ほりのうち【堀の内】落語演目

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【どんな?】

法華宗が噺の中心。
ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。
法華噺でもあり、粗忽噺でもあり。

別題:あわてもの 粗忽者 粗忽者一家 愛宕詣り いらちの愛宕詣り(上方)

あらすじ

粗忽者そこつものの亭主。

片方草履ぞうりで、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。

薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

しりたい

小ばなしの寄せ集め  【RIZAP COOK】

粗忽そこつ(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利かるくちふくどくり』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意ぶじしうい』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

『無事志有意』は烏亭焉馬うていえんば(中村英祝、1743-1822)の作です。

焉馬は、本所相生町あいおいちょうの大工で、和泉屋和助いずみやわすけ立川焉馬たてかわえんば立川談洲楼たてかわだんじゅうろう談洲楼焉馬だんじゅうろうえんば鑿釿言墨曲尺のみのちょうなごんすみかねなどの名を持っていました。

天明6年(1786)、向島の料亭、武蔵家権之方で「噺の会」を主宰しました。

一方の寄席の始まりといわれています。

墓所は、本所表町(墨田区東駒形1丁目)の最勝寺。天台宗の寺院で、目黄不動の通称で知られています。

門弟には、初代朝寝房夢羅久あさねぼうむらく(里見晋兵衛、1777-1831)、初代立川金馬(日吉善蔵、生没年不詳、→二代目朝寝坊むらく)、初代立川談笑(足袋屋庄八、?-1811)、初代談語楼銀馬(松塚幸太郎、生没年不詳)、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)、二代目烏亭焉馬(山崎嘗次郎、1792-1862)などがいました。

上方版「いらちの愛宕詣り」  【RIZAP COOK】

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま  【RIZAP COOK】

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗(江戸時代は法華宗と呼んでいました)の名刹です。

「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

妙法寺は、もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でした。元和年間(1615-24)に日円上人が開基して法華宗(日蓮教団)に改宗。

明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。

こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

法華宗の本気度  【RIZAP COOK】

「開帳」とは、厨子(仏像を安置するケース)のとばりを開いて、中に納められた本尊の秘仏を拝ませることです。

地方の由緒ある寺院が江戸に出向いて開帳するようなことを「出開帳」と呼びました。

今の美術館などでの展覧会のような催しです。

もちろん、「開帳」の第二義は、「女性の腰巻があらわになること」ですが、これはまた別の機会に。

法華宗(日蓮教団)の出開帳は、宝永2年(1705)の京都・本圀寺の江戸出開帳が最初だそうです。『武江年表』などで見ると、この年から明治6年(1873)までに行われた出開帳は131件だったそうです。

これは、出開帳全体の約半分だったとか。開帳の中身の約6割は、日蓮の肖像、つまり祖師像だったといいます。

これで法華宗の諸寺は何を示すかといえば、厄除け祖師といったように、厄除け、開運、火除け、延命、子安、日切り願満などを掲げました。

法華宗は他宗派と違って、期限の通例60日を延長するすることも、人寄せのため境内に見世物小屋などを設けることもせず、それでも参詣者は集うたといわれます。

法華宗(日蓮教団)を無視して、江戸の町は語れません。

参考文献:日本思想大系34『近世仏教の思想』月報所収「近世日蓮教団の祖師信仰」(高木豊)



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評価 :1/3。

えいたいばし【永代橋】落語演目



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【どんな?】

実際にあった永代橋崩落の事故。
文化4年(1807)8月19日、死者730人超。
その事故に材を取ったくだらない噺です。

別題:多勢に無勢

【あらすじ】

下谷車坂町に住む露店古着商の太兵衛と、同居人の小間物屋、武兵衛。

兄弟同様のつきあいだが、そろって粗忽者。

今日は深川八幡の祭礼の日。

武兵衛はこのところ実入りがいいので、久しぶりに散財しようと、太兵衛夫婦に留守番を頼み、いそいそと出かけていく。

太兵衛が、自分のことは棚に上げて、おまえはそそっかしいから気をつけろと言っても、うわの空。

永代橋に来かかると大変な人込み。

押すな押すなで、身動きができずにいると、突然、胸にどんとぶつかってきた者がいる。

「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」

胸をさすりながらふと懐に手を入れると、金がたんまり入った紙入れが、きれいにすられている。

追いかけようときょろきょろしても、後の祭り。

いまいましいが帰るほかなく、とぼとぼ引き返す途中、ぱったり会ったのが贔屓のだんな。

今度、両国米沢町に待合を開いたので、ぜひ寄ってほしいという。

だんなの家でしこたま酔っぱらい、すっかりご機嫌になったころ、表で何やら人の叫ぶ声。

女中を聞きにやると、たった今、永代橋が人の重みで落ち、たいそう人が溺れ死んで大騒ぎだという。

あのままスリにやられなかったらオレも今ごろはと、さすがに能天気な武兵衛も真っ青。

話変わって、こちらは太兵衛。

武兵衛が帰らないので心配していると、永代橋が落ちたという知らせ。

さてはと、翌朝探しに出ようとする矢先、番所から、武兵衛が橋から落ちて溺れ死んだので、死骸を引き取りにこいとのお達し。

あわてて家を飛び出したとたんに、一杯機嫌の武兵衛とぱったり。

「言わねえこっちゃねえ。おめえは昨夜溺れ死んだんだから、今すぐ一緒に死骸を引き取りに行くんだ」
「こりゃ大変だ」

どっちもどっち。

連れ立って番所に乗り込んだから、話がトンチンカンになる。

武兵衛が死骸を見て、
「これはあたしじゃない」
と言い出したので、太兵衛はいらいらして、武兵衛の背中をポカリ。

もめていると役人が見かねて、これに見覚えがあるかと出したのが昨夜すられた紙入れ。

どうやらスリが身代わりに溺れたのを、武兵衛の書きつけから、お上で本人と勘違いしたらしい。

「それ見ろ。オレでもないものを早合点して、背中をぶちやがって、腹の虫が納まらねえ。お役人さま、どっちが悪いか、お裁きをねがいます」
「うーん、いくら言ってもおまえは勝てん」
「なぜ」
「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

永代橋崩落

文化4年8月19日(1807年9月20日)。数日来の長雨がやっと止み、江戸の空はからりと晴れ、蒸し暑い朝でした。

この日は、天明5年(1785)以来22年ぶりに、社殿修復記念を兼ねた深川八幡祭礼が行われるというので、前景気は過熱気味でした。

そのうえ身延山が便乗イベントで、深川霊巌寺で出開帳を催したので、朝から江戸中の人出は永代橋を目ざし、一時に深川に集まっていました。

午前10時過ぎ、橋向こうに一番山車が見えたので、雨で四日間、祭りが順延してイライラが募っていた数十万の群集が、橋に向かって殺到。

たちまち東の橋詰から12間余りが墜落、あとは地獄絵図が展開。

死者は行方不明者を含めると、1500人を超えたといわれる、大惨事になりました。

深川の 底は八幡 地獄にて 落ちて永代 浮ぶ瀬もなし
永代と 架けたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

惨事には付きもので、不吉な予兆があったこと、偶然助かった者のエピソードなどが残っています。

東西橋詰の死体置場では、死骸の着物で絹の部、木綿の部に分け、年齢からも老人、中年、子供と分類して、引き取り人に捜させたとか。

当時、両国橋を除いて、永代も吾妻も仮普請で橋幅も狭く、惨事が起こらない方が不思議な状態でした。

珍しい実録噺

「佃祭」と同様、実際に起こったカタストロフィーを題材にしたもので、落語では数少ない実録ものです。

成立の詳細は不明ですが、実際に祭礼に行く途中で二両二分掏られたため、偶然命が助かった本郷の麹屋の体験を脚色したともいわれます。

根岸鎮衛の『耳嚢』巻六の「陰徳危難を遁れし事」という「佃祭り」の原話も、何らかの下敷きとなっていると思われます。

古くは、「多勢に無勢」と題した明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の速記が残ります。

先の大戦後は、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が高座にかけ、特に正蔵は得意にしていました五代目三遊亭円楽も好んで演じていました。

このオチを利用した「梅の春」という音曲噺が、後年作られました。

梅の春

もとは清元です。

天明の頃(1781-89)、長州藩の分家、長門府中藩主の毛利元義が途中まで造り、後を狂歌の王様、大田蜀山人が付けて、清元名人の太兵衛が節付けしたものです。

その冒頭の詞章は、

四方にめぐる
あふぎ巴や文車の
ゆるしの色もきのふけふ
心ばかりははる霞
引くもはづかし爪じるし

というもので、この後、「わかめ刈るてふ春景色」までこしらえ、元義が行き詰ったのを、蜀山人が受けて、「浮いて- かもめ)のひい、ふう、みい、よう……」 と付けたというエピソードがあります。

これを基にに作られた同題の音曲噺は、清元「梅の春」の語り初めの会に招かれた絵師の喜多武清が、名人の太兵衛に「お天道様」と声が掛かるのを嫉妬して、「自分はいくら努力してもお天道さまとは呼ばれない。もう絵を描くのが嫌になった」と愚痴ると弟子が、「太兵衛 =多勢)に武清(=無勢)はかないません」と、「永代橋」と同じオチになるものです。

永代橋

現在の橋は、江東区深川永代一丁目から中央区新川2丁目の間に架けられていますが、もともとは、その1町(約109m)上流の、佐賀1丁目から、日本橋箱崎町3丁目にわたって架橋されていました。

架橋は元禄11年(1698)とされ、それ以前は「深川大渡し」と呼ばれた渡し場がありました。

享保4年(1719)に洪水で破損し、そのまま取り壊されるところを付近の町人の誓願で、経費はすべて町の負担、さらに橋銭2文を通行人から徴収し、維持費に当てる条件で補修・存続が決まりました。この橋銭は、文化4年の崩落事件後、廃止されています。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
贔屓 ひいき
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:町奉行、『耳嚢』著者 1747-1815
耳嚢 みみぶくろ
遁れし のがれし
喜多武清 きたぶせい
四方 よも
文車 ふぐるま



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