ぐいちかすざけひげにつく【ぐいち粕酒髭につく】むだぐち ことば

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愚人夏の虫」で出た五二(=ぐに)同様、やはり双六博打で、五一(=ぐいち)も悪い目。

三六とともに、意味のないまったくのカス目で、そこから五一三六=どっちもどっち、どんぐりの背比べという慣用句も生まれました。

しゃれとしては、ぐいちから「ぐい」と酒をあおると掛け、「カス目」から粕酒(=どぶろく)とつなげています。

最後の「ひげ」は、博打で目が出ず「ひけ(=負け)を取る」のダジャレ。

やけ酒をあおっても、口の周りや髭に、賽の目同様何の役にも立たない酒粕がくっつくだけ。踏んだり蹴ったりというところでしょう。

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そのことあわせにひとえもの【そのこと袷に単衣物】むだぐち ことば

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江戸の古いしゃれことば。

もともと、相手の意を受けて「そのこと、そのこと」と、大賛成という意向を即座に伝えるものです。

それを重ねことばとせず、着物でしゃれているわけです。

「そのこと」は「布子ぬのこと」という地口。

布子は綿入れになった木綿の生地。

それを二枚重ねに縫って秋冬用のあわせにし、夏用には一枚で裏地なしのひとえものにします。

もう一つ、「ことあわせ」は「事合わせ」で、万象のリズムがよく合うこと。

動詞で「こと合う」などとも言います。

これで、相手への同意と、同時に「合わせ=袷」でダブル、すなわち「そのこと」の反復をも示すわけです。

なかなか手が込んでいます。

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そうそうへんじょうあまつかぜ【早々返上天津風】むだぐち ことば

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「すぐにお返しします」というだけの実です。

名前と自慢の和歌を、後世の江戸の町人どもにもてあそばれた、お気の毒な例。

僧正遍昭そうじょうへんじょうの代表歌「あまつ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」(古今和歌集)は「百人一首」の一首で、江戸時代の人々には親しまれていました。

僧正遍昭は六歌仙の一人。

出典をいくつか見ると、どうやら盃のやりとりのときのむだぐちのようです。

相手に盃をさされて「はい、それでは早速ご返杯」と、今でもよくみられる光景です。

特に歌の文句と関連はないようですが、もし「吹き閉じよ」「お止め」で、「はい、もうこれ切り。後の盃はご辞退申します」という心を含ませているのなら、なかなかのしゃれ者です。

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そうかもんいんのべっとう【そうか門院の別当】むだぐち ことば

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江戸のだじゃれの典型です。人物名の音からの勝手きままな連想です。

相手の言葉に「そうか」と、直接自分で反応しているとも取れます。

これもダジャレで、元は「皇嘉門院別当こうかもんいんのべっとう」。

この人物は本名、正没年月日未詳で、平安末期の女流歌人。

百人一首に選ばれた「難波江なにわえの あし仮寝かりねの ひとゆゑ 身を尽くしてや 恋わたるべき」がよく知られています。

むだぐちとの直接な関連はなく、ただ名前を借りられただけでしょう。

ここでも「百人一首」からの拝借です。

「そうかもんいん」は、「そうか、もういい」のダジャレがプンプンにおいます。

「別当」は、ずばり「べっかっこう」(あかんべえ)の、これまたダジャレでしょう。

名前をいいようにおもちゃにされています。

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そういやそうれんぼうずがぼってくる【そういや葬礼坊主が追ってくる】むだぐち ことば

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「そう」という返事をさらにまぜっ返したしゃれです。

「そう」と「葬礼」を掛け、葬式に付き物の坊さんを出したもの。

締めくくりに「ぼうず」から「ぼって」と、頭韻でことばのリズムを効かせています。

「ぼってくる」は「追ってくる」で、愛知県の方言。むだぐち自体がこの地方のローカルでしょう。

「ぼって」はあるいは、お布施を「ぼる」、高く搾り取るの意味も掛けているのかもしれません。

類型としては、「坊主」以下の代わりに「葬式饅頭うまかった」と付けることも。

このフレーズはいまも生きていますね。

これだといっそうバチ当たりになりますが、「そう」を三回続けることできれいに頭韻がそろい、より快いリズムになっています。

「そう」の揚げ足取りでは、同じ愛知県の「そういやそういやおかっつぁま」も。

さらには、「草加越谷千住の先だ」「そううまくは烏賊の金玉」など、それこそ無数にあります。

「草加……」は江戸近郊の地名でしゃれたもの。

後者は「いかない=烏賊」で、烏賊には金玉がないことから。子供の悪じゃれです。

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すこしおそしどう【少し御祖師堂】むだぐち ことば

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「遅い(遅し)」と「お祖師」を掛けただけの、きわめて単純明快なしゃれことば。

前後の会話の流れで、相手の遅れを軽くとがめたり、逆に自分が遅れた(遅れる)と告げる場合があります。

「お祖師さま」は、日蓮宗の信者が多かった江戸では宗祖の日蓮や同宗派の寺院をさします。

「堀之内のお祖師さま(妙法寺)」などが著名です。

単に「祖師堂」という場合には、広く各宗派でそれぞれの宗祖の業績を記念した尊像や位牌などを安置している堂宇(広くは寺そのもの)をさします。

中でも禅宗の始祖達磨(円覚)大師を祀った祖師堂をいう場合が多いのです。

江戸の町では、「祖師」といえば「日蓮」とすぐに連想がいきますから、「ああ、日蓮のね」とすんなり胸に落ち着きす。

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しくじっぴょうごにんぶち【四九十俵五人扶持】むだぐち ことば

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将棋のむだぐちです。

「しくじった」というのを「じった」から「じっぴょう」ともじり、俵取りの御家人の「十俵五人扶持」という安サラリーに掛けています。

意味としてはこれがすべてですが、細かく見ていくと、まだいくつかしゃれが隠れています。

「しく」で「四九」→「四苦八苦」を効かせ、八苦よりもさらに重い「十苦」→「重苦」の心で、最下級の侍、御家人の俸禄「十俵」を出します。

実は「十俵」自体、「失注しっちゅう(受注に失敗する)」または「失敗」のしゃれになっているので、なかなか手が込んでいます。

いずれにせよ、たかがヘボ将棋でおおげさなことで。

「十俵五人扶持」は年間支給蔵米分十俵+扶持米分で、計三十五俵相当。

幕末の相場では、およそ十二両と一分です。

町奉行所同心が三十俵二人扶持で四十俵+袖の下、大工の熊五郎でも、腕がよくて飲む打つ買うさえ控えれば、年間収入十三両くらいはいきます。

まあ、暮らしはなんとかカツカツといったところでしょう。

で、しゃれに戻ります。

最後の「五」はというと、ただの付けたりで済ますよりは、五=悟で、ぶちぎりの負けを悟ったり、とでも考えておきますか。

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すったこった【すったこった】むだぐち ことば

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「すべったころんだ」を短縮したものです。

「すぺったころんだ」「すべったりころんだり」とも。

愚痴や言い訳めいたつまらない繰り言を、いつまでもぐずぐず並べ立てること。

似た音形のことばに「すったもんだ」があり、これを「すったこった」と同じ意味とする説もありますが、疑問です。

「すったもんだ」は「擦った揉んだ」で、複数の人間が一所に集まって揉めること。

無理に関係を付けるとしたら、すったこったと世迷い言を並べる連中が複数集まると、必然的にすったもんだとけんかになるということでしょう。

下の動画は、宮沢りえを起用した「CANチューハイ」(宝酒造)のCMです。

1994年に放映されましたが、貴乃花と宮沢りえの婚約破棄騒動は生々しく、これより少し前の話題でした。

1992年11月、二人は婚約を発表したのですが、翌年1月には破棄へ。

このCMが放映された94年は我々の記憶も新しかったため、「すったもんだ」の掛けことばが生きたのです。

たちまち耳目となり、「すったもんだがありました」はこの年の新語・流行語大賞にも選ばれました。

すりおろしリンゴのチューハイとあの二人の珍騒動がうまくかけ合わさり、私たちに強烈なインパクトを与えてくれたものです。

どこか言い知れぬ闇を抱えたあの騒ぎの劇場的な後始末を、宮沢りえは見事に演じてくれたように見えました。

こんな形のなおらいもあるんだな、と。

タカラCanチューハイ(1994年)。宮沢りえの「すったもんだがありました」は新語・流行語大賞に

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すまないのじろうなおざね【済まないの次郎直実】むだぐち ことば

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「済まない」と「くまがい(熊谷次郎直実)」を無理に掛けただけのダジャレ。

よく注意すると、これと同レベルのダジャレがもう一つ潜んでいます。

1184年3月20日の少年惨殺事件の犯行現場、「須磨の浦(すまのうら)」と「すまない」。

油断も隙も敦盛です。

「くまがい」のままでは、いくらなんでもわかりません。

一度ダジャレで崩して「済まない」として初めて浮かび上がってくるという、凝ったといえば凝った代物です。

もう一つ。

「済まない」は、本来は「許せない」「納得できない」の意味もありますから、前後でどういう状況を受けて言っているかによって、怒っているのか謝っているのか、解釈も変わってきます。

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しょうしんしょうめいけぶけちりん【正真正銘けぶけちりん】むだぐち ことば

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席 正真正銘間違いなし、混じりっけなしの本物というのを、江戸っ子特有の大げさな軽口で強調したものです。 このあとに、普通は「現金掛け値なし」と続けてダメを押します。 「けちりん」は「毛一厘」が縮まった形。 否定、打ち消しをともなって「毛筋ほどの不純物もない」と、これも強調、アピール。 「けぶ」は不明ですが、「九分九厘」のしゃれでしょうか。 現金掛け値なしは、元禄年間(1688-1704)に日本橋の三井越後屋呉服店が始めた画期的な新商法。 一切の情実的な値引きをせず、公明正大に正札=正価のみで販売というもので、これが江戸のみならず全国的な評判を呼び、大繁盛。 のちの大財閥の礎を築きました。 転じて、「掛け値なし」が太鼓判、間違いなしという慣用語に。 同様の表現は、「金箔付きんぱくつき」「極め付き」「極印付ごくいんづき」「極印を打つ」「極め印付き」「正札付しょうふだつき」など、さまざまです。

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じゃまにならのきむくろんじ【邪魔に楢の木椋ろんじ】むだぐち ことば

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一見すると「邪魔になる」というだけのむだぐち。

「なる」と「なら」を掛けているわけです。何回か口に出して唱え、ことばのリズムを味わうと、自然にもう一つダジャレが隠れていることがわかります。

「じゃまに」と「山に」です。

最後の「椋ろんじ」。これがなかなか難物です。

辞書を引いてみれば、「むくろんじ」はムクノキ。落葉樹で、皮または実を煎じるとぶくぶく泡が出て、シャボン玉の液に。

「茶の湯」で、隠居が煎茶の泡を出すのに、青黄粉といっしょにぶち込んだのが、これでした。

木自体はなんの変哲もなく、「むくろ(ん)じは三年磨いても黒し」という諺から「進歩がない」ことのたとえでした。

「あってもさして役に立たない、うどの大木」ということで「邪魔」とつなげたと思われます。

考えてみれば、ほとんど愚かしいダジャレばかりのむだぐちに、しかつめらしい解釈などは本来、ヤボの極み。

遊び心という視点では、これはなにとなにを掛けて後にどうつなげているのか、謎解きのようなおもしろさがあるのもまた確かなのですが。

そこで、引っかかった「椋ろんじ」について、木だけに掘り返してみます。以下は、筆者(高田裕史)の私見です。

結論をいえば、これは「むぐらもち」のダジャレ。あの「モグラ」のことです。

ではなぜか。答えは、安政4年(1857)初編刊の滑稽本『妙竹林話七偏人』(梅亭金鵞作)に隠れていました。「山椒味噌まであればよい」と。

『七偏人』の主人公は七人の侍ならぬ七人の遊冶郎(=放蕩野郎)。なにかといえば七人が雁首そろえ、遊ぶことしか頭になし。

この連中が好むのは茶番です。

江戸中あっちこっちで野外芝居の趣向をこしらえ、最後にタネあかしで見物人をあっと言わせるのが生きがい。

で、今日も今日とて、ああだこうだとむだぐちを叩きあいながら、相談に余念あリません。その一人、虚呂松(きょろまつ)が、演出に熱が入りすぎて腹が減ったと七輪で餅を焼き始めます。

いわく「不器ッちやうに大きな網で、土俵のそとへ二、三寸はみ出すから」。……以下、「邪魔に楢の木」と、このざれぐち。

この男、でっぷり太って大食い。

キーワードは「餅」とわかります。

そこで「むぐらもち」→「モグラ」は太っている人のたとえだと。おまけに「もち」が出ます。

最後の「山椒味噌」。山椒の実が丸くてごろごろしているところから「ころり山椒味噌」。

これも大食い、肥満の異称です。

餅網が大きすぎ、七輪という土俵からふくれた餅がはみ出してコロコロリ。

「味噌でもつけて食っちまおう」というところ。

これで「むくろんじ」→「むぐらもち」のつじつまがどうにか合いました。

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しかられたんぼのしいなぐさ【叱られ田圃のしいな草】むだぐち ことば

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叱られてしょげているようすをからかったむだぐちです。

同じ形のしゃれに「心得たんぼ」があり、ともに語尾の「た」を「田んぼ」と掛けているだけ。

「しいな草」は萎れて実の入っていない草木や籾殻で「しおれ草」とも。落ち込んでいる精神状態を萎れた草にたとえたものです。

もう一つ、田んぼの「ぼ」は「坊」を効かせた可能性があります。

そうなると、「叱られん坊」「叱られた子供(男の子)」の意味が加わることになります。

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たまげたこまげたあずまげた【たまげた駒下駄東下駄】むだぐち ことば

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たまげた(=肝をつぶした)というのを、「げた」から駒下駄、東下駄と下駄尽くしでしゃれただけです。

脚韻を「げた」でそろえていて、口にするといいリズムです。

駒下駄は、爪先部分が馬蹄ばていのように丸くなっているもの。音が色っぽいところから、吉原通いの通人つうじんなどにも好まれました。

東下駄あずまげたはご婦人用で、畳表を張った薄歯の履き物。寛永年間(1624-44)に吾妻あずまという源氏名の花魁おいらんが履き始めたところから、こう呼ばれました。

江戸時代後期には、もっぱら色里の女や、男でも遊び人だけが履くものとされました。

別名日和下駄によりげた

晴れた日専用の下駄で、永井荷風の同名の東京探訪ルポ『日和下駄』でも知られています。

しゃれフリークの筆者(高田)としては、これだけでは物足りないので、「たまげた、こまった、ひょろげて(→ひよりげた)おつむ(→あずま)をぶっつげた」とでも悪ノリしておきます。

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しからばごめんのこうむりばおり【然らば御免の蒙り羽織】むだぐち ことば

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武士の武張ぶばってする「しからば御免をこうむって=それでは、お言葉に甘えて失礼いたす」という挨拶を芝居などで町人が覚え、むだぐちにしたもの。

気取った言い回しなので、将棋の対局中にも、あるいは、酒の席などでも使われたことでしょう。

推測ですが、「こうむり」は「かぶり」に転化し、羽織を含め、着物をはしょって頭からかぶるラフな着方があるため、最後に羽織を出したのかもしれません。

もう一つ、「かぶる」は「かじる」の意味の同音異義語があるので、そこから「歯→はおり」としゃれたという見立てはどうでしょう。

いや、いくらなんでも、むだぐちでそこまで考えてはいませんね。

ことばというのは生き物ですから、人が意図しなくても、自然に暗号めいた符合が付いてしまうことが、よくあるものなのです。

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さましてたんとおあがり【冷ましてたんとお上がり】むだぐち ことば

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わざとらしくおだてられたとき、「なんとでもお言い、せいぜい冷やかしなさい」と拗ねた言い返し。

本気でむくれている場合と、からかっちゃあいけねえと多少照れて言う場合があります。

「冷やかすな」の逆表現で、「茶でも酒でも冷やしてお飲み」というアイロニー。

これは天明期(1781-89)ごろの、遊里の色模様を扱った洒落本によく出典が見られるので、やはりそちら方面の通言が出自でしょう。

いかにも、客か花魁が痴話げんかのときに使いそうな、むだぐちです。

「茶にする」「酒にする」は、茶化す、からかう意味があり、「冷ます」自体にも「けなす」「悪く言う」という用例があるので、かなり微妙な思惑も含まれていそうです。

第二の意味として、惚気けられたときに「ごちそうさま」と突き返す意味でも使われました。

別表現に「冷まして食え」などがあります。

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さんすけまったり【三助待ったり】むだぐち ことば

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三助とは、湯屋の窯焚き、あるいは、商家に雇われた飯炊きの奉公人。

ともに火を扱う仕事だけに、バタバタしやすいことから、「そんなにあわてず、落ち着いて待ちなさい」という意味の日常語となったものです。

そこからニュアンスを違えて「おっと待った、そうはさせない」とも。

こちらは将棋で、相手を牽制するむだぐちになるでしょう。

寛政年間(1789-1801)頃の流行語です。

元は「三助舞ったり」で、これは、からくりの玩具で獅子を舞わせるときの掛け声。

「獅子の洞入、洞返り、三介舞(待)ったり三介舞(待)待ったり」などと囃すもの。

これはお座敷芸でしょうが、大道芸の可能性もあり、どちらかはよくわかりません。

この掛け声自体、からくりの獅子がふらふら危なくて落ちそうなので、落ち着けということで「待ったり」と掛けているのかもしれません。

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しかたなかばしかんだばし【仕方中橋神田橋】むだぐち ことば

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「しかたがない」というのと、江戸の中橋を掛けたダジャレ。橋づくしで調子を整えるため、神田橋を出したものです。

中橋は、江戸時代初期まで、日本橋と京橋の中間に掛かっていた橋。

中央区日本橋三丁目と京橋一丁目との境、中央通りと八重洲通りが交差するあたりといわれますが、明暦年間(1655-58)にはもうなくなっていました。

その記憶だけが長く残り、もうとっくに「ない」というところから、「おぼしめしは中橋か」「気遣いは中橋」など「ない」というしゃれによく使われました。

江戸歌舞伎の始祖、中村勘三郎座が寛永元年(1624)に初めてこの橋のたもとで興行したことでも知られます。

神田橋の方も、「なんだかんだでしかたがない」というしゃれが考えられますが、さすがにうがち過ぎかも。

むしろ勘三郎の「勘」と神田の「神」のしゃれを考えた方がまだましそうです。

「しかたない」のほかのむだぐちでは、「仕方(地方、じかた=田舎と掛けた)はあっても親類がない」などがあります。

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さらになしじのじゅうばこ【更に梨地の重箱】むだぐち ことば

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「まったくない」「さらさら(さらに)」ない」のしゃれです。

状況によっては、「(その気は)まったくない」と、すっとぼけて否認するニュアンスにもなりそうです。

ことば遊びとしては、まず「皿」と、強い否定を導く副詞の「さらに」を掛け、皿から梨皿で「梨」を、梨から「無し」としゃれの連鎖。

さらに、梨からダメ押しで梨地の蒔絵の重箱を出したもの。

梨地は、梨の実の表面を模し、細かい点を散らした模様。

金と漆を用いた豪華な重箱に珍重されるデザインです。

そこから「重箱の隅をつっついても、なににも出ない」となります。

もう一つ、「重箱」には、遊里の隠語で、「幇間と芸者が花代や揚代を二重取りしてだまし取る」意味も。

そこから「重なる」という意味を効かせ、「さらにさらに」という否定の強調をも付け加えています。

むだぐちもこうなると、なんとも凝りに凝った言葉のタペストリーになりますね。

これでとぼける意味を加味すると、またまた「梨」から「木」→「気」のしゃれが加わり、「蒔絵」からは「まく」=だます→重箱=横領へと、際限なくことばのラビリンスが広がります。

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きたりきのじや【来たり喜の字屋】むだぐち ことば

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「ほいきた」「待ってました」というおちゃらけ。

「来」と「喜」、さらにおそらく「気」も掛けていて、遊客が、惚れている芸者やお女郎がやっと来たので、「やれ嬉しや」というところ。

「喜の字屋」は、吉原で仕出し料理屋の総称だったので、貸し座敷で料理を待ちかねた心あったでしょう。

この屋号は同時に、江戸三座の一つである守田座の座主、守田勘弥の屋号でもありますが、関係ははっきりしません。

「き」「き」という頭韻を踏んだ、リズムのいいしゃれたことばですね。

似たむだぐちに「来たり喜之助」があリます。

その名に特別な意味はなく、「き」の韻を整えるだけのもの。

この名はさまざまに転用され、天明5年(1785)刊の黄表紙『江戸生艶気樺焼』の北利(北里)喜之助、落語では「九州吹き戻し」の、名前もそのままの「きたり喜之助」が知られています。

「待っていた」という意味のむだぐちはほかに「来たか越後の紺がすり」「北山の武者所」など。

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きみょうちょうらいやのわかだんな【奇妙頂礼屋の若だんな】むだぐち ことば

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「奇妙」は現代語のニュアンスとは少し異なり、「不思議な」「珍しい」「趣があっておもしろい」の意。

「奇妙頂礼」は仏教用語の「帰命頂礼」のしゃれ。

「帰命頂礼」は仏に心から帰依すること。「帰依」とは仏にすべてを捧げること。

サンスクリット語「ナマス(namas)」の漢訳。「南無」は音訳です。「南」や「無」には意味がありません。

おしなべて古語は、音から推しはかるべきもので、文字から推測すると徒労に終わることが多いものです。

そんなわけで、帰依と南無は同義となります。

もっと具体的にいえば、「帰命頂礼」とは、頭を地面につけて礼拝し、仏に帰依する意思を伝えることです。さらに、仏を礼拝するときにとなえる文言ともなります。

「帰命」は「南無」の漢訳語です。「頂礼」は頭を地面につけて仏の足もとを拝む礼法をさします。ということは、「帰命」も「頂礼」も仏に従うという意味では同義となります。

そんなところから、信仰の証の唱え文句となったのですね。

世俗化した「奇妙頂礼」は、「恐れ入った、感服した」のニュアンスが強くなりまました。

さらには、「若だんな」と付けておどけ、ダメ押しに「よっ、妙で有馬の人形筆ェ!」などと囃したりもしました。

帰命到来屋の若だんな、よっ、妙で有馬の人形筆ェ!

ここまでくると、江戸語っぽくなっていますね。

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きがもめのおふじさん【気がもめのお富士さん】むだぐち ことば

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「気がかり」の意味のしゃれことば。「きがもめ」と地名の「こまごめ」を掛けているだけです。

「お富士さん」は駒込富士神社(文京区本駒込)のこと。江戸時代には富士信仰のため登山する「富士講」が組織されていました。

実際に富士詣りに行けない善男善女のため、最初、本郷の地に富士の形を模した築山を築き、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)から木花咲耶姫このはなさくやひめ勧請かんじょうして創建。

これが戦国末期、天正元年(1573)のことでした。

その後、寛永5年(1628)頃に現在地に移転して、今も参詣が絶えません。別にやはり駒込の、八百屋お七で名高い寺を出して「気がもめの吉祥寺」とも。つまり、語呂がよければなんでもよかったわけ。

「安芸の宮島廻れば七里」で参照した出典は、天保10年(1839)初編刊の人情本『閑情末摘花かんじょうすえつむはな』」(松亭金水しょうていきんすい作)。その中で、「安芸の……」に続けて、情夫まぶとの仲が冷えるのを心配したお女郎が「気がもめのお富士さんざますよ」とこぼすセリフがありました。

天保10年という年は三遊亭円朝が生まれた年にあたります。近代の萌芽です。

このむだぐち発祥の地、駒込富士神社。現在も敬虔な「江戸っ子」が境内で富士登山に励む

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かっちけなしのみありのたね【忝け梨の実ありの種】むだぐち ことば

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「かっちけなし」は「かたじけなし」の江戸なまりで、「ありがたい」の意。語尾の「なし」を梨の実に掛け、さらに、梨が「無し」に通じてみことばなので「有りの実」と呼ぶことから「ありがたい」としゃれています。

最後の「種」は「実」の縁語えんごでダメを押したもの。単なる感謝の意味を、二重三重に言葉遊び化してちゃかしているところに、江戸東京人のシャイかげんがうかがえます。

同義の表現に「かたじけなすびの香の物」「かたじけなすびのしぎ焼き」があります。こちらは「なし」を茄子なすとその料理法に掛けたしゃれですね。

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おみかぎりえじのたくひのよはもえて【お見限り衛士の焚く火の夜は燃えて】むだぐち ことば

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お見限りはご無沙汰、お見捨ての意。それを、平安時代に禁中の諸門を警備した「御垣守みかきもり」の衛士えじ(兵士)と掛けています。

「焚く火の…」以下は、この衛士が夜通し松明たいまつを焚いて詰めたことから。10世紀末成立の『蜻蛉日記かげろうにっき』に「火などちかき夜こそにぎははしけれ」「衛じのたくひはいつも」とあるのが元ネタ。

実は「お見限り」は、なじみの遊郭に不義理をし、しばらくぶりに登楼した客に、皮肉混じりに言われる言葉。だからこそ、その夜の「火は燃えて」は、何やら意味深長なわけですが。

と書いてきましたが、じつはこの歌、「百人一首」のうちの一首です。江戸時代には『徒然草つれづれぐさ』と「百人一首」はかなり幅広い階層に共有された教養だったので、落語でもよく引き合いに出されます。

御垣守 衛士の焚く火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ

詞花集しかしゅう 大中臣能宣おおなかとみのよしのぶ

皇居の御門を守る警護の者の焚くかがり火が夜は燃え昼は消えるように、私も夜は興奮勃起して昼はぐんにゃり萎えて心は物思いをすることだ。かがり火に、恋に身を焦がすわが身を重ねて詠んでいるところがミソです。

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おっとよしべえかわのきんちゃく【おっと由兵衛革の巾着】むだぐち ことば

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今でもたまに使われる「おっと合点承知之助」と同じで、「よしわかった」「万事呑み込んだから心配ご無用」の意味。

由来は歌舞伎種で、「良し」と梅の由兵衛(大坂の侠客)を掛けたものです。

由兵衛は本名を梅渋由兵衛といって、元禄2年(1689)に大坂千日前でお仕置きになった殺人犯。

これをモデルに並木五瓶が書いて、寛政8年(1796)に俗称『梅の由兵衛』として劇化されました。

主人公が女房小梅の弟長吉を殺し、革の巾着を奪う場面に掛けてしゃれています。

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いのちをとびたのいしやくし【命を飛田の石薬師】むだぐち ことば

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これは飛田という地名から、上方種のしゃれで、ただ「命が飛んだ」→「命を落とした」の意味に過ぎません。

『新版ことば遊び辞典』(鈴木棠三編)によれば、由来としては元禄年間(1688-1704)刊の『好色由来揃』にある故事からだそうです。

それによると、物乞いの拾った財布を横取りしたお女郎が、その報いではずかしめを受け、それを恥じて飛田(大阪市天王寺区)の石薬師に願をかけて後生を祈り、ついには断食して餓死した、ということです。

悲しい物語ですが、少し気になる話筋でもあります。

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ききにきたののほととぎす【聞きに北野の時鳥】むだぐち ことば

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「時鳥の声を聞きに来た」というのと、北野の天満宮の「北野」を掛けたしゃれに過ぎません。

「聞き」は、動詞の連用形が名詞化して「評判」という意味もあるので、「北野で名高い時鳥の噂を」という意味も含んでいるでしょう。

北野天満宮(京都市下京区)旧一ノ保社いちのほしゃは、かつて時鳥ほととぎす篇額へんがくを掲げていたため、「時鳥天満宮」の異名、「安楽寺天満宮」と称されて、神仏習合の施設でした。

寺と神社のごちゃまぜです。

天神社の縁起によると、北野の神殿には木彫りの時鳥があり、いつも奇声を上げていたとか。

一ノ保社の社殿が全焼した文安元年(1444)の「麹騒動」の際、木彫りの時鳥がこずえに止まって鳴くという奇譚がありました。

麹騒動とは、麹づくりをなりわいとする同業者の仲間の権利を巡るひともんちゃく。

この権利の仕切り役は天満宮の北野神人でした。神人じにんとは神社で働く人。麹室での麹づくりにからむ免税や独占製造権など、ここは金づるでした。

応永26年(1419)、幕府は北野神人に麹づくり特権を認めていました。

以来、別当の安楽寺が神仏分離令(廃仏毀釈)で明治元年に廃寺となるまで、時鳥の扁額は火災、疱瘡除ほうそうよけの霊宝とされ、毎年旧暦6月15日にかぎって開帳されていました。

まあ、以上、なんだか要領を得ない話ですが、時鳥がこの社の特別な名物だった由来は、なんとなくわかります。

北野天満宮ですから梅が名所。梅にうぐいす、といきたいところなのに、ここはほととぎすとなります。

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おかしいのみがひとふくろ【おか椎の実が一袋】むだぐち ことば

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これも単なるダジャレで、「おかしい」の「しい」と、椎の実とを掛けたに過ぎません。

椎の実(どんぐりの実)は、今では虫が湧くというので、ほとんど食用にはしませんが、貧しく飢えていた江戸時代の子どもたちには恰好のおやつでした。

黒文字で「しいのみ」と書かれた袋に入れ、「たんばほおづきしいのみひとふくろしもん(丹波鬼灯椎の実一袋四文)」と呼ばわって売り歩いていたそうです。

子供の遊びの中から生まれた慣用句なのでしょう。

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きんのしたにはふのくだゆう【金の下には歩の九太夫】むだぐち ことば

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これもまた将棋のむだぐち。「寝返ったな」という意味が込められています。

「歩の」から「斧九太夫」の「おの」に掛け、縁の下から覗く寝返った九太夫のさまを「金の下」に掛けているのですが、忠臣蔵のこの段がわからないと、まったく意味不明な難解むだぐちになって、使いようもありません。

意味そのものはあらかたのむだぐち同様、たいしたものではありません。

『仮名手本忠臣蔵』の「七段目 祇園一力茶屋の場」で、敵の高師直方に寝返った、もと塩冶家の次席家老、斧九太夫。大星由良之助が遊蕩にふけっている祇園の茶屋に、その真意を探るべく潜入してきます。

その九太夫、縁の下に隠れ、大星の手紙を盗み見。その場面で義太夫が語る、「縁の下には九太夫が、くりおろす文、月かげに、すかし読むとは神ならず、ほどけかかりし、おかるがかんざし」という章句のもじりがこれです。

そういうわけなので、この場合、自分の金の後ろにあるのは、敵がパチリと投入した、「寝返った」歩なのでしょう。

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きんかくではいけんならばいいつてがある【金角で拝見ならばいい伝手がある】むだぐち ことば

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金閣寺と金角のしゃれ。

毎度おなじみ、将棋のむだぐち。

金と角で攻めている(または攻められている)ときのものか、あるいは「拝見」から、手駒を見せてくれと言われた場合の反応か、具体的に詳しい状況は不明です。

元は『仮名手本忠臣蔵』九段目「山科閑居の場」の、大星の女房お石のセリフそのまま。

娘の小浪を、婚約中の大星の嫡男力弥と祝言させる談判に、はるばる鎌倉から訪ねてきた加古川本蔵の後妻、戸無瀬。

応対に出たお石はもとよりその気はなし。

はぐらかすように親切ごかしに「祇園清水知恩院、大仏様ご覧じたか。金閣寺拝見ならば、よい伝手があるぞえ」。

ということで、戸無瀬ともどもお疲れさま。

金角のむだぐちはほかに「金閣寺の和尚さま」「金角寺の和尚さま」などがあります。

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かくなりはつるはりのとうぜん【角なりはつるは理の当然】むだぐち ことば

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「かく=このように」と駒の角を引っ掛けた将棋さしのむだぐち。

「やっぱり、角が龍馬に成ってしまったか」というくらいの意味。

これは成った方か成られた方か、どちらのことばとも取れます。

角に掛けた将棋のむだぐちは多く、「角なるからは是非もなし」「角なり果てる身の因果」「角道の説法屁一つ」など。

最後のは「百日の説法屁一つ」のもじりで、たった一手のミスが命取りという勝負事の怖さ。

もう一つ、「角とだにえやは伊吹のさしも草」。これは藤原実方ふじわらのさねかたの「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」の上の句をそっくりいただいたもの。

「さし=指し」で、相手がそう来るとは知らなかった、という意味でしょうが、これは、和歌の知識がないと言えないかもしれません。

「百人一首」の一首です。

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かまわずともよしのくず【かまわずとも吉野葛】むだぐち ことば

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桜の名所の「吉野」と「よし=かまわない」を掛けたしゃれで、ご当地のもう一つの名産の葛粉を付けています。かまわないからほっておいてくれ、の意味。

「吉野葛」の代わりに「吉野木」とも。どちらも出典は明和7年(1770)刊の洒落本『遊子方言』なので、出自は遊里からでしょう。

もっとおどけて「おっとよしの木かしわの木さるすべり」と言うことも。

「吉野」が付くことばは無数にあるので、類似の言い回しはもっと多いかも知れません。

吉野の縁では、「青菜」の「義経にしておけ」も同意。

「かまわず」のしゃれの方は、上野の不忍池をもじった「かまわずの池」があります。

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おそれいりやのきしぼじん【恐れ入谷の鬼子母神】むだぐち ことば

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現代でも辛うじて生き残っていて、もっとも有名なむだぐちでしょう。

「恐れ入りました」と地名の「入谷」を掛け、そこから現地の鬼子母神を出したもの。

ここでは雑司が谷のそれではなく、台東区入谷の真源寺(法華宗本門流)の鬼子母神堂。

それでなければ、ダジャレが成り立ちません。

「恐れ入り」のしゃれはこのほかにも数多く、「入相」「煎り酒」「入谷の七合神」「入山」「入山形」「入山三了」「恐れ久松」「恐れ山猫」「恐れちゃんちき茶の袴」と、あげたらきりがありません。

最後に極めつけは、安政4年(1857)初編刊、梅亭金鵞の滑稽本『七偏人』から。「大酩酊に及んで、恐れ入谷の霜のもみぢば真赤にならの八重桜、池田いたみのお酒の香りが、京九重に匂ひぬるかなッ」。

なんともはや。

米テレビドラマ『0011 ナポレオン・ソロ』に相方で活躍するイリヤ・クリヤキン役のデビッド・マッカラムが女性にすごい人気でした。

「恐れいりやのクリヤキン」などと地口ってました。

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かかとがずつうやんであたまへせんきがのぼる【踵が頭痛病んで頭へ疝気がのぼる】むだぐち ことば

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とうていあり得ないことをコミカルにむだぐちにしたもの。

不可能を表すたとえは「煎り豆に花」「石が流れて木の葉が沈む」などがありますが、なんでもありのご時節、踵が頭痛病むくらいでなければ、誰も驚かないでしょう。

五代目古今亭志ん生の小咄に、胴と足が別々のところに奉公して……というのがあります。

落語こそ、動物はおろか、ナマ首まで口をきき、自分の頭の池に飛び込む異次元世界です。

ちなみに、西洋ではこういうのを「奇蹟」と呼びます。

『ノートルダム・ド・パリ』でビクトル・ユゴーが描く15世紀のパリには「奇蹟通り」と呼ぶ怪しげな一角がありました。

日が落ちると必ず「奇蹟」が起こり、歩けない人が駆け出し、目が見えない人がぱっちり目を開きます。

それからみんなそろって追い剥ぎに「変身」するわけですが。

もっとも、もうひとひねりして、「足が目を開け目が走り出す」くらいでないと、このむだぐちのレベルには達しません。

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おいてくりおのまんがんじ【措いて栗尾の満願寺】むだぐち ことば

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文語で「く」にはさまざまな意味がありますが、基本的には「放っておく」「やめておく」に大別されます。

それに命令形、または依頼形が付いて「やめてくれ」「かまうな」の意味。

「それはこっちにおいといて」という「おく」も同じでしょうか。

江戸では伝法でんぽうに「ええ、おきゃあがれ」とも。

芝居では「おかっせえ」と古風になリます。それをむだぐちにしたのが本項。

といっても、これは長野県のローカル限定で。「おいてくれ」のことば尻に地元の名刹の山号を付けてしゃれています。

栗尾山満願寺は、長野県安曇野市にある、聖武天皇の神亀2年(725)ごろ創建という古刹。

その後、新義真言宗豊山派しんぎしんごんしゅうぶざんはの寺院となり、今では地獄極楽図とつつじ公園が有名です。

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かんじんかしまのかなめいし【肝心鹿島の要石】むだぐち ことば

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慣用句の「かんじんかなめ」をしゃれたもの。

もっとも大切な要点という意味です。

鹿島の要石は、常陸国の一宮、鹿島神宮の境内にある神石。

「肝心春日」という異名もあり、地震の鎮め石と言われます。

おそらく、大鯰でも封じ込んでいるのでしょう。

意味自体は、名所古跡を洒落に織り込んだだけの単純なものですが、「か」の頭韻を重ねたリズムは耳に快く、これぞむだ口の真髄でしょう。

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おもちょうじちゃぎつねのかかとちゃんぎり【面丁子茶狐の踵ちゃんぎり】むだぐち ことば

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「おもしろい」のむだぐちですが、はるかに長ったらしく凝っています。

「面白狸の腹鼓」の言葉をどんどん変化させたもの。

まず白を丁子茶ちょうじちゃ(紅色がかった茶色)に、狸を狐に、腹をきびすに置き換えています。

最後の「ちゃんぎり」は、リズムを出すためのお囃子、口拍子で、当たりがねの異名を付けたもの。

当たり鉦は、江戸時代、願人坊主がんにんぼうずなどが用いた小型の鉦。

左手に持った鉦を右手の棒でこすって音を出し、托鉢たくはつして歩きました。

転じて歌舞伎の下座げざ音楽にもなり、「ちゃんぎり」はその陽気な音色から。似た言い回しに「面黒狐の腹鼓」があります。

これは機械的に白を黒、狸を狐にしただけですが、腹鼓を打つはずのない狐を持ってくることで、不釣り合いな滑稽さがより際だちます。

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おもえばくやししもんじゅのしし【思えばくや獅子文殊の獅子】むだぐち ことば

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「くやしい」とだけ言えば済むものを、言葉尻の「しい」から「獅子」を掛け、延々と言葉遊びにしています。

文殊は知恵を司る菩薩。獅子に乗っているという伝承があるので、こう付けたもの。

これも、将棋で負けたときのくやしまぎれのむだ口かもしれません。

この後さらにおふざけで「トッピキピイの角兵衛獅子」と続けることも。

こうなるともはやヤケのヤンパチで、芸者などが嫉妬のあまり、やけ酒をあおって毒づくようすが想像できます。

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おちょうしのごもんつき【お銚子のご紋付き】むだぐち ことば

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「ちょうし」は「銚子」と「調子」を掛けています。

ふだん言うことを聞かない子が、たまに客が来たときだけ、妙にいい子ぶって手伝いなどしたがるのはよくあること。それを親が冷やかす言葉。

まあ、小遣い目当てでしょうが、外面ばかりで調子のいいことと、客に出すお銚子を掛けています。

「ご紋付き」も、客を招いた改まった席の象徴に付けたもの。

からかう調子の裏に、今からこんなジキルとハイドじゃ、将来が思いやられるという親のため息が聞こえますね。

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おじゅんでんべえはやまわし【お順伝兵衛早回し】むだぐち ことば

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江戸時代、酒席でよく使われた洒落。

「お順に早く盃を回しましょう」の意味で、浄瑠璃「近頃河原達引ちかごろかわらのたっぴき」の登場人物「お俊伝兵衛猿回し」をもじったもの。

通称「お俊伝兵衛」は天明2年(1782)ごろ初演で、井筒屋伝兵衛と京都先斗町の近江屋抱えの遊女お俊の心中と、猿回し与次郎の孝行物語をからませています。

お俊の「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」の悲痛なセリフは有名で、明治大正までは誰もが知っていました。

昭和初期、衆議院議員の堀切善兵衛が代表質問に立ったとき、小声で聞き取れなかったので、すかさず議場から「そりゃ聞こえませぬ善兵衛さん」とヤジが飛んだという逸話があります。

かつては政治家でも粋でした。

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おおちがいのきしぼじん【大違いの鬼子母神】むだぐち ことば

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将棋で、相手の手を「そいつは大間違いだ」と牽制するときの洒落言葉。

鬼子母神は日蓮宗の名刹、威光山法明寺で、通称、雑司が谷の鬼子母神。豊島区南池袋にあります。

なんのことはなく、「おおちがい」と「ぞうしがや」を強引に掛けてダジャレにしただけ。

なんともひどい代物です。「大違い」には、他人の子供をむさぼり食ったという伝説の鬼子母神の、大いなる料簡違いをも指しているのかもしれません。

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おおしょうちのにゅうどう【大承知の入道】むだぐち ことば

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百も承知、と請け合う返事を洒落言葉にしたもの。

「おお」は強調語。これはダジャレで、「法性寺ほっしょうじ入道にゅうどう」と掛けたものです。

法性寺は、京都市東山区にある浄土宗西山禅林寺派の名刹。

法性寺の入道とは、関白藤原忠通ふじわらのただみち(1097-1164)のことで、出家後、この寺に住んだのでこう呼ばれました。

小倉百人一首の歌人の一人です。

その作者名が「法性寺入道前関白太政大臣藤原忠通ほっしょうじのにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじんふじわらのただみち」と、百人中もっとも長ったらしいため、後年、やたら長い名前の代名詞になりました。

寿限無」と同じです。

そのこととむだぐちとは特に関係なく、ただダジャレのために名前を借りられただけですね。

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おおきにおせわおちゃでもあがれ【大きにお世話お茶でもあがれ】むだぐち ことば

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ものの言いようの難しさの典型。

「大きにお世話」はきっちり「でござりました」などと結べば、普通に丁重な謝礼の言葉になります。ところが、言い捨ててしまうと、「余計なお世話。放っとけ」となり、けんかの元です。

この後の方に「お茶でも飲んでろ」とむだぐちをくっつけたのが本項。

これは、安永年間(1772-81)から、続く天明年間(1781-89)に、吉原などの遊里から出た流行語でした。

「茶」は「茶化す」「茶にする」というように、人を外らして揶揄する意味。

そこから、軽蔑の意味をこめて「お茶でも」と付けたのでしょう。

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おおいしかったきらまけた【大石勝った吉良負けた】むだぐち ことば

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なんのことはなく、「うまかった牛ゃ負けた」と同じ意味。

「おいしかった」と大石内蔵助を掛け、大石が討ち入りで勝利したから「かった=勝った」。そこから敗者の吉良上野介を出したむだぐち。

ただもう一つ、「大石」から漬物石を効かせ、そこから香の物の異称である「きら」を出したというのは、うがち過ぎでしょうか。

吉良家の官職の「こうずけ」から「香漬け」という洒落は、古くからありました。

もっとも、大石も「昼行灯」で、仇討ちもできない腑抜けとばかにされていた頃は「大石軽うてはりぬき石」と陰口を叩かれていたのですが。

「はりぬき石」は軽石のこと。

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おうらやまぶきひかげのもみじ【お浦山吹日陰の紅葉】むだぐち ことば

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「お羨ましい」と「浦(裏)山」を掛け、さらに「やまぶき」と、しりとりのように続けています。

「浦山」は日陰の境涯の自分の象徴。最後の「日陰の紅葉」でそれを強調しています。

小判にも例えられる山吹の黄金色と、朽ちてくすんだ紅葉の紅の対比。落ち目のおのれに引き比べ、相手の華やかな人生を羨む愚痴です。

むだぐちなので、これは皮肉。取って付けたようなていねい語の「お」がそれを物語ります。

現代でもよく見られますが、はぶりがよくなった同僚に「おい、おうやましいご身分だな。こちとら貧乏人に、少しお恵みいただけませんかね」など、毒を含んだ嘲りを浴びせる、あれですね。

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いうてもおくれなさよあらし【言うてもおくれな小夜嵐】むだぐち ことば   

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もとは明和年間(1764-72)から文政年間(1804-18)ごろまで、長く歌い継がれた上方の端唄「朝顔の盛り」(別名「かくれんぼ」)。

その末尾の一節を、日常の洒落言葉にしたものです。意味は「そんなことを言ってくれるな」で、相手の手厳しい拒絶を受けて少し甘え、なだめるような調子があります。

「さよあらし」は「さような(ことを)」のダジャレ(上方では口合)で、倒置表現で「言うても……」につなげています。

参考までに少し長いですが、元唄を。

※現代的仮名遣いに変えて読みやすくしています。

朝顔の
盛りは憎し迎いかご
夜は松虫ちんちんちろりちろり
見えつ隠れつかくれんぼ
行末は
誰が肌触れん紅の花
案じ過ごしを枕にかたれ
髪結わぬ夜のおみなえし
言うてもおくれな小夜嵐

優艷な三味線の三下がりの音じめで、盛りを過ぎて独り寝を余儀なくされた遊女の、夜ごとの憂悶を唄い上げています。

最後の二節で「結わぬ」と「言う」を掛け、さらに「小夜嵐」=夜半に吹き荒れる嵐で、このまま情人との恋が吹き散らされてしまうおびえが表現されています。

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おいでおいでどじょうのかばやきおはちじる【おいでおいで泥鰌の蒲焼きお鉢汁】むだぐち ことば

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将棋のむだぐちの一つ。相手の指し手を受け、「どうぞどうぞいらっしゃい。すぐ泥鰌どじょうの蒲焼きにして食ってやるから」という挑発です。泥鰌は「三匹目の泥鰌はいない」という言い回しがあるくらい、「カモ」の代名詞。それと「どうぞ」を掛けたひどいだじゃれ。

「おいでおいで」はもともと、子供を手招きするときの言葉なので、それだけ泥鰌ちょうろうの度が強いということでしょう。「お鉢」は女房詞で飯櫃めしびつのこと。仕上げに泥鰌汁にして煮てやるというだめ押しです。「お鉢が回る」で、「こっちの番」という意味も含んでいるかもしれません。

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かたじけなすび【かたじけ茄子】むだぐち ことば

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「かたじけない=ありがたい」というだけの意味に、ことばが連なるむだぐち。「かたじけない」の「な」から「なすび」に引っ張り込む腕力には驚きです。

「な」ならなんでもよいので、「かたじけ奈良茶」ともいいます。

そんならば、「かたじけナイスガイ」とか「かたじけ夏目雅子」とかは、どんなものでしょう。

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おもしろだぬきのはらつづみ【面白狸の腹鼓】むだぐち ことば

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「おもしろい」を「尾も白い」としゃれ、そこから動物の「狸」と付けたむだぐちです。尾が白い獣はいくらもいるのに、あえてなぜ狸かといえば、やはり腹鼓(狸囃子)の滑稽さからでしょう。あるいは、腹鼓から、腹が破けるほどおかしい意味合いもあるかもしれません。

狸を狐に変えた例もありますが、当然言い捨てで腹鼓はなし。「面白い」を狸に掛けた洒落、むだぐちはけっこうあります。

最後の部分だけあげると、「有馬山」「磯にはんべる」「金鍔焼き」など。

「面白い」自体のむだぐちはさらに多く、「面白山」「面白の魚田」「面ちょろし」「尾も白し頭も白し尾長鳥」「おもちょうじちゃぎつねのかかとちゃんきり」など。

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おどろきもものきさんしょのき【驚き桃の木山椒の木】むだぐち ことば

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「これは驚いたよー」という意味。

「おどろき」を木の種類のように、語呂合わせがうまくいって、人口に膾炙していますね。でも、これが「むだぐち」というものだとはつゆ知らず。

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おっとがってんしょうちのすけ【おっと合点承知之助】むだぐち ことば

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「わかってるよー」という意味。「引き受けたよ」ということも。いかにもありそうな人の名のようなものいいをするわけです。ホントにむだぐちですねえ。

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おちゃのこさいさいかっぱのへ【お茶の子さいさい河童の屁】むだぐち ことば

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ものごとがすらすらさらさらスムーズにできるという意味です。

俗謡のはやしことば「のんこさいさい」をもじっていることばです。

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うっとうしいものはまつまえにある【うっとうしいものは松前にある】むだぐち ことば

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気分がうっとうしい、気が晴れないとぼやく相手への、多少の慰めをこめての揚げ足取りです。

「松前」は直接には師走、正月前のこと。節季の支払いや借金に追われる煩わしさに比べたら、今の時期のうっとうしさなど物の数ではないよ、というわけ。

ついでに遠い北海道の「松前」と掛け、そこまではるばる旅しなければならない苦しみに比べれば、という意味を含めてダメを押しています。

「うっとうしい」は、気鬱なことと雑事で煩わしいことのほか、地方によってはあつかましい、騒がしいなどの意味も。

どちらにせよ、生活を悩ませる愚痴の種全般ですね。

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うっちゃっておけすすはきには出る【うっちゃって置け煤掃きには出る】むだぐち ことば


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「うっちゃって」はラ行五段活用の動詞「打っ棄る」「打っ遣る」の連用形。

「かまわないから放っておけ」と突き放す言い方に「すすはきには出る」と付け、ことば遊びにしたもの。

明和7年(1770)の『辰巳之園たつみのその』にそのまま男の台詞で出ています。

深川遊郭を舞台に男女の色模様が描かれてはいますが、これは洒落本。

有名な『春色辰巳園しゅんしょくたつみのその』は天保年間の人情本です。 文学史的には、洒落本が通人の文学なら、人情本は「いき」「はり」の文学とされています。

互いに50年ほどの時代差もありますから、心の表現に差異が出るのも当然です。

時代が下ると「通」もさらに洗練されて「いき」の境地に届くのでしょうか。

洒落本『辰巳之園』はいまだ「いき」の洗練まではありません。

洒落ことばで遊んでいるだけで。

人情本にいたると男女の色恋に妙な意気地や反語が出張ってきまして、やがては円朝や黙阿弥にいたれば、さらに複雑かつ霊妙な男女の心持ちが表現され、維新後は近代主義のがま口にのみこまれていくのです。

参考文献:『洒落本集成』第4巻(中央公論社、1977年)

「煤掃き」は大掃除で、何か大切なものをなくしたとき、「どうせ暮れの大掃除には出てくるから」と慰める形ですが、この場合、大掃除うんぬんは付けたりで、ただ茶化すために付けているだけでしょう。

「柳田格之進」では、武士の客が盗んだ疑いを掛けられた五十両の金包みが、煤掃で本当に見つかって、上へ下への大騒動になります。


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いらぬおせわのかばやき【いらぬお世話の蒲焼き】むだぐち ことば


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「いらねえ世話を焼かずと、放っておけ」という拒否宣言と、鰻の蒲焼きを掛けたもの。洒落になっているくらいなので、もとより本気ではありません。

男女の痴話げんかで、男の方がすねたそぶりを見せている、というところ。これはおそらく『江戸生艶気蒲焼えどうまれうわきのかばやき』あたりが発生源でしょう。天明5年(1785)にベストセラーになった山東京伝さんとうきょうでんの黄表紙です。

「お世話」は同じ意味で「お世世せせ」となる例もありますが、もともと「おせせ」はお女中言葉をもじったものなので、これを使うのは女の方になります。

「蒲焼き」は「焼き豆腐」と変わることもあります。


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いやならよしゃがれよしべえのこになれ【厭ならよしゃがれ芳兵衛の子になれ】むだぐち ことば


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遊びに誘ったのにはねつけられたときの、子供の悪態です。

「よし(=やめ)にする」から人名の「芳兵衛」と続けますが、「よしべえ」はおそらく「由兵衛」で、隠語で詐欺師のこと。同時に相手の「よすべえ」という断りと掛けた洒落にもなっています。

腹立ちが治まらない場合は、さらに後に「ぺんぺん(=三味線)弾きたきゃ芸者の子になれ、車が曳きたきゃ車力の子になれ」と続けます。

類似の悪態では、「嫌ならいやさきとんぼの女房」「嫌ならおけやれ桶屋の褌かぶって寝ろやれ」などが各地に伝わっています。「おけやれ」とは「よしとけ」の意。


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いちごんもなしのきさいかちさるすべり【一言も梨の木さいかち百日紅】むだぐち ことば


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「恐れ入りました」という無条件降伏宣言。

その言葉尻の「なし」と「梨」を掛けただけのダジャレです。

洒落だけにまじめに謝っているわけはなく、「恐れ入谷の鬼子母神」同様、おちゃらけですね。

「梨の木」の後に続けた二種類の木のつながりは、よくわかりません。

「さいかち」「猿」ともに「甲虫、兜虫(かぶとむし)」の異称であることから、あるいは「かぶとを脱いだ」の意味を含んでいるのかもしれません。

「百日紅」は「猿滑り」で、猿が木から落ちるようにしくじった、というニュアンスもあるでしょう。

類似のむだぐちに、江戸東京限定で「一言も内藤新宿」というのもあります。


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いじわるげんたかげすえ【意地悪源太景季】むだぐち ことば


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「いじわるげんだかげすえ」とも。将棋を起源としたむだぐちは、双六起源と並んで数多く、最大の供給源です。

これもその一つで、「いじわる」と「かじわら(梶原)」を強引に引っ掛けたダジャレ。

梶原源太景季(1162-1200)は源平時代の武将で、『平家物語』の「宇治川の先陣争い」で後世に名を残した人。芝居では「源太勘当」の主人公で、江戸時代には色男の代名詞でした。とんだとばっちりです。

将棋のむだぐちの発生源は、夏の風物詩で、お互いヘボの縁台将棋でしょう。同じ勝負事でもお固い囲碁では、ほとんどこの種のむだぐちは見られません。

江戸後期の滑稽本『浮世風呂』では、湯屋の二階の将棋で、壮絶な、むだぐち合戦が闘われます。


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こっちへきなこもち【こっちへきな粉餅】むだぐち ことば


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「来な」と「きな粉」を掛けた駄洒落の語呂合わせ。「こっちへ来な」と言っているだけのことです。「きな粉」は、黄な粉、黄粉、黄金粉などと記されます。

変形に「こっちへ来のめ(=木の芽)田楽」があり、この場合は地方により、「来」は「こ」とも発音します。

「きな粉餅」の用例でもっとも知られているのは、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」。寺の鐘供養で、大勢の僧侶(聞いたか坊主)が集まって騒いでいるところへ、白拍子花子に姿を変えた清姫の怨霊が出現。美貌で坊主たちを籠絡し、女人禁制の寺内へまんまと潜入しますが、その場面の歓迎の言葉が「さあさあ、こっちへきな粉餅きな粉餅」でした。

ほかに、戯作『春色辰巳之園』でも使われています。


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知りたくなる!故事成語のあらすじ 目次


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「呉越同舟」「臥薪嘗胆」「四面楚歌」……。ことばの奥に潜む物語が四字熟語の魅力です。物語の意味を知り改めて四文字の結びつきや組み立ての深淵や芳醇を感じることが四字熟語のおもしろさ。中国では「故事成語」といいます。落語にも通底する魅力です。ここでは、仏教由来、中国由来、和製の故事成語、さらには名言名句にまで材を求めて、古人の知恵と笑いをさぐってみましょう。2024年7月15日現在。

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あいえんきえん【合縁奇縁】人と人の交わりは不思議な縁によるもの

あいきこつりつ【哀毀骨立】親しい人が亡くなって、悲しくて痩せてしまった

あいきゅうおくう【愛及屋烏】→愛は屋烏に及ぶ

あいこうへんや【哀鴻遍野】難民であふれる

あいごせいもく【相碁井目】実力というものは人さまざま

あいぞうのぬし【愛憎の主】→余桃の罪

あいはおくうにおよぶ【愛は屋烏に及ぶ】人を好きになると周辺にも愛情が及ぶ

あいべつりく【愛別離苦】愛するものと別れる苦しみ

あいまいもこ【曖昧模糊】ぼんやりしていてはっきりしない

あいれんのせつ【愛蓮の説】→蓮は花の君子なる者なり

あうんのいき【阿吽の息】なにかをするときの互いの微妙な調子や気持ちの釣り合い

あおいろといき【青色吐息】弱ったときにでるため息

あおはあいよりいでてあいよりもあおし【青は藍より出でて藍よりも青し】→出藍の誉

あきたかくうまこゆ【秋高く馬肥ゆ】

あくいあくじき【悪衣悪食】質素な暮らしぶり

あくいんあっか【悪因悪果】悪い行いには悪い報いがつく

あくぎゃくむどう【悪逆無道】人の道に背く行い

あくじせんり【悪事千里】悪い行いはすぐに世間に知れる

あくせんくとう【悪戦苦闘】苦しいたたかい

あくにんしょうき【悪人正機】悪人こそ往生するにふさわしい

あくふはか【悪婦破家】心がけの悪い奥さんは家庭を壊す

あくぼくとうせん【悪木盗泉】困っていても他人に怪しまれる行いはしない

あこうのさ【阿衡の佐】名臣が政治を補佐する

あしたにみちをきかばゆうべにしすともかなり【朝に道を聞かば夕に死すとも可なり】

あたらしんみょう【可惜身命】命を大切にする

あつあくようぜん【遏悪揚善】悪を防ぎ、善を用いる

あつうんのきょく【遏雲之曲】雲も立ち止まるほどのすばらしい音楽

あっこうぞうごん【悪口雑言】悪口を言い放題

あつものにこりてなますをふく【羹に懲りて膾を吹く】

あてがいぶち【宛行扶持】一方的に決めた給料

あとぶつ【阿堵物】お金

あびきょうかん【阿鼻叫喚】むごたらしい

あめいせんそう【蛙鳴蝉噪】がやがや

あやうきことるいらんのごとし【危うきこと累卵の如し】

あやのあがん【阿爺の下頷】愚か者

あやまちてあらためざるこれをあやまちという【過ちて改めざる是を過ちと謂う】

あやまてばすなわちあらたむるにはばかることなかれ【過てば則ち改むるに憚ること勿れ】

あゆついしょう【阿諛追従】おもねりこびる

あゆべんねい【阿諛便佞】おもねり口先で立ち回る

あらたにもくするものはかならずかんむりをはじきあらたによくするものはかならずころもをふるう【新たに沐する者は必ず冠を弾き新たに浴する者は必ず衣を振るう】

あんうんていめい【暗雲低迷】穏やかならぬ状態が長く続く

あんえいのこきゅう【晏嬰の狐裘】倹約する

あんきょらくぎょう【安居楽業】落ち着いて好きな仕事ができる

あんこうそえい【暗香疎影】春の夕暮れ

あんしのぎょ【晏子の御】他人の権威におんぶして偉ぶる

あんしゃほりん【安車蒲輪】老人をもてなす

あんしょうのぜんじ【暗証の禅師】教理に暗い僧侶

あんじんりゅうめい【安心立命】天命にまかせ心の乱れがない

あんせんしょうじん【暗箭󠄀傷人】闇討ち

あんたくせいろ【安宅正路】仁と義とは安らかな家と整理された道

あんちゅうひやく【暗中飛躍】人知れずしのんで活躍する

あんちゅうもさく【暗中摸索】手探りで試みる

あんねいちつじょ【安寧秩序】社会に不安なく整然とした状態

あんぶんしゅき【安分守己】本文を守って生きる

いあくのしん【帷幄の臣】参謀

いいきのき【異域の鬼】客死

いいせいい【以夷制夷】外国同士を戦わせて自国を守る

いいだくだく【唯々諾々】人の言いなり

いいれんれん【依依恋恋】恋しくて離れられない

いおうえきぎょう【易往易行】念仏だけでたやすく往生できる

いかいくんとう【位階勲等】功績ある者に国家が与える栄典

いかんせんばん【遺憾千万】残念でたまらない

いかんそくたい【衣冠束帯】大げさな礼装

いきけんこう【意気軒高】元気はつらつ

いきじじょ【意気自如】いつもと同じく平然としている

いきしょうちん【意気消沈】しょげている

いきしょうてん【意気衝天】意気込みがさかん

いきそそう【意気阻喪】やる気なし

いきとうごう【意気投合】互いの心が通じ合う

いきようよう【意気揚揚】得意で誇らしげ

いきんかんきょう【衣錦還郷】出世し富や地位を得て故郷に戻る

いきんのえい【衣錦の栄】故郷へ錦を飾れるほまれ

いくえい【育英】

いくいくせいせい【郁郁青青】草木が香りよく青々と茂る

いくどうおん【異口同音】多くの人の意見が一致する

いげんのはい【韋絃之佩】おのれの性格の欠点をただすための戒め

いこくじょうしょ【異国情緒】外国の雰囲気が漂う

いこみき【已己巳己】互いに似ている

いしきもうろう【意識朦朧】意識がしっかりしない

いしにくちすすぎながれにまくらす【石に漱ぎ流れに枕す】

いしにたつや【石に立つ矢】→桃李言わざれども下自ら蹊を成す

いしはくじゃく【意志薄弱】自分でけ決められない

いしべきんきち【石部金吉】融通が利かない人

いしゅうばんさい【遺臭万載】悪い評判を後世までのこす

いじゅこううん【渭樹江雲】遠方の友を思う

いしょうさんたん【意匠惨憺】工夫をこらす苦心

いしょくたりてれいせつをしる【衣食足りて礼節を知る】

いしょくどうげん【医食同源】医療と食事は元は同じ

いしんでんしん【以心伝心】ことばに出さずとも互いの思いが伝わる

いたいどうしん【異体同心】→一心同体

いだてんそう【韋駄天走】足が速い

いたんじゃせつ【異端邪説】よこしまな考え

いちいせんしん【一意専心】そのことだけに心をくだく

いちいたいすい【一衣帯水】川や海を隔てながらも近接している

いちいんいったく【一飲一啄】自由に生きる

いちおういちらい【一往一来】行ったり来たり

いちげつさんしゅう【一月三舟】仏の教えも人によってさまざま

いちげいいちのう【一芸一能】得意とする技芸や技能を一つ持っている

いちげんこじ【一言居士】ひとこち言っておかなくてはおさまらない人

いちごいちえ【いちごいちえ】一生に一度の出会い

いちごいちじゅう【一伍一什】始めから終わりまで

いちごみょうち【一牛鳴地】距離が近い

いちじせんきん【一字千金】価値ある文字や文章

いちじつさんしゅう【一日三秋】待ち焦がれる

いちじつのちょう【一日の長】経験や技能がちょっとまさる

いちじつへんし【一日片時】わずかの時間

いちじふせつ【一字不説】釈迦は真理を説いていない

いちじほうへん【一字褒貶】一字の使い方次第で褒めたり貶したりする

いちじゅういっさい【一汁一菜】粗食

いちじゅのかげ【一樹の陰】このかかわりは前世から因縁による

いちじょうのしゅうむ【一場の春夢】人生の栄華ははかない

いちじりゅうこう【一時流行】時流に応じて変化する俳句

いちじんほっかい【一塵法界】一つの塵の中にも全宇宙が含まれる

いちぞくろうとう【一族郎党】家族と関係者すべて

いちだくせんきん【一諾千金】約束は重んじる

いちねんつうてん【一念通天】念じて努力すれば思いは天に通じて成功する

いちねんほっき【一念発起】決心する

いちばくじっかん【一暴十寒】ちょっと努力したあとずっと怠けていてはだめ

いちばつひゃっかい【一罰百戒】一人を罰して多くの人のいましめとする

いちびょうそくさい【一病息災】持病が一つあるほうが長生きする

いちぶいちりん【一分一厘】ほんの少し

いちぶしじゅう【一部始終】ことの顛末

いちぼうせんり【一望千里】見晴らしがよい

いちぼくいっそう【一木一草】無視できない小さいもの

いちまいかんばん【一枚看板】一座の大立者

いちみととう【一味徒党】仲間

いちもうだじん【一網打尽】一味を全員つかまえる

いちもうふばつ【一毛不抜】けち

いちもくじゅうぎょう【一目十行】理解力をもった速読の人

いちもくりょうぜん【一目瞭然】一度見ただけではっきりわかる

いちもんふつう【一文不通】一字もわからない

いちやけんぎょう【一夜検校】成金

いちやじっき【一夜十起】私心をなくすのは難しい

いちようおちててんかのあきをしる【一葉落ちて天下の秋を知る】些細な前兆から大事を予知する

いちようらいふく【一陽来復】冬至→冬が過ぎて春が来る→新年

いちりいちがい【一利一害】利もあれば害もある

いちりゅうひゃくぎょう【一粒百行】一粒の米には百の作業を経る

いちりゅうまんばい【一粒万倍】わずかなものが大きな利益をつくる

いちれんたくしょう【一蓮托生】運命をともにする

いちろへいあん【一路平安】道中無事で

いっかくせんきん【一攫千金】不労で巨利を得る

いっかんのふうげつ【一竿の風月】俗事にとらわれない生活

いっきいちゆう【一喜一憂】状況次第で落ち着かない心持ち

いっきかせい【一気呵成】ひといきにやり遂げる

いっきじっき【一饋十起】政治に熱心

いっきとうせん【一騎当千】一人で千人力

いっきのこう【一簣の功】仕上がり直前のちょっとした努力

いっきゅうのかく【一丘の狢】別物に見えてもよく見ると同類

いっきょいちどう【一挙一動】細かい動作

いっきょりょうとく【一挙両得】一つのことをして二つの利益を得る

いっけんらくちゃく【一件落着】一つの事柄や事件に決まりがつく

いっこうりょうぜつ【一口両舌】前に言ったことと後で言ったことが違う

いっこくせんきん【一刻千金】千金ほどのすばらしい時間

いっこけいせい【一顧傾城】美人

いっこせんきん【一壺千金】つまらない物でも時と場合次第では貴重品に

いっこのえき【一狐の腋】希少で珍重すべきもの

いっさいかいくう【一切皆空】すべてのものには実体がない。仏教

いっさいがっさい【一切合切】すべて

いっさいしゅじょう【一切衆生】生きているものすべて。仏教

いっしそうでん【一子相伝】奥義を自分の子どもにだけ伝える

いっしどうじん【一視同仁】人を分け隔てなくいつくしむ

いっしはんせん【一紙半銭】わずか

いっしゃせんり【一瀉千里】文章がすらすら書ける

いっしょういちえい【一觴一詠】一杯飲むたびに一編を作詩する

いっしょうさんたん【一唱三嘆】詩をほめる

いっしょくそくはつ【一触即発】危険な状態

いっしんいったい【一進一退】進んだり戻ったり

いっしんどうたい【いっしんどうたい】二人以上が強く結ばれる

いっしんふらん【一心不乱】集中する

いっすんのこういん【一寸の光陰】わずかな時間

いっせいのゆう【一世の雄】時代の英雄

いっせいふうび【一世風靡】時代の流行

いっせつたしょう【一殺多生】一人を殺して大勢を救う。仏教

いっせんそうちょう【一箭双雕】一石二鳥

いったんかんきゅう【一旦緩急】いざという時

いっちはんかい【一知半解】中途半端な知識

いっちょういっし【一張一弛】時に厳しく時におおらかに

いっちょういっせき【一朝一夕】わずかな時日

いっちょういったん【一長一短】いいところもあれば悪いところもある

いってきせんきん【一擲千金】大金を一度に使う

いってんいっかく【一点一画】構成要素

いってんばんじょう【一天万乗】天子

いっとうりょうだん【一刀両断】決断が早い

いっとくいっしつ【一得一失】得たりなくしたり

いっぱいちにまみれる【一敗地に塗れる】大敗

いっぱつせんきん【一髪千鈞】危険まるだし

いっぱんをみてぜんぴょうをぼくす【一斑を見て全豹を卜す】見識が狭い→ちょぼいち

いっぱんのむくい【一飯の報い】一度の飯の恩に報いる

いっぴんいっしょう【一顰一笑】顔に出る心の変化

いっぺきばんけい【一碧万頃】青々と広がる水面

いっぺんのひょうしん【一片の氷心】清く澄んだ心

いつぼうのあらそい【鷸蚌の争い】→漁父の利

いつやのらん【乙夜の覧】天子の読書

いつをもってろうをまつ【佚を以て労を待つ】

いっきょしゅいちとうそく【一挙手一投足】

いっけんかたちにほゆればひゃっけんこえにほゆ【一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ】

いっしょうこうなってばんこつかる【一将功成って万骨枯る】

いっしんどうたい【一心同体】

いっすいのゆめ【一炊の夢】

いったんのしいっぴょうのいん【一箪の食一瓢の飲】

いっていじをしらず【一丁字を識らず】

いっぱいちにまみる【一敗地に塗る】

いっぴんいっしょうをおしむ【一嚬一笑を愛しむ】

いっぷかんにあたればばんぷもひらくなし【一夫関に当たれば万夫も開く莫し】

いつぼうのあらそい【鷸蚌の争い】→漁父の利

いちもってこれをつらぬく【一以て之を貫く】

いのちながければすなわちはじおおし【寿ければ則ち辱多し】

いのなかのかわずたいかいをしらず【井の中の蛙大海を知らず】

いばしんえん【意馬心猿】

いへんさんぜつ【葦編三絶】

いんがおうほう【因果応報】善行には善報が、悪行には悪報が

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がんこうしはい【眼光紙背】文字づらばかりか文章の深意を知る

がんこうしゅてい【眼高手低】口ほどにもない 談志

かんしょうばくや【干将莫邪】伝説的な名剣

きゅうぎゅうのいちもう【九牛一毛】取るに足りない

けいぐんのいっかく【鶏群一鶴】凡人の中に一人傑物がいる

こうこうのしつ【膏肓の疾】不治の病

こうてんしんなくただとくをこれたすく【皇天親なく惟徳を是輔く】天は徳人を助ける

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しゅつらんのほまれ【出藍の誉】

せきあくのよおう【積悪余殃】悪を積んだ家ではその悪報が子孫に

せきぜんのよけい【積善余慶】善を積んだ家ではその余徳が子孫に

ぜんいんぜんか【善因善果】よい原因にはよい結果が

そうじょうのじん【宋襄の仁】いらぬ気遣い

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たざんのいし【他山の石】他人の悪行を見て自己の向上を図る

ちみもうりょう【魑魅魍魎】化け物いろいろ

ちんけんへいも【椿萱並茂】両親が健在

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はすははなのくんしなるものなり【蓮は花の君子なる者なり】

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ゆうずうむげ【融通無碍】のびのび 志ん生

ようしほうこう【雍歯封侯】部下を安心させるには嫌いな者をまず抜擢する

よとうのつみ【余桃の罪】

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参考文献:『中国故事物語』(後藤基巳ほか編、河出書房新社、1972年)、『中国名言物語』(寺尾善雄著、河出書房新社、1972年)、『日本故事物語』(池田弥三郎著、河出書房新社、1967年)、『中国の故事と名言五〇〇選』(駒田信二ほか編著、平凡社、1975年)、『新明解四字熟語辞典』(三省堂編修所編、三省堂、2010年)、『岩波四字熟語辞典』(岩波書店辞典編集部編、岩波書店、2002年)、『大漢和辞典 修訂第二版』(諸橋轍次編、大修館書店、1989-90年)

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こうてんしんなくただとくあるをこれたすく【皇天親なくただ徳をこれ輔く】故事成語 ことば

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この故事成語が注目されているのは、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)でのシークエンスにあります。

ことばの意味は、こんなかんじです。

天はえこひいきすることなく、ひたすら徳をもった人にだけ援助するものだ。

「皇天」は広い天の意味で、天に敬称をつけた表現です。「皇」には「おおらかな」「広い」のニュアンスがあります。日本の「天皇」につながる語感です。

中国の「天」は、神のような意思をもちながらも茫漠とした存在です。天の仕業は人間には結果しか見えません。愛とか救済とかはないのです。人間の行いをたまに手伝うくらい(愚公山を移す、とか)。

初出は『書経(尚書とも)』から。孔子が編纂したとされる史書で五経の一。中国最古の書です。

ちなみに。

「天」で思い出すエピソードがあります。

昭和47年(1972)9月、田中角栄首相が電撃訪中したときのこと。

29日に日中国交回復を果たした田中は、中国の当時の首脳である毛沢東と周恩来に向けて、以下の七言絶句を送ったのでした。

国交途絶幾星霜 国交途絶して幾星霜
修好再開秋將到 修好再開して秋まさに到らんとす
隣人眼温吾人迎 隣人眼温かくして吾人迎ふ
北京空晴秋気深 北京空晴れて秋気深し

田中はコワモテ風なのに漢詩をつくるなんてすごいなあ、と私は思ったのですが、よく読むと漢字を並べただけの文字列でした。押韻もないし。

「吾人迎」は「隣人が自分を迎えてくれる」ということなら「迎吾人」がよいでしょう。「秋」が二回登場するのも詩心の欠如を感じます。

「北京の空」と言いたいのなら、「北京空」ではなく「北京天」がよいはずです。「空」は「むなしい」の意味にしか使いません。

「天」にはおおざっぱに、①空と②造物主の意味があります。田中の詩は①、「皇天親なく……」は②の意味となります。

田中の詩は、漢詩を愛好する人たちにはぼろくそでした。慶応義塾の中国文学科出身の柴田錬三郎(齋藤錬三郎、1917-78)なんかは、すさまじく憤ってましたねえ。

とはいえ、今太閤の田中なら専門家に代作させることだってたやすかったはずなのに、一人でがんばってつくったわけで、見上げたものです。すばらしいと思いました。

ドカチン出身の田中が見よう見まねでつくった漢詩。

その稚拙かつ無知のあけっぴろげぶりに、毛沢東も周恩来も、逆に感激したのではないでしょうか。

いまでも、中国の要人が訪日すると田中真紀子氏に挨拶しに行くのは、ホントのところは、この一件に由来するのかもしれません。

話が逸れ過ぎてしまいました。

閑話休題。

では、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)での、このことばが登場したシークエンスについてお話ししましょう。

実子の乃木憂助(堺雅人)に倒されたノゴーンベキ(役所広司)。

彼を葬るにあたって、バルカの次男ノコル(二宮和也)が電話で「墓はバルカに建てさせてほしいが、かまわないか」と、日本にいる長男の憂助に尋ねます。

憂助はすかさず「皇天親なく、ただ徳をこれ輔く。花を手向けるのはまだ先にするよ」と返しました。

これを聴いたノコルの表情は、少々険しかったように見えました。

じつはこのことば、故事成語の中では上級の部類です。

現在、日本での中型漢和辞典の代表格は『漢辞海』(三省堂)、『漢字源』(学研)、『新字源』(KADOKAWA)あたり。そのいずれにも載っていません。

読売新聞の過去40年間の記事にも一度も使われていません。新聞記者程度の学力や教養では、ちょっと無理でしょう。

われわれの生活では、まず使うことはない。知ることなしに人生を閉じてもどうってことないこたば。志ん生がよく言う「シャツの三つ目のボタン」というやつ。あってもなくてもよい。そんなかんじのことばなんですね。

知っていれば、人生豊かになるかもしれませんが、言ってみたところで相手に通じないなら、無意味です。これでは会話が成り立ちませんからね。

ノコルも意味がわからなかったのでしょう。「花を手向けるのはまだ先にするよ」にいたってはじめて、憂助の真意を解したかんじです。

ベキらが上原史郎(橋爪功)の自宅で憂助に倒されたにもかかわらず、その後、上原宅が全焼し、焼け跡から三つの焼死体が。

「スス同然で発見されました」と公安の野崎(阿部寛)が上原に報告し、上原は「そんなウソがまかり通るのか」とぼやいています。公安、ではなく、別班の仕業ですかね。

現場に居合わせた上原なのに、その件については言及を避けます。ベキが上原を狙ったのは40年前の私怨によるものだったことがわかり、うしろめたさが噴出したからなのでしょう。

ベキを倒した憂助。別班の任務。でも、しっかり親殺し。ベキの「死」をみとったのは憂助だけでした。ベキは死んだのか、生きているのか。「VIVANT」のこれまでの流れから見れば、そうとうにあやしい。

ベキは生きている。ならば、配下のピヨ(吉原光夫)も、バトラカ(林泰文)も。

ということは、このドラマは続編がある、ということです。

ベキは十二分に徳を抱いた人です。この成語にふさわしい人物でしょう。殺人集団の親玉でありながらも、その徳は「天」も黙っちゃいられないほどなのです。

われわれは、「VIVANTの最終回は?」でドラマの結末を予想しました。

テントの壊滅(→実は解体)、ベキの死(→実は生きている?)、ノコルの死(→たしかに生きている)、ピヨの死(→実は生きている?)、バトラカの生存(→実は生きている?)、ベキと憂助の親子の絆(→かたく結ばれたかんじ)、憂助の除隊(→実は辞めていない)……というぐあいに。

大筋では当ててますが、細部は予想外も。まあ、60点程度でしたかねえ。

テントの派手な爆死がなかったのは、最終回にいたって、制作費が枯渇したからでしょうか。最終回は動的描写があまりにもなかった。企業と政府の買収劇など、半沢直樹もどきがメインで。バルカくんだりでこんな屋内劇を見せられてもねえ。意外にしょぼかった。

「復讐して」。明美が放った断末魔のささやきは、ベキの心に40年間たゆとうていました。

ただ、復讐すべき相手が、かつて乃木卓(→ベキ)の上司である上原史郎(警視庁公安部外事課課長→内閣官房副長官)だった、という、このオチ。

これも正直、意外にしょぼかったです。

上原が内閣総理大臣に出世していたなら、大いに復讐し甲斐もあって、おもしろかろうものを。官僚出の官房副長官では、ちょっとねえ。

ここまで引っ張ってきて、土壇場のダウンサイジングはなんたること。ぽかーん。

最後に。

丸菱商事財務部の太田梨歩(飯沼愛)の正体。じつは、世界で暗躍する天才的な凄腕ハッカー、ブルーウォーカー(blue@walker)でした。

第4回では、太田が送金プログラムを改竄していたのが明るみになりました。

警視庁公安部が踏み込んだ太田の自宅からの押収品の中には、なんと、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の『文楽全集』(小学館)や『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)などがあったのです。

そのCD群の一枚に隠されていたハッキング記録を、野崎が発見。あの刹那、この子(太田梨歩=飯沼愛)はホントに落語ファンなのかい、と落語ファンの視聴者はいぶかしんだものです。

でも。

最終回では、彼女の作業部屋から「一丁入り」がまたも流れていました。これにはビックリ。

言わずと知れた、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の出囃子です。気が緩みます。

彼女はやはり、モノホンの落語ファン、それも本寸法のしんぶんマニア(志ん生と文楽のファン)とお見受けしました。上原のしょっぱい肩透かしは、むしろ太田のたっぷり好みに救われたかんじでしたね。

ウルトラセブンといい、ハリポタといい、「VIVANT」全編を通じての、この手の小物アソビは雲に御す喜びでした。

続編では何が出てくるのでしょう。待ち遠しいですね。



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かんしょうばくや【干将莫邪】故事成語 ことば

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【いみは?】

中国春秋時代(BC771-BC403)につくられた、二振りの名剣。

意味は、名剣。

ただそれだけ。

説教もたとえ話もありません。

剣にまつわるどろどろの物語があるだけです。

ふつう、中国の故事とか名言とかは、説教や教訓に包んでありがたみを感じさせるものですが、「干将莫邪」にはそれがまったくないのです。

神秘と妖気がただよう物語をひそませているところが、ほかの故事成語と趣を異にしています。

「干将」も「莫邪(莫耶、鏌鋣とも)」も人の名前ですが、ややこしいことに、二振りの剣にそれぞれ付けられた名前でもあります。

「干将莫邪」が長いので「干鏌」とも言ったりもします。

「刀剣」とよく言いますが、「刀」は片方だけが刃になっているもので、「剣」は両端が刃になっているものをさします。

「刀」は日本で、「剣」は中国で、多く使われてきました。

なのに、「刀鍛冶」「剣道」と、日本では腑に落ちない使われ方をしているものです。

さて。

「干将」は呉の刀鍛冶、「莫邪(鏌鋣とも)」はその妻の名前です。

干将は「欧冶子」の弟子、欧冶子の娘が莫邪、という関係。莫邪も刀鍛冶をします。

楚王が、剣の鑑定士である風胡子に鋳剣を命じます。

風胡子は、欧冶子と干将に「龍淵(龍泉とも)」「泰阿(太阿とも)」「工布(工市とも)」という三振りの鉄剣をつくらせています。

これを知った晋王は剣を所望しましたが、楚王に断られます。

怒った晋王は楚を攻めます。

都城を囲んで三年。楚は食糧が尽きます。やけのやんぱち、楚王は城楼に上って泰阿剣を掲げるや、あーらふしぎ、晋軍は混乱して敗走しました。

楚王が「これは宝剣の威力なのか、わしの力なのか」と問えば、風胡子は「宝剣の威力です。でも、少しは王の差配も影響しています」と忖度を。

欧冶子も干将も、とんでもない武器を製造する技術者だったのでした。

以上は、『越絶書』(袁康、呉平、後漢)に出ている話です。

ほかにも、『荀子』『呉越春秋』『漢書』などにも干将莫邪の話は登場します。

干将莫邪に鋳剣を命じる王は呉王闔閭です。

でも、『捜神記』では楚王となっています。呉も越も楚も、揚子江流域にあった国です。

福光光司(道教研究などで有名)によれば、、古代中国での剣に関する神秘化し神霊化する思想は、そのほとんどが呉越の地域が舞台だとのこと(『道教思想史研究』岩波書店、1987)。興味深い考察です。

ですから、干将莫邪にまつわる話では、呉でも越でも楚でもかまわないのです。

江南地方ならOKということですね。

以下のあらすじでは、物語としていちばんおもしろい『捜神記』に沿って、干将莫邪の物語を記します。

ただ、前段には『呉越春秋』にだけ残る物語があるので、まずはそれを。

楚王の夫人が、暑さしのぎに、鉄の棒に体を添えて寝ていた。そしたら、たちまち懐妊となり、十か月後には出産。それも黒い鉄の固まりを。楚王は、これは神霊の威が宿るものと、干将と莫邪に鋳剣を命じた。

奇妙な話ですが、「眉間尺」ではこのくだりもしっかり入っています。興味のある方はそちらもお読みください。

【あらすじ 1】

『捜神記』に収められた干将莫邪の物語から。

干将と莫邪は協力し合い、三年がかりで類例の及ばない二振りの剣をつくった。

陽の剣を「干将」と、陰の剣を「莫邪」と名づけた。

なんで自分たちの名前をわざわざ付けるのか。意味不明。

その頃、莫邪は身重だった。

楚王は剣の出来上がりが遅いので怒っていた。しかも、このような優れた剣を他者のためにつくられることにも恐れたを抱いた。

干将が王に剣を献上する日、その日が来た。

出かける前、干将は莫邪に「私は陰の剣だけを王に差し出す。王は怒って私を殺すだろう。生まれてくる子が男だったら、南山麓の木の下に隠してある陽の剣を見つけ出して、その剣で仇を討たせてもらいたい」と告げた。

王は干将を殺した。

莫邪が産んだのは男児だった。

「赤比」と名づけられた。

眉間が一尺(15.8cm)もあるため、「眉間尺」とあだ名された。

少年となった赤比は、父親のいないわけを莫邪から打ち明けられた。

赤比は仇討ちのため、南山麓の木の下から剣を見つけ出し、修行に旅立った。

その頃、王は夢を見た。

眉間尺の少年が自分を討とうとする夢だった。

恐れた王は命じて、眉間尺少年を懸賞付きで捜させる。

赤比は山に隠れたが、父の仇を討てないもどかしさで日々泣いて暮らしていた。

そこを通りかかった旅の男が泣く理由を尋ねる。赤比はわけを語った。

うーん。なみの方法では王には近づけない。ならばいっそ。

と、男はとんでもないことを提案する。

赤比の首と剣を持っていけば王に会えるだろうから、その機に私が王の首を刎ねよう。

赤比は大いに賛成して、すぐに剣でおのれの首を刎ねた。

ええッ、そんなに早く。

首と剣を携えた男は、王との面会がかなった。

王は喜び、「これは勇者の首だから釜ゆでにしよう」と。

赤比の首は三日三晩ゆでられるが、とろけもせず、くずれもせず。目なんかいからせたまま。

どうしたことか。

男は「王よ、釜の中をご覧ください。王の威厳で、必ずや勇者の首はとろけくずれるでしょう」と。

王は言われたままに釜を覗いた。

その瞬間、男は王の首を斬り落とした。

首は釜の中へ。

男も自身の首を斬り落として、釜の中へ入った。

三人の首が、ぐらぐらととろけくずれていった。

三つ巴のどろどろ。

もう区別がつかなくなったので、家臣は三人まとめて墓に入れた。

それが「三王墓」。汝南県にいまも残る。

これが、だいたい一般的な干将莫邪のストーリーです。

日本に渡ると、少し変わってきます。

剣の神秘と、剣に魅せられた王の権力、仇討ちの潔癖は、変わらず伝わります。

【あらすじ 2】

『今昔物語集』巻九「震旦の莫邪、剣を造りて王に献じたるに子の眉間尺を殺される語」からのあらすじを。

震旦(中国)に莫邪という刀鍛冶がいた。

この話には莫邪だけ。

しかも男。

王の妃は夏の暑さにがまんがならず、鉄の柱を抱いて寝ていた。

冷えて気持ちがいいので。ほどなく妃は懐妊。

王は「そんなわけない」といぶかしんだが、やがて妃は鉄の塊を出産した。

「こ、これは」とあやしんでも後の祭り。

王は莫邪を呼んで、この鉄で鋳剣を命じた。

莫邪は二振りの剣をつくり、一振りは隠した。

剣を受け取った王だが、その剣はつねに音を立てている。

尋ねられた大臣は苦し紛れに「この剣は陰陽二振りあって、もう一方を恋い慕っているのではないでしょうか」と。

王は怒り、莫邪を捕まえてくるように命じた。

莫邪は妻に「凶なる夢を見た。だから、王の使いが来て、私は王に殺される。おまえのおなかの子が男だったら、南の山の松の中を見よと告げ、私の仇を討つよう」と。

莫邪は北の門から出て南の山に入り、大きな木のほこらに隠れて死んだ。

妻は男子を産んだ。

眉間の幅が1尺もあり、眉間尺とあだ名されるほどだった。

十五歳の眉間尺は南の山の松のもとに行けば、一振りの剣があった。

その剣を握ると、復讐への思いが湧いてきた。

王は、眉間の広い男が自分を殺そうとする夢を見た。

王は恐れた。

眉間尺は手配の身となった。眉間尺は山に逃げた。

探索する連中の一人が、山中で眉間尺を見つけた。

「眉間尺か」
「そうだ」
「王命でおまえの首と剣を差し出すことになっている」

眉間尺は自らの首を斬り落とした。

刺客は首と剣を携えて王に差し出した。

王は喜び、首を釜でゆでて形なきものにするよう命じた。

七日たっても首は変わらなかった。

王はいぶかしんで釜の中を覗き込んだ。

そのとき、王の首が体から離れて釜に落ちた。

釜の中で二つの首は噛み合った。

それを見ていた刺客は剣を釜の中に投じた。

剣の霊力か、二首は煮とろけた。

その変化を見ているうち、刺客の首も自然に斬り落ちて釜に入った。

三首がどろどろとなった。区別もつかないので、一つの墓に三つの首を葬った。

これが三王墓で、宜春県に残る。

話はスマートになっているようにも見えます。『捜神記』での莫邪はあまり活躍の場面もありませんでした。『今昔物語集』では名前のない妻になっています。王の首が斬り落ちるのが不可解ですが、ここはもう剣の霊力によるものと解釈すれば、刺客の首ポトンも同じでしょう。つまり、この物語の大半は剣の霊力がストーリーを突き動かしているのです。

【あらすじ 3】

では、もうひとつ。

『太平記』巻十三の「眉間尺釬鏌剣の事」に見える干将莫邪の話を見てみましょう。

舞台は建武2年(1335)7月23日の鎌倉。北条時行が鎌倉を攻めた中先代の乱で、その混乱に紛れて、幽閉されていた護良親王が謀殺されます。この日、親王の首を斬り落としたのは淵野辺義博ですが、義博はその首を藪に投げ捨てて戻ります。

なぜか。その理由が、干将莫邪の故事を通して語られるのです。

淵野辺甲斐守(義博)が、兵部卿(護良親王)の首を左馬頭(足利直義)に見せることなく、藪に捨てた理由は、義博自身が少々考えるところあって、このようにふるまった。

ほんとうの理由は。

春秋時代の楚王の物語である。

夏の頃。

甫湿夫人なる楚王の后は鉄の柱に寄りかかって涼んでいたが、ただならぬ心持ちとなって、たちまち懐妊。

鉄の玉を出産した。

楚王は、この玉は金鉄の精霊だろうからと、干将という鍛冶に鋳剣を命じた。

鉄を拝領した干将は呉山に入り、竜泉の水で鍛えて三年がかりで雌雄二振りの剣を仕上げた。

献上する前に、妻の莫邪は干将に「この二振りの剣は精霊がひそかに備わっていて、いながらにして仇敵を滅ぼせるほどです。生まれてくるのは勇ましい男子でしょう。それなら、一振りは隠しておいてわが子にお与えください」と言った。

干将はもっともだと、雄剣のみを楚王に献上した。

王が剣を箱の中に納めると剣が泣いた。

毎晩のことだった。

王は家臣に尋ねると、ある知恵者が「きっと雌雄二振りの剣で、同じところにいないことを悲しんで泣くのでしょう」と奏上した。

王は怒った。

干将に問いただしたが、干将は答えない。

王は干将を獄に投じ首を刎ねた。

莫邪は男児を出産。

眉と眉の間が一尺あったので眉間尺と名づけられた。

眉間尺が十五歳になると、莫邪は父の遺書を読ませた。

そこには「太陽が北向きの窓から射す南山に松の木がある。松は石のはざまで成長する。剣はその中にある」と記されてあった。

眉間尺は「ならば、剣は北向きの窓の柱の中にあるのだな」と言って柱を割って中を見ると、剣があった。

眉間尺は喜び、「この剣で父の仇を討とう」という気持ちが骨の髄までしみ込んだ。

眉間尺が怒っていることを知った王は、数万の兵をやって眉間尺を攻めた。

眉間尺一人の強い力に打ち砕かれて、剣の刃先に死ぬ者や負傷する者が数え切れないほどだった。

王は困り果てた。

甑山からの旅人が眉間尺のもとにやって来た。

干将と交わりを結んだことのある人だった。

旅人は「おまえの父親と結んだ友情は金を断ち切るほどの強いものだ。友の恩に謝するために楚王を討とうとしたが、できなかった。おまえがともに仇を晴らそうと思うのなら、剣の切っ先を三寸食い切って口に含んで死ぬがよい。わたしはおまえ首を持って王に献上しよう。おまえはそのとき口に含んだ剣の切っ先を王に吹きかけて相討ちにしろ」と申し出た。

眉間尺は喜んで、すぐさま剣の切っ先を三寸食い切って口に含み、自ら首を斬り落とし、旅人に差し出した。

旅人は、首を持って王に目通りを。

王は喜び、首を獄門にかけさせた。

首は三か月たってもただれず、目は見開き歯を食いしばって歯ぎしりしていた。

王は恐れ、首を鼎で煮るよう命じた。

あまりにも念入りに煮られたので、首も目を閉じた。

王は恐れることなく鼎をご覧になった。

眉間尺の首は王に向かって剣の切っ先を吹きかけた。

切っ先は正確に王の首の骨を貫いたので、首は鼎の中に落ちた。

王も荒々しく気が強かったので、煮えたぎる鼎の中で双首は上になり下になり、からりひしりと食い合っていた。

眉間尺の首が負けそうな気配に見えたので、旅人はおのれの首を斬り落とし、鼎の中に投げ入れた。

眉間尺と協力し合って王の首を食い破り粉砕した。

眉間尺の首が「死んでから父の仇を晴らした」と言えば、旅人の首も「死んであの世から友の恩に感謝する」と喜んだ。

一度にどっと笑う声が聞こえ、首はは煮ただれて形をなくした。

眉間尺が口に含んだ三寸の剣の切っ先はその後、燕国に残され、太子丹の宝物となった。

太子丹が荊軻と秦舞陽を使って始皇帝を殺そうとしたとき、この剣の切っ先は地図を入れた箱からひとりでに飛び出し、始皇帝を追いかけた。

が、侍医に薬袋を投げつけられたため、さしわたし六尺の銅の柱を半分ほど切って、三つに折れてそのまま行方不明になった短剣がこれだった。

干将の鋳した雌雄二振りの剣の残りは、干将莫邪の剣といわれて、代々天子の宝物となっていたが、陳の時代に行方不明となった。

あるとき。

彗星が現れ、災いの前兆となるできごとが怒った。

臣下の張花と雷煥が高殿に昇って彗星を見るや、古い獄門のあたりから剣の形の光が天空に昇って、彗星と戦っている気配だった。

張花は不思議に思い、光が射す場所を掘ってみた。

干将莫邪の剣が地下五尺の地点に埋もれていたのだった。

二人は喜んで、剣を掘り出し、天子に献上するために自身で腰に差して延平津という船着き場を通った。

天子の宝物になってはいけないいわれでもあったのか、二振りの剣はひとりでに抜け落ちて水中に入ってしまった。

それが雌雄二頭の竜となって、はるか遠い波間に沈んでいった。

以来、剣は行方不明である。

淵野辺甲斐守(義博)は、このような奇譚を思い出したからか、兵部卿(護良親王)が刀の切っ先を食い切ってお口に含みなされたのを見て、首を左馬頭(足利直義)に近づけることをせず、遠い先を見通して藪に捨てたという判断はりっぱなことだったと、この故事を知る者たちは感心したものだ。

いやあ、えらい長い物語でした。

お読みになっておわかりの通り、『捜神記』や『呉越春秋』などよりも、細部が行き届いています。人の心の動きも見えてきています。

この故事は、「擬宝珠」「眉間尺」などで下敷きに使われています。

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ぐいちかすざけひげにつく【ぐいち粕酒髭につく】むだぐち ことば


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「愚人夏の虫」で出た五二ぐに同様、やはり双六博打すごろくばくちで、五一ぐいちも悪い目。

三六とともに、意味のないまったくのカス目で、そこから五一三六=どっちもどっち、どんぐりの背比べという慣用句も生まれました。

しゃれとしては、ぐいちから「ぐい」と酒をあおると掛け、「カス目」から粕酒(=どぶろく)とつなげています。

最後の「ひげ」は、博打で目が出ず「ひけ(=負け)を取る」のダジャレ。

やけ酒をあおっても、口の周りや髭に、賽の目同様何の役にも立たない酒粕がくっつくだけ。

踏んだり蹴ったり、というところでしょう。


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けいまのふんどしはずされぬ【桂馬の褌はずされぬ】むだぐち ことば


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将棋の対局中に、桂馬が前方の二枚の敵駒に両取り、両天秤をかけることを、しゃれて言ったもの。

両取りは二股、両脚を開いて掛けているのといっしょで、どちらかの駒を捨てないかぎり、これは外せません。

そこで「股」「脚」から褌としゃれたわけです。別名「吊り褌」とも。

で、結局大駒をタダ取りされた上に、次はいきり立った馬に成られて本当に褌が外れ、「金」が出てしまったりするわけで。

こうなると、踏んだり蹴ったり。


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けしがからけりゃとうがらしはひっこむ【罌粟が辛けりゃ唐辛子は引っ込む】むだぐち ことば


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「けしからん」という一喝に対し、まぜっ返しというより、タンカでけんかを売っている感じです。

「けしからん」から「芥子が辛い」とダジャレで、「なんだ、芥子が辛くねえだ?あったりめえだい。芥子の実なんぞが辛かったら、トンガラシははだしで逃げださァ」と毒づいています。

「唐辛子は…」以下は出典によって多少変わり、「山椒や蕃椒(=唐辛子)ァ佐渡ィ金堀にでもやるわい」「唐辛子やわさびは株を売って裏店へ引っ込むわえ、べらぼうめ」など。

こういう言いたい放題を、無謀にも腕の立つ侍にでも面と向かって浴びせた日には、たちまち首と胴がおさらばするのは必至。

首提灯」のおにいさんがよい教訓です。


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けんじてんのうあきのたの【献じ天皇秋の田の】むだぐち ことば

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「けんじ」は同音異義語で、出典により「見じ」=拝見する、「献じ」=さしあげる、の二通りの意味になります。

どちらにしても「天智天皇てんじてんのう」と掛けるしゃれは同じです。そこから、「百人一首」で第一番、天智天皇の歌「秋の田の かりほのいほの とまをあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」を出しています。この歌は『後撰和歌集ごせんわかしゅう』収録です。

「見じ」では「どれどれ拝見」、「献じ」では「一献さしあげましょう」の意味の、気取ったむだぐちになります。通常は「秋の田の」はただの付けたりであることも多いですが、さらに「あき」でしゃれを付け加え、見ていたらあきれた、とする例もあります。

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けんのんさまへつきまいり【剣呑様へ月参り】むだぐち ことば


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将棋ネタで、危うく相手のワナを見破って「あぶないあぶない」というむだぐち。「けんのん(剣呑=危険)」と「かんのん(観音)」を掛けたひどいダジャレです。

観音から月参り、つまり信心の毎月の参詣を出しただけです。

「月参り」は、ただことばを整えるための付け足しと思われますが、もう一つ「月」「突き」のしゃれもあるかもしれません。

「これからこう駒を突いて、こう参りましょう」と、危機回避から逆襲への意思を示したとも解釈できます。

それにしても、こんなダジャレで尊い観世音菩薩をダシにするとは、仏罰が当たること間違いなしでしょうね。


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こころえたぬきのはらつづみ【心得狸の腹鼓】むだぐち ことば


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心得た、腹に呑み込んだから安心しろというのを、幾分おどけてむだぐちで言ったものです。

しゃれとしては、ただ「こころえた」の「た」からたぬきを出しただけ。

「腹鼓」には、胸をたたいて請け合う意味を含めたのでしょう。

「心得た」のしゃれことばは多く、ほとんどが同じパターンです。

例をいくつか挙げますと、「心得たんぼ」(「お休みの江に月は入りけり」の解説参照)「心得太兵衛」「心得玉子のふわふわ」「心得太郎兵衛のばばさま」「心得ましたと木綿四手ゆうしでの」などなど。

むだぐちの締めに「狸の腹鼓」とした例は「面白狸の腹鼓」がありました。


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ありがたやまのとびからす【ありがた山の鳶烏】むだぐち ことば

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照れを含んだ感謝の意で「ありがたや」の言葉遊び。語尾の「や」から語呂合わせで「やま」、そこから連想で「鳶」「烏」を出しただけです。

「鳶烏」の最初の形は「時鳥ほととぎす」。

「ありがた山」も最初は「ただ取る山」→「待ちかね山」だったのを、ニュアンスを変えて謝礼の言葉になってから、爆発的に流行。

「山の」の後付け部分だけでも「桜」「二軒茶屋」「猫」、「呑込山」「出来兼山」と、さまざまなバリエーションができました。

しまいには、現代の子供のおふざけの「蟻が十匹」まで、この系譜は続いています。

「ありがた山」は「有難山」と記すこともあります。

蛇足ですが。

大昔、大学の体育祭でのこと。

講堂のステージでは、ウェイトリフティングの競技が行われていました。誰がどれだけ重いバーベルを持ち上げられるかいう、あれです。

体重150kgもあろうかという肥満型の男子学生がのっそり登壇し、100kgのバーベルをうんとこやっとこ持ち上げたのです。

割れんばかりの拍手喝采。と同時に、「いいぞー、肉山くーん!」の声援が湧きました。会場は大爆笑。ウケた。

肥満学生の名前が「肉山」だったわけでもないし、肉屋のせがれでもなかったはずです。

贅肉ぷりぷりの、およそスポーツとは無縁そうな男が130kgを持ち上げたことからの、その意外な状況と、ふいに頭をよぎった語感が結びつけられた、野次馬の安直な連想だったのでしょう。

わかりやすい発想です。

むだぐちが生まれる場面は、およそ、とっさのひらめきが突き上げるものなのですね、きっと。

この「ありがた山の鳶烏」もそんなところから生まれた、唐突な瞬間芸だったといえます。

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いただきやまのとびからす【頂き山の鳶烏】むだぐち ことば

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「ありがた山の鳶烏」とまったく同じパターンで、「いただきます」を洒落て言葉遊びにしただけです。

詳細はその項を参照。ただ、「ありがた山」と併せて補足すると、なんでもかんでも語尾に「山」を付けて「○○山」とするのは、安永年間(1772-81)に流行した通人言葉です。

ただ洒落けを付けるためのもので、「山」自体にあまり意味はありませんが、あるいは「さま」を気取って符牒化したのかも知れません。

「頂き……」自体も変形が多く、「頂き笠の緒」「頂き女郎衆」「頂きの渡せる橋」などがあります。

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がんこうしはい【眼光紙背】故事成語 ことば

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本を一回読んで、字句の意味だけではなく、文意の奥深さをも理解する。

よく「眼光紙背に徹す」と言います。その略が「眼光紙背」。四字熟語になっています。

たんに文字づらだけを追ってうわっつらを知るのではなく、文章の深意まで洞察すること。目の光が紙に記された文字の表面だけでなく、裏側にまでとおる、ということから。

塩谷宕陰しおのやとういん(儒者、1809-67)の「安井仲平の東遊するを送る序」の一節に由来するそうです。安井仲平とは安井息軒やすいそっけん(儒者、1799-1876)のこと。息軒の才能を「書を読むに眼は紙背にとおる」と記しているのです。二人は昌平坂学問所(昌平黌)の教授で、同僚でした。

珍しい、和製の四字熟語ですね。

「行間を読む」は行と行の間を推測することで、文の深い意味を理解することとは少々異なります。でも、おおざっぱには類義語といえるでしょう。

ちなみに「眼光紙背」または「眼光紙背に徹する」、過去40年間の読売新聞の記事では27回使われています。その多くが政治面でした。政治家好みの成語なのですね。

2023年8月27日(日)放送のTBS系「VIVANT」第7話で、乃木憂助(堺雅人)が野崎守(阿部寛)に、「あなたは鶏群の一鶴、眼光紙背に徹する」とささやくシーンがありました。「これから起こることは表面だけを見ていてはわかりません。その裏をよく見てください」という意図が含まれていたのでしょうね。

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けいぐんのいっかく【鶏群の一鶴】故事成語 ことば

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数多くの凡庸な人々の中に一人優れた者がいる、という意味。

鶏(=凡人)の中に一羽の鶴(=傑物)がいる、というところから。

世説新語せせつしんご』容止、『晋書しんじょ』嵆紹伝などに見えるのですが、『晋書』による故事は以下の通り。

西晋(265-316)の嵆紹けいしょう(253-304)をめぐる物語です。

嵆紹とは、「竹林の七賢人」で有名な嵆康けいこう(223-262)の嫡子です。嵆康は魏の貴族で中散大夫ちゅうさんたいふ(正五位上)の地位でした。高位ではありません。曹操の曾孫と結婚していますから、嵆紹は曹操の血を継承しています。嵆康は厳密には隠者とは言い難く、世俗の人でもありました。奔放な性格だったそうですが、曹操の一族に連なったわけですから、隠者ぶっているわけにはいきませんでした。政治家半分、隠者半分。そんな人でした。

嵆紹が都の洛陽にはじめて上った時のこと。

嵆紹を見たある男が王戎(234-305)に「稠人ちゅうじんの中において、はじめて嵆紹を見る、昂昂然として野鶴の鶏群にあるがごとし」と言ったそうです。「稠人」とは大勢の人の意。大勢の中にあって意気高く、まるで野の鶴が鶏の群にいるようだ、といった意味です。

それにこたえた王充は笑って「君はあいつの父親を知らないからそんなことを言っているんだよ」と。父親とは嵆康のことですから、この時点では、息子の器量は親父のそれを超えられていなかったのでしょう。王戎は竹林の七賢人の一人。嵆康も嵆紹も熟知していました。言うことが心憎い。

嵆紹はそののち、西晋の恵帝(第2代、259-307)に仕え、とんとん拍子で侍中じちゅう(側近の大臣)にまで出世しました。

ところが、八王の乱(当時の権力闘争)が繰り返され、国内不安定の時代となりました。

恵帝は河間王の不遜ぶりを征圧しようとしたのですが、帝に利あらず。蒙塵(天子が難をさけて都を逃げ出す)とあいなりました。近侍の多くは雲散霧消し、帝に付き従う者がいません。

嵆紹ただ一人。果敢に帝をかばおうとした嵆紹は、敵矢のえじきとなって死んでしまいました。

その際、嵆紹の血が帝の衣についたのだそうです。

やがて乱も落ち着いた頃。

近侍が衣を洗おうとしても、帝は「これは嵆紹の血である」と言って、洗わせなかったそうです。

嵆紹の才やら信やら忠やらのほどがしのばれます。

日本では「掃き溜めに鶴」と言いますね。似ているように見えますが、こちらは美しいものへの称賛です。「泥中之蓮」(泥の中に咲く蓮)が類義語でしょうか。

「鶏群一鶴」の類義語は、むしろ「嚢中之錐のうちゅうのきり」あたりでしょうか。

ちなみに、読売新聞の記事では過去40年で、「鶏群一鶴」または「鶏群の一鶴」が登場したのは3回でした。

蛇足

「あなたは鶏群の一鶴、眼光紙背に徹す」。8月27日(日)放送のTBS系「VIVANT」第7話、バルカ行きの機内でうたた寝している野崎(阿部寛)の手甲に、乃木(堺雅人)が掌を重ねながらつぶやくひとことです。乃木が野崎の鋭い洞察と潔い品性をたたえたことばであるのだなあと思いました。しかし、このドラマはそんなに素直でやわな向きではありません。これから起こるとんでもない事態に、乃木は野崎になにかを託した含意ととらえるべきでしょう。じじつ、バルカ入りした乃木は、テントと接触した現場で別班の仲間4人を瞬時にあやめ、全国の視聴者を仰天させてくれました。鶏群の一鶴、眼光紙背に徹す……。「他の人は見えるものにばかり振り回されるのでしょうが、あなたなら、その奥にひそむ真実を見てくれますよね」。乃木のつぶやきはさし迫る危機への祈りだったのかもしれません。いやあ、次回が待ち遠しい。(2023年8月29日)

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しゅんじゅうさしでんのことば【春秋左氏伝のことば】故事成語 ことば

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『春秋左氏伝』はいまでもかなり楽しめる書です。紀元前722年から前481年までの古代中国、魯の国のできごとを記した『春秋』(歴史を意味します)という書の注釈本のひとつ。「なんだ、注釈書か」と思われるかもしれません。でも、これがすごい。よく読むと、素っ気ない文体に豊かな含蓄。あまた味わい深くて。酒見賢一、宮城谷昌光、安能務なんかが描く世界ですね。現代でもおなじみのことばがたくさん登場します。故事名言の宝庫です。そこで、気になることばを一覧にしてみました。
故事成語初出年意味
挙国一致隠公元年(前722)国民全体が一致して同じ態度をとる
菟裘ときゅう隠公十一年世を退いて余生を送る場所。官を辞して隠棲する地
德を度り力を量る隱公十一年為政者が人々に信頼される人格と行政能力をもっているかどうかを推し量る
大義滅親隠公十四年君主や国家のためには親子の情をもかえりみない
玉を懐いて罪あり桓公十年分不相応のものを持つとわざわいを招く
城下の盟桓公十二年城下まで敵に攻め寄せられ講和を結ぶ
ほぞを噛む荘公六年後悔する
長享荘公十年日本の元号。1487-89年
禍に臨みて憂いを忘れば憂い必ずこれに及ばん荘公二十年災禍に臨みながらもそのつらい思いを忘れてしまうようではあとでとんでもない心配ごとが起こる
酖毒閔公元年猛毒
風馬牛僖公四年自分とは関係ない
一薫一蕕いっくんいちゆう僖公四年善人が悪人にやられてわざわいが長く残る
唇亡びて歯寒し僖公五年助け合う仲の一方が滅びると他方も危なくなる
唇歯輔車僖公五年持ちつ持たれつ
善敗己に由る僖公二十年良いも悪いも自分次第
蒙塵僖公二十四年天子が都から逃げ
玉趾を挙ぐ僖公二十六年貴人が来る
東道の主僖公三十年主人として来客の世話をする
墓木已に拱す僖公三十二年この死にぞこないめ!
帰元僖公三十三年
敵愾文公四年君主の憤りをはらそうとする
愛日文公七年冬の日
畏日文公七年夏の日
言葉なお耳にあり文公七年以前に聞いたことばが今でも耳に残る
八愷はちがい文公十八年心が清く正しく徳の高い人。八元に同じ
八元文公十八年心が清く正しく徳の高い人。八愷に同じ
済美文公十八年よいことをする
董狐の筆宣公二年権力を恐れずに真実を発表する
魑魅魍魎宣公三年化け物いろいろ
かなえ軽重けいちょうを問う宣公三年その人の価値や能力を疑う→足元を見る
食指が動く宣公四年人差し指→食欲がわく
染指宣公四年ものごとを始める
野心宣公四年分不相応の大きな望み
肉袒宣公十二年降伏
七徳宣公十二年軍事の七つの徳→平和で繁栄のいいことづくめ
草を結ぶ宣公十五年恩に報いる
楚囚成公九年(前582年)囚人
二豎にじゅ成公十年(前581)病気
病膏肓やまいこうこう成公十年(前581)不治の病
勧善懲悪成公十四年悪は亡びる
菽麦しゅくばくを弁ぜず成公十八年愚かでものの区別がつかない
百年河清を襄公八年いくら待ってもむだ
杖るは信に如くはなし襄公八年たよれるのは信義だけ
安に居て危を思う襄公十一年いつでも危機に備えるのが大切だ
推輓すいばん襄公十四年おすすめ
貪らざるを以て宝となす襄公十五年無欲が自分の宝
南風競わず襄公十八年南方の勢力が弱い→威勢がない
禍福は門なし襄公二十三年幸不幸は自分が招く
慎始敬終襄公二十五年手抜きせずにやり抜く
太史の簡襄公二十五年記録
抜本塞源昭公四年根本原因を抜きとって弊害を元からなくす
興国昭公四年国の勢いを盛んにする
尾大掉わず昭公十一年上司が弱く部下が強いと仕事の発展はむり
末大必ず折る昭公十一年部下が強大になると上司は必ず滅びる
三墳五典昭公十二年古代の書
八索九丘昭公十二年こちらも、古代の書
善に従うこと流るるがごとし昭公十三年よいと思ったらすぐやる
寛政昭公二十年寛大な政治
牛耳を執る定公八年同盟の盟主となる
藩屏はんぺい定公四年垣根
三度肘を折って良医となる定公十三年苦しい体験を積んで味のある人になる
良禽択木哀公十一年賢い部下は親分を選んで仕える
心腹の疾哀公十一年強敵
獲麟かくりん哀公十四年(前481)終わり

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おきまりのこうしんさま【お決まりの庚申さま】むだぐち ことば

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「今さら言うまでもねえ、決まりきったことだ」というむだぐち。「庚申さま」は庚申待ちのこと。

江戸時代の習俗で、庚申の日の夜、町内の衆が集まり、一晩徹夜で夜明かしをしました。庚申の夜に寝ると、三尸という想像上の虫が体内に入り込んで命を縮めるとか、この夜に妊娠すると、生まれた子供は盗賊になるなどの迷信があり、要は厄除けです。庚申待ちは厳格に決まった日に行うため、こう続けたものです。「お定まり」も同意で、ともに江戸っ子が日常よく口にしました。「お決まり(決まり)」「お定まり」とだけ言い捨てた場合、「紋切り型」「代わり映えしない」という否定的なニュアンスが強くなります。

三尸は年に一度、人に宿った体内から出て、天帝おつげに行きます。一年間、その人はどんなことをしてきたのかを天帝に伝えることになっています。これは道教の習わしです。庚申さまとは多分に道教の影響があるのです。

この三尸なる虫。中国哲学の加地伸行氏は、三尸=かぐや姫、という説を唱えています。そのものずばりではないでしょうか。『竹取物語』は仏教典が初出とのことですが、日本人向けに潤色されたのは中国でのことでしょう。

ことばよみいみ
庚申 かのえさる
三尸 さんし

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ゆうずうむげ【融通無碍】故事成語 ことば

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考えや行いが一つのことにとらわれることなく、その場その場に応じて、のびのびしている状態。

融通無礙とも。

「融通」は成り行き次第。「無碍」はじゃまなものがないこと。

【文例】

子供の創造性を重んじるなら、決まりごとにとらわれることなく、融通無碍なところも認めなくてはならないだろう。

【類語】

融通自在、無礙自在。

融通無碍は、志ん生のためにあることばでしょう。

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えどござんまい【江戸五三昧】ことば

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江戸にあった代表的な五つの火葬場のことです。

もちろん、死体を焼却する施設。火葬場、焼き場、龕堂、火屋、荼毘所などと呼ばれます。

東京の火葬場は現在、23か所あります。民営が7、公営が16、都営が1。

たとえば、民営火葬場は以下の7施設です。

町屋斎場(荒川区)東京博善㈱
四ツ木斎場(葛飾区)東京博善㈱
桐ヶ谷斎場(品川区)東京博善㈱
代々幡斎場(渋谷区)東京博善㈱
落合斎場(新宿区)東京博善㈱
堀ノ内斎場(杉並区)東京博善㈱
戸田葬祭場(板橋区)㈱戸田葬祭場

都営と公営は、合わせると以下の18施設です。

瑞江葬儀所(江戸川区)都営
臨海斎場(大田区)大田区、目黒区、世田谷区、品川区、港区の共同運営
青梅市民斎場(青梅市)青梅市
立川聖苑(立川市)立川市
八王子市斎場(八王子市)八王子市
日野市営火葬場(日野市)日野市
府中の森市民聖苑(府中市)府中市
南多摩斎場(町田市)町田市
瑞穂斎場(瑞穂町)西多摩郡
ひので斎場(日の出町)西多摩郡
大島町火葬場(大島)大島町
小笠原村父島火葬場(父島)小笠原村
小笠原村母島火葬場(母島)小笠原村
神新島村火葬場 神津島村
津島村火葬場(新島)新島村
式根島火葬場(式根島)新島村
八丈町火葬場(八丈島)八丈島
三宅村火葬場(三宅島)三宅島

では、かんじんの江戸期の江戸の町では、どうだったでしょうか。

火葬場は、基本的には寺ごとにあるもので、寺の奥隅に建てられた荼毘所や火屋として成り立っていたようです。

それが、大きく変わるのが、明暦の大火(1657年)。

これ以降、火葬場は江戸の郊外に移っていきました。

土地を多く確保できたため、専用施設化に。

江戸時代には、「江戸五三昧」ということばがありました。

ここでいう「三昧」は供養→火葬場の意味です。以下の5つの火葬場をさしました。これは諸説がありますが、以下はとりあえずの説です。

小塚原火葬地

寛永年間(1624-45)、浅草下谷周辺に19か所あった火葬寺を、火葬の煙や臭いが寛永寺へ及ぶことを懸念し、四代将軍徳川家綱(1641-80)の命で小塚原にまとめて移転となりました。寛永寺は将軍家の菩提寺のひとつですから、これはやはりまずかったのでしょう。明治期になると、木村荘平(牛鍋いろは大王、1841-1906)の起こした旧東京博善が日暮里火葬場と合併して町屋日暮里斎場となり、現在では町屋斎場となっています。
※小塚原→南千住南組→町屋日暮里斎場→町屋斎場

代々木村火屋

文禄年間(1593-96)、四谷千日谷の火屋(=火葬場)が千駄ヶ谷村に移転し、寛文4年(1664)に代々木村狼谷にさらに移転しました。四ッ谷西念寺、勝典寺、戒行寺、麹町栖岸院、必法院など5施設の荼毘所となったのがはじまりです。900坪の敷地を有し、ここには火葬の仕事に従事する家が3軒あったそうです。明治初期には個人経営だったのが、明治26年(1893)に旧東京博善に譲渡され、代々幡斎場となりました。
※四谷千日谷→千駄ヶ谷村→代々木村狼谷→代々幡斎場

上落合村法界寺

市谷薬王寺町の蓮秀寺(日蓮宗、新宿区市谷薬王寺町22)の末寺、無縁山法界寺に荼毘所があったことがはじまりです。法界寺は廃寺となりました。法界寺は外から目隠しの垣根で囲まれていて中を見ることはできず、入り口は2か所あって「焼場法界寺」の表札がかかっていたそうです。法界寺には檀家がないため、死者を火葬するだけの施設だったようです。明治26年(1893)、旧東京博善に移り、落合斎場へ。「らくだ」に出てきます。
※高田上落合村法界寺→落合斎場

桐ヶ谷村霊源寺内荼毘所

桐ヶ谷斎場の道路を隔てた隣にある霊源寺(浄土宗、品川区荏原1-1-2)の龕堂(=荼毘所)でした。江戸期には「火葬寺」と呼ばれていました。3538坪有した境内には、その中を街道が通り、「浄土宗江戸三田長松寺末諸宗山無常院」と号したそうです。明治18年(1885)、火葬場と寺が分離され、福永幸兵衛など10人の組合経営となり、法行合名会社(匿名組合経営)となりました。昭和4年(1929)、東京博善に併合されました。「黄金餅」に出てきます。
※桐ヶ谷霊源寺→法行合名会社(匿名組合経営)→桐ヶ谷斎場

砂村新田阿弥陀堂荼毘所

砂村(江東区)の十間川と小名木川の間にある岩井橋付近にあった砂村新田の阿弥陀堂、極楽寺の荼毘所がはじまりです。「砂村の隠坊」と呼ばれていました。「四谷怪談」第三幕「隠亡堀の場」の舞台でも有名。「隠亡堀の戸板返し」ですね。明治期には砂村荻新田に移り、明治26年(1893)、旧東京博善の傘下となり、東京博善に引き継がれました。同年、旧東京博善傘下となった亀戸火葬場は、深川浄心寺(日蓮宗、江東区平野2-4-25、江戸十祖師の一)の荼毘所としてはじまり、亀戸に移転した火葬場です。明治27年(1894)、砂村火葬場と合併して砂町葬祭場(砂村亀戸)となりましたが、昭和40年(1965)に廃止されました。
※砂村新田極楽寺→砂村荻新田→亀戸火葬場(←深川浄心寺)と合併→砂町火葬場→廃止

これら以外には、炮録新田(葛西)や芝増上寺今里村下屋敷(白金)などにも火葬場があったそうです。

炮録新田は都営の瑞江葬儀所(江戸川区春江)とのかかわりが推定されます、よくわかりません。

芝増上寺今里村下屋敷(白金)は、明治期には東京府の公営屠畜場(港区白金台2-20)となりました。明治43年(1910)まで営業していましたが、移転しました。この地域には外国公館が点在し外国人居留者が多いのは明治以来のことで、新鮮で良質な精肉の需要があったのでしょう。明治期に開店した肉料理店には「今半」のように「今」を冠した店が多かったのですが、その意味は、今里町の「良い肉を使っていますよ」という客へのメッセージだったのだそうです。

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えどじっそし【江戸十祖師】ことば


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江戸市中にある著名な日蓮上人(祖師)像がある、日蓮宗系の十寺院をさします。

法苑山浄心寺(通称:除災祖師、江東区平野2-4-25)
旧本山は久遠寺

平河山法恩寺(通称:本所法恩寺、墨田区太平1-26-16)
旧本山は本圀寺

龍鳴山本覚寺(通称:日限祖師、台東区松が谷2-8-16)
旧本山は本圀寺

安立山長遠寺(通称:どぶだな祖師、台東区元浅草2-2-3)
旧本山は本門寺

妓楽山妙音寺(通称:安産飯匙の祖師、池の妙音寺、台東区松が谷1-14-6)
旧本山は蓮永寺

慈雲山瑞輪寺(通称:谷中瑞輪寺、台東区谷中4-2-5)
旧本山は久遠寺 ※現在は由緒寺院 押尾川の乱(1975年)

報新山宗延寺(通称:読経祖師、杉並区堀之内3-52-19)
旧本山は久遠寺 ※元は浅草神吉町

妙祐山宗林寺(通称:舟守祖師、台東区谷中3-10-22)
旧本山は本圀寺

正定山幸國寺(通称:除厄布引祖師、新宿区原町2-20)
旧本山は誕生寺

妙祐山幸龍寺(通称:たんぼの幸龍寺、世田谷区北烏山5-8-1)
旧本山は本圀寺 ※元は浅草新谷町


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そうじょうのじん【宋襄の仁】故事成語 ことば


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無益な情をかける。→いらぬ気遣い。

なんとも、お人よしのとのさまだこと。

初出は『春秋左氏伝』僖公二十二年。

お話はこんなぐあいです。

春秋時代の宋は、かつての殷(商とも)の生き残りが運営している国。小国でしたが、プライドだけは異様に高いのです。

宋は斉と友好関係でした。ともに、春秋の五覇に数えられたりしています。

斉の桓公が亡くなると、おれもなれるかと、宋の襄公は盟主気取りとなります。それを快く思わない楚の成公。楚は南の大国です。宋の比ではありません。

そんなこんなで、前638年、宋軍と楚軍が、泓水おうすい(河南省商丘市)を挟んでにらみあうことに。

楚軍がいよいよ泓水を越えようとしています。

目夷が襄公にささやきます。この人は宋の令尹(宰相)です。

「楚は体形をくずして川を渡っています。いまですぞ。ここを討ちましょう」

「君子はそんな卑怯な手は使わないものだ」

ええー。いまがチャンスなのに。

楚軍は渡河を終えて、陣形を整えました。

そこで勝負。

あれれ。またたくまに宋軍は楚軍に殲滅されてしまいました。襄公も矢傷を。

うーん。これでは。

襄公は矢傷がもとで、二年後に亡くなります。

あーあ。

これが宋襄の仁です。なんとも、いやはや。

ときどき、このような原則を貫こうとするアタマのお固い人がいるものです。これでは厳しい現実社会は生き抜けません。

当時、宋国の人(宋人そうひと)は殷のなれの果て、遺民であることを、周囲からは侮られていたようです。宋を題材とする故事はことごとく、宋人が愚かで嘲笑の的となるものばかりです。これもそのひとつなのですね。

過去40年間の読売新聞記事では、5回使われていました。数は少ないのですが、なかなかぐっとくる使われ方をしていましたよ。


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きゅうぎゅうのいちもう【九牛の一毛】故事成語 ことば

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多くの牛の中の一本の毛→気多数の中のごく少ない一部分→取るに足りない

初出は司馬遷(前145-前86)の文から。

用例は、こんなかんじです。

この年、南米移民が行われたが、全体の人口増加からみれば九牛の一毛にすぎなかった。

読売新聞の過去40年の記事では4件ありました。意外に使われていませんね。

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ちみもうりょう【魑魅魍魎】故事成語 ことば

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化け物いろいろ。

意味もなんにもありません。ただ化け物が3種か4種の羅列です。

「魑」は虎の形の山の神。「魅」は猪頭で胴体は人身の沢の神。「魍魎」は山水や木石の精気から生まれる怪物。

困ったことに、人を害する存在なのです。災厄の主です。死神の類でしょうかね。

鬼=霊。离=山の精。といわれてもいまいちどうもわかりません。重要なのは、四字すべてにつく「鬼」が霊をさす、ということでしょう。

この四文字が登場すれば、非日常的で神秘のベールが漂ってきます。

初出は『春秋左氏伝』宣公三年。水沢の神として登場します。

平安時代には「すたま(須太万)」。江戸時代には「すだま」と濁って凄みを増幅させました。

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たざんのいし【他山の石】故事成語 ことば


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「詩経」のことば。

「他山の石もって玉をおさむべし」

よその山から出た粗悪な石も自分の宝石を磨くのに使える。転じて、他人のつまらない言行でも自分を磨く参考になる、という意味。

石=凡人、玉=賢者または君子。たとえているのですね。

ですから、他人のりっぱな原稿をお手本にする、といった意味で使うのは間違いとされています。

うーん、使い方が難しいことばです。

他人の醜聞、失敗、挫折などをわが身の参考にしようとするときに、このことばは力を発揮します。

ちなみに、読売新聞の記事では過去40年間に「他山の石」が使われたのは508回ありました。さすがは新聞社、他人の成功をお手本にする意味には使われていません。現実には政治家などが誤用したまま問題発言になったりしている例もあるようです。使い方は要注意。

そんなぐあいですから、いまどき、勇気をもって使う人が減っているようです。使ったところで「誤用だ」などと笑われてしまえば恥かいてしまうものですから、つい敬遠するんですね。それなりの「知性」が試されることばは、やがては消えていくのでしょうか。和語の「人の振り見てわが振り直せ」が類義語です。こちらのほうがわかりやすいですね。

文学者の文学論,文学観はいくらでもあるが,科学者の文学観は比較的少数なので,いわゆる他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが,自分の自分への申し訳である。

寺田寅彦「科学と文学」1933年

この使い方は秀逸。おのれを卑下して効果的です。知性と大胆の結合。うなります。

「他山の石もって玉をみがくべし」からの命名されたのが、攻玉社。近藤真琴(1831-86)が開塾しました。中高一貫の男子校。四代目笑福亭円笑師の母校です。

品川区西五反田なのですが、JR山手線の目黒駅を降りて東急目黒線に乗り換えて一個目の不動前駅で下車。ここらへんは目黒区と品川区が接しているのですね。芝にあったのですが、関東大震災目で倒壊したためこちらに移ってきました。目黒駅のホームには広告看板が見えます。「攻玉社」と。この看板を見るたび「玉を攻めるとは、はて、なんていやらしいんだ」と内心思った人は少なくないことでしょう。ものを知らないとあらぬ方向に妄想が躍るのですね。

「攻」を「おさめる」または「みがく」と読んだりしますが、「磨く→修める」意味で、同義です。

先の大戦前には、攻玉社は海軍兵学校の予備校のような学校で、海兵の海城、陸士の成城(新宿の)と同じ役割を請け負っていました。「攻」の文字はむしろ好戦的なイメージで喜ばれたのでしょう。


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いんがおうほう【因果応報】故事成語 ことば


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善い行いにはよい報いがあり、悪い行いには悪い報いがあるものだ、という意味。

仏教の因果思想です。原因があって結果が生まれる、という考え方。

この考え方は仏教よりも以前に、すでに古代インドに広まっていたものでした。仏教では、この考えに時間軸を取り入れて、過去や現在の善行悪行に応じて、現在や未来に善悪の報い(こたえ=結果)がもたらされる、という説。

よく「因果」ということばを使いますが、この語にはなぜか悪い行いの結果がこんなろくでもないことにつながった、という意味となるものです。悪因悪果にしか使われないようになっています。

まとめると、こうなります。

善因善果=果報
悪因悪果=因果

これを覚えておくと、円朝作品に触れる時に便利です。円朝がとらえる世界はこのふたつによって、人々が転がされているのです。


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ぜんいんぜんか【善因善果】故事成語 ことば


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よい原因にはよい結果がある、という意味。

転じて、よいことをすればよいごほうびがもらえる、ということ。

仏教由来の成語です。因果応報の基づいたことば。

その根底にあるのは、過去や現在の善悪の行いに応じて、現在や未来の善悪の報いがもたらせれる、という考えです。

反対語は「悪因悪果」です。

行いに応じた善なり悪なりの報いを「果報」といいます。このことば、昔は悪い報いにしか言われなかったのですが、どうしたわけか、今では「果報は寝て待て」と使われるように、よい報いに使われています。

狂言「箕被みかずき」に「果報は寝て待てといういふことがある」と出てきます。500年以上前からこのように使われていたのですね。


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せきあくのよおう【積悪余殃】故事成語 ことば


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悪いことをし続けた家には、必ず子孫に悪い影響が出る、という意味。

個人ではなく家に、であるところが特徴です。

ろくでもないことを四六時中している奴の家には子々孫々にわたって悪い影響があるもんだ、という呪詛にも似た警句です。恐ろしい発想ですが、世の中は、誰かがきっと見ているんだからどうしようもないよ、という、最後は正義が勝つのだよ、という人々の切実な理想社会のありかたを語っているのですが、現実にはなかなかそうもいきません。

積善余慶」の対語です。詳しくはそちらを。


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せきぜんのよけい【積善余慶】故事成語 ことば

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よいことをし続けた家ではその余徳がその子孫にふりそそがれる、という意味。

「積善の家に余慶あり」を省略したことばです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)が演じる「ちきり伊勢屋」での最後のキメ台詞が「ちきりの暖簾をかけて、りっぱに家を再興するという、積善の家に余慶あり、ちきり伊勢屋でございます」です。

柳家さん喬師も長い「ちきり伊勢屋」を演じていますが、こちらにはこのことばは出てきません。ただし、こちらはこちらで独特のすばらしい世界を展開しているもので、一聴の価値はあふれるほど。

「積善余慶」の反対語は「積悪余殃」です。

易経えききょう坤卦文言こんかぶんげん伝には「積善の家にはかならず余慶あり。積不善の家には余殃あり」とあります。なんだか、難しいです。

それから約500年後の『説苑ぜいえん』一六には変容しています。「積善の家、かならず余慶あり。積悪の家、かならず余殃あり」となりました。善と悪との対比で、だいぶわかりやすくなっていますね。

『易経』は孔子(前551-前479)が一部手を加えており、『説苑』は前漢(前206-8)の劉向りゅうきょう(前77-6)の作品。二書は約500年の時間差があります。『説苑』は君主向けの訓戒書。説話集の類です。この手は読みやすさがいちばん。ですから、上記のような文体差があらわれます。ちなみに、ちなみに、春秋戦国時代という呼び方は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなんでつけられています。

「殃」はわざわい。積悪=積不善。よいことをすれば必ず報われるかで、悪いことしていると必ずろくなことがない、という呪いめいた考えです。

仏教には「善因善果」という考え方があります。よい行いをすれば必ず果報がその人にもたらされる、という考えです。仏教では、あくまでも人それぞれが説教の対象です。

ところが、「積善余慶」「積悪余殃」をうたった古代中国では、人ではなく、家がその対象となります。家、先祖、代々、家族、子孫といった単位が考え方の対象となるのですね。個人ではなく、家なのです。

ということは、「ちきり伊勢屋」の伝二郎。

親父の代には「乞食伊勢屋」と唾棄されるほどの家だったのを、人生と財産すべてを懸けた伝二郎自身の行為が、天に「積善」と認められ、噺の最後に触れられた「再興したちきり伊勢屋」はまさに余慶に報われた、ということなのですね。

伝次郎個人には報われないところが、このことばが噺の芯となっている由縁なのでしょう。

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ちんけんへいも【椿萱並茂】故事成語 ことば

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「椿」と「萱」がともに茂れる状態。転じて、父と母が健在。

「椿萱並び茂る」と読みます。

「椿」は日本のツバキではありません。伝説上の「大椿」という巨木は、八千年を春とし、八千年を秋とするといわれるとてつもないもの。霊木です。これを父親に見立てます。

「萱」は、母親のいる北堂の庭に憂いを忘れるといわれる「萱草=忘れ草」を植えるならわしから、母親に見立てます。

「椿萱」は父と母になります。それが「並茂」、つまり繁栄するわけですから、両親がともに健康でいることをしめします。

ちなみに、「萱草」は、中国では、女性の近くに置いておくと男子を身ごもるといわれ、奥さんがいる北堂に植えたとされています。

「萱」の読みと意味は、①わすれぐさ。ユリ科の多年草。「藪萱草やぶかんぞう」「椿萱」「萱堂けんどう」。 ②かや。ススキ、スゲなど屋根をふくイネ科、カヤツリグサ科の植物の総称。「刈萱かるかや」「茅萱ちがや」。

ちなみにこの「椿萱並茂」、過去40年間の読売新聞の記事では一度も使われていません。

【前文】

幼い頃は「ちん」とか「まん」とか「へい」とかの音がどこかコミカルに感じたものでしたか、不思議な語感を呼び覚ましてくれたものです。

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あいえんきえん【合縁奇縁】故事成語 ことば

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人と人との交わりは不思議な縁によるものだ、ということ。

仏教由来。というよりもこれは、日本由来の成語ではないでしょうか。

「合縁機縁」「愛縁機縁」とも書きます。

とりわけ、男女の間での、気心が合うとか合わないとかについて言うことが多いようです。

つまずく石も縁のはし

道を歩いてつまずいた石にも縁があった、ということで、日本人は縁が大好きです。人間社会での合理的に説明できないことはすべて「縁」で片づけているようです。

袖すり合うも他生の縁

見ず知らずの人道ですれちがうのも前世からの因縁なのだ、ということ。なんだか説明がつかないのは前世からの因縁によるもの、それが縁というものである、という具合です。
能楽では「一樹の陰」「一河の流れ」ということばを使って「縁」を表現します。

「縁」は、江戸時代に入ると、人々の生活の細部に仏教がしみ込んでいき、「縁は異なもの味なもの」ということばが普通に使われるようになっていきます。

そして、明治6年(1873)頃に流行した俗曲「四季の縁」。

春は夕の手枕に
しっぽり濡るる軒の雨
ぬれてほころぶ山桜
花がとりもつ縁かいな

結びの「縁かいな」が特徴で、大流行しました。

明治24年(1891)頃には、これを替え歌にした徳永里朝(中井徳太郎、1855-1936、→三代目哥沢芝金→徳永徳寿)が、さらなる「縁かいな節」を大流行させました。

夏のすずみは両国の
出舟入り舟屋形船
あがる流星、星くだり
玉屋が取り持つ縁かいな

空ものどけき春風に
柳に添いし二人連れ
目元たがいに桜色
花が取り持つ縁かいな

「竜生」も「星くだり」も花火の種類で、花火業者の玉屋が取り持つという具合。

徳永里朝は上方の人で、盲目の音曲師。上方では桂派の門下でしたが、東京に移って三代目春風亭柳枝の門下となりましたので、柳派に。

しあわせは三世の縁を二世にする

という川柳があります。

江戸期に一般に通用していた、縁についての「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という言い回しを踏まえて、その家のお女中が後妻になったことを詠んでいるのです。

主従の縁は、親子や夫婦のそれよりも深いのだということ。

これぞ、前近代的な感覚ですが、これを逆手にとって、主従の三世の縁を二世の縁につづめる、といって、それを「しあわせ」だと詠んでいるのです。

「しあわせはさんぜのえんをにせにする」と読んで、「二世の縁」は「偽の縁」だとこきおろしているのです。後妻に格上げされたお女中の面目躍如というところでしょうか。すごい句ですね。これも宿世の縁(ずっと前から決っていたこと)ということでしょうか。いやはや。

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ようしほうこう【雍歯封侯】故事成語 ことば

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部下をなだめ安心させるためにはまず嫌いな者を抜擢すること。そういう意味です。

前漢の高祖(劉邦)の頃。劉邦が項羽を倒した直後のこと、紀元前202年あたりのことでしょうか。

高祖が落陽の南宮から見下ろすと、広い砂庭のあちこちで諸将群臣がひそひそ話をしているようすが気になりました。

高祖は張良にたずねます。

張良「謀反の相談をしているのです」
高祖「なぜだ」
張良「陛下が侯に封ぜられたのは蕭何や曹参の直参ばかりで、誅罰されたのは外様の、陛下とあまり親しくなかった者たちです。いま宮中では諸将の功績を評定していますが、全員を賞するには天下の領土が足りません。そこで彼らは、自分たちは封ぜられるどころか、ひょっとして殺されるのではないかと恐れて、あのようにたむろしては、いっそのことやっちまうか、と謀反を相談しているのです」
高祖「ひえー。どうすればよいか」
張良「陛下がいちばん毛嫌いしていて、諸将もそれを知っている者は誰でしょうか」
高祖「そりゃ、雍歯だ」
張良「ならば、すぐに雍歯を侯に封じて、諸将にお示しください。さすれば、あの雍歯でさえ侯に封ぜられたのだから俺だって、と安堵することでしょう」

張良の言う通りに高祖が行ったら、諸将群臣は落ち着きました。

結局、「雍歯封侯」は「部下をなだめ安心させるためにはまず嫌いな者を抜擢すること」の意味で使われます。

とはいえ、この四字熟語が載っている辞典はめったにありません。実際にはあまり使われていないのでしょう。過去40年の読売新聞の記事中、一度も使われていません。記者が知らないでしょうし。これは無理。でも、この故事はとても興味を引きますね。

諸将が広い砂庭でひそひそ話するのは「沙中偶語」という成語として残っています。「臣下が謀反の相談をすること」という意味です。そのまんまです。これについてはいずれまたの機会に。

出典:『史記』高祖本紀、『史記』留侯世家

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だんだんよくなるほっけのたいこ【だんだんよく鳴る法華の太鼓】むだぐち ことば

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現代でも知られたむだぐちです。

情勢がだんだん好転してくるというのを、「なる」→「鳴る」から太鼓の音に引っ掛けたもの。「だんだん」は「どんどん」のダジャレです。

江戸では法華宗(日蓮宗)信者が数多かったので、お題目を唱えながら集団で太鼓を打ち鳴らし、町中を練り歩く姿は頻繁に見られたもの。

「だんだん」には、「ドンツクドンドン」と遠くから法華大鼓(団扇太鼓)の音が聞こえてきて、近づくにつれ徐々に大きく響くさまも含んでいるでしょう。

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こうこうのしつ【膏肓の疾】故事成語 ことば

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不治の病気。転じて、物事に夢中になってやめられないこと。

よい意味では使われません。

病膏肓やまいこうこうる」というフレーズのほうが有名でしょうか。

「肓」を「盲」と間違えて「こうもうにいる」と読む人もいますが、まだ「こうこう」が正解です。「こうもう」と読む人がもっと増えれば、国語辞典も「こうもう」を許容するかもしれません。

「入る」は古語では「いる」と読みます。「はいる」は現代語です。

出典は『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん成公せいこう十年。紀元前581年ですから、相当古い時代の話です。

ところで、この四字熟語にはどんな故事来歴があるのでしょうか。

一般には、こんな話が伝わっています。

しん景公けいこうが病気になった。病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた。そんな夢を景公は見た。医者の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公はこの医者を「名医」と称賛し、礼物を尽くして帰させた。

せっかく名医にみてもらったのに、見放されてしまったとは。晋の景公は死が迫りながらも治せない医者を名医と称賛するなんて、なかなかの大人たいじんぶりです。夢と見立てがぴったりだったので驚愕きょうがくしたのかもしれません。

もう少し詳しい解説本になると、こんな具合に記されています。

晋の景公が病気になった。みこに自分の寿命を占わせたところ「公は新麦をお召しになる前に亡くなられます」とのことだった。景公は、病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた夢を見た。名医がやってきた。彼の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦が収穫された。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹具合が悪くなった。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。

え、なに。大人たいじんの風だと思われた晋の景公、占いが「当たらなかった」として巫を斬ってしまうとは。ずいぶんな暴君ぶりではありませんか。

原典の『春秋左氏伝』成公十年には、さらに詳しい物語が記されています。こんな具合です。まずはお読みください。

晋の景公は夢を見た。背の高い亡霊が長い髪を振り乱し、胸をたたいて踊りながら「わしの子孫を殺すとは不埒な奴」と公を殺そうと迫ってきた。目を覚ました公は桑田そうでん(晋の地名)から巫を呼んだ。巫は夢をそっくり言い当てた。公が「どうなるのか」と聞けば、巫は「今年の新麦を召し上がれないでしょう」。まもなく景公は病気になった。公は隣国のしんに医者を求めた。秦からかんという医者が来ることになった。緩が着く前、景公は、病気が二人の子どもとなり「緩は名医だから、膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)の上に隠れよう」と話す夢を見た。緩がやってきた。「膏肓の間に病があるので残念ながら私には治せません」という見立てだった。夢とぴったり。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦収穫の季節が来た。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹が張ってきた。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。その日の明け方、公を背負って天に昇る夢を見た宦官かんがんがいた。昼になって、その宦官は公を背負って便所から担ぎ出すことになった。宦官は殉死をさせられた。

「膏肓之疾」にはこんなにも込み入った物語があったとは。知りませんでした。

晋の景公が見た最初の夢。そこに登場した亡霊は、ちょう一族の先祖のようです。『春秋左氏伝』成公八年は、公が趙一族を皆殺しにさせたことを記してます。なかでも趙同ちょうどう趙括ちょうかつという大夫たいふ(領地を持った貴族)の兄弟の名はしっかりと載っています。

夢に出てきた二人の子どもは、この兄弟を暗示しているのでしょう。景公にとって、趙一族皆殺しは慙愧ざんきえない黒歴史だったはずです。

景公は、緩には名医だと称賛し礼を与えて帰させたのに、桑田そうでんみこには占いが当たらなかったとして、新麦を食べる直前に殺させています。二人は同じことをしているのに。どういうことでしょうか。

医者のかんは隣国の秦から派遣されてきているので、殺すわけにはいきません。感情の赴くままに殺してしまったら、秦は攻めてくるに違いありませんし。緩はお客さんだったのです。だから、腹いせは自国の巫で、ということでしょうか。景公はやはり、おのれに迫る死にがまんならなかったのですね。大人でも名君でもありませんでした。

夢に登場した二人の子どもが趙同と趙括の化身で、いまそこにある病はこの二人によるもの、いやいや、この病は趙一族による復讐なのだという気づきが、景公の心には彷彿ほうふつとしたのでしょう。自分はいずれあいつらに殺される。そういう悟りです。

晋の景公は二度、夢を見ます。夢の中でのできごとをまともにとらえているのです。だからでしょうか。「膏肓之疾」には、なにかに夢中になることを戒める思いが込められているようですね。夢中はよくない、ということでしょうか。

糞まみれだったであろう、景公の亡骸なきがらを担いだ宦官。公の夢を見たことを漏らしたばっかりに殉死を強いられてしまった彼。とんだとばっちりかと思うのですが、この時代、殉死は名誉なことでしょうから、いちおう、そと見的には、彼は喜んで道連れになってくれたのでしょう。この噺の、ちょっとしたオチなのかもしれません。

これは、衰退してやがては消えていく運命の晋と、いずれは統一国家を実現する上り調子の秦との噺です。「膏肓之疾」が意味する「不治」とは、滅亡する晋の運命なのだと思います。

余談ですが、趙一族には生き残った者が一人いました。趙武ちょうぶです。成長した彼が仇討ちを果たした物語は、元代の紀君祥きくんしょうによる雑劇ざつげき「趙氏孤児」で有名になりました。そのおかげで、これまでにさまざまな脚色作品が流布されてきたのです。例をあげてみましょう。

日本では『孟夏の太陽』(宮城谷昌光、文藝春秋、1991年)、『洛陽の姉妹』(安西篤子、講談社、1999年)所収の「趙氏春秋」などで。フランスでは戯曲『中国の孤児』(ヴォルテール、1755年)、現代中国では映画『運命の子』(原題:趙氏孤児、チェン・カイコー監督、2011年)などの作品で、広く知られています。

敵役かたきやくとなる屠岸賈とがんこは『春秋左氏伝』には登場せず、『史記』に出てきます。屠が趙を憎むにはそれなりの理由があり、こちらのエピソードがまた、さらに複雑になっていきます。

「膏肓之疾」という四字熟語に、こんな物語があるなんて。四字熟語、軽んずべからず。

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あいさつ【挨拶】川柳 ことば

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あいさつに女はむだな笑ひあり  二05

いつも笑顔の女性は愛敬があるとされて世間では高評価なのですが、「むだな笑ひ」とはうわべだけの笑いや心にもない笑いのことで、この句はどうやら、飾ったり偽ったりの笑いはよろしくない、と暗に言っているようです。

「女は愛敬」が当たり前の、江戸の価値観による句です。

前だれでふきふき内儀おかみあいさつし  宝十三松03

あいさつを内儀はくしで二ツかき  一34

あいさつに困りかんざし差し直し  五22

ちょっとした義理は天気の噂なり  三十七38

世間とどうつきあっていくか。そんなとき、「笑ひ」ばかりか、さまざまな所作が緩衝材になったりちょっとした手助けになったりしてくれるんですね。いまも同じでしょう。

ちなみに、「挨拶」は仏教語、しかも禅語です。『碧巌録』に載っています。「挨」はおす、「拶」はせまる。師僧と弟子との禅問答の応酬を意味し、これを何度も何度も繰り返します。だから、コミュニケーションの手始めを意味するようになったのですね。どこか厳しさが込められたことばなのですがね。

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あい【あい】川柳 ことば



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奥行おくゆきのない呉服屋はあいという  十三31

「あい」は「はい」という応答語。日本橋あたりの大きな呉服屋なら「あーい」と長ったらしくこたえる返事も、奥行きのない小さな店では「あいッ」と短い。それだけのこと。こんな、どうでもよいことでも江戸の人はおもしろがったのですね。

小半日こはんにちいなないてゐる呉服店ごふくだな  八31

こちらは、通行人にまで呼び込もうとしています。高級店じゃありません。新宿や銀座にもその手の店がありました。ある種の風物詩でしたが。



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あいがさ【相傘】川柳 ことば

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相傘を淋しく通す京の町  三17

「相傘」は男女が一本の傘をさすこと。相合傘とも。

相合傘の男女が歩いていても、穏やかな京の町では誰もひやかさない。江戸では悪口やひやかしの浴びせ倒しがあるから相合傘をするわけで、だいぶ違うものだ、という程度の話。

いまは相合傘の男女がいてもひやかしたりはしませんが、昭和40年代までの東京の下町ではひやかしは当たり前でした。ご祝儀です。

相傘はだまって通すものでない  二十27

右の手と左でうまい傘をさし  明七満01

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あいきょう【愛敬】川柳 ことば

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「あいきょう」は「愛敬」「愛嬌」と記すことが多いようです。「接すると好感を催させる柔らかなようす」「見て(聞いて)笑いを覚えさせる感じ」といった意味合い。その人がもつ雰囲気をさします。似たことばで「愛想」がありますが、こちらはその人の行為からの印象で、「愛敬」とはちょっと異なります。

もとは仏教語の「あいぎゃう」で、「愛敬(愛嬌)」は「あいぎょう」と濁っていましたが、どうしたわけか、室町期以降、「あいきょう」と清音となります。

愛敬はこぼれてへらぬ宝也  六十一29

愛敬はこぼれるもので、減るものでもないのでいくらでも。若い女へのご教訓めいた句でしょうか。愛敬は人柄にも通じるようで、悪からぬ印象です。

愛きゃう娘そこからもここからも  十三10

「そこからもここからも」は縁談をさしているのですね。川柳は言外を察する気働きがないとわからないものですが、これも江戸の空気というもの。

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あいそう【愛想】川柳 ことば

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あいさうにふくぶくしいと嫁をほめ  二十九24

ここでの「愛想」はお世辞。おもてなしでの好印象をさします。「ふくぶくしい」とは肥えていることで、近代以前は、肥えていることが美でしたし、器量のよしあしでした。ダイエットは近代の概念なんですね。

本来の「愛想」はその人の行為からの印象。「愛敬」はその人がもつ雰囲気からの印象。似ていますが、ちょっと違います。

愛想のよいをほれられたと思ひ  八28

よくあること。愛想笑いを「おれに惚れてる」と勘違いしているわけ。色恋は勘違いから始まります。

ちっとづつ焼くのも女房あいそ也  天五智06

「焼く」と言えば嫉妬。女房が焼いてくれないと調子が出ない、という平和な風景です。

あいそうに傾城やけどさせる也  十六06

「傾城」は遊女。このシチュエーションで「やけど」と言えば、遊女が煙管の雁首を客の手やら腕やらにたたいてやけどさせるという、まさに焼いてる状態。

これだって、遊里サービスの一環にすぎませんが。あまり遊んでない男は勘違いして本気になってしまいます。野暮の始まりです。

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あいのやま【相の山】川柳 ことば

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面白くなる銭のなくなる相の山  八十二18

「相の山」は伊勢神宮の内宮ないぐう外宮げぐうの間にある小高い山。「間の山」とも。

江戸時代を通して有名な話ですが、ここには、三味線を弾いて参詣客から銭も乞う女がいました。

客が女目当てに投げる銭をばちではじいてわが身に当たらせない特技が売り物でした。客は絶対当ててやろうとついつい銭を使ってしまうという、まるでゲーセン感覚の遊びです。いつも二人でやっていて、「お杉」「お玉」と名乗っていました。

相の山→お杉お玉→銭当ての連想です。それにしても、すごい商売ですね。

抜打ぬきうちにお杉お玉へ銭つぶて  七十四02

客はいろんな手でお杉お玉を狙い撃ちです。

手がらなりお杉お玉をいたがらせ  宝十三松03

たまには当たるわけで。これも彼女らの手の内でしょうか。

毛のばちで弾けばあわれな相の山  宝七、十一

「毛のばち」とは胡弓こきゅうを連想させます。これでは銭をうまくはじけませんね。かわいそうな話ですが、「だったらいいな」という、ただの妄想でしょう。

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あいぼれ【相惚れ】川柳 ことば

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相ぼれの仲人実はまわしもの  五32

「相ぼれ」は相思相愛。大店おおだなの若だんなと遊里の花魁おいらんの、なんかが理想的なストーリー運びです。「まわしもの」は間者とかスパイ。大店のだんな(若者の親父)からの指示で、ひそかに乗り込んだ番頭とかのイメージでしょうか。好例は「山崎屋」ですね。

仲人なこうどのあとからできる面白さ  九31

仲人を地者じものとおもやたいこ持ち  一27

「地者」はふつうは素人女で、芸子や娼妓の対語として使います。ここでは素人男性のようですね。「地者とおもやたいこ持ち」は素人と思ったら幇間だった、という意。

相ぼれのおさきにつかふ隣の子  三十七27

「おさきにつかふ」は利用する。同じ町内の男女の相思相愛を詠んだ句。

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あかいしんにょ【赤い信女】川柳 ことば

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石塔せきとうの赤い信女をそそのかし  拾二09

「赤い信女」は夫に先立たれた女性。

落語の世界では「後家さん」として登場します。

「信女」とは仏式で葬った女性の戒名(僧が死者に付ける名)の付ける称号で、男性の場合は「信士」。先に亡くなった夫の墓に「〇〇信女」と法号を刻んで、この人の妻はまだ生きていますよというしるしに赤で字を塗るところから、「赤い信女」という熟語が生まれました。

たいていの辞書には項目として載っています。

川柳に登場する「赤い信女」なるものは、亡夫に操を立てたのはいいけれど、人生そう短くはなく、生きているうちに世間の誘惑に惑わされて後悔している妻の心境を詠む場合に登場します。

これも川柳や落語の中での類型です。

川柳の世界では、このような後家さんをまどわすのは寺の坊さんだというのが通り相場です。

妻帯できない浄土真宗以外の各宗派の僧侶がこの手の女性を狙っている、というのが世間の常識でした。

浄土真宗は略して「真宗」としても登場しますが、この宗派は、宗祖の親鸞自身が妻帯したため、今日まで真宗の僧侶は頭も丸めず妻帯しています。

ただ、現在の仏教界では、真宗以外の各宗の坊さんも妻帯しています。これは明治以降のことです。真宗化しているのが日本の仏教界の現在です。

これを戒律が緩い状態にあると見るかどうかはかならずしも一律ではありませんが、現在よりも江戸時代のほうがまだ厳しかったのかもしれません。

辻善之助が『日本仏教史』で唱えた「江戸時代以降、日本の仏教は葬式仏教に堕した」といった説は、最近の研究では見直されています。

そうはいっても、江戸時代、寺社は大きな幕府や各藩から禄をいただいていたために、生活には困らず、自由な時間もしっかりもあった、という見方もできます。

そのような状態では、ろくでもない思いにいたる僧侶も少なくはなかっただろうという推測もかなうことでしょうね。

信女の月をよどませる和尚也  筥二15

「月をよどませる」とは生理が止まった由。和尚がはらませた、ということ。

「信女の月」は「真如の月」の洒落。

「真如」とは万物の本体。すべてに通じる絶対普遍の真理。「真如の月」は闇と照らすように真理が人の心の迷いを破ること。

真理は迷妄を開くわけで、はらませれば別な迷妄が開く、というわけでしょうか。

ろくでもない坊さんが描かれています。

ちなみに、「真如の月」の対語は「無明長夜むみょうじょうや」。煩悩にとらわれて仏法の根本がわからずに迷った状態でいることで、光のない長い夜にたとえたものです。

「無明の闇」といった表現でも登場します。真如の月=悟り、無明の闇=迷い、ということですね。

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あかいぬ【赤犬】川柳 ことば

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赤犬が紛失したと芝で言い  明五鶴03

「赤犬」と「芝」とをかませた連想から、この句の舞台は薩摩上屋敷(港区芝5丁目)あたりであることがわかります。芝では赤犬がいなくなるといわれる、当時の都市伝説があります。赤犬は薩摩屋敷のへんで忽然と消えるのだと。

江戸の人が嫌う肉食を、薩摩侍は好むからだ、という噂がまことしやかに信じられていました。その噂はあらかたまことだったのでしょう。それを江戸の人々は気味悪がっていたのですね。赤犬は美味だというのも通り相場。

そもそも赤犬とは、べつにそういう種類の犬がいるわけではありません。茶毛の犬を赤犬と称するだけのこと。

とすれば、日本古来の犬はおおよそが赤犬となります。柴犬なんかですね。そうか、柴犬ならぬ芝犬となる。ということだったのですね。

赤犬は食いなんなよと女郎言い  明八義06

この句の「女郎」は品川遊郭の、ということになりますね。芝の近所の遊郭です。

赤犬を食って精力みなぎったまんま来られたんじゃ、威勢よく突かれてアタシのカラダがどうにかなっちまうからさ、てなぐあい。

麹町芝の屋敷へ丸で売れ  拾20

川柳で「芝」とセットに語られる「麹町」は、入り口にあった山奥屋という獣肉店をさします。

ここの獣肉店に「芝の屋敷」(薩摩屋敷)から注文が入った、しかも「丸」で。「丸」は一匹丸ごとのことですから、上得意さんだったという詠みです。

いまでも「駒形どぜう」などで「丸」と注文すれば、割いていないまんまのどじょうが皿にどっさり盛られてきますよね。こっちのほうが「さき」よりお得です。

いのししの口は国分でさっぱりし  明六智04

薩摩産の「国分」は高級煙草で、肉食のあとには煙草で口内をさっぱりさせる、と。国分煙草は「国府煙草」とも記され、元禄年間(1688-1704)あたりから嗜まれていました。薩摩地方の食風習に「えのころ飯」というのがありました。

「えのころ」とは犬ころの意。皮を削いだ犬体からはらわたを取り、そこに米を詰めて蒸し焼きにして、その米を食べるというもの。

大田南畝(覃、直次郎、1749-1823)が『一話一言補遺』に記しています。美味なんだとか。

家畜のはらわたに米などを詰めて蒸し焼きにする食風習は太平洋全体に散見されます。珍しくはありません。

ハワイのカルアピッグも祝祭用の豚の丸焼き料理で、同類といえます。

犬食文化は、中国(とりわけ玉林市)、朝鮮半島、台湾、沖縄など広域にわたり、日本も例外ではありません。古代からほそぼそながらも連綿と続いてきた食文化でした。

なにも、薩摩だけのものではなかったのです。現代のわれわれが犬食を毛嫌いする感覚は、明治に入ってきた西洋風価値観が、旧来の価値観に上塗りされたからです。ご先祖さまはけっこうつまんでいたのでした。

よかものさなどと壷からはさみ出し  明五信06

「よかものさ」と薩摩訛りで「上物だ」と、自慢げに壷漬けの獣肉を箸でつまんでいる薩摩武士の奇矯な食道楽ぶり。江戸ではこのように詠まれていたのですね。

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おりかみ【折り紙】ことば

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「折り紙付き」という表現で、今も生き残っている言葉です。

「折り紙」は念のため、千羽鶴のことではなく、江戸時代で主に刀剣の保証書、鑑定書をこう呼びました。

歌舞伎の古風なお家騒動もので、盗まれたお家の重宝のナントカ丸という刀の詮議をする筋がよくありますが、そういう時「折り紙」は付き物です。

銘の鑑定書ですから、それがなければ真贋が 分からないからです。

これが転じて、「折り紙付き」は定評がある意味に用いられました。

ただし、これは悪い意味にも使われ、「折り紙付きの大悪人」などとも。

この類語としては江戸では「金箔付きの」とも使われました。

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おやすみのえにつきはいりけり【お休みの江に月は入りけり】むだぐち ことば



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「おや、寝ちまったよ」または「ここらでブレイクしましょう」という意味の洒落。

婚礼に使われる謡の「高砂」の一節「はや住之江に着きにけり」をもじったものです。

「早住之江」と「お休み」を掛けただけのダジャレで、謡曲の「着き」から「月」を出すことで、「夜」「寝入る」という意味合いを導いています。

いやあ、なかなか典雅なものです。

「お休み」のむだ口には、ほかに「お休み田んぼの塔あり」があります。

これはやはり洒落の「心得たんぼ」をもじったもの。

「たんぼ」は湯たんぽで、「とうば」とも呼ぶことから、お休み、寝るにつなげたもの。

さらに「たんぼ」から「田んぼ」を、「とうば」から「塔」を出し、田舎道で向こうに休憩場所の寺院の塔が見える光景に変換しています。

これはもう、連歌や俳諧の手法。

ダジャレやむだぐちは連歌や俳諧に影響受けたり与えたりしていったのですね。

ばかにしたものではありません。



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