ためしざけ【試し酒】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

今村信雄の新作。
いや、快楽亭ブラックの。
いやいや、中国笑話だとか。
そもそもは、ルバイヤートから。諸説紛々。

あらすじ

ある大家の主人。

客の近江屋おうみやと酒のみ談義となる。

お供で来た下男久造きゅうぞうが大酒のみで、一度に五升はのむと聞いて、とても信じられないと言い争い。

挙げ句の果てに賭けをすることになる。

もし久造が五升のめなかったら近江屋のだんなが二、三日どこかに招待してごちそうすると取り決めた。

久造は渋っていたが、のめなければだんなの面目が丸つぶれの上、散財しなければならないと聞き
「ちょっくら待ってもらいてえ。おら、少しべえ考えるだよ」
と、表へ出ていったまま帰らない。

さては逃げたかと、賭けが近江屋の負けになりそうになった時、やっと戻ってきた久造、
「ちょうだいすますべえ」

一升入りの盃で五杯、息もつかさずあおってしまった。

相手のだんな、すっかり感服して小遣いをやったが、しゃくなので
「おまえにちょっと聞きたいことがあるが、さっき考えてくると言って表へ出たのは、あれは酔わないまじないをしに行ったんだろう。それを教えとくれよ」
「いやあ、なんでもねえだよ。おらァ、五升なんて酒ェのんだことがねえだから、心配でなんねえで、表の酒屋へ行って、試しに五升のんできただ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

今村次郎、信雄

今村信雄いまむらのぶお(1894-1959)が昭和初期にものした新作といわれています。

父は講談や落語を専門とした速記者、今村次郎いまむらじろう(1868-1937)。明治期に始まった第一次落語研究会の発起人の一人でもありました。

息子の信雄も速記者です。

落語研究家も兼ねていて、『落語の世界』(青蛙房せいあぼう→平凡社ライブラリー、1956年)などの著作があるほど。

諸説紛々

ところが、この噺には筋がそっくりな先行作があります。

明治の豪人落語家、初代快楽亭かいらくていブラックが明治24年(1891)3月、演芸雑誌『百花園ひゃっかえん』に速記を残した「英国えいこく落話おとしばなし」がそれです。

主人公が英国ウーリッチの連隊の兵卒ジョン、のむ酒がビールになっている以外、まったく同じなのです。

このときの速記者が今村次郎ということもあり、今村信雄はこのブラックの速記を日本風に改作したのでは、と思われます。

では、オリジナルはブラックの作または英国産の笑話かというと、それも怪しいらしく、さらにさかのぼって、中国(おそらく唐代)の笑話に同パターンのものがあるともいわれます。

具体的な文献ははっきりしません。

結局、この種のジョークは気の利いた文才の持ち主なら誰でも思いつきやすいということでしょう。

類話はユーラシア全般に流布しているものと思われます。

本サイトでは、「英国の落とし噺」として別に項目を立てています。

噺の淵源がわかればこちらでお知らせすつもりです。

小さん十八番

初演は七代目三笑亭可楽さんしょうていからくです。

その可楽の演出を戦後、五代目柳家小さんが継承、ほぼ古典落語化するほどの人気作にしました。

今村信雄自身も『落語の世界』で、「今(1956年)『試し酒』をやる人は、柳橋りゅうきょう三木助みきすけ小勝こかつ、小さんの四人であるが、(中略)中で小さん君の物が一番可楽に近いので、今、先代可楽をしのぶには、小さんの『試し酒』を聞いてくれるのが一番よいと思う」と述べています。

のんべえ噺を得意にしていた人だけに、大杯たいはいをあおる場面の息の継ぎ方のうまさなど今さら言うまでもありません。

その小さん門下を中心に、現在もよく演じられ、大阪では桂米朝べいちょうの持ちネタでもありました。

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評価 :3/3。

えいこくのおとしばなし【英国の落とし噺】落語演目

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【どんな?】

酒好きが大酒競争を。
負けた男は悔しかった。
どうしてもそのからくりを知りたい。
酒豪自慢の噺。
種明かしは「ルバイヤート」。

【あらすじ】


倫敦近在、ウーリッチの兵営でのこと。

ある晩、さる陸軍大佐が宴会を開くことにした。

料理のあとには酒となって、話がはずむ。

一人の客が
「世間でまず、僕くらい酒をたんと飲む者はあるまい」
と、自慢を始める。

どれくらいいくのかい、と尋ねると、これこれこう、とこたえる。

たいしたことはないので、大佐が
「私の部下のジョンという兵士は、酒樽というあだ名がついていて、1本4合入りのビールを一度に15本は空にするだろう」
と、笑って話した。

客は自慢の鼻をへし折られそうなので、ムキになって
「そんならその兵士をここに連れてこいよ。飲めるか飲めないか、50ポンドの賭けだ」
と提案した。

よかろう、ということで、大佐がジョンを呼びにやる。

入り口でポカンと立っているジョンに、じつはかくかくしかじかと事情を話して
「もし15本、計6升のビールを飲み干せたら、たんまり小遣いをやるが、どうだ」
と持ち掛けた。

ジョンはしばらく思案した後、大佐にこう言った。

「あっしはたしかに酒好きですが、どのくらい飲めるかまだ試したことはありません。どうかだんな(大佐のこと)、とくと考えて返事しますんで、1時間だけお待ちくだせえ」
「いいだろう」

ということで、ジョンはお座敷(宴会場)を退いた。

1時間がたつと、ジョンが帰ってきた。

「ちょうだいいたしやす」

テーブルの上には、15本のビールがずらりと並べられた。

ジョン、給仕が次から次へと注ぐコップを、息も継がせずにきれいに15本分飲み干した。
あまりにあっと言う間だったので、一同はあっけにとられたが、賭けに負けた客は悔しくてならない。

ただの男がこんなにたくさん飲める道理がない、と。

「おまえが手妻使い(手品師)でなければ、なにか酒を飲んでも酔わない薬か、ありがたいお札やまじないでもあるんだろう。それを教えたまえ」

そう言って、客は兵士に詰め寄った。

ジョンは困って、
「ただの酒好きでさあ」
と言うばかり。

それでも客は、
「うそを言っちゃいかん。1時間の猶予をもらったのが、なによりの証拠じゃないか。その間、どこかへ行って薬を飲むか、なんぞまじないをしてきたに違いあるまい。キリキリ白状したまえ」
と、興奮ただならず。

ジョンは困り果て、もうお手上げという顔で
「じつはだんな、1時間の間に、飲めるかどうか、ちょっくら試しに、横町の酒屋でビール15本を飲んできましたんでさあ」

底本:初代快楽亭ブラック

【しりたい】

快楽亭ブラック

この噺の作者は、初代快楽亭ブラック(ヘンリー・ジェイムズ・ブラック、1858-1923)。

明治期に活躍した落語家です。

講釈師、奇術師でも活躍した、多才の人でした。

当時はまだ英領だったオーストラリアのアデレードで生まれました。

先祖はスコットランド人で、祖父の代までは陸海軍の軍人だったそうですが、父親がどこか異端だったようです。

ジョン・レディー・ブラックは、アジア各地を巡業する歌手でした。

慶応元年(1865)、横浜に上陸し、しばらくして後、「週刊ジャパン・ヘラルド」紙の記者となりました。

歌手から記者へ

新聞記者となった父を追い、母とともに来日したのが、息子のヘンリーでした。

父のジョンはその後、「日新真事誌」紙で明治政府の政策をさんざん非難したことで、同紙は廃刊となり、日本を見限って上海に逃げてしまいました。

18歳の息子は日本に残り、明治9年(1876)、奇術の三代目柳川一蝶斎一座に雇われて西洋奇術を始めました。「ハール・ブラック」という芸名でした。

いったん海外に出たヘンリーは、明治12年(1879)にはふたたび来日。

今度は、講談の二代目松林伯円(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905、新聞伯円、泥棒伯円)に誘われて、横浜馬車道の富竹亭で政治演説に出演したりしています。

明治13年(1880)には、改めて二代目伯円に入門し、「英人ブラック」と名乗りました。

政府の許可が必要だったり、高座に出たところで、知人などからが猛反対したりして、結局は、廃業して英語塾を開いたりもしています。

それでも、人前での熱演が忘れられず、演芸界の舞い戻ることに。

明治17年(1884)、不度は、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)、三代目三遊亭円生(嶋岡[野本]新兵衛、1839-81)らの三遊派に入りました。

「快楽亭ブラック」を名乗ったのは、明治24年(1891)3月からです。

明治26年(1893)4月には、浅草猿若町菓子店の娘、石井アカと結婚して婿養子となりました。

のち、ヘンリーの男色癖を理由に離婚しますが、ここで彼は念願の日本国籍を取得し、「石井貌剌屈」と改名しました。

ドナルド・キーンの「鬼怒鳴門」もそうですが、欧米人の帰化名が日本人の感覚と少々の異なるのはなぜでしょう。

ブラックは創作の噺家でした。これがすごい。

その手法は、どこか円朝の創作法に似ています。なにがしかの影響があったはずです。

西洋の小説を翻案した短編小説や、それを素材に噺をつくり出したのを手始めに、次第に自作の噺をつくるようにまでなります。

べらんめえ調をあやつる青い眼の噺家。

これが、寄席客には奇異に映り、人気を博しました。

噺ばかりか、その途中に手品を見せたりも。

歌舞伎の舞台に端役で飛び入り出演も。

明治29年(1896)には、日本初の催眠術実演も行っています。

ブラックと録音技術

明治36年(1903)に英グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日します。

通訳を介さずに会話ができる利点を生かして、ブラックは落語、浪曲、かっぽれなど諸芸を録音円盤に録音することを誘います。

日本初のレコード録音です。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)、初代浪花亭愛造(黒屋貞吉、1870-1906)、豊年斎梅坊主(松本梅吉、1854-1927)などの肉声が残ることになりました。

円朝は間に合いませんでしたが。

ブラックの、この功績はあまりあるほど偉大でした。

外国人の凋落

明治40年(1907)頃から、ブラックの人気が凋落していきます。

お雇い外国人が一掃されて、国家が軍艦を自前でつくれるようになる時期と、不思議に一致します。

ブラックは自殺未遂事件まで起こすほどに落ちぶれます。

それでもなんとか生き抜いたのですが、人気は落ちたまま。

大正12年(1923)9月19日、白金三光町の自宅で亡くなりました。脳卒中でした。

関東大震災を経験したのですね。64歳。生き抜きました。えらいもんです。

横浜の外国人墓地に、父の隣に埋葬されました。

この親子を調べると、明治期日本の本性が見えてきます。

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