しばはま【芝浜】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

明け方、浜で財布を拾った間抜けな棒手振り。
大金手にして奈落の幕開け。賢い女房が悪運うっちゃる。
三題噺のせいかむちゃくちゃな筋運び。円朝噺。

別題:うまいり 芝浜の皮財布 芝浜の財布

あらすじ

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。

腕はいいし人間も悪くないが、大酒のみで怠け者。

金が入ると片っ端から質入してのんでしまい、仕事もろくにしないから、年中裏店住まいで店賃もずっと滞っているありさま。

今年も師走で、年越しも近いというのに、勝公、相変わらず仕事を十日も休み、大酒を食らって寝ているばかり。

女房の方は今まで我慢に我慢を重ねていたが、さすがにいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

亭主はぶつくさ言って嫌がるが、盤台もちゃんと糸底に水が張ってあるし、包丁もよく研いであり、わらじも新しくなっているという用意のよさだから文句も言えず、しぶしぶ天秤棒を担ぎ、追い出されるように出かける。

外に出てみると、まだ夜は明けていない。

カカアの奴、時間を間違えて早く起こしゃあがったらしい、ええいめえましいと、勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。

海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてきた。

顔を洗おうと波打ち際に手を入れると、何か触るものがある。

拾ってみるとボロボロの財布らしく、指で中をさぐると確かに金。

二分金で四十二両。

さあ、こうなると、商売どころではない。

当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ますと、年を越せないから仕入れに行ってくれと言う。

金は四十二両もあるじゃねえかとしかると、どこにそんな金がある、おまえさん夢でも見てたんだよ、と、思いがけない言葉。

聞いてみるとずっと寝ていて、昼ごろ突然起きだし、友達を呼んでドンチャン騒ぎをした挙げ句、また酔いつぶれて寝てしまったという。

金を拾ったのは夢、大騒ぎは現実というから念がいっている。

今度はさすがに魚勝も自分が情けなくなり、今日から酒はきっぱりやめて仕事に精を出すと、女房に誓う。

それから三年。

すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。

得意先もつき、金もたまって、今は小さいながら店も構えている。

大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両。

実は亭主が寝た後思い余って大家に相談に行くと、拾った金など使えば後ろに手が回るから、これは奉行所に届け、夢だったの一点張りにしておけという忠告。

そうして隠し通してきたが、落とし主不明でとうにお下がりになっていた。

おまえさんが好きな酒もやめて懸命に働くのを見るにつけ、辛くて申し訳なくて、陰で手を合わせていたと泣く女房。

「とんでもねえ。おめえが夢にしてくれなかったら、今ごろ、おれの首はなかったかもしれねえ。手を合わせるのはこっちの方だ」

女房が、もうおまえさんも大丈夫だからのんどくれと、酒を出す。

勝、そっと口に運んで、
「よそう。……また夢になるといけねえ」

しりたい

三題噺から

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が幕末に、「酔っ払い」「芝浜」「財布」の三題で即席にまとめたといわれる噺です。➡鰍沢

先の大戦後、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、四代目柳家つばめ(深津龍太郎、1892-1961)と安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説、評論)のアドバイスで、白魚船のマクラ、夜明けの空の描写、オチ近くの夫婦の情愛など、独特の江戸情緒をかもし出す演出で十八番とし、昭和29年度の芸術祭賞を受賞しましたが……。

アンツルも三木助も自己陶酔が鼻につき、あまりにもクサすぎるとの評価が当時からあったようです。

まあ、聴く人によって、好き嫌いは当然あるでしょう。

芝浜の河岸

現在の港区芝浦1丁目付近に、金杉浜町という漁師町がありました。

そこに雑魚場という、小魚を扱う小規模な市があり、これが勝五郎の「仕事場」だったわけです。

桜の皮

今と違って、昔は、活きの悪い魚を買ってしまうこともありました。

あす来たら ぶてと桜の 皮をなめ   五25

魚屋に鮮度の落ちた鰹を売りつけられた時には、桜の皮をなめること。毒消しになると信じられていました。

いわし売り

そうは言っても、鰹以上に鰯は鮮度の落ちるのが早いものです。

気の迷いさと 取りかへる いわし売   六19

長屋のかみさんが鰯の目利きをしている光景のようです。

「気の迷いさ」とは魚屋の常套句なんですね。

鰯はちょっと変わった魚です。たとえがおもしろい。「鰯」と言ったら、錆びた刀の意味にも使われます。「赤鰯」とも。

たがや」などに登場します。武士をあざける象徴としての言葉です。

本阿弥の いわしは見れど 鯨見ず   十三

鰯と鯨の対比とは大仰な。鰯は取るに足りない意味で持ちだされます。

「いわしのかしらも信心から」ということわざは今でも使われます。江戸時代に生まれた慣用句です。

「取るに足りないつまらないものでも、信心すればありがたいご利益や効験があるものだ」といった意味ですね。

いわし食った鍋

「鰯煮た鍋」「鰯食った鍋」という慣用句も使われました。

「離れがたい間柄」といった意味です。

そのココロは、鰯を煮た鍋はその臭みが離れないから、というところから。

いわし煮た 鍋で髪置 三つ食ひ   十

「髪置」とは「かみおき」で、今の七五三の行事の、三歳の子供が初めて髪を蓄えること。

今は「七五三」とまとめて言っていますが、江戸時代にはそれぞれ独自の行事でした。「帯解」は「おびとき」で七歳の女児の行事、「袴着」は「はかまぎ」で三歳の男児の行事、これはのちに五歳だったり七歳だったりと変化しました。

それと、三歳女児の「髪置」。三つともお祝い事であることと、11月15日あたりの行事であることで、明治時代以降、「七五三」と三つにまとめられてしまいました。

それだけ、簡素化したわけです。といった前提知識があると、上の川柳もなかなかしみじみとした含蓄がにじみ出るものです。「大仏餅」参照。

「芝浜だけに……」

2020年に開業した山手線の新駅がありました。

場所は、品川駅と田町駅の間にです。名称は結局のところ、「高輪ゲートウェイ駅」に決まりました。

ふりかえれば、駅名を公募で決めることが、2018年6月に発表されました。ネット上ではさまざまな予想が談論風発でした。

地域は芝浦です。落語演目の「芝浜」がいいのではないか、と予想する人が多数いたのは当然の現象でしょう。

ウェブ上での投票数で「芝浜駅」は3位でした。

1位でなかったのは、この演目がまだ一般には浸透していないあかしでしょう。噺ができてもう160年にもなるのに。惜しい。

結果は「高輪ゲートウェイ駅」でした。

「夢になっちゃったね。芝浜だけに」

ネット上での投稿が、こんなことばであふれかえったものでした。いまとなっては懐かしい椿事です。ある噺家さんは「えん高輪たかなわゲートウェイ」と。さすがですなあ。

ゲートシティは大崎ですね

ことばよみ意味
店賃たなちん家賃



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とうなすやせいだん【唐茄子屋政談】落語演目

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どんな?

遊びが過ぎて勘当された若だんな。相手にする者はいない。 身投げのすんで、叔父さんに助けられ、唐茄子を売り歩くことに。 人の情けでたちまち売れて、残ったのは二個。 その帰途、ひもじい母子に唐茄子と売上をくれてやった……。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎とくさぶろう。 吉原の花魁おいらんに入れ揚げて家の金を湯水ゆみずのように使うので、親父も放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当かんどうだと言い渡される。 徳三郎は、蛙のツラになんとやら。 「勘当けっこう。お天道てんとさま(太陽)と米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」 威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だ、とていよく追い払われる。 どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと 「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」 と、ケンもほろろ。 もう土用どようの暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。 おまけに夕立ちでずぶ濡れ。 吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。 つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所ほんじょ達磨横丁だるまよこちょう大家おおや(管理人)をしている叔父おじさん。 止めようとして顔を見るとおいの徳。 「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」 「アワワ、助けてください」 「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」 「お天道さまはついて回るけど、米の飯はついて回らない」 「ざまあみやがれ」 ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。 翌朝。 おじさん、唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。 「今日からこれを売るんだ」 格好悪いとごねる徳を、叔父さんは 「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」 としかりつけ、天秤棒てんびんぼうをかつがせると、 「弁当は商いをした家の台所を借りて食え」 と教えて送りだす。 炎天下、徳三郎は重い天秤棒を肩にふらふら。 浅草の田原町たわらまちまで来ると、石につまづき倒れて、動けない。 見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋あいながやの者たち(同じ長屋の住人)に売りさばいてくれ、残った唐茄子はたった二個。 礼を言って、売り声の稽古けいこをしながら歩く。 吉原田圃たんぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店せいがんじだな。 裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当をつかっている(食っている)と、五つばかりの男の子が指をくわえ、 「おまんまが食べたい」 事情を聞くと、亭主は元武士で、今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされない、という。 同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。 聞いた叔父さん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。 あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家いんごうおおやに出くわし、金を店賃たなちん(家賃)に取られてしまった、という。 八百屋さんに申し訳ない、と女はとうとう首くくり。 聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。 長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。 おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青緡五貫文あおざしごかんもん褒美ほうび。 めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうには、お奉行さまは登場しません。 「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、二代目円朝)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)という、三遊派と柳派を代表する名人が得意にしました。 大正13年(1924)刊行の、晩年の三代目小さんの速記が残っています。 滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。 五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)は手がけず。現在、柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。 古くは、女がそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)もしばしば演じていました。 志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。 叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。 円生は饒舌じょうぜつで、徳がおやじの愚痴ぐちをひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。 キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。 若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。 この古い江戸ことばは、語源が「お履き物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。 履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あずまばし。架橋は安永3年(1774)。 もとは大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形1-3丁目、吾妻橋1丁目、本所3丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。 地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草4丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。 誓願寺は浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、15の塔頭を持つ大寺院でした。 現在は、府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

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しゅっせのはな【出世の鼻】落語演目

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【どんな?】

すたれてしまった明治の噺。
工夫次第ではおもしろくなりそう。
こんなところに落語の妙味が隠れてます。

別題:鼻利き源兵衛

【あらすじ】

下谷長者町に住む、棒手振りの八百屋源兵衛。

ある日、仕事の帰りに両国橋に来かかると、大川で屋形船が芸者を揚げてどんちゃん騒ぎをしているのを見た。

つくづく貧乏暮らしがいやになり、
「あれも一生これも一生、こいつぁ宗旨を替えにゃあならねえ」
とばかり、その場で商売道具の天秤棒を川に放り捨ててしまった。

家に帰った源さん。

なにを思ったか、驚く女房を尻目に、家財道具一切たたき売った。

日本橋通一丁目の、有名な白木屋という呉服屋の真向かいで、間口九間、土蔵付きの広い売家を強引に手付け五両で借りた。

「近江屋三河屋松阪屋」という珍妙な三つ名前の屋号の看板まで出す。

ただし、商売はなにもせず、日がな一日はったりに大きな声で
「畳屋はどうした。大工はまだか」
と、どなるだけ。

そんなある日。

向かいの白木屋に、りっぱな身なりの侍が現れ、
「先祖が拝領した布地の銘を調べてほしい」
と、預けていく。

誰もわからないまま店先にぶらさげていたその布が、三日後、風に飛ばされて行方不明になったので、店中大騒ぎ。

布が白木屋の二つの蔵の間の戸口に引っ掛かるのを、偶然見ていた源兵衛。

好機到来とばかり店に乗り込み、どんな紛失物でもかぎ当てる鼻占い師といつわって、まんまとありかを当ててみせた。

礼金五百両で、たちまち左ウチワ。

すっかり白木屋の主人の信用を得た源兵衛。

半年ほどたった。

白木屋の京の本店お出入り先の、関白殿下。

藤原定家卿の色紙と八咫の御鏡を盗まれたので、京に行ってその二品をかぎ出してほしいとのこと。

源兵衛、それを白木屋の主人から頼まれる。

まあ、白木屋の金で上方見物でもしてこようと太い料簡で都にやってきた源兵衛。

仕事そっちのけで、ブラブラ遊んで過ごしているが、宮中のトイレまでかいで回らなければならない。

「従五位近江守源兵衛鼻利」と位までちょうだいした。

とんだにわか公家ができあががった。

ある日。

暑い中を衣冠束帯を付けさせられ、うんざりしながら庭をかいで回っている。

木のうろから、突如飛び出す怪しの人影一つ。

聞いてみると、その男、関白の家から例の二品を盗んだ犯人。

十里以内のものはみなかぎ出すという名高い方が探索に見えると聞き、もはや逃げられないと観念した。

「命ばかりはお助けを」
と、平身低頭。

柳の下には、ドショウが二匹いるもんだ。

無事に品が戻り、関白は大喜び。

「あっぱれな奴、望みのものをほうびに取らせる」
「金をください」
「金はたっぷりつかわす。なにか望みは」
「望みは金」
「いやしい奴。金のほかには」

こうして、源兵衛は吉野山に御殿を賜った。

洛中洛外は、その噂で持ちきり。

「一度でいいからその鼻が見たいものや」
「鼻(花)が見たけりゃ吉野山へござれ」

【RIZAP COOK】

うんちく

円楽が復活させても 【RIZAP COOK】

原話は不詳。民話がルーツでしょう。

明治25年(1892)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

同趣向の「お神酒徳利」に押されてすたれ、昭和50年代に五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が復活したものの、その後は後継者もありません。

大正期に、大阪の曽我廼家五郎が「一堺漁人」の筆名で書き下ろした脚本「鼻の六兵衛」は、やはり鼻でかぎわけるのが得意な男の出世譚で、劇団の当たり狂言になりましたが、落語とのかかわりは不明です。

同じ鼻利き男が登場する噺に「鼻きき長兵衛」がありますが、こちらは後半が「寄合酒」の後半(「ん廻し」)と同じで、まったく別話です。

白木屋盛衰記 【RIZAP COOK】

白木屋の開祖、大村彦太郎(1636-1689)は、近江国長浜で材木屋を営んでいましたが、志を立てて江戸に出てきて、寛文2年(1662)、日本橋通二丁目に小間物屋を開店しました。

3年後、通一丁目に進出して、呉服店を兼業。

以来、事業を拡大していって、後発の三井越後屋呉服店(→三越、1673年創業)や大丸江戸店だいまるえどだな(1743年創業)、いとう松坂屋(1768年創業、名古屋松坂屋の江戸進出)などと肩を並べる大店おおだなに発展しました。

屋号の「白木」は材木屋だったときの名残で、杉や檜を白木と総称することから付けられたとか。

縁起をかついで「かする」という言葉を家訓で禁じ、白木屋にかぎり、絣の着物を奉公人に着せない習慣がありました。

明治36年(1903)、通一丁目の本店敷地に「白木屋百貨店」を開業。

日本橋の顔として繁盛しましたが、昭和7年(1932)12月16日の「白木屋火災」で全焼、大打撃をこうむります。

このとき、女店員がズロースをはいていなかったため、着物のすその乱れを気にして飛び降りられず、十名の死者を出したことで、一挙に女性用下着が普及した、後世なにかと話題となります。

でも残念ながら、これは事実ではないようです。伝聞と想像が都合よく膨らんだだけの話なんだそうです。話としてはおもしろいのですがね。おもしろい話は、えてしてまゆつばものが多くて。

昭和23(1948)年の「白木屋争議」などで経営が傾き、昭和31(1956)年に東急傘下に。デパートはそのまま「白木屋」の名で存続しました。

でも結局、昭和42(1967)年、東急百貨店日本橋店に衣替えし、事実上三百年の歴史に終止符を打ちました。「日本橋東急」として親しまれ栄えました。平成3年度(1991)の売上高(565億円)をピークに緩やかに下降して、これは全国百貨店の衰退と軌を一にしているだけのことですが、1999年1月31日に閉店。三井不動産が「コレド日本橋」を建て、外資系企業数社が入っています。

昭和24年(1949)頃、この近辺は夜になるとひっそりとしたたたずまいだったそうです。消える数日前の下山貞則は、このあたりのGHQ系オフィスに何度も通っていたとか。97年以降のマネー敗戦後、似たような現象がかいま見えました。

あれも一生これも一生 【RIZAP COOK】

このくだりは、歌舞伎の場面をそのまま借りています。

河竹黙阿弥で、慶応2(1866)年2月守田座初演の「文字ふねにうちこむはしまのしらなみ」序幕で、主人公の鋳掛屋いかけや松五郎が、屋形船のドンチャン騒ぎを見て、みみっちい堅気暮らしに嫌気が差し、心機一転盗賊になろうと決心する場面のセリフです。

下谷長者町 【RIZAP COOK】

台東区上野3丁目。当時は一丁目と二丁目とがあり、名前とは裏腹に、江戸有数のスラムでした。

町名は昔、このあたりに朝日長者という分限者が住んでいたことにちなみます。

幕府の公有地でしたが、明暦の大火(1657)後町割りが許可されました。

掛け取り万歳」に出てくる「貧乏をしても下谷の長者町 上野の鐘のうなるのを聞く」という狂歌でも、おなじみです。

「通」は江戸のブロードウェイ 【RIZAP COOK】

神田万世橋あたりから日本橋、京橋を経て芝金杉にいたる、江戸を南北に貫く大通りを単に「通り」または「通町」と呼びました。

江戸の者ならこれだけで通じるからで、吉原を「ナカ」というのと同じ、いかにもムダを嫌う江戸っ子らしい表現です。

町名としては通り一丁目から四丁目まであり、一丁目は現在の中央区日本橋通1丁目。

初代歌川(安藤)広重が「名所江戸百景」の一として、通一丁目の白木屋呉服店前の繁華街を生き生きと描きました。安政5(1858)年夏の情景です。

【語の読みと注】
八咫 やた
絣 かすり
船打込橋間白浪 ふねにうちこむはしまのしらなみ

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みずやのとみ【水屋の富】落語演目

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【どんな?】

水を売る小商いの男が、富くじに当たって大金を手にした……。

心の中は疑心暗鬼で、という噺。さて、どうなることやら。

別題:水屋富(上方)

あらすじ

まだ水道が普及しなかった本所や深川などの低地一帯に、荷を担いで水を売って歩いた水屋。

一日も休むことはできないので、冬は特に辛い商売。

ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先、どう運が向いたものか、千両の「打ち富」に当たってしまった。

「うわーッ、当たった」

興奮して引き換え所に行くと、二か月待てば千両まとめてくれるが、今すぐだと二割さっ引かれるという。

待っていられないと、すぐもらうことにし、小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ。

山吹色のをどっとぶちまけて、つくづく思うには、これで今すぐ商売をやめたいが、水屋は代わりが見つかるまでは、やめることができない。

一日休んでも、持ち場の地域の連中が干上がってしまう。

かといって、小判を背負って商売に出たら、井戸へ落っことしてしまう。

そこで、金を大きな麻の風呂敷に包み、戸棚の中に葛籠(つづら)があってボロ布が入っていたので、その下に隠した。

泥棒が入って葛籠を見ても、汚いから目に留めないだろうと納得したが、待てよ、ボロの下になにかあると勘づかれたらどうしようと不安になり、神棚に乗せて、神様に守ってもらおうと気が変わる。

ところが、よく考えると、神棚に大切なものを隠すのはよくあること。

泥棒が気づかないわけがないとまた不安になり、結局、畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけた。

これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まらない。

すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、一時も気が休まらない。

おかげで仕事もはかどらず、あっちこっちで文句を言われる。

夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる。

隣の遊び人。

博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がついた。

これはなにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。

しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかった。

一方、水屋。

いつものように、帰って竹竿で縁の下をかき回すと
「おや?」

根太をはがしてみると、金は影も形もない。

「あッ、盗られちゃった。これで苦労がなくなった」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

江戸の「水」事情  【RIZAP COOK】

江戸時代、川向こうの本所や深川などの水事情。

そこらは水質が悪く、井戸水が使えない低湿地帯でした。

天秤棒をかついで毎日やって来る水屋から、一荷(ふた桶)百文、一杯せいぜい二文ほどで、一日の生活用水や飲み水を買っていたものです。

井戸のある長屋では年に一度、井戸替えがありました。

ここらへんでは井戸もありませんし、井戸替えも無縁です。

水売りとも呼ばれたこの商売。

狭い、限られた地域の、せいぜい何軒かのお得意を回るだけで、全部売りきってもどれほどの儲けにもなりません。

しかも雨の日も雪の日も、一日も休めません。

いつまでも貧しく、過酷ななりわいでした。

水屋は、享保年間(1716-36)にはもう記録にあります。

水道がまだ普及しなかった、明治の末まで存在しました。

江戸時代には、玉川や神田上水から、水業者が契約して上水を仕入れ、船で運びました。

それを水売りが河岸で桶に詰め替え、差しにないで、得意先の客に売り歩いたものです。

水売り  【RIZAP COOK】

これとは別に、夏だけ出る水売りがありました。

こちらは、氷水のほか、砂糖や白玉入りの甘い冷水を、茶碗一杯一文(のち四文)で売っていました。

こちらは、今の清涼飲料水のような嗜好品です。

噺のなりたち  【RIZAP COOK】

原話はいくつかあります。

明和5年(1768)刊の笑話本『軽口片頬笑』中の「了簡違」、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「ぬす人」、さらに文政10年(1813)刊『百成瓢』中の「富の札」など。

この噺は、いくつかの小咄をつなぎあわせてできたものです。

このうち、「ぬす人」は、千両拾った貧乏人が盗人を恐れて気落ちになる後半の大筋がすでにできあがっています。

オチは、百両だけ持って長屋から夜逃げする、というもの。

「富の札」では、金を得るきっかけが富くじの当選に変わり、結末はやはり、百両のうち一両二分だけ持って逃走といういじましいものです。

大阪でも「水屋富」として演じられました。

ただ、この噺は、江戸の下町低湿地という特殊事情に根ざした内容なので、やはりこれは純粋な東京の噺といえるでしょう。

「あきらめ」の哲学?  【RIZAP COOK】

「水屋の富」には、心学の影響がみられます。

運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の石門心学です。

心学については、「天災」をお読みください。

オチの「これで苦労がなくなった」というのも、その「あきらめの勧め」に通じると見られます。

生涯遊んで暮らせる金をむざむざ盗まれて、あきらめろと言われても、現代人にはやはり納得がいきません。

この男が本気で胸をなでおろしているとすれば、一種のマゾヒズムじみた異様さを感じる人も、少なくないのではないでしょうか。 

何百何十両手にしても、主人公は仕事を休むことも逃げることもできず、むろん今のように、預ける銀行などありません。

休めば得意先が干上がるという道義心や、その地域を担当する代わりの者が見つからなければ廃業もできない、という水屋仲間の掟もあります。

それより、そんな悪知恵も金を生かす才覚もないのです。

たとえ下手人が捕まり、金が戻ったとしても、再び盗まれるまで、同じ恐怖と悪夢が、また果てしなく続くでしょう。

してみると、結局、これがもっとも現実的な解決法だったかと、納得できないでもありませんね。

志ん生が描く江戸の「どん底」  【RIZAP COOK】

三代目柳家小さんの十八番でした。

戦後は五代目古今亭志ん生が、貧乏のどん底暮らしの体験を生かして、江戸の底辺を生きる水屋の姿をリアルに活写して、余すところがありませんでした。

どん底暮らしとはいっても、これは後世の志ん生好きが美化しているだけのことです。

志ん生ご本人は、さほどの辛さはなかったようです。

当時のさまざまな証言から推測できます。

さて。

志ん生のやり方では、水屋が毎晩毎晩、強盗に違う手口で殺され、金を奪われる夢を見ます。

一昨日は首をしめられ、昨夜は出刃でわき腹を一突き。

そして今夜は、何とマサカリで……。

このあたりの描写は、あまり哀れに滑稽で、笑うに笑えず、しかし、やっぱり笑ってしまいます。

結局、かなしい「ハッピーエンド」になるわけですが、人生の苦い皮肉に身をつまされます。

優れた短編小説のような、ほろ苦い味わいです。ここがいい。

志ん生没後は、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝に継承されました。

今となっては、お二人とも泉下の人に。

その門下も含め、現在はあまり手掛ける人はいないようです。

富くじ  【RIZAP COOK】

この噺の題名にもなっている千両富は、「富久」「宿屋の富」「御慶」など、落語にはしばしば登場します。

富くじは、各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために行ったものです。

文政年間(1818-30年)の最盛期には、多いときには月に二十日以上、江戸中で毎日どこかで富の興行があったといいます。

有名なところは湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺、目黒不動などです。

当たりの最低金額は一朱(一両の十六分の一)でした。

この噺のような千両富の興行はめったになく、だいたい五百両富が最高でした。

今の宝くじを想像していただければよろしいかと思います。

富くじは、明治には廃止となり、先の大戦が終わるまで日本の社会では絶えていました。

現代の宝くじは、江戸期の富くじの後身です。

明治維新から昭和20年(1945)までの77年間、富くじはなぜ消えたのでしょうか。

この制度、そうとうに不思議なのです。

宝くじというもの、あてずっぽうでいえば、戦争と相性が悪いのでしょうね、きっと。

宝くじと日本人。興味尽きない社会史の材料です。

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