【柳田格之進】やなぎだかくのしん 落語演目 あらすじ


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【どんな?】


正直者でも魔がさす? 草彅剛主演で映画になりました!

 別題:碁盤割り 柳田の堪忍袋

あらすじ

もと藤堂家とうどうけの家臣、柳田格之進。

ゆえあって浪人し、今は浅草東仲町の、越前屋作左衛門地借りの裏長屋に、妻、娘の花との三人暮らし。

地主の作左衛門とは碁仇ごがたきで、毎日のように越前屋を訪れては、奥座敷で盤を囲んでいる。

ある日、いつものように二人が対局していると、番頭の久兵衛が百両の掛け金を革財布ごと届けにきた。

作左衛門、碁に夢中で生返事ばかり。

久兵衛はしかたなく、財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出る。

格之進が帰った後、作左衛門ふと金のことを思い出し、久兵衛に尋ねる。

「たしかに、だんなさまのおひざに置きました」

そんなことを言うばかり。

覚えがないので、座敷の隅々まで探したが、金は出てこない。

番頭は 「疑わしいのは、柳田さまだけ」 と言い出す。

「いくらふだんは正直でも、魔がさすことはある」

作左衛門が止めるのも聞かず、格之進の長屋に乗り込む。

疑われた格之進、浪人はしてもいやしくも武士、金子などに手を付けることはないと強く否定する。

久兵衛は脅す。

「どうしても覚えがないというなら、お上に訴え出て白黒をつけるよりないから、そのつもりでいてほしい」

お家に帰参が決まっているので、格之進は 「そんなことになれば、さしさわりが出るから、自分の名は出さないでくれ」 と頼むが、久兵衛は聞き入れない。

しばし考えた格之進。

「まことに申し訳ない。貧に迫られた出来心で百両盗んだ」

格之進は打ち明けた。

格之進は 「金は返すから明後日まで待ってくれ」 と頼み、代わりに武士の魂の大小を預けた。

二日後。

久兵衛が行ってみると、格之進は一分銀まじりで百両を手渡して 「財布はないので勘弁してくれ」 と言う。

久兵衛が帰ろうとすると、格之進は 「勘違いということがある。もしその百両が現れた場合、その方と、主人作左衛門殿の首を申し受けるが、よいか」

久兵衛は 「私も男。どんなご処分でも受けます」 と安請け合いを。

大晦日。

煤掃きの最中に、作左衛門が欄間の額の後ろを掃除しようとのぞくと、例の金包みが挟まっていた。

自分が小用に立ったとき、無意識に膝の包みをそこに挟んだと思い出したときは、もう手遅れ。

久兵衛が
「実は、金が出たらだんなの首がころげる手はず」
と打ち明けると、作左衛門は仰天。

作左衛門は、久兵衛をすぐさま格之進の家に向かわせる。

「金を返して、あれは町人風情の冗談でございます、と謝ってこい!」

あたふたとなる久兵衛。

今はお家に帰参した格之進を藤堂家上屋敷に訪ね、久兵衛は平謝り。

それを見た格之進。

「金は世話になった礼だ」

格之進は金を改めて返した。

「あの金は娘花が吉原松葉家に身を売って作ったもの。娘に別れるとき、もし金が出たら、憎い久兵衛と作左衛門の首を私にお見せください、と頼まれた。勘弁しては娘に済まん」

久兵衛はまたまた仰天。

久兵衛はあたふたと店に逃げ帰ると、後を追って格之進が乗り込んできた。

「申し訳ございません。この上はご存分に」
「かねてから約定の品、申し受ける」

格之進、かたわらの碁盤を取り、見事にまっ二つ。

「この品がなかったら、間違いは起こらなかったろう。以後は慎みましょう」

世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……。格之進碁盤割りの一席。

底本:三代目春風亭柳枝



しりたい

講談からの脚色か

別題は「柳田の堪忍袋」「碁盤割り」。講談から人情噺に脚色されたようですが、はっきりしません。

明治25年(1892)、「碁盤割」の題で『百花園』に掲載された三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)の速記が、唯一の古い記録です。

柳枝はマクラで「このお話は随筆にもあります」と断っているので、なんらかのネタ本があると思われます。未詳です。

志ん生好みの人情噺

明治期にはよく演じられていたようです。

昭和初期から先の大戦後にかけては、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の独壇場でした。

井戸の茶碗」と同系統の、一徹な武士(それも浪人)が登場する人情噺です。

三代目柳枝の速記のほかは、古い口演記録がありません。

例によって志ん生のほうは、いつどこで仕入れたのか不明の噺です。講釈師時代に聞き覚えたのかもしれません。

人情噺なので本来、オチはありません。志ん生が「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(=将棋)になった」という地口のオチをつけたことがあります。

ただし、これはめったに使わず、ほとんどは従来どおりオチなしで演じていました。

志ん生没後は、二人の息子、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)と、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)がやっていました。

志ん朝のものは音源もあります。ちくま文庫版に収載された速記では、ほぼ父親通りの演出です。

大団円の円楽版

五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が好んで演じました。

五代目円楽は、この後、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、生まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

碁盤

裏側の丸いくぼみは、待ったした者の首を載せるところ、という俗説があります。

浅草東仲町

台東区雷門1、2丁目にあたります。浅草寺門前で、今も昔も飲食店が多い繁華街です。

藤堂家

藤堂氏は武家の一族です。発祥地は、近江国犬上郡いぬかみぐん藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町こうらちょう在士ざいじ)。

戦国時代に藤堂高虎とうどうたかとら(1556-1630)が出て、家名を上昇させていきました。

この人ほど、転職回数の多かった武将はいないでしょう。たんに主君を替えたというだけなら、浅井長政→阿閉貞征あつじさだゆき→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→豊臣秀保→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光と、ゆうに11回も。

この頃は、まだ武士道なるものはありませんでした。生き残るための功利が優先されていました。

秀吉が天下と統一した直後の1591年には、藤堂高虎は伊予板島(愛媛県宇和島市あたり)と伊予今治(愛媛県今治市あたり)を領する大名となります。

家康が開幕すると、1608年には、伊賀上野(三重県伊賀市あたり)と伊勢津(三重県津市あたり)を領する津藩主へと転封された結果、大出世しました。代表的な外様大名です。

子孫は代々この地を領し、明治維新を迎えます。華族の伯爵家に列しました。


 



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