ももかわ【百川】落語演目

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

舞台は日本橋の料亭を舞台。
客と店の者とのちぐはぐなおなはし。
実話なんだそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困った旦那は、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、今年はそれをどうするかで、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うっひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから、一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「四神剣の掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですから、どうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんども、はァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、初五郎は慈姑くわいのきんとんを差し出して、
「ここんところは一つ、慈姑(=具合)をぐっとのみ込んで(=見逃して)いただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて、下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいやながらも二階に上がる。

「うっひぇッ」

その奇声に二階の連中は驚いたが、百兵衛が椋鳥むくどりでただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と、見下すように言いつける。

「名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろ」と言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに「かの字のつく名高い人」とそこらへんの職人に尋ねれば「鴨池かもじ先生のことだろう」と医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生の弟子は「袈裟けさがけに斬られた」と誤解。

弟子はすぐさま、先生に伝える。

「あの連中は気が荒いからな。自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と使いの者に伝えるよう、弟子に言いつける。

百兵衛、にこにこ顔で戻ってきた。

百兵衛の伝言を聞いた若い衆、
「歌女文字の師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。

「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「抜け作とは。どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実際にあった本膳料理の店、百川が宣伝のため、実際に店で起こったちょっとした事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。

いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、「百川」だけでしょう。

落語というものが、というか、江戸文化というものが、かなり自由闊達であったことが、なんとなくうかがえますね。

創業は安永期か  【RIZAP COOK】

「百川」は代々、日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。

もとは卓袱しっぽく(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。

創業時期の詳細はわかりません。ネットでは天明3年(1783)との説も出ていますが、上述のように、安永期には繁盛していたようですから、よくわかりません。

明治32年(1899)1月3日号「文藝倶楽部」掲載の「百川」は、二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-98)の速記でした。

ここには、芳町よしちょう(=葭町)にあった料亭「百尺」の分店だったとされています。

天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。

この店の最後の華は、安政元年(1854)にペリーの一行が日米和親条約を締結が再来航した際、百川一店のみ饗応を受け負ったことでした。

幕命で、予算は千両だったそうです。こりゃ、すごい。

この人、何者?

藤堂藩の伊賀者(無足人ではない!)です。在郷で忍者職をこなしながらの、れっきとした武士でした。

「伊賀者」とは忍者職の武士なんだそうです。澤村家では当主が代々「甚三郎」を名乗ります。忍者です。

この人、べつに黒装束で船に潜入したわけではありません。

侍のいでたちで、ふつうに、なにくわぬ顔で、目立たないかんじで、宴会メンバーに加わっていたのでした。

甚三郎の任務遂行は、どれほどのものだったのか。

はっきり言って、たいしたことはない。

あちらの将校とくだらない話(もちろん通訳を介して)をして、米ドル紙幣を一枚もらってきた程度のものでした。

幕末の政局にいかなる利をもたらしたのかは、推して知るべしです。

ただ、言えることは、澤村も百川の献立に舌鼓を打ったであろうこと。これはすごい。むしろ、こっちのほうが価値ある「任務遂行」だったかもしれません。

そのときの百川の名菜献立が残っているそうです。なかでも、柿にみりんをあしらったデザートは、米将校らを喜ばせたとか。柿にみりん。悪くない新味かも。

そんな百川も明治元年(1868)には廃業しています。時勢のあおりでしょうか。

忍者も明治になると、軍隊や警察に入って得意技を駆使する人もいましたが、多くは市井の闇に消え落ちました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町むろまち2丁目の東側を入った横丁。

明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

現在のコレド室町、ビルに囲まれて立つ福徳神社あたりに、百川があったそうです。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗しじんきです。

四神は四方の神の意味で、青竜せいりゅう(東)、白虎びゃっこ(西)、朱雀すざく(南、朱=深い赤)、玄武げんぶ(北、玄=黒、武=亀と蛇の歩み)の図が描かれ、旗竿にほこがついていたため、この名があります。

神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

神田大明神御祭図。国輝。安政4年(1857)。大判錦絵3枚続。。祭りの壮大な雰囲気が伝わります。国立音楽大学附属図書館(竹内文庫)所蔵

椋鳥  【RIZAP COOK】

むくどり。椋鳥とは、秋から春にかけて江戸に出稼ぎに来た奉公人のことをいいます。

噺の中で若い衆は百兵衛を「椋鳥むくどり」と呼んでいます。

たんに田舎者をののしるだけのことばではなく、地方から江戸に上がってきてそのまま居ついてしまった人たちをもさしました。

多くは人足などの力仕事に従事していました。渡り鳥の椋鳥のように集団で往復することから、江戸者はそのように呼びました。

さげすんだりののしったりする意味合いの強いことばではありません。

慈姑  【RIZAP COOK】

くわい。オモダカ科の多年草。小芋に似た地下の球根を食用とします。

渋を抜き、煮て食べます。原産が中国で、日本では奈良時代には食べられていたそうです。苦みが残って、あまり美味な食材でもなさそうですが。

その頃は、精力食品ながらも食べ過ぎると腎水を減らすと考えられていたようです。

ところが江戸期に入ると、精力増強の側面は忘れ去られて、食べると水分を減らすということだけが強調されるようになりました。

江戸期を通して、慈姑は水分を取るもの、が通り相場でした。水がよく出る田んばに慈姑を植えると水を吸い取ってくれる、という笑い話さえ残るほど。

成分にカリウムが多いので利尿作用があるため、水を取ると思われていたのでしょう。天明の飢饉ききんでは救荒作物きゅうこうさくもつとして評価されたせいか、おせち料理に使われたりするのも人々にありがたい食物だから、ということからなのでしょう。

ちなみに、欧米では観賞専用で、食用にするのは東アジア圏だけだそうです。

慈姑のきんとん  【RIZAP COOK】

くわいのきんとん。この噺では「慈姑」そのものではなく「慈姑のきんとん」として登場しています。

慈姑のきんとんは、慈姑をすりつぶして使うのですが、この噺では慈姑が丸ごときんとんの中に入っているふうに描かれています。

一般に、慈姑のきんとんの意味するものは、見かけは栗きんとんに似ているのになかなかのどに通らないということ。

そこで、 理解や納得のしにくい事柄のたとえで使います。久保田万太郎(1889-1963、赤貝のひもで窒息死)は、小説「樹蔭」に「命令とあれば、無理にものみこまなければならない慈姑のきんとんで」と書き残しています。

久保田万太郎は「百川」を踏まえて使っていますね。

さらに、万太郎は小説「春泥」で、「だってあのこのごろ来た女中。―まるッきし分らないんだ、話が。―よッぽど慈姑のきんとんに出来上っているんだ。」とも。

この表現を推しはかると、 そっけない、人当たりの悪い人間の意味で使っているようです。

山家やまがもん(=地方出身者)の百兵衛の影がちらつきます。久保田はよほどの「百川」好みだったのがわかりますね。

そこで結論。

慈姑のきんとん=百兵衛。

慈姑のきんとんは百兵衛の表象である、ということなのだと思います。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留ほりどめ二丁目の大通り東側にある路地です。

入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道じんみちと呼びました。

鹿野武左衛門(安次郎、1649-99.9.6)や古山師重(古山太郎兵衛、17世紀後半)などが住んでいたことでも知られています。

鹿野武左衛門は江戸落語の元祖、古山師重は浮世絵師。菱川師宣の弟子が、いっときは菱川師重を名乗っていた時期もありました。

近くには芝居小屋もあって、芸事にからんだ人々が多く住んでいた、にぎやかで艶っぽい町。それが長谷川町の特色でした。元吉原の近所でもありますし。

人形町末広の跡地には、現在、読売IS(読売新聞社の系列社でチラシ制作など)の社屋が建っています。

この隣には「うぶけや」(天明3年=1783年開業)も。刃物製造販売の老舗です。

店の中に掛かる「うぶけや」の扁額。これがすごい。日下部鳴鶴(日下部東作、1838-1922)の門下による寄せ書きです。日下部鳴鶴は近代の書家です。揮毫したのは、「う」=伊原雲涯(1868-1928)、「ぶ」=丹羽海鶴(丹羽正長、1864-1931)、「け」=岩田鶴皐(岩田要輔、1866-1938)、「や」=近藤雪竹(近藤富寿、1863-1928)。さらに。店の外に掲げられた「うぶけや」の看板。これは丹羽海鶴の揮毫なんだそうです。なんだか、すごいです。

通りの向かいから眺めるこの一角だけの渋い光景は、一瞬、江戸の当時にに導いてくれます。

玄冶店  【RIZAP COOK】

げんやだな。うぶけやは玄冶店げんやだなといわれるところにあります。

近くには、花街の頃から残っている料亭の濱田家はまだやがありますが、こちらも「玄冶店 濱田家」と称しています。

ミシュランガイドや防衛庁の密談(守屋次官と山田商会の)で、一般にも知られるようになりましたね。

玄冶店は、三代将軍家光の御典医だった岡本玄冶おかもとげんやの敷地でした。家光の疱瘡ほうそうを治したことから、そのご褒美にと土地を拝領。

玄冶は借家を建てて人々に貸したので、ここら一帯は玄冶店と呼ばれるようになりました。町名は新和泉町しんいずみちょう。玄冶店は俗称です。

歌舞伎『与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし』の、与三郎がお富をゆする場は玄冶店の妾宅。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)はこの地に住んでいたことから「玄冶店の師匠」とも呼ばれました。

天保期には歌川国芳うかがわくによし(井草孫三郎、1798-1861)が玄冶店に住んでいました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839.4.1-1900.8.11)は少年時に国芳門となって絵師をめざしました。

国芳が日蓮宗の篤信家で絵も描かず連日連夜の題目三昧に気味悪がって、湯島大根畑の実家に戻ってしまいました。

ここらへんは、居職の人々が多く住んでいたようです。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。今輔のでは百兵衛ではなく、杢太左衛門という名前でした。

古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)は、義父の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)から継承していました。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も時折、演じました。

志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」という独自のもの。

これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまりおもしろくはありません。

八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)のやる百兵衛は「木下百兵衛」という姓が付いていました。江戸者と山出し(地方出身者)の差異や聞き違いを強調していました。

昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったものでした。円生の型が標準になってしまいました。

円生没後は、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)らが次代に伝えていました。小三治も円生の型でした。

十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)は「鴨池道哲先生」と言っていました。始まりが二階の若い衆の場面からで、円生の型とはちょっと違っていました。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のは円生の型でした。絶品でした。

六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)も伝えていました。

三遊亭歌司は、円生から小三治に伝わったものをさらった旨を前ぶりに語っています。混乱ぶりがにじみ出ていて、独自の味があります。

小三治も円生の「百川」を踏襲しています。志ん朝のと同じ型です。円生や志ん朝の「百川」と際立った違いはありません。

ただ、慈姑のきんとんを食べて目を白黒させるようなところは、さすがは五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)の弟子だけあって、みごとなしぐさでした。円生や志ん朝を超えていました。

江戸者の視線から田舎者を笑うというやり方も薄まっていて、粗忽者ばかりが早とちりを繰り返しています。

いまどき、江戸者が田舎者を笑う構図は受け入れられないでしょうから、そこらへんは工夫が必要となるのでしょう。

カモジ先生  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。

実在も実在、本名が清水左近源元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳かもいけげんりん

鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。

実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍家斉の御典医を務めたほどの漢方外料(=外科)の名医。

瘍科撮要ようかさつよう』全三巻を口述し、日本医学史に名を残しています。

本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したそうです。

まさに「赤ひげ」そのものでした。

ついでに、八丁堀について

八丁堀は、町奉行付きの与力や同心の居住区でした。

与力は幕府からの拝領地に屋敷を構えていたのですが、その土地はとても広くて半分は使えないままとなります。

そこで与力の副業として、医家、儒学者、歌人、国学者などといった身元判明の諸家に土地を貸していました。

中村静夫「新作八丁堀組屋敷」には、幕末期、原鶴右衛門はらつるえもんの組屋敷に太田元礼(医)、藤島勾当、河辺東山(医)、鴨池元琳(医)が借地していたことが記されています。

他の組屋敷でも医家の借地が多く見られます。

与力が医家に多く貸すのは、御用絡みでけが人が出た場合に急場の施療を頼める心強さも下心にはあったのでしょう。

「袈裟がけに斬られた」事件は、鴨池先生には驚くほどのものではなかったのでしょう。

元吉原の地霊  【RIZAP COOK】

この噺を聴いた明治期東京の人々は「長谷川町三光新道の鴨池元琳先生」ときたら、すぐに岡本玄冶を思い起こしたことでしょう。

鴨池先生が八丁堀にいたことはわかっていますが、三光新道で開業していたかどうかは不明。ここは噺家の脚色かもしれません。

脚色でいいのです。

知られた御典医、岡本玄冶を連想させる噺家のたくらみだったのですから。

長谷川町の隣は元吉原の一帯です。

現在の日本橋人形町界隈。明暦3年(1657)8月には遊郭が浅草裏に移転したため、跡地には地霊がとり憑いたまま私娼窟と化しました。

土地はそんなにたやすく変容しないもの。

見えずとも、地の霊は残るのです。

近所には堺町さかいちょう葺屋町ふきやちょう

こちらは芝居町で、歌舞伎の中村座と市村座、浄瑠璃座や人形操座なんかもあります。

上方から移ってきた芸能系の人々によって町が形成されていった地区です。

その頃の歌舞伎役者は男娼も兼ねていましたから、元吉原変じての葭町には陰間茶屋かげまぢゃやができていきました。

1764年(明和元年)には12軒も。

ところが、1841年(天保12年)10月7日暁七つ半(午前5時)、堺町の水茶屋から起こった火事で、ここら一帯が丸焼けに。

芝居小屋はすべて浅草猿若町に移転させられました。

天保の改革の無粋で厳格な規制によって陰間茶屋は消え、葭町は芳町に変じて艶っぽくてほの明るい花街に模様替えされきました。

深川や霊巌島れいがんじまの花街から移ってきた芸妓たちによって新興の花街が生まれたのです。

明治、大正期には怪しげな私娼窟もありましたが、蠣殻町かきがらちょうが米相場の町に、兜町かぶとちょうが株式の町に変容し、成金が芸妓と安直に遊ぶ町に形成されていきました。

東京でいちばん粋な街です。今もこのあたりの路地裏を歩くと、どこか艶めいた空気を感じるのは、いまだ地霊がひっそりと息遣いしているせいかもしれません。

「百川」は取るに足りないのんきな噺に聴こえます。

じつは、日本橋一帯の表の顔と裏の顔が見え隠れする、きわめてあやしげな上級コースの噺に仕上がっているのだと思います。一度くらいじゃわかりません。

何度も何度もいろんな噺家の「百川」を聴いていくと、見えてくるものがあります。味わい深く楽しめます。

評価 :3/3。

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成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

うめみのやかん【梅見の薬缶】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「勘違い」がテーマのはなしですね。

別題:癪の合薬 薬缶なめ 茶瓶ねずり(上方)

【あらすじ】

町内の源さんと八つぁん。

髪結床でバカ話をしているうちに、ちょうど向島の花屋敷の臥龍梅が見ごろなので、梅見としゃれこもうと話がまとまり、さっそく舟に乗り込む。

ちょうど相客に、十八くらいのきれいなお嬢さん。

どこか大店の娘らしく、侍女を連れている。

源さん、たちまちでれでれで、よせばいいのにずうずうしく話しかける。

この男、お世辞にもモテるタイプでなく、おまけに四十を過ぎて、もう頭がピカピカ。

それでも口八丁、なんだかだとお世辞を並べて気を引こうとするが、女の方がなにやら、ようすがおかしい。

いやにジロジロと、源さんの顔を見つめてばかり。

そのうち、舟が向こう岸に着き、娘の一行は三囲神社みめぐりじんじゃの土手を下りていく。

二人がいぶかしがりながら言問橋のたもとまで来ると、後ろから先ほどの侍女が追いかけてきて、源さんに、
「お嬢さんが、いま三囲の茶店で待っているので、ぜひおいで願いたい。お願いしたいことがあります」
と頼んだから、さあ源さんは有頂天。

うまくすると、あのお嬢さんに見初められて入婿にでも、とワクワクし、ぶつぶつ文句をいう八つぁんを五円でなだめて、いそいそと二人で茶屋まで出かけていく。

ところが、案の定というか当然というか、侍女が言い出したことには、お嬢さんがこのごろしゃくの持病が出て困っているが、癪には銅をなめるのが一番。

だが、このへんにはなく、難渋していたところ、あなたの頭は見たところ薬缶そっくりで、なめれば銅同様の効き目がありそうだから、ぜひにというわけ。

さあ喜んだのが八。

「どうせそんなこったろうと思った、てめえのツラはどう見ても情夫てえツラじゃねえ」
と、調子に乗って
「その男の頭はたいへんうまいと評判ですから、たっぷりおなめなさい」

源さん、悔しがってももう遅い。

不承不承、頭を差し出すと、お嬢さん、遠慮なくベロベロとナメナメ。

そのうち急に発作が起きたと見え、薬缶頭をガブリ。
「あら、お気の毒さま。どこもお傷がついてはおりませんか」
「なーに、傷はつきましたが、漏ってはいません」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

スキンヘッドは口に苦し?

「金の味」、別題「擬宝珠」では、銅をなめたくなる金属嗜好症がテーマなのですが、この噺は逆に、ある種の病気には銅をなめるのがよい、という俗信に基づくものです。

原話と思われる小咄は三種あります。

最も古いのは万治2年(1659)刊の『百物語』巻下ノ四にある無題のもので、これはある男が意気がって山椒を大量になめ、むせかえって苦し紛れに、山椒でむせたときには銅をなめればよいと、通りがかりの侍の薬缶頭にいきなりかぶりつきます。

無礼者ッと、バッサリ斬られそうになりますが、往来の町衆が栄耀食いでなく、薬食いなのでご勘弁を」と取りなしてくれ、なんとか収まるというお笑い。

宝永7年(1710)刊『軽口都男かるくちみやこおとこ』中の「薬罐やかん」では、ハゲあたまの大金持ちの屋敷に夜、三人組の盗賊が侵入。おやじが物音で目覚め、賊が外へ盗品を運び出すのを出窓からそっとうかがっていると、月光でアタマが光り輝き、ヤカンと間違えた盗賊は、これもついでに頂こうと、むんずとつかんだので、仰天したおやじが大声でわめきます。

そうなればブッスリやる方が早いのに、賊の方もあわてて、「山椒にむせたので、通りがかりにだんなの頭を見て、やかんと勘違いしてつい、なめようと……」と、わけのわからない言い訳をするもの。

続いて明和9年(1772)刊の『鹿の子餅』中の「盗人」は、これを短くしたもので、盗人が盗品を運び出す穴を土蔵に空け、目覚めた主人が不審に思って、ピカピカ頭を穴から出したのを外にいる一味が勘違い。「あ、ヤカンから先か」というオチです。これは落語「薬缶泥」の直接の原話でもあります。

こうした小咄を、怪談ばなしの始祖でもある初代林屋正蔵(1781-1842)が一席噺にまとめたというのが、野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論家)が『落語通談』で述べている説です。

根拠に乏しく、あまりあてにはなりませんが。

本家上方の「茶瓶ねずり」

上方落語「茶瓶ねずり」が東京に移されたものが現行の型です。

「ねずる」は、しゃぶる、なめるの意。

上方のやり方では、女中を連れて野歩きしていた奥方が、へびを見て持病の癪を起こします。

癪は茶瓶(=薬缶)をなめれば治るというので、女中が、通りかかった薬缶頭の武士に決死の覚悟で頼んで、代用に頭をなめさせてもらうというものです。

オチは供の下男と侍の会話で、東京と同じです。

あらすじは、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記を参照しましたが、これは今ではちょっと珍しい演出。

東京では現在は「薬缶なめ」の演題が普通で、その場合、円遊の前半のお色気をカットした上、癪を起こすのを大家のかみさんとし、あとはほぼ上方通りに演じます。

古いオチの型と演者

オチは、古くは、侍の下男が「あなたが謡をうたって歩くから、狐が化かしたんでしょう」と言うと侍が、「狐か。道理で野干 野狐の古称。やかんと掛けた)を好んだ」とオチていましたが、わかりにくいので円遊が変えたものでしょう。

東京では長く絶えていたのを、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)が復活。

ただ、それ以前、二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が「癪の合薬」の名で演じました。

小文治は、先の大戦後、東京に定住し、上方落語を広く東京落語界に紹介した人です。

臥龍梅

江東区亀戸3丁目にあった伊勢屋喜右衛門の別荘「清香庵」は、「梅屋敷」の異称で知らぬ者はなかったほどの梅の名所でした。

中でも、竜がとぐろを巻くように枝がうねっているところから「臥龍梅」と名づけられた白梅は、江戸一番と賞され、シーズンには見物人が絶えなかったとか。

この梅は、吉原の名妓、初代高尾太夫から喜右衛門の先祖が譲り受けたもので、その命名者は徳川光圀でした。水戸黄門で知られた人す。

夏目漱石(夏目金之助、1867-1916)の有名な「修善寺大患」とともに必ず語られる明治43年(1910)の大水害で惜しくも枯れました。

『武江年表』の寛政4年(1792)の項に、「七月二十一日、亀戸梅屋敷の梅旧根消失するよし、『江戸砂子書入』といふ草書にあり」とあるので、それ以前に少なくとも一度は枯れ、接ぎ木したようです。

『武江年表』は、斎藤家三代にわたって書き記してきた年代記。

孫の斎藤月岑が明治初年に編みました。

江戸時代全般の江戸の世相がよくわかる奇書です。

【語の読みと注】
臥龍梅 がりょうばい
大店 おおだな
三囲神社 みめぐりじんじゃ
言問橋 ことといばし
癪 しゃく:胃けいれん
擬宝珠 ぎぼし
栄耀食い えようぐい:美食
薬食い くすりぐい:治療食

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

いまどのきつね【今戸の狐】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

向かいのおかみは千住上がり。手引きで今戸焼の狐を作る良輔。
狐は賭場をさす隠語。半端に聞き知った遊び人が迫った。
「狐はどこでぃ」「戸棚ん中です」
「マヌケめ、骨の寨だ」「お向かいです」 

あらすじ

安政の頃。

乾坤坊良斎けんこんぼうりょうさいという自作自演の噺家の弟子で、良輔りょうすけという、こちらは作者専門の男。

どう考えても作者では食っていけないので、ひとつ、噺家に転向しようと、当時大看板で三題噺さんだいばなしの名人とうたわれている初代三笑亭可楽さんしょうていからくに無理に頼み込み、弟子にしてもらった。

ところが、期待とは大違い。

修行は厳しいし、客の来ない場末の寄席にしか出してもらえないし。食うものも食えず。これでは作者の方がましだったという体たらく。

内職をしたいが、師匠がやかましくて、見つかればたちまちクビは必定。

しかし、もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなくなった。

たまたま住んでいたのが今戸で、ここは今戸焼きという、素焼きの土器や人形の本場。

そこで良輔、もともと器用なたちなので、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいた。

良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋こまものやの家がある。

そこのかみさんは千住(通称、骨=コツ)のお女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これもなにか手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ、と強談判こわだんぱん

良輔も承知するほかない。

一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになった。

こちらは中橋なかばしの可楽の家。

師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽のらくが、夜中に寄席でクジを売ってもらった金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人。

博打ばくちに負けてすってんてんにされ、やけになっているところに前座の金を数える音がジャラジャラと聞こえてきたので、これはてっきりご法度はっとの素人博打を噺家が開帳していると思い込み、「これは金になる」とほくそ笑む。

翌朝。

さっそく、可楽のところに押しかけ、
「お宅では夜遅く狐チョボイチ(博打の一種)をなさっているようだが、しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したい」とゆする。

これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだ、と教える。

乃楽から道を聞き出し、今戸までやってきた虎、さっそく、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。

「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」

ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。

「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「まぬけめっ、オレが探してんのは、こつさいだっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

講釈名人の実話

江戸後期の講釈師、乾坤坊良斎(1769-1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。

良斎は神田松枝町かんだまつえだちょうで貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽(京屋又五郎、1777-1833)門下の噺家になり、のちに講釈師に転じた人。

本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談しらこやせいだん」ほかの世話講談をものしました。

この噺は、良斎が初代菅良助(梅沢良助、1769-1860)の名で噺家だったころの体験談を弟子の二代目菅良助(本名不詳、生没年不詳)のこととして創作(あるいは述懐)しているため、話がややこしくなっています。

ちなみに、二代目良助はその後、初代立川談志となった人だとか。

良斎の若い頃なら文化年間(1804-18)ですが、この人が噺家をあきらめ、剃髪して講釈師に転じたのは天保末年(1840年ごろ)といわれます。

長命ではあったものの、もう晩年に近いので、やはり弟子のことにしないと無理が生じるため、噺の舞台は安政期(1854-60)に設定してあります。

志ん生専売の「楽屋ネタ」

明治期の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残っています。

古風な噺で、オチの「コツ」や今戸焼など、現在ではまったくわからなくなっています。

先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)しか演じ手がありませんでした。

志ん生の二人の子息、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-1982)と三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が継承して手掛けていました。

現在でもこの一門を中心に、ホール落語などではごくたまに聴かれます。

落語家自身が主人公になる話はたいへんに珍しく、その意味で、噺のマクラによくある「楽屋ネタ」をふくらませたものともいえるでしょう。

幕末の江戸の場末の風俗や落語家の暮らしぶりの貴重なルポになっているのが取り得の噺です。

志ん生も、一銭のうどんしかすすれなかったり「飯が好きじゃあ噺家になれねえよ」と脅されたりした昔の前座の貧しさをマクラでおもしろおかしく語り、客の興味をなんとかつなげようと苦心していました。

今戸焼

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が得意にした「今戸焼」にも登場します。

起源は天正年間(1573-91)に遡るという焼き物。土器人形が主で、火鉢や灯心皿も作ります。

狐チョボイチ

単に「狐」、また「狐チョボ」ともいいます。

寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

本来、「チョボイチ」がサイコロ一つ、「丁半」が二つ、「狐」が三つと決まっているので、厳密には「狐チョボイチ」は誤りでしょう。

このバクチ、イカサマや張った目のすり替えが行われやすく、しまいには狐に化かされたように、「誰が自分の銭ィ持ってっちゃったんだか、わからなくなっちまいます」(志ん生)ので、この名が付いたとか。

女郎のように人をたぶらかす習性の者を「狐」と呼んだので、噺の内容から、当然この言葉はそれと掛けてあるわけです。

チョボイチは「狸賽」でも登場します。「狐」に狸が化けるわけですね。

寄席くじ

江戸時代の寄席では、中入りの時、前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、前座の貴重な収入源でした。

これも志ん生によると、景品はきんか糖でこしらえた「鯛」や「布袋さま」と決まっていたようで、当たっても持っていく客は少なく、のべつ同じものが出ていたため、しまいには鯛のうろこが溶けてなくなってしまったとか。

コツ

千住小塚原(荒川区南千住8丁目)の異称です。

鈴ヶ森と並ぶ刑場で有名ですが、岡場所(私娼窟)があったことでも名高く、「藁人形」にも登場しました。

刑場から骨を連想し、骨ヶ原(コツガハラ)から小塚原(コヅカッパラ)となったもので、オチに通じる「コツの妻」は、骨製の安物の「さい」と「さい」を掛けた地口じくちです。

この噺、ここがわかっていないとオチで笑えません。

そこで志ん生は、噺の最初に千住を「コツ」と呼んでいたことを入念に話していました。

今戸中橋

いまどなかばし。今戸は、台東区今戸1、2丁目で、江戸郊外有数の景勝地でした。今は見る影もありません。

現在は埋め立てられた今戸橋は、文禄年間(1592-96)以前に架橋された古い橋で、その東詰ひがしづめには文人墨客ぶんじんぼっかくがよく訪れた有名な料亭・有明楼がありましたが、現在は墨田公園になっています。

南詰みなみづめには昭和4年(1929)、言問橋ことといばしが架けられるまで対岸の三囲神社みめぐりじんじゃとの間を渡船でつなぐ「竹屋の渡し」がありました。

中橋は中央区八重洲1丁目。「金明竹」「代脈」「中沢道二」ほかにも登場します。

ことばよみいみ
乾坤坊良斎
けんこんぼうりょうさい
質 
たち
糊口をしのぐ 
ここうをしのぐ
乃楽 
のらく
妻 さい

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