のざらし【野ざらし】落語演目



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

釣りの帰途、川べりに髑髏。
手向けの酒で回向を。
宵になれば。
お礼参りの幽霊としっぽりと。

別題:手向けの酒 骨釣り(上方)

あらすじ

頃は明治の初め。

長屋が根継ねつぎ(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくていい女のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島で釣りをしたら「間日まび(暇な日)というのか、雑魚ざこ一匹かからん」と、その帰り道、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかにあしが風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向たむけの回向えこうをしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それをまねて『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨がいこつの上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんなところに死骸をさらし、迷っていましたところ、今日、はからずもあなたのご回向えこうで浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音はいんにこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

※現行はここで終わり。

これを聞いていたのが、悪幇間わるだいこの新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間たいこでゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

しりたい

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛ちょうひが登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

男色めいたオチです。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『史記』『十八史略』の「鴻門こうもんの会」で名高い樊會はんかいが現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた男色めいたオチです。

この噺は、はじめから男色(釜掘り)がつきまとっていました。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若だんなが木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。「閨中のおとぎなどつかまつらん」「あんた、だれ?」「石川五右衛門」「ああ、やっぱり釜に縁がある」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものです。こちらも男色がらみ。どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」を、ちょっとまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻がうずくような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林屋正藏(不詳-不詳、沢善正蔵、実は三代目)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。これは陰気な噺。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。仏教がらみの噺の好みました。でも、陰気になる。

明治期に、それをまたひっくり返したのが、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)。明治の爆笑王です。

初代円遊は「手向たむけの酒」の題で演じています。

男色の部分を消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。円遊の「手向けの酒」が『百花園』に載ったのは明治26年(1893)のこと。

さらに、二代目三遊亭円遊(吉田由之助、1867-1924、実は四代目)が改良。八五郎の釣りの場面を工夫して、明るくにぎやかにしました。それ以降は、二代目円遊の形が通行します。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から現在にいたるまでは、初代円遊→二代目円遊の型が広まります。

明るくリズミカルな芸風で売った三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、端正な語り口の八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)までやらず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。現在はほとんどこのやり方が横行しています。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。

門跡さま

「門跡」の本来の意味は、祖師(宗派の教祖)の法灯(教え)を受け継いでいる寺院のこと。

京都には「門跡さま」は多数ありますが、江戸で「門跡さま」といえば、浄浄土真宗東本願寺派本山東本願寺のこと。これでは長すぎて言えません。一般には「浅草本願寺」と呼ばれていました。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が、誘われてこの寺院で節談説教(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)を聴いた際、説教僧が前座、二ツ目、真打ちの階級制度、高座と聴者の仕掛けなどが寄席とそっくりなことにびっくりした、という逸話が残っています。

浅草本願寺は、京都の東本願寺とは本院と別院の関係でしたが、昭和40年(1965)に関係を解消して、独立しています。通称も、浅草本願寺から東京本願寺へと変更されました。

「野ざらし」の江戸・明治期には、東本願寺の名称で、浄土真宗大谷派の別院でした。「門跡さま」で通っていたわけです。

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成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

あさとも【朝友】落語演目

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【どんな?】

仏教説話が原初の魂の入れ替わりが素材。
「伊勢や日向の物語」も味付けに。

別題:朝友ともふさ 冥土の雪

【あらすじ】

病気で、この世とおさらばした男。

気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。

うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。

よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。小日向水道町松月堂の娘だ。

再会を喜び合ううちに
「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいからあなたのそばに置いてください」
と、女が言う。

男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょうという者の息子。

いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と夫婦約束。

ついでに、意気揚々と三途さんずの川も渡ってしまった。

ところが、地獄では閻魔えんま大王がお里に一目ぼれ。

生塚しょうづかの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。

亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。

そこはさすがに金貸しの息子。

親父が棺に入れておいてくれた、娑婆しゃばのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。

たどりついた三途の川のほとり。

生塚の婆さんの家では、毎日毎日、あわれ、お里が婆さんに責めさいなまされている。

「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華えいようえいがは望み次第。玉の輿こしじゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」

婆さん、お里の襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。

折しも、降りしきる雪。

極楽の鐘の音がゴーン。

男が難なく塀を乗り越え
「お里さん」
「そういう声は康次郎さん」

急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだした。

そのとたん、娑婆しゃばでは「ウーン」とお里が棺の中で息を吹き返す。

それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。

生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。

来あわせた坊さんが
「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向ひゅうが松月朝友まつづきともふさという方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀ふんやのやすひで。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向こびなた松月堂しょうげつどう、向こうが伊勢町の文屋検校ぶんやけんぎょう。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」
「でも和尚さん、向こうの都合もあります」
「いや、幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」

出典:四代目橘家円喬『百花園』13巻124号 明治27年6月20日

【しりたい】

文屋氏の読み方

平安時代前期の歌人で六歌仙の一、文屋康秀(?-885?)。小倉百人一首でも知られています。

吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ  小倉百人一首22番

文屋ふんや氏は文室ふんや氏のこと。八色やくさかばねの第一位である真人まひとを天武天皇から賜った一族です。

文屋の読みは「ふみや」→「ふんや」と訛ったようです。江戸時代には「ぶんや」と読む人も出てきました。元のいわれがわからなくなったからなのでしょう。われわれ現代人と同じです。

この一族、スタートは官人=文人だったのでしょうが、地方に赴任するごとに武人の要素が濃くなっていきます。

寛平の韓寇(893-4)で活躍した文屋善友、刀伊の入寇(1019)で活躍した文室忠光などは同族だったといわれます。歴史学で使う「軍事貴族」に類する人々。武芸を好む貴族ですね。

文屋康秀は官人で歌人でしたが、これは平安初期だからで、その後の文屋氏=文室氏からは武人が多く輩出しているのです。

どちらにしても、「文屋」は「ふんや」と呼ばれていました。「ぶんや」ではありません。小倉百人一首の文屋康秀を「ぶんややすひで」と読む人はいません。

ただし、文屋康秀がいったいどんな人物だったのかは、よくわかっていません。現在では、小野小町や猿丸大夫といった伝説的な歌人としてとらえられているだけです。

噺のなりたち

文屋康秀を題材とする民間伝承に加えて、「日本霊異記」(景戒、822年頃)や「今昔物語集」(作者不詳、1120年頃)に多く見られる死人が蘇生して地獄のさまを語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。

二書とも唐の「冥報記」(唐臨選、7世紀半ば)の影響を強く受けた説話集です。「朝友」の原型となる話は「冥報記」にも載っているそうです。

江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の『軽口はるの山』中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)年刊『軽口夜明烏』中巻「死んでも盗人」が原話とされます。

前者では、幽霊がゴーストバスターに墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。

と、これはこれでつじつまは合っているのですが、文屋康秀が出てこないのが気がかりです。

そこで、『和漢三才図会』(寺島良安編著、1712年)。江戸時代の百科事典です。寺島は大坂の医師で、『三才図会』(明・王圻、1609年)に倣った大巻でした。三才とは天、地、人をさし、万物を意味します。なんでも、という意味ですね。この中の第71巻地理部「伊勢」の項目に「伊勢国安濃郡内田村天台宗長源寺の縁起」として載っています。

ここらへんは、二村文人氏の論考に従って、私も現物を確認していったまでのお話です。
長源寺の縁起譚は「雲林院」「西鶴名残の友」「国姓爺後日合戦」「たとへづくし」などにも使われているそうですから、寺島はそのような人口に膾炙された話を『和漢三才図会』にすくい取ったのでしょう。

「伊勢物語知顕抄」(和歌知顕抄とも、鎌倉期成立)は「伊勢物語」の注釈書ですが、ここには、伊勢の文屋吉員と日向の佐伯経基の話で使われています。

ここで文屋がやっと出てきました。

宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、これらの結果を咀嚼して、『和漢三才図会』を骨子としたうえで、「知顕抄」の説話を加味してこさえてのが「朝友」なのではないかと推測しています。

さらに。

二村氏によれば、文化12年(1829)刊の読本「伊勢日向 寄生木草紙」(栗杖鬼卵作)が、足利尊氏のお家騒動に「伊勢や日向の物語」のモチーフを取り込んでいるのだそうです。私は未見です。

この読本は、作者が「朝友」をつくるうえで参考にしたのかもしれません。

文屋吉員も佐伯経基も江戸の人にはピンときませんから、百人一首で名が知られた文屋康秀にして、親近感を与えようとしたのかと思います。

話のこさえ方そのものが「伊勢や日向」なんですね。

歌舞伎では、「伊勢日向物語」(大坂新四郎座、1730年)や「伊勢や日向の物語」(大坂中山文七座、1759年)などが上演されているそうです。

すべてに共通するのは、抜け殻の肉体に魂が入れ替わることで蘇生する、というモチーフです。

そんなところではないでしょうか。

お里が生塚の婆さんに雪責めにされるところは、新内の「明烏夢淡雪」(「明烏」参照)中の遊女浦里雪責めの場面を採ったものです。

魂が肉体から抜け出てなにやらの所作をする噺には「悋気の火の玉」があります。魂は登場しませんが、「粗忽長屋」もこの種の仲間に入れてよいでしょう。この噺は近代的な洗練を感じます。

上方噺には「魂の入れ替え」があります。

宇井無愁は「魂の入れ替え」と「朝友」を『落語のみなもと』(中公新書、1983年)で同列に論じています。たしかに同工の噺です。「魂の入れ替え」は柳家一琴師がやっています。

松月朝友

詳細は不詳です。

あらすじの参考にした四代目橘家円喬の明治27年(1894)の速記では、「ともふさ」とルビが振ってあります。

ただ、おもしろいことに、江戸期を通して、小日向には伊勢屋という質屋で財を成した大金持ちが住んでいました。土地持ちです。

小日向の伊勢屋。

うまく使えばよかったのかもしれませんが。

でも、「朝友」の作者はどうも、日向と伊勢が遠く離れていることに眼目を置きたかったようですから、小日向と日本橋伊勢町という、このくらいの距離感が欲しかったのでしょう。まあ、しょうがない。

高利貸し

民間では座頭金といいます。

盲人の位階で最下位の座頭が、溜め込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位の検校ともなれば、大名貸しで巨富を築くものも少なくありませんでした。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)作「真景累ヶ淵」の発端で、旗本・深見新左衛門の屋敷に、貸金の取り立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦も、この座頭金を営み、その金利は5両に1分で返済期限4月という、とんでもない高利でした。

生塚の婆さん

脱衣婆だつえばのこと。地獄の入り口、三途の川の岸辺で無一文の亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹えりょうじゅという木の上にいる懸衣翁けんえおう(奪衣婆の隣に座っている老人の鬼爺)に渡すのが仕事の鬼婆です。通行料の六文銭があれば、そのまま渡れます。

「生塚」は「正塚」とも書きますが、「三途河」がなまったものです。

水木しげるの怪奇漫画では常連ですね。

落語でも、「地獄八景」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場します。

「朝友」では本来の悪役ですが、ほとんどは、どちらかというと、コミカルな情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原・山名屋のやり手のおかやばばあです。

完全に絶えた噺、と思いきや

明治の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)以後、ほとんどやり手がなかったようです。

昭和になって、『名作落語全集』(騒人社、1929年)中に四代目円喬の速記が復刻されて以来、この噺は何度か活字化されています。でも、すべての活字はソースが円喬のものです。

四代目円喬以前も以後も、現在にいたるまで、音源も含めて、他の演者の記録はありませんでした。

地獄を脱出するサスペンスなど、なかなか捨てがたいので、どなたかがテキストレジーの上、復活してくれるとおもしろいのですがね。

と言っているうちに、時代はめぐりまして。

ところがなんとまあ、いまでは、桃月庵白酒柳家三之助柳亭左龍鈴々舎馬桜などがやっています。いやあ、これまたびっくり。至福の時代です。

文屋と朝友

円喬の速記によると、伊勢国(三重県)の文屋康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。

困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国(宮崎県)の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変わっていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという、奇妙キテレツな死人蘇生譚です。

円喬は、坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本については未詳です。

実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明。

わずかに、三河掾みかわのじょう(三河国の地方官の三席)となって赴任するときに、小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。

伊勢や日向

この噺は、「伊勢や日向」という俗諺(ことわざ)が下敷きになっています。

『岩波古語辞典 補訂版』には「伊勢」の項目に、「伊勢や日向」が説明されています。

物事の内容が食いちがって、まちがっていること。「伊勢や日向の物語」とも。

引用例は以下の通り。

げにげに、伊勢や日向のことは、たれかとさだめるべき  謡・雲林院

謡曲からとられているわけで、「伊勢や日向」は中世の戦乱期に生まれた俗諺なのでしょう。人の死が日常的にあった時代での、人々の切なる願いがこのような噺に姿を変えたのではないかと思います。

とはいえ、今では聴いたことも使ったこともないことわざですが、話のつじつまが合わないこと、物事の順序がよくわからないことのたとえで使われていたようです。

魂の入れ替え噺が伊勢町のせがれと小日向の娘との間で繰り広げられるのは、このことわざの落語らしい「本歌取り」です。

【参考文献】宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)、二村文人「落語と俗伝」(「國語と國文学」東京大学国語国文学会、1985年11月特集号)、関山和夫『説教の歴史的研究』(法蔵館 1973年)

【おことわり】「朝友」はなんと読むべきなのか。「あさとも」「ともふさ」と両方の読み方があるようです。本サイトが底本にしている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)では、当該頁(第3巻108頁下段)に、題名「朝友」のルビで「あさとも」と振られてあります。そうなのか、と思って噺を読んでいくと、本文の終わりに「松月朝友」の名が登場し、ルビは「まつゞきともふさ」とありました。表記の不統一でです。現代では許されません。厳密さに欠ける明治期らしい表記にあきれるべきなのか、そのおおらかさにほほえむべきなのか、はたまた、われわれのうかがい知れないところからの底意を汲みとるべきなのか。疑問は千々に乱れます。不勉強なわれわれのこと、この手の追究は遅々として進みません。いつの日かわれわれが腑に落ちるまでは、「朝友」の読み方を「あさとも」「ともふさ」と併記しておくことにします。ちなみに、「とも」は「ふたつがいっしょになる状態」、「ふさ」は「いくつかが集まる状態」が、古語としての解釈です。噺の真意をどこか暗示しているようです。ということは、おそらく「ともふさ→あさとも」と変遷していったのかなと、仮説も立てられます。この噺が流布されて以来百余年、「あさとも」の読みも通行していたわけですから、これを一方的に否定するのはいかがなものかと思うのです。

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評価 :2/3。

やすべえぎつね【安兵衛狐】落語演目

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【どんな?】

上方噺。
明治の中頃。
三代目柳家小さんが伝えました。

別題:道灌山 墓見 天神山(上方)

【あらすじ】

六軒長屋があり、四軒と二軒に分かれている。

四軒の方は互いに隣同士で仲がよく、二軒の方に住んでいる「偏屈の源兵衛」と「ぐずの安兵衛」、通称グズ安も仲がいい。

ところが、二つのグループは犬猿の仲。

ある日、四軒の方の連中が、亀戸に萩を見に繰り出そうと相談する。

同じ長屋だし、グズ安と源兵衛にも一応声をかけようと誘いにいくが、グズ安は留守で、源兵衛の家へ。

この男、独り者であだ名の通りのへそ曲がり。

人が黒と言えば白。

案の定、
「萩なんぞ見たってつまらねえ。オレはこれから墓見に行く」
と、にべもない。

四人はあきれて行ってしまう。

源兵衛、本当は墓などおもしろくないが、口に出した以上しかたがないと、瓢の酒をぶら下げて、谷中天王寺の墓地までやってきた。

どうせ墓で一杯やるなら女の墓がいいと「安孟養空信女」と戒名が書かれた塔婆の前で、チビリチビリ。

急に塔婆が倒れ、後ろに回ってみると穴があいている。塔婆で突っ付くと、コツンと音がするので、見ると骨。

気の毒になって、何かの縁と、酒をかけて回向してやった。

その晩。

真夜中に
「ごめんくださいまし」
と女の声。

はておかしい、と出てみると、じつにいい女。

実は昼間のコツで、生前酒好きだったので、昼間あなたがお酒をかけてくれて浮かばれたからご恩返しにきました、と言う。

あとはなりゆきで、源兵衛、能天気にもこの世ならぬ者を女房にした。

この幽霊女房、まめに働くが、夜明けとともにスーッと消えてしまう。

さて、グズ安。

ゆうべ源兵衛の家の前を通ったら、女の酌でご機嫌に一杯やっていたので、翌朝、嫌みを言いに行くと、実はこれこれだという。

ノロケを聞かされ、自分も女房を見つけようと、同じように酒を持って天王寺へ。

なかなか手頃な墓が見当たらず、奥まで行くと、猟師が罠で狐をとったところ。

グズ安、皮をむいちまうと聞いて、かわいそうだと無理に頼み、一円出して狐を逃がしてやる。

その帰り、若い娘が声をかけるので、グズ安はびっくり。

聞いてみると、昔なじみのお里という女の忘れ形見で、おコンと名乗る。

実はこれがさっきの狐の化身。

身寄りがないというので、家に連れていき、女房にした。

騒ぎだしたのが、長屋の四人。

最近、偏屈とグズが揃って女房をもらったのはいいが、片方は昼間見たことがない。もう片方は、口がこうとんがって、言葉のしまいに必ず「コン」。

これはどう見ても魔性の者だと、安兵衛が留守の間に家に押しかける。

「まあ、安兵衛は用足しに出かけたんですよ。コン」

やっぱり変。

思い切って
「あなたはいい女だけど、ひょっとして何かの身では」
と、言いも果てず、狐女房、グルグル回って、引き窓から飛んでいってしまった。

こうなると、亭主の安兵衛も狐じゃねえかと疑わしい。

そこで、近所のグズ安の伯父さんに尋ねるが、耳が遠くていっこうにラチがあかない。

思い切り大きな声で
「あのね、安兵衛さんは来ませんかね」
「なに、安兵衛? 安兵衛はコン」
「あ、伯父さんも狐だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

志ん生、極めつけの爆笑編  【RIZAP COOK】

上方落語の切りネタ(大ネタ)「天神山」を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、東京に移植したものです。

前半は「野ざらし」にそっくりで、実際、上方の「天神山」は、「骨つり」(野ざらし)に、「葛の葉子別れ」「保名」の芝居噺を即席に付けたものという、宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)の説がありますが、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)はこれを否定しています。

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の極めつけ。志ん生がどこからこの噺を仕込んだのかは不明です。

三代目小さんの「墓見」と題した明治40年の速記では最後に登場するのが、安兵衛の父親となっているほかはほぼ志ん生のものと変わらない演出です。

考えてみると、前半と後半がまったく別の話で、全体としてまとまりを欠く噺ですが、さすがに志ん生。

速いテンポとくすぐりにつぐくすぐりの連続で、いささかもダレさせないみごとな手練です。  

現役では、滝川鯉昇ほかが手掛けていますが、まあ、志ん生を超える気遣いはないでしょう。

志ん生が「葛の葉」の題で演じたことがあるという説がありますが、いつごろのことなのかわかりません。

「天神山」はオチが三か所  【RIZAP COOK】

本家・大阪の「天神山」は、桂米朝門下の二代目桂枝雀(前田達、1939-1999)、または三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)などが手掛けました。今も多くの噺家が演じています。

舞台は大坂・天王寺門前の安居の天神と、その向かいの一心寺の墓地。

主要キャストの「ヘンチキの源兵衛」の偏屈ぶりは、東京よりはるかに徹底的。

頭は半分伸ばして半分坊主、しびんに酒を入れ、おまるに飯を入れるえげつなさ。

上方は、そのヘンチキがシャレコウベを持ち帰り、夜中に現れた幽霊と夫婦になる段取りです。

オチは、演者がどの部分で切るかによって三通りに分かれます。

まず、東京同様、長屋の者が押しかけて正体がバレ、狐女房が「もうコンコン」と姿を消す部分。

ついで、こちらは東京にはない部分です。

女房に去られた保平(東京の安兵衛)が、障子に書き残された「恋しくば尋ねきてみよ南なる天神山の森の中まで」の歌を見て、狂乱して後を追うくだりで切ります。

ここは、浄瑠璃の『蘆屋道満大内鑑』「保名狂乱」のパロディー仕立ての芝居噺になります。

昔は、このくだりで「保名」の振りで立ち踊りする噺家も多かったとか。

オチは地口で、「蘆屋道満」「葛の葉」をもじり、「貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶ほったらかし」。

最後は「安兵衛狐」と同じ、長屋の者と保平の伯父のトンチンカンな会話で「あ、叔父さんも狐や」でオチ。

江戸名所、亀戸の萩  【RIZAP COOK】

亀戸天神は江東区亀戸3丁目にあります。春は梅、藤、秋は萩の名所としてにぎわいました。

狐釣り  【RIZAP COOK】

罠を仕掛けて狐を捕獲するのを狐釣りともいいました。

皮をはいで胴服、つまり狐皮の下着用に売るわけですが、西洋だとスポーツなのに対し、こちらはれっきとしたお仕事です。

「狐ェ捕ってどうすんです?」
「皮ァむくんだよォ」
「狐が痛がるでしょ」

そんな志ん生のやり取りが笑わせました。

志ん生のくすぐりから  【RIZAP COOK】

(長屋の某がグズ安の伯父さんに)
某「あこら、ほんとに聞こえねえんだ。やいじじい、ひとつなぐってやろうか」
伯「ふふーん、ありがとう」
某「あり……おめえみてえなものはね、あの、もうね、くたばっちゃえ」
伯「そう言ってくれんのはおまいばかりだ」
某「あ、しょうがないよこりゃ……自分で死ね」
伯「あは、それもいいや」

【語の読みと注】
塔婆 とうば
回向 えこう
嬶 かか

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

さんねんめ【三年目】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

逝かれた亭主。
出てこない女房。
しびれ切らした亭主は。
共にわけありで。

別題:茶漬け幽霊(上方)

あらすじ】  

ある夫婦、大変に仲むつまじく暮らしていた。

ある年、かみさんがふとした風邪がもとでどっと床につき、亭主の懸命の看病の甲斐なく、だんだん弱るばかり。

いよいよ今日か明日かという時になって、病人は弱々しい声で
「私が死んだ後、あなたが後添いをおもらいになると思うとそればかりが心残りでございます」
と言う。

「なにを言っている、あたしはおまえに万万が一のことがあっても、決して生涯、再婚などしない」
といくら言っても、
「いえ、あなたは必ず後添いをおもらいになります」
と繰り返すばかり。

あまりしつこいので亭主、
「そんなことはない。決してそんなことはないけれども、もし、あたしが後添いをもらうようなことがあったら、おまえ、婚礼の晩に化けて出ておいで。前妻の幽霊がとりついているようなところに嫁に来るような女はないから、そうすればどうでもあたしは独り身で通さなくてはいけなくなるんだから」
「それでは、八ツの鐘を合図に、きっと」
「ああ、いいとも」

えらいことを約束してしまったが、亭主のその言葉を聞くと、かみさんやっと安心したのか、にわかに苦しみだしたかと思うと、ついにはかなく息は絶えにけり。

泣きの涙でとむらいを出し、初七日、四十九日と過ぎると、そろそろ親類連中がやかましくなってくる。

まだ若いのだし、やもめを通すのは世間の手前よくない、いい人がいるから、ぜひとも再婚しろと、しつこく言われるのを、初めのうちは仏との約束の手前、耳を貸さなかったが、百か日にもなると、とうとう断りきれなくなる。

それはそうで、まさか先妻とこれこれの約束をしたから……などと、ばかなことは言えない。

いよいよ婚礼の晩になり、亭主、幽霊がいつ出るかと、夜も寝ないで待っていたが、八つの鐘はおろか、二日たっても、三日たっても、いっこうに現れないものだから、
「ばかにしてやがる。恨めしいの、とり殺すの、と言ったところで息のあるうちだけだ」

それっきり先妻のことは忘れるともなく忘れ、後妻もそれほど器量が悪いという方ではないから、少しずつなじんでいくうちに、月満ちて玉のような男の子も生まれた。

こうして、いつしか三年目。

子供の寝顔に見入っているうち、ふと先妻のことを思い出している。

と、どこで打ち出すのか、八つの鐘がゴーン。

急にブルブルッと寒気がきたので、これはおかしいと枕元をヒョイと見ると、先妻の幽霊が髪をおどろに振り乱して、恨めしそうにこっちを見ている。

「……あなた、まあ恨めしいお方です。こんな美しい方をおもらいになって、かわいい赤ちゃんまで……お約束が違います」
「じょ、冗談言っちゃいけない。おまえが婚礼の晩に出てくるというから、あたしはずっと待っていたんだ。子供までできた後に恨みを言われちゃ困るじゃないか。なぜもっと早く出てこない」
「それは無理です」
「なぜ?」
「私が死んだ時、坊さんにしたでしょう」
「ああ、親戚中が一剃刀ずつ当てた」
「坊さんでは愛想を尽かされるから、髪の伸びるまで待ってました」

しりたい】  

「原作者」は中興の祖  【RIZAP COOK】

桜川慈悲成さくらがわじひなり(1762-1833)が、享和3年(1803)刊の笑話本『遊子珍学文ゆうしちんがくもん』中の「孝子経曰、人之畏不可不畏」が原作です。

慈悲成は、本業の落語はもちろん、黄表紙、笑話本、滑稽本の執筆から茶道、絵画、狂歌と多芸多才、江戸のマルチタレントとして活躍した人でした。

これは、やもめ男が昼飯を食っていると、ドロドロと死んだ女房が現れたので、幽霊ならなぜ夜出てこないととがめると、「だってえ、夜は怖いんだもん」というオチ。

上方で演じられる「茶漬け幽霊」は、「昼飯中」が「茶漬け中」に変わっただけで、大筋とオチは同じです。

「髪がのびるまで待っていた」は、「夜は怖い」の前の幽霊の言い訳で、東京の「三年目」は、ここで切っているわけです。

三年目とは  【RIZAP COOK】

今でいう三周忌(三回忌)です。

『十王経』という仏教の啓蒙書に、七七忌(四十九日)、百カ日、一周忌など忌日、法事の規定があるのが始まりです。

坊さんにする  【RIZAP COOK】

江戸時代までは、髪剃こうぞりといいました。

男女を問わず、納棺の直前にお坊さんに剃髪ていはつしてもらう習慣がありました。

東は悲話、西はドライ  【RIZAP COOK】

東京の「三年目」では、亭主は約束を守りたかったのに、周囲の圧力でやむなく再婚する設定です。

それだけに先妻に未練があり、オチでも「すれ違い」の悲劇が色濃く出ます。

これに対し、上方の「茶漬け幽霊」は、男は女房のことなど小気味いいほどきれいに忘れ、すぐに新しい女とやりたい放題。薄情でドライです。

幽霊が出るのが「茶漬け中」というのもふざけていますし、オチも逆転の発想で笑わせ、こっけい噺の要素が強くなっています。

バレ噺「二本指」  【RIZAP COOK】

類話に「二本指」という艶笑小咄があります。

れぬいたかみさんがあの世に行き、ある夜化けて出てきて、「あたしが死んだから、おまえさんが浮気でもしてやしないかと思うと、心配で浮かばれないよ」と愚痴ぐちを言います。あんまりしつこいので、めんどうくさくなった亭主、そんなに信用できないならと、自分の道具をスパッと切って渡しますが、翌晩また現れて、「あと、右手の指が二本ほしい」

二代目露の五郎兵衛(明田川一郎、1932-2009)が「指は知っていた」の題で演じました。逸物をチョン切るときの表情が抱腹絶倒です。

円生、志ん生のくすぐり  【RIZAP COOK】

●円生

(マクラで、幽霊を田舎言葉で)「恨めしいぞォ……おらァはァ、恨めしいで、てっこにおえねえだから……生き変わり死に変わり、恨みを晴らさでおかねえで、このけつめど野郎」

土左衛門になると、男は下向き、女は上向きで流れてくる。この間横になって流れてきたので、聞いてみたらゲイボーイ。

「ゲイボーイ」とな。いまじゃ、言いません。表現、まずいっす。

●志ん生

(亭主が幽霊に)「そんなわけのわからねえ、ムク犬のケツにのみがへえったようなことを言ったって、もうダメだよ」

それでも、この2人が先の大戦後では「三年目」の双璧でした。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【RIZAP COOK】

はんごんこう【反魂香】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

妖しく艶のある降霊の夕べも、落語になると、ほらこの通りに。

別題:高尾名香(上方)

【あらすじ】

浪人島田重三郎は、吉原で全盛の花魁、高尾太夫と深く言い交わした仲だったが、その高尾に仙台の伊達綱宗公がご執心。

側女にしようと言い寄ったが、高尾は恋人に操を立ててどうしてもうんと言わない。かわいさ余って憎さが百倍、逆上した殿さまに、哀れ高尾はつるし斬りというお手討ちにあってしまう。

数年の後、今は世をはかなんだ重三郎は本所の棟割長屋に裏店住まい。

夜は香をくべて南無阿弥陀太と念仏三昧で、ひたすら高尾の菩提を弔っている。

重三郎が夜な夜なたたく鉦(かね)の音で、長屋の連中が眠れなくて困るというので、月番のガラ熊が代表で掛け合いにやってくる。

「せめて昼間だけにしておくんなさい」とすごむ熊に、「いや、それができぬわけというのは」と、重三郎が打ち明けた秘密がものすごい。

自分はこれこれこういう出自の者だが、この香は実は魂呼び寄せるという霊力を持った反魂香という天下に二つとないもので、夜半にこれをたき鉦をたたくと、まぎれもない亡き高尾の姿がスーッと現れるというのだ。

熊公、半信半疑で恐いもの見たさ、真夜中に「実演」を見せてもらうことになった。

当夜。

まさしく重三郎の言葉通り、香の煙の上に、確かに女の姿。

重三郎が「そちゃー、女房高尾じゃないか」

この世ならぬ声で唱えると、安心したようにその姿はかき消すごとく消えてしまう。

ガラ熊も三年前に女房のお梅を亡くし、今はやもめの身。

ぜひ香を分けてほしいと頼むが、重三郎は、これだけは命に代えても譲れない、と受け付けない。

しかたなく、ハンゴンコウというくらいだから、ひょっとして薬屋にでも売ってやしないか、と出かけた熊、越中富山の反魂丹とあるのを間違えて、喜んで山ほど買ってくると、さっそく、その夜「実検」に取りかかった。

きんたま火鉢に炭団をおこしてくべると、モウモウと煙。

「そちゃー、女房高尾じゃないか」
と、むせながら唱えるが、出るのは煙ばかり。

こりゃ少しずうずうしかったかと、今度は
「そちゃー、女房お梅じゃないか」

女房は二の次である。

そのうち表から
「熊さん、熊さん」
の声。

「しめた。そちゃー、女房お梅じゃないか。煙ったいから表口から回ってきたよ」

ガラッと戸を開けると隣のかみさんが
「困るよ。長屋中煙だらけじゃないか」

【しりたい】

ルーツは中国の故事  【RIZAP COOK】

白居易(白楽天)の「李夫人詩」によると、反魂香は、漢の武帝(前156-前87)が、愛妾の李夫人の魂をこの世に呼び戻そうと、方士(呪術師)に命じて作らせたもの、とされます。

この伝説自体が遠い原話になるわけです。

反魂香は返魂香ともいい、芳香を放つ「返魂樹」なる木から作られたとか。

日本の文芸作品にも、近松の浄瑠璃「傾城反魂香」、上田秋成の怪談読本『雨月物語』中の「白峰」など、さまざまな形で登場します。

反魂香を焚き、霊が現れる図は、安永9年(1780)刊の鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』に収録されています。

現在、『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)で見ることができます。

原話二題  【RIZAP COOK】

直接には、寛延4年(1751=宝暦元)刊の漢文体笑話集『開口新語』中の小咄が原型に近いものです。

これは、遊郭に入りびたって金がなくなり、見世からお出入り禁止になった青年が、花魁恋しさのあまり悶々としたあげく例の漢の武帝の故事を思い出します。

で、昔、花魁からもらった恋文を燃やし、一念によって花魁の姿を見ようとしますが、間違って債権者のリストを燃やしたので、たちまちに煙の中から借金取りが雲霞のごとく現れるというお笑いです。

どのみち、これも中国種です。

もう一つ、天明元年(1781)刊『売集御座寿』中の「はんごん香」になると、やや現行に近くなります。

死んだ女房にもう一度逢いたいと恋焦がれる男。友達の勧めで、薬屋で反魂香を買い、墓場で焚くと、アーラ不思議、墓石がガタガタ動きます。喜んで、もう百匁買って焚けば姿が見えると、家に金を取りに戻ると母親が「さっき地震があったけど、どこにおいでだえ」

そちゃ、女房可楽じゃないか  【RIZAP COOK】

もともとは上方落語です。古い上方の演題は「高尾名香」。万延2年(1861=文久元)の大坂の桂松光のネタ帳『風流昔噺』にあります。

「高尾はんごん丹間ちがい、但しはみがき売」と。

明治中期に東京に移植され、二代目柳家(禽語楼)小さん、三代目小さんによって磨かれました。昭和から戦後にかけ、八代目三笑亭可楽が得意にし、高弟の三笑亭夢楽に継承。八代目林家正蔵(彦六)も演じました。

音源は長らく可楽のものだけでしたが、最近は夢楽、古今亭志ん朝のものもあります。

「反魂香」のやり方で、声色で故人の落語家を次々に霊界から呼び出すという趣向もありました。

これをやったのは、確か夢楽だったと記憶しますが、今では当人が呼び出される方に回っているのは世の流れ、皮肉なものです。

高尾太夫は最高名跡  【RIZAP COOK】

高尾は、三浦屋だけが使える太夫の名跡です。

三浦屋は歌舞伎十八番「助六」で名高い吉原の大見世でした。いわば商標登録済み。

京・島原の吉野太夫と東西の横綱に並立します。吉原のシンボル、太夫という花魁の最高位の、そのまたトップに立つ大名跡だったわけです。

代々名妓が出て、七代または十一代まであったともいわれていますが、その実状はどうもはっきりしません。

この噺の伝説に出る、俗にいう「仙台高尾」も諸説あります。

まあ、伝説の美女は謎に包まれていた方がより想像を駆り立てられてよいものです。

というか、高尾については全くと言っていいほど史的に明らかにされていないのが現実です。

「高尾」代々の通称  【RIZAP COOK】

高尾代々については、資料によって説が違いますが、通称だけを記すと、三田村鳶魚の「高尾考」では次のように記されています。

こんなものしか知るよすがはありませんが、これも頼りない論考であることは明らかです。

妙心高尾-万治=仙台高尾-水谷高尾-浅野高尾-紺屋高尾-榊原高尾-播州高尾

七代から九代は不明、で、十一代目の奇行と不行跡により、寛保元年(1741)に高尾の名跡は断絶したとあります。

『洞房語園』では、初代、二代目は同じですが、三代目を西条高尾、四代目を水谷高尾、五代目浅野高尾、六代目駄染(=紺屋)高尾、七代目榊原高尾で、七代目で絶えたとしています。

以上は、世迷言のようなものでまったくあてにはなりません。

書いていておのれの未熟に恥ずかしくなります。

もっと詳しく世迷言をお知りになってもよいという方は、「紺屋高尾」をお読みください。

反魂丹  【RIZAP COOK】

反魂香は中国由来のもととは上に記しましたが、ならば、反魂丹とはなにか。

オカルトじみた名ですが、要するに、毒であの世に行きかけた命を、シャバに呼び戻す霊薬、という、反魂香と同じような丸薬だったようです。

木香、陳皮、大黄、黄連、熊胆などを原料にして、霍乱、癪、食傷などに効く薬で、「返魂香」とも記したそうです。

鎌倉期に宋から足利家に伝わり、足利家に組み込まれた畠山家に伝わり、江戸期には畠山の領国だった富山藩で調製して薬売りが全国に広めました。

江戸では、柳原同朋町の心敬院が調製。それを、芝の田町四丁目、堺屋が販売していました。

香具師の松井源水は、曲独楽芸の大道芸で売っていたそうです。

【語の読みと注】

花魁 おいらん
操 みさお
三昧 ざんまい
木香 もっこう
陳皮 ちんぴ
大黄 だいおう
黄連 おうれん
熊胆 ゆうたん
霍乱 かくらん:日射病、急性腸カタル
癪 しゃく:胃けいれん
食傷 しょくしょう:食あたり
松井源水 まついげんすい:曲独楽芸
独楽 こま
心敬院 しんぎょういん

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ゆうじょかい【幽女買い】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

遊女と幽女。
ただのしゃれ。
暇人の手わざでなけりゃあ。
こんな噺は始まりません。

別題:魂祭 亡者の遊興

【あらすじ】

急に暗いところに来てしまった太助、三月前に死んだはずの源兵衛に声をかけられてびっくり。

「おめえは確かに死んだよな」
と念を押すと
「おめえ、おれの通夜に来たろ」

太助が通夜の席で
「世の中にこんな助平で女郎買いの好きな奴はなくて、かみさんは子供を連れて出ていくし、これ幸いと女を次々に引きずり込んだはいいが、悪い病気をもらって、目はつぶれる、鼻の障子は落ちる、借金だらけで満足な葬式もできない始末だから、どっちみち地獄おちは間違いない。弔いはいいかげんにして、焼いて粉にして屁で飛ばしちまおう」
とさんざん悪口を言ったのを、当人に全部聞かれている。

死骸がまだそこにあるうちは聞こえるという。

太助、死んだ奴がどうしてこんなところにいるのか、まだわからない。

「てめえも死んだからヨ」
「おれが死んだ? はてな」

そう言われれば、かみさんが枕元で医者に
「間違いなく死にました? 生き返らないでしょうね?……先生、お通夜は半通夜にしてみんな帰しますから、あの、今晩……」
なんぞと抜かしていたのを思い出した。

「ちきしょうめッ」
と怒っても、もう後の祭り。

ここのところ飢餓や地震で亡者が多くなり、閻魔えんまの庁でも忙しくて手が回らず、源兵衛も「未決」のまま放っておかれているという。

浄玻璃じょうはりの鏡も研ぐ時間がないため、娑婆しゃば悪業あくごうがよく写らないのを幸い、そのうちごまかして極楽へ通ってしまう算段を聞き、太助も一口乗らせてもらうことにした。

お互いに死んだおかげで、すっかり病気も治って元気いっぱい。

白団子をさかなに祝杯をあげるうち、こっちにも吉原ならぬ死吉原があり、遊女でなく幽女買いができるので、ぜひ繰り込もうとうことになった。

三枚駕籠さんまいかごの代わりに早桶はやおけ大門おおもんに乗りつけると、人魂ひとだま入りの提灯ちょうちんがおいでおいで。

ここでは江戸町えどちょう冥土町めいどちょう揚屋町あげやまちはあの世町。

見世も、松葉屋は末期屋まつごや、鶴屋は首つる屋と名が変わる。

女郎はというと、張り見世からのぞくと、いやに痩せて青白い顔。

ここではそれが上玉じょうだまだとか。

女が
「ちょいとそこの新亡者しんもうじゃ、あたしが往生さしてあげるからさ」
と袖をひくので揚がると
「へいッ、仏さまお二人ッ」

わっと陰気に枕団子の付け焼きで、まず一杯。

座敷では芸者が首から数珠じゅずをぶらさげ、りんと木魚もくぎょ
「チーン、ボーン」。

幇間たいこ
「えーご陰気にひとつ」
と、坊主姿で百万遍ひゃくまんべん

お引けになると、御詠歌ごえいかが聞こえ、生あたたかい風がスーッ。

「うらめしい」
「待ってました。幽ちゃん」

夜が明けると
「『おまはんが好きになったよ』って女が離れねえ。『いっそ二人で生きたいね』『生きて花実はなみが咲くものか』なんて」
と妙なノロケ。

帰りがけにのどがかわいたので、「末期の水」を一杯のみ干し、
「やっかいになった。また来るよ」
「冥土ありがとうございます」

表へ出ると向こうから
「お迎え、お迎え」

しりたい

縁起の悪さで五つ星!

上方落語の「けんげしゃ茶屋」と並び、私(高田)としては正月の初席でやってほしい噺の双璧そうへきなのですが、立川談志のあとはなぜか、ほとんどやり手がなさそうなのが残念しごく。

談志演出での、主人公二人の、地獄におちて当然の強悪ごうあくぶりには本当に感服させられました。

とりわけ、「焼いて屁で飛ばしちまう」には笑えます。

後半は、単に現実の茶屋遊びを地獄に置き換え、縁起の悪い言葉を並べただけで、ややパワーが落ちますが、談志が前半の通夜の太助の悪口あっこうと、女房と医者のちちくりあいを創作しただけで、この噺は聴くに値するものになりました。

どなたか、後半をもう少しおもしろくつくってもらえればいいのですが。

浄玻璃の鏡

地獄の閻魔えんまの庁で、亡者もうじゃ娑婆しゃばでの行状ぎょうじょうをありありと映し出す鏡。

昔の鏡は金属製でくもりやすく、そのつど鏡研師かがみとぎしがせなければなりませんでした。

三枚駕籠

三枚肩さんまいかたともいい、一丁いっちょう駕籠かごに三人の駕籠舁かごかきが付き、交代で担ぎます。急用のとき、またはくるわ通いで見栄みえを張る場合などに雇いました。

お迎え

盆に、精霊流しょうりょうながしの余りをもらい歩く物ごいの声と、吉原で茶屋の者が客を迎えに来る声を掛けたものです。

古いやり方と速記

明治中期、「魂祭たままつり」の題で演じた六代目桂文治ぶんじ(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)、「亡者もうじゃ遊興あそび」とした二代目三遊亭小円朝こえんちょう(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)の速記が残っています。

文治では、地獄の茶屋で、隣のもてぶりに焼き餅を焼き、若い衆に文句を言う官員と職人の二人を登場させていますから、あるいはこの噺は「五人廻し」のパロディーとして作られたのかもしれません。

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へっついゆうれい【へっつい幽霊】落語演目

 



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【どんな?】

昔は、へっついから幽霊がよく出たもんです。

そう、出そうでしょ、あそこ。

あらすじ

ある道具屋から買ったへっつい(竃=かまど)から幽霊が出るというので、買う客買う客みな一日ともたずに青い顔で返品に来る。

道具屋の親方、毎日一分二朱で売って三割安で戻ってくるから、初めはもうかると喜んでいたが、そのうち評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。

困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいいばかがいたら、三両付けて引き取ってもらうことにした。

これを聞きつけたのが裏の長屋に住む遊び人の熊五郎。

「幽霊なんざ、目じゃねえ」
とばかり、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳兵衛さんを誘って、半分の一両二分もらった上、とりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。

こわがる徳さんに、幽霊は自分が引き受けて、もうけは折半せっぱんするからと因果いんがを含めて、二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にぶつけた。

その拍子に転がり出たのが、なんと三百両の大金。

「ははァ、これに気が残って出やがるんだ」
と合点して、その金を折半、若旦那は吉原へ、熊公は博打場ばくちばへそれぞれ直行したが、翌日の夕方、帰ってみると二人ともきれいにすってんてん。

しかたがないから寝ることにしたが、その晩、徳さんの枕元へ青い白いやつがスーっと出て
「金返せェ」

「ギャーッ」
と叫ぶのを飛び込んできた熊公がなだめすかし
「こりゃあ、金をたたき返してやらないと毎晩でも出るな」
と思案する。

翌日。

徳さんの親元から三百両を借りてきた熊、へっついを自分の部屋に運び込むと、夕方から
「出やがれ、幽霊ッ」
とどなっている。

うしどきになると、へっついから青白い陰火いんかがボーッと出て
「へい、お待ちどうさま」

「鰻ィあつらえたんじゃねえや、うらめしいとかなんとか言え」
と毒づくと
「へえ、それが恨めしくないんで」
とくる。

そこで幽霊が「身の下」はないから身の上を語るところによれば、生前は鳥越とりこえに住んでいたとめといって、表向きは左官さかんで裏は博打打ち。

それも、ちょうよりほかに張ったことはないそうな。

ある日。

めずらしく賭場とばで三百両もうけたが、友達が借りに来てうるさいので、金をへっついの中に隠したまま、その夜フグに当たってあえない最期さいご、という次第。

熊は
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、百五十両ずつ立てんぼだ」
とむりやり半額にして返してやる。

「おめえ、不服か。実はこっちも心持ちが中途半端でいけねえ。いっそ、どっちかへ押しつけちまおう」
「ようがす」

熊の提案に、幽霊もかつては玄人くろうとなので、興奮して手をユラユラさせながら承知した。

二ッ粒の丁半で、出た目は半。

幽霊は丁しか張らないので、熊の勝ち。

「親方、もう一丁いっちょう頼みます」
「かんべんしてもらおう。もうてめえに金がねえじゃねえか」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」

しりたい】 

原話は墓で博打

安永2年(1773)刊の『俗談今歳花時ぞくだんことしばなし』中の「幽霊」という小ばなしが原話です。

これは、火事で「真黒やき」になった仲間の一周忌追善ついぜんに、博打びたりだった故人をしのび、墓場でチョボイチをご開帳していると、懐かしいサイの音に誘われ、当人が幽霊となって出現。さっそく仲間に加わって、死装束しにしょうぞくをカタに三百文張りますが、あえなく負けて意気消沈、早々と消え支度。「ナゼもっとせ(し)ないぞ」「イヤモ(う)、幽霊(=ゆうべ)も三百はりこんだ」

これは、寒中に裸で物ごいするすたすた坊主が唄って歩く「夕べも三百張り込んだ」のもじり、ダジャレにすぎません。まことにどうも、バクチあたりなことで。

上方落語を東京に

この噺も、東京に残る噺の多くと同じく上方種で、上方落語「竃の幽霊」または「かまど幽霊」を明治末か大正初期に、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移したものです。

上方のオチは、熊が巻き上げた金を元手に賭場で奮戦していると、またまた幽霊が出現。「まだこの金に未練があるのか」「いえ、テラをお願いに参じました」となります。

寺と博打のテラ銭を掛けたもので、前に金を巻上げた後、熊が幽霊に、石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏じょうぶつしろと言い渡した言葉を受けてのものです。

上方のやり方では、熊は完全にイカサマを使うことになっていて、そのへんが東京と違ってあざといところ。

東京でも五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は、このサゲを用いていました。

円生と三木助が双璧

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目小さんも演じましたが、レコード、速記の数からも、戦後はやはり六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)がこの噺の双璧そうへきといえるでしょう。

なかでも三木助は、幽霊に仰天してへっついを返しに来る男を大阪弁に変え、いちいち言葉尻に「道具屋」「道具屋」とつけるなど、独自の滑稽味を出して十八番としました。

リアルはご法度

ただ、この三木助は若い頃、身を持ち崩して「隼の七」と異名を取った本物の博徒だったこともあり、熊の目つきのこわさや、あまりにもリアルなサイを振る動作が、客や楽屋内に薄気味悪がられ、初期の評判はよくなかったようです。

現に、四代目小さんがこの噺について、「サイを振る手つきはまずくていい、こういうところは人にほめられるな」と戒めています。これは同じ博打噺の「狸賽」などでも同じでしょう。

「クマ」五郎は普通名詞?

阿佐田哲也(1929-89)の小説で、雀ゴロ(麻雀専門のバイニン、博打打ち)が「クマゴロウ」と呼ばれていました。

博徒、特にイカサマ師の異称を「クマ」と呼ぶのは相当古くかららしく、細工を施してあるさいを「熊女」などともいいました。

そのせいか、「竃幽霊」の主人公は東西問わず、誰が演じても熊五郎です。

三代目三木助の人物設定では、熊は白無垢鉄火しろむくてっか、つまり表面は堅気の素人を装って、裏に回れば遊び人ということにしてあります。

「クマ」の語源はよくわかりませんが、あるいは、熊手でかき寄せるように賭場でテラ銭をさらうところからきているのかもしれません。

阿佐田哲也について少々

今は昔。本名は色川武大。

『金瓶梅』の武大郎からつけられた名前だと本人は言っていましたが、元海軍大佐の親父がそんなしゃれたことをするものかどうか。

牛込区(新宿区)矢来町の生まれで、博才と文才で人生と貫いた稀有な人です。

博打小説では阿佐田哲也、娯楽小説では井上志摩夫、マージャン講座ものでは雀風子、その他の小説では色川武大、とそれぞれ書き分けていました。

1978年には色川武大名義で直木賞を。89年4月、岩手県の新居に移って10日後に亡くなってしまいました。

なんといっても。落語絡みでこの人のすごいのはこれ。

71年8月31日の国立劇場小劇場での第五次落語研究会、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の最後の高座となった「大仏餅」の、「神谷幸右衛門」の名を言い出せずに絶句した、あの場面に居合わせていたことでしょう。

こんな歴史的瞬間に立ち合える人の特異性は、なんと申しましょうか、やはりものすごくツキを呼んでくる人なのだと思います。

この人そのものが、まるで賽の目と運否天賦の転がりだったのではないでしょうか。世間や人生というものはなかなかに侮れません。



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