やぶいり【藪入り】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

【どんな?】

たっぷり笑わせ、しっかり泣かせる名品。
エロネタなんですね。

別題:お釜さま 鼠の懸賞

あらすじ

正直一途の長屋の熊五郎。

後添いができた女房で、一粒種の亀をわが子のようにかわいがる。

夫婦とも甘やかしたので、亀は、朝も寝床で芋を食べなければ起きないほど、わがままに育った。

「これではいけない、かわい子には旅をさせろだ」
と、近所の吉兵衛の世話で、泣きの涙で亀を奉公に出した。

それから三年。

今日は正月の十五日で、亀が初めての藪入りで帰ってくる日。

おやじはまだ夜中の三時だというのに、そわそわと落ち着かない。

かみさんに、奉公をしていると食いたいものも食えないからと、
「野郎は納豆が好きだから買っておけ。鰻が好きだから中串で二人前、刺し身もいいな。チャーシューワンタンメンというのも食わしてやろう。オムレツカツレツ、ゆで小豆にカボチャ、安倍川餠」
と、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろと言ったり、帰ったら品川の海を見せて、それから川崎の大師さま、横浜から江ノ島鎌倉、足を伸ばして静岡、久能山、果ては京大阪から、讃岐の金比羅さま、九州に渡って……と、一日で日本一周をさせる気。

無精者なのに、持ったこともない箒で家の前をセカセカと掃く。

夜が明けても
「まだか。意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。店に乗り込んで番頭の横っ面を」
と大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると
「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお変わりがなく」

すっかり大人びた亀坊が、ぴたりと両手をついてあいさつしたので、熊五郎はびっくりし、胸がつまってしどろもどろで
「今日はご遠方のところをご苦労さまで」

涙で顔も見られない。

「こないだ、風邪こじらせたが、おめえの手紙を見たらとたんに治ってしまった」
と、打ち明け
「こないだ、店の前を通ったら、おめえがもう一人の小僧さんと引っ張りっこをしているから、よっぽど声を掛けようと思ったが、里心がつくといけねえと思って、目をつぶって駆けだしたら、大八車にぶつかって……」
と泣き笑い。

亀が小遣いで買ったと土産を出すと、
「もったいねえから神棚に上げておけ。子供のお供物でござんすって、長屋中に配って歩け」
と大喜び。

ところが、亀を横町の桜湯にやった後、かみさんが亀の紙入れの中に、五円札が三枚も入っているのを見つけたことから、一騒動。

心配性のかみさんが、子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、ことによると魔がさして、お店の金でも……と言いだしたので、気短で単純な熊、さてはやりゃあがったなと逆上。

帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。

かみさんがなだめでわけを聞くと、このごろペストがはやるので、鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだと、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、今朝渡してくれたのだ、という。

「見ろ、てめえがよけいなことを言いやがるから、気になるんじゃねえか。へえ、うまくやりゃあがったな。この後ともにご主人を大切にしなよ。これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

お釜さま

原話は詳細は不明ながら、天保15年(1844=12月から弘化と改元)正月、日本橋小伝馬町の呉服屋島屋吉兵衛方で、番頭某が小僧をレイプし、気絶させた実話をもとに作られた噺といいます。

表ざたになったところを見ると、なんらかのお上のお裁きがあったものと思われますが、当時、商家のこうした事件は珍しいことではなく、黙阿弥の歌舞伎世話狂言『加賀鳶』の「伊勢屋の場」にもこんなやりとりがあります。

太助「これこれ三太、よいかげんに言わないか、たとえ鼻の下が長かろうとも」
左七「そこを短いと言わなければ、番頭さんに可愛がられない」
三太「番頭さんに可愛がられると、小僧は廿八日だ」
太・左「なに、廿八日とは」
三太「お尻の用心御用心」

金馬の十八番へ

明治末期に初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が男色の要素を削除して、きれいごとに塗り替えて改作しました。

それまでは、演題は「お釜さま」で、オチも「これもお釜さま(お上さま=主人と掛けた地口)のおかげだ」となっていました。

亀が独身の番頭にお釜(=尻)を貸し、もらった小遣いという設定で、小せんがこれを当時の時事的話題とつなげ、「鼠の懸賞」と改題、オチも現行のものに改めたわけです。

小僧奉公がごくふつうだった明治大正期によく高座に掛けられましたが、昭和初期から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が「居酒屋」と並ぶ、十八番中の十八番としました。

金馬の、親子の情愛が濃厚な人情噺の要素は、自らの奉公の経験が土台になっているとか。五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)も得意でした。

鼠の懸賞

明治38年(1905)、ペストの大流行に伴い、その予防のため東京市が鼠を1匹(死骸も含む)3-5銭で買い上げたことは「意地くらべ」をご参照ください。

補足すると、ペストの最初の日本人犠牲者は明治32年(1899)11月、広島で。

東京市は翌33年(1900)1月に、鼠を買い取る旨の最初の布告を出しています。

希望者は区役所や交番で切符を受け取り、交番に捕獲した鼠を届けた上、銀行、区役所で換金されました。

東京市内の最初のペスト患者は明治35年(1902)12月で、38年(1905)にピークとなりました。

噺の中の15円は、特別賞か、金馬が昭和初期の物価に応じて変えたものでしょう。

鼠の買い上げは、大正12年(1923)9月、関東大震災まで続けられました。

藪入り

「藪入りや 曇れる母の 鏡かな」という、あわれを誘う句をマクラに振るのが、この噺のお決まりです。

あるいは、「かくばかり いつわり多き 世の中に 子のかわいさは まことなりけり」なんという歌も。

寿限無」「子褒め」「初天神」「子別れ」なんかでも使いまわされています。

藪入りは江戸では、古くは宿入りといい、商家の奉公人の特別休暇のことです。

高等科

江戸から明治大正にかけ、町家の男の子は10歳前後(明治の学制以後は尋常または高等小学校卒業後)で商家や職人の親方に奉公に出るのがふつうでした。

明治40年(1907)からは、それまで4年制だった尋常小学校は6年制に改編されました。高等小学校(高等科)はさらに2年間、小学校で学ぶ制度でした。

さまざまな事情で旧制の中学校、高等女学校、実業学校などの上級学校に進めない人が学ぶコースでした。

昭和11年(1936)時点で、尋常小学校の卒業者の66%が高等科に進学しています。

上級学校の受験で落ちると、高等科を予備校代わりにする人もいましたし、手工、実業、算術などの実務的な初歩を学んで社会に巣立つ人もいて、まちまちでした。

奉公

一度奉公すると、3年もしくは5年は、親許に帰さないならわしでした。それが過ぎると年2回、盆と旧正月に1日(女中などは3日)、藪入りを許されました。商家の手代や小僧は奉公して10年は無給で、5年ほどは小遣いももらえないのが建て前でした。

「藪」は田舎のことで、転じて親許を指したものです。

「藪入り」の言葉と習慣は、労働条件が改善された昭和初期まで残っていて、横綱双葉山の「70連勝ならざるの日」がちょうど藪入りの日曜日(昭和14年1月15日)だったことは、今でも昭和回顧談などでよく引き合いに出されます。

川崎大師

正しくは平間寺へいけんじ。川崎市川崎区にある真言宗智山派ちざんはの大本山。大治3年(1128)建立。川崎大師かわさきだいしは通称。山号は金剛山こんごうざん。院号は金乗院きんじょういん尊賢そんけんが開山、平間兼乗ひらまかねのりが開基。

真言宗智山派は京都の智積院ちしゃくいんが本山で、この系統は布教活動よりも仏典研究に重きを置きます。

二十五と 四十二で込む わたし舟   二21

25歳と42歳は男の厄年やくどしです。川崎大師に参詣する客で六郷川(多摩川)の渡し舟がごった返すさま。

やく年に 東海道を ちつと見る   十六08

あなたもか わたしも三と 万年屋   二十一29

「三」とは33歳の女の厄年をさします。万年屋は、川崎宿の奈良茶飯で有名な老舗で、大師土産も販売していました。



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