ふみちがい【文違い】落語演目

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

新宿の岡場所が舞台。
淋菌のついた指で目をこすると。
当時は「風眼」と呼ばれていました。

別題:自称間夫

あらすじ

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて
「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

しりたい

六代目円生の回顧

かつての新宿を語った、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)の回顧談が残っています。

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(お女郎さんのいる店)がずいぶんありましたもので」

円生は豊竹節の母親に連れられて、大阪から東京へ。

東京の最初の夜は新宿角筈の芸人宿でした。

その後、さまざまな変転の後、昭和32年(1957)3月、新宿区柏木町(北新宿)に転居。

それ以降、昭和54年(1979)9月に亡くなるまで「柏木の師匠」と呼ばれていました。

東京人生の初めと終わりが新宿で、六代目円生は新宿に縁のある人でした。

「なかでも覚えておりますのは、新金しんかねといううち、それから大万おおよろず、そういうとこは新宿でも大見世おおみせとしてあります」

詳しいものです。

明治末年のころ

円生回顧の「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井のあたりにあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど。

客にどうかは知らず、お女郎さんには過酷な見世だったようです。

芸談・円生

さらに。

六代目三遊亭円生の芸談です。

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、「女殺し」。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋きょうじや、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。

蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。

どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿ししゅく(非公認の遊郭)の一。飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。

正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。

甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。

明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。



 

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せんきのむし【疝気の虫】落語演目

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【どんな?】

虫の夢を見た医者。
命乞いしている疝気の虫。
蕎麦が好物でトウガラシが苦手とか。
アソコにとりついて悪さしてる。
ならば、女体ではどうなる?
疝気とは泌尿器科全般の病のこと。

あらすじ

ある医者が妙な夢を見る。

おかしな虫がいるので、掌でつぶそうとすると、虫は命乞いをして「自分は疝気の虫といい、人の腹の中で暴れ、筋を引っ張って苦しめるのを職業にしているが、蕎麦そばが大好物で、食べないと力が出ない」と告白する。

苦手なものはトウガラシ。

それに触れると体が腐って死んでしまうため、トウガラシを見ると別荘、つまり男のキンに逃げ込むことにしているとか。

そこで目が覚めると、これはいいことを聞いたと、張り切って往診に行く。

たまたま亭主が疝気せんきで苦しんでいて、何とかしてほしいと頼まれたので、先生、この時とばかり、かみさんが妙な顔をするのもかまわず、そばをあつらえさせ、亭主にその匂いをかがせながら、かみさんにたべてもらう。

疝気の虫は蕎麦の匂いがするので、勇気百倍。すぐ亭主からかみさんの体に乗り移り、腹の中で大暴れするので、今度はかみさんの方が七転八倒。

先生、ここぞとばかり、用意させたトウガラシをかみさんになめさせると、仰天ぎょうてんした虫は急いで逃げ込もうとその場所に向かって一目散いちもくさんに腹を下る。

「別荘はどこだ、別荘……あれ、ないよ」

しりたい

疝気

江戸時代の漢方の病名など大ざっぱですから、要するに男のシモの病全般、尿道炎にょうどうえん胆石たんせき膀胱炎ぼうこうえん睾丸炎こうがんえんなどをひっくるめて疝気と称していました。昔から「疝気の大きんたま」などというのもそのためです。ちょうど女のしゃくに相当するもので、

悋気りんきは女の慎むところ、 疝気は男の苦しむところ」

というのは、落語のマクラの紋切り型。落語に登場の病気では、しゃく、恋わずらいと並んでビッグ3でしょう。「藁人形わらにんぎょう」「万病円まんびょうえん」「夢金ゆめきん」ほか、あげればキリがありません。

この噺の「療法」はもちろんインチキのナンセンスですが、実は、疝気の正体はフィラリアという寄生虫病という説もあり、あながち虫に縁がなくもありません。

なお、噺の中で疝気の虫が蕎麦が好物というのは、蕎麦は腹が冷えるので、疝気には禁物とされていたのを戯画化したのでしょう。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん(美濃部孝蔵、1890-1973)生の独壇場どくだんじょうで、四代目三遊亭円遊えんゆう(伊藤金三、1878-1945)も得意でした。

志ん生と「疝気の虫」

昭和24年(1949)の新東宝映画『銀座カンカン娘』で、落語家・桜亭新笑しんしょうに扮した五代目古今亭志ん生(当時59歳)が「疝気の虫」を縁側で稽古けいこする場面をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。

旧満州から帰国後間もなく、まだすっきりと痩せていますが、蕎麦をたぐるしぐさはなかなかあざやかなものです。

志ん生は実演では最後に「別荘……」と言って、キョロキョロあたりを見回す仕草で落としていました。

その他の演者では、バレ(艶笑)の要素を消すため、

「ひょいと表に飛び出した」「畳が敷いてあった」「スポッ」

などとすることもあります。 

疝気のマジメな療法

根岸鎮衛やすもり著『耳嚢みみぶくろ』巻五に、疝気の薬としてブナの木の皮を用いたところ、翌日にはケロリと治ってしまったという逸話が載っています。漢方にはこのような処方はなく、

阿蘭陀オランダ法の書を翻訳 する者有て其の説を聞くに、 符を号するが如しとかや(よく合致するようだ)」

とあります。同書にはそのほかにも、疝気治療に関するまじないや薬の記述が多く、やれ「マタタビ一もんめを酒か砂糖湯に 溶かしてのむ」とか、四国米を毎日4-5粒ずつ食べろとか、著者当人も相当悩まされた末、ワラにもすがったあとがありありです。

【疝気の虫 古今亭志ん生】



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こうこうのしつ【膏肓の疾】故事成語 ことば

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不治の病気。転じて、物事に夢中になってやめられないこと。

よい意味では使われません。

病膏肓やまいこうこうる」というフレーズのほうが有名でしょうか。

「肓」を「盲」と間違えて「こうもうにいる」と読む人もいますが、まだ「こうこう」が正解です。「こうもう」と読む人がもっと増えれば、国語辞典も「こうもう」を許容するかもしれません。

「入る」は古語では「いる」と読みます。「はいる」は現代語です。

出典は『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん成公せいこう十年。紀元前581年ですから、相当古い時代の話です。

ところで、この四字熟語にはどんな故事来歴があるのでしょうか。

一般には、こんな話が伝わっています。

しん景公けいこうが病気になった。病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた。そんな夢を景公は見た。医者の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公はこの医者を「名医」と称賛し、礼物を尽くして帰させた。

せっかく名医にみてもらったのに、見放されてしまったとは。晋の景公は死が迫りながらも治せない医者を名医と称賛するなんて、なかなかの大人たいじんぶりです。夢と見立てがぴったりだったので驚愕きょうがくしたのかもしれません。

もう少し詳しい解説本になると、こんな具合に記されています。

晋の景公が病気になった。みこに自分の寿命を占わせたところ「公は新麦をお召しになる前に亡くなられます」とのことだった。景公は、病気が二人の子どもとなって現れ「名医が来るから膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)に上に隠れよう」と話していた夢を見た。名医がやってきた。彼の見立てでは「膏肓の間に病があるので治せません」と。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦が収穫された。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹具合が悪くなった。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。

え、なに。大人たいじんの風だと思われた晋の景公、占いが「当たらなかった」として巫を斬ってしまうとは。ずいぶんな暴君ぶりではありませんか。

原典の『春秋左氏伝』成公十年には、さらに詳しい物語が記されています。こんな具合です。まずはお読みください。

晋の景公は夢を見た。背の高い亡霊が長い髪を振り乱し、胸をたたいて踊りながら「わしの子孫を殺すとは不埒な奴」と公を殺そうと迫ってきた。目を覚ました公は桑田そうでん(晋の地名)から巫を呼んだ。巫は夢をそっくり言い当てた。公が「どうなるのか」と聞けば、巫は「今年の新麦を召し上がれないでしょう」。まもなく景公は病気になった。公は隣国のしんに医者を求めた。秦からかんという医者が来ることになった。緩が着く前、景公は、病気が二人の子どもとなり「緩は名医だから、膏(心臓の下)の下、肓(横隔膜の上)の上に隠れよう」と話す夢を見た。緩がやってきた。「膏肓の間に病があるので残念ながら私には治せません」という見立てだった。夢とぴったり。景公は「名医なり」と、礼物を尽くして帰させた。新麦収穫の季節が来た。景公は食膳に就いた。占いがはずれたとして巫を斬った。いざ新麦を食べようとすると、にわかに腹が張ってきた。公は便所に立ったが、転落して亡くなった。その日の明け方、公を背負って天に昇る夢を見た宦官かんがんがいた。昼になって、その宦官は公を背負って便所から担ぎ出すことになった。宦官は殉死をさせられた。

「膏肓之疾」にはこんなにも込み入った物語があったとは。知りませんでした。

晋の景公が見た最初の夢。そこに登場した亡霊は、ちょう一族の先祖のようです。『春秋左氏伝』成公八年は、公が趙一族を皆殺しにさせたことを記してます。なかでも趙同ちょうどう趙括ちょうかつという大夫たいふ(領地を持った貴族)の兄弟の名はしっかりと載っています。

夢に出てきた二人の子どもは、この兄弟を暗示しているのでしょう。景公にとって、趙一族皆殺しは慙愧ざんきえない黒歴史だったはずです。

景公は、緩には名医だと称賛し礼を与えて帰させたのに、桑田そうでんみこには占いが当たらなかったとして、新麦を食べる直前に殺させています。二人は同じことをしているのに。どういうことでしょうか。

医者のかんは隣国の秦から派遣されてきているので、殺すわけにはいきません。感情の赴くままに殺してしまったら、秦は攻めてくるに違いありませんし。緩はお客さんだったのです。だから、腹いせは自国の巫で、ということでしょうか。景公はやはり、おのれに迫る死にがまんならなかったのですね。大人でも名君でもありませんでした。

夢に登場した二人の子どもが趙同と趙括の化身で、いまそこにある病はこの二人によるもの、いやいや、この病は趙一族による復讐なのだという気づきが、景公の心には彷彿ほうふつとしたのでしょう。自分はいずれあいつらに殺される。そういう悟りです。

晋の景公は二度、夢を見ます。夢の中でのできごとをまともにとらえているのです。だからでしょうか。「膏肓之疾」には、なにかに夢中になることを戒める思いが込められているようですね。夢中はよくない、ということでしょうか。

糞まみれだったであろう、景公の亡骸なきがらを担いだ宦官。公の夢を見たことを漏らしたばっかりに殉死を強いられてしまった彼。とんだとばっちりかと思うのですが、この時代、殉死は名誉なことでしょうから、いちおう、そと見的には、彼は喜んで道連れになってくれたのでしょう。この噺の、ちょっとしたオチなのかもしれません。

これは、衰退してやがては消えていく運命の晋と、いずれは統一国家を実現する上り調子の秦との噺です。「膏肓之疾」が意味する「不治」とは、滅亡する晋の運命なのだと思います。

余談ですが、趙一族には生き残った者が一人いました。趙武ちょうぶです。成長した彼が仇討ちを果たした物語は、元代の紀君祥きくんしょうによる雑劇ざつげき「趙氏孤児」で有名になりました。そのおかげで、これまでにさまざまな脚色作品が流布されてきたのです。例をあげてみましょう。

日本では『孟夏の太陽』(宮城谷昌光、文藝春秋、1991年)、『洛陽の姉妹』(安西篤子、講談社、1999年)所収の「趙氏春秋」などで。フランスでは戯曲『中国の孤児』(ヴォルテール、1755年)、現代中国では映画『運命の子』(原題:趙氏孤児、チェン・カイコー監督、2011年)などの作品で、広く知られています。

敵役かたきやくとなる屠岸賈とがんこは『春秋左氏伝』には登場せず、『史記』に出てきます。屠が趙を憎むにはそれなりの理由があり、こちらのエピソードがまた、さらに複雑になっていきます。

「膏肓之疾」という四字熟語に、こんな物語があるなんて。四字熟語、軽んずべからず。

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