しにがみ【死神】落語演目




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【どんな?】

米津玄師も唸る幽冥落語の逸品。
元ネタはドイツ、はたまたイタリア由来とか。
ローソク使った寿命の可視化が真骨頂。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめたッ」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまったくらい。西本晃二『落語「死神」の世界』(青蛙房、2002年)です。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したのがイタリアのルイージ・リッチとフェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」で、この筋か、または、グリム童話「死神の名付け親」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴(源一郎、1841-1906、幕臣→劇作家、東京日日新聞社長、衆院議員)あたりから聞き込んで、落語に翻案したものといわれています。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。古来、日本にはこんなイメージがありません。日本では死神があんまり出てこないのです。

この噺で語られる死神はというと、ぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとったやせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

しかし、こんなのは日本文化にはなじまないもの。明らかに明治期に西洋から入ってきた死神の図像的な翻案です。

とはいえ、円朝は死神像をでたらめにこさえたわけでもありません。

江戸時代も後期になると、聖書を漢訳本で読んだ国学者たちの間で醸成していった西洋と日本の掛け合わせ折衷文化が庶民の日常にもじわじわと及ぼしてきます。

ついには、これまでの日本人がまったく抱いてこなかった「死を招く霊」が登場するのです。

たとえば、下図は『絵本百物語』(桃山人著、竹原春泉斎画、天保12年=1841年)の「死神」。このようにすっとんきょうな、乞食のようなじいさんのような姿の死神像も一例です。

日本の「死神」は古くからあまりイメージされてきていませんから、人々の心の中に一定のイメージがあるわけではありませんでした。

それでも「死神」というからには死を連想させるわけで、老人、病人、貧者の姿がおさまりよいのでしょう。異形のなりではありますが。

円朝の「死神」では、筋の上では西洋の翻案のためか、ギリシア風の死をつかさどる神とい、新しいイメージが加わっているようにも見えます。

日本では死神に対する誰もが抱く共通した図象イメージがなかったことが、円朝にはかえっておあつらえ向きだったことでしょう。

ローソクを人の寿命に見立てる考えなども、日本人にはまったくなかった発想でした。ここでの死神は、じつは、明治=近代の意識丸出しのそれなんですね。

「古典落語」といいながらも、大正期にできた噺までも許容しているわけです。

古典落語を注意深く聴いていると、妙に「近代」が潜り込んでいることに気づくときもあります。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家芸です。

明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味とユーモアが渾然一体で絶品でした。八五郎役は森川正太(新井和夫、1953-2020)。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」。昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承します。

先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意としました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、オチも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種でした。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のは、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。






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そうかん【宗漢】演目

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【どんな?】

古代中国が舞台のバレ噺。
戦国七雄を題材にしても所詮はね。

別題:薬籠持ち

あらすじ

中国は、魏の国の宗漢という医者。

この先生、名医だが大変に貧乏で、日本でいうと裏長屋住まい。

ある雨の日、玄関先で
「お頼み申します」
という声がするので出てみると、
「楚の国からはるばるやってきたものだが、主家のお嬢さまが長い病で難渋しているので、先生にぜひお見舞いを願いたい」
と言う。

先生大喜びで、二つ返事で引き受けたものの、金がないのでお供の者も雇えない。

そこで、やむなく細君を連れていくことにしたが、医者が女の供を連れていては外聞が悪いので、細君を男装させ、長旅をして楚までやってきた。

先方に着くと、下へも置かない大歓迎。

お茶を出されても、細君の方は返事をするとバレるので、おっかなびっくり下を向いているばかり。

見舞ってみると、さほどたいしたことはないので、薬を与えて帰ろうとすると、日はとっぷりと暮れなずみ、折しも大雨が降りり出した。

いくら待っても、やむ気配がない。

恐縮した主人が、一晩泊まっていくようにすすめるので、宗漢先生もその気になったものの、この家ではあいにく、夜具を洗濯に出してしまって余分なものが今ない、という。

そこで、
「まことに申し訳ないことながら、先生は十一歳になる息子と寝ていただき、お供の方は、手前の家の下男とかじりついて、肌と肌とを押しつけて寝ていただくと温かでございます」
ときたので、先生は仰天した。

今さら自分の女房だと言うわけにもいかず、とうとうその晩は心配のあまり、まんじりともせず夜を明かした。

翌朝。

宗漢夫婦が帰ったあと、例の十一歳の息子が
「お父さん、昨夜ボク、あのお医者さんと寝たでしょ。あのオジサン、貧乏だね」
「なぜ」
「フンドシしてなかったよ」

それを聞いていた下男が
「そりゃそうだろう。あのお供なんか、金玉がなかったからな」

うんちく

戦国七雄 【RIZAP COOK】

魏、楚ともに、紀元前4-3世紀に割拠した戦国七雄。

魏は山西省南部から河南の北部一帯にかけて、楚は揚子江中流一帯を占めていました。隣国とはいえ、日帰りなどとてもできませんが、時空間をものともしないのが落語の落語たるところです。

細君に男装 【RIZAP COOK】

なんのことはなく、かんざしを抜かせただけです。

昔、中国では男女とも、服装から髪型からまったく同じで、これでは困るというので、女には目印として簪を付けさせたというのがこの噺の前提ですが、もちろん、噺家のヨタを真に受けられては困ります。

少年愛も隠れている噺 【RIZAP COOK】

原話は不詳。四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が明治28年(1895)8月、『百花園』に寄せた速記以後、内容が内容だけに演者の記録はもちろんありません。

薬籠やくろう持ち」と題して、バレ小咄として演じるときは、宗漢を日本の医者で、前田宗漢とかなんとかもっともらしい名前にし、薬籠(薬箱)持ちの下男をクビにしたばかりなので、しかたなくかみさんを男装させて出かけることにしています。

その場合、中国のようにはいかないので、ちゃんと男の着物を着せ、頭には頭巾ずきんをかぶせて、下男に化けさせています。

往診先は山向こうの村の金持ちで、医者は診察したばかりの子供といっしょに寝かされます。

オチは、貧乏医者で「金がない」というダジャレを含んでいますが、勘ぐれば少年愛のにおいまでする噺ではあります。

【語の読みと注】
魏 ぎ
楚 そ



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くまのかわ【熊の皮】落語演目



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【どんな?】

甚兵衛が先生に。
「女房がよろしく申してました」
思わずニヤリの艶笑噺。

別題:八百屋

【あらすじ】

横町の医者から、祝い事があったからと、赤飯が届けられた。

その礼に行かなければということで、少し人間のネジがゆるみ加減の亭主の甚兵衛に、女房が口上を教える。

「うけたまわれば、お祝い事がありましたそうで、おめでとう存じます。お門多のところを、手前どもまで赤飯をちょうだいしまして、ありがとう存じます。女房からくれぐれもよろしく申しました」

「おまえさんはおめでたいから、決して最後のを忘れるんじゃない。それからあの先生は道具自慢だから、なにか道具の一つも褒めといで」
と注意されて送り出される。

まあ、おなじみの与太郎ほどではないから、
「ありがとう存じます」
まではなんとか言えたが、肝心の 「女房が」 以下をきれいに忘れてしまった。

「はて、まだなにかあったみてえだが……」

座敷へ上げてもらっても、まだ首をひねっている。

「……えー、先生、なにかほめるような道具はないですか」
「ナニ、道具が見たいか。よしよし、……これはどうだ」
「へえ、こりゃあ、なんです」
「珍品の熊の皮の巾着だ」

なるほど本物と見えて、黒い皮がびっしりと生えている。

触ってみると、丸い穴が二か所開いている。鉄砲玉の痕らしい。

甚兵衛、感心して毛をなでまわしている間に、ひょいとその穴に二本の指が入った。

「あっ、先生、女房がよろしく申しました」

【しりたい】

触るものはいろいろ

原話は安永2年(1773)刊の笑話本『聞上手』中の「熊革」ですが、その他、同3年刊『豆談語』、同5年刊『売言葉』、同8年刊『鯛味噌津』など、複数の出典に類話があります。

男が最後になでるものは、「熊革」ではたばこ入れですが、のちに胴乱(腰に下げる袋)、熊の敷皮など、いろいろ変わりました。

前出の『売言葉』中の「寒の見まい」では敷皮になっていて、現在ではほぼこれが定着しています。

エロ味を消す苦心

五代目柳亭左楽(中山千太郎、1872-1953、八代目桂文楽の師匠)、六代目蝶花楼馬楽(河原三郎、1908-87)、六代目三升家小勝(吉田邦重、1908-1971、右女助の、糀谷の)など、かつてはどちらかというとマイナーで「玄人好み」の落語家が手掛けた噺でした。

二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)、柳家喜多八(林寬史、1949-2016、殿下)などもやっていました。おふたりとも、故人になられているのがじつにもう残念でありますが。

この程度の艶笑噺でも、やはり公ではそのままはやりにくいとみえ、昔からエロ味を消した、当たりさわりのないオチが工夫されています。

たとえば、同じ毛皮を触るやり方でも、女房が亭主のスネ毛を引っ張ったので、後でその連想で思い出したり、熊の皮は尻に敷くものだと言われて初めて「女房がよろしく……」となったり、演者によっていろいろですが、いずれもおもしろくもなんともなく、味も素っ気もありません。

医者と巾着

昔の医者は、往診の際に巾着を薬入れに使ったため、それがオチの「小道具」として用いられるのがいちばん自然ですが、現在では理解されにくくなっています。

隠語では巾着は女性の局部を意味するので、特別な会やお座敷で艶笑噺として演じる場合は当然、オチに直結するわけです。

鉄砲玉の痕をくじるやり方はかなり後発のものらしく、安永年間のどの原話にも見られません。

たばこ入れ、巾着、敷皮と品は変わっても、すべてなめし革ではなく、毛のびっしり付いたものですから触るだけでも十分エロチックで、穴まで出すのは蛇足なばかりか、ほとんどポルノに近い、えげつない演出といえます。



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およぎのいしゃ【泳ぎの医者】落語演目

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【どんな?】

藪医者の処方で娘が死んでしまった。
うらまれた医者はなにを思ったのか。

別題:畳水練

【あらすじ】

ある村の大農、作右衛門が留守の間に、娘の具合が悪くなったので、作男の太助が、隣に越してきたばかりの山井養仙という医者を呼んできた。

ところがこの先生、腕の方は怪しげだというので、女房は気が進まない。

太助が名人だからと勧めるので、それでは取りあえず診てもらうことにし、病間を通すと、養仙先生、おもむろに脈をとり、薬籠から煎じ薬を取り出して調合すると、
「また翌朝来る」
と言って帰っていく。

さっそく、薬を病人に飲ませると、一服目は気のせいか、効いたように思ったが、二服目でたちまち舌がつり、唇の色が変わって、ブルブルっと震えたのが、この世の名残り。

哀れ、はかなく息は絶えにけり。

あの医者に殺されたと大騒ぎの最中に、ちょうど江戸から主人の作右衛門が戻ってきた。

太助と女房からいきさつを聞いて、さあ怒るまいことか。

見ると、熱のあるところへ劇薬を飲ませたとみえて、娘の体は焼けただれて斑になっている。

「あの医者が娘を焼き殺したんだから、水責めにしてくれべえ」
といきり立ち、太助に娘は全快しましたので、主人から一言お礼を申したい、とだまして連れてくるように言いつける。

なにも知らずに、礼金の勘定をホクホク顔で現れた養仙。

変わり果てた死体を見せられて、びっくり仰天。

そこを作右衛門が胸ぐらつかんで締め上げ、
「こら、よくもハァ、おらの娘おっ殺したな。太助、ぶっぱたけ」

主人の仇とばかり、太助がポカポカポカ。

「荒縄でグルグル巻きにして、川ん中ぶっぽり込めェ」

氷が張った川の中に放り込まれた。

もがいているうち、ブツリと縄が切れたが、あいにく、先生泳ぎを知らない。

溺れながらようやく向こう岸にたどりつくと、先回りした二十人ほどに、またポカポカポカ。

自業自得とはいえ、コブだらけ泥まみれでようやく、ほうほうのていで家にたどりつく。

「こ、これ、せがれ」
「どうなさいました」
「なんでもよろしい。所帯道具を持って早く逃げろ。コレ、なにをしておる」
「はい、名医になりたいと思って、医学を学んでおります」
「なに、医者になるには、泳ぎを先に習え」

底本:初代三遊亭円左

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【しりたい】

元ネタは中国笑話

原話は、中国明代の笑話集『笑府』巻四、方術部の「学游水」です。

「方術部」は、藪医者やエセ易者などを徹底的にやっつけた小咄を集めたもので、毒が効いていて、なかなか笑えるものが多いのですが、「学游水」は、文字通り「泳ぎのけいこ」の意味。

短い小咄ですが、落語の後半とほぼ一致していて、患者を「医療過誤」で殺した藪医者が、怒った遺族に縛られますが、夜中にそっと脱出、川を泳ぎ渡って逃げ帰ります。帰ると、息子が「脈訣」という医書を読んでいたので、「これ、せがれ、医者は読書より、泳ぎの稽古だ」。

読み比べておわかりのとおり、落語は、これにくすぐりを入れ、肉付けしただけです。

円朝「畳水練」

落語への翻案時期などはいっさい不明ですが、「畳水練」の題で、三遊亭円朝が速記を残していて、春陽堂版「円朝全集」(1928年刊)にも掲載されています。もちろん、岩波書店版にも。

演題の「畳水練」は、実際にはまったく役立たない、ムダな練習や勉学の意。

この場合、医者にとって必須のはずの医書の勉強はヤブにとってはむしろまったくの「畳水練」で、医者の見過ぎ世過ぎのためには、非常脱出用の水泳の練習の方がよっぽど実利的だ、という、なんとも逆説的で、痛烈な皮肉を含んでいるわけです。

なにやら、現代の医者にも当てはまりそうなので、シャレになりません。

円朝「雨夜の引窓」

円朝は、この「畳水練」を、「雨夜の引窓」という噺とともに師匠の二代目三遊亭円生(1806-62)から伝えられたと書き残しているので、この噺は創作をよくした、二代目円生の手になる可能性があります。

今回のあらすじは、円朝から直伝で継承した初代三遊亭円左の、「泅(およぎ)の医師」と改題した明治33年(1900)の速記を参照しましたが、両者にほとんど違いはありません。明治33年は円朝の没年でもあります。円左も、その後ほとんど演じたことはなかったようです。

それきり消えると思いきや、大正初期に初代柳家小せんが発掘して演じ、以来、再び埋もれていたものを円窓が「再」復活しました。

山井養仙

やまいようせん。「甘井羊羹」とともに、典型的な落語世界の藪医者名です。むろんダジャレで、「病よう治せん」なので、上方からきたものでしょう。

「甘井羊羹」の方は、藪医者のさじ加減が羊羹のように甘いこととあまりにお呼びがかからないので、往診用の黒の羽織が、タンス焼けして羊羹色に変色している、という嘲笑を掛けたものです。

江戸時代は、事実上、インチキ医者は野放し状態。

もちろん、免許や資格などはなく、当人が医者を名乗れば、それで通ってしまう、ものすごさでした。

医師が数年の猶予期間の後、免許制になったのはやっと明治9年(1876)1月のことです。

ヤブの反対に、明治を代表する名医には、初代陸軍軍医総監に任命された松本順を始め、近代日本の衛生学の草分け、長與専斎、大隈重信の右足切断手術で知られる佐藤進、多くの政府高官や、明治の両名優、団菊の侍医を務めた橋本綱常(1909年没)などが挙げられます。

円左の速記中には佐藤、橋本の名があり、いかにも時代を感じさせます。

円左のくすぐり

●冒頭で、お百姓が寄ってたかって「江戸の名医」の噂

「先だってほかいが難産で、こう赤子が手エ出した。すると肩がつかえて、どうしても出ねえ。その医者どんが、袂から銭ィ出して、赤子に握らしたア…すると、赤子が手エ引っ込まして、子返り(=逆子)して産まれただ。出てくると、先生の前に手をついてお辞儀ィしただ」

江戸の小咄でも医者を風刺したものはそれこそ掃いて捨てるほどあります。医者は信用ならない職業だったようです。

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きんたまいしゃ【金玉医者】落語演目

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【どんな?】

「娘がアゴを」「そりゃ、薬が効きすぎた」 。バレ噺の軽めなやつですね。

別題:顔の医者 すが目 皺め 頓智の医者 娘の病気 藪医者(改作)

あらすじ

甘井ようかんという医者。

飯炊き兼助手の権助と二人暮らしだが、腕の方はまるっきりヤブだということが知れ渡ってしまっているので、近所ではかかりに来る患者は一人もいない。

権助にも
「誰でも命は惜しかんべえ」
とばかにされる始末。

これでは干上がってしまうと一計を案じ、権助に毎日玄関で
「日本橋の越後屋ですが、先生のご高名を承ってお願いに」
などと、景気のいい芝居をさせ、はやっているふりをして近所の気を引こうとするのだが、口の減らない権助が、人殺しの手伝いをするようで気が引けるのだの
「越後屋ですが、先月の勘定をまだもらわねえ」
などと大きな声で言うので、先生、頭を抱えている。

そんなある日。

八丁堀の大店・伊勢屋方から、娘が病気なので往診をお願いしたいと使いが来る。

今度は正真正銘本物、礼金はたんまりと、ようかん先生勇み立ち、権助を連れて、もったいぶった顔で伊勢屋に乗り込む。

ところが、いざ脈を取る段になると、娘の手と猫の手を間違えたりするので、だんなも眉に唾を付け始める。

娘は気鬱の病で、十八という、箸が転んでもおかしい年頃なのに、ふさぎこんで寝ているばかり。

ところが不思議や、ようかん先生が毎日通い出してからというもの、はじめに怪しげな薬を一服与えて、後は脈をみるとさっさと帰ってしまうだけなのに、娘の容体が日に日によくなってきたようす。

だんなは不思議に思って、どんな治療をしているのか尋ねてみると、答えがふるっている。

「病人は、薬ばかり与えてもしかたがない。ことにお宅の娘さんは気の病。これには、おかしがらせて気を引き立てる。これが一番」

なんと、立て膝をして、女がふだん見慣れない金玉をチラチラ見せるという。

だんな、仰天したが、現に治りかけているので、それでは仕上げはおやじの自分がと、帰るとさっそく
「これ、娘や、ちょっと下を見てごらん」

ひょいと見ると、ふだん先生は半分しか見せないのに、今日はおとっつぁんがブラリと丸ごとさらけ出しているから、娘は笑った拍子にアゴを外してしまった。

「先生、大変です。これこれで、娘がアゴを」
「なに、全部出した? そりゃ、薬が効きすぎた」

底本:三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

エロ味を消した改作  【RIZAP COOK】

今でこそ、この程度はたわいない部類ですが、戦前は検閲も厳しく、師匠方はアブナい部分をごまかそうと四苦八苦したようです。

たとえば、四代目柳家小さんは前半の権助とのやり取りで切って「藪医者」と題しました。五代目小さんもこれにならっています。

その他、「顔の医者」と題して百面相をしてみせるやり方もよくあり、現在でもこの演出が多くなっています。

無筆!? ようかん先生  【RIZAP COOK】

明治の三代目小さんは「皺め」の題名で演じましたが、その前に、源さんなる患者がやってきて、医者と滑稽なやり取りをする場面を付けています。

ようかん先生は按摩上がりで字が読めないので、絵で薬の上書きを付けているという設定で、チンが焚火を見てほえている絵だから「陳皮」、蚊が十匹いて、狐がいるから「葛根湯(かっこんとう)という具合。

明治9年(1876)1月、医師が免許制になるまで、いかにひどい代物が横行していたかがわかります。五代目小さんもこのネタを短くし、マクラに使っていました。

落語の藪医者  【RIZAP COOK】

落語に登場の医者で、まともなのはほとんどいません。そろいもそろって、「子ゆえの 闇に医者を 呼ぶ医者」と川柳でばかにされる手合いばかりです。

名前もそれ相応に珍妙なのばかりで、今回登場の「甘井ようかん」は、さじ加減(見立て)が羊羹のように甘いというのと、あまりお呼びがかからないので黒の羽織が脱色して羊羹色(小豆色)になっているのをかけたもので、落語のやぶ医者では最もポピュラーです。

ただ、名前は演者によって適当に変わり、この噺でも明治の三代目柳家小さんの速記では「長崎交易」先生となっています。

「山井養仙(=病よう治せんのシャレ)」や「藪井竹庵」などもありますが、ケッサクなのは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)が「姫かたり」で使っていた「武見太郎庵」でした。

いまどき、これを使ったところで誰が笑うのかは心もとないかぎりですが、談志はうまいところを突きます。藪井と武見の等価交換とは。

武見太郎(1904-83)なる人物は慶応出の医師、熱心な日蓮宗の信者にして、25年にわたり日本医師会の会長(1957-82)をつとめました。防衛医大や東海大医学部の創設ばかりか、早稲田医学部の阻止でも知られます。法華だけに祖師(=阻止)には篤かった。

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だいみゃく【代脈】落語演目

スヴェンソンの増毛ネット

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【どんな?】

寄席草創期の古い噺。昨今のパンデミック風潮に好機の医療ものかも。

【あらすじ】

江戸中橋の古法家である尾台良玄は名医として知られていた。

弟子の銀南は師に似つかわぬ愚者で色情者。

ある日のこと。

良玄が、病に伏せている蔵前の大店、伊勢屋のお嬢さまのもとに代脈に行くよう、銀南に命じた。

銀南は、代脈を材木と聞き違え
「かついでまいりますか、しょってまいりますか」
と尋ねるほどのまぬけぶり。

良玄「この間のこと、お嬢さまはどういう具合かひどく下っ腹が堅くなっておった。しきりに腹をさすって、下腹をひとつグウと押すと、なにしろ年が十七で」
銀南「へえ」
良玄「プイとおならをなすった。お嬢さまがみるみるうちに顔が赤くなって恥ずかしそうだ。そこは医者のとんちだ。そばの母親に『陽気のかげんか年のせいで、この四、五日のぼせて、わしは耳が遠くなっていかんから、おっしゃることはなるたけ大きな声でいってくださいまし』と話しかけて、お嬢さまを安心させた。そんなことにならぬよう、下腹などさわるでないぞ」

良玄は十分に注意を与え、銀南を若先生ということにして、代脈に行かせた。

銀南は伊勢屋でしくじりを重ねたあげく、手、舌などを見る。

しまいには、お嬢さまの下腹を押してしまう。

「プイッ」

お嬢さまが、みるみる赤い顔に。

銀南は良玄をまねて
「どうも年のせいか四、五日耳が遠くなって」
とやったはいいが、手代に
「大先生も二、三日前にお耳が遠いとおっしゃってましたが、若先生も」
といわれ、銀南は
「いけないとも。ちっとも聞こえない。いまのおならさえ聞こえなかった」

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【うんちく】

大看板好み与太郎噺 【RIZAP COOK】

文化年間(1804-18)、寄席の草創期から口演されてきたらしい、古い噺です。

銀南は医者見習いというものの、実態は与太郎そのもの。

昔から、ごく軽い与太郎物として扱われ、前座・二つ目の修行噺でもあるのですが、受けるネタだからか、大看板も多く好み、現在もよく高座に掛けられます。

古くは、明治45年(1912)の四代目柳家小三治(のち二代目柳家つばめ)や初代柳家小せんの速記があります。

戦後では、六代目三遊亭円生、五代目柳家小さんの大立者が音源を残しています。

昭和56年(1981)4月、文京区千石にあった三百人劇場での「志ん朝七夜」で演じた「代脈」は圧倒的な技量でした。

もちろん、古今亭志ん朝のこと。どの師匠のよりも、吹っ切れた明るさとスピード感、冴えた舌耕で、客席を笑いの渦に巻き込んでいました。

実話、屁の功名 【RIZAP COOK】

後半の屁の部分の原話は、室町後期の名医、曲直瀬道三まなせどうさん(1507-94)の逸話を脚色した寛文2年(1662)刊『為愚癡物語いぐちものがたり』巻三の「翠竹道三物語りの事」、さらにそれを笑話化した元禄10年(1697)刊『露鹿懸合咄つゆとしかかけあいばなし』巻二の「祝言」です。

後者は、道三がさるうつ病の姫君を診察した際、姫が一発やらかしたので、音が自分の耳に入ったと知ればいよいよ落ち込んで薬効もなくなると機転を利かせ、耳が遠くなったので筆談で症状を言うように仕向けて見事精神的ケアに成功、本復させたというものです。

良玄の自慢話そのものですが、してみると、これは実話を基にしていることになります。

銀南が代脈に行かされる前半の原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』二編中の「代脈」です。

これは、あらすじでは略しましたが、銀南が駕籠の中で寝込んでいるところを、病家の門口で駕籠屋に起こされ、寝ぼけて「ドーレ」と言うくすぐりがあり、その部分のほぼそのままの原型です。

古法家 【RIZAP COOK】

概して漢方医のことですが、特に、漢や隋代の古い医学書に基づいて治療を行う、保守的な学派の医者を指します。

これに対し、元代に起こった、比較的新しい漢方医学を標榜する医者を後世家と呼びました。

中橋 【RIZAP COOK】

いまの東京駅八重洲中央口あたりです。昔はこのあたりに楓川かえでがわ掘割ほりわりがあり、日本橋の大通りと交差するところに中橋が架かっていました。

掘割が安永3年(1774)に埋め立てられると同時に橋も廃され、一帯の埋立地に中橋広小路町が形成されました。

中橋の橋詰は、寛永元年(1624)、猿若勘三郎が初めて芝居の興行を許された、江戸歌舞伎発祥の地でもあります。

【語の読みと注】
古法家 こほうか:漢方医
曲直瀬道三 まなせどうさん
後世家 こうせいか

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