かんしょうばくや【干将莫邪】故事成語 ことば

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中国春秋時代(BC771-BC403)につくられた、二振りの名剣。

そこには説教もたとえ話もありません。

剣にまつわるどろどろの物語があるだけです。

ふつう、中国の故事とか名言とかは、説教や教訓に包んでありがたみを無理やり感じさせるものですが、「干将莫耶」にはそれがまったくありません。

神秘と妖気がただよっているだけです。

「干将」も「莫邪(鏌鋣とも)」も人の名前ですが、ややこしいことに、二振りの剣にそれぞれ付けられた名前でもあります。

「干将莫邪」が長いので「干鏌」とも呼びます。

刀剣といいますが、「刀」は片方だけが刃になっているもの。

「剣」は両端が刃になっているものです。

刀は日本で、剣は中国で多く使われました。

なのに、刀鍛冶、剣道と、日本では腑に落ちない使われ方をしているものです。

さて。

「干将」は呉の刀鍛冶、「莫邪(鏌鋣とも)」はその妻。干将は「欧冶子」の弟子、欧冶子の娘が莫邪、という関係。莫邪も刀鍛冶をします。

楚王が、剣の鑑定士である風胡子に鋳剣を命じます。風胡子は、欧冶子と干将に「龍淵(龍泉とも)」「泰阿(太阿とも)」「工布(工市とも)」という三振りの鉄剣をつくらせています。

これを知った晋王は剣を所望しましたが、楚王に断られます。怒った晋王は楚を攻めます。都城を囲んで三年。楚は食糧が尽きます。やけのやんぱち、楚王は城楼に上って泰阿剣を掲げるや、あーらふしぎ、晋軍は混乱して敗走しました。

楚王が「これは宝剣の威力なのか、わしの力なのか」と問えば、風胡子は「宝剣の威力です。でも、少しは王の差配も影響しています」と忖度を。

欧冶子も干将も、とんでもない武器を製造する技術者だったのでした。

以上は、『越絶書』(袁康、呉平、後漢)に出ている話です。

ほかにも、『荀子』『呉越春秋』『漢書』などにも干将莫邪の話は登場します。干将莫邪に鋳剣を命じる王は呉王闔閭です。でも、『捜神記』では楚王となっています。呉も越も楚も、揚子江流域にあった国です。

福光光司によれば、、古代中国での剣に関する神秘化し神霊化する思想は、そのほとんどが呉越の地域が舞台だとのこと(『道教思想史研究』岩波書店、1987)。興味深い考察です。

ですから、干将莫邪にまつわる話では、呉でも越でも楚でもかまわないのです。江南地方ならOKということですね。

話としてはいちばんおもしろい『捜神記』に沿って、干将莫邪の物語を記します。ただ、前段には『呉越春秋』にだけある物語があるので、まずはそれを。

楚王の夫人が、暑さしのぎに、鉄の棒に体を添えて寝ていた。そしたら、たちまち懐妊となり、十か月後には出産。それも黒い鉄の固まりを。楚王は、これは神霊の威が宿るものと、干将と莫邪に鋳剣を命じた。

奇妙な話ですが、「眉間尺」ではこのくだりもしっかり入っています。興味のある方はそちらもお読みください。

では、『捜神記』の物語に入りましょう。

干将と莫邪は協力し合い、三年がかりで類例の及ばない二振りの剣をつくった。陽の剣を「干将」と、陰の剣を「莫邪」と名づけた。なんで自分のをわざわざ付けるのか。意味不明。その頃、莫邪は身重だった。楚王は剣の出来上がりが遅いので怒っていた。しかも、このような優れた剣を他者のためにつくられることにも恐れた。干将は王に剣を献上する日が来た。出かける前、干将は莫邪に「私は陰の剣だけを王に差し出す。王は怒って私を殺すだろう。生まれてくる子が男だったら、南山麓の木の下に隠してある陽の剣を見つけ出して、その剣で仇を討ってもらいたい」と告げた。王は干将を殺した。莫邪が産んだのは男児で、「赤比」と名づけられた。眉間が1尺(15.8cm)もあるため「眉間尺」ともあだ名された。少年となった赤比は父親のいないわけを莫邪から打ち明けられた。赤比は仇討ちのため、木の下から剣を見つけ出し、修行に旅立った。その頃、王は夢を見た。眉間尺の少年が自分を討とうとする夢だった。恐れた王は眉間尺少年に懸賞付きで探させる。赤比は山に隠れたが、父の仇を討てないもどかしさで日々泣いて暮らしていた。そこを通りかかった旅の男が泣く理由を尋ねる。赤比はわけを語った。うーん。なみの方法では王には近づけない。ならばいっそ。男はとんでもないことを提案する。赤比の首と剣を持っていけば王に会えるだろうから、その機に私が王の首を刎ねよう、と。赤比は大いに賛成して、すぐに剣でおのれの首を刎ねた。え、そんなに早く。首と剣を携えた男は、王に面会がかなった。王は喜び「これは勇者の首だから釜ゆでにしよう」と。赤比の首は三日三晩ゆでられるが、とろけずくずれず。目なんかいからせたまま。どうしたことか。男は「王よ、釜の中をご覧ください。王の威厳で必ずや勇者の首はとろけくずれるでしょう」と。王は言われたままに釜を覗いた。その瞬間、男は王の首を斬り落とした。釜の中へ。男も自身の首を斬り落として釜の中へ。三人の首がぐらぐらととろけくずれていった。三つ巴のどろどろ。もう区別がつかなくなったので、家臣は三人まとめて墓に入れた。それが「三王墓」。汝南県にいまも残る。

これが、だいたい一般的な干将莫邪のストーリーです。

日本に渡ると、少し変わってきますが、剣の神秘と、剣に魅せられた王の権力、仇討ちの潔癖は、変わらず伝わります。

まずは『今昔物語集』巻九「震旦の莫邪、剣を造りて王に献じたるに子の眉間尺を殺される語」を見てみましょう。

震旦(中国)に莫邪という刀鍛冶がいた。この話には莫邪だけ。しかも男。王の妃は夏の暑さにがまんがならず、鉄の柱を抱いて寝ていた。冷えて気持ちがいいので。ほどなく妃は懐妊。王は「そんなわけない」といぶかしんだが、やがて妃は鉄の塊を出産した。「こ、これは」とあやしんでも後の祭り。王は莫邪を呼んで、この鉄で鋳剣を命じた。莫邪は二振りの剣をつくり、一振りは隠した。剣を受け取った王だが、その剣はつねに音を立てている。尋ねられた大臣は苦し紛れに「この剣は陰陽二振りあって、もう一方を恋い慕っているのではないでしょうか」と。王は怒り、莫邪を捕まえてくるように命じた。莫邪は妻に「凶なる夢を見た。だから、王の使いが来て、私は王に殺される。おまえのおなかの子が男だったら、南の山の松の中を見よと告げ、私の仇を討つよう」と。莫邪は北の門から出て南の山に入り、大きな木のほこらに隠れて死んだ。妻は男子を産んだ。眉間の幅が1尺もあり、眉間尺とあだ名されるほどだった。十五歳の眉間尺は南の山の松のもとに行けば、一振りの剣があった。その剣を握ると、復讐への思いが湧いてきた。王は、眉間の広い男が自分を殺そうとする夢を見た。王は恐れた。眉間尺は手配の身となった。眉間尺は山に逃げた。探索する連中の一人が、山中で眉間尺を見つけた。「眉間尺か」「そうだ」「王命でおまえの首と剣を差し出すことになっている」。眉間尺は自らの首を斬り落とした。刺客は首と剣を携えて王に差し出した。王は喜び、首を釜でゆでて形なきものにするよう命じた。七日たっても首は変わらなかった。王はいぶかしんで釜の中を覗き込んだ。そのとき、王の首が体から離れて釜に落ちた。釜の中で二つの首は噛み合った。それを見ていた刺客は剣を釜の中に投じた。剣の霊力か、二首は煮とろけた。その変化を見ているうち、刺客の首も自然に斬り落ちて釜に入った。三首がどろどろとなった。区別もつかないので、一つの墓に三つの首を葬った。これが三王墓で、宜春県に残る。

話はスマートになっているようにも見えます。『捜神記』での莫邪はあまり活躍の場面もありませんでした。『今昔物語集』では名前のない妻になっています。王の首が斬り落ちるのが不可解ですが、ここはもう剣の霊力によるものと解釈すれば、刺客の首ポトンも同じでしょう。つまり、この物語の大半は剣の霊力がストーリーを突き動かしているのです。

では、もうひとつ。『太平記』巻十三の「眉間尺釬鏌剣の事」に見える干将莫邪の話を見てみましょう。

舞台は建武2年(1335)7月23日の鎌倉。北条時行が鎌倉を攻めた中先代の乱で、その混乱に紛れて、幽閉されていた護良親王が謀殺されます。この日、親王の首を斬り落としたのは淵野辺義博ですが、義博はその首を藪に投げ捨てて戻ります。なぜか。その理由が、干将莫邪の故事を通して語られるのです。

ところで、淵野辺甲斐守(義博)が兵部卿(護良親王)の首を左馬頭(足利直義)に見せることなく藪に捨てた理由は、義博自身が少々考えるところあってこのようにふるまった。その理由は。春秋時代の楚王の物語である。甫湿夫人なる楚王の后は鉄の柱に寄りかかって涼んでいたが、ただならぬ心持ちとなって、たちまち懐妊。鉄の玉を出産した。楚王は、この玉は金鉄の精霊だろうからと、干将という鍛冶に鋳剣を命じた。鉄を拝領した干将は呉山に入り、竜泉の水で鍛えて三年がかりで雌雄二振りの剣を仕上げた。献上する前に、妻の莫邪は干将に「この二振りの剣は精霊がひそかに備わっていて、いながらにして仇敵を滅ぼせるほどです。生まれてくるのは勇ましい男子でしょう。それなら、一振りは隠しておいてわが子にお与えください」と言った。干将はもっともだと、雄剣のみを楚王に献上した。王が剣を箱の中に納めると剣が泣いた。毎晩と。王は家臣に尋ねると、ある知恵者が「きっと雌雄二振りの剣で、同じところにいないことを悲しんで泣くのでしょう」と奏上した。王は怒った。干将に問いただしたが、干将は答えない。王は干将を獄に投じ首を刎ねた。莫邪は男児を出産。眉と眉の間が1尺あったので眉間尺と名づけられた。眉間尺が十五歳になると、莫邪は父の遺書を読ませた。そこには「太陽が北向きの窓から射す南山に松の木がある。松は石のはざまで成長する。剣はその中にある」と記されてあった。眉間尺は「ならば、剣は北向きの窓の柱の中にあるのだな」と言って柱を割って中を見ると、剣があった。眉間尺は喜び、「この剣で父の仇を討とう」という気持ちが骨の髄までしみ込んだ。眉間尺が怒っていることを知った王は、数万の兵をやって眉間尺を攻めた。眉間尺一人の強い力に打ち砕かれて、剣の刃先に死ぬ者や負傷する者が数え切れないほどだった。王は困り果てた。甑山からの旅人が眉間尺のもとにやって来た。干将と交わりを結んだことのある人だった。旅人は「おまえの父親と結んだ友情は金を断ち切るほどの強いものだ。友の恩に謝するために楚王を討とうとしたが、できなかった。おまえがともに仇を晴らそうと思うのなら、剣の切っ先を三寸食い切って口に含んで死ぬがよい。わたしはおまえ首を持って王に献上しよう。おまえはそのとき口に含んだ剣の切っ先を王に吹きかけて相討ちにしろ」と申し出た。眉間尺は喜んで、すぐさま剣の切っ先を三寸食い切って口に含み、自ら首を斬り落とし、旅人に差し出した。旅人も首を持って王に目通りを。王は喜び、首を獄門にかけさせた。首は三か月たってもただれず、目は見開き歯を食いしばって歯ぎしりしていた。王は恐れ、首を鼎で煮るよう命じた。あまりにも念入りに煮られたので、首も目を閉じた。王は恐れることなく鼎をご覧になった。眉間尺の首は王に向かって剣の切っ先を吹きかけた。切っ先は正確に王の首の骨を貫いたので、首は鼎の中に落ちた。王も荒々しく気が強かったので、煮えたぎる鼎の中で双首は上になり下になりからりひしりと食い合っていた。眉間尺の首が負けそうな気配に見えたので、旅人はおのれの首を斬り落とし、鼎の中に投げ入れた。眉間尺と協力し合って王の首を食い破り粉砕した。眉間尺の首が「死んでから父の仇を晴らした」と言えば、旅人の首も「死んであの世から友の恩に感謝する」と喜んだ。一度にどっと笑う声が聞こえ、首はは煮ただれて形をなくした。眉間尺が口に含んだ三寸の剣の切っ先はその後、燕国に残され、太子丹の宝物となった。太子丹が荊軻と秦舞陽を使って始皇帝を殺そうとしたとき、この剣の切っ先は地図を入れた箱からひとりでに飛び出し、始皇帝を追いかけた。が、侍医に薬袋を投げつけられたため、さしわたし六尺の銅の柱を半分ほど切って、三つに折れてそのまま行方不明になった短剣がこれだった。干将の鋳した雌雄二振りの剣の残りは、干将莫邪の剣といわれて、代々天子の宝物となっていたが、陳の時代に行方不明となった。あるとき、彗星が現れ、災いの前兆となるできごとが怒った。臣下の張花と雷煥が高殿に昇って彗星を見るや、古い獄門のあたりから剣の形の光が天空に昇って、彗星と戦っている気配だった。張花は不思議に思い、光が射す場所を掘ってみた。干将莫邪の剣が地下五尺の地点に埋もれていたのだった。二人は喜んで、剣を掘り出し、天子に献上するために自身で腰に差して延平津という船着き場を通った。天子の宝物になってはいけないいわれでもあったのか、二振りの剣はひとりでに抜け落ちて水中に入ってしまった。それが雌雄二頭の竜となって、はるか遠い波間に沈んでいった。以来、剣は行方不明である。淵野辺甲斐守(義博)は、このような奇譚を思い出したからか、兵部卿(護良親王)が刀の切っ先を食い切ってお口に含みなされたのを見て、首を左馬頭(足利直義)に近づけることをせず、遠い先を見通して藪に捨てたという判断はりっぱなことだったと、この故事を知る者たちは感心したものだ。

いやあ、えらい長い物語でした。

お読みになっておわかりの通り、『捜神記』や『呉越春秋』などよりも細部が行き届いてあます。

人の心の動きも見えてきています。

この故事は、「擬宝珠」「眉間尺」などで下敷きに使われています。

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