たがや【たがや】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

川開き。
魔封じの花火。
ごったがえす両国橋で職人と武士のいさかいが。
江戸前、夏の噺です。

あらすじ

安永年間(1772-81)、五月二十八日は両国の川開き。

両国橋の上は見物人でごったがえす。

花火をめでると「玉屋」の声しきり。

本所方向(東側)から旗本の一行。

前には二人の供侍、中間は槍を持っている。

「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。

反対側の広小路方向(西側)から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。

「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。もっと早く気がつきゃァよかったなあ。といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。しかたがねえ。通してもらおう。すみません」

もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。

恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り、
「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」

たがやはあやまるが、侍は容赦しない。

開き直ったたがや、
「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」

必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。

最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。

突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。

まわりにいた見物人が
「上がった上がったィ。たァがやァい」

底本:三代目桂三木助

【RIZAP COOK】

しりたい

夏休み限定落語  【RIZAP COOK】

生粋の江戸前落語。詳しい起源や原話は不明です。

両国の川開きで、花火が年中行事化したのは享保2年(1717)ですから、少なくともそれ以後の作でしょう。

かつては三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)などが威勢のよさを競いました。

現在でも、花火をあてこんで、夏になると高座にかかる納涼ばなしです。

底本に使ったのは、三木助の速記です。

時代を、江戸中期の安永年間(1772-81)、十代将軍家治の治世としています。

元はたがやの首が飛び  【RIZAP COOK】

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は、逆にたがやの首を飛ばすオチでした。

これがオリジナルのやり方。

そうでなければ、「上がった上がった、たァがやァい」という最後の掛け声の意味がなくなります。

この改変に関する解説は、どれも判で押したように、以下の通り。

侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、首ならぬ職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった彼らが寄席に大勢来るようになったので、職人仲間のたがやをヒーローにしてハッピーエンドに変え、ニワカ客のごきげんをうかがったため。

本当でしょうか。

いくら幕府の権勢が地に落ちたとはいえ、あの恐怖政治の井伊大老が、こんな武士への冒涜を許しておくとも考えにくいもの。

案外、季節違いとはいえ、その井伊直弼の首が飛んだこと(1860年3月3日)がきっかけなのではないか、と勘ぐってしまうのですが。

たがや  【RIZAP COOK】

大道で桶を修理したり、たが(箍)を交換したりする職人です。

たがとは、桶や樽などの周りを巻いて、外れないように締める竹の輪。極限までばか力でギリギリと締めてある上、竹ですから一度外れた場合の反発力はすさまじいものでしょう。

というわけで、この噺の笠を跳ね飛ばす場面はたいへんにリアルで、無理がありません。

木樽に巻かれた箍

玉屋  【RIZAP COOK】

両国にあった花火屋です。

日本橋横山町の老舗、鍵屋の番頭がのれん分けした店でした。

以来、業界の勢力を主家筋の鍵屋と二分し、川開きでも「鍵屋」「玉屋」と平等に声が掛かるまでになりました。

天保14年(1843)、自火を出したとしてお上のおとがめを受け、玉屋は廃業処分とあいなりました。

鍵屋の陰謀のにおいが、プンプンしますがね。

ところが、それ以来判官びいきの江戸っ子の同情を一身に集め、店はなくなったのに、掛け声だけは「玉屋」「玉屋」の一点張り。

「鍵屋」のカの字もなくなったのは、皮肉です。

本当かどうか、これもあやしい話が。

柱暦  【RIZAP COOK】

はしらごよみ。

たがやのタンカの中に登場しますが、縦長の暦で、柱に張っておくものです。

暦のたぐいは、表向き町人や百姓は所持を禁じられていましたが、ないと生活に不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。

千段巻き  【RIZAP COOK】

槍の柄を籐で巻いて、漆を塗った部分です。

手は見せんぞ  【RIZAP COOK】

侍の言う「手は見せんぞ」というのは、時代劇では昔から常套句です。

刀を抜く手さばきも見えないほど、素早く斬ってしまう、という脅しです。

両国橋  【RIZAP COOK】

両国橋は万治2年(1659)に架けられました。

その2年前の明暦の大火からの教訓によるものです。

全長94間(171m)。これは長い。

この橋が架かったことから、川向こうの開発が進み、江戸が巨大化していくきっかけとなりました。

両国橋は何度も架け替えられました。

洪水によるものです。

橋のちょっと上流に隅田川が大きく曲がっているため、洪水のとばっちりを受けやすかったのです。

上流から流れてくる壊れた橋の流木が両国橋にぶつかって、しまいには両国橋そのものが倒壊してしまうのです。

その対策として、ちょっと上流に芥留杭が流れに並んで打たれていました。

これが「死神」の舞台となる千本杭です。

流木の流れを修正する意図でしたが、大きな洪水では効果ありません。

重り石と呼ばれる10貫目(37.5kg)以上の石を東西の橋詰に1000個も置いて、とにかく橋が流されるのを食い止めようとしました。

武蔵国と下総国とを結ぶので「両国」と呼ばれたというのは知られていますが、川の西側は町奉行が支配(管理)で、東側は本所奉行の支配でした。

正徳3年(1713)に、本所深川は町奉行支配に変更されました。

享保4年(1719)になると、武家地は普請奉行に、道路、橋、水路関係は勘定奉行に支配が移り、本所奉行は廃止となりました。

一般行政や町民に請け負わせていた作業の支配は、町奉行の中にに「本所見廻」という役職が設けられました。

こうして、18世紀前半には川向こうの深川あたりも都市化していっていたのですね。

両国、両国といっても、両国橋西詰の西両国と東詰の東両国ではだいぶ雰囲気が違っていました。

ともに、橋詰には広小路(道幅の広い街路)がありましたが、西両国のほうは芝居小屋、茶店、料理屋、揚弓場などが並ぶただの繁華街でした。

東両国のほうは、回向院があって、死者の霊を弔う雰囲気でした。

回向院は諸宗山無縁寺といわれる寺院で、明暦の大火、浅間山噴火(死者が上流から多数流れてきた)、安政の大地震など災害死の無縁仏を供養してきました。

街の発祥がこんなところからでしたが、鎮魂や悪疫除けから隅田川の花火が享保18年(1733)から始まったり、大相撲の勧進興行が寛政3年(1791)から始まったりして、次第ににぎやかな街に発展していきました。

大相撲の勧進興行の始まりは、回向院が浅間山噴火の死者を川から引き揚げて荼毘に付すまでの費用捻出が本音でした。

さらには、両国橋東詰の近くには「大山詣り」の水垢離場がありました。

西両国はたんなる江戸一の繁華街でしたが、東両国はつねに死者とのかかわりから発展していったのです。

両国橋

西両国の繁栄  【RIZAP COOK】

両国橋西詰、つまり、西両国は江戸で一番の繁華街でした。

ここの広小路では、幕府は橋番や水防を請け負う町人に区画を決めて土地を貸し出していました。

町人たちは床見世、水茶屋、芝居小屋、髪結床などを商いさせて地代店賃を取っていました。

この収入を水防請け負いなど費用に充当していました。

床見世の内訳は、古着、煙管、絵草紙、鼈甲細工、扇など。

三人兄弟芝居(のちの明治座)、春五郎芝居、勘九郎芝居、おででこ芝居、らん杭芝居などの小屋が軒を並べていました。

ここで使われる菰や筵は灘や伊丹から届いた下り酒の樽を覆っていたものです。

芝居小屋と筵や菰のイメージは西両国でのイメージだったのですね。

川開き  【RIZAP COOK】

毎年、5月28日(川開き)から8月28日(川仕舞い)までの3か月間は、船宿、茶屋、うろうろ船(移動販売船)などの商売が許可されていました。

花火はその間、毎晩打ち上げられました。

両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が受け持っていました。

天保14年以降は鍵屋の独占ですね。花火には悪疫除けと鎮魂と、江戸っ子の切なる思いがこめられていました。

川開き

ことばよみいみ
三一さんぴん下級侍
生粋きっすいまじりけがない
とうつる性の茎が伸びる植物。ラタン

【RIZAP COOK】

 

 

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

いちがんこく【一眼国】落語演目



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【どんな?】

両国見世物小屋の男が一つ目の子どもを探しに全国行脚。
そんなのいるわけないだろう、と思いきや、いましたよ。
みんながおんなじならヘンでもナンでもない、という噺。

【あらすじ】

諸国をまわり歩く六部ろくぶが、香具師やしの親方のところに一晩の宿を借りた。

香具師はなにか変わった人間でもいれば、いや化物ならなおさらいいが、とにかく捕まえて見世物にし、金もうけの種にしようと八方手を尽くして探している。

翌朝、六部に
「おまえさんは諸国をずいぶんと歩いている間に、ヘソで唄をうたったとか、足がなくって駆けだしたとか、そういう変わった代物を見ているだろう。ひとつ話を聞かせてくれないか」
と持ちかけたが、六部は
「そんな話はとんとない」
という。

一宿の恩をたてにさらにしつこく聞くと、ようやく、
「まァ、つまらないことですが……」
と、六部が思い出した話を披露する。

こちらに来る途中、道に迷って東へ東へと歩いていくと、森に入り、日も暮れかかったので、野宿でもしなければならないかと、ため息をつきながら木の根方に腰を掛け、一服やっていた。

すると、
「おじさん、おじさん」
と呼ぶ声がしたので、振り返って見ると、五つか六つの女の子。

よく眺めると目が一つしかない。

仰天して夢中で駆け出し、ようやく里に出た、というもの。

香具師は喜んで、六部に金を包んで出発させ、さっそくその日のうちに旅支度をして家を出た。

東へ東へと歩いたが、なにも出ない。

そのうちに日も暮れてきて、これは六部のやつに一杯食ったかと悔しがっているうち、四、五丁も歩いたところで森に出た。

話の通り木の根方でプカリプカリと煙草をふかしていると、後ろの方で
「おじさん、おじさん」
という声。

「しめた、こいつだ」
と思って振り返ると、案の定、目が一つ。

これは見世物にすればもうかると欲心に駆られて、ものも言わずに飛びかかってひっ捕まえると、子供を小脇に抱え、森の外に向かって一目散。

子供はキャアッと悲鳴を上げる。

その声を聞きつけたのか、ホラ貝の音が響きわたったかと思うと、鋤鍬すきくわ担いだ百姓たちが大勢追いかけてくる。

みんな一つ目。

必死で逃げたが、ついに木の根っこにつまずいて
「この人さらいめ」

寄ってたかってふん縛られ、突き出された先がお奉行所。

奉行が
「こりゃ、人さらい。面を上げい」

ひょいと見上げると、お奉行も役人もみんな一つ目。

奉行の方もびっくり。

「やや、こやつ……おのおの方ごらんなされ。こやつ目が二つある。調べは後回しじゃ。見世物に出せ」

【しりたい】

彦六の古風な味

柳家小さん系の噺で、生ッ粋の江戸落語です。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が得意にしていました。

先の大戦後、この噺を磨き上げた八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は、円朝門下の最後の生き残り、一朝爺さんこと三遊一朝さんゆういっちょう(倉片省吾、1846[1847]-1930)からの直伝で、小さんの型も取り入れたと述べています。

この噺をよく演じた五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)のようなおもしろさはありませんが、正蔵独特の、古風なしっとりとした語りを聞かせました。

21世紀に入ってしばらくすると、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)がよく演じました。柳家の噺を意識したのでしょうか。

志ん生の「一眼国」

六部が珍しい話などないと言うと、それまで、泊まっていけ、飯を食えと愛想を振りまいていたのが一変し、「ああ、お茶なんぞォいれなくったっていいやァもう、うん。ああご飯いいんだよ、もう、帰ってもらやァいいんだからァ」と豹変して脅しにかかるところが、この人独自で笑わせます。

そのほか、行く先が「江戸から東へ三日行った森」(一眼国は小田原あたりか?)だったり、奉行が「なぜ、人の子供を黙ってさらう?」と言ったり(いちいち許可を得てさらうかどわかしはありません)、とにかくハチャメチャなのが、いかにも志ん生です。

見世物

地味な噺なので、正蔵も志ん生も、笑いをとるため、マクラに江戸時代の両国広小路や浅草奥山のインチキ見世物をおもしろおかしく説明します。

これについては「がまの油」や「花見の仇討ち」でも詳しく記しましたが、正蔵は「鬼娘」「目が三つ歯が二本の化物(ゲタ)」「八間の大燈籠(ただ通って表に出されるだけ)」といった向両国・回向院境内の見世物、俗に「モギドリの小屋」について説明していて、今では貴重な証言です。

「モギドリ」は、銭を客からもぎ取ってしまえば、あとはいっさいかまわないということからきています。

香具師

やし。見世物師ですが、「鬼娘」「手なし男」など、身体障害者を「親の因果が子に報い……」の口上で見世物にする悪質な香具師を「因果者師」と呼びました。

この噺の主人公がそれで、八代目正蔵では「男の子と女の子が背中合わせで生まれたとか、アヒルの首が逆にくっついているなんてえのはねえかい?」と六部に尋ねていますし、志ん生は「足がなくって駆け出すとか、へそでなんか食べるとかね、なんか変わってるものがいいんだがねェ、ないかねェ? 天井裏ィ足の裏くっつけて歩く人とか……」と香具師に言わせています。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『因果小僧』では、主人公の盗賊・六之助の老父・野晒小兵衛が落ちぶれた因果者師の成れの果てという設定です。

六部

ろくぶ。巡礼者で、法華経六十六部を写経し、日本全国六十六か所の霊場に各一部ずつを納めたことにその名が由来します。したがって、正しくは「六十六部」と記します。

全国の国分寺や一の宮を巡礼する行者です。

のちにはかねをたたき、鈴を振って各家を物ごいして歩く者の名称にもなりました。落語には「花見の仇討ち」「山崎屋」「長者番付」などにも登場します。

古郷へ 廻る六部は 気の弱り (俳風柳多留・初)

一眼

ギリシア神話のキュクロプスが一眼でしたが、それが日本のとどうかかわりあるのかは、不勉強でわかりません。

日本のそれは山の神信仰が元といわれ、山神の原型である天目一箇命あまのまのひとつのみことが隻眼隻足とされていたことから、こうした山にすむ妖怪が考えられたとみられます。

 



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