らくごのねんぴょう【落語の年表】古木優


成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

落語の流れを時系列に作成していきます。

和暦(西暦)落語と世間
寛政10年(1798)6.-岡本万作が神田豊島町藁店に寄席を。6.-万作に対抗して山生亭花楽(→初代三笑亭可楽)が下谷柳の稲荷神社内で寄席を。5日で終わり。9.28花楽は目黒不動で祈願。10.1花楽、武州越ヶ谷で講席。のち松戸で講席。三笑亭可楽に改名。11.12深川元町で母娘の敵討ち、敵は死亡し母娘はおかまいなしに。
この年、初代桂文治、大坂座摩社内で寄席を。寄席時代の幕開け
寛政11年(1799)1.-桜川慈悲成撰、式亭三馬序『太平楽』刊
寛政12年(1800)この年、可楽が江戸に帰り二度の咄の会を。摺り物に烏亭焉馬、桜川慈悲成、可楽の3人の狂歌を載せる
寛政13年/享和元年(1801)2.5改元
享和2年(1802)1.-『浪華なまり』
この年、百川堂灌河編『新撰勧進話』京都版。「盗っ人の仲裁」→三代目小さんが「締め込み」に。この年、十返舎一九『落咄臍くくり金』江戸版。「餅搗き」は上方「尻餅」の原話
享和3年(1803)この年、桜川慈悲成『遊子珍学文』。「三年目」の原話
享和4年/文化元年(1804)2.11改元
文化2年(1805)
文化3年(1806)
文化4年(1807)
文化5年(1808)
文化6年(1809)
文化7年(1810)
文化8年(1811)
文化9年(1812)
文化10年(1813)
文化11年(1814)
文化12年(1815)
文化13年(1816)
文化14年(1817)
文化15年/文政元年(1818)4.22改元
文政2年(1819)
文政3年(1820)
文政4年(1821)
文政5年(1822)
文政6年(1823)
文政7年(1824)
文政8年(1825)
文政9年(1826)
文政10年(1827)
文政11年(1828)
文政12年(1829)
文政13年/天保元年(1830)12.10改元
天保2年(1831)
天保3年(1832)
天保4年(1833)
天保5年(1834)
天保6年(1835)
天保7年(1836)
天保8年(1837)
天保9年(1838)
天保10年(1839)4.1円朝、湯島切通片町(文京区湯島4)で誕生
天保11年(1840)
天保12年(1841)
天保13年(1842)
天保14年(1843)
天保15年/弘化元年(1844)12.2改元
弘化2年(1845)3.3円朝、橘家小円太で土手倉(中央区日本橋2)で初出勤
弘化3年(1846)
弘化4年(1847)
弘化5年/嘉永元年(1848)2.28改元
嘉永2年(1949)
嘉永3年(1850)
嘉永4年(1851)
嘉永5年(1852)
嘉永6年(1853)
嘉永7年/安政元年(1854)11.27改元
安政2年(1855)3.21 小円太、初代円生の菩提寺(浅草金龍寺)に参詣して三遊派再興を誓う。円朝に改名
安政3年(1856)この年、円朝は池之端七軒町に転居、母を引き取り父も迎える
安政4年(1857)
安政5年(1858)
安政6年(1859)
安政7年/万延元年(1860)3.18改元
万延2年/文久元年(1861)2.19改元
文久2年(1862)
文久3年(1863)
文久4年/元治元年(1864)2.20改元
元治2年/慶応元年(1865)4.7改元
慶応2年(1866)
慶応3年(1867)
慶応4年/明治元年(1868)9.8改元
明治2年(1869)
明治3年(1870)
明治4年(1871)
明治5年(1872)
明治6年(1873)
明治7年(1874)
明治8年(1875)
明治9年(1876)
明治10年(1877)
明治11年(1878)
明治12年(1879)
明治13年(1880)
明治14年(1881)
明治15年(1882)
明治16年(1883)
明治17年(1884)
明治18年(1885)
明治19年(1886)
明治20年(1887)
明治21年(1888)
明治22年(1889)
明治23年(1890)
明治24年(1891)
明治25年(1892)
明治26年(1893)
明治27年(1894)
明治28年(1895)
明治29年(1896)7.28円朝が日蓮宗の大信者に(日宗新報604号)
明治30年(1897)
明治31年(1898)
明治32年(1899)
明治33年(1900)8.11三遊亭円朝没。8.21麗々亭柳橋没(41)。11.-三代目春風亭柳枝没
明治34年(1901)
明治35年(1902)
明治36年(1903)
明治37年(1904)
明治38年(1905)
明治39年(1906)
明治40年(1907)1,5六代目朝寝坊むらく没(49)。
明治41年(1908)
明治42年(1909)
明治43年(1910)
明治44年(1911)
明治45年/大正元年(1912)5.29初代柳家つばめ没。7.30改元
大正2年(1913)
大正3年(1914)
大正4年(1915)
大正5年(1916)
大正6年(1917)
大正7年(1918)
大正8年(1919)
大正9年(1920)
大正10年(1921)
大正11年(1922)
大正12年(1923)9.1関東大震災
大正13年(1924)8.18三代目古今亭今輔没。11,2二代目三遊亭円朝(初代三遊亭円右→)没(65)
大正14年(1925)
大正15年/昭和元年(1926)1.29余代目古今亭志ん生没。5.3に代目三遊亭金馬没。12.25改元
昭和2年(1927)
昭和3年(1928)3.11第二次落語研究会第1回※全179回。44年3月まで
昭和4年(1929)
昭和5年(1930)
昭和6年(1931)
昭和7年(1932)
昭和8年(1933)
昭和9年(1934)9.21東宝名人会第1回公演(東宝劇場5階、510席の東宝小劇場で)
昭和10年(1935)
昭和11年(1936)
昭和12年(1937)
昭和13年(1938)
昭和14年(1939)
昭和15年(1940)
昭和16年(1941)
昭和17年(1942)2.-三代目柳家つばめ没(59)。11.1正岡容主催の寄席文化向上会(大塚鈴本)で第1回「特殊古典落語鑑賞」※「古典落語」の初出
昭和18年(1943)
昭和19年(1944)
昭和20年(1945)
昭和21年(1946)2.3第三次落語研究会第1回※46年8月まで
昭和22年(1947)
昭和23年(1948)10.9第四次落語研究会第1回※全115回。58年まで
昭和24年(1949)
昭和25年(1950)
昭和26年(1951)
昭和27年(1952)
昭和28年(1953)4.11三越落語会第1回。桂小金治「三人旅」、古今亭今輔「印鑑証明」、柳家小さん「提灯屋」、三遊亭円生「百川」、桂三木助「宿屋仇討」、桂文楽「心眼」※子母田万太郎が提唱
昭和29年(1954)
昭和30年(1955)
昭和31年(1956)5.30東横落語会第1回(渋谷・東急百貨店東横店)。※主催は湯浅喜久治。東横落語会・全公演データリスト
昭和32年(1957)8.30東横落語会「円朝祭」※サラ口で三木助「真景累ヶ淵」
昭和33年(1958)
昭和34年(1959)6.6落語勉強会(東宝演芸場)※若手の勉強会で公演後、飯島友治が批評(ダメ出し)。7.30東京落語会(NHK)第1回※東京落語会全公演・データリスト(仮公開)
昭和35年(1960)
昭和36年(1961)10.-四代目柳家つばめ没(69)。
昭和37年(1962)4.5精選落語会第1回(イイノホール)。三笑亭可楽「今戸焼」、桂文楽「明烏」、林家正蔵「花見の仇討」、柳家小さん「笠碁」、三遊亭円生「百川」、新人推薦で三遊亭全生(→五代目円楽)「たらちね」※68年12月まで
昭和38年(1963)
昭和39年(1964)9.12紀伊國屋寄席第1回※不定期で、66年から毎月1回開催。11.30古典落語をきく会(紀伊國屋ホール)※桂文楽、三遊亭円生、林家正蔵
昭和40年(1965)
昭和41年(1966)
昭和42年(1967)
昭和43年(1968)3.14第五次落語研究会第1回
昭和44年(1969)
昭和45年(1970)
昭和46年(1971)
昭和47年(1972)
昭和48年(1973)9.21五代目古今亭志ん生没
昭和49年(1974)
昭和50年(1975)
昭和51年(1976)
昭和52年(1977)
昭和53年(1978)
昭和54年(1979)9.3六代目三遊亭円生没
昭和55年(1980)4,21藤浦富太郎没(95)。
昭和56年(1981)
昭和57年(1982)
昭和58年(1983)
昭和59年(1984)
昭和60年(1985)6.28東横落語会最終演(第294回)。※東横落語会・全公演データリスト
昭和61年(1986)
昭和62年(1987)
昭和63年(1988)
昭和64年/平成元年(1989)1.7改元
平成2年(1990)
平成3年(1991)
平成4年(1992)
平成5年(1993)
平成6年(1994)
平成7年(1995)
平成8年(1996)
平成9年(1997)
平成10年(1998)
平成11年(1999)
平成12年(2000)
平成13年(2001)10.1三代目古今亭志ん朝没
平成14年(2002)5.16五代目柳家小さん没
平成15年(2003)
平成16年(2004)
平成17年(2005)2.10東宝名人会第1260回で最終演(芸術座)。4.18二代目桂文朝没
平成18年(2006)
平成19年(2007)
平成20年(2008)
平成21年(2009)
平成22年(2010)
平成23年(2011)
平成24年(2012)
平成25年(2013)
平成26年(2014)
平成27年(2015)
平成28年(2016)
平成29年(2017)
平成30年(2018)
平成31年/令和元年(2019)5.1改元
令和2年(2020)
令和3年(2021)3.19東京落語会(NHK)、毎月開催の形式での公演終了※東京落語会・全公演データリスト(仮公開)。10.7十代目柳家小三治没
令和4年(2022)
令和5年(2023)5.28藤浦敦没。7.21五街道雲助に人間国宝(文化審議会)
令和6年(2024)2.25落語協会百周年
令和7年(2025)

参考文献:「ホール落語と六代目三遊亭円生」(宮信明)/読売新聞



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しんぶんきじ【新聞記事】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

新聞が新鮮だった明治期。
殺人事件と天ぷらで一席の噺が。

別題:阿弥陀が池(上方、改作)

あらすじ】 

あわて者で少しぼーっとした八五郎。

ご隠居のところでバカを言っているうちに、
「おまえ、新聞は読むか」
と聞かれる。

「へえ、月初めに一月分」
「そりゃ古新聞だろ。じゃ、まだ今朝のを見てないな」

急に隠居の声が低くなって、
「おまえの友達の天ぷら屋の竹さんが、昨夜、夜中に泥棒に殺された」
という。

竹さんが寝ていると、枕元でガサガサ物音がするので電気をつけると、身のたけ六尺(180cm)はあろうという大男。

そいつがギラリと日本刀を抜いて、
「静かにしろ」
と脅したが、竹さん、なまじ剣術の心得があるものだから、護身用のかしの棒を取るとピタリと正眼に構えた。

泥棒は逆上して、ドーンと突いてくる。竹さん、ヒラリとかわして馬乗りになり、縛ろうとすると、泥棒がのんでいたあいくちで胸元をグサッ! 

「あっ」
と後ろへのけぞって一巻の終わり。

家は右往左往の大騒ぎで、そのすきに泥棒は逃げ出した。

しかし、悪いことはできないもので、五分たつかたたないうちにアゲられた。

それもそのはず、天ぷら屋……。

なんのことはない、落とし噺でからかわれただけ。

ところが八五郎、これを聞いてすっかり感心し、自分もやってみたくなった。

当の本人の家で
「天ぷら屋の竹が殺されたよ」
とやって、ほうほうのていで逃げ出した。

それでもまだりずに、もう一人のところへ上がり込んだ。

隠居の
「おい、ばあさん、八っつあんが来たよ。茶を出してやんな」
のセリフからそっくり始めたから、
「おい、なんでウチの女房をばあさんにしやがるんだ」
とケンツクを食らわされてミソをつける。

こうなれば、もう乗りかけた船。

強引に殺人事件を吹きまくるが、ところどころおかしくなり、泥棒の身のたけが一尺六寸(48cm)になったり、あいくちが出てこないで包丁になったり、竹さんがヒラリとタイをかわした、のタイが思い出せずに、二つ並んでいる→布袋大黒ほていだいこく恵比寿えびすさま→釣り竿→魚→たいで連想ゲームまでやってのける。

ようやく最後の、五分たつかたたないうちに、というところまで行き着いたが、またも肝心の「あげられた」が出ない。

四苦八苦していると、向こうが先に
「アゲられただろ。天ぷら屋だからな」
とやってしまった。

それを言いたいためだけに連想ゲームまで演じたのだから、立つ瀬がない。

「ところでおめえ、その話の続きを知ってるかい? 竹さんのかみさんが、亭主が死んで、もう二度とだんなは持たないと、尼さんになったてえのは」
「どうして」
「もとが天ぷら屋のかみさんだけに、衣をつけたがらあ」

底本:三代目三遊亭円歌

しりたい】 

上方落語の改作   【RIZAP COOK】

昭和初期、二代目昔々亭桃太郎せきせきていももたろう(山下喜久雄、1910-70、自称二十四代目)が「百田芦生ももたあしお」の筆名で作ったものです。

上方噺の「阿弥陀あみだが池」の改作で、桃太郎は元ネタの後半の筋立てをうまく取り入れ、東京風にすっきり仕上げています。

桃太郎没後は四代目柳亭痴楽(藤田重雄、1921-1993.12.1)に継承され、ついで三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)のレパートリーにもなりました。ギャグも豊富で、筋立てもおもしろいので、多くの若手が手がけています。

「阿弥陀が池」   【RIZAP COOK】

日露戦争後に初代桂文屋ぶんや(1867-1909)が作ったといわれ、今も上方落語の代表作となっています。

「新聞記事」と筋は似ていますが、ちょいと違います。

ヨタ話のネタの主人公は戦死した将校夫人の尼さん。忍んで来る泥棒が偶然夫の元部下で、それがわかって許しをうと、「おまえが来たのも仏教の輪廻りんね。誰かが行けと教えたのであろう」「阿弥陀が行け言いました」という、尼寺のある場所(阿弥陀が池のほとり)と掛けた洒落話で隠居にだまされる筋立てです。ブンヤがつくったからシンブンキジに似ているわけですね。どおりで。

桃太郎のこと   【RIZAP COOK】

作者の二代目昔々亭桃太郎は、初代柳家金語楼きんごろう(山下敬太郎、1901-72)の実弟です。

昭和初期から戦後にかけ、「桃太郎さんでございます」という開口一番のフレーズとともに、「桃太郎後日」など自作自演の明るい新作落語で親しまれました。

兄弟ともに才能あふれていたのですね。実弟は時折、東条英機に落語を聴かせていたとか。三代目桃太郎が時折高座で話してますが、おもしろいですねえ。

噺のカンどころ   【RIZAP COOK】

「おうむと呼ばれる、くり返しの面白さで笑わせるはなしだけに、しこみ、つまり前半の部分の演じ方がむずかしいところなのです」
                                       

(三代目三遊亭円歌)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

もぐらどろ【もぐら泥】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

明治の初め頃を舞台にした噺です。
三遊亭円生がやっていました。

別題:おごろもち盗人(上方)

【あらすじ】

大晦日だというのに、女房がむだ遣いしてしまい、やりくりに困っているだんな。

ぶつくさ言いながら帳簿をつけていると、縁の下で、なにやらゴソゴソ。

いわゆる「もぐら」という泥棒で、昼間のうち、物乞いに化けて偵察しておき、夜になると、雨戸の敷居の下を掘りはじめる。

ところが、昼間印をつけた桟までの寸法が合わず、悪戦苦闘。

だんなが
「ええと、この金をこう融通してと、ああ、もう少しなんだがなあ」
とこぼしていると、下でも
「もう少しなんだがなあ」

「わずかばかりで勘定が追っつかねえってのは、おもしろくねえなあ」
「わずかばかりで届かねえってのは、おもしろくねえなあ」

これが聞こえて、かみさんはなにも言っていないというので、おかしいとヒョイと土間をのぞくと、そこから手がにゅっと出ている。

ははあ、こいつは泥棒で、桟を弾いて入ろうってんだと気づいたから、
「とんでもねえ野郎だ。こっちが泥棒に入りたいくらいなんだ」

捕まえて警察に突き出し、あわよくば褒賞金で穴埋めしようと、だんなは考えた。

だんな、そっと女房に細引きを持ってこさせると、やにわに手をふん縛ってしまった。

泥棒、しまったと思ってももう遅く、どんなに泣き落としをかけてもかんべんしてくれない。

おまけにもぐり込んできた犬に小便をかけられ、縁の下で泣きっ面に蜂。

そこへ通りかかったのが廓帰りの男で、行きつけの女郎屋に三円の借金があるのでお履き物を食わされた(追い出された)ところ。

おまけに兄貴分に、明日ぱっと遊ぶんだから、それまでに五円都合しとけと命令されているので、金でも落ちてないかと、下ばかり見て歩いている。

「おい、おい」
「ひえッ、誰だい。脅かすねえ」
「大きな声出すな。下、下」

見ると、縁の下に誰か寝ている。

酔っぱらいかと思うと、
「ちょっとおまえ、しゃごんで(しゃがんで)くれねえか。実は、オレは泥棒なんだ」

一杯おごるから、腹掛けの襷の中からがま口を出し、その中のナイフをオレに持たしてくれ、と頼まれる。

男は
「どこんとこだい。……あ、あったあった。こん中に入ってんのか。へえ、だいぶ景気がいいんだな」
「いくらもねえ。五十銭銀貨が六つ、二円札が二枚、みんなで五円っかねえんだ」

五円と聞いて男、これはしめたと、がま口ごと持ってスタスタ。

「あッ、ちくしょう、泥棒ーう」

【しりたい】

古きよき時代とともに  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、上方では「おごろもち盗人」といいます。「おごろもち」は、関西でもぐらのこと。

昭和初期に五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)がよく演じ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)もたまにやりました。

速記が残るのは、六代目蝶花楼馬楽(河原三郎、1908-87)くらい。

東西とも、現在ではあまり演じられません。

オチは皮肉がきいていて、なかなかいいので、すたれるには惜しい噺なのですが。

「第十七捕虜収容所」泥は時代遅れ  【RIZAP COOK】

こうした、軒下に穴を掘って侵入する手口を文字通り「もぐら」と称しました。

もちろん「泥」にかぎらず、戦争映画などでよく見る通り、捕虜収容所や刑務所からの脱走も、穴を掘って鉄条網の向こうに出る「もぐら」方式がもっとも確実だったのですが……。

特に都会で、軒下というものがほとんど姿を消し、、穴を掘ろうにも土の地面そのものがなくなった現代、こうしたクラシックな泥棒とともに、この噺も姿を消す運命にあったのは、当然でしょう。

「ギザ」の使いみちは?  【RIZAP COOK】

50銭銀貨は、明治4年(1871)、表がドラゴン、裏に太陽を刻印したものが大小2種類発行されたのが最初です。俗に「旭日龍」と呼ばれました。

明治39年(1906)のリニューアルで表の龍が消え、通称は「旭日」に。ついで大正11年(1922)、従来より小型で銀の含有量の少ない「鳳凰」デザインのものに統一。

これは「ギザ」「イノシシ」とも呼ばれ、昭和13年(1938)、戦時経済統制で銀貨が姿を消すまで、事実上、流布した最高額の補助貨幣でした。

どんなに使いでがあったかを、大正11年前後の商品価格で調べてみると、50銭銀貨1枚で釣りがきたものは……。

寿司・並2人前、鰻重、天丼・並各1人前、もりそば5-6枚、卵8個、トンカツ3皿、二級酒4合、ビール大瓶1本、ゴールデンバット10本入り8個、炭5kg。湯銭大人1人10日分。

お履き物  【RIZAP COOK】

廓で、長く居続ける客を早く帰すため、履き物に灸をすえるまじないがあったことから、女郎屋を追い立てられる、または出入り差し止めになることを「お履き物を食わされる」といいました。

五代目古今亭志ん生は、たんに「おはきもん」と言っていました。

くすぐりから  【RIZAP COOK】

かみさんが、あとで泥棒仲間に仕返しで火でもつけられたら困るから、逃がしてしまえとだんなに言う。

泥「(調子にのって)ほんとだい、ほんとだい。仲間が大勢いて無鉄砲だから、お宅に火を つけちゃ申し訳ねえ」
亭「つけるんならつけてみろい。どうせオレの家じゃねえや」

……ごもっとも。             

                                       六代目蝶花楼馬楽

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

さいきょうみやげ【西京土産】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

御一新で没落した士族。
その悲哀を背にした滑稽譚。

【あらすじ】

長屋に住む、独り者の熊五郎。

隣の元士族で、今は反故屋の作蔵が、女を引き込んでいちゃついているようすなので、おもしろくない。

嫌味を言いに行くと作蔵、実はこれこれこういうわけと、不思議ないきさつを物語る。

母一人子一人の身で、死んだおやじの士族公債も使い果たし、このままでは先の見込みもない。

いずれは道具屋の店でも開こうと一念発起した作蔵。

上方を回って掘り出し物の古道具でも買い集めようと、京から奈良と旅するうち、祇園の芸妓の絵姿が手に入った。

この絵の中の女に一目惚れした作蔵、東京に帰ると、母親が嫁取りを勧めるのも聞かず、朝夕飯や茶を供えて、どうか巡り合えますようと祈っている。

と、その一念が通じたか、ある日、芸妓が絵からスーッと抜け出し
「どうか、あんたのお家はん(=妻)にしてかわいがっとくれやす」

都合のいいことに、女は作蔵がいる時だけ掛け軸の中から出てきて、かいがいしく世話をしてくれる。

この世の者でないから食費もかからず。

しかも絶世の美女ときているので、わが世の春。

毎日、鼻の下を伸ばしている。

母親に見つかってしかられた。

だが、わけを話して許しを得て、今では三人仲良く暮らしている、という次第。

話を聞いてうらやましくてならない熊公、
「こんないい女が手に入るなら、オレも古紙回収業になろう」

熊公は、作蔵からかごを借りる。

鵜の目鷹の目で、抜け出しそうな女の絵を買おうと、近所をうろつきだす。

都合よく、深川の花魁の絵姿の掛け軸が手に入った。

熊は大喜びで毎日毎晩一心に拝んでいる。

その念が通じたか、ある夜、花魁がスーッと絵から抜け出て
「ちょいと、主は本当に粋な人だよ。おまえさんと添い遂げたいけど、ワチキは今まで客を取ってて、体がナマになっているから、鱸の洗いで一杯やりたいねえ。軍鶏が食いたい、牛が食べたい。朝はいつまでも寝てるよ。起きない(=畿内)五か国山城大和」

隣とはえらい違いで、本当に寝ているだけでなにもしない。
「これは、ひどい奴を女房にした」
とぐちる。

ある朝。

熊さんが自分で朝飯をこしらえて花魁の枕元に置き、夕方、仕事から帰ると、もぬけのカラ。

ほうぼう探したが、行方がわからない。

しかたなく、易に凝っている大家に卦を立ててもらうと「清風」と出た。

「セイは清し、フウは風だから。神隠しにあったんだろう」
「そりゃあ、違いましょう。実は柱隠しでございます」

底本:初代三遊亭円遊

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

「鼻の円遊」の創作  【RIZAP COOK】

明治25年(1892)10月、『百花園』掲載の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が、唯一の記録です。

いわゆる没落士族の悲哀を背景にした噺です。

筋自体は「野ざらし」と「応挙の幽霊」を継ぎ足した感じで、後半の花魁のずうずうしさだけが、笑いのタネです。

円遊は、その年の5月末から8月いっぱい、西京(京都)から関西、東海地方を旅興行で回っているので、噺の題名はその土産話という、ニュアンスなのでしょう。

「西京」は、明治以後に使われた名称です。

江戸が「東京」と改名して首都とされたため、それと区別するために用いたものです。

士族公債

明治2年(1869)の版籍奉還に伴い、同10年(1877)に政府から士族に発行された秩禄(=金禄)公債証書。

明治政府が武士に渡した手切れ金です。1人当たり、平均40円にも満たないケースがほとんどでした。

そのため、士族の多くは生活に困窮。子女が身売りしたり、落語でよく登場するように慣れない商売に手を出して失敗する悲劇が明治初期、いたるところで見られました。

神隠し  【RIZAP COOK】

いわゆる「蒸発」です。

その当時、子供の「蒸発」はほとんどが人さらいでした。

柱隠し  【RIZAP COOK】

オチが今ではわかりにくくなっていますが、柱隠しは、柱の表面に掛けた装飾のことです。

「たがや」にも登場する「柱暦」もその一つですが、多くは、細長い紙に書画を描いたもので、柱掛け、柱聯ともいいました。

この噺の場合は、柱隠しに使った掛け軸の中から花魁が出現したことを言ったものです。

つまり、神隠しではなく、掛け軸の中にまた戻っていったのだろう、ということでしょう。

江戸時代には、柱隠しを利用した、「聯合わせ」という優雅な遊びがありました。

柱に木製や竹製の聯を掛け、単に飾って自慢しあうだけでなく、その上に手拭い、扇面、短冊、花などをあしらい歌舞伎の下題に見立てて、洒落るなどしたものです。

明治期には、ハンカチを使うこともありました。

のちには、祭礼の神酒所の飾りにしか、見られなくなりました。

清風  【RIZAP COOK】

せいふう。江戸時代、神隠しは天狗の仕業と考えられ、天狗の羽うちわが起こす風をこう呼びました。

ここでは、冗談半分にそれとしゃれたものです。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :0/3。

てんたく【転宅】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

泥棒より数枚上手な女の話。
この泥棒のお人よしぶりには口あんぐり。

あらすじ

おめかけさんが「権妻ごんさい」と呼ばれていた明治の頃。

船板塀に見越みこしの松の妾宅しょうたくに、だんなが五十円届けて帰った後、これを聞きつけて忍び込んだのが間抜けな泥棒。

お膳の残りものをムシャムシャ食っているところを、おめかけさんのお梅に見つかり、
「さあ、ダンツクが置いてった五十円、蛇が見込んだ雨蛙。四の五の言わずに出せばよし、いやだ応だと抜かしゃがると、伊達には差さねえこの大だんびら、うぬがどてっ腹へズブリズブリとお見舞い申すぞ」
と居直ったが、このおめかけさん、いっこうに動じないばかりか、
「あたしも実は元はご同業で、とうにだんなには愛想が尽きているから、あたしみたいな女でよかったら、連れて逃げておくれ」
と言い出したから、泥棒は仰天。

「五十円はおろか、この家にはあたしの蓄えも入れて千円あるから、この金を持って駆け落ちし、世界一周した後、おまえさんに芸者屋でもやってもらう」
と色仕掛けで迫る。

泥棒、でれでれになって、とうとう、めおとの約束を。

「そう決まったら今夜は泊まっていく」
と泥棒がずうずうしく言い出すと、
「あら、今夜はいけないよ。二階にはだんなの友達でえらく強いのが、酔っぱらって寝てるんだから」

明日の朝に忍んでいく約束をしたが、
「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」
と稼いだなけなしの二十円を巻き上げられる始末。

で、その翌朝。

うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんや、もぬけのカラ。

あわてて隣の煙草屋のおやじに聞くと、
「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑いつづけなんです」

女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。ほうぼうで遊んできた人だから、人間がすれている。間抜け野郎の泥棒を口先でコロッとだまし、あの後、だんなをすぐに呼びにやったところ、あとでなにか不都合があるといけないというので、泥棒から巻き上げた金は警察に届け、明け方のうちに急に転宅(=引っ越し)した、とか。

「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた(=だまされた)」

H:468px*H60px

しりたい

たちのぼる明治の匂い

「権妻」「転宅」ともに明治初期から使われだした言葉。まぎれもなく明治の新時代につくられた噺です。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が得意にしました。

この円遊は明治を代表する噺家で、大きい鼻のために「鼻の円遊」とも、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露したため「ステテコの圓遊」とも呼ばれていました。

円遊は、文明開化の新風俗を当て込み、鉄道馬車を登場させたり、オチも「あそこにシャボンが出ています」と変えるなどとしていました。

同時代で音曲の弾き語りや声色などで人気のあった二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-1898)は、女が「目印にタライを置いておく」と言い、オチは「転宅(=洗濯)なさいましたか。道理でタライが出ています」としています。

ちなみに、二代目今輔は右目が不自由だったことから「めっかちの今輔」と当時の資料には出てきます。

やはり、ひとつの時代の風俗に密着しているだけに、いつまでも生き残るには難しい噺かもしれません。

三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)も得意ネタにしていました。こちらのネタでも同じような運命をたどっています。

権妻

本妻に対しての愛人、妾、おめかけさんをいいます。

「権」を「けん」ではなく「ごん」と読みます。

「ごん」と読む場合は、「権大納言ごんだいなごん」「権禰宜ごんねぎ」というように、「次の」「二番目の」をさす敬称となります。

愛人に対してわざとしゃれて使ったものです。明治時代の特徴です。

船板塀に見越しの松

「黒板塀に……」ともいいます。当時の典型的な妾宅しょうたくの象徴として、三代目瀬川如皐じょこう(六三郎、1806-81)の代表的な歌舞伎世話狂言『源氏店げんじだな』(お富与三郎)にも使われました。

瀬川如皐は歌舞伎作者です。

船板塀は、廃船となった船底板をはめた塀で、ふつう「忍び返し」という、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。

見越みこしの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。

いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。

「ドウスル!」女義太夫

「娘義太夫」「タレギダ」ともいいます。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。

明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。

ちなみに、「タレギダ」の「タレ」は女性の隠語、「ギダ」は義太夫のことで、娘義太夫を意味しています。内訳を知るとばかばかしいだけ。

娘義太夫は、今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどは、木下杢太郎(1885-1945)の詩「街頭初夏」(明治43年)にも。

濃いお納戸の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田しったもすずしげに

この噺のおめかけさんのように旅回りの女芸人となると、泥水もさんざんのみ、売春まがいのこともするような、かなり凄絶な境遇だったのでしょう。

そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。

それにしても

この噺、男女の愛欲を貫くよりも、泥棒を犯罪者とみなして追及するほうを優先しています。

明治期の世俗価値観が強く出ていて、いまいちどうも、とびきりのおもしろさはありません。

とはいえ、妾囲いを是とする風潮は許容しているわけです。

落語は、社会の不備や政治の不正に物申す、発信元の役割を果たしたわけではなかったようです。

自由民権運動では、講談や浪曲が媒体として使われはしても、落語は使われませんでした。

現代でも、聴者はそんなところを落語に求めていません。ただげらげら笑いたいだけなんですよね。私(古木)もです。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

はんたいぐるま【反対車】落語演目

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

威勢はいいのですがね。
ここまでそそっかしいのは。
どんなもんでしょうか。

別題:いらち車(上方)

あらすじ

人力車がさかんに走っていた明治の頃。

車屋といえば、金モールの縫い取りの帽子にきりりとしたパッチとくれば速そうに見えるが、さるだんなが声を掛けられた車屋は、枯れた葱の尻尾のようなパッチ、色の褪めた饅頭笠と、どうもあまり冴えない。不運。

「上野の停車場までやってくれ」
「言い値じゃ乗りますまい」
「言い値でいいよ」
「じゃ十五円」

十五円あれば、吉原で一晩豪遊できた時分。

「馬鹿野郎、神田から上野まで十五円で乗る奴がどこにいる」

勝手に値切ってくれと言うから、「三十銭」「ようがしょう」といきなり下げた。

それにしても車の汚いこと。

臭いと思ったら、「昨日まで豚を運搬していて、人を乗せるのはお客さんが始めてだ」と抜かす。

座布団はないわ、梶棒を上げすぎて客を落っことしそうになるわ。

おまけに提灯はお稲荷さまの奉納提灯をかっぱらってきたもの。

どうでもいいが、やけに遅い。

若い車屋ばかりか、年寄りの車にも抜かれる始末。

「あたしは心臓病で、走ると心臓が破裂するって医者に言われてますんで。もし破裂したら、死骸を引き取っておくんなさい」

そう言い出したから、だんなはあきれ返った。

「二十銭やるからここでいい」
「決めだから三十銭おくんなさい」

ずうずうしい。

「まだ万世橋も渡っていないぞ」
「それじゃ上野まで行きますが、明後日の夕方には着くでしょう」

だんなはとうとう降参して、三十銭でお引き取り願う。

次に見つけた車屋は、人間には抜かれたことがないと威勢がいい。

それはいいが、乗らないうちに「アラヨッ」と走りだす。

飛ばしすぎてこっちの首が落っこちそう。

しょっちゅうジャンプするので、生きた心地がない。

走りだしたら止まらないと言うから、観念して目をつぶると、どこかの土手へ出てやっとストップ。

見慣れないので、「どこだ」と聞いたら埼玉県の川口。

「冗談じゃねえ。上野まで行くのに、こんなとこへ来てどうするんだ」

しかたなく引き返させると、また超特急。

腹が減って目がくらむので、川があったら教えてくれと言う。

汽車を追い抜いてようやく止まったので、命拾いしたと、値を聞くと十円。

最初に決めなかったのが悪かったと、渋々出した。

「見慣れない停車場だな」
「へい、川崎で」

また通り越した。

ようやく上野に戻ったら午前三時。

「それじゃ、終列車は出ちまった」
「なあに、一番列車には間に合います」

しりたい

人力車あれこれ

1870年(明治3)、和泉要助ら三人が製造の官許を得て、初お目見えしたのは1875年(明治8)でした。

車輪は当初は木製でしたが、後には鉄製、さらにゴム製になりました。

登場間もない明治初年には、運賃は一里につき一朱。車引きは駕籠屋からの転向組がほとんど。

ただし、雲助のように酒手をせびることは明治政府により禁止されました。

明治10年代までは、二人乗りの「相乗車」もあったようです。

落語家も売れっ子や大看板になると、それぞれお抱えの車引きを雇い、人気者だった初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の抱え車引きが、あまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードもあります。

全盛時は全国で3万台以上を数え、東南アジアにも「リキシャ」の名で輸出されました。

1923年(大正12)の関東大震災以後、自動車の時代の到来とともに、急激にその姿を消しました。

車屋の談志

この噺の本家は大阪落語の「いらち車」です。

大正初期には、六代目立川談志(1888-1952)が「反対車」で売れに売れました。

住んでいた駒込辺りで「人力車の……」と言いかければ、すぐ家が知れたほど。

そこで、ついた異名がそのものずばり「車屋の談志」。その談志も、人力車の衰退後は不遇な晩年だったといいます。

昭和初期には、七代目林家正蔵(海老名竹三郎、1894-1949)の十八番でした。

八代目橘家円蔵(大山武雄、1934-2015)のも、若い頃の月の家円鏡だった時代から、漫画的なナンセンスで定評がありました。

客が二人目の車屋に連れて行かれる先は、演者によって大森、赤羽などさまざまで、「青森」というのもありました。

人力車の噺いろいろ

人力車は明治の文明開化の象徴。

それを当て込んでか、勘当された若だんなが車引きになる「素人人力」、貧しい車屋さんの悲喜劇を描く「大豆粉のぼた餅」、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)の古い速記が残る怪談「幽霊車」などがありました。

そういった多くの新作がものされはしたのですが、今では「反対車」のほか、すべてすたれました。

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ごせんのあそび【五銭の遊び】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

五銭をもって吉原で遊んだ男の珍体験談。
いくらなんでも五銭では。
それがりっぱにあがれたのです。

別題:白銅の女郎買い

【あらすじ】

明治から大正の頃。

吉原は金さえあれば、どうとでもなる場所だ。

花魁の格はピンからキリまである。

下の方にくると「じょーろ(女郎)」というのがいる。

町内の連中が、なか(吉原)のじょーろの評判をしている。

とめ公が
「おれは五銭で遊んできたぜ」
と自慢しはじめた。

そのわけを話す。

その日は、二銭しか持ち合わせがなかった。

外にも行けず、家にいて小説本を読んでいたのだ。

おふくろが
「馬道まで、無尽のお金をもらってきておくれ」
と頼まれた。

無尽で五銭が当たったのだ。

用が済んで、浅草の瓢箪池まで来てみると、しめて七銭持っていることに気づいた。

心が動いた。

足がなんとなく吉原に向いていった。

七銭もってむらむらと。

どうせ、ひややかすだけだ。

そんでもって、女を安心させてやろう、と。

千束から吉原土手に出て、大門をくぐって、江戸町二丁目を突き抜ける。

ひやかしていると、角海老の大きな時計が、夜の12時を打った。

腹が減った。

おでん屋に飛び込んで、コンニャクを食べた。

金がないから、コンニャクの二銭を払って、それ以外は食べずに出てきた。

コンニャクで威勢がついた。

「まるで小石川の閻魔さまだな」

話を聴いている連中にひやかされる。

話はさらに。

夜が明ける頃に帰れば、母親も安心するだろう。もう少し冷やかしていこうかと思った。

投げ節をうたった。

ある店の前を通った。

「ちょいとぉ」
と、後ろから声がかかった。

二十四、五歳の女だった。

「二日続けてお茶を引いちゃったんで、今晩ぐらいお客を取らないと、ごないしょに怒られるからさ、どうしても助けておくれよ」
「だめだ、金がねえんだ」
「いったい、いくらあんのさ」

さすがに「五銭なんだ」とは言えないので、右手を出して「これくらい」と伝えた。

女が少し考えて出たひとことが、「なら、お上がりよ」だった。

浮き立つ心で、トントーンと二階にあがった。

「むりを言ってすまないね。恩に着るよ。寝ようよ」
「その前に、腹が減ったんで、なにか食わしてくれ」

この時分では注文もできない。

女は親切にも、廊下から台屋のお鉢を抱え込んで、食べさせてくれた。

おかずは、といえば、これがすごい。

「ぜいたく言わないで、梅干し食べていると思って食べな」

しょうがない。すっぱい唾で飯をかき込んだ。

さて、寝ようと。

若い衆の松どんが入ってきて、「宵勘だから」と催促された。

「はいよ」と五銭を投げた。

すぐに女が言った。

「足りない分は、私が足すから文句を言わないで承知しな」
「承知もなにも」
「がまんおしいよ」
「五銭ですよッ」

女はジイッと俺の顔を見ていた。

「片手を出したじゃないいか」
「そうだよ。五銭だから」
「まあ、五銭でよく店の敷居をまたいだね。その上、飯まで食べてさ。あんたは面の皮が厚いね」
「俺は薄くはないいよ」

【しりたい】

白銅

明治期からの通貨です。

「安い」の代名詞として知られます。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

しろうとうなぎ【素人鰻】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

鰻噺。
維新直後の東京。
没落した士族の泣き笑いです。

別題:鰻屋 士族の商法 素人洋食(改作)

あらすじ

明治の初め。

士族の中村のだんな、新政府から金禄公債きんろくこうさいをもらったのを機になにか商売を始めようと、手頃な家を探し歩いている時、偶然、昔、屋敷に出入りしていた鰻職人の神田川の金に会う。

事情を話すと、
「及ばずながら、あっしがお役に立ちやすから、ぜひ鰻屋をおやんなさい」
と勧める。

この男、腕は確かなのだが酒乱で、一度酒が入ると手がつけられない。

だんながためらうと、金毘羅こんぴらさまに願掛けして、きっぱり酒は断つと誓ったから、それならと万事任せることにし、空店まで金に探してもらって、開店にこぎつけた。

なるほど、金は人が変わったように、たった一人で獅子奮迅。

住み込みで、流しから料理から出前から、なにもかも一切合切引き受ける。

だんな夫婦も喜び、金には腫れ物に触るように、大事にしている。

ある日。

だんなの昔の遊び仲間で、金ともなじみの麻布のだんなが来る。

旧幕時代の思い出話などしているうち、麻布のだんなが、金が酒断ちをしていると断るのに、無理にのませるから、中村のだんなはハラハラ。

案の定、だんだん金の目が座ってきて、気がついた時はもう手遅れ。

やめさせようとすると
「なんでえ、一杯二杯の酒ェのんだがどうしたってんでえ。こんな職人がどこにある。下流しから料理から、出前までするんだ。……ばかたぁなんでぇ。大きなツラぁするねぇ。だんな、だんなと持ち上げりゃあいい気に……」
「出ていけっ」
「こんな家ィ、誰がいるかいっ」

売り言葉に買い言葉。

しかし、金に出ていかれると営業はできないので、夫婦で心配していると、翌朝、吉原の付き馬を連れて金が面目なさそうに帰ってくる。

酒をのんだ後のことは皆目記憶になく、気がつくと女郎が横に寝ていた、という。

怒るに怒れないので、金に立て替えてやり、十分酒に気をつけるよう注意して、また元のさやに。

それからしばらくは、金も懸命に働き、腕がいいので店も少しずつ繁盛した。

ところが、だんながある夜、金に遠慮しいしい寝酒をやっていると「ガラガラガラ」とすごい音。

金の声がするので、さてはと駆けつけると、案の定、もうご機嫌。

この前のことがあるから思わずだんなもカッとして
「出てけえっ」

翌朝戻ってきたが、またその夜同じことの繰り返し。

仏の顔も三度で、もう帰ってはこられない。

そうなると、困るのが店の方。

すぐには金ほどの腕の職人は雇えないから、しかたなく、だんなが自分で料理しようと奮闘。

ぬるぬるしてつかめず、糠を滑り止めにしてやっと一匹捕まえて、キリで往生させたと思ったら、今度は隣の奴がニョロニョロ逃げ出す。

だんな、捕まえようとして両手で交互につかみ、とうとう外へ。

「これこれ、履物を出せ、履物を。……どこへまいるるかわかるか。鰻に聞いてくれ」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

しりたい

黒門町の極めつけ  【RIZAP COOK】

この噺は現在、二通りのパターンが伝わっています。

オチの部分の原話は、安永6年(1777)刊『時勢噺綱目じせいばなしこうもく』中の「俄旅にわかたび」。このオチをもとに、同題で二通りの「素人鰻」が作られました。

一つはここで紹介した噺です。別題を「士族の商法」といいます。それはこんな噺が元にあります。

幕府倒壊した直後、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)がとある武家屋敷の前を通りかかると、そこには「この内に汁粉あり」の看板がかかってありました。

気になって中に入ってみると、屋敷の家来がうやうやしく取り次いで、殿さまがたすき掛けであんをこしらえていたり、姫君が小笠原流で汁粉を運んできたりと、場違いな雰囲気の汁粉屋でした。

円朝はそそくさと退出したとか。この体験をもとに円朝がつくった噺が「士族の商法」。これに、先述の「俄旅」を合体させたのが「素人鰻」となったようです。

戦後、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)の十八番中の十八番として称賛されました。これは明治維新直後の実話をもとに作られたと言われています。噺に登場する「神田川」も神田明神下の老舗です。

初代三遊亭円馬(野末亀吉、1828-1880)、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909)、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)を経て、文楽に直伝で伝えられました。

文楽自身が華麗な語り口で没落士族の悲哀と明治初期の世相を見事に描き、一世を風靡しました。

なお、この噺には別のオチがあり、鰻が裂けないのでしかたなく丸焼きにして出し、客が文句を言うと「なに、無理すれば食える」という陳腐なもので、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が小咄としてマクラに振っていたようです。

もちろん、今はやり手がありません。もう一つについては、次項で。

滑稽丸出しの「鰻屋」  【RIZAP COOK】

二つ目について。

オチは同じですが、こちらはナンセンスに徹したもので、普通は「鰻屋」の別題で演じられます。

二人の男の噂話から始まり、鰻裂きの職人が留守でキュウリのコウコで二時間酒をのました鰻屋があるが、主人がわびて金を取らず、またのみなおしにどうぞと言ったというので、それじゃあお言葉に甘えてタダ酒にありつこうと、職人がいない時を見計らって二人で押しかけたので、困った主人が自分で料理しようとして「どこへ行くか鰻に聞いてくれ」となります。

「素人鰻」が長らく文楽の独壇場だったのとは対照的に、こちらは初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)の型とされているものです。

遊三は徳川家の御家人の出なので、成れの果ての士族の来し方が身に染みていたのでしょう。

この型が、大正期に五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)が改作し、大阪の初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)、戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、五代目志ん生と、多士済々です。

小勝は、幕切れの鰻をつかむ手さばきに合理的な工夫を見せ、東京の「鰻屋」はみなこの師匠から出たと円生も語っています。

明治維新の時代の風潮が噺からは消えて、鰻屋のコミカルなようすだけが浮き彫りに出たものに変わっていきました。

これを「素人鰻」と区別する意味で、「鰻屋」と呼ぶゆえんです。

春団治は、鰻をつかんだ男が最後に電車に飛び込むという破天荒なオチで有名でしたが、この上方爆笑路線は、二代目桂枝雀(前田達、1939-1999)が継承していました。

「鰻鰻鰻つかみて春団治 歩む高座にさんざしの降る」という吉井勇よしいいさむ(1886-1960)の歌が残ります。

士族の商法  【RIZAP COOK】

明治6年(1873)からの士族の秩禄奉還に基づき、同9年、金禄公債証書発布条例が発令されました。

これは、それまで幕府や各藩からもらっていた家禄を没収する代わり、一定のまとまった金額を公債の形で支給するものです。

一部は現金でもらえましたが、これを元手に商売を始める元サムライが多かったのです。

ところがその結果は、八代目文楽もマクラで引用しているとおり、「士族の商法とかけて、子供の月代さかやき(散髪)と解く。そのココロは、泣き泣き摩(す=剃)る」というありさま。

慣れない商売で客や使用人、取引相手に頭を下げられず、あっという間に全財産をすって落ちぶれ果てる人があとを絶ちませんでした。

からいばりしてもどうにもならず、貧窮のあまり没落士族の娘が女郎に身を売るなど、珍しくもなかったようです。

量産された没落士族もの  【RIZAP COOK】

というわけで、明治初期にはこの噺を始め、「士族の車」「御前汁粉」「西京土産」など、没落士族を主人公にした噺がやたらと作られました。

まあ、人の不幸は笑いのタネというわけで、二百数十年も両刀のご威光で押さえつけられてきた町人のうっぷん晴らしもあったでしょう。

「士族の車」は、零落して人力車を引いている元サムライが、客に号令をかけさせて勇ましく走り出すもののはずみに梶棒が持ち上がって、客を落としたりしたあげく「疲れたから、今度はおまえが引け」とオチになる噺。

「御前汁粉」は、殿さまとお姫さまで汁粉屋を開業、お姫さまが運んできて「町人、代わりを食すか」「へい、おありがとう存じます」「暫時そこに控えておれ」「へへー」どっちが客かわからない、という噺です。

しょせんはキワモノで、「素人鰻」を除けばほとんどが早々にすたれましたが、これらの残された速記は、当時の風俗を知る上で貴重な資料といえるでしょう。

続編?「鰻の天上」  【RIZAP COOK】

ところで、鰻をつかんで飛び出したあと、いったいどうなったのか、気になるところですが、ちゃんと考えた人がいたとみえます。

上方落語で、「鰻の天上」と題したマクラ噺で、徳やんという男が、つかんだ鰻の頭を上に向けたばっかりにそのままいっしょに天上し、一年後に妻子のもとに空から「去年の今日鰻と共にのぼりしがいまに絶へせずのぼりこそすれ(=今も絶えずずっと上り続けている)」と書いた短冊がヒラヒラ。裏書に「手を離す暇がないので、代筆させた」とあったという、荒唐無稽な後日談となっています。

この噺、さらに続きがあって、とうとう鰻に振り落とされた男が墜落するところを雷さまに助けられ、弟子入りして月宮殿を見物するうち、雷の秘蔵のヘソ入りつづらを盗んで逃走、追いかけられて墜落したのがちょうど我が家の庭……というわけで、ここらになると鰻とはまったく関係なく、「月宮殿星の都」というごたいそうな題がついています。

珍品改作「素人洋食」  【RIZAP COOK】

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が文明開化の新時代を当て込んで「素人鰻」を改作し、「素人洋食」と題した速記が残されています。

円遊は円朝門の四天王の一人で爆笑噺家。「ステテコの円遊」「鼻の円遊」などと呼ばれて一世を風靡しました。

これは、開化ぎらいで頑としてチョンマゲを切らなかった今田旧平(いまだ旧弊)という大金持ちの地主が、ある日突然改心(?)して西洋かぶれになり、こともあろうに洋食屋を始めるというので、いやがる長屋の連中を無理やり集めますが、料理人を雇う金をケチったので料理ができず、パンとバターばかりやたらに出すというドタバタです。

旧平が、来ない奴は店立てをくわせると脅すところは、「素人鰻」よりむしろ「寝床」の趣向が濃厚です。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

ごにんまわし【五人廻し】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

明治の噺。
安い遊びをする客のありさまが。

別題:小夜千鳥

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁おいらんが一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎ぎゅうの喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履ぞうりの音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」

その一言に、男が気色けしきばんだ。

「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門おおもんくぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和げんな三年に庄司甚右衛門しょうじじんえもんてえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町ふきやちょうにあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原もとよしわら、こっちを新吉原しんよしわらといったてぇんだ。わかったか。土手どてから見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町なかのちょうだ。まず左手に伏見町ふしみちょうだ。その先は江戸町えどちょう一丁目、二丁目、それから揚屋町あげやちょう角町すみちょう、奥が京町きょうまち一丁目、二丁目。これが五丁町ごちょうまちってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋じょうろやが何軒、大見世おおみせが何軒、中見世ちゅうみせが何軒、小見世こみせが何軒あって、どこの見世は女郎じょうろが何人で、どこの誰が間夫まぶにとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名げんじなから本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間たいこもちが何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋だいやの数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻すいどじりにある犬のくそだってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、はなからニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心かっけしょうしん、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」

喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈しりんじんじん空空寂寂くうくうじゃくじゃく閨中寂寞けいちゅうじゃくまくとやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房けいぼう中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛もくべえ旦那の部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭のようすを今に伝える、貴重な噺です。

「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。

廓噺と初代小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本しゃれぼんの流れを汲み、かつては数多く作られ演じられました。

現在では一部の噺を除いてすたれました。

洒落本は、遊郭を舞台にして「通人つうじん」についておもしろおかしく描いた読み物です。

18世紀後半に流行しました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。

歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。

若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。

それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺くるわばなしを伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通はんかつう田舎大尽いなかだいじん(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫まぶということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。

「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日いっかに解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。

そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管きせるを突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

新吉原の図

新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。

新吉原

甚助

甚助じみていけねえ。

この噺には、そんなフレーズが登場します。

吉原ならではの言葉です。

甚助じんすけ」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。

①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。

「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。

②とは少々異なります。

「甚助」はほかの噺にも出てきます。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

こうこうとう【孝行糖】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

親孝行の与太郎が飴売りに。
長屋総出で応援する社会更生の麗しい一編。

あらすじ

今年二十一になるが、頭の中がうすぼんやりしている与太郎。

親孝行のほうびに、おかみから青緡五貫文あおざしごかんもんをちょうだいした。

大家がこれを機会に、この金を元手にして、なんとか与太郎の身の立つように小商いでも考えてやりたいと、長屋の衆に相談する。

一人が、昔、役者の嵐璃寛あらしりかん中村芝翫なかむらしかんの顔合わせが評判を呼んだのに当て込んで、璃寛糖りかんとう芝翫糖しかんとうという飴を売り出してはやらせた人がいるから、それにならって、与太郎に飴を売らせたらどうか、と提案。

璃寛糖は、頭巾ずきんをかぶりかねと太鼓を前につるして、
「チャンチキチン、スケテンテン」
というのを合い方に、
璃寛糖りかんとうの本来は、うるち小米こごめに寒ざらし、かやァに銀杏ぎんなん肉桂にっき丁子ちょうじ、チャンチキテン、スケテンテン。昔、むかし、唐土もろこしの、二十四孝にじゅうしこうのその中で、ほら老莱子ろうらいしといえる人、親を大事にしようとて、ほら、こしらえあげたる孝行糖、食べてみな、ほらおいしいよ、また売れたったら、うれしいねっ」
と歌って歩いたもの。今回、与太郎は孝行でほうびをもらったのだから、名前も「孝行糖」、文句はそっくり借りることにしよう、というので一同賛成し、それからというもの、総出で与太郎に歌を暗記させた。

ナントカの一つ覚えで、かえって普通の人より早く覚えたので、町内で笛、太鼓、身なりともにそっくりしたくしてやって、与太郎はいよいよ飴売りに出発。

親孝行の徳か、この飴を買って食べさせると子供が孝行になるという噂が広がって大評判。

売れると商売にも張り合いが出るもので、与太郎、雨の日も風の日も休まず、
「スケテンテン、コーコートー」
と流して歩く。

ある日、相変わらず声を張り上げながら、水戸さまの屋敷前を通りかかる。

江戸市中で一番やかましかったのがここの門前で、少しでもぐずぐずしていると、たちまち門番に六尺棒ろくしゃくぼうで「通れ」と追い払われる。

ところがもとより与太郎、そんなことは知らないから、能天気に
「孝行糖の本来は、粳の小米に寒ざらし……」
とやったから、門番、
「妙な奴が来たな。とおれっ」
「むかしむかし、もろこしの、二十四孝のその中で」
「行けっ」
「食べてみな、おいしいよ」
「ご門前じゃによって鳴り物はあいならん」
「チャンチキチン」
「ならんというんだ」
「スケテンテン」
「こらっ」
「テンドコドン」

……叱言を鳴り物の掛け声に使ったから、たちまち六尺棒でめった打ち。

通りかかった人が、
「逃げろ、逃げろ……どうぞお許しを。空ばかでございますが、親孝行な者……これこれ、こっちィこい」
「痛えや、痛えや」
「痛いどころじゃねえ。首斬られてもしょうがねえんだ。……どこをぶたれた」
と聞くと与太郎、頭と尻を押さえて
「ココォと、ココォと」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

実在した与太郎

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説があります。

実はそのずっと以前、弘化こうか3年(1846)2月ごろから藍鼠色あいねずいろ霜降しもふりたけのこを描いた半纏はんてんを着て、この噺の与太郎とまったく同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが、『藤岡屋日記ふじおかやにっき』に記されています。

政商だった藤岡屋由蔵よしぞうの見聞記です。まず、当人に間違いありません。

青緡五貫文

唐茄子屋政談」「松山鏡」にも登場しますが、銭五貫文は幕末の相場でおよそ一両一分。四千八百文にあたります。

現在の相場で約10万円。

それを青く染めた麻縄の銭挿し(これが青緡あおざし)に通して、孝行のほうびに町奉行より下されます。「青緡五貫文」といったら、なにか特別のことをしてお奉行さまから授かった特別な人、というイメージがついてまわるのです。

それにしても、賞状や勲章ではなくお金をくれるなんて、江戸幕府はずいぶん即物的な感覚だったのですね。

水戸さまの屋敷前

水戸藩の上屋敷。現在の後楽園遊園地、東京ドーム、小石川後楽園、飯田橋職業安定所を含む文京区後楽一丁目全部を占めました。

このうち、東京ドームの場所には、明治維新後、陸軍砲兵工廠こうしょうが建てられ、昭和12年(1937)、その移転後の跡地に旧後楽園球場が建設されました。

コワーイ門番

藩邸の門番は一般には身分は若党で、最下級の士分です。

水戸藩上屋敷は「日暮らし門」と呼ばれた華麗な正門が有名で、左甚五郎ひだりじんごろう作の竜の彫刻をあしらっていました。正門から江戸川堤まで「水戸さまの百軒長屋」といい、ずらりと中級藩士の住む長屋が続いていました。

門番だけでなく、こうした中・下級藩士による「町人いびり」も、ままあったようです。

これも上方由来

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移植。

先の大戦後は三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番として知られ、二代目三遊亭金翁(松本 龍典、1929-2022、四代目金馬→)が継承して得意にしていました。

「本場」の大阪では、現在は演じ手がないようです。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しろうとようしょく【素人洋食】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

洋食に凝った金満地主。
長屋の連中に食べさせる。
どこかで聴いたような噺。
「寝床」にそっくり。
これがまた笑えるのです。

あらすじ

文明開化の東京。

「いまだ旧平」という名の地主。

大変な金満家で、土地や家作(貸家)はもちろん、桑畑も持っているいいご身分。

開化が大嫌いで、いまだにチョンマゲを乗せ、人力車が通ると胸が悪くなるだの、馬車の音がすると頭痛がするなどと言っている。

それで、長屋の者に「デボチン頭の旧平」と陰口をたたかれている。

当人もうすうすそれを知っているから、
「オレに金を借りている連中ばかりなのに生意気だ、今に見返してやる」
と一念発起。

文明開化に百八十度転向して、なんとか流行の先端を行く洋食屋を開業することにした。

コックを雇うのはめんどうだから、だんなが自分で料理をすることに決めた。

勧工場(デパート)で一銭五厘の『西洋料理煮方法』なる怪しげな虎の巻を買ってきた。

要は魚油でなんでもかんでも炒めて、パンを食わせておけばいいのだからと、さっそく大家以下長屋の連中を招集した。

料理の実験台にすることに決めたのだ。

勝手に決められた奴らこそいい迷惑。

なんだかだと理由をこしらえて、誰も来やしない。

怒った旧平だんな、
「来ない奴は洋食ならぬ店立てをくわせた上、貸金を利息共全部取り立てる」
と脅した。

しかたなく、みんなが集まる。

「あのだんなのことだから、陰口をきいたのを根に持って毒を入れるかもしれない」
と、毒消しを用意したりしている。

六十三歳になる女性は
「老い先短い命だから」
と、せがれの身代わりに念仏を唱えて出てきたりと、命がけの大騒ぎ。

ところが、やたらパンばかり出てくるので、一同閉口。

台所からお経のようなうなり声が聞こえるから、
「どうしたか」
と聞くと、
「魚油と水が火に入って燃え上がったが、たった一人の相談役の道具屋の吉兵衛がいなくなり、だんなが困ってうなっている」
という。

「スプンとかいうものがほしい」
と注文が出た。

だんなは知らないのでスッポンと聞き違え、さっそく取り寄せて、生きているままテーブルに出した。

みんな食いつかれて大騒ぎ。

そんな一幕の後、ようやく吉兵衛が帰ってくる。

「みなさん、どうしました」
「やたらパンばかり出て困ります」
「パンの多いはず。長屋一同バタ(バター=ばか)にされた」

【RIZAP COOK】

うんちく

洋食ことはじめ 【RIZAP COOK】

初めて日本人が洋食を口にしたのは、嘉永7年(=安政元、1854)、幕府の代表団がペリーの「黒船」に招かれての歓迎晩餐会。

ということに、これまではなっていましたが、最近は、そんな間抜けな説をとなえる人は、あまりいません。

すでに、長崎の阿蘭陀通詞(幕府の通訳、身分は幕臣)たちは、ふつうに洋食を食べていたのですから。

江戸中期(18世紀)には、彼らの間では一般的な生活習慣となっていました。

つまり、江戸時代にもすでに西洋文化をしっかり受容していた人たちが、一定数、確実にいたのです。

彼らの多くは、維新後、京都や東京などで西洋文化の橋渡しをする役割をしていきました。

明治維新後、肉食が解禁され、まず牛鍋屋が東京の各所に出現しました。

それ以前、慶応3年(1867)、『西洋衣食住』(福沢諭吉著)でマナー、ナイフやフォークなど食器の紹介がなされています。

明治4年(1871)には、横浜駒形町に本格的西洋料理店「開陽亭」がオープンしました。横浜居留地の西洋人相手の店でしたが。

明治5年(1872)、最初の本格的西洋料理レシピが掲載された『西洋料理通』(仮名垣魯文著)が刊行されました。

これに触発されたか、東京にも翌年、京橋区采女町(中央区銀座六丁目)に北村重威が「精養軒」を開店したのです。

これを手始めに、神田橋の三河屋、築地日新亭、茅場町海陽亭なども続々と開店していきました。

明治10年(1878)前後には数も増え、十軒ほどの洋食屋が記録されています。

この時期はまだ、日本人でこれらの店を利用するのは、役人、政治家、銀行家など、新興階級がほとんどでした。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記掲載の4年前、明治19年(1886)には、築地精養軒でテーブルマナーの講習会が開かれます。

このあたりから、従前の「西洋料理」が「洋食」と言い慣わされるなど、ようやく一般にも普及し始めました。

明治30年代に入ると、洋食はますます定着しきます。

明治39年(1906)9月発行の『東京案内』(東京市役所編)には、神田、日本橋、京橋を中心にした、比較的大規模な西洋料理店42軒が掲載されています。

この噺で、長屋のお歴々の悪夢のタネとなるパンは、かなり早く、寛政7(1795)年刊の『長崎見聞録』にすでに紹介されています。

この本は通詞とは関係なく刊行されていますから、西洋人の珍妙ぶりばかりが強調された手あかのついた風俗本でした。

やがて、相つぐ外国船の登場から武士を中心とした連中の国防意識が高まると、いざというときの兵糧用として乾パンが注目を集めました。

ペリー来航の2年後、安政2年(1855)には、水戸藩が長崎へ製法習得のため、家臣を派遣した記録があります。

通詞の生活に比べるとかなり遅れています。

このパンなるものは、固いビスケットに近いものだったようです。

その後も戊辰戦争(1868-69)を経て、乾パンは日本陸軍の軍隊食として定着します。

本格的なパン販売の広告は、慶応3年(1867)、横浜で発行の「万国新聞」に早くも見えます。

明治5年(1872)刊の『西洋料理指南』に「焙麦餅はわが飯と一般のものにして、方今横浜又は築地において製して売るなり」とあります。

普及は洋食そのものよりずっと早かったようです。

明治6年(1873)から7年(1874)になると、東京市内に雨後のタケノコのごとくパン店が増殖しました。

『明治事物起原』(石井研堂)によると、このころ「ばかの番付」で「米穀を食せずしてパンを好む日本の人」が大関に張り出されたとか。

バターとなると、前述の慶応3年(1867)の新聞広告に「ボットル」として販売広告があります。

おそらく輸入品で、ごく例外的なものでしょう。

国産は明治7年に試作されたものの、日本人の口に合わなかったか、なかなか普及しませんでした。

白牛酪 【RIZAP COOK】

明治13年(1880)の広告に「牛乳、粉ミルク、バター、クリーム、白牛酪」を製造販売する旨が見えます。

「白牛酪」はチーズのことです。

人々がおずおずと口に入れ始めたのは、明治20年代に入ってからでした。

日本人の舌にもっとも抵抗が強かったのは、乳製品です。

昭和30年代になっても、バターやチーズを受けつけない人は、都市部にもけっこういました。

円遊の開化カリカチュア 【RIZAP COOK】

この噺は、初代三遊亭円遊が「素人鰻」をよりモダンに改作したものです。

明治24年(1891)1月に雑誌『百花園』に掲載されているので、創作は前年ということでしょう。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、明治の爆笑王で、大きな鼻が目立ったため「鼻の円遊」と呼ばれたりしていました。下の写真を見ても、そんなに大きい鼻だったのかどうか。

それでも、鼻をもいで「捨ててこ、捨ててこ」と踊ったそうです。

ステテコ踊りとして、高座での人気は沸騰しました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の高弟で、四天王の一人です。

寝床」のだんなの義太夫を、洋食に置き換えた趣もあります。

主人公のような、断髪令が出ようがどうしようが、ガンとしてマゲを切らない士族や江戸町人は、明治末年に至るまで少なくなかったようです。

そんな旧弊の権化が百八十度転向して、洋食に凝りだすというおかしみは、今も昔も変らぬ日本人の「変わり身の早さ」をおもしろがって、当てこすっているようです。

キワモノとされるためか、円遊以後、後継者はありません。

円遊の速記は、今となっては、落語というよりも、当時の世相を語る貴重な資料といったところでしょう。

パンばかりをやたらに食わせるシーンは、「素人鰻」の六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)の演出で、蒲焼きができず、コウコと酒ばかり出すくだりを、ほうふつとさせます。

鼻の円遊

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

たいないりょこう【体内旅行】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

明治人の想像力の凄さ。
独製の薬を塗り友人の体内に侵入した男。
ダジャレばっかりの落語版「ミクロの決死圏」。
根本敬の漫画にもこんなのがありました。

【あらすじ】

二人の男(以下、甲と乙)が牛鍋をつつきながら話している。

本町四丁目のウルコリポイ薬種店に、ドイツの薬が渡来した。

体に塗れば塗るほど、体が小さくなる薬とか。

さっそく乙が試し、甲の目から体内に侵入した。体内旅行の始まりだ。

入り口では、目黒瞳町の眉毛屋の黒兵衛がごあいさつ。

上にいる額区の味噌屋の主人が体内旅行の案内役になる。

まずは、黒毛町を経て頭山へ参詣としゃれこむ。

見渡せば、耳が淵脳骨山や痰仏が眺望できる。

「大変な地面ですから水を打つには税を出さなければならず、いくら税を出しても痰仏さまの税がゼーゼー」
と味噌屋。

喘息道の前に建つ石の門が喘門、その奥が咽家気管という工学士が設計した西洋館。

周りには椿(=唾き)の植え込みがあり、大きな泉水は水落ちの池、向こうの寺は溜院、広い公園は助膜園、りっぱな蔵付きの家が脹満銀行で、寄席は胃病亭。

ただいま心臓病の三味線で腸胃が義太夫を語っている。

乙「大勢聞いていますね」
味噌屋「虫が聞いてます。虫のいい奴で」

やがて疝気の虫、驚風の虫、癇癪の虫など多くの虫が傍聴している議事堂へ。

乙が
「虫諸君、人間を殺して生きていることはできません。外から来る者に害を与えるのは心得違いです」
と、演説をぶつ。

胃病の虫「私は甘いものが好きなので三度の食事の後に茶菓子をいただきたい」
乙「そりゃあできません」
ほかの虫「人間が食わなければいいのです」
乙「それは虫がいいというもの」
ほかの虫「虫が好きます」

まぜっかえしの混戦で、議会は解散する始末。

やがて甲のくしゃみで、乙は甲の鼻から飛びだしてきた。

甲「君は利口だな。目から鼻へ抜けた」

底本:初代三遊亭円遊

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

「鼻の円遊」のシュール珍作

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、明治30年(1897)12月の雑誌『百花園』に速記を掲載したものです。

この人、「鼻の円遊」「ステテコの円遊」と呼ばれ、明治初期の爆笑王でした。初代なのですが、「三代目」と自称していました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の高弟で、四天王の一人と称揚されていました。

晩年は時代に合わず、あまり評価されませんでした。

当時の科学の進歩を当て込んだ、円遊の新作と思われます。

詳細はまったく不明で、それきり消えた珍品中の珍品です。

聞きかじりの怪しげな西洋医学の知識と、「疝気の虫」にも見られた、病気はすべて体内の「虫」が引き起こすという古めかしい俗信をないまぜにし、あとはダジャレばかり。

落語の構成としてはひどい愚作なのですが、あの時代に「ミクロの決死圏」よろしく、人間が「ナノ化」して体内をめぐるという発想は新鮮です。

現在読んでも楽しめるものになっています。

あるいは「疝気の虫」をヒントに、当時流布した体内解剖図を参照して作ったのかもしれません。

どなたかが、現代の最新医学(?)を採り入れて改作してくれると、おもしろいですね。

本町四丁目

ほんちょう。中央区日本橋本町2、3丁目にあたります。

家康が江戸入府後、最初に手掛けた町割りで、その意味で、まさしく「江戸のルーツ」といえる由緒ある町です。

それ以前には処刑場があったところ、とされます。

その「血の穢れ」が嫌われて、「天下祭り」と言われた山王権現や神田明神の祭礼の神輿渡御が許されなかった、という因縁があります。

江戸屈指の目抜き通りで、問屋や大商店が軒を並べました。

本町のうちでも、この噺に登場する薬種問屋は三、四丁目に集まっていました。

「ウルコリポイ」については不詳です。

目から鼻へ抜けた

オチは言うまでもなく、「頭の回転が速い」という意味の慣用句を掛けたものです。

「鼻」は円遊自身のあだ名を効かせてあるのでしょう。

これは、「大仏餅」のオチをちゃっかりとパクったものです。

「大仏餅」は、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)の最後の高座となった人情噺です。

【語の読みと注】
本町四丁目 ほんちょうよんちょうめ
ウルコリポイ薬種店 うるこりぽいやくしゅてん
目黒瞳町 めぐろひとみちょう
眉毛屋 まゆげや
黒兵衛 くろべえ
額区 ひたいく
黒毛町 くろげちょう
頭山 あたまやま
淵脳骨山 えんのうこうつざん
痰仏 たんぼとけ
喘息道 ぜんそくどう
喘門 ぜんもん
咽家気管 いんけきかん
椿 つばき
水落ちの池 みずおりのいけ
溜院 りゅういん
助膜園 ろくまくえん
脹満銀行 ちょうまんぎんこう
胃病亭 いびょうてい
腸胃 ちょうい
疝気の虫 せんきのむし
驚風の虫 きょうふうのむし
癇癪の虫 かんしゃくのむし

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

おやのむひつ【親の無筆】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

息子は学校で読み書きできる。
おとっつぁんはできない。
くやしい!
おとっつぁんは勝ち気です。

別題:清書無筆 無筆の親(上方)

あらすじ

明治の初め、まだ無筆の人がざらにいたころの話。

ようやく学制が整い、子供たちが学校に通い出すと、覚え立ての難しい言葉を使って、無筆の親をへこますヤカラが出てくる。

そうなると、親父はおもしろくない。

「てめえは学校へ行ってから行儀が悪くなった、親をばかにしゃあがる」
と、小言を言い、
「習字を見せてみろ」
と見栄を張る。

「おとっつぁん、字が読めるの?」
「てめえより先に生まれてるんだ。読めなくってどうするものか」

よせばいいのに大きく出て、案の定シドロモドロ。

「中」の字を見せればオデンと読んでしまい、昔は仲間が煮込みのオデンを食ったからだとごまかし、木を二つ並べた字はなんだと聞かれて、
「ひょうしぎ」
と読んだあげく、
「祭りバヤシでカチカチと打つから昔は拍子木といった」
と、強弁する始末。

「じゃあ、おとっつぁん、このごろ、疫病よけに方々で仁加保金四郎宿と表に張ってあるのに、家にはないのは、なぜ?」
「忙しいからよ」
「書けないんだろう」

「とっとと外で遊んでこい」
と追い払ったものの、親の権威丸つぶれ。

癪でならない親父、かみさんに、
「しかたがないから近所のをひっぺがしてきて、子供が帰るまでに張っておけ」
と言われ、隣から失敬してくる。

今度こそはとばかり、
「表へ行って見てこい。おとっつぁんが書いて張っといたから」
「おとっつぁん、貸家と書いてあるよ」
「そう張っときゃあ、空き家と思って、疫病神も入ってこねえ」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

しりたい

原型はケチ+粗忽噺

原話は、最古のものが元禄14年(1701)、かの浅野刃傷の年に京都で刊行された、露の五郎兵衛『新はなし』中の「まじなひの札」。

ついで、そのほぼ半世紀後の宝暦3年(1753)、これも上方で刊行の笑話本『軽口福徳利』中の「疫神の守」があります。

「まじなひ…」の方は、ケチでそそっかしい男が、家々の戸口に張ってある、判読不能の厄病除けのまじない札を見て、自分も欲しくなりますが、買うのは代金が惜しいので、夜中にこっそりある家から盗み出します。

それを、よせばいいのに自慢げに隣人に見せると「これは貸家札だよ」と言われ、へらず口で「それは問題ない。疫病も空家と思って、入ってこないから」。

ここでは、男が札の文字を本当に読めなかったのか、それとも、風雨にさらされて読み取れなくなっていたのを勘違いしただけなのか。

どちらとも解釈できますが、噺のおかしみの重点は、むしろ男のしみったれぶりとそそっかしさ、負け惜しみに置かれています。

後発の「疫神の守」は「まじなひ……」のコピーとみられ、ほとんどそっくりですが、やはり主人公は「しはき(=ケチな)」男となっていて字が読めないというニュアンスはあまり感じません。

実際に「空き家」と張って、疫病神をごまかす方法もよく見られたらしいので、オチはその事実を前提にし、利用しただけとも考えられ、なおさら、これらの主人公が無筆文盲だったのかどうか疑問符がつくわけです。

もともとはケチ、または粗忽噺の要素が強かったはずが、落語化された段階で、いつの間にか無筆の噺にすりかえられたわけです。

読む人間にとって、筋は同じでもさまざまな「解釈」ができるという典型でしょう。

明治の無筆もの

もともと江戸(東京)では「清書無筆」、上方で「無筆の親」として知られていた噺を、明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで、細部を改作したものと思われますが、はっきりしません。

明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)、29年(1896)の三代目小さん(豊島銀之助、1857-1930)師弟の、ほとんど同時期の速記が残っています。

それより前、明治27年(1894)には二代目小さんによる類話「無筆の女房」の速記も見られることから、この時期、落語界ではちょっとした「無筆ブーム」だったのかもしれません。

無筆を題材にした噺では、古くは「按七」「三人無筆」「無筆の医者」「手紙無筆」「犬の無筆」があります。

明治以後につくられたと思われる噺にも、「無筆の女房」「無筆の下女」などがあります。

江戸末期には、都市では寺子屋教育が定着、浸透し、すでに識字率はかなり高かったはずです。

階層によっては、明治になっても多くの無筆者が多かったのでしょう。

三代目金馬の改作

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)は、昭和初期にこの噺を「勉強」と改題して改作しています。

張り紙は「防火週間火の用心」に変え、しかも、おやじが盗んできたものには「ダンサー募集」とあったというオチにしました。

いかにもその時代らしいモダン風俗を取り込んでいましたね。

豪傑の名前で厄病退治

二代目小さんの速記が『百花園』に掲載された明治28年は日清戦争終結と同時に、東京でコレラ大流行の年でした。

もっともこの年ばかりではなく、維新後は明治10、15、19、23、28年と、ほとんど五年置きに猛威を振るっています。

さすがに安政のコロリ騒動のころよりは衛生教育が浸透してきたためか、年間の死者が百人を超える年はなかったものの、市民の疫病への観念は江戸時代同様、いぜん迷信的で、この噺のような厄除け札を戸口に張ることを始め、梅干し療法、祈祷などがまだまだ行われていました。

「仁加保金四郎」については詳細は未詳ですが、疫病神を退治したとされる豪傑の名です。

三代目小さんでは「三株金太郎」、時代が下って三代目三遊亭金馬の改作では「鎮西八郎為朝」としていました。

幕末のころは、嵯峨天皇の御製「いかでかは御裳濯川の流れ汲む人に頼らん疫病の神」を書いて張ったこともあったとか。

くすぐり

二代目小さん

おやじがくやしまぎれに「こりゃなんだ。赤犬と黒犬がかみあっているところなんぞ書いて」(犬の字が赤筆で直してある)  

三代目小さん

「おとっつぁん、百の足と書いてムカデと読むね」
「そうよ。五十の足ならゲジゲジ、八本がタコで、二本がズボン。一本なら傘のバケモノだ」                       

【語の読みと注】
仲間 ちゅうげん
癪 しゃく
御裳濯川 みもすそかわ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

じごくのがっこう【地獄の学校】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

紺屋こうやの六兵衛が手違いで地獄へ。
あらましを学校を通してが紹介されます。
なんとも不思議な。
こんな学校、あっても行きたくないし。

【あらすじ】

深川六間堀に住む、紺屋の正直六兵衛。

昨夜、酔ったはずみで商売物の緑青ろくしょうを飲んでしまい、気がついた時は、もう六道ろくどうの辻。

道連れになった坊さんに、極楽に行く道はどこか教えてくれと頼むと、拙僧せっそうもよくわからないと言う。

そこへ鬼がやってきて、二人はたちまち閻魔大王えんまだいおうの前に引き出される。

まず坊さんが、娑婆しゃばの行状を映しだす浄玻璃じょうはりの鏡にかけられると、いや、悪行が映るわ映るわ、朱の衣も何もきれいにほうり出し、芸者を揚げて酒池肉林のドンチャン騒ぎ。

たちまち、地獄墜ちと決まった。

次は六兵衛の番。

震えて、自分は娑婆では正直六兵衛と異名を取り、嘘は一度もついたことがないから、どうぞ、極楽へやってくれと頼むが「黙れ。その方は紺屋こうや。紺屋のあさってと申し、染め物がいつできますと聞かれるといつもあさってと申す。嘘ばかりついているではないか」

形勢が悪いところへ、十大王の一人が、それは商売上しかたないので、この者が悪いのではないし、赤鬼や青鬼の服もだいぶ近ごろ色せてきているから、紺屋が来たのを幸い、これを染め替えさせよう、と助け船。

三日だけ地獄で仕事をすれば、極楽へ上げてやると言われて、六兵衛は大喜び。

その間にも、いろいろな亡者もうじゃが来る。

ガラッ八という博打ばくち打ちが連れてこられ「マゴマゴしゃあがると土手っ腹蹴破って鉄の棒を突っ通し、鬼の漬け焼きをこしれえるぞ」と啖呵たんかを切って暴れるので、鬼どもが怒ってぶち生かしてしまったりする騒ぎの後、六兵衛は六道銭一枚もらって、地獄の盛り場のさいの河原で遊んでこいと言われ、喜んで地獄見物。

河原には芝居小屋や寄席が所狭しと並び、大にぎわい。

死んだ名優や大真打ちがすべて出演している。

そのうち河原学校という看板が見えたので入っていくと、子供がぞろぞろいて、先生は石の地蔵さま。

地蔵が黒板に字を書いて、生徒に読ませる。

「そもそも地獄の数々は、一百三十六地獄、あまねく人の聞き知るは、阿鼻地獄あびじごく、堕地獄、阿鼻焦熱、熱鉄地獄、修羅地獄、凍渇地獄、針の山。オーライ芸者の不見転みずてんも、見る目ぐ鼻拘引し、処刑は拘留一週間」

カンカンと鐘が鳴り、授業終わり。

地蔵「無常の鐘が鳴ったから、枕飯まくらめしにしよう」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

底本:初代三遊亭金馬(→二代目小円朝)

【うんちく】

明治の新作

具体的な原話は不詳です。明治中期の新作です。

地獄めぐりを題材にした安永3(1774)年刊の滑稽本「針の供養」や、同じ明治に初代三遊亭円遊が改作した同趣向の「地獄八景(地獄旅行)」などを種本にして作られた噺と思われます。

明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(芳村忠次郎、1858-1923、→二代目三遊亭小円朝)の速記が唯一の口演記録ですが、同人の作かどうかはわかりません。

娑婆の教科書のパロディー

この学校で使われている、「そもそも地獄の数々は……」で始まる教材を地蔵先生は「八方奈落国尽」と説明しています。

「奈落」は芝居で使われる用語ですが、もともとの意味は地獄のこと。「国尽くし」は、諸国の名前を列挙して子供に朗唱させて覚えさせるための教材です。

江戸時代の寺子屋の教科書として、「日本国尽」などさまざまな「国尽くし」が作られていました。

明治2年(1869)、福沢諭吉(1835-1901)が『世界国尽』を刊行。仮名垣魯文(野崎文蔵、1829-94)がその翌年、『苦界ふみ尽し』としてこれをパロディー化しました。

この地獄版国尽くしは、それらの民衆(児童)教化本のそのまたパロディーです。

初めは地獄の数々について述べていますが、ごらんの通りだんだん怪しくなります。

あらすじでは略しましたが、途中の「ひっぱりぢごく、旅ぢごく、淫売ぢごくの常として」あたりから、最下級の遊女を「地獄」と呼ぶことにからめて、だんだんげびたものになってきます。

明治の娼妓規制を反映

朗唱の終わりの「処刑は拘留一週間」には当時の社会的な背景があります。

明治6年(1873)に東京府知事により「貸座敷渡世規制」「娼妓規制」「芸妓規制」が立て続けに発布され、私娼や芸者らの「個人営業」の売春を厳しく取り締まることになった、という世相です。

以後、売春は個人・業者共に鑑札制になり、そうした稼業の者を市内数カ所に集め、いわゆる「赤線地帯」が設けられました。

「不見転」は、誰とでも関係を持つ芸者をいう言葉です。

「オーライ」も同じで、往来で「交渉」することと、英語をもじって「ダレでもOK]とが掛けられています。

浄玻璃の鏡

娑婆における亡者の善悪の行為を、すべて映し出す鏡。

人は死ぬ間際に、自分の一生をあますところなく鮮やかに思い出すといわれますが、そのことの象徴でもあるのでしょう。

今なお評価の高い中川信夫監督の『地獄』(1960)でも、効果的に使われていました。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

いぬのめ【犬の目】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

眼病みの男。目玉を医者が抜き、洗って干す。
それを犬が食べた。
そんならと、犬の目を男に入れてみた……。
この味わいは落語ならでは。逃げ噺。

あらすじ

目が悪くなって、医者に駆け込んだ男。

かかった医者がヘボンの弟子でシャボンという先生。

ところが、その先生が留守で、その弟子というのが診察する。

「これは手術が遅れたので、くり抜かなくては治らない」

さっさと目玉をひっこ抜き、洗ってもとに戻そうとすると、水でふやけてはめ込めない。

困って、縮むまで陰干しにしておくと、犬が目玉を食ってしまった。

「犬の腹に目玉が入ったから、春になったら芽を出すだろう」
「冗談じゃねえ。どうするんです」

しかたがないので、「犯犬」の目玉を罰としてくり抜き、男にはめ込む。

今までのより遠目が利いてよかったが、
「先生、ダメです。これじゃ外に出られません」
「なぜ?」
「小便する時、自然に足が持ち上がります」

しりたい

オチはいろいろ

軽い「逃げ噺」なので、オチはやり手によってさまざまに工夫され、変えられています。

艶笑がかったものでは、「夜女房と取り組むとき、自然に後ろから……」なんていうものも。

「まだ鑑札を受けていません」というのもあります。

原話である安永2年(1773)刊『聞上手』中の「眼玉」では、「紙屑屋を見ると、吠えたくなる」というものです。

明治時代でのやり方

明治・大正の名人の一人で、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)の大師匠にあたる四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)の速記が残っています。

円蔵は男を清兵衛、医者を横町の山井直という名にし、前半で、知り合いの源兵衛に医者を紹介してもらうくだりを入れています。

ギャグも、「洗うときはソーダを効かさないでくれ」「枕元でヒョイと見回してウーンとうなる」など、気楽に挿入していますが、「ソーダ」のような化学用語に、いかにも明治のにおいを感じさせるものの、今日では古めかしすぎて、クスリとも笑えないでしょう。

円蔵は、目が落ちそうだと訴えるのに、中で目玉をふやかす薬を与えていて、そのあたりも現行と異なります。

三平の「貴重な」古典

昭和初期には、五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)が「目玉違い」の題で演じましたが、なんといっても、初代林家三平(海老名榮三郎→泰一郎、1925-1980)の「湯屋番」「源平盛衰記」と並んで、たった三席だけ残る貴重な(?)古典落語の音源の一つが、この「犬の目」です。その内容については……、言うだけヤボ、というものでしょう。

おおらかなナンセンス

類話「義眼」のシュールで秀逸なオチに比べ、「犬の目」では古めかしさが目立ち、そのためか最近はあまり演じられないようですが、こうした単純明快なばかばかしいナンセンスは今では逆に貴重品で、ある意味では落語の原点、エッセンスといえます。

新たなくすぐりやオチの創作次第では、まだまだ生きる噺だけに、若いやり手のテキストレジーに期待したいものです。

ヘボン先生

ヘボンは、明治学院やフェリス女学院をつくったアメリカ人の医師で熱心なキリスト教徒でした。

正しくは、ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn、1815-1911)といいます。姓の「Hepburn」はオードリー・ヘップバーンと同じつづりのため、最近では「ジェームス・カーティス・ヘップバーン」と表記されることもあります。

1世紀以上も「ヘボン」に慣れた私たちには、「ヘップバーンとはおれのことかとヘボン言い」といった違和感を覚えるわけですね。

米国長老派教会の医療伝道宣教師であり医師でもあったため、来日中は伝道と医療に貢献しました。

ヘボン式ローマ字の考案者として知られています。ヘボンが編纂した初の和英辞典『和英語林集成』に記載された日本語の表記法が原型となっています。

日本人の眼患い

ヘボンが来日してまず驚いたのは、日本人があまりにも眼病をわずらっていることでした。

これは、淋菌の付いた指で目をこすって「風眼」という淋菌性の眼病にかかる人が多かったからとのこと。「文違い」なんかにも出てきますね。

それだけ、日本人の性は、倫理もへったくれもなく、やり放題で、その結果、性病が日常的だったわけでもあるのですがね。

眼病となると、それが性病由来なのかどうかさえもわかっていなかったようです。

遊郭や岡場所などが主な元凶で、二次感染の温床は銭湯だったわけです。

衛生的にどうしたとかいう以前に、性があんまりにもおおっぴらだったことの証明なのでしょう。

ですから、この噺が、ヘボン先生の弟子のシャボン先生(そんなのいるわけありません)が登場するのは眼病とヘボンという、当時の人ならすぐに符合するものをくっつけて作っているところが、ミソなんですね。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しばいとおび【芝居と帯】落語演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

いまどき、こんな噺じゃ笑えませんが。

でも、明治っぽくて新鮮です。

【あらすじ】

奥方がだんなに帯を買ってもらうことになった。

調子に乗って、奥方は、
「帯がきたら見せびらかしに芝居に行きましょう。芝居に行ったら役者のご祝儀でお金がかかるから、横浜の親戚に借りに行きましょう。そのついでに金沢八景、江ノ島を見物して、またまたついでに大磯の海水浴へ。ここまで来たなら足を伸ばして箱根へ、そこから汽車で興津の清見寺から久能山、小夜の中山から豊川稲荷、そこから熱海神宮、伊勢神宮、二見ケ浦で朝日を拝み、近江八景見物の後京大阪、奈良の大仏、高野山、熊野の鯨見物も。それから神戸、須磨、明石、讃岐の金比羅、安芸の宮島、馬関ばかん(下関)の春帆楼しゅんぱんろうから長崎へ渡り、ここまできたら沖縄へ。また出直すのもおっくうだから、ことのついでに海を渡って上海へ。そこからシンガポールでコーヒーをのんで一休み、宗主国を訪れないでは失礼だから、ちょいとロンドンまで。ヴィクトリア女王に会ってから、近道でも探してウラジオに戻り、それから函館五稜郭で氷水でものみ、汽車で上野まで戻りましょう。ああくたびれた」
とまあ、帯一つで世界一周してしまう魂胆だから、だんなは仰天。

「そんなことされた日にゃ破産で、ロンドンどころかルンペンだから、芝居か帯のどちらかにしろ」
と厳命するだんな。

奥方が迷っていると、幇間の桜川呑孝がやってきた。

この間の歌舞伎座、団菊大顔合わせの「加賀見山」お初仇討ちの場を熱演してみせたので、奥方はうっとり。

「まあ、本当に芝居を見てるようだよ」
というと、だんなが
「それじゃ、帯を止めにしよう」

底本:六代目桂文治

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【うんちく】

文治の新作

「芝居好きの泥棒」と同じく、明治の芝居噺の名人、六代目桂文治の創作と思われます。

「芝居好きの泥棒」より二か月後の明治31年(1898)8月、雑誌『百花園』に速記が掲載されました。

これが唯一の口演資料で、以後の記録はありません。

馬関の春帆楼

この奥方も「藪入り」のおやじと同じパターンで、願望がふくらんで、際限のない空想旅行にご出発。

馬関は、現在の山口県下関しものせき市の古称です。下関はかつては赤間関あかまがせきと呼ばれていまして、赤間関を略して馬関とつづめて漢語風に「ばかん」と呼んでいたようです。気取った言い方です。

明治22年(1889)の市制施行で、赤間関市となり、同34年(1899)、山陽本線開通によって駅が設置されたとき、「馬関駅」と命名されましたが、それも一年限りで、翌35年(1900)、市名、駅名ともに「下関」と改称されました。

春帆楼は、下関市のフグ料理で名高い料亭割烹。明治21年(1888)、伊藤博文が初めて訪れて以来、大のひいきにしました。

この速記の3年前の明治28年(1895)4月17日、春帆楼で伊藤と外相陸奥宗光が、清国講和全権李鴻章と馬関(下関)条約を調印し、日清戦争が正式に終結しました。それで有名な店です。

PHP研究所版『千字寄席』では、春帆楼を伊藤博文の「別荘」と記しましたが、これは、伊藤がこの料亭を私物化して「別荘のようなもの」にしていたというのが正しい表現だったようです。失礼いたしました。

コーヒー事始

奥方の空想旅行も海を渡り、「シンガポールでコーヒーを」とハイカラぶりを見せつけています。

コーヒーが日本で存在を初めて知られたのは、文化8年(1811)。幕命によって、蘭学者大槻玄沢らが翻訳に着手したフランスの百科事典のオランダ語訳『厚生新編』に紹介されました。

実際に輸入され始めたのは、維新後の明治10年(1876)ごろから。明治21年(1888)4月、日本初のコーヒー店「可否茶館」が下谷黒門町にオープンしたというのが定説です。

当時のコーヒー1杯の値段は3銭。

この速記(明治31年)の前後は、値下がりして2銭となっています。

団菊の「加賀見山」

九世市川團十郎(1838-1903)と五世尾上菊五郎(1844-1903)の明治の二大名優顔合わせによる「加賀見山旧錦絵」は、明治31年(1898)5月、歌舞伎座上演。

通称「加賀見山」(鏡山)は、天明3年(1783)4月、森田座初演。加賀前田家のお家騒動に題材をとったものです。

あらすじは以下の通り。

兄の入間家(前田家)家老剣沢弾正と結託してお家乗っ取りをたくらんだ局岩藤が、陰謀を知った中老尾上に、お家の重宝の弥陀の尊像を盗んだ罪を押し付けて、自害に追いやります。しかし、尾上付きの忠義な腰元お初が岩藤を討ち取ってお家の安泰を得る、というもの。

明治31年の公演は団菊最後の「加賀見山」で、菊五郎のお初、團十郎の岩藤という、ともに一世の当たり役でした。

仇討ちの場は、大詰め奥庭の場。

この芝居は登場人物が悪役弾正を除けば女ばかりです。「女忠臣蔵」と呼ばれ、女性観客には人気が高かった演目です。

【語の読みと注】
馬関 ばかん
春帆楼 しゅんぱんろう
加賀見山旧錦絵 かがみやまこきょうのにしきえ
局 つぼね

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

きしゃのしらなみ【汽車の白浪】落語演目

スヴェンソンの増毛ネット

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

明治時代。
汽車が舞台の珍談。
白浪=盗賊。
それがらみの噺かもねむ。

【あらすじ】

時は明治の初め。

大阪は船場の商人の小林という男。

東京に支店を出そうというので、両国の宿屋に仮住まい中だが、ある日、商用で横浜へ行った帰り、ステンショから、終汽車に乗った。

相客は女が一人。

官員か誰かの細君らしく、なかなかオツな年増なので、小林君、すっかりうれしくなって、話しかけてみると、未亡人で年始の帰りだという。

自分もこれこれこういう者だと打ち明けると、ぜひお近づきになりたいと、思わせぶりなそぶり。

ところがそこへ、目つきの悪い男が入ってきて、女の方をじろじろ見ている。

きっと泥棒だから、汽車を降りたら気をつけなければいけないと、二人は品川駅に着くと、手に手を取って急いで人力車溜まりへ急ぐ。

相乗りで両国まで行こうと、車屋に声をかけようとすると、暗がりから、さきほどの男が
「ちょいと待ちなさい」
と婦人のたもとを押さえる。

「女に用があるから」
と連れていこうとするので、小林は、てっきり強盗か誘拐犯だと、止めようとするが突き倒され、女はそのまま連れ去られてしまう。

小林君、宿に帰って、腰をさすりながらふと懐中を見ると、紙幣で二百円入った財布がない。

「やはり、あいつは泥棒」

明日、警察に届けようとその夜は寝てしまう。

翌朝、これから警察に行こうとしている時、客だというので出てみると、なんと昨夜の男。

「あなたは小林礼蔵さんか、これに見覚えは」

男が出したのは、紛れもなく盗まれた財布。

男は、実は刑事で、あの女は、黒雲のお波という女賊だったと知らされて、二度びっくり。

「へー、あれが黒雲、道理で私の紙幣を巻き上げようとした」

底本:六代目桂文治

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

明治後期の新作

明治32年(1899)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の新作で、翌年の正月発行の雑誌『百花園』に掲載されました。

文治は明治の落語界に独自の地位を占め、「下谷上野の山かつら、かつら文治は噺家で」と子供の尻取り歌にまで歌われた道具入り芝居噺の名人でした。

文治当人も冒頭で「愚作ではございますが」と断っていて、その通りあまり芳しい出来とはいえないのですが、人物の会話などはリアルでうまく、さすがと思わせるところはあります。

もちろんその時代のキワモノなので、文治以後の口演記録はまったくありません。

白浪

語源は『後漢書』の「白浪賊」。

三国志で名高い黄巾の乱の残党が、白浪谷に立て籠もって山賊を働いた故事から、盗賊の異称となりました。

歌舞伎の外題によく使われ、河竹黙阿弥作の「弁天娘女男白浪」(白浪五人男)はよく知られた泥棒狂言です。

文治は芝居噺を専門にしていたので、内容は明治新時代の盗賊であっても、この古風な呼称を使ったのでしょう。

賊も世につれ

この噺で、女が語っています。

「手前のつれあいは、先達っての日清の戦争で亡くなりました」と語っていることでもわかるのですが、日清戦争が終結してすでに五年目。

日清戦争は、明治維新以後初めての対外戦争です。

兵員や軍需物資輸送の必要から、日本の鉄道網はこれを契機に、飛躍的に整備・拡大されました。

新橋(汐留)-横浜(桜木町)間の鉄道開通から二十数年、明治22年(1889)7月の東海道本線の新橋-神戸間開通からも十年余。

旅客輸送量も、草創期とは比較にならないほど伸びましたが、まだ夜間は利用客は少なく、実際にもこのように、金のありそうな客を狙った「密室」を利用した色仕掛けの女スリが出没していたとみえます。

当時の横浜までの所要時間は53分。室内は暗く、終電で相客はほとんどないとあれば、この小林君、格好のカモだったでしょう。

「汽車の大賊」

この速記の翌々年、明治35年(1902)に、やはり汽車賊を扱った「汽車の大賊」という江見水蔭(江見忠功、1869-1934)のサスペンス小説が発表されました。

水蔭は、日本の探偵小説のパイオニア。そのバタくさい作風が受け、当時のベストセラー作家でした。

この作品中でも、女賊が東海道線の列車中で、九州の炭鉱主を色仕掛けで誘惑し、金品を奪うという場面があります。

筋や設定がそっくりなところを見ると、江見センセイ、ちょいと「いただいて」しまったのかも。

【語の読みと注】
ステンショ すてんしょ:駅
終汽車 しゅうきしゃ:終電
官員 公務員
弁天娘女男白浪 べんてんむすめめおのしらなみ

スヴェンソンの増毛ネット

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

おうぶみいちがでん【応文一雅伝】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

【どんな?】

お重、巳之助、お縫、一雅。明治初年の東京を舞台に、自立したい女性のうつろい。

円朝噺。

あらすじ

1878年(明治11)春のこと。

旧幕時代に細工所さいくしょ御用達だった芝片門前しばかたもんまえ花房利一はなぶさりいちは、妻と死別、26歳になる一人娘のおじゅうと二人暮らしである。

出遊びがちな父。お重は自分の結婚のことを考えてくれない父に常日頃不満を抱いている。

出入りの行商である、糶呉服屋せりごふくや槙木巳之助まきみのすけ大店おおだなの子息で男振りもよいところから、お重は妻にしてもらおうかと誘惑する。

「人のいない所で話がしたい」と巳之助に持ちかけたところ、巳之助は知人で油絵師、応文一雅おうぶみいちがの下宿を借りることとなった。応文一雅は高橋由一たかはしゆいちの弟子である。

愛宕下あたごしたの木造三階。一雅の下宿で逢い引きする手はずとなった。

早めに行ったお重は、部屋にあった葡萄酒ぶどうしゅでほろ酔い気分となり、その勢いで、まだ見ぬ一雅あての謝辞を墨で壁に落書きして帰った。

二度目の逢い引き。

またも先に来てしまったお重は、一雅の机の中をのぞき見し、一雅あての許婚者からの手紙を読んだり、机にあった女性ものの指輪をはめたり。

一雅という人物の人となりに想像をめぐらす。一雅への興味以上の思いをいっそう募らせていった。

遅れてやってきた巳之助に「もう逢わないことにしましょう」と言って翻弄する。

帰宅して後、自分の指輪を一雅の部屋に置き忘れたのに気づいたお重は、はめたまま帰ってしまった指輪と自分のものとを取り換えてくれるよう、巳之助に頼み込む。

一雅に会いたい思いが募ったお重は、神谷縫かみやぬいに「一雅に肖像を描いてもらいなさい」と説得する。

お縫は、お重の土地を借りる借地人であり、お重の学校朋輩ほうばい(同窓)でもある。今年20歳になる。

お縫は叔父の神谷幸治かみやこうじと頼みに行き、一雅の下宿に数回通うことになった。

その後、お重は、「絵を頼みたい友人がいる」との手紙を書いて、お縫に出させる。に受けた一雅はお重の家を訪れた。お重の指輪を見るや、巳之助の相手と知って腹を立てたまま帰る。

お重は策を練った。お縫に指輪を貸す約束をし、一雅を招くことに。

一雅の面前で、お重はお縫に指輪を返すお芝居をするが、それを見た一雅は、巳之助の相手がお縫だったかと驚く。

東京の人気の悪さに愛想あいその尽きた一雅。郷里の土浦つちうら(茨城県)に帰った。

一雅から、巳之助との関係を記した謂れなき誹謗ひぼうの手紙がお縫に届く。

お重の策略に引っかかったと知ったお縫は、叔父の神谷幸治に返信を書いてもらう。

許嫁者が亡くなった一雅は上京し、再度同じ下宿を借りた。

お縫と幸治といっしょに花房家を訪れた一雅は、お重を責めたてた。

居合わせた花房利一は幸治とは昔からの知り合い。

幸治は「おまえが娘のむこを見つけようともせずに遊び歩っているからだ」と意見する。

巳之助の父親で金貸しの四郎兵衛しろべえが、じつはもとの高木金作たかぎきんさくと知った幸治は、かつて金三千両を貸したことを語り、後日、四郎兵衛を訪ねる。

槙木四郎兵衛まきしろべえのもとを訪ねていった「神幸かみこう」こと神谷幸治は「貸した、借りていない」「訴える、訴えよ」とのやり取りの後、判証文はんじょうもんもなく、たとえあったとしても昔貸した金はあきらめる。

その代わり、どこで逢っても拳骨げんこつ一個うたれても苦情は言わないとの証文を「洒落だ」と言いつつもらうことになった。

その後、幸治は、銀座でも、横浜でも、四郎兵衛を見かけるたびに頭を殴るのだった。

一雅は、いったん故郷に戻ったが油絵の依頼人もなく、再度上京するが、困窮していた。

すると、一雅のもとに、使いを介して油絵の注文が続く。

ある時、池上本門寺まで参詣するので「先生も図取りかたがたお出でください」との注文。

一雅が池上に向かうと、お高祖頭巾こそずきんの女がいた。合乗りの車で家まで送られ、金を渡された。

翌日、その女から恋文が届いた。女の正体はお重だった。一雅はそこで初めて気づいた。

一雅は部屋の壁の落書き、を見るたびに、お重をいとう気持ちが強くなってきた。一雅は土浦に帰る。母が亡くなり、葬儀を済ます。その後、上京したのは明治十二年九月十三日であった。

神谷幸治は墓参で、小石川全生庵ぜんしょうあんを訪れた。

住職と話をしていると、出家志望の女がやってきた。幸治は隣の間に移される。住職は「あなたのような美しい人には道心は通じません」と言って、了然尼りょうねんにの故事を聴かせる。女はあきらめて立ち去った。

帰り際、幸治が寺の井戸に飛び込もうとしていた女を助けた。

出家志望の女で、お重だった。

お重は、お縫と一雅、廃嫡はいちゃくとなった巳之助への詫び言を述べた。

巳之助と添う気があるならと、神谷幸治は一計を案じ、お重に書き置きをしたためさせた。四郎兵衛を訪ねた幸治は、書き置きを見せた。

四郎兵衛が巳之助の廃嫡を許してお重と結ばせるなら、先の証文は返し、お縫と一雅とを夫婦にしてやりたい、と言う。

得心とくしんする四郎兵衛。幸治に金を返して仲人を頼んだ。

巳之助とお重、一雅とお縫、二組が婚礼を挙げた。

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

しりたい

了然尼

りょうねんに。そういう名前の尼さんが、江戸時代にいたそうです。有名な故事が伝わっています。以下の通り。

 了然尼は正保3年(1646)に葛山長次郎くずやまちょうじろうの娘として生まれ、名をふさといった。父は武田信玄の孫にあたり、富士の大宮司葛山十郎義久の子という由緒ある家の出身、京都下京しもぎょう泉涌寺せんにゅうじ前に住み、茶事を好み、古画の鑑定をしていたという。成長して美人で詩歌しいか、書に優れたふさは宮中の東福門院とうふくもんいんに仕え、宿木やどりぎと称した。やがてふさは宮仕えを退き、人の薦めがあって医師松田晩翆まつだばんすいと結婚、一男二女を生んだ。しかし、何故か二十七歳で離婚して剃髪ていはつ、名を了然尼と改め、一心に仏道を修行した。その後江戸に下り、白翁はくおう和尚に入門を懇請こんじょうしたが、美貌びぼうのゆえに許されなかった。そこで意を決した了然は火のしを焼き、これを顔面に当てて傷痕を作り、敢えて醜い顔にした。そして面皮めんぴ(漢詩)をし、和歌「いける世に すててやく身や うからまし ついまきと おもはざりせば」と詠んだ。決意の固いのを知った白翁和尚は入門を許し、惜しみなく仏道を教えた。やがて師白翁和尚は病にすようになり、天和てんな2年(1682)7月3日、死期を悟ると床に身を起こし、座したまま入寂にゅうじゃくした。4年後、47歳で上落合村に泰雲寺たいうんじを創建。正徳元年(1711)7月3日、白翁道泰はくおうどうたい和尚の墓を境内に建て、積年の念願を果して安心した了然尼は2か月後の9月18日66歳で没した。寺には五代将軍綱吉の位牌が安置され、寺宝として朱塗しゅぬりの牡丹模様のある飯櫃ましびつあおいの紋が画かれた杓子しゃくし、葵と五七の桐の紋のある黒塗の長持ながもちがあった。そして、宝暦12年(1762)3月、十代将軍家治いえはるのこのあたりへの鷹狩りに御膳所ごぜんじょとなり、以後しばしば御膳所になったという。明治末年には無住になって荒れ果て、港区白金台3丁目の瑞聖寺ずいしょうじに併合廃寺になり、現在了然尼の墓は同寺に移されている。寺の門および額「泰 雲」は現在目黒区下目黒3丁目の海福寺かいふくじにあり、特に四脚門しきゃくもんは目黒区文化財に指定されている。これによっても泰雲寺がりっぱな寺であったことがわかる。
 では泰雲寺は上落合のどのあたりにあったのか。所在を示す正確な地図は見つかっていない。そこで『明治四十三年地籍図』(寺域は分譲)を頼りに推定した。戦後、下水処理場が設けられたために八幡通り(下落合駅から早稲田通りへの道))が大幅に西側に寄せられ、旧地形をとどめていないが、上落合1、竜海寺りゅうかいじあたりを西北角とし、南は野球場に通じる高架道、東は落合中央公園高台西端にあたり、境内2700坪の3分の2以上が八幡通りと下水処理場になっている。

(新宿区教育委員会から引用)

平安時代までの仏教では、仏が救いの対象にしていたのは男でした。

しかも、身分のある人ばかり。

どうもこれはヘンだと気づいたのが、鎌倉時代の革新的な立宗者たち。

法華経には女性の救済が記されているそうで、男女差別もないといわれています。

法華経を唯一の経典としたのが日蓮。

日蓮宗は早い時期から女性の救済をうたってました。

了然尼も日蓮宗に赴けばよかったのかもしれません。

スタートの選択を誤るととんでもないことになる、という教訓でしょうか。

この話は、本人の強い決意を表現しているわけでして、そうなると、落語家を志した青年が何度断られてもめざす師匠の楽屋入り口にかそけくたたずむ風情に似ています。

仏門ではよくある話です。

身体を傷つけることに軸足があるのではなく、二度と戻らないぞ、という強くて激しい本人の志に軸足があるのです。

となると、慧可えかが出てきます。

インド僧の達磨だるまを知って尋ねたのですが、すぐに入門は許されず、一晩雪中で過ごして、自身のひじを切断してその強い思いを示しました。

達磨は入門を許可。これはのちに水墨画での「慧可断臂えかだんぴ」という画題となりました。

座禅している達磨におのれの切り取った左ひじを見せる絵をどこかで見かけたことはありませんか。

それです。

了然尼の故事もこれに似ています。

焼き直しの故事でしょう。

故事は複製されるものです。

物語はそんなところから醸成されるのでしょう。

雪舟  慧可断臂 図

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

しろうとずもう【素人相撲】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

東京での草相撲。相撲好きが大集まって自慢話には花が咲くけど……。

勧工場というのは、今のデパートのことですね。

別題:大丸相撲(上方)

あらすじ

明治の初め、東京でも素人相撲がはやったことがある。

その頃の話。

ある男が相撲に出てみないかと勧められて、オレは大関だと豪語している。

こういうのに強い奴はいたためしがなく、この間、若い衆とけんかをしてぶん投げたと言うから
「病人じゃなかったのか」
「ばかにするねえ」
「血気の若えもんだ」
「いくつくらいの?」
「七つが頭ぐれえで」

こういう手合いばかりだから、いざ本番で少しでも大きくて強そうな奴が相手だと、尻込みして逃げてしまう。

「向こうはばかに大きいからイヤだ」
「本場所は小さい者が大きい者と取るじゃねえか」
「おやじの遺言で、けがするのは親不孝だから、大きい奴と取ったら草葉の陰から勘当だと言われてる」
「てめえのおやじはあそこで見てるじゃねえか」
「なに、ゆくゆくは死ぬからそのつもりだ」

与太郎も土俵に上がれとけしかけられるが、
「おばさんから、相撲を取ってけがしたら小遣いをあげないと言われてるんで、いいか悪いか横浜まで電報を打って」
とひどいもの。

そこに、やけに小さいのが来て、
「私が取る」
と言うので
「おい、子供はだめだ」
「あたしは二十三です」

どうしても、と言うから、しかたなくマワシを付けさせて土俵に上げると、その男、大男の前袋にぶら下がったりしてチョロチョロ動いて翻弄し、引き落としで転がしてしまう。

「それ見ろ。小さいのが勝った。煙草入れをやれ、紙入れも投げろ。羽織も放っちまえ」
「おい、人のを放っちゃいけねえ。てめえのをやれ」
「しみったれめ」
「おまえがしみったれだ、しかし強いねえ。あれは誰が知っているかい?」
「あれは勧工場かんこうばの商人だ」
「道理で負けないわけだ」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

うんちく

お江戸の素人相撲 【RIZAP COOK】

辻相撲、草相撲とも呼ばれる素人相撲。

地方では、草相撲の盛んな地域はよくありますが、江戸では、相撲は見るもので、本来はするものではありませんでした。

それでも、祭りの奉納相撲としては、地域によって行われたようです。

三田村鳶魚の『江戸年中行事』には、「貞享度(1684-88)において、七月十五日の浅草蔵祭、同十六日の雑司ヶ谷の法明寺、享保度(1716-36)には五月五日の大鳥大明神祭」など、主に郊外を中心に行われたとあります。

ただし、「これらが草相撲なのか否かはにわかに断ぜられない」とのこと。

円喬は速記のマクラで、素人相撲を次のように、流行の一つとして説明しています。

「……よくこの、はやりすたりと申します。しかし此のはやりものも、あんまりパッとはやりますものは、すたるところへ行くとたいそう早いもので」

それに続き、茶番狂言、女義太夫、寄席くじなど、一時的に流行してすたれた物を列挙しています。

いずれ素人相撲も、明治30年代かぎりで、あまり長続きしなかったと見えます。

『武江年表』に、幕末の文久3年(1863)、下谷常在寺や本郷真光寺その他の境内で、子供相撲が盛んに催されたという記事があります。

この連中が壮年になるのが、明治20-30年代。昔取った杵柄か、と思えないでもありません。

類話「大安売り」 【RIZAP COOK】

よく似た噺に「大安売り」があります。

こちらは反対に、コロコロよく負ける力士が出て、それが安売り店の主人。

「なるほど、道理でよくまける」と、オチが反対になります。

東京では、相撲取り出身という異色の経歴と巨体が売り物の、三遊亭歌武蔵の持ちネタとして知られます。

大阪では、先代桂文枝が高座にかけていました。

「素人相撲」(大丸相撲)の方は、今はあまり演じ手がないようです。

原話について 【RIZAP COOK】

原話は二種類あり、古い方が、正徳6年(=享保元、1716)に京都で刊行の『軽口福蔵主』巻一中の「現金掛値なし」、次に、安永年(1778)江戸板の『落話花之家抄』中の「角力」です。

後者はオチもそっくりで、完全な原型とみられます。

志ん生も演じた噺 【RIZAP COOK】

戦後では、終生、四代目橘家円喬に私淑していた五代目古今亭志ん生が、独自のオチを工夫して、たまに演じていました。

志ん生のは、「よく押しがきくねえ」「きくわけだ。漬け物屋のセガレだから」というものでした。

オリジナルは上方落語 【RIZAP COOK】

明治30年代に、四代目橘家円喬が上方落語「大丸相撲」を東京に移したらしく、明治34年(1901)7月の『文藝倶楽部』に、同人の速記が載っています。

上方の方は、背景が村相撲で、商人風の男が飛び入りしてどんどん勝ち抜いていくので、「強いやっちゃなあ。どこの誰や?」「大丸呉服店の手代や}「道理でまけん」というオチです。

大阪では、大丸は掛け値しないことで有名だったので、こういうオチになったのを、円喬はそれを、明治の東京新風俗の「勧工場」に模したわけです。

勧工場の没落 【RIZAP COOK】

その後、商品の質が落ちたことで評判も落ち、明治40年代になると、新興の三越、高島屋、白木屋ほかの百貨店に客を奪われて衰退。

大正に入ると、ほとんどが姿を消しました。

勧工場の特徴は掛け値せず定価で売ったことで、これは当時としては新鮮でした。この噺のオチ「まけない」は、そこから来ています。

現在、新橋橋詰にある「博品館」の前身は勧工場で、場所もこの位置です。

勧工場 【RIZAP COOK】

家庭用品、文房具、衣類などをそろえた、今でいうデパートやスーパーのはしりです。

明治10年(1877)に開かれた、第一回内国勧業博覧会の残品を売りさばくために設けられたものです。

大阪では「勧商場かんしょうば」と呼びました。

明治11年(1878)1月創設の、東京府立第一勧工場を手始めに、明治25年ごろまでに、京橋、銀座、神田神保町、日本橋、上野広小路など、東京中の盛り場に雨後の筍のように建てられました。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席