あいさつ【挨拶】川柳 ことば

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あいさつに女はむだな笑ひあり  二05

いつも笑顔の女性は愛敬があるとされて世間では高評価なのですが、「むだな笑ひ」とはうわべだけの笑いや心にもない笑いのことで、この句はどうやら、飾ったり偽ったりの笑いはよろしくない、と暗に言っているようです。

「女は愛敬」が当たり前の、江戸の価値観による句です。

前だれでふきふき内儀おかみあいさつし  宝十三松03

あいさつを内儀はくしで二ツかき  一34

あいさつに困りかんざし差し直し  五22

ちょっとした義理は天気の噂なり  三十七38

世間とどうつきあっていくか。そんなとき、「笑ひ」ばかりか、さまざまな所作が緩衝材になったりちょっとした手助けになったりしてくれるんですね。いまも同じでしょう。

ちなみに、「挨拶」は仏教語、しかも禅語です。『碧巌録』に載っています。「挨」はおす、「拶」はせまる。師僧と弟子との禅問答の応酬を意味し、これを何度も何度も繰り返します。だから、コミュニケーションの手始めを意味するようになったのですね。どこか厳しさが込められたことばなのですがね。

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あい【あい】川柳 ことば



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奥行おくゆきのない呉服屋はあいという  十三31

「あい」は「はい」という応答語。日本橋あたりの大きな呉服屋なら「あーい」と長ったらしくこたえる返事も、奥行きのない小さな店では「あいッ」と短い。それだけのこと。こんな、どうでもよいことでも江戸の人はおもしろがったのですね。

小半日こはんにちいなないてゐる呉服店ごふくだな  八31

こちらは、通行人にまで呼び込もうとしています。高級店じゃありません。新宿や銀座にもその手の店がありました。ある種の風物詩でしたが。



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あいがさ【相傘】川柳 ことば

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相傘を淋しく通す京の町  三17

「相傘」は男女が一本の傘をさすこと。相合傘とも。

相合傘の男女が歩いていても、穏やかな京の町では誰もひやかさない。江戸では悪口やひやかしの浴びせ倒しがあるから相合傘をするわけで、だいぶ違うものだ、という程度の話。

いまは相合傘の男女がいてもひやかしたりはしませんが、昭和40年代までの東京の下町ではひやかしは当たり前でした。ご祝儀です。

相傘はだまって通すものでない  二十27

右の手と左でうまい傘をさし  明七満01

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あいきょう【愛敬】川柳 ことば

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「あいきょう」は「愛敬」「愛嬌」と記すことが多いようです。「接すると好感を催させる柔らかなようす」「見て(聞いて)笑いを覚えさせる感じ」といった意味合い。その人がもつ雰囲気をさします。似たことばで「愛想」がありますが、こちらはその人の行為からの印象で、「愛敬」とはちょっと異なります。

もとは仏教語の「あいぎゃう」で、「愛敬(愛嬌)」は「あいぎょう」と濁っていましたが、どうしたわけか、室町期以降、「あいきょう」と清音となります。

愛敬はこぼれてへらぬ宝也  六十一29

愛敬はこぼれるもので、減るものでもないのでいくらでも。若い女へのご教訓めいた句でしょうか。愛敬は人柄にも通じるようで、悪からぬ印象です。

愛きゃう娘そこからもここからも  十三10

「そこからもここからも」は縁談をさしているのですね。川柳は言外を察する気働きがないとわからないものですが、これも江戸の空気というもの。

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あいそう【愛想】川柳 ことば

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あいさうにふくぶくしいと嫁をほめ  二十九24

ここでの「愛想」はお世辞。おもてなしでの好印象をさします。「ふくぶくしい」とは肥えていることで、近代以前は、肥えていることが美でしたし、器量のよしあしでした。ダイエットは近代の概念なんですね。

本来の「愛想」はその人の行為からの印象。「愛敬」はその人がもつ雰囲気からの印象。似ていますが、ちょっと違います。

愛想のよいをほれられたと思ひ  八28

よくあること。愛想笑いを「おれに惚れてる」と勘違いしているわけ。色恋は勘違いから始まります。

ちっとづつ焼くのも女房あいそ也  天五智06

「焼く」と言えば嫉妬。女房が焼いてくれないと調子が出ない、という平和な風景です。

あいそうに傾城やけどさせる也  十六06

「傾城」は遊女。このシチュエーションで「やけど」と言えば、遊女が煙管の雁首を客の手やら腕やらにたたいてやけどさせるという、まさに焼いてる状態。

これだって、遊里サービスの一環にすぎませんが。あまり遊んでない男は勘違いして本気になってしまいます。野暮の始まりです。

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あいのやま【相の山】川柳 ことば

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面白くなる銭のなくなる相の山  八十二18

「相の山」は伊勢神宮の内宮ないぐう外宮げぐうの間にある小高い山。「間の山」とも。

江戸時代を通して有名な話ですが、ここには、三味線を弾いて参詣客から銭も乞う女がいました。

客が女目当てに投げる銭をばちではじいてわが身に当たらせない特技が売り物でした。客は絶対当ててやろうとついつい銭を使ってしまうという、まるでゲーセン感覚の遊びです。いつも二人でやっていて、「お杉」「お玉」と名乗っていました。

相の山→お杉お玉→銭当ての連想です。それにしても、すごい商売ですね。

抜打ぬきうちにお杉お玉へ銭つぶて  七十四02

客はいろんな手でお杉お玉を狙い撃ちです。

手がらなりお杉お玉をいたがらせ  宝十三松03

たまには当たるわけで。これも彼女らの手の内でしょうか。

毛のばちで弾けばあわれな相の山  宝七、十一

「毛のばち」とは胡弓こきゅうを連想させます。これでは銭をうまくはじけませんね。かわいそうな話ですが、「だったらいいな」という、ただの妄想でしょう。

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あいぼれ【相惚れ】川柳 ことば

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相ぼれの仲人実はまわしもの  五32

「相ぼれ」は相思相愛。大店おおだなの若だんなと遊里の花魁おいらんの、なんかが理想的なストーリー運びです。「まわしもの」は間者とかスパイ。大店のだんな(若者の親父)からの指示で、ひそかに乗り込んだ番頭とかのイメージでしょうか。好例は「山崎屋」ですね。

仲人なこうどのあとからできる面白さ  九31

仲人を地者じものとおもやたいこ持ち  一27

「地者」はふつうは素人女で、芸子や娼妓の対語として使います。ここでは素人男性のようですね。「地者とおもやたいこ持ち」は素人と思ったら幇間だった、という意。

相ぼれのおさきにつかふ隣の子  三十七27

「おさきにつかふ」は利用する。同じ町内の男女の相思相愛を詠んだ句。

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あかいしんにょ【赤い信女】川柳 ことば

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石塔せきとうの赤い信女をそそのかし  拾二09

「赤い信女」は夫に先立たれた女性。

落語の世界では「後家さん」として登場します。

「信女」とは仏式で葬った女性の戒名(僧が死者に付ける名)の付ける称号で、男性の場合は「信士」。先に亡くなった夫の墓に「〇〇信女」と法号を刻んで、この人の妻はまだ生きていますよというしるしに赤で字を塗るところから、「赤い信女」という熟語が生まれました。

たいていの辞書には項目として載っています。

川柳に登場する「赤い信女」なるものは、亡夫に操を立てたのはいいけれど、人生そう短くはなく、生きているうちに世間の誘惑に惑わされて後悔している妻の心境を詠む場合に登場します。

これも川柳や落語の中での類型です。

川柳の世界では、このような後家さんをまどわすのは寺の坊さんだというのが通り相場です。

妻帯できない浄土真宗以外の各宗派の僧侶がこの手の女性を狙っている、というのが世間の常識でした。

浄土真宗は略して「真宗」としても登場しますが、この宗派は、宗祖の親鸞自身が妻帯したため、今日まで真宗の僧侶は頭も丸めず妻帯しています。

ただ、現在の仏教界では、真宗以外の各宗の坊さんも妻帯しています。これは明治以降のことです。真宗化しているのが日本の仏教界の現在です。

これを戒律が緩い状態にあると見るかどうかはかならずしも一律ではありませんが、現在よりも江戸時代のほうがまだ厳しかったのかもしれません。

辻善之助が『日本仏教史』で唱えた「江戸時代以降、日本の仏教は葬式仏教に堕した」といった説は、最近の研究では見直されています。

そうはいっても、江戸時代、寺社は大きな幕府や各藩から禄をいただいていたために、生活には困らず、自由な時間もしっかりもあった、という見方もできます。

そのような状態では、ろくでもない思いにいたる僧侶も少なくはなかっただろうという推測もかなうことでしょうね。

信女の月をよどませる和尚也  筥二15

「月をよどませる」とは生理が止まった由。和尚がはらませた、ということ。

「信女の月」は「真如の月」の洒落。

「真如」とは万物の本体。すべてに通じる絶対普遍の真理。「真如の月」は闇と照らすように真理が人の心の迷いを破ること。

真理は迷妄を開くわけで、はらませれば別な迷妄が開く、というわけでしょうか。

ろくでもない坊さんが描かれています。

ちなみに、「真如の月」の対語は「無明長夜むみょうじょうや」。煩悩にとらわれて仏法の根本がわからずに迷った状態でいることで、光のない長い夜にたとえたものです。

「無明の闇」といった表現でも登場します。真如の月=悟り、無明の闇=迷い、ということですね。

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あかいぬ【赤犬】川柳 ことば

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赤犬が紛失したと芝で言い  明五鶴03

「赤犬」と「芝」とをかませた連想から、この句の舞台は薩摩上屋敷(港区芝5丁目)あたりであることがわかります。芝では赤犬がいなくなるといわれる、当時の都市伝説があります。赤犬は薩摩屋敷のへんで忽然と消えるのだと。

江戸の人が嫌う肉食を、薩摩侍は好むからだ、という噂がまことしやかに信じられていました。その噂はあらかたまことだったのでしょう。それを江戸の人々は気味悪がっていたのですね。赤犬は美味だというのも通り相場。

そもそも赤犬とは、べつにそういう種類の犬がいるわけではありません。茶毛の犬を赤犬と称するだけのこと。

とすれば、日本古来の犬はおおよそが赤犬となります。柴犬なんかですね。そうか、柴犬ならぬ芝犬となる。ということだったのですね。

赤犬は食いなんなよと女郎言い  明八義06

この句の「女郎」は品川遊郭の、ということになりますね。芝の近所の遊郭です。

赤犬を食って精力みなぎったまんま来られたんじゃ、威勢よく突かれてアタシのカラダがどうにかなっちまうからさ、てなぐあい。

麹町芝の屋敷へ丸で売れ  拾20

川柳で「芝」とセットに語られる「麹町」は、入り口にあった山奥屋という獣肉店をさします。

ここの獣肉店に「芝の屋敷」(薩摩屋敷)から注文が入った、しかも「丸」で。「丸」は一匹丸ごとのことですから、上得意さんだったという詠みです。

いまでも「駒形どぜう」などで「丸」と注文すれば、割いていないまんまのどじょうが皿にどっさり盛られてきますよね。こっちのほうが「さき」よりお得です。

いのししの口は国分でさっぱりし  明六智04

薩摩産の「国分」は高級煙草で、肉食のあとには煙草で口内をさっぱりさせる、と。国分煙草は「国府煙草」とも記され、元禄年間(1688-1704)あたりから嗜まれていました。薩摩地方の食風習に「えのころ飯」というのがありました。

「えのころ」とは犬ころの意。皮を削いだ犬体からはらわたを取り、そこに米を詰めて蒸し焼きにして、その米を食べるというもの。

大田南畝(覃、直次郎、1749-1823)が『一話一言補遺』に記しています。美味なんだとか。

家畜のはらわたに米などを詰めて蒸し焼きにする食風習は太平洋全体に散見されます。珍しくはありません。

ハワイのカルアピッグも祝祭用の豚の丸焼き料理で、同類といえます。

犬食文化は、中国(とりわけ玉林市)、朝鮮半島、台湾、沖縄など広域にわたり、日本も例外ではありません。古代からほそぼそながらも連綿と続いてきた食文化でした。

なにも、薩摩だけのものではなかったのです。現代のわれわれが犬食を毛嫌いする感覚は、明治に入ってきた西洋風価値観が、旧来の価値観に上塗りされたからです。ご先祖さまはけっこうつまんでいたのでした。

よかものさなどと壷からはさみ出し  明五信06

「よかものさ」と薩摩訛りで「上物だ」と、自慢げに壷漬けの獣肉を箸でつまんでいる薩摩武士の奇矯な食道楽ぶり。江戸ではこのように詠まれていたのですね。

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おりかみ【折り紙】ことば

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「折り紙付き」という表現で、今も生き残っている言葉です。

「折り紙」は念のため、千羽鶴のことではなく、江戸時代で主に刀剣の保証書、鑑定書をこう呼びました。

歌舞伎の古風なお家騒動もので、盗まれたお家の重宝のナントカ丸という刀の詮議をする筋がよくありますが、そういう時「折り紙」は付き物です。

銘の鑑定書ですから、それがなければ真贋が 分からないからです。

これが転じて、「折り紙付き」は定評がある意味に用いられました。

ただし、これは悪い意味にも使われ、「折り紙付きの大悪人」などとも。

この類語としては江戸では「金箔付きの」とも使われました。

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おやすみのえにつきはいりけり【お休みの江に月は入りけり】むだぐち ことば



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「おや、寝ちまったよ」または「ここらでブレイクしましょう」という意味の洒落。

婚礼に使われる謡の「高砂」の一節「はや住之江に着きにけり」をもじったものです。

「早住之江」と「お休み」を掛けただけのダジャレで、謡曲の「着き」から「月」を出すことで、「夜」「寝入る」という意味合いを導いています。

いやあ、なかなか典雅なものです。

「お休み」のむだ口には、ほかに「お休み田んぼの塔あり」があります。

これはやはり洒落の「心得たんぼ」をもじったもの。

「たんぼ」は湯たんぽで、「とうば」とも呼ぶことから、お休み、寝るにつなげたもの。

さらに「たんぼ」から「田んぼ」を、「とうば」から「塔」を出し、田舎道で向こうに休憩場所の寺院の塔が見える光景に変換しています。

これはもう、連歌や俳諧の手法。

ダジャレやむだぐちは連歌や俳諧に影響受けたり与えたりしていったのですね。

ばかにしたものではありません。



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せきのしみずいなり【急きの清水稲荷】むだぐち ことば



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「急き」と、歌枕の「関の清水」を掛けたもの。気が急く、忙しないということのしゃれです。

関の清水は、蝉丸神社下社(大津市)の社内にかつてあった湧き水。稲荷の祠がありました。

この社は、古代から山城と近江の国境、東海道と東山道の分岐点に設けられていた逢坂山の関に隣接し、その守護神社であったもの。

そこから俗に「逢坂の関の清水」と呼ばれました。

この清水を詠んだ名歌は多く、紀貫之(866-945)の「逢坂の 関の清水に 影みえて 今やひくらん 望月の駒」はよく知られています。

しゃれとしては「関」が付けばなんでもいいわけで、同じ意味で「せき(関)が原」というのもありました。

強いて関連を付ければ、関所はどこでも日没の前にはもう閉まってしまうので、旅人は付近で野宿したくなければ、全速力で急がなければならなかった理屈です。



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おきのどくやはえのあたま【お気の毒や蝿の頭】むだぐち ことば



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「おや、へえ、お気の毒に」という、同情の言葉とは裏腹な、文字通り毒を含んだ冷やかし。

蝿の頭には毒があるという俗信から、「気の毒」と掛けてこう続けたものです。

このへらず口は明和年間(1764-72)の初め、新興の深川遊郭が発祥で、それからしばらく大流行しました。

「お気の毒」のむだぐちでは、ほかに「お気の毒の人丸さま」があります。

これはダジャレで、「おきのどく」と、万葉歌人の柿本の人丸(=人麿)の「かきのもと」を無理やり引っ掛けただけ。

『東海道中膝栗毛』では、相手の「さりとてはお気の毒な」を受ける形で「ナニお気の毒の人丸さまだ? イヤ四斗樽しとだるさまが(聞いて)あきれらァ」と、さらにダジャレでまぜっ返しています。



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ぎょいはよしののさくらもち【御意は吉野の桜餅】むだぐち ことば



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「構わずとも吉野葛」同様、良し→吉野のしゃれで、今回は桜餅と付けています。

「ぎょい」は「御意」で、武家で殿様の思し召し、またはご機嫌のこと。

殿のおことばをいただいて、ひたすら「仰せごもっとも」と返答する場合の紋切型ですが、この場合は「御意はよし」で、ご機嫌うるわしいの意味です。

それを町人どもがからかい半分に茶化して、「お気に召した」の意味のむだぐちたたきに使っているわけです。

実にどうも無礼千万、けしからんもんで。

こういう、しらじらしくぎょうぎょうしい物言いは、多くは遊里で幇間が客に使ったり、通人気取りの若だんなが「ゲス」ことばとともに用いたものです。



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くちばかりのいかのしおから【口ばかりの烏賊の塩辛】むだぐち ことば

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烏賊の嘴だけで塩辛をこさえたって、食えたもんじゃない、無意味だというところから、口先ばかりの相手ををピシャリ。

「いか」は「いかさま」と掛けていて、インチキ、嘘つきを匂わせています。

実際は、動物学的には烏賊に嘴はないのだそうで、俗にそう呼ばれているのは潮の排出部分だとか。

それでも、「いかくちばし」は食通には珍重され、中身は干物にすると珍味です。

とまれ、烏賊なら刺身でもなんでもよかったのに、なぜわざわざ塩辛としたのか、「のしおから」の5音が必要だったのですね。

「のさしみ」の4音よりも言いやすいわけで、語呂のよさからきています。

烏賊が潮や墨を吹き出すように、口から出任せ出放題いう揶揄も隠れているのかもしれません。

「しおから」から「トンボ」を連想、トンボには隠語で愚か者、泥棒という意味もあるのでそれを利かせたのか。

そこまでいくとうがち過ぎですかね。

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おそかりしゆらのすけ【遅かりし由良之助】むだぐち ことば



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「由良之助か、遅かったァ」という絶句のしゃれ。それだけ。

遅刻をたしなめることばとして、歌舞伎ファンでなくてもたまに使われています。

戦前までの東京では、生活の至るところに歌舞伎のにおいがあったようです。

日常会話の端々に芝居の名セリフや、そのもじりがごく普通に使われていたわけです。

なかでも『仮名手本忠臣蔵』となると、どんなワキのセリフでも、骨の髄までしゃぶり尽くされていました。

これもその一つ。

「四段目」、塩冶判官が腹に九寸五分を突き立てたところで、花道から家老の大星由良之助がバタバタ。

そこで「由良之助か、遅かったァ」となるわけです。

もっともこれは実際の判官のセリフではなく、客席の嘆きの声なのですが。

これが遅刻をたしなめることばとして定着。

といっても本気ではなく、相手をからかうしゃれことばとなったものです。

逆に、遅刻した側のわびごとは、その前の「三段目」喧嘩場での判官のセリフ「遅なわりしは拙者の不調法」。

バレ小咄では、由良之助が髪を下ろした瑤泉院にお慰み用張り形(女性用婬具)を献上。そのサイズが合わず「細かりし由良之助」。



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きのねはとっこではのねはあご【木の根はとっこで歯の根は顎】むだぐち ことば



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その気はない、と言う相手をまぜっ返すむだ口です。

「きのね」は「気のねえ」で、それと「木の根」を掛けているのが、次の「とっこ」で分かります。

「とっこ」は同音異義語で、「盗人」「蟻地獄」「独鈷」「かつおぶし」など、さまざまな意味が考えられますが、この場合、木の切り株の意味の「とっこ」しかぴったりハマりません。

新潟県や長野県の方言なので、このむだぐち自体もそのあたりのローカルなものかもしれません。

次に「木」から「葉」、ついで「歯」と変換し、「歯のねえ」から「歯の根」→「あご」と悪じゃれます。

まぜっ返し自体はあまりタチがいいとはいえませんが、ことばの連鎖的な変化としては、なかなかに凝っています。



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ごめんそうめんゆでたらにゅうめん【御免素麺茹でたらにゅうめん】むだぐち ことば

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一応「ごめん」と謝った形ですが、こうまでざれごとを並べ立てたら、謝る気などさらさらないのは見え見え。おそらく子供の軽口でしょう。

許されるどころか、逆に大雷が落ちるのは必至です。

しゃれとしては、「めん」という韻を重ねただけの他愛ないものですが、むだぐちとしての言葉のリズムはなかなかのもの。

「ごめんそうめん」は、古語の「御免候え」のもじり。

「ごめん」のしゃれもなかなか多く、「御免素麺冷素麺」「御免素麺売れたら一銭」「御免茄子おいて南瓜、一服西瓜今日は冬瓜」「御免頂来豆の粉しんちこ」「しからば御免の蒙り羽織」などなど。

この中には謝罪というより、「しからば御免」のように、「ちょっと失礼」という意味だけのものも含まれています。

受けた相手の逆襲は「五面(=御免)も十面もねえっ」に尽きるでしょう。

【語の読みと注】
御免候え ごめんそうらえ
御免素麺冷素麺 ごめんそうめんひやそうめん
御免茄子おいて南瓜 ごめんなすおいてかぼちゃ
一服西瓜今日は冬瓜 いっぷくすいかきょうはとうがん
御免頂来豆の粉しんちこ ごめんちょうらいまめのこなしんちこ
しからば御免の蒙り羽織 しからばごめんのこうむりはおり

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おもおもともとのところへおなおりそうらえ【重々と元の所へお直り候え】むだぐち ことば



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これは将棋で、王手に対しての相手の「待った」を許すときのむだぐちです。

元ネタは能楽の三番叟で、後半の狂言方のセリフ「元の座敷へ重々とお直り候え」をもじったもの。

「落ち着いて元の場所に駒を戻しなさい」といったところ。

「待った」というものは、本来許されるものではありません。

それをあえて許し、妙に仰々しい文句でうながすところに、勝者の余裕と鼻持ちならない侮蔑の念がうかがわれます。



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しょうがなければみょうががある【生姜なければ茗荷がある】むだぐち ことば



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「しょうがない」というあきらめのことばに対するまぜっ返し。「しょうがない」と「生姜」を掛け、「生姜がなければ代用品の茗荷があるだろう」と茶化しています。

「茗荷」はかなり紋切り型ですが、「冥加」と掛けたしゃれ。冥加は仏の恩恵のことで、この場合は「しょうが(=生姜)なくても、まあなんとかなるんじゃないの」くらいの感じでしょう。

似た言いまわしでは、江戸で古くから使われた「仕様模様」があります。

「仕様」はやり方、手段。模様はこの場合は、仕組むこと、工夫、趣向の意味ですから、ほぼ同じニュアンス。

つまり、同じ音韻、意味を重ねた強調表現。

この後に否定「……がない」が付けば「しょうがない」と同じ意味になります。

もう一つ、ストレートに「しょうがない」を表すむだぐちには「生姜苗(=ねえ)茄子苗(=ねえ)田無の市」があります。

これは、「ねえ」という否定と「苗」を掛け、江戸郊外の苗市を出したしゃれです。

「茄子」はもちろん「しょうがなす」→「しょうがない」のダジャレでもあります。



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ありがたいならいもむしゃくじら【蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨】むだぐち ことば



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「ありがたいなあ」というしゃれことば。それだけです。

「ありがたい」の中の「あり」に蟻、「たい」に鯛を掛けて、その大きさのギャップを強調しているのです。語感が気持ちいいですね。

ぜひとも声に出してみたいところ。



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そのてはくわなのやきはまぐり【その手は桑名の焼き蛤】むだぐち ことば



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合点承知之助」や「恐れ入谷の鬼子母神」と並んで、今に生き残るもっとも知られたむだぐちです。

「その手は食わない」から東海道桑名と掛け、さらに、ご当地名物の焼き蛤を出しています。「その手」なので、これももともとは将棋からかもしれません。

焼き蛤の代わりに「四日市」「三日市」としている例もありますが、これは土地つながりだけで、しゃれとしての意味はありません。

「そうはいかない」の別のむだぐちには、「その手は食わぬ水からくり猿が臼挽き」「その手でお釈迦の団子こねた」などがあります。

「水からくり……」の方は、からくり仕掛けの子供のおもちゃで、猿が噴水の仕掛けで臼を挽くようになっているもの。

「からくり」→「魂胆はは見抜かれている」という警告と、「水」→「すべてパアになるからむだなこと」という嘲りを含んでいます。



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おおありなごやのきんのしゃちほこ【大あり名古屋の金の鯱】むだぐち ことば



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「おい、本当か」という相手の疑問を受け、「もちろんだ」と強く保証する江戸っ子流。

ここまで調子に乗って軽口を叩かれると、多分に眉唾ものですね。

「大あり」と尾張名古屋の洒落は常番。

それに名古屋城の金の鯱鉾をもう一つくっつけ、話はどんどん大げさになっていきそうです。

「金」を出すことで、「俺っちの言うことは武士の金打だから間違いねえ」とだめ押しする気なのでしょう。

実際には金の鯱鉾は名古屋に限らず、天守焼失前の江戸城にもあったので、なんのことはなく、これは江戸っ子の負け惜しみ。

類似のむだぐちに「大ありさまの五段長屋」があリます。

これは「大あり」と「尾張さま」の洒落。

「五段長屋」は、江戸の市ヶ谷浄瑠璃坂にあった、尾張徳川家の侍長屋。今でいう社宅ですね。

【語の読みと注】
鯱鉾 しゃちほこ
金打 きんちょう:命がけの誓約



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そろそろときたやましぐれ【そろそろと北山しぐれ】むだぐち ことば



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「来た」と「北」を掛け、そこから、京都の北山から降りおろす時雨を出しています。

「北山時雨」はポピュラーな冬の季語。

昭和初期の小唄勝太郎から現代の川中美幸まで、歌謡曲の歌詞にもけっこう取り上げられています。

ここで厄介なのは、「来た山」としゃれる場合、慣用的に意味が複数あることです。

まずは、単純明快に誰かがやってきたの意。

ただ、「そろそろと」が付く場合、単に「そろそろ待ち人がやってきた」というほかに「やっとこっちの思惑通りになってきた、しめしめ」というニュアンスが加わることがあるので、要注意。

次に「腹が来た山」から「急に腹が減った」というスラング。

江戸時代には「腹が減った」ことを「腹が来た」と言いました。時雨は予期せず降ることから。

そこからもう一つ「気まぐれ」の異称にもなりました。

次に、同じ「来た」でも、異性に気があること。

「あいつは俺にきた山」など。

これは「恋心がきざした」ということでしょうが、一説には、京の北山の麓に、昔口寄せの巫女(霊媒)が出没したところから、「口寄せ」→接吻とエロチックな意味が付いたとか。

「北山」のしゃれには、ほかに「北山桜」「北山寒烏」「北山の宝心丹」など、これも多数。

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くれはおけやのたなにあり【くれは桶屋の棚にあり】むだぐち ことば



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くれくれとしつこくねだる相手をこれで撃退。「くれ」と、桶の原材料の材木であるくれを掛けています。

「いいかげんにしておけや」と「桶屋」も掛かっているわけです。

榑なら桶屋の仕事場の棚にあるから、「欲しけりゃそこからかっぱらっておけ」というわけ。

頼む側も断る側も「くれ」のしゃれはけっこうあり、「くれのかね(暮れの鐘=金をくれと掛ける)」、江戸の地名を出した「榑木河岸くれきがし」など。榑木河岸は、旧日本橋榑正町くれまさちょうにあった河岸通りで、中央区江戸橋三丁目付近。

この手のしゃれではるか後年のものでは、東京節(1918年)の替え歌の一節で「なににもくれないクレマンソー」というのがありました。

ベルサイユ講和会議(1919年)で、「クリルくれくれクレムリン」てえのはなかったんですかね。



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けっこうけだらけねこはいだらけ【結構毛だらけ猫灰だらけ】むだぐち ことば



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映画「男はつらいよ」シリーズで、寅次郎の口癖として全国的に有名になりました。

この後、「ケツの周りは糞だらけ」というスカトロじみたセンテンスが付きます。

語呂合わせの典型的なもので、映画のイメージから東京特有のものと思われがちですが、古くから全国各地に流布していました。

『俚言集覧』にも記載され、伊豆、駿河、出雲地方などの用例があります。

まぜっ返しで、「結構」という取り澄ました返辞の言葉尻を取ってあなどるもの。

地方によって、「結構毛だらけ猫の穴」「結構毛だらけ猫穴だらけ」などの変形が見られます。



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こまりいりまめさんしょみそ【困り煎り豆山椒味噌】むだぐち ことば



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「困り入リ(=困り果て)ました」の「入りま」に「煎り豆」を掛け、さらに豆の縁で、大豆の山椒煮から山椒味噌とつなげた、典型的なむだぐち。

意味は「困った」の一言だけで、以下はすべてしゃれでしかありません。

山椒は実が丸くてごろごろしているところから「ころり山椒」の異名があり、そこから「ころりと参った」=なすすべがない、という意味を含ませたのかもしれません。

「困る」のむだぐちも多く、「困った膏薬貼り場がねえ」「困り桐の木」「こまりたこ彦之進」「困り名古屋」「困りの天神」「困りの天満宮」「困り山の重忠」「困るに数の子」と、挙げれば切がありません。

最後のは正月料理の「ごまめ」と「困る」のダジャレ。つくづく神代の昔より、憂き世に悩みの種は尽きまじ、ですね。



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きこうかるかやおみなべし【聞こう苅萱女郎花】むだぐち ことば



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秋を代表する花々を並べた「桔梗苅萱女郎花」のもじり。

「聞こう」を「桔梗」としゃれ、「か」から「刈萱」とつなげ、さらに「おみなべし」を「おみなえし」と続けたものです。それだけ。

「おみなえし」と言わず、あえて別読みの古風な「おみなべし」としたのは、「さあ、聞くべし」という心でしょう。

「おみなべし」「をみなべし」「をみなへし」は中世以前の読み方です。

しゃれことばとしてはシンプルですが、それだけに、典型的なむだぐちのサンプルともなっています。

【語の読みと注】
桔梗苅萱女郎花 ききょうかるかやおみなべし



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うまかったうしゃまけた【うまかった牛ゃ負けた】むだぐち ことば



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ダジャレを使った典型的なむだ口の例で、特に説明の必要もないかと思います。

「牛」の部分は「鹿」になることも。

牛と馬は、農村の二つの大きな柱で、ことわざや慣用句でもよく比較されます。

「牛を馬に乗り換える」「馬を買わんと欲してまず牛を買う」など。

いずれの場合にも牛は二番手扱い。

迅速と鈍重。イメージの差でしょうか。

古く、児童の遊戯で「馬か牛か」というのがありました。

下駄か草履をコイン代わりに投げ上げ、表か裏かを当てっこする他愛ないものですが、この場合も馬=表、牛=裏でした。



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あたじけなすびのかわっきり【あたじけ茄子の皮っ切り】むだぐち ことば



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関東地方の方言です。

欲が深い、ケチ、あつかましいという意味の「あたじけない」に茄子を掛けたしゃれ。

「皮っ切り」は、皮ばかりで中身が空っぽなこと。

茄子は昔は安価な野菜で貧乏人の象徴とされたので、そのまた切れっ端なら救いようがありません。

ケチで強欲、シャイロックですね。

「あたじけなすび」は「かたじけなすび」の地口でもあります。

後者は「お有り難やの大明神」と同様、ただただ感謝感激、茄子も正月の縁起物の一つでもあったのに、「か」を「あ」に一音変えただけで、ポジがネガになる皮肉です。



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