こわかれ【子別れ】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

大工の熊は吉原の女にほうけて、女房子供を追い出す。
長屋に入った女は飯も炊かなければ仕事もせず。出ていった。
数年後。熊は左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。
息子と再会し鰻食いを約束。それが機縁で元の鞘に。子は鎹の一席。

別題:女の子別れ 強飯こわめしの女郎買い(上) 子はかすがい(中と下で)

【あらすじ】

腕はいいが、大酒飲みで遊び人、大工の熊五郎。

ある日、山谷の隠居の弔いですっかりいい心持ちになり、このまま吉原へ繰り込んで精進落としだと怪気炎。

来合わせた大家が、そんな金があるなら女房子供に着物の一つも買ってやれと意見するのもどこ吹く風。

途中で会った紙屑屋の長さんが、三銭しか持っていないと渋るのを、今日はオレがおごるからと無理やり誘い、葬式で出された強飯の煮しめがフンドシに染み込んだと大騒ぎの挙げ句に三日も居続け。

四日目の朝。

神田堅大工町の長屋にご機嫌で帰ってくると、かみさんが黙って働いている。

さすがに決まりが悪く、あれこれ言い訳をしているうちに、かみさんが黙って聞いているものだからだんだん図に乗って、こともあろうに女郎の惚気話まで始める始末。

これでかみさんも堪忍袋の緒が切れ、夫婦げんかの末、もう愛想もこそも尽き果てたと、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。

うるさいのがいなくなって清々したとばかり、なじみのおいらんが年季が明けると家に引っ張り込むが、やはり野に置け蓮華草、前のかみさんとは大違いで、飯も炊かなければ仕事もせず。

挙げ句に、こんな貧乏臭いところはイヤだと、さっさと出ていってしまった。

一方、夫婦別れしたかみさん。

女の身とて決まった仕事もなく、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てている。

ある日、亀坊がいじめられて泣いていると、後ろから声を掛けた男がいる。

振り返ると、なんと父親。

身なりもすっかり立派になって、新しい半纏を着込んでいる。仕事の帰りらしい。

あれから一人になった熊五郎、つくづく以前の自分が情けなくなり、心機一転、好きな酒もすっかり絶って仕事に励み出したので、もともと腕はいい男、得意先も増え、すっかり左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。

偶然に親子涙の再会とあいなり、熊はせがれに五十銭の小遣いをやってようすを聞くと、女房はまだ自分のことを思い切っていないらしいとわかる。

内心喜ぶが、まだ面目なくて会えない。

その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊に約束し、その日は別れる。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、おやじに、おれに会ったことはまだおっかさんに言うなと口止めされているので、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかすが、もの堅い母親は聞き入れない。

貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない、人さまのお金をとるなんて、なんてさもしい料簡を起こしてくれたと泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまう。

聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれないが、やはり、まだよりを戻すのははばかられる。

その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやるが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。

こうして、子供のおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まるという、「子は鎹(かすがい)」の一席。

【しりたい】

長い噺   【RIZAP COOK】

初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)の作。長い噺なので、上中下に分けられています。

普通は、中と下は通して演じられ、別題を「子はかすがい」といいます。

かすがいは大工が使う、大きな木材をつなぐためのカギ型の金具です。

打ち込むのにゲンノウを用いるので、母親が「ゲンノウでぶつよ」と脅かす場面が、幕切れの「子はかすがい」という地のサゲとぴたりと付きます。

「かすがいを打つ」   【RIZAP COOK】

という慣用句もあり、人の縁をつなぎ止める意味です。

上は五代目古今亭志ん生が、「強飯こわめしの女郎買い」として独立させ、紙屑屋を吉原に誘う場面の掛け合いで客席を沸かせました。

むろん、後半の「子別れ」は別にみっちりと演じています。

志ん生は母親の表現に優れ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、上の通夜の場面から綿密に演じました。

戦後では、やはりこの二人が双璧だったでしょう。

熊&紙長さんの「掛け合い漫才」   【RIZAP COOK】

熊「いくらあんだい? 一両もあんのかい一両も?」
長「一円? 一円なんぞあるもんか」
熊「八十銭かァ?」
長「八十銭ありゃしないよ」
熊「六十銭か」
長「六十銭…までありゃいいんだがね」
熊「五十銭だな」
長「五十銭にちょいと足りねえんだ」
熊「じゃ四十銭だ」
長「もうすこしってとこだ」
熊「三十五銭か」
長「もう、ちょいとだ」
熊「三十銭か」(このあたりで客席にジワ)
長「もうすこしだ」
熊「二十五銭だな」
長「うう、もうちょいと」
熊「二十銭かァ」
長「うう、くやしいとこだ」(爆笑)
熊「十五銭かァ?」
長「もうすこし」
熊「十銭か」
長「うう、もうちょいと」(高っ調子で)
熊「五銭だな?」
長「もうすこしィ」
熊「三銭か」
長「あ当たった」
熊「あこら三銭だよ」

最後の「三銭だよ」に絶妙の間で客の大爆笑がかぶさります。志ん生のライブならではの醍醐味。

活字では、とうてい表現しきれません。

ゲンノウでぶつ   【RIZAP COOK】

母親が五十銭の出所を白状させようと、子供を脅す場面があります。

ゲンノウ(玄翁)は言うまでもなく、大工が使う大型の鉄の槌です。

六代目三遊亭円生は、カナヅチ(金槌)でやりました。

芸談によると、古今亭志ん生に注意され、なるほど、女が持つにはゲンノウは重くて大きすぎると気がついたそうです。

当の志ん生はというと、当然ながら「ここにお父っつァんの置いてったカナヅチがあるから、このカナヅチで頭ァ、たたき割るぞッ」と言っています。

もっとも、単なる脅かしですし、大きいから子供が怖がると考えれば、ゲンノウでもいいと思います。

昔の落語家は、噺の中のちょっとした小道具にも常にリアリティーを考え、気を使っていたことがわかるような逸話ですが、当の志ん生だって、火焔太鼓を手に持ってお屋敷に乗り込むわけですから、どこかでのリアリティーなのか、あやしいもんです。

「女の子別れ」   【RIZAP COOK】

明治初期に三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)は、柳枝の原作を脚色し、あべこべに、出て行くほうがかみさん(母親)で、亭主(父親)が子供と暮らすという「女の子別れ」として演じました。

やはりゲンノウの場面を気にして、ゲンノウで脅すなら父親の方が自然だろう、というのが直接の動機だったようです。

なによりも、「男の子は父親につく」という夫婦別れのときの慣習や、亭主の方が家を出るのは(当時としては)不自然というのが、円朝の頭にあったのでしょう。

この「女の子別れ」は、円朝の高弟、二代目三遊亭円馬(竹沢釜太郎、1854-1918)が大阪に伝えています。

明治33年(1900年)、円馬は大阪にいたのを、円朝危篤の報でいったん帰京しました。

8月11日、円朝が亡くなります。

すぐに大阪に戻るよう、藤浦三周(円朝のパトロン)に命じられ、ついでに京都の天竜寺に立ち寄り、9月の葬儀に読経してくれるよう、交渉したそうです。

そんなこんなで東西を往還していた結果でしょうか、明治期の大阪では、三代目月亭文都(梅川五兵衛、幕末-1918、立ち切れの)が「女の子別れ」を得意にしていました。

今は、東西ともこのやり方で演ずることはありません。

東京嫌いの宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、「子供をカセにお涙ちょうだいのあの手この手を使った、ウエットなヒネクレ落語で、ドライな笑いを好む大阪の水には合いにくい」と述べています。

下足番に習った「子別れ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が生前、対談でこんな回想をしています。

志ん生がまだ二つ目で、旅興行でさすらい歩いていたとき。

流れ着いた甲府の稲積亭といううらぶれた席で、「子別れ」を一席やったところ、そこの下足番の爺さんに、「あすこんとこはまずい」と注意されたので、なに言ってやがる、と思ったそうです。

よく聞いてみると、この爺さん、昔は四代目三升亭小勝(石井清兵衛、1856-1906、狸の)の弟子で「小常」といったれっきとした噺家。

旅興行のドサまわりをしているうちにここに落ち着き、とうとう下足番になり、年を取ってしまったとのこと。

昔はこういうケースはよくあったようです。

志ん生は夏の暑いさ中、爺さんのボロ小屋で虫に食われながら「子別れ」をさらってもらったそうです。

なんだか哀れな、ものさびしい話です。

でも、志ん生の自伝『びんぼう自慢』では、小常から習ったのは「甚五郎の大黒」(→三井の大黒)ということになっていています。

こうなると、どちらが本当なのか、もはやわかりません。

ちなみに、小勝は四代目までは「三升家」ではなく「三升亭」でした。

「三升亭小常」だったという元噺家。

四代目小勝の弟子には「小つね」というのがいました。のちの三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、代地の、せっかちの)です。大看板でした。

「小常」と「小つね」。この話そのもの、どうもあやしいにおいがしますが、心に残る悪くない逸話ではありますね。

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評価 :2/3。

かたぼう【片棒】落語演目



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【どんな?】

息子三人に自分の葬式案を語らせるおやじ。
三者三様に大あきれ。
けちの噺。

別題:赤螺屋(上方)

あらすじ

赤螺屋あかにしや吝兵衛けちべえという男。

一生食うものも食わずに金をため込んだが、寄る年波、そろそろ三人の息子の誰かに身代を譲らなくてはならない。

かといって、今のままでは三人の料簡がわからず、誰に譲ったらいいか迷ってしまう。

ある日、息子たちを呼んで、「俺がかりに、もし明日にでも目をつむったら後の始末はどうするつもりか」
と一人ずつ聞かせてもらいたいと言う。

まず、長男。

「おとっつぁんの追善ついぜんに、慈善事業に一万両ほど寄付する」
と言い出したから、おやじ、ど肝を抜かれた。

葬式もすべて特別あつらえの豪華版。

袴も紋付きも全部新規にこしらえ、料理も黒塗り金蒔絵きんまきえの重箱に、うまいものをぎっしり詰め、酒も極上の灘の生一本。

その上、車代に十両ずつ三千人分……。

吝兵衛、ショック死寸前。

「と、とんでもねえ野郎だ、葬式で身上をつぶされてたまるか」

次! 次男。

「お陽気に、歴史に残る葬儀にしたい」
と言いだしたから、おやじはまたも嫌な予感。

案の定、葬式に紅白の幕を飾った上、盛大な行列を仕立て、木遣きやり、芸者の手古舞てこまいに、にぎやかに山車だし神輿みこしを繰り出してワッショイワッショイ。

四つ角まで神輿に骨を乗せて担ぎ出す。

拍子木ひょうしぎがチョーンと入った後、親戚総代が弔辞ちょうじ
「赤螺屋吝兵衛くん、平素粗食に甘んじ、ただ預金額の増加を唯一の娯楽となしおられしが、栄養不良のためおっ死んじまった。ざまあみ……もとい、人生おもしろきかな、また愉快なり」
と並べると、一同そろって
「バンザーイ」

「この野郎、七生しちしょうまで勘当かんどうだっ!!」

次っ! 三男。

「おい、もうおまえだけが頼りだ。兄貴たちの馬鹿野郎とは違うだろうな」
「当然です。あんなのは言語道断ごんごどうだん、正気の沙汰さたじゃありません」

やっと、まともなのが出てきた。

おやじ、跡取りはコレに決まったと安心したが、
「死ぬってのは自然に帰るんですから、りっぱな葬式なんぞいりません。死骸は鳥につつかせて自然消滅。これが一番」
「おいおい、まさかそれをやるんじゃ」
「しかたがないから、まあお通夜を出しますが、入費がかかるから、一晩ですぐ焼いちまいます。出棺は十一時と言っといて八時に出しちまえば、菓子を出さずに済みます。早桶は菜漬けの樽の悪いので十分。抹香まっこうは高いからかんなくず。樽には荒縄を掛けて、天秤棒てんびんぼうで差しにないにしますが、人を頼むと金がかかりますから、あたしが片棒を担ぎます。ただ、後の片棒がいません」
「なに、心配するな。俺が出て担ぐ」

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しりたい

元は上方噺

宝永2年(1705)京都板『軽口あられ酒』巻二の七「きままな親仁」が原話といわれています。

この板本では親仁おやじに名前はありませんが、これが東京に行って「片棒」となると、赤螺屋ケチ兵衛という名前が付きます。

またまた吝兵衛登場!

今回の屋号はあかにしや。

「あかにし」は田螺たにしで、金を握って放さないケチを、田螺が殻を閉じて開かないのにたとえたものです。だから、田螺はケチを暗示しているのです。

上方ではケチは当たり前なので、あまりケチ噺は発達しなかったようです。

葬式

この噺にあるように、かつて富裕層の間では、会葬者に、上戸は土瓶の酒、下戸には饅頭、全員に強飯こわめしと煮しめなどの重箱を配ったものです。

ケチ兵衛ほどしみったれていなくとも、ぐずぐずして会葬者が増えれば、それだけ出すものも出さねばならず、経費もかさむ勘定です。

今も昔も、葬儀の費用はばかになりませんが、明治から大正の初期ぐらいまでは、よほどの貧乏弔いでない限り、どこの家でも仰々しく葬列を仕立てて斎場まで練り歩いたので、余計に物入りだったでしょう。

さまざまなくすぐりと演出

笑いが多く、各自で自由にくすぐりを入れられるため、現在もよく演じられます。

全体のおおまかな構成は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)のものが基本になっています。

戦後では、「留さん」こと九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、自分自身がケチだったこともあって、ことのほか得意にしていました。

会葬者一同の「バンザーイ」や、飛行機から電気仕掛けで垂れ幕が出るギャグ、鳥につつかせる風葬というアイデアも文治のものです。

葬列に山車を繰り出す場面を入れたのは、初代三遊亭銀馬(大島薫、1902-1976)でした。

長男は松太郎、次男を竹次郎、三男梅三郎と、皮肉にも松竹梅で名前をそろえることもあります。

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にじゅうしこう【二十四孝】落語演目 

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【どんな?】

『の・ようなもの』で。
志ん魚が下町女子高生のお宅でこの噺を。
ウケず。残念。

あらすじ】  

長屋の乱暴者の職人、三日にあけずにけんか騒ぎをやらかすので、差配さはい(=大家)も頭が痛い。

今日もはでな夫婦げんかを演じたので、呼びつけて問いただすと、朝、一杯やっていると折よく魚屋が来てあじを置いていったので、それを肴にしようと思ったら、隣の猫が全部くわえていったのが始まり。

「てめえんとこじゃ、オカズは猫が稼いでくるんだろッ、泥棒めッ」
とどなると、女房が
「たかが猫のしたことじゃないか」
と、いやに猫の肩を持つので、
「さてはてめえ、隣の猫とあやしいなッ」
と、ポカポカポカポカ。

見かねた母親が止めに入ると
「今度はばばあ、うぬの番だ」
と、げんこつを振り上げたが、はたと考え、改めて蹴とばした、という騒ぎ。

大家はあきれて、
「てめえみたいな親不孝者は長屋に置けないから店を空けろ」
と怒る。

嫌だと言えば、「これでも若いころには自身番に勤めて、柔の一手も習ったから」
と脅すと、さすがの乱暴者も降参。

「ぜんてえ、てめえは、親父が食う道は教えても人間の道を教えねえから、こんなベラボウができあがっちまったんだ。『孝行のしたい時には親はなし』ぐらいのことは知ってそうなもんだ。昔は青緡五貫文あおざしごかんもんといって、親孝行すると、ごほうびがいただけたもんだ」「へえ、なにかくれるんなら、あっしもその親孝行をやっつけようかな。どんなことをすりゃいいんです」

そこで大家、
「昔、唐国に二十四孝というものがあって……」
と、故事を引いて講釈を始める。

例えば、秦の王祥おうしょうは、義理の母親が寒中に鯉が食べたいと言ったが、貧乏暮らしで買う金がない。そこで氷の張った裏の沼に出かけ、着物を脱いで氷の上に突っ伏したところ、体の温かみで溶け、穴があいて鯉が二、三匹跳ね出した。

「まぬけじゃねえか。氷が融けたら、そいつの方が沼に落っこちて往生(=王祥)だ」
「てめえのような親不孝ものなら命を落としたろうが、王祥は親孝行。その威徳を天が感じて落っこちない」

もう一つ。

孟宗もうそうという方も親孝行で、寒中におっかさんがたけのこを食べたいとおっしゃる。

「唐国のばばあってものは食い意地が張ってるね。めんどう見きれねえから踏み殺せ」
「なにを言ってるんだ」

孟宗、くわを担いで裏山へ。冬でも雪が積もっていて、筍などない。一人の親へ孝行ができないと泣いていると、足元の雪が盛り上がり、地面からぬっと筍が二本。

呉孟ごもうという人は、母親が蚊に食われないように、自分の体に酒を塗って蚊を引きつけようとしたが、その孝心にまた天が感じ、まったく蚊が寄りつかなかった、などなど。

感心した親不孝男、さっそくまねしようと家に帰ったが、母親は鯉は嫌いだし、筍は歯がなくてかめないというので、それなら一つ蚊でやっつけようと、酒を買う。

ところが、
「体に塗るのはもったいねえ」
とグビリグビリやってしまい、とうとう白河夜船しらかわよふね

朝起きると蚊の食った跡がないので、喜んで
「ばあさん見ねえ。天が感ずった」
「当たり前さ。あたしが夜っぴて(一晩中)あおいでいたんだ」

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しりたい】  

二十四孝な人たち  【RIZAP COOK】

『二十四孝』は中国の書。後世の模範となり得る、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた事跡をまとめています。元代の郭居敬が編集。

日本へは室町時代に伝わり、和訳の御伽草子で広まり、その影響は大きいものでした。江戸時代に入るとさらに大きく、四字熟語、関連物品の名称として一般化したもの、仏閣の建築物、人物図などが描かれたりしました。御伽草子や寺子屋の教材にも採られていました。

幕末には草双紙の『絵本二十四孝』も出ました。これは江戸時代を通してのベストセラーとなったほど。江戸時代には、二十四孝を知らない人はいなかったといえるでしょう。

ただ、この24人の事績はどこか逸脱しており、江戸人の茶化しのタネにはおあつらえ向きとなりました。落語で笑う題材にはなるべくしてなったといえるでしょう。

マクラなどで随時採り上げられる、その他の感心な方々に、王褒おうほう郭巨かっきょ黄山谷こうざんこくなどがいます。

「王褒と雷」は、雷嫌いの母親が死んで、王褒がその墓を雷から守るという、忠犬ハチ公か忠犬ボビーのようなお話。

「郭巨の釜掘り」では、母親に嫁の乳をのませるため、子供を犠牲にして生き埋めにしようとすると、金塊を掘り当てるという猟奇的な話。

黄山谷は、父親の下の世話をするというもので、現代の介護問題の先取りのような話。名前からしてクサイものに縁がありそうな男ですが。

このうち郭巨の逸話は、戦前の日本ではかなりポピュラーで、明治の「珍芸四天王」の一人、四代目立川談志(中森定吉、生年不明-1889)がパントマイムのネタにし、「この子があっては孝行ができない、テケレッツノパ、天から金釜郭巨にあたえるテケレッツノパ」とやって大当たりしたことで有名です。人気があったことからこの人を初代談志とする向きもあります。

孟宗の筍掘りは、歌舞伎時代狂言『本朝二十四孝』の重要なプロットになっているほか、かつて、三木のり平が声の出演をしていた「桃屋」のテレビCMでも、パロディー化して使われました。魯迅ろじん(周樹人、1881-1936)はこのばかばかしさを批判的に描いてはいますが。

差配  【RIZAP COOK】

明治以後、大家が町役でなく、単なる「管理人」となってから、この名で呼ばれるようになりました。「差配する」とは、文字通り、土地や建物を管理する意です。

オチの工夫  【RIZAP COOK】

古い速記は、明治24年(1891)7月の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)、ついで同27年(1894)7月、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のものが残っています。

現在でも、多くの落語家が手掛けていますが、「道灌」と同様、前座噺の扱いで、どこでも切れるため演者によってオチが異なります。

たとえば、呉孟をまねるくだりでも「オレなら、二階の壁に酒を吹っかけて、蚊が集まったところで梯子をはずす」というもの、母親が「甘酒がのみたい」と言うのを「二十四孝に酒はねえ」とオチるものなど、さまざまです。

孟宗のくだりで切って、母親が筍のおかわりを求めるので、「もう、そうはねえ」と地口で落とす場合もあります。

現行は、今回あらすじに記載した形が、もっとも一般的です。

八代目林家正蔵(=彦六、岡本義、1895-1982)は、大家が「孟宗の親孝行を」と言いかけたのを「おっと、天が感じたね」と先取りしてオチにし、時代を明治初期としていました。

中国の説話から構成  【RIZAP COOK】

原話は、安永9年(1780)刊の笑話本『初登はつのぼり』中の「親不孝」。これは、先述の通り、中国・元代(1271-1368)にまとめられた儒教臭ぷんぷんの教訓的説話をもとにしたものです。王祥や孟宗の逸話を採ったものを主にして、それらに呉孟のくだりなどいくつかの話を付け加えて、新たにつくられました。



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こうこうとう【孝行糖】落語演目



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【どんな?】

親孝行の与太郎が飴売りに。
長屋総出で応援する社会更生の麗しい一編。

あらすじ

今年二十一になるが、頭の中がうすぼんやりしている与太郎。

親孝行のほうびに、おかみから青緡五貫文あおざしごかんもんをちょうだいした。

大家がこれを機会に、この金を元手にして、なんとか与太郎の身の立つように小商いでも考えてやりたいと、長屋の衆に相談する。

一人が、昔、役者の嵐璃寛あらしりかん中村芝翫なかむらしかんの顔合わせが評判を呼んだのに当て込んで、璃寛糖りかんとう芝翫糖しかんとうという飴を売り出してはやらせた人がいるから、それにならって、与太郎に飴を売らせたらどうか、と提案。

璃寛糖は、頭巾ずきんをかぶりかねと太鼓を前につるして、
「チャンチキチン、スケテンテン」
というのを合い方に、
璃寛糖りかんとうの本来は、うるち小米こごめに寒ざらし、かやァに銀杏ぎんなん肉桂にっき丁子ちょうじ、チャンチキテン、スケテンテン。昔、むかし、唐土もろこしの、二十四孝にじゅうしこうのその中で、ほら老莱子ろうらいしといえる人、親を大事にしようとて、ほら、こしらえあげたる孝行糖、食べてみな、ほらおいしいよ、また売れたったら、うれしいねっ」
と歌って歩いたもの。今回、与太郎は孝行でほうびをもらったのだから、名前も「孝行糖」、文句はそっくり借りることにしよう、というので一同賛成し、それからというもの、総出で与太郎に歌を暗記させた。

ナントカの一つ覚えで、かえって普通の人より早く覚えたので、町内で笛、太鼓、身なりともにそっくりしたくしてやって、与太郎はいよいよ飴売りに出発。

親孝行の徳か、この飴を買って食べさせると子供が孝行になるという噂が広がって大評判。

売れると商売にも張り合いが出るもので、与太郎、雨の日も風の日も休まず、
「スケテンテン、コーコートー」
と流して歩く。

ある日、相変わらず声を張り上げながら、水戸さまの屋敷前を通りかかる。

江戸市中で一番やかましかったのがここの門前で、少しでもぐずぐずしていると、たちまち門番に六尺棒ろくしゃくぼうで「通れ」と追い払われる。

ところがもとより与太郎、そんなことは知らないから、能天気に
「孝行糖の本来は、粳の小米に寒ざらし……」
とやったから、門番、
「妙な奴が来たな。とおれっ」
「むかしむかし、もろこしの、二十四孝のその中で」
「行けっ」
「食べてみな、おいしいよ」
「ご門前じゃによって鳴り物はあいならん」
「チャンチキチン」
「ならんというんだ」
「スケテンテン」
「こらっ」
「テンドコドン」

……叱言を鳴り物の掛け声に使ったから、たちまち六尺棒でめった打ち。

通りかかった人が、
「逃げろ、逃げろ……どうぞお許しを。空ばかでございますが、親孝行な者……これこれ、こっちィこい」
「痛えや、痛えや」
「痛いどころじゃねえ。首斬られてもしょうがねえんだ。……どこをぶたれた」
と聞くと与太郎、頭と尻を押さえて
「ココォと、ココォと」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

実在した与太郎

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説があります。

実はそのずっと以前、弘化こうか3年(1846)2月ごろから藍鼠色あいねずいろ霜降しもふりたけのこを描いた半纏はんてんを着て、この噺の与太郎とまったく同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが、『藤岡屋日記ふじおかやにっき』に記されています。

政商だった藤岡屋由蔵よしぞうの見聞記です。まず、当人に間違いありません。

青緡五貫文

唐茄子屋政談」「松山鏡」にも登場しますが、銭五貫文は幕末の相場でおよそ一両一分。四千八百文にあたります。

現在の相場で約10万円。

それを青く染めた麻縄の銭挿し(これが青緡あおざし)に通して、孝行のほうびに町奉行より下されます。「青緡五貫文」といったら、なにか特別のことをしてお奉行さまから授かった特別な人、というイメージがついてまわるのです。

それにしても、賞状や勲章ではなくお金をくれるなんて、江戸幕府はずいぶん即物的な感覚だったのですね。

水戸さまの屋敷前

水戸藩の上屋敷。現在の後楽園遊園地、東京ドーム、小石川後楽園、飯田橋職業安定所を含む文京区後楽一丁目全部を占めました。

このうち、東京ドームの場所には、明治維新後、陸軍砲兵工廠こうしょうが建てられ、昭和12年(1937)、その移転後の跡地に旧後楽園球場が建設されました。

コワーイ門番

藩邸の門番は一般には身分は若党で、最下級の士分です。

水戸藩上屋敷は「日暮らし門」と呼ばれた華麗な正門が有名で、左甚五郎ひだりじんごろう作の竜の彫刻をあしらっていました。正門から江戸川堤まで「水戸さまの百軒長屋」といい、ずらりと中級藩士の住む長屋が続いていました。

門番だけでなく、こうした中・下級藩士による「町人いびり」も、ままあったようです。

これも上方由来

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移植。

先の大戦後は三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番として知られ、二代目三遊亭金翁(松本 龍典、1929-2022、四代目金馬→)が継承して得意にしていました。

「本場」の大阪では、現在は演じ手がないようです。



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すねかじり【脛かじり】落語演目

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【どんな?】

怪談、はたかた食人譚か。
と思いきや。
ありゃりゃ、なーんだ、落語かよ。

別題:いろ屋の花嫁(上方) かいな食い(上方)

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【あらすじ】

勘当された若だんな。

今は居候の身だが、いっこうに改心するようすがない。

預かり先の亭主、このままではためにならないと、若だんなを目黒鬼子母神の近藤作右衛門方の婿養子に世話する。

実は、若だんなはもうとっくに偵察してあるが、そこの娘は婚期を逸してもう二十五、六になるものの、大変な美人。

おまけに資産もある。

ところが、亭主の言うには、縁がつかなかったにはわけがあり、原因は不明だが、今まで何度か婿を取ったものの、三日と居ついたことがない、という。

若だんなは、そんな話には耳を貸さず、色と欲との二人連れで、さっそく飛びついた。

順調に話がまとまり、さて、婚礼の晩。

仲人は宵の口と客が帰った後、いよいよ待ちに待った床入りという時になって、娘は
「これからちょっと用事がありますから、少しの間お暇を」
と、妙なことを言うと、部屋から出て行ってしまう。

スカタンを食わされた若だんな、こんな夜中にどこへ行くのかと跡をつけると、なんと新妻は鬼子母神の墓場へ。

見ていると、新仏の石塔をのけ、土饅頭の中に手を入れて、死人の手をむしゃむしゃ食らう。

「ははあ、さてはこれが婿の居つかなかった原因か」
と、若だんな、

部屋に逃げ戻ってガタガタ震えていると、女が戻ってきた。

「あたしはもう寝ないで神田に帰ります。命ばかりはお助けを」
「さては、私が墓場でやっていたことを」
「へえ、なにかおいしそうにお召し上がりで」

女は、
「見られたのならしかたがありません。私は子供のころから、どういうわけか人の肉が好きで、母親に、代わりにザクロを食べさせられていたのですが、両親が鬼子母神に願掛けをして授かった子なので、その因果か人肉の味を思い切れません。それさえがまんしてくれれば、どんなことをしてでもあなたに尽くします」
と誓ったので、若だんなも承知して、めでたく夫婦になる。

「私もずいぶん人を食っていると言われるが、いったい、体のうちじゃあ、どこが一番おいしいんでしょう」
「そうですね、まず腕が一番です」
「それは無理もない。あたしも親父の脛をかじった」

うんちく

上方落語を改作 【RIZAP COOK】

オチの部分の「親のすねをかじる」の原話は、安永3年(1774)刊『茶のこもち』中の「子息」。

別の原話として、宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、安永同5年(1776)刊『売言葉』中の「猫また」を挙げています。これは、遊女と同衾中の男が、夜中に、女が行灯の陰で人の腕をむさぼり食っているのを目撃、これは猫またかと恐れおののきますが、翌朝見ると、それはトウモロコシの殻だった、というオチで、「脛かじり」との関連性は薄いようです。

上方落語「かいな食い」「いろ屋の花嫁」が、明治中期に東京に移植されたもので、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が鬼子母神伝説を加味して改作しました。明治23年(1890)の円遊の速記が残っており、移植者も円遊かと思われますが、はっきりしません。

上方の「かいな食い」は伝説とは無関係で、勘当された若だんなが養子に行く設定は同じですが、女は単に人間の生血、死血を吸いたい病で、赤子の死骸を棺桶(または墓地)から引きずり出して食らうなど、よりリアルで、猟奇性が強いものとなっています。

現在、演じ手は東西ともに絶えています。

鬼子母神伝説 【RIZAP COOK】

鬼子母神とは、インドの仏教説話中の鬼女です。サンスクリット語でハーリーティといい、「歓喜母」「愛子母」とも記されています。

インド、王舎城の夜叉(鬼神)の娘で、絶世の美女でしたが、鬼神の王、般闍迦の妻になり、千人(一説に一万人)の子を産みました。人の子(一説に自分の子)を殺して食べるのを常としていたので、人々はおそれおののき、仏陀にすがると、仏陀は、鬼子母神がかわいがっていた末子の嬪迦羅を隠します。鬼母は狂乱し、仏陀を訪ねて助けを乞うと、仏陀は「千(万)の子がいてさえ、たった一人の子を失ってそなたは悲しんでいるが、多くて五、六人しかいない子の一人を殺された母親の悲しみを考えねばならない」と諭しました。鬼母は、今後決して子供を食うことはせず、すべての子供の守護神となることを誓ったので、仏陀は嬪迦羅を返してやりました。

仏陀が、また病気が出ぬようにと、味と色が人肉に似たザクロの実を与えたことから、鬼子母神像は、常に右手に吉祥果を持ち、左手に子供の嬪迦羅を抱いています。鬼女像もありますが、多くはギリシアのアフロディテを思わせる豊満な美女像とされます。

「清正公酒屋」で、せがれがおやじに鬼子母神伝説を説明し、「あたしは千人どころか一粒種だから、勘当なんぞはできません」と開き直る場面がありますが、日本でも鬼子母神は子授け、安産、幼児養育の守り神として各地で信仰されています。

鬼子母神を祀るのは神社ではありません。仏教説話由来ですから、とうぜんお寺です。しかも、日蓮宗が率先して鬼子母神をまつります。鬼子母神の名称が落語などに出てくれば、日蓮宗の教えやお寺を想起すると噺の理解が早いでしょう。

死体嗜好 【RIZAP COOK】

バーバリズム(人肉食)は、死体嗜好症(ネクロフィリア)と結びついてヨーロッパ各地にも多く、しばしば猟奇的な殺人事件が報告されますが、一種の精神障害といわれます。

【語の読みと注】
嬪迦羅 ビャンガラ
腕 かいな
般闍迦 ハンジャカ
吉祥果 きっしょうか:ザクロ

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ろくしゃくぼう【六尺棒】落語演目



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【どんな?】

ほとんど二人だけ。
おやじと息子の対話噺。

【あらすじ】


道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。

店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。

番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。

「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……。あなたのせがれの孝太郎で」

さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。

「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊びに火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたと、どうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」

あしたっからもう家にいます、と謝ろうが、跡取りを勘当しちまって家はどうなる、と脅そうが、いっこうに効き目なし。

自殺すると最後の奥の手を出しても……。

「止めんなら、今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていた、とお伝えを願います」

孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。

「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」

親父が小言にかかると、孝太郎、
「養子をとってまでどうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまいましょう」
と脅迫する。

言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまからようすをうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。

六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」

幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げだした。

抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。

いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。

そこへおやじが、腰をさすりながら戻ってくる。

「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。おまえのおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」

立場がまるっきり逆転。

「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと『一杯のんだらどうだ。小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」

それを聞いて、おやじ、
「なにを言いやがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」

底本:初代三遊亭遊三

【しりたい】

三遊亭遊三

文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。

明治末期には、御家人上がりで元彰義隊士という異色の落語家、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)が得意にしていました。

とはいえ、この遊三はヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、のむ打つ買うの三道楽だけが一人前。

お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと逃走。

維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。

カラスをサギ、有罪を無理やり無罪にして、あっさりクビに。

これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。

十朱幸代さん(俳優)の曽祖父にあたる人です。十朱久雄(俳優)の祖父ですね。あたりまえですが。

遊三から志ん生へ

遊三は、美濃部戌行と初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達だったそうです。

美濃部戌行は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の父親、初代円遊は明治の爆笑王です。

その関係からか、遊三は孝蔵少年(志ん生)をかわいがりました。

志ん生は「火焔太鼓」「疝気の虫」「六尺棒」などを遊三から会得しています。

遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、セガレになめられっ放し、ということがよくわかります。

本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。

志ん生の方は、遊三のギャグなどは十分残しながら、親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。

なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝てを願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。

十代のころ、巡査だったおやじの金キセルを勝手に質入れしてしまい、おやじに槍で追いかけられそれっきり家に帰らなかった、というほろ苦い思い出が、この噺には生きているのでしょう。

六尺棒

樫材などで作る、泥棒退治用の棍棒です。

警察署の前には門番みたいに屈強な巡査が六尺棒を持って立っていますね。アレです。

六尺(約180cm)ですから、人の身長ほどの長さでしょうか。

これを使った棒術や杖術といった武芸もあるようですから、武器になる代物です。

志ん生のおやじは、維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏(巡回)のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。

高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同年の大正3年(1914)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたのかもしれません。

数少ない「対話劇」

落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。

例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。

「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話劇」とでもいえるものです。

「対話劇」などと言っても、どだい、落語という話芸は対話が中心となるわけで、とりわけこの噺に対話の特徴が強い、という程度の話です。

それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙が、これほどはっきりわかる噺はないかもしれません。

この種のものは、落語にはそう多くありません。

隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はじめ、「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども登場人物二人の噺ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。

「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。



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おやのむひつ【親の無筆】落語演目

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【どんな?】

息子は学校で読み書きできる。
おとっつぁんはできない。
くやしい!
おとっつぁんは勝ち気です。

別題:清書無筆 無筆の親(上方)

あらすじ

明治の初め、まだ無筆の人がざらにいたころの話。

ようやく学制が整い、子供たちが学校に通い出すと、覚え立ての難しい言葉を使って、無筆の親をへこますヤカラが出てくる。

そうなると、親父はおもしろくない。

「てめえは学校へ行ってから行儀が悪くなった、親をばかにしゃあがる」
と、小言を言い、
「習字を見せてみろ」
と見栄を張る。

「おとっつぁん、字が読めるの?」
「てめえより先に生まれてるんだ。読めなくってどうするものか」

よせばいいのに大きく出て、案の定シドロモドロ。

「中」の字を見せればオデンと読んでしまい、昔は仲間が煮込みのオデンを食ったからだとごまかし、木を二つ並べた字はなんだと聞かれて、
「ひょうしぎ」
と読んだあげく、
「祭りバヤシでカチカチと打つから昔は拍子木といった」
と、強弁する始末。

「じゃあ、おとっつぁん、このごろ、疫病よけに方々で仁加保金四郎宿と表に張ってあるのに、家にはないのは、なぜ?」
「忙しいからよ」
「書けないんだろう」

「とっとと外で遊んでこい」
と追い払ったものの、親の権威丸つぶれ。

癪でならない親父、かみさんに、
「しかたがないから近所のをひっぺがしてきて、子供が帰るまでに張っておけ」
と言われ、隣から失敬してくる。

今度こそはとばかり、
「表へ行って見てこい。おとっつぁんが書いて張っといたから」
「おとっつぁん、貸家と書いてあるよ」
「そう張っときゃあ、空き家と思って、疫病神も入ってこねえ」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

しりたい

原型はケチ+粗忽噺

原話は、最古のものが元禄14年(1701)、かの浅野刃傷の年に京都で刊行された、露の五郎兵衛『新はなし』中の「まじなひの札」。

ついで、そのほぼ半世紀後の宝暦3年(1753)、これも上方で刊行の笑話本『軽口福徳利』中の「疫神の守」があります。

「まじなひ…」の方は、ケチでそそっかしい男が、家々の戸口に張ってある、判読不能の厄病除けのまじない札を見て、自分も欲しくなりますが、買うのは代金が惜しいので、夜中にこっそりある家から盗み出します。

それを、よせばいいのに自慢げに隣人に見せると「これは貸家札だよ」と言われ、へらず口で「それは問題ない。疫病も空家と思って、入ってこないから」。

ここでは、男が札の文字を本当に読めなかったのか、それとも、風雨にさらされて読み取れなくなっていたのを勘違いしただけなのか。

どちらとも解釈できますが、噺のおかしみの重点は、むしろ男のしみったれぶりとそそっかしさ、負け惜しみに置かれています。

後発の「疫神の守」は「まじなひ……」のコピーとみられ、ほとんどそっくりですが、やはり主人公は「しはき(=ケチな)」男となっていて字が読めないというニュアンスはあまり感じません。

実際に「空き家」と張って、疫病神をごまかす方法もよく見られたらしいので、オチはその事実を前提にし、利用しただけとも考えられ、なおさら、これらの主人公が無筆文盲だったのかどうか疑問符がつくわけです。

もともとはケチ、または粗忽噺の要素が強かったはずが、落語化された段階で、いつの間にか無筆の噺にすりかえられたわけです。

読む人間にとって、筋は同じでもさまざまな「解釈」ができるという典型でしょう。

明治の無筆もの

もともと江戸(東京)では「清書無筆」、上方で「無筆の親」として知られていた噺を、明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで、細部を改作したものと思われますが、はっきりしません。

明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)、29年(1896)の三代目小さん(豊島銀之助、1857-1930)師弟の、ほとんど同時期の速記が残っています。

それより前、明治27年(1894)には二代目小さんによる類話「無筆の女房」の速記も見られることから、この時期、落語界ではちょっとした「無筆ブーム」だったのかもしれません。

無筆を題材にした噺では、古くは「按七」「三人無筆」「無筆の医者」「手紙無筆」「犬の無筆」があります。

明治以後につくられたと思われる噺にも、「無筆の女房」「無筆の下女」などがあります。

江戸末期には、都市では寺子屋教育が定着、浸透し、すでに識字率はかなり高かったはずです。

階層によっては、明治になっても多くの無筆者が多かったのでしょう。

三代目金馬の改作

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は、昭和初期にこの噺を「勉強」と改題して改作しています。

張り紙は「防火週間火の用心」に変え、しかも、おやじが盗んできたものには「ダンサー募集」とあったというオチにしました。

いかにもその時代らしいモダン風俗を取り込んでいましたね。

豪傑の名前で厄病退治

二代目小さんの速記が『百花園』に掲載された明治28年は日清戦争終結と同時に、東京でコレラ大流行の年でした。

もっともこの年ばかりではなく、維新後は明治10、15、19、23、28年と、ほとんど五年置きに猛威を振るっています。

さすがに安政のコロリ騒動のころよりは衛生教育が浸透してきたためか、年間の死者が百人を超える年はなかったものの、市民の疫病への観念は江戸時代同様、いぜん迷信的で、この噺のような厄除け札を戸口に張ることを始め、梅干し療法、祈祷などがまだまだ行われていました。

「仁加保金四郎」については詳細は未詳ですが、疫病神を退治したとされる豪傑の名です。

三代目小さんでは「三株金太郎」、時代が下って三代目三遊亭金馬の改作では「鎮西八郎為朝」としていました。

幕末のころは、嵯峨天皇の御製「いかでかは御裳濯川の流れ汲む人に頼らん疫病の神」を書いて張ったこともあったとか。

くすぐり

二代目小さん

おやじがくやしまぎれに「こりゃなんだ。赤犬と黒犬がかみあっているところなんぞ書いて」(犬の字が赤筆で直してある)  

三代目小さん

「おとっつぁん、百の足と書いてムカデと読むね」
「そうよ。五十の足ならゲジゲジ、八本がタコで、二本がズボン。一本なら傘のバケモノだ」                       

【語の読みと注】
仲間 ちゅうげん
癪 しゃく
御裳濯川 みもすそかわ

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おやこぢゃや【親子茶屋】落語演目

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【どんな?】

親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

あらすじ

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承  【RIZAP COOK】

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。

落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。

大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。

東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。

オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜  【RIZAP COOK】

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。

起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江の島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江の島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。

この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。

無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。

いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。

頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり  【RIZAP COOK】

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳

「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

茶屋にもいろいろありまして  【RIZAP COOK】

茶屋にはさまざまな種類がありました。美人ばかり雇っている店もあれば、表も裏も融通無碍な店も。

川柳が取り上げるのは、なかでも目立った印象に残る茶屋ということでしょうね。

べら坊で居所の無い二十軒   十一10

「二十軒」とは浅草仲見世の隣にあった「二十軒茶屋」の略称。最初は三十六軒あったので「歌仙茶屋」と呼ばれました。「お福茶屋」とも。享保年間に二十軒ほどになったので、こう呼ばれるようになりましたが、文化には十六軒、天保には十軒、明治30年には一軒に。それでも「二十軒」といえば、ここの茶屋をさしたそうです。美人を雇っていることが特徴でした。「二十軒=美人茶屋」というイメージでしょうか。これも落語や川柳のお約束です。

ほれるかほれるかと茶をくらつて居   十二42

これはわかりやすいですね。今も変わらずの句。

手前まあ内はどこだと楊枝見世   五34

「楊枝見世」は浅草奥山にあった楊枝の店。ここも美人を置いていました。娘の住所を聞いているところ。繁盛したわけです。

楊枝屋は残米も売り緡も売り   二十二18

「緡」は銭の穴を通して百文、四百文、一貫文にまとめるための細い藁縄のこと。楊枝屋で売っていました。とりわけ欲しくもないのに美人見たさに買いに行く風景ですね。

美しさ男へたんと五倍子が売れ   十六36

「五倍子」は「五倍子鉄漿」のこと。五倍子とは、ヌルデの葉にアリマキが寄生して、その刺激によってできたこぶ。タンニンを含み、染色、インクなどの原料になるものです。鉄漿は、鉄を酸化させてできた暗褐色の液で、お歯黒に使いました。五倍子の粉を鉄漿にひたして作った黒い染料が五倍子鉄漿です。真っ黒です。この句は五倍子を売る店(五倍子店)の美人の売り子に惹かれて買いに来る亭主たちの長い鼻の下を詠んでいるそうですが、わかりますかね。

大和茶でただの話もくどくやう   十六36

「大和茶」とは「大和茶屋」のこと。浅草などにあって、美人を接客に雇っていたそうです。今のキャバクラみたいな店だったようです。

水茶屋と見せ内証はこれこれさ   十七23

裏表ある水茶屋ははやるなり   二十一10

水茶屋とはいっても、裏でのサービスもいろいろあったようです。江戸時代はなんでもありなんですね。

茶屋女せせなげほどな流れの身   六02

「せせなげ」は下水やどぶ。「流れの身」とは「川竹の流れの身」のことで、遊女の境涯をさします。「川竹の身」とか「流れの身」とかは清らかな川の流れのイメージなのですが、遊女を連想させる鍵語です。この句に詠まれた茶屋女は遊女ほどに清らか(?)ではないながらも、つまり下水の流れのような境涯ながらも、同じ春を売る身の上だ、ということを言っているようです。なんとも雅味のある句でしょう。

【語の読みと注】
緡 さし
五倍子 ふし
鉄漿 かね

【RIZAP COOK】

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かじむすこ【火事息子】落語演目



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火事好きのせがれ。
家出の果ては全身文身の臥煙に。
火事がえにしで親子の対面とは。

あらすじ

神田の三河町みかわちょうの、伊勢屋という大きな質屋。

ある日近所で出火し、火の粉が降りだした。

火事だというのに大切な蔵に目塗めぬりがしていないと、だんながぼやきながら防火に懸命だが、素人で慣れないから、店中おろおろするばかり。

その時、屋根から屋根を、まるでましらのようにすばしこく伝ってきたのが一人の火消し人足。

身体中見事な刺青いれずみで、ざんばら髪で後ろ鉢巻はちまき法被はっぴといういきないで立ち。

ぽんとひさしの間に飛び下りると、
「おい、番頭」

声を掛けられて、番頭の左兵衛、仰天した。

男は火事好きが高じて、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当かんどうになったまま行方知れずだったこの家の一人息子、徳三郎。

慌てる番頭を折れ釘へぶら下げ、両手が使えるようにしてやった。

「オレが手伝えば造作もねえが、それじゃあ、おめえの忠義になるめえ」

おかげで目塗りも無事に済み、火も消えて一安心。

見舞い客でごった返す中、おやじの名代でやってきた近所の若だんなを見て、だんなはつくづくため息。

「あれはせがれと同い年だが、親孝行なことだ、それに引き換えウチのばか野郎は今の今ごろどうしていることやら……」
と、そこは親。

しんみりしていると、番頭がさっきの火消しを連れてくる。

顔を見ると、なんと「ウチのばか野郎」。

「徳か」と思わず声を上げそうになったが、そこは一徹なだんな。

勘当したせがれに声など掛けては世間に申し訳がないと、やせ我慢。

わざと素っ気なく礼を言おうとするが、こらえきれずに涙声で、
「こっちィ来い、このばかめ。……親ってえものはばかなもんで、よもやよもやと思っていたが、やっぱりこんな姿に……しばらく見ないうちに、たいそういい絵が書けなすった……親にもらった体に傷を付けるのは、親不孝の極みだ。この大ばか野郎」

そこへこけつまろびつ、知らせを聞いた母親。

甘いばかりで、せがれが帰ったので大喜び。

「鳥が鳴かぬ日はあっても、おまえを思い出さない日はなかった、どうか大火事がありますようにと、ご先祖に毎日手を合わせていた」
と言い出したから、おやじは目をむいた。

母親が
「法被一つでは寒いから、着物をやってくれ」
と言うと、だんなはそこは父親。

「勘当したせがれに着物をやってどうする」
と、まだ意地づく。

「そのぐらいなら捨てちまえ」
「捨てたものなら拾うのは勝手……」

意味を察して、母親は大張り切り。

「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう。お小遣いは千両も捨てて……」

しまいには、
「この子は小さいころから色白で黒が似合うから、黒羽二重の紋付きを着せて、小僧を供に……」
と言い出すから、
「おい、勘当したせがれに、そんななりィさせて、どうするつもりだ」
「火事のおかげで会えたんですから、火元へ礼にやります」

しりたい

命知らずの臥煙渡世   【RIZAP COOK】

ここでは、徳三郎は町火消ではなく、定火消、すなわち武家屋敷専門の火消人足になっている設定です。

これは臥煙がえんとも呼ばれまました。

身分は旗本のかか中間ちゅうげん(武家奉公人)で、飯田町いいだまち(今の飯田橋あたり)ほか、10か所に火消屋敷ひけしやしきという役宅がありました。

もっぱら大名、旗本屋敷のみの鎮火にあたります。平時は役中間部屋の大部屋で起居しています。太い丸太ん棒を枕にしてざこ寝して、いざ火事となると不寝番が丸太ん棒の端っこを叩いて起こす、という粗っぽさ。

法被一枚、下帯一本で火事場に駆けつけます。

家々を回って穴開き銭の緡縄を高値で押し売りしたり、役中間部屋では年中賭場を開いたりしている、江戸のダニです。やくざです。

それでも火事となるといさみにましらのごとく屋根から屋根を飛び移っては消火に励むわけで、まさに役に参ずる人たち(やくざ)でした。

せがれが臥煙にまで「身を落とした」ことを聞いたときの父親の嘆きが推量できますが、この連中は町火消のように刺し子もまとわず、法被一枚で火中に飛び込むのを常としたため、死亡率も相当高かったわけです。

小説「火事息子」   【RIZAP COOK】

落語の筋とは直接関係ありませんが、劇作家・演出家でもあった久保田万太郎(1889-1963)に、やはり、爽やかな明治の江戸っ子の生涯を描いた同名の小説があります。

これは、作者の小学校同窓であった、山谷の名代の料亭「重箱」の主人の半生をモデルとしたものです。重箱は、今も赤坂にある鰻屋。超高級店です。江戸時代には山谷にありました。当時の山谷は避暑地でした。

八代目正蔵の生一本   【RIZAP COOK】

徳三郎は、番頭を折釘にぶらさげて動けるようにしてやるだけで、目塗りを直接には手伝わず、また父親も、必死にこみあげる情を押さえ通して、最後まで「勘当を許す」と自分では口にしません。

ともすれば、お涙ちょうだいに堕しがちな展開を、この親子の心意気で抑制させた、すぐれた演出です。

こうした、筋が一本通った古きよき江戸者の生きざまを、数ある演者の中で、特に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が朴訥に、見事に表現しました。

明治期には初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、二代目円朝)の十八番でした。昭和に入っては、正蔵、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)など、名だたる大看板が競演しています。

火消屋敷



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かすがい【鎹】ことば

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くぎの一種。

二本の木材をつなぎとめるための両端の曲がった大きなくぎ。

両親をつなぐ子供の存在をいうこともあります。

え、あたいが鎹。それでおっかさん、げんのうでぶつって言ったんだね。

子別れ

輪王寺宮家の家紋は鎹が山型に見えるので、輪王寺宮家をさして「かすがい」「かすがいやま」と呼んだりします。

鎹はふたつのものをつなぐところから、一挙両得の意味で使われることもあります。

それを「鎹儲け」などといいます。

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だいぶつもち【大仏餠】演目

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【どんな?】

八代目文楽のおはこでした。「神谷幸右衛門」の名が言えずに……。

あらすじ

ある雪の晩、上野の山下あたり。

目の不自由な子連れの物乞いが、ひざから血を流している。

ふびんに思った主人が、手当てをしてやった。

聞けば、新米の物乞い。山下で縄張りを荒らしたと、大勢の物乞いに袋だたきにあったとか。

子供は六歳の男児。この家では子供の袴着の祝いの日だった。

同情した主人は、客にもてなした八百善からの仕出しの残りを、やろうとした。

物乞いが手にした面桶を見ると、朝鮮さはりの水こぼし。

驚いた主人、
「おまえさんはお茶人だね」
と、家へあげて身の上を聞いてみると、芝片門前でお上のご用達をしていた神谷幸右衛門のなれの果て。

「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたこともある河内屋金兵衛です」
と、おうすを一服あげ、大仏餠を出す。

幸右衛門、感激のうちに大仏餠を口にしたため、のどにつかえて苦しんだ。

河内屋が背中をたたくと、幸右衛門の目が開いた。

ついでに、声が鼻に抜けてふがふがに。

「あれ、あなた目があきなすったね」
「は、はい。あきました」
「目があいて、鼻が変になんなすったね」
「はァ、いま食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けました」

【RIZAP COOK】

うんちく

「三代目になっちゃった」 【RIZAP COOK】

三遊亭円朝の作で、三題噺をもとに作ったものです。出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」。円朝全集にも収録されていますが、昭和に入ってはなにをおいても八代目桂文楽の独壇場でした。文楽の噺としては「B級品」で、客がセコなときや体調の悪い場合にやる「安全パイ」のネタでしたが、晩年は気を入れて演じていたようです。にもかかわらず、この噺が文楽の「命取り」になったことはあまりに有名です。

この事件の経緯については、『落語無頼語録』(大西信行、芸術出版社、1974年)に、文楽の死の直後の関係者への取材をまじえて詳しく書かれ、またその後今日まで40年近く、折に触れて語られています。以下、簡単にあらましを。

昭和46年(1971)8月31日。この日、国立劇場の落語研究会で、文楽は幕切れ近くで、登場人物の「神谷幸右衛門」の名を忘れて絶句。「もう一度勉強しなおしてまいります」と、しおしおと高座を下りました。

これが最後の高座となり、同年12月12日、肝硬変で大量吐血の末死去。享年79。

文楽はその前夜にも同じ「大仏餅」を東横落語会で演じ、無難にやりおおせたばかりでした。高座を下りたあと、楽屋で文楽は淡々とマネジャーに「三代目になっちゃったよ」と言ったそうです。

三代目とは三代目柳家小さん(1930年没)のこと。漱石も絶賛した明治大正の名人でしたが、晩年はアルツハイマーを患い、壊れたレコードのように噺の同じ箇所をぐるぐる何度も繰り返すという悲惨さだったとか。

文楽は、一字一句もゆるがせにしない完璧な芸を自負していただけに、いつも「三代目になる」ことを恐れて自分を追い詰め、いざたった一回でも絶句すると、もう自分の落語人生は終ったといっさいをあきらめてしまったのでしょう。

「三代目になった」ときに醜態をさらさないよう、弟子の証言では、それ以前から高座での「お詫びの稽古」を繰り返していたそうです。

大西氏は文楽の死を「自殺だった」と断言しています。神谷幸右衛門は、噺の中でそのとき初めて出てくる名前ですから、忘れたら横目屋助平でも美濃部孝蔵でも、なんでもよかったのですがね。

無許可放送事件 【RIZAP COOK】

平成20年(2008)2月10日、NHKラジオ第一放送の「ラジオ名人寄席」で、パーソナリティーの玉置宏氏が、個人的に所蔵している八代目林家正蔵(彦六)の「大仏餅」を番組内で放送しました。

ところが、これが以前にTBSで録音されたものだったため、著作権、放映権の侵害で大騒動になり、すったもんだで玉置氏は降板するハメになりました。

文楽のを流しておけば、あるいは無事ですんだかもしれませんね。

「大仏餅」は文楽没後は前記正蔵が時々演じ、現在では柳家さん喬、上方の桂文我などが持ちネタにしています。

大仏餅 【RIZAP COOK】

江戸時代、上方で流行した餅で、大仏の絵姿が焼印で押されていました。京都の方広寺大仏門前にあった店が本家といわれますが、奈良の大仏の鐘楼前ともいい、また、同じく京都の誓願寺前でも売られていたとか。支店だったのでしょうか。

この餅、『都名所図絵』(秋里籬島、安永9年=1780刊)にも絵入りで紹介されるほどの名物です。

その書の書き込みにも、「洛東大仏餅の濫觴は則ち方広寺大仏殿建立の時よりこの銘を蒙むり売弘めける。その味、美にして煎るに蕩けず、炙るに芳して、陸放翁が餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり」と絶賛。

滝沢馬琴が、享和2年(1802)、京都に旅した折、賞味して大いに気に入ったとのこと。『羇旅漫録』(享和3年=1803刊)に記しています。馬琴が36歳、生涯唯一の京坂旅行でした。さてこの店、昭和17年(1942)まで営業していたそうです。

面桶 【RIZAP COOK】

めんつう。一人分の飯を盛る容器です。「つう」は唐音。

禅僧が修行に使った携帯用のいれものでした。戦国時代には戦陣で飲食に使う便利なお椀に。江戸時代には主に乞食が使う容器となりました。

七五三の祝い 【RIZAP COOK】

噺に出てくる「袴着」は男児が初めて袴をはく儀式のこと。三歳、五歳、七歳など、時代や家風によって祝いをする年齢が変わりました。

これは七五三の行事のひとつです。今は七五三としてなにか同じ儀式のように思われていますが、江戸時代にはそれぞれ別の行事でした。おとなへ踏み出す成長行事です。

髪置 かみおき 男女 三歳 11月15日に
袴着 はかまぎ 男児 三歳か五歳か七歳 正月15日か11月15日に
帯解 おびとき 女児 七歳 11月15日に

髪置は 乳母もとっちり 者になり   三21

袴着にや 鼻の下まで さつぱりし   初5

一つ飛ん だりと袴着 つるし上げ   十四22

袴着の どうだましても 脱がぬなり   七27

帯解は 濃いおしろひの 塗りはじめ   初6

肩車 店子などへは 下りぬなり   十四23

髪置ははじめて髪を蓄えること。帯解は付け紐のない着物を着ること、つまりは帯で着物を着ること。

袴着もはじめて袴をはくことで、それぞれ、大人へのはじめの一歩の意味合いと、元気に成長してほしいという親の切なる願いのあらわれです。

めでたい儀式ですから、乳母もお酒を飲んでお祝いして、その結果、とっちり者になってしまうわけです。「とっちり者」は泥酔者のこと。

最後の句の「店子」は借家人のこと。この噺に出てくる子供は裕福な恵まれた環境で育ったわけで、長屋住まいの店子には肩車された上から挨拶するという、支配者と被支配者との関係性をすり込ませるような、すでにろくでもない人生の始まりを暗示しています。

まあ、とまれ、江戸のたたずまいが見えてくるような風情です。

朝鮮さはりの水こぼし 【RIZAP COOK】

さはりは銅、錫、銀などを加えた合金。水こぼしは茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具です。

【語の読みと注】
八百善 やおぜん
面桶 めんつう

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