赤螺屋ケチ兵衛という名前が付きます。

またまた吝兵衛登場!

今回の屋号はあかにしや。「あかにし」は田螺たにしで、金を握って放さないケチを、田螺が殻を閉じて開かないのにたとえたものです。だから、田螺はケチを暗示しているのです。

上方ではケチは当たり前なので、あまりケチ噺は発達しなかったようです。

葬式

この噺にあるように、かつて富裕層の間では、会葬者に、上戸は土瓶の酒、下戸には饅頭、全員に強飯こわめしと煮しめなどの重箱を配ったものです。

ケチ兵衛ほどしみったれていなくとも、ぐずぐずして会葬者が増えれば、それだけ出すものも出さねばならず、経費もかさむ勘定です。

今も昔も、葬儀の費用は馬鹿になりませんが、明治から大正の初期ぐらいまでは、よほどの貧乏弔いでない限り、どこの家でも仰々しく葬列を仕立てて斎場まで練り歩いたので、余計に物入りだったでしょう。

さまざまなくすぐりと演出

笑いが多く、各自で自由にくすぐりを入れられるため、現在もよく演じられますが、全体のおおまかな構成は、三代目三遊亭金馬のものが基本になっています。

戦後では、「留さん」こと九代目桂文治が、自分自身がケチだったこともあって、ことのほか得意にしていました。

会葬者一同の「バンザーイ」や、飛行機から電気仕掛けで垂れ幕が出るギャグ、鳥につつかせる風葬というアイデアも文治のものです。

葬列に山車を繰り出す場面を入れたのは、初代三遊亭銀馬でした。

長男は松太郎、次男を竹次郎、三男梅三郎と、皮肉にも松竹梅で名前をそろえることもあります。

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はまののりゆき【浜野矩随】演目

【どんなはなし?】

彫金職人の一途な噺。元は講釈噺。ものつくりの喜びと哀しみが出ています。

別題:名工矩随

あらすじ

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

浜野矩随  【RIZAP COOK】

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚  【RIZAP COOK】

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家です。若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末  【RIZAP COOK】

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。ところが、五代目志ん生はこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。言うまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた出来だと思います。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋  【RIZAP COOK】

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。久保田万太郎は戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家、俳人です。『浅草風土記』などで有名ですが、久保田を師と仰いだ小島政二郎は『円朝』という作品を残しています。

水垢離  【RIZAP COOK】

神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

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ざっぱい【雑俳】演目

 

【RIZAP COOK】

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

落語と言えば、コレです。おまけつきの俳句で丁々発止のご隠居と八五郎。

別題:りん廻し[前半] 雪てん[後半]

あらすじ

長屋の八五郎が、横町の隠居の所に遊びに行くと、このごろ雑俳に凝っていると言う。

題を出して五七五に読み込むというので、おもしろくなって、二人でやり始める。

最初の題は「りん」。

隠居が
「リンリンと綸子(りんず)や繻子(しゅす)の振り袖を娘に着せてビラリシャラリン」
とやれば、八五郎が
「リンリンと綸子や繻子はちと高い襦袢(じゅばん)の袖は安いモスリン」

隠「リンリンとリンと咲いたる桃桜嵐につれて花はチリ(=散り)リン」
八「リンリンとリンとなったる桃の実をさも欲しそうにあたりキョロリン」「リンリンと淋病病みは痛かろう小便するたびチョビリチョビリン」

今度はぐっと風雅に「初雪」。

隠「初雪や瓦の鬼も薄化粧」
八「初雪やこれが塩なら金もうけ」

「春雨」では、八五郎の句が傑作。

「船端をガリガリかじる春の鮫」

隠居の俳句仲間が来て、この間「四足」の題で出されたつきあいができたという。

「狩人が鉄砲置いて月を見ん今宵はしかと(=鹿と)隈(=熊)もなければ……まだ天(最秀句)には上げられない」
と隠居が言うと八五郎、
「隠居さん、初雪や二尺あまりの大イタチこの行く末は何になるらん」
「うん、それなら貂(=天)だろう」

底本:初代三遊亭円遊ほか

【RIZAP COOK】

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雑俳  【RIZAP COOK】

万治年間(1658-61)に上方で始まり、元禄(1688-1704)以後、江戸を初め全国に広まった付け句遊びです。

七七の題の前に五七五を付ける「前句付け」は、「めでたくもあり めでたくもなし」の前に「門松は 冥土の旅の 一里塚」と付けるように。

五文字の題に七七を付ける「笠付け」、五文字の題を折り込む「折句」などがあり、そこから、「文字あまり」「段々付け」「小倉付け」「中入り」「切句」「尽くし物」「もじり」「廻文」「地口」など、さまざまな言葉遊びが生まれました。

  【RIZAP COOK】

俳諧で、句を添削・評価する人を「点者」といい、雑俳では、天・地・人の三段階で判定します。

柳昇の十八番  【RIZAP COOK】

文化13年(1816)刊の笑話本『弥次郎口』中の「和歌」ほか、いくつかの小ばなしを集めてできたものです。

前半で切る場合は「りん廻し」といい、伸縮自在なので、前座噺としてもポピュラーです。

新作落語を得意とした、春風亭柳昇の数少ない古典の持ちネタの一つで、その飄逸な個性で十八番にしていました。柳昇がこの噺をやったときは、いつも爆笑の渦。あの高っ調子で鼻に抜けるような「ふなばたを……」は今も耳に残ります。

最後の「大イタチ……」の狂歌は「三尺の」となっている速記もありますが、大田蜀山人(1749-1823)作と伝わります。

【RIZAP COOK】

しにがみ【死神】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

古典落語の傑作ですが、元ネタはイタリアやドイツにあるそうです。

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作登場!

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまった(『落語「死神」の世界』西本晃二、青蛙房、2002年)ぐらいです。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が洋学者から聞き、落語に翻案したと言われます。

それはともかく、そこの旦那。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。

美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。

日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとった、やせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死をつかさどる神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味にヒヒヒヒと笑い、登場人物を入水自殺に誘います。

客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

「死神」のやり方

円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

さんゆうていえんらく【三遊亭円楽】噺家

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【芸種】落語
【所属】五代目円楽一門会
【入門】1970年4月、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)に
【前座】1972年3月、楽太郎で
【二ツ目】1976年7月
【真打ち】1981年3月。2010年3月、六代目円楽。2017年6月、落語芸術協会に客員として入会
【出囃子】元禄花見踊り
【定紋】三ツ組
【本名】會泰通かいやすみち
【生没年月日】1950年2月8日-2022年9月30日
【出身地】東京都墨田区
【学歴】青山学院大学法学部
【血液型】A型
【出典】五代目円楽一門会HP 三遊亭円楽Wiki
【蛇足】五代目円楽一門会幹事長 息子は三遊亭一太郎

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しわいや【吝嗇屋】演目

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「しわい」とはケチのこと。ケチもここまできわまると至芸。ケチの達人です。

【あらすじ】

ケチ道をきわめた男。

飯を食う時に、一年間一つの梅干で済ませるという自慢を聞いてせせら笑い、
「まだ修行が足りねえ、オレなら梅干を食わずににらんでいて、口がすっぱくなったところで飯を食う」
とやっつける。

それに挑戦しようという男が現れ、夜訪ねると、先生、明かりも点けない真暗がりで裸で座っている。

「寒くないか」
と聞くと、
「よく見ろ、頭の上から大石を吊るしてあるから、いつ落ちるかと冷や汗をかくので、それで温まる」
と言う。

大変な野郎があるものだと降参して退散しようと、履物を探すからマッチを貸してくれと頼むと
「てめえはそれだからダメだ。目と鼻の間をゲンコツで殴り、その火で探せ」
と言うので、
「そんなことだろうと思って、初めから裸足で来ました」
「オレもそうだろうと思ったから、あらかじめ畳を裏っ返しておいた」

【しりたい】

吝兵衛、しつこく登場!

吝嗇しわい」はもともと上方言葉です。

「しわん坊」「しわいの根っこ」「赤螺屋あかにしや」「六日知らず」「始末屋」などの同義語があります。

ほかに「伊勢屋」ともいいますが、これは、質屋の屋号に多く、質屋はケチが多いと一般的通念の連想から。

落語ではケチの苗字(屋号)が「あかにしや」か「吝嗇屋」、名前を「吝兵衛けちべえ」「吝左衛門けちざえもん」「吝右衛門けちえもん」などとしています。

ケチ噺いろいろ

一席の独立した噺としては「味噌蔵」「死ぬなら今」「位牌屋」「片棒」「あたま山」などがあります。

「吝嗇屋」は、どちらかというと、ケチの小ばなしのオムニバスとも呼べる軽い噺です。

似たような小品に、「二丁ろうそく」「始末の極意」があります。この三席は互いに、内容が一部重複していますが、それぞれにケチぶりを競います。

吝兵衛流「ケチ道実践」

「吝嗇屋」では、以下の噺をよく付け加えます。

●火事で全焼した家におき火をもらってこいと小僧に言いつけ、断られると、
「今度こっちが焼けても、火の粉ひとつやるもんか」

●蒲焼きのにおいで飯をかっこんでいた男が鰻屋にかぎ賃を請求され、金をチャリンとばらまいて
「音だけ持って帰れ」

だそく

本場・大阪のケチ道の極意は、「生き金」を使うことにあり、むやみに節約ばかりするのは「シブチン」「しみったれ」として、かえって軽蔑されるとか。

要するに、五円使ったら十円となって戻るような、有効な投資こそ大切、ということなのでしょう。

西洋では「スコットランド人」がケチの代名詞とされています。

みそぐら【味噌蔵】演目

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驚くべきしみったれが主人公。ここまでくればおみごとです。

あらすじ】 【RIZAP COOK】

驚異的なしみったれで名高い、味噌屋みそやの主人の吝嗇屋しわいや吝兵衛けちべえ

嫁などもらって、まして子供ができれば経費がかかってしかたがないと、いまだに独り身。

心配した親類一同が、どうしてもお内儀かみさんを持たないなら、今後一切付き合いを断る、商売の取引もしないと脅したので、泣く泣く嫁を取った。

赤ん坊ができるのが嫌さに、婚礼の晩から新妻にいづまを二階に上げっぱなしで、自分は冬の最中だというのに、薄っぺらい掛け蒲団一枚で震えながら寝る。

が、どうにもがまんできなくなり、二階の嫁さんのところに温まりに通ったのが運の尽き。

たちまち腹の中に、その温まりの塊ができてしまった。

振りかかった災難に頭を抱えた吝兵衛、番頭に相談すると、臨月が来たらかみさんを腹の赤ん坊ごと実家に押しつけてしまえばいいと言う。

そうすれば費用はみなあちら持ちだと聞いて、ケチなだんなはやっと一安心。

十月十日がたって、無事男子を安産の知らせが届いたので、吝兵衛、小僧の定吉さだきちをお供に出かけることにする。

重箱を定吉に持たせるが、これは、宴席のごちそうをこっそり詰めてくる算段。

出掛けに、もし近所から火事が出たら、商売物の味噌で蔵の目塗めぬりをするよう番頭に言いつける。

これは焼けたのをはがして、奉公人のおかずにするため。

だんなが出かけると、奉公人一同、この機会にのみ放題食い放題、日ごろのうっぷんを晴らそうと番頭に申し出る。

なにしろ、この家では、朝飯の味噌汁が薄くて実なし。

自分の目玉が映っているのを田螺と間違えるほどだから、むりもない。

番頭が、勘定かんじょうは帳面をドガチャカごまかすことに決め、寿司に刺身、鯛の塩焼きに酢の物と、ごちそうをあつらえる。

最後に木の芽田楽をどんどん届けさせることにし、相撲甚句すもうじんく磯節いそぶしと、陽気などんちゃん騒ぎ。

こちらはだんな。定吉が重箱を忘れたので、小言を言いながら戻ってみると、大騒ぎをしている家がある。

ああいうのはだんなの心がけが悪いと言いながらも胸騒ぎがして、節穴からのぞいてみると案の定自分の家。

手代の甚助が、ウチのだんなは外から下駄を拾ってこさせ、焚き付けに使うだの、ドガチャカだのと言いたい放題。

番頭が
「だんながもし途中で帰ったら、鯛の塩焼きを見せれば、だんなは塩焼きはイワシしか知らないから、たまげて人事不省じんじふせいに陥る。寝かせちまって、あとは夢を見たんでしょうとゴマかせばいい」
と言うのが聞こえたから、吝兵衛はカンカン。

ドンドンと戸をたたき
「おい、あたしだ」

一同、酔いもいっぺんに醒め、急いで膳を片づけたがもう遅い。

「この入費は給金からさっ引くから、生涯ただ働きを覚悟しろ。ドガチャカなんぞさせてたまるか」
と怒っているところへ戸をたたく音。

「ええ、焼けてまいりました」

さては火事だと驚き
「どこから焼けました」
「横町の豆腐屋から焼けてまいりました」
「よっぽど焼けましたか」
「二、三丁焼けました。これからどんどん焼けてきます」

これは火足が速いと、慌てて戸を開けると、プーンと田楽でんがく味噌の匂い。

「いけねえ。味噌蔵ィ火が入った」

しりたい】 【RIZAP COOK】

ケチ兵衛再び登場

あたま山」についで「しわい屋風雲録」ともいえるケチ噺。同類には「吝嗇屋」「片棒」「死ぬなら今」「位牌屋」などがあります。

田楽

名前の由来は、中世の田楽法師が、サオの上で踊る形に似ているところから。武士が大小を差した姿を「田楽串」、槍でくし刺しになるのを「田楽刺し」といいました。どちらもその形状からです。

室町時代からあったといわれ、朝廷では、大晦日のすす払いの日に田楽を酒のさかなにする習慣がありました。

木の芽田楽は、山椒の香をきかせたものです。

両国の川開きには、橋の両詰めに田楽売りが屋台を並べました。

ほかの噺では「寄合酒」にも登場します。

演者など

戦後では三代目桂三木助かつらみきすけのが有名でした。

三木助はギャグを現代風につくりかえて大ウケ。「あらすじ」にも取り入れた、
「鯛の塩焼きで人事不省におちいる」
などは、漢語をモダンに使う同師ならではのものです。

門下の入船亭扇橋いりふねていせんきょうが継承しました。

落語通の支持が大きかった八代目三笑亭可楽さんしょうていからくも、だんなが帰ったとき番頭が「幻滅の悲哀を感じる」、責められると「心境の変化で……」など、妙に哲学的なギャグを連発し、どんちゃん騒ぎの場面で三界節の鳴り物を入れて美声を聞かせるなど、全体に地味な演出をカバーして好評でした。

目塗り

火事息子」「鼠穴」にも登場しますが、蔵を防火用に土などで塗り固めることです。

目塗り用に粘土を樽に詰めたものを「用心土」といい、火事の多い江戸ではどこの商店でも必ず常備していました。

味噌で目塗りというのも、非常の場合は実際にあったそうです。

しんぶんきじ【新聞記事】演目

【RIZAP COOK】

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【どんなはなし?】

新聞が新鮮だった時代の噺。前座がよくやります。

別題:阿弥陀が池(上方、改作)

あらすじ】 

あわて者で少しぼーっとした八五郎。

ご隠居のところでバカを言っているうちに、
「おまえ、新聞は読むか」
と聞かれる。

「へえ、月初めに一月分」
「そりゃ古新聞だろ。じゃ、まだ今朝のを見てないな」

急に隠居の声が低くなって、
「おまえの友達の天ぷら屋の竹さんが、昨夜、夜中に泥棒に殺された」
という。

竹さんが寝ていると、枕元でガサガサ物音がするので電気をつけると、身のたけ六尺(180cm)はあろうという大男。

そいつがギラリと日本刀を抜いて、
「静かにしろ」
と脅したが、竹さん、なまじ剣術の心得があるものだから、護身用のかしの棒を取るとピタリと正眼に構えた。

泥棒は逆上して、ドーンと突いてくる。竹さん、ヒラリとかわして馬乗りになり、縛ろうとすると、泥棒がのんでいたあいくちで胸元をグサッ! 

「あっ」
と後ろへのけぞって一巻の終わり。

家は右往左往の大騒ぎで、そのすきに泥棒は逃げ出した。

しかし、悪いことはできないもので、五分たつかたたないうちにアゲられた。

それもそのはず、天ぷら屋……。

なんのことはない、落とし噺でからかわれただけ。

ところが八五郎、これを聞いてすっかり感心し、自分もやってみたくなった。

当の本人の家で
「天ぷら屋の竹が殺されたよ」
とやって、ほうほうのていで逃げ出した。

それでもまだりずに、もう一人のところへ上がり込んだ。

隠居の
「おい、ばあさん、八っつあんが来たよ。茶を出してやんな」
のセリフからそっくり始めたから、
「おい、なんでウチの女房をばあさんにしやがるんだ」
とケンツクを食らわされてミソをつける。

こうなれば、もう乗りかけた船。

強引に殺人事件を吹きまくるが、ところどころおかしくなり、泥棒の身のたけが一尺六寸(48cm)になったり、あいくちが出てこないで包丁になったり、竹さんがヒラリとタイをかわした、のタイが思い出せずに、二つ並んでいる→布袋大黒ほていだいこく恵比寿えびすさま→釣り竿→魚→たいで連想ゲームまでやってのける。

ようやく最後の、五分たつかたたないうちに、というところまで行き着いたが、またも肝心の「あげられた」が出ない。

四苦八苦していると、向こうが先に
「アゲられただろ。天ぷら屋だからな」
とやってしまった。

それを言いたいためだけに連想ゲームまで演じたのだから、立つ瀬がない。

「ところでおめえ、その話の続きを知ってるかい? 竹さんのかみさんが、亭主が死んで、もう二度とだんなは持たないと、尼さんになったてえのは」
「どうして」
「もとが天ぷら屋のかみさんだけに、衣をつけたがらあ」

底本:三代目三遊亭円歌

しりたい】 

上方落語の改作   【RIZAP COOK】

昭和初期、二代目昔々亭桃太郎せきせきていももたろう(1910-70)が「百田芦生ももたあしお」の筆名で作ったものです。

上方の「阿弥陀あみだが池」の改作で、桃太郎は元ネタの後半の筋立てをうまく取り入れ、東京風にすっきり仕上げています。

桃太郎没後は先代柳亭痴楽りゅうていちらくに継承され、ついで三代目三遊亭円歌えんかのレパートリーにもなりました。ギャグも豊富で、筋立てもおもしろいので、最近は若手も手がけるようになりました。

「阿弥陀が池」   【RIZAP COOK】

日露戦争後に初代桂文屋ぶんや(1867-1909)が作ったといわれ、今も上方落語の代表作となっています。

「新聞記事」と筋は似ていますが、ヨタ話のネタの主人公は戦死した将校夫人の尼さん。忍んで来る泥棒が偶然夫の元部下で、それがわかって許しをうと、「おまえが来たのも仏教の輪廻りんね。誰かが行けと教えたのであろう」「阿弥陀が行け言いました」という、尼寺のある場所(阿弥陀が池のほとり)と掛けた洒落話で隠居にだまされる筋立てです。ブンヤがつくったからシンブンキジに似ているわけですね。どおりで。

桃太郎のこと   【RIZAP COOK】

作者である二代目昔々亭桃太郎は柳家金語楼きんごろうの実弟です。本名は山下喜久雄。二十四代目と自称していました。昭和初期から戦後にかけ、「桃太郎さんでございます」という開口一番のフレーズとともに、「桃太郎後日」など自作自演の明るい新作落語で親しまれました。兄弟ともに才能あふれていたのですね。実弟は時折、東条英機に落語を聴かせていたとか。三代目桃太郎が時折高座で話してますが、ホントですかねえ。

噺のカンどころ   【RIZAP COOK】

「おうむと呼ばれる、くり返しの面白さで笑わせるはなしだけに、しこみ、つまり前半の部分の演じ方がむずかしいところなのです」
                                       (三代目三遊亭円歌)

【RIZAP COOK】

けいこや【稽古屋】演目

 

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

音曲噺。高座だと鳴り物入りでやられます。にぎやかで珍しい噺ですね。

別題:稽古所 歌火事(上方) 

あらすじ

少し間の抜けた男、隠居のところに、女にもてるうまい方法はないかと聞きにくる。

「おまえさんのは、顔ってえよりガオだね。女ができる顔じゃねえ。鼻の穴が上向いてて、煙草の煙が上ェ出て行く」

顔でダメなら、金。

「金なら、ありますよ」
「いくら持ってんの」
「しゃべったら、おまえさん、あたしを絞め殺す」
「なにを言ってんだよ」
「おばあさんがいるから言いにくい」
というから、わざわざ湯に出させ、猫まで追い出して、
「さあ、言ってごらん」
「三十銭」

どうしようもない。

隠居、こうなれば、人にまねのできない隠し芸で勝負するよりないと、横丁の音曲の師匠に弟子入りするよう勧める。

「だけどもね、そういうとこィ稽古に行くには、無手じゃ行かれない」
「薪ざっぽ持って」
「けんかするんじゃない。膝突きィ持ってくんだ」

膝突き、つまり入門料。

強引に隠居から二円借りて出かけていく。

押しかけられた師匠、芸事の経験はあるかと聞けば、女郎買いと勘違いして「初会」と答えるし、なにをやりたいかと尋ねてもトンチンカンで要領を得ない。

師匠は頭を抱えるが、とりあえず清元の「喜撰」を、ということになった。

「世辞で丸めて浮気でこねて、小町桜のながめに飽かぬ……」
と、最初のところをやらせてみると、まるっきり調子っ外れ。

これは初めてではむりかもしれないと、短い「すりばち」という上方唄の本を貸し、持って帰って、高いところへ上がって三日ばかり、大きな声で練習するように、そうすれば声がふっ切れるからと言い聞かせる。

「えー、海山を、越えてこの世に住みなれて、煙が立つる……ってとこは肝(高調子)になりますから、声をずーっと上げてくださいよ」
と細かい指示。

男はその晩、高いところはないかとキョロキョロ探した挙げ句、大屋根のてっぺんによじ登って、早速声を張り上げた。

大声で
「煙が立つゥ、煙が立つーゥ」
とがなっているので、近所の連中が驚いて
「おい辰っつあん、あんな高え屋根ェ上がって、煙が立つって言ってるぜ」
「しようがねえな。このごろは毎晩だね。おーい、火事はどこだー」
「煙が立つゥー」
「だから、火事はどこなんだよォー」
「海山越えて」
「そんなに遠いんじゃ、オレは(見に)行かねえ」

底本::五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

音曲噺  【RIZAP COOK】

おんぎょくばなし。「おんぎょく」と濁ります。この噺は、今は絶滅したといってもいい、音曲噺の名残りをとどめた、貴重な噺です。

音曲噺とは、高座で実際に落語家が、義太夫、常磐津、端唄などを、下座の三味線付きでにぎやかに演じながら進めていく形式の噺です。

したがって、そちらの素養がなければ絶対にできないわけで、今残るのは、この「稽古屋」の一部と、六代目三遊亭円生が得意にした「豊竹屋」くらいのものでしょう。

昔の寄席には「音曲師」という芸人が大勢いて、三味線を片手に、渋い声でありとあらゆる音曲や俗曲をおもしろおかしく弾き語りしていたもので、音曲噺というジャンルも、そうした背景のもとに成立したものです。

明治・大正の頃までは、演じる側はもちろん、聞く客の方も、大多数は稽古事などを通して、長唄や常磐津、清元などが自然の教養として日常生活に溶け込んでいたからこそ、こうした噺を自然に楽しめたのでしょうね。

上方の「稽古屋」  【RIZAP COOK】

発端の隠居とのやりとりは、上方で最も多く演じられてきた「稽古屋」から。初代桂春団治が得意にしました。

主人公でアホの喜六(東京の与太郎)が稽古所へ出かけるまでの大筋は同じですが、大阪のは隠居(甚兵衛)や師匠とのやりとりにくすぐりが多く、兄弟子の稽古を見ているうちに、子供の焼イモを盗み食いするなどのドタバタのあと、「稽古は踊りだすか、唄だすか」「どっちゃでもよろし。色事のできるやつを」「そんなら、私とこではできまへん」「なんで」「恋は指南(=思案)のほかでおます」と、ダジャレオチになります。

東京では春風亭小朝がこのやり方で演じます。

「稽古所」  【RIZAP COOK】

次の「喜撰」を習うくだりは、東京でも演じられてきた音曲噺で、別題「稽古所」。オチはありません。

最後の屋根に上がってがなるくだりからオチまでは、明治末に四代目笑福亭松鶴が上京した際、「歌火事」と題して演じたものです。これは、戦後初代桂小南、ついで二代目桂小文治が「稽古屋」として、松鶴のやり方で東京で演じました。

以上三種類の「稽古屋」を、最後の「歌火事」を中心に五代目古今亭志ん生が一つにまとめ、音曲噺というより滑稽噺として演じました。今回のあらすじは、その志ん生のものをテキストにしました。これが、子息の古今亭志ん朝に継承されていたものです。

バレ噺の「稽古屋」  【RIZAP COOK】

もう一つ、正体不明の「稽古屋」と題した速記が残っています。こんな噺です。

常磐津の師匠をめぐって二人の男が張り合い、振られた方が、雨を口実に強引に泊まり込んだ上、暗闇にまぎれて情夫になりすまし、師匠の床に忍び込んでまんまと思いを遂げます。最後はバレますが、とっさに二階から落ちて頭を打ったことにしてゴマかし、女の母親が「痛いのなら唾をおつけなさい」と言うと、「はい、入れるときつけました」と卑猥なオチになります。

むろん演者は不明で、音曲の場面もなく、たぶん大正初年にできたバレ噺の一つと思われます。

音曲の師匠  【RIZAP COOK】

ここに登場するのは、義太夫、長唄、清元、常磐津と、なんでもござれの「五目の師匠」。

今はもう演じ手のない「五目講釈」という噺もありますが、「五目」は上方ことばで「ゴミ」のことで、転じて、いろいろなものがごちゃごちゃ、ショウウインドウのように並んでいるさまをいいます。

こういう師匠は、邦楽のデパートのようなもので、よくある、鰻屋なのに天丼もカツ丼も出すという類の店と同じく、素人向きに広く浅く、なんでも教えるので重宝がられました。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

たらちね【垂乳根】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

上方由来のおとしばなしの代表格。笑っちゃいますね。

別題:延陽伯(上方)

【あらすじ】

長屋でただ一人の独り者の八五郎のところに、大家が縁談を持ちかけてきた。 年は十九で、近所の医者の姪だという。 器量は十人並み以上、夏冬の着物もそろえているという、まことに結構な話。 結構すぎて眉唾なくらい。 「そんな女が、あっしのような男のところへ来るわけがない。なんか、疵でもあるんじゃないですか」 「ないと言いたいが、たった一つだけある」 もとは京の名家の出で、言葉が女房言葉。 馬鹿丁寧すぎてまるきりわからないという。 この間も、目に小石が入った時「ケサハドフウハゲシュウシテ、ショウシャガンニュウス」つまり「今朝は怒風激しゅうして、小砂眼入す」と、のたもうたそうな。 そんなことはなんでもないと八五郎が承諾したので、その日のうちに祝言となった。 なるほど美人なので、八五郎は大喜びだが、いざ話す段になると、これが相当なもの。 名を聞くと 「そも我が父は京都の産にして姓は安藤名は慶三あざなを五光、母は千代女と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢を見てはらめるがゆえに、たらちねの胎内を出でしときは鶴女と申せしがそれは幼名、成長の後これを改め清女と申しはべるなぁりいー」 「ナアムミョウ、チーン、ご親類の方からご焼香を」 これではかみ合わない。 ネギが一文字草、米はしらげと、通訳がいるくらい。 朝起きれば起きたで 「アーラ、わが君、しらげのありかはいずこなりや」 頼むから、そのアーラワガキミてえのはやめてくれと言っているところへ、葱屋がやって来た。 「こーれ、門前に市をなすあきんど、一文字草を朝げのため買い求めるゆえ、門の敷居に控えておれ」 「へへへー」 ようやく味噌汁ができたが、 「アーラわが君。日も東天に出御ましまさば、うがい手水に身を清め、神前仏前へ燈灯(みあかし)を備え、御飯も冷飯に相なり候へば、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹言」 「飯を食うのが恐惶謹言なら、酒ならよって(=酔って)くだんの如しか」

【しりたい】

女房言葉

宮中の女官が用いた言葉です。代表的なものに「かもじ」=髪、「いしいし」=団子、「おすもじ」=寿司、「うちまき」=米、「あか」=小豆、「こもじ」=鯉、「しゃもじ」=杓子などがあります。

たらちね

垂乳根と書き、「母」に掛かる枕詞です。父の枕詞は「たらちを(垂乳男)」です。

東西の演出

大阪の「延陽伯」が東京に移されたものです。大阪では、女は武家娘という設定なので、漢語をやたらに使いますが、東京では京女ということで、女房ことばや京ことばを使うことになっています。

求む!暗号(-)解読

明治27年(1884)4月の「百花園」誌上に掲載された四代目橘家円喬の速記では、女の珍言葉の部分がさらに長く、「天は梵天地は奈落比翼連理とどこまでも……」などとありますが、まったく解読不能なのが、「せんにせんだんにあって是を学ばざれば 金たらんと欲す」(原文通り) というフレーズです。どなたか、意味のおわかりになる方がおられましたら、当サイトまでお知らせいただけれ幸いです。 さてさて、「落ちこぼれ古典教師」さんが「正解」案を提供してくださいました。深謝。

続編「つる女」

大阪では、「つる女」という「たらちね」の後日談があります。今はもう、誰も演じ手はないようですが。 なかなか言葉が普通にならない細君が、大家の夫婦喧嘩の仲裁に入り、「御内儀には白髪秋風になびかせたまう御身にて、嫉妬に狂乱したまうは、省みて恥ずかしゅうは思し召されずや。早々にお静まりあってしかるべく存じたてまつる」とケムに巻き、火を消します。 「どないして急にピタリと治まったんやろ?」 「つる(鶴女=東京の清女)の一声」

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

はつてんじん【初天神】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

悪ガキの上手をいく、ピンボケな、すれたおやじ、熊五郎の噺です。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では柳家小三治、三遊亭円弥、上方では桂米朝でしたが、六代目松鶴から継承した笑福亭仁鶴も得意としていました。オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

めぐろのさんま【目黒のさんま】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

おなじみのお噺ですが、ここでは少々古い型を紹介します。

あらすじ】

雲州うんしゅう松江藩十八万石の第八代藩主、松平出羽守斉恒なりつね月潭公げったんこうとも呼ばれ、文武両道に秀でた名君だけあり、在府中は馬の遠乗りを欠かさない。

ある日、早朝から、目黒不動尊参詣を名目に、二十騎ほどを供に従え、赤坂御門内の上屋敷から目黒まで早駆けした。

参詣を終えたが、昼時には間があるので、あちらこちらと散歩。

いつしか目黒不動の地内を出て、上目黒辺の景色のいい田舎道にかかった時、殿さま、戦場の訓練に息の続くまで駆け、自分を追い抜いた者は褒美を取らすと宣言。

自分から走り出したので、家来どもも慌てて後を追いかける。

ところが、腰に大小と馬杓を差したままだから、なかなかスピードが上がらない。

結局、ついて来れたのは三人だけ。

雲州公、松の切り株に腰を下ろして一息つき、遅れて着いた者に小言を言ううち、にわかに腹がグウと鳴った。

陽射しを見ると、もう八ツ(午後二時)過ぎらしい。

その時、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきた。

殿さまのこと、下魚のサンマなどは見たこともない。

家来に、「あれは何の匂いじゃ」とご下問になる。

「おそれながら、下様でさんまと申し、丈は一尺ほどで、細く光る魚でございます。近所の農家で焼いておると存じます」
「うむ、しからば、それを求めてまいれ」
「それは相かないません。下様の下人どもが食します魚、俗に下魚と称しますもの。高位の君の召し上がるものでは」
「そのほうは、治にいて乱を忘れずの心がけがない。もし戦場で敗走し、何も食うものがないとき、下様のものとて食わずに餓死するか。大名も下々も同じ人。下々が食するものを大名が食せんということはない。求めてまいれ」

家来はしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、あばら家で農民の爺さんが五、六本串に刺して焼いている。

これこれで、高貴なお方が食したいとの仰せだから、譲ってくれと頼むと、爺さん、たちまち機嫌が悪くなり、「人にものを頼むのに笠をかぶったまま突っ立っているのは、礼儀を知らないニセ侍だから、そんな者に意地でもやれねえ」と突っぱねる。

殿さまが名君だけに分別のわかった侍だから、改めて無礼を詫び、やっと譲ってもらって御前へ。

松江公、空腹だからうまいのうまくないの。

これ以来病み付きになり、屋敷内に四六時中もうもうと煙が立ち込めるありさま。

しまいには江戸中のさんまを買い上げた。

それではあきたらず、朋輩の諸大名に、ことあるごとにさんまの講釈を並べ立てるから、おもしろくないのは黒田候。

負けじと各地の網元に手をまわして買いあさったが、重臣どもが「このように脂の多いものを差し上げては」と余計な気をまわし、塩気と脂を残らず抜いて調理させたから、パサパサでまずいことこの上ない。

怒った黒田候、江戸城で雲州公をつかまえ、あんなまずいものはないと文句を言う。

「して貴殿、いずれからお取り寄せになりました」
「家来に申しつけ、房州の網元から」
「ああ、房州だからまずい。さんまは目黒に限る」

出典:禽語楼小さん

しりたい

元サムライの殿さまばなし   【RIZAP COOK】

古くからよく知られた噺です。

「サンマは目黒に限る」というオチは、落語をご存知ない方でも、一度は耳にされたことがおありでは? もちろん、現在でも前座から大看板まで、頻繁に口演されます。

ここでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の、明治24年(1891)の速記を元にあらすじを構成しました。

二代目禽語楼小さんは明治中期まで活躍した噺家です。延岡の内藤藩士という、れっきとしたサムライでした。それだけに、「目黒のさんま」ばかりか、「将棋の殿さま」「そばの殿さま」などの殿さまばなしなら、右に出る者はいなかったとか。この噺も、小さんが原型を作ったと言ってよく、大筋の演出は現行とそうは違いません。

ただ、オチで小さんが「房州の網元から」としているのを、現在では「日本橋の魚河岸」となるなど、細部はかなり変わっています。

殿さまの正体   【RIZAP COOK】

演者によってもっとも大きく分かれるのが、殿さまのモデルです。

二代目小さんのように雲州公とする場合と、三代将軍家光公とする場合があります。

たとえば、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は家光公で演じ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)や、門下の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)は殿さまを特定していません。

目黒一帯は将軍家のお狩場だったところで、家光公が鷹狩りの途中、偶然立ち寄ってサンマを食し、たいへん気に入ったという伝説があります。

雲州公で演ずる場合、二代目小さんは第八代松江藩主・松平斉恒としていますが、以後は現在まで、その父で茶人や食通として名高く、出雲にそばを移植したので有名な、不昧公ふまいこう治郷はるさと(1751-1818)としています。

演出によっては、家来が爺さんともめているところへ、殿さまがニコニコして現れ、「許せよ」と丁重に頼むので、爺さんが機嫌を直すやり方もあります。

もっとも、これは「ただの殿さま」の雲州公だからよいので、将軍家が来てこんなにゴネればハリツケものでしょう。

目黒不動とサンマ   【RIZAP COOK】

「目黒のお不動さま」は、現在の東京都目黒区下目黒三丁目の瀧泉寺りゅうせんじ(天台宗、泰叡山)境内にあります。目黒不動尊で、江戸の五色不動の一つ。家光も鷹狩りに来ています。歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」のせりふにも「金竜山の客殿から目黒不動の尊像まで」とあり、江戸の人々にとっては行動範囲の南限だったようです。

そのあかしに、境内では富くじの抽選が催されました。わざわざここまで当たりを見に来たわけです。湯島天神、谷中天満宮とともに江戸三大突き富といわれました。

この噺の爺さんがいた「爺が茶屋」がどこにあったのかは、諸説あって不明です。

サンマはその短刀に似た形から、通称九寸五分。江戸に入荷するのは、九十九里沖で獲れたものがほとんどでした。輸送の関係で生のものはなかなか出回らず、干物で売られることが多かったのです。

この噺でも、重臣たちが心配するように脂が多いものなので、労働量の多い農民や、町人でも、馬喰ばくろうなどの肉体労働者に好まれました。

「また築山を見ようか」   【RIZAP COOK】

以下は榎本滋民えのもとしげたみ(1930-2003)の『殺し文句の研究』から。

十代目金原亭馬生が好演した「目黒のさんま」をはじめとして、落語に登場する殿さまは、わがままで下情に暗く苦労知らずと、相場はきまっているが、単純に偏向した戯画化ばかりではないのが、さすがにエスプリのきいた話芸である。最高級魚の鯛など、食べあきていて、ひと箸ほどしかつけないから、勝手元不如意の節、不経済な残りを出さないように、御膳番は仕入れを少なくしている。ところが、たまには御意に召すことがあり、ひと箸つけただけで、「代わりをもて」と命じる。そんなときに限って、あいにく一匹の余分もない。近習がさそくの機転で、築山の美景の鑑賞を促し、殿さまが目をやったすきに、皿の鯛を裏返して、お代わりをと言上する。またひと箸つけた殿さま、さらに御意に召してか、また「代わりをもて」。さあ、もうあとがない。近習が苦悶していると、殿さまは涼やかに、「いかがいたした。また築山を見ようか」。ちゃんと下情をお見通しだったのである。ときには、知らないふりをしなければならないのも、統率者のたしなみの一つだし、部下の手抜きの指摘に当たっては、微笑をたたえたおうようさが好もしい。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

これは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の長男、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)のエスプリでした。さすがですなあ。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

ごにんまわし【五人廻し】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

明治の噺。古典落語とは関東大震災以前の作品のことなんですね。

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁おいらんが一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎ぎゅうの喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履ぞうりの音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」

その一言に、男が気色けしきばんだ。

「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門おおもんくぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和げんな三年に庄司甚右衛門しょうじじんえもんてえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町ふきやちょうにあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原もとよしわら、こっちを新吉原しんよしわらといったてぇんだ。わかったか。土手どてから見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町なかのちょうだ。まず左手に伏見町ふしみちょうだ。その先は江戸町えどちょう一丁目、二丁目、それから揚屋町あげやちょう角町すみちょう、奥が京町きょうまち一丁目、二丁目。これが五丁町ごちょうまちってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋じょうろやが何軒、大見世おおみせが何軒、中見世ちゅうみせが何軒、小見世こみせが何軒あって、どこの見世は女郎じょうろが何人で、どこの誰が間夫まぶにとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名げんじなから本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間たいこもちが何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋だいやの数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻すいどじりにある犬のくそだってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、はなからニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心かっけしょうしん、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」

喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈しりんじんじん空空寂寂くうくうじゃくじゃく閨中寂寞けいちゅうじゃくまくとやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房けいぼう中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛もくべえ旦那の部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭の様子を今に伝える、貴重な噺です。「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。

廓噺と初代小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本しゃれぼんの流れを汲み、かつては数多く作られ演じられましたが、現在では一部の噺を除いてすたれました。洒落本は、遊郭を舞台にして「通人つうじん」についておもしろおかしく描いた読み物です。18世紀後半に流行しました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。

歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺くるわばなしを伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通はんかつう田舎大尽いなかだいじん(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫まぶということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日いっかに解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管きせるを突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

新吉原の図

新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。

新吉原

甚助

甚助じみていけねえ。

この噺には、そんなフレーズが登場します。吉原ならではの言葉です。「甚助じんすけ」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。②とは少々異なります。「甚助」はほかの噺にも出てきます。

【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

さんまいぎしょう【三枚起請】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

どんなはなし?

性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原の女郎に入れ揚げて家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

品川から吉原に住み替えてきた女だった。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

年季ねんが明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の牛王ごおうの宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模どぞうさがみ(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

1958年の映画『幕末太陽傳』で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉本人(石原裕次郎)。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。「住み替え」とは、芸者、遊女、奉公人などが主家を替えることをいいます。

明治5年の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

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【三枚起請 古今亭志ん朝】

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すどうふ【酢豆腐】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

町内の若い衆が暑気払いに一杯やろうとするが、金がない。

与太郎が、一晩釜の中に放り込んだ豆腐の残りがあると。腐ってる。

通りがかりのキザな若旦那に「舶来物」と言ってこれを食わせようと。

若旦那、鼻をつまみながら「乙でげす」と喜んで食べた。

江戸から上方へ上がって「ちりとてちん」に。キザを茶化す悪ふざけが過ぎます。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若旦那。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若旦那ァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若旦那、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若旦那、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若旦那、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若旦那、恐れ入りました。ところで、これは、なんてエものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

若旦那は半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差の旦那衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の『大通法語』に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の『文藝倶楽部』に掲載された初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の速記から、若旦那の洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げエせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫(赤塚藤雄、1935-2008)のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、古今亭志ん朝(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意としました。志ん朝の若旦那は嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別の演出で、石鹸を食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)から、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)に伝わっていました。「あくぬけ」のオチは、「若旦那、それは石鹸で……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)門下だった初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。

大阪に移植され、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)も得意にしました。

東京では、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)などがこちらの型で演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

【語の読み】
乙 おつ:いいことも悪いことも
簪 かんざし
江戸生艶気樺焼 えどうまれうわきのかばやき
拙 せつ:わたし

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

たこぼうず【蛸坊主】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

お坊さんが登場する噺。ちょっと珍しいですかね。

【あらすじ】

不忍池の端にある料理屋、景色はよし味はよし、器もサービスも満点で大評判。

ある日、坊さんの四人組が座敷にどっかと上がり込んだ。

「われわれは高野一山の修業僧だが、幼少の折から戒律堅固に過ごしているから、なまぐさものは食らわない、精進料理を出してくれ」
と注文する。

出された料理に舌鼓を打っていた四人、急に主人を呼び出し、料理や器をほめた後、このお碗の汁はおいしいが、出汁はなにを使っているかと、尋ねる。

「はい、世間さまではよく土佐とおっしゃいますが、てまえどもでは親父の代から、薩摩を使っておりますので」
「はあ、そりゃいったい、なんのことで?」
「鰹節の産地でございます」

鰹節とは何で作るのかと重ねて問われて、主人は青ざめたが、もう遅い。

「とんだことで、ご勘弁を願います」
と平謝りし、
「すぐに清めの塩を持ってこさせ、昆布の出汁で作り直させます」
と言い訳しても、坊さん四人はいっかな聞かない。

かえって居丈高になり、
「魚類の出汁を腹の中へ入れてしまっては、口などすすいでも清まるものではない。われわれ四人は戒律堅固に暮らしていたのが、この碗を食したために修業が根こそぎだめになった。もう高野山には帰れないから、この店で一生養ってもらう」
と、無理難題。

新手のゆすりとわかった時には、もう手遅れ。

坊さんは寺社奉行のお掛かりで、町奉行所に訴えてもどうにもならない。

困り果てていると、向こうの座敷で食事をしていた、鶴のように痩せた老僧がこれを聞きつけた。

主人を呼んで、
「愚僧が口を聞いて信ぜよう」
と申し出たので、主人は藁にもすがる思いで頼む。

ほかの座敷の町人連中、
「なにやら坊さんが四枚そろったが、けんかになりそうだから、ドサクサに紛れて勘定を踏み倒しちまおう」
と、ガヤガヤうるさい。

老僧、四人の座敷へおもむくと、
「料理をうまくしたいという真心がかえって仇となったので、刺し身を食らっても豆腐だと思えば修業の妨げにはなりますまい」
と、おだやかに説くが、四人は相手にしない。

老僧、急に改まって
「最初から高野一山の者とおっしゃるが、貴僧たちはこの愚僧の面体をご存じか」

知らないと答えると、大音声で
「あの、ここな、いつわり者めがッ」
(芝居がかりで)「そも高野と申す所は、弘仁七年空海上人の開基したもうところにして、高野山金剛峯寺と名づけたる真言秘密の道場。諸国の雲水一同高野に登りて修業をなさんとする際、この真覚院の印鑑なくして足を止めることができましょうや。高野の名をかたって庶民を苦しめるにせ坊主、いつわり坊主、なまぐさ坊主、蛸坊主」
「これ、蛸坊主と申したな。そのいわれを聞こう」
「そのいわれ聞きたくば」
と、四人が取りついた手を振り払い、怪力で池の中にドボーン。片っ端から放り込んでしまった。

四人とも足を出して、池の中にズブズブズブ。

「そーれ、蛸坊主」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【うんちく】

東京では彦六 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、本来は純粋な上方落語です。

明治以来、大阪方が「庇を貸して母屋を乗っ取られた」演目は数多いのですが、この噺ばかりは、東京はほんのおすそ分けという感じです。

桂米朝、露の五郎兵衛、桂文我ほか、レパートリーとしているのは、軒並み西の噺家。

東京では、八代目林家正蔵(彦六)が、かつてこの噺を得意にしていた大阪の二代目桂三木助(1884-1943)に習い、舞台を江戸に移して演じたのみです。正蔵の口演は映像が残されているので、古格の芝居噺の型を、今も偲ぶことができます。

あまりおもしろい噺ではないうえ、後半は鳴り物入りで芝居噺となる古風さも手伝ってか、正蔵没後は東京では今のところ、継承者がいません。

舞台設定はいろいろ 【RIZAP COOK】

二代目三木助は、大坂茶臼山ちゃうすやま(大坂の陣の古戦場)の「雲水」という普茶料理ふちゃりょうりの店を舞台としていました。これが、上方の古い型だったのでしょう。

正蔵は、ここに紹介したように、上野不忍池のほとりとし、店の名は特定していません。でも、幕末の池之端あたりには、この噺に登場するような大きな料亭が軒を並べていました。

「不忍池にすると、上野(=寛永寺)の宗旨は天台ですから、そこへ真言の僧が来るのはおかしいということになりますが、これはまァ見物にでも来たとすれば、そう無理はないと思います」
という、正蔵の芸談が残っています。

場所一つ設定するのも、いいかげんにはできないもののようです。

上方でも、桂米朝は、舞台を生玉神社近くの池のほとり、老僧の名を「修学院」としていました。

雲水 【RIZAP COOK】

一般には、托鉢たくはつしながら旅の修行を続ける禅宗系の僧侶をさします。ここでは、老僧の言葉にあるように、高野聖こうやひじりと呼ばれる諸国修行の真言僧です。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

しかせいだん【鹿政談】演目

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  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

春日大社の鹿は神の使いなので、殺した者は死罪の掟。

正直者の豆腐屋、店のキラズを食べる鹿を犬と見間違えてぶんなぐった。

神鹿は死んでしまい、豆腐屋はお縄となり、裁きとなる。

名奉行、鹿の死骸を見て「角がない。これは犬か。一同どうじゃ」……。

落協を抜けて間もない円生が早稲田祭で。いやあ、聴き惚れました。

もっと知りたい方は以下をお読みください。

【あらすじ】

奈良、春日大社かすがたいしゃの神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子いしこ詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文ごかんもんの罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺こうふくじ東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛しょうじきろくべえという男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口でなにやら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばったやつをピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿しんろく

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹ほうたん、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代もくだい(代官)の塚原出雲つかはらいづもの屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全りょうぜんの連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守ねぎしひぜんのかみの取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

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【しりたい】

上方落語を東京に移植    【RIZAP COOK】

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守まつのかわちのかみ」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生十八番

東京では戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしたほか、音曲に長けた七代目橘家円太郎(有馬寅之助、1901-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)も手がけ、もともとの本場上方では、戦後は三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。オチは普通、東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守    【RIZAP COOK】

根岸肥前守は根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)のこと。名奉行ながらすぐれた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢みみぶくろ』の著者としても有名です。最近では、風野真知雄かぜのまちお「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。根岸肥前守は「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿    【RIZAP COOK】

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当(統括)である興福寺の私法でした。ただし、石子詰めは江戸時代には行われていません。春日大社と興福寺は神仏習合でセットの宗教施設です。しかも、藤原氏の氏社で氏寺。鹿島神宮も藤原氏の氏社でした。

江戸幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置いていました。歴代奉行が、興福寺と事を構えるのを嫌いました。この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

どうでもよい話ですが、春日神社の鹿の数と燈籠とうろうの数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

ちなみに、春日大社の鹿は、常陸国ひたちのくに(茨城県)一宮いちのみや鹿島神宮かしまじんぐうにいる鹿を連れてきたことが知られています。8世紀、藤原氏が春日大社を創建する際、鹿島神宮を勧請かんじょう(分霊を迎える)し、神鹿も約1年かけて陸路、奈良まで運んだそうです。途中、亡くなった鹿を葬った地が鹿骨ししぼね(東京都江戸川区)と名づけられたりもしました。これも知られた話です。

鹿島神宮の不思議

鹿島神宮の神宮とは、天皇家とかかわりを持つ神社をさします。律令の細則を定めた延喜式えんぎしき神名帳しんめいちょうに記された神社を「式内社しきないしゃ」と呼び、今でも高い地位にありますが、ここに記された神宮は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社のみです。熱田神宮、橿原神宮、平安神宮、明治神宮などは後世のものです。となると、鹿島神宮と香取神宮の存在意義は、辺地にありながら、がぜん重要視されてきそうですね。なぜなのでしょう。

春日大社も興福寺も藤原氏の氏社氏寺でした。春日大社が祀るのは建御雷神たけみかづちのかみで、鹿島神宮からの勧請です。中臣なかとみ氏の氏神うじがみです。中臣鎌足なかたみのかまたりが死の直前に天智てんじ天皇から藤原姓を賜っています。奈良に鹿島の神鹿を連れてきたのは、そんなところとかかわりがありました。すべての中臣氏が藤原氏になったのではなく、鎌足の系統だけでした。中臣氏は忌部いんべ(斎部)氏と同じく、神事や祭祀を受け持った中央豪族です。

根岸肥前守の子孫    【RIZAP COOK】

幕末の時期ですが、根岸鎮衛ねぎしやすもりの曽孫に根岸衛奮ねぎしもりいさむ(1821-76)という人物がいました。この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの3年間、奈良奉行を務めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。

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  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

とうなすやせいだん【唐茄子屋政談】演目

【RIZAP COOK】

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

どんなはなし?

吉原遊びが過ぎて勘当された若旦那の徳三郎を、相手にする者はいない。

吾妻橋で身投げのすんで、叔父さんに助けられ、唐茄子を売り歩くことに。

長屋衆の同情でたちまち売れて、残った唐茄子は二個。

その帰途、裏長屋のひもじい母子に唐茄子と売上をくれてやった……。

放蕩の果てに噛みしめた人の情け。お楽しみはこれからかもね。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

もっと知りたい方は以下をお読みください。

【あらすじ】

若旦那の徳三郎とくさぶろう

吉原の花魁おいらんに入れ揚げて家の金を湯水ゆみずのように使うので、親父も放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当かんどうだと言い渡される。

徳三郎は、蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道てんとさま(太陽)と米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だ、とていよく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと
「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」
と、ケンもほろろ。

もう土用どようの暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立ちでずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所ほんじょ達磨横丁だるまよこちょう大家おおや(管理人)をしている叔父おじさん。

止めようとして顔を見るとおいの徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道さまはついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を、叔父さんは
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒てんびんぼうをかつがせると、
「弁当は商いをした家の台所を借りて食え」
と教えて送りだす。

炎天下、徳三郎は重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町たわらまちまで来ると、石につまづき倒れて、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋あいながやの者たち(同じ長屋の住人)に売りさばいてくれ、残った唐茄子はたった二個。

礼を言って、売り声の稽古けいこをしながら歩く。

吉原田圃たんぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店せいがんじだな

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当をつかっている(食っている)と、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元武士で、今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされない、という。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いた叔父さん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家いんごうおおやに出くわし、金を店賃たなちん(家賃)に取られてしまった、という。

八百屋さんに申し訳ない、と女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青緡五貫文あおざしごかんもん褒美ほうび

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生



しりたい

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、二代目円朝)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)という、三遊派と柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の三代目小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若旦那の唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)は手がけず。現在、柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女がそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌じょうぜつで、徳がおやじの愚痴ぐちをひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あずまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

きしゅう【紀州】演目

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

次の将軍は紀州侯か尾州侯か。

登城の駕籠で鍛冶の槌音を「テンカトル」と聴いた尾州侯。

これは瑞兆と思いきや、将軍は紀州侯に。

悔しがる尾州侯、帰りに鍛冶屋の前を通ると……。

据え膳は食うにかぎる、というご教訓なんでしょうかね? 

別題:槌の音

もっと知りたい方は以下をお読みください。

【あらすじ】

七代将軍家継が幼くして急死し、急遽、次代の将軍を決めなければならなくなった。 候補は尾州侯と紀州侯。 どちらを推す勢力も譲らず、幕閣の評定は紛糾。 ある朝、尾州侯が駕籠で登城する途中、遠くから鍛冶屋が 「トンテンカン、トンテンカン」 と槌を打つ音。 それが尾州侯の耳には 「テンカトル、テンカトル」 と聞こえた。 これは瑞兆であるとすっかりうれしくなったが、最後の大評定の席では、大人物であることをアピールしようと、 「余は徳薄く、将軍の任ではない」 と辞退してみせる。 むろん、二度目に乞われれば、 「しかしながらァ、かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万民のため……」 ともったいぶって受ける算段。 ところがライバルの紀州侯、やはり同じように 「余は徳薄くして……」 と断ったまではよかったが、その後すぐに 「しかしながらァ」 ときたので、尾州侯は仰天。 「かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万人のため」 と、自分が言うつもりのセリフを最初から言われてしまい、あえなくその場で次期将軍は紀州侯に決まってしまった。 野望がついえてがっかりした尾州侯、帰りに同じ所を通りかかると、また鍛冶屋が 「テンカトル、テンカトル」 ところが親方が焼けた鉄に水をさして、 「キシュー」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

『甲子夜話』の逸話

『甲子夜話』(文政4=1821年刊)・第十七巻にある逸話です。作者は、平戸藩主で、文人大名として名高かった松浦静山(壱岐守、1760-1841)。

六代目円生が受け継ぐ

明治から大正にかけて五明楼国輔(池田文次郎、1854-1923)が得意にしていたのを、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が直伝で受け継いだ噺です。

七代将軍家継

没は享保元年(1716)旧暦4月30日。数え八歳。法号は有章院。その「治世」は側用人・間部詮房と新井白石の補佐によったもので、「正徳の治」と呼ばれます。

尾州侯

尾張藩第六代・徳川継友。名前からして「ツギテエ」で、権力欲の権化のような感じですが、八代将軍吉宗となった紀州侯への怨念はせがれの代まで尾を引きます。 継友が享保15年(1730)に憤死した後、嗣子の宗春は吉宗の享保改革による倹約令を無視して、藩内に遊郭の設置、芝居小屋の常時上演許可など、やりたい放題やったため、ついに逆鱗に触れて、元文4年(1739)、隠居謹慎を命じられました。 御三家でなければ、とうにお家は断絶、その身は切腹だったでしょう。

英国では成功例

権力を奪取する際、すぐ飛びついてはあまりに露骨なので、一度辞退してみせ、周りの者に無理やり薦められる形で「いやいやながら」という姑息な「手続き」を踏むのは洋の東西を問わないようです。 シェイクスピアの「リチャード三世」でも、主人公が王位を簒奪するとき、腰巾着のバッキンガム公と「余は予定通り、女の子のようにいやだいやだと言うから、あとはそちたちが無理やり頼み込んでくれ」と、陰謀をめぐらします。 尾州侯と違って、こちらは対抗馬をみんな片付けた後ですから、この作戦は大成功でした。 志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

さいぎょう【西行】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

どんなはなし?

佐藤義清が染殿内侍に恋い焦がれるところ、内侍から隠し文が届く。

義清は判読して阿弥陀堂で待つと、ついに内侍が来た。

歌の応酬で二人は打ち解け、義清が「またの逢瀬」を尋ねるや、「阿漕」と。

義清はこの意味がわからないのを恥じて、西行と改名し、歌道修行に行脚。

西行と染殿内侍とが逢い引き! バレ噺、いやいや、デタラメ噺です。

もっと知りたい方は以下をお読みください。

あらすじ

遍歴へんれきの歌人として名高い西行法師。 身分が違うから、打ち明けることもできず悶々もんもんとしているうちに、このことが内侍のお耳に達し、気の毒に思しめして、佐藤義清のりきよあてに御文おんふみをしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。 西行、もとは佐藤兵衛尉ひょうえのじょう義清という禁裏警護きんりけいご北面武士ほくめんのぶしだった。 染殿内侍が南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」と詠まれたのに対し、義清が「一羽にて千鳥といへる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」と御返歌ごへんかしたてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。 「佐藤さん、郵便」というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。 喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀さいほうみだ浄土じょうどで我を待つべし、あなかしこ」とある。 「はて、この意味は」と思いめぐらしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。 この世にては逢わずというから、今夜は逢われないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。 三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。地に実は、草木も露を含んだ深夜。人間絶えし後は丑三うしみツ時。 西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂あみだどうで待っていろということだろう、と気づいた。 ところが義清、待ちくたびれてついまどろんでしまう。 そこへ内侍が現れ「我なればとり鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみにけり」と詠んで帰ろうとしたとたんに義清、あやうく目を覚まし、「よいは待ち夜中は恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返した。 これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねて、翌朝別れる時に義清が、「またの逢瀬は」と尋ねると内侍は「阿漕であろう」と袖を払ってお帰り。 さあ義清、阿漕あこぎという言葉の意味がどうしてもわからない。 歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。 諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が、「ハイハイドーッ。さんざん前宿で食らやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」。 これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」 「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

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阿漕   【RIZAP COOK】

阿漕とは、 伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ という「古今六帖」の古歌から。 阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。 「阿漕」には当初は「たびかさなる」という意味で使われていました。 「阿漕ヶ浦に引く網」も熟してことわざの仲間入りをして、「隠しごともたび重なると人に知られる」ということのたとえに使われています。 それが江戸時代に入ると転じて「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」意味に変わりました。 阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸。伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。 それを、病気の母を思い、平次なる男が禁断を犯して魚を取ったたまに簀巻きにされたという伝説が残りました。 ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』(勢州阿漕浦)などがつくられました。 先行作品に能『阿漕』や御伽草子『阿漕の草子』がありますが、これらには「平次」の名はありません。 「阿漕」は歌枕として残りました。過去に何度も歌われた結果、言葉のイメージを誰もが抱くようになったものを、歌枕と呼びます。

染殿内侍   【RIZAP COOK】

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえてぴしゃりと言い渡したわけです。 馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのですが、西行先生、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、「二回もさせたげたのに、未練な男ね」と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。 このあたりが落語の機微で、歌をひねくりまわしているうちにいつの間にかエロ噺と化しているのですね。 セックスといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。なるほど。見習いたいものです。 染殿内侍という女性が実在したのかどうかしらはっきりしません。 染殿内侍が登場する『大和物語』や『伊勢物語』から察すれば、在原業平と同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。 永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。 南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。 落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。 それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。 在原業平には3人の息子がいたとされています。 三男滋春の母親が染殿内侍だとされています。これは『伊勢物語』の冷泉家流古注本に記されています。 文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりもそういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが大切なのです。 少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。 染殿内侍は在原業平と契った女性ということになります。 これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。 染殿というのは、藤原良房の邸宅をさします。 京の都は、「一条大路の南、正親町小路の北、京極大路の西、富小路の東」のあたりにあったそうです。 良房は、臣下としては初の太政大臣、摂政となり、藤原北家繁栄のきっかけを作った人です。染殿大臣などと呼ばれていました。 その娘の明子は文徳天皇に入内して、のちの清和天皇を生みました。 明子は染殿后と呼ばれていました。染殿后は美麗であったそうで、『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。 内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のことです。 染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮での仕事をつかさどっていたんだそうです。 宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇名代です。内侍と伊勢神宮とはかかわり深かったようです。 「隠者の歌詠み」として後世に名を残した西行。 その大先輩が在原業平といえるでしょう。「むかし男ありけり、その男、身をえうなきものに思ひなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。 業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで貴族の間では最高の教養文芸でした。 業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。 流浪する業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。聖と俗を両有しているのですね。 その業平の思い人の一人が染殿内侍です。これはすごい。業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(「ドクターノオ」の)か、はたまた若林映子あきこさん(「007は二度死ぬ」の)といったところでしょう。 あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。
なんと美しい若林映子さま。小三治師匠とは高校で同窓でしたとさ

西行の存在   【RIZAP COOK】

西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。残した歌は約2300首。歌人の最高峰です。 江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。 この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。みんなが知っている教養を肴に笑う、という趣向だったのでしょう。 西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。 源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。 『西行物語』と『選集抄』がその双璧です。さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。 江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麿と双璧です。 蓑笠をつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。 そんな逸話の一つ。 西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付け鬢姿で、つまり俗人のなりで参宮したといわれています。 なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる 存疑の歌といわれています。見えない神さまに接して落涙するというもの。 われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。 伊勢では二見浦に庵を結び、地元の神職者荒木田氏と交わったそうです。 と、このように記していって、見えてくるものがありました。 西行、伊勢、和歌、女性、浦……。 江戸人が抱く西行のイメージ。 そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。 登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達じざいかったつ融通無碍ゆうづうむげな雰囲気が、いかにも江戸人の西行なのでしょう。 西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人として形成されていきました。 寺院や宗派を超えて(高野山の、真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、世俗に理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。 この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の痴楽がたまに演じていました。いまや、どうでもよいことですね。

参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって–『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)

史実がらみの噺

二村文人氏といえば、現在は富山大学の教授です。 城北埼玉高校の教師だった頃に、「落語と俗伝」という小論を『國語と國文学』(東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)に発表しています。 これが、なかなか刺激的なのです。 まず、二村氏は、落語を6種類に分類して、そこから抜け落ちてしまう噺があることを指摘します。それが史実を扱った噺。 史実とはいっても、しょせんは落語ですから、俗伝であり通俗史をもとにした噺にすぎません。 具体的にはどんな噺のことのでしょうか。 二村氏は、この小論で「朝友」「西行」「お血脈」「紀州」を例示しています。 なるほど。 そこで、「西行」。 二村氏は「西行は落語になっても、芭蕉は落語にならない」と指摘します。 なぜなのでしょう。 二村氏によれば、以下の二点が歴史上の人物が落語に採用される条件である、としています。 (1) その人物の伝説化が進行していること。 (2) 伝記に謎の部分をもっていること。 西行の足跡にはわからない部分が多いけど芭蕉にはあまりない、と言いたいのでしょうか。 たしかに、現在でも、芭蕉の研究者は圧倒的に多く、西行はたいしたことありません。 ただ、地方に行けば、芭蕉のあやしげな伝説もちらほら見えたりします。 芭蕉が明らかに行ってもいないところに、芭蕉の句碑があったりとか。 そんな地方では芭蕉の伝説化も静かに進行しているでしょうし、謎の部分(忍者説とか水道工事監督時代とか)もないことはないでしょう。 二村氏の説が妥当かどうか、それはもう少し咀嚼したいところですが、この一文、刺激にあふれています。 だって、落語の評論でそんなところをほじくる人はいませんし。 この二村論文を起爆剤に、われわれも少し考えてみたいところです。 それにしても1985年の論文ですから、研究はすでに進んでいるのかもしれません。 【語の読みと注】 染殿内侍 そめどののないし 佐藤義清 さとうのりきよ:西行のこと 阿漕 あこぎ:阿漕ヶ浦 藤原良房 ふじわらのよしふさ 正親町小路 おおぎまちこうじ 染殿大臣 そめどののおとど 明子 あきらけこ、あきらけいこ 入内 じゅだい:嫁ぐ 染殿后 そめどののきさき 志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

おけちみゃく【お血脈】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

信州の善光寺で「血脈の御印」をもらえば極楽に行ける。

その結果、地獄は閑古鳥状態。

地獄の起死回生で、御印を盗むために石川五右衛門が選ばれた。

五右衛門は善光寺に乗り込み、御印を見つけた。

会話がほとんどなく、噺家が語り進めていく地噺です。 

別題:血脈 骨寄せ(上方) 善光寺骨寄せ(上方)

もっと知りたい方は以下をお読みください。

【あらすじ】

信濃しなの善光寺ぜんこうじで、お血脈けちみゃく御印ごいんというのを売り出した。 これは、百文ひゃくもん出してひたいに印を押してもらえば、どんな罪を犯しても極楽往生ごくらくおうじょう間違いなしという、ありがたい代物。 なにしろ、たった百文出せば、人を何万人絞め殺そうが罪業消滅ざいごうしょうめつというのだから、世界中から人が押しかけ、ハンコ一つで一人残らず極楽へ行ってしまい、しまいには地獄へ来るものが一人もなくなった。 おかげで地獄では不景気風が吹き荒れ、浄玻璃じょうはりの鏡などの貴重品はおろか、鬼の金棒に至るまですべて供出させ、シャバの骨董屋に売っぱらってしまうありさま。 赤鬼も青鬼も栄養失調で餓生(?)寸前。 虎の皮のフンドシまで売りとばし、前を隠してフラフラと血の池をさまよっている。 元締めの閻魔大王えんまだいおうも、このままでは失脚必至とあって、幹部を集めて対策会議。 部下の見る目と嗅ぐ鼻(ともに探査係)が、こうなれば誰か腕のいい大泥棒を雇い、元凶の、例のお血脈を盗み出すほかないと提案し、全会一致でそれに決まった。 問題は泥棒の人選で、ありとあらゆる大泥棒のリストをあさったが、いずれも帯に短したすきに長しで、結局、最後は人格力量抜群のご存じ、石川五右衛門と決定。 さて五右衛門、地獄の釜の中で都々逸どどいつを三十六曲歌ってのぼせているところ。 大王からのお召しとあって、シャバにいたころそのままに、黒の三枚小袖、朱鞘しゅざやの大小、素網すあみを着て、重ね草鞋わらじ月代さかやきを森のごとくに生やし、六方ろっぽうを踏みながらノソリノソリと御前へ。 「……これこれしかじかだが、血脈の印を盗み出せるのはその方以外になし。やってのけたら重役にしてやる」 「ハハー、いとやすきことにござりまする」 というわけで、久しぶりにシャバに舞い戻った五右衛門、さすがに手慣れたもので、昼間は善光寺へ参詣するように見せかけて入り込み、ようすを探った上で、夜中に奥殿に忍び入って血脈を探したが、なかなか見当たらない。 そのうち立派な箱が見つかったので、中を改めるとまさしくお血脈の印。 見つかったらさっさと地獄へ持って帰ればいいものを、この泥棒、芝居気があるから、 「ありがてえ、かっちけねえ。まんまと首尾しゅびよく善光寺の、奥殿おくどのへ忍び込み奪い取ったるお血脈の印。これせえあれば大願成就」 と押しいただいて、そのままスーッと極楽へ。

底本:四代目橘家円蔵、六代目三遊亭円生

【しりたい】

善光寺の伝承に由来

はっきりした原話は不明ですが、信濃の善光寺にまつわる縁起・伝承が起源とみられます。 四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の明治44年(1911)の速記が残っています。 その円蔵の演出を踏襲して、戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしました。 円蔵、円生ともにマクラに釈迦の逸話と善光寺の由来を滑稽化して入れています。 上方では、芝居の「骨寄せの岩藤」の趣向を取り入れ、五右衛門のバラバラになった骨を集めて蘇生させるというやり方なので「善光寺骨寄せ」「骨寄せ」の題でも演じます。

お血脈

おけちみゃく。六代目円生が生前、善光寺に参詣していただいてきたと語っていましたが、それによると、上書きに「信州善光寺、融通念仏血脈譜、別当大勧進」とあり、裏は中央に「浄業者」、脇に「念佛弟子、日課、百遍」、紙包みの中には半紙一枚に、中央に「良忍上人直授元祖聖應大師」、以下、多数の大僧正、上人、阿闍梨あじゃり(高位の僧侶)の名が書きつらねてある、とのこと。 「血脈」とは、仏教で師匠から弟子に伝えられる戒律や系譜書です。 それを伝えることを「血脈相承」といい、在家の信者にその儀式を省略して護符のように分け与えたのが「お血脈」の始まりとか。 のちに札になりましたが、かつては額に直接押印していました。 ただしタダではなく、浄財百疋じょうざいひゃっぴき(一疋=二十五文)が必要です。 たった二分ちょっとで極楽往生できれば、安いものです。

善光寺

長野市元善光寺町にあります。無宗派の単立寺院。天台宗と浄土宗とで運営管理されている、珍しい寺です。 本尊は三国伝来一光三尊阿弥陀如来。 天竺(=インド)から閻浮檀金えんぶだごんという身の丈一寸八分の阿弥陀像が渡来、それを「仏敵」の物部守屋もののべのもりや難波ヶ池なにわがいけ簀巻すまきにして放り込み、「処刑」。 それを見つけた本多善光ほんだのよしみつが、仏像を信州に勧請かんじょう(神仏の分霊を迎える)して寺ができた、というのが沿革です。本多善光が実在したかどうか。今のところ、可能性は薄いそうです。

石川五右衛門

伝説上の人物として、長く小説、芝居、落語などさまざまなジャンルで取り上げられてきました。 当人が主人公として直接登場するものは意外に少なく、落語ではこの「お血脈」でしょう。 ほかに、歌舞伎では「絶景かな……」で有名な「楼門の場」を含む「釜渕双級巴かまがふちふたつどもえ」、小説では古くは司馬遼太郎の「ふくろうの城」、平成になってからは赤木駿介の「石川五右衛門」、劇画ではケン月影の「秀吉に挑んだ男石川五右衛門」などが、主なところでしょうか。

地噺

じばなし。セリフがほとんどなく、演者の地の語りを中心に進めます。 その意味では講談に近いわけですが、あれほどエクセントリックではなく、淡々と語ります。 あたま山」「西行」「紀州」など、歴史上の人物の逸話や民間伝承、寺社縁起などを題材にしたものが多く、江戸前落語特有のジャンルといえます。 短くても笑いが少なく、地味なものが多いので、飽きずに聴かせるには円熟した話芸が必要です。生半可な噺家にはこなせません。 そういう意味では、いまどきははやらないでしょう。 八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)などは、滋味あふれる地噺の名手で、その語り口は、晩年にはさながら高僧の説教のような趣があったものです。いささか眠くなりますが。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

あさとも【朝友】演目

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志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

どんなはなし?

伊勢町文屋の康次郎と小日向松月堂のお朝、冥途でともに夫婦になろうと。

奪衣婆に縛られたお朝を康次郎が助け、閻魔の目をかいくぐり二人は生き返った。

伊勢の文屋康秀が生き返る体がなく、松月の朝友の体を借りて生還したという。

文屋康次郎と松月お朝、似ている。「苦情は?」「幽霊の結婚、あしはつかない」

ちぐはぐな噺。出どころのよくわからない謎めいた噺でもあります。

もっと知りたい方は【あらすじ】と【しりたい】をお読みください。

別題:ともふさ

あらすじ

病気でこの世とおさらばした男。

気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。

うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。

よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。

再会を喜び合ううちに
「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいから、あなたのそばに置いてください」
と女が言う。

男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校という者の息子。

いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と、夫婦の約束。

ついでに、意気揚々と三途の川も渡ってしまった。

ところが、地獄では閻魔大王がお里に一目ぼれ。ショウヅカの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。

亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。

そこはさすがに金貸しの息子、親父が棺に入れておいてくれた、シャバのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。

たどりついた三途の川のほとり、ショウヅカの婆さんの家では、毎日毎日、あわれ、お里が婆さんに責めさいなまされている。

「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華は望み次第。玉の輿じゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」
と、襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。

折しも、降りしきる雪。

極楽の鐘の音がゴーン。

男が難なく塀を乗り越え
「お里さん」
「そういう声は康次郎さん」

急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだしたとたん、シャバでは
「ウーン」
とお里が棺の中で息を吹き返す。

それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。

生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。

来あわせた坊さんが
「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向の松月朝友という方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向の松月堂、向こうが伊勢町の文屋検校。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」
「でも和尚さん、向こうの都合もあります」
「いや幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」

底本:五代目古今亭志ん生

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しりたい

噺のなりたち

文屋康秀ふんやのやすひでを題材とする民間伝承に、同じく平安時代成立の『日本霊異記にほんりょういき』や『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』に多く見られる死人が蘇生して地獄のさまを語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。

文屋康秀は、三十六歌仙の一人です。

江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の『軽口はるの山』中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)刊『軽口夜明烏』中巻「死んでも盗人」が原話とされます。

前者では、幽霊が「ゴーストバスター」に墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。

お里がショウヅカの婆さんに雪責めにされるところは、新内の「明烏夢淡雪」中の遊女浦里雪責めの場面を採ったものです。

と記したところで、この噺のなりたち、なんのことやらわかりません。

伊勢や日向

では、あらためまして。

宇井無愁によれば、この噺の根底には、「伊勢や日向」または「伊勢や日向の物語」ということわざが関係しているようです。

その意味は、「ことの前後がはっきりしないまとまりのない話」や「見当はずれなこと」です。

『伊勢物語知顕抄』には、こんな話が記されてあります。

伊勢の男と日向の男が死んだ時、閻魔の庁では、まだ寿命のある伊勢の男を生き返らせようとしたが、すでに火葬してしまって灰になっていたので、日向の男の体に生き返らせた。そしたら、体と心が別人で、言うことがちぐはぐになってしまった。

蘇生の失敗バージョンですね。

このことを「伊勢や日向」と言っているようです。要は「ちぐはぐ」ということですね。

「朝友」は、「ちぐはぐ」がキーワードなのです。

伊勢は三重県の、日向は宮崎県の旧国名です。

噺には、なんとしてもこれらを入れておかないと、当時の人々の理解をや賛意を得られなかったのでしょう。

ことわざが生きませんからね。

江戸時代には、わりと使われていたことわざだったようですから、こんな噺が生まれても奇妙ではなかったのかもしれません。

この噺、なんだかばかばかしくおかしくて笑っちゃう噺なのですが、現代のわれわれが理解するにはちょっと難易度が高いかもしれませんね。

松月朝友

詳細は不詳です。あらすじの参考にした、四代目橘家円喬の明治27年(1894)の速記では「トモフサ」とルビが振ってあります。

座頭金

民間では座頭金といいます。江戸期での視覚障害者の位階で最下位となる「座頭」がため込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位の「検校」ともなれば、大名貸しで巨富を築くものも少なくありませんでした。

当道座

男性視覚障害者の自治的互助組織を当道座といい、女性のそれには瞽女座がありました。国の当道座をまとめる「惣検校」を最高位として京都の仏光寺近くに置き、江戸には関東の座の取り締まりをする「惣録検校」を本所に置きました。

彼らには階級が厳しくあって、おおざっぱには、別当→勾当→座頭の順です。さらに細分化されていて、73階級もあったそうです。

円朝作の「真景累ヶ淵」の発端で旗本、深見新左衛門の屋敷に、貸金の取り立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦もこの座頭金を営み、その金利は五両に一分で返済期限四月という高利でした。

ショウヅカの婆さん

脱衣婆ともいい、地獄の入り口、三途の川の岸辺で亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹という木の上にいる懸衣翁に渡すのが仕事の鬼婆です。

「ショウヅカ」は「生塚」とも書きます。「三途河」がなまったものです。柳田国男は、「障塚」が由来と言っています。水木しげるの怪奇漫画では常連ですね。

落語でも「地獄八景」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場。この「朝友」では本来の悪役ですが、ほとんどは、どちらかというとコミカルな、情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原山名屋のやり手のおかや婆あです。

「正塚の婆さん」

かつて「正塚の婆さん」というタイトルのテレビドラマがありました。

昭和38年(1963)10月25日19時30分-20時56分、TBS系列の「近鉄金曜劇場」で放映された単発のテレビドラマ。

意地悪婆さんの正塚くに(三益愛子)が検察審査会の委員に選ばれて、ヤクザの家屋損壊事件を追究していきながら、日本の民主主義政治の実態を問う、という社会派法廷ドラマでした。

原作は橋本忍。この方、『七人の侍』『幻の湖』などで名を残した邦画界の重鎮です。
タイトルが奪衣婆からの命名なのは明々白々です。これを安直とみるか。

60年前の日本社会では、奪衣婆=ショウヅカの婆さんは十分通じていたのですね。

完全に絶えた噺

四代目円喬以後、ほとんどやり手がなかったようで、昭和になって、昭和4年騒人社刊「名作落語全集」中に円喬の速記が復刻されて以来、何度か活字化されていますが、すべてソースは円喬のものばかり。彼以前も以後も、現在にいたるまで、音源も含めて、他の演者の記録はまったくありません。

地獄を脱出するサスペンスなど、なかなか捨てがたいので、どなたかがテキストレジーの上、復活してくれるとおもしろいのですがね。

文屋と朝友

円喬の速記によると、伊勢国の文屋の康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変っていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという奇妙キテレツな死人蘇生譚です。

円喬は坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本についてはまったく未詳です。

実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明で、わずかに、三河掾となって赴任するときに小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。

【語の読みと注】
三途河 さんずか
三途河の婆さん しょうづかのばあさん
座頭金 ざとうがね
脱衣婆 だつえば
衣領樹 えりょうじゅ
障塚 さえつか
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
正塚の婆さん しょうづかのばあさん

スヴェンソンの増毛ネット

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席


せん八、逝く

せん八、逝く

柳家せん八師匠が、2022年9月11日、腹膜炎のため、都内の自宅で亡くなりました。74歳でした。

せん八師匠は、昭和23年(1948)2月5日、群馬県太田市の出身。本名は吉沢博。昭和43年(1968)に四代目柳家小せん(飯泉真寿男、1923-2006)に入門、せん松を名乗りました。

昭和48年(1973)9月、二ツ目に昇進して「せん八」に改名。このときの同時昇進には、春風亭一朝、三遊亭勝馬(→三代目三遊亭小金馬→2018年没)がいました。

昭和57年(1982)12月、真打ちに昇進しました。このときの同時昇進には、初代古今亭志ん五(2010年没)、七代目三遊亭円好(2007年没)、四代目吉原朝馬、春風亭一朝、三代目三遊亭小金馬(2018年没)、六代目古今亭志ん橋、立川談生(→鈴々舎馬桜)、立川左談次(2018年没)、六代目立川ぜん馬がいました。10人のうち6人が故人。

最後の寄席出演は、令和3年(2021)1月5日、浅草演芸ホールでした。

ご冥福をお祈りいたします。

柳家せん八師匠

(2022年9月18日、古木優)

きんじつむすこ【近日息子】演目

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

「近日」を「明日」と思い込んでいるばか息子を、大家の親父が嘆く。

親父の不機嫌ぶりを見て、息子は「ようすが変だ」と医者を呼び、葬儀屋まで。

長屋の連中が悔やみに駆け付けると、親父はピンピン。

表の忌中札をよく見ると、そばに「近日」の文字が。

上方噺。いい年した、この息子は滑稽ですが、ご近所さんだとちょいと迷惑。

もっと知りたい方は以下をどうぞ。

【あらすじ】

三十歳近くになるが、ぼんくらな一人息子に、親父が説教している。 芝居の初日がいつ開くか見てきてくれと頼むと、帰ってきて明日だと言うから、楽しみにして出かけてみると「近日開演」の札。 「バカヤロ、近日てえのは近いうちに開けますという意味だ」 と親父がしかると、 「だっておとっつぁん、今日が一番近い日だから近日だ」 なにしろふだんから、気を利かせるということをまるで知らない。 「おとっつぁんが煙管きせる煙草たばこを詰めたら煙草盆を持ってくるとか、えへんと言えば痰壺たんつぼを持ってくるとか、それくらいのことをしてみろ。そのくせ、しかるとふくれっ面ですぐどっかへ行っちまいやがって」 とガミガミ言っているうち、親父、かわやに行きたくなったので、 「紙を持ってこい」 と言いつけると、出したのは便箋と封筒。 「まったくおまえにかかると、よくなった体でも悪くなっちまう」 と、また小言を言えば、せがれ、プイといなくなってしまった。 しばらくして医者の錆田さびた先生を連れて戻ってきたから、わけを聞くと 「お宅の息子さんが『おやじの容態が急に変わったので、あと何分ももつまいから、早く来てくれ』と言うから、取りあえずリンゲルを持って」 「えっ? あたしは何分ももちませんか」 「いやいや、一応お脈を拝見」 というので、みても、せがれが言うほど悪くないから、医者は首をかしげる。 それを見ていた息子、急いで葬儀屋へ駆けつけ、ついでに坊主の方へも手をまわしたから、説教の薬が効きすぎた。 長屋の連中も、大家おおやが死んだと聞きつけて、 「あのばか息子が早桶はやおけ担いで帰ってきたというから間違いないだろう、そうなると悔やみに行かなくっちゃなりません」 と相談する。 そこで口のうまい男がまず 「このたびはなんとも申し上げようがございません。長屋一同も、生前ひとかたならないお世話になりまして、あんないい大家さんが亡くなるなん……」 と言いかけてヒョイと見上げると、ホトケが閻魔えんまのような顔で、煙草をふかしながらにらんでいる。 「へ、こんちは、さよならっ」 「いいかげんにしろ。おまえさん方まで、ウチのばか野郎といっしょになって、あたしの悔やみに来るとは、どういう料簡だっ」 「へえ、それでも、表に白黒の花輪、葬儀屋がウロついていて、忌中札まで出てましたもんで」 「え、そこまで手がまわって……ばか野郎、表に忌中札きちゅうふだまで出しやがって」 とおやじが怒ると、 「へへ、長屋の奴らもあんまし利口じゃねえや。よく見ろい、忌中のそばに近日と書いてあらァ」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

「近日」は芝居用語

江戸時代の芝居興行では、金主きんぬし(スポンサー)と座主ざぬし(プロデューサー)のトラブル、資金繰りの不能、役者の「もっといい役をつけろ!」というクレームや、ライバル役者同士の序列争いなど、さまざまな原因で、予定通りに幕が開かないことがしばしばでした。 そこで、それを見越して、初日のだいぶ前から、「近日開演」の札を出して予防線を張っていました。 これを「近日札」といって、大阪・道頓堀どうとんぼりの劇場街では、昭和に入っても戦争前まで、このしきたりが残っていたそうです。古くは上方でこれを「前繰さきぐり」とも呼びました。

民話が原型

「病人に坊主」という民話が原型といわれます。 小ばなしでは、先走って寺に知らせるくだりは安永2年(1774)、上方で刊行された笑話本『茶の子餅』中の「忌中」、オチの「近日札」の部分は、その前年、つまり安永2年(1773)、江戸で刊行の仕形噺本『口拍子くちびょうし』中の「手まはし」がそれぞれ原話で、この二つをミックスして落語に仕立てたのでしょう。 特に後者は、すでに現在の「近日息子」の後半とほとんど同じです。

三木助の当たり噺

もとは上方落語で、「吹き替え息子(干物箱)」と同じく「息子」という言い回しも大阪のものです。 東京で口演されるようになったのは明治40年(1907)頃からですが、東京の落語家はほとんど手がけず、もっぱら上方から下ってきた二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)などが、大阪のものをそのまま演じていた程度でした。 大阪での修行時代に二代目桂春団治(河合浅次郎、1894-1953)からこの噺を伝授された三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が戦後になってから磨きをかけ、独特の現代的くすぐりをふんだんに入れて大当たり。 十八番に仕上げました。三代目三木助は生粋の江戸っ子です。 三木助演出の特徴は、年代を大正末期に設定してあるため、長屋の連中の会話がデスマス調でていねいなことや、登場人物も「錆田」に「長谷川」と、新作落語のような印象が新鮮な点でしょう。

三木助のくすぐりから

●(長屋の住人の会話。昨夜乙が湯屋で会った大家が死んだと聞いて) 甲「なんですか? ゆうべ湯に行って帰りにざるを二杯食べると、今朝死ねませんか」 乙「死ねないって理屈はないでしょうけどねえ」 甲「あのね、イースーピン(一四筒)が通ってもチーピン(七筒)が通らない場合があるン」 「イースーピン」のくすぐりは、戦後の麻雀ブームでサラリーマンや学生客に大ウケだったとか。 ●(早桶をかついできた息子) 「おとっつあん、ちょっと入ってみてねえ、そいで具合が悪いようだったら、あの、今のうちならね、(寝棺と)取り替えてくれるって」 志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

しかのぶざえもん【鹿野武左衛門】噺家

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

慶安けいあん2年(1649)-元禄げんろく12年(1699)。江戸落語の祖。

江戸で初めて、座敷仕方咄ざしきしかたばなしを演じた人とされています。

出身は大坂とも京ともいわれていますが、よくわかりません。

上方から江戸に下ってきた人のようです。

鹿野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。

本名は安次郎とかで、職業は塗師ぬし。漆塗りの職人でした。

日本橋の堺町さかいちょう長谷川町はせがわちょう(日本橋堀留ほりどめ)あたりの職人町に住んでいました。

人前でのおしゃべりがうまかったようで、座敷仕方咄を演じてはいつしか人気者に。

身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。

そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。

江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延まんえんし、1万人余りが亡くなりました。

当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。

そのさなか。

「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」

そんな噂がまことしやかに広まったのでした。

もちろん馬鹿な。馬がしゃべるなんて。エドじゃあるめえし。ここは江戸だぜ。

でも、そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。

ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。

頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。

人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。

忖度そんたくまじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相のせよりすけ(出雲守いずものかみ)は、配下に探索させます。

そしたら、出てきた。

浪人者の筑紫団右衛門ちくしだんえもんと、神田須田町すだちょうの八百屋惣右衛門そうえもんの共同謀議だったことが。

主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。ひっえー。

従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。ざざざッ。

厳しいお裁きでした。

これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。しゃべる馬の件です。

取り調べで二人は、こんなことを言っていました。

咄本はなしぼん『鹿の巻筆まきふで』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。

咄本というのは、軽口かるくち(しゃれ)や落語などを記した本のこと。笑うための本ですね。

だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。え、これが?

『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。

武左衛門は伊豆大島に流罪。

版元の本屋弥吉も江戸追放に。

本は焼き捨てられました。

焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。

とんだとばっちりです。

武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。

いやあ、もったいない。武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。

若い頃の武左衛門は、石川流宣いしかわりゅうせん小咄こばなしの会なんかをつくって、人気を得ました。

中橋広小路なかばしひろこうじ(八重洲やえす)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。

人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。

お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。

町奉行が切歯扼腕せっしやくわんしたのは、ここのところでした。な、なんでェ?

宇井無愁ういむしゅう氏は、こんなふうに解釈しています。

街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。

宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)

なるほど。当局の考えそうなことですね。

ついでに座敷咄ざしきばなしなる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。

存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。

その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。

暗黙のご法度となったのです。

江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。

その後、寛政かんせい10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。

岡本万作おかもとまんさく神田豊島町藁店かんだとしまちょうわらだなの寄席。

それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽さんしょうていからく)による下谷柳したややなぎ稲荷社いなりしゃ境内にも寄席が。

二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。

ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。

江戸時代おそるべし、です。

【蛇足】

「堺町馬の顔見世」

『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。

市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。

伊藤正太夫は、一座の座頭ざがしら、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。

『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。

鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門にしひがしたろうざえもんという人が『本朝話者系図ほんちょうわしゃけいず』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。

ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。

「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたんだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。

参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」

塗師

「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。

「七十一番職人歌合」という歌集があります。明応めいおう9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代の頃の歌集です。

べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことできません。

天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、という物合ものあわせという形式の歌集です。

あの階層の人たちって、病的なほどに暇だったのですね。

その三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。

以下は、詞書き。

よげにそうろう 木掻きがきのうるしげに候 今すこし火どるべきか

よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。

そんな意味合いです。

いつまでも蛤刃はまぐりばなるこがたなのあふべきことのかなはざるらん

しぼれども油がちなるふるうるしひることもなき袖をみせばや

このように二首載って、競っているわけです。

歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。

それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職号を垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。

最後に、以下のような判が下っています。

左右、ともに心詞こころことばきゝて面白く聞こゆ よきにこそはべるめれ

どうということもない文言です。

歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。

「七十一番職人歌合」の第三番「塗士」の図

右の男は侍烏帽子さむらいえぼしをかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶっているのは珍しいことではありません。小袖にはかま。腕をまくっています。

右手には、漆刷毛うるしはけを持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。

二人が行っているのは、吉野紙の漆し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。

漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。

「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。

塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。

これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。

さて、鹿野武左衛門。

これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと喜ばれていたのかもしれませんね。

参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

あたまやま【あたま山】演目

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

花見あとのさくらんぼを食べたら頭から。何度聴いてもはぐらかされる不思議。

  別題:頭が池 さくらんぼ

あらすじ

春は花見の季節

周りはみな趣向をこらして桜の下でのみ放題食い放題のドンチャン騒ぎをやらかすのが常だが、ここに登場の吝兵衛けちべえという男、名前通りのしみったれ。

そんなことに一文も使えないというので、朝から晩までのまず食わずで、ただ花をぼんやり見ながらさまよい歩いているだけ。

しかし、さすがに腹が減ってきた。

地べたをひょいと見ると、ちょうど遅咲きの桜が、もうサクランボになって落ちているのに気づき、「こりゃ、いいものを見つけた」と、泥の付いているのもかまわず、一粒残さずむさぼり食った。

翌朝。どういうわけか頭がひどく痛んできて、はて、おかしいと思っているうちに、昨日泥の付いたサクランボを食ったものだから、頭の上にチェリーの木の芽が吹いた。

さあ大変なことになったと、女房に芽をハサミで切らせたが、時すでに遅く、幹がにょきにょきっと伸び出し、みるみる太くなって、気がついた時は周りが七、八尺もある桜の大木に成長。

さあ、これが世間の大評判になる。

野次馬が大勢押しかけて、吝兵衛の頭の上で花見をやらかす。

茶店を出す奴があると思うと、酔っぱらってすべり落ち、耳のところにハシゴを掛けて登ってくる奴もいる。

しまいには、頭の隅に穴を開けて、火を燃やして酒の燗をするのも出てくる始末。

さすがに吝兵衛、閉口して、「いっそ花を散らしてしまえ」というので、ひとふり頭を振ったからたまらない。

頭の上の連中、一人残らず転がり落ちた。

これから毎年毎年、頭の上で花が咲くたびにこんな騒ぎを起こされた日にはかなわないと、吝兵衛、町中の人を頼んで、桜の木をエンヤラヤのドッコイと引っこ抜いた。

ところが、あまり根が深く張っていたため、後にぽっかりと大きな穴が開き、表で夕立ちに逢うと、その穴に満々と水がたまる。

よせばいいのに、この水で行水すれば湯銭が浮くとばかりに、そのままためておいたのがたたって、だんだんこれが腐ってきて、ボウフラがわく、鮒がわく、鯰がわく、鰻がわく、鯉がわく……とうとう、今度は頭の池に養魚場ができあがった。

こうなると釣り師がどっと押しよせ、吝兵衛の鼻の穴に針を引っかけるかと思えば、釣り舟まで出て、芸者を連れてのめや歌えの大騒ぎ。

吝兵衛、つくづくイヤになり、こんな苦労をするよりは、いっそ一思いに死んでしまおうと、南無阿弥陀仏と唱えて、自分の頭の池にドボーン。

底本:八代目林家正蔵(彦六)

しりたい

昔はケチの小咄だった   【RIZAP COOK】

昔は、ちょっと毛色の変わったケチの小咄程度としか見られていませんでした。

マクラ噺として扱われていたのですが、なかなかどうして。

その奇想といい、シュールこの上ないオチの見事さといい、屈指の傑作落語といっていいでしょう。

八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)が、頭池に釣り舟が出るくだりを加えるなどして、一席の噺にまとめあげました。

その正蔵も、それでもまだ短いので、最初に、河童の子が逆に人間に尻子玉を抜かれ、親が「素人にしちゃ上出来だ」と感心する小咄を振ったりもしていました。五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は「もう半分」のマクラに、この噺を用いています。

「頭の池に身を投げた」というオチは「考えオチ」といいます。

客をケムに巻くものですが、両巨匠の「解説」は次の項目をお読みください。

ケチ兵衛の投身自殺   【RIZAP COOK】

どうやって自分の頭の池にざんぶり飛び込んだか。彦六、志ん生両師匠の見解は?

●彦六

年寄りに聞くってえと、細長いひもをぬう場合、最初は糸目を上にしてぬって、ぬいあがると物差しをあてがって、一つ宙返りをさせる。すると完全な細ひもになる。理屈はあれと同じで、頭に池があれば、人間がめくれめくれて、みんな池の中にへえっちまう。

●志ん生

おかァさまが、赤ちゃんの付けひもなどをぬうときに、スーッとぬっといて、クルッとこうひっくり返します。煙草入れの筒も、そうなんで、ぬっといて、キュッとやって、クルクルクルッとひっくりかえす。で、まァ、ケチ兵衛さんが、自分で自分で自分の頭の池に身を投げたのは、やっぱりその型でな、グルグルグルグルッと(指先で三つばかり円を描いて)こうなって、えー、そうして、えー、身を投げた。

これでおわかりでしょうか?

ほらふき男爵の冒険    【RIZAP COOK】

泥のついた桜の実を種ごとかじったのが、ケチ兵衛の災厄の始まり。

ところが、世界中には似たような話もあるもの。

ドイツのゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが18世紀に残した「ミュンヒハウゼン物語(ほらふき男爵の冒険)」にこんな話があります。

主人公のミュンヒハウゼン男爵が鹿撃ちに出かけ、猟銃に弾丸とまちがえてサクランボの種をこめて撃ったところ、見事命中。一年後に同じ場所に行ってみると、出会った大鹿の頭に桜の枝が生い茂っていたというホラ話。

ビュルガーはゲッティンゲン派の詩人です。18世紀に勃興した民俗学、口承文芸、神話学、伝説学などの影響を受け、これらを題材にパロディーやホラ話をさかんに創作しました。大学をりっぱに出ながらも、無給、薄給、不倫、重婚など、不遇な人生の繰り返しでした。

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

たけのすいせん【竹の水仙】演目

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志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

どんなはなし?

三島に投宿して酒びたりの左甚五郎は、宿の主人から追い立てを食らう。

甚五郎、中庭の竹を一本切って、竹造りの水仙に仕上げてみた。

翌朝、見事な花を咲かせた。竹なのに。これを長州公が百両でお買い上げ。

旅立つ甚五郎に、主人は「もう少しご逗留になったら」

講談の「甚語郎もの」を借用した一席。オチはありません。

もっと知りたい方は、【あらすじ】と【しりたい】をどうぞ。

あらすじ

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎は言い渡した。

「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」

これはただ者ではないと、佐平が感嘆。

なんとその翌朝。

水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になった。

このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公は言った。

「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然とひとこと。

「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

甚五郎がいよいよ出発という時。

甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平はゲンキンなもの。

「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

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小さんの人情噺  【RIZAP COOK】

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸がやっていました。柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚  【RIZAP COOK】

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一節を落語化したものとみられます。

黄金の大黒」「」など、落語の「甚五郎もの」はいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「黄金の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があるんだそうです。三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、「」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご:宿屋、旅館

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

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こうふい【甲府い】演目


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【どんなはなし?】

甲府から江戸に出てきた善吉、浅草で金を盗まれて無一文に。

法華信徒の豆腐屋に助けられ、その店で一途に奉公、十年。

人柄が見込まれ入り婿むこに。家業に励んだ。

二人は身延山にお礼参りに。「甲府ぃ、お参り、願ほどきぃ」。

日蓮宗(当時は法華宗)を称揚した、古い江戸前の噺です。

別題:出世の島台

もっと知りたい方は、【あらすじ】と【しりたい】をどうぞ。

【あらすじ】

甲府育ちの善吉ぜんきち

早くから両親をなくし、伯父おじ夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山みのぶさんに断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺せんそうじ境内けいだい巾着きんちゃくをすられ、無一文むいちもんに。

腹を減らして市中しじゅうをさまよったが、これではいけないと葭町よしちょう千束屋ちづかやという口入れ屋をめざすうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆わけえしが袋だたきにしようというのを、主人が止めた。

事情を聞いてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々の法華宗ほっけしゅうで、
「これもお祖師そしさまの引き合わせだ」
と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金きゅうきんは出ないが、商高あきないだかに応じて歩合ぶあいが取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向かげひなたなく懸命に
「豆腐ィ、胡麻ごま入り、がんもどき」
と売って歩いた。

愛想あいそがよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、ほおっておくと虫がつくから、早く婿むこを取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨しゅうしも合うし、まじめな働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し
「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪雑把まきざっぽ持ってこい」
と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分ふぜいが、と遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付いつき地主に。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所ざいしょへは一度も帰っていないので、
「両親の十三回忌じゅうさんかいきと身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」
と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度たびじたくしてやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若旦那、どちらへお出かけで?」
と聞かれて善吉が振り向き
「甲府(=豆腐)ィ」
と言えば、お孝が
「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前の噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、四代目桂文治の息)の速記が残っています。大筋は現行とほとんど変わりません。六代目文治は円朝と同時代の噺家です。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、先の大戦後は、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英、1968-)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。

流罪を許されて身延に隠棲いんせいした日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井はきい氏から寄進を受けて開いたものです。

日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝にっちょう(1422-1500)が、現在の山梨県南巨摩郡みなみこまぐん身延町に移してますます発展させました。

日蓮宗の本拠としては、江戸・池上の本門寺ほんもんじがあるので、江戸の信徒(檀越だんのつ)は通常、ここに参詣すればよいとされました。池上は日蓮の亡くなった地です。

江戸時代には、「日蓮宗」という名称はまだ一般的ではなく、「法華」「法華宗」と呼ぶことが多かったようです。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増したのは、宝永ほうえい年間(1704-11)といわれています。

宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録もあります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語にひんぱんに登場する「大家」は差配さはいともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人のことです。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多かったようです。その場合、地主と大家を兼ねていることになります。

こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋おもてながやです。通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁とうりゅう鳶頭とびのかしらなど、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付き地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵むめいあん(野村元雄、1888-1945)は『落語通談』に記しています。

斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った。

この「古老扇橋」とは、声色こわいろ(声帯模写)の名人としても知られた、八代目入船亭扇橋(宗匠の扇橋、進藤大次郎、1865-1944)のことでしょう。「でっち直す」という言い方もおもしろいですね。

改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりません。『落語通談』によれば、筋は大同小異とのこと。この『落語通談』は、初出が1943年9月刊。中公文庫版(1982年)は品切れですが、古本市場でまだ入手できるかも。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。

主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、しゅうと夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房にまかせてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居にもなった「模範落語」

『落語通談』によれば、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、先の大戦中、報国紙芝居ほうこくかみしばいにもなったとのこと。

いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局(内務省や文部省など)にとって「期待される人間像」の典型であったかがわかろうというもの。でも、泣かせます。

野村無名庵は当時の政府の片棒をかついで、昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度そんたくの人でした。空襲の犠牲となりました。

『落語通談』には、こんなことも記しています。

何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった。

そういう噺、つまりは、悪くない噺なんですね。

よくわかる日蓮宗

日蓮が開いた、鎌倉新仏教のひとつです。

最高の教えは「法華経」にある、というのが日蓮の教えです。

「南無妙法蓮華経」と唱える宗派です。題目ですね。

後醍醐天皇からは、法華宗という名称をいただきました。

鎌倉新仏教の特徴は「易行いぎょう」です。

修行や教えがわかりやすくてカンタン、ということ。

女性や一般人にも、手を差し伸べたのです。

とはいえ、当時の人々からは胡散臭うさんくさく思われていたようです。

信者が増えたのは応仁の乱以降。

死が日常的になった頃からでした。

次第に大きくなって、江戸時代にはものすごい勢力となっていました。

当時は、法華、法華宗などと呼ばれてたものです。

法華のライバルは、念仏宗。

これは、歌舞伎や落語ではお決まりの知識です。

念仏宗とは、「南無阿弥陀仏」という、念仏を唱える宗派のこと。

浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などが、念仏宗と呼ばれていました。

江戸の町では、法華と念仏が、信者獲得に必死でした。

「宗論」は、両宗派の対立が噺になっています。

法華の各宗派が束になって「日蓮宗」となったのは、明治5年(1872)のこと。

その後、紆余曲折あって名称が変更に。

「宗教法人・日蓮宗」となるには、昭和16年(1941)まで待たねばなりませんでした。

日蓮宗、歴史的には新しい名称だったのですね。

目からウロコの総本山、大本山、本山

日蓮宗の寺格はこんなかんじです。寺格とは、宗派内の寺の等級のこと。

宗派最高の寺院は、身延山久遠寺で、総本山とされています。山梨県にあります。

ここの住職は、法主と呼ばれます。

その下に、日蓮や日蓮宗に関わりの深い重要な寺院として、大本山があります。

大本山は、以下の七寺院です。

誕生寺たんじょうじ(千葉県)

清澄寺せいちょうじ(千葉県)

中山法華経寺なかやまほけきょうじ(千葉県)

北山本門寺(静岡県)

池上本門寺(東京都)

妙顕寺みょうけんじ(京都府)

本圀寺ほんこくじ(京都府)

日蓮の出身地が房総半島だったからか、圧倒的に関東に集中しているのがわかります。

大本山の下には由緒寺院があって、これは42寺院あります。

「堀の内」で有名な妙法寺は、由緒寺院に入ります。

ほかに霊跡寺院があって、これは大本山の7寺院と由緒寺院の7寺院の計14寺院が、そう呼ばれています。。

妙法寺のホームページには「本山」とあります。

総本山→大本山→本山の序列です。

由緒寺院はすべて本山です。

霊跡寺院には大本山が7寺院、本山が7寺院あります。

ということは、本山は計49寺院ある、ということになります。ややこしいです。

意外なかんじ、著名な信者

日蓮宗は、いまでは約5200寺、信者は330万人を抱えます。

信者を檀越と呼びます。「だんのつ」「だんおつ」と呼びます。

有名な檀越は、ざっと思いついても、以下のような方々があげられます。

狩野永徳(1543-90)

長谷川等伯(1539-1610)

葛飾北斎(1760-1849)

太田南畝なんぽ(1749-1823)

橋本雅邦(1835-1908)

辰野金吾(1854-1920)

石橋湛山たんざん(1884-1973)

芥川龍之介(1892-1927)

宮沢賢治(1896-1933)

美空ひばり(1937-1989)

芸人や芸者には多く、珍しくもありません。たとえば。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)※晩年の4年間

三代目三遊亭円右(粕谷泰三、1923-2006)

二代目古今亭円菊(藤原淑、1929-2012)

三代目三遊亭円歌(中沢信夫、1932-2017)

とまあ、数え上げたら、きりないほど。

【語の読みと注】
薪雑把 まきざっぱ まきざっぽう:切ったり割ったりした薪。まき。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

にしきのけさ【錦の袈裟】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

町内の若い衆がこぞって、錦の褌を締めて吉原に繰り出すことを考えた。

質流れの錦を仕立てて褌をつくったが、一人分足りない。

あぶれた与太郎は、お寺の坊さんから錦の袈裟を借りて乗り込む。

そのせいか、与太郎ばかりがもててしまった。

もとは上方の噺。これも廓噺なんでしょうかね。

別題:袈裟茶屋(上方) ちん輪

もっと知りたい方は、【あらすじ】と【しりたい】をどうぞ。

あらすじ

町内の若い衆が 「久しぶりに今夜吉原に繰り込もうじゃねえか」 と相談がまとまった。 それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中が、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬の長襦袢一丁になってカッポレの総踊りをやらかし 「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」 とさんざんにばかにしたという、うわさ。 そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうという相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦の褌をそろいであつらえ、相撲甚句に合わせて裸踊りとしゃれこもう、ということになる。 幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てるが、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。 与太郎、女郎買いに行きたい一心で、鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。 そこでかみさんの入れ知恵で、寺の和尚に 「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」 と頼み込み、なんとかこれで全員そろった。 一同、予定通りその晩は、どんちゃん騒ぎ。 お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めたから、驚いたのは廓の連中一同。 特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪という白い輪がぶーらぶら。 そこで 「あれは実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」 ということになってしまった。 そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。 残りは全部きれいに振られた。 こうなるとおもしろくないのが「家来」連中。 翌朝、ぶつくさ言いながら殿さまを起こしに行くと、当人は花魁としっぽり濡れて、起きたいけど花魁が起こしてくれないと、のろけまで言われて踏んだり蹴ったり。 「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」 「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」 どうにもならなくて、寝床から引きずり出そうとすると、与太郎が 「花魁、起こしておくれよ」 「どうしても、おまえさんは、今朝帰さないよ」 「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。 「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのは旦那2人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。 たとえば、東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンですが、上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間ほうかん(たいこもち)が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。 東京ではこの噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。 このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵の明治時代の速記を見ると、振られるのは色男の若旦那2人、主人公は熊五郎となっていて、まだ東京移植後間もなく、大阪の設定に近いことがわかります。 円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。 これを現行の形に改造したのは、大正期の盲小せんこと初代柳家小せんとみられます。 戦後この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。 それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。 江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。 かっぽれかっぽれ 甘茶でかっぽれ 塩茶でかっぽれ 沖の暗いのに白帆が見える ヨイトコリャサ あれは紀の国 みかん船 こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称・住吉踊り。明治初期に東京で初代かっぽれ梅坊主が、より洗練された踊りに仕上げて大流行しました。新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。 寛一お宮の愛憎を描いた『金色夜叉』で有名な文豪、尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。若気のいたりでしょうかね。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。なんだか、わかったようなわからないような。 インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。 中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。 これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。 大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。 こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。 与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。 これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。 貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。 僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。 緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。 七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。 これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足のコラム】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。 もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。 ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。落語の格好の題材となる。 海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。 たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。 「ちん輪」という野卑な別題もある。この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。 大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。 五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。 この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだ。いいかげんなものなんだなあ。

(古木優)

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

かさご【笠碁】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

碁打ちの二人が「待った」で大げんか、はては絶交へ。
数日たつと、二人はそわそわしてきて、そんな雨の昼下がり。
旦那が菅笠かぶってやってきて、仲直りして碁打ちを。
雨はあがったのに、盤に水が漏るのは、どうしたことか。

柳家系の噺です。碁打ちの二人、意地の張り具合と友情がうまく出ています。

別題:雨の将棋

もっと知りたい方は、【あらすじ】と【しりたい】をどうぞ。

あらすじ

碁がたきの旦那が二人。

両方ともザル碁で、下手同士だが、ウマがあって毎日のように石を並べあっている。

仲がいいとつい馴れ合うから、いつもお互いに待った、待ったの繰り返し。

そんなことでは上達しないからと、今後一切待ったはなしということにしようと取り決めたのはいいが、言い出しっ屁がついいつもの癖で
「そこ、ちょいと待っとくれ」

「おまえさんが待ったなしを言いだしたんだからダメだ」
と断ると、
「それはそうだが、そこは親切づくで一回ぐらいいいじゃあないか」
と、しつこい。

自分で作ったルールを破るのは身勝手だと「正論」を吐けば、おまえは不親切だ、理屈っぽすぎると、だんだん雲行きが怪しくなる。

しまいにはかんしゃくのあまり、昔金を貸したことまで持ち出すので、売り言葉に買い言葉。

「その恩義があるから大晦日には手伝いに行ってやれば蕎麦一杯出しゃがらねえ、このしみったれのヘボ碁め」
「帰れ」
「二度と来るもんか」

……という次第で決裂したが、意地を張っているものの、そこは「碁がたきは憎さも憎しなつかしし」。

雨の二、三日も降り続くと、退屈も手伝って、
「あの野郎、意地ィ張らずに早く来りゃあいいのに」
と、そぞろ気になって落ちつかない。

女房に鉄瓶の湯を沸かさせ、碁盤も用意させて、外ばかり見ながらソワソワ。

一方、相方も同じこと。

どうにもがまんができなくなり、こっそり出かけてようすを見てやろうと思うが、あいにく一本しか傘がないので、かみさんが、
「持っていかれると買い物にも行けない」
と苦情を言うから、しかたなく大山詣りの時の菅笠をかぶり、敵の家の前をウロウロと行ったり来たり。

それを見つけて、待ったの旦那は大喜び。

「やいやい、ヘボ」
「なに、どっちがヘボだ」
「ヘボかヘボでねえか、一番くるか」

めでたく仲直りして碁盤を囲んだのはいいが、なぜか盤に雨漏り。

それもそのはず、まだ菅笠をかぶったまま。

しりたい

碁敵

ごがたき。碁打ちのライバルをいいます。

この噺の原話は古く、初代露の五郎兵衛(1643-1703)作の笑話本で元禄4年(1691)刊『露がはなし』中の「この碁は手みせ金」です。「唖の釣り」をお読みください。

マクラに「碁敵は憎さも憎しなつかしし」という句を振るのがこの噺のお約束ですが、この句の出典は明和2年(1765)刊の川柳集『俳風柳多留』初編で、「なつかしし」は「なつかしさ」の誤伝です。

円朝をうならせた三代目小さんの至芸

明治に入ると、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、碁好きの緻密な心理描写と、いぶし銀のような話芸の妙で、十八番中の十八番としました。いまでは、柳家系の噺となったゆえんです。

あの円朝も、はるか後輩の小さんの芸に舌を巻き、「もう決して自分は『笠碁』は演じない」と宣言したといいます。

三代目小さんは円朝をつねに敵視していました。円朝はそうでもなかったようなのですが、小さんだけが、です。

円朝のこの宣言は、三代目小さんには「ざまあみろ」といったところでしょうか。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)も、もちろん得意にしましたが、五代目の「笠碁」は、大師匠の三代目の直系でなく、三代目柳亭燕枝(進藤勝利、1894-1955)に教わったものです。

従来は、待ったのだんなが家の中から碁敵を目で追うしぐさだけで表現したのを、笠をかぶって雨中をうろうろするところを描写するのが特徴でした。

「待った」はタブー

西洋のチェスでは、待った(Take Back)は即負け。「将棋の殿さま」では、殿さまが家来に待ったを強制する場面がありますが、碁盤、もしくは将棋盤の裏側のくぼんだところは、待ったをした者の首を乗せるためのものとか。

碁も、「いったん石を下ろしたら、もう手をつけることはできない」と「笠碁」のだんなの一人が言っていますが、これもチェスのTouch and move&quot(触れたら動かせ!)の原則と共通して、勝負事は洋の東西を問わず、厳しいものという証でしょう。

とはいえ、そう豪語した当人がすぐ臆面もなく「待った」するところが、落語の、人間の弱さに対する観察の行き届いたところです。

囲碁の出てくる噺は、ほかに「碁泥」「柳田格之進」があります。

志ん生の「雨の将棋」

楽屋内でも将棋マニアで知られ、素人離れしてかなり強かったという五代目古今亭志ん生は、「笠碁」を改作して碁を将棋に代え、「雨の将棋」と題して、より笑いの多いものに仕立てました。

オチは、奮戦しているうちに片方の王様が消え、あとで股ぐらから出てきたので、「かなわないから、金の後ろへ逃げた」という珍品です。

小里ん語り、小さんの芸談

「笠碁」の「笠」は、かならず「雨」をイメージさせるものなのですね。弟子の小里んが記憶の底から掘り出した、五代目小さんの芸談です。

師匠に言われたのは「これは秋の雨だぞ」ということです。「秋は人恋しくなるから、じっとしていると、出ていきたくなる。梅雨は鬱陶しいから、碁を打とうという気分とは違う。シトシトシトシトした、大降りじゃない、物悲しいような雨だ」と教わりました。「大山詣りの菅笠で凌げる程度の降りだから」ってね。(中略)「やっぱり、この噺は雨の音が聞こえるようじゃないとダメだ」とも言ってましたよ。喧嘩のあとの物悲しさが、雨で増すというかな。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん+石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席