【泳ぎの医者】およぎのいしゃ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
藪医者の処方で娘が死んでしまった。
うらまれた医者はなにを思ったのか。
別題:畳水練
【あらすじ】
ある村の大農、作右衛門が留守の間に、娘の具合が悪くなったので、作男の太助が、隣に越してきたばかりの山井養仙という医者を呼んできた。
ところがこの先生、腕の方は怪しげだというので、女房は気が進まない。
太助が名人だからと勧めるので、それでは取りあえず診てもらうことにし、病間を通すと、養仙先生、おもむろに脈をとり、薬籠から煎じ薬を取り出して調合すると、
「また翌朝来る」
と言って帰っていく。
さっそく、薬を病人に飲ませると、一服目は気のせいか、効いたように思ったが、二服目でたちまち舌がつり、唇の色が変わって、ブルブルっと震えたのが、この世の名残り。
哀れ、はかなく息は絶えにけり。
あの医者に殺されたと大騒ぎの最中に、ちょうど江戸から主人の作右衛門が戻ってきた。
太助と女房からいきさつを聞いて、さあ怒るまいことか。
見ると、熱のあるところへ劇薬を飲ませたとみえて、娘の体は焼けただれて斑になっている。
「あの医者が娘を焼き殺したんだから、水責めにしてくれべえ」
といきり立ち、太助に娘は全快しましたので、主人から一言お礼を申したい、とだまして連れてくるように言いつける。
なにも知らずに、礼金の勘定をホクホク顔で現れた養仙。
変わり果てた死体を見せられて、びっくり仰天。
そこを作右衛門が胸ぐらつかんで締め上げ、
「こら、よくもハァ、おらの娘おっ殺したな。太助、ぶっぱたけ」
主人の仇とばかり、太助がポカポカポカ。
「荒縄でグルグル巻きにして、川ん中ぶっぽり込めェ」
氷が張った川の中に放り込まれた。
もがいているうち、ブツリと縄が切れたが、あいにく、先生泳ぎを知らない。
溺れながらようやく向こう岸にたどりつくと、先回りした二十人ほどに、またポカポカポカ。
自業自得とはいえ、コブだらけ泥まみれでようやく、ほうほうのていで家にたどりつく。
「こ、これ、せがれ」
「どうなさいました」
「なんでもよろしい。所帯道具を持って早く逃げろ。コレ、なにをしておる」
「はい、名医になりたいと思って、医学を学んでおります」
「なに、医者になるには、泳ぎを先に習え」
底本:初代三遊亭円左
【しりたい】
元ネタは中国笑話
原話は、中国明代の笑話集『笑府』巻四、方術部の「学游水」です。
「方術部」は、藪医者やエセ易者などを徹底的にやっつけた小咄を集めたもので、毒が効いていて、なかなか笑えるものが多いのですが、「学游水」は、文字通り「泳ぎのけいこ」の意味。
短い小咄ですが、落語の後半とほぼ一致していて、患者を「医療過誤」で殺した藪医者が、怒った遺族に縛られますが、夜中にそっと脱出、川を泳ぎ渡って逃げ帰ります。帰ると、息子が「脈訣」という医書を読んでいたので、「これ、せがれ、医者は読書より、泳ぎの稽古だ」。
読み比べておわかりのとおり、落語は、これにくすぐりを入れ、肉付けしただけです。
円朝「畳水練」
落語への翻案時期などはいっさい不明ですが、「畳水練」の題で、三遊亭円朝が速記を残していて、春陽堂版「円朝全集」(1928年刊)にも掲載されています。もちろん、岩波書店版にも。
演題の「畳水練」は、実際にはまったく役立たない、ムダな練習や勉学の意。
この場合、医者にとって必須のはずの医書の勉強はヤブにとってはむしろまったくの「畳水練」で、医者の見過ぎ世過ぎのためには、非常脱出用の水泳の練習の方がよっぽど実利的だ、という、なんとも逆説的で、痛烈な皮肉を含んでいるわけです。
なにやら、現代の医者にも当てはまりそうなので、シャレになりません。
円朝「雨夜の引窓」
円朝は、この「畳水練」を、「雨夜の引窓」という噺とともに師匠の二代目三遊亭円生(1806-62)から伝えられたと書き残しているので、この噺は創作をよくした、二代目円生の手になる可能性があります。
今回のあらすじは、円朝から直伝で継承した初代三遊亭円左の、「泅(およぎ)の医師」と改題した明治33年(1900)の速記を参照しましたが、両者にほとんど違いはありません。明治33年は円朝の没年でもあります。円左も、その後ほとんど演じたことはなかったようです。
それきり消えると思いきや、大正初期に初代柳家小せんが発掘して演じ、以来、再び埋もれていたものを円窓が「再」復活しました。
山井養仙
やまいようせん。「甘井羊羹」とともに、典型的な落語世界の藪医者名です。むろんダジャレで、「病よう治せん」なので、上方からきたものでしょう。
「甘井羊羹」の方は、藪医者のさじ加減が羊羹のように甘いこととあまりにお呼びがかからないので、往診用の黒の羽織が、タンス焼けして羊羹色に変色している、という嘲笑を掛けたものです。
江戸時代は、事実上、インチキ医者は野放し状態。
もちろん、免許や資格などはなく、当人が医者を名乗れば、それで通ってしまう、ものすごさでした。
医師が数年の猶予期間の後、免許制になったのはやっと明治9年(1876)1月のことです。
ヤブの反対に、明治を代表する名医には、初代陸軍軍医総監に任命された松本順を始め、近代日本の衛生学の草分け、長與専斎、大隈重信の右足切断手術で知られる佐藤進、多くの政府高官や、明治の両名優、団菊の侍医を務めた橋本綱常(1909年没)などが挙げられます。
円左の速記中には佐藤、橋本の名があり、いかにも時代を感じさせます。
円左のくすぐり
●冒頭で、お百姓が寄ってたかって「江戸の名医」の噂
「先だってほかいが難産で、こう赤子が手エ出した。すると肩がつかえて、どうしても出ねえ。その医者どんが、袂から銭ィ出して、赤子に握らしたア…すると、赤子が手エ引っ込まして、子返り(=逆子)して産まれただ。出てくると、先生の前に手をついてお辞儀ィしただ」
江戸の小咄でも医者を風刺したものはそれこそ掃いて捨てるほどあります。医者は信用ならない職業だったようです。