【木乃伊取り】みいらとり 落語演目 あらすじ
【どんな?】
若だんなが吉原から帰ってこなくなって。
連れ戻しに番頭が出かけて見れば。
その名のとおり。
みいら取りがみいらになってしまいました。
【あらすじ】
道楽者の若だんなが、今日でもう四日も帰らない。
心配した大だんなが、番頭の佐兵衛を吉原にやって探らせると、江戸町一丁目の「角海老」に居続けしていることが判明。
番頭が「何とかお連れしてきます」と出ていったがそれっきり。
五日たっても音沙汰なし。
大だんなが「あの番頭、せがれと一緒に遊んでるんだ。誰が何と言っても勘当する」と怒ると、お内儀が「一人のせがれを勘当してどうするんです。鳶頭ならああいう場所もわかっているから、頼みましょう」ととりなすので呼びにやる。
鳶頭、「何なら腕の一本もへし折って」と威勢よく出かけるが、途中の日本堤で幇間の一八につかまり、しつこく取り巻くのを振り切って角海老へ。
若だんなに「どうかあっしの顔を立てて」と掛け合っているところへ一八が「よッ、かしら、どうも先ほどは」
あとはドガチャカで、これも五日も帰らない。
「どいつもこいつも、みいら取りがみいらになっちまやがって。今度はどうしても勘当だ」と大だんなはカンカン。
「だいたい、おまえがあんな馬鹿をこさえたからいけないんです」と、夫婦でもめていると、そこに現れたのが飯炊きの清蔵。
「おらがお迎えに行ってみるべえ」と言いだす。
「おまえは飯が焦げないようにしてりゃいい」としかっても「仮に泥棒が入ってだんながおっ殺されるちゅうとき、台所でつくばってるわけにはいかなかんべえ」と聞かない。
「首に縄つけてもしょっぴいてくるだ」と、手織り木綿のゴツゴツした着物に色の褪めた帯、熊の革の煙草入れといういでたちで勇んで出発。
吉原へやって来ると、若い衆の喜助を「若だんなに取りつがねえと、この野郎、ぶっ張りけえすぞ」と脅しつけ、二階の座敷に乗り込む。
「番頭さん、あんだ。このざまは。われァ、白ねずみじゃなくてどぶねずみだ。鳶頭もそうだ。この芋頭」と毒づき、「こりゃあ、お袋さまのお巾着だ。勘定が足りないことがあったら渡してくんろ、せがれに帰るように言ってくんろと、寝る目も寝ねえで泣いていなさるだよ」と泣くものだから、若だんなも持て余す。
あまりしつこいので「何を言ってやがる。てめえがぐずぐず言ってると酒がまずくなる。帰れ。暇出すぞ」と意地になってタンカを切ると、清蔵怒って「暇が出たら主人でも家来でもねえ。腕づくでもしょっぴいていくからそう思え。こんでもはァ、村相撲で大関張った男だ」と腕を捲くる。
腕力ではかなわないので、とうとう若だんなは降参。
一杯のんで機嫌良く引き揚げようと、清蔵に酒をのませる。
もう一杯、もう一杯と勧められるうちに、酒は浴びる方の清蔵、すっかりご機嫌。
ころあいを見て、若だんなの情婦のかしく花魁がお酌に出る。
「おまえの敵娼に出したんだ。帰るまではおまえの女房なんだから、あくぁいがってやんな」
花魁「こんな堅いお客さまに出られて、あたしうれしいの。ね、あたしの手を握ってくださいよ」としなだれかかってくすぐるので、清蔵はもうデレデレ。
「おい番頭、かしくと清蔵が並んだところは、似合いだな」
「まったくでげすよ。鳶頭、どうです?」
「まったくだ。握ってやれ握ってやれ」
三人でけしかける。
「へえ、若だんながいいちいなら、オラ、握ってやるべ。ははあ、こんだなアマっ子と野良ァこいてるだな、帰れっちゅうおらの方が無理かもすんねえ」
「おいおい、清蔵、そろそろ支度して帰ろう」
「あんだ? 帰るって? 帰るならあんた、先ィお帰んなせえ。おらもう二、三日ここにいるだよ」
【しりたい】
「みいらとりがみいらに……」
呼びに行った者が誰も帰らないことですが、皮肉なこの噺の結末にはぴったりの演題です。清蔵をいちずに、実直に演じることで最後のオチのドンデン返しが効いてきます。
「みいら」は本来、死体の防腐用の樹液のことで、元はポルトガル語。
「木乃伊」「蜜人」とも書きます。
それが乾燥死体そのものの意味にに転じたものですが、ことわざの意味との関係は不明です。
円生から談志へ
古くからの江戸前噺です。
戦後、得意にしていたのは六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)と八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)で、特に円生のものは、人物の描き分けが巧みで、定評がありました。
円生没後は七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の得意ネタでした。
談志は、花魁が権助(清蔵)の上にまたがったりするエロチックな演出を加え、オチは、「こんなに惚れられてんのに、店なんぞに帰れるか」「勘定どうする?」「さっきの巾着よこせ」としていました。
角海老のこと
落語にしばしば登場する「角海老」は、旧幕時代は「海老屋」といい、吉原屈指の大見世、超有名店でした。
つまり、「角海老」と称するようになったのは明治になってからです。
「角海老」の創業者は、信州伊那出身の宮沢平吉なる人物です。
幕末に上京して牛太郎(客引き)から身を起こし、海老屋を買い取って、明治17年(1884年)に「角海老」の看板をあげました。
その屋根の、イルミネーション付きの大時計は明治の吉原のシンボルでした。
日本堤
元和6年(1620)、荒川の治水のため、浅草聖天町から箕輪(三ノ輪)まで築いた堤防です。
そのうち吉原衣紋坂までを土手八丁、または馬道八丁と呼びました。
日本堤の名の由来は、堤防構築に、在府している全国のすべての大名が駆り出されたことからきたといいます。