【出世の鼻】しゅっせのはな 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

すたれてしまった明治の噺。
工夫次第ではおもしろくなりそう。
こんなところに落語の妙味が隠れてます。

別題:鼻利き源兵衛

【あらすじ】

下谷長者町に住む、棒手振りの八百屋源兵衛。

ある日、仕事の帰りに両国橋に来かかると、大川で屋形船が芸者を揚げてどんちゃん騒ぎをしているのを見た。

つくづく貧乏暮らしがいやになり、
「あれも一生これも一生、こいつぁ宗旨を替えにゃあならねえ」
とばかり、その場で商売道具の天秤棒を川に放り捨ててしまった。

家に帰った源さん。

なにを思ったか、驚く女房を尻目に、家財道具一切たたき売った。

日本橋通一丁目の、有名な白木屋という呉服屋の真向かいで、間口九間、土蔵付きの広い売家を強引に手付け五両で借りた。

「近江屋三河屋松阪屋」という珍妙な三つ名前の屋号の看板まで出す。

ただし、商売はなにもせず、日がな一日はったりに大きな声で
「畳屋はどうした。大工はまだか」
と、どなるだけ。

そんなある日。

向かいの白木屋に、りっぱな身なりの侍が現れ、
「先祖が拝領した布地の銘を調べてほしい」
と、預けていく。

誰もわからないまま店先にぶらさげていたその布が、三日後、風に飛ばされて行方不明になったので、店中大騒ぎ。

布が白木屋の二つの蔵の間の戸口に引っ掛かるのを、偶然見ていた源兵衛。

好機到来とばかり店に乗り込み、どんな紛失物でもかぎ当てる鼻占い師といつわって、まんまとありかを当ててみせた。

礼金五百両で、たちまち左ウチワ。

すっかり白木屋の主人の信用を得た源兵衛。

半年ほどたった。

白木屋の京の本店お出入り先の、関白殿下。

藤原定家卿の色紙と八咫の御鏡を盗まれたので、京に行ってその二品をかぎ出してほしいとのこと。

源兵衛、それを白木屋の主人から頼まれる。

まあ、白木屋の金で上方見物でもしてこようと太い料簡で都にやってきた源兵衛。

仕事そっちのけで、ブラブラ遊んで過ごしているが、宮中のトイレまでかいで回らなければならない。

「従五位近江守源兵衛鼻利」と位までちょうだいした。

とんだにわか公家ができあががった。

ある日。

暑い中を衣冠束帯を付けさせられ、うんざりしながら庭をかいで回っている。

木のうろから、突如飛び出す怪しの人影一つ。

聞いてみると、その男、関白の家から例の二品を盗んだ犯人。

十里以内のものはみなかぎ出すという名高い方が探索に見えると聞き、もはや逃げられないと観念した。

「命ばかりはお助けを」
と、平身低頭。

柳の下には、ドショウが二匹いるもんだ。

無事に品が戻り、関白は大喜び。

「あっぱれな奴、望みのものをほうびに取らせる」
「金をください」
「金はたっぷりつかわす。なにか望みは」
「望みは金」
「いやしい奴。金のほかには」

こうして、源兵衛は吉野山に御殿を賜った。

洛中洛外は、その噂で持ちきり。

「一度でいいからその鼻が見たいものや」
「鼻(花)が見たけりゃ吉野山へござれ」

【RIZAP COOK】

うんちく

円楽が復活させても 【RIZAP COOK】

原話は不詳。民話がルーツでしょう。

明治25年(1892)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

同趣向の「お神酒徳利」に押されてすたれ、昭和50年代に五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が復活したものの、その後は後継者もありません。

大正期に、大阪の曽我廼家五郎が「一堺漁人」の筆名で書き下ろした脚本「鼻の六兵衛」は、やはり鼻でかぎわけるのが得意な男の出世譚で、劇団の当たり狂言になりましたが、落語とのかかわりは不明です。

同じ鼻利き男が登場する噺に「鼻きき長兵衛」がありますが、こちらは後半が「寄合酒」の後半(「ん廻し」)と同じで、まったく別話です。

白木屋盛衰記 【RIZAP COOK】

白木屋の開祖、大村彦太郎(1636-1689)は、近江国長浜で材木屋を営んでいましたが、志を立てて江戸に出てきて、寛文2年(1662)、日本橋通二丁目に小間物屋を開店しました。

3年後、通一丁目に進出して、呉服店を兼業。

以来、事業を拡大していって、後発の三井越後屋呉服店(→三越、1673年創業)や大丸江戸店だいまるえどだな(1743年創業)、いとう松坂屋(1768年創業、名古屋松坂屋の江戸進出)などと肩を並べる大店おおだなに発展しました。

屋号の「白木」は材木屋だったときの名残で、杉や檜を白木と総称することから付けられたとか。

縁起をかついで「かする」という言葉を家訓で禁じ、白木屋にかぎり、絣の着物を奉公人に着せない習慣がありました。

明治36年(1903)、通一丁目の本店敷地に「白木屋百貨店」を開業。

日本橋の顔として繁盛しましたが、昭和7年(1932)12月16日の「白木屋火災」で全焼、大打撃をこうむります。

このとき、女店員がズロースをはいていなかったため、着物のすその乱れを気にして飛び降りられず、十名の死者を出したことで、一挙に女性用下着が普及した、後世なにかと話題となります。

でも残念ながら、これは事実ではないようです。伝聞と想像が都合よく膨らんだだけの話なんだそうです。話としてはおもしろいのですがね。おもしろい話は、えてしてまゆつばものが多くて。

昭和23(1948)年の「白木屋争議」などで経営が傾き、昭和31(1956)年に東急傘下に。デパートはそのまま「白木屋」の名で存続しました。

でも結局、昭和42(1967)年、東急百貨店日本橋店に衣替えし、事実上三百年の歴史に終止符を打ちました。「日本橋東急」として親しまれ栄えました。平成3年度(1991)の売上高(565億円)をピークに緩やかに下降して、これは全国百貨店の衰退と軌を一にしているだけのことですが、1999年1月31日に閉店。三井不動産が「コレド日本橋」を建て、外資系企業数社が入っています。

昭和24年(1949)頃、この近辺は夜になるとひっそりとしたたたずまいだったそうです。消える数日前の下山貞則は、このあたりのGHQ系オフィスに何度も通っていたとか。97年以降のマネー敗戦後、似たような現象がかいま見えました。

あれも一生これも一生 【RIZAP COOK】

このくだりは、歌舞伎の場面をそのまま借りています。

河竹黙阿弥で、慶応2(1866)年2月守田座初演の「文字ふねにうちこむはしまのしらなみ」序幕で、主人公の鋳掛屋いかけや松五郎が、屋形船のドンチャン騒ぎを見て、みみっちい堅気暮らしに嫌気が差し、心機一転盗賊になろうと決心する場面のセリフです。

下谷長者町 【RIZAP COOK】

台東区上野3丁目。当時は一丁目と二丁目とがあり、名前とは裏腹に、江戸有数のスラムでした。

町名は昔、このあたりに朝日長者という分限者が住んでいたことにちなみます。

幕府の公有地でしたが、明暦の大火(1657)後町割りが許可されました。

掛け取り万歳」に出てくる「貧乏をしても下谷の長者町 上野の鐘のうなるのを聞く」という狂歌でも、おなじみです。

「通」は江戸のブロードウェイ 【RIZAP COOK】

神田万世橋あたりから日本橋、京橋を経て芝金杉にいたる、江戸を南北に貫く大通りを単に「通り」または「通町」と呼びました。

江戸の者ならこれだけで通じるからで、吉原を「ナカ」というのと同じ、いかにもムダを嫌う江戸っ子らしい表現です。

町名としては通り一丁目から四丁目まであり、一丁目は現在の中央区日本橋通1丁目。

初代歌川(安藤)広重が「名所江戸百景」の一として、通一丁目の白木屋呉服店前の繁華街を生き生きと描きました。安政5(1858)年夏の情景です。

【語の読みと注】
八咫 やた
絣 かすり
船打込橋間白浪 ふねにうちこむはしまのしらなみ

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