すどうふ【酢豆腐】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

町内の若い衆が暑気払いを。金がない。
「なんかねえかなぁ」
与太郎が釜に放り込んだ豆腐の残り。腐ってる。
キザな若だんなに「舶来物」と。食わせる魂胆。
鼻をつまんで若だんな。「乙でげす」
上方に上って「ちりとてちん」に。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若だんな。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若だんなァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若だんな、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若だんな、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若旦那、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若だんな、恐れ入りました。ところで、これは、なんてエものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽



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【しりたい】

若だんなは半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差のだんな衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の『大通法語』に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の『文藝倶楽部』に掲載された初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の速記から、若旦那の洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げエせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫(赤塚藤雄、1935-2008)のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。

それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、古今亭志ん朝(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意としました。志ん朝の若だんなは嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別の演出で、石鹸を食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)から、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)に伝わっていました。

「あくぬけ」のオチは、「若だんな、それは石鹸で……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)門下だった初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。

大阪に移植され、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)も得意にしました。

東京では、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)などがこちらの型で演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。

「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

ことばよみいみ
おついいことも悪いことも
かんざし髪にとめる金具
江戸生艶気樺焼 
えどうまれうわきのかばやき山東京伝の黄表紙。3冊。天明5年(1785)刊。挿し絵は北尾政演。つまり、山東京伝本人による。版元は蔦屋重三郎
拙 せつわたし

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評価 :3/3。

よりあいざけ【寄合酒】落語演目

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【どんな?】

金がないのにわいわいがやがや。
がさつで喧しくてにぎやかな噺。

別題:ん廻し 田楽食い(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆が、金がないので肴をめいめい持ち寄りでのむことにしたが、これが大混乱。

数の子を煮てしまう奴がいたり、山芋を糠味噌に漬けたり、せっかく乾物屋の餓鬼をチョロまかしてせしめた鰹節を、二十本もいっぺんにかいてしまって、大釜でグラグラ。

うどん屋をやるんじゃないと、ぼやいていると、そのダシで行水してしまい、後は全部捨ててバケツ一杯だけ残した奴が現れ、世話人は頭を抱える。

しかたがないのでそのバケツを持ってこいと言うと、いま褌を洗濯しているのがいると、いう。

「すまねえ。知らないから。絞って持っていこうか?」
「冗談じゃねえ」

とっておきの鯛は、料理しているところにどこかの犬がきて、ちょんと座って動かないので、
「そんなのは頭を一発食らわして追っ払え」
と言われて頭を食べさせ、
「胴体を食らわせろ」
と言うから胴体をやってしまい、まだ動かないので尻尾まで食らわせて、とうとう全部犬の腹へ。

大騒ぎしているところへ豆腐屋から田楽が焼き上がってくる。

運がつくように、「ん」がつく言葉を一つ言うごとに田楽を一枚食わせると取り決めた。

各自ない頭を絞り、しまいには
「オレ、せんねんしんぜんえんのもんぜんにげんえんにんげんはんみょうはんしんはんきんかっぱんきんかんばんぎんかんばん、きんかんばんこんぼんまんきんたんきんかんばんこんじんはんごんたんひょうたん、かんばんきほうてん」
とお経のような文句を一息に並べ立て、五十六本せしめる奴も出る始末。

負けずに、算盤を用意しろと大きく出た男
「半鐘でジャンジャン、ボンボンボン、あっちでジャンジャンジャンジャン、こっちでジャンジャンジャンジャンジャン、消防自動車が鐘をカンカンカンカンと五百」
「おい、こいつに生の田楽を食わせろ」
「なぜ」
「消防のまねだから、焼かずに食わせるんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

ルーツは元和年間

原話になる小ばなしは数多くあります。ルーツは古く、大坂夏の陣の終わった直後の元和年間(1615-24)に刊行された『戯言養気集』中の「うたの事」が最古の形です。

ここではすでに「ん」の音の入った単語を並べ、田楽を取り合うパターンが確立しています。

その後、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝(平林平太夫、1554-1642)著『醒睡笑』中の「児の噂」でも、僧たちの「ん」の字遊びの中に、田楽欲しさに稚児が割り込むという筋になっています。

小ばなしによっては「ん」の言い合いではなく、ゲームが謎掛けやダジャレ(たとえば医者の本尊で薬師如来=八串もらえるなど)になる場合もあります。

田楽食いのパターンは終始変わっていません。

初代春団治の十八番

上方噺では、「田楽食い」として長く親しまれ、後半の「ん」の字の言い合いから、「ん廻し」の別題もあります。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の爆笑編で知られ、レコードも残されています。

そのやり方が二代目桂春団治(河合浅次郎、1894-1953)、さらに三代目桂春団治(河合一、1930-2016)に継承されたほか、父の五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)譲りで、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)も得意にしていました。

東京には明治期に移され、先の大戦後は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)のものでした。

古くは、後半の「ん廻し」に重点が置かれました。

どちらかといえば近年、東京でさかんに演じられるようになって、前半の、材料をメチャクチャにするくだりがより派手に演じられるようになり、その分、笑いも多くなっているようです。

ますます短くなる噺

オチは、本来、この先があって、「矢を射て、当たるとタイコがドン、ドンドンドン……」と際限なく繰り返す男がいるので、「そんなにたくさんっじゃ、焼くのが間に合わねえ」「いいよ、焼かず(=矢数)で食う」というものでしたが、長くなるので春団治が現行のところで切り、円生もこれにならっていました。

田楽のくだりまでいかず、時間の関係でさらに短く切る場合も最近は多く、ますます本来の「ん廻し」の要素が薄れてきています。

田楽

起源については、「味噌蔵」で紹介した通りです。

なお、田楽は店構えの豆腐屋のほか、上燗屋じょうかんやとも呼ばれた屋台のおでん屋、田楽茶屋という専門店でも売っていました。

田楽茶屋は、出合茶屋であいぢゃや(ラブホテル)を兼業していることが多かったといいます。

田楽と男女の濡れ事、何か縁がなさそうでしっくりきませんが、なに、どちらも焼けることに変わりはないようで。

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にしきのけさ【錦の袈裟】落語演目

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【どんな?】

町内の若い衆が錦の褌締めて吉原に。
質流れの錦で仕立てた褌は一着足りず。
あぶれた与太は寺から錦の袈裟を。
蓋を開けたら与太ばかりがもてる。
異形の廓噺。上方から。

別題:金襴の袈裟 ちん輪 袈裟茶屋(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆わけえし
「久しぶりに今夜吉原なかに繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。

それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中。

やつらが、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん一丁になってカッポレの総踊りをやらかして、
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。

そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうということに。
相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦のふんどしをそろいであつらえ、相撲甚句じんくに合わせて裸踊りとしゃれこもう、と。

幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てる。

ただ、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。

与太郎は、女郎じょおろ買いに行きたい一心。

鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。

そこで、かみさんの入れ知恵を。

与太郎、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込むという作戦に。

なんとか、これで全員そろった。

一同、その晩は、予定通りにどんちゃん騒ぎ。

お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めた。

驚いたのは、廓の連中一同。

特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪けさわという白い輪がぶーらぶら。

そこで
「あれは、実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。

そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。

残りは、全部きれいに振られた。

こうなると、おもしろくないのが「家来」連中。

翌朝。

ぶつくさ言いながら、殿さまを起こしに行く。

当人は花魁おいらんとしっぽり濡れて、
「起きたいけど花魁が起こしてくれない」
と、のろけまで言われて、踏んだり蹴ったり。

「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」

どうにもならなくて、「家来」は与太郎を寝床から引きずり出そうとする。

与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝ァ、帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。

「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。

東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンです。

上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。

東京では、この噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。

このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっています。

東京移植後間もなくの頃で、大阪の設定に近いことがわかります。

円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。

これを現行の形に改造したのは、大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)とみられます。

先の大戦後、この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。

それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。

江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。

かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船

こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称「住吉踊り」。

明治初期に東京で豊年斎梅坊主ほうねんさいうめぼうず(松本梅吉、1854-1927、初代かっぽれ梅坊主)が、願人坊主の大道芸だったかっぽれ芸をより洗練された踊りに仕上げて大流行しました。

新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。

尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。

尾崎紅葉は、「金色夜叉」で一世を風靡した明治の小説家です。

この作品、じつはアメリカの小説に元ネタがあったことがすでにわかっていますが、それは別の機会に記しましょう。

紅葉は、若気のいたりだったのでしょうか。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。

なんだか、わかったようなわからないような。

インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。

中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。

これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。

大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。

こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。

与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。

これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。

貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。

僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。

緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。

七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。

これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。

もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。

若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。

ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。

落語の格好の題材となる。

海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。

たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。

「ちん輪」という野卑な別題もある。

この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。

大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。

会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。

円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。

円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。

この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。

どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだし。いいかげんなものなんだなあ。

古木優

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おみたて【お見立て】落語演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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【どんな?】

志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸むしずが走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽もくべえだいじんに会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗ぜんでらしゅうで」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
養空食傷信士ようくうしょくしょうしんじ天保八年酉年てんぽうはちねんとりどし

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
天垂童子てんすいどうじ安政二年卯年あんせいにねんうどし
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしません。

武藤禎夫(1926-)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』に収載の「手くだの裏」とのこと。

武藤禎夫は朝日新聞在職中、「日本古典文学全書」を企画担当した編集者です。

その後、共立女子短大教授に転じました。専門はいちおう近世の舌耕芸。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺くるわばなしです。

現存でもっとも古いのは、「墓違い」と題した明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記。

ここでは、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。

林家彦いちなんかもそうやっていました。

現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)はじめ、多くの大看板が手がけました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼あいかたを選ぶことと掛けたものです。

「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎ぎゅうたろう)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町すみちょうの全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽傳』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。

杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸(石川清之助、1920-83)。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

                                                         『幕末太陽傳』☞

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