おわかいのすけ【お若伊之助】落語演目

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【どんな?】

日本橋、生薬屋の娘お若は評判の美人で、一中節の稽古に通う。

心配する母は鳶頭に相談して、若い伊之助にも稽古に通わせたが、猫に鰹節。

ある日、母がお若の部屋での二人のようすを見るや、手切れ金で伊之助をお払い箱に。

やがて、お若はボテレンとなるのだが、相手は伊之助ではなかった……。

円朝全集にも載る、円朝晩年の作品のようですが。因果譚です。

別題:因果塚の由来 離魂病

あらすじ

日本橋横山町三丁目に、栄屋という生薬屋があった。

だんなはもう亡くなって、お内儀かみさん一人で店を切り盛りしているが、そこの娘はお若といって、年は十八、近所でも評判の美人。

この娘がある日、一中節を稽古したいと、母親にねだる。

習わせてやりたいが、年ごろの娘だから問題があってはならないとお内儀さんは思案して、に組の初五郎という、店に出入りの鳶頭に相談する。

ちょうど、初五郎が弟同様に世話している、元侍の菅野伊之助というのが、年は若いが人間も堅くて、芸もしっかりしているということなので、それならと鳶頭の世話で、伊之助が毎日稽古に通ってくることになった。

話は決めたものの、そこは母親の本能。

だんだん心配になってくる。

なにしろ堅いといっても芸人で、しかも年は二十六、男っぷりはよし、それが十八の娘と毎日さし向かいでは、猫に鰹節。

ある日、お若の部屋でぷっつり三味線の音が途切れたものだから、お内儀さん、胸騒ぎがしてそっとのぞくと、案の定。

これは放っておけないと、今のうちに仲を割くことにして、すぐに鳶頭を迎えにやり、三十両の手切れ金で伊之助はお払い箱。

それでもまだ心配で、結局、お若は根岸で町道場を開いている、伯父の長尾一角という侍の家に預けられる身となった。

さあ、お若は生木を割かれて、伊之助への思い詰め、とうとう恋煩いになってしまった。

ある日、
「伊之さんにこれきり会えないくらいなら、いっそ死んで……」
と庭に出ようとすると、垣根の向こうに男の影。

ひょっとしたら、と駆け寄ると、まごうことなき恋しい伊之助。

再び、狂恋の火は燃えて、それから毎晩、監視の目を盗んで二人は忍び会う。

そのうち、お若の腹がボテレンになったので、これでは、いやでもバレる。

一角は、ある夜、現場を見つけ、いっそこの場でたたっ斬って、と思ったが、間に鳶頭が入っていることもあり、一応話をと、翌日、初五郎を呼びつける。

話を聞いて初五郎は仰天。

「手切れ金を渡してある以上、二人が忍び会っては妹に義理が立たん、伊之助の素っ首を引っこ抜いて参れ」
とねじこまれ、初五郎はおっとり刀で家に戻る。

「野郎、さあ、首を出せっ。てめえ、昨夜も行ってたってえじゃねえか。え、はらましちまって、いってえどうするんだ」
「なに言ってるんです。昨夜は鳶頭と吉原じゃないですか」

言われてみれば、確かに覚えがある。

道場に戻って、
「昨夜はどこにいたかはわかってる。なにかの間違いでしょう」
と言ったが、一角、
「おまえを酔いつぶさせておけば、密会するのはわけもない」
と受け付けない。

結局、二人で張り込んでラチを開けることになった。

その夜更け、東叡山寛永寺で打ち出す四ツの鐘がゴーンと響くと、お若の部屋で、なにやら怪しい影が浮かぶ。

いつの間にか、お若がきれいに化粧し、うれしそうに男に寄り添っている。

一角、やにわに種子島に弾丸をこめると、伊之助の胸元めがけてズドーン。

男はその場へ音を立てて倒れる。

お若は気絶した。

駆け寄ってみると、なんとそこには、針のようにびっしりと毛の生えた大狸の死骸。

さてはこいつがお若をたぶらかしていた、と知れたが、気になるのはお若の腹。

月満ちて産んだのが狸の双子。

これを殺して根岸の御行の松の根方に葬ったという、因果塚由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

円朝作なのか

別題を「一名因果塚の由来」といいます。

「円朝全集」(春陽堂)に速記が掲載されていることから、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)がつくった長編人情噺の発端とみなされてきました。

でも、結末が作品として荒唐無稽すぎて不出来なことと、円朝作と断定できるほかの速記がないことで、誰かが円朝の名を語った偽作ではないかという疑いも、昔からもたれています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は「円生全集」の解題で、「私ァどうかと思いますね」と述べています。

しかし、そんなこと言ったら、「円朝作」と伝えられるものには、たとえば「鰍沢」のように、じつは河竹黙阿弥がつくったものとか、条野採菊がこっそりつくった噺を「円朝作」として条野自身が経営する「やまと新聞」に連載した作品群とか、いくつもあります。

明治期とはいえ、今の時代と違って、作家としての個人がまだ確立していない頃の話です。

岩波書店版の「円朝全集」第11巻には「離魂病」の名で「お若伊之助」が収載されています。

白といえなくても黒ともいえない、なにがしか円朝の脳裏を通過した作品という判断で載っているのでしょう。灰色です。

いまのところは、そんなところで肯ずるしかありますまい。

それはともかく。

この噺には、このあと続編があって、お若と伊之助が神奈川宿に駆け落ちし、生まれた岩松という男児と、お若が狸に犯されて生んだ男女の双子(原作では殺さず、養子に出したことになっている)のからむ因果噺となります。

ただ、この続編は筋立てとしては残るものの、実際は口演記録は明治以来、まったくありません。

前半は名人連が競演

実際に高座で演じられる前半は、サスペンスに富んで演者の力量しだいで、けっこうおもしろく聴かせることができる噺です。

円朝の口演記録こそないものの、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)、五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)と、明治から昭和、先の大戦後の大看板が手掛けています。

なかでも、五代目円生はこの噺を十八番にし、戦後は六代目円生が継承して磨きをかけ、第一人者でした。

いろいろなやり方

前半の噺のディテール、人名、筋の設定は演者によってかなり異なります。

例えば、古く三代目柳枝のものは、男嫌いのお若が縁談を苦にしてうつ病になり、それを紛らすために伊之助が雇われることになっています。

お若が預けられた先は実の伯父であるところも、現在演じられる円生のやり方とは異なっています。

円朝の速記では、物語は二人が引き離されたくだりから始まります。

六代目円生は、お若の腰がほっそりしているという描写に「幽霊尻の幻尻、ああいうお尻から出るおならはどんな匂いがするか、かいでみようと一週間後をつけた男がいたな」などのくすぐりを用いて、因果噺の古色蒼然とした印象を弱めるよう工夫していました。

一中節

初世都太夫一中みやこだゆういっちゅう(恵俊、1650-1724、千賀千朴→)が、京都で始めた浄瑠璃(三味線の伴奏での語り物)です。

都一中は、京都の妙福寺(浄土真宗本願寺派)の三代目住職の次男で住職を務めた僧侶でした。

音曲が好きだったので還俗して、幇間などを経て浄瑠璃太夫となり、一中節の創始者に。

一中節は元禄元年(1685)の前後から人気を得てきたようです。

都一中は、近松門左衛門、竹本義太夫、尾形光琳といった元禄文化を牽引した人々の一人ととらえてよいでしょう。

はじめは、上方歌舞伎に伴奏音楽として出て、次第に知られるようになったいきました。

その頃、上方で人気だった義太夫節とは対照的な音調でした。

義太夫節は、大仰で、派手で、緩急交わって、聴いていてドキリとするような音調。三味線は太棹を使います。

対する一中節は、温雅で、柔和で、品がよくてさりげなく、洗練された音調。三味線は中棹を使います。

18世紀早々、一中が江戸に下ると一中節は、そのやさしい上方風からたちまち大評判となりました。商家などの富裕層や上流階級に限られたことですが。

門弟の中には江戸に残って江戸歌舞伎で伴奏したことから、やがては江戸でも広く知られる浄瑠璃となっていきました。

その後はすたれ、ふたたび幕末期に復活しました。

河東節かとうぶし(十寸見河東ますみかとう)、宮薗節みやぞのぶし(宮古路薗八みやこじそのはち)、荻江節おぎえぶし(荻江露友おぎえろゆう)、一中節(都一中)の4者を「古曲こきょく」とまとめて呼びます。極端に衰微した大正期に名づけられました。室内音楽です。

現在の一中節は、都派、菅野派、宇治派の3派に分かれているそうです。

深窓のお若が一中節にあこがれて習うのですから、この噺は幕末頃の設定と考えてよいでしょう。

十二世 都一中による一中節「辰巳の四季」。辰巳は宇治で、極楽浄土の見立て。一中節の本懐です

根岸御行の松

根岸の時雨しぐれおかにあった名松で、そのため別称を「しぐれの松」とも呼ばれます。

御行おぎょう」の名の由来は、寛永寺(天台宗)の門主もんしゅ輪王寺宮りんのうじのみやがこの松の下で勤行ごんぎょう(修行)したことによるもののようです。

寛永寺のトップである門主は代々、法親王ほうしんのう(出家した天皇の子)が就いたため、勤行とはいってもただの「行」ではなく「御行」である、ということなのでしょう。

天皇や将軍など、とりわけ高貴で強力な人には「御」をつけて区別するのは、日本文化の特徴のひとつですね。

根岸御行の松 広重『絵本江戸土産』

江戸期、御行の松の根本近くに、岡田左衛門という人が、先祖から伝わる襟掛けと文覚上人の作と伝わる不動像を石櫃に納めて埋め、その上に石造不動像を安置したのが、そもそもの始まりでした。

子孫の岡田安兵衛は、宝暦年間(1751-64)に、さらに遺書などを納めて、その上に大きな石造不動尊を建立したそうです。

この地中には昔から、なにか霊的な力が宿るいわれがあって、特別な場所だったということですね。

その後、理由はわかりませんが、破却されてしまいました。

文化3年(1806)、貞照尼が願主となって、新たに不動堂を建立したそうです。

ここの松は「根岸の大松」と呼ばれるほどで、全盛期には周囲が4m、高さが13m余というお化け松でした。

時雨岡不動堂 『江戸名所図会』

大正15年(1926)に東京市の天然記念物に指定されましたが、2年後の昭和3年(1928)に枯死。惜しい。

昭和31年(1956)に新たに植樹されました。現在も健在ですが、現存は三代目といいます。

江戸期にはここに福生院ふくしょういんがあったのですが、いまはなく、現在は、松とお堂がセットで時雨岡不動堂(台東区根岸4-9-5)と呼ばれています。

明治維新後は円明山西蔵院宝福寺(真言宗智山派、台東区根岸3-12-38)の境外仏堂となって、宝福寺が管理しています。

寛永寺の手を離れているのですね。

松の隣には、正岡子規(正岡常規、1867-1902)の「薄緑 お行の松は 霞みけり」の句碑があります。

「根岸の里のわび住まい」と一句ひねりたくなる土地だったことが、よくわかりますね。

根岸の里 広重『絵本江戸土産』

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そばせい【そば清】落語演目



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【どんな?】

そばの噺。

そば好きがどうしたらそば賭けで金をせしめられるかという算段。

類話:蛇含草(上方)

あらすじ

旅商人の清兵衛は、自分の背丈だけのそばが食べられるという、大変なそば好き。

食い比べをして負けたことがないので、もう誰も相手にならないほど。

ある時、越後えちごから信州の方に回った時、道に迷って、木陰で一休みしていると、向こうの松の木の下で狩人が居眠りをしている。

見ると、その木の上で大蛇だいじゃがトグロを巻いていて、あっと言う間もなく狩人を一のみ。

人間一匹丸のみしてさすがに苦しくなったのか、傍に生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめると、たちまち膨れていた腹が小さくなって、隠れて震えていた清兵衛に気づかずに行ってしまった。

「ははん、これはいい消化薬になる」
と清兵衛はほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰った。

これさえあれば、腹をこわさずに、無限にそばが食えるので、また賭けで一もうけという算段。

さっそく友達に、そばを七十杯食ってみせると宣言、食えたらそば代は全部友達持ち、おまけに三両の賞金ということで話が決まり、いよいよ清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。

いやその速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十、五十……。

このあたりでさすがの清兵衛も苦しくなり、肩で息を始める。

体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、少し休憩したいからと中入りを申し出て、皆を廊下に出した上、障子をピタリと閉めさせて、例の草をペロリペロリ……。

いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると、清兵衛の姿はない。

さては逃げだしたかとよくよく見たら、そばが羽織を来て座っていた。

しりたい

食いくらべ

有名なのは、文化14年(1817)3月、柳橋の万屋八郎兵衛方で催された大食・大酒コンクールです。

酒組、飯組、菓子組、鰻組、そば組などに分かれ、人間離れのした驚異的な記録が続出しました。

そば組だけの結果をみると、池之端いけのはたの山口屋吉兵衛(38歳)がもり63杯でみごと栄冠。

新吉原の桐屋惣左衛門(42歳)が57杯で2位、浅草の鍵屋長助(45歳)が49杯で3位となっています。

したがって、清兵衛の50余杯(惜しくも永遠に未遂)は決して荒唐無稽こうとうむけいではありません。

これこそデカダンの極北、醤油ののみ比べもありました。

これについては、高木彬光(1920-1995)の短編「飲醤志願」に実態が詳しく描写されています。まさしく死と隣り合わせです。

上方は餅食い競争

類話の上方落語「蛇含草じゃがんそう」は、餅を大食いした男が、かねて隠居にもらってあった蛇含草なる「消化薬」をこっそりのむ設定です。

したがってオチは「餅が甚兵衛(夏羽織)を着てあぐらをかいていた」となります。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、この上方演出をそのまま東京に移植して十八番とし、それ以来、「そば清」とは別に「蛇含草」も東京で演じられるようになりました。

三木助演出は「餅の曲食きょくぐい」が売り物で、「出世は鯉の滝登りの餅」「二ついっぺんに、お染久松相生そめひさまつあいおいの餅」と言いながら、調子よく仕草を交えて、餅をポンポンと腹に放り込んでいきます。

「そば清」の古いやり方

明治期には、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も演じました。

その型を忠実に踏襲した四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)の速記では、清兵衛がなめるとき、「だんだん腹がすいてきたようだ」とつぶやきます。

内臓が溶けつつあるのを、腹の中のそばが溶けたと勘違いしているわけで、笑いの中にも悲劇を予感させる一言ですが、今はこれを入れる人はいないようです。

そばを溶かす草の話

根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)は、『耳嚢みみぶくろ』巻二に「蕎麦そばを解す奇法の事」と題して、荒布あらめ(海藻の一種で食用)がそばを溶かす妙薬であるとの記述を残しています。

真偽のほどはわかりませんが。



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はつてんじん【初天神】落語演目

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【どんな?】

悪ガキの上手をいく、ピンボケな、すれたおやじ、熊五郎の噺です。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳、19世紀の人)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)、三遊亭円弥(林光男、1936-2006)、上方では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)でしたが、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)から継承した三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)も得意としていました。オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

 

 

 

 

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ざっぱい【雑俳】落語演目



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【どんな?】

落語と言えば、コレです。

おまけつきの俳句で丁々発止のご隠居と八五郎。

別題:歌根問い 天 初雪 りん廻し[前半] 雪てん[後半]

あらすじ

長屋の八五郎が、横町の隠居の所に遊びに行くと、このごろ雑俳に凝っていると言う。

題を出して五七五に読み込むというので、おもしろくなって、二人でやり始める。

最初の題は「りん」。

隠居が
「リンリンと 綸子りんず繻子しゅすの 振り袖を 娘に着せて ビラリシャラリン」
とやれば、八五郎が
「リンリンと 綸子や繻子はちと高い 襦袢じゅばんの袖は 安いモスリン」

隠「リンリンと リンと咲いたる 桃桜 嵐につれて 花はチリ(=散り)リン」
八「リンリンと リンとなったる 桃の実を さも欲しそうに あたりキョロリン」「リンリンと 淋病病みは 痛かろう 小便するたび チョビリチョビリン」

今度はぐっと風雅に「初雪」。

隠「初雪や 瓦の鬼も 薄化粧」
八「初雪や これが塩なら 金もうけ」

「春雨」では、八五郎の句が傑作。

「船端を ガリガリかじる 春の鮫」

隠居の俳句仲間が来て、この間「四足」の題で出されたつきあいができたという。

「狩人が 鉄砲置いて 月を見ん 今宵はしかと(=鹿と) 隈(=熊)もなければ……まだ天(最秀句)には上げられない」
と隠居が言うと八五郎、
「隠居さん、初雪や二尺あまりの大イタチこの行く末は何になるらん」
「うん、それなら貂(=天)だろう」

底本:初代三遊亭円遊ほか

【RIZAP COOK】

しりたい

雑俳  【RIZAP COOK】

万治年間(1658-61)に上方で始まり、元禄(1688-1704)以後、江戸を初め全国に広まった付け句遊びです。

七七の題の前に五七五を付ける「前句付け」は、「めでたくもあり めでたくもなし」の前に「門松は 冥土の旅の 一里塚」と付けるように。

五文字の題に七七を付ける「笠付け」、五文字の題を折り込む「折句」などがあり、そこから、「文字あまり」「段々付け」「小倉付け」「中入り」「切句」「尽くし物」「もじり」「廻文」「地口」など、さまざまな言葉遊びが生まれました。

  【RIZAP COOK】

俳諧で、句を添削・評価する人を「点者」といい、雑俳では、天・地・人の三段階で判定します。

柳昇の十八番  【RIZAP COOK】

文化13年(1816)刊の笑話本『弥次郎口』中の「和歌」ほか、いくつかの小ばなしを集めてできたものです。

前半で切る場合は「りん廻し」といい、伸縮自在なので、前座噺としてもポピュラーです。

新作落語を得意とした、春風亭柳昇の数少ない古典の持ちネタの一つで、その飄逸な個性で十八番にしていました。

柳昇がこの噺をやったときは、いつも爆笑の渦。

あの高っ調子で鼻に抜けるような「ふなばたを……」は今も耳に残ります。

最後の「大イタチ……」の狂歌は「三尺の」となっている速記もありますが、大田蜀山人(1749-1823)作と伝わっています。



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さかずきのとのさま【盃の殿さま】落語演目



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【どんな?】

殿さま噺。お大名の権力。ばかばかしくも叙情的に描かれた珍作です。

別題:月の盃 殿さまの廓通い

【あらすじ】

お大名は、上げ膳据え膳で子供の時から育つから、運動不足になりがち。それがもとで、発散できないモヤモヤがたまり、鬱病にかかりやすい。

この噺の殿さまもそれ。口を利くのもイヤ。

むりやり薬をのませると、効かないばかりか、苦いので口直しに羊羹、カステラを山のように食い、胃病を起こして、のたうち回る始末。

どうしたらよいものかと、重役一同頭を悩ましている時、茶坊主が、これならお気晴らしにもなろうかと、献上したのが歌川豊国描く、いま、吉原で全盛の花魁の絵姿の錦絵六枚続き。

お女郎買いのジの字も知らない殿さま、この世にかような美しい女がいるのかと、たちまちボーッとなり、吉原のことを根掘り葉掘り聞いた挙げ句、さっそく乗り込むことにした。

ところが、薬が少々効き過ぎたか、それ以来たちまち魔窟の虜となった殿さま、連日連夜通いづめで乱痴気騒ぎ。

鬱気など蹴飛ばして、中でも花扇という花魁に入れあげる。

家来が止めると、
「あー、気分が悪いぞ。もはや薬はのまん。ウーン」
とすねるので、始末に悪い。

花扇の方でも、こんな上客をしくじってなるものかと、あらん限りご奉仕にこれ努めるから、殿さま、もはやデレデレの骨抜き。

そのうち大名の宿命、参勤交代でお国入りするために江戸を離れなければならなくなった。

こればかりはしかたがないので、最後の晩は花扇と泣きの涙で別れの盃。

領国は九州だから、もう当分会えない。

そこで殿さま、思い出のしるしにと、花魁の豪華な襠(しかけ)を所望し、代わりにいろいろの贈り物を賜わり、家宝の七五三の蒔絵(まきえ)の盃、百亀百鶴を描いた七合入りの豪奢な器で一献酌み交わすと、後ろ髪を引かれるように東海道を西に下る。

殿さま、国に着いても花扇のことが忘れられず、形見の襠を家来に着てみろと言って、困らせる。

じかに逢いたくてたまらなくなり、早見東作という、三百里を十日で走る、家中で一番足の速い足軽に命じ、江戸の花扇に七五三の盃を届け、「返盃」をもらってくるよう言いつけた。

花扇は殿さまの心を知り、感激して一気にのみ干した上、改めて殿さまにご返盃をと頼む。

気の毒なのは東作。

たったそれだけの酔狂のため、青息吐息で三百里を往復。

ところが途中の箱根山で、大名行列の供先を横切って捕らえられ、あわや首が落ちるところを、これこれと事情を説明すると、その殿さまがまた粋なもので、
「大名の遊びはさもありたし。そちの主人にあやかりたい」
と、盃を借りて一気に干した。

国許に着いてこの事を報告すると殿さま、
「お手元が見事じゃ。もう一献と申してこい」

東作、どこの大名だったか聞き忘れたので、どこを尋ねてもわからない。

マゴマゴしてると、明治維新になっちまった……。

底本:二代目柳家小さん 六代目三遊亭円生

【しりたい】

吉原花魁盛衰記

遊女の最高位である太夫は、松の位、大名道具などと呼ばれ、一目顔を拝むだけでも十両はかかりました。

太夫は、享保年間(1716-36)、吉原の遊女が三千人と言われた時代でも六,七人に過ぎません。

太夫に次ぐのが格子女郎で、この二つを併せた尊称が「花魁」。由来は、禿(かむろ=遊女見習いの少女)が付いている姉女郎を「おいらの姉さま」の意味で「おいらん」と呼んだことからだとか。

ところが、宝暦7年(1757)ごろ、太夫も格子も絶えてしまい、繰り上がって第三位だった散茶女郎がトップに出、昼三といって昼夜各三分、計一両二分の揚げ代で花魁と呼ばれるようになりました。

その後、散茶にもランクができ、揚げ代によって、昼三、付け回し、呼び出しと分かれました。その下が梅茶で、これは揚げ代一分。

大名の太夫狂いは、天和年間(1681-84)に五代将軍綱吉が厳しい禁令を出して以来、下火になりました。

それ以後も隠れ遊びをする大名は絶えず、たとえば姫路十万石の殿さま・榊原正岑は、三浦屋抱えの高尾太夫(俗に榊原高尾)を身請けしたとがで転封・隠居謹慎処分になっています。

『江戸の二十四時間』(林美一、河出書房新社、1989年)によると、「遊女」という言葉は、もともと公娼を、また「遊郭」は幕府公許の遊里のみを指すので、江戸では吉原以外にこの名称は許されず、それ以外の私娼はすべて「売女(ばいじょ)」だったよし。いやあ、この本、説明が明快で、ホント、勉強になりますわ。

風格ただよう、円生十八番

生粋の江戸落語ですが、原話その他、出自ははっきりしません。

もと延岡藩士、れっきとした士族出身で大名噺を得意にしていた二代目柳家(禽語楼)小さんの明治23年(1890)の速記(「殿様の廓通ひ」)を参考に、六代目三遊亭円生が、戦後ほとんど一手専売の十八番に仕上げた噺です。

小さんでは、殿さまが通ぶって職人の格好をし、鉈豆煙管(なたまめぎせる)で煙草をのむ場面がありましたが、現代では理解されにくいというので、円生はこうした部分を省きました。

オチは「もう一献と申してまいれ」で切る場合もありますが、円生は「いまだに探して歩いているそうで」としていました。

小さんの速記では、文明開化の時代を反映し、「そのうちに明治23年(つまり、今年)と相なって、上野の勧業博覧会の美術館でようやく殿様にその盃をお渡し申しました」となっていました。



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さいきょうみやげ【西京土産】落語演目



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【どんな?】

明治になって生じた没落士族。その悲哀を背景にした滑稽譚です。

【あらすじ】

長屋に住む、独り者の熊五郎。

隣の元士族で、今は反故屋の作蔵が、女を引き込んでいちゃついているようすなので、おもしろくない。

嫌味を言いに行くと作蔵、実はこれこれこういうわけと、不思議ないきさつを物語る。

母一人子一人の身で、死んだおやじの士族公債も使い果たし、このままでは先の見込みもない。

いずれは道具屋の店でも開こうと一念発起した作蔵。

上方を回って掘り出し物の古道具でも買い集めようと、京から奈良と旅するうち、祇園の芸妓の絵姿が手に入った。

この絵の中の女に一目惚れした作蔵、東京に帰ると、母親が嫁取りを勧めるのも聞かず、朝夕飯や茶を供えて、どうか巡り合えますようと祈っている。

と、その一念が通じたか、ある日、芸妓が絵からスーッと抜け出し
「どうか、あんたのお家はん(=妻)にしてかわいがっとくれやす」

都合のいいことに、女は作蔵がいる時だけ掛け軸の中から出てきて、かいがいしく世話をしてくれる。

この世の者でないから食費もかからず。

しかも絶世の美女ときているので、わが世の春。

毎日、鼻の下を伸ばしている。

母親に見つかってしかられた。

だが、わけを話して許しを得て、今では三人仲良く暮らしている、という次第。

話を聞いてうらやましくてならない熊公、
「こんないい女が手に入るなら、オレも古紙回収業になろう」

熊公は、作蔵からかごを借りる。

鵜の目鷹の目で、抜け出しそうな女の絵を買おうと、近所をうろつきだす。

都合よく、深川の花魁の絵姿の掛け軸が手に入った。

熊は大喜びで毎日毎晩一心に拝んでいる。

その念が通じたか、ある夜、花魁がスーッと絵から抜け出て
「ちょいと、主は本当に粋な人だよ。おまえさんと添い遂げたいけど、ワチキは今まで客を取ってて、体がナマになっているから、鱸の洗いで一杯やりたいねえ。軍鶏が食いたい、牛が食べたい。朝はいつまでも寝てるよ。起きない(=畿内)五か国山城大和」

隣とはえらい違いで、本当に寝ているだけでなにもしない。
「これは、ひどい奴を女房にした」
とぐちる。

ある朝。

熊さんが自分で朝飯をこしらえて花魁の枕元に置き、夕方、仕事から帰ると、もぬけのカラ。

ほうぼう探したが、行方がわからない。

しかたなく、易に凝っている大家に卦を立ててもらうと「清風」と出た。

「セイは清し、フウは風だから。神隠しにあったんだろう」
「そりゃあ、違いましょう。実は柱隠しでございます」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

「鼻の円遊」の創作  【RIZAP COOK】

明治25年(1892)10月、「百花園」掲載の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)の速記が、唯一の記録です。

いわゆる没落士族の悲哀を背景にした噺です。

筋自体は「野ざらし」と「応挙の幽霊」を継ぎ足した感じで、後半の花魁のずうずうしさだけが、笑いのタネです。

円遊は、その年の5月末から8月いっぱい、西京(京都)から関西、東海地方を旅興行で回っているので、噺の題名はその土産話という、ニュアンスなのでしょう。

「西京」は、明治以後に使われた名称です。

江戸が「東京」と改名して首都とされたため、それと区別するために用いたものです。

士族公債

明治2年(1869)の版籍奉還に伴い、同10年(1877)に政府から士族に発行された秩禄(=金禄)公債証書。

一人当たり、平均四十円にも満たないケースがほとんどでした。

そのため、士族の多くは生活に困窮。子女が身売りしたり、落語でよく登場するように慣れない商売に手を出して失敗する悲劇が明治初期、いたるところで見られました。

神隠し  【RIZAP COOK】

いわゆる「蒸発」です。

その当時、子供の「蒸発」はほとんどが人さらいでした。

柱隠し  【RIZAP COOK】

オチが今ではわかりにくくなっていますが、柱隠しは、柱の表面に掛けた装飾のことです。

「たがや」にも登場する「柱暦」もその一つですが、多くは、細長い紙に書画を描いたもので、柱掛け、柱聯ともいいました。

この噺の場合は、柱隠しに使った掛け軸の中から花魁が出現したことを言ったものです。

つまり、神隠しではなく、掛け軸の中にまた戻っていったのだろう、ということでしょう。

江戸時代には、柱隠しを利用した、「聯合わせ」という優雅な遊びがありました。

柱に木製や竹製の聯を掛け、単に飾って自慢しあうだけでなく、その上に手拭い、扇面、短冊、花などをあしらい歌舞伎の下題に見立てて、洒落るなどしたものです。

明治期には、ハンカチを使うこともありました。

のちには、祭礼の神酒所の飾りにしか、見られなくなりました。

清風  【RIZAP COOK】

せいふう。

江戸時代、神隠しは天狗の仕業と考えられ、天狗の羽うちわが起こす風をこう呼びました。

ここでは、冗談半分にそれとしゃれたものです。



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しばはま【芝浜】落語演目



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【どんな?】

浜で財布を拾う棒手振り。

濡れ手に粟のゲス野郎は、間抜けなばっかりに幸せつかみ。

円朝噺。三題噺からの構成のせいか、むちゃくちゃな無理筋運びです。

あらすじ

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。

腕はいいし人間も悪くないが、大酒のみで怠け者。

金が入ると片っ端から質入してのんでしまい、仕事もろくにしないから、年中裏店住まいで店賃もずっと滞っているありさま。

今年も師走で、年越しも近いというのに、勝公、相変わらず仕事を十日も休み、大酒を食らって寝ているばかり。

女房の方は今まで我慢に我慢を重ねていたが、さすがにいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

亭主はぶつくさ言って嫌がるが、盤台もちゃんと糸底に水が張ってあるし、包丁もよく研いであり、わらじも新しくなっているという用意のよさだから文句も言えず、しぶしぶ天秤棒を担ぎ、追い出されるように出かける。

外に出てみると、まだ夜は明けていない。

カカアの奴、時間を間違えて早く起こしゃあがったらしい、ええいめえましいと、勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。

海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてきた。

顔を洗おうと波打ち際に手を入れると、何か触るものがある。

拾ってみるとボロボロの財布らしく、指で中をさぐると確かに金。

二分金で四十二両。

さあ、こうなると、商売どころではない。

当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ますと、年を越せないから仕入れに行ってくれと言う。

金は四十二両もあるじゃねえかとしかると、どこにそんな金がある、おまえさん夢でも見てたんだよ、と、思いがけない言葉。

聞いてみるとずっと寝ていて、昼ごろ突然起きだし、友達を呼んでドンチャン騒ぎをした挙げ句、また酔いつぶれて寝てしまったという。

金を拾ったのは夢、大騒ぎは現実というから念がいっている。

今度はさすがに魚勝も自分が情けなくなり、今日から酒はきっぱりやめて仕事に精を出すと、女房に誓う。

それから三年。

すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。

得意先もつき、金もたまって、今は小さいながら店も構えている。

大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両。

実は亭主が寝た後思い余って大家に相談に行くと、拾った金など使えば後ろに手が回るから、これは奉行所に届け、夢だったの一点張りにしておけという忠告。

そうして隠し通してきたが、落とし主不明でとうにお下がりになっていた。

おまえさんが好きな酒もやめて懸命に働くのを見るにつけ、辛くて申し訳なくて、陰で手を合わせていたと泣く女房。

「とんでもねえ。おめえが夢にしてくれなかったら、今ごろ、おれの首はなかったかもしれねえ。手を合わせるのはこっちの方だ」

女房が、もうおまえさんも大丈夫だからのんどくれと、酒を出す。

勝、そっと口に運んで、
「よそう。……また夢になるといけねえ」

しりたい

三題噺から

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が幕末に、「酔っ払い」「芝浜」「財布」の三題で即席にまとめたといわれる噺です。➡鰍沢

先の大戦後、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、四代目柳家つばめ(深津龍太郎、1892-1961)と安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説、評論)のアドバイスで、白魚船のマクラ、夜明けの空の描写、オチ近くの夫婦の情愛など、独特の江戸情緒をかもし出す演出で十八番とし、昭和29年度の芸術祭賞を受賞しましたが……。

アンツルも三木助も自己陶酔が鼻につき、あまりにもクサすぎるとの評価が当時からあったようです。

まあ、聴く人によって、好き嫌いは当然あるでしょう。

芝浜の河岸

現在の港区芝浦1丁目付近に、金杉浜町という漁師町がありました。

そこに雑魚場という、小魚を扱う小規模な市があり、これが勝五郎の「仕事場」だったわけです。

桜の皮

今と違って、活きの悪い魚を買ってしまうこともありました。

あす来たら ぶてと桜の 皮をなめ   五25

魚屋に鮮度の落ちた鰹を売りつけられた時には、桜の皮をなめること。毒消しになると信じられていました。

いわし売り

そうは言っても、鰹以上に鰯は鮮度の落ちるのが早いものです。

気の迷いさと 取りかへる いわし売   六19

長屋のかみさんが鰯の目利きをしている光景のようです。

「気の迷いさ」とは魚屋の常套句なんですね。

鰯はちょっと変わった魚です。たとえがおもしろい。「鰯」と言ったら、錆びた刀の意味にも使われます。「赤鰯」とも。

たがや」などに登場します。武士をあざける象徴としての言葉です。

本阿弥の いわしは見れど 鯨見ず   十三

鰯と鯨の対比とは大仰な。鰯は取るに足りない意味で持ちだされます。

「いわしのかしらも信心から」ということわざは今でも使われます。江戸時代に生まれた慣用句です。

「取るに足りないつまらないものでも、信心すればありがたいご利益や効験があるものだ」といった意味ですね。

いわし食った鍋

「鰯煮た鍋」「鰯食った鍋」という慣用句も使われました。

「離れがたい間柄」といった意味です。

そのココロは、鰯を煮た鍋はその臭みが離れないから、というところから。

いわし煮た 鍋で髪置 三つ食ひ   十

「髪置」とは「かみおき」で、今の七五三の行事の、三歳の子供が初めて髪を蓄えること。

今は「七五三」とまとめて言っていますが、江戸時代にはそれぞれ独自の行事でした。「帯解」は「おびとき」で七歳の女児の行事、「袴着」は「はかまぎ」で三歳の男児の行事、これはのちに五歳だったり七歳だったりと変化しました。

それと、三歳女児の「髪置」。三つともお祝い事であることと、十一月十五日あたりの行事であることで、明治時代以降、「七五三」と三つにまとめられてしまいました。

それだけ、簡素化したわけです。といった前提知識があると、上の川柳もなかなかしみじみとした含蓄がにじみ出るものです。「大仏餅」参照。

【語の読みと注】
店賃 たなちん



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ひっこしのゆめ【引越しの夢】落語演目



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【どんな?】

店の女がいつかずの商家で、性悪女を雇ってみたら、それがもう、すごい効果に。

別題:初夢 口入れ屋(上方)

【あらすじ】

たいへんに堅物の商家の主人。

奉公人に女のことで間違いがあってはならぬと、日が落ちると猫の子一匹外には出さない、湯にも行かせない、という徹底ぶり。

おかげで吉原にも行けず、欲求不満の若い手代や小僧が、店の女に夜な夜ないたずらを仕掛けるので、とうとう女の奉公人が居つかなくなってしまった。

困った果てに一計を案じただんな、口入れ屋にとびきり不器量な女だけを斡旋するように頼んだが、これも効き目なし。

しかたなく、今度は悪さをする連中を痛い目にあわそうと、特別性悪な女を、という注文。

そこで雇われてきたのがお梅という、二十五、六のいい女。

これが注文通り、たいていの男を手玉に取るという相当なシロモノ。

そうとは知らない店の連中、一目見たきりぼうっとなり、なんとか一番にお梅をモノにしようと、それぞれ悪企みをめぐらす。

一番手は番頭の清兵衛。五十を越して独り身だが、まだ色気は十分。

飯を食いに行くふりをしてお梅のそばに寄り、ネチネチとかき口説く。

先刻承知、海千山千のお梅がしなだれかかり、股のところをツネツネするものだから、たちまちデレデレになり、「予約金」を一包み置いて、今夜の密会を約束して帰っていく。

続いては、手代の平助。

遊び慣れたふりをするが、お梅にかかっては赤子も同然。

清兵衛と同様、金を巻き上げられ、約束の時刻はまったく同じ。

以下、来る者来る者みんなオモチャにされ、金を包んで置いていく。

初日の夜も二日目の夜も、男という男は全員、すきあらばと一晩中寝ないものだから、誰一人首尾を果たせない。

昼間はそろいもそろって寝不足で、あちこちでいびきが聞こえる始末。

三日目の深夜、むっくりと起き上がったのは清兵衛で、抜き足差し足で台所まで来る。

お梅もわるもので、台所から自分の部屋へのはしごを外しておいたのも、知らぬが仏。

清兵衛はキョロキョロ探したあげく、釣ってある鼠入らずの棚に手を掛けて登ろうとしたから、たちまちガラガラッと棚が崩れ、鼠入らずを担いだまま、逃げるに逃げられなくなった。

続いてやって来たのが平助で、やっぱり同様に、清兵衛が担いでいるもう一方に手を掛けたから、二人とも泣くに泣かれぬ鉢合わせ。

もがく声を聞きつけた小僧がだんなにご注進したので「それッ、泥棒が入った」と、大騒ぎに。

だんなが駆けつけると、清兵衛と平助が、二人で鼠入らずを担いで目を開いたままグーグー。

「二人ともどうしたっていうんだ」
「へい、引っ越しの夢を見ました」

【しりたい】

「膝栗毛」からも拝借  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著「醒睡笑」巻七「廃忘」その四で、男色がテーマです。

美少年の若衆が、ある寺へ寺小姓奉公に。

そこの坊主が少年に夢中になり、夜中、寝入ったところに夜這いをかけようと、そっと起き出すが、同じ獲物を狙っていた何人かが跡を付ける。

足音に動転した坊主、壁に大手を広げ、へばりついたので、若衆が目を覚ます。問いただされて、
「はい、蜘蛛のまねをして遊んでます」。

その後、寛政元年(1789)刊の笑話本『御祓川』中の「壬生の開帳」で、かなり現行に近づきますが、文化3年(1806)刊『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)五編・上からも趣向をいただいているようです。

これは、夜這いに忍び出た弥次郎兵衛が、落ちてきた棚を担いでしまい、やってきた喜多八にこれをうまく押し付けて逃げてしまう話です。

上方では「口入れ屋」で  【RIZAP COOK】

上方では、古くから「口入れ屋」として口演されてきました。

いつごろ伝えられたか、江戸でも少し違った型で、幕末には高座に掛けられていたようです。

明治以後、東京でも、上方の型をそのまま踏襲する演者と、古い東京(江戸)風の演出をとる者とに分かれました。

前者は、東京では三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が初演。上方から流れてきた人らしく「口入れ屋」の演題を用いました。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)もこちらで演じました。

後者は「初夢」、または「引越しの夢」と題したもので、明治27年(1894)3月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

東西で異なる型  【RIZAP COOK】

東西で、商家の奉公人が新入りの女中のところに夜ばいに行くという筋立ては変わりませんが、大ざっぱな違いは、上方ではこの前に、船場の布屋という古着屋に、口入れ屋(=桂庵)から女中が送り込まれる場面が発端としてつくことです。

また、女が毒婦という設定はなく、御寮人さんが、若い男の奉公人ばかりの商家に、美人の女中は風紀に悪いと、不細工なのばかり雇うのに、好色・強欲な一番番頭がカリカリ。

丁稚に十銭やっていい女を連れてこさせ、その後口八丁手八丁で口説く場面がつくことも特徴です。

狂言まわしの丁稚のませ振り、三番番頭が「湯屋番」の若だんなよろしく、女中との逢瀬を夢想して一人芝居するなど、いかにも大阪らしい、濃厚であざとい演出です。

上方の演題の「口入れ屋」は、東京の桂庵、今でいう職業紹介所のことです。詳しくは「化け物つかい」「百川」もお読みください。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

先の大戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、六代目五明楼国輔(1854-?)から直伝された東京型で、ねっとりと演じました。「円生百席」に吹き込んだものは、特に極めつけの熱演です。

円生没後は、門下の五代目円楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されました。

その後も、よく高座に掛けられています。

鼠入らず  【RIZAP COOK】

もう説明がなければわらない時代になりました。

要するに、ネズミが入らないように細工した食器棚のこと。

吊り調度です。

吊り調度とは、底板を畳や板敷に置かずに天井から壁に寄って吊り下げた家具です。狭い長屋では便利な発想でした。

これは茶室のしつらえから起こった工法ですから、庶民ばかりか富裕な家でも使われていました。

おおざっぱには、室内空間の上の方には食器などを吊り調度で置き、下の方(床上)には瓶や桶を置くという発想が、江戸期では当たり前でした。

上方噺では、一番番頭と二番番頭が、「薪山」と称した、奉公人の箱膳を積んでおく膳棚を担ぐハメになります。かなり大きな戸棚です。

箱膳は、かぶせ蓋の質素な塗りの四角形の箱。中には食器を入れて、食事の時には蓋を裏にして載せ、食事が終わるとめいめいが食器を洗って、蓋をして膳棚に収納する、というものです。

たいした違いではありませんが、東西の風土の違いが微妙に現れていますね。

二代目桂枝雀(前田達、1939-99)のでは、その後三番番頭が、今度は台所の井戸の淵からターザンよろしく、天窓の紐にぶら下がって二階に着地しようとして失敗。

あえなく井戸にボッチャーン……というハチャメチャ騒動になります。

番頭の好色  【RIZAP COOK】

商家への奉公は、男性なら、早ければ数え年七歳ごろから小僧(上方では丁稚)で入り、十五歳前後で元服して手代となり、番頭に進みます。ここまでは住み込みです。

番頭で実績を重ねると主人から近所に家を借りて所帯を持つことも許されます。

これを通い番頭と言いましたが、この頃にはもう白髪交じりの中年になっているのが通り相場です。

歌舞伎ではよく番頭は好色家に描かれたりしていますが、女に縁薄い生活のためです。なかには、かわいい小僧との衆道に陥る者もいたりして、悩み多き職業でした。詳しくは「藪入り」をお読みください。

大坂以上に江戸の男女差は激しかった(軍事都市の江戸は女性が圧倒的に少なかった)ため、商家の住み込みの女日照りは小さな問題ではなかったようです。

【語の読みと注】

桂庵 けいあん:職業紹介所



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ゆめきん【夢金】落語演目



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【どんな?】

船宿に駆け込んできた男と女。金銭欲丸出しの船頭との取り合わせです。

あらすじ

山谷堀さんやぼりの吉田屋という船宿ふなやど

そこの船頭せんどう、熊五郎は、このところ毎晩のように超現実的な寝言をうなっている。

「金が欲しいな。二十両欲しい。だれかくれぇ」

ある夜、いつものように熊の
「金くれえ」
が始まったころ合いに、門口で大声で案内を乞う者がある。

亭主が出てみると、年のころは三十ばかり、赤羽二重あかはぶたえ黒紋くろもん羽織はおり献上博多けんじょうはかたの帯のぼろぼろになったのを着た侍が、お召し縮緬ちりめんの小袖に蝦夷錦えぞにしきの帯を締め、小紋こもんの羽織、文金高島田ぶんきんたかしまだしとやかにお高祖頭巾こそずきんをかぶった十六、七の娘を連れて、雪の中を素足で立っている。

話を聞くと、今日妹を連れて芝居見物に行ったが、遅くなり、この雪の中を難渋しているので、大橋おおはしまで屋根舟を一艘いっそう仕立ててもらいたいという。

今、船頭は相変わらず
「二十両くれえ」
とやっている熊五郎しかいない。

「大変に欲張りなやつですから、酒手さかて(チップ)の無心でもするとお気の毒ですので」
と断っても
「かまわない」
と言うので、急いで熊を起こして支度をさせる。

舟はまもなく大川の中へ。

酒手の約束につられてしぶしぶ起き出した熊五郎、出がけにグイっとあおってきたものの、雪の中。寒さにブルブル震えながら漕いでいる。

娘の顔をちらちら見て
「こいつら兄妹じゃねえな」
と踏んだが、まあなんにしろ
「早くゼニをくれればいい、酒手をくれ、早く一分くれ」
と独り言を言っていると、侍が舟の障子をガラリと開け
「おい、船頭。ちょっともやえ(止めろ)。きさまに話がある」

女は寝入っている。

「この娘は実は妹ではなく、今日、吉原土手よしわらどてのところで犬に取り巻かれて難儀していたのを助けてやったもの。介抱しながら懐に手を入れると、大枚二百両を持っていたから、これからこの女をさんざんなぐさんだ上、金をとってぶち殺すので手伝え」
という。

熊が仰天して断ると、侍は
「大事を明かした上は命はもらう」
とすごむ。

「それじゃあ、いくらおくんなさいます」
「さすがは欲深いその方。震えながらも値を決めるのは感心だ。二両でどうだ」
「冗談言っちゃいけねえ。二両ばかりの目くされ金で、大事な首がかけられるけえ。山分け、百両でどうでやす。イヤなら舟を引っくり返してやる」

とにかく話がまとまった。

舟中でやるのは証拠が残るからと言って中洲なかすまで漕ぎつけ、侍が先に上がったところをいっぱいにさおを突っ張り、舟を出す。

「ざまあみろ。土左衛門どざえもんになりゃあがれ」

これから娘を親元である本町ほんちょう三丁目の糸屋林蔵に届け、二十両の礼金をせしめる。

思わず金を握りしめた瞬間
「あちいッ」

夢から覚めると熊、おのれの熱いキンを握っていた。

しりたい

六代目円生の芸談

先の大戦後、稠密ちょうみつな人物描写の妙で、この噺には定評のあった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、「これは初めから終わりまで夢……まことにたあいのない噺ですが、出てくる人物の表現、言葉のやりとり、そういったものを形から何からととのえてやれば面白く聞けるというのが、むずかしいところでもあるわけです。(中略)とりわけこの『夢金』なぞは、まずくやったら聞いちゃいられないという噺でございます」と語り残しています。

「芝浜」などと同じく、最後まで夢であると客に悟らせず、緊密な構成と描写力で噺を運ぶ力量が必要とされる、大真打の出し物でしょう。

我欲の浅ましさ

古くは別題を「欲の熊蔵」ともいいました。

その通り、熊に代表される人間の金銭欲のすさまじさ、浅ましさが中心になります。

ただ、その場合も落語のよいところで、その欲望を誰もが持っている業として、苦笑とともに認めることで、この熊五郎も実に愛すべき、今でもどこにでもいそうな人間に思えてきます。

円生は、金銭欲の深さを説明するのに、マクラで「百万円やるからおまえさんをぶち殺させろ」と持ちかけられた男が、「半分の五十万円でいいから、半殺しにしてくれ」という小ばなしを振っています。

オチの改訂

昔からそのものずばり、夢うつつで金玉を握り、その痛さで目覚めるというのが本当で、これでこそ「カネ」と「キン」の洒落でオチが成立するのです。

やはり下品だというので、そのあたりをぼやかす演者も少なくありません。

たとえば、「錦嚢」と題した明治23年(1890)の二代目古今亭今輔の速記では、熱いと思ったらきんたま火鉢(火鉢を股間に挟んで温まる)をして寝ていた、と苦肉の改訂をしていますし、立川談志は、金玉の部分をまったくカットして、「静にしろッ、熊公ッ」と初めの寝言の場面に戻り、親方にどなられて目覚める幕切れにしていました。

明治の珍演出

『落語鑑賞』(安藤鶴夫、苦楽社、1949年)には「小さん・聞書」と題された四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の芸談が収められています。これによると、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)は、「夢金」を演ずるとき、始めから終わりまで、人物のセリフも地の語りもすべて、人気役者や故人の落語家、講釈師の声色(声帯模写)で通したということです。

これは「夢金」だけに限られたといいますから、それだけこの噺は、芝居がかったセリフが目立つということなのでしょう。

お召し縮緬と蝦夷錦

お召し縮緬は、横に強い撚りをかけた糸を織り込み、織ったあと、ぬるま湯に入れてしぼり立てた絹織物です。しま、無地、紋、錦紗きんしゃなどの種類があります。

「お召し」とは貴人が着用したことから付いた名称です。

蝦夷錦えぞにしきは、繻子地しゅすじに金糸、銀糸と染め糸で雲竜の紋を織り出した錦。

清国でつくられたものが、満洲(中国東北部)→樺太→蝦夷(北海道)経由で入ってきたため、この名があります。

清朝の役人がアイヌと交易していたのです。

このような密交易は清朝では禁じられていました。

密輸ですね。

アイヌの族長が蝦夷錦を羽織って得意顔の絵の数々は、蠣崎波響かきざきはきょうの作品群の中でも特徴的です。

夷酋列像「チョウサマ(超殺麻)ウラヤスベツ乙名」蠣崎波響・筆

文金高島田

日本髪で、島田髷しまだまげの根を高く上げ、油で固めて結ったものです。

高尚、優美な髪型で、江戸時代には御殿女中、明治維新後は花嫁の正装となりました。

これに似せた「文金風」は男の髪型で、髷の根を上げて前に出し、月代さかやきに向かって急傾斜させた形です。

お高祖頭巾

おこそずきん。

四角な切地に紐を付けた頭巾で、頭、面、耳を隠し、目だけを出します。

婦人の防寒用で、袖頭巾ともいいます。

時代劇で、ワケありの女がお忍びで夜出歩くときに、よく紫地のものをかぶっていますね。

お高祖とは日蓮をさします。



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ゆめのさけ【夢の酒】落語演目



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【どんな?】

酒を燗して飲もうとするけれど、夢がさめて……。

桂文楽が昭和10年頃に磨き上げた、珠玉の噺。

【あらすじ】

大黒屋の若だんなが夢を見てニタニタ。

かみさんが気になって起こし、どんな夢かしつこく聞くと「おまえ、怒るといけないから」

怒らないならと約束して、やっと聞き出した話が次の通り。

(夢の中で)若だんなが向島に用足しで出かけると、夕立に遭った。

さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、女中が見つけ
「あら、ご新造さん、あなたが終始お噂の、大黒屋の若だんながいらっしゃいましたよッ」
「そうかい」
と、泳ぐように出てきたのが、歳のころ二十五、六、色白のいい女。

「まあ、よくいらっしゃいました。そこでは飛沫がかかります。どうぞこちらへ」

遠慮も果てず、中へ押し上げられ、世話話をしているとお膳が出て酒が出る。

盃をさされたので
「家の親父は三度の飯より酒好きですが、あたしは一滴も頂けません」
と断っても、女はすすめ上手。

「まんざら毒も入ってないんですから」
と言われると、ついその気でお銚子三本。

そのうちご新造が三味線で小唄に都々逸。

「これほど思うにもし添われずば、わたしゃ出雲へ暴れ込む……」

顔をじっと覗きこむ、そのあだっぽさに、頭がくらくら。

「まあ、どうしましょう。お竹や」
と、離れに床をとって介抱してくれる。落ち着いたので礼を言うと
「今度はあたしの方が頭が痛くなりました。いいえ、かまわないんですよ。あなたの裾の方へ入らしていただければ」
と、燃えるような長襦袢の女がスーッと……というところで、かみさん、嫉妬に乱れ、金きり声で泣き出した。

聞きつけたおやじが
「昼日中から何てざまだ。奉公人の手前面目ない」
と若夫婦をしかると、かみさんが泣きながら訴える。

「ふん、ふん、……こりゃ、お花の怒るのももっともだ。せがれッ。なんてえ、そうおまえはふしだらな男」
と、カンカン。

「お父つぁん、冗談言っちゃいけません。これは夢の話です」
「え、なに、夢? なんてこったい。夢ならそうおまえ、泣いて騒ぐこともないだろう」

おやじがあきれると、かみさん、日ごろからそうしたいと思っているから夢に出るんですと、引き下がらない。挙げ句の果てに、親父に、その向島の家に行って
「なぜ、せがれにふしだらなまねをした
と、女に文句を言ってきてくれ」と頼む。

淡島さまの上の句を詠みあげて寝れば、人の夢の中に入れるというからと譲らず、その場でおやじは寝かされてしまった。

(夢で)「ご新造さーん、大黒屋のだんながお見えですよ」

女が出てきて
「あらまあ、どうぞお上がりを」
「せがれが先刻はお世話に」
というわけで、上がり込む。

「ばかだね。お茶を持ってくるやつがありますか。さっき若だんなが『おやじは三度の飯より酒が好きだ』と、おっしゃったじゃないか。早く燗をつけて……え? 火を落として……早くおこして持っといで。じきにお燗がつきますから、どうぞご辛抱なすって。その間、冷酒で召し上がったら」
「いや、冷酒はあたし、いただきません。冷酒でしくじりましてな。へへ、お燗はまだでしょうか」
と言っているところで、起こされた。

「うーん、惜しいことをしたな」
「お小言をおっしゃろうというところを、お起こし申しましたか」
「いや、ヒヤでもよかった」

【しりたい】

改作の改作の改作  【RIZAP COOK】

古くからあった人情噺「雪の瀬川」(松葉屋瀬川)が、元の「橋場の雪」(別題「夢の瀬川」)として落とし噺化され、それを(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)が現行のオチに直し、「隅田の夕立」「夢の後家」の二通りに改作。

後者は、明治24年(1891)12月、「百花園」掲載の速記があります。

このうち「隅田の夕立」の方は円遊が、夢の舞台を向島の雪から大川の雨に代え、より笑いを多くしたものと見られます。

元の「橋場の雪」は三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の、明治29年(1896)の速記がありますが、円遊の時点で「改作の改作の改作」。ややっこしいかぎりです。

決定版「文楽十八番」  【RIZAP COOK】

もう一つの「改作の改作の改作」の「夢の後家」の方を、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が昭和10年(1935)前後に手を加え、「夢の酒」として磨き上げました。

つまり、文楽で「改作の改作の改作の改作」。

文楽はそれまで、「夢の瀬川(橋場の雪)」をやっていましたが、自らのオリジナルで得意の女の色気を十分に出し、情緒あふれる名品に仕立て、終生の十八番としました。

円遊は導入部に「権助提灯」を短くしたものを入れましたが、文楽はそれをカットしています。

オチの部分の原話は中国明代の笑話集『笑府』中の「好飲」で、本邦では安永3年(1774)刊『落噺笑種蒔』中の「上酒」、同5年(1776)刊の『夕涼新話集』中の「夢の有合」に翻案されました。

どちらもオチは現行通りのものです。

夢を女房が嫉妬するくだりは、安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「ゆめ」に原型があります。

「夢の後家」  【RIZAP COOK】

「夢の後家」の方は、「夢の酒」と大筋は変わりません。

夢で女に会うのが大磯の海水浴場、それから汽車で横須賀から横浜を見物し、東京に戻って女の家で一杯、と、いかにも円遊らしい明治新風俗を織り込んだ設定です。

「橋場の雪」のあらすじ  【RIZAP COOK】

少し長くなりますが、「橋場の雪」のあらすじを。

若だんなが雪見酒をやっているうちに眠りこけ、夢の中で幇間の一八(次郎八)が、瀬川花魁が向島の料亭で呼んでいるというので、橋場の渡しまで行くと雪に降られ、傘をさしかけてくれたのがあだな年増。結局瀬川に逢えず、小僧の定吉(捨松)に船を漕がせて引き返し、その女のところでしっぽりというところで起こされ、女房と親父に詰問される。夢と釈明して許されるが、定吉に肩をたたかせているうち二人ともまた寝てしまう。女中が「若だんなはまた女のところへ」とご注進すると、かみさん「ここで寝ているじゃないか」「でも、定どんが船を漕いでます」とオチ。

三代目小さんは、主人公をだんなで演じました。上方では「夢の悋気」と題し、あらすじ、オチは同じです。

本家本元「雪の瀬川」  【RIZAP COOK】

原話、作者は不明です。

「明烏」の主人公よろしく、引きこもりで本ばかり読んでいる若だんなの善次郎。番頭が心配して、気を利かせて無理に吉原へ連れ出し、金に糸目をつけず、今全盛の瀬川花魁を取り持ちます。ところが薬が効きすぎ、若だんなはたちまちぐずぐずになってあっという間に八百両の金を蕩尽。結局勘当の身に。世をはかなんで永代橋から身投げしようとするのを、元奉公人で屑屋の忠蔵夫婦に助けられ、そのまま忠蔵の長屋に居候となります。落剥しても、瀬川のことが片時も忘れられない善次郎、恋文と金の無心に吉原まで使いをやると、ちょうど花魁も善次郎に恋煩いで寝たきり。そこへ手紙が来たので瀬川は喜んで、病もあっという間に消し飛びます。ある夜、瀬川はとうとう廓を抜け、しんしんと雪の降る夜、恋しい若だんなのもとへ……。結局、それほど好きあっているのならと、親元に噺をして身請けし、めでたく善次郎の勘当も解けて晴れて夫婦に。

といった、ハッピーエンドです。

夢の場面はなく、こちらは、三遊本流の本格の人情噺。

別題「松葉屋瀬川」で、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、ノーカットでしっとりと演じました。

淡島さまと淡島信仰  【RIZAP COOK】

淡島さまの総本社は和歌山市加太の淡嶋神社です。

ご神体は、少彦名命すくなひこなのみこと大己貴命おほなむじのみこと息長足姫命おきながたらしひめのみことです。

大己貴命は、通説では、大国主命と同じとされています。

少彦名命は蘆船でやってきた外来神で、大国主命と協力して国造りをなし遂げた後、帰っていきました。

大陸から渡来した、先進技術を持った人の象徴です。秦氏とか。

息長足姫命は神功皇后のことです。

仲哀天皇の皇后で、韓半島に行って三韓征伐をしたという伝説があります。

明治期から昭和戦前期までは、日本人の誰もが知っている人でした。

後の応神天皇をおなかに抱えたまま、船で韓半島に向かった勇ましい人です。

このように見ると、淡嶋神社は出雲系なのでしょう。

しかも、水と女性に深いかかわりのある神社のようです。

江戸では浅草寺と、北沢の森厳寺しんげんじ(世田谷区代沢三丁目)が有名でした。

ともに、境内に淡島堂が建っています。

江戸時代には淡島願人なる淡島信仰専門の願人坊主が江戸市中を回って、婦人病や腰痛に効能がある旨を触れて回りました。

浅草寺境内の淡島神社は、仲見世を背にすると左側に六角のお堂が建っていますが、そこのあたりにありました。

昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失しましたが、六角堂は残りました。

これを淡島堂と呼んでいます。

森厳寺は、腰痛に悩んでいた開山(慶長12=1607年)の清誉上人が、出身地である加太の淡島明神に願を掛けたところ、霊夢によって淡島神から治療法を教えられたので、上人はそのお通りにやってみたら完治。

弟子たちにも療法を教え、ここはまるで外科医院のように。上人は淡島神の威徳を感じて、この地に勧請(分霊)しました。

それが淡島堂。森厳寺は浄土宗の寺院です。

浄土宗は願人坊主をうまく宣伝に使いました。と同時に、森厳寺は北沢八幡の別当でもありました。

明治時代以前には神仏習合が一般的で、寺と神社が混在合体していることがありました。

北沢八幡と森厳寺とはいっしょだったのです。

噺中の「淡島さまの上の句」云々は「われ頼む 人の悩みの なごめずば 世に淡島の 神といはれじ」という歌。

淡島願人が唱えて回った祭文の一部でした。人の夢に入り込めないのなら神さまじゃないと言っています。淡島信仰と夢のかかわりは森厳寺の清誉上人の霊夢に発するものでした。それをうまく利用して、願人が淡島神の霊験を説いて回ったのでした。

淡島さまの信仰は各地にあります。淡島神社、淡嶋神社、粟島神社。みんな淡島信仰の神社です。全国に約1000社あるそうです。花街、遊郭、妾宅の多かった地区に祀られていることが多いようです。

たとえば、日本橋浜町。ここは、明治期には妾宅の街として名をとどろかします。

艶福家の渋沢栄一(1840-1931)もこの地に妾宅を構えて、68歳で子をなしました。

この町内にも淡島さまがありました。

今はありませんが、明治期には清正公寺(日蓮宗)の境内にしっかりあったということです。

水と女性にかかわる信仰は、生命の根源を象徴する水からのイメージで、性と生殖をも結び付けます。

淡島神は縁結びの神でもあるし、付会だそうですが、淡島神は住吉神の女房神とされてもいますから、男女の夢を結ぶ、男女が航海する(ともに人生を歩む)という意味合いも生まれていきます。

和歌山市加太の淡嶋神社からの勧請(分霊、霊のおすそ分け)で、全国に広まっています。

淡嶋神社では小さな赤い紙の人形を女性のお守りとして配布しています。

おおざっぱには、淡島信仰は、元禄期から始まります。

淡島願人といわれる願人坊主の一種が多く出回りました。

願人坊主ですから、祭文を唱えて歩き、全国に広まりました。

街でぼろをまとってのそのそ歩いている人などを見て、昔の人(昭和ヒトケタ生まれ以前の人)は「淡島さまのようだ」などと言いました。

決してからかったり馬鹿にしたりするのではないようなのです。こんな襤褸(ぼろ)のなりは仮の姿であることを先刻承知しているかのようなまなざしで。

『古事記』で、イザナギとイザナミが最初に子をなすのはアワシマ。次がヒルゴ。

ともに失敗と感じて蘆船に乗せて海に流します。淡島神の発祥はここからで、不完全で醜いイメージがついて回ります。

「淡」にはよくない意味あいも含まれているんだそうです。

なおかつ、女性を守る神さまですから、淡島信仰では針供養などもさかんに行われまして、布に何本も針を刺すと布がぼろぼろになります。

これを人々は「淡島さまのようだ」と感じたようなのです。

ここから、蘆船に乗ってきて、体が小さくてことばが通じない少彦名命。

でも、ものすごいポテンシャルをもっていたこの神さまのイメージを重ねたのでしょう。

見た目では侮れない存在として。



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いまどのきつね【今戸の狐】落語演目

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【どんな?】

ないしょの副業で今戸焼に励む良輔。そのようすを見逃さなかった博打打ちが……。

この噺の根本は、いすかはしのかけ違い。その妙が笑いへと。

あらすじ

安政の頃。

乾坤坊良斎けんこんぼうりょうさいという自作自演の噺家の弟子で、良輔りょうすけという、こちらは作者専門の男。

どう考えても作者では食っていけないので、ひとつ、噺家に転向しようと、当時大看板で三題噺さんだいばなしの名人とうたわれている初代三笑亭可楽さんしょうていからくに無理に頼み込み、弟子にしてもらった。

ところが、期待とは大違い。

修行は厳しいし、客の来ない場末の寄席にしか出してもらえないので、食うものも食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。

内職をしたいが、師匠がやかましくて、見つかればたちまちクビは必定。

しかし、もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなくなった。

たまたま住んでいたのが今戸で、ここは今戸焼きという、素焼きの土器や人形の本場。

そこで良輔、もともと器用なたちなので、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいた。

良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋こまものやの家がある。

そこのかみさんは千住(通称、骨=コツ)の女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これもなにか手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ、と強談判こわだんぱん

良輔も承知するほかない。

一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになった。

こちらは中橋なかばしの可楽の家。

師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽のらくが、夜中に寄席でクジを売ってもらった金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人。

博打ばくちに負けてすってんてんにされ、やけになっているところに前座の金を数える音がジャラジャラと聞こえてきたので、これはてっきりご法度はっとの素人博打を噺家が開帳していると思い込み、「これは金になる」とほくそ笑む。

翌朝。

さっそく、可楽のところに押しかけ、
「お宅では夜遅く狐チョボイチ(博打の一種)をなさっているようだが、しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したい」とゆする。

これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだ、と教える。

乃楽から道を聞き出し、今戸までやってきた虎、さっそく、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。

「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」

ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。

「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「まぬけめっ、オレが探してんのは、こつさいだっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

講釈名人の実話

江戸後期の講釈師、乾坤坊良斎(1769-1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。

良斎は神田松枝町かんだまつえだちょうで貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)門下の噺家になり、のちに講釈師に転じた人。

本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談しらこやせいだん」ほかの世話講談をものしました。

この噺は、良斎が初代菅良助(梅沢良助、1769-1860)の名で噺家だったころの体験談を弟子の二代目菅良助(本名不詳、生没年不詳)のこととして創作(あるいは述懐)しているため、話がややこしくなっています。

ちなみに、二代目良助はその後、初代立川談志となった人だとか。

良斎の若い頃なら文化年間(1804-18)ですが、この人が噺家をあきらめ、剃髪して講釈師に転じたのは天保末年(1840年ごろ)といわれます。

長命ではあったものの、もう晩年に近いので、やはり弟子のことにしないと無理が生じるため、噺の舞台は安政期(1854-60)に設定してあります。

志ん生専売の「楽屋ネタ」

明治期の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907)の速記が残っています。

古風な噺で、オチの「コツ」や今戸焼など、現在ではまったくわからなくなっています。

戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)しか演じ手がありませんでした。

志ん生の二人の子息、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-1982)と三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が継承して手掛けていました。

現在でもこの一門を中心に、ホール落語などではごくたまに聴かれます。

落語家自身が主人公になる話はたいへんに珍しく、その意味で、噺のマクラによくある「楽屋ネタ」をふくらませたものともいえるでしょう。

幕末の江戸の場末の風俗や落語家の暮らしぶりの貴重なルポになっているのが取り得の噺です。

志ん生も、一銭のうどんしかすすれなかったり「飯が好きじゃあ噺家になれねえよ」と脅されたりした昔の前座の貧しさをマクラでおもしろおかしく語り、客の興味をなんとかつなげようと苦心していました。

今戸焼

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が得意にした「今戸焼」にも登場します。

起源は天正年間(1573-91)に遡るという焼き物。

土器人形が主で、火鉢や灯心皿も作ります。

狐チョボイチ

単に「狐」、また「狐チョボ」ともいいます。

寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

本来、「チョボイチ」がサイコロ一つ、「丁半」が二つ、「狐」が三つと決まっているので、厳密には「狐チョボイチ」は誤りでしょう。

このバクチ、イカサマや張った目のすり替えが行われやすく、終いには狐に化かされたように、「誰が自分の銭ィ持ってっちゃったんだか、わからなくなっちまいます」(志ん生)ので、この名が付いたとか。

女郎のように人をたぶらかす習性の者を「狐」と呼んだので、噺の内容から、当然この言葉はそれと掛けてあるわけです。

寄席くじ

江戸時代の寄席では、中入りの時、前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、前座の貴重な収入源でした。

これも志ん生によると、景品はきんか糖でこしらえた「鯛」や「布袋さま」と決まっていたようで、当たっても持っていく客は少なく、のべつ同じものが出ていたため、しまいには鯛のうろこが溶けてなくなってしまったとか。

コツ

千住小塚原(荒川区南千住八丁目)の異称です。

刑場で有名ですが、岡場所(私娼窟)があり、「藁人形」にも登場しました。

刑場から骨を連想し、骨ヶ原(コツガハラ)から小塚原(コヅカッパラ)となったもので、オチに通じる「コツの妻」は、骨製の安物の寨と妻を掛けた地口です。

この噺、ここがわかっていないとオチで笑えません。

そこで志ん生は、噺の最初に千住を「コツ」と呼んでいたことを入念に話していました。

今戸中橋

なかばし。今戸は、台東区今戸一、二丁目で、江戸郊外有数の景勝地でした。今は見る影もありません。

現在は埋め立てられた今戸橋は、文禄年間(1592-96)以前に架橋された古い橋で、その東詰には文人墨客が集った有名な料亭・有明楼がありましたが、現在墨田公園になっています。

南詰には昭和4年(1929)、言問橋が架けられるまで対岸の三囲神社との間を渡船でつなぐ「竹屋の渡し」がありました。

中橋は中央区八重洲一丁目。「金明竹」「代脈」「中沢道二」ほかにも登場します。

【語の読みと注】
乾坤坊良斎 けんこんぼうりょうさい
質 たち
糊口をしのぐ ここうをしのぐ
乃楽 のらく
妻 さい

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きんめいちく【金明竹】落語演目

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【どんな?】

骨董を題材にした前座噺。

小気味いい言い立てが聴きどころです。耳に楽しいですね。

別題:長口上 骨皮 夕立 与太郎 

【あらすじ】

骨董屋こっとうやのおじさんに世話になっている与太郎よたろう

少々頭にかすみがかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品のじゃ傘を貸してしまって、それっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使いものにならないから、き付けにするので物置ものおきへ放り込んであると断るんだ」
しかった。

すると、ねずみが暴れて困るので、猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相そそうがあってはならないから、またたびをめさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利めききを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で、小言ばかり。

次に来たのは上方者かみがたものらしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋なかばし加賀屋佐吉かがやさきち方から参じました。先度せんど、仲買いの弥市やいちの取り次ぎました道具七品どうぐななしなのうち、祐乗ゆうじょう宗乗そうじょう光乗こうじょう三作の三所物みところもの、並びに備前長船びぜんおさふね則光のりみつ四分一しぶいちごしらえ横谷宗珉よこやそうみん小柄こつか付きの脇差わきざし柄前つかまえはな、旦那はんが鉄刀木たがやさんやといやはって、やっぱりありゃ埋もれ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。自在じざいは、黄檗山おうばくさん金明竹きんめいちく寸胴ずんどうの花いけには遠州宗甫えんしゅうそうほめいが入っております。織部おりべ香合こうごう、のんこの茶碗ちゃわん古池ふるいけかわずとびこむ水の音、と申します。あれは、風羅坊正筆ふうらぼうしょうひつの掛け物で、沢庵たくあん木庵もくあん隠元禅師いんげんぜんじ貼り交ぜの小屏風こびょうぶ、あの屏風びょうぶはなあ、もし、わての旦那の檀那寺だんなでらが、兵庫ひょうごにおましてな、この兵庫ひょうご坊主ぼうずの好みまする屏風びょうぶじゃによって、表具ひょうぐへやって兵庫ひょうご坊主ぼうず屏風びょうぶにいたしますと、かようにおことづけを願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買いの弥市が気がふれて、遊女ゆうじょ孝女こうじょで、掃除そうじが好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに寸胴斬ずんどぎりにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆いんげんまめ沢庵たくあんばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前びぜんの国に親船おやふねで行こうとしたら、兵庫ひょうごへ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風びょうぶを立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗叔(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。

「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵はやしやしょうぞう(1781-1842)が天保てんぽう5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰ひゃっかせん』中に入れた「阿呆あほう口上こうじょうナ」が原話。

これは与太郎が笑太郎しょうたろうとなっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉きくていじゅぎょう)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つです。

前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは、明治時代になってからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意しんぼち(出家したての僧)で、ワキが住職。

檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断った。聞いた住職が怒り、新発意が「お師匠さまが門前の女とナニしているのは『駄狂い』だ」と口答えして、大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。

三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗叔いしいそうしゅくは医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮ほねかわ」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬えんきょう(柴田清五郎、1865-1912)、さらに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が得意にしました。

円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目円生、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)など、多数の大看板が手がけました。

なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは三巨匠それぞれ残っています。

口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のもあります。

言い立ての中身

この噺の言い立て、要は道具七品を説明しているのです。整理してみましょう。

その1 備前長船則光の脇差
脇差とは一般的な日本刀よりも短い刀剣。後藤祐乗(1440-1512、初代)、後藤宗乗(1461-1538、二代)、後藤光乗(1529-1620、四代)は後藤家の金工。後藤は金細工の流派。三所物とは、刀の柄の目貫、小柄、笄の三品で、備前長船の柄のこしらえ(飾り)。目貫は柄の中央の表裏に据えられた小さな金具。小柄は刀の鞘に付けられた細工用の小刀。笄は刀の差表に挿しておき、髪をなでつけるのに用いるもの。拵えとは刀の外装。横谷宗珉の四分一分(銀と銅の合金、その割合で、灰黒色の金物)とは小柄の拵のこと。柄前とは刀の柄、刀の柄の体裁、柄のつくりをさします。柄前は鉄刀木ではなく埋もれ木。埋もれ木とは地層中に埋もれて化石ようになった樹木。ここでは、三所物と脇差で一品と数えているようです。

その2 金明竹の自在鉤
自在鉤じざいかぎとは、囲炉裏いろりの上にぶら下がっている金属製の鉤をつなげた竹のこと。金明竹とは、マダケの栽培品種。かん(茎のこと)、枝は黄色を帯び、緑条が入ります。竹の皮は黄色。別名は、しまだけ、ひょんちく、あおきたけ、きんぎんちく、べっこうちく。

その3 金明竹の花いけ
金明竹を寸胴に切った素朴な花いけ。寸胴は上から下まで同じように太いこと。遠州宗甫は小堀遠州のこと。小堀遠州(1579-1647)は茶人。宗甫の銘(器物に刻み記した作者の名前)が入った花いけですが、華道遠州という生花の流派があります。小堀遠州を祖と仰いでいます。これとは別に、茶道には遠州流という流派があります。

その4 織部の香合
織部は古田織部(1544-1614)。武将で茶人。利休七哲の一人です。織部が作った香合。香合とは茶道で香を入れる蓋付き容器です。

その5 のんこの茶碗
のんことは、楽焼らくやき本家の三代目楽道入らくどうにゅうの俗称。ここでは、道入の作った楽焼茶碗のことです。

その6 松尾芭蕉の掛け軸
風羅坊とは松尾芭蕉の坊号。正筆は真筆。芭蕉が書いた掛け軸ということですね。

その7 沢庵、木庵、隠元禅師貼り交ぜの小屏風
三人の僧侶がそれぞれに記した書を、ひとつの屏風に貼り合わせたもの。貼り交ぜの常識では、隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)、木庵性瑫もくあんしょうとう(1611-84)、即非如一そくひじょいつ(1616-1671)の三人が一般的で、これは煎茶に用いる道具です。三者とも黄檗宗の高僧です。沢庵宗澎たくあんそうほう(1573-1646)のは抹茶に用いるもの。ですから、沢庵、木庵、隠元の貼り交ぜはありません。ここはおかしい。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗ごとうゆうじょう

(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政あしかがよしまさ庇護ひごを受け、特に目貫めぬきにすぐれた作品が多く残ります。

後藤光乗ごとうこうじょう(1529-1620)はその曽孫そうそんで、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船おさふねは鎌倉時代の備前国びぜんのくに(岡山県)の刀工・長船氏。備前派、長船派といわれる刀工グループです。

祖の光忠みつただは鎌倉時代の人。子の長光ながみつ(1274-1304)、弟子の則光のりみつなど、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉よこやそうみん(1670-1733)は江戸時代中期の金工きんこうで、絵画風彫金ちょうきんの考案者。小柄こつか獅子牡丹ししぼたんなどの絵彫りを得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省ふっけんしょう原産の黄金色の名竹です。

福建省の黄檗山万福寺おうばくさんまんぷくじから日本に渡来し、黄檗宗おうばくしゅうの開祖となった隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。

観賞用、または筆軸、煙管きせる羅宇らおなどの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴にげんきんの師匠の飼い猫・三毛子みけこの珍セリフとして書かれている「天璋院てんしょういん様の御祐筆ごゆうひつの妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」。

これは、落語マニアで三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)や初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利はんどうかずとし氏)があります。

落語にはこの手のくすぐりがかなりあるもので、なんとも言えません。

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どうぐや【道具屋】落語演目

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 【どんな?】

ご存じ、与太郎の商売。屑物売りで抱腹絶倒の笑い話が生まれます。

別題:道具の開業 露天の道具屋

あらすじ】  

神田三河町かんだみかわちょうの大家、杢兵衛もくべえおいの与太郎。

三十六にもなるが頭は少し鯉のぼりで、ろくに仕事もしないで年中ぶらぶらしている。

この間、珍しくも商売気を出し、伝書鳩を売ったら、自分の所に帰ってくるから丸もうけだとうまいことを考えたが、鳥屋に帰ってしまってパー、という具合。

心配したおじさん、自分が副業に屑物くずものを売る道具屋をやっているので、商売のコツを言い聞かせ、商売道具一切を持たせて送り出す。

その品物がまたひどくて、おひなさまの首が抜けたのだの、火事場で拾った真っ赤にびたのこぎりだの、はいてひょろっとよろけると、たちまちビリッと破れる「ヒョロビリの股引ももひき」だので、ろくなものがない。

「元帳があるからそれを見て、倍にふっかけて後で値引きしても二、三銭のもうけは出るから、それで好きなものでも食いな」
と言われたので、与太郎、早くも舌なめずり。

やってきたのが蔵前の質屋、伊勢屋の脇。

煉瓦塀れんがべいの前に、日向ぼっこしている間に売れるという、昼店の天道干てんとぼしの露天商が店を並べている。

いきなり
「おい、道具屋」
「へい、なにか差し上げますか」
「おもしれえな。そこになる石をさしあげてみろい」

道具屋のおやじ、度肝を抜かれたが、ああ、あの話にきいている杢兵衛さんの甥で、少し馬……と言いかけて口を押さえ、品物にはたきをかけておくなど、商売のやり方を教えてくれる。

当の与太郎、そばのてんぶら屋ばかり見ていて、上の空。

最初の客は、大工の棟梁とうりゅう

釘抜きを閻魔えんまだの、ノコが甘いのと、符丁ふちょうで言うからわからない。

火事場で拾った鋸と聞き、棟梁は怒って行ってしまう。

「見ろ、小便されたじゃねえか」

つまり、買わずに逃げられたこと。

次の客は隠居。

唐詩選とうしせん」の本を見れば表紙だけ、万年青おもとだと思ったらシルクハットの縁の取れたのと、ろくな代物がないので渋い顔。

毛抜きを見つけてひげを抜きはじめ、
「ああ、さっぱりした。伸びた時分にまた来る」

その次は車屋。

股引きを見せろと言う。

「あなた、断っときますが、小便はだめですよ」
「だって、割れてるじゃねえか」
「割れてたってダメです」

これでまた失敗。

お次は田舎出の壮士風。

「おい、その短刀を見せんか」

刃を見ようとするが、錆びついているのか、なかなか抜けない。

与太郎も手伝って、両方からヒノフノミィ。
「抜けないな」
「抜けません」
「どうしてだ」
「木刀です」

しかたがないので、鉄砲を手に取って
「これはなんぼか」
「一本です」
「鉄砲の代じゃ」
かしです」
「金じゃ」
「鉄です」
「ばかだな、きさま。値じゃ」
「音はズドーン」

底本:五代目柳家小さん

しりたい】 

円朝もやった  【RIZAP COOK】

古くからある小咄を集めてできたものです。

前座の修行用の噺とされますが、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の速記も残っています。

大円朝がどんな顔でアホの与太郎を演じたのか、ぜひ聴いてみたかったところです。

切り張り自在  【RIZAP COOK】

小咄の寄せ集めでどこで切ってもよく、また、新しい人物(客)も登場させられるため、寄席の高座の時間調整には重宝がられます。

したがって、オチは数多くあります。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907)のは、小刀の先が切れないので負けてくれと言われ、「これ以上負けると、先だけでなく元が切れない(=原価割れ)」というものです。

そのほか、隠居の部分で切ったり、小便されたくだりで切ることもあります。

侍の指が笛から抜けなくなり、ここぞと値をふっかけるので「足元を見るな」「手元を見ました」というもの、その続きで、指が抜けたので与太郎があわてて「負けます」と言うと、「抜けたらタダでもいやだ」とすることも。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は、侍の家まで金を取りに行き、格子に首をはさんで抜けなくなったので、「そちの首と、身どもの指で差っ引きだ」としていました。

天道干し  【RIZAP COOK】

てんとうぼし。

露天の古道具商で、昼店でむしろの上に古道具、古書、荒物あらものなどを敷き並べただけの零細れいさいな商売です。

実態もこの噺に近く、ほとんどゴミ同然でロクなものがなかったらしく、お天道さまで虫干しするも同様なのでこの名がつきました。

品物は、古金買いなどの廃品回収業者から仕入れるのが普通です。

こうした露天商に比べれば、「火焔太鼓かえんだいこ」の甚兵衛などはちゃんとした店舗を構えているだけ、ずっとましです。

くすぐりあれこれ  【RIZAP COOK】

与太郎が伯父おじさんに、ねずみの捕り方を教える。
「わさびおろしにオマンマ粒を練りつけてね、ねずみがこう、夜中にかじるでしょ。土台がわさびおろしだからねずみがすり減って、朝には尻尾だけ。これがねずみおろしといって」

三脚を買いに来た客に。
「これがね、二つ脚なんで」
「それじゃ、立つめえ」
「だから、石の塀に立てかけてあるんです。この家に話して、塀ごとお買いなさい」

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)では、隠居が髭を剃りながら与太郎の身の上を
「おやじの墓はどこだ」
まで長々聞く。

これを二回繰り返し、与太郎がそっくり覚えて先に言ってしまうという、「うどんや」の酔っ払いのくだりと同パターンのリピートくすぐり。

弓と太鼓で「どんかちり」  【RIZAP COOK】

意外なことですが、落語には「弓矢」があまり出てきません。

刀剣と違って弓矢は、町民には縁遠いものだったのでしょうか。

ところが、浅草などの盛り場には「土弓場どきゅうば」という店がありました。土を盛ったあづちに掛けた的を「楊弓ようきゅう」で射る遊びを客にさせる店です。

土弓場は、寛政年間(1789-1801)には「楊弓場ようきゅうば」と混同していました。

土弓場は「矢場やば」ともいいます。客を接待する店の女はときに売春もしました。

男たちは弓よりもこっちが目的だったのですね。

この女たちを「矢場女」「土弓むす」「矢取り女」などと呼びました。

店はおしなべて、寺社仏閣の境内に設けた「葭簀張よしずばり」にあったそうです。

葭簀張りというのは「ヒラキ」といわれていた、簡易な遊芸施設です。葭簀張りというのがその施設名だったのです。

明治中頃まで栄えていました。

土弓場は「どんかちり」とも呼ばれていました。

店でつるした的の後ろに太鼓をつるし、弓が的に当たると後ろの太鼓が「かちり」と鳴り、はずれると「どん」と鳴るため、二つ合わせて「どんかちり」と。転じて、歌舞伎囃子でも「どんかちり」と呼びました。

弓と太鼓は性的な連想をたやすく膨らませてくれます。

土弓場へ けふも太鼓を 打ちに行き   十三30

江戸人はこうも暇だったのでしょうか。

今なら駅前のパチンコ店に繰り出すようなものでしょう。

もうそれもないか。

吉原に行くには少々覚悟がいるような手合いが、安直に出入りできる遊び場だったと想像できます。

楊弓について  【RIZAP COOK】

混同された「楊弓」についても記しておきます。

こちらは、長さ2尺8寸(約85cm)の遊び用の小弓のことです。

古くは楊柳ようりゅう、つまりはやなぎの木でつくっていたからだそうです。

雀を射ることもあったため、雀弓すずめゆみとも呼ばれていました。

唐の玄宗が楊貴妃と楊弓をたのしんだ故事があります。

そこで江戸の人は、楊弓は中国から渡来したものと思っていました。

いずれにしても、9寸(約27cm)の矢を、直径3寸(約9cm)の的に向けて、7間半(約13.5m)離れて座ったまま射る遊びです。

その歴史は古く、平安時代には子供や女房の遊び道具でした。

室町時代でも公家の遊び道具で、七夕行事にも使われたそうです。

江戸時代になると、広く伝わって各所で競技会も開かれました。

寛政年間(1789-1801)には、寺社の境内や盛り場に「楊弓場」が登場。これは主に上方での呼称だったようです。

江戸ではこの頃になると「土弓場」と混同されていきます。

江戸では「矢場」とも呼ばれて、土弓場とごちゃごちゃに。

金紙張りの1寸の的、銀紙張りの2寸の的などを使って、賭け的遊びもしたそうですが、賭博までは発達しなかったといいます。

理由は安易に想像できます。モノの出来具合がヤワで粗末だったからでしょうね。

それよりも、矢場は矢取り女という名の私娼の表看板になっていきました。

男たちの主眼はこっちに移ったのです。

江戸の遊び人は女性の陰部を的にたとえてにんまりしたわけです。

となると、上の川柳も意味深です。

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かえんだいこ【火焔太鼓】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

古道具を売る噺。

古い太鼓がお大名に三百両で売れた。夫婦はびっくりにんまり。

あらすじ

道具屋の甚兵衛は、女房と少し頭の弱い甥の定吉の三人暮らしだが、お人好しで気が小さいので、商売はまるでダメ。

おまけに恐妻家で、しっかり者のかみさんに、毎日尻をたたかれ通し。

今日もかみさんに、市で汚い太鼓を買ってきたというので小言を食っている。

なにせ甚兵衛の仕入れの「実績」が、清盛のしびんだの、清少納言のおまるだの「立派」な代物ばかりだから、かみさんの怒るのも無理はない。

それでも、買ってきちまったものは仕方がないと、定吉にハタキをかけさせてみると、ホコリが出るわ出るわ、出尽くしたら太鼓がなくなってしまいそうなほど。

調子に乗って定吉がドンドコドンドコやると、やたらと大きな音がする。

それを聞きつけたか、赤井御門守(あかいごもんのかみ)の家臣らしい身なりのいい侍が「コレ、太鼓を打ったのはその方の宅か」。

「今、殿さまがお駕籠でお通りになって、太鼓の音がお耳に入り、ぜひ見たいと仰せられるから、すぐに屋敷に持参いたせ」

最初はどんなお咎めがあるかとビビっていた甚兵衛、お買い上げになるらしいとわかってにわかに得意満面。

ところがかみさんに
「ふん。そんな太鼓が売れると思うのかい。こんなに汚いのを持ってってごらん。お大名は気が短いから、『かようなむさいものを持って参った道具屋。当分帰すな』てんで、庭の松の木へでも縛られちゃうよ」
と脅かされ、どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で押しつけてこいと家を追い出される。

さすがに心配になった甚兵衛、震えながらお屋敷に着くと、さっきの侍が出てきて
「太鼓を殿にお目にかけるから、暫時そこで控えておれ」

今にも侍が出てきて「かようなむさい太鼓を」ときたら、風のようにさっと逃げだそうと、びくびくしながら身構えていると、意外や意外、殿様がえらくお気に召して、三百両の値がついた。

聞けば「あれは火焔太鼓といい、国宝級の品」というからまたびっくり。

甚兵衛感激のあまり、百五十両まで数えると泣きだしてしまう。

興奮して家に飛んで帰ると、さっそく、かみさんに五十両ずつたたきつける。

「それ二百五十両だ」
「あァらま、お前さん商売がうまい」
「うそつきゃあがれ、こんちくしょうめ。それ、三百両だ」
「あァら、ちょいと水一ぱい」
「ざまあみゃあがれ。オレもそこで水をのんだ」
「まあ、おまえさん、たいへんに儲かるねェ」
「うん、音のするもんに限ラァ。おらァこんだ半鐘(はんしょう)を買ってくる」
「半鐘? いけないよ。おジャンになるから」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

おジャン  【RIZAP COOK】

オチの「おジャン」は江戸ことばで「フイになる」こと。江戸名物の火事の際、鎮火するとゆるく「ジャン、ジャン」と二度打って知らせたことから、「終わり」の意味がついたものです。

戦後この噺を専売にしていた五代目古今亭志ん生が前座時分、神田の白梅で聞き覚えた初代三遊亭遊三の演出では、実際に半鐘を買ってしまい、小僧に叩かせたので、近所の者が店に乱入、道具はメチャメチャで儲けが本当におジャンという「悲劇」に終わっています。

この噺は随所にギャグ満載で、「本物の火焔太鼓は高さ3mを超える化け太鼓だから、とても持ち運びなどできない」という真っ当な批判など、鼻で吹き飛ばすようなおもしろさがあります。

実際、長男の先代馬生がそのことを言うと、志ん生は「だからてめえの噺はダメなんだ!」としかったといいます。

二男の志ん朝は、甚兵衛の人間描写・心理も掘り下げ、軽快さと登場人物の存在感では親父まさりの「火焔太鼓」に仕上げて、後世に残しました。

火焔太鼓の急所  【RIZAP COOK】

最後の、甚兵衛がこれでもかと金をたたきつけ、神さんが逆にひっくり返るところがクライマックスでしょう。

志ん生独自の掛け合いのおもしろさ。「それ百両だ」「あーら、ちょいと」「それ百五十両だ」「あーら、ま」

畳み掛けるイキは無類。志ん朝だと序幕でかみさんの横暴ぶりを十分に強調してありますから、この場は、何年も耐えに耐えてきた甚兵衛のうっぷんが一気に爆発するようなカタルシスがあります。

火焔太鼓のこばなし  【RIZAP COOK】

まだまだ無数にあります。まずは一度聞いてみてください。

その1

(太兵衛=甚兵衛)「金は、フンドシにくるんで」

(侍)「天下の通用金を褌にくるむやつがあるか」

(太)「どっちも金です」

                        (遊三)

その2

(甚兵衛)「この目を見なさい。馬鹿な目でしょう。これはバカメといって、おつけの実にしかならない」


(志ん生)

その3

(甚兵衛)「顔をごらんなさい。ばかな顔してるでしょ。あれはバカガオといって、夏ンなると咲いたりなんかすンですよ」


(志ん朝)

その4

(かみさん)「おまいさんはね、人間があんにゃもんにゃなんだから、自分てえものを考えなくちゃいけないよ。血のめぐりが悪いんだから、人間が少し足りないんだからって」

                         (志ん生) 

   
世に二つ  【RIZAP COOK】

実際は、「(せいぜい)世に(一つか)二つ(しかない)という名器」ということですね。志ん生も含め、明治生まれの古い江戸っ子は、コトバの上でも気が短く、ダラダラと説明するのを嫌い、つい表現をはしょってしまうため、現代のわれわれにはよく通じないことが、ままあります。

これを「世に二つとない」と補って解釈することも可能でしょうが、それではいくらなんでも意味が百八十度ひっくり返ってしまうので、やはり前者程度の「解読」が無難でしょう。

もっとしりたい

五代目古今亭志ん生が、神田白梅亭で初代三遊亭遊三のやった「火焔太鼓」を聞いたのは、明治40年(1907)ごろのこと。前座なりたてのころだったらしい。それから約30年後、志ん生はじっくり練り直した「火焔太鼓」を演じる。世評を喝采させて不朽の名作に仕立て上げてしまった。とはいえ、全編にくすぐりをてんこ盛りにした噺にすぎない。噺の大筋は遊三のと変わっていないのだが。海賀変哲は、この噺を「全く以ってくだらないお笑いです」と評している。遊三の専売だったそうだ。遊三のは、太鼓でもうけたあとに半鐘を買ってきて小僧がジャンジャン鳴らしたら、近所の人が火事と間違えて店に乱入。飾ってあった道具はめちゃくちゃに。「ドンと占めた太鼓のもうけが半鐘でおジャンになった」というオチになっている。五代目桂文楽は、火事のくだりで、懐からおもちゃのまといを取り出して振るという所作をしていたそうだ。大正のころのこと。うーん、こんな芸で受けたのだろうか。志ん生のは、金を差し出してかみさんを驚き喜ばせるくだりで笑いがピークに達したところで、すーっと落とす筋の運び。見事に洗練されている。遊三のでは、甚兵衛ではなく銀座の太兵衛だ。お殿さまは赤井御門守、侍は平平平平(ひらたいらへっぺい)。落語世界ではお決まりの面々である。それを、志ん生は甚兵衛以外名なしで通した。おそらく、筋をしっかり聞いてほしいというたくらみからだったのだろう。リアリティーなどどうでもいいのだ、この噺には。火焔太鼓とは、舞楽に使うもの。太鼓の周りが火焔の文様で施されている。一般に、面の直径は6尺3寸(約2m)という。まあ、庶民には縁のなさそうな代物だ。志ん生の長男・金原亭馬生が「火焔太鼓ってのは風呂敷で持っていけるようなものじゃないよ、おとっつぁん」と詰め寄ったという逸話は、既出の手垢のついた話題だ。遊三の「火焔太鼓」でも、太兵衛は風呂敷でお屋敷に持参している。志ん生は遊三をなぞっているわけだから、当然だ。考証や詮索にうつつを抜かしすぎると、野暮になるのが落語というもの。リアリティーを出すために太鼓を大八車に載せては、それこそおジャンだ。この噺の眼目は別のところにあるのだろうから。

古木優

五代目古今亭志ん生

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【RIZAP COOK】

どうかん【道灌】落語演目

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【どんな?】

ご隠居と八のやりとり。

太田道灌の故事が題材の前座がよくやる鸚鵡返し型の滑稽噺。

別題:太田道灌(上方)

あらすじ

八五郎が隠居の家に遊びに行った。

地口(駄洒落)を言って遊んでいるうち、妙な張りまぜの屏風絵が目に止まる。

男が椎茸の親方みたいな帽子をかぶり、虎の皮の股引きをはいて突っ立っていて、側で女が何か黄色いものを持ってお辞儀している。

これは大昔の武将で歌詠みとしても知られた太田道灌が、狩の帰りに山中で村雨(にわか雨)に逢い、あばら家に雨具を借りにきた場面。

椎茸帽子ではなく騎射笠で、虎の皮の股引きに見えるのは行縢(むかばき)。

中から出てきた娘が黙って山吹の枝を差し出し引っ込んでしまった。

道灌、意味がわからずに戸惑っていると、家来が畏れながらと
「これは『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という古歌をなぞらえて、『実の』と『蓑』を掛け、雨具はないという断りでございましょう」
と教える。

道灌は
「ああ、余は歌道にくらい」
と嘆き、その後一心不乱に勉強して立派な歌人になった、という隠居の説明。

「カドウ」は「和歌の道」の意。

八五郎、わかったのかわからないのか、とにかくこの「ナナエヤエー」が気に入り、自分でもやってみたくてたまらない。

表に飛び出すと、折から大雨。

長屋に帰ると、いい具合に友達が飛び込んできた。

しめたとばかり
「傘を借りにきたんだろ」
「いや、傘は持ってる。提灯を貸してくんねえかな。これから本所の方に用足しに行くんだが、暗くなると困るんだ」

そんな用心のいい道灌はねえ。

傘を貸してくれって言やあ、提灯を貸してやると言われ、しかたなく「じゃしょうがねえ。傘を貸してくんねえ」
「へっ、来やがったな。てめえが道灌で、オレが女だ。こいつを読んでみな」
「なんだ、ななへやへ、花は咲けどもやまぶしの、みそひとだると、なべとかましき……こりゃ都々逸か?」
「てめえは歌道が暗えな」
「角が暗えから、提灯を借りにきた」

しりたい

前座の悲哀「道灌屋」   【RIZAP COOK】

「道灌」は前座噺で、入門するとたいてい、このあたりから稽古することが多いようです。

前半は伸縮自在で、演者によってギャグその他、自由につくれるので、後に上がる先輩の都合で引き伸ばしたり、逆に短く切って下りたりしなければならない前座にとっては、まずマスターしておくべき噺なのでしょう。

八代目桂文楽が入門して、初めて教わったのもこの「道灌」。

一年間、「道灌」しか教えてくれなかったそうです。

雪の降る寒い夜、牛込の藁店という席に前座で出たとき、お次がまったく来ず、つなぎに立て続けに三度、それしか知らない「道灌」をやらされ、泣きたい思いをしたという、同師の思い出話。

そのとき付いたあだ名が「道灌屋」。

たいして面白くもないエピソードですが、文楽師の人となりが想像できますね。

志ん生や金馬の「道灌」

あらすじの参考にしたのは五代目志ん生の速記ですが、どちらかというと後半の八五郎の「実演」に力を入れ、全体にあっさりと演じています。

かつての大看板でほかによく演じたのが、三代目金馬でした。

金馬では、姉川の合戦のいくさ絵から「四天王」談義となり、ついで「太平記」の児島高徳を出し、大田道灌に移っていく段取りです。

太田道灌   【RIZAP COOK】

太田道灌(1432-86)は、長禄元年(1457)、江戸城を築いたので有名です。

この人、上杉家の重臣なんですね。主人である上杉(扇谷)定正に相模国糟谷で、入浴中に暗殺されました。

歌人としては、文明6年(1474)、江戸城で催した「江戸歌合」で知られています。

七重八重……   【RIZAP COOK】

『後拾遺集』所載の中務卿・兼明親王の歌です。

行縢   【RIZAP COOK】

むかばき。狩の装束で、獣皮で作られ、腰に巻いて下半身を保護するためのものです。

【道灌 立川談志】

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ねこのさら【猫の皿】落語演目

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【どんな?】

お目当ては、皿か、猫か。

2021年9月2日、柳家小三治師匠(若林映子さんと同窓)が最後にやった演目です。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

あらすじ

明治の初年。

ある端師はたしが、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

しりたい

滝亭鯉丈

原作は、滝亭鯉丈りゅうていりじょう(?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。

鯉丈という人は、滑稽本作者、つまり、今でいう流行作家。

滑稽本というのは、『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のようなユーモア小説、コミック小説です。鯉丈は落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。

自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。

原作では猫じゃなくて猿! 

それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。

汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。

改めて、鯉丈について文学辞典ふうに。

滝亭鯉丈、本名は池田八右衛門。

生年は不明ですが、没年は天保12年(1841)6月10日です。

享年(数え年での没年齢)は60余とのこと。小石川の称名寺に葬られています。養家に入った池田家は300石取りの旗本でしたが、鯉丈が入婿した時には禄を失っていたそうです。

下谷広徳寺門前稲荷町で櫛屋を商っていましたが、浅草伝法院前に移り、さらに浅草駒形町河岸通りに引っ越しました。

三田村鳶魚みたむらえんぎょが取材した鯉丈の曽孫の話では、乗物師、または縫箔屋だったとか。

新内節の名手で遊芸にも通じ、寄席芸人だったとのこと。

器用な人だったのですね。これは、鯉丈の著作や弟だという話もある為永春水の著作からうかがえることです。

滑稽本作者としては、最初は十返舎一九や式亭三馬の亜流のようなものをいくつか出していましたが、一九と三馬の作風をまぜこぜにしたような『八笑人』初編-四編追加(文政3-天保5年刊)と『和合人』初-三編(文政6-天保12年刊)で知られるようになりました。

「廃頽期の江戸町人の低俗な遊戯生活を写実的に描いて独自の位置を占め、鯉丈の名が文学史に記録されるのは、この二作によるものである。他には、文政年間の二世南仙笑楚満人(為永春水)の作に合作者として関与したこともあり、人情本に『明烏後正夢あかがらすのちのまさゆめ』初-三編(文政二-五年刊)、『霊験浮名滝水』(同九年刊)があるが、いうに足りない」

これは『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985年)での神保五弥じんぼかずや(1923-2009、早大、江戸文学)の言。

手厳しいですが、文学史的にはそんなところなのでしょう。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。

「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立やたて(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。

この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬うわぐすりで黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。

梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でした。

絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当といえるでしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。

なかなかおもしろい見方です。

志ん生がただのいきあたりばったりでなく、相当な勉強家でもあったこともよくわかります。

最近のでいちばんのおすすめは、柳家小三治でした。

この方に尽きました。

あのすっとぼけたかんじがね、なんともね、よかったのでした。ザンネン。

【もっとしりたい】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。立川志の輔ですらやっている。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。表現力の乏しい噺家には意外に難しいかもしれない。もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから、今ではこの題が一般的になってしまった。志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪うちくるわだけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形ますがたもこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋うまやばし、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20年(1887) 
厩橋   明治26年(1893) 
両国橋  明治37年(1904) 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44年(1911)のもの。彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころの話のようである。

とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-17)刊行の滝亭鯉丈『大山道中膝栗毛』に「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

古木優

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いどのちゃわん【井戸の茶碗】落語演目

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【どんな?】

正直者同士の意地の張り合い。

いい噺です。

【あらすじ】

麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛。

古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、それが嫌だと言って、本当の紙くずしか買わないという正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。

ある日、とある裏長屋に入っていくと、十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められ、家に入ると、待っていたのはその父親で、千代田卜斎と名乗る。

うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人。

もとはしかるべき所に仕官していたが、今は昼間は子供に手習いを教え、夜は街に出て売卜(易者)をして、娘のお市と二人で、細々と暮らしを立てているという。

その卜斎が、家に古くから伝わるという、すすけた仏像を出し、これを二百文で買ってもらいたいと、頼む。

清兵衛は、本当なら品物は買わないが、親子の貧に迫られたようすに同情し、これを売ってもうけがあれば、いくらかでもこちらに持ってくると、約束して買い取る。

この仏像を御膳かごという竹かごに入れ、白金あたりを流して歩くと、細川さまの屋敷の高窓から、まだ二十三、四の侍が声を掛け、仏像を見て気に入ったのか、三百文で買ってくれた。

その侍、名を高木佐太夫といい、まだ独り身で、従僕の良造と二人暮らし。

さっそく、すすけた仏像を磨いていると、中で音がするので、これは腹籠りの仏で、中にもう一つ小さな仏像が入っていると見て取った佐太夫、中を開けてみると、なんと小判で五十両入っていた。

驚いて、仏像を売るようではよほど貧乏しているに違いないから、これは返してやらなければ、と思ったものの、あの、くず屋のほかに手掛かりはない。

そこで、良造に命じて毎日見張らせ、屑屋が通る度に顔を改めたので、これが業界の評判になり、多分仇でも探しているんだろうという噂になる。

清兵衛もこの話を聞きつけ、甘酒屋のふりをして細川邸の前を通り過ぎようとしたが、見つかって、佐太夫の前に連れていかれた。

佐太夫は金のことを話し、即刻届けてまいれと言いつけたので、清兵衛は驚いて卜斎の家に行き、金を渡すが、律儀一徹の卜斎、売ったからにはもうこの金は自分のものではないから受け取るわけにはいかないと、突っぱねる。

しつこくすすめると、手討ちにすると、怒りだしたから、清兵衛は慌てて長屋に逃げ帰った。

相談された大家が中に入り、五十両を三つに分け、佐太夫と卜斎に二十両ずつ、残りの十両は正直な清兵衛にやってくれと、提案。

佐太夫は承知したが、卜斎はまだ拒絶するので、それなら、金と引換えに何か品物を佐太夫様にお贈りになれば、あなたもお気が済むでしょうと、大家が口をきき、それではと、祖父の代からの古い茶碗を渡すことで、金の件は落着。

ところが、この茶碗が細川侯のお目に止まり、これは「井戸の茶碗」といって世に二つとない名器だからと、佐太夫から三百両でお買い上げになる。

この半分の百五十両を卜斎に届けさせたが、卜斎は佐太夫の誠実さに打たれ、娘をもらってくれるよう、清兵衛を介して申し入れ、佐太夫も承知。

清兵衛が佐太夫に、「あの娘をご新造にして磨いてご覧なさい。大した美人になります」「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

出典:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

もとは講談

もとは講談で、「細川茶碗屋敷由来」を人情噺にしたものです。

「茶碗屋敷」と題した、三代目春風亭柳枝の古い速記(明治24年)が残っていますが、戦後は、古今亭志ん生・志ん朝親子の系統ですね。

志ん朝のは絶品

志ん朝の「井戸の茶碗」は、はっきり言ってすばらしいです。

絶品です。涙が出ちゃいます。

落語には、オチのある落とし噺とオチのない人情噺、怪談噺があります。

これは、人情噺ですから、本来はオチなどなかったのですが、志ん生はこんなふうにオチをつけています。

オチがあったほうが、聴いているほうも「終わった」という安心感があるものです。

井戸の茶碗とは

「井戸の茶碗」とは、室町時代に朝鮮半島から渡ってきた高麗茶碗の中でもすこぶる有名なもの。奈良の興福寺の井戸氏が所有していたので、こう呼ばれていました。

細川氏は骨董好きな大名で有名なので、不自然な設定ではありません。

高木佐太夫が顔を出して、清兵衛を呼び止める「高窓」というものが登場しますが、これは、「曰窓(いわく)」ともいい、横桟一本だけがはめられた、武家屋敷の窓です。 

ちょうど、「論語」なんかでおなじみの「子、曰く……」の「曰」の字の形に似ているので、そう呼ばれていました。

江戸詰めの勤番侍

佐太夫のような江戸詰めの勤番侍の住居は、藩邸内の「長屋」で、二階建てが普通でした。

下は中間・小者、上に主人が住んでいます。行商人からものを買うときには、表通りに面した高窓から声をかけ、そこからざるを下ろして品物を引き上げます。これは、「石返し」という噺にも登場します。

売卜のこと

ところで、この噺では、易者のことを「売卜」と呼んでいます。

「卜」とは、骨片などを加熱してその割れ方から占うことをいいます。

古代の人は、こんなことで不可視なものを見ようとしていたんですね。

まあ、今では「占」と同じように使っています。

「占卜」とか「卜占」とかいった言葉もありますが、どっちも「占い」の意味です。

しかるに、「売卜」とは、占いを売る。言葉の遊びとはいえ、ちょっとおもしろくありませんか。

「千代田卜斎」とは、「千代田(=江戸)城の堀端で営業中の易者」というだけの意味で、世をしのぶ仮の名前。

本名ではないのでしょうね、きっと。

卜斎先生のような大道の易者は、筋違御門から新橋にいたるまでの大通りに、最も多く出たといいます。

麹町や赤坂、四谷、愛宕下、上野の山下などの繁華街にも出没していたそうです。

山の手が多いのは、易者には卜斎同様に、浪人くずれが多かったためでしょうか。

中には名人もいたでしょうが、卜斎先生の腕のほどは、さあ、わかりません。

麻布谷町

清兵衛がいた麻布谷町は、正式には今井谷町(いまいだにまち)といい、現在の港区六本木二丁目。アメリカ大使館宿舎の一部になっています。

今はともかく、当時はあまり豊かでない人たちが住んでいました。東京もずいぶん様変わりしたものです。

正直清兵衛さん

ところで、この清兵衛さん、前々回に取り上げた「もう半分」にちょこっと紹介しています。

「もう半分」に似た因業・悲惨な噺「正直清兵衛」の主人公です。こっちでは殺されちゃったりして、悲劇のおじさんでしたが、今回は、なかなかの老け役ですね。

こんなふうに、落語のキャラクターは、さまざまな噺に手を変え品を変えて登場するもの。これも、落語のお楽しみのひとつといえますね。

【もっと知りたい】

3代目春風亭柳枝が「茶碗屋敷」として明治24(1891)年にやった速記では、浪人が高木佐太夫、細川藩士が吉田清十郎とある。

ところが、大正期の 3代目柳家小さんの「井戸の茶碗」では今の形だ。

鶯亭金升の由来譚では、巣鴨の中屋敷が舞台で仏像を買ったのはそこの門番、売ったのは神田裏長屋の夫婦だとか。

今の形に至るまでには若干の異同があったようである。

五代目古今亭志ん生が得意としたが、次男志ん朝の「井戸の茶碗」は絶品だった。

井戸の茶碗とは、興福寺の井戸家が有した高麗渡来の茶碗なのだという。

この説明は噺には出てこない。

聴者は最後まで「井戸の茶碗」の正体を知らずじまい。

それでも別段不満は残らない。おかしな噺である。

登場する者すべてが善人である。

小悪党が憎めない「業の肯定」を尊ぶ落語には珍しい。

もとは「細川茶碗屋敷の由来」という講談だから、無理もない。

ここまでの善意を見せつけられると現代人には奇異にしか思えないものだが、この手の噺は冗長な運びだと目も当てられない。

善意に臭みが漂ってきて、聴いていられなくなるのだ。

志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。

善意の臭さに気づく余裕もなく、千代田卜斎、高木佐太夫、正直清兵衛三者の、すがすがしさが感動を呼んだ。

古木優

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すずふり【鈴ふり】落語演目

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【どんな?】

遊行寺ゆぎょうじが舞台。仏道修行の成果、禁欲の証に鈴を託して。

バレ噺の傑作。「甚五郎作じんごろうさく」も併載。

別題:鈴まら

【あらすじ】

藤沢の遊行寺ゆぎょうじという名刹。この寺の住職は大僧正だいそうじょうの位にあって、千人もの若い弟子が一心に修行に励んでいる。

なにせ弟子の数が多いので、さしもの大僧正も、この中から誰を自分の跡継ぎに選んだらよいか、さっぱりわからない。

そこでいろいろ相談した結果、迷案がまとまった。

旧暦五月のある日、いよいよ次の住職を決める旨のお触れが出る。

その当日、誰も彼も、ひょっとして俺が、いや愚僧ぐそうがというので、寺の客殿には末寺から押し寄せた千人の僧侶がひしめき合って、青々としてカボチャ畑のような具合。

そこでなにをするかというと、千人一人一人の男のモノに、太白の紐が付いた小さな金の鈴をちょいと結んで
「どうぞ、こちらへ」

次々と奥に通される。

一同驚いていると、やがて御簾みすの内から大僧正の尊きお声。

「遠路ご苦労である。今日は吉例吉日たるによって、御酒ごしゅ、魚類を食するように」

ただでさえ生臭物は厳禁の寺で、酒をのめ、それ鰻だ、卵焼きだというのだから、どうなっているのかと目を白黒させていると、なんとお酌に、新橋、柳橋のえりすぐりの芸者がずらりと並んで入ってくる。

しかも、そろって十七、八から二十という若いきれいどころ。色気たっぷりにしなだれかかってくるものだから、ふだん女色禁制で免疫のできていない坊さんたちはたまったものではない。

色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき
と必死に股間を押さえていると、隣で水もしたたる美女が
「あなた、何をそう、下ばかり向いて」
と、背中をぽんとたたく。

「あっ」
と手を放したとたんに、親ではなくセガレの方が上を向き、くだんの鈴がチリーン。

たちまち、あっちでもこっちでもチリーン、チリーン、チリチリリーン。

千個の鈴の妙なる音色、どころではない。

そのかまびすしい音を聴いて、大僧正、嘆くまいことか。

涙にくれて、
「ああ情けなや。もう仏法も終わりである。千人の全部が全部、鈴を鳴らそうとは」

ところがふと見ると、年のころ二十くらいの若い坊さんがただ一人、数珠じゅずをつまぐりながら座禅を組んでいる。

よく聞くと、その坊さんの股間からだけは、鈴の音なし。

大僧正、感激の涙にむせび、これで合格者は決まったと、さっそく呼び寄せて前をまくってみたら鈴がない。

「はい、とっくに振り切れました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生おはこのバレ噺 【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の一手専売だったバレ噺(エロ噺)です。

ネタがネタだけに、当人も寄席ではやれず、特殊な会やお座敷だけのサービス品でした。

ただし、珍しくずうずうしくも昭和36年(1961)5月の東横落語会とうよこらくごかいで堂々と演じたライブの音源は、脳出血で倒れる半年ほど前の、元気な頃の最後の高座のものです。

「鈴ふり」のマクラに志ん生が必ずつけたのが、関東十八檀林だんりんの言い立て。檀林とはお坊さんを養成する学校のことです。

挙げられる十八か寺は、浄土宗で大僧正となるために修行しなければならない関東の諸名刹です。

この噺の舞台、藤沢の遊行寺は、一遍上人いっぺんしょうにんの「踊り念仏」で有名な時宗じしゅうの総本山。

正しくは藤沢山とうたくざん無量光院むりょうこういん清浄光寺しょうじょうこうじといいます。

「時宗」という呼称は寛永8年(1631)から。江戸幕府から時宗274寺の総本山と認められるところから始まります。

意外に新しいのです。

一遍は鎌倉時代の人ではあるのですが。

この一派、規模が小さいことと、同じ念仏宗派のため、浄土宗系寺院と重なることもままありますが、この噺のごちゃごちゃぶりはさすがに落語的です。

江戸時代の時宗

時宗は自らの檀林(時宗では学寮といいます)は1784年までなかったといわれています。

現在は全国に500余の寺院がありますが、江戸時代には2000を超えるほどだったそうです。

それなりの宗派だったのですが、なんせ踊り念仏を旨とするため、定着性が薄く、他の宗派のような法灯を絶やさず、といった思いも弱く、それでも、江戸幕府の宗門制度に合わせて本山、末寺の管理を厳密化するようになったことで、本山を藤沢の清浄光寺にまとめたのです。

志ん生の「鈴ふり」

志ん生の長男で、まじめそのものの芸風だった(ここがまたいいのですが)十代目金原亭馬生きんげんていばしょう(美濃部清、1928-82)もたまに演じていました。

そこのギャップがなかなかに心愉しいものでした。

昭和33年(1958)10月11日の「第67回三越落語会」。

志ん生はトリで「黄金餅こがねもち」をやる予定でした。

その前に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が「藁人形わらにんぎょう」を。これは関係者の不手際ふてぎわによるものでした。

ひとつの興行で同じ傾向の噺が続くのを「噺がつく」とむのが落語の世界です。

そこで、志ん生は客にことわって「鈴ふり」をみっちりやったといいます。こういうところが志ん生のいきなところですね。

関東十八檀林の言い立て 【RIZAP COOK】

「檀林」とはお坊さんの修行道場で学問所。

ここでいう「関東十八檀林」は浄土宗の寺院をさします。

浄土宗は徳川家康が信仰していたことから、宗派間における地位は優越でした。

江戸の町では、浄土宗と日蓮宗(当時は法華宗といいました)が信者獲得競争に明け暮れしており、その勢力と知名度では他宗派をしのいでいました。

浄土宗のお坊さんは寺を巡るごとに出世していったわけです。

志ん生の言い立てを再現してみましょう。

その修行の一番はなへ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院ばんずいいんという寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣こうのす勝願寺しょうがんじという寺へ入る。この勝願寺を抜けまして、川越の蓮馨寺れんけいじへ。蓮馨寺を抜けまして、岩槻の浄国寺じょうこくじという寺に入る。浄国寺を抜けまして、下総小金しもうさこがね東漸寺とうぜんじという寺に入り、東漸寺を抜けて、生実おゆみ大巌寺だいがんじへ入り、滝山の大善寺へ入る。ここから、常陸江戸崎ひたちえどさき大念寺へ入って、上州館林じょうしゅうたてばやし善導寺へ入る。それから、本所の霊山寺れいざんじへ入って、下総結城しもうさゆうき弘経寺ぐぎょうじへ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行をしなければならない。それから、下総国飯沼しもうさいいぬま弘経寺ぐぎょうじというところへ入る。ここは十八檀林のうちで、隠居檀林といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを、一心になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊巌寺れいがんじに入り、霊巌寺を抜けて、上州新田じょうしゅうにった大光院に入って、常陸瓜連ひたちうりづら常福寺に入って、そうして、紫の衣二枚になって、それより、えー、小石川の伝通院でんづういんへ入り、伝通院を抜けて、鎌倉の光明寺こうみょうじへ入って、そこでの衣一枚となって、それより、江戸は芝の増上寺ぞうじょうじに入って、増上寺で修行をして、緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位となるという……ここまでの修行が大変であります。

「甚五郎作」 【RIZAP COOK】

「鈴ふり」が短い噺なので、志ん生は「甚五郎作」という小咄をセットで語っていました。

これもバレ噺です。

昭和31年(1956)1月8日号の『サンケイ読物』で、志ん生は福田蘭童らんどうと対談をしています。

タイトルは「かたい話やわらかい話」で、二人で昔の吉原の思い出を肴に笑っています。

その中で、志ん生は「甚五郎作」を語っていました。

対談を読むと、志ん生にとって「甚五郎作」は相当なお気に入りの噺だったように思えるのですが、当の福田蘭童は「なるほど。きれいなオチですね」とかえした程度。

福田の笑いのセンスは志ん生のそれとはズレていたようです。

残念な人です。

では、福田が聴いた「甚五郎作」を再現してみましょう。

昔はいいとこの娘でも、行儀見習いといって、大名屋敷へ奉公へ行ったでしょう。方向へ上がるてえとみんな女ばかり。年頃となってくると男なしではいられない。といって、不義はお家のご法度、男は絶対に近づけられない。そこへつけこんで商売を始めたのが張り形屋。つまり、男の代用品ですね。両国の四ツ目屋よつめやなんぞへ、御殿女中がこれを買いにやってくる。ある家の娘が、やはりこのご奉公に上がって、体の具合が悪くなって帰ってきた。医者にみせると妊娠しているという。おっかさんが驚いて、娘に相手は誰かと聞く。娘は「相手なんかいない」というんです。相手がなくて妊娠するわけはないと問い詰めて、娘の手文庫てぶんこを調べたら、中から張り形が出てきた。「おまえ、これで赤ん坊ができるわけがないよ」と言って、張り形の裏を返したら「左甚五郎作」と彫ってあった。左甚五郎の作ったものは、生き物のように飛び出るという、あれですね。

志ん生という人は、元来、こういうスマートな噺を好んだようです。粋だなあ。

ところで、福田蘭童(石渡幸彦、1905-76)。

この人は、青木繁(画家)の長男で、尺八、フルート、バイオリン、ピアノなんかを演奏する音楽家にして、随筆家。

かつてはこのような、得体のしれない型破りの通人がごろごろいたもんです。

息子の石橋エータロー(石橋英市、1927-94)もそんな範疇の方なんでしょう、きっと。

ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーで、桜井センリとのピアノ連弾なんですから。人生の後半は料理研究家でした。

【語の読みと注】
下谷の幡随院:新知恩寺。浄土宗系単立寺院。本尊は阿弥陀如来。小金井市前原町
鴻巣の勝願寺:浄土宗。本尊は阿弥陀如来。鴻巣市本町
川越の蓮馨寺:浄土宗。本尊は阿弥陀如来。川越市連雀町
岩槻の浄国寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 さいたま市岩槻区
下総小金の東漸寺:浄土宗。松戸市小金
生実の大巌寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 千葉市中央区 
滝山の大善寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 八王子市大谷町
常陸江戸崎の大念寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 稲敷市江戸崎甲
上州館林の善導寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 館林市楠町
本所の霊山寺: 浄土宗。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来。墨田区横川
下総結城の弘経寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。結城市西町
下総飯沼の弘経寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 常総市豊岡町
深川の霊巌寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 江東区白河
上州新田の大光院: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 太田市金山町
常陸瓜連の常福寺: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 那珂市瓜連
小石川の伝通院: 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。 文京区小石川
鎌倉の光明寺: 浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来。鎌倉市材木座
芝の増上寺: 浄土宗鎮西派大本山。本尊は阿弥陀如来。 港区芝公園

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こがねもち【黄金餅】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

円朝作。逝った西念を弔うため下谷から麻布、桐ヶ谷まで。

金兵衛の執念が転がる陰惨突破の死骸戦。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。立川談志の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡(おんぼう)と呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけたもんだった。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは、円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。藤浦はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしい。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。山崎町はみんな貧乏だったんだから。円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治・大正の新聞・雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だったのだ。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」と貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

(古木優)

【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生

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こんにゃくもんどう【蒟蒻問答】落語演目

 



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【どんな?】

無言の話芸、仕方噺の極致。

古寺に居合わした蒟蒻屋と托鉢僧との問答。

別題:餅屋問答(上方)

あらすじ

八王子在のある古寺は、長年住職のなり手がなく、荒れるに任されている。

これを心配した村の世話人・蒟蒻屋の六兵衛は、江戸を食い詰めて自分のところに転がり込んできている八五郎に、出家してこの寺の住職になるように勧めたので、当人もどうせ行く当てのない身、二つ返事で承知して、にわか坊主ができあがった。

二、三日はおとなしくしていた八五郎だが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、寺男の権助と二人でくだを巻いている。

金がないので
「葬式でもない日にゃあ、坊主の陰干しができる。早く誰かくたばりゃあがらねえか」
とぼやいているところへ、玄関で
「頼もう」
と声がする。

出てみると蘆白(あじろ)笠を手にした坊さん。

越前永平寺の僧で沙弥托善と名乗り、
「諸国行脚の途中立ち寄ったが、看板に『葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず』とあるので禅寺と見受けた、ぜひご住職に一問答お願いしたい」
と言う。

なんだかわけがわからないが、権助が言うには、
「問答に負けると如意棒でぶったたかれた上、笠一本で寺から追い出される」
とのこと。

住職は留守だと追っ払おうとしたが、
「しからば命の限りお待ち申す」
という。

大変な坊主に見込まれたものだと、八五郎が逃げ支度をしていると、やって来たのが六兵衛。

事情を聞くと、
「俺が退治してやろう」
と身代わりを買ってでた。

「問答を仕掛けてきたら黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないと言え。それで承知しやがらなかったら、咳払いを合図に飛びかかってぶち殺しちめえ」

さて翌日。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。

「法界に魚あり、尾も無く頭もなく、中の鰭骨を保つ。大和尚、この義はいかに」

六兵衛もとより、なんにも言わない。

坊主、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧もと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。

十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。

三本の指にはアッカンべー。

托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げ出した。

八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と申すと『大海のごとし』というお答え。『十方世界は』と申せば『五戒で保つ』と仰せられ、『三尊の弥陀は』との問いには『目の下にあり』。いや恐れ入りました」

六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。ばかにしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、こォんなに大きいと言ってやった。十でいくらだと抜かすから、五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した沙弥托善  【RIZAP COOK】

この噺、千住焼き場の僧侶から落語家になったといわれる二代目林屋正藏(不詳-不詳、沢善正蔵、三代目説も)が、嘉永年間(1848-54)に作ったものだそうです。

噺の中であやうく殺されかかる(?)旅の禅僧・托善(沙弥は出家し立ての少年僧のこと)は、正蔵の修行僧時代の名です。

原典については、このほかに、やはり禅僧出身の二代目三笑亭可楽(本名不詳、不詳-1847、中橋の→楽翁)とする説、もっとずっと古く、貞享年間(1684-88)刊の笑話本『当世はなしの本』中の「ばくちうち長老になる事」とする説もあります。

仏教と落語の深い関係  【RIZAP COOK】

「落語家の元祖」といわれる安楽庵策伝(平林平太夫、1554-1642)からして高僧でしたし、「寿限無」「後生鰻」「宗論」など、仏教の教説に由来する噺は少なくありません。

仏教と落語の結びつきはきわめて強いのです。

落語はもともと、節談説教(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)から起こったといわれているのです。

関山和夫(1929-2013)の一連の著作が根拠となります。

前座、二つ目、真打ちなどという語も、節談説教の世界では当たり前のように使われていました。

明治後期、浅草の本願寺でたまたまその光景を覗いた四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)がびっくりしたという話は、それ以前のどこかの時点で仏教と落語のかかわりが途切れた証しでしょう。

とはいえ、落語協会会長だった(中澤信夫、1932-2017)が日蓮宗の僧籍(中澤圓法)にあったのは、落語の伝統からして別に珍しいことではない、ということになります。

ビジュアルで楽しむ仕方噺  【RIZAP COOK】

「蒟蒻問答」では、後半の六兵衛と托善の禅問答は無言で、パントマイムのみになります。

このように、動作のみによって噺の筋を展開するものを「仕方噺」といいます。目で見る落語のことです。

愛宕山」「狸賽」「死神」など、一部分に仕方噺を取り入れている噺は多いのですが、「蒟蒻問答」ほど長くて、しかもストーリーの重要部分をジェスチャーだけで進めるものはほかにありません。

苦肉の実況解説付き  【RIZAP COOK】

そのため、実際に寄席やテレビなど目の前で見ている客はいいのですが、レコードやラジオなどで耳だけで聞いていると、噺のもっともオイシイ部分で音声がとぎれてしまい、なにがなんだかわからなくなってしまいます。

そこで、この噺を得意にした五代目古今亭志ん生がこの噺をラジオ放送したときは、苦肉の策で、なんと歌舞伎並みの同時解説がつきました。「山藤章二の志ん生ラクゴニメ」の音源も同じのを使っています。

このように手間がかかるためか、昔から「蒟蒻問答」のレコードや放送は数少なく、現在出ているCDは、志ん生、八代目正蔵のものくらいです。

ホントはくだらない禅問答  【RIZAP COOK】

噺では、六兵衛のジェスチャーを托善が勝手に誤解し、一人で恐れ入って退散してしまいますが、最初の「法界に魚あり……」は、魚という字から頭と尾(上下)を取れば、残るのは「田」。そこから、鰭骨(きこつ=中骨)、つまり|の部分を取り除けば、「日」の字になります。単なる言葉遊びです。これこそハッタリというものでしょう。

次の「十万世界」は、東西南北、艮(北東)、巽(東南)、坤(南西)、乾(西北)の八方位に上下を加えた世界で、広大無辺の宇宙を表します。

「五戒」は禅の戒律(タブー)で、殺生戒 殺さない偸盗戒 盗まない邪淫戒 エッチしない妄語戒 うそをつかない飲酒戒 酒を飲まないの五つをさします。

葷酒山門に入るを  【RIZAP COOK】

葷酒くんしゅ山門に入るを許さず」は禅寺の表看板として紋切型ですね。

「葷」とは、ネギやニンニなど臭気を放つ野菜のことです。以下は、(加藤専太郎、1894-1964)の思い出話。

明治の昔、大阪の二代目桂文枝(渡辺儀助、1844-1916→桂文左衛門)が上京して、柳派の寄席に出演。ところがさらに、対立する三遊派の席にも出て稼ごうとすると止められました。楽屋内の張り紙に「文枝、三遊に入るを許さず」

【語の読みと注】

仕方噺 しかたばなし:動作の説明だけで筋を展開する噺
鰭骨 きこつ:中骨
艮 うしとら:北東
巽 たつみ:東南
坤 ひつじさる:南西
乾 いぬい:西北
葷酒 くんしゅ:ネギやニンニなど臭気を放つ野菜

【RIZAP COOK】



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ごんすけしばい【権助芝居】落語演目



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【どんな?】

最後はドタバタになる素人の演芸会。

茶番のおきまり噺です。

別題:素人茶番 一分茶番 鎌倉山

【あらすじ】

町内で茶番(素人芝居)を催すことになった。

伊勢屋の若だんなが役不足の不満から出てこないので、もう幕が開く寸前だというのに、役者が一人足りない。

困った世話人の喜兵衛、たまたま店の使用人で飯炊きの権助が、国では芝居の花形だったと常々豪語しているのを思い出し、この際しかたがないと口をかけると、これが大変な代物。

女形で「源太勘当」の腰元千鳥をやった時、舞台の釘に着物を引っ掛け、フンドシを締めていなかったのでモロにさらけ出してしまい
「今度の千鳥はオスだ」
とやったと自慢げに話すので、吉兵衛頭を抱えたが、今さら代わりは見つからない。

五十銭やって、芝居に出てくれと頼む。

「どんな役だ?」
「有職鎌倉山の泥棒権平てえ役だ」
「五十銭返すべえ。泥棒するのは快くねえ」
「芝居でするんだ。譲葉の御鏡を奪って、おまえが宝蔵を破って出てくる。鏡ったって納豆の曲物の蓋だ。それを押しいただいて、『ありがてえかっちけねえ、まんまと宝蔵に忍び込み奪え取ったる譲葉の御鏡。小藤太さまに差し上げれば、褒美の金は望み次第。人目にかからぬそのうちにちっとも早く、おおそうだ』と言う」
「五十銭返すべえ」
「なぜ?」
「そんなに長えのは言えねえ」
「後ろでつけてやる。そこで紺屋の金さんの夜まわりと立ち回りになる。そこでおまえが当て身をくって目を回す。ぐるぐる巻きに縛られて」
「五十銭返すべえ」
「本当に縛るんじゃない。後ろで自分で押さえてりゃいい。誰に頼まれたと責められて、小藤太様がと言いかけると、その小藤太が現れて、てめえの首をすぱっと斬り落とす」
「五十銭返すべえ」

ようようなだめすかして、本番。

客は、泥棒が、若だんなにしては汚くて毛むくじゃらだと思って見ると、権助。

「やいやい権助、女殺し」
「黙ってろ、この野郎」
「客とけんかしちゃいけねえ」

苦労してセリフを言い、立ち回りは金さんの横っ面をもろに張り倒して、もみ合いの大げんか。

結局、縛られて舞台にゴロゴロ。

「やい権助。とうとう縛られたな。ばかァ」
「オラがことばかと抜かしやがったな。本当に縛られたんじゃねえぞ。ほら見ろ」

縄を離しちまったから、芝居はメチャクチャ。

太い奴だと、今度は本当にギリギリ縛られて
「さあ、何者に頼まれた。キリキリ白状」
「五十銭で吉兵衛さんに頼まれただ」

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

マニア向けの芝居噺

江戸の人々の芝居狂ぶりを、いきいきと眼前に見るような噺です。

原話は不詳で、古くから演じられてきた東京落語です。

別題が多く、「素人茶番」「一分茶番」「素人芝居」、噺の中で演じられる歌舞伎の外題から「鎌倉山」とも呼ばれます。

現在は、「一分茶番」で演じられることが多いようです。

江戸時代の素人芝居(茶番)については、同じ題材を扱った「蛙茶番」をお読みください。

明治29年(1896)の四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)の速記が残ります。昔からこれといった、十八番の演者はありません。

蝶花楼馬楽時代の八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)、八代目雷門助六(岩田喜多二、1907-91)、初代金原亭馬の助(伊藤武、1928-76)、三遊亭円弥(林光男、1936-2006)といった、芝居噺が得意でどちらかと言えば玄人受けする腕達者が手掛けてきたようです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)も手掛けたはずですが、記録は残りません。

円生没後は一門の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)、三遊亭円龍(水野孝雄、1939-2021)が演じ、それぞれの門下の中堅・若手にも継承されてきました。

戦前に、五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)が「素人演劇」として、モダンに改作したことがあります。

「源太勘当」

源平合戦、木曽義仲の滅亡を描いた全五段の時代物狂言「ひらかな盛衰記」のの第二段です。

原作の浄瑠璃は文耕堂ほかの合作で、歌舞伎の初演は元文4年(1739)4月、大坂角の芝居。千鳥は腰元で、主役の梶原源太景季かじわらげんたかげすえと恋仲。後に遊女梅ヶ枝となります。

「有職鎌倉山」

やはり鎌倉時代を背景にした時代物狂言で、寛政元年(1789)10月、京都・早雲座初演です。

実際はその五年前の天明4年(1784)3月24日、江戸城桔梗の間で、若年寄田沼意知たぬまおきともが、五百石の旗本佐野政言さのまさことに殺された事件を当て込んだものです。

源実朝の鷹狩りで獲物を射止めた佐野源左衛門は、手柄を同僚の三浦荒次郎に譲りますが、善左衛門をねたんだ荒次郎に事あるごとにはずかしめられ、忍耐に忍耐を重ねた後、ついに殿中の大廊下で荒次郎を討ち果たし、切腹するという筋です。

本来、この噺で演じられるようなお家騒動ものではないはずですが、昔は、こじつけの裏筋が付けられていたのかもしれません。

芝居の泥棒

江戸時代、芝居の興行は、夜の明けないうちから始めて、夕方までやっていました。

お家騒動ものの発端は大方お決まりで、この噺に出てくるように、悪人側の黒幕の家来の、そのまた家来に命じられた盗賊が、お家の重宝(鏡、刀、掛け軸など)を盗み出し、蔵を破って出てくるというパターン。

泥棒のセリフも、どれもほとんど紋切り型でした。

その後、雇い主の「小藤太様」が現れて品物を受け取り、これで忠義の善玉側に、この罪をなすりつけられるとほくそ笑んだ上、「下郎は口のさがなきもの。生けておいては後日の障り。金はのべ金」と、口塞ぎのため泥棒はバッサリ、というのがこれまたお決まり。

このシーンは早朝に出され、下回り役者ばかりが出るので、見物人などほとんどいなかったわけです。

泥棒が「主役」に昇格したのは、幕末の河竹黙阿弥の白浪狂言からでした。



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ごんすけざかな【権助魚】落語演目



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【どんな?】

女通いのだんな、口止めに権助を買収します。権助はだんなに冷たくて。

別題:熊野の牛王

【あらすじ】

だんながこのところ外に女を作っているらしい、と嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬しっとで黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助ごんすけを呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、饅頭まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路りょうごくひろこうじあたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんのところへ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれる人なので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、手を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若たいぜんじじゃく

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くなら、だんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

駒止こまどめで田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺もくぼじから植半うえはんでひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴やまぐちともえ、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものはかつおの片身に伊勢海老、目刺しにかまぼこ。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川にカマボコが泳いでるんだね」
「ハア、道理で網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように周りから見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、少年SF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

作者の藤子・F・不二雄(藤本弘、1933-96)は大の落語ファンとして有名でした。ほかにも落語のプロットをさまざまな作品に流用しています。

「21エモン」は『週刊少年サンデー』(小学館、1968-69年)などで連載されました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923)や二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残しています。

前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王ごおう(護符)」の別題で演じられたこともありました。

この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれました。

明治21年(1888)ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び評判になった、と山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』(1936年、第一書房→中公文庫)にあります。

山本笑月は東京朝日新聞などで活躍したジャーナリスト。

深川の材木商の生まれで、長谷川如是閑(長谷川萬次郎、1875-1969)や大野静方(山本兵三郎、1882-1944)の実兄にあたります。

長谷川如是閑は日本新聞や大阪朝日新聞などので活躍したジャーナリスト、大野静方は水野年方門の日本画家です。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪辣あくらつな算段なのですが……。

いやまあ、けっこう笑えます。おあとはどうなりますやら。



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こわかれ【子別れ】落語演目



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【どんな?】

通常、上、中、下の3部に分けて演じられます。

別題:女の子別れ 強飯こわめしの女郎買い(上) 子はかすがい(中と下で)

【あらすじ】

腕はいいが、大酒飲みで遊び人、大工の熊五郎。

ある日、山谷の隠居の弔いですっかりいい心持ちになり、このまま吉原へ繰り込んで精進落としだと怪気炎。

来合わせた大家が、そんな金があるなら女房子供に着物の一つも買ってやれと意見するのもどこ吹く風。

途中で会った紙屑屋の長さんが、三銭しか持っていないと渋るのを、今日はオレがおごるからと無理やり誘い、葬式で出された強飯の煮しめがフンドシに染み込んだと大騒ぎの挙げ句に三日も居続け。

四日目の朝。

神田堅大工町の長屋にご機嫌で帰ってくると、かみさんが黙って働いている。

さすがに決まりが悪く、あれこれ言い訳をしているうちに、かみさんが黙って聞いているものだからだんだん図に乗って、こともあろうに女郎の惚気話まで始める始末。

これでかみさんも堪忍袋の緒が切れ、夫婦げんかの末、もう愛想もこそも尽き果てたと、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。

うるさいのがいなくなって清々したとばかり、なじみのおいらんが年季が明けると家に引っ張り込むが、やはり野に置け蓮華草、前のかみさんとは大違いで、飯も炊かなければ仕事もせず。

挙げ句に、こんな貧乏臭いところはイヤだと、さっさと出ていってしまった。

一方、夫婦別れしたかみさん。

女の身とて決まった仕事もなく、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てている。

ある日、亀坊がいじめられて泣いていると、後ろから声を掛けた男がいる。

振り返ると、なんと父親。

身なりもすっかり立派になって、新しい半纏を着込んでいる。仕事の帰りらしい。

あれから一人になった熊五郎、つくづく以前の自分が情けなくなり、心機一転、好きな酒もすっかり絶って仕事に励み出したので、もともと腕はいい男、得意先も増え、すっかり左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。

偶然に親子涙の再会とあいなり、熊はせがれに五十銭の小遣いをやってようすを聞くと、女房はまだ自分のことを思い切っていないらしいとわかる。

内心喜ぶが、まだ面目なくて会えない。

その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊に約束し、その日は別れる。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、おやじに、おれに会ったことはまだおっかさんに言うなと口止めされているので、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかすが、もの堅い母親は聞き入れない。

貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない、人さまのお金をとるなんて、なんてさもしい料簡を起こしてくれたと泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまう。

聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれないが、やはり、まだよりを戻すのははばかられる。

その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやるが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。

こうして、子供のおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まるという、「子は鎹(かすがい)」の一席。

【しりたい】

長い噺   【RIZAP COOK】

初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)の作。長い噺なので、上中下に分けられています。

普通は、中と下は通して演じられ、別題を「子はかすがい」といいます。

かすがいは大工が使う、大きな木材をつなぐためのカギ型の金具です。

打ち込むのにゲンノウを用いるので、母親が「ゲンノウでぶつよ」と脅かす場面が、幕切れの「子はかすがい」という地のサゲとぴたりと付きます。

「かすがいを打つ」   【RIZAP COOK】

という慣用句もあり、人の縁をつなぎ止める意味です。

上は五代目古今亭志ん生が、「強飯こわめしの女郎買い」として独立させ、紙屑屋を吉原に誘う場面の掛け合いで客席を沸かせました。

むろん、後半の「子別れ」は別にみっちりと演じています。

志ん生は母親の表現に優れ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、上の通夜の場面から綿密に演じました。

戦後では、やはりこの二人が双璧だったでしょう。

熊&紙長さんの「掛け合い漫才」   【RIZAP COOK】

熊「いくらあんだい? 一両もあんのかい一両も?」
長「一円? 一円なんぞあるもんか」
熊「八十銭かァ?」
長「八十銭ありゃしないよ」
熊「六十銭か」
長「六十銭…までありゃいいんだがね」
熊「五十銭だな」
長「五十銭にちょいと足りねえんだ」
熊「じゃ四十銭だ」
長「もうすこしってとこだ」
熊「三十五銭か」
長「もう、ちょいとだ」
熊「三十銭か」(このあたりで客席にジワ)
長「もうすこしだ」
熊「二十五銭だな」
長「うう、もうちょいと」
熊「二十銭かァ」
長「うう、くやしいとこだ」(爆笑)
熊「十五銭かァ?」
長「もうすこし」
熊「十銭か」
長「うう、もうちょいと」(高っ調子で)
熊「五銭だな?」
長「もうすこしィ」
熊「三銭か」
長「あ当たった」
熊「あこら三銭だよ」

最後の「三銭だよ」に絶妙の間で客の大爆笑がかぶさります。志ん生のライブならではの醍醐味。

活字では、とうてい表現しきれません。

ゲンノウでぶつ   【RIZAP COOK】

母親が五十銭の出所を白状させようと、子供を脅す場面があります。

ゲンノウ(玄翁)は言うまでもなく、大工が使う大型の鉄の槌です。

六代目三遊亭円生は、カナヅチ(金槌)でやりました。

芸談によると、古今亭志ん生に注意され、なるほど、女が持つにはゲンノウは重くて大きすぎると気がついたそうです。

当の志ん生はというと、当然ながら「ここにお父っつァんの置いてったカナヅチがあるから、このカナヅチで頭ァ、たたき割るぞッ」と言っています。

もっとも、単なる脅かしですし、大きいから子供が怖がると考えれば、ゲンノウでもいいと思います。

昔の落語家は、噺の中のちょっとした小道具にも常にリアリティーを考え、気を使っていたことがわかるような逸話ですが、当の志ん生だって、火焔太鼓を手に持ってお屋敷に乗り込むわけですから、どこかでのリアリティーなのか、あやしいもんです。

「女の子別れ」   【RIZAP COOK】

明治初期に三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)は、柳枝の原作を脚色し、あべこべに、出て行くほうがかみさん(母親)で、亭主(父親)が子供と暮らすという「女の子別れ」として演じました。

やはりゲンノウの場面を気にして、ゲンノウで脅すなら父親の方が自然だろう、というのが直接の動機だったようです。

なによりも、「男の子は父親につく」という夫婦別れのときの慣習や、亭主の方が家を出るのは(当時としては)不自然というのが、円朝の頭にあったのでしょう。

この「女の子別れ」は、円朝の高弟、二代目三遊亭円馬(竹沢釜太郎、1854-1918)が大阪に伝えています。

明治33年(1900年)、円馬は大阪にいたのを、円朝危篤の報でいったん帰京しました。

8月11日、円朝が亡くなります。

すぐに大阪に戻るよう、藤浦三周(円朝のパトロン)に命じられ、ついでに京都の天竜寺に立ち寄り、9月の葬儀に読経してくれるよう、交渉したそうです。

そんなこんなで東西を往還していた結果でしょうか、明治期の大阪では、三代目月亭文都(梅川五兵衛、幕末-1918、立ち切れの)が「女の子別れ」を得意にしていました。

今は、東西ともこのやり方で演ずることはありません。

東京嫌いの宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、「子供をカセにお涙ちょうだいのあの手この手を使った、ウエットなヒネクレ落語で、ドライな笑いを好む大阪の水には合いにくい」と述べています。

下足番に習った「子別れ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が生前、対談でこんな回想をしています。

志ん生がまだ二つ目で、旅興行でさすらい歩いていたとき。

流れ着いた甲府の稲積亭といううらぶれた席で、「子別れ」を一席やったところ、そこの下足番の爺さんに、「あすこんとこはまずい」と注意されたので、なに言ってやがる、と思ったそうです。

よく聞いてみると、この爺さん、昔は四代目三升亭小勝(石井清兵衛、1856-1906、狸の)の弟子で「小常」といったれっきとした噺家。

旅興行のドサまわりをしているうちにここに落ち着き、とうとう下足番になり、年を取ってしまったとのこと。

昔はこういうケースはよくあったようです。

志ん生は夏の暑いさ中、爺さんのボロ小屋で虫に食われながら「子別れ」をさらってもらったそうです。

なんだか哀れな、ものさびしい話です。

でも、志ん生の自伝『びんぼう自慢』では、小常から習ったのは「甚五郎の大黒」(→三井の大黒)ということになっていています。

こうなると、どちらが本当なのか、もはやわかりません。

ちなみに、小勝は四代目までは「三升家」ではなく「三升亭」でした。

「三升亭小常」だったという元噺家。

四代目小勝の弟子には「小つね」というのがいました。のちの三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、代地の、せっかちの)です。大看板でした。

「小常」と「小つね」。この話そのもの、どうもあやしいにおいがしますが、心に残る悪くない逸話ではありますね。



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いざかや【居酒屋】落語演目

 




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どんな?

森田芳光監督の傑作、映画「の・ようなもの」はここからきてるんですね。

別題:ないものねだり

あらすじ

縄のれんに-油樽、切り回しているのは番頭と十二、三の小僧だけという、うらぶれた居酒屋に、湯の帰りなのか濡れ手拭いを肩に掛け、ドテラに三尺帯という酔っぱらいがふらふらと入ってくる。

むりやり小僧に酌をさせ、
「おめえの指は太くて肉がいっぱい詰まってそうだが、月夜にでも取れたのか」
と、人を蟹扱いにしたりして、からかい始める。

「肴はなにができる」
と聞かれて、小僧が早口で、
「へえい、できますものは、けんちん、おしたし、鱈昆布、あんこうのようなもの、鰤(ぶり)にお芋に酢蛸でございます、へえーい」
と答えるのがおもしろいと言って、
「今言ったのはなんでもできるか?」
「そうです」
「それじゃ『ようなもの』ってのを一人前持ってこい」

その次は、壁に張ってある品書きを見て
「口上てえのを一人前熱くしてこい」
と言ったりして、小僧をいたぶる。

そうかと思えば、
「とせうけてえのはなんだ」
と聞くから、小僧が
「あれは『どぜう汁』と読むので、濁点が打ってあります。イロハは、濁点を打つとみな音が違います」
と言うと、
「それじゃあ、イに濁点が付けばなんと読む、ロはどうだ、マは?」
と、点が打てない字ばかりを選んでからかう。

今度は
「向こうの方に真っ赤になってぶら下がっているのはなんだ」
と聞くので、
「あれはゆで蛸です」
と答えると、
「ゆでたものはなんでも赤くなるのか、じゃ猿のお尻やお稲荷さんの鳥居はゆでたか」
と、ますますからむ。

しまいに、
「その隣で腹が裂けて、裸になって逆さまになっているのはなんだ?」
「あんこうです。鍋にします」
「それじゃ、その隣に鉢巻きをして算盤を持っているのは?」
「あれは番頭さん」
「あれを一人前持ってこい」
「そんなものできません」
「番公(=あんこう)鍋てえのができるだろう」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

金馬の「居酒屋伝説」  【RIZAP COOK】

昭和初期、居酒屋の金馬か金馬の居酒屋か、というぐらい三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)はこの噺で売れに売れました。

もちろん、先の大戦後も人気は衰えず、金馬生涯の大ヒットといっていいでしょう。

とりわけ、独特の抑揚で、「できますものはけんちんおしたし」と早口で言い、かん高く「へーい」と最後に付ける小僧の口調がウケにウケたわけです。

噺そのものはさしておもしろいわけでもなく、ただ、いい年をしたオッサンが子供をいたぶるというだけのもので、これといってくすぐりもないのに、こんなにも人気が出たのは、ひとえにこの「金馬節」とでも呼べる口調の賜物だったのでしょう。

噺のなりたち  【RIZAP COOK】

文化3年(1806)刊の笑話本『噺の見世開』中の「酒呑の横着」が原話です。

本来、続編の「ずっこけ」とともに、「両国八景」という長い噺の一部だったようですが、三代目金馬が一席噺として独立させました。

金馬の速記にも、「ずっこけ」をつなげて演じているものがあります。この噺、「万病円」とも深いかかわりがあります。

ずっこけ  【RIZAP COOK】

居酒屋で小僧をいたぶったりして長っ尻をし、看板になってもなかなか帰らない酔っ払いを、たまたま通りかかった友達がやっと連れ帰る。

よろよろして歩けないので、ドテラの襟をつかんでようやく家までひきずっていき、かみさんに引き渡そうとするとドテラだけ残って当人が消えている。

あわててさがすと、往来で裸でグウグウ。

かみさんいわく
「よく拾われなかったわねえ」

上方落語の「二日酔」では、さらにこの続きがあり、実は、往来で寝込んでいたのは物乞い。それを間違えて連れ帰り、寝かしてしまいます。

翌朝、亭主の方は酔いもさめて、コソコソ帰ってきますが、さすがに気恥ずかしくて裏口にまわり、
「ごめんください」
とそっと声をかけると、かみさんはてっきり物乞いと勘違いし、
「(やるものはなにも)ないよ」

するってえと奥で寝ていた「本物」が、
「おかみさん、一文やってください」
というものです。

ここまでいかないとおもしろくありませんが、本来、「ずっこけ」も「二日酔」も、「居酒屋」とは原話が別で、まったく別の噺を一つにつなげたものとみられます。

居酒屋事始  【RIZAP COOK】

江戸市中に初めて居酒屋が現れたのは、宝暦13年(1763)とされています。

それ以前にも、神田鎌倉河岸(千代田区内神田1、2丁目)の豊島屋という酒屋が、田楽を肴に出してコモ樽の酒を安売りしたために評判になったという話がありますが、これは、正式な店構えではなく、店頭でキュッと一杯やって帰る立ちのみ形式で、酒屋のサービス戦略だったようです。

初期の居酒屋は、看板に酒旗(さかばやし)を立てて入口に縄のれんを掛け、店内には樽の腰掛と、板に脚をつけただけの粗末な食卓を置いて、肴も出しました。

「一膳めし屋」との違いは、一応飯が看板か、酒が主かという点ですが、実態はほとんど変わりなかったようです。

なお、木にうるしを塗った従来の盃が、陶磁器製に変わったのは、居酒屋が興隆してからです。

金馬の名調子  【RIZAP COOK】

金馬のレコード初吹き込みは昭和4年(1929)7月。ほかに同時代で、七代目春風亭柳枝や初代昔々亭桃太郎も演じましたが、金馬の名調子の前には影の薄いものでした。

金馬の回想記『浮世断語』(有信堂、1959年)によると、先の大戦後、この「居酒屋」をラジオで放送したとき、「この酒は酸っぱいな。甘口辛口は今までずいぶん飲んだことがあるが、酢ぱ口の酒は初めてだ」とやったら、スポンサーの酒造会社が下りてしまったとか。




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ごもくこうしゃく【五目講釈】落語演目



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【どんな?】

でたらめな講釈、「若だんな勘当もの」の一つです。

「寝床」と「船徳」がごっちゃに。

別題:居候講釈 端物講釈

あらすじ】  

お決まりで、道楽の末に勘当となった若だんな。

今は、親父に昔世話になった義理で、さる長屋の大家が預かって居候の身。

ところがずうずうしく寝て食ってばかりいるので、かみさんが文句たらたら。

板挟みになった大家、
「ひとつなにか商売でもおやんなすったらどうか」
と水を向けると、若だんな、
「講釈師になりたい」
と、のたまう。

「それでは、あたしに知り合いの先生がいますから、弟子入りなすったら」
大家がと言うと
「私は名人だから弟子入りなんかすることはない、すぐ独演会を開くから長屋中呼び集めろ」
と、大変な鼻息。

若だんな、五十銭出して、
「これで菓子でも買ってくれ」
と気前がいいので、
「まあそんなら」
とその夜、いよいよ腕前を披露することにあいなった。

若だんな、一人前に張り扇を持ってピタリと座り、赤穂義士の討ち入りを一席語り出す。

「ころは元禄十五年極月ごくげつなかの四日、軒場に深く降りしきる雪の明かりは見方のたいまつ」
と出だしはよかったが、そのうち雲行きが怪しくなってくる。

大石内蔵助が吉良邸門外に立つと
「われは諸国修行の勧進かんじんなり。関門開いてお通しあれと弁慶が」
といつの間にか、安宅あたかの関に。

「それを見ていた山伏にあらずして天一坊てんいちぼうよな、と、首かき斬らんとお顔をよく見奉れば、年はいざようわが子の年輩」
熊谷陣屋くまがいじんや

そこへ政岡まさおかが出てくるわ、白井権八しらいごんぱちが出るわ、果ては切られ与三郎まで登場して、もう支離滅裂のシッチャカメッチャ。

「なんだいあれは。講釈師かい」
「横町の薬屋のせがれだ」
「道理で、講釈がみんな調合してある」

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しりたい】  

またも懲りない若だんな  【RIZAP COOK】

原話は、安永5年(1776)刊『蝶夫婦ちょうつがい』中の「時代違いの長物語」です。

これは、後半のデタラメ講釈のくだりの原型で、歌舞伎の登場人物を、それこそ時代もの、世話ものの区別なく、支離滅裂に並べ立てた噴飯物ふんぱんもの。いずれにしても、客が芝居を熟知していなければなにがなにやら、さっぱりわからないでしょう。

前半の発端は「湯屋番」「素人車」「船徳」などと共通の、典型的な「若だんな勘当もの」のパターンです。道楽が過ぎたさまは「寝床」にも似ています。

江戸人好みパロディー落語  【RIZAP COOK】

四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)の、明治31年(1898)の速記が残っています。

柳枝は「子別れ」「お祭り佐七」「宮戸川」などを得意とした、当時の本格派でした。姉の養子が三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)でした。 

寄席の草創期から高座に掛けられていた、古い噺ですが、柳枝がマクラで、「お耳あたらしい、イヤ……お目あたらしいところをいろいろとさし代えまして」と断っているので、明治も中期になったこの当時にはすでにあまり口演されなくなっていたのでしょう。

講談や歌舞伎が庶民生活に浸透していればこそ、こうしたパロディー落語も成り立つわけで、講釈(講談)の衰退とともに、現在ではほとんど演じられなくなった噺です。

CD音源は五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものが出ています。

興津要おきつかなめ(1924-99、江戸文学)はこの噺について「連想によってナンセンス的世界を展開できる楽しさや、ことば遊び的要素があるところから江戸時代の庶民の趣味に合致したもの」と述べています。

五目  【RIZAP COOK】

もともとは、上方語で「ゴミ」。

転じて、いろいろなものがごちゃごちゃと並んでいること。

現在は「五目寿司」など料理にその名が残っています。

遊芸で「五目の師匠」といえば、専門はなにと決まらず、片っ端から教える人間で、江戸でも大坂でも町内に必ず一人はいたものです。



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たにぶんちょうのでん【谷文晁の伝】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

【どんな?】

江戸後期の南画(文人画)家、谷文晁たにぶんちょうのはなし。

円朝噺。名をなした頃からの逸話で構成した、お得意の「名人もの」です。

【あらすじ】

谷文晁は、伊予いよ大洲おおず藩の大名、加藤文麗に師事してきた。

文麗の死後は師匠につかず、狩野探幽だけを崇拝してひとえに精進する。

ある日。

札差の伊勢屋が酒井抱一ほういつと文晁に筑波山と富士山の屏風絵を依頼。抱一は飲酒三昧で筆をとらず。文晁はすぐに描いた。

伊勢屋からの謝礼全額で、文晁は金粉を買いりっぱな屏風に仕上げた。

町奉行の根岸鎮衛やすもりの注文では、蛭子大黒えびすだいこくの双幅を納めた。

その折、根岸から蛭子講の由来を教えられた。文晁は蛭子を祀り蛭子講を催したくなった。それが昂じて、呉服屋恵比寿屋の暖簾のれんがほしくなった。根岸に胸の内を明かすと、根岸は「盗め」と言う。

翌日。

文晁は恵比寿屋に赴き、正直に恵比寿の暖簾を盗みに来た旨を伝える。不思議なことに、支配人からは来訪を感謝され、料理を供され、暖簾をもらい受けて帰宅した。

その暖簾を、文晁は表装して、根岸や恵比寿屋主人を招いて祝った。

その後、文晁は絵所改役となり、天保十二年、七十八歳で逝去した。

石山寺縁起絵巻第六巻部分 谷文晁筆

【しりたい】

円朝の「名人もの」

もちろん、谷文晁(谷文五郎、1763-1841)の全生涯を語ったものではありません。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が関心を持った逸話でつないでいるだけの噺です。

明治31年(1898)1月3日から中外商業新報(日本経済新聞の前身)に「小説」として9回にわたり連載されました。

「名人もの」とは、一芸に精通した人物が一途に生きる姿を描く、円朝作品群の一ジャンルです。

このジャンルには、「怪談乳房榎」に始まり、「荻の若葉」「名人競」「名人長二」などがあげられます。

「谷文晁の伝」もその流れの一角を構成します。

加藤文麗は大名ではない

円朝の噺には、加藤文麗(加藤泰都、1706-82、南画)は大名だったとあるのですが、これは事実とは異なります。

文麗は、伊予大洲藩第三代藩主、加藤泰恒の六男として生まれました。

同系統の旗本、加藤泰茂の養子となって家督を相続しました。

旗本としては3000石ですからそうとうな高禄でした。

旗本寄合席(大名と対等に話せる立場)となったのですから、まあ、大名クラスといってよいかもしれません。

西城御小姓組番頭→従五位下・伊予守に叙せられ、宝暦3年(1753)には職を辞しました。

文麗は若い頃から木挽町狩野家こびきちょうかのうけの狩野常信(周信)に学び、略筆墨画(省略して描く筆墨の絵)を得意としました。

谷文晁の父親、谷麓谷たにろっこくは加藤文麗と友達だったので、文晁は文麗に師事したのです。

文晁という雅号は、文麗からの偏諱へんき(一字を授かる)だったのでしょう。

文麗の弟子には高田円乗(?-1809)がいて、円乗の弟子には菊池容斎きくちようさい(1788-1878)がいました。

加藤文麗

わが身を文晁に重ねた円朝

全9回の語りものですので、全体に物足りなさは残ります。

この作品で円朝は、文晁の生き方を自分自身になぞらえているふしがうかがえます。

文麗没後の文晁は、江戸初期に活躍した狩野探幽に私淑しました。

円朝も二代目円生に師事しました。

こんな逸話が残っています。

初代古今亭志ん生(清吉、1809-1856、八丁荒らしの)が、円朝(当時は小円太)は二代目円生(尾形清治郎、1806-62、よつもくの)には過ぎたる弟子だと察し、古今亭に移るよう誘ったのですが、円朝は固辞したそうです。

円朝という人は、律儀で心やさしい人だったのですね。

幕末維新期の各派

ちなみに、この時代(幕末維新期)には、三遊派は人情噺、柳派は滑稽噺、林屋(四代目から林家)は怪談と、はなす領域が棲み分けられていました。おおざっぱですが。

古今亭、橘家、金原亭、司馬などは三遊派の系統。

麗々亭、春風亭などは柳派の系統。

筋目も明快でした。

桂派は上方ですが、江戸桂派というのもありました。

江戸桂派は「文治」が総帥の止め名で通っていますが、その歴史的な実態はよくわかっていないようです。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

ねこかいだん【猫怪談】落語演目

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【どんな?】

やり方次第でどうとでもなる魅力的な噺。

円生のお気に入りでした。

【あらすじ】

浅草蛤町の長屋に住む、与太郎。

幼いころに両親が死んで、身よりもなく路頭に迷うところを引き取って育ててくれた恩人の親分が急にあの世へ行ってしまっても、ぽおっとしているばかり。

見かねた大家がしかりつけた。

葬式を出さなくては、と、長屋の衆から香典を集めてもらうなどして二分の金をこしらえ、早桶を買う。

ホトケを一晩でもよけいに置けばそれだけ銭がいるから、今夜のうちに寺に送ってしまおうという世話人の意見。

月番の羅宇屋の甚兵衛を片棒に頼み、後棒を与太郎、大家が提灯を持って先に歩くという三人連れで、早桶を担いで長屋を出た。

目的地は、谷中の寺。

提灯の明りだけが頼りという暗く寂しい道を、真夜中、上野の森下の弁天町あたりにさしかかる。

時候は霜が下りようという、初冬の寒いさなか。

前棒を担ぐ甚兵衛は大の臆病者だ。

加えて与太郎が能天気に
「もうそろそろ出る時分」
だの、
「出る方にきっと請け合う」
だのとよけいなことを言うから、甚兵衛はすくみ上がる。

死人が早桶からにゅっと手を出して背中をたたきゃしないかと、足もおちおち前に進まない。

甚兵衛が
「肩を替えて後棒に回りたい」
というので交替することになったが、与太郎が力まかせに、頭越しに桶を投げて入れ替わろうとした拍子に縄が切れ、ホトケがにゅっと飛び出した。

直そうとして与太が桶の縁をたたいたのが悪く、タガが外れて早桶はバラバラに。

前代未聞だが、早桶の替えを買わなくてはならなくなり、死人を外に寝かせたまま、与太を番に残し、大家と甚兵衛は出かける。

さすがの与太郎も少し薄気味悪くなってきたころ、魔がさしたか、寝かせておいた親分の死骸がぴくりぴくり。

見ている与太郎の前にちょんと座り、こわい顔でゲタゲタ笑う。

仰天して思わず横っ面を張り倒すと、また起き上がり、今度は宙に上がったり下りたり、両手を振って、ひょっこりひょっこり踊り。

与太郎が恐怖のあまり、
「ヨイコラ、ヨイコラ、セッ」
とはやすと、急に上空に舞い上がり、風に乗って上野の森の中へ入ってしまった。

……で、それっきり。

帰ってみて驚いたのは、大家と甚兵衛。

なんせ、せっかく早桶の新しいのを担いできたのに、今度はホトケがない。

与太郎がわけを話すと甚兵衛、恐ろしさで腰が抜けた。

このホトケ、三日目に浅草安部川町の伊勢屋という質屋の屋根に突然、降ってきた。

身元もわからず、しかたがないので店で改めて早桶をしつらえ、始末をしたという。

一人のホトケで三つの早桶を買ったという、不思議でアホらしい「谷中奇聞猫怪談」。

【しりたい】

ひょっこりひょっこり踊り

円生はただ「ぴょこぴょこ」と言っていました。

歌舞伎で、仰向けに寝ていて、手をつかず弾んで飛び起きるというアクロバット的なトンボを「ひょっくり」と呼ぶので、死骸が空中を飛び跳ねるのを、それにたとえたのでしょう。

魔物の正体

噺の中では「魔がさした」と説明されます。

死骸が突如動き出したり、口をきいたりすることで、年月を経て魔力を持った猫のしわざと考えられていました。

つまり、死霊やゾンビでなく、この場合は、死骸はあやつり人形にすぎません。

「捻兵衛」では、首吊り死体が八公を脅かして無理に歌わせなどしますが、これも実は猫の魔力によるもの。

「猫定」でも化け猫が人に憑りつきます。

明治時代の玉輔の速記には、猫の記述はありませんが、当時の客は、こういうくだりを見ればすぐわかったので、特に言及の必要はなかったのでしょう。

円生バージョンでは、題名もはっきり「猫怪談」とし、猫の魔力も、十分にマクラで説明しています。

効果的な後日談

事実上のオチは、(甚兵衛)「ぬ、抜けました」(大家)「しょうがねえな、また桶の底が抜けたか」(甚兵衛)「いえ、あたしの腰が」という最後の会話ですが、それで終わっては噺の結末として不十分なので、あらすじにご紹介の通り、玉輔も円生も最後に後日談を、地で説明して終わっています。

円生は死骸が落ちてきた先を、「七軒町の上総屋」としていました。

与太郎の「深い孤独」

円生は、四代目玉輔にこの噺を教わった三遊亭円駒(三代目小円朝門下、1899-1976)に移してもらったと語っています。

円駒は、曲芸の海老一染之助、染太郎兄弟の父親です。

昭和5年(1930)ごろから円駒を名乗り、同10年(1935)に長唄囃子に転向しているので、円生が教わったのは昭和初期、橘家円蔵時代でしょう。

円生は、与太郎に養父を親分でなく、おとっつあんと呼ばせ、幼年期のあわれなその境涯を大家がしみじみと語る場面を加えることで、単なるばかでなく、孤独な、血肉を持った人間として描きました。

「与太郎が親父の亡骸の前で『おとつぁん、なぜ死んだんだ』という。ばかとは言っても、肉親を失って悲しい。その思いを与太郎の言葉で言うところがこの噺の特徴」と、芸談として自ら語ったように、玉輔のものにはなかった人情噺の要素を加え、この噺に厚みを与えています。

三人が早桶を担いで暗い道を行く場面、怪異が現れるシーンでも、円生は訥々とした本格の怪談噺の語り口を通しています。

珍しい「爆笑怪談」

原話は不詳。元は長い人情噺か世話講談の一部だったのが、独立したものと見られます。

「不忍の早桶」と題した明治42年(1909)の、四代目五明楼玉輔(1855-1935)の速記が残ります。

先の大戦後では六代目円生、八代目正蔵の両巨匠が手掛けましたが、速記や音源が残るのは前者のみです。

円生は、その集大成である「円生百席」にもこの噺を入れています。

気にいった噺だったのでしょう。「捻兵衛」「七度狐」などと同じく、あまり類のない怪談喜劇です。

【語の読みと注】
羅宇屋 らおや

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こうやちがい【高野違い】落語演目

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【どんな?】

ところどころで古典の知識が試される、ペダンチックな噺です。

【あらすじ】

出入りの鳶頭が店に年始に行くと、だんなが子供たち相手にカルタをやっている。

鳶頭はカルタなど見たことがないので珍しく、あれこれトンチンカンなことを言うので、だんながウンチクをひけらかして、ご説明。

洗い髪で、たいそうごてごてと着物を着ている女がいると言うと、それは下げ髪、着物は十二単で、百人一首の中の右近と教えられる。

同じような女が二人いるが、赤染衛門に、紫式部。

赤に紫に黄色(鬱金色=右近)で、まるで紺屋の色見本のよう。

紫とやらいう女の歌が
「巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」

誰かに逢いたいと神に願掛けしている歌だと聞いて
「そりゃ、合羽屋の庄太ですよ。借金を返しゃあがらねえ」
「おまえの話じゃないよ」

太田道灌が
「急がずば 濡れざらましを 旅人の跡 より晴るる 野路の村雨」

弘法大師の歌が
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 高野の奥の たま川の水」

これは六玉川のうち、紀州は高野山の玉川の水は毒があるため、のまないよう戒めた歌だというので、鳶頭、親分が大和巡りに行くから知らせてくると飛び出す。

「それで、その歌はなんだ」
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 跡より晴るる 野路の村雨」
「それじゃ尻取りだ。下は『たかのの奥の 玉川の水』というんだろ」

鳶頭、先に言われたので、しゃくなので揚げ足を取ろうと
「親分、タカノじゃなくてコウヤでしょう」
「同じことだ。仏説にはタカノとある」

またへこまされたので、それではと
「ごまかしたって、こっちにゃ洗い髪の女がついてるんだ。じゃ、こんなのはどうです。『巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな』。さあ驚いたろう」
「驚くもんか。それは誰の歌だ」
「ナニ、着物であったな、鳶色式部だ」
「鳶色式部てえのはない。紫だろ」
「紫と鳶色は昔は同じだったんで。これは仏説だ」
「そんな仏説があるか。大変に違わあ」
「へえ、そうですか。それじゃ、紺屋が間違えたんでしょう」

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【しりたい】

現代人にはわからない

古風な噺で、和歌の教養がないと、今ではよくわからないでしょう。江戸時代には「小倉百人一首」がごく一般に普及していて、これくらいの和歌はわかりあっていたのです。明治にいたっても同様です。共有の文化でした。

原話は、文化8年(1811)ごろ刊行された、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)作の噺本『種が島』中の「源氏物語」です。

無知な男が、和歌の解釈を聞きかじって、トンチンカンなひけらかしで失敗するパターンは現行通りです。

原話では紫式部の歌でなく、謡曲「源氏供養」にある、式部が石山寺の観音の化身だという伝説から、「鳶色式部」を出しています。

オチは、弘法大師(高野山)と太田道灌の歌の上下をとり違えたのと、「紫(色)」と「鳶(色)」の間違いを掛け、色→紺屋の連想から、紺屋=高野のダジャレオチとしています。

原話のオチは、「ナアニ、おれがそそっかしいのじゃアねえ。ぜんてえ、せんに(=だいたい、前に)高野で間違った」というものです。こちらの方がわかりやすいかもしれません。

紺屋の色見本

紺屋形ともいいます。今でもある、服地のサンプルまたはカタログです。

紺屋は、初期は藍で紺色を染めるだけだったのが、のちに染料の進歩により、様々な色の染物ができるようになりました。

特に紺屋の女房になった、吉原の六代目高尾太夫考案の、浅黄色の早染め(かめのぞき)は評判になりました。

かめのぞき」については「紺屋高尾」をお読みください。

オチは、高野山弘法大師の歌の間違いに、そそっかしい紺屋が、色見本を見ても紛らわしい紫と鳶色を染め間違えたことを掛けてあるわけです。

六玉川

むたまがわ。歌枕に詠まれる全国の六つの玉川のこと。

山城の井出の玉川
摂津の卯の花の玉川
近江の野路の玉川
陸奥の野田の玉川
武蔵の調布の玉川
紀伊の高野の玉川

高野の玉川は、高野山奥の院弘法大師廟のそばを流れる川です。

川水の毒については、噺の中でだんなの解釈する通り、弘法大師のこの歌が載っている『風雅和歌集』の詞書に「高野奥院へまいる道に玉川という河のみなかみ(=上流)に毒虫の多かりければ、この流れを飲むまじき(飲んではならない)由を示しおきて後よみはべりける」とあって、実際に中毒の危険を示唆しています。

高野山には女人禁制であったため、
「毒水を 飲む気づかひは 女なし」
という川柳もありました。

別の説では、名水をいたずらに酌むなという教訓がのちに「毒水」と誤伝されたものともいわれますが。

鳶色式部

鳶色は、鳶の羽色の茶褐色のこと。

布地では「鳶八丈」を指します。

鳶八丈とは、鳶色の地に、黒または黄の格子縞の着物です。

明治中期に、袴の色から、女学生の異名に用いられたこともあり、あるいは、それもかけられているかもしれません。

円喬のオハコ

古くから口演された江戸落語で、明治28年(1895)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

円喬はこの噺を好み、よく高座に掛けたようです。

名人の名を後世に残しながら、ややキザで教養をひけらかす臭みがあったという、この人が好みそうな噺かもしれませんね。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)という、兄弟弟子だった二人が、ともに手掛けました。

「やかん先生」の金馬はファンに愛されながらも、そのペダンチックが嫌われもしました。

このような古ぼけたうんちく噺は、円喬や金馬のように、才気ばしった落語家でないと衒学趣味だけが鼻につき、さまにならないのかもしれません。

現在は、ほとんど演じられていません。

【語の読みと注】
鳶頭 とびのかしら
十二単 じゅうにひとえ
右近 うこん
赤染衛門 あかぞめのえもん
紺屋 こうや
六玉川 むたまがわ

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すもうのかや【相撲の蚊帳】落語演目

【RIZAP COOK】

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【どんな?】

これまた、くだらないといえば実にくだらないネタですね。

別題:蚊帳相撲 こり相撲 妾の相撲

あらすじ

横町の米屋のだんな。

大の相撲好きで、町で会っても「関取」と呼ばないと、返事をしない。商売のことも、商談で出かけることを興行と呼ぶくらい。

十日の相撲なら、小屋を建てるところから壊すところまで、十二日間見ないと気が済まないほど。

今日も、贔屓の相撲が負けたのでご機嫌斜めで妾宅に帰ってくる。

あまりぐちるので、お妾さんがなんとか慰めようと、私と相撲を取って負かせば敵討ちをしたつもりになって気分が晴れるでしょうと、提案する。

それもいいだろうと、帯を締め込みに、蚊帳を四本柱に見立て、布団を土俵にハッケヨイ。

お妾さんは、裸にだんなのフンドシ一丁だけを腰に巻かれるというあられもない姿にされたが、恥ずかしがっても、自分が言いだしたことだからしかたがない。

だんなが立ち上がると、お妾さんは捕まれば投げられるから、蚊帳の中をぐるぐる逃げ回る。

それをだんなが追いかけて、まるで鬼ごっこ。

とうとう、だんなの上手がマワシに掛かり、エイとばかりに豪快な上手投げ。

弾みは怖いもので、ほうり投げられたお妾さんが、蚊帳にくるまったまま台所へ転がった。

だんな、仁王立ちになって土俵をにらみつけると、蚊帳がなくなったので、蚊の大群がここぞとばかり攻め寄せる。

「ブーン」
「ははあ、勝ったから、数万の蚊がうなってくれた」

底本:三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

うんちく

三語楼が改作 【RIZAP COOK】

原話は文政7年(1824)刊『噺土産』中の「夫婦」。

明治29年(1896)11月、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記が残り、このオリジナル版は「こり相撲」「妾の相撲」「蚊帳相撲」など、いろいろな別題があります。

大正末に、初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が「賽(妻)投げ」として改作しました。

三語楼は、異色のナンセンス落語で売り出した、英語のできる落語家。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)の本名「強次」の名付け親でもありました。当時、志ん生が三語楼の弟子だったからなのですが、三語楼は「強次」を置き土産にして逝ってしまいました。

三語楼版では、投げるのをお妾さんでなく本妻とし、夫婦げんかで奥方が外へ放り出されると、巡査が通りかかって家に同道。だんなに賭博容疑で署まで来てもらうと言います。

なぜだと聞くと、「今、サイ(賽=妻)を投げたではないか」というダジャレオチ。

まあ、ここまではぎりぎりで普通のお色気噺、寄席で演じられるギリギリの限界は保っていたのですが、後がもういけません……。

弟子の改作 【RIZAP COOK】

三語楼門下で語ん平と言っていた二代目古今亭甚語楼(1903-71)が、戦後、師匠の「妻投げ」をまた改作。さらにきわどくし、お座敷などで演じました。

筋は変わらないものの、たとえば、だんなが細君をフンドシ一丁にする場面で「帯がアソコに食い込んでいるじゃないか」と言ったり、「わき毛が濃いねえ」などとからかった後、取り組んで「ここでおまえの前袋を取る」「私、殿方のように前に袋はございませんから、私がつかみましょう」。「これはいかん、いつもの気分になってきた」「まわし、じゃまですわね。はずしましょうか……」。

ところが、まだこれでは終わりません。改作三度目、とうとうポルノに。作者、演者は不明。

ある男、毎夜毎夜、細君を喜ばそうと苦心中。折も折、悪友から、女の門口を大金玉でピタンピタンたたくと喜ぶと聞き、さっそく夏みかんの特大を買い込む。これが大当たりで、かみさんは連日連夜「死ぬ、死ぬ」と大狂乱。真夜中なので、巡邏中のおまわりがこれを聞きつけ、戸を蹴破って踏み込んでくる。すったもんだでようやく事情をのみこんだおまわり、「あー、以後再びにせ金を使うこと、まかりならん」。

四度目は……、もうありません。

超特急、大相撲史 【RIZAP COOK】

宝暦から明和年間(1751-72)には、相撲の中心は上方から江戸に移り、初めて江戸独自の一枚刷り番付が発行されたのは宝暦7年(1757)でした。

相撲場は、蔵前八幡境内から深川八幡、芝神明社、神田明神、市ヶ谷八幡、芝西久保八幡などを転々とし、天保4年(1833)に本所回向院境内が常打ち場に。

以来、両国国技館開館の明治42年(1909)まで72年間、「回向院の相撲」が江戸の風物詩として定着。

当初は小屋がけで晴天八日間興行だったのが、安永7年(1778)からは十日間になりました。

天明から寛政年間(1789-1801)に入ると東西の大関に谷風、小野川が並立。

雷電為右衛門の出現もあって、史上空前の寛政相撲黄金時代が到来します。

時代が下って、この速記の明治29年(1906)ごろは、明治中期の梅(梅ヶ谷)常陸(常陸山)時代の直前。

当時、初代高砂浦五郎(1838-1900)の相撲組織改革により、明治22年(1889)1月、江戸以来の相撲会所が廃止され、大日本相撲協会(実際は東京のみ)が発足しました。

翌年2月、初めて番付に横綱(初代西ノ海嘉治郎)が表記されるなど、幕末以来、一時すたれていた相撲人気が再び盛り返してきていました。

四本柱が廃止されたのは、はるかのちの先の大戦後、昭和27年(1952)秋場所からです。

【語の読みと注】
贔屓 ひいき
妾宅 しょうたく:愛人の家

【RIZAP COOK】

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しばいとおび【芝居と帯】落語演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

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【どんな?】

いまどき、こんな噺じゃ笑えませんが。

でも、明治っぽくて新鮮です。

【あらすじ】

奥方がだんなに帯を買ってもらうことになった。

調子に乗って、奥方は、
「帯がきたら見せびらかしに芝居に行きましょう。芝居に行ったら役者のご祝儀でお金がかかるから、横浜の親戚に借りに行きましょう。そのついでに金沢八景、江ノ島を見物して、またまたついでに大磯の海水浴へ。ここまで来たなら足を伸ばして箱根へ、そこから汽車で興津の清見寺から久能山、小夜の中山から豊川稲荷、そこから熱海神宮、伊勢神宮、二見ケ浦で朝日を拝み、近江八景見物の後京大阪、奈良の大仏、高野山、熊野の鯨見物も。それから神戸、須磨、明石、讃岐の金比羅、安芸の宮島、馬関ばかん(下関)の春帆楼しゅんぱんろうから長崎へ渡り、ここまできたら沖縄へ。また出直すのもおっくうだから、ことのついでに海を渡って上海へ。そこからシンガポールでコーヒーをのんで一休み、宗主国を訪れないでは失礼だから、ちょいとロンドンまで。ヴィクトリア女王に会ってから、近道でも探してウラジオに戻り、それから函館五稜郭で氷水でものみ、汽車で上野まで戻りましょう。ああくたびれた」
とまあ、帯一つで世界一周してしまう魂胆だから、だんなは仰天。

「そんなことされた日にゃ破産で、ロンドンどころかルンペンだから、芝居か帯のどちらかにしろ」
と厳命するだんな。

奥方が迷っていると、幇間の桜川呑孝がやってきた。

この間の歌舞伎座、団菊大顔合わせの「加賀見山」お初仇討ちの場を熱演してみせたので、奥方はうっとり。

「まあ、本当に芝居を見てるようだよ」
というと、だんなが
「それじゃ、帯を止めにしよう」

底本:六代目桂文治

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【うんちく】

文治の新作

「芝居好きの泥棒」と同じく、明治の芝居噺の名人、六代目桂文治の創作と思われます。

「芝居好きの泥棒」より二か月後の明治31年(1898)8月、雑誌『百花園』に速記が掲載されました。

これが唯一の口演資料で、以後の記録はありません。

馬関の春帆楼

この奥方も「藪入り」のおやじと同じパターンで、願望がふくらんで、際限のない空想旅行にご出発。

馬関は、現在の山口県下関しものせき市の古称です。下関はかつては赤間関あかまがせきと呼ばれていまして、赤間関を略して馬関とつづめて漢語風に「ばかん」と呼んでいたようです。気取った言い方です。

明治22年(1889)の市制施行で、赤間関市となり、同34年(1899)、山陽本線開通によって駅が設置されたとき、「馬関駅」と命名されましたが、それも一年限りで、翌35年(1900)、市名、駅名ともに「下関」と改称されました。

春帆楼は、下関市のフグ料理で名高い料亭割烹。明治21年(1888)、伊藤博文が初めて訪れて以来、大のひいきにしました。

この速記の3年前の明治28年(1895)4月17日、春帆楼で伊藤と外相陸奥宗光が、清国講和全権李鴻章と馬関(下関)条約を調印し、日清戦争が正式に終結しました。それで有名な店です。

PHP研究所版『千字寄席』では、春帆楼を伊藤博文の「別荘」と記しましたが、これは、伊藤がこの料亭を私物化して「別荘のようなもの」にしていたというのが正しい表現だったようです。失礼いたしました。

コーヒー事始

奥方の空想旅行も海を渡り、「シンガポールでコーヒーを」とハイカラぶりを見せつけています。

コーヒーが日本で存在を初めて知られたのは、文化8年(1811)。幕命によって、蘭学者大槻玄沢らが翻訳に着手したフランスの百科事典のオランダ語訳『厚生新編』に紹介されました。

実際に輸入され始めたのは、維新後の明治10年(1876)ごろから。明治21年(1888)4月、日本初のコーヒー店「可否茶館」が下谷黒門町にオープンしたというのが定説です。

当時のコーヒー1杯の値段は3銭。

この速記(明治31年)の前後は、値下がりして2銭となっています。

団菊の「加賀見山」

九世市川團十郎(1838-1903)と五世尾上菊五郎(1844-1903)の明治の二大名優顔合わせによる「加賀見山旧錦絵」は、明治31年(1898)5月、歌舞伎座上演。

通称「加賀見山」(鏡山)は、天明3年(1783)4月、森田座初演。加賀前田家のお家騒動に題材をとったものです。

あらすじは以下の通り。

兄の入間家(前田家)家老剣沢弾正と結託してお家乗っ取りをたくらんだ局岩藤が、陰謀を知った中老尾上に、お家の重宝の弥陀の尊像を盗んだ罪を押し付けて、自害に追いやります。しかし、尾上付きの忠義な腰元お初が岩藤を討ち取ってお家の安泰を得る、というもの。

明治31年の公演は団菊最後の「加賀見山」で、菊五郎のお初、團十郎の岩藤という、ともに一世の当たり役でした。

仇討ちの場は、大詰め奥庭の場。

この芝居は登場人物が悪役弾正を除けば女ばかりです。「女忠臣蔵」と呼ばれ、女性観客には人気が高かった演目です。

【語の読みと注】
馬関 ばかん
春帆楼 しゅんぱんろう
加賀見山旧錦絵 かがみやまこきょうのにしきえ
局 つぼね

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