ちはやふる【千早振る】落語演目

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

無学者もの。
知ったかぶりの噺。
苦し紛れのつじつまあわせ。
あっぱれです。

別題:木火土金水 龍田川 無学者 百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平ありわらのなりひらの「千早ちはやふる 神代かみよも聞かず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
龍田川たつたがわってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫ちはやだゆう花魁道中おいらんどうちゅうに出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫かみよだゆうに口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず 龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代のころでさえ、龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め(=絞り染め)にされるとは、聞いたこともない。

とまあ、意味を知れば、おもしろくもおかしくもない歌です。

隠居の珍解釈の方が、よほど共感を呼びそうです。

「龍田川」は、奈良県生駒郡斑鳩いかるが町の南側を流れる川。古来、紅葉の名所で有名でした。

「くくる」とは、ここでは「くくり染め」の意味だということになっています。くくり染めとは絞り染めのこと。

川面がからくれない(韓紅=深紅色)の色に染まっている光景が、まるで絞り染めをしたように見えたという、古代人の想像力の産物です。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院ようぜいいん」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町にほんばしふきやちょうにあった「元吉原」といわれる寛永年間(1624-44)にさかのぼる、といわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋あげや(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

陽成院  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねの みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる」の珍解釈。京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」。見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持米をたまわったので、「声ぞつもりて扶持となりぬる」。しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

蛇足ながら、陽成院とは第57代の陽成天皇(869-949)が譲位されて上皇になられてのお名前です。この天皇、在位中にあんまりよろしくないことを連発されたため、時の権力者、藤原氏によってむりむり譲位させられてしまいました。

天皇としての在位は876年から884年のたった8年間でした。その後の人生は長かったわけで、なんせ8歳で即位されたわけですから、やんちゃな天子だったのではないでしょうか。そんなこと、江戸の人は知りもしません。百人一首のみやびなお方、というイメージだけです。

ちなみに、この時代の「譲位」というのは政局の切り札で、天皇から権力を奪う手段でした。

本人はまだやりたいと思っているのに、藤原氏などがその方を引きずりおろす最終ワザなのです。

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

おちゃくみ【お茶汲み】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

遊郭を舞台にした艶っぽい噺。
なんだかまぬけなんですがね。
圧倒的に人気ある噺です。

別題:女郎の茶 茶汲み 黒玉つぶし(上方) 涙の茶(改作)

あらすじ

吉原から朝帰りの松つぁんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから70銭ポッキリでいいと若えが言うので、あがったのが「安大黒やすだいこく」という小見世こみせ(大衆店)。

そこで、額の抜け上がった、ばかに目の細い花魁おいらんを指名したが、女は松つぁんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、むらさきというその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡のざいもの(いなかの人)だが、近所の清三郎という男と恋仲になったこと。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手もとでに清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨のつぶて。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界くがい(遊女の境遇)の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心かみしんじんをして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季ねんきが明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くどくうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目のふちになすりつけて、その茶殻ちゃがらがくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

しりたい

原作は狂言

大蔵流おおくらりゅうの狂言「墨塗すみぬり」が元の話とされています。

これは、主人が国許くにもとへ帰るので、太郎冠者たろうかじゃを連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬しっと深い女のところへいとまいに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋まぶたにこすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋かるくちごしきがみ』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里遊びが過ぎて勘当かんどうされかかった若だんなが、罰として薩摩さつま国(鹿児島県)の親類方に当分預けられるので、なじみのお女郎に暇乞いとまごいに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶殻に代えた「涙の茶」。

これを初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚々実々のだまし合いをリアルに活写。

現行の東京版「お茶汲み」が完成しました。

と、こんなストーリーがこれまでの種明かしでした。

でも、以下をお読みいただければ、この噺がもっと古いところから来ているのがおわかりになるでしょう。

小せんから志ん生へ

初代柳家小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が直伝で継承しました。

初代小せんは、廓噺の名手で、女遊びが過ぎて失明した上に足が立たなくなったといわれている人です。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、先の大戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎たごととしていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のものがCD化されていました。桂歌丸(椎名巌、1936-2018)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のものも。

本家の「黒玉つぶし」の方は、先の大戦後に東京で上方落語を演じた二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が得意にしていました。

歌舞伎でも

閑話休題。

「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、じつは、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平貞文たいらのさだふん(872-923、平定文、平中へいちゅう)の逸話中にすでにある、といわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九じっぺんしゃいっく(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛ぞくひざくりげ』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』の「鮨屋すしや」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)以来の音羽屋おとわやの型です。

歌舞伎のほうは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。

まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

「平中」をさらに

平貞文の通称がなぜ「平中」なのか、これは、国文学の世界では諸説あって、いまだによくわかっていません。

950年頃に成立した「平中物語へいちゅうものがたり」(平仲物語、へいちう物語とも)という歌物語うたものがたり(和歌にまつわる話題でつくられた物語)の主人公が平貞文で、「平中」は平貞文をさしているのです。

ここでは「平定文」と書いて「たいらのさだふん」と呼んでいます。「平貞文」と記した伝本もあります。

だいたいこの「平中物語」は、「平仲物語」と記したものもあって、中世から近世頃までは「へいじゅうものがたり」と呼び習わしていたそうです。

「平中物語」は、ある時期には「平中日記」と記されていたりしています。

名称の表記ばかりか、かつては、物語、日記、家集(歌集)といったジャンル分けのボーダーもあいまいでゆるやかだったのでしょう。

日記か、物語か、家集か、といったジャンル分けの考えは、およそ近代的なとらえ方なのかもしれません。

なぜそんなことをいうかといえば、「平中物語」が一般の人々が読めるようになるのは、宮田和一郎が校注した『王朝三日記新釈』(建文社、1948年)が刊行されてからのことです。

この本はお得な中身でして、「篁日記たかむらにっき」(10~13世紀成立)「平中日記へいちゅうにっき」(950年頃成立)「成尋母日記じょうじんのははのにっき」(1070年頃成立)が丸ごと収められています。

「篁日記」は「篁物語たかむらものがたり」のこと、「平中日記」は「平中物語へいちゅうものがたり」のこと、「成尋母日記」は「成尋阿闍梨母集じょうじんあじゃりのははのしゅう」(家集)のことです。

これを見ると、日記も物語も家集も、区分けが難しいし、区分けすることになんの意味があるのかがわからなくなってきます。

「平中物語」には、平定文(平貞文)がしでかした、さまざまな失敗譚が記されています。

持参した水だと思って、顔に墨を付けてしまった話が載っています。

これは、「源氏物語」末摘花すえつむはな帖にある、光源氏が自分の鼻に赤い色を塗って紫の上と戯れる場面の元ネタとされています。

ところがこの話は、いまに残る「平中物語」の本文にはなく、これまでのいくつかの注釈書に記されてきた内容から、われわれは知るだけなのです。

「平中物語」は、おそらく「古本説話集こほんせつわしゅう」(12世紀成立)にあった話を下敷きにしていたと思われます。

と、このように、話の淵源はなかなか昔までさかのぼるもので、中国、インド、ペルシャ、ギリシャなどに原点を求めることも難しくはありません。

平貞文という人は、一昔前の在原業平ありわらのなりひら(825-880)と並び称されることが多く、二人は、歌詠み、色好み、官歴などの点で、不思議に共通していました。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(=午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょう。

明治末から大正初期で、大見世(=高級店)では揚げ代(=入場料)のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。

これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。

こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

ことばよみいみ
勘当かんどう親が子と縁を切る ≒義絶
花魁おいらん吉原での高位の遊女
梨の礫 なしのつぶて音信のないこと。投げた小石(礫)は返ってこない(なし→梨)ことからの洒落



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

あけがらす【明烏】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 【どんな?】

堅物がもてるという、廓が育む理想形の物語。
ビギナーズラックでしょうか、はたまた普遍の成功譚。
こんな放蕩なら、一度は経験してみたいものです。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼あいかたに振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(→八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が台頭するまで、先の大戦後は、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中頃とし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原玉屋の遊女美吉野と、呉服屋の若だんな伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈りゅうていりじょう為永春水ためながしゅんすいが「明烏後正夢あけがらすのちのまさゆめ」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木門かぶきもん。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。

吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町2丁目。

日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7年=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

八代目桂文楽のおはこ。文楽存命の間はだれもやらずにいた。のちに、馬生がやった。志ん朝がやった。小三治がやった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。これが宮戸川心中事件といわれるもの。

江戸時代、「呉服」は絹織物のこと、「太物」は綿や麻織物でつくった普段着のこと。呉服商と太物商は扱う品物が違ったため、区別されていたものです。

事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生されていった。

うぶな男がもてて半可通が振られるという型は、江戸の遊里を描いた洒落本にはありがちなもの。もてるもてないはどこか才のかげんで、修行しても始まらないようである。

この噺のすごい魅力は、まるごと「吉原入門」はたまた「吉原指南」になっているところ。吉原での遊び方のおおかたがわかるのだ。便利であるなあ。

(古木優)

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)

 



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

いのこりさへいじ【居残り佐平次】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

映画『幕末太陽傳』の元ネタ。
痛快無比な廓噺。
佐平次は佐平治とも記します。
嫌がられ役の代名詞。

別題:おこわ

                 落語映画の最高峰!☞

あらすじ

仲間が集まり、今夜は品川遊廓で大見世遊びをして散財しようということになったが、みんな金がない。

そこで一座の兄貴分の佐平次が、俺にまかせろと胸をたたく。

大見世では一晩十五円はかかるが、のみ放題食い放題で一円で済まそうという。

一同半信半疑だが、ともかく繰り込んだのが「土蔵相模」という有名な見世。

その晩は芸者総揚げで乱痴気騒ぎ。

さて寝る段になると、佐平次は仲間を集めて割り前をもらい、この金をお袋に届けてほしい、と頼んだ。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「どうせ胸を患っていて、医者にも転地療養を勧められている矢先当分品川でのんびりするつもりなので、おまえたちは朝立ちして先に帰ってくれ」と言う。

翌朝若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次、早速舌先三寸で煙にまき始める。

まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。

心配になってまた催促すると、帰った四人が夜、裏を返しにきて、そろって二日連続で騒ぐから、きれいに明朝に精算すると言う。

いっこうに仲間など現れないから、三日目の朝またせっつくと、しゃあしゃあと「金はねえ」。

帳場はパニックになるが、当人少しも騒がず、蒲団部屋に籠城して居残りを決め込む。

だけでなく、夜になり見世が忙しくなると、お運びから客の取り持ちまで、チョコマカ手伝いだした。

無銭飲食の分働くというのだから、文句も言えない。

器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい気持ちにさせた上、幇間顔負けの座敷芸まで披露するのだから、たちまちどの部屋からも「居残りはまだか」と引っ張りだこ。

面白くないのが他の若い衆で、「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだからたたき出せ」と主人に直談判する。

だんなも放ってはおけず、佐平次を呼び、勘定は待つからひとまず帰れと言う。

ところがこの男、自分は悪事に悪事を重ね、お上に捕まると、三尺高い木の空でドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれととんでもないことを言いだし、だんなは仰天。

金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いしたが、それでも心配で、あいつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじり。

驚いて問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次てんだ、よく覚えておけ」と捨てぜりふ。

聞いただんな、
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、あなたのおツムがごま塩です」

底本:五代目古今亭志ん生

古今亭志ん朝

しりたい

居残り  【RIZAP COOK】

「居残り」は遊興費に足が出て、一人が人質として残ることです。もとより、そんな商売があるわけではありません。

「佐平次」ももともとは普通名詞だったのです。古くから芸界で「図々しい人間」を意味する隠語でした。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)では、「居残り佐平次」を中心に、「品川心中」「三枚起請」「お見立て」などが挿入されています。

こんなすばらしい作品が生まれた日本は、これだけで世界に誇れます。

品川遊郭  【RIZAP COOK】

品川は、いわゆる四宿ししゅく(=品川、新宿、千住、板橋)の筆頭。

吉原のように公許の遊廓ではないものの、海の近くで魚はうまいし、佐平次が噺の中で言うように、労咳ろうがい(結核)患者の転地療養に最適の地でした。

おこわ  【RIZAP COOK】

オチの「おこわにかける」は古い江戸ことばで、すでに明治末年には死後になっていたでしょう。

語源は「おおこわい」で、人を陥れる意味でした。

それを赤飯のおこわと掛けたものですが、もちろん今では通じないため、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)が「あんな奴にウラを返されたら、あとがこわい」とするなど、各師匠が工夫しています。

昔から多くの名人・上手が手がけましたが、戦後ではやはり六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)のものだったでしょう。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

こうやたかお【紺屋高尾】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

【どんな?】

「幾代餅」は志ん生系。
映画「の・ようなもの」。
冒頭のプロットです。

別題:幾代餅 かめのぞき 紺屋の思い染め 駄染高尾

あらすじ

神田紺屋町の染め物職人、久蔵。

親方のところに十一の年から奉公して、今年二十六にもなるが、いまだに遊びひとつ知らず、まじめ一途の男。

その久蔵がこの間から患って寝ついているので、親方の吉兵衛は心配して、出入りの、お玉が池の竹内蘭石という医者に診てもらうことにした。

この先生、腕の方は藪だが、遊び込んでいて、なかなか粋な人物。

蘭石先生、久蔵の顔を見るなり
「おまえは恋患いをしているな。相手は今吉原で全盛の三浦屋の高尾太夫。違うか」

ズバリと見抜かれたので、久蔵は仰天。

これは不思議でもなんでもなく、高尾が花魁道中している錦絵を涎を垂らして眺めているのだから、誰にでもわかること。

久蔵はあっさり、
「この間、友達に、話の種だからと、初めて吉原の花魁道中を見に連れていかれたのですが、その時、目にした高尾太夫の、この世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、それ以来、なにを見ても高尾に見えるんです」
と告白。

「ああいうのを一生一度でも買ってみたいものですが、相手は大名道具と言われる松の位の太夫、とても無理です」
とため息をつくと、先生、
「なに、いくら太夫でも売り物買い物のこと、わしに任せておけば会わせてやるが、初会に座敷に呼ぶだけでも十両かかるぞ」
と言う。

久蔵の三年分の給料だ。

しかし、それを聞くと、希望が出たのか、久蔵はにわかに元気になった。

それから三年というもの、男の一念で一心不乱に働いた結果たまった金が九両。

これに親方が足し増してくれて、合わせて十両持って、いよいよ夢にまで見た高尾に会いに行くことになったが、いくら金を積んでも紺屋職人では相手にしてくれない。

流山のお大尽ということにして、蘭石先生がその取り巻き。

帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。

さて、吉原。

下手なことを口走ると紺屋がバレるから、久蔵、感激を必至で押さえ、先生に言われた通り、なんでも
「あいよ、あいよ」

茶屋に掛け合ってみると、折よく高尾太夫の体が空いていたので、いよいよご対面。

太夫だから個室。

その部屋の豪華さに呆気にとられていると、高尾太夫がしずしずと登場。

傾城座りといい、少し斜めに構えて、煙管で煙草を一服つけると
「お大尽、一服のみなんし」
「へへーっ」

久蔵、思わず平伏。

太夫ともなると、初会では客に肌身は許さないから、今日はこれで終わり。

花魁が型通り
「ぬし(主)は、よう来なました。今度はいつ来てくんなます」
と聞くと、久蔵、なにせこれだけで三年分の十両がすっ飛び、今度といったらまた三年後。その間に高尾が身請けされてしまったら、これが今生の別れだと思うと感極まり、思わず正直に自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまう。

ところが、それを聞いて怒るどころか、感激したのは高尾太夫。

「金で源平藤橘四姓の人と枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人か……わちきは来年の二月十五日に年季が明けるから、女房にしてくんなますか」
と言われ、久蔵、感激のあまりり泣きだした。

この高尾が、紺屋のかみさんとなって繁盛するという、「紺屋高尾」の由来話。

底本:四代目柳亭左楽、六代目三遊亭円生

古今亭志ん朝

しりたい

藍染め   【RIZAP COOK】

布染めや糸染めを手がける職業を紺屋といいました。

糸染めだけを商売とするのは青屋といいました。

紺でも青でも、それ以外の色を染め出しても、染め物業は紺屋、青屋といっていました。

防虫防蛇の効果がある藍が染め物の代表格だったからです。

藍は色あせにくく、作業衣に向き、庶民衣装の基本の色だったからです。

発酵させた葉藍(蒅=すくも)を臼でつき、藍玉にして瓶に注ぎ、水と石灰を付け足して藍汁をとつくります。

瓶に添えた火壷で加熱しながら、ゆででつぶした甘藷(または水)で溶かした黒砂糖を添加して蓋をし、蓋をとってはかき回したりして、藍汁に光沢が出て泡(これを花と呼びます)が立つまで。しめて八日間かかる藍染め作業です。

作業場(染め場)には愛染明王を祀り(「愛染」を「あいぞめ」と読める音から)、四六時中、藍汁をなめてその具合を確認しながらの忍耐強い作業から、藍は生まれていきます。

職人の指は藍がしみついているのです。

高尾太夫代々   【RIZAP COOK】

高尾は代々吉原の名妓で、歌舞伎十八番「助六」でおなじみの三浦屋の抱え女郎です。

詳しい年代は不詳ですが、宝永(1704-11)から正徳(1711-16)にかけてが全盛といわれます。

紺屋の名は、実際は九郎兵衛とも伝わっています。

九郎兵衛の妻となった紺屋高尾または駄染め高尾は、三代目、または五代目ともいわれています。確証はありません。

高尾太夫は、吉原の三浦屋の抱え遊女の源氏名です。

これは複雑で、しかのも不詳や異説が多く、記すのもはばかられます。

七代、九代、十一代で混乱しているため、通称で呼んだりしています。

あえて整理してみましょう。

一般的な流布説をまとめました。

初代 通称なし。元吉原時代(1617-57)
二代 万治高尾、仙台高尾。伊達綱宗との巷説で。ここから新吉原時代に
三代 紺屋高尾、駄染め高尾。水谷高尾の一説も
四代 浅野高尾。浅野紀伊守(壱岐守とも)が身請けした巷説で
五代 紺屋高尾の異説も
六代 榊原高尾、越後高尾。姫路藩主榊原政岑が身請けし巷説で。越後高田に移封
七代 六つ指高尾。足の指が六本あったことで例外的に足袋を履いていた巷説で
八代 浅野高尾とも
九代 水茶屋高尾。采女が原(中央区東銀座)の水茶屋女になった巷説で
十代 榊原高尾とも
十一代 榊原高尾とも

高尾の素性も履歴も、まるでわかっていないことがわかります。

これが現状です。

わざわざこんなものを調査する、まともな研究者がいないのですね。

残念です。紺屋高尾は三代、五代でダブっています。

浅野高尾は四代、八代でダブり。

榊原高尾にいたっては、六代、十代、十一代で。こうなると、ほとんどあやしいとしかいえません。

高尾太夫を史実で探るのはナンセンス。伝説や物語でしか通用しません。

落語の世界でたっぷり楽しみましょう。

三代目の「水谷高尾」   【RIZAP COOK】

三代目高尾には異説があります。その名を水谷高尾という、もう一人の高尾像が伝えられています。

この人、もっともドラマチックな人生を経めぐったのではないでしょうか。

これだって、史実かどうかといわれれば、はなはだあやしいかぎりですが。

ただ、おもしろい人生です。

いろいろ着色したくなりますね。

新吉原の三浦屋で三代目高尾太夫を名乗っていた遊女が、水戸家の為替御用達、水谷六兵衛(水谷庄左衛門とも)に身請けされました。

この人は武士ではなく商人です。六兵衛の下人、当時六十八歳だった平右衛門と不義に陥って出奔。

その後、浄瑠璃語りの半太夫の妻となるも、家を出て牧野駿河守の側女に。

中小姓の河野平馬と通じて出奔。

めぐりめぐって深川の髪結いの女房となりながらも、やがては役者の袖岡政之助とつながったそうです。

最後には、神田三崎町の元結売りの妻となったそうですが、ここも落ち着かず。いつの日か、下谷大音寺前の茶屋、鎌倉屋の前で倒死していたといいます。

すごい人生です。

この女性は「三九高尾」とも呼ばたとか。達筆だったそうで、「ん」の字に特徴があったので、「はね字高尾」とも呼ばれたそうです。

万事こんな調子で尾ひれが付いていくのです。

さらには、島田重三郎(「反魂香」参照)とも恋仲だったという巷説まで付いて、盛り盛り高尾です。

花魁   【RIZAP COOK】

おいらん。吉原の遊女、女郎の別称です。最高位の「太夫」となれたのは二百人に一人といわれます。

享保(1716-36)ごろまでは、吉原では遊女のランクは、
(1)太夫
(2)格子
(3)散茶
(4)梅茶
(5)局
の順で、太夫と格子がトップクラスでした。

この(1)と(2)を合わせて、部屋持ち女郎の意味で「おいらん」(花魁は中国語の当て字)という名称が付きました。

語源は「おいら(自分)のもの」からとか。だいたい明和年間(1764-72)から使われ出したものです。

のちに、単に姉女郎に対する呼びかけ、さらには下級女郎に対しても平気で使われるようになりました。

これは、早く宝暦年間(1751-64)にトップ2の太夫と格子が絶えたのを端緒に、なし崩しに呼び名が下へ下がっていったためです。

ただし、どんな時代でも「おいらん」は吉原の女郎に限られました。

花魁については「盃の殿さま」の「吉原花魁盛衰記」にも記しておきました。

落語よりも浪曲で   【RIZAP COOK】

遊女は客にほれたといい
客はきもせでまたくるという
うそとうそとの色里で
恥もかまわず身分まで
よう打ち明けてくんなました
金のある人わしゃきらい
あなたのような正直な方を捨ておいて
ほかに男をもったなら
女冥利に尽きまする
いやしい稼業はしていても
わしもやっぱり人の子じゃ
情けに変わりがあるものか
義理という字は墨で書く

これは初代篠田実(1898-1985)の「紺屋高尾」です。

大正から昭和にかけての浪曲師。本名です。

京都府福知山市の出身。

大正12年(1923)9月、埋め草にかつて録音してあった「紺屋高尾」が、傾いたレコード会社が震災後のどさくさに苦し紛れに発売。

それが空前の大ヒットとなりました。

ヒコーキレコードという会社(その後日蓄と合併)が起死回生、V字回復をを演じました。

昭和初期には全国津々浦々でこの一節がうなられていたわけです。

というか、「紺屋高尾」といえば、落語よりも浪曲で知られていました。

ありんす言葉   【RIZAP COOK】

吉原では、古くから独特の廓(さと)言葉が使われていました。

この噺の高尾が使う「なます」「ありんす」「わちき」などの語彙がそれで、「ありんす」言葉ともいいました。

起源ははっきりしませんが、京の島原遊廓で諸国から集められた女たちが、里心がついて逃走しないよう、吉原の帰属意識をもたせるために考え出されたものといわれます。

エスペラント同様の人工語であるわけです。

したがって、島原(京)や新町(大坂)の遊女も当然同じような言葉を使っていたわけです。

江戸が18世紀後半以後、文化の中心になると「吉原詞」として全国に知れ渡り、独自の表現や言い回しが生まれていきました。

「行きまほう(=行きましょう)」「くんなまし」「そうざます」などもそうです。

昭和30年代に東京山の手の奥サマが使う「ざあます言葉」というのがさかんに揶揄されました。

実は、女郎言葉の名残だったわけです。

なんともいやはや、お皮肉なことでありんす。

極めつけ円生十八番   【RIZAP COOK】

この噺、実話をもとにしたものとされますが、詳細は不詳です。

戦後では六代目三遊亭円生の独壇場でした。

「かめのぞき」のくだりは、高尾が瓶にまたがるため、水に「隠しどころ」が映るというので、客が争ってのぞき込む、というエロチックな演出がとられることが昔はありました。

円生はその味を生かしつつ、ストレートな表現を避け、「ことによると……映るんじゃないかと」と、思わせぶりで演じるところが、なんとも粋でした。

この噺はふつう、オチらしいオチはありません。

四代目柳亭左楽(オットセイの左楽、「松竹梅」)は、与三という男が高尾の顔を見に行きたいが、染めてもらうものがないため、長屋のばあさんに手拭いを借りにいくものの、みな次から次へと持っていくからもうないと断られ、たまたま黒猫が通ったので「おばさん、これ借りるよ」「なんだって黒猫を持っていくんだ」「なに、色揚げ(色の褪めた布を染め直す)してくる」とオチていました。円生もときにこれを踏襲して落としていました。

後日談   【RIZAP COOK】

この後、久蔵と高尾が親方の夫婦養子になって跡を継ぎ、夫婦そろってなんとか店を繁盛させたいと、手拭いの早染め(駄染め)というのを考案し、客がまた高尾の顔見たさに殺到したので、たちまち江戸の名物になったという後日談を付けることがあります。

高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを客が待ちます。

高尾が下を向いていて顔が見えないので、客が争って瓶の中をのぞき込んだことから染め物に「かめのぞき」という名がついたという由来話で締めくくります。

前項のエロ演出は、もちろんこれの「悪のり」です。

類話に「幾代餅」   【RIZAP COOK】

まったく同じ筋ですが、人物設定その他が若干異なります。

「紺屋高尾」の改作と思われますが、はっきりしません。

五代目古今亭志ん生の系統は「幾代餅」でやっていました。

志ん生の弟子、古今亭円菊も、その弟子の古今亭菊之丞も。十代目金原亭馬生の弟子、五街道雲助もご多分に漏れず「幾代餅」です。雲助の弟子、桃月庵白酒も。志ん朝は「幾代餅」でも「紺屋高尾」でもやっていました。

志ん朝の弟子、古今亭志ん輔も。別系統ながら、柳家さん喬柳家権太楼もよい味わいです。

類話はもう一つ。「搗屋無間」も同工異曲の噺といってよいかもしれません。

「幾代餅」のあらすじ   【RIZAP COOK】

日本橋馬喰町一丁目の搗き米屋の奉公人、清蔵。人形町の絵草紙屋で見た、吉原の姿海老屋の幾代太夫の一枚絵に恋患いし、仕事も手につかない。

親方六右衛門の助言で一念発起、一年とおして必死に働いた。

こさえた金が十三両二分。ちょっと足りない。そこに六右衛門が心づけて、しめて十五両に。

六右衛門は近所の幇間医者、籔井竹庵に事情を話して、吉原への手引きを頼んだ。

竹庵、蹴転のあそびから大籬のあそびまでの通人だ。

竹庵の手引きで、野田の醤油問屋の若旦那という触れ込みで清蔵は吉原に。

初会ながらも情にほだされた幾代太夫は、年季明けに清蔵の元に、という約束。

明けた三月、幾代は清蔵に嫁いだ。

親方の六右衛門は清蔵を独立させ、両国広小路に店を持たせた。

店のうまい米を使って二人が考案した「幾代餅」が大評判となり名物となった。

二人は幸せに暮らし天寿を全うした、というめでたい一席。

古今亭志ん朝 二朝会 CDブック

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

ふみちがい【文違い】落語演目

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

新宿の岡場所が舞台。
淋菌のついた指で目をこすると。
当時は「風眼」と呼ばれていました。

別題:自称間夫

あらすじ

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて
「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

しりたい

六代目円生の回顧

かつての新宿を語った、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)の回顧談が残っています。

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(お女郎さんのいる店)がずいぶんありましたもので」

円生は豊竹節の母親に連れられて、大阪から東京へ。

東京の最初の夜は新宿角筈の芸人宿でした。

その後、さまざまな変転の後、昭和32年(1957)3月、新宿区柏木町(北新宿)に転居。

それ以降、昭和54年(1979)9月に亡くなるまで「柏木の師匠」と呼ばれていました。

東京人生の初めと終わりが新宿で、六代目円生は新宿に縁のある人でした。

「なかでも覚えておりますのは、新金しんかねといううち、それから大万おおよろず、そういうとこは新宿でも大見世おおみせとしてあります」

詳しいものです。

明治末年のころ

円生回顧の「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井のあたりにあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど。

客にどうかは知らず、お女郎さんには過酷な見世だったようです。

芸談・円生

さらに。

六代目三遊亭円生の芸談です。

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、「女殺し」。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋きょうじや、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。

蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。

どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿ししゅく(非公認の遊郭)の一。飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。

正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。

甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。

明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。



 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やまざきや【山崎屋】落語演目



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【どんな?】

道楽にはまってしまったご大家の若だんな。
これはもう、円生と彦六ので有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若だんな、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若だんなは
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若だんな、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若だんな、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若だんなに、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若だんなに」
と佐兵衛が言うとだんな、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われてだんな、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若だんな、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

だんな、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若だんなが忘れたからと金を届ける。

番頭が、だんな自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされただんな、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

だんなは徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。

この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。

どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。

このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。

今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。

五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)から六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でした。

意外なことにやり手は多く、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、その孫弟子の二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)、あるいは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)も持ちネタにしていました。

円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。

察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。

通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。

これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。

噺中の「道中」は花魁道中のことです。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若だんなが掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島1丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。

掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井32万石)、細川能登守(肥後新田3万5千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。

村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。

水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。

宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。

以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。

「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

彦六のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。

袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。

現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。

かつては、横山町2丁目と3丁目の間で、魚市が開かれました。

落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。

「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。

日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのですね。

ことばよみいみ
鼈甲べっこうウミガメの一種タイマイの甲羅の加工品
花魁おいらん吉原の高位の遊女
掛け取りかけとり借金の取り立て
新造しんぞ見習い遊女
禿かむろ遊女見習いの幼女。おかっぱ髪から
二番目物にばんめもの芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場



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つきやむげん【搗屋無間】落語演目

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【どんな?】

搗き米屋の男が花魁にぞっこん。
通い倒したその果ては。
褒められない廓噺。
「無間」とは無間地獄の略。
「無間」は「たえまない」「終わりなし」の意。

別題:無間の臼

あらすじ

信濃者の徳兵衛。

江戸は日本橋の搗き米屋・越前屋は十三年も奉公しているが、まじめで堅い一方で、休みでも遊びひとつしたことがない。

その堅物が、ある日、絵草紙屋でたまたま目に映った、

今、吉原で全盛を誇る松葉楼の花魁、宵山の絵姿にぞっこん。

たちまち、まだ見ぬ宵山に恋煩い。

心配しただんなが、気晴らしに一日好きなことをしてこいと送り出したが、どこをどう歩いているかわからない。

さまよっているうち、出会ったのが知り合いの幇間・寿楽。

事情を聞くとおもしろがって、なんとか花魁に会わせてやろう、と請け合う。

大見世にあがるのに、
「米搗き男ではまずいから、徳兵衛を木更津のお大尽という触れ込みにし、指にタコができているのを見破られるとまずいから、聞かれたら鼓に凝っていると言え」
など、細々と注意。

「あたしの言うとおりにしていればいい」
と太鼓判を押すが、先立つものは金。

十三年間の給金二十五両を、そっくりだんなに預けてあるが、まさか女郎買いに行くから出してくれとも言えないので、店の金を十五両ほど隙を見て持ち出し、バレたら、預けてある二十五両と相殺してくれと頼めばいいと知恵をつける。

さて当日。

徳兵衛はビクビクもので、吉原の大門でさえくぐったことがないから、廓の常夜灯を見て腰を抜かしたり、見世にあがる時、ふだんの癖で雪駄を懐に入れてしまったりと、あやうく出自が割れそうになるので、介添えの寿楽の方がハラハラ。

なんとかかんとか花魁の興味をひき、めでたくお床入り。

翌朝。

徳兵衛はいつまた宵山に会えるか知れないと思うと、ボロボロ泣き出し、挙げ句に、正直に自分の身分をしゃべってしまった。

宵山、怒ると思いのほか、
「この偽りの世の中に、あなたほど実のある人はいない」
と、逆に徳兵衛に岡惚れ。

瓢箪から独楽。

それから二年半というもの、費用は全部宵山の持ち出しで、二人は逢瀬を続けたが、いかにせん宵山ももう資金が尽き、思うように会えなくなった。

そうなると、いよいよ情がつのった徳兵衛。

ある夜、思い詰めて月を眺めながら、昔梅ケ枝という女郎は、無間の鐘をついて三百両の金を得たと浄瑠璃で聞いたことがあるが、たとえ地獄に堕ちても金が欲しいと、庭にあった大道臼を杵でぶっぱたく。

その一心が通じたか、バラバラと天から金が降ってきて、数えてみると二百七十両。

「三百両には三十両不足。ああ、一割の搗き減りがした」

しりたい

わかりにくいオチ  【RIZAP COOK】

「無間」とは無間地獄の略。「無間」そのものは「たえまない」「終わりなし」の意味です。

明治25年(1892)7月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

ただ、小さんのやり方では、金がどこから降ったかはっきりしないので、戦後、この噺を得意にした八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)は、だんなが隠しておいた金とし、金額も現実的な三十両としました。

八代目柳枝は、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022、春風亭枝女吉→三遊亭吉生)や三遊亭圓彌(林光男、1936-2006、春風亭枝吉→舌生)の最初の師匠です。

「搗き減り」の割合は、現行では二割とするのが普通になっています。

「搗き減り」というのは、江戸時代の搗き米屋が、代金のうち、玄米を搗いて目減りした二割分を、損料としてそのまま頂戴したことによります。

実際は普通に精米した場合、一割程度が米の損耗になりますが、それではもうけがないため、二割と言い立てたわけです。

オチは、したがって普通なら利益のはずの「搗き減り」が、文字通りの損の意味に転化する皮肉ですが、これが現代ではまったく通じません。

そこで、「仕込み」と呼ぶあらかじめの説明が必要になり、現在ではあまり演じられません。

三遊亭円窓が春風亭柳枝のやり方を継承しました。

原話は親孝行、落語はバチあたり  【RIZAP COOK】

原話は、現在知られているものに三種類あります。

まず、安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「台からうす」、ついで、『春笑一刻』中の無題の小咄。『春笑一刻』は、狂歌で名高い大田蜀山人(南畝、1749-1823)がものした笑話本です。安永7年(1778)刊。

現行により近いのが、天保15(1844)年刊『往古噺の魁』中の「搗屋むけん」です。

前二者は、貧乏のどん底の搗き米屋が、破れかぶれで商売道具の臼を無間の鐘に見立て、きねでつくと奇跡が起こって小判が三両。

大喜びで何度もつくと、そのたびに出てくる小判が減り、しまいには一分金だけ。「はあ、つき減りがした」というもの。

天保の小咄になると、金が欲しい動機が、女郎じょうろ買いの資金調達ではなく、年貢の滞りで三十両の金を無心してきている父親への孝心という、まじめなものである以外は、ほぼ現行通りです。

この動機が女郎買いに変わったのは、前記の俗曲「梅ヶ枝の…」が流行した明治前期からといわれます。

搗屋  【RIZAP COOK】

つきや。搗き米屋のことです。普通にいう米屋で、足踏み式の米つき臼で精米してから量り売りしました。

それとは別に、出職(得意先回り)専門の搗屋があり、杵と臼を持ち運んで、呼び込まれた先で精米しました。

「小言幸兵衛」のオリジナルの形は、搗き米屋が店を借りにきて一騒動持ち上がるので、別題を「搗屋幸兵衛」といいます。

無間の鐘  【RIZAP COOK】

むげんのかね。東海道は日坂宿に近い、文字さやの中山峠の無間山観音寺にあったという、伝説の鐘です。撞けば現世で大金を得られるものの、来世では無間地獄に堕ちると言い伝えられていました。

この伝説を基にして、浄瑠璃・歌舞伎の『ひらかな盛衰記』四段目「無間の鐘」の場が作られました。

主人である源氏方の武将・梶原源太と駆け落ちした腰元・千鳥が、身を売って遊女・梅ケ枝となりますが、源太のためになんとか出陣の資金・三百両を調達したいと願い、手水鉢を無間の鐘に見立ててたたきます。するとアーラ不思議、天から小判の雨あられ。

これは実は、源太の母・延寿が情けで楼上からまいたもの、というオチです。明治期にはやった、「梅ヶ枝の 手水鉢 たたいてお金が出るならば……」という俗曲は、この場面を当て込んだものです。

絵草紙屋  【RIZAP COOK】

えぞうしや。江戸のブティックといったところです。

権助魚」参照。絵草紙屋の店番には、たいてい看板娘や美人の女房がいたので、女性や子供の行く店にもかかわらず、なぜか日参する、鼻の下の長い連中が多かったとか。

そのせいか、風紀紊乱のかどで文化元年(1804)、お上から絵草紙屋の取り締まり令が出されています。

なかには、枕絵など、いかがわしいものを売る店も当然あったのでしょう。

大道臼  【RIZAP COOK】

おおどううす。搗き米屋が店の前に転がしておく、米搗き用の大臼です。

からだの大きな者、特に相撲取りをあざけり、罵って言う場合もあります。

「ハンショウドロボー」「ウドノタイボク」をもっと強めたニュアンスでしょう。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『め組の喧嘩』では、頭の辰五郎以下、とびの面々が、相撲取りとの出入りで、この言葉を連発します。

信濃者は大食い  【RIZAP COOK】

しなのもの。信州人、信濃人、信州者とも。

信濃=信州は長野県のことですが、あそこの人々はいまだに長野県といわずに旧国名の「信州」と言ったりしています。

旅行者も「信州に行ってきました」などと言うことがあります。奇妙です。

旧国名から命名した国立大学は、ここにしかありません。信州大学。不思議です。

福島県西部、会津地方の人も自分の出身地を「福島県です」といわずに「会津です」というのは、これまた不思議です。

こちらにも会津大学とかいうのがありますね。

「会津です」をくさす作品に、『けんかえれじい』があります。

鈴木隆(1919-98)が昭和41年(1966)に発表した小説(理論社→TBS出版会→角川文庫→岩波現代文庫)です。

この作品は、鈴木清順(1923-2017)の監督、高橋英樹の主演で映画(日活配給、1966年)にもなりました。

鈴木は童話作家ですが、旧制岡山中学(岡山県立岡山朝日高校)から旧制喜多方中学(福島県立喜多方高校)に転校した自らの体験をもとに、自伝的長編小説として『けんかえれじい』を発表しました。小説も映画も痛快です。

それはともかく。

俗説では、信濃者は大食いなんだそうです。落語や川柳でのお約束です。この、「お約束」をあらかじめ知っておくことが、大切なんですね。

喰ふが大きいと信濃を百ねぎり   十六02

大食いだから給金を値切った、というわけ。

小所で信濃を置いて喰ぬかれ   七09

「小所」は小規模の店。

冬の間中、力仕事用に信濃から来た男を安い給金で雇ったのに大食いのため、結局高くついてしまった、というわけ。

冬の内月三斗づつくいこまれ   二十19

こちらも冬の間中、大食いの信濃者に食い込まれてしまった、という句。ずいぶんな言われようです。



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おなおし【お直し】落語演目

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【どんな?】

吉原育ちで外知らずの男女。
切羽詰まって後ろめたい商売を。
辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「蹴転けころ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「蹴転はおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい】

蹴転  【RIZAP COOK】

けころ。吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。

「蹴転ばし」の略。「蹴倒し」ともいいました。すぐに寝る意味で、そういう意がこめられたうえでの最下級なのですね。

泊まりはなくて百文一切り、所要時間は今の時計で10分程度だったといいます。

10分では短すぎるので、たいていの客は改めて延長を希望します。これが「お直し」です。

裏路地の棟割り長屋のような粗末な木造の、4尺5間の間口、2尺の戸、2尺5寸の羽目板、3尺の土間、これら全部含めても2畳ほどの狭い部屋で商売をするのです。

「切り見世」「局見世」と呼ばれていました。

吉原にかぎらず、岡場所にはあったものですが、吉原で蹴転は、お歯黒どぶ(囲いの下水)の岸にあったので、「河岸見世」と呼ばれていました。

吉原の蹴転は寛政年間(1789-1801)にはもう絶えたようです。寛政改革では吉原が大打撃をこうむっていますから、そのさなかにつぶされていったのですね。

切り見世は突き放すようにいとまごい

お直しを食らい素百のさて困り

銭がなけよしなと路地へ突き出され

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町二丁目南側、「お歯黒どぶ」といわれた真っ黒な溝に沿った一角を本拠にしていました。

「羅生門」とは、蹴転が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人、渡辺綱が鬼女の隻腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。

「一度つかんだら放さない」というニュアンスが込められているのがミソです。

こわごわとしたかんじがしますね。

表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、客をすってんてんにひんむいてしまうという、ライトな魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が復活させ、昭和31年度(1956)の芸術選奨を受賞しました。

志ん生亡き後は、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)がさらに磨きのかかった噺にこさえました。

【語の読みと注】
蹴転 けころ:最下級の商売女性
一切り ひときり:一段落
切り見世 きりみせ:蹴転がいる場所
局見世 つぼねみせ:蹴転がいる場所
河岸見世 かしみせ:吉原の蹴転がいる場所
素百 すびゃく:百文ぽっきり



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ごにんまわし【五人廻し】落語演目

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【どんな?】

明治の噺。
安い遊びをする客のありさまが。

別題:小夜千鳥

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁おいらんが一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎ぎゅうの喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履ぞうりの音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」

その一言に、男が気色けしきばんだ。

「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門おおもんくぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和げんな三年に庄司甚右衛門しょうじじんえもんてえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町ふきやちょうにあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原もとよしわら、こっちを新吉原しんよしわらといったてぇんだ。わかったか。土手どてから見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町なかのちょうだ。まず左手に伏見町ふしみちょうだ。その先は江戸町えどちょう一丁目、二丁目、それから揚屋町あげやちょう角町すみちょう、奥が京町きょうまち一丁目、二丁目。これが五丁町ごちょうまちってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋じょうろやが何軒、大見世おおみせが何軒、中見世ちゅうみせが何軒、小見世こみせが何軒あって、どこの見世は女郎じょうろが何人で、どこの誰が間夫まぶにとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名げんじなから本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間たいこもちが何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋だいやの数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻すいどじりにある犬のくそだってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、はなからニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心かっけしょうしん、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」

喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈しりんじんじん空空寂寂くうくうじゃくじゃく閨中寂寞けいちゅうじゃくまくとやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房けいぼう中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛もくべえ旦那の部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭のようすを今に伝える、貴重な噺です。

「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。

廓噺と初代小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本しゃれぼんの流れを汲み、かつては数多く作られ演じられました。

現在では一部の噺を除いてすたれました。

洒落本は、遊郭を舞台にして「通人つうじん」についておもしろおかしく描いた読み物です。

18世紀後半に流行しました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。

歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。

若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。

それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺くるわばなしを伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通はんかつう田舎大尽いなかだいじん(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫まぶということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。

「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日いっかに解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。

そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管きせるを突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

新吉原の図

新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。

新吉原

甚助

甚助じみていけねえ。

この噺には、そんなフレーズが登場します。

吉原ならではの言葉です。

甚助じんすけ」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。

①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。

「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。

②とは少々異なります。

「甚助」はほかの噺にも出てきます。



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きんげんていばきゅう【金原亭馬久】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】2010年12月、十一代目金原亭馬生
【前座】2011円6月、金原亭駒松
【二ツ目】2015年11月、金原亭馬久
【真打ち】
【出囃子】め組の合方
【定紋】鬼蔦
【本名】大津直也
【生年月日】1985年1月18日
【出身地】東京都練馬区
【学歴】東京都立西高校→琉球大学→立教大学現代心理学部映像身体学科 ※遊郭
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】妻は春風亭一花



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さんまいぎしょう【三枚起請】落語演目

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どんな?

性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原のお女郎に入れ揚げた町内の半公。

家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

品川から吉原に住み替えてきた女だった。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

年季ねんが明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の牛王ごおうの宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模どぞうさがみ(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉晋作(石原裕次郎)ご本人。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

                   日本の至宝『幕末太陽傳』☞

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。

「住み替え」とは、芸者、遊女、奉公人などが主家を替えることをいいます。

明治5年(1872)の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

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しながわしんじゅう【品川心中】落語演目

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【どんな?】

品川宿のお染も寄る年波には勝てず。
いっそ、客の誰かと心中しちまえ、と。
落語中の最高傑作。長いので「上」と「下」に。
たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(=だます)から、比丘びく(=魚籠びくに)されたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。

先の大戦後も、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在も、よく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)は皮肉を含んで「下」のみを演じていました。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していました。

でも、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようです。

昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。

新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。

宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれていました。

目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は、享保年間(1716-36)です。

飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは、万治2年(1659)のことでした。

宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり

自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん花和尚(なまぐさ坊主)が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を、吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

蛇足ながら。

岡場所の「岡」とは脇の意味です。吉原に対する脇なのですね。

「岡惚れ」「岡焼き」「岡目八目」の「岡」も同じ使われ方です。この場合の「岡」は傍と同意です。「傍惚れ」「傍焼き」「傍目八目」と記されたりもします。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。

五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(今よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代には、一軒構えの本屋はありませんでした。

もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、廓や大店などの得意先を回ったものです。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としていたころの品川、それも土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、世界の喜劇映画史に残る最高傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳(結核)病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でした。

「品川心中」のくだりでは、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る、小沢昭一(小澤昭一、1929-2012)が演じる「あばたの金造(あば金)」が絶品です。

映画では「金造」でした。

小沢は当時29歳だったそうです。とても見えませんが。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑う、小沢のあば金を見るだけでも、この作品は一見の価値あり。

並みの落語家では遠く及びません。

         幕末太陽傳を見ずして落語ファンと言うなかれ!☞

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。

よく考えると単純で、「釣る(だます)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあります。

品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原の異称
徒歩新宿:かちしんしゅく:品川
八朔 はっさく:8月1日。徳川家康が入ってきた日とか
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく:釣った魚を入れておく容器
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧



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つきうま【付き馬】落語演目



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【どんな?】

おじさーん。
怖い男衆も屁の河童。
だましもここまでくれば超一級。

別題:早桶屋

あらすじ】 

吉原で、さんざんドンチャン騒ぎをした男。

いざ帰る段になって、勘定が払えないというので、翌朝、若い衆を付き馬に連れて、仲見世なかみせのあたりをのんびりとぶらついている。

付き馬の方はいつ払ってくれるのかと、いらいらしてせっつく。

ところが、この男、なかなか口がうまく、
「金持ちのおじさんがいるから、すぐに倍増しで払ってやる」
となだめすかす。

挙げ句の果てに、朝飯代から銭湯代から、何から何まで若い衆に立て替えさせてしまう、相当のずうずうしさ。

いつまでたっても、いっこうにらちがあかず、金を払っているのは逆に自分だけというありさま。

さすがに付き馬も堪忍袋かんにんぶくろを切らすと、男が
「やっとおじさんの家に着いた」
と言って指さしたのが田原町たわらまち早桶屋はやおけや

「ちょいと交渉してくるから」
と言って中に入り、早桶屋のおやじに付き馬を指して小声で
「実はあの男の兄貴が昨晩急にれの病で死んだが、ふだんから太っていたところへ腫れがきたので、とても普通の早桶ではだめで、図抜け大一番小判型をあつらえなければならない」
と言い、急に大声になって
「ぜひこしらえておもらい申したい」
と妙な頼み。

早桶屋も商売だから
「ようがしょう」
と承知したが、男はその上
「なにしろ兄貴をなくして頭がポーッとしてやがるので、ときどきおかしなことを申しますが、お気になさらないで、あの男が来ましたら『大丈夫だ、おれが引き受けた』と大声で一言言ってやっていただきたいんで」
と言う抜け目のなさ。

若い衆をすっかりだまして安心させ
「自分はちょっと買い物があるから、もし先にできたらこいつに渡してやってもらいたい」
と言うとそのまま、風を食らって逃げだしてしまった。

さて、こちらは若い衆。

なんとなく早桶屋と話がかみ合わない。

「長かったのかい」
「いえ、昨夜一晩で」
「ゆうべが通夜かい」
「へえ、芸者衆が入りまして」
「へーえ、そんな陽気な通夜なら、仏さまァ喜んだろう」
「ええもう、ばかなお喜びようで」
というぐらいまではまだよかったが、
「どうして持っていきなさる」
「へえ、紙入れに入れまして」
「おまえさん、しっかりしなさいよ」
というあたりから若い衆、なにかおかしいと気づき始めたが、もう後の祭り。

できてきたのは、図抜け大一番小判型の早桶。

水風呂の化け物のようで、男のたくらみがついにバレた。

早桶屋もカンカンで
「てめえも間抜けじゃねえか。付き馬でもする奴は、もちッと頭を働かせな。しかたがねえ。木口代きぐちだい五円置いて、そいつをしょっていけ」

「五円はさておいて、もうあたしゃ一文なしだ」
「なに、銭がねえ? 小僧、吉原まで付き馬に行け」

しりたい】 

付き馬の由来   【RIZAP COOK】

遊興費が払えず、踏み倒した客への取り立ては、町人が乗馬を禁じられる元禄年間までは、その客を、馬を引いて吉原に連れてきた馬子まごナの責任で、同時に副業でした。「付き馬」の名は、これに由来します。

ところが、取り立てた金をネコババして全部使ってしまうことが多かったため、馬屋うまや始末屋しまつやとよばれたコワモテの業者が、この仕事を代行するようになりました。

この噺のように、遊郭の若い者が付き馬として客に同行するようになったのは、かなり後年のことです。

桶伏せ   【RIZAP COOK】

遊客からの代金取り立ては、明暦めいれき3年(1657)、今の場所の、新吉原開設当初は、かなり荒っぽいものでした。

桶伏おけぶせ」という私刑があり、吉原大門おおもんの外で、風呂桶を逆さにかぶせて客が逃げられないようにし、親や親類、知人が金を持ってくるまでそのまま「幽閉」していたとか。

付き馬の慣習が定着してからも、もし取り立てがうまくいかない場合は、客の身ぐるみ剥いで売り払い、弁済にあてていました。

早桶屋   【RIZAP COOK】

早桶は座棺で、菜漬けの樽同様の粗末なものです。死者が出た時に、間に合わせで急いで作るところからこの名があります。

早桶屋はしたがって、今日の葬儀社と棺桶製造業者を兼ねていたわけです。別名を早物屋ともいいました。

噺に出てくる「図抜け大一番小判型」は、親子をいっしょに入れ、葬るための特注の早桶のことです。

水風呂   【RIZAP COOK】

すいふろ。水を沸かして入る普通の風呂(桶)で、蒸し風呂や塩風呂と区別して呼びました。

【付き馬 古今亭志ん朝】



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とんちき【とんちき】落語演目



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【どんな?】

「とんちき」とは「まぬけ」の意。
まったくもって奇妙な構成の噺です。
ムチャクチャ笑っちゃいます。

あらすじ

嵐の日なら廓はガラガラで、さぞモテるだろうと考えた男。

わざわざ稲光のする日を選んで、びしょ濡れで吉原へ。

揚がってなじみのお女郎を指名、寿司や刺し身もとってこれからしっぽり、という矢先に、女が
「ちょいと待ってておくれ」
と消えてしまう。

世の中には同じことを考える奴はあるもので、隣の部屋で、さっきから焦れて待っている男、女が現れると
「おめえ、今晩は客がねえてえからおらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、朝、おまえさんが顔を洗ってたら、二階から楊枝をくわえて髭の濃い、変な奴が下りてきたろ。足に毛が生えた、熊が着物を着ているような奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

隣の男、「あんな野郎なら」と安心して、花魁と杯のやりとりを始める。

そのうちに、花魁が
「だけどもね、いまチョイチョイと……」
とわけのわからない言い訳をして、また消えてしまう。

前の座敷へ戻ると
「おめえ、今晩は客がねえてえから、おらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と、嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、おまえさんが顔を洗いに二階から下りてきたとき、あたしが顔を洗わせてたお客があったろ。あの目尻が下がった、鼻が広がったあごの長い奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

底本:初代柳家小せん

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しりたい

円遊から小せんへ

原話は不明。初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が「果報の遊客」の演題で明治26年(1893)7月『百花園』に速記を載せています。

円遊のものは、同じ廓噺の「五人廻し」をくすぐりたくさんにくずしたようなもので、文句を言う客に女郎が「おまはんはあたしの亭主だろう。自分の女房によけい客がつくんだから、いいじゃないか」と、居直って膝をキュっとつねり、隣の部屋に行ってまた、間夫気取りの男を翻弄。

「おまはんも甚助(焼き餅)だねえ。奥に来てる奴は知ってる人だよ。あのばかが来てるんだよ」「うん、あのばかか」とオチた上、「両方で同じことを言っております」と、よけいなダメを押しています。

明治末から大正初年にかけ、これを粋にすっきりまとめ、「とんちき」の演題を使い始めたのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)でした。近代廓噺のパイオニアです。

大正8年(1919)9月、その遺稿集として出た『廓ばなし小せん十八番』に収録の速記を見てみましょう。

マクラで、活動写真のおかげで近ごろは廓が盛らないなどと大正初期の世相を織り込み、若い落語家(自分)がなけなしのワリ(給金)を持って安見世に揚がり、「部屋ったって廻し部屋、たばこ盆もありゃアしません。たもとからマッチを出して煙草を吸い始める、お女郎衆のお座敷だか田舎の停車場だかわからない」と、当時の寒々とした安見世の雰囲気を活写し、今に伝える貴重な風俗ルポを残しています。

小せんはさらに、花魁がいつまでも向こうを向いて寝ているので、「こっちをお向きよ」「いやだよ、あたしは左が寝勝手(=寝やすい)なんだよ」「そうかい、それじゃ俺がそっちへ行こう」「いけないよ。箪笥があるんだよ」「あったっていいじゃないか」「中のものがなくならあね」という小咄をマクラに振っています。

これは、小せんに直伝で廓噺を伝授された五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、しばしば使っていたネタ。

残念ながら志ん生自身の「とんちき」の速記や音源はありません。

それにしても、小せんと志ん生の年齢差はたった7歳でした。

昭和48年(1973)、83歳まで生きた志ん生に比べ、小せんは享年36。早すぎる天才の夭折でした。

とんちき

生粋の江戸悪態ことばで、「トンマ」「まぬけ」の意味。

もとは「とん吉」と言ったのが、いつの間にか音が転倒しました。

江戸語にはこの手が多く、好例に「こんちき」があります。

狐を意味する「こんこんさま」の「こん」に「吉」を付けて擬人化し、さらに「吉」を転倒させて「こんちき」とすることで、擬音にも使われ出し「こんこんちきちん」にまで通ずる語となりました。

「しだらがない」が「だらしがない」に転訛したように、誤用、または洒落てひっくり返して使っていたのが、そのまま定着してしまった例もあります。

深川の岡場所(幕府非公認の遊郭)で、ヤボな客を「とんちき」と呼んだので、廓噺だけにその意味も合体しています。

18世紀後半には、江戸の、しかも深川の遊里から「通」「粋」といった美意識が生まれていきました。

寛政の改革で吉原が締め付けられたことで遊びの中心が深川に移ってのこと、といわれています。

なんの確証もありませんが、とりあえず今は、この俗説を信じておきましょう。

となると、「とんちき」は、「粋」の対語となる「野暮」の派生語としてはやったのかもしれません。とりあえずの説です。



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にしきのけさ【錦の袈裟】落語演目

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【どんな?】

町内の若い衆が錦の褌締めて吉原に。
質流れの錦で仕立てた褌は一着足りず。
あぶれた与太は寺から錦の袈裟を。
蓋を開けたら与太ばかりがもてる。
異形の廓噺。上方から。

別題:金襴の袈裟 ちん輪 袈裟茶屋(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆わけえし
「久しぶりに今夜吉原なかに繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。

それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中。

やつらが、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん一丁になってカッポレの総踊りをやらかして、
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。

そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうということに。
相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦のふんどしをそろいであつらえ、相撲甚句じんくに合わせて裸踊りとしゃれこもう、と。

幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てる。

ただ、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。

与太郎は、女郎じょおろ買いに行きたい一心。

鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。

そこで、かみさんの入れ知恵を。

与太郎、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込むという作戦に。

なんとか、これで全員そろった。

一同、その晩は、予定通りにどんちゃん騒ぎ。

お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めた。

驚いたのは、廓の連中一同。

特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪けさわという白い輪がぶーらぶら。

そこで
「あれは、実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。

そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。

残りは、全部きれいに振られた。

こうなると、おもしろくないのが「家来」連中。

翌朝。

ぶつくさ言いながら、殿さまを起こしに行く。

当人は花魁おいらんとしっぽり濡れて、
「起きたいけど花魁が起こしてくれない」
と、のろけまで言われて、踏んだり蹴ったり。

「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」

どうにもならなくて、「家来」は与太郎を寝床から引きずり出そうとする。

与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝ァ、帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。

「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。

東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンです。

上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。

東京では、この噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。

このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっています。

東京移植後間もなくの頃で、大阪の設定に近いことがわかります。

円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。

これを現行の形に改造したのは、大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)とみられます。

先の大戦後、この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。

それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。

江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。

かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船

こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称「住吉踊り」。

明治初期に東京で豊年斎梅坊主ほうねんさいうめぼうず(松本梅吉、1854-1927、初代かっぽれ梅坊主)が、願人坊主の大道芸だったかっぽれ芸をより洗練された踊りに仕上げて大流行しました。

新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。

尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。

尾崎紅葉は、「金色夜叉」で一世を風靡した明治の小説家です。

この作品、じつはアメリカの小説に元ネタがあったことがすでにわかっていますが、それは別の機会に記しましょう。

紅葉は、若気のいたりだったのでしょうか。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。

なんだか、わかったようなわからないような。

インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。

中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。

これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。

大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。

こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。

与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。

これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。

貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。

僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。

緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。

七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。

これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。

もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。

若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。

ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。

落語の格好の題材となる。

海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。

たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。

「ちん輪」という野卑な別題もある。

この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。

大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。

会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。

円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。

円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。

この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。

どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだし。いいかげんなものなんだなあ。

古木優

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にかいぞめき【二階ぞめき】落語演目

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【どんな?】

自宅の二階に吉原をこさえた若だんな。
ここまでなりきれれば、吉原マニア完成!

あらすじ

若旦那が毎晩、吉原通いをするものだから堅物かたぶつ親父おやじはかんかん。

世間の手前「勘当する」と言い出す。

番頭が心配して意見をしにくるが、この道楽息子、まるで受け付けない。

「女がどうのこうのじゃないんで、吉原のあの気分が好きなんだから、毎日行かずにはいられない、吉原全部を家に運んでくれれば、行かない」と言う。

これには番頭も驚いたが
「それで若旦那の気がすむなら」
と二階を吉原の通りそっくりに改造し、灯まで入れて、ひやかし(そぞろ歩き)ができるようにした。

棟梁とうりゅうの腕がいい上、吉原まで行って実地検分してきたので本物そっくりで、若旦那は大喜び。

番頭に
「服装が大事だから古渡こわた唐桟とうざんを出せ」
「夜露は毒だからっかぶりをしていく」
などと騒いだあげく
「じゃ、行ってくるよォ。だれが来ても上げちゃァいけないよォ」

二階の吉原へ、とんとんとん。

上ってみると、茶屋行灯ちゃやあんどんに明かりは入っているし、張り見世みせもあるし、そっくりなのだが、残念なことに、人がいない。

……当たり前だ。

そこで、人のいなくなった大引おおびけ(午前二時)過ぎという設定で、一人で熱演し始める。

『ちょいとあァた』
『なんでえ、ダメだよ、今夜は』
『そんなこと言わないで。あのコがお茶ひいちゃうから』

忙しいこと。背景音楽を新内しんないから都々逸どどいつへ。

「別れにヌシの羽織がァ、かくれんぼォ…ッと」

ここで花魁おいらんが登場。

『ちょいと、兄さん、あがっとくれよッ』
『やだよ』
『へん、おアシがないんだろ。この泥棒野郎』
『ドロボーたァなんでィ』
『まァまァ』

止めに入った若衆わけえしと花魁、一人三役で大立ち回り。

『この野郎、さあ殺せッ』

一階のおやじ、大声を聞きつけて、
「たまに家にいると思えば……」
と苦い顔。

ところがよく聞いてみると、なにか三人で喧嘩しているもよう。

あわてて小僧の定吉を呼んで
「二階へ行ってせがれを連れてこい」
と命じる。

定吉、上がってみると
「あれッ、ずいぶんきれいになっちゃたなあ。明かりもついてやがる」

頬っかぶりをした人がいるので、「泥棒かしらん」と思ってよく見ると、これが若旦那。

なにやら自分で自分の胸ぐら取って「さあ殺しゃあがれ」とやっている。

「しょうがねえなあ。ねえ、若旦那」
「なにをしやがる。後ろから小突きやがって。前から来い。だれだって? なあんだ。定か。悪いところで会ったなあ。おい、おめえな、ここでおれに会ったことは、家ィ帰っても、おやじにゃあ、黙っててくんねえ」

しりたい

ぞめき

「騒」と書きます。動詞形は「ぞめく」です。古い江戸ことばで、「大勢でわいわい騒ぎながら歩くこと」を意味します。

そこから転じて、「おもに吉原などの遊里を見世に上らずに、遊女や客引きの若い衆をからかいながら見物する」という意味になりました。

これを「ひやかし(素見)」ともいい、こちらの方が一般によく使われました。

要するに、遊興代がないのでそうするよりしかたがないのですが、そればかりともいえず、ひやかし(ぞめき)の連中と張り見世、つまりショウウィンドーにずらりと並ぶ遊女たちとの丁々発止のやりとりは、吉原の独特の文化、情緒となって、洒落本(遊里を描いた話)や芝居、音曲などのかっこうの題材となりました。

原話では少しつつましく……

もっとも古い原典は、延享4年(1747)、江戸で刊行された笑話本『軽口花咲顔かるくちはなえがお』中の「二階の遊興」ですが、オチを含め、現行の落語と大筋は変わりません。

こちらはそう大掛かりな「改築」をするわけでなく、若旦那が二階のふすまや障子に茶屋の暖簾のれんに似たものをつるし、それに「万屋」「吉文字屋」などと書き付けて、遊びの追憶にふけっている、という安手やすでの設定です。

そのあと一人三役の熱演中、小便に行きたくなって階段を下りる途中で小僧に出くわし、オチのセリフになりますが、落語のように、現実を完全に忘れ去るほどでなく、いたってつつましいものです。

その後、落語としては上方で発達したので、二階を遊郭(大坂では新町)にしてしまうという現実離れした、派手と贅沢は、完全に上方の気風によって付け加えられたといってよいでしょう。

志ん生好みの噺

落語の古い口演記録として、きわめて貴重な、万延2年(1861=文久元)の、上方の桂松光のネタ帳『風流昔噺ふうりゅうむかしばなし』に、この噺と思われる「息子二階のすまい ここでおうたゆうな」という記述があり、すでにこのころには上方落語として演じられていたことがわかります。

これを明治期に、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に「逆輸入」したとされますが、古い速記やレコードは一切なく、残っているのは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)や五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)のものです。

志ん生がこの噺を誰に教わったかは不明ですが、おそらく、三代目小さん門下の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)でしょう。小せんは廓噺の天才です。「五人廻し」参照。

寄席や落語会で志ん生は、「二階ぞめき」をどれほどかけたことでしょうか。それだけに、志ん生の得意噺のうちでも、もっとも志ん生好みの噺といえます。自分が若き日に通いつめた、かぐわしき吉原への追慕もさることながら、志ん生がなにより愛したのは、この若旦那の一途さ、それを許してしまう棟梁、その他周囲の人々の洒落っ気や懐の深さではなかったでしょうか。

志ん生監修:正しい吉原の歩き方・序

「ひやかし」の語源は……。「昔、吉原の、近在に、紙漉場かみすきばがあって、紙屋の職人が、紙を水に浸して、待ってんのが退屈だから、紙の冷ける間ひと廻り回ろう-てんで、『ひやかし』という名前がついてきたんですな」とのことです。

ところで、ただ単に吉原をぶらつくといっても、おのずとそこには厳しいルールとマナーがあります。洗練された文化を体現し、粋な男になるためには、情熱と努力、そしてなにより年期が大切なのです。

次の若旦那の一言がすべてを物語っています。「俺ァ女はどうでもいいんだよ。うん。俺ァ吉原ってものが好きなんだよ」 好きこそものの上手なれ。

それでは、志ん生師匠指導「ひやかし道」の基本から。

正しい吉原の歩き方:まずは正しい服装

どの道も、修行はまず形からです。

それにふさわしい服装をして初めて、魂が入ります。

相撲取りはあの格好だからこそ相撲取り。スーツで土俵入りはできません。

その1

必ず古渡こわた唐桟とうざんを着用のこと。

唐桟は、ふつうは木綿の紺地に赤や浅黄あさぎ縦縞たてじまをあしらい、平織(縦糸・横糸を一本ずつ交差させたシンプルな織り方)に仕立ててあります。室町時代にインドから渡来した古いデザインなので、「古渡り」の名があります。縦縞という模様は粋の典型です。浮世絵に描かれた雨模様も同じ。細い縦線をすてきと感じる感覚が粋といえます。

はでな上に身幅が狭く、上半身がきゅっとしまっていかにもすっきりしたいい形なので、色街遊びには欠かせません。

その2

着物は必ずたもとを切った平袖にします。

いわばノースリーブです。

これは、吉原を漂っていると、必ず同じ格好のひやかし客とぶつかります。

そうすると、ものも言わずに電光石火でパンチが飛んできますから、袂があると応戦が遅れ、あえなくのされてしまいます。それでは男の面目丸つぶれ。

そこで、平袖にして常に拳を固めて懐に忍ばせ(これをヤゾウといいます) 、突き当たった瞬間、 間髪入れずに右フックを見舞わなければなりません。そのための備えなのです。

その3

必ず「七五三の尻はしょり」をします。

七五三とは、 七の図、つまり腰の上端、フンドシまたはサルマタの締め際まで 着物のすそをはしょり、内股をちらりとのぞかせることで、 鉄火な(威勢のいい)男の色気を見せつけます。

仕上げに、渋い算盤玉柄の三尺帯をきりりと締めれば一丁あがり。

ただし、くれぐれもフンドシを締め忘れないよう注意のこと。

公然わいせつで八丁堀の旦那にしょっ引かれます。

その4

最後に、手拭てぬぐいで頬かむりをすれば準備完了。

ただし、 この場合もどんな柄でもいいというわけにはいきません。

ひやかしに 最適なのは亀のぞきという、ごく淡い、品のいい藍色地に染めたものです。頬かむりは、深夜に出かけるため、夜露を防ぐ意味も ありますが、なによりも、かの有名な芝居の「切られ与三」が源氏店の 場でしているのがこの「亀のぞき」であることからも分かるように、 ちょっと斜に構えた男の色気を出すためには必携のアイテムです。

これで、夜の暗さとあいまって、あなたも海老蔵に見えないこともありません。

ただし、間違っても黒地で盗人結びになどしないこと。

八丁堀のだんなにしょっ引かれます。

その5

以上で、スタイルはOK。

あと、基本的な心得としては、その2でも触れましたが、必ず、100%間違いなく、一回の出撃でけんかが最低三度は起こりますから、無事に生きて帰るためにも、先制攻撃の覚悟を常に持つこと。

どんなに客引きの若い衆に泣き落とされ、はたまた張り見世のお茶ひき(あぶれ)女郎に誘惑され、果ては銭なしの煙草泥棒野郎とののしられても、絶対に登楼などしないという、固い決意と意志を持ってダンディズムを貫くことが大切です。

とまあ、こういうスタイルで若旦那は「出かけた」わけですが……。

この二階の改築費用、どのぐらいについたか、他人事ながら心配です。おまけに、当主の親父は知らぬが仏。この店の身代も、この分では十年ももつかどうか……。

いつの世も、かく破滅の淵をのぞかないと、道楽の道は極められないようで。

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ゆうじょかい【幽女買い】落語演目

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【どんな?】

遊女と幽女。
ただのしゃれ。
暇人の手わざでなけりゃあ。
こんな噺は始まりません。

別題:魂祭 亡者の遊興

【あらすじ】

急に暗いところに来てしまった太助、三月前に死んだはずの源兵衛に声をかけられてびっくり。

「おめえは確かに死んだよな」
と念を押すと
「おめえ、おれの通夜に来たろ」

太助が通夜の席で
「世の中にこんな助平で女郎買いの好きな奴はなくて、かみさんは子供を連れて出ていくし、これ幸いと女を次々に引きずり込んだはいいが、悪い病気をもらって、目はつぶれる、鼻の障子は落ちる、借金だらけで満足な葬式もできない始末だから、どっちみち地獄おちは間違いない。弔いはいいかげんにして、焼いて粉にして屁で飛ばしちまおう」
とさんざん悪口を言ったのを、当人に全部聞かれている。

死骸がまだそこにあるうちは聞こえるという。

太助、死んだ奴がどうしてこんなところにいるのか、まだわからない。

「てめえも死んだからヨ」
「おれが死んだ? はてな」

そう言われれば、かみさんが枕元で医者に
「間違いなく死にました? 生き返らないでしょうね?……先生、お通夜は半通夜にしてみんな帰しますから、あの、今晩……」
なんぞと抜かしていたのを思い出した。

「ちきしょうめッ」
と怒っても、もう後の祭り。

ここのところ飢餓や地震で亡者が多くなり、閻魔えんまの庁でも忙しくて手が回らず、源兵衛も「未決」のまま放っておかれているという。

浄玻璃じょうはりの鏡も研ぐ時間がないため、娑婆しゃば悪業あくごうがよく写らないのを幸い、そのうちごまかして極楽へ通ってしまう算段を聞き、太助も一口乗らせてもらうことにした。

お互いに死んだおかげで、すっかり病気も治って元気いっぱい。

白団子をさかなに祝杯をあげるうち、こっちにも吉原ならぬ死吉原があり、遊女でなく幽女買いができるので、ぜひ繰り込もうとうことになった。

三枚駕籠さんまいかごの代わりに早桶はやおけ大門おおもんに乗りつけると、人魂ひとだま入りの提灯ちょうちんがおいでおいで。

ここでは江戸町えどちょう冥土町めいどちょう揚屋町あげやまちはあの世町。

見世も、松葉屋は末期屋まつごや、鶴屋は首つる屋と名が変わる。

女郎はというと、張り見世からのぞくと、いやに痩せて青白い顔。

ここではそれが上玉じょうだまだとか。

女が
「ちょいとそこの新亡者しんもうじゃ、あたしが往生さしてあげるからさ」
と袖をひくので揚がると
「へいッ、仏さまお二人ッ」

わっと陰気に枕団子の付け焼きで、まず一杯。

座敷では芸者が首から数珠じゅずをぶらさげ、りんと木魚もくぎょ
「チーン、ボーン」。

幇間たいこ
「えーご陰気にひとつ」
と、坊主姿で百万遍ひゃくまんべん

お引けになると、御詠歌ごえいかが聞こえ、生あたたかい風がスーッ。

「うらめしい」
「待ってました。幽ちゃん」

夜が明けると
「『おまはんが好きになったよ』って女が離れねえ。『いっそ二人で生きたいね』『生きて花実はなみが咲くものか』なんて」
と妙なノロケ。

帰りがけにのどがかわいたので、「末期の水」を一杯のみ干し、
「やっかいになった。また来るよ」
「冥土ありがとうございます」

表へ出ると向こうから
「お迎え、お迎え」

しりたい

縁起の悪さで五つ星!

上方落語の「けんげしゃ茶屋」と並び、私(高田)としては正月の初席でやってほしい噺の双璧そうへきなのですが、立川談志のあとはなぜか、ほとんどやり手がなさそうなのが残念しごく。

談志演出での、主人公二人の、地獄におちて当然の強悪ごうあくぶりには本当に感服させられました。

とりわけ、「焼いて屁で飛ばしちまう」には笑えます。

後半は、単に現実の茶屋遊びを地獄に置き換え、縁起の悪い言葉を並べただけで、ややパワーが落ちますが、談志が前半の通夜の太助の悪口あっこうと、女房と医者のちちくりあいを創作しただけで、この噺は聴くに値するものになりました。

どなたか、後半をもう少しおもしろくつくってもらえればいいのですが。

浄玻璃の鏡

地獄の閻魔えんまの庁で、亡者もうじゃ娑婆しゃばでの行状ぎょうじょうをありありと映し出す鏡。

昔の鏡は金属製でくもりやすく、そのつど鏡研師かがみとぎしがせなければなりませんでした。

三枚駕籠

三枚肩さんまいかたともいい、一丁いっちょう駕籠かごに三人の駕籠舁かごかきが付き、交代で担ぎます。急用のとき、またはくるわ通いで見栄みえを張る場合などに雇いました。

お迎え

盆に、精霊流しょうりょうながしの余りをもらい歩く物ごいの声と、吉原で茶屋の者が客を迎えに来る声を掛けたものです。

古いやり方と速記

明治中期、「魂祭たままつり」の題で演じた六代目桂文治ぶんじ(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)、「亡者もうじゃ遊興あそび」とした二代目三遊亭小円朝こえんちょう(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)の速記が残っています。

文治では、地獄の茶屋で、隣のもてぶりに焼き餅を焼き、若い衆に文句を言う官員と職人の二人を登場させていますから、あるいはこの噺は「五人廻し」のパロディーとして作られたのかもしれません。

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かみそり【剃刀】落語演目

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【どんな?】

めったに聴けない珍品です。

別題:隠れ遊び 散髪茶屋 坊主の遊び 坊主茶屋(上方)

【あらすじ】

せがれに家を譲って楽隠居の身となったある商家のだんな。

頭を丸めているが、心は道楽の気が抜けない。

お内儀には早く死なれてしまって、愛人でも置けばいいようなものだが、それでは堅物の息子夫婦がいい顔をしない。

そこで、ピカピカ光る頭で、せっせと吉原に通いつめている。

今日も出入りの髪結いの親方といっしょに、夕方、紅灯の巷に繰り出した。

洒落っ気があり、きれい好きなので、注文しておいたヒゲ剃り用の剃刀を取りに髪結床に寄ったところ、親方が、吉原も久しぶりだからぜひお供を、ということで話がまとまったもの。

ところが、この親方、たいへんに酒癖が悪い。

いわゆる「からむ酒」というやつで、お座敷に上がってしこたま酒が入ると、もういけない。

花魁にむりやり酌をさせた上、
「てめえたちゃ花魁てツラじゃねェ、普通のなりをしてりゃあ、化け物と間違えられる」
だの、
「こんなイカサマな酒ェのませやがって、本物を持ってこい」
だのと、悪態のつき放題。

隠居がなだめると、今度はこちらにお鉢が回る。

「ツルピカのモーロクじじいめ、酒癖が悪い悪いと抜かしゃあがるが、てめえ悪いところまでのませたか、糞でもくらやァがれ」
とまで言われれば、隠居もがまんの限界。

大げんかになり、
「こんな所にいられるもんけえ!」
と捨てぜりふを吐いて、親方はそのまま飛び出してしまう。

座がシラけて、隠居はおもしろくないので、早々と寝ることにしたが、相方の花魁がいっこうにやってこない。

しかたなくフテ寝をして、夜中に目が覚めたとたん、花魁がグデングデンになって部屋に飛び込んでくる。

「だんな、お願いだから少し寝かしておくれ」
と、ずうずうしく言うので文句をつけると、
「うるさいよ。年寄りのくせに。イヤな坊さんだよ」
と、今度は花魁がからむ。

隠居は
「おもしろくもねえ。客を何だと思ってやがる。こんな奴には、目が覚めたら肝をつぶすような目に会わせてやろう」

持っていた例の剃刀で、寝込んでいる花魁の眉をソリソリソリ。

こうなるとおもしろくなって、髪も全部ソリソリソリソリ。

丸坊主にしてしまった。

夜が明けると、さすがに怖くなり、ひどい奴があるもの、隠居、はいさようならと、廓を脱出。

一方、花魁。

遣り手ばあさんに、
「お客さまがお帰りだよ」
と起こされ、寝ぼけ眼で立ち上がったから、すべって障子へ頭をドシーン。

思わず頭に手をやると
「あら、やだ。お客はここにいるじゃないか。じゃ、あたしはどこにいるんだろう」

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【しりたい】

原話の坊主は流刑囚

中国明代の笑話集『笑府』巻六で奇人変人の話を集めた「殊稟部」中にある「解僧卒」がネタ元、原典です。 

これは、兵卒が罪人の僧侶を流刑地まで護送する途中、悪賢い坊主は兵卒をうまく酔いつぶし、頭をくりくりに剃った上、自分の縄を解いてしばると、そのまま逃走。目覚めた兵卒が、自分の頭をなでてみて……という次第。オチは同じです。

江戸笑話二題 

江戸の笑話としては、正徳2年(1712)に江戸で刊行の『新話笑眉』中の「夜明のとりちがへ」がもっとも古い原話で、ついで寛政7年(1795)刊の『わらふ鯉』中の「寝坊」があります。

「夜明…」の方は、主人公は年をくって、もう売れなくなった陰間。このへんが見切り時と、引退披露を兼ねて盛大な元服を催し、したたかに酒をくらって酔いつぶれて寝いってしまいます。

朝目覚めて頭をなでると、月代を剃ってあるのでツルツル。寝ぼけていつもの癖でハゲの客と間違え、「もし、だんな。夜が明けました」。

それから八十年以上たった「寝坊」では、筋はほとんど現行の落語と同じで、主人公は坊主頭の医者。オチは、くりくり坊主にされた女郎が「ばからしい。ぬしゃ(=あなたは)まだ居なんすか(まだいたの?)」というもの。

志ん生演じた珍品

めったに聴けない珍品の部類です。

古くは四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)の大正4年(1915)の速記が残っています。

先の大戦後では、「坊主の遊び」の題で五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が時々演じました。

特に志ん生は、短い郭噺として好んで取り上げていたようです。

本あらすじも、志ん生の速記を参考にしました。

志ん生は、しばしばオチを「坊さん(お客)はここにいるじゃないか」と短く切り、前半に「三助の遊び」の発端部をつけるのが常でしたが、主筋とのつながりはなく、単に時間を埋めるだけのものだったようです。

円歌は、坊主遊びの本場であった品川を舞台にしていました。継承して、三遊亭円歌も演じていました。

あざとい上方噺

上方の「坊主茶屋」は、大坂新町の「吉原」が舞台。

ただし、吉原は、新町の外れの最下級の売春窟で、「お直し」に登場する羅生門河岸の蹴転けころというところ。

女もひどいのが多く、梅毒で髪の毛は抜け、眉毛もなければ鼻もない代物。これをあてがわれて腹を立てた客が、「どうせ抜けているのやから」ときれいにクリクリ坊主にしてしまうという、悪質度では東京の隠居の比ではない噺。

その鼻欠け女郎の付け鼻を、客が団子と間違えて食わされてしまう場面は、東京人には付いていけないあざとさでしょう。

オチはいろいろ

「あらすじ」のオチがもっともスタンダードですが、昔から、演者によって、微妙に違うニュアンスのオチが工夫されています。

上方のものでは、古くから「そそっかしいお客や。頭を間違えて帰りはった」というオチもよく使われ、そのほか「湯灌ゆかんして帰ってやった」(桂小文治)とか、「医者の手におえんさかい坊主にされたんや」(米朝)とかいうのもあります。

いずれにしても、「大山参り」の趣向と、「粗忽長屋」に似た異次元的錯覚を感じさせるオチを併せ持つ名品なのに、現在、あまり高座に掛けられないのは残念です。

頭丸めても

坊さんといっても、ここでは本物の僧侶ではなく、隠居して剃髪している商家のだんなが主人公です。江戸時代には東西とも隠居→剃髪の習慣は広く行われました。

隠居名を名乗ることも多く、上方では「○○斎」と付けるのが一般的でした。「斎」は「身を清めて神に仕える」意。

隠居すれば、俗世の煩わしさから離れて明窓浄机でひねもす穏やかに暮らすだろう、くらいの意味があるのでしょう。

ただ馬齢を重ねたからって、さほど変わるものではありませんが。

本物の坊主の方も、廓遊びにかけてはかなりお盛んで、女犯は表向きは厳禁なので、同じ頭が丸いということで医者に化けて登楼する不届きな坊主も多かったとか。

「中宿(=茶屋)の 内儀おどけて 脈を見せ」という川柳もあります。隠居の方も、「新造は 入れ歯はずして みなという」など、からかわれ放題。

まあ、おさかんなのはけっこうですが、いつの時代も、やはり趣味はトシ相応が無難なようです。

【語の読みと注】
お内儀 おかみ
紅灯の巷 こうとうのちまた
髪結床 かみゆいどこ
花魁 おいらん
相方 あいかた:相手。合方とも
遣り手 やりて
陰間 かげま:少年男娼
元服 げんぷく
月代 さかやき
蹴転 けころ

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おみたて【お見立て】落語演目

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【どんな?】

志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸むしずが走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽もくべえだいじんに会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗ぜんでらしゅうで」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
養空食傷信士ようくうしょくしょうしんじ天保八年酉年てんぽうはちねんとりどし

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
天垂童子てんすいどうじ安政二年卯年あんせいにねんうどし
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしません。

武藤禎夫(1926-)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』に収載の「手くだの裏」とのこと。

武藤禎夫は朝日新聞在職中、「日本古典文学全書」を企画担当した編集者です。

その後、共立女子短大教授に転じました。専門はいちおう近世の舌耕芸。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺くるわばなしです。

現存でもっとも古いのは、「墓違い」と題した明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記。

ここでは、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。

林家彦いちなんかもそうやっていました。

現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)はじめ、多くの大看板が手がけました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼あいかたを選ぶことと掛けたものです。

「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎ぎゅうたろう)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町すみちょうの全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽傳』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。

杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸(石川清之助、1920-83)。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

                                                         『幕末太陽傳』☞

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くびったけ【首ったけ】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

吉原で火事が。
いつも袖にしてきたお女郎。
おはぐろどぶに浸かってる。
ざまあみろ。
女の殺し文句にはしびれます。

あらすじ

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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しりたい

原話は寄せ集め  五代目古今亭志ん生

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3年(1774)刊「軽口五色帋」中の「女郎の川ながれ」、天明2年(1782)刊の「富久喜多留」中の「迯そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ  五代目古今亭志ん生

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。

おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。

戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売  五代目古今亭志ん生

古い速記では、大正3年(1914)の四代目橘家円蔵(柴田清五郎、1865-1912)のものがあります。死後に出た速記になります。

戦後は、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が演じたほかは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の、ほぼ一手専売でした。

志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の直伝でしょう。

志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、お女郎さんに、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に伝わりました。馬生のはレコードもあります。

この噺、最近ではほとんど手掛ける人がいません。

吉原の火事  五代目古今亭志ん生

吉原遊郭は、建て替えを考えていた矢先、都合よくも(?)、明暦の大火(1657年)のあおりで全焼しました。

日本橋から浅草日本堤に移転します。

その後も、明治維新(1868年)まで、平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、6500戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を歓迎していたとか。

おはぐろどぶ  五代目古今亭志ん生

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。

下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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だいじんぐう【大神宮】落語演目



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【どんな?】

大神宮とは伊勢神宮のこと。
神さまと仏さまが吉原へ。
どこかで読んだコミックみたい。

別題:神仏混淆 大神宮の女郎買い お祓い

あらすじ

昔、浅草雷門脇に、磯辺大神宮というほこらがあった。

弁天山の暮れ六ツの鐘がなると雷門が閉ざされるので、吉原通いの客は、みなここの境内を通り抜けた。

待ち合わせの連中が、
「今朝はお女郎が便所に立ってそのまま消えてしまったので、あいつは丑歳うしどぢだろう」
とか、
「つねられた痕を見ると女を思い出すから、消えないように友達にまたつねってもらった」
などと、愚痴やノロケを並べる。

大神宮がほこらからこれを聞き、
「人間どもがあれだけ大騒ぎをするからには、女郎買いというのはよほどおもしろいものに違いない」
と、自分も行ってみたくてたまらなくなった。

一人で行くのはつまらないから、誰か仲間を、と、あれこれ考えているうち、黒い羽織で粋ななりをした門跡さま(阿弥陀如来)がそこを通りかかった。

誘うと乗ってきたので、自分も茶店でいかめしい直垂ひたたれと金の鉢巻きを脱ぎ、唐桟とうざんの対、茶献上ちゃけんじょうの帯という姿になると、連れ立って吉原へ。

お互いに正体がばれるとまずいから、「大さん」「門さん」と呼び合うことにした。

その晩は芸者を揚げて、ワッと騒いでお引けになる。

明くる朝。

若い衆が勘定書きを持っていくのに、一人は唐桟づくめで商家の旦那然とし、もう一方は黒紋付きの羽織で頭が丸く、医者のようなこしらえだから、これは藪医者が旦那を取り巻いて遊んでいるのだろうと、門跡さまの方に回すことにした。

「ええ、おはようございます。恐れ入りますが、昨夜のお勤め(=勘定)を願いたいので」

「お勤め」というから、大神宮、正体がバレたかと思い、
「いたしかたありません。手をこうやって合わせなさい」
「へい」
「では、やりますよ。ナームアミー」
「へへ、これはどうもおからかいで。お払いを願います」
「お祓いなら、大神宮さまへ行きなさい」

【RIZAP COOK】

うんちく

円遊の創作かも 【RIZAP COOK】

直接の原話は不詳です。

神仏がお女郎買いに行くという趣向は、宝暦7年(1757)刊の洒落本しゃれぼん聖遊廓ひじりゆうかく』(作者不詳)にすでにあり、これは孔子と老子と釈迦の三人が、大坂道頓堀で茶屋遊びするという、罰当たりなお話。

ついで、天明3年(1783)刊の洒落本『三教色さんきょうしき』では、天照大神と釈迦と孔子と老子が吉原でお女郎買いという、天をも地をも怖れぬものすごさ。

『三教色』は唐来参和とうらいさんな(1744-1810)作、喜多川歌麿(1753-1806)画による作品です。

ちなみに、洒落本とは18世紀後半にさかんにつくられた遊里を舞台にした物語集です。

この本から人々は「通」なる感覚を身に着けていきました。

この噺の現存最古の速記は「神仏混淆しんぶつこんこう」と題して明治24年(1891)10月、『百花園』に掲載された初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものです。

噺の中に「神仏ともに力をあわせて日本人民を助けましょう」などのセリフがあるので、この噺は、明治20年代、明治初期の神仏分離、廃仏毀釈はいぶつきしゃくの政策が見直され、宗教の融和が進んだことを当て込んだ、初代円遊の新作ではないか、というのが、暉峻康隆てるおかやすたか(1908-2001、江戸文学)の見立てです。

大正期は小せん 【RIZAP COOK】

初代円遊は、品川鮫洲さめずの荒神さまが幇間役で大神宮と阿弥陀さまを吉原へ誘う、という設定で、神仏が三人(?)となっています。

荒神さま(かまどの神)も大神宮の末社なので、当時、円遊以外でも、これを主役にする演者がいたようです。

明治末から大正にかけては、廓噺を集大成した初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の独壇場でした。

演題を「大神宮」として磯辺大神宮に設定したのも小せんでした。

遺稿集『廓噺小せん十八番集』に、晩年の速記が収録されています。

別題は「大神宮の女郎買い」「お祓い」などです。

パーツを取られ、本体消滅 【RIZAP COOK】

現在は継承者がなく、すたれた噺ですが、小せんのマクラ部分は、多くの後輩が「いただい」ています。

お女郎の便所が長いので、あいつは丑年だろうというくすぐりは、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が「明烏」に、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が「義眼」に、それぞれ使っていました。

二人とも小せんに廓噺を直伝された「門下生」です。

志ん生はこのほか、あらすじでは略しましたが、小せんの振ったもう一つのマクラ小咄「蛙の女郎買い」を、「首ったけ」その他、自らの廓噺にそっくり頂戴していました。

なお、前半の遊客のノロケ部分をふくらませたものがかつて「別れの鐘」として一席噺になっていました。

これは、あまりにもお女郎に振られるので、意趣返しに帰り際、お女郎屋の金たらいをくすね、背中に隠したはいいが、女に「また来てくださいよ」と背中をたたかれ、「ボーン」と鐘のようにたらいが鳴ってバレる、というもの。

現在では演じ手がありません。

「大神宮」自体、昭和16年(1941)10月31日、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)境内の「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語にすら入らないため、当時でもすでに後継者はなかったのかもしれません。

磯辺大神宮 【RIZAP COOK】

富久」でおなじみの大神宮さま。

大神宮は、伊勢の内宮ないぐう(皇大神宮こうたいじんぐう)と外宮げぐう(豊受大神宮とようけだいじんぐう)を併せた尊称です。

磯辺大神宮は、伊雑とも書き、伊勢内宮の別宮です。

江戸では、北八丁堀の塗師町ぬしちょうにも勧請してありましたが、浅草のは、浅草寺内の日音院にちおんいんが別当(管理者の親玉)をしていました。

別当とは、本来の職務のある人が別の職務を兼任することです。たいていはその組織の親玉です。

明治以前の神仏習合(神道と仏教を調和融合する信仰)の時代には、神社と寺がセットになっている形態がよくありましたが、その場合、宮司か住職のどちらかが両方を管理しているのが一般的でした。

現在の雷門付近にありましたが、明治元年(1868)3月28日の新政府の神仏分離令で廃され、今はありません。

門跡さま 【RIZAP COOK】

もとは本願寺のこと。「築地の門跡もんぜきさま」とも。

そこから、阿弥陀仏の異称に転化しました。



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ひものばこ【干物箱】落語演目

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【どんな?】

声色が天下一品の善公。
若だんなの身代わりに。
おやじを最初はだませたが。

別題:大原女 作生 吹き替え息子(上方) 

【あらすじ】

銀之助は、遊び好きの若だんな。

外出を親父に禁止されている。

「湯へ行く」と偽り、貸本屋の善公の長屋へ。

借金漬けの善公、声色こわいろは天下一品。

亀清楼の宴会で銀之助の声色をしたら大ウケだった。

厠から戻った銀之助の親父が「家で留守番していろというのに、またてめえ来やがって」と、怒りだしたほどだ。

その一件を思い出した若だんな、自分が花魁に会っている間、善公に家での身代わりを頼む。

善公は羽織一枚と十円の報酬で引き受けた。

「お父っつぁん、ただいま帰りました。おやすみなさい」
と善公、うまく二階に上がりはしたが、
「今朝、お向こうの尾張屋からもらった北海道の干物は何の干物だった」
との父親の質問には
「お魚の干物です」
「青物の干物があるかい。どこに入れといた」
には
「干物箱」
と、しどろもどろ。

「干物箱? どんな箱だい」
「これは困った。羽織一枚と十円ぐらいじゃ割が合わねえ。今ごろ若だんなは芸者、幇間とばか騒ぎかよ」
などと長い独り言。

「変な声を出しやがって」
と、いよいよ親父が二階に上がってしまい、善公であることがばれる。

そこへ、忘れ物を取りに戻ってきた若だんな。

「この罰当たりめ。どこォ、のそのそ歩いてやがる」

親父のどなり声を聞いて
「はっはァ、善公は器用だ。親父そっくりだ」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

亀清楼  【RIZAP COOK】

安政元年(1854)創業にして現在も台東区柳橋に健在のこの店こそ、日本の近代史の裏側を見つめてきた貴重な老舗でしょう。

伊藤博文はじめ、政府高官が柳橋花柳界とともに贔屓にしたことで知られる「亀清楼」。

150年以上にもわたり、その奥座敷は歴史を左右した談合が何度も行われてきた密会場です。森鷗外の「青年」にも登場します。

ルーツは上方  【RIZAP COOK】

原話は古く、延享4年(1747)京都板の笑話集『軽口花咲顔』の「物まねと入れ替り」で、筋は現行の噺とほぼ同じです。

オチらしいオチはなく、身代わりを頼まれた悪友が親父に踏み込まれ、「こは不調法」と言って逃げた、というだけです。

別題としては上方落語版で使われる「吹き替え息子」が一般的です。

「大原女」「作生」とも呼ばれています。

「大原女」は、東京で五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやった演出に由来するものです。

「作生」とは禅問答での「作麼生そもさん」のことで、禅語で尋ねることば。

長老の禅師ぜんじが若い雲水うんすいに「さあどうだ」「いかに」と矢継ぎ早に質問する時に使うわけです。

畳みかけるようなおやじの「作麼生」に、善公が苦し紛れに「説破せっぱ」しようとしているさまを、禅問答に見立てているわけです。しゃれてますね。

鼻の円遊から文楽、志ん生へ  【RIZAP COOK】

明治期の東京では、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が独特のくすぐりを入れごと満載で改作し、十八番にしていました。

明治22年(1889)5月20日刊『百花園』掲載の円遊の速記「乾物箱」では、若だんなは金之助、身代わりになるのは取り巻きのお幇間医者竹庵となっています。

昭和期には八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がともに好んで演じました。ここでのあらすじは、よりスタンダードな文楽版を参考にしています。

志ん生のやり方を改めて。

文楽のものとはやや趣を違えています。

若だんなが親父の代理で出席した俳諧の運座(出席者が俳句を作り秀句を互選するサークルで、19世紀初頭に一般化)で出た、「大原女も 今朝新玉の 裾長し」の句を、親父と身代わり(善公)とのやり取りに使っています。

親父が若だんな宛の花魁の手紙を読み、自分の悪口が書いてあるのを見つけ、怒って二階へ上がるというやり方も。

【語の読みと注】
作生 さくなま 要は「作麼生」の意味
大原女 おはらめ
新玉 あらたま



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

あかいぬ【赤犬】川柳 ことば

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

赤犬が紛失したと芝で言い  明五鶴03

「赤犬」と「芝」とをかませた連想から、この句の舞台は薩摩上屋敷(港区芝5丁目)あたりであることがわかります。芝では赤犬がいなくなるといわれる、当時の都市伝説があります。赤犬は薩摩屋敷のへんで忽然と消えるのだと。

江戸の人が嫌う肉食を、薩摩侍は好むからだ、という噂がまことしやかに信じられていました。その噂はあらかたまことだったのでしょう。それを江戸の人々は気味悪がっていたのですね。赤犬は美味だというのも通り相場。

そもそも赤犬とは、べつにそういう種類の犬がいるわけではありません。茶毛の犬を赤犬と称するだけのこと。

とすれば、日本古来の犬はおおよそが赤犬となります。柴犬なんかですね。そうか、柴犬ならぬ芝犬となる。ということだったのですね。

赤犬は食いなんなよと女郎言い  明八義06

この句の「女郎」は品川遊郭の、ということになりますね。芝の近所の遊郭です。

赤犬を食って精力みなぎったまんま来られたんじゃ、威勢よく突かれてアタシのカラダがどうにかなっちまうからさ、てなぐあい。

麹町芝の屋敷へ丸で売れ  拾20

川柳で「芝」とセットに語られる「麹町」は、入り口にあった山奥屋という獣肉店をさします。

ここの獣肉店に「芝の屋敷」(薩摩屋敷)から注文が入った、しかも「丸」で。「丸」は一匹丸ごとのことですから、上得意さんだったという詠みです。

いまでも「駒形どぜう」などで「丸」と注文すれば、割いていないまんまのどじょうが皿にどっさり盛られてきますよね。こっちのほうが「さき」よりお得です。

いのししの口は国分でさっぱりし  明六智04

薩摩産の「国分」は高級煙草で、肉食のあとには煙草で口内をさっぱりさせる、と。国分煙草は「国府煙草」とも記され、元禄年間(1688-1704)あたりから嗜まれていました。薩摩地方の食風習に「えのころ飯」というのがありました。

「えのころ」とは犬ころの意。皮を削いだ犬体からはらわたを取り、そこに米を詰めて蒸し焼きにして、その米を食べるというもの。

大田南畝(覃、直次郎、1749-1823)が『一話一言補遺』に記しています。美味なんだとか。

家畜のはらわたに米などを詰めて蒸し焼きにする食風習は太平洋全体に散見されます。珍しくはありません。

ハワイのカルアピッグも祝祭用の豚の丸焼き料理で、同類といえます。

犬食文化は、中国(とりわけ玉林市)、朝鮮半島、台湾、沖縄など広域にわたり、日本も例外ではありません。古代からほそぼそながらも連綿と続いてきた食文化でした。

なにも、薩摩だけのものではなかったのです。現代のわれわれが犬食を毛嫌いする感覚は、明治に入ってきた西洋風価値観が、旧来の価値観に上塗りされたからです。ご先祖さまはけっこうつまんでいたのでした。

よかものさなどと壷からはさみ出し  明五信06

「よかものさ」と薩摩訛りで「上物だ」と、自慢げに壷漬けの獣肉を箸でつまんでいる薩摩武士の奇矯な食道楽ぶり。江戸ではこのように詠まれていたのですね。

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ぶんしちもっとい【文七元結】落語演目

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【どんな?】

博打三昧の長兵衛。娘が吉原に身売りに。
手にした大金でドラマがはじけます。
円朝噺。演者によってだいぶ違う噺に。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町だるまよこちょうに住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん。

法被はっぴ一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添のちぞい(後妻)の女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持てあましていると、出入り先の吉原、佐野槌さのづちから使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと内儀おかみさんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、内儀さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、内儀さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、内儀さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日おおみそかまでに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら

「あたしも鬼になるよ」
と言い放ち、さらには、
「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、
「必ず迎えに来るから」
とお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋あずまばしに来かかった時。

若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛。

抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲べっこう問屋近江屋卯兵衛おうみやうへえの手代、文七。

橋を渡った小梅おうめの水戸さま(水戸藩下屋敷)で掛け取りに行き、受け取った五十両を枕橋まくらばしですられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなの卯兵衛は
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心。

長兵衛が文七に話した「吉原佐野槌」という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出す。

翌日。

卯兵衛は文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねる。

長兵衛夫婦は、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入った卯兵衛が事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠かごに乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと申し出る。

これから、文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂かいさかに元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

円朝の高弟、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が継承して得意にしました。

明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、五代目円生(村田源治、1884-1940、デブの)など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)に伝えました。

この二人が先の大戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の円楽、談志、志ん朝ももちろん得意にしていました。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なります。

円朝と円生とでは、吉原佐野槌→京町一丁目角海老、五十両→百両、日本橋横山町近江屋→白銀町三丁目近卯、麹町六丁目→麹町貝坂と、それぞれ異同があります。

五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、「佐野槌」「横山町近江屋」「五十両」が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町2丁目の近惣としていました。

五代目円生が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志(松岡克由、1935-2011)は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。

元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。

江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町1丁目から2丁目に登る坂です。

元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町6丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)です。

長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれました。

「人情噺文七元結」として、代表的な人気世話狂言になっています。

六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化は7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。

この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐります。

大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。

落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。

ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。

そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。

戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。

立女形たておやま(歌舞伎の立役や座頭ざがしらの相手役をつとめる座で最高位の女形)にして映画俳優でもあった、四代目中村雀右衛門(青木清治、1920-2012、七代目大谷友右衛門)の若き日ですね。

長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。

しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

だくだく【だくだく】落語演目

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【どんな?】

泥棒と書き割り家の主が「つもり」ごっこ。
やってる間に「血が……」と。

別題:書割盗人(上方)

【あらすじ】

あるドジな泥棒、どこに押し入っても失敗ばかりしている上、吉原の女に入れ上げて、このところ財布の中身がすっからかん。

「せめて十円ばっかりの物を盗んで、今夜は女に大きい顔をしてえもんだ」
というので、仕事場を物色しながら、浅草馬道のあたりを通りかかると、明かりがぼんやりついていて、戸が半分開きかかった家がある。しめたッとばかり、そろりと忍び込んでみると、家中に豪華な家具がずらり。

桐の火鉢、鉄砲、鳶の道具一式、真鍮の薬罐……。道具屋かしらん。

それにしちゃァ、妙なようすだと思って、抜き足で近づいてよくよく見てみると
「なんでえ、こりゃあ。みんな絵に描いたやつだ。こいつァ芝居の道具師の家だな」

なるほど、芝居の書き割りに使う絵以外、この家には本物の家具などまったくない。

きれいさっぱりがんどう。

「ははーん、この家に住んでる奴ァ、商売にゃあちげえねえだろうが、家財道具一切質に入れやがって、決まりが悪いもんだから、見栄を張ってこんなものを置いてやがるんだな」
と合点すると、泥棒、がっかりするよりばかばかしくなったが、しかたがない。

盗むものがなにもなければ、せめて盗んだ気にでもなって帰ってやるかと、もともと嫌いではないので、急に芝居っ気が起こってきた。

「ええっと、まず箪笥の引き出しをズーッと開けると着物が一枚あったつもり。その下に博多の紺献上の、十円はする帯があったつもり。ちょいと端を見ると銀側の男物と女物の時計が二つあったつもり」

だんだん熱が入ってきて、こっちの引き出しをちょいと開けるとダイヤ入りの金の指輪があったつもり。
向こうに掛かっている六角時計を取って盗んだつもり。
こっちを見ると応挙先生の掛け軸があるから、みんな取っちまったつもり。

しまいには自分でこしらえだした。

「みんな風呂敷に入れたつもり、そうっと表に出たつもり」

ちょうど目を覚ましたのがこの家の主人。

どこのどいつだと目をこすって見ると、泥棒が熱演中。

そこが芝居者。

おもしろいから俺もやってやろうというので
「長押に掛けたる槍をりゅうとしごいて泥棒の脇腹をプツーリ突いたつもり」
とやると、泥棒が
「うーん、無念。わき腹から血がだくだく出たつもり」

底本:初代三遊亭円遊

【しりたい】

原話

小ばなしがふくらんだ噺です。

安永年間刊の笑話本『芳野山』中の「盗人」、『折懸柳』中の「絵」などが原話と考えられています。

浅草馬道

台東区花川戸、浅草辺の大通り。

由来は、浅草寺の僧が馬の稽古をしたところから。(『江戸から東京へ』矢田挿雲)

遊客が白馬に乗って吉原まで通ったからという俗説もあります。

三代目金馬の回想から

初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が、この噺をやって高座から下りようとすると、客が「あーあ、おもしろかったつもり」と声をかけたので、三語楼が「客にウケたつもり」とやって平然と引っ込んだという、シャレたお話です。

三語楼は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の4人目の師匠(落語家としては3人目)で、大正昭和の爆笑王でした。

さらに

後年、四代目柳亭痴楽(藤田重雄、1921-1993.12.1)も同じことを言われ、今度は「いやな客の横っ面を張り倒したつもり」ときつい捨てゼリフで引っ込んだとか。

噺家がいちいち怒ったのではしゃれになりませんが、相当カチンときたごようすで。

なにやら、この噺にかぎって、同じことは何度も繰り返されているようですね。そのつど落語家が、どう言い返したか調べられるとちょいとおもしろいつもり、なのですが。

現代の日常生活にも、場をやわらげるユーモアとしてアレンジできそうな気がします。ただし、連発はシラけますが。

明治の円遊が開発

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、短いながらギャグを充実させ、人気作に仕立てました。明治中期に改作落語とすててこ踊りで売れに売れた噺家です。

あらすじ作成の底本としたのは、その円遊の、『百花園』に明治26年(1893)掲載の速記です。

オチの「血がだくだく……」は、現行と異なり、泥棒でなく、家のあるじが言っています。

軽い噺なので、現在も前座など、若手によってよく演じられます。

家の主人を芝居の道具師でなく、八五郎とし、大阪やり方にならって、家具を絵師に頼んで描いてもらう場面を前に付ける演出もあります。

書割盗人

かきわりぬすっと。上方の噺では「書割盗人」という演目となります。

泥棒の独り言の、本来の古い形は、「……つもり」ではなく「……したてい」ですが、今では東京風にしないとわからないでしょう。

オチではこちらは血を出さず、「うわっ、やられたっと死んだ体」となります。

博多の紺献上

幾何学模様(多角形や円などの図案化)に縞模様を織りだした帯地です。由来は、博多の黒田の殿さまが幕府に献上したところから、この名があります。

応挙先生

円山応挙(1733-95)のことです。

江戸中期の絵師で、精細な自然観察にもとづく写生画が特徴。足の見えない、すご味のある幽霊画は有名ですね。

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みいらとり【木乃伊取り】落語演目

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【どんな?】

若だんなが吉原から帰ってこなくなって。
連れ戻しに番頭が出かけて見れば。
その名のとおり。
みいら取りがみいらになってしまいました。

あらすじ

道楽者の若だんなが、今日でもう四日も帰らない。

心配した大だんなが、番頭の佐兵衛を吉原にやって探らせると、江戸町一丁目の「角海老」に居続けしていることが判明。

番頭が「何とかお連れしてきます」と出ていったがそれっきり。

五日たっても音沙汰なし。

大だんなが「あの番頭、せがれと一緒に遊んでるんだ。誰が何と言っても勘当する」と怒ると、お内儀が「一人のせがれを勘当してどうするんです。鳶頭ならああいう場所もわかっているから、頼みましょう」ととりなすので呼びにやる。

鳶頭、「何なら腕の一本もへし折って」と威勢よく出かけるが、途中の日本堤で幇間の一八につかまり、しつこく取り巻くのを振り切って角海老へ。

若だんなに「どうかあっしの顔を立てて」と掛け合っているところへ一八が「よッ、かしら、どうも先ほどは」

あとはドガチャカで、これも五日も帰らない。

「どいつもこいつも、みいら取りがみいらになっちまやがって。今度はどうしても勘当だ」と大だんなはカンカン。

「だいたい、おまえがあんな馬鹿をこさえたからいけないんです」と、夫婦でもめていると、そこに現れたのが飯炊きの清蔵。

「おらがお迎えに行ってみるべえ」と言いだす。

「おまえは飯が焦げないようにしてりゃいい」としかっても「仮に泥棒が入ってだんながおっ殺されるちゅうとき、台所でつくばってるわけにはいかなかんべえ」と聞かない。

「首に縄つけてもしょっぴいてくるだ」と、手織り木綿のゴツゴツした着物に色の褪めた帯、熊の革の煙草入れといういでたちで勇んで出発。

吉原へやって来ると、若い衆の喜助を「若だんなに取りつがねえと、この野郎、ぶっ張りけえすぞ」と脅しつけ、二階の座敷に乗り込む。

「番頭さん、あんだ。このざまは。われァ、白ねずみじゃなくてどぶねずみだ。鳶頭もそうだ。この芋頭」と毒づき、「こりゃあ、お袋さまのお巾着だ。勘定が足りないことがあったら渡してくんろ、せがれに帰るように言ってくんろと、寝る目も寝ねえで泣いていなさるだよ」と泣くものだから、若だんなも持て余す。

あまりしつこいので「何を言ってやがる。てめえがぐずぐず言ってると酒がまずくなる。帰れ。暇出すぞ」と意地になってタンカを切ると、清蔵怒って「暇が出たら主人でも家来でもねえ。腕づくでもしょっぴいていくからそう思え。こんでもはァ、村相撲で大関張った男だ」と腕を捲くる。

腕力ではかなわないので、とうとう若だんなは降参。

一杯のんで機嫌良く引き揚げようと、清蔵に酒をのませる。

もう一杯、もう一杯と勧められるうちに、酒は浴びる方の清蔵、すっかりご機嫌。

ころあいを見て、若だんなの情婦のかしく花魁がお酌に出る。

「おまえの敵娼に出したんだ。帰るまではおまえの女房なんだから、あくぁいがってやんな」

花魁「こんな堅いお客さまに出られて、あたしうれしいの。ね、あたしの手を握ってくださいよ」としなだれかかってくすぐるので、清蔵はもうデレデレ。

「おい番頭、かしくと清蔵が並んだところは、似合いだな」
「まったくでげすよ。鳶頭、どうです?」
「まったくだ。握ってやれ握ってやれ」

三人でけしかける。

「へえ、若だんながいいちいなら、オラ、握ってやるべ。ははあ、こんだなアマっ子と野良ァこいてるだな、帰れっちゅうおらの方が無理かもすんねえ」
「おいおい、清蔵、そろそろ支度して帰ろう」
「あんだ? 帰るって? 帰るならあんた、先ィお帰んなせえ。おらもう二、三日ここにいるだよ」

しりたい

「みいらとりがみいらに……」

呼びに行った者が誰も帰らないことですが、皮肉なこの噺の結末にはぴったりの演題です。清蔵をいちずに、実直に演じることで最後のオチのドンデン返しが効いてきます。

「みいら」は本来、死体の防腐用の樹液のことで、元はポルトガル語。

「木乃伊」「蜜人」とも書きます。

それが乾燥死体そのものの意味にに転じたものですが、ことわざの意味との関係は不明です。

円生から談志へ

古くからの江戸前噺です。

戦後、得意にしていたのは六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)と八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)で、特に円生のものは、人物の描き分けが巧みで、定評がありました。

円生没後は七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の得意ネタでした。

談志は、花魁が権助(清蔵)の上にまたがったりするエロチックな演出を加え、オチは、「こんなに惚れられてんのに、店なんぞに帰れるか」「勘定どうする?」「さっきの巾着よこせ」としていました。

角海老のこと

落語にしばしば登場する「角海老かどえび」は、旧幕時代は「海老屋」といい、吉原屈指の大見世、超有名店でした。

つまり、「角海老」と称するようになったのは明治になってからです。

「角海老」の創業者は、信州伊那出身の宮沢平吉なる人物です。

幕末に上京して牛太郎(客引き)から身を起こし、海老屋を買い取って、明治17年(1884年)に「角海老」の看板をあげました。

その屋根の、イルミネーション付きの大時計は明治の吉原のシンボルでした。

日本堤

元和6年(1620)、荒川の治水のため、浅草聖天町あさくさしょうでんちょうから箕輪みのわ(三ノ輪)まで築いた堤防です。

そのうち吉原衣紋坂よしわらえもんざかまでを土手八丁どてはっちょう、または馬道八丁うまみちはっちょうと呼びました。

日本堤にっぽんづつみの名の由来は、堤防構築に、在府している全国のすべての大名が駆り出されたことからきたといいます。

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あいかた【敵娼、相方、合方】ことば

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落語では、遊客の相手、つまり、相手の遊女をさします。でも、一般には、相手のこと。

歌舞伎では、役者のせりふや動きなどに合わせてつまびく下座の三味線をいいます。

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にかい【二階】ことば

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お女郎屋の二階のこと。

吉原や岡場所などの遊郭で、普通は二階が客と女郎の対面、逢い引きに使われたのでこう呼ばれました。「二階の間男」「二階ぞめき」などは、これを当て込んでいます。

「二階をまわす」というのはやり手や若い衆の仕事のことで、二階に案内した客を取り持ち、世話をすることです。

「まわす」は運営する、取り仕切ること。

ついでに、古い東京言葉の「こどりまわし(小取り廻し)が悪い」というのは、仕事のやり方が下手で気が利かないという悪口で、遊郭の用語でした。

明治期、男女が簡易に密会するのは、「蕎麦屋の二階」が通り相場でした。

「おや、嫌ですよ。私は二階をまわす者で」
「なに、二階をまわす? この二階を?」

                        敵討札所霊験(三遊亭円朝)

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おおみせ【大見世】ことば



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吉原で、もっとも格式の高い遊女を置くみせ。大籬おおまがき

まがき」とは格子戸こうしどのこと。その高さで、大籬や半籬はんまがきなどと店の格式を区分していました。

【噺例 文七元結ぶんしちもっとい

吉原で佐野槌さのづちと呼ばれりゃ大見世おおみせだ。

佐野槌、角海老かどえび三浦屋みうらやなどは大見世の代表格です。大見世の下には、中見世なかみせ小見世こみせなどあって、最下位は蹴転けころというのも。「お直し」ですね。



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