えどござんまい【江戸五三昧】ことば

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江戸にあった代表的な五つの火葬場のことです。

もちろん、死体を焼却する施設。火葬場、焼き場、龕堂、火屋、荼毘所などと呼ばれます。

東京の火葬場は現在、23か所あります。民営が7、公営が16、都営が1。

たとえば、民営火葬場は以下の7施設です。

町屋斎場(荒川区)東京博善㈱
四ツ木斎場(葛飾区)東京博善㈱
桐ヶ谷斎場(品川区)東京博善㈱
代々幡斎場(渋谷区)東京博善㈱
落合斎場(新宿区)東京博善㈱
堀ノ内斎場(杉並区)東京博善㈱
戸田葬祭場(板橋区)㈱戸田葬祭場

都営と公営は、合わせると以下の18施設です。

瑞江葬儀所(江戸川区)都営
臨海斎場(大田区)大田区、目黒区、世田谷区、品川区、港区の共同運営
青梅市民斎場(青梅市)青梅市
立川聖苑(立川市)立川市
八王子市斎場(八王子市)八王子市
日野市営火葬場(日野市)日野市
府中の森市民聖苑(府中市)府中市
南多摩斎場(町田市)町田市
瑞穂斎場(瑞穂町)西多摩郡
ひので斎場(日の出町)西多摩郡
大島町火葬場(大島)大島町
小笠原村父島火葬場(父島)小笠原村
小笠原村母島火葬場(母島)小笠原村
神新島村火葬場 神津島村
津島村火葬場(新島)新島村
式根島火葬場(式根島)新島村
八丈町火葬場(八丈島)八丈島
三宅村火葬場(三宅島)三宅島

では、かんじんの江戸期の江戸の町では、どうだったでしょうか。

火葬場は、基本的には寺ごとにあるもので、寺の奥隅に建てられた荼毘所や火屋として成り立っていたようです。

それが、大きく変わるのが、明暦の大火(1657年)。

これ以降、火葬場は江戸の郊外に移っていきました。

土地を多く確保できたため、専用施設化に。

江戸時代には、「江戸五三昧」ということばがありました。

ここでいう「三昧」は供養→火葬場の意味です。以下の5つの火葬場をさしました。これは諸説がありますが、以下はとりあえずの説です。

小塚原火葬地

寛永年間(1624-45)、浅草下谷周辺に19か所あった火葬寺を、火葬の煙や臭いが寛永寺へ及ぶことを懸念し、四代将軍徳川家綱(1641-80)の命で小塚原にまとめて移転となりました。寛永寺は将軍家の菩提寺のひとつですから、これはやはりまずかったのでしょう。明治期になると、木村荘平(牛鍋いろは大王、1841-1906)の起こした旧東京博善が日暮里火葬場と合併して町屋日暮里斎場となり、現在では町屋斎場となっています。
※小塚原→南千住南組→町屋日暮里斎場→町屋斎場

代々木村火屋

文禄年間(1593-96)、四谷千日谷の火屋(=火葬場)が千駄ヶ谷村に移転し、寛文4年(1664)に代々木村狼谷にさらに移転しました。四ッ谷西念寺、勝典寺、戒行寺、麹町栖岸院、必法院など5施設の荼毘所となったのがはじまりです。900坪の敷地を有し、ここには火葬の仕事に従事する家が3軒あったそうです。明治初期には個人経営だったのが、明治26年(1893)に旧東京博善に譲渡され、代々幡斎場となりました。
※四谷千日谷→千駄ヶ谷村→代々木村狼谷→代々幡斎場

上落合村法界寺

市谷薬王寺町の蓮秀寺(日蓮宗、新宿区市谷薬王寺町22)の末寺、無縁山法界寺に荼毘所があったことがはじまりです。法界寺は廃寺となりました。法界寺は外から目隠しの垣根で囲まれていて中を見ることはできず、入り口は2か所あって「焼場法界寺」の表札がかかっていたそうです。法界寺には檀家がないため、死者を火葬するだけの施設だったようです。明治26年(1893)、旧東京博善に移り、落合斎場へ。「らくだ」に出てきます。
※高田上落合村法界寺→落合斎場

桐ヶ谷村霊源寺内荼毘所

桐ヶ谷斎場の道路を隔てた隣にある霊源寺(浄土宗、品川区荏原1-1-2)の龕堂(=荼毘所)でした。江戸期には「火葬寺」と呼ばれていました。3538坪有した境内には、その中を街道が通り、「浄土宗江戸三田長松寺末諸宗山無常院」と号したそうです。明治18年(1885)、火葬場と寺が分離され、福永幸兵衛など10人の組合経営となり、法行合名会社(匿名組合経営)となりました。昭和4年(1929)、東京博善に併合されました。「黄金餅」に出てきます。
※桐ヶ谷霊源寺→法行合名会社(匿名組合経営)→桐ヶ谷斎場

砂村新田阿弥陀堂荼毘所

砂村(江東区)の十間川と小名木川の間にある岩井橋付近にあった砂村新田の阿弥陀堂、極楽寺の荼毘所がはじまりです。「砂村の隠坊」と呼ばれていました。「四谷怪談」第三幕「隠亡堀の場」の舞台でも有名。「隠亡堀の戸板返し」ですね。明治期には砂村荻新田に移り、明治26年(1893)、旧東京博善の傘下となり、東京博善に引き継がれました。同年、旧東京博善傘下となった亀戸火葬場は、深川浄心寺(日蓮宗、江東区平野2-4-25、江戸十祖師の一)の荼毘所としてはじまり、亀戸に移転した火葬場です。明治27年(1894)、砂村火葬場と合併して砂町葬祭場(砂村亀戸)となりましたが、昭和40年(1965)に廃止されました。
※砂村新田極楽寺→砂村荻新田→亀戸火葬場(←深川浄心寺)と合併→砂町火葬場→廃止

これら以外には、炮録新田(葛西)や芝増上寺今里村下屋敷(白金)などにも火葬場があったそうです。

炮録新田は都営の瑞江葬儀所(江戸川区春江)とのかかわりが推定されます、よくわかりません。

芝増上寺今里村下屋敷(白金)は、明治期には東京府の公営屠畜場(港区白金台2-20)となりました。明治43年(1910)まで営業していましたが、移転しました。この地域には外国公館が点在し外国人居留者が多いのは明治以来のことで、新鮮で良質な精肉の需要があったのでしょう。明治期に開店した肉料理店には「今半」のように「今」を冠した店が多かったのですが、その意味は、今里町の「良い肉を使っていますよ」という客へのメッセージだったのだそうです。

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らくだ【らくだ】落語演目

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【どんな?】

長屋の嫌われ者が急死。
兄貴分がむりむりに葬式を。
巻き込まれる屑屋の豹変ぶりで立場が逆転。
上方噺。

別題: 駱駝らくだ葬礼そうれん 駱駝の友達

あらすじ

駱駝らくだ」の異名をとる馬さんは、乱暴で業腹ごうはらで町内の鼻つまみ者。

ある夜、フグに当たって、ひとり、あえない最期を遂げた。

翌朝、兄弟分の、これまた似たようなろくでもない男が、らくだの死体を発見した。

葬式ともらいを出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。

通りかかった屑屋の久蔵を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香奠こうでんを出させようと思い立ち、屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。

みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香奠を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、なにをするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる屑屋を、今度は大家おおやのところに、今夜通夜つやをするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせた。

店賃たなちんを一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」
「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」

大家は、いっこうに動じない。

屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、屑屋にむりやり死人しびとを背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽よんとだるをぶんどってくると、屑屋、もうご用済みだろうと期待するが、男はなかなか帰してくれない。

酒をのんでいけと言う。

女房子供が待っていて鍋の蓋が開かないから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきた。

「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」

酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋。

「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、俺の知り合いの落合の安公やすこうに焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

安公に渡す手間賃は、途中にある池田屋という質屋でこの四斗樽を質入れして始末する、という算段。

相談がまとまり、死骸の髪をむしり取って丸めた上、樽に押し込んで、首の骨なんかは折り曲げて、二人差しにないで出発した。

途中の池田屋では案の定、葬式ともらいは質入れできないと抗うところを、内会ないけえ(非合法の博打)の噂をささやけば、質屋の番頭がさらに嫌がって、追っ払いに二両をくれた。

この二両を安に渡せば焼けると、高田馬場を経て落合の火葬場へとっとと向かった。

落合の火葬場に。

お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると、死骸がない。

どこかへ落としたのかと、二人はもと来た道をよろよろと引き返す。

願人坊主がんにんぼうずが一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火をつけると、坊主が目を覚ました。

「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋ひやだ」
冷酒ひやでいいから、もう一杯くれ」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

上方落語を東京に  【RIZAP COOK】

元ネタは上方落語の「駱駝らくだ葬礼そうれん」です。

「駱駝の葬礼」では、死人は「らくだの卯之助」、兄貴分は「脳天熊」ですが、東京では、死人は「らくだの馬」、兄貴分は無名です。

「らくだ」は江戸ことばで、体の大きな乱暴者を意味しました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。明治大正の滑稽噺の名人で名高い噺家ですね。

三代目小さんが京都で修行していた頃、四代目桂文吾(鈴永幸次郎、1865-1915)にならったものとされており、こちらも有名な逸話です。

宮松へ行けばらくだの尾まで聞け

「宮松」とは茅場町薬師境内にあった寄席の宮松亭のことで、第一次落語研究会(1905-23)のセンターでした。

三代目小さんは第一次落語研究会の中心人物で、上方由来の噺をさかんにおろしていました。

「らくだ」もそのひとつだったのですね。

川柳に詠まれるほどさかんに演じられていたのが、三代目小さんの「らくだ」だったということでしょう。

聴きどころ

この噺の聴きどころはなんといっても、気の弱い紙屑屋が男の無理いで飲まされ、男との支配被支配の関係が、酒の力でいつの間にか立場が逆転するおかしさです。

後半の願人坊主のくだりはオチもよくないので、今ではカットされることが多くなっています。

これも五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の十八番の一つで、志ん生は発端を思い切りカットすることもありました。

「生き返らねえように、アタマつぶしとけ」は、志ん生でしか言えない殺し文句です。

実際には、いろんな噺家がやってはいますが、志ん生ほどの凄愴せいそうと滑稽は浮かび上がりません。

いかにも五代目志ん生らしい、身も蓋もない噺のイメージがあり、古今亭の系統の噺かと思ってしまいます。

とはいえ、三代目小さん由来ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も演じてきて、柳家の系統の噺のひとつなんです。

とうぜん、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)にまでもつながっていたわけです。

長い噺のため、最後までやる演者はあまりいませんが、柳家小三治は最後までやっていました。40分ないし45分でできる噺なんだそうです。

三代目小さんという噺家は、つまらなそうな顔つきで聴き手を抱腹絶倒の坩堝るつぼに陥れたそうですから、これはもう、小三治の芸風と深くかかわっていますね。

らくだの髪の毛をむしりとる演出は、五代目志ん生、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が継承しています。

五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、長屋の中の女暮らしの家から剃刀かみそりを借りてきてる演出にしています。

上品ですが、この噺全体を支える粗雑で豪胆な雰囲気は消えてしまいます。

昭和初期にエノケン劇団が舞台化し、戦後映画化もされています。まあ、これはもう、どうでもよい話です。

「らくだ」の構成

この噺の構成は、以下の通りです。

①男、兄弟分のらくだが長屋で死んでいるの見つける。
②長屋の前を屑屋が通りかかる。
③男は葬式代捻出のため、らくだの家財を屑屋に売ろうとするが、なにもない。
④男は月番へ香奠を集めるよう、屑屋を使わせ、月番はやむなく応じる。
⑤男は大家へ酒と煮しめを出すよう、屑屋を使わせるが、大家は拒否する。
⑥男は大家宅で、屑屋にらくだの死骸を背負わせかんかんのうを踊らせる。
⑦大家は気味悪がって、酒と煮しめの用意を約束する。
⑧男は豆腐屋へ屑屋を使わせ、四斗樽をせしめる。
⑨香奠、酒、煮しめが届き、男は嫌がる屑屋に酒を強要する。
⑩屑屋は三杯目から豹変し、二人の立場が逆転する。
⑪友達づくで焼かせようと、らくだを入れた四斗樽を二人でかつぎ落合に出発。
⑫通り道の質屋では、内会の噂と四斗樽の質入れで強請ゆすって二両をせしめる。
⑬落合で、二両と四斗樽を受け取った安公が焼こうとしたら死骸がない。
⑭二人は道中を戻り、泥酔の願人坊主をらくだと間違えて運び戻る。
⑮安公が焼き始めると、坊主が熱さで目が覚めた。「ひやでいいからもう一杯」

これを全部ていねいにやれば、軽く1時間以上はかかってしまいます。

多くの噺家は、男と屑屋との立場逆転のあざやかな⑩で終わりにしています。

「ひやでいいからもう一杯」のオチを聴かせるならば40分、質屋強請ゆすりを含めれば45分でできるんだそうです。小三治や小里ん師はこっちのコース。

屑屋のパシリのもたもたは、月番、大家、豆腐屋(演者によっては八百屋)と、3回あります。聴き手にはここがくどくてダレるもの。

ここをうまく刈り取れば、30分以内でオチまでいける、というのがプロの観点とか。

質屋ゆすりも端折はしょられますが。放送主体ではこちらがえじきになります。質屋強請りのくだりはあまり聴きません。

三遊亭小遊三師がNHK「日本の話芸」でやっていたものでも質屋強請りはありませんでした。この番組は30分ですし。

質屋強請りと焼き場に軸足を置いた演じ方もありで、おもしろい演出になります。

五代目小さんはこれを嫌がって省きましたが、弟子の柳家小里ん師は省かない視点です。

かんかんのう  【RIZAP COOK】

らくだの兄弟分が、紙屑屋を脅して死骸むくろを背負わせ、大家の家に乗り込んで、かんかんのうを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。

「かんかんのう」は「看々踊り」ともいい、清楽の「九連環」が元の歌です。

九連環は古代中国で発明された「知恵の輪」だそうです。日本では「かんかんのう(看々踊)」といわれた、歌と踊りのセットです。

文政3年(1820)に長崎から広まって、大坂、名古屋、江戸へとで流行していきました。飴売りがおもしろおかしく町内を踊り歩いてさらに爆発的流行して、文政5年(1822)には禁止令が出たほど。一時下火になってくすぶっていましたが、明治初期に花柳界で流行しました。つまり、文政年間から途絶えずはやっていたのでしょう。

「かんかんのうをきめる」という江戸ことばがあります。これは夜這いに成功したことを言うのですが、「かんかんのう」の踊りで四つん這いのかっこうをするところからの発想のようです。

さて。

「九連環」の歌が元歌で「かんかんのう」が生まれましたが、歌詞もメロディーも変形されています。

以下、「かんかんのう」の歌詞を紹介します。福建語の珍妙な語感が特徴です。福建語は台湾語と同系で、音韻が日本語にも一部同じものがあります。長崎に来た中国人は、じつは福建人ばかりでした。江戸期の中国文化や文物というのは福建省経由のものです。

かんかんのう きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ さあいほう
にいかんさんいんぴんたい やめあんろ めんこんふほうて しいかんさん
もえもんとわえ ぴいほう ぴいほう

歌の中身は花柳界で放歌する卑猥な内容だそうです。日本人はこの歌を聴いても意味などわからず、ただ音の奇妙に惹かれたようです。どこかコミカルに聴こえ、踊りもコミカルに見えたのですね。詳しくは明清楽資料庫をご覧ください。

かんかんのう
梅ヶ枝の手水鉢

志ん生のくすぐり3選

五代目志ん生の「らくだ」でのくすぐりは、ほかの噺家のそれをはるかに圧倒しています。凄愴で滑稽なんです。

志ん生流を踏襲する噺家もいますが、本家を知っているとなんだかなぞっているようで、いまいち。以下が、きわめつきの3選です。読むだけでも笑っちゃいます。

●屑屋がらくだの死を知った場面

「へえ、ふぐに当たって……まあ、どうもふぐってえものも当てるもんですな、こりゃァ。当てましたなぁ、ふぐが」
「おい、福引きみてえなこと言うなよ」

●屑屋が月番の家に行った場面

「いえね、らくださんがね、ええ、ふぐに当たって死んじゃったんです」
「らくだがァ……。死んだァ。本当か、おい、そんなこと言って、人を喜ばせるんじゃないかい」
「いえ、喜ばせやしませんよ」
「そうかい、へえ、生き返りゃあしねえかァ」
「いや、生き返りませんよ」
「いやァ、あの野郎、ずうずうしいから生き返ってくるかもしれねえぞ。あたまァ、よくつぶしといたらどうだい」

●屑屋がらくだの髪の毛をむしる場面

ぐんだよゥ、もっと。もっと注げよ、もっと……。しみったれめ、けつを上げろ、尻をォ、てめえの尻じゃねえ、徳利の尻をあげんだい……なにを言ってやんだい、こんちくしょう。へええ、なんだい、なんだい、なんだ。らくだァ……、らくだがなんだってんだ。べらぼうめぇ。らくだもきりんもあるかァ。こんちくしょう、まごまごしやがるってえと、おっぺしょって、鼻ァかんじゃうぞう、ほんとうにィ、屑屋さんの久さん、知らねえかってんだ」

くううぅ、たまりませんなあ、志ん生。ぞっろぺいです。



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