【親の無筆】おやのむひつ 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

息子は学校で読み書きできる。
おとっつぁんはできない。
くやしい!
おとっつぁんは勝ち気です。

別題:清書無筆 無筆の親(上方)

あらすじ

明治の初め、まだ無筆の人がざらにいたころの話。

ようやく学制が整い、子供たちが学校に通い出すと、覚え立ての難しい言葉を使って、無筆の親をへこますヤカラが出てくる。

そうなると、親父はおもしろくない。

「てめえは学校へ行ってから行儀が悪くなった、親をばかにしゃあがる」
と、小言を言い、
「習字を見せてみろ」
と見栄を張る。

「おとっつぁん、字が読めるの?」
「てめえより先に生まれてるんだ。読めなくってどうするものか」

よせばいいのに大きく出て、案の定シドロモドロ。

「中」の字を見せればオデンと読んでしまい、昔は仲間が煮込みのオデンを食ったからだとごまかし、木を二つ並べた字はなんだと聞かれて、
「ひょうしぎ」
と読んだあげく、
「祭りバヤシでカチカチと打つから昔は拍子木といった」
と、強弁する始末。

「じゃあ、おとっつぁん、このごろ、疫病よけに方々で仁加保金四郎宿と表に張ってあるのに、家にはないのは、なぜ?」
「忙しいからよ」
「書けないんだろう」

「とっとと外で遊んでこい」
と追い払ったものの、親の権威丸つぶれ。

癪でならない親父、かみさんに、
「しかたがないから近所のをひっぺがしてきて、子供が帰るまでに張っておけ」
と言われ、隣から失敬してくる。

今度こそはとばかり、
「表へ行って見てこい。おとっつぁんが書いて張っといたから」
「おとっつぁん、貸家と書いてあるよ」
「そう張っときゃあ、空き家と思って、疫病神も入ってこねえ」

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しりたい

原型はケチ+粗忽噺

原話は、最古のものが元禄14年(1701)、かの浅野刃傷の年に京都で刊行された、露の五郎兵衛『新はなし』中の「まじなひの札」。

ついで、そのほぼ半世紀後の宝暦3年(1753)、これも上方で刊行の笑話本『軽口福徳利』中の「疫神の守」があります。

「まじなひ…」の方は、ケチでそそっかしい男が、家々の戸口に張ってある、判読不能の厄病除けのまじない札を見て、自分も欲しくなりますが、買うのは代金が惜しいので、夜中にこっそりある家から盗み出します。

それを、よせばいいのに自慢げに隣人に見せると「これは貸家札だよ」と言われ、へらず口で「それは問題ない。疫病も空家と思って、入ってこないから」。

ここでは、男が札の文字を本当に読めなかったのか、それとも、風雨にさらされて読み取れなくなっていたのを勘違いしただけなのか。

どちらとも解釈できますが、噺のおかしみの重点は、むしろ男のしみったれぶりとそそっかしさ、負け惜しみに置かれています。

後発の「疫神の守」は「まじなひ……」のコピーとみられ、ほとんどそっくりですが、やはり主人公は「しはき(=ケチな)」男となっていて字が読めないというニュアンスはあまり感じません。

実際に「空き家」と張って、疫病神をごまかす方法もよく見られたらしいので、オチはその事実を前提にし、利用しただけとも考えられ、なおさら、これらの主人公が無筆文盲だったのかどうか疑問符がつくわけです。

もともとはケチ、または粗忽噺の要素が強かったはずが、落語化された段階で、いつの間にか無筆の噺にすりかえられたわけです。

読む人間にとって、筋は同じでもさまざまな「解釈」ができるという典型でしょう。

明治の無筆もの

もともと江戸(東京)では「清書無筆」、上方で「無筆の親」として知られていた噺を、明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで、細部を改作したものと思われますが、はっきりしません。

明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)、29年(1896)の三代目小さん(豊島銀之助、1857-1930)師弟の、ほとんど同時期の速記が残っています。

それより前、明治27年(1894)には二代目小さんによる類話「無筆の女房」の速記も見られることから、この時期、落語界ではちょっとした「無筆ブーム」だったのかもしれません。

無筆を題材にした噺では、古くは「按七」「三人無筆」「無筆の医者」「手紙無筆」「犬の無筆」があります。

明治以後につくられたと思われる噺にも、「無筆の女房」「無筆の下女」などがあります。

江戸末期には、都市では寺子屋教育が定着、浸透し、すでに識字率はかなり高かったはずです。

階層によっては、明治になっても多くの無筆者が多かったのでしょう。

三代目金馬の改作

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は、昭和初期にこの噺を「勉強」と改題して改作しています。

張り紙は「防火週間火の用心」に変え、しかも、おやじが盗んできたものには「ダンサー募集」とあったというオチにしました。

いかにもその時代らしいモダン風俗を取り込んでいましたね。

豪傑の名前で厄病退治

二代目小さんの速記が『百花園』に掲載された明治28年は日清戦争終結と同時に、東京でコレラ大流行の年でした。

もっともこの年ばかりではなく、維新後は明治10、15、19、23、28年と、ほとんど五年置きに猛威を振るっています。

さすがに安政のコロリ騒動のころよりは衛生教育が浸透してきたためか、年間の死者が百人を超える年はなかったものの、市民の疫病への観念は江戸時代同様、いぜん迷信的で、この噺のような厄除け札を戸口に張ることを始め、梅干し療法、祈祷などがまだまだ行われていました。

「仁加保金四郎」については詳細は未詳ですが、疫病神を退治したとされる豪傑の名です。

三代目小さんでは「三株金太郎」、時代が下って三代目三遊亭金馬の改作では「鎮西八郎為朝」としていました。

幕末のころは、嵯峨天皇の御製「いかでかは御裳濯川の流れ汲む人に頼らん疫病の神」を書いて張ったこともあったとか。

くすぐり

二代目小さん

おやじがくやしまぎれに「こりゃなんだ。赤犬と黒犬がかみあっているところなんぞ書いて」(犬の字が赤筆で直してある)  

三代目小さん

「おとっつぁん、百の足と書いてムカデと読むね」
「そうよ。五十の足ならゲジゲジ、八本がタコで、二本がズボン。一本なら傘のバケモノだ」                       

【語の読みと注】
仲間 ちゅうげん
癪 しゃく
御裳濯川 みもすそかわ

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