しにがみ【死神】落語演目




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

米津玄師も唸る幽冥落語の逸品。
元ネタはドイツ、はたまたイタリア由来とか。
ローソク使った寿命の可視化が真骨頂。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめたッ」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまったくらい。西本晃二『落語「死神」の世界』(青蛙房、2002年)です。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したのがイタリアのルイージ・リッチとフェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」で、この筋か、または、グリム童話「死神の名付け親」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴(源一郎、1841-1906、幕臣→劇作家、東京日日新聞社長、衆院議員)あたりから聞き込んで、落語に翻案したものといわれています。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。古来、日本にはこんなイメージがありません。日本では死神があんまり出てこないのです。

この噺で語られる死神はというと、ぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとったやせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

しかし、こんなのは日本文化にはなじまないもの。明らかに明治期に西洋から入ってきた死神の図像的な翻案です。

とはいえ、円朝は死神像をでたらめにこさえたわけでもありません。

江戸時代も後期になると、聖書を漢訳本で読んだ国学者たちの間で醸成していった西洋と日本の掛け合わせ折衷文化が庶民の日常にもじわじわと及ぼしてきます。

ついには、これまでの日本人がまったく抱いてこなかった「死を招く霊」が登場するのです。

たとえば、下図は『絵本百物語』(桃山人著、竹原春泉斎画、天保12年=1841年)の「死神」。このようにすっとんきょうな、乞食のようなじいさんのような姿の死神像も一例です。

日本の「死神」は古くからあまりイメージされてきていませんから、人々の心の中に一定のイメージがあるわけではありませんでした。

それでも「死神」というからには死を連想させるわけで、老人、病人、貧者の姿がおさまりよいのでしょう。異形のなりではありますが。

円朝の「死神」では、筋の上では西洋の翻案のためか、ギリシア風の死をつかさどる神とい、新しいイメージが加わっているようにも見えます。

日本では死神に対する誰もが抱く共通した図象イメージがなかったことが、円朝にはかえっておあつらえ向きだったことでしょう。

ローソクを人の寿命に見立てる考えなども、日本人にはまったくなかった発想でした。ここでの死神は、じつは、明治=近代の意識丸出しのそれなんですね。

「古典落語」といいながらも、大正期にできた噺までも許容しているわけです。

古典落語を注意深く聴いていると、妙に「近代」が潜り込んでいることに気づくときもあります。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家芸です。

明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味とユーモアが渾然一体で絶品でした。八五郎役は森川正太(新井和夫、1953-2020)。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」。昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承します。

先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意としました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、オチも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種でした。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のは、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。






  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

あたごやま【愛宕山】落語演目




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

京でだんなが野駆け。
かわらけ代わりに小判投げ。
見るや幇間が傘で降下。

あらすじ

ころは明治の初年。

だんなのお供で、朋輩ほうばい(仲間)の繁八や芸者連中とうちそろって京都見物に出かけた幇間の一八。

負けず嫌いで、なにを聞かれても
「朝飯前でげす」
と安請け合いをするのが悪い癖。

あらかた市内見物も済み、今度は愛宕山に登ろうという時に、だんなに、
「愛宕山は高いから、おまえにゃ無理だろう」
と言われたが、一八は
「冗談言っちゃいけませんよ。あたしだって江戸っ子です。あんな山の一つや二つ、朝飯前でげす」
と見栄を張ったばっかりに、死ぬ思いでヒイヒイ言いながら登る羽目になった。

弟弟子の繁八をなんとか言いくるめて脱走しようとするが、だんなは先刻お見通しで、繁八に見張りを言いつけてあるから、逃がすものではない。

おまけに、途中でだんなに
早蕨さわらびの 握り拳を振り上げて 山の横面 春(=張る)風ぞ吹く」
という歌を自慢げに披露したまではいいが、
「それじゃ、早蕨(芽を出したばかりの蕨)ってえのはなんのことだ」
と逆に聞かれて、シドロモドロ。

おかげで十円の祝儀をもらい損なう。

ようやく山頂にたどり着くと、ここでは、かわらけ投げが名物。

茶屋のばあさんから平たい円盤を買って、頂上からはるか下の的に向かって投げる。

だんなは慣れていて百発百中。

夫婦投げという二枚投げも自由自在だが、一八がまた「朝飯前」と挑戦しても、全くダメ。

そのうちだんな、酔狂にもかわらけの代わりに本物の小判を投げ始めたから、さあ一八は驚いた。

「もったいない」
と止めると、
「おまえには遊びの味がわからない」
と、とうとう三十枚全部放ってしまう。

拾った奴のものだと言うので、欲にかられた一八、だんなが止めるのも聞かばこそ、千尋の谷底目がけ、傘でふわりふわりと落下。血走りまなこで落ちていた三十枚全部かき集めた。

「おーい、金はあったかー」
「ありましたァー」
「全部てめえにやるぞー」
「ありがとうございますゥー」
「どうやって登るゥー」
「あっ、しまった」
「欲張りめ。狼に食われてしまえ」

奴さん、何を考えたか、素っ裸になると着物を残らすビリビリと引き裂き、長い紐をこしらえると、そいつを嵯峨竹に引っかけ、竹の弾力を利用して、反動で空高く舞い上がるや、
「ただいまっ」
「えらいっ、きさまを生涯贔屓ひいきにしてやるぞ」
「ありがとう存じますっ」
「金は?」
「あっ、忘れてきた」

【RIZAP COOK】

底本:八代目桂文楽

しりたい

黒門町!  【RIZAP COOK】

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)からの直伝で「黒門町」こと八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が継承し、磨きに磨いて、一字一句ゆるがない名人芸に仕上げました。

特に後半の、竹をたわめる場面は体力を要するので、晩年、侍医に止められましたが、文楽は最後まで「愛宕山」に固執したといいます。

ひいさん   【RIZAP COOK】

この噺に出てくるだんなは、文楽のパトロンだったひいさんこと樋口由恵ひぐちよしえがモデルです。

樋口由恵ひぐちよしえ(1895-1974)は山梨県増穂町(富士川町)出身の経営者。

大正期に上京、昭和初期に川崎陸送を創業し成功させた立志伝中の人です。

桂文楽の話を正岡容(1904-58)が聞き書きしてまとめた『芸談あばらかべっそん』(桂文楽、青蛙房、1957年→朝日ソノラマ文庫、1967→ちくま文庫、1992年)。

こんなくだりが載っています。以下、ご参考まで。

私を大へんひいきにして下すったお方のひとりに樋口由恵さんとおっしゃるお方がございます。「東京新聞」の須田栄先生をやせさせたような感じの方です。
お家は甲府で、お父さんは樋口半六という県会議員もなすった方で、御本業は運送屋さんで、お邸の中にレールまでしいてあるという、すばらしい御商売振りなんです。
丁ど、大地震のすぐあとでしたネ、各派が一しょになって焼けのこった山の手の席をうっているころのことでした。
私は芝の席がトリでしたが、四谷の喜よしへ向嶋の待合から電話がかかって来ましてネ、
「ぜひ来て下さいよ。来て下さらないと。そのお客さまが大へんなんです」
と、こうなんです。
ところが生憎そのときはカケモチが何軒もあるので、
「折角ですが今晩は伺えません」
そういって断わると、一、二日してまた電話が、今度は幇間(たいこもち)からかかって来て、
「師匠助けるとおもって来て下さいな。でないと我々が困るんです」
と、こういうんです。
「じゃあ伺いましょう。けど、あと三軒歩きますから十一時過ぎになりますが……」
「それでもいいから、とにかく一ぺん来て下さい」
それから席を二、三すませていったから、もう十二時ちかくでしょう。
そのじぶんですから或いは十二時過ぎていたかもしれませんが、
「今晩は……」
と入ってゆくと、その待合じゅうがシーンとしているんです。
女将もでて来なけりゃ、第一、階下でシャダレがふてくされて、二、三人ねそべっている。
ところへさっき電話をかけて来た幇間がでて来て、
「よく来てました。ヒーさんてえお客さまなんですがネ、この間の晩、師匠がおいで頂けなかったでしょう。そうしたら、ヤイてめえンとこじゃ文楽はよべねえのかって、芸者が引叩かれる、つねられる、だもンで今夜もみんなイヤがってアアやって寄付かないんですよ」
いわれて私もいささかコワクなりましたが、ソーッと二階へ上がっていって障子の穴から透き見をしてみると、成程、皿小鉢がこわれて、そのお客さまはうなだれて、
「ウーム……ウーム」
とうなっています。
「今晩は……」
そこで私が低くこういいながら入っていったら、とたんに一と目みて、
「ヨーッ来たな」
そのマー喜びようたらないんです。
「オイオイ師匠がみえたじゃないか。何をしているんだ。早くそこらを片付けろ片付けろ」
って、急いで女中たちに皿小鉢を片付けさせて、ガラッと一ぺんに世界が変わったように明るくなってしまったんです。
「オイ文楽さん、私は前から君のファン(というコトバはまだなかったでしょうが)なんだよ」
といった塩梅で御祝儀を下すって、その晩は泊ってゆけとおっしゃるんですが、私ははじめてのお客の前で不見転を買うのはいやだから御辞退したんだが、先方さんはすぐ妓をよんで下すっていて、
「じゃこの妓じゃ師匠の気に入らないんだろう。面食(めんく)いだネこの人は……」
てんで、次々とかえては三人もよんで、
とうとう女将が私を次の間によんで、
「師匠が泊って下さらないと、またヒーさんがお怒りになりますから」
てんで、それから私も心得てすぐひけ(寝る)てえことにしましたら、
「ハハーあの妓はきに入ったんだな」
てんで、大へんなごきげんでかえっていった。連中みんなはじめてホッとしたそうで、何しろ大へんな荒れようだったんだから、そりゃマーそうでしょうよ。

米朝の「愛宕山」  【RIZAP COOK】

文楽演出を尊重しながらも、いかにも大阪らしい「愛宕山」を演じて、これも十八番、名人芸です。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)始め上方バージョンでは、東京と異なり、大阪ミナミの幇間の一八と繁八が、京都・室町のだんなのお供で野駆のがけ(ピクニック)に出かけ、ついでに愛宕山に参詣を、となります。

だんながあまり大阪をくさす(ケチをつける)ので、腹を立てた二人が、だんながかわらけ投げをしているのを、「京の人間はシミったれやさかい、あんなもんしかよう放らん」と、いやみを言い、だんなが怒って小判を投げるという設定です。

同じ取り持ち稼業でも、大阪の幇間は決してイエスマンでなく、反骨精神旺盛だったようですね。

かわらけ投げ  【RIZAP COOK】

江戸でも、王子の飛鳥山、谷中の道灌山でさかんに行われていました。

日ぐらしは 壱文ずつが 飛んでいき
かわらけが 逸れて桜の 花が散り

春の行楽の風物詩でした。「日ぐらし」とは日暮らしの里。現在の荒川区日暮里あたりをさします。

京都の愛宕山  【RIZAP COOK】

京都市右京区上嵯峨北西部にあり、海抜は924m(3049尺)とけっこう高い山です。

京都市の北東の比叡山(848m)と並ぶ霊峰。

愛宕山は五つの峰(朝日山、大鷲峰、龍上山、高雄山、鎌倉山)からなる総称をいいます。

中国の五台山にならって、「愛宕五峰」「愛宕五坊」などと呼ばれました。

朝日峰の山頂には、本宮にイザナミを、若宮に火産霊神ほむすびのかみ(軻遇突智命かぐつちのみこととも)をまつる愛宕神社があります。

若宮の神はイザナミの子で、イザナミが出産した際にホト(陰部)をやけどしてしまい、その傷がもとで死んでしまいます。

怒ったイザナギは十拳剣とつかのつるぎでこの神を刺し殺します。

剣からしたたり落ちた血から神々が生まれました。すごい話です。

愛宕神社は、神仏習合(神祇信仰と仏教が融合した信仰形態)だった頃は白雲寺と呼ばれていました。明治初期の神仏分離令で廃寺となり、愛宕神社にさまがわりしました。

朝日峰  愛宕権現白雲寺→愛宕神社 変容存続
大鷲峰  月輪寺 存続 天台宗
高雄山  神護寺 存続 真言宗
龍上山  日輪寺 廃寺
鎌倉山  伝法寺 廃寺

ここは修験道の道場でもありました。

さらには、さえの神信仰(土地の境界を守る神への信仰)や陰陽道おんみょうどう、天狗信仰、勝軍地蔵しょうぐんじぞう信仰(軍神)、おまけに火の神を仰ぐところから火除ひよけの信仰も篤く、信仰の百貨店のようなさまでした。

火迺要慎ひのようじん」と記された愛宕神社の火伏せ札は、京都の台所や厨房に張られています。

「愛宕の三つ参り」として、三歳までにお詣りすると生涯火災に遭遇することがないと伝えられています。

重要なのは火伏せの神として尊崇されていることです。

明治期より前には、火除け、火伏せの神はより多く信仰されていました。

一年を通じてにぎわいましたが、特に、陰暦6月24日の愛宕千日詣では有名です。

京都の人々には「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山には月参り」とうたわれました。

火の神さまは愛宕神社以外には、秋葉山本宮秋葉神社(浜松市)を頂点とする秋葉神社や野々宮神社(京都市右京区、東京都港区など)でまつられています。

『都名所図会』には、「月ごとの縁日にも老人は皿竹輿さらかごをかりてたすけられ、婦人童子のわかちもなく、万仭のけわしきをいとわず、坂路の茶店に休らえば、白雲目の前を横とう。あるいは、土器なげに興じて足の重きを忘れる」とあるほど。

登山の途中で一八がひけらかす「早蕨の……」の狂歌は、当人が知っていたかどうかは定かではありませんが、大田南畝おおたなんぽ(1749-1823)の作です。南畝は蜀山人しょくさんじんのこと、江戸天明狂歌のパイオニアです。

東京の愛宕山は港区愛宕1丁目にありますが、こちらは京の愛宕大権現を慶長8年(1603)に勧請かんじょう(神仏の分霊をお願いして迎えること)しました。東京支店ですね。

かしくのこぼればなし  【RIZAP COOK】

「私はこれをかしく師匠(引用者注:二代目文の家かしく、のち三代目笑福亭福松。1884-1962)に習ったのですが『愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな』と言うと『行ったらやれんようになるで。この噺嘘ばっかりやさかい』と言われて……」 

『米朝ばなし 上方落語地図』(桂米朝、毎日新聞社→講談社文庫、1981年)

何度も記しますが、古い同題の上方噺を三代目円馬が東京風に脚色しました。

円馬から八代目桂文楽に伝わる。文楽のおはこでした。

東京の噺家が語る上方を舞台にした噺の一。

「三十石船」などほかにもありますが、中国人俳優が日本人役として登場するハリウッド映画のような珍妙ぶり。

愛宕山とは、もちろん京都のです。東京のではありません。

修験道の聖地です。山頂には愛宕神社があります。

「堀の内」の上方版「いらちの愛宕まいり」も、ここが舞台となっています。

茶店の傘  【RIZAP COOK】

この手の茶店には傘が常備されてありました。

そこからの発想なのでしょう。

借りたら返さなくてはいけないわけで、ということは、その店を再訪しなくてはいけないため、せちがらい現代社会には耐えられず、消えていく風習となっていったのですね。

ことばよみいみ
朋輩ほうばい仲間。友達
火産霊神ほむすびのかみ京都の愛宕神社の祭神。鍛冶、土器、消防、火の神。火が全てを浄化するところから祓いの神となる。全てを燃やし尽くすところからの発想で、物事を初期状態に戻す帳消しの神、リセットの神としても
軻遇突智命かぐつちのみこと火の神。『古事記』では「迦具土神」とある。イザナミノミコトが神生みの最後に生んだ神で,イザナミは陰部を焼かれて死に至る
十拳剣とつかのつるぎ神話に登場する剣の総称。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」などの表記も
皿竹輿さらかごかわらけなどを入れる竹で編んだかご
万仭 ばんじん七万尺。「仞」は七尺。とほうもない長さ




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

たぬさい【狸賽】落語演目



 




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

男、子狸にチョボイチのさいころに化けさせてどんな目でも出させる。
賭場とばで男は大当たり。最後の勝負では「目を読むな」と制される。
開いた目は五。男は「梅鉢だッ。天神さまだ」とやった。
勝負ッ。狸が冠かぶりしゃく持ってふんぞりかえってた。

別題:狸 たぬき賽(上方)

あらすじ

ある博打打ちの男。

誰か夜中に訪ねてきたので開けてみると、なんと子狸。

昼間、悪童たちにいじめられているのを男に助けられたので、その恩返しに来たのだという。

「なんでもお役に立つから、しばらく置いてください」
というので、家に入れて試してみると、なんにでも化けられるので、なるほどこれは便利。

小僧に化けて家事一切をやってくれたり、葉書を札に化けさせて、米をかすり取ってきたり。

そこで男が思いついたのが今夜の「ご開帳」。

チョボイチだから、狸をサイコロに化けさせて持っていけば、自分の好きな目が出放題、というわけ。

さっそく訓練してみると、あまり転がすと目が回るなどと、頼りないが、何とか仕込んで、勇躍賭場へ。

強引に胴を取ると、男が張る目張る目がみんな大当たりで、たちまち男の前には札束の山。

ところが、やたら
「今度は一だ」
「三だよッ、三だ三だ三だ」
などと、いちいちしつこく指示を出すので、一同眉に唾をつけ始める。

儲けるだけ儲けて退散しようとすると、最後の勝負というので先に張られてしまい、てめえが変なことを言うとその通りの目が出るから、もう目を読むなと釘をさされる。

開いた目は五。

五と言えないので、
「うーん、今度はなんだ、梅鉢だ。えー、まーるくなって、一つ真ん中になるだろ。加賀さまだ。加賀さまの紋が梅鉢で、梅鉢は天神さま。なッ。天神さまだよ、頼むぜッ」

「勝負ッ」
と転がすと、狸が冠かぶって、しゃく持ってふんぞりかえってた。

「この野郎!」

底本:五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん

しりたい

さまざまな狸噺  【RIZAP COOK】

原話は、宝暦13年(1763)刊の笑話本『軽口太平楽』中の「狸」です。

本来、軽く短い噺なので、「狸の札」「狸の釜」「狸の鯉」などの同類の狸噺とオムニバスで続ける場合があります。

「狸賽」を入れた四話をまとめて、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)のように「狸」と題することもあります。

それぞれ、狸が恩返しに来るという発端は共通していて、化けて失敗するものが違うだけです。

「狸の鯉」は、狸を鯉に化けさせ、親方の家に持っていくと料理されそうになり、「鯉」が積んだ薪を伝わって窓から逃げたので「あれが鯉の薪(=滝)のぼりです」と地口で落とすもの。

「狸の札」は、札に化けさせられ、相手のガマ口に入れられた狸が苦しくなって逃げ帰り、「ついでにガマ口の銭も持ってきました」というもの。

「狸の釜」は、釜に化けて和尚に売られた狸が火にかけられて逃げ出し、小坊主があれは狸だったと報告すると、「道理で半金かたられた」「包んだ風呂敷が八丈でございます」とオチるもので、狸の睾丸が八畳敷きというのと、布地の八丈縞を掛けたもの。

ぶんぶく茶釜伝説のパロディーです。

今では、あまり演じられません。

珍品、小さんの狸  【RIZAP COOK】

明治期では四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記があります。

五代目志ん生も得意にしましたが、代々の柳家小さん系に伝わる噺です。

まあ、三代目から五代目の小さんが、そろって狸に似ていたという縁もあるでしょうが。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が演じると、狸を助ける場面、狸とのやりとり、「サイン」を打ち合わせるくだりなどがわりにあっさり演じた志ん生に比べて詳しくて、特に、オチの部分を、笏を持った天神のしぐさで表現するのが特色でした。

その抱腹絶倒の表情は、いまだに記憶に強烈に残っています。

小さんは「狸の札」を「狸賽」のマクラに用い、つなげて演じることも多く、その際は「狸」の題名で演じていました。

志ん生の方は、同じ「狸」の演題でも、「狸の鯉」とつなげることが多かったようです。

五代目小さんの弟子筋を中心に、若手にもよく演じられる噺です。

チョボイチ  【RIZAP COOK】

一つ粒ともいいます。

サイコロ一つを使ってやる、きわめてギャンブル性の強いバクチです。

胴元の出した目に張ると、配当は四倍になります。

同じチョボでも狐チョボになると、サイコロ三つで勝負します。

志ん生が絶妙だった「今戸の狐」にも出てきます。隠語の「狐」がからみます。

上方では  【RIZAP COOK】

発端が、少し東京と異なります。

バクチに負けた旅人が、空腹のあまり狸塚に子供たちが供えたぼた餅をつまみ食いすると狸が現れて因縁をつけてきます。

もしサイコロに化けて自分の言う通りの目を出してくれたら、ぼた餅など山のように食わしてやる、と持ちかけ、狸の賽を持ってバクチ場へ行くという段取りです。

オチは小さんと同じく、天神さまのしぐさオチになります。

原話の『軽口太平楽』中の小咄では、こうです。

化け狸が住み着いた貸家に越してきた男を、狸がありとあらゆる妖怪に化けて脅しますが、いっこうに動じないので、とうとう根負けして降参。男の頼みを聞いてサイコロに化けることに。

オチは少し変わっています。

男が五の目を出させようと「梅の花、梅の花」と言うと、狸が勘違いして(梅に縁ある)ウグイスに化けてしまいます。

これがオチ。

「この野郎!」   【RIZAP COOK】

あらすじの最後の「この野郎!」は、五代目志ん生が加えたものです。

はっきりしたオチにはなっていません。

これだと噺がまだあとに続きそうで、すわりは悪いものの、印象に残るちょっとおもしろい終わり方ですね。




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

こんにゃくもんどう【蒟蒻問答】落語演目



葷酒山門に入るを許さずともいわず!?


  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

蒟蒻屋と托鉢僧との問答。
無言の話芸。
仕方噺の極致。

別題:餅屋問答(上方)

あらすじ

八王子在のある古寺は、長年住職のなり手がなく、荒れるに任されている。

これを心配した村の世話人・蒟蒻屋の六兵衛は、江戸を食い詰めて自分のところに転がり込んできている八五郎に、出家してこの寺の住職になるように勧めたので、当人もどうせ行く当てのない身、二つ返事で承知して、にわか坊主ができあがった。

二、三日はおとなしくしていた八五郎だが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、寺男の権助と二人でくだを巻いている。

金がないので
「葬式でもない日にゃあ、坊主の陰干しができる。早く誰かくたばりゃあがらねえか」
とぼやいているところへ、玄関で
「頼もう」
と声がする。

出てみると蘆白笠あじろがさを手にしたお坊さん。

越前永平寺の僧で沙弥托善しゃみたくぜんと名乗り、
「諸国行脚の途中立ち寄ったが、看板に『葷酒くんしゅ山門さんもんるを許さず』とあるので禅寺と見受けた、ぜひ、ご住職に一問答お願いしたい」
と言う。

なんだかわけがわからないが、権助が言うには、
「問答に負けると如意棒にょいぼうでぶったたかれた上、笠一本で寺から追い出される」
とのこと。

住職は留守だと追っ払おうとしたが、
「しからば、命の限りお待ち申す」
という。

大変な坊主に見込まれたものだと、八五郎が逃げ支度をしていると、やって来たのが六兵衛。

事情を聞くと、
「俺が退治してやろう」
と身代わりを買って出た。

「問答を仕掛けてきたら、黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないと言え。それで承知しやがらなかったら、せき払いを合図に飛びかかってぶち殺しちめえ」

翌日。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。

「法界に魚あり、尾もなく頭もなく、中の鰭骨きこつを保つ。大和尚、この義はいかに」

六兵衛もとより、なんにも言わない。

坊主、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧せっそうもと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。

十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。

三本の指にはアッカンべー。

托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げ出した。

八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と申すと『大海たいかいのごとし』というお答え。『十方世界じっぽうせかいは』と申せば『五戒ごかいで保つ』と仰せられ、『三尊さんそん弥陀みだは』との問いには『目の下にあり』。いや、恐れ入りました」

六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。ばかにしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、こォんなに大きいと言ってやった。十でいくらだと抜かすから、五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した沙弥托善  【RIZAP COOK】

この噺、千住焼き場の僧侶から落語家になったといわれる二代目林屋正藏(沢善正蔵、19世紀前半、三代目説も)が、嘉永年間(1848-54)に作ったものだそうです。

噺の中であやうく殺されかかる(?)旅の禅僧・托善(沙弥は出家し立ての少年僧のこと)は、正蔵の修行僧時代の名です。

原典については、このほかに、やはり禅僧出身の二代目三笑亭可楽(本名不詳、?-1847、中橋の→楽翁)とする説、もっとずっと古く、貞享年間(1684-88)刊の笑話本『当世はなしの本』中の「ばくちうち長老になる事」とする説もあります。

仏教と落語の深い関係  【RIZAP COOK】

「落語家の元祖」といわれる安楽庵策伝あんらくあんさくでん(平林平太夫、1554-1642)からして、浄土宗の高僧でしたし、「寿限無」「後生鰻」「宗論」など、仏教の教説に由来する噺は少なくありません。

仏教と落語の結びつきは、きわめて強いのです。

落語はもともと、浄土真宗の節談説教ふしだんせっきょう(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)から起こったといわれているのです。

関山和夫(1929-2013)の一連の著作が根拠となります。

前座、二つ目、真打ちなどという語も、節談説教の世界では当たり前のように使われていました。

明治後期、浅草の本願寺でたまたまその光景を覗いた四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)がびっくりしたという話は、それ以前のどこかの時点で仏教と落語のかかわりが途切れた証しでしょう。

とはいえ、落語協会会長だった(中澤信夫、1932-2017)が日蓮宗門の僧籍(中澤圓法)にあったのは、落語の伝統からして別に珍しいことではない、ということになります。

ビジュアルで楽しむ仕方噺  【RIZAP COOK】

「蒟蒻問答」では、後半の六兵衛と托善の禅問答は無言で、パントマイムのみになります。

このように、動作のみによって噺の筋を展開するものを「仕方噺しかたばなし」といいます。目で見る落語のことです。

いまなら、ビジュアル噺とでもいえば、伝わりがよいかもしれません。

愛宕山」「狸賽」「死神」「麻のれん」など、一部分に仕方噺を取り入れている噺は多いのです。

ただ、「蒟蒻問答」ほど長くて、しかもストーリーの重要部分をジェスチャーだけで進めるものは、ほかにありません。

苦肉の実況解説付き  【RIZAP COOK】

そのため、実際に寄席やテレビなど目の前で見ている客はいいのですが、レコードやラジオなどで耳だけで聞いていると、噺のもっともオイシイ部分で音声がとぎれてしまい、なにがなんだかわからなくなってしまいます。

そこで、この噺を得意にした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)がこの噺をラジオ放送したときは、苦肉の策で、なんと歌舞伎並みの同時解説がつきました。「山藤章二の志ん生ラクゴニメ」の音源も同じのを使っています。

このように手間がかかるためか、昔から「蒟蒻問答」のレコードや放送は数少なく、現在出ているCDは、志ん生、八代目正蔵のものくらいです。

ホントはくだらない禅問答  【RIZAP COOK】

噺では、六兵衛のジェスチャーを托善が勝手に誤解し、一人で恐れ入って退散してしまいますが、最初の「法界に魚あり……」は、魚という字から頭と尾(上下)を取れば、残るのは「田」。そこから、鰭骨きこつ(=中骨)、つまり|の部分を取り除けば、「日」の字になります。単なる言葉遊びです。これこそハッタリというものでしょう。

次の「十方世界じっぽうせかい」は、東、西、南、北、うしとら(北東)、たつみ(東南)、ひつじさる(南西)、いぬい(西北)の八方位に、上、下を加えた十の世界のことで、広大無辺の宇宙を表します。全世界をさします。

五戒ごかい」は禅の戒律(おきて)で、殺さない殺生戒せっしょうかい、盗まない偸盗戒ちゅうとうかい、エッチしない邪淫戒じゃいんかい、うそつかない妄語戒もうごかい、酒を飲まない飲酒戒いんしゅかい。その五つをさします。

葷酒山門に入るを  【RIZAP COOK】

葷酒くんしゅ山門さんもんるを許さず」は禅寺の表看板として紋切型ですね。

くん」とはネギやニンニなど臭気を放つ野菜のことです。以下は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の思い出話。

明治の昔、大阪の二代目桂文枝(渡辺儀助、1844-1916→桂文左衛門)が上京して、柳派の寄席に出演。ところがさらに、対立する三遊派の席にも出て稼ごうとすると止められました。楽屋内の張り紙に「文枝、三遊に入るを許さず」と。

ことばよみいみ
仕方噺しかたばなし動作の説明だけで筋を展開する噺
鰭骨きこつ魚のひれを支えている骨。中骨。「鰭」は「ひれ」
うしとら北東。音読みは「ごん」
たつみ東南。辰巳とも。音読みは「そん」
ひつじさる南西。音読みは「こん」
いぬい西北。音読みは「けん」
葷酒くんしゅネギやニンニなど臭気を放つ野菜(葷)と酒。禅寺では「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)とある。修行僧の心を乱すもととされるから




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ごうじょうきゅう【強情灸】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

筋よりも表情や仕方(しぐさ)が命。
演技力が問われるなかなかの噺です。

 

別題:やいと丁稚(上方)

【あらすじ】

ある男が友達に、灸をすえに行った時の自慢話をしている。

大勢の先客が、さぞ熱いだろうと尻込みする中で、自分の番がきたので、すーッと入っていくと、
「この人ァ、がまんできますかな」
「まあ、無理でしょう」
と、ひそひそ話。

癪にさわった強情者、
「たかが灸じゃねえか、ベラボウめ、背中で焚き火をするわけじゃああるめえ」
と、先生が止めるも聞かばこそ、一つでも熱くて飛び上がるものを、両側で三十二もいっぺんに火をつけさせて、びくともしなかったと得意顔。

それだけならいいが、順番を譲ってくれたちょっといい女がニッコリ笑って、心で「まあ……この人はなんて男らしい……こんな人をわが夫に」なんて思っているに違いないなどと、自慢話が色気づいてくるものだから、聞いているほうは、さあ面目ない。

「やい、豆粒みてえな灸をすえやがって、熱いの熱くねえのって、笑わせるんじゃねえや。てめえ一人が灸をすえるんじゃねえ。オレの灸のすえ方をよっく見ろっ」

よせばいいのに、左腕にモグサをてんこ盛り。

「なんでえ、こんな灸なんぞ……石川五右衛門てえ人は、油の煮えたぎってる釜ん中へ飛び込んで、辞世を詠んでらあ。八百屋お七ィ見ろい。火あぶりだ。なんだってんだ……これっぽっちの灸……トホホホホ、八百屋お七……火あぶりィ……石川五右衛門……お七……五右衛門……お七……五右衛門……」
「石川五右衛門がどうした」
「ウーン、五右衛門も、熱かったろう」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

「やいと丁稚」と「強情灸」

江戸っ子の熱湯好きと強情のカリカチュアなので純粋な江戸落語という印象がもたれますが、実は、上方落語「やいと丁稚」が東京に移植されたものです。

両者を比べると、かなりのニュアンスの相違、東西の気質の違いが明白です。

「やいと丁稚」は、商家の主人が丁稚にやいと(灸)をすえ、泣き叫ぶので自分ですえてみせますが、あまりに熱いので「辛抱でけんかったら、こうやって払い落としたらええのや」とポンポンとはたく仕種でオチになるもので、子供の手前強がってみせるだけで結局がまんもなにもしませんから、強情噺でもなんでもありません。

古い商家の日常の一コマを笑い飛ばしたに過ぎないはなしでしょう。

その点、東京の「強情灸」のほうは、かなりの落語的誇張があるとはいえやせがまんという、いかにも「武士は食わねど…」の町らしい江戸っ子気質が前面に出ていますから、いわば本歌取りでまったく新しい噺を作ったに等しいといえます。

だいいち、プラグマティストの大阪人から見れば、こんなたわいなく子供じみたガマンくらべなど、ただのアホとしか見えないのではないでしょうか。

志ん生、小さんの強情くらべ

五代目古今亭志ん生、ついで五代目柳家小さんの十八番で、どちらを聴いても四、五十年前までは生き残っていた爺さん連、銭湯で水をうめようとするとどなりつけたという下町気質の人々を思い起こさせます。

いずれにしても「見る」要素の強い噺で、だんだん表情が変わり、顔が真っ赤になっていくところが見せ場です。

短いので、マクラ噺として、熱湯に入った男が強情を張り、「あー、ぬるい、トホホホ、あんまりぬるいんで気が遠くなっちゃった」「うん、ぬるくて、足に湯が食いつくね」「ぬるいってのに、あー、なんだ、こっちを向くな。動くんじゃねえっ」(志ん生)という次第になる小咄を入れます。

有痕灸と無痕灸があり、有痕灸の方は皮膚に直接モグサを乗せるので熱く、わざと火傷を作ってその強烈な刺激で、血液中に免疫物質を作り出して治す、というのが一応の能書きです。

無痕灸はずっと穏やかで、皮膚にショウガ、ニンニク、ニラ、杏の種、味噌、塩などを塗り、その上にモグサを乗せるので、痕も残らず苦痛もありません。

当然、この噺の灸は前者の有痕灸で、これは普通の人間で一回に米粒大のを一つ、それを五回程度といいますから一度に三十二すえたときの熱さがどれほどのものか。

やるほうもやるほう、やらせるほうもやらせるほうで、これは焼身自殺に近い、狂騒曲のさまです。

モグサ

ヨモギを乾燥させて精製したもので、伊吹山の麓が本場です。

モグサ売りの口上は、「江州伊吹山のほとり柏原、本家亀屋左京、薬もぐさよろし」というもので、節を付けて売り歩きました。

初代亀屋左京は江戸に出て、吉原のお女郎さんに頼んでこの宣伝歌を広めてもらった、というのが桂米朝師匠の説。

彦六の強情話

強情で「トンガリ」の異名があった、八代目林家正蔵(彦六)は熱湯好きで、弟子を引き連れて湯に行ってもうめさせず、尻込みしていると「てめえたちゃあ、へえらねえと破門だぞ」と脅したという、弟子の林家木久扇演じる「彦六伝」の一節。

志ん生のSP

昭和18年(1943)6月、「がまん灸」と題してテイチクレコードからリリースされました。

志ん生の戦前のレコードはこれが最後で、金原亭馬生時代の昭和10年(1935)2月に発売された「氏子中」以来、14種出されています。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席