じゅげむ【寿限無】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

志ん朝

【どんな?】

生まれた男児に名前を付けます。隠居を寄るべにしたら、無量寿経から命名されて。

あらすじ

待望の男の子が生まれ、おやじの熊五郎、お七夜しちやに名前を付けなければならないが、いざとなるとなかなかいいのが浮かばない。

自分の熊の字を取って熊右衛門とでもするか、加藤清正が好きだから、名字の下にぶる下げて「田中加藤清正」と付けるか……いや、ハイカラな名前でネルソン、寝ると損をするから、稼ぐように……と考えあぐねて、平山の隠居のところへ相談に行く。

何か好みがあるかと聞かれ、三日の間に五万円拾うような名前、と欲張ったが、そんなのはダメだと言われ、それなら長生きするような名前を、ということになった。

隠居、松、竹、梅、鶴、亀と、長命そうな字がつくのを並べるが、どれも平凡過ぎて気に入らない。

「そんなら、長助てえのはどうだ? 長く親を助ける」
「いいねえ。けど、あっしども一手販売いってはんばいで長生きするってえ、世間に例がねえなめえはないですかね」

隠居、しばらく考え、今お経に凝っているが、無量寿経むりょうじゅきょうという経文には、案外おめでたい文字があると言う。

たとえば、寿限無じゅげむ

寿命限りなしというから、これはめでたい。

五劫ごこうのすり切れず、というのがあるが、三千年に一度天人が天下って羽衣はごろもで岩をなで、それがすり切れてなくなってしまうのが一劫いちごうだから、五劫というと何億年か勘定できない。

海砂利水魚かいじゃりすいぎょは数えきれないものをまとめて呼んだ言葉。

水行末すいぎょうまつ雲来末うんらいまつ風来末ふうらいまつはどこまで行っても果てしない大宇宙を表す。

衣食住は人に大切だから、田中食う寝るところに住むところ。

やぶらこうじぶらこうじというのもあり、正月の飾りに使う藪柑子やぶこうじだからめでたい。

またほかに、少々長いが、パイポ、シューリンガ、グーリンダイ、ポンポコピー、ポンポコナーというのがある。

パイポは唐のアンキリア国の王さま、グーリンダイはお妃、ポンポコピーとポンポコナーは 二人の王子で、そろってご長命……それだけ聞けばたくさんで、あれこれ選ぶのはめんどうと熊さん、出てきた名を全部付けてしまう。

この子が成長して小学校に行くと、大変な腕白わんぱくだから、始終近所の子を泣かす。

「ワーン、おばさんとこの寿限無寿限無五劫のすり切れず海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところ藪ら柑子ぶら柑子パイポパイポパイポのシューリンガ、シューリンガーのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピ、ポンポコナの長久命の長助が、あたいの頭を木剣でぶったアー」

言いつけているうちに、コブがひっこんだ。

しりたい】 

ルーツは

仏教の教説をもとにした噺です。

野村無名庵のむらむみょうあん(野村元雄、1888-1945、落語評論家)は、この噺の原典として、民話集『聴耳草子ききみみぞうし』中の小ばなしを挙げています。

その中の子供の名は、「一丁ぎりの丁ぎりの、丁々ぎりの丁ぎりの、あの山越えて、この山越えて、チャンバラチャク助、木挽こびき挽助ひきすけ」で、長いだけで特に長寿には関係ありません。

話の終わりは、子供が井戸に落ち、長い名を皆で連呼して、和尚まで経文のような節で呼ぶので子供が「だぶだぶだぶ」と溺死してしまいます。

寿限無が死んでしまう、のです。

ここがミソ。

だから、あんまり長い名前は付けないほうがいいよ、とでも言いたそうなご仏教的な教訓が漂っているんですね。

無名庵は東京大空襲の犠牲となりました。

こちらは寿限無とは無関係に亡くなったのでしょうが。

大阪の演出(「長命のせがれ」)もこれと同じで、残酷な幕切れになります。

「劫」には「石劫せきこう」と「芥子劫けしこう」があります。前者がこの噺の隠居の解釈。後者の「芥子劫」は、方四十里の城の中の芥子一粒を、三年に一度おおとりがくわえていき、これがすべてなくなる時間です。

演者によって変わりますが、「五劫」そのものの定義なら前者、名前として無限の寿命を強調するなら後者でしょう。

言い立てのリズムを重んじれば「すりきれ」、はなしの内容重視なら「すりきれず」というところ。

そこで、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は、客には「すりきれず」と聞こえさせ、実際には「すりきれ」と言っているという、苦肉の妥協案を編み出しました。

こうる」という言葉があります。長い年月を経る、年季を積む、といった意味で使います。石劫も芥子劫も原初では同根です。

「劫」の字は濁らずに「こう」と読むと、とてつもなく長い時間をさすのですから。

甲羅は劫臈の混同だそうです。

臈は僧侶の修行年数をさします。劫も臈も時間にからむ言葉なのですね。

となると、亀の甲羅を長生きの目安にするのもわかります。

芥子は罌粟。かつて、僧侶の修行には必須のアイテムでした。

EGO-WRAPPINの「くちばしにチェリー」。

おそらくは罌粟がはばかれるのでチェリーにしているのでしょう。

芥子劫の理を説く歌だったことがよくわかります。深いなあ。

大看板の前座噺

「寿限無」は前座の口ならしの噺で、大看板の師匠連はさすがにあまり手がけません。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は信仰篤かったためか、滋味あふれる語り口で、この噺をホール落語でも演じました。

戦後の大物では、自分の飼い犬に「寿限無」と名づけた三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、熊五郎が無類におかしかった九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、それぞれ得意にしました。

聴きどころ

長い名が近所の子から母親、父親と渡りゼリフになるところが、この噺のおかしみでしょう。

母親が、「あーら、悪かったねえ。ちょいとおまいさん、たいへんだよ。『寿……』が金ちゃんの……」と言うとオヤジが、「なんだと。するとナニか、『寿……』の野郎が……」と繰り返します。

もっとも、安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説家、評論家)は『落語国・紳士録』(青蛙房、1959年、→旺文社文庫→ちくま文庫→平凡社ライブラリー)の中で、気の利いた「こぼれ噺」を創作しています。

例によって長い名でしかられている寿限無に、友達が「どうしたの、寿っちゃん」と尋ねたりしているのです。

世界一の長寿者?

古代はともかく、近世以降での長寿記録保持者は「武江年表」などに記載されている、志賀随翁にとどめをさすでしょう。

なにせ、この怪老人、享保10年(1725)の時点で数え178歳。

逆算すると天文18年(1548)の生まれ。はっきりした没年はわかりませんから、ひょっとすると、まだ生きているかもしれません。

これが文句なしに人類史上最長寿、と思っていたら、やっぱり現れました、対抗馬が。世界は広い。

臼田昭『ロンドン塔の宝探し 英文学零話』(駸々堂出版、1988年)に登場する英国代表ヘンリー・ジェンキンズは169歳(1501-1670)、ついで、かの有名なウイスキー銘柄のラベルになったオールド・パーが152歳(1483-1635)の由。

まあ、三人とも、怪しげなことではいい勝負ですが、なんにしても、あやかりたいものです。

「の・ようなもの」にも登場

『の・ようなもの』(森田芳光監督、1981年)。落語映画の最高峰、不朽の傑作です。

都電荒川線の駅を降りて、浴衣姿の志ん魚と志ん菜が落語を教えにいった先は「下町女子高」。

落研の面々が大声で「寿限無」を棒読みしていました。

そのシーンが素っ気なくて無機的で、なんともおかしい。笑っちゃいます。

落研下級生の中にはなんと、「エド・はるみ」さんもまじっていたのです。

昭和56年(1981)のこと。

その頃はもちろんそんな名前じゃなかったわけですが、未来の「エド・はるみ」さんは当時、日出学園高校(千葉県市川市)の2年生、17歳でした。

オーディションに合格し、『の・ようなもの』でみごと映画デビューを果たしたのです。

存在感ありました。40年以上たった今でもしっかり覚えてます。すごいなあ。

「エド・はるみ」は手前中央の子
右奥の浴衣娘は落研部長、竹内まりや(五十嵐知子)
「の・ようなもの」(森田芳光監督、1981年)より




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きんめいちく【金明竹】落語演目

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【どんな?】

骨董を題材にした前座噺。
小気味いい言い立てが聴きどころです。
耳に楽しい一席。

別題:長口上 骨皮 夕立 与太郎

【あらすじ】

骨董屋こっとうやのおじさんに世話になっている与太郎よたろう

少々頭にかすみがかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品のじゃ傘を貸してしまって、それっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使いものにならないから、き付けにするので物置ものおきへ放り込んであると断るんだ」
しかった。

すると、ねずみが暴れて困るので、猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相そそうがあってはならないから、またたびをめさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利めききを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で、小言ばかり。

次に来たのは上方者かみがたものらしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋なかばし加賀屋佐吉かがやさきち方から参じました。先度せんど、仲買いの弥市やいちの取り次ぎました道具七品どうぐななしなのうち、祐乗ゆうじょう宗乗そうじょう光乗こうじょう三作の三所物みところもの、並びに備前長船びぜんおさふね則光のりみつ四分一しぶいちごしらえ横谷宗珉よこやそうみん小柄こつか付きの脇差わきざし柄前つかまえはな、旦那はんが鉄刀木たがやさんやといやはって、やっぱりありゃ埋もれ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。自在じざいは、黄檗山おうばくさん金明竹きんめいちく寸胴ずんどうの花いけには遠州宗甫えんしゅうそうほめいが入っております。織部おりべ香合こうごう、のんこの茶碗ちゃわん古池ふるいけかわずとびこむ水の音、と申します。あれは、風羅坊正筆ふうらぼうしょうひつの掛け物で、沢庵たくあん木庵もくあん隠元禅師いんげんぜんじ貼り交ぜの小屏風こびょうぶ、あの屏風びょうぶはなあ、もし、わての旦那の檀那寺だんなでらが、兵庫ひょうごにおましてな、この兵庫ひょうご坊主ぼうずの好みまする屏風びょうぶじゃによって、表具ひょうぐへやって兵庫ひょうご坊主ぼうず屏風びょうぶにいたしますと、かようにおことづけを願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買いの弥市が気がふれて、遊女ゆうじょ孝女こうじょで、掃除そうじが好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに寸胴斬ずんどぎりにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆いんげんまめ沢庵たくあんばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前びぜんの国に親船おやふねで行こうとしたら、兵庫ひょうごへ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風びょうぶを立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗叔いしいそうしゅく(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。

「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵はやしやしょうぞう(1781-1842)が天保てんぽう5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰ひゃっかせん』中に入れた「阿呆あほう口上こうじょうナ」が原話。

これは与太郎が笑太郎しょうたろうとなっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉きくていじゅぎょう)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つです。

前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは、明治時代になってからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意しんぼち(出家したての僧)で、ワキが住職。

檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断った。聞いた住職が怒り、新発意が「お師匠さまが門前の女とナニしているのは『駄狂い』だ」と口答えして、大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。

三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗叔いしいそうしゅくは医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮ほねかわ」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬えんきょう(柴田清五郎、1865-1912)、さらに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が得意にしました。

円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目円生、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)など、多数の大看板が手がけました。

なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは三巨匠それぞれ残っています。

口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のもあります。

言い立ての中身

この噺の言い立て、要は道具七品を説明しているのです。整理してみましょう。

その1 備前長船則光の脇差
脇差とは一般的な日本刀よりも短い刀剣。後藤祐乗(1440-1512、初代)、後藤宗乗(1461-1538、二代)、後藤光乗(1529-1620、四代)は後藤家の金工。後藤は金細工の流派。三所物とは、刀の柄の目貫、小柄、笄の三品で、備前長船の柄のこしらえ(飾り)。目貫は柄の中央の表裏に据えられた小さな金具。小柄は刀の鞘に付けられた細工用の小刀。笄は刀の差表に挿しておき、髪をなでつけるのに用いるもの。拵えとは刀の外装。横谷宗珉の四分一分(銀と銅の合金、その割合で、灰黒色の金物)とは小柄の拵のこと。柄前とは刀の柄、刀の柄の体裁、柄のつくりをさします。柄前は鉄刀木ではなく埋もれ木。埋もれ木とは地層中に埋もれて化石ようになった樹木。ここでは、三所物と脇差で一品と数えているようです。

その2 金明竹の自在鉤
自在鉤じざいかぎとは、囲炉裏いろりの上にぶら下がっている金属製の鉤をつなげた竹のこと。金明竹とは、マダケの栽培品種。かん(茎のこと)、枝は黄色を帯び、緑条が入ります。竹の皮は黄色。別名は、しまだけ、ひょんちく、あおきたけ、きんぎんちく、べっこうちく。

その3 金明竹の花いけ
金明竹を寸胴に切った素朴な花いけ。寸胴は上から下まで同じように太いこと。遠州宗甫は小堀遠州のこと。小堀遠州(1579-1647)は茶人。宗甫の銘(器物に刻み記した作者の名前)が入った花いけですが、華道遠州という生花の流派があります。小堀遠州を祖と仰いでいます。これとは別に、茶道には遠州流という流派があります。

その4 織部の香合
織部は古田織部(1544-1614)。武将で茶人。利休七哲の一人です。織部が作った香合。香合とは茶道で香を入れる蓋付き容器です。

その5 のんこの茶碗
のんことは、楽焼らくやき本家の三代目楽吉左衛門家当主の楽道入らくどうにゅう(1599-1656)の俗称。ここでは、道入の作った楽焼茶碗のことです。

その6 松尾芭蕉の掛け軸
風羅坊とは松尾芭蕉(1644-94)の坊号。正筆は真筆。芭蕉が書いた掛け軸ということですね。

その7 沢庵、木庵、隠元禅師貼り交ぜの小屏風
三人の僧侶がそれぞれに記した書を、ひとつの屏風に貼り合わせたもの。貼り交ぜの常識では、隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)、木庵性瑫もくあんしょうとう(1611-84)、即非如一そくひじょいつ(1616-1671)の三人が一般的で、これは煎茶に用いる道具です。三者とも黄檗宗の高僧です。沢庵宗澎たくあんそうほう(1573-1646)のは抹茶に用いるもの。ですから、沢庵、木庵、隠元の貼り交ぜはありません。こういうところは落語的ですね。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗ごとうゆうじょう(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政あしかがよしまさ庇護ひごを受け、特に目貫めぬきにすぐれた作品が多く残ります。

後藤光乗ごとうこうじょう(1529-1620)はその曽孫そうそんで、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船おさふねは鎌倉時代の備前国びぜんのくに(岡山県)の刀工・長船氏。備前派、長船派といわれる刀工グループです。

祖の光忠みつただは鎌倉時代の人。子の長光ながみつ(1274-1304)、弟子の則光のりみつなど、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉よこやそうみん(1670-1733)は江戸時代中期の金工きんこうで、絵画風彫金ちょうきんの考案者。小柄こつか獅子牡丹ししぼたんなどの絵彫りを得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省ふっけんしょう原産の黄金色の名竹です。

福建省の黄檗山万福寺おうばくさんまんぷくじから日本に渡来し、黄檗宗おうばくしゅうの開祖となった隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。

観賞用、または筆軸、煙管きせる羅宇らおなどの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴にげんきんの師匠の飼い猫・三毛子みけこの珍セリフとして書かれている「天璋院てんしょういん様の御祐筆ごゆうひつの妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」。

これは、落語マニアで三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)や初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利はんどうかずとし氏)があります。

落語にはこの手のくすぐりがかなりあるもので、なんとも言えません。



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評価 :2/3。

ねどこ【寝床】落語演目



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【どんな?】

だんなの道楽はへたくそな義太夫。
これを聴く羽目となる長屋連の苦し紛れ。
断る言い訳、またも聴く言い訳が絶妙です。
文楽流と志ん生流の二系統があります。

別題:素人義太夫 素人浄瑠璃(上方)

あらすじ

ある商家のだんな、下手な義太夫に凝っている。

それも人に聴かせたがるので、みな迷惑。

今日も、家作の長屋の連中を集めて自慢のノドを聞かせようと、大張りきり。

「最初は御簾内みすうちだ。それから橋弁慶はしべんけい、あとへひとつ艶容女舞衣あですがたおんなまいぎぬ三勝半七酒屋さんかつはんしちいざかやの段をやって、伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ御殿政岡忠義ごてんまさおかちゅうぎの段と、あと、久しぶりにそうですな、太閤記たいこうき・十段目尼崎あまがさきを。ついで菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ松王丸屋敷まつおうまるやしきから寺子屋てらこやを熱演して、次に関取千両幟せきとりせんりょうのぼり稲川内いながわうちの段から櫓太鼓やぐらだいこ曲弾きょくひきになって、ここは三味線しゃみせんにちょっともうけさせておいて、このへんで私の十八番、三十三間堂棟由来さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい平太郎住居へいたろうすみかから木遣きやり、玉藻前旭袂たまものまえあさひのたもと・三段目道春館みちはるやかたの段、本朝二十四孝ほんちょうにじゅうしこう・三段目勘助住家かんじゅうろうすみかの段、生写朝顔日記しょううつしあさがおにっき宿屋やどやから大井川おおいがわでは満場をうならせるから。あとへ、彦山権現誓助剣ひこさんごんげんちかいのすけだち毛谷村六助家けやむらろくすけいえの段、播州皿屋敷ばんしゅうさらやしき鉄山館てつさんやかたの段、恋娘昔八丈こいむすめむかしはちじょう・お駒才三こまさいざ城木屋しろきやから鈴ヶ森すずがもりを熱演して、近頃河原達引ちかごろかわらのたてひき・お俊伝兵衛堀川しゅんでんべえほりかわの段、あとへ、碁盤太平記ごばんたいへいき白石噺吉原揚屋しらいしばなしよしわらあげやの段、一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんきを語って、伊賀越道中双六いがごえどうちゅうすごろく沼津千本松原ぬまづせんぼんまつばらをいきましょう。それから、忠臣蔵ちゅうしんぐら大序だいじょから十一段ぶっ通して、後日ごじつ清書きよがきまで語るから」

番頭の茂造に長屋を回って呼び集めさせ、自分は小僧の定吉さだきちに、さらしに卵を買ってこい、お茶菓子はどうした、料理は、見台けんだいは、と、うるさいこと。

ところが、茂造が帰ると、雲行きが怪しくなる。

義太夫好きを自認する提灯屋ちょうちんやは、お得意の開業式で三百さんぞくほど請け負ったので来られず、小間物屋は、かみさんが臨月りんげつで急に虫がかぶり(産気さんけづき)、鳶頭とびのかしらは、ごたごたの仲裁と、口実を設けて誰も来ないとわかると、だんなはカンカン。

店の一番番頭の卯兵衛うへえまで、二日酔いで二階で寝ていると言うし、他の店の者も、やれ脚気かっけだ、胃痙攣いけいれんだと、仮病けびょうを使って出てこない。

「それじゃ、おまえはどうなんだ」
「へえ、あたしはその、一人で長屋を回ってまいりまして……」

しどろもどろで言い訳しようとすると、だんながにらむので
「ええ、あたしは因果と丈夫で。よろしゅうございます。覚悟いたしました。伺いましょう。あたしが伺いさえすりゃ」
と、涙声。

だんなは怒り心頭で
「ああよござんす、どうせあたしの義太夫はまずいから、そうやってどいつもこいつも仮病を使って来ないんだろ。やめます。だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに店ァ貸しとくわけにはいかないから、明日十二時限り明け渡すように、長屋の連中に言ってこい」
と大変な剣幕。

返す刀で、
「まずい義太夫はお嫌でしょう、みんな暇をやるから国元へ帰っとくれ」
と言い渡して、だんなはふて寝。

しかたなく、店の者がもう一度長屋を回ると、店だてを食うよりはと、一同渋々やってくる。

茂造が、みんなさわりだけでも聞きたがっていると、うって変わってお世辞を並べたので、意地になっていただんな、現金なもので、ころりと上機嫌。

長屋の連中、陰で、横町の隠居がだんなの義太夫で「ギダ熱」を患ったとか、佐々木さんとこの婆さんは七十六にもなって気の毒だとかぶつくさ。

だんな、あわただしく準備をし直し、張り切ってどら声を張り上げる。

どう見ても、人間の声とは思えない。

動物園の脇を通るとあんな声が聞こえる、この家の先祖が義太夫語りを絞め殺したのがたたってるんだと、一同閉口。

まともに義太夫が頭にぶつかると即死だから、頭を下げて、とやっているうち、酒に酔って残らずその場でグウグウ。

三味線は玄人ながら、オヤマカチャンリンで弾いている。

だんな、静かになったので、感動して聞いているんだろうと、御簾内から覗くとこのありさまで、家は木賃宿じゃないと怒っていると、隅で定吉が一人泣いている。

だんなが喜んで、
「子供でさえ義太夫の情がわかるのに、恥ずかしくないか」
と説教し、定吉に
「どこが悲しかった? やっぱり、子供が出てくるところだな。『馬方三吉子別うまかたさんきちこわかれ』か? 『宗五郎そうごろうの子別れ』か? そうじゃない? あ、『先代萩せんだいはぎ』だな」
「そんなとこじゃない、あすこでござんす」
「あれは、あたしが義太夫を語ったとこじゃないか」
「あたくしは、あすこが寝床でございます」

底本:八代目桂文楽

しりたい

日常語だった「寝床」

上方落語「素人浄瑠璃しろうとじょうるり」を、「狂馬楽きょうばらく」と呼ばれた奇人の三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらく(本間弥太郎、1864-1914)が明治中期に東京に移したとされます。

ただ、明治22年(1889)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残るので、それ以前から東京でも演じられていた、ということでしょう。

古くから東西で親しまれた噺です。少なくとも戦前までは「下手の横好き」のことを「寝床」といって普通に通用したほどです。

佐々木邦ささきくに(1883-1964)著『ガラマサどん』(太白書房、1948年)では、ビール会社のワンマン社長が社員相手に「寝床」をそっくり再現して笑いを誘いました。これもむろん落語が下敷きになっています。初出は昭和5年(1930)、月刊誌『キング』(講談社)に連載されました。古川ロッパ(古川郁郎、1903-61)主演で、舞台や映画でも人気を集めました。

原話と演者など

江戸初期の寛永年間(1624-44)刊行の笑話本『醒睡笑せいすいしょう』や『きのふはけふの物語』に類話があります。

最も現行に近い原話は、安永4年(1775)刊『和漢咄会わかんはなしかい』中の「日待ひまち」です。オチも同じです。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が上方のやり方を踏襲して演じ、それを弟子筋の八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が直伝で継承、十八番としました。

主人公がいかにへたくそとはいえ、演じる側に義太夫の素養がないとこなしきれないため、大看板でも口演できるものは限られます。

文楽のほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)が子供義太夫語りの前身を生かして「豊竹屋とよたけや」とともに自慢ののどを聞かせ、三代目金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も演じました。

異色の志ん生版「寝床」

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、「正統型」の文楽・円生に対抗して、ナンセンスに徹した「異色型」の「寝床」を演じました。

前半を短くまとめ、後半、だんなが逃げる番頭を追いかけながら義太夫を語り、「獲物」が蔵に逃げ込むと、その周りを悪霊のようにグルグル回ったあげく、とうとう蔵の窓から語り込み、中で義太夫が渦を巻いて、番頭が悶絶というすさまじいもの。オチは「今ではドイツにいるらしい」という奇想天外。

実はこれ、師匠だった初代柳家三語楼さんごろう(山口慶三、1875-1938)のやり方をそのまま踏襲したものです。志ん生が三語楼の話財をいただいた好例でしょう。

三語楼は、英語まじりのくすぐりを連発するなど、生涯エログロナンセンスの異端児で通した人でした。志ん生の次男である三代目古今亭志ん朝の本名、「強次」の名付け親です。名づけたら、まもなくみまかってしまいました。

むろん、このやり方では「寝床」の題のいわれもわからず、正道とはいえません。長いこと無頼の人生を送った志ん生は、師匠の反逆精神にどこか共鳴し、それを引き継いでいたのでしょうか。このやり方で演じるのは少数です。あまりよいできとも思えませんが、これはこれで楽しめる珍品です。

要は、「寝床」には、①円馬→文楽、円生、金馬、可楽の系統と、②三語楼→志ん生の系統がある、ということです。

義太夫

大坂の竹本義太夫(1651-1714)が貞享2年(1685)ごろ、播磨流浄瑠璃はりまりゅうじょうるりから創始、二世義太夫(1691-1744)が大成し、人形芝居(文楽)とともに、上方文化のいしずえとして興隆しました。

噺に登場する「先代萩」など三編はいずれも今日でも文楽の重要なレパートリーになっている代表作です。義太夫が庶民間に根付き、必須の教養だった明治期までは、このほか「釜入かまいりの五郎市ごろいち」「志度寺しどじ坊太郎ぼうたろう」などの子役を並べました。

オヤマカチャンリン

明治10年代にはやったことば。相手を軽く見て「わかったよ」といったニュアンスのことば。

三味線の師匠は、金さえもらえば「もうどうでもいいや」という投げやりの心持ちで弾いているのが、このことばからわかります。

いまも使われる「親馬鹿チャンリン」は、「オヤマカチャンリン」のもじりかと。

明治12年(1879)1月17日付の読売新聞で、幸堂得知こうどうとくち(高橋利平、1843-1913、根岸派、黄表紙流の作家)が「寄書よせぶみ(寄稿欄)」で、滑稽味ある記事を寄せています。ここに「親馬鹿チャンリン」が登場します。

何でも唐の唐人の真似さへさせればよいと思ってゐるから、親馬鹿チャンリンなどといはれるのだ

うーん、わかったような、わからないような。

ただ、嘲りや侮りが感じられる点では「オヤマカチャンリン」と同じ語感です。

だんなの強権

この噺の長屋は通りに面した表長屋おもてながやで、おそらく二階建て。義太夫だんなは、居附き地主といって、地主と大家を兼ねています。

表長屋は、店子たなごは鳶頭など、比較的富裕で、今で言う中産階級の人々が多いのですが、単なる賃貸関係でなく、店に出入りして仕事をもらっている者が大半なので、 とても「泣く子とだんな」には逆らえません。

加えて、江戸時代には、引越しして新しい長屋を借りるにも、元の家主の身元保証が必要な仕組みで、二重三重に、義太夫の騒音に命がけで耐えなければならないしがらみがあったわけです。

お次は音曲がらみで、「稽古屋」はいかがでしょうか。

 



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ことばよみいみ
束 そく百の異称。「三百」を「さんぞく」と呼ぶなど

評価 :3/3。

がまのあぶら【蝦蟇の油】落語演目

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【どんな?】

懐かしさがこみ上げるの縁日風景。
大道芸、香具師の極致。
テレメンテエカマンテエカ。
ポルトガル語だったのですね。奥が深い。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇がまの油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬こうやくが入った容器を手に、刀を差して、白袴しろばかまに鉢巻き、タスキ掛けという、いで立ち。

「さあさ、お立ち会い。ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠め山越やまごし笠のうち、物の文色あいろ理方りかたがわからぬ。山寺の鐘はごーんと鳴るといえども、童子どうじ一人来たって鐘に撞木しゅもくをあてざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音色ねいろがわからぬが道理。だが、てまえ持ちいだしたるなつめの中には、一寸八分いっすんはちぶ唐子からこぜんまいの人形。のんどには八枚の歯車を仕掛け、大道だいどうへ棗を据え置く時は、天の光と地のしめりをうけ、陰陽合体おんようがったいして、棗のふたをぱっととる。つかつか進むが虎の小走り虎走り、雀の小間こまどり小間返し、孔雀くじゃく霊鳥れいちょうの舞い、人形の芸当は十二通りある。だがしかし、お立ち合い、投げ銭放り銭はおことわりするよ。では、てまえなにを生業なりわいといたすかといえば、てまえ持ちいだしたるは、蟇蝉噪四六ひきせんそうしろく蝦蟇がまの油だ。そういう蝦蟇は、おれのうち縁の下や流しの下にもいる、というお方がいるが、それは俗に言うおたまがえる、ひきがえるといって、薬力やくりきと効能のたしにはならん」

さまざまに言い立てて、なつめという容器のふたをパッととり、
「てまえ持ちいだしたるは四六の蝦蟇だ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六の蝦蟇。この蝦蟇のめるところは、これより、はーるーか北にあたるつくばさんのふもとにて、おんばこという露草つゆくさを食らう。この蝦蟇のとれるのは五月に八月に十月、これを名づけて五八十ごはっそうは四六の蝦蟇だ、お立ち合い。この蝦蟇の油をとるには、四方しほうに鏡を立て、下に金網かなあみを敷き、その中に蝦蟇を追い込む。蝦蟇はおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと、脂汗あぶらあせを流す。これを下の金網にて、すきとり、柳の小枝をもって、三七二十一日さんしちにじゅういちにちの間、とろーり、とろりと煮詰めたるのが、この蝦蟇の油だ。赤いは辰砂しんしゃ椰子やしの実、テレメンテエカに、マンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔いでじ、イボ痔、はしり痔、横根よこね、がんがさ、その他、れもの一切に効く。まあ、ちょっとお待ち。蝦蟇の油の効能はそればかりではない。まだある。切れものの切れ味を止めて切り傷を治す。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀どんとうたりといえども、先が切れて元が切れぬ、なかば切れぬというのではない。ごらんの通り抜けば玉散たまちこおりやいばだ、お立ち合い。お目の前にて白紙はくしを一枚切ってお目にかける。あ、一枚の紙が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が一束と二十八枚、春は三月落花の形。比良ひら暮雪ぼせつ雪降ゆきふりの形だ、お立ち合い」
と、あやしげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬こうやくの効能を実証するため、一枚の白紙を刀で次々と切ってみせた。

「かほどに切れる業物でも、差しうら差しおもてへ、蝦蟇の油を塗る時は、白紙一枚容易に切れぬ。さ、このとおり、たたいて切れない。引いても切れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板いっすんいたもまっ二つ。触ったばかりでこれくらい切れる。だが、お立ち会い、こんな傷は何の造作ぞうさもない。蝦蟇の油をひとつけつける時は、痛みが去って血がぴたりと止まる。いつもは一貝ひとかいで百文だが、こんにちはおひろめのため、小貝こがいを添え、二貝ふたかいで百文だ」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くした蝦蟇の油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上を。

ロレツが回らないので支離滅裂しりめつれつ

それでもどうにか、紙を切るところまではきたが、
「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ」
「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通り、蝦蟇の油をひとつけ、つければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二つけ、つければ、今度はピタリと……かくなる上は、もうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立ち会い」
「どうした」
「お立ち会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。

酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路りょうごくひろこうじに連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は三代目金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。

金馬は、蝦蟇の油の口上をそのまま「高田馬場」の中でも使っています。

昭和期では、三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。

大阪では、「東の旅」の一部として、桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版では、ガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「蝦蟇の油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚醒剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレピン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

周達生著『昭和なつかし博物学』(平凡社、2005年)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。

いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんね。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。

同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ディジー・ガレスピー

上項目から派生して、ここから先は周達生教授も言及していません。さあお立ち合い。

米ジャズの伝道師、ディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はキューバをイメージして彼が作ったものですが、「マンテカ」はこの噺の「マンテエカ」と同語源です。

ポルトガル語、またはスペイン語でラード、豚の脂、転じて膨れた死体(脂肪の塊)をさします。

隠語では大麻を呼ぶときもあります。

かつてスペイン人が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来だそうです。

この作品は1947年につくられましたが、フリューゲルホルンを頬を膨らませて奏でるガレスピーは曲の合間に「もうジョージアには戻らない」と言っているそうで(私には聞こえませんが)、当時の米国内での黒人差別に仮託しているふしがうかがえます。

と同時に、キューバのコンガ奏者(コンゲーロ)チャノ・ポソが編曲。みごとなアフロキューバンジャズのスタンダードにブラッシュアップしています。

その後まもなく、ポソは射殺されました。マンテカになってしまいました。

こんないわくつきの、楽しくもない、むしろ呪われたような曲ながら、不思議な進行と変化にとんだメロディーラインが脳波を心地よく刺激してくれ、まさに大麻のような習慣性を帯びてるものです。何度も何度も聴きたくなるのです。

昭和48年(1973)から昭和60年(1985)まで大阪の朝日放送で放映されていた、お見合いバラエティー番組「プロポーズ大作戦」のメインテーマはキダタローの作曲でしたが、出だしがマンテカとぴったり。パクリですね。

これも習慣性を帯びる番組になっていました。総じて、蝦蟇の油の効用と一脈通じていたのかもしれません。

「manteca」大西順子トリオ

「蝦蟇の油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「蝦蟇の油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

【蝦蟇の油 三遊亭円生】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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やくばらい【厄払い】落語演目



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【どんな?】

いまはすたれた「おはらい」をネタにした噺。興味津々の話題ですね。

【あらすじ】

頭が年中正月の与太郎。何をやらせてもダメなので、伯父おじさん夫婦の悩みの種。

当人に働く気がまるでないのだから、しかたがない。

おふくろを泣かしちゃいけないと説教し、
「今夜は大晦日おおみそかだから、厄払いを言い立てて回って、豆とお銭をもらってこい」
と言う。

小遣こづかいは別にやるから、売り上げはおふくろに渡すよう言い聞かせ、厄落やくおとしのセリフを教える。

「あーらめでたいな、めでたいな、今晩今宵のご祝儀しゅうぎに、めでたきことにて払おうなら、まず一夜明ければ元朝がんちょうの、かどに松竹、注連飾しめかざり、床に橙、鏡餅だいだいかがみもち蓬莱山ほうらいさんに舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔とうほうさく八千歳はっせんざい、浦島太郎は三千年、三浦の大助おおすけ百六ツ、この三長年が集まりて、酒盛りをいたす折からに、悪魔外道げどうが飛んで出で、さまたげなさんとするところ、この厄払いがかいつかみ、西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、須弥山しゅみせんの方へ、さらありさらり」
というものだが、伯父さんの後について練習しても文句が覚えられないので、紙に書いてもらって出かける。

表通りで
「ええ、こんばんは」
「なんだい」
「厄払いでござんす」
「もう払ったよ」
「もういっぺん払いなさい」
「なにを言やがる!」

別の厄払いに会ったので
「おいらも連れってくれ」
「てめえを連れてっても商売にならねえ」
「おまえが厄ゥ払って、おいらが銭と豆をもらう」

追っ払われて
「えー、厄払いのデコデコにめでたいの」
とがなって歩くと、おもしろい厄払いだと、ある商家に呼び入れられる。

前払いで催促し、おひねりをもらうと、開けてみて
「なんだい、一銭五厘か。やっぱりふところが苦しいか」
「変なこと言っちゃいけない」

もらった豆をポリポリかじり、茶を飲んで
「どうも、さいならッ」
「おまえはなにしに来たんだ」
とあきれられ、ようやく「仕事」を思い出す。

表戸を閉めさせて「原稿」を読み出すが、つっかえつっかえではかどらない。

「あらあらあら、荒布、あらめでたいな。あら、めでたいなく」
「おい、めでたくなくちゃいけない」
「くの字が大きいんだ。鶴は十年」
「鶴は千年だろ」
「鶴の孫」
「それだって千年だ」
「あ、チョンが隠れてた。鶴は千年。亀は……あの、少々うかがいます」
「どなたで?」
「厄払いで」
「まだいやがった。なんだ」
「向こうの酒屋は、なんといいます」
「万屋だよ」
「ええ、亀はよろず年。東方」

ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出した。

「おい、表が静かになった。開けてみな」
「へい。あっ、旦那、厄払いが逃げていきます」
「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「黒門町」の隠れ十八番  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から口演されてきました。東西ともに演じられますが、上方の方はどちらかというとごく軽い扱いで、厄払いのセリフをダジャレでもじるだけのもの。オチは「よっく挟みまひょ」で、「厄払いまひょ」の地口です。

明治34年(1901)の四代目柳亭左楽りゅうていさらくの速記では、「とうほうさく」のくの字が「く」か「ま」か読めず、「とうほうさま、とうほうさく」とうなっていると、客「弘法さまの厄除けのようだ」、与太郎「百よけいにもらやあ、オレの小遣いになる」とダジャレの連続でオチています。

昭和期では、たまに八代目桂文楽(黒門町くろもんちょうの師匠)が機嫌よく演じ、これも隠れた十八番の一つでした。文楽没後は、三笑亭夢楽さんしょうていむらくも得意にしました。

以後、若手もけっこう手がけていましたが、音源は文楽、夢楽のほか古くは初代桂春団治かつらはるだんじのレコードがあり、桂米朝、柳家小三治もCDに入れていました。

一年を五日で暮らす厄払い  【RIZAP COOK】

古くは節分だけの営業でしたが、文化元年(1804)以後は正月六日と十四日、旧暦十一月の冬至、大晦日おおみそかと、年に計五回、夜にまわってくるようになりました。

この噺では大晦日の設定です。古くは、厄年の者が厄を落とすため、個人個人でやるものでしたが、次第に横着になり、代行業が成り立つようになったわけです。

もっとも、個人でする厄落としがまったくなくなったわけではなく、人型に切り抜いた紙で全身をなで、川へ流す、また、大晦日にふんどしに百文をくくり、拾った者に自分の一年分の厄を背負わせるといった奇習もありました。

要は、フンドシが包んでいる部分は、体中でもっとも男の厄と業がたまっているから、というわけです。

江戸の厄落としは「おん厄払いましょう、厄落とし」と、唄うように町々を流し、それが前口上になっています。

文句は京坂と江戸では多少異なり、江戸でも毎年、また節季ごとに変えて工夫しました。

厄落としの祝詞は、もとは平安時代に源を発する厄除けの呪文・追儺祭文ついなさいもんからきたといわれています。

前口上で家々の気を引いて、呼び込まれると門付かどづけで縁起のいい七五調の祝詞のりとを並べます。

いずれも「あーらめでたいな、めでたいな」で始まり、終わりに「西の海とは思えども、東の海へさらーり」の決まり文句で、厄を江戸湾に捨て流して締めます。

祝儀しゅうぎを余計はずむと、役者尽くし、廓尽くしなど、スペシャルバージョンを披露することもありました。

こうなると縁起ものというより、万歳まんざい同様、一種の芸能、エンターテインメントでしょう。

祝儀は、江戸期では十二文、明治期では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。

『明治商売往来』(仲田定之助、ちくま文庫)」に言及がありますが、1888年(明治21)生まれの仲田でさえ、記憶が定かでないと述べているので、おそらく明治30年代終わりには、もういなくなっていたのでしょう。

こいつぁ春から  【RIZAP COOK】

歌舞伎で、河竹黙阿弥かわたけもくあみの世話狂言「三人吉三さんにんきちざ」第二幕大川端おおかわばたの場の「厄落やくおとし」のセリフは有名です。

夜鷹よたかのおとせが、前夜の客で木屋の手代てだい十三郎じゅうざぶろうが置き忘れた百両の金包みを持って、大川端をうろうろしているところを、親切ごかしで道を教えた女装の盗賊・お嬢吉三に金を奪われ、川に突き落とされます。

ここで七五調の名セリフ。

月もおぼろに白魚しらうお
かがりもかすむ春の空冷てえ風もほろ酔いに
心持ちよくうかうかと浮かれがらすのただ一羽
ねぐらへ帰る川端でさおしずくか濡れ手であわ
思いがけなく手に入る百両

懐の財布を出し、にんまりしたところで、「おん厄払いましょう、厄落とし」と、厄払いの口上の声。

ほんに今夜は節分か
西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落とし
豆だくさんに一文の
銭と違って金包み
こいつぁ春から(音羽屋!)縁起がいいわえ

「西の海」の厄払いの決まり文句、豆と一文銭というご祝儀の習慣がちゃんと読み込まれた、心憎さです。

こんなぐあいですから、歌舞伎の世界ではすらすら流れる名調子を「厄払い」と言っているそうです。

蓬莱山  【RIZAP COOK】

神仙思想の言葉。中国の東方海上にあるといわれている想像上の霊山。

神仙思想では、仙人が住む不老不死の仙境と信られていました。

東方朔  【RIZAP COOK】

東方朔(BC154-)は中国、前漢ぜんかんの人。武帝の側近として仕えた文人です。

西王母(仙人)の、三千年に一度実る桃を三個も盗み食いし、人類史上ただ一人、不老不死の体になった人。

李白の詩でその超人ぶりを称えられ、能「東方朔」では仙人として登場します。

漢の武帝に仕え、知略縦横、また万能の天才、漫談の祖としても知られました。

BC92年、62歳で死んだと見せかけ、以後、仙人業に専念。2175歳の今も、もちろんまだご健在のはずです。

ただし、捜し出して桃のありかを吐かせようとしても、次に実るのはまだ千年も先ですので、ムダでしょう。

須弥山  【RIZAP COOK】

仏教語。世界の中央にそびえる山。高さは八万由旬ゆじゅん(1由旬=40里=160km)あって、風輪、水輪、金輪が重なっている山だそうです。

金、銀、瑠璃るり玻璃はりの四宝からなり、頂上には宮殿があって、そこには帝釈天たいしゃくてん、中腹には四天王してんのうが住んでいるんだそうです。

日と月はその中腹を周回しているとのこと。想像を絶します。

三浦の大助  【RIZAP COOK】

平安末期の武将、三浦義明みうらよしあき(1092-1180)のこと。

相模の有力豪族、三浦氏の総帥そうすいで、治承じしょう2年(1178)、源頼朝の挙兵に応じましたが、石橋山いしばしやまの合戦で頼朝が敗北後、居城の衣笠城きぬがさじょう籠城ろうじょう

一族の主力を安房あわ(千葉県南部)に落とし、自らは敵勢を引き受け、城を枕に壮絶な討ち死にを遂げました。

実際には88歳までしか生きませんでしたが、古来まれな長寿者として誇張して伝承され、「三浦大助」として登場する歌舞伎「石切梶原いしきりかじわら」では108歳とされています。

「厄払い」の中では「みうらのおおすけ」と発音されます。

人名で、姓と名の間に「の」を入れた読み方は、鎌倉幕府創建が一つの区切りといわれます。

源頼朝みなもとのよりとも源義経みなもとのよしつね北条政子ほうじょうまさこ北条義時ほうじょうよしとき……。

【RIZAP COOK】



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