おうのまつ【阿武松】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

大食いで武隈関から追い出された男。
板橋宿でたらふく食って死のうとする。
旅籠の主人に救われて錣山部屋へ。
錣山では大食いがすすめられた。
男はたちまち大出世。
とうとう長州公のお抱え力士に。

これぞ第六代横綱、阿武松の出世譚。

別題:出世力士

あらすじ

京橋観世新道かんぜじんみちに住む武隈文右衛門たけくまぶんえもんという幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至ふげし鵜川うかわ村字七海しつみの在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車おぐるまという四股名しこなを与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから、追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ、相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分金をやって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分金で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾宿の橘家善兵衛という旅籠はたごに泊まり、一期いちごの思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみると、これこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山しころやま喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている。相撲取りが飯を食わないではどうにもならない。一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑という四股名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助おうのまつみどりのすけと出世を遂げるという一席。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

阿武松緑之助  【RIZAP COOK】

おうのまつみどりのすけ。寛政3年(1791)-嘉永4年(1851)。第六代横綱。長州藩抱え。実際は武隈部屋。文政5年(1822)10月入幕、同9年(1826)10月大関、同11年(1828)2月横綱免許。天保6年(1835)10月、満44歳で引退。

四股名の由来は、お抱え先の長州・萩の名所「阿武あぶの松原」から。 

板橋宿  【RIZAP COOK】

地名の由来は、石神井川に架かる板橋から。日本橋から二里八丁(11.2km)。

中仙道の親宿(起点)で、四宿(非公認の遊郭。品川、新宿、千住、板橋)の一つ。上宿、中宿、平尾宿(下宿)に分かれていました。宿泊専用の平旅籠以外に、飯盛り女(宿場女郎)を置く飯盛り旅籠があり、そっちの方でもにぎわいました。

縁切り榎で有名です。十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮に目障りとされ、薦巻きにされたといいます。のちの新選組を組織する近藤勇や土方歳三らも中山道を京に向かいました。

戸田川は荒川のこと。隅田川の上流で、板橋宿の外れ、志村の在には戸田の渡し場がありました。

観世新道  【RIZAP COOK】

かんぜじんみち。中央区銀座一丁目。

講談から脚色  【RIZAP COOK】

講釈をもとにできた噺。講談(講釈)には、「谷風情け相撲」など、相撲取りの出世譚は多いのですが、落語化されたものは珍しいです。

大阪の五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946、赤馬生、おもちゃ屋の)から教わった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、得意にしていた人情噺。弟子の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が継承しました。

「阿武松じゃあるめえし」  【RIZAP COOK】

文政13年(1830)3月、横綱阿武松は、江戸城での将軍家上覧相撲結びの一番でライバルの稲妻雷五郎(1795-1877、第七代横綱)と顔を合わせ、勝ちはしたものの、マッタしたというのが江戸っ子の顰蹙ひんしゅくを買い、それ以後、人気はガタ落ちに。

借金を待ってくれというのを「阿武松じゃあるめえし」というのが流行語になったとか。平戸藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にある逸話です。

実録の阿武松は、柳橋のこんにゃく屋に奉公しているところをスカウトされたということです。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ごもくこうしゃく【五目講釈】落語演目

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【どんな?】

若だんなが語るでたらめ講釈。「若だんな勘当もの」の一。
寝床」と「船徳」、その他いろいろがごっちゃまぜに。

別題:居候講釈 端物講釈

あらすじ】  

お決まりで、道楽の末に勘当となった若だんな。

今は、親父に昔世話になった義理で、さる長屋の大家が預かって居候の身。

ところがずうずうしく寝て食ってばかりいるので、かみさんが文句たらたら。

板挟みになった大家、
「ひとつなにか商売でもおやんなすったらどうか」
と水を向けると、若だんな、
「講釈師になりたい」
と、のたまう。

「それでは、あたしに知り合いの先生がいますから、弟子入りなすったら」
大家がと言うと
「私は名人だから弟子入りなんかすることはない、すぐ独演会を開くから長屋中呼び集めろ」
と、大変な鼻息。

若だんな、五十銭出して、
「これで菓子でも買ってくれ」
と気前がいいので、
「まあそんなら」
とその夜、いよいよ腕前を披露することにあいなった。

若だんな、一人前に張り扇を持ってピタリと座り、赤穂義士の討ち入りを一席語り出す。

「ころは元禄十五年極月ごくげつなかの四日、軒場に深く降りしきる雪の明かりは見方のたいまつ」
と出だしはよかったが、そのうち雲行きが怪しくなってくる。

大石内蔵助が吉良邸門外に立つと
「われは諸国修行の勧進かんじんなり。関門開いてお通しあれと弁慶が」
といつの間にか、安宅あたかの関に。

「それを見ていた山伏にあらずして天一坊てんいちぼうよな、と、首かき斬らんとお顔をよく見奉れば、年はいざようわが子の年輩」
熊谷陣屋くまがいじんや

そこへ政岡まさおかが出てくるわ、白井権八しらいごんぱちが出るわ、果ては切られ与三郎まで登場して、もう支離滅裂のシッチャカメッチャ。

「なんだいあれは。講釈師かい」
「横町の薬屋のせがれだ」
「道理で、講釈がみんな調合してある」

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しりたい】  

またも懲りない若だんな  【RIZAP COOK】

原話は、安永5年(1776)刊『蝶夫婦ちょうつがい』中の「時代違いの長物語」です。

これは、後半のデタラメ講釈のくだりの原型で、歌舞伎の登場人物を、それこそ時代もの、世話ものの区別なく、支離滅裂に並べ立てた噴飯物ふんぱんもの。いずれにしても、客が芝居を熟知していなければなにがなにやら、さっぱりわからないでしょう。

前半の発端は「湯屋番」「素人車」「船徳」などと共通の、典型的な「若だんな勘当もの」のパターンです。道楽が過ぎたさまは「寝床」にも似ています。

江戸人好みパロディー落語  【RIZAP COOK】

四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)の、明治31年(1898)の速記が残っています。

柳枝は「子別れ」「お祭り佐七」「宮戸川」などを得意とした、当時の本格派でした。姉の養子が三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)でした。 

寄席の草創期から高座に掛けられていた、古い噺ですが、柳枝がマクラで、「お耳あたらしい、イヤ……お目あたらしいところをいろいろとさし代えまして」と断っているので、明治も中期になったこの当時にはすでにあまり口演されなくなっていたのでしょう。

講談や歌舞伎が庶民生活に浸透していればこそ、こうしたパロディー落語も成り立つわけで、講釈(講談)の衰退とともに、現在ではほとんど演じられなくなった噺です。

CD音源は五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものが出ています。

興津要おきつかなめ(1924-99、日本近世文学)はこの噺について「連想によってナンセンス的世界を展開できる楽しさや、ことば遊び的要素があるところから江戸時代の庶民の趣味に合致したもの」と述べています。

五目  【RIZAP COOK】

もともとは、上方語で「ゴミ」。

転じて、いろいろなものがごちゃごちゃと並んでいること。

現在は「五目寿司」など料理にその名が残っています。

遊芸で「五目の師匠」といえば、専門はなにと決まらず、片っ端から教える人間で、江戸でも大坂でも町内に必ず一人はいたものです。

別題は「端物講釈」。「端物」とは、「はしたもの」と読むと「中途半端」を意味し、「はもの」なら「短い噺」のことです。その伝でいけば、この噺は「はしたものこうしゃく」となるのですが。そうもいきませんね。

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評価 :1/3。

はまののりゆき【浜野矩随】落語演目

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【どんな?】

彫金職人の一途な噺。
元は講釈ネタ。
ものつくりの哀歓がにじむ一席。

別題:名工矩随

あらすじ

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫り」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

浜野矩随  【RIZAP COOK】

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚  【RIZAP COOK】

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家です。

若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末  【RIZAP COOK】

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。

ところが、五代目志ん生はこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。

いうまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた出来だと思います。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋  【RIZAP COOK】

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。

久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。久保田万太郎は戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家、俳人です。『浅草風土記』などで有名ですが、久保田を師と仰いだ小島政二郎は『円朝』という作品を残しています。

水垢離  【RIZAP COOK】

みずごり。神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。

東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

いまどのきつね【今戸の狐】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

向かいのおかみは千住上がり。手引きで今戸焼の狐を作る良輔。
狐は賭場をさす隠語。半端に聞き知った遊び人が迫った。
「狐はどこでぃ」「戸棚ん中です」
「マヌケめ、骨の寨だ」「お向かいです」 

あらすじ

安政の頃。

乾坤坊良斎けんこんぼうりょうさいという自作自演の噺家の弟子で、良輔りょうすけという、こちらは作者専門の男。

どう考えても作者では食っていけないので、ひとつ、噺家に転向しようと、当時大看板で三題噺さんだいばなしの名人とうたわれている初代三笑亭可楽さんしょうていからくに無理に頼み込み、弟子にしてもらった。

ところが、期待とは大違い。

修行は厳しいし、客の来ない場末の寄席にしか出してもらえないし。食うものも食えず。これでは作者の方がましだったという体たらく。

内職をしたいが、師匠がやかましくて、見つかればたちまちクビは必定。

しかし、もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなくなった。

たまたま住んでいたのが今戸で、ここは今戸焼きという、素焼きの土器や人形の本場。

そこで良輔、もともと器用なたちなので、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいた。

良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋こまものやの家がある。

そこのかみさんは千住(通称、骨=コツ)のお女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これもなにか手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ、と強談判こわだんぱん

良輔も承知するほかない。

一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになった。

こちらは中橋なかばしの可楽の家。

師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽のらくが、夜中に寄席でクジを売ってもらった金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人。

博打ばくちに負けてすってんてんにされ、やけになっているところに前座の金を数える音がジャラジャラと聞こえてきたので、これはてっきりご法度はっとの素人博打を噺家が開帳していると思い込み、「これは金になる」とほくそ笑む。

翌朝。

さっそく、可楽のところに押しかけ、
「お宅では夜遅く狐チョボイチ(博打の一種)をなさっているようだが、しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したい」とゆする。

これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだ、と教える。

乃楽から道を聞き出し、今戸までやってきた虎、さっそく、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。

「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」

ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。

「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「まぬけめっ、オレが探してんのは、こつさいだっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

講釈名人の実話

江戸後期の講釈師、乾坤坊良斎(1769-1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。

良斎は神田松枝町かんだまつえだちょうで貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)門下の噺家になり、のちに講釈師に転じた人。

本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談しらこやせいだん」ほかの世話講談をものしました。

この噺は、良斎が初代菅良助(梅沢良助、1769-1860)の名で噺家だったころの体験談を弟子の二代目菅良助(本名不詳、生没年不詳)のこととして創作(あるいは述懐)しているため、話がややこしくなっています。

ちなみに、二代目良助はその後、初代立川談志となった人だとか。

良斎の若い頃なら文化年間(1804-18)ですが、この人が噺家をあきらめ、剃髪して講釈師に転じたのは天保末年(1840年ごろ)といわれます。

長命ではあったものの、もう晩年に近いので、やはり弟子のことにしないと無理が生じるため、噺の舞台は安政期(1854-60)に設定してあります。

志ん生専売の「楽屋ネタ」

明治期の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残っています。

古風な噺で、オチの「コツ」や今戸焼など、現在ではまったくわからなくなっています。

先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)しか演じ手がありませんでした。

志ん生の二人の子息、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-1982)と三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が継承して手掛けていました。

現在でもこの一門を中心に、ホール落語などではごくたまに聴かれます。

落語家自身が主人公になる話はたいへんに珍しく、その意味で、噺のマクラによくある「楽屋ネタ」をふくらませたものともいえるでしょう。

幕末の江戸の場末の風俗や落語家の暮らしぶりの貴重なルポになっているのが取り得の噺です。

志ん生も、一銭のうどんしかすすれなかったり「飯が好きじゃあ噺家になれねえよ」と脅されたりした昔の前座の貧しさをマクラでおもしろおかしく語り、客の興味をなんとかつなげようと苦心していました。

今戸焼

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が得意にした「今戸焼」にも登場します。

起源は天正年間(1573-91)に遡るという焼き物。土器人形が主で、火鉢や灯心皿も作ります。

狐チョボイチ

単に「狐」、また「狐チョボ」ともいいます。

寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

本来、「チョボイチ」がサイコロ一つ、「丁半」が二つ、「狐」が三つと決まっているので、厳密には「狐チョボイチ」は誤りでしょう。

このバクチ、イカサマや張った目のすり替えが行われやすく、しまいには狐に化かされたように、「誰が自分の銭ィ持ってっちゃったんだか、わからなくなっちまいます」(志ん生)ので、この名が付いたとか。

女郎のように人をたぶらかす習性の者を「狐」と呼んだので、噺の内容から、当然この言葉はそれと掛けてあるわけです。

チョボイチは「狸賽」でも登場します。「狐」に狸が化けるわけですね。

寄席くじ

江戸時代の寄席では、中入りの時、前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、前座の貴重な収入源でした。

これも志ん生によると、景品はきんか糖でこしらえた「鯛」や「布袋さま」と決まっていたようで、当たっても持っていく客は少なく、のべつ同じものが出ていたため、しまいには鯛のうろこが溶けてなくなってしまったとか。

コツ

千住小塚原(荒川区南千住8丁目)の異称です。

鈴ヶ森と並ぶ刑場で有名ですが、岡場所(私娼窟)があったことでも名高く、「藁人形」にも登場しました。

刑場から骨を連想し、骨ヶ原(コツガハラ)から小塚原(コヅカッパラ)となったもので、オチに通じる「コツの妻」は、骨製の安物の「さい」と「さい」を掛けた地口じくちです。

この噺、ここがわかっていないとオチで笑えません。

そこで志ん生は、噺の最初に千住を「コツ」と呼んでいたことを入念に話していました。

今戸中橋

いまどなかばし。今戸は、台東区今戸1、2丁目で、江戸郊外有数の景勝地でした。今は見る影もありません。

現在は埋め立てられた今戸橋は、文禄年間(1592-96)以前に架橋された古い橋で、その東詰ひがしづめには文人墨客ぶんじんぼっかくがよく訪れた有名な料亭・有明楼がありましたが、現在は墨田公園になっています。

南詰みなみづめには昭和4年(1929)、言問橋ことといばしが架けられるまで対岸の三囲神社みめぐりじんじゃとの間を渡船でつなぐ「竹屋の渡し」がありました。

中橋は中央区八重洲1丁目。「金明竹」「代脈」「中沢道二」ほかにも登場します。

ことばよみいみ
乾坤坊良斎
けんこんぼうりょうさい
質 
たち
糊口をしのぐ 
ここうをしのぐ
乃楽 
のらく
妻 さい

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しゃみせんくりげ【三味線栗毛】落語演目

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【どんな?】

老中次男坊の角三郎とあんまの錦木。
若い頃に交流があり、いずれともに出世して。
講釈ネタ。志ん生がやっていました。
志ん生は講談師に転業したことも。

あらすじ

老中筆頭、酒井雅楽頭の次男坊、角三郎。

ちょくちょく下々に出入りするのでおやじからうとんじられ、五十石の捨て扶持をもらって大塚鶏声ヶ窪の下屋敷で部屋住みの身。

そうでなくとも次男以下は、養子にでも行かない限り、一生日の目は見ない。

ところが角三郎、生まれつきののんき者で、人生を楽しむ主義なので、いっこうにそんなことは気にしない。

あしたは上野の広小路、あさっては浅草の広小路と、毎日遊興三昧。

今日も両国で一膳飯屋に入ったと言って、用人の清水吉兵衛にしかられ、
「あんまを呼んであるのでお早くお休みを」
と、せきたてられる。

今日呼んだあんまは、名を錦木という。

療治がうまくて話がおもしろいので、角三郎はいっぺんに気に入った。

いろいろ世間話をするうち、あんまにも位があることを知る。

座頭、匂頭、検校の順になり、座頭になるには十両、匂頭では百両、検校になるには千両の上納金を納めなければならないことを聞く。

錦木は、
「とても匂頭や検校は望みの外だから、金をためてせめて座頭の位をもらうのが一生の望みです」
と話す。

「雨が降って仕事がない時はよく寄席に行くもんで」
と言って、落語まで披露するので、角三郎は大喜び。

その上、
「あなたは必ず大名になれる骨格です」
と言われたから、冗談半分に
「もし、おれが大名になったら、きさまを検校にしてやる」
と約束した。

錦木は真に受けて、喜んで帰っていった。

そのうち錦木は大病にかかり、一か月も寝込んでしまう。

見舞いに来た安兵衛に、
「あの下屋敷の酒井の若さまが、おやじが隠居、兄貴の与五郎が病身とあって、思いがけなく家を継ぐことになった」
という話を聞き、飛び上がって布団から跳ね出す。

さっそく、今は酒井雅楽頭となって上屋敷に移った角三郎のところにかけつけると
「錦木か、懐かしいな。武士に二言はないぞ」
と約束通り、検校にしてくれた。

ある日のこと。

出世した、今は錦木検校が、酒井雅楽頭にご機嫌伺いに来る。

雅楽頭は、このほど南部産の栗毛の良馬を手に入れ、三味線と名づけたと話す。

駿馬にしては軟弱な名前なので、錦木がそのいわれを聞いてみた。

「雅楽頭が乗るから三味線だ」
「それでは、家来が乗りましたら?」
「バチが当たるぞ」

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うんちく

名人から名人へ 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、講釈(講談)種とみられます。

明治の大円朝から、四代目橘家円喬と二代目三遊亭小円朝に伝承されました。

その衣鉢を継いだ昭和(戦前戦後も含め)の三代目小円朝、五代目古今亭志ん生、二代目三遊亭円歌らがよく演じました。

三代目小円朝は地味にしっとりと演じ、角三郎を闊達だが書物好きのまじめな青年として描きました。

逆に志ん生は、自由奔放な人間像を造形しました。

志ん生はマクラに両国の見世物小屋の描写を置き、山場の少ない噺に明るい彩を添えています。

さらに、小円朝は、後半の栗毛の話の聞き手を吉兵衛に代え、志ん生はそのまま錦木で演じましたが、噺の連続性からは志ん生のやり方が無難でしょう。

率直に言って古色蒼然、おもしろいとは言えない噺なので、しばらく後継者がありませんでした。

近年は、柳家喬太郎、古今亭菊之丞らが意欲的に手掛けています。

酒井雅楽頭 【RIZAP COOK】

さかいうたのかみ。譜代の名門、酒井家の本家で、上州前橋十二万五千石→播州姫路十五万石。

代々で最も有名なのは、四代将軍家綱の許で権勢を振るい「下馬将軍」と呼ばれた忠清(1624-81)。大老にまでなったこの人物が失脚してから、酒井家からは当分老中は出ていません。

この噺では、あるいは父親を酒井忠清、角三郎を嗣子忠挙ただたかに想定しているのかも知れませんが、詮索は無意味でしょう。

鶏声ヶ窪 【RIZAP COOK】

酒井家の上屋敷は丸の内、大手御門前。下屋敷のある鶏声ヶ窪は、旧駒込曙町で、文京区本駒込一、二丁目あたりです。

この付近には、下総古河八万石で、やはり大老を務めた土井大炊頭下屋敷もありました。

地名の由来は、その屋敷内から怪しい鶏の声がするので、地中を掘ってみると金銀の鶏が出てきたことによるとか。

一膳飯屋については「ねぎまの殿さま」、按摩の位については「松田加賀」を、それぞれお読みいただけると、さらに詳しい情報を得られるでしょう。

江戸高名会亭尽「白山傾城ヶ窪」歌川広重(初代)画、天保9年(1838)刊

円喬の苦悩 【RIZAP COOK】

小島政二郎(1894-1994)の小説「円朝」に、この噺を得意にした円朝門下の四代目橘家円喬(1865-1912)が、按摩の表現のコツがつかめず、苦悶する場面があります。

特に話し方、声。ゆえあってしばらく師匠を離れ、大阪に行った円喬が、答えが出ないまま、あるとき夢に見た円朝の教えは「耳で話せ」。それが開眼のきっかけになります。

ことばよみ意味
酒井雅楽頭さかいうたのかみ
捨て扶持すてぶち役に立たない人へ与えられる米
大塚鶏声ヶ窪おおつかけいせいがくぼ文京区本駒込1、2丁目
酒井忠挙さかいただたか
座頭ざとう
匂頭こうとう
検校けんぎょうあんまさんの最高位
駿馬しゅんめ良馬
土井大炊頭どいおおいのかみ古河藩主

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しじみうり【蜆売り】落語演目

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【どんな?】

白浪物(盗賊の物語)。
鼠小僧がふとしたことでの一件。
かつての因果がわかった。
その侠気から自首する噺。

【あらすじ】

ご存じ、義賊ぎぞく鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきち

表向きの顔は、茅場町かやばちょうの和泉屋次郎吉という魚屋。

ある年の暮れ、芝白金の大名屋敷の中間部屋ちゅうげんべやで三日間博奕三昧ばくちざんまいの末、スッテンテンにむしられて、外に出ると大雪。

藍微塵あいみじん結城ゆうきあわせの下に、弁慶縞べんけいじま浴衣ゆかたを重ね、古渡こわたりの半纏はんてんをひっかけ、素足に銀杏歯いちょうば下駄げた、尻をはしょって、濃い浅黄あさぎ手拭たぬぐいでほおっかぶりし、番傘ばんがさをさして新橋の汐留しおどめまでやってきた。

なじみの伊豆屋という船宿で、一杯やって冷えた体を温めていると、船頭の竹蔵がやはり博奕で負けてくさっているというので、なけなしの一両をくれてやるなどしているうち、雪の中を、年のころはやっと十ばかりの男の子が、汚い手拭いの頬かぶり、ボロボロの印半纏しるしばんてん、素足に草鞋わらじばきで、赤ぎれで真っ赤になった小さな手にざるを持ち、「しじみィー、えー、しじみよォー」

渡る世間は雪よりも冷たく、誰も買ってやらず、あちこちでじゃまにされているので、次郎吉が全部買ってやり、しじみを川に放してやれと言う。

喜んで戻ってきた子供にそれとなく身の上を聞くと、名は与吉といい、おっかァと二十三になる姉さんが両方患っていて、自分が稼がなければならないと言う。

その姉さんというのが新橋は金春の板新道じんみちで全盛を誇った、紀伊国屋の小春という芸者だった。

三田の松本屋という質屋の若だんなといい仲になったが、おかげで若だんなは勘当。

二人して江戸を去る。

姉さんは旅芸者に、若だんなの庄之助は碁が強かったから、碁打ちになって、箱根の湯治場とうじばまではるばると流れてきた。

亀屋という家で若だんなが悪質なイカサマ碁に引っ掛かり、借金の形にあわや姉さんが自由にされかかるところを、年のころは二十五、六、苦み走った男前のだんながぽんと百両出して助けてくれた上、あべこべにチョボイチで一味の金をすっかり巻き上げて追っ払い、その上、五十両恵んでくれて、この金で伊勢詣りでもして江戸へ帰り、両親に詫びをするよう言い聞かせて、そのまま消えてしまったのだという。

ところが、この金が刻印を打った不浄金(盗まれた金)であったことで、若だんなは入牢、姉さんは江戸に帰されて家主預けとなったが、若だんなを心配するあまり、気の病になったとのこと。

話を聞いて、次郎吉は愕然がくぜんとなる。

たしかに覚えがあるのも当然、その金を恵んだ男は自分で、幼い子供が雪の中、しじみを売って歩かなければならないのも、もとはといえばすべて自分のせい。

親切心が仇となり、人を不幸に陥れたと聞いては、うっちゃってはおかれねえと、それからすぐに、兇状持きょうじょうもちの素走すばしりの熊を身代わりに、おおそれながらと名乗って出て、若だんなを自由の身にしたという、鼠小僧侠気きょうきの一席。

【しりたい】

白浪講談を脚色

幕末から明治にかけての世話講談の名手で、盗賊ものが得意なところから、異名を泥棒伯円といった二代目松林伯円しょうりんはくえん(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905、新聞伯円、泥棒伯円)が、鼠小僧次郎吉の伝説をもとに創作した長編白浪(=盗賊)講談の一部を落語化したものです。

戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意にしました。

ほかに上方演出で、大阪から東京に移住した二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が音曲入りで演じました。

大阪のオチは、

「親のシジメ(しじみ=死に目)に会いたい」

と地口(=ダジャレ)で落とします。また、二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)は主人公を鼠小僧でなく、市村三五郎という大坂の侠客で演じていました。

実録・鼠小僧次郎吉

天保3年(1832)旧暦5月8日、浜町の松平宮内少輔まつだいらくないしょうゆうさま(松平忠恵ただしげ)の上野小幡藩こうずけおばた藩中屋敷で「仕事」中、持病の喘息ぜんそくの発作が起きてついに悪運尽き、北町奉行・榊原主計頭さかきばらかずえのかみさま(榊原忠之)のお手下に御用となりました。

その生涯の記録は、出撃回数122回うち、大名屋敷95か所、奪った金額3,085両3分(判明分のみ)、という不滅の金字塔です。おそらく、被害総額は実際には4,000両近くにのぼるでしょう。

お上のお取り調べでは、そのうち3,121両2分をきれいに使い果たし、窮民になどに一文も施していません。

鼠小僧次郎吉の最期

お縄(逮捕)になったときは、深川富岡門前山本町ふかがわとみおかもんぜんやまもとちょう(江東区門前仲町、俗称で表櫓おもてやぐら裏櫓うらやぐら裾継すそつぎに区分け)の水茶屋主人、半次郎方に居候いそうろうしていました。

同年天保3年旧暦8月7日、市中引き回しの上、鈴が森で磔刑たっけい(はりつけ)。享年35、離婚暦3回でした。墓は本所回向院えこういんにあります。

歌舞伎の鼠小僧

黙阿弥が、ほぼ講談の筋通りに脚色、安政4年(1857)正月の市村座に「鼠小紋春君新形ねずみこもんはるのしんかた」として書き下ろし、上演しました。

芝居では、お上をはばかり、鼠小僧は稲葉幸蔵。

四代目市川小団次(栄太また栄次郎、1812-1866、高島屋)が扮しました。末の世話狂言の名人です。

蜆売りの少年は芝居では三吉。演じたのは五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903、音羽屋)で、当時満12歳。のちの明治の名優です。

後見人の中村鴻蔵と浅草蛤河岸まで出かけ、実際の蜆売りの少年をスカウトして、家に呼んで実演してもらったという逸話があります。

その子の六代目尾上菊五郎(寺島幸三、1885-1949、音羽屋)も、やはり子役の三吉役のとき、雪の冷たさを思い知らせるため、父親に裸足で雪の庭に突き落とされてしごかれたそうです。今なら完全にドメスティックバイオレンスですが。

ちなみに、本所回向院の鼠小僧の墓はむろん本物ではなく、供養墓です。

明治9年(1876)6月、市川団升なる小芝居の役者が、鼠小僧の狂言が当った御礼に、永代供養料十円を添え、「次郎太夫墳墓」の碑銘で建立したものです。

磔の重罪人は屍骸取り捨てが当たり前で、まともな墓など建てられなかったのです。



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やまおかかくべえ【山岡角兵衛】落語演目

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【どんな?】

角兵衛獅子は軽業芸が商売。
この噺は忠臣蔵物の講談が基。

【あらすじ】

浅野内匠頭たくみのかみの松の廊下刃傷にんじょう事件の後。

赤穂の浪士たちはあらゆる辛苦に耐え、ある者は町人に化けて吉良邸のようすを探り、仇討ちの機会を狙っていたが、その一人の山岡角兵衛がついに志を得ないまま病死した。

その妻のお縫は、女ながらも気丈な者。

なんとか夫に代わって主君の仇を報じたいと、吉良上野介のところにお妾奉公に入り、間者となった。

あと三日で上野介が米沢に出発することを突き止め、すわ一大事とこのことを大石内蔵助に知らせた。

そこで、元禄十五年十二月十四日。

茶会で吉良が在宅しているこの日を最後の機会と、いよいよ四十七士は討ち入りをかける。

その夜。

今井流の達人、美濃部五左衛門は、長屋で寝ていたが、気配に気づき、ひそかに主君上野介を救出しようと、女に化けて修羅場と化した屋敷に入り込んだ。

武林唯七たけばやしただしちに見とがめられて合言葉を
「一六」
と掛けられ、これはきっと賽の目だと勘づいたものの、あわてていて
「四五一、三二六」
と返事をしてしまう。

見破られて、かくなる上は破れかぶれと、獅子奮迅に暴れまわるうち、お縫が薙刀なぎなたを持って駆けつけ、五左衛門に斬りかかる。

しかし、そこは女、逆にお縫は斬り下ろされて縁側からまっさかさま。

あわや、と見えたその時、お縫はくるりと一回転して庭にすっくと立ち、横に払った薙刀で五左衛門の足を払って、見事に仕留める。

これを見た大石が
「えらい。よく落ちながらひっくり返った。今宵こよいの働きはお縫が一番」
とほめたが、それもそのはず。

お縫は、角兵衛の女房。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

忠臣蔵講談の翻案  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、忠臣蔵ものの講談を基にしたものです。

古い速記では、明治32年(1899)10月、「志士の打入り」と題した二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)、当時は初代三遊亭金馬でしたが、それも残っています。

その没後、息子の三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が高座に掛けましたが、二人の没後、後継者はありません。音源は円歌のものがCD化されています。

三代目小円朝によると、二代目のは、本来は松の廊下のくだりから始まり、討ち入りまでの描写が綿密で長かったとか。

明治32年の速記を見ると、脇筋で、親孝行の将軍綱吉(1646-1709)が、実母の桂昌院(1627-1705)に従一位の位階をもらって喜ぶくだりが長く、その後、刃傷から討ち入りまでの説明はあっさり流しています。

オチの「角兵衛」は角兵衛獅子で、「ひっくり返った」は角兵衛のアクロバットから。

「角兵衛獅子」と言ったところで、現代ではもう説明なしにはとうていわからなくなりました。角兵衛獅子については、「角兵衛の婚礼」をご参照ください。

武林唯七  【RIZAP COOK】

武林唯七の祖父は中国杭州ハンチョウ(旧名は武林ぶりん)から来た医家の孟二寛。医術と拳法で毛利家や浅野家に仕えました。唯七も拳法に長けていました。

美濃部五左衛門は抜刀居合術の達人ですから、拳法にも長けています。唯七、五左衛門、お縫の取り合わせは、剣の戦いばかりか、拳の戦いをも意味していたのでしょう。そこでお縫が軽業を使うわけですから、その視覚的効果は抜群です。

主人同様、不運な吉良邸  【RIZAP COOK】

吉良上野介屋敷は「北本所一、二の橋通り」「本所一ツ目」「本所無縁寺うしろ」「本所台所町横町」などと記録にあります。

俗にいう「本所松坂町2丁目」は、吉良邸が没収され、町家になってからの名称なので誤りです。

現在の墨田区両国3丁目、両国小学校の道をはさんで北向かいになります。路地の奥にわずかに上野稲荷として痕跡を留めていましたが、「上野」の二字が嫌われ、同音の「河濯」と碑に刻まれました。

明治5年(1772)に松坂町2丁目が拡張されたとき、その五番地に編入されましたが、長い間買い手がつかなかったといいます。

討ち入り事件当時は東西30間、南北20間、総建坪五500坪、敷地2000坪。

上野介が本所に屋敷替えを命ぜられ、丸の内呉服橋内から、この新開地に移ってきたのは討ち入り三か月前の元禄15年9月2日(1702年10月22日)。

事件当日の12月14日は、新暦では1703年1月30日(火曜日)で、普通言われている1702年は誤りです。旧暦と新暦のずれを考慮に入れないためのミスなのでしょう。当日の即死者十六人中に、むろん美濃部某の名はありません。

【語の読みと注】
浅野内匠頭 あさのたくみのかみ
刃傷 にんじょう
間者 かんじゃ:スパイ
武林唯七:たけばやしただしち
薙刀 なぎなた
角兵衛獅子 かくべえじし



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こまものやせいだん【小間物屋政談】落語演目

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【どんな?】

もとは世話講談。
農民や町人を描いたものです。
志ん生もまねていました。

別題:小間物屋小四郎 万両婿(講談)

【あらすじ】

京橋五郎兵衛町きょうばしごろべえちょうの長屋に住む、背負い(行商)の小間物屋、相生屋小四郎あいおいやこしろう

今度上方へ行って一もうけしてきたいというので、その間、留守に残る女房のお時のことを家主の源兵衛にくれぐれも頼んで旅立つ。

東海道を一路西に向かって、ちょうど箱根の山中に差しかかった時、小便がしたくなり、雑木林の中に分け入ると、不意に
「もし……お願いでございます」
と、弱々しい男の声。

見回すと、裸同然で松の根方に縛りつけられている者がある。

急いで縄を切って助けると、男は礼を言って、自分は芝露月町しばろうげつちょうの小間物屋、若狭屋わかさやの主人で甚兵衛という者だが、病身で箱根に湯治とうじに行く途中、賊に襲われて身ぐるみ剥がれ、松の木に縛られて身動きもならなかった、と語る。

若狭屋といえば、同業ながら行商の小四郎とは大違いで、江戸で一、二と聞こえた大店。

その主人が裸道中も気の毒だと同情した小四郎、金一両と自分の藍弁慶縞あいべんけいじまの着物に帯まで与えた。

甚兵衛は江戸へ帰り次第、小四郎の留守宅に借りたものを返しに行くというので、住所名前を紙に書いて渡し、二人は互いに道中の無事を祈って別れる。

さて、甚兵衛はその晩、小田原宿の布袋屋ほていやという旅籠はたごに宿をとる。

ところが夜中、病身に山中で冷えたのがこたえてか、にわかに苦しみだし、敢えなく最期をとげてしまった。

宿役人が身元調べに来て、身の回り品を調べた。

着物から江戸京橋五郎兵衛町という住所の書きつけが出てきたので、てっきりこの男は小四郎という小間物屋に違いない、と。

すぐに家主の源兵衛と女房お時のところに、死骸を引き取りに来るよう、知らせが届いた。

泣きじゃくるお時をなだめて、源兵衛が小田原まで死骸の面通しに行ってみると、小四郎が江戸を出る時着ていた藍弁慶の袷を身につけているし、甚兵衛そのものの面差おもざしが小四郎に似ていたこともあり、本人に間違いないと早合点、そのまま骨にして江戸へ持ち帰る。

三十五日も過ぎ、源兵衛はお時に、このまま女一人ではどんな間違いがあるかもしれないから、身を固めた方がいいと、せめて一周忌まではと渋るのをむりやり説き伏せ、小四郎の従兄弟いとこにあたる、やはり同業の三五郎という男と再婚させた。

三五郎にとって、お時はもとより惚れていた女。

かいがいしくお時のめんどうを見るので、いつしかお時の心もほぐれ、小四郎のことをようよう思い切るようになった。

そんなある夜。

「おい、お時、……お時」

表の戸をせわしなくたたく者がある。

不審に思ってお時が出てみると、なんと死んだはずのもとの亭主、小四郎の姿。

てっきり幽霊と思い、
「ぎゃっ」
と叫んで大家の家に駆け込む。

事情を聞いた源兵衛が、半信半疑でそっとのぞいてみると、まさしく本物。

本人は上方の用事が長引いて、やっと江戸へ帰り着いてみると自分がすでに死人にされているのでびっくり仰天。

小田原の死体が実は若狭屋甚兵衛で、着物は小四郎が貸した物とわかっても、葬式まで済んでしまっているから、もう手遅れ。

お時も、いまさら生き返られてももとには戻れない、とつれない返事。

完全に宙に浮き、半狂乱の小四郎がおそれながらと奉行所へ訴え、名奉行大岡越前守さまのお裁きとあいなる。

結局、奉行のはからいで、小四郎は若狭屋甚兵衛の後家でお時とは比較にならないいい女のおよしと夫婦となり、若狭屋の入り婿として資産三万両をせしめ、めでたくこの世に「復活」。

「このご恩はわたくし、生涯背負いきれません」
「これこれ。その方は今日から若狭屋甚兵衛。もう背負うには及ばん」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

講談からの翻案

講談「万両婿」を人情噺に翻案したものか、またはその逆ともいわれます。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、幕末から明治初期の五代目翁家さん馬(桂正吉、1847-1914、大阪の)の速記に、この噺が人情噺として載っていると語っていますが、現行の演出は、円生が、酔いどれ名人といわれた四代目小金井芦州(松村伝次郎、1888-1949)の世話講談「万両婿」を新たに仕立て直し、オチもつけたものです。

世話講談とは、対話を中心とした講談のことです。落語では当たり前でしたが、講談では筋を読んでいくのが中心でしたので、大きな進歩といえます。

ほかに、講釈師時代に芦州の弟子だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も、聞き覚えで演じていました。

背負い小間物屋

白粉、紅、櫛、こうがいその他、婦人用品を小箪笥の引き出しに分けて入れ、得意先を回ります。

その中には性具の「張り形」もあったため、「小間物屋 にょきにょきにょきと 出してみせ」というあやしげな雑俳もあります。

もちろん、出したのは商売物だけでは……なかったでしょうが。

箱根の湯治場

江戸から片道3日ないし4日の行程で、箱根七湯といい、それぞれ本陣(大名が使える公認宿)がありました。

湯治は七日間を単位に、一回り、二周りといい、最低三回りしなければ湯の効き目は出ないものとされました。

料金は、文政(1818-30)初年で三回りして三両といいますから、湯治も下層町人には行けて一生一度、多くは縁がないものでした。

五郎兵衛町

ごろべえちょう。京橋辺。鍜治橋の東。狩野屋敷の南にあり、東西に続く両側町。南は紺屋町、東は畳町、西は外堀端の通りで、鍜治橋御門外にあたります。中央区八重洲2丁目。

草創名主の中野五郎兵衛の住居があったことに由来するとのこと(東京府志料)。子孫は代々名主を世襲していました。

南裏を古着新道ふるぎじんみちと俗称したとか(御府内備考)。大正元年(1911)頃にはまだ12軒の古着商店があったそうです(京橋繁昌記)。小四郎の住所とするには説得力があります。

明治2年(1869)に南隣の狩野探原かのうたんげん(1829-66、鍛冶橋狩野家)屋敷を合併しています。

露月町

ろうげつちょう。芝辺。源助町の南、東海道沿いに位置する両側町の町屋です。「ろげつ」とも。港区東新橋2丁目、新橋4、5丁目。

東は陸奥会津藩松平中屋敷、南は柴井町、西は日蔭町通を境に御目付遠山家屋敷と旗本植村家屋敷。遠山家とは名奉行で知られる遠山景元の屋敷です。この町名を出すことで、名奉行や政談を想起させる仕掛けだったのかもしれません。

「ろ月町」と記したのが、宝永(1704-11)年間から「露月町」と改めたとのこと(文政町方書上)。寛永9年(1633)の寛永江戸図には「ろう月丁」と。

もとは日比谷御門内にあり、「老月村」と称していながら、徳川家康の関東入部で江戸城洲地区にともない、芝辺に移して「露月町」と改めたとも(新撰東京名所図会)。

このように、古町ながら、町起立、町名由来、草創人などは不明。

文政町方書上によれば、文政十年(1827)の統計は以下の通りです。

総家数は160あって、その内訳は
家持1
家主23
地借36
店借100
町内の家主、忠七の地内に出世稲荷
とのこと。

文政7年(1824)の『江戸買物独案内』には、鰻蒲焼き屋で尾張町(銀座辺)に出店した大和田兼吉がいるとのこと。

慶応3年(1867)には、中川喜兵衛が町内に江戸で最初の牛鍋屋を始めたそうです(芝区誌)。

一見平凡のようでありながら、少々進取の気性があって出世者も輩出しており、この噺にふさわしい町のように見えます。

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かいくさ【蚊いくさ】落語演目

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【どんな?】

家を城と見立てて蚊と一合戦を講じる噺。
黄表紙ばりのばかばかしさが真骨頂です。

別題:蚊のいくさ

【あらすじ】

町内の八百屋の久六。

このところ剣術に凝り、腕はからっきしナマクラのくせに剣客気取り。

横町の道場に通い詰めで商売を怠けっぱなしなので、がまんならなくなったのが女房。

亭主の剣術狂いのため家は左前で、去年の暮れに蚊帳を曲げて(質入れ)しまったため、この夏は親子で蚊に食われ通し。

ほとほと愛想が尽きたから、別れて子供をつれて家を出ると脅かされ、久さん、しかたなく先生の所にお断りに行く。

事情を聞いた先生、
「それなら今日から大名になったつもりで、蚊と一合戦してみろ」
とそそのかす。

家は城、かみさんは北の方、子供は若君。

家の表が大手、裏口が搦手、引き窓が櫓、どぶ板が二重橋。

「はあ、大変なことになりましたね」
「蚊といくさをするのだから、暮れ方になると幕下の大名の陣から、ノロシが上がるな」
「なんです、それは」

つまり、長屋中一斉に蚊燻しの煙が上がる。

そこで軍略で、久さんの「城」にだけノロシを上げない。

敵は空き城だと油断して一斉に攻めてくる。

そこを十分に引きつけて、大手搦手櫓を閉め、そこでノロシ(蚊燻し)を上げて、敵が右往左往するところで四方を明け放てば、敵軍は雪崩を打って退却する。

あとをしっかり閉めて
「けむくとも 末は寝やすき 蚊遣りかな」
で、ぐっすり安眠というわけ。

怪しげな戦法だが、久さん、すっかり感心して、家に帰るとすぐ籠城準備に取りかかった。

女房に紙屑駕籠を持ってこさせて兜。

手に埃たたきで刀。

気が違ったんじゃないのかいと言われても、何のその。

「やあやあ敵の奴ばら、当城にては今宵は蚊帳は吊らんぞや……それ、敵が攻めてきた。北の方、ノロシの支度を」
「なんだい、ノロシってのは」
「蚊燻しを焚けってんだ」

ゴホンゴホンとむせながら、それでもようやく敵を退散させて勝ちいくさ。

しかし、先生に、
「落武者が殿さまを暗殺しに来るかもしれないので、その時は一騎打ちをしなければならないから、寝てはいけない」
と言われてきた久さん、目をむいて待ち構えていると、やっぱり
「ブーン」
ときた。

ポンとつぶして、
「大将の寝首をかこうとは、敵ながらあっぱれ、死骸をそっちへ」
「ブーン」
「今度は縞の股引きをはいているから、雑兵だな。旗持ちの分際で大将に歯向かうとは……ポン」
「ブーン」
「ポン」
「ブーン」
「ポン」
「これ北の方、城を明け渡してよかろう」

底本:四代目柳亭左楽

【しりたい】

町人めらもヤットウ、ヤットウ

同じく町人が生兵法で失敗する「館林」同様、物騒な世情の中、百姓町人が自衛のため、武道を習うことが流行した幕末の作といわれます。

剣術は、町人の間では、気合声(ヤッ、トー)を模して「ヤットウ」と呼ばれました。

すでにサムライの権威は地にち、治安も乱れるばかりで、刀もまともに扱えない腰抜け武士が増えていました。

町人が武士を見限って自衛に走った時点で、封建的身分制度はくずれ、幕府の命運も尽きていたといえます。たわいない蚊退治の笑い話の裏にも、時代の流れは見えていました。

後半の久さんの蚊への名乗り上げは、明らかに軍記物の講釈(講談)を踏まえています。

蚊いぶし

蚊遣かやりのことで、原料はダジャレではありませんが、かやの木の鉋屑かんなくずです。

下町の低湿地帯の裏長屋に住む人々にとって、蚊とのバトルはまさに食うか食われるか、命がけでした。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の自伝『なめくじ艦隊 志ん生半生記』(朋文社、1956年→ちくま文庫、1991年)に、長屋で蚊の「大軍」に襲われ、息を吸うと口の中まで黒い雲の塊が攻め寄せてきたことが語られています。

昭和初期の本所あたりでのことです。

ついでに、ジョチュウギクを用いた渦巻き型の蚊取り線香は、次第に姿を消しつつありますが、大正中期に製品化された、画期的な商品でした。

落語の珍・防「蚊」対策

二階の窓に焼酎を吹きかけ、蚊が二階に集まったらはしごを外すという、マクラ小ばなしがあります。

これなぞは、頭の血を残らず蚊に吸い取られたとしか思えませんが、まあ、二階建ての長屋に住めるくらいだから富裕で栄養たっぷりなのでしょうから、蚊の餌食になるのも当然でしょう。

そのほか、「二十四孝」では、親不孝の熊五郎に大家が、呉猛という男が母親が蚊に食われないよう、自分の体に酒を塗り、裸になって寝たという教訓話をします。

バクチをすると蚊に食われないという俗信も、昔はあったといいます。

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さんぽういちりょうぞん【三方一両損】落語演目

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【どんな?】

柳原土手で拾った金が、なんと三両。
ホントの意味はこういうことなのね。

別題:一両損 三方目出度い

【あらすじ】

神田白壁町かんだしろかべちょうの長屋に住む左官さかんの金太郎。

ある日、柳原やなぎはら土手どてで、同じく神田竪大工町かんだたてだいくちょうの大工・熊五郎名義の書きつけと印形、三両入った財布を拾ったので、さっそく家を訪ねて届ける。

ところが、偏屈へんくつ宵越よいごしの金を持たない主義の熊五郎、
印形いんぎょうと書きつけはもらっておくが、オレを嫌って勝手におさらばした金なんぞ、もうオレのものじゃねえから受け取るわけにはいかねえ、そのまま持って帰れ」
と言い張って聞かない。

「人が静かに言っているうちに持っていかないとためにならねえぞ」
と、親切心で届けてやったのを逆にすごむ始末なので、金太郎もカチンときて、大げんかになる。

騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家おおやが止めに入るが、かえってけんかが飛び火する。

熊が
「この逆蛍さかぼたる店賃たなちんはちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかく言われる筋合いはねえ」
と毒づいたから、大家はカンカン。

「こんな野郎はあたしが召し連れ訴えするから、今日のところはひとまず帰ってくれ」
と言うので、腹の虫が納まらないまま金太郎は長屋に引き上げ、これも大家に報告すると、こちらの大家も、
「向こうに先に訴えられたんじゃあ、てめえの顔は立ってもオレの顔が立たない」
と、急いで願書を書き、金太郎を連れてお恐れながらと奉行所へ。

これより名奉行、大岡越前守おおおかえちぜんのかみ様のお裁きとあいなる。

白州しらすで、それぞれの言い分を聞いいたお奉行さま。

問題の金三両に一両を足し、金太郎には正直さへの、熊五郎には潔癖さへのそれぞれ褒美として、各々に二両下しおかれる。

金は、拾った金をそのまま取れば三両だから、都合一両の損。

熊も、届けられた金を受け取れば三両で、これも一両の損。

奉行も褒美ほうびに一両出したから一両の損。

したがって三方一両損で、これにて丸く収まるという、どちらも傷つかない名裁き。

二人はめでたく仲直りし、この後奉行の計らいで御膳が出る。

「これ、両人とも、いかに空腹でも、腹も身のうち。たんと食すなよ」
「へへっ、多かあ(大岡)食わねえ」
「たった一膳(=越前)」

【しりたい】

講談の落語化

文化年間(1804-18)から口演されていた古い噺です。

講談の「大岡政談おおおかせいだんもの」の一部が落語に脚色されたもので、さらにさかのぼると、江戸初期に父子で名奉行とうたわれた板倉勝重いたくらかつしげ(1545-1624)、重宗しげむね(1586-1656)の事績を集めた『板倉政要いたくらせいよう』中の「聖人公事せいじんくじさばき」が原典です。

大岡政談

落語のお奉行さまは、たいてい大岡越前守と決まっていて、主な噺だけでも「大工調べ」「帯久」「五貫裁き」「小間物屋政談」と、その出演作品はかなりの数です。

実際には、大岡忠相おおおかただすけ(1677-1751)が江戸町奉行職にあった享保きょうほう2年-元文げんぶん元年(1717-36)に、自身で担当したおもな事件は白子屋しらこや事件くらいです。

有名な天一坊てんいちぼう事件ほか、講談などで語られる事件はほとんど、本人とはかかわりありません。

伝説だけが独り歩きし、講釈師や戯作者げさくしゃの手になった『大岡政談実録』などの写本から、百編近い虚構の逸話が流布。

それがまた「大岡政談」となって講談や落語、歌舞伎に脚色されたわけです。➡町奉行

古いやり方

明治の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)は、このあとに「文七元結」を続ける連作速記で、全体を「江戸っ子」の題で演じています。

柳枝のでは、二人の当事者の名が、八丁堀岡崎町おかざきちょうの畳屋・三郎兵衛と、神田江川町かんだえがわちょうの建具屋・長八となっていて、時代も大岡政談に近づけて享保のころ、としています。

長八が金を落としてがっかりするくだりも入れてオチの部分を省くなど、現行とは少し異なります。

昭和に入って八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が得意とし、その型が現在も踏襲されています。

召し連れ訴え

「大家といえば親も同然」と、落語の中でよく語られる通り、大家おおや(家主いえぬし)は、店子たなこに対して絶対権力を持っていました。

町役ちょうやくとして両御番所(南北江戸町奉行所)、大番屋などに顔が利いた大家が、店子の不正を上書を添えて「お恐れながら」とお上に訴え出るのが「召し連れ訴え」です。

もちろん、この噺のように店子の代理人として、ともども訴え出ることもありました。

十中八九はお取り上げになるし、そうなれば判決もクロと出たも同然ですから、芝居の髪結新三かみゆいしんざのようなしたたかな悪党でも、これには震え上がったものです。

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ごかんさばき【五貫裁き】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

生業めざす熊を応援する大家と質屋との泥仕合。ケチ噺の典型です。

別題:一文惜しみ

【あらすじ】

四文使しもんづかいという、博打場の下働きをしている熊。

神田三河町かんだみかわちょうの貧乏長屋に住むが、方々に迷惑をかけたので、一念発起して堅気の八百屋になりたいと、大家の太郎兵衛に元手を借りに来た。

ケチな大家は奉賀帳ほうがちょうを作り、
「まず誰か金持ちの知り合いに、多めに金をもらってこい」
と突き放す。

ところが、戻ってきた熊は額が割れて血だらけ。

昔、祖父さんが恩を売ったことのある質屋、徳力屋万右衛門とくりきやまんえもん方へ行ったが、なんとたった一文しか出さないので
「子供が飴買いにきたんじゃねえッ」
と銭を投げつけると、逆に煙管きせるでしたたかぶたれ、たたき出されたというお粗末。

野郎を殺すと息まくのを、大家は
「待て。ことによったらおもしれえことになる」

なにを言い出すのかと思ったら
「事の次第を町奉行、大岡さまに駆け込み直訴じきそしろ」
と知恵をつけた。さすがは因業いんごうな大家、お得意だ。

ところが奉行、最初に銭を投げつけ、天下の通用金を粗略にした罪軽からずと、熊に科料かりょう五貫文、徳力屋はおとがめなし。

まだ後があり、
「貧しいその方ゆえ、日に一文ずつの日掛けを許す」

科料を毎日一文ずつ徳力屋に持参し、徳力屋には中継ぎで奉行所に届けるよう申し渡す。

夜が明けると大家は、
「一文は俺が出すから銭を届けてこい、ただし、必ず半紙に受け取りを書かせ、印鑑ももらえ」
と、念を押す。

徳力屋はせせら笑って、店の者を奉行所にやったが、
「代人は、天下の裁きをなんと心得おる。主人自ら町役人ちょうやくにん、五人組付き添いの上、持ってまいれッ」
と、しかりつけられたから大変。

たった一文のために毎日、膨大な費用を払って奉行所へ日参しなければならない。

奉行の腹がようやく読めて、万右衛門は真っ青。

その上、逆に自分が科料五貫文を申しつけれられてしまった。

それから大家の徳力屋いじめはいやまし、明日の分だといって、夜中に届けさせる。

店の者が怒って、
「奉行もへちまもあるか」
と口走ったのを、熊が町方定回じょうまわり同心に言いつけたので、さんざん油を絞られる羽目に。

大家は
「また行ってこい。明後日の分だと言え。徳力屋を寝かすな」

こうなると熊もカラクリがわかり、欲が出て毎晩毎晩ドンドンドン。

徳力屋、一日一文で五貫文では十三年もかかる上、町役人の費用、半紙五千枚……、これでは店がつぶれる、と降参。

十両で示談に来るが、大家が
「この大ばか野郎め。昔生きるか死ぬかを助けてもらった恩を忘れて、十両ぱかりのはした金を持ってきやがって。くそォ食らって西へ飛べッ」
啖呵たんかを切ったから、ぐうの音も出ない。

改めて熊に五十両払い、八百屋の店を持たせることで話がついた。

これが近所の評判になり、かえって徳力屋の株が上がった。

万右衛門、人助けに目覚め、無利子で貧乏人に金を貸すなど、善を施したから店は繁盛……と思ったら、施しすぎて店はつぶれた。

熊も持ちつけない金に浮かれ、もと木阿弥もくあみで、やがては行方知れず。

【しりたい】

これも講釈ダネ

大岡政談ものの、同題の講談を脚色したもの。講談としては、四代目小金井芦州(松村伝次郎、1888-1949)の速記があります。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は「一文惜しみ」の題で演じました。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)のは、五代目一龍斎貞丈(柳下政雄、1906-68)直伝で、設定、演題とも講談通りの「五貫裁き」です。

円生のやり方、談志のやり方

長講で登場人物も多く、筋も入り組んでいるので、並みの力量の演者ではこなせません。そのためか、現役では談志のほかはあまり手掛ける人はいません。

「一文惜しみ」としては、六代目円生以前の速記が見当たらず、落語への改作者や古い演者は不明です。

円生はマクラにケチ噺の「しわいや」を入れ、「強欲は無欲に似たり。一文惜しみの百両損というお噺でございます」と終わりを地の語りで結ぶなど、吝嗇りんしょく(けち)噺の要素を強くし、結末もハッピーエンドです。

談志は、講談の骨格をそのまま踏襲しながら、人間の業を率直にとらえる視点から逆に大家と熊の強欲ぶりを強調し、結末もドンデン返しを創作しています。

四文使い

博打場で客に金がなくなったとき、着物などを預かって換金してくる使い走りで、駄賃に四文銭一枚もらうところから、この名があります。

銭五貫の価値

時代によってレートは変わりますが、銭一貫文=千文で、一朱(一両の1/16)が三百文余りですから、五貫はおよそ五両一両あまりに相当します。

たけのすいせん【竹の水仙】落語演目

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【どんな?】

三島に投宿して酒びたりの左甚五郎は、宿の主人から追い立てを食らう。

甚五郎、中庭の竹を一本切って、竹造りの水仙に仕上げてみた。

翌朝、見事な花を咲かせた。竹なのに。これを長州公が百両でお買い上げ。

旅立つ甚五郎に、主人は「もう少しご逗留になったら」。

講談の「甚語郎もの」を借用した一席。オチはありません。

【あらすじ】

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎は言い渡した。

「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」

これはただ者ではないと、佐平が感嘆。

なんとその翌朝。

水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になった。

このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公は言った。

「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然とひとこと。

「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

甚五郎がいよいよ出発という時。

甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平はゲンキンなもの。

「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

【しりたい】

小さんの人情噺  

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。

古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸(椎名巌、1936-2018)がやっていました。

柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚 

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一節を落語化したものとみられます。

黄金の大黒」「」など、落語の「甚五郎もの」はいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「黄金の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があるんだそうです。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、「鼠」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご:宿屋、旅館

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