せきのしみずいなり【急きの清水稲荷】むだぐち ことば



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「急き」と、歌枕の「関の清水」を掛けたもの。気が急く、忙しないということのしゃれです。

関の清水は、蝉丸神社下社(大津市)の社内にかつてあった湧き水。稲荷の祠がありました。

この社は、古代から山城と近江の国境、東海道と東山道の分岐点に設けられていた逢坂山の関に隣接し、その守護神社であったもの。

そこから俗に「逢坂の関の清水」と呼ばれました。

この清水を詠んだ名歌は多く、紀貫之(866-945)の「逢坂の 関の清水に 影みえて 今やひくらん 望月の駒」はよく知られています。

しゃれとしては「関」が付けばなんでもいいわけで、同じ意味で「せき(関)が原」というのもありました。

強いて関連を付ければ、関所はどこでも日没の前にはもう閉まってしまうので、旅人は付近で野宿したくなければ、全速力で急がなければならなかった理屈です。



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おきのどくやはえのあたま【お気の毒や蝿の頭】むだぐち ことば



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「おや、へえ、お気の毒に」という、同情の言葉とは裏腹な、文字通り毒を含んだ冷やかし。

蝿の頭には毒があるという俗信から、「気の毒」と掛けてこう続けたものです。

このへらず口は明和年間(1764-72)の初め、新興の深川遊郭が発祥で、それからしばらく大流行しました。

「お気の毒」のむだぐちでは、ほかに「お気の毒の人丸さま」があります。

これはダジャレで、「おきのどく」と、万葉歌人の柿本の人丸(=人麿)の「かきのもと」を無理やり引っ掛けただけ。

『東海道中膝栗毛』では、相手の「さりとてはお気の毒な」を受ける形で「ナニお気の毒の人丸さまだ? イヤ四斗樽しとだるさまが(聞いて)あきれらァ」と、さらにダジャレでまぜっ返しています。



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ぎょいはよしののさくらもち【御意は吉野の桜餅】むだぐち ことば



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「構わずとも吉野葛」同様、良し→吉野のしゃれで、今回は桜餅と付けています。

「ぎょい」は「御意」で、武家で殿様の思し召し、またはご機嫌のこと。

殿のおことばをいただいて、ひたすら「仰せごもっとも」と返答する場合の紋切型ですが、この場合は「御意はよし」で、ご機嫌うるわしいの意味です。

それを町人どもがからかい半分に茶化して、「お気に召した」の意味のむだぐちたたきに使っているわけです。

実にどうも無礼千万、けしからんもんで。

こういう、しらじらしくぎょうぎょうしい物言いは、多くは遊里で幇間が客に使ったり、通人気取りの若だんなが「ゲス」ことばとともに用いたものです。



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くちばかりのいかのしおから【口ばかりの烏賊の塩辛】むだぐち ことば

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烏賊の嘴だけで塩辛をこさえたって、食えたもんじゃない、無意味だというところから、口先ばかりの相手ををピシャリ。

「いか」は「いかさま」と掛けていて、インチキ、嘘つきを匂わせています。

実際は、動物学的には烏賊に嘴はないのだそうで、俗にそう呼ばれているのは潮の排出部分だとか。

それでも、「いかくちばし」は食通には珍重され、中身は干物にすると珍味です。

とまれ、烏賊なら刺身でもなんでもよかったのに、なぜわざわざ塩辛としたのか、「のしおから」の5音が必要だったのですね。

「のさしみ」の4音よりも言いやすいわけで、語呂のよさからきています。

烏賊が潮や墨を吹き出すように、口から出任せ出放題いう揶揄も隠れているのかもしれません。

「しおから」から「トンボ」を連想、トンボには隠語で愚か者、泥棒という意味もあるのでそれを利かせたのか。

そこまでいくとうがち過ぎですかね。

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おそかりしゆらのすけ【遅かりし由良之助】むだぐち ことば



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「由良之助か、遅かったァ」という絶句のしゃれ。それだけ。

遅刻をたしなめることばとして、歌舞伎ファンでなくてもたまに使われています。

戦前までの東京では、生活の至るところに歌舞伎のにおいがあったようです。

日常会話の端々に芝居の名セリフや、そのもじりがごく普通に使われていたわけです。

なかでも『仮名手本忠臣蔵』となると、どんなワキのセリフでも、骨の髄までしゃぶり尽くされていました。

これもその一つ。

「四段目」、塩冶判官が腹に九寸五分を突き立てたところで、花道から家老の大星由良之助がバタバタ。

そこで「由良之助か、遅かったァ」となるわけです。

もっともこれは実際の判官のセリフではなく、客席の嘆きの声なのですが。

これが遅刻をたしなめることばとして定着。

といっても本気ではなく、相手をからかうしゃれことばとなったものです。

逆に、遅刻した側のわびごとは、その前の「三段目」喧嘩場での判官のセリフ「遅なわりしは拙者の不調法」。

バレ小咄では、由良之助が髪を下ろした瑤泉院にお慰み用張り形(女性用婬具)を献上。そのサイズが合わず「細かりし由良之助」。



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きのねはとっこではのねはあご【木の根はとっこで歯の根は顎】むだぐち ことば



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その気はない、と言う相手をまぜっ返すむだ口です。

「きのね」は「気のねえ」で、それと「木の根」を掛けているのが、次の「とっこ」で分かります。

「とっこ」は同音異義語で、「盗人」「蟻地獄」「独鈷」「かつおぶし」など、さまざまな意味が考えられますが、この場合、木の切り株の意味の「とっこ」しかぴったりハマりません。

新潟県や長野県の方言なので、このむだぐち自体もそのあたりのローカルなものかもしれません。

次に「木」から「葉」、ついで「歯」と変換し、「歯のねえ」から「歯の根」→「あご」と悪じゃれます。

まぜっ返し自体はあまりタチがいいとはいえませんが、ことばの連鎖的な変化としては、なかなかに凝っています。



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ごめんそうめんゆでたらにゅうめん【御免素麺茹でたらにゅうめん】むだぐち ことば

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一応「ごめん」と謝った形ですが、こうまでざれごとを並べ立てたら、謝る気などさらさらないのは見え見え。おそらく子供の軽口でしょう。

許されるどころか、逆に大雷が落ちるのは必至です。

しゃれとしては、「めん」という韻を重ねただけの他愛ないものですが、むだぐちとしての言葉のリズムはなかなかのもの。

「ごめんそうめん」は、古語の「御免候え」のもじり。

「ごめん」のしゃれもなかなか多く、「御免素麺冷素麺」「御免素麺売れたら一銭」「御免茄子おいて南瓜、一服西瓜今日は冬瓜」「御免頂来豆の粉しんちこ」「しからば御免の蒙り羽織」などなど。

この中には謝罪というより、「しからば御免」のように、「ちょっと失礼」という意味だけのものも含まれています。

受けた相手の逆襲は「五面(=御免)も十面もねえっ」に尽きるでしょう。

【語の読みと注】
御免候え ごめんそうらえ
御免素麺冷素麺 ごめんそうめんひやそうめん
御免茄子おいて南瓜 ごめんなすおいてかぼちゃ
一服西瓜今日は冬瓜 いっぷくすいかきょうはとうがん
御免頂来豆の粉しんちこ ごめんちょうらいまめのこなしんちこ
しからば御免の蒙り羽織 しからばごめんのこうむりはおり

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おもおもともとのところへおなおりそうらえ【重々と元の所へお直り候え】むだぐち ことば



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これは将棋で、王手に対しての相手の「待った」を許すときのむだぐちです。

元ネタは能楽の三番叟で、後半の狂言方のセリフ「元の座敷へ重々とお直り候え」をもじったもの。

「落ち着いて元の場所に駒を戻しなさい」といったところ。

「待った」というものは、本来許されるものではありません。

それをあえて許し、妙に仰々しい文句でうながすところに、勝者の余裕と鼻持ちならない侮蔑の念がうかがわれます。



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しょうがなければみょうががある【生姜なければ茗荷がある】むだぐち ことば



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「しょうがない」というあきらめのことばに対するまぜっ返し。「しょうがない」と「生姜」を掛け、「生姜がなければ代用品の茗荷があるだろう」と茶化しています。

「茗荷」はかなり紋切り型ですが、「冥加」と掛けたしゃれ。冥加は仏の恩恵のことで、この場合は「しょうが(=生姜)なくても、まあなんとかなるんじゃないの」くらいの感じでしょう。

似た言いまわしでは、江戸で古くから使われた「仕様模様」があります。

「仕様」はやり方、手段。模様はこの場合は、仕組むこと、工夫、趣向の意味ですから、ほぼ同じニュアンス。

つまり、同じ音韻、意味を重ねた強調表現。

この後に否定「……がない」が付けば「しょうがない」と同じ意味になります。

もう一つ、ストレートに「しょうがない」を表すむだぐちには「生姜苗(=ねえ)茄子苗(=ねえ)田無の市」があります。

これは、「ねえ」という否定と「苗」を掛け、江戸郊外の苗市を出したしゃれです。

「茄子」はもちろん「しょうがなす」→「しょうがない」のダジャレでもあります。



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ありがたいならいもむしゃくじら【蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨】むだぐち ことば



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「ありがたいなあ」というしゃれことば。それだけです。

「ありがたい」の中の「あり」に蟻、「たい」に鯛を掛けて、その大きさのギャップを強調しているのです。語感が気持ちいいですね。

ぜひとも声に出してみたいところ。



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そのてはくわなのやきはまぐり【その手は桑名の焼き蛤】むだぐち ことば



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合点承知之助」や「恐れ入谷の鬼子母神」と並んで、今に生き残るもっとも知られたむだぐちです。

「その手は食わない」から東海道桑名と掛け、さらに、ご当地名物の焼き蛤を出しています。「その手」なので、これももともとは将棋からかもしれません。

焼き蛤の代わりに「四日市」「三日市」としている例もありますが、これは土地つながりだけで、しゃれとしての意味はありません。

「そうはいかない」の別のむだぐちには、「その手は食わぬ水からくり猿が臼挽き」「その手でお釈迦の団子こねた」などがあります。

「水からくり……」の方は、からくり仕掛けの子供のおもちゃで、猿が噴水の仕掛けで臼を挽くようになっているもの。

「からくり」→「魂胆はは見抜かれている」という警告と、「水」→「すべてパアになるからむだなこと」という嘲りを含んでいます。



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おおありなごやのきんのしゃちほこ【大あり名古屋の金の鯱】むだぐち ことば



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「おい、本当か」という相手の疑問を受け、「もちろんだ」と強く保証する江戸っ子流。

ここまで調子に乗って軽口を叩かれると、多分に眉唾ものですね。

「大あり」と尾張名古屋の洒落は常番。

それに名古屋城の金の鯱鉾をもう一つくっつけ、話はどんどん大げさになっていきそうです。

「金」を出すことで、「俺っちの言うことは武士の金打だから間違いねえ」とだめ押しする気なのでしょう。

実際には金の鯱鉾は名古屋に限らず、天守焼失前の江戸城にもあったので、なんのことはなく、これは江戸っ子の負け惜しみ。

類似のむだぐちに「大ありさまの五段長屋」があリます。

これは「大あり」と「尾張さま」の洒落。

「五段長屋」は、江戸の市ヶ谷浄瑠璃坂にあった、尾張徳川家の侍長屋。今でいう社宅ですね。

【語の読みと注】
鯱鉾 しゃちほこ
金打 きんちょう:命がけの誓約



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そろそろときたやましぐれ【そろそろと北山しぐれ】むだぐち ことば



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「来た」と「北」を掛け、そこから、京都の北山から降りおろす時雨を出しています。

「北山時雨」はポピュラーな冬の季語。

昭和初期の小唄勝太郎から現代の川中美幸まで、歌謡曲の歌詞にもけっこう取り上げられています。

ここで厄介なのは、「来た山」としゃれる場合、慣用的に意味が複数あることです。

まずは、単純明快に誰かがやってきたの意。

ただ、「そろそろと」が付く場合、単に「そろそろ待ち人がやってきた」というほかに「やっとこっちの思惑通りになってきた、しめしめ」というニュアンスが加わることがあるので、要注意。

次に「腹が来た山」から「急に腹が減った」というスラング。

江戸時代には「腹が減った」ことを「腹が来た」と言いました。時雨は予期せず降ることから。

そこからもう一つ「気まぐれ」の異称にもなりました。

次に、同じ「来た」でも、異性に気があること。

「あいつは俺にきた山」など。

これは「恋心がきざした」ということでしょうが、一説には、京の北山の麓に、昔口寄せの巫女(霊媒)が出没したところから、「口寄せ」→接吻とエロチックな意味が付いたとか。

「北山」のしゃれには、ほかに「北山桜」「北山寒烏」「北山の宝心丹」など、これも多数。

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くれはおけやのたなにあり【くれは桶屋の棚にあり】むだぐち ことば



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くれくれとしつこくねだる相手をこれで撃退。「くれ」と、桶の原材料の材木であるくれを掛けています。

「いいかげんにしておけや」と「桶屋」も掛かっているわけです。

榑なら桶屋の仕事場の棚にあるから、「欲しけりゃそこからかっぱらっておけ」というわけ。

頼む側も断る側も「くれ」のしゃれはけっこうあり、「くれのかね(暮れの鐘=金をくれと掛ける)」、江戸の地名を出した「榑木河岸くれきがし」など。榑木河岸は、旧日本橋榑正町くれまさちょうにあった河岸通りで、中央区江戸橋三丁目付近。

この手のしゃれではるか後年のものでは、東京節(1918年)の替え歌の一節で「なににもくれないクレマンソー」というのがありました。

ベルサイユ講和会議(1919年)で、「クリルくれくれクレムリン」てえのはなかったんですかね。



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けっこうけだらけねこはいだらけ【結構毛だらけ猫灰だらけ】むだぐち ことば



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映画「男はつらいよ」シリーズで、寅次郎の口癖として全国的に有名になりました。

この後、「ケツの周りは糞だらけ」というスカトロじみたセンテンスが付きます。

語呂合わせの典型的なもので、映画のイメージから東京特有のものと思われがちですが、古くから全国各地に流布していました。

『俚言集覧』にも記載され、伊豆、駿河、出雲地方などの用例があります。

まぜっ返しで、「結構」という取り澄ました返辞の言葉尻を取ってあなどるもの。

地方によって、「結構毛だらけ猫の穴」「結構毛だらけ猫穴だらけ」などの変形が見られます。



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こまりいりまめさんしょみそ【困り煎り豆山椒味噌】むだぐち ことば



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「困り入リ(=困り果て)ました」の「入りま」に「煎り豆」を掛け、さらに豆の縁で、大豆の山椒煮から山椒味噌とつなげた、典型的なむだぐち。

意味は「困った」の一言だけで、以下はすべてしゃれでしかありません。

山椒は実が丸くてごろごろしているところから「ころり山椒」の異名があり、そこから「ころりと参った」=なすすべがない、という意味を含ませたのかもしれません。

「困る」のむだぐちも多く、「困った膏薬貼り場がねえ」「困り桐の木」「こまりたこ彦之進」「困り名古屋」「困りの天神」「困りの天満宮」「困り山の重忠」「困るに数の子」と、挙げれば切がありません。

最後のは正月料理の「ごまめ」と「困る」のダジャレ。つくづく神代の昔より、憂き世に悩みの種は尽きまじ、ですね。



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きこうかるかやおみなべし【聞こう苅萱女郎花】むだぐち ことば



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秋を代表する花々を並べた「桔梗苅萱女郎花」のもじり。

「聞こう」を「桔梗」としゃれ、「か」から「刈萱」とつなげ、さらに「おみなべし」を「おみなえし」と続けたものです。それだけ。

「おみなえし」と言わず、あえて別読みの古風な「おみなべし」としたのは、「さあ、聞くべし」という心でしょう。

「おみなべし」「をみなべし」「をみなへし」は中世以前の読み方です。

しゃれことばとしてはシンプルですが、それだけに、典型的なむだぐちのサンプルともなっています。

【語の読みと注】
桔梗苅萱女郎花 ききょうかるかやおみなべし



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うまかったうしゃまけた【うまかった牛ゃ負けた】むだぐち ことば



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ダジャレを使った典型的なむだ口の例で、特に説明の必要もないかと思います。

「牛」の部分は「鹿」になることも。

牛と馬は、農村の二つの大きな柱で、ことわざや慣用句でもよく比較されます。

「牛を馬に乗り換える」「馬を買わんと欲してまず牛を買う」など。

いずれの場合にも牛は二番手扱い。

迅速と鈍重。イメージの差でしょうか。

古く、児童の遊戯で「馬か牛か」というのがありました。

下駄か草履をコイン代わりに投げ上げ、表か裏かを当てっこする他愛ないものですが、この場合も馬=表、牛=裏でした。



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あたじけなすびのかわっきり【あたじけ茄子の皮っ切り】むだぐち ことば



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関東地方の方言です。

欲が深い、ケチ、あつかましいという意味の「あたじけない」に茄子を掛けたしゃれ。

「皮っ切り」は、皮ばかりで中身が空っぽなこと。

茄子は昔は安価な野菜で貧乏人の象徴とされたので、そのまた切れっ端なら救いようがありません。

ケチで強欲、シャイロックですね。

「あたじけなすび」は「かたじけなすび」の地口でもあります。

後者は「お有り難やの大明神」と同様、ただただ感謝感激、茄子も正月の縁起物の一つでもあったのに、「か」を「あ」に一音変えただけで、ポジがネガになる皮肉です。



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えはなかちょうきりどおし【絵は仲町切通し】むだぐち ことば

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「ええ」という返事のまぜ返し。

こんな具合でしょうか。

「あんた、今日は休みなのかい」
「絵は仲町切通し」

こんなどうでもよいことをわざわざことばにするのも洒落てます。さすがは江戸文化。

「絵は神明前」というバージョンもあります。こんな低レベルなら、いくらでもつくれますね。

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きょろりかんすのおちゃがわく【きょろり鑵子のお茶がわく】むだぐち ことば



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「きょろりかん」「きょろりんかん」はあっけにとられ、呆然とすること、またはなにが起きてもあっけらかん、けろりとしていること。

ことば尻の「かん」から鑵子=薬罐につなげ、さらに「お茶がわく」で、「へそが茶をわかす」の意味を効かせています。

ややニュアンスに違和感はあるものの、前者の意味で「あきれけえって物が言えねえ。お笑い草だ」となるでしょう。

別解釈では、ぼうっとしていて薬罐の茶がわいても気が付かない、とも。

鑵子は江戸では薬罐ですが、上方ではもっと大きな茶釜のこと。

どちらにせよ、意味は変わりません。

類似のむだぐちに「きょろりが味噌をなめる」「きょろりが味噌をねぶる」がありますが、こちらは第二の意味でポーカーフェイス、鉄面皮のたとえです。



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うるさいのかじばおり【うるさいの火事羽織】むだぐち ことば



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「うるさい」というときのむだぐち。

ただ、それだけです。

火事場織とは、防火用として、大名などが着たラシャや革製の羽織をさします。

陣羽織ともいいます。

これは、身分のたかい人が着るものです。

羽織の種類は多岐にわたり、その羽織でどんな階層の人がわかるようになっていました。

たとえば、こんなかんじです。

袖丈よりも羽織丈の短い若衆の蝙蝠羽織。

市井の老人が着た袖無羽織=甚兵衛羽織。

袖丈と袖口が同じ長さの広袖羽織。

腰に差した刀や馬に乗る武士のための、腰から下が割れている背割羽織=打裂羽織。

幕末の洋式訓練に用いた筒袖羽織。

という具合に、使い方や階級・身分によって、その形態や素材など、さまざまでした。



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いたみぎんざん【痛み銀山】むだぐち ことば



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「痛み入る」のしゃれことば。

「石見銀山ねずみ捕り」は、江戸時代、石見国(島根県)笹ヶ谷鉱山で銅などといっしょにに採掘された砒石(硫砒鉄鉱、砒素などを含む)を焼成してできた殺鼠剤(ねずみ捕り)です。主成分は亜ヒ酸。

これを「石見銀山」とか「猫いらず」とか呼んでいたもので、全国的に使われていました。

「石見銀山ねずみ捕り」を「痛み銀山寝ずに取り調べて」などとも言ったりしています。式亭三馬「忠臣蔵偏癡気論」にも。

使い方はいろいろです。



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うそをつきじのごもんぜき【うそを築地のご門跡】むだぐち ことば

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「ええ、うそをつきゃあがれ」と軽く相手を突き放すときの軽口。

「うそをつく」と、江戸の地名の築地を掛け、さらに、その地にある本願寺とつなげています。

「うそを築地」と切ることも。

「門跡」は幕府が制定したもので、出家した皇族が住職を務める格式の高い寺院のこと。築地本願寺は西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)での唯一の直轄寺院です。

門跡に準じる「准門跡」の格ながら、俗にはやはり「ご門跡さま」と呼ばれます。中央区築地の場外市場には「門跡通り」があります。

江戸期にはこのあたりに寺院があったそうです。現在の建物は関東大震災(1923年)で焼失した後、昭和9年(1934)にできたもの。伊藤忠太の設計です。

ですから、旧築地市場一帯が本願寺の境内でした。地名から、このむだぐちは江戸東京限定です。

ほかに「うそを筑紫(つくし)」などとも言いました。

うそつきのむだぐちはけっこう多いもの。

「うその皮のだんぶくろ」「うそばっかり筑波山」……。ご存じ「うそつき弥次郎」などが代表例です。

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いしべきんきちかなかぶと【石部金吉金兜】むだぐち ことば

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人の性情そのものを擬人化した表現。

石と金属で作られているように、とにかくガッチンガッチン、堅餅の焼冷まし。

まじめ一途の堅物で、大阪でいう沈香も焚かず屁もひらず。

遊びも楽しみもまったく知らない、上方落語によく登場する「芸子という粉は一升なんぼや?」という人間を揶揄したもの。

これにさらに「金兜」が付き、リズム的にも強調されてことば遊びの部類になります。

もとは将棋の対局で、駒の金将に掛け、相手の難攻不落の堅陣をこうボヤいたのが始まりとか。

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あやまはりのりょうじおだぶつほうちんたん【あやま針の療治お陀仏ほうちんたん】むだぐち ことば

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「いや、これはあやまった」というのは東京の古い言い回しで、ちょっと照れた調子で「ゴメンゴメン」というところ。

「あやまはり」は「あんまはり」と掛けたしゃれ。

かつて、視覚障害者の流しのマッサージで、針療治はオプションのサービスでした。続く「お陀仏」はスラングでやはり間違い、誤りの意味。

「ほうちんたん」は、江戸日本橋本町の近江屋で売っていた気付け薬「豊心丹ほうしんたん」のもじりで、おふざけでさまざまなことばに付けました。

ということで、ここまでくると謝意など微塵もなく、ただおちゃらけているだけですね。

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あにはからんやおとうとしょうゆうり【あにはからんや弟醤油売り】むだぐち ことば

【RIZAP COOK】

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「あにはからんや」は漢文体の「豈はからんや」で反語。「とうてい信じられない」「思いがけないことに」の意味です。

続く「弟醤油売り」は、幕府瓦解、廃藩置県後、プライドだけはまだ高い没落士族が、いまだに「豈はからんや」などと漢文口調で反り返っているのに、跡取りの長兄以外の次男、三男は、行商で醤油を売り歩くほど落ちぶれていると揶揄したもの。

「豈(あに)」は「兄」と掛け、後の「弟」と対比しています。したがってこれは明治初期、「士族の商法」の時代限定の言い回しですね。

【RIZAP COOK】

あつかまししのほらいり【あつかまししの洞入り】むだぐち ことば

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あつかましい、ずうずうしいの言葉尻を「獅子」に掛けただけのしゃれ。

「獅子の洞入り」は、太刀、薙刀などの捌き方の一手で、一説には馬術の手綱捌きの一つとも。

さらに、そこから転じて、角兵衛獅子の子供が演ずるアクロバットや曲芸もそう呼びました。

いずれにしても、ずうずうしいの意味とは噛み合わないので、「洞入り」は単なる語呂合わせで付けただけかもしれません。

「あつかましい」には、古くはいかめしい、りっぱという意味もあったので、それならぴったりですが、一般的な意味とはかけ離れていて、やはり無理筋でしょう。

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あたりきしゃりきくるまひき【当たりき車力車曳き】むだぐち ことば

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江戸・東京の職人言葉で「あったりめえよ」といったところ。

「あたぼう」と同義です。

昭和の頃までは「あたりきしゃりき」まではまだ使われていましたが、「くるまひき」は聴いたことがありません。

今ではもう、ことば全部が滅亡種ですね。

「き」は単なる言葉癖で、「りき」から語呂合わせで「車力」を出しています。

車力も車曳も、もとは大八車を曳く都市部の労働者でした。

これが明治維新後、人力車を走らせる俥曳きの意味に転じました。

類似の言い回しとして、「車曳き」のところが「穴馬力」(荷馬車の意)「あんまの眼玉」などと変えられた例があります。

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あおざしごかんもん【青緡五貫文】ことば

さし」というのは 小銭が散らばらないように銭の穴に差し通した細い紐のことです。

藁や紙を縒ったものでできています。

両端に小さなこぶを作って止めて、百文や二百文単位にして、通して数えやすくしました。

お奉行さまからの下されるものは、紺に染めた麻縄で作られたもので、特製品でした。

この特製の緡には五貫(一両一分いちりょういちぶ)の銭が通してあります。

町内で評判の高い孝行者や忠義者などに与えられました。

幕府からの褒賞金はこんな形で授けれたのです。

これをいただく人が出れば、町内の名誉となりました。

一両一分は、現在の約10万円に相当します。

お奉行さまのおっしゃるには、与太郎は愚かしき者なるが、親孝行のよし、かみに聞こえ、青緡五貫文のほうびをつかわす。以後、町役人ちょうやくにん五人組でいたわり面倒をみてとらせろ、というわけだ。

孝行糖

あじにえをすげたこえびしゃく【味に柄をすげた肥柄杓】むだぐち ことば

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「味に」は「巧みに」で、「おつに」と似たニュアンス。「すげる」は継ぎ足す意味で、併せて、うまく言いつくろってごまかすこと。

「肥柄杓」は、調子を整えるために加えたもので、元の柄杓の柄に、また余計な柄(=屁理屈)をくっつけやがって、という非難。

肥は汚物の象徴なので、それだけ嫌悪感も増す勘定です。

歌舞伎では黙阿弥の世話狂言『髪結新三』の「永代橋の場」で「柄のねえところに柄をすげて、べらべら御託を抜かしゃがりゃ」とあります。

肥柄杓は、江戸では「こいびしゃく」と発音します。

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あざぶできがしれぬ【麻布で木が知れぬ】むだぐち ことば  

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この形はどちらかといえば、言葉遊び、むだぐちというより、なぞなぞを含んだしゃれ言葉、隠し言葉です。

たとえば、先代円楽が声を入れていたCMで「うでた(茹でた)卵で→かえりゃせぬ(=帰りゃせぬ)」の類。

この場合、謎解きは麻布、六本木の地名由来。昔麻布に六本の大木があったが、その所在はもう知れないことから「木」と「気」を掛け、麻布というだけで「気が知れない」=本心が解らない意味と言うわけ。

謎かけの兄弟分で、用例は無数。

江戸人の洒落っ気横溢で、日常で使う場合、答えをすぐ付けるのが普通です。

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あきれがいげにあがる【呆れが湯気にあがる】むだぐち ことば

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「いげ」は湯気で、古い江戸訛。

東京の下町では「う(u)」「ゆ(yu)」は「い」に近い発音に音韻変化して聞こえます。

「湯気にあがる」は、熱湯、長湯で湯にあたってのぼせる意。

したがって、「いつまで湯にへえってやがる。呆れ果てて物が言えねえ。こっちの方が焦れてのぼせてしっくりけえっちまう」という風に意訳できます。

「呆れ」に掛けた言葉遊びは、「呆れ蛙の頬被り」「呆れが御礼」「呆れが過ぎたらお正月」「呆れもは(果て)あいそ(愛想)もつ(尽きた)」「呆れ切幕トントン拍子」など多数あります。

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あきのみやじままわればしちり【安芸の宮島廻れば七里】むだぐち ことば

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「飽き」と「秋」を掛け、秋風が吹く頃、冷気が身にしみるように、男女の情愛がすっかり冷めきってしまうこと。

それに地名の「安芸あき(広島県)」をさらに掛けた、和歌では紋切り型のパターンです。

「安芸の宮島……」は、宮島みやじま(厳島いつくしま)三島めぐりの有名な民謡そのままで、「浦は七浦七恵比寿」と続きます。

厳島神社の祭神は「宗像三女神むなかたさんじょしん」と呼ばれる田心姫命たごりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと、市杵島姫命いちきしまひめのみことの女神三柱なので、この戯言の「飽き」が色事の結果なのは明(=安芸)らかですね。

江戸ではこの後に「気がもめ(=駒込)のお富士さん」と付けてダメを押します。

宗像大社は三つの神社で成り立つ複合神社です。宗像氏は安曇あずみ氏とともに海の民でした。

安曇氏は出雲族と手をむすんだため、出雲王国が崩壊する際、海の民を捨てて信州の山間にこもりました。

一方の宗像氏は天皇家と手をむすび、今日まで栄えたのです。

交通、商売、交流、繁栄をつかさどる人々です。大陸との橋渡しもしてきました。

宗像大社は以下の三つの社の総称です。

沖津宮おきつのみや 田心姫神(タゴリヒメ)
中津宮なかつのみや 湍津姫神(タギツヒメ)
辺津宮へつのみや 市杵島姫神(イチキシマヒメ)

あかんべいひゃっぱいなめろ【あかんべい百杯なめろ】むだぐち ことば

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反抗期に掛かった子供(特に男子)が親に用事を言いつけられ、万国共通の「アカンベー」で拒絶反応を示すとき、例の仕種と同時に付け加える悪態。

この場合、「あかんべい」は「あく(灰汁)の灰(はい、へえ)」のダジャレを含んでいて、そこから「百杯なめろ」が出るわけです。

この悪態のパターンは「あかん弁慶屁でも景清」「赤弁天さん尻観音さん」ほか多数あります。

「あかんべい」自体も「あかんべん」「あべかこ」「あかべい」「あかめん」など、各地の方言によって変化しますが、語源はすべて「赤目」から。「あかんべえひゃっぱいなめろ」「あかんべいえ百杯なめろ」も同じ。

かすがい【鎹】ことば

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くぎの一種。

二本の木材をつなぎとめるための両端の曲がった大きなくぎ。

両親をつなぐ子供の存在をいうこともあります。

え、あたいが鎹。それでおっかさん、げんのうでぶつって言ったんだね。

子別れ

輪王寺宮家の家紋は鎹が山型に見えるので、輪王寺宮家をさして「かすがい」「かすがいやま」と呼んだりします。

鎹はふたつのものをつなぐところから、一挙両得の意味で使われることもあります。

それを「鎹儲け」などといいます。

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いわぬがはなのよしのやま【言わぬが花の吉野山】むだぐち ことば

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いかにも日本人的な言い回しです。

「口に出して言わない方が奥ゆかしい」ということで、美学として称賛されるものですね。

世阿弥の「秘すれば花」から派生したものでしょうか、おもむきがちょっと異なるかもしれません。

花の盛りを限って楽しむことから、その場かぎりでいちばんよいことのたとえです。

「見るが仏、聞かぬが花」「待つが花」などの類似表現もあります。

小唄の「お互いに 知れぬが花よ」はダブル不倫の対処法です。

「花」から桜の名所を出していますが、当然「吉野」と「良し」も掛けています。

歌舞伎では、芝居小屋で旗本の狼藉の留め男(仲裁)に入った侠客の幡随院長兵衛が「何事も言わぬが花の花道を」とそっくり返って嬉しそうに言います。

裏返せば「空気を読め」という口封じ。

ビアスの『悪魔の辞典』風に解釈すれば、「口は災いの元」と同義です。

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あいはこうやにござります【藍は紺屋にござります】むだぐち ことば

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「あい」は主に幼児語で、返事や同意を示す感動詞。これに染料の「藍」を掛け、さらにそこから紺屋を出したまぜっかえしの言葉です。

子供同士の他愛ない言い合いでよく聞かれ、雑俳にも「おちゃっぴい あいは紺屋に…」とあります。

「あい」は関東、「はい」は関西起源とされますが、英語でも挨拶の”Hi”が訛って”Ai”となったりするので、そのあたりは人類共通のものがあるようです。

「藍」に掛けた用例は「藍は紺屋の使い物」など。変形で「鮎(あい)」を使った例も、「鮎が高けりゃ鰯を買え」など、多数流布しています。

あがったりだいみょうじん【上がったり大明神】むだぐち ことば

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「上がったり」は、「商売上がったり」などと、現代でもよくボヤキとして使われます。

職人や商人の仕事が行き詰まり、にっちもさっちもという状態。

「たり」は完了形なので、完全にダウン、再起不能という惨状。

「上がる」はあごが上がるから来ているのでしょうが、むしろ「干上がる」の方がぴったりでしょう。

それに神号の「大明神」を付けて、窮状も神様級。

普通、○○大明神といえば、大げさなほめ言葉ですが、ここでは明らかにやけくその自嘲。

神様は神様でも、根こそぎむしり取る貧乏神としか思えません。

あいてほしさのたまてばこ【相手欲しさの玉手箱】むだぐち ことば

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食事や碁将棋に付き合ってくれる相手が欲しいときに言います。

「あいてほしさ」は「開いて欲しさ」の洒落でもあり、これが「玉手箱」につながります。

同時にこれは、浦島伝説に由来の「開けてくやしき玉手箱」のもじりともなっています。

つまり、悲劇的な結末となった浦島とは正反対に、「玉手箱」(宝石箱)に掛けて、何か心楽しい成り行きを期待する心でしょう。

用例としては、「東海道中膝栗毛」七編下、京見物のくだりに「まだ飯が食ひたらんさかい、あい手ほしさの玉手箱ぢゃわいな」とあります。

ああにあわめしこうこにちゃづけ【ああに粟飯香香に茶漬け】むだぐち ことば

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 この後「うまくなくともたんとお上がり」と続きます。

「ああ」という気のない生返事を受け、後に語呂合わせを重ねたものです。

古語で「多い」という意味の「あわに」という副詞があり、それに「ああに」と掛け、さらに、いくら食べても満腹にならない粟飯と茶漬けを出して「いくらでも言っていろ」とからかったわけです。

「ああに」は確証はありませんが、「あわびに」と掛ける駄洒落も入っているかも知れません。

こう見るとなかなか一筋縄ではいかず、これを最初に考えた人間は、只者でなかったかも知れません。

ただどりさつまのかみ【只取り薩摩守】むだぐち ことば

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ただで大枚をふんだくるというのを、ただどり=ただのり(薩摩守忠度)と、「平家物語」の悲劇のキャラクターに引っ掛けただけの地口。

逆に巻き上げられた方の立場から「只取り山のの歩泣き石(ほととぎす)」といった類似表現もあります。

このうち「歩泣き石」は、東海道怪談伝説の「小夜の中山夜泣き石」に掛けたものですが、「薩摩守」を含め、もとは縁台将棋から広まったものでしょう。

それにつけても平忠度というご仁、首を取られた上、何百年も無賃乗車や横領の代名詞呼ばわりされ続けるとは、よくよく悲運の人物ですね。

さよならさんかくまたきてしかく【さよなら三角また来て四角】むだぐち ことば

古くから日本全国に広く流布した、児童の遊び歌の代表的なもの。

さよなら→三角→四角という語呂合わせは、落語「一目上がり」の「讃→詩→語」という数字のしゃれに通じるものです。

遊び惚けた子供たちが日没前に別れるときに、名残惜し気に掛け合う挨拶にも使われていました。

山田典吾監督作品「はだしのゲン」(1976年)では、子供たちの別れの場面でこれが歌われています。

この時のメロディーは「からす、なぜ泣くの」の替え歌になっていて、「あばよ さようなら さよならまたきてしかく しかくは とうふで とうふはしろい」と、さらに連想の要素が加わっていました。

どうでありまのすいてんぐう【どうで有馬の水天宮】 むだぐち ことば

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「どうで」は「どのみち」「どっちみち」という意味の強調語。「有馬」は地名と「有り」を掛けた駄洒落で、煎じ詰めればただ「ある」という肯定を大げさに洒落のめしただけ。

「有馬の水天宮」は、文政元年(1818)、久留米藩主有馬頼徳が芝赤羽橋外の同藩上屋敷内に久留米から勧請した水難の守り神。以後、江戸の庶民にも広く信仰されました。明治になってからは蠣殻町に引っ越して、今の水天宮となりました。この洒落が広まったのは文政年間以後です。

同じ意味で「どうで有馬の大入道」とも。こちらは言葉遊びで「大あり、大あり」。「どうで有馬の」の方は、使われ方の状況次第で微妙にニュアンスが変わることがあります。例えば、飲兵衛が目の前でいい酒をなみなみと注がれた時は「おっと、ありがたい」の意味にもなるわけですね。

榎本健一の一座には「有馬是馬」という芸名の役者がいました。「あれまこれま」の洒落のつもりでしょう。

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あいくち【匕首】ことば

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つばのない短刀。ひしゅ、くすんごぶ(九寸五分)とも。短刀。よろいどおし(鎧通し)。切腹に使います。

九寸五分は、長さからの名称。25cmほど。

この刀を使う時、おもしろいことに、歌舞伎でも文楽でも富本節でも「キリキリ」という擬音が必ずついてまわります。キリ=斬り、とでも言いたいのでしょうか。

ひしゅとは匕首の読みです。

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あいかた【敵娼、相方、合方】ことば

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落語では、遊客の相手、つまり、相手の遊女をさします。でも、一般には、相手のこと。

歌舞伎では、役者のせりふや動きなどに合わせてつまびく下座の三味線をいいます。

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そっぽう【素頬】ことば



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①外方。よそのほう。そっぽ。②頬。顔。横っ面。ほっぺた。

おまえなんざ、そっぽうがいいんだ。女なんざぁいくらでもできるんじゃねえか。

お若伊之助



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むしがかぶる【虫が齧る】ことば

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急に産気づくこと。広義では、腹痛、時には歯痛全般を指します。

かつては、腹痛はすべて、腹中に入り込んだ悪い虫が暴れるからだと考えられたためで、志ん生の「疝気の虫」などもその同類です。

いくらなんでも、陣痛は「虫」の仕業ではないのですが、妊婦の苦悶の症状から、そう言われたのでしょう。「かぶる」は「齧る」で「かじる」の意味。

「ばかだね、こいつァ。お産婆さんが女郎買いに行くかい」
「女郎買いには行かないよ。虫がかぶったてえことを聞くとすぐきます」

          羽織(六代目三遊亭円生)

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にかい【二階】ことば

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お女郎屋の二階のこと。

吉原や岡場所などの遊郭で、普通は二階が客と女郎の対面、逢い引きに使われたのでこう呼ばれました。「二階の間男」「二階ぞめき」などは、これを当て込んでいます。

「二階をまわす」というのはやり手や若い衆の仕事のことで、二階に案内した客を取り持ち、世話をすることです。

「まわす」は運営する、取り仕切ること。

ついでに、古い東京言葉の「こどりまわし(小取り廻し)が悪い」というのは、仕事のやり方が下手で気が利かないという悪口で、遊郭の用語でした。

明治期、男女が簡易に密会するのは、「蕎麦屋の二階」が通り相場でした。

「おや、嫌ですよ。私は二階をまわす者で」
「なに、二階をまわす? この二階を?」

                        敵討札所霊験(三遊亭円朝)

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ちりからたっぽう【ちりからたっぽう】ことば

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ちりからは鼓、たっぽうは大鼓の擬音語。そこから、芸者を揚げてにぎやかで陽気なお座敷をこう言いました。「だいようき(大陽気)」も同義。

正岡容は『明治大正風俗語事典』で、鳴り物入りの座敷は吉原に限るので、新宿などの「岡場所」の遊郭にはない、という説を紹介しています。

本所の達磨横丁を出て、全盛の吉原へやってきたが、ちりからたっぽう大陽気、両側はもう万燈のようで……。 

                                 文七元結

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そくらをかう【嘱賂を飼う、惣鞍を支う】ことば

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そそのかす、けしかけるの意味。「そくら(嘱賂)」はけしかける、煽動する、悪知恵を授けること。

訛って「そこら」「そくろ」とも発音しました。語源はよくわかりません。単独に使われることはなく、「かう」は「飼う」で、古い用例で毒を盛ること。

そこから転じて、耳によからぬ悪知恵などを吹き込むことを言いました。

おおかた誰か、そくらをかった奴があるのでございますが、私は少しも覚えがない。

       蝦夷錦古郷之家土産(三遊亭円朝)

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あいずり【相摺、相棒】ことば

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一蓮托生で悪事をする共犯者のこと。

芝居では特に、二人でゆすりに押しかける片割れをこう呼びます。

現代でも使われる「あいぼう(相棒)」の漢字を当て字に使う場合もありますが、同義の「尻押し」とともに、こちらは単に協力者の意味で、必ずしも悪事の共犯とは限りません。

もっとも有名な用例としては、河竹黙阿弥の世話狂言『弁天小僧』「浜松屋店先の場」です。

正体が露見した弁天小僧の「知らざあ言って…」の名乗りに続く相棒の南郷の「その相摺の尻押しゃあ…」という七五調のツラネ(続きゼリフ)があります。語源としては「あいづり(相吊)」または「あいづれ(相連)」が転じたものとされます。

押さえるとたんに、両方の頭からすっと引っこ抜いた。あいずりの長五郎ィ渡して、こいつがばらばらばらばらばらばらっと逃げ出したんで……。               

                        双蝶々(六代目三遊亭円生)

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しょうべん【小便】ことば

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売買などの約束を途中で破棄すること。

「小便組」とは、大金を取ってお妾さんになりながら、肝心な夜にわざと寝小便をして暇を取る(辞める)という手を使う悪辣な連中のこと。

尿瓶」に少し詳しく記しました。

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そういってもらう【そう言ってもらう】ことば

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店屋物をとってもらうときに使うことば。落語にはよく出てきます。

もうめんどうくせえから、うなぎでもそういってもらいましょう。

湯屋番

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じんみち【新道】ことば

【RIZAP COOK】

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大通りに対する小道。通りから分かれた小道。

表通りに入り口がある横丁で、地主が管理する私道。地主と町会所の相談で公許を得て造る道。

長谷川町の三光新道のな、常磐津の「かめもじ」ってのをちょいと呼んできてもれえて。

百川

【RIZAP COOK】

ひあわい【廂間】ことば

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家と家の間の狭い空間。路地。ひやわい。転じて、物と物の間。

廂間におれが立って、おまえが屋根から包みをおろすのを受け取ったことがある。

緑林門松竹

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こししょうじ【腰障子】ことば

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紙張り障子の下部が板張りになっている建具。

この一種で、板張りの部分が高さ60cm以上あるものは「腰高障子」と呼びます。

「腰高」とは一般には、道具の足の部分が高いものをさします。高坏など。

おれんとこはね、角から三軒目、腰障子に丸に八の字、丸八っていやあ、すぐにわかるんだ。

野ざらし

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よいちかい【余一会】ことば

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寄席での月内の興行は、基本的に以下のような具合になっています。

上席かみせき(1-10日)、中席なかせき(11-20日)、下席しもせき(21-30日)。

それぞれ番組を変えたり、協会を交互に替えたりして興行します。

大の月の31日には、その日に特別な興行を行います。

これを「余一会」と呼びます。

いつもと趣向の違う、その日だけのスペシャルな催しをします。

お楽しみです。

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かげのぞき【影覗き、陰覗き】ことば

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文字通りの「物陰からこっそり見る」から、義理にでもたまには挨拶に来る、顔を見せるの意味。

ほとんどは否定語を伴って「かげのぞきもしない」で、「不義理をする、まったく顔を見せない」という非難の言葉になります。

このフレーズ、古い江戸の言葉で、『全国方言辞典』(佐藤亮一編、三省堂)には記載がありますが、なぜか『日本国語大辞典』(小学館)にも、『江戸語の辞典』(前田勇編、講談社)にも、項目がありません。

慣用表現としては死語となっても、直訳的におおよそ意味が推測できるからでしょうか。

宇野信夫(1904-91、劇作家)が、1935年(昭和10)に六世尾上菊五郎(寺島幸三、1885-1949、音羽屋)のために書き下ろした歌舞伎脚本「巷談宵宮雨こうだんよみやのあめ」。

この中で、「影覗き」をセリフに用いました。

宇野は、大御所の岡鬼太郎(1872-1943、劇評家)から「あなたはお若いのに、かげのぞきという言葉をお使いになった」と褒められた、ということです。

こんなのが逸話に残るほど、昭和に入ると「影覗き」は使われなくなっていたようです。

当の宇野だって、生まれは埼玉県本庄市で、熊谷市育ち。長じて、慶応に通い出してから浅草で暮らしていたという、えせもの。

この言葉がはたして血肉になっていたのかどうか、あやしいものです。

とまれ、昭和初期にはすでに、老人語としてのほかは、東京でもほとんど忘れ去られていたということでしょうかね。

用のある時は来るけれども、さもなきゃかげのぞきもしやがらねえ。たまには出てこいよ。

              雪の瀬川(六代目三遊亭円生)

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つるかめつるかめ【鶴亀鶴亀】ことば

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江戸の町人特有の、縁起直しの呪文。

相手に不吉なこと、不浄なことを言われた後、必ず間を置かずに「つるかめつるかめ」と重ねて唱えます。

鶴と亀はともに長寿のシンボル。

縁起のいいものとされていたからで、いうなら精神的な口直しでしょう。

芝居では黙阿弥の代表的な世話狂言「髪結新三」で、大家に「オレに逆らったらてめえの首は胴についちゃあいねえんだ」と脅かされた小悪党の新三が、すかさず大げさに唱えて震える喜劇的なシーンが印象的です。

昭和初期までは老人の間では普通に使われていたと思います。

恐怖の度合いが強い場合は、さらに「万万年」を付けて呪力を強化します。

後家安「それじゃあちょっとおらあ行ってくるから」
お藤「また竹の子かえ」
後家安「縁起でもねえ、鶴亀鶴亀」

        鶴殺疾刃包丁(後家安とその妹)

「竹の子」は博打のこと。剥かれるところから。

『明治東京風俗語事典』(正岡容)には「つるかめつるかめ」の項目が立っていて、「ツルもカメもめでたい動物なので、縁起の悪いときにこうとなえる」とあります。

この本は、典拠をすべて円朝作品から採取しているので、出元は同じでした。

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へっつい【竃】ことば

【RIZAP COOK】

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かまど。

石や土でつくり、漆喰で塗り固めたもの。

へっつい幽霊」「品川心中」の上などに登場します。

【RIZAP COOK】

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しきいがかもい【敷居が鴨居】ことば

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「敷居が高い」の洒落。

「敷居が高い」とは、相手に不義理のある場合に使うことで、格式ある家や老舗に入りにくいことの意に使われることが多く、これは誤用です。

このことばの正しい使い方、六代目円生が範を垂れていました。

うかがわなくてはならんのですが、どうもオタクには敷居が鴨居になっちまって。なにしろ借金がそのままですし。

六代目三遊亭円生

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ねずみいらず【鼠入らず】ことば

【RIZAP COOK】

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鼠が入ってこないように隙間をなく作った食器棚。

だれだい。鼠入らずの中に首つっこんでるのは。六さんかい。

品川心中

【RIZAP COOK】

てきやく【敵薬】ことば

【RIZAP COOK】

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配合具合や病状にによっては毒となる薬のこと。

例えば、バッファリンなどの血液をサラサラにする薬を間違って血友病患者などが服用すれば、敵薬どころか死薬となりかねません。

これが広く現代にもあてはまるのは、純粋に調剤される医薬品としての薬だけでなく、広く栄養素や、それらを含む食物にも当てはまる故です。

別に洒落ではないのですが、同音異義語の「適薬」の部分的な対義語となります。

ビタミン過多、脂肪過多などはもちろん「敵薬」のうちで、肉類の食べすぎや糖分、塩分の過剰摂取も、広い意味の「敵薬」。

この意味が転じて、鰻と梅干などのいわゆる「食い合わせ」も敵薬と呼ばれることがありました。

この場合、経験則のみで科学的根拠は怪しいものが多いのですが、とにかく、後から食べた方の食材が敵薬とされるわけです。

もう一つ、近代では、樋口一葉の「大つごもり」に「金は敵薬」とあり、抽象的な使用例も加わってきています。

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ちんちんかもかも【ちんちん鴨鴨】ことば

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「ちんちん鴨」と縮めた形もありますが、きれいごとで言えば、男女の仲がむつまじいことで、悪く言えば、いちゃついて見ていられないさま、をさします。

そこからさらにエスカレートして、文字通りの濡れ場、くんずほぐれつの交合そのものの隠語ともなりました。

「かもかも(鴨鴨) 」 は単なる語呂合わせです。

一説には、鴨肉は薬食いとして、江戸では美味で貴重品だったことから連想して、女の肉体そのものの象徴としてくっついたともいわれます。

うがってみれば、ドン・ジョバンニやカサノバのような女たらしには、すべての女はまさしく鴨(獲物)、「ヘイ、カモン」だったこともあるでしょう。

置炬燵で、ちんちん鴨だか家鴨だか。

                                                  三遊亭円朝「敵討札所の霊験」

スヴェンソンの増毛ネット

ちんちん【ちんちん】ことば

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鉄瓶がかっかと熱くなる擬音語から、嫉妬に胸を焦がす意味です。

これは男の場合にも言いますが、ほとんどは女のヤキモチ。

「熱い」の意味から、まったく反対の嫉妬される側、すなわち熱々の恋人同士を指すことも。

この場合には次項の「ちんちんかもかも」として使われた場合が大半です。

花魁の方じゃ、いやな芸者じゃあないかってんで、ちんちんを起こして、あっしを夜っぴて花魁が寝かさない。 

                                ちきり伊勢屋

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あだじけない【あだじけない】ことば

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けちん坊、吝嗇である、の意味です。

「ケチくさい」のニュアンスから「貧弱な」「取るに足りない」という意味も派生しました。

語源は、「大言海」によると、「あた(あだ)」は蔑みの意味を表す接頭語、「しけない」は「しわけなし(い)」が縮まった言葉で、「しわい=ケチ」の古い形です。

江戸っ子風の洒落言葉として「あたじけなすび(茄子)」という表現もあります。

これは文字通り「ケチん坊」のことで、感謝の意味の「かたじけなすび」とまったく同型です。

ふだんあだじけない嘉藤太が平松なぞへ連れて参ってあれを喰え是をたべろと馳走致しますのは不思議な事だと。

                        三遊亭円朝「敵討霞初島」

【語の読みと注】
平松 ひらまつ:料亭の名

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いいまのふり【いい間の振り】ことば

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徹底的に否定的なニュアンスで「気取って」「きざったらしく」「半可通に」という悪口。

「いい間」というのはやはり、歌舞伎から来ているのでしょう。

役者が絶妙の間(タイミング)で見栄を切るのをまねて、オツに気取って見栄を張り、上から目線で鼻持ちならない粋人気取りのことです。

勘違いでおのれに酔いしれているような人間は、今の世にも掃いて捨てるほどいますね。

おれもいい間のふりをして、ああ、弥助でもいれな、なんて高慢なつらをしたんだが。    

   五人廻し

【語の読みと注】
弥助 弥助:すし

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べらぼう【便乱坊、可坊、箆棒】ことば

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ばかな、異常な。

定説となっている語源は、寛文年間(1661-73)に大評判になった見世物から。

当時の随筆『本朝世事談綺』(菊岡沾凉)には、「寛文十二年の春、大坂道頓堀に、異形の人を見す。其貌醜き事たとふべきもなし。頭するどくとがり、眼まん丸にあかく、おとがひ猿のごとし」とあります。

後世に伝えられるほどのインパクトだったのでしょう。

井原西鶴も、その十六年後の貞享5年(元禄元年、1688)出版『日本永代蔵』巻四の三で「ある年は形のおかしげなるを便乱坊と名付、毎日銭の山をなして」と書いています。

ごく普通の人間にこうした粉飾を施したインチキだった可能性は十分ありますが。この「人物」、全身真っ黒で、愚鈍なしぐさを見せて客の笑いを取ったことから、後年、江戸で「阿呆、愚か者」という意味の普通名詞として定着。

「あたりまえ」と語呂合わせで結びついて「あたぼう」という造語も生まれました。「べらんめえ」も、「べらぼうめ」が崩れた形です。

その他、形容動詞化して(悪い意味の)「はなはだしい」「むやみな」「法外な」という意味が加わりました。

「箆棒」と書くのは、ペラペラの箆で穀(ごく=雑穀)を押しつぶすような愚か者の意味であと付けしたもので、「ごくつぶし」と同義語です。「やんま久次」で、胸のすくようなオチに使われていますね。

俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ。                  

やんま久次

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あたぼう【あた坊】ことば

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あたりまえだ、当然だ。

悪態やタンカによく使われる、「当たり前だ」「当然だ」を意味する江戸語ですが、これ、高座の噺家始め一般の解釈では「当たり前(あたりめえ)だ、べらぼうめ」が縮まった形とよく言われます。

「べらぼう」は、寛文年間(1661-73)に評判になった見世物に由来し、「ばか」の意味ですから、「当たり前」の後に江戸下町の職人特有の、罵言の形の強調表現が付いた形。

この説明にはいささか、補足が必要です。

言葉の変化としては、以下の順番になります。

「当たり前」→「あたりき」→「あた」

どんどん縮まり、もっとも短くなった「あた」に、擬人化の接尾語「坊」が付いた形ですね。

「坊」は親しみをこめた表現で、「あわてん坊」などと同じです。

これは文政2年(1819)にものされた随筆『ききのまにまに』に「当り前といふ俗言を、あた坊と云ことはやり」とありますから、そう古い造語ではなさそうです。

本来「べらぼう」とは別語源なので、誤解されやすいのですが、「坊」という語尾が同じなので、語呂合わせでいつの間にか結びついたのでしょう。

原型の「当たり前」は労働報酬、それこそもらってアタリメエ、という分け前のこと。

「あたりき」は、少し乱暴な職人言葉で、「あたりきしゃりき」とも。これは、擂粉木の意味の「あたりぎ(当たり木)」と掛けて洒落たものです。

蛇足です。

江戸初期に兵法家にして新当流槍術の達人、阿多棒庵あたぼうかんなる者がおりまして、この人物はなんと、柳生兵庫助利厳やぎゅうひょうごのすけとしよしに槍術の印可を授けた、いわば師匠なのですが、この名をはじめて耳にしたとき、これはてっきり「あたぼうあんが強えのは、あったぼうだべら棒め」という洒落が語源ではないかと思い、ほうぼう調べてはみたものの、残念ながらいまだ、そんな資料は探し出せていません。

なあんだ。

阿多という姓ですから、九州の、それもそうとうに古い一族の御仁なのでしょう。

「八百ぐれえあたぼうてんだ」
「なんだい、あたぼうてえなあ」
「江戸っ子でえ。あたりめえだ、べらぼうめなんかいってりゃあ、日のみじけえ時分にゃあ日が暮れちまうぜ。だから、つめてあたぼうでえ」

                              大工調べ

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なげし【長押】ことば



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柱と柱を水平方向にむすぶ横材。

鴨居の上、敷居の下などで使われます。日本建築特有のものです。

長押の槍を小脇にかいこみ、ツカツカツカッ。

野ざらし



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もやう【舫う】ことば



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船を岸につなぎとめておくこと。

おい、なにやってんだよ。船がまだ舫ってあるじゃねえか。

船徳

「舫い」という名詞の場合は、「船と船、船と岸をつなぐ綱」をいいます。

そこから、「舫い遣い」ということばが生じて、「二人で一人をつかう」、「共用する」意味に。となると、「舫う」も「共用する」意に。「船縄」を「もやい」と読んだりもします。



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でんぽう【伝法】ことば



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江戸っ子の美学の一つで、粋、いなせ、勇み肌と似たニュアンスですが、実際は鉄火と同じく、もう少し荒々しいイメージです。

明治初期では、江戸っ子の権化のような名優・五代目尾上菊五郎の芸風・セリフ廻しがそのお手本とされました。

普通に「伝法」と言う場合は、主に口調を指す場合が多く、男女を問わず「伝法な言い回し」といえば、かなり乱暴で、なおかつ早口なタンカをまくし立てること。

女の場合は、一人称に「おれ」を用い、男言葉を使う鳶の者の女房などが典型です。

以上までは、まあまあ肯定的な意味合いですが、「伝法」の元の意は、浅草の伝法院の寺男たちが、寺の権威をかさに着て乱暴狼藉、境内の飲食店で無銭飲食し放題、芝居小屋も強引に木戸を破って片っ端からタダ見と、悪事のかぎりを尽くしたことから、アウトロー、無法者の代名詞となったもの。

間違っても美学のかけらもない語彙でした。

それが幕末になって、この「伝法者」の粗暴な言葉遣いが、芝居などでちょっと粋がって使われるようになってから、語のイメージがかなり変質したのでしょう。

いずれにしても、歴史ある名刹にとっては、迷惑このうえない言葉ですね。



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どさくさ【どさくさ】ことば



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「どさくさまぎれ」と、連語でもよく使います。

場が混乱し、てんやわんやの状態を指し、それに紛れて悪事を行うニュアンスが、現代では定着しています。

語源としては、「どさ」は「咄嗟とっさ」の転訛てんかとされます。

瞬間的に混乱状態が持ち上がる、という意味でしょうか。その場合「くさ」は意味がなく、ただの語呂合わせでしょう。

「どさ」は、江戸時代に佐渡金山の強制労働に送り込むため、博徒や無宿人狩りをひんぱんに行ったため、その騒ぎと混乱から、「さど」を倒語にして「どさ」と使われたという説もありますが、どうもこじつけめいて、しっくりきません。



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てつめんぴ【鉄面皮】ことば 



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文字通り鉄でできた仮面(武具)を着けたように、ずうずうしく、恥を恥とも思わず平然としていることです。

形容動詞化してよく使われ、「鉄面皮な」「鉄面皮だ」と、もっぱら悪口に使われます。

「面の皮が厚い」とも。

人からどんなに非難の目を向けられようと、兜の面をかぶったように、平気で跳ね返してしまう人間はよくいます。

鉄面牛皮てつめんぎゅうひ」ということばもあって、こちらは「きわめてあつかましい」の意。

江戸時代には、鉄に匹敵するもの、いや、それ以上のものはというと牛の皮だった、ということでしょうか。

江戸時代からあった表現です。

おもしろいのは、かつては「鉄面だ」という形で、剛直、権威や権力を恐れないという、肯定的な意味があったふしがうかがえることです。

「悪党」のようなものでしょうか。

「鉄面牛皮」はもうとっくに死語ですが、昭和の末期ごろまでは普通に使われていた「鉄面皮」も、いつの間にかあまり聞かれなくなったようです。



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とどのつまり【とどのつまり】ことば



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「とど」というのは、ボラ(魚)の成魚のこと。

ボラはいわゆる出世魚で、オボコ、イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと名が変わり、トドが最後の「留め名」です。

噺家でいえば円生、役者なら團十郎というところ。

つまり、人間にとっては、太ってもっとも食べごろになった状態です。

そこから派生して、それ以上はない、ぎりぎり、限度という意味が付きました。

「つまり」も同義語で、「最終的に」「結局は」という意味ですから、「とどのつまり」は言葉の重複、というより、「とど」が「つまり」をより強調した形になります。

別の語源説では「とど」は「到頭(とうとう)」が短縮されたものとも言います。

「とど」単独では、主に歌舞伎台本で、セリフの応酬から場面が転換する切れ目に、締めくくりをつけて新たな展開を準備するため、地で説明する部分がよくあります。

それが「ト書き」で、「ト」は「トド」の略。

古くは日常でも「結局」の意味で使われ、芝居の影響で人情噺、芝居噺でもよく用いられましたが、昭和57年(1982)に亡くなった八代目林家正蔵(彦六)を最後に、もう高座でも死語と化したようです。



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ならい【東北風】ことば



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東北地方から伊勢志摩あたりまでの海沿いに吹く、冬の寒くて強い風 。

あーた、船頭になるってかんたんにおっしゃいますけどねぇ。沖へ出てならいでもくらってごらんなさい。驚くから。

船徳



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ちのみち【血の道】ことば



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女性特有の病気の総称。

身体的には男女を問わず血管をさしますが、芝居や落語では、広く血行障害に起因する女性特有の病気の総称のこと。

主に、産褥時や生理時、また、更年期障害の一症状として血行不良が起こり、その結果生じる、頭痛、目まい、精神不安定などの症状を、すべてこう呼びました。

これは、漢方医学では、到底病因や疾病の特定が不可能なため、致し方なく、なんでも「血の道の病」とされていたからでしょう。男の「疝気」や「腎虚」と同じようなものです。

「東海道四谷怪談」(四世鶴屋南北)で、出産直後のお岩が悩まされるのがこれでした。

伊藤喜兵衛(高師直の家臣)が、田宮伊右衛門(お岩の夫)を、孫娘お梅と添わせたいばかりに、じゃまになるお岩を「血の道の妙薬」と称した毒薬で殺そうとしたのが、すべての悲劇の発端となります。



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てっか【鉄火】ことば



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もとは文字通り、鍛冶職人が用いる、真っ赤に熱した鉄のこと。

そこから、さまざまなことばが派生しました。

人間の気質でいえば、カッカとなりやすく、始終けんか腰の勇み肌を鉄火肌と呼びます。

火事場のように命がけの勝負をする博打場を鉄火場とも。

落語に登場する「鉄火」は、もっぱらこうした博打場、または博打打ちです。

博打打ちだった三代目桂三木助の十八番に「竃幽霊」がありますが、その後半で、かまどに隠した三百円の金に気が残って化けて出る左官の長五郎の幽霊。

その自己紹介で、「あっしゃあ、シャバにいたときには、表向きは左官屋だったんですが、本当を言うと向こうぶちなんです。白無垢鉄火なんですよ」

ここで言う白無垢とは、素人、かたぎのこと。

つまり、表向きは善良な職人でも、裏の顔は鉄火、今でいう「反社」ということですね。

【語の読みと注】
竃幽霊 へっついゆうれい
白無垢鉄火 しろむくでっか



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どざえもん【土左衛門】ことば



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水死人。川や海などでの溺死者。

大川(隅田川)から、南無阿弥陀仏、ドカンボコンとはでにダイビングし、あえなくなった人々が以後、改名してこう呼ばれます。

江戸では、吾妻橋がそちらの方の「名所」で、落語「唐茄子屋政談」の若だんなも、あやうくここから三途の川に直行するところでした。

語源としては、享保9年(1724)6月、深川八幡の相撲で前頭上位にいた、成瀬川(一説に黒船)土左衛門という力士が、超アンコ型でぶくぶく肥大していたのを、水ぶくれの水死人にたとえたのが初めと言われます(『近世奇跡考』)。

そのほかにも、水に飛び込む音「ドブン」を擬人化したなど、諸説あります。

芝居では、河竹黙阿弥の代表的世話狂言「三人吉三」で、主役の一人、和尚吉三の父親が「土左衛門爺伝吉」と呼ばれます。

三人吉三

この異名の由来は、女房が生まれたばかりの赤子を抱えて、川へ身投げをしたのをはかなみ、罪業消滅のために大川端へ流れ着いた水死体を引き揚げては葬っていたことから。

実際に、こうした奉仕をしていた人々が、多くいたのですね。

【噺例 佃祭】

舟を断ってよかった。行きゃあ、俺だって一緒に土左衛門になってらあ。

【語の読みと注】
三途の川  さんずのかわ
成瀬川土左衛門 なるせがわどざえもん
三人吉三 さんにんきちさ
土左衛門爺伝吉 どざえもんじいでんきち



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すみかえ【住み替え】ことば



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芸妓、遊女、奉公人などが勤め先(=あるじ)を替えること。

一般的には引っ越しの意味で使うのでしょうが、落語では、これ以外では使いません。

ひょっとしたらその女は、品川から吉原へ住み替えてきた女じゃねえか。

三枚起請



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おおみせ【大見世】ことば



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吉原で、もっとも格式の高い遊女を置くみせ。大籬おおまがき

まがき」とは格子戸こうしどのこと。その高さで、大籬や半籬はんまがきなどと店の格式を区分していました。

【噺例 文七元結ぶんしちもっとい

吉原で佐野槌さのづちと呼ばれりゃ大見世おおみせだ。

佐野槌、角海老かどえび三浦屋みうらやなどは大見世の代表格です。大見世の下には、中見世なかみせ小見世こみせなどあって、最下位は蹴転けころというのも。「お直し」ですね。



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おおだな【大店】ことば



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規模の大きな店。手広くやっている商店。

日本橋あたりの呉服屋のイメージです。

大店を かぶって 橋の手拭や



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ちゅうっぱら【中っ腹】ことば



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腹が立つ。短気。

江戸っ子が不機嫌なときに使います。

以下は、マクラでよく引き合いに出される江戸名物の、あれ。

「武士、かつお大名小路だいみょうこうじ生鰯なまいわし、茶店、紫、火消し、錦絵にしきえ、火事にけんかに中っ腹、伊勢屋いせや稲荷いなりに犬の糞」

江戸市中でよくみかける名物を列挙した決まり文句です。中っ腹も江戸名物というわけで。年中、怒っていたんですかね。

大名小路は、江戸城の東側外堀一帯に屋敷をかまえていた有力大名の地域全般をさします。

紫は江戸紫。

とはいっても、桃屋の海苔佃煮ではなく、染色の、あいみがまさった紫のこと。

九鬼周造くきしゅうぞうも「青勝あおがちの紫」というフレーズで『「いき」の構造』に「いき」の具体例の一つとして載せています。



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あいえんきえん【合縁奇縁】ことば



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人の相性、とりわけ男女の仲は不思議な縁によるもので、計り知れないものだ、という意味。

「合縁」には「相縁」「愛縁」、「奇縁」には「機縁」の当て字が使われることもあります。

見た目うまくいきそうなカップルが別れてしまったり、大丈夫かと思われる男女が結婚してしまったり、人の予測をはるかに超えるなにかがあるもの。

類似語に「縁は異なもの味なもの」があります。



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ちょこざい【猪口才】ことば



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漢字の「猪口」は当て字で、元々は小型の酒器の「ちょく」「ちょこ」から転じて「小さい子供」または小柄な者をそう呼んだ俗語。

したがって、「ちょこっと(わずかな)」才があるだけで、それを鼻にかけて生意気な奴、というふうに使われるようになった、いわばダジャレです。

いかにも、怜悧な才気煥発な人間を、理詰めで言い負かされる腹いせに「生意気だ」の一言で排除することが多かった、江戸期以来の日本社会の通弊が伺えます。

主に武士階級に使われたとされますが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも「ちょこざいぬかさずと、はよう銭おこせやい」などとある通り、芝居や浄瑠璃、戯作などを通じて町人の間にも広く普及していました。

上方では「ちょこい」とも。次第に形容動詞「ちょこざいな」に特化して、明治大正はもちろん、戦後まで主に老人語として残っていましたが、今は死語となっています。

名優、初代中村吉右衛門(1886-1954)のふだんの口癖でもありましたが、昭和20年代から30年代にかけ、漫画雑誌、ラジオ、テレビなどで人気を博した『赤胴鈴之助』の主題歌の冒頭、「ちょこざいな小僧め、名を、名を名乗れ」というセリフを思い出される向きもあるかもしれません。



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おどしゃ【お土砂】ことば



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真言密教で加持祈祷に使われた、霊力を持った砂です。

『沙石集』(鎌倉期の仏教説話集)には、「この土砂を墓所に散し、死骸に散らせば、土砂より光を放ち、霊魂を救て、極楽に送る」とあります。

『江戸文学俗信辞典』(石川一郎編、東京堂出版)には「渓流の土砂を洗い清め、護摩加持をして、その砂を硬直した死体の上にまけば、功力によって柔軟となり、諸罪を滅して福報を得しめるもので、土砂の一粒を死者の口中に入れたものであろうが、硬直した屍体はまだ冥福を得られないものとして、やがて身体に振りかけるようになったものであろう」とあります。

江戸の歌舞伎や戯作でもよく登場する風習でした。

たとえば、『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)。

京見物で方広寺の大仏殿の柱の穴くぐりをしようとした弥次郎兵衛が、道中脇差の鍔がつかえて出られなくなり、周りの見物衆が、身体を柔らかくして引っ張り出すのに、お土砂をかけろと言ったりする騒動が持ち上がります。

歌舞伎では、「松竹梅雪曙」という八百屋お七ものの序幕で、たまに「お土砂の場」という滑稽な場面が出ることがあります。

この場は、昭和43年(1968)1月歌舞伎座の先代勘三郎以来、しばらく絶えていたのを、昭和61年(1986)1月に、最晩年の先代松緑が復活してから、かなりよく上演されるようになりました。

平成31年(2019)1月にも、市川猿之助が歌舞伎座で演じています。

紅屋長兵衛、通称紅長というまぬけな男が、早桶の中に亡者姿で入っているのを見て、釜屋武兵衛がお土砂をかけると、紅長がぐんにゃり。

その後、それで「復活」した紅長が、周りの連中全員にお土砂を掛けまくると、一同すべてぐにゃりとなって下手に入るという、たわいもないくすぐりです。

【語の読みと注】
松竹梅雪曙 しょうちくばいゆきのあけぼの
紅長 べんちょう



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つくばい【蹲】ことば

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原義は犬猫が前足を地面に突いてしゃがむ意味のようで、だから「突く+這う」というわけです。

「犬つくばい」という複合語も古くはありました。

今はカットされることが多いですが、『仮名手本忠臣蔵』二段目「建長寺の場」で、高師直(=吉良上野介)にはずかしめを受けた桃井若狭助が、明日は殿中で師直を討ち果たすと息巻くので、お家には変えられないと、師直にこっそり賄賂を届ける決心をした家老、加古川本蔵。主人に「もし相手が、犬つくばいになってわびたら斬るのを思いとどまるか」とカマをかけます。

今で言う土下座で、絶対権力者である師直がそんな恥知らずなマネをするはずもないのですが、実際は次の三段目「喧嘩場」前半で、本蔵の賄賂が功を奏して師直が、なんと本当に犬つくばいになってご機嫌取りをしたので、若狭助が呆れて斬るのを思いとどまるという場があります。

この語は派生語も多く、動詞で「つくなむ」「つくばる」とも。転じて庭の手水鉢のある場所、また手水鉢そのものを「つくばい」と呼びました。

古い江戸語で「因果のつくばい」という慣用句がありましたが、これは「運の尽き」を意味する強調表現で、「突く=尽く」という、単なるダジャレ。

しかし、いかに円生、彦六といえど、いくらなんでもこんな古い言葉は知らなかったでしょうね。

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たこうはいわれぬえどびんやっこ【高うは言われぬ江戸鬢奴】むだぐち ことば



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「高うは言われぬ」は、歌舞伎や時代劇などで耳にするセリフで、「機密なので大きな声では言えない」ということ。

そこで「もそっと近う」とかなんとか江戸家老あたりが腹心の部下か御用商人と膝詰めでよからぬ密談をする、というシーンになります。

それを町人が茶化してむだぐちにしたもの。

「言われぬ」を「結われぬ」としゃれ、そこから糸鬢を出したものです。

糸鬢は江戸初期の元和(1615-24)頃から流行った髪型で、主に武家奉公の中間や小者が結った髷です。

これは月代を広く剃りあげ、鬢を額の方向に細く糸状に残す形。

したがって髷は低く寝かせた形になり、「高くは結われぬ」となります。

この髪型の中間が糸鬢奴。「江戸鬢」という呼び方はないので、これは糸鬢奴が江戸独特の風俗だったため、こう言い換えたのでしょう。

【語の読みと注】
結われぬ ゆわれぬ
糸鬢 いとびん
髷 まげ
月代 さかやき
糸鬢奴 いとびんやっこ



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ちがいなしのまんなか【違いなしの真ん中】むだぐち ことば



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これもむだぐち? というかんじですが、正確には江戸アクセントで「ちげえねえの真ん中」。

「どんぴしゃ」「間違いなし」というのを強調した形です。

このむだぐちは、寛政(1789-1801)から天保(1801-44)にかけてのはやりことば。

「……の真ん中」という言い回しは、的中、大当たりという意味で、語意を強調するため、広く使われました。

むだぐちを継ぎ足して「違えねえの真ん中、もうちっと端を行くと、溝へでも落ちるだらう」(人情本『娘太平記操早引』、1837年初編刊)などとからかうことも。

このしゃれををもじったものに「わからないの安中」があります。

「真ん中」と上州(群馬県)の安中を掛けた地口です。

【語の読みと注】
安中 あんなか



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いかさまたこさまあしはっぽん【烏賊様蛸様足八本】ことば むだぐち



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「ごもっとも」「さようで」の意味の「いかさま」と「烏賊様」をまぜっかえして「いかさまさかさま」と言っていました。

その発展形がこれ。

さらにいくと、「烏賊様蛸様トト様カカ様さかさま」となります。

リズムが悪くてことばにオチがありません。

オチのない笑いは中世に多いのですが、このむだぐちも室町期につくられてものでしょう。

ところが、「烏賊様蛸様足八本」はリズムにも切れがあって、「足八本」というオチもすんなり付きます。

これぞ近世流のむだぐちです。

ま、だからといって、さしたる深い意味はありませんが。

2011-13年、TBSテレビ系で『まさかのホントバラエティー イカさまタコさま』という番組がありました。

「ホントの中に潜むウソ=イカさまを選り分ける新感覚のクイズ系バラエティ番組」、「ホントかウソかの判断に悩む、真偽ぎりぎりの話題を楽しむという番組」だそうです。

さまぁーずの司会でした。

「いかさまたこさま」。

こんふうに使われるわけですね。

「いかさま」と言ったら「たこさま」が思い浮かぶのは、ごく普通の感覚なのでしょう。

ことばに発すると小気味いいですね。



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きいたふう【利いた風】ことば

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知ったかぶり。いかにも知っているような態度。きざなかんじ。生意気なかんじ。

利いた風なことをお言いでないよ。

怪談牡丹燈籠

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なぬし【名主】ことば 江戸覗き



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名主というのは町年寄の下にあったのですね。
ここでは、町年寄の下役として江戸の住民に寄った代表者として、
双方の間を取り持つ役割を果たしていた名主について記します。

名主の分類  【RIZAP COOK】

名主は、以下のような分類がなされています。

江戸の町の本来の構成員は家持=町人で、名主はその町の代表者です。

江戸では家持層が早くから不在となる場合が多く、17世紀末には町名主は姿を消してしまいます。

町名主に代わって、家守の代表である月行事が町を代表するようになっていきます。

江戸の町名主には、町が町奉行支配(管理)の区域である「御町中」になった時代によって、以下の4つの分類があったといわれています。

草創名主
慶長年間の町割で町となった地、天正以前からあった村が「御町中」に編入された場合での名主。家康の江戸入り以来の由緒を持ちます。元文年間(1736-41)に29人(のち24人に)いました。

古町名主
寛永年間(1624-44)までに成立した古町を支配(管轄)した名主。文化年間(1804-18)には79人いました。代官支配から町奉行支配になった町の名主です。

平名主
正徳3年(1713)以降に代官支配から町奉行支配になった新市街地の名主。それ以前の町と区別するため「新町」と呼びました。町奉行と代官の両方の支配を受ける土地を「町並地」といいますが、平名主はまさにここが対象となります。

門前名主
寺社奉行から町奉行へ支配が移った町の名主。

正徳3年(1713)とはどんな年か。その年の閏5月15日に、代官支配だった、本所、深川、浅草、小石川、牛込、市谷、四谷、赤坂、麻布などの近郊市街地259町が町奉行支配となったのです。この年こそは、江戸のなりたちを考える上でエポックメイクな年といえるでしょう。

名主の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

名主の仕事はいろいろあります。ざっと並べると以下のとおりです。

町触の伝達
人別改
忠孝奇特者の取り調べ
火の元の取り締まり
火事場での火消人足の差配
町奉行や町年寄からの指示による取り調べ
町奉行所への訴状や届書への奥印
沽券状その他の諸証文の検閲や奥印
支配町内紛議の調停
失行者への説諭
町入用の監査
祭礼の監督と執行

このように見ると、名主は管轄町内のすべて町用と公用にかかわっていたのですね。

名主というのは落語には出てきません。落語を聴いているかぎりでは見落としがちなのですが、当該町と町年寄の中間に位置して、町民の生活に根づいた課題に対処していたのですね。江戸を知る上ではかなり重要な存在といえるでしょう。

名主組合  【RIZAP COOK】

町奉行支配地が拡大していくと、正徳年間(1711-16)には地域ごとに、日本橋北組合、日本橋中組合、日本橋南組合、霊巌島組合、芝組合、神田組合、浅草組合といった名主組合が生まれました。

享保7年(1722)には、これらが再編成されて一番から十七番までの組合に生まれ変わりました。

各番組ごとに年番を決めました。とりわけ、日本橋北の一、二番組と日本橋南の四番組の年番を「南北小口年番」といって、町触などの急なお達しなどを各番組に伝達させるようなネットワークが形成されていきました。番名主はさらに、その頃問題化していた名主のサボりや不正の監督にもあたりました。この番組制は、十八番組から二十一番組まで生まれ、番外の吉原と品川ができて、合計23組となりました。

名主の数は、享保7年(1722)に17組264人いましたが、天保2年(1831)には23組246人へと少し減りました。一人の名主が支配する町の数は平均6、7町でした。

そもそも名主は兼業が禁じられていたため、支配町内から役料を徴収することが許されていました。この金額は、幕末では、平均60両ほどを手にしていたいいます。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
草創名主 くさわけなぬし
古町名主 こちょうなぬし
平名主 ひらなぬし
町並地 まちなみち
町触 まちぶれ
人別改 にんべつあらため
店借人 たながりにん
地借人 じがりにん
家持 いえもち
家主 いえぬし
大家 おおや
家守 やもり
町入用 ちょうにゅうよう

町年寄 月行事

【RIZAP COOK】



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まちどしより【町年寄】ことば 江戸覗き



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江戸時代にいう「年寄」とは、世話役のような意味なのですね。
ならば、「町年寄」とは。
知りたくなりました。
ここでは、幕府と町人の間にあって
さまざまな行政を受け持たされた町年寄の3家について記します。

3家が世襲  【RIZAP COOK】

江戸の都市行政を管理する町奉行所の下には、3人の町年寄がいました。

世襲です。正月3日には、江戸城に年頭挨拶に登城していました。

特別な町人といえるでしょう。

樽屋 藤左衛門(与左衛門)を代々名乗る
奈良屋 市右衛門を代々名乗る
喜多村 彦右衛門を代々名乗る

伝達の順序  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。

年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

家主、地借人、店借人は家持ではないので町費負担はありませんでした。

町人としては認められていませんでした。

職務の中身  【RIZAP COOK】

町年寄はどんなことをするのかといえば、以下のようなことです。

町触の名主への伝達
新開地の地割りと受け渡し
人別の集計
商人や職人の統制
公役、冥加、運上の徴収事務
町奉行の諮問に対する調査と答申
町人の願出に関する調査
民事関係の訴訟の調停

町年寄の居宅は、町人からは役所と見られていました。

樽屋 日本橋本町一丁目に居宅
奈良屋 日本橋本町二丁目に居宅
喜多村 日本橋本町三丁目に居宅

こんなぐあいで、日本橋本町に集中していました。

地割役  【RIZAP COOK】

さらに、町年寄に準ずる職務を受け持つ「地割役」がいました。

町触伝達には関係しません。

地面の区画調査、屋敷の受け取りや受け渡し、消火後に行う出火元の跡見分などを受け持っていました。

火事や地震が頻繁に生じて住まいの強制移転が起こる江戸では重要な役職となりました。

開府直後は木原家が任されましたが、正徳2年(1712)以降は樽屋三右衛門家が世襲するようになりました。

樽屋右衛門家は町年寄の樽屋藤左衛門家と親戚です。

町人とは  【RIZAP COOK】

ここで、町人について記しておきます。

町人とは家持のことです。町人=家持。町人の社会的役割のひとつに賃貸しの長屋を持って、わずかな店賃で店子に貸す慣習がありました。

町人は大家を雇います。大家には、店子からの家賃の取り立てやさまざまな問題のめんどうなど長屋の管理運営を任せます。その対価として店賃の免除などの優遇をしていました。

江戸をはじめとした大都市(大坂、京、長崎)には、富裕町人や下層町人のほか、没落した都市下層民をはじめとするさまざまな階層の人々が生活するようになります。

長屋の住人である熊五郎、八五郎、糊屋のばあさんなどは借家人ですから、町人ではありません。

町年寄の収入  【RIZAP COOK】

幕府から拝領した土地から上がる地代が、町年寄の収入となります。600両ほどの利益です。

これとは別に、樽屋は枡の独占販売の収益がありました。

毎年200両ほどが入ってきたので、奈良屋、喜多村よりも豊かでした。

枡座という江戸と京都で枡を専売した機関が枡座です。

東日本33か国で使われる枡は樽屋が扱っていました。

西日本33か国で使われる枡は京都の福井作左衛門が作る枡でした

公許となる両者の枡は焼き印が押されて認証されていました。

樽屋は別格  【RIZAP COOK】

明和2年(1765)以降、町年寄が幕府公用金の江戸町人への貸付を委託されました。

とくに樽屋は枡座のかかわりもあってのことか、経済・金融政策に特異な能力を発揮したことで知られます。

寛政改革で、樽屋与左衛門は棄捐令で手腕を発揮したといいます。

棄捐令は旗本・御家人の借財整理です。文化期には町人からの御用金の徴収や貸付にもかかわりました。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
地割役 じわりやく
木原家 きはらけ
樽屋三右衛門家 たるやさんえもんけ
跡見分 あとけんぶん
家持 いえもち
家守 やもり:大家さん。名主の代理人。差配人
月行事 がちぎょうじ
店子 たなこ
店賃 たなちん
地借人 じがりにん
店借人 たながりにん

名主 月行事

【RIZAP COOK】



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よりき、どうしん【与力、同心】ことば 江戸覗き



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時代劇でよく出る「与力」と「同心」。
与力が上役で同心がその下にるように見えます。
実際、どんなことをしていたのでしょうか。
知りたくなりました。
ここでは、町方の与力も同心もともに下級武士でありながら、
幅広い行政権限と大きな実権、
さらには副収入もあって、
実際にはなかなか羽振りがよかったようです。
そんなこんなを記します。

江戸の与力  【RIZAP COOK】

江戸の町方与力は、両町奉行所ごとに25騎、計50騎。与力は騎馬が許されていたため、員数の単位は「騎」だったのです。町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたりました。

与力には、2種類ありました。町奉行その人から俸禄を受ける与力、つまりは町奉行である殿さまの家臣です。これは「内与力」と呼ばれました。それと、将軍から俸禄を受けて奉行所に所属する役人である普通の「与力」です。

内与力は陪臣です。奉行に就いている殿さまの用人ですね。普通の与力よりは格下で禄高も低かったのですが、奉行の側近ですから、その実権は侮れないほど大きいものでした。

与力は配下となる「同心」を指揮・監督する管理職です。と同時に、警察権でいうならば警察署長、司法権でいうならば民事と刑事の双方の裁判も審議したので、今日の裁判官や検察官のような役割も果たしました。

与力は「役宅」として八丁堀に250-350坪の組屋敷が与えられていました。まあまあ広いですね。問題や紛争が起こればなにかと便宜を図ってくれるよう、常日頃は大名や富裕町家からの付け届けがひんぱんにあり、わりと裕福な家も多かったといわれます。

それともうひとつ。今から見れば不思議な特権としか映りませんが、与力は毎朝湯屋の女風呂に入ることができました。八丁堀の湯屋は混雑していたことに加え、その頃の女性には朝湯の習慣がなかったので、朝の女湯は空いており、男湯でささやかれる噂話や密談を盗み聴きするのにもよかったようなのです。八丁堀の女湯に刀掛けが置かれてあることは、「八丁堀の七不思議」に数えられていました。

与力は、屋敷に回ってくる流しの髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕しました。粋な身なりで人気があったのです。与力、力士、火消の頭は「江戸の三男」ともてはやされたそうです。

町与力組頭クラスは150-200石を給付されていましたから、下級旗本の待遇の上をいっていました。とはいえ仕事柄、罪人を扱うことから「不浄役人」とみなされ、将軍謁見や登城は許されませんでした。御目見がかなわないので、身分上は御家人です。御家人の中では上位の俸禄でありましたが。

与力は、建前上は騎兵なので、袴を着用します。徒歩(歩兵)扱いの同心は将軍の御成先でも着流しでの「御成先御免」が許されましたが、与力には「御成先御免」はありませんでした。

同心=足軽  【RIZAP COOK】

開府当初、徳川家直参の足軽は全員「同心」と扱われました。伊賀同心、甲賀同心、鉄砲組の百人同心など、いろいろありました。最初に同心となった人は「譜代」と呼ばれ、役職がなくても俸禄をもらうことができ、代々子孫にこれを受け継がせることができました。幕府の同心=足軽ですから、幕臣ではあっても旗本ではなく御家人でしたが。

江戸の同心  【RIZAP COOK】

両町奉行所には与力が各25騎、同心が各120人配置されました。警察業務を執行する「廻り方同心」は南北町合わせても30人にも満たず、100万都市の治安を維持することは無理というものです。そこで同心は個人的に「岡っ引き」と呼ばれる手先を雇っていました。

廻り方同心は、雪駄に着流しスタイルという、なんだか奇妙な身なりで人気がありました。これでお役人なのですから、なんともいやはや。町民になじみがあったのは「定町廻り同心」です。決められた地区を担当して、巡回しながら治安維持にあたりました。

並みの同心の俸禄は30俵2人扶持。将軍家直参と比べても少なくはありません。実際は諸大名家や町屋からの付け届けなどでその数倍の実収入があった人が多く、岡っ引きも雇えたし、宿舎に相当する屋敷を拝領して、しばしばその屋敷は同心の代名詞とされていました。なぜ諸国の大名家が付け届けをするのか。江戸屋敷の家来たちの中には不祥事を起こす者もでるわけで、そんな非常時に備えた保険のようなものです。岡っ引きは基本的には無給なのですが、こちらもこちらでいろいろもらえて役得だったといわれています。

同心の屋敷は約100坪でした。与力の三分の一。拝領した広い屋敷を貸して家賃収入を得る人もいるほど。これはだいたいの同心がなりわいにしていたようです。医者、儒者、絵師といった階層の連中が対象でした。こういう副業はは役人でも許されていたのですね。ラフというか、なんというか。組屋敷は八丁堀に置かれていましたから、「八丁堀」が彼らをさす通称となります。これは有名ですね。

罪人を扱う汚れ仕事だったため、与力同様「不浄役人」と見下されました。世襲とはせずに、代替わりの際には新規召し抱えとなりました。

治安維持という任務上、その職務に精通していることがなにより必須であるため、事実上世襲が行われていました。おかしな話です。

江戸中期以降では、建前上は養子入りすることで実質上は金銭で「株」を買うことで町人が武士の身分を得る例が見られました。町方同心の場合はその職務に通じている必要があり、同心株を売るほど困窮した者も多くはなかったため、事例はあまりありませんでした。樋口一葉の父はその珍しい例だったのかもしれません。

職務の変遷  【RIZAP COOK】

与力と同心の職務は、おおざっぱに享保以前と享保以後とに分かれます。

享保以前は、年番、町廻り、牢屋見廻りの三つでした。年番は、町奉行所の財政、人事などを扱う職務で、ベテランが受け持ちました。町廻りは市中の見廻りのことで、主に同心の仕事でした。牢屋見廻りは小伝馬町の牢屋の見廻りです。

寛政年間には、隠密廻り、定廻り、臨時廻りの三廻り制となりました。なかでも筆頭格は隠密廻りで、市中の風聞を察知して町奉行に通報するのが仕事でした。定廻りはこれまでの町廻りと同じで、市中の見廻りです。臨時廻りはあくまでも臨時であって、重点的に各所を見廻るものでした。

享保改革では、出火之節人足改、養生所見廻り、本所見廻りなどが新たに設けられました。出火之節人足改とは、火事の現場に規定数の町火消人足が出ているかを確認するもので、消火活動の指揮監督も兼ねることもありました。養生所見廻りは小石川養生所への入所者の確認です。本所見廻りは、享保4年(1719)4月まであった本所奉行所がなくなって、本所、深川までもが町奉行所の管轄になったために生まれた職務でした。この地域の橋や道の普請、用浚いなどを受け持ちました。

寛政改革では、窮民救済を目的に設置された町会所での事務処理を行う町会所掛、寛政2年(1790)にできた人足寄場を管轄する人足寄場掛が新設されました。

天保改革では、市中取締諸色調掛が新設されました。諸色とは物価のことです。この任務は、南町奉行となった鳥居耀蔵の指揮下で、質素倹約の市中取り締まり、物価の引き下げに奔走するものです。いやあ、任務の増やし過ぎ。おまけに幕末には、外国掛、海陸御備向御用取扱掛などという役目も増えて、与力も同心もてんてこ舞いでした。そして、倒壊していくのです。

【語の読みと注】
年番 ねんばん
町廻り まちまわり
牢屋見廻り ろうやみまわり
隠密廻り おんみつまわり
定廻り じょうまわり
臨時廻り りんじまわり
出火之節人足改 しゅっかのせつにんそくあらため
養生所見廻り ようじょうしょみまわり
本所見廻り ほんじょみまわり
町会所掛 まちかいしょかかり
市中取締諸色調掛 しちゅうとりしまりしょしきしらべかかり
海陸御備向御用取扱掛 かいりくおそなえむきごようとりあつかいかかり

町奉行

参考文献:史談会『旧事諮問禄』(青蛙房、1971年)、佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』(新版、東洋書院、2000年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【RIZAP COOK】



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しょうぐんせんげ【将軍宣下】ことば 江戸覗き



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徳川家康は関ヶ原の戦いで勝ったわけですが、
その後3年かけて幕府を開くにいたります。
でも、どうして3年近くもかかったのでしょうか。
知りたくなりました。
ここでは、そこらへんのことを記します。

開幕まで  【RIZAP COOK】

そもそも「幕府」という言葉は明治時代につくられました。歴史学者がつくってみた用語なのだそうです。では、400年前の当時はなんていっていたのでしょうか。「柳営」という言葉があったそうですが、ピンときませんね。とくに定まった言葉があったわけでもなさそうなのです。意外です。

ま、それはともかく。まずは、関ヶ原の戦いから開府までの時系列を記します。

慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の戦いで家康方(東軍)が勝利
慶長6年(1601)8月 上杉景勝が上洛、臣従
慶長7年(1602)8月 島津家久が上洛、臣従
慶長8年(1603)2月12日 家康が征夷大将軍に任官、開府

上杉と島津が上洛して天皇に臣従を誓うまでに時間を要したことが、開府のもたもたとなったということです。

将軍の宣下  【RIZAP COOK】

家康の将軍宣下は伏見城で行われました。

朝廷では大納言広橋兼勝が上卿を務めて陣儀を行い、内大臣徳川家康の将軍任官と右大臣転任を決めました。

すぐに伏見城に勅使が出されました。その数200人以上だったそうです。

伏見城には、前もって武家昵近衆が祗候し、家康は上段中央に南面して座っていました。

勅使がお祝いを述べて着座。上卿らが家康に進み出ると、南庭で副使が二拝し「ご昇進、ご昇進」と大声を出します。

上卿が着座すると、将軍任官の宣旨が官務の壬生高亮から高家大沢基宿に渡され、大沢が家康の前に置きました。家康はこれを一覧し、宣旨の入っていた蓋に長井右近が砂金袋を入れて、壬生に返します。

局務の押小路師生が右大臣の宣旨を渡し、同様の手順で行われました。その後も、同じ手順で、源氏長者、淳和奨学院別当、牛車兵仗の宣旨が渡されました。儀式はこれで終わり。

参列した公家には役割ごとに金が渡され、武家昵近衆には夕餐がふるまわれました。

以上が、慶長8年(1603)2月12日の儀式のあらましです。

御礼の参内  【RIZAP COOK】

3月25日、家康は参内します。任官返礼と新年の挨拶が目的でした。

ときの天皇(後陽成)に銀子1000枚をはじめ、下級女官にまで、なにがしかの銀子を贈っています。

参内行列は九番編制で、譜代家臣、そのとき上洛していた諸国の大名をかき集めて構成したそうです。誰が見ても家康を超える実力者のいないこの時点では、どのようなにわか仕立てでも通用したのでしょう。

その後、二代秀忠の任官・宣下では、伏見城で受けはしましたが、返礼の参内では、八番編制の行列で、上杉景勝、伊達政宗、島津家久、前だ利光などの有力大名を率いて、華美で麗々しい行列だったとのことです。三代家光も伏見城で受けましたが、返礼の参内はさらに仰々しくて、三日間にわたって二条城で猿楽を催しました。

四代家綱以降は江戸城でこれらの儀式は行われ、十四代家茂まで踏襲されました。この場合、勅使はじめ多数の公家や門跡が仰々しく江戸に下向したわけで、そのたびに上方のみやびで風流な文物が江戸に伝わりました。

将軍の上洛は家光からプツンと切れて、家綱以降の江戸での将軍宣下の儀式も多分に形骸化していきました。江戸では返礼参内はなくなるわけで、将軍より上の地位の者がいないことで、将軍の実質的な絶対化現象もここらへんから生まれてきました。逆に言えば、家康の頃には、朝廷の権力も権威もまだ生きていたことになります。

江戸城での将軍宣下  【RIZAP COOK】

江戸城での将軍宣下の際、公家や門跡へのもてなしは、江戸城大広間の南庭に能楽堂を設定して、能楽を催しました。

諸国の大名ばかりか、江戸の町人も、一町に二人まで見物を許可されました。武家の祝いを江戸の町人も共有したことは重要でした。継飛脚で将軍任官を全国に伝達しました。きわめて合理的かつ簡素化したわけです。

これらの式次第は微に入り細をうがちながら、江戸時代の繁栄とともに後世語り伝えられていき、権現神話の一節と醸成されていきました。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、市岡正一『徳川盛世録』(平凡社東洋文化、1989年)、笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版、2000年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、山本博文『徳川将軍と天皇』(中央公論新社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
宣下 せんげ:宣旨を伝える儀式
宣旨 せんじ:天皇が臣下に伝えた文書
上卿 しょうけい:陣儀の主催者
陣儀 じんぎ:公家たちが国政を審議する
武家昵近衆 ぶけじっきんしゅう:武家と交渉する公家
祗候 しこう:つつしんでおそばで奉仕する官務 かんむ
壬生高亮 みぶたかすけ
大沢基宿 おおさわもといえ
局務 きょくむ
押小路師生 おしこうじもろお
門跡 もんぜき:皇族や公家が住持となった特別な寺院

【RIZAP COOK】



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えどいり【江戸入り】ことば 江戸覗き



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ここでは、
徳川家康が江戸城に入ったのは
8月1日(八朔)だったというのは実はうそだった、
という話について記します。

関東入部  【RIZAP COOK】

史実は以下の通り。天正18年(1590)のことです。

7月5日 北条氏直が豊臣秀吉に降伏、小田原城が落城。
7月13日 秀吉が家康の関東転封を発表。
7月19日 秀吉と家康がが江戸城に入る。秀吉が家康に江戸城普請を命じる。その後、秀吉は宇都宮に移動。
7月中 家康配下の有力武将の知行割が行われる。

このように見ると、家康の江戸城に入城したのは8月1日以前だったことがわかります。

八朔  【RIZAP COOK】

中世の農村で「憑の節句」と呼ばれたもので、物品を贈答する予祝儀礼のひとつです。室町幕府がこれを儀礼に確立しました。織豊時代には中絶しましたが、家康が天皇に太刀と馬を献上して復活へ。江戸幕府は八朔を正月三が日と同等の重要な年中行事として、参賀儀礼に定めました。

八朔の当日(8月1日)は、大名や三千石以上の旗本が登城し、太刀目録と馬代目録を将軍に献上しました。ほかには、大名の嫡子や隠居、幕府の主な役人、医師、金座の後藤、本阿弥、御用絵師の狩野、猿楽師といった諸職人、それと町方の代表者(樽屋、奈良屋、喜多村)の参賀と献上がありました。

関連項目:品川心中

権現神話  【RIZAP COOK】

よく言われるのは、家康が入部する以前の江戸は荒野であり寒村であり、というイメージです。

でも、実際の天正年間の江戸は港町として栄え、東海から関東に荷発着する重要な拠点だったのです。北条氏がすでに開発、開拓していたのです。江戸を「なにもない土地」のイメージに語るのは、家康を大都市に様変わりさせていった功労者とたたえる意図があったのでしょう。

都市建設のこのようなイメージ作りを「葦原伝説」と名づけていますが、家康の江戸はまさにそれにぴったりの地だったわけですね。
それこそが二百六十年にわたる「お江戸」の「権現神話」の始まりだったといえるでしょう。毛沢東や金日成の創成神話に通ずるものです。

ちなみに、「権現」とは、仏や菩薩(悟った人)が衆生(人々)を救うためにいろいろな姿になって仮の姿になって現れること。これを権現といいます。権化とも。本地垂迹説では、仏が化身して日本の神さまになって現れることをさします。ここでいう権現は「東照権現」という名の徳川家康のこと。つまり、家康は権現になった仏だった、ということです。江戸時代に「権現さま」と言ったら、神君家康公、つまりは徳川家康のことです。浄土宗の信者で通っていた家康はじつは神さまになったつもりであいましたが、そのじつは仏だったということです。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』(教育出版、1999年)、竹内誠他『東京都の歴史』(山川出版社、1997年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
権現 ごんげん:仏の仮の姿



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がちぎょうじ【月行事】ことば 江戸覗き



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この項では、主に
長屋の大家さん(家主、家守、差配)がどんな仕事をしていたのか、
町方の組織の中でどんな立場だったのかについて記します。

月行事が生まれるまで  【RIZAP COOK】

1600年代中頃から1700年代にかけて、江戸では富裕商家による町屋敷の集積が進展していき、不在地主が所有する町屋敷がたくさん出てきました。

1600年代を通して、町方行政の組織や機構が整備されていき、町のすべき業務が多様化してくると、家持はその役割分担を嫌がるようになりました。町の運営は家持の代理人である家主(家守、差配)に委託されていきました。

落語には「差配」という言葉も出てきますが、差配とは管理人をさします。家主のことです。

この家主こそが、落語におなじみの「大家さん」です。地主そのものではなく、地主の代行者だったのです。江戸市中には20,000人ほどいたそうです。

大家さんは、差配と呼ばれたり、家主と呼ばれたり、家主と呼ばれたりして、よくわからなくなりますが、話は単純、長屋の管理人をさしているだけです。

やがて、家主たちが同業者を集めて五人組を構成し、五人組の中から毎月交代で町用、公用のを務める人を出すようにしました。これを「月行事」といいます。言い方がいろいろあってややこしいです。

ただ、月行事を五人組以外から雇うようなこともあって、しばしば問題が生じていました。寛文6年(1666)10月27日、「雇月行事」が禁止されました。

月行事の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

月行事の仕事とは。そのいろいろを列挙してみましょう。

名主からの町触の町内への伝達
町内訴訟、願届への加判、町奉行所への付き添い
検視見分の立ち会い
囚人の保留
名主の指揮下での火消人足の差配
火の番
夜廻り
上下水道の普請
井戸の修理
町内道路の修繕
木戸番、自身番の修復
喧嘩公論の仲裁
捨て子や行き倒れの世話
切支丹宗門の取り締まり
浪人の取り締まり

月行事も名主同様、町内にかかわるすべての町用、公用をこなしました。

自身番  【RIZAP COOK】

月行事はこれらのことがらを町内の自身番に詰めて行いました。自身番には月行事の補助役として書役がいました。自身番は町内につくられた交番のようなものです。

月行事の任期中は五人組の責務についてはほかの組員に代行してもらっていたようです。

自身番は犯罪者を拘留する場でもありました。こんな川柳があります。

月行事 しらみの喰ふを かいてやり

縛られている犯人がしらみに食われてかゆいので、月行事が代わりにかいてやるという風景です。なんだか、ほほえましいですね。

月行事持  【RIZAP COOK】

町並地(町奉行・代官両支配地)では複数の五人組の代表として「年寄」を置くところもあったようです。名主のいない町では月行事が名主の代行をしたそうです。家数が少なくて名主役料も負担できない、寺社門前町家、拝領町屋敷などでは月行事持でした。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
家持 いえもち
家主 いえぬし:大家さん。差配(管理人)、家守
家守 やもり:大家さんのこと
公役 くやく
町並地 まちなみち

町年寄 名主

【RIZAP COOK】



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ひつけとうぞくあらため【火付盗賊改】ことば 江戸覗き



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いまや町奉行よりも有名となった火付盗賊改。
池波正太郎『鬼平犯科帳』シリーズでは
「火盗改」とも。
この項では火付盗賊改について記します。
落語には出てきませんが、江戸覗きの一環で。

江戸の治安  【RIZAP COOK】

町奉行」や「与力、同心」の項目で記したように、江戸の町方は南北の与力、同心を合わせても300人にも満たない数で100万都市の治安と行政を受け持っていたのですから、行き届きませんでした。

それを補う警察組織として、放火犯や盗賊団を取り締まる凶悪犯罪専門を受け持つのが火付盗賊改でした。

池波は小説では長谷川平蔵を「長官」と記したりしていますが、こんなことばは当時はあるわけもなく、「おかしら」「かしら」と呼ばれていたことでしょう。

旗本から任命される「御先手頭」の中から火付盗賊改を別に任命していたのです。

御先手組  【RIZAP COOK】

若年寄の支配(管轄)に属し、江戸城本丸の各門の警備、将軍が城外出かける際の警固(警護)を任務と「御先手組おさきてぐみ」の長を「御先手頭おさきてがしら」といいました。

「先手物頭」とも。

このような職務を江戸時代には「御先手」と呼んでいました。

わりと小禄の旗本から成っています。

この人たちは戦時では歩兵大隊として最前線で白兵戦の働きをするはずなのですが、平和な時代には使いようもなく、一部は犯罪捜査を受け持ったわけです。

自衛隊が災害救助しているようなものでしょうか。

御先手組は先手弓組と先手鉄砲組の二分構成でしたが、それとは別に「火付盗賊改」のグループがあり、江戸市中の重犯罪取り締まりに当たっていました。

成り立ちと変遷  【RIZAP COOK】

はじまりは寛文5年(1665)で、幕府が先手頭の水野守正みずのもりまさに関東の各地にはびこる強盗一味の捕縛を命じたことからです。

天和3年(1683)、火付改が新設され、先手頭の中山勘解由なかやまかげゆが兼務を命じられました。

元禄12年(1699)には火付改も盗賊改も廃止となりましたが、3年後の元禄15年(1702)、火付改が、翌16年(1703)には盗賊改がまたも設けられました。

宝永6年(1709)には、両改方が統合されて、火付盗賊改が生まれました。

享保3年(1718)には博奕改も兼職となり、こうして、火付盗賊改は火付、盗賊、博奕の犯罪をまとめて取り締まることになりました。

これでうまくいくかと思いきや、享保10年(1725)には博奕犯は町奉行の管轄となり、火付盗賊改はまたも火付と盗賊だけを管轄することになりました。

この組織は、慶応2年(1866)に廃止となるまで江戸の治安を受け持ちました。

実際の活動  【RIZAP COOK】

火付盗賊改は、与力10騎、同心50人ほどで構成されていました。

その下に岡引きと下引きが組み込まれているのは町奉行と同じです。

幕末には、岡っ引きが400人、下っ引きが1000人いたそうです。

岡引っきと下っ引きは親分子分の関係です。

犯罪捜査は彼らに支えられていましたが、無給の彼らは博奕場を開いたり、商家に難癖をつけて金銭を出させたりと、ろくでもないのが常でした。

奉行所は捕り物に差しさわりがないよう、甘い監視でした。

火付盗賊改は町奉行所に比べると、安手で粗いのが特徴です。

町奉行の役宅は天保期までありませんでした。

それまでは自邸が役宅を兼ねていたといいます。

その取り締まりも荒っぽくて、江戸の人々は恐れていました。

町奉行所とも権限が交差するため、衝突や対立がひんぱんに起こりました。

たとえば、江戸近在で盗まれて物が江戸で換金されることが増えたため、火付盗賊改の活動範囲は江戸周辺にまで及びました。

文化期以降には、関東取締出役かんとうとりしまりしゅつやく(八州廻はっしゅうまわり)が無宿や浪人の取り締まりをするようになったため、火付盗賊改と係争するケースが増えました。

火付盗賊改は町奉行所や関東取締出役と対立することが多くなりました。

職務の縄張り争いです。

ここでいう「関東」とは、上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)、上総(千葉県)、下総(千葉県、茨城県)、安房(千葉県)、武蔵(神奈川県、東京都、埼玉県)、相模(神奈川県)をさします。

関八州ともいいます。今の関東地方ですね。

中山勘解由  【RIZAP COOK】

中山勘解由直守なかやまかげゆなおもりといいます。

鬼勘解由と呼ばれるほど、犯罪捜査には凄腕だったそうです。

中山家は武蔵七党の一、丹党加治氏たんとうかじし(略して丹治たんじ)の流れをくみます。

飯能周辺を領有し、秩父鉄を工夫して、武士団を構成していきました。

小田原北条氏の配下となり、小田原征伐では中山家範いえのり、その息子である照守てるもり信吉のぶよしは八王子城に籠城して死守しましたが、やがて敗北。家範は討ち死に。享年43。

残った2人の息子は、その勇猛ぶりを徳川家康に評価され、徳川家臣団に組み入れられました。直参旗本となったのです。

関ヶ原の戦いや大坂の陣などで紆余曲折はありましたが、馬術を得意とした兄の照守は秀忠の指南役を務めるなどして、家は3500石の大身旗本に収まりました。

子孫からは町奉行や火付盗賊改の頭などが現れ、武勇家系の評価が受け継がれたのです。直守は照守の孫です。

一方、弟の信吉は水戸藩の附家老つけがろう(幕府直属の家老)となりました。

代々は水戸藩領内の松岡領(茨城県高萩市全域、日立市と北茨城市の一部)を有し、立藩をうかがっていましたが、立藩できたのは明治2年(1869)でした。

松岡藩2万5000石、藩庁は陣屋です。

参考文献:平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社、1988年)、服藤弘司『火附盗賊改の研究史料編』(創文社、1998年)、高橋義夫『火付盗賊改』(中公新書、2019年)、高萩市『高萩市史』(高萩市、1969年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
御先手頭 おさきてがしら
勘解由 かげゆ
附家老 つけがろう:幕府直属の家老
関東取締出役 かんとうとりしまりしゅつやく:八州廻り



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