とうほうめいじんかいはべっかく【東宝名人会は別格】古木優

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

寄席といったら、東宝名人会でしょう。

私の場合はね。

日比谷映画街にあった、あそこですよ。桂歌丸の真打ち襲名披露を間近に見たのは懐かしい思い出。

昭和43年(1968)3月、小学5年生の春休みの頃でした。

へええ、落語家っていうのは、こんなことをして一人前になるんだなあとしげしげと。ずいぶん儀式ばっているわけで、それがなんだか心地よかったもんです。

私は、毎週日曜日、北関東の奥地からたいへんな思いをして、親に連れられてくるもんでして。

有楽町駅から少し歩いた都会のビル街、古風なしっかりしたエレベーターでたしか5階でしたか、ホールはいつも立ち見客でいっぱいでした。

出てくるのはほとんどがテレビでおなじみの人気者ばかり。まるで夢を見ているようでした。

なんせ、袖で高座を見ていると、その脇を文楽(八代目)やら円生(六代目)やらが通り過ぎるもんでして。演芸界はこうもお近いものかと、すぐになじみました。

青空球児・好児の「よきすがたなあ」なんて、あそこで聴いて腹を抱えたもんでした。いまでも健在なんですから、うれしいもんです。

東宝名人会の特異性、小学生の私にはわかっていませんでしたね、そのときは。

親の気まぐれで、たまに鈴本や末広亭に行ったりして、はじめてわかったんです。

なんだかうらぶれた風情で、次々と出てくるのはまったく知らない芸人ばかり。

どこか格落ちの場所なのだろうかと。野良でののど自慢を又聞きしてるような心持ちでした。

各人の出入りも早い。10分ほどでしょうか。東宝名人会ではしっかり聴けたのになあ。

そんな体験をしたのちに、ひさかたぶりに東宝名人会に赴けば、やっぱりここでしょ。

安堵に浸れる至福な時間が、やさしく包んでくれてました。

日比谷のここは、ほかの寄席とは違うな、という匂いと風格をあらためて感じたものです。

そんな夢みる時間も、昭和55年(1980)8月いっぱいでおしまいに。

日劇の取り壊しで日劇ミュージックホールが日比谷に移ってきて、玉突きのように、東宝名人会は流浪の寄席とあいなったのでした。

五代目小さんが「ストリップに追い出されまして」とぼやいてましたっけ。

東宝名人会の名称は2005年(平成17)まで続きはしましたが、不定のさまよえる演芸場に。その威容と高邁は昔日の感へと。

ガキの寄席通いは、さまざまに自慢の種です。

ただ、東宝名人会になじんでいた元少年に出会ったことはありません。

上野鈴本、新宿末広亭、人形町末広あたり。残念です。

東宝名人会は、北京放送と同格のマイブームで。毛語録の朗読には吹きました。

これはこれで、話芸のなせるものすごさなのでしょうね。





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らくごのねんぴょう【落語の年表】古木優


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落語の流れを時系列に作成していきます。

和暦(西暦)落語と世間
寛政10年(1798)6.-岡本万作が神田豊島町藁店に寄席を。6.-万作に対抗して山生亭花楽(→初代三笑亭可楽)が下谷柳の稲荷神社内で寄席を。5日で終わり。9.28花楽は目黒不動で祈願。10.1花楽、武州越ヶ谷で講席。のち松戸で講席。三笑亭可楽に改名。11.12深川元町で母娘の敵討ち、敵は死亡し母娘はおかまいなしに。
この年、初代桂文治、大坂座摩社内で寄席を。寄席時代の幕開け
寛政11年(1799)1.-桜川慈悲成撰、式亭三馬序『太平楽』刊
寛政12年(1800)この年、可楽が江戸に帰り二度の咄の会を。摺り物に烏亭焉馬、桜川慈悲成、可楽の3人の狂歌を載せる
寛政13年/享和元年(1801)2.5改元
享和2年(1802)1.-『浪華なまり』
この年、百川堂灌河編『新撰勧進話』京都版。「盗っ人の仲裁」→三代目小さんが「締め込み」に。この年、十返舎一九『落咄臍くくり金』江戸版。「餅搗き」は上方「尻餅」の原話
享和3年(1803)この年、桜川慈悲成『遊子珍学文』。「三年目」の原話
享和4年/文化元年(1804)2.11改元
文化2年(1805)
文化3年(1806)
文化4年(1807)
文化5年(1808)
文化6年(1809)
文化7年(1810)
文化8年(1811)
文化9年(1812)
文化10年(1813)
文化11年(1814)
文化12年(1815)
文化13年(1816)
文化14年(1817)
文化15年/文政元年(1818)4.22改元
文政2年(1819)
文政3年(1820)
文政4年(1821)
文政5年(1822)
文政6年(1823)
文政7年(1824)
文政8年(1825)
文政9年(1826)
文政10年(1827)
文政11年(1828)
文政12年(1829)
文政13年/天保元年(1830)12.10改元
天保2年(1831)
天保3年(1832)
天保4年(1833)
天保5年(1834)
天保6年(1835)
天保7年(1836)
天保8年(1837)
天保9年(1838)
天保10年(1839)4.1円朝、湯島切通片町(文京区湯島4)で誕生
天保11年(1840)
天保12年(1841)
天保13年(1842)
天保14年(1843)
天保15年/弘化元年(1844)12.2改元
弘化2年(1845)3.3円朝、橘家小円太で土手倉(中央区日本橋2)で初出勤
弘化3年(1846)
弘化4年(1847)
弘化5年/嘉永元年(1848)2.28改元
嘉永2年(1949)
嘉永3年(1850)
嘉永4年(1851)
嘉永5年(1852)
嘉永6年(1853)
嘉永7年/安政元年(1854)11.27改元
安政2年(1855)3.21 小円太、初代円生の菩提寺(浅草金龍寺)に参詣して三遊派再興を誓う。円朝に改名
安政3年(1856)この年、円朝は池之端七軒町に転居、母を引き取り父も迎える
安政4年(1857)
安政5年(1858)
安政6年(1859)
安政7年/万延元年(1860)3.18改元
万延2年/文久元年(1861)2.19改元
文久2年(1862)
文久3年(1863)
文久4年/元治元年(1864)2.20改元
元治2年/慶応元年(1865)4.7改元
慶応2年(1866)
慶応3年(1867)
慶応4年/明治元年(1868)9.8改元
明治2年(1869)
明治3年(1870)
明治4年(1871)
明治5年(1872)
明治6年(1873)
明治7年(1874)
明治8年(1875)
明治9年(1876)
明治10年(1877)
明治11年(1878)
明治12年(1879)
明治13年(1880)
明治14年(1881)
明治15年(1882)
明治16年(1883)
明治17年(1884)
明治18年(1885)
明治19年(1886)
明治20年(1887)
明治21年(1888)
明治22年(1889)
明治23年(1890)
明治24年(1891)
明治25年(1892)
明治26年(1893)
明治27年(1894)
明治28年(1895)
明治29年(1896)7.28円朝が日蓮宗の大信者に(日宗新報604号)
明治30年(1897)
明治31年(1898)
明治32年(1899)
明治33年(1900)8.11三遊亭円朝没。8.21麗々亭柳橋没(41)。11.-三代目春風亭柳枝没
明治34年(1901)
明治35年(1902)
明治36年(1903)
明治37年(1904)
明治38年(1905)
明治39年(1906)
明治40年(1907)1,5六代目朝寝坊むらく没(49)。
明治41年(1908)
明治42年(1909)
明治43年(1910)
明治44年(1911)
明治45年/大正元年(1912)5.29初代柳家つばめ没。7.30改元
大正2年(1913)
大正3年(1914)
大正4年(1915)
大正5年(1916)
大正6年(1917)
大正7年(1918)
大正8年(1919)
大正9年(1920)
大正10年(1921)
大正11年(1922)
大正12年(1923)9.1関東大震災
大正13年(1924)8.18三代目古今亭今輔没。11,2二代目三遊亭円朝(初代三遊亭円右→)没(65)
大正14年(1925)
大正15年/昭和元年(1926)1.29余代目古今亭志ん生没。5.3に代目三遊亭金馬没。12.25改元
昭和2年(1927)
昭和3年(1928)3.11第二次落語研究会第1回※全179回。44年3月まで
昭和4年(1929)
昭和5年(1930)
昭和6年(1931)
昭和7年(1932)
昭和8年(1933)
昭和9年(1934)9.21東宝名人会第1回公演(東宝劇場5階、510席の東宝小劇場で)
昭和10年(1935)
昭和11年(1936)
昭和12年(1937)
昭和13年(1938)
昭和14年(1939)
昭和15年(1940)
昭和16年(1941)
昭和17年(1942)2.-三代目柳家つばめ没(59)。11.1正岡容主催の寄席文化向上会(大塚鈴本)で第1回「特殊古典落語鑑賞」※「古典落語」の初出
昭和18年(1943)
昭和19年(1944)
昭和20年(1945)
昭和21年(1946)2.3第三次落語研究会第1回※46年8月まで
昭和22年(1947)
昭和23年(1948)10.9第四次落語研究会第1回※全115回。58年まで
昭和24年(1949)
昭和25年(1950)
昭和26年(1951)
昭和27年(1952)
昭和28年(1953)4.11三越落語会第1回。桂小金治「三人旅」、古今亭今輔「印鑑証明」、柳家小さん「提灯屋」、三遊亭円生「百川」、桂三木助「宿屋仇討」、桂文楽「心眼」※子母田万太郎が提唱
昭和29年(1954)
昭和30年(1955)
昭和31年(1956)5.30東横落語会第1回(渋谷・東急百貨店東横店)。※主催は湯浅喜久治。東横落語会・全公演データリスト
昭和32年(1957)8.30東横落語会「円朝祭」※サラ口で三木助「真景累ヶ淵」
昭和33年(1958)
昭和34年(1959)6.6落語勉強会(東宝演芸場)※若手の勉強会で公演後、飯島友治が批評(ダメ出し)。7.30東京落語会(NHK)第1回※東京落語会全公演・データリスト(仮公開)
昭和35年(1960)
昭和36年(1961)10.-四代目柳家つばめ没(69)。
昭和37年(1962)4.5精選落語会第1回(イイノホール)。三笑亭可楽「今戸焼」、桂文楽「明烏」、林家正蔵「花見の仇討」、柳家小さん「笠碁」、三遊亭円生「百川」、新人推薦で三遊亭全生(→五代目円楽)「たらちね」※68年12月まで
昭和38年(1963)
昭和39年(1964)9.12紀伊國屋寄席第1回※不定期で、66年から毎月1回開催。11.30古典落語をきく会(紀伊國屋ホール)※桂文楽、三遊亭円生、林家正蔵
昭和40年(1965)
昭和41年(1966)
昭和42年(1967)
昭和43年(1968)3.14第五次落語研究会第1回
昭和44年(1969)
昭和45年(1970)
昭和46年(1971)
昭和47年(1972)
昭和48年(1973)9.21五代目古今亭志ん生没
昭和49年(1974)
昭和50年(1975)
昭和51年(1976)
昭和52年(1977)
昭和53年(1978)
昭和54年(1979)9.3六代目三遊亭円生没
昭和55年(1980)4,21藤浦富太郎没(95)。
昭和56年(1981)
昭和57年(1982)
昭和58年(1983)
昭和59年(1984)
昭和60年(1985)6.28東横落語会最終演(第294回)。※東横落語会・全公演データリスト
昭和61年(1986)
昭和62年(1987)
昭和63年(1988)
昭和64年/平成元年(1989)1.7改元
平成2年(1990)
平成3年(1991)
平成4年(1992)
平成5年(1993)
平成6年(1994)
平成7年(1995)
平成8年(1996)
平成9年(1997)
平成10年(1998)
平成11年(1999)
平成12年(2000)
平成13年(2001)10.1三代目古今亭志ん朝没
平成14年(2002)5.16五代目柳家小さん没
平成15年(2003)
平成16年(2004)
平成17年(2005)2.10東宝名人会第1260回で最終演(芸術座)。4.18二代目桂文朝没
平成18年(2006)
平成19年(2007)
平成20年(2008)
平成21年(2009)
平成22年(2010)
平成23年(2011)
平成24年(2012)
平成25年(2013)
平成26年(2014)
平成27年(2015)
平成28年(2016)
平成29年(2017)
平成30年(2018)
平成31年/令和元年(2019)5.1改元
令和2年(2020)
令和3年(2021)3.19東京落語会(NHK)、毎月開催の形式での公演終了※東京落語会・全公演データリスト(仮公開)。10.7十代目柳家小三治没
令和4年(2022)
令和5年(2023)5.28藤浦敦没。7.21五街道雲助に人間国宝(文化審議会)
令和6年(2024)2.25落語協会百周年
令和7年(2025)

参考文献:「ホール落語と六代目三遊亭円生」(宮信明)/読売新聞



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■話芸の団体

落語協会 一般社団法人

落語芸術協会 公益社団法人

五代目円楽一門会

落語立川流

上方落語協会 公益社団法人

講談協会

■話芸をたのしめるところ

浅草演芸ホール 台東区 東京落語の定席

池袋演芸場 豊島区 東京落語の定席

上野鈴本演芸場 台東区 東京落語の定席

新宿末廣亭 新宿区 東京落語の定席

国立演芸場 千代田区 by日本芸術文化振興会 建て替え閉場 以下で代替開催

 紀尾井ホール 千代田区 by日本製鉄文化財団

 日本橋公会堂 by中央区

 内幸町ホール by千代田区

大演芸 国立系ぜんぶ入り

よみうり大手町ホール 千代田区 by読売新聞社 江戸東京落語まつり など

有楽町朝日ホール 中央区 by朝日新聞社 朝日名人会 など

永谷の演芸場 お江戸上野広小路亭 お江戸日本橋亭(休館中) お江戸両国亭 

横浜にぎわい座 横浜市中区 by横浜市芸術文化振興財団

大須演芸場 名古屋市中区

天満天神繁盛亭 大阪市北区 上方落語の定席

動楽亭 大阪市西成区 by米朝事務所

神戸新開地 喜楽館 神戸市兵庫区

花座 仙台市青葉区 毎月10日間は落語芸術協会の定席「魅知国仙台寄席」

■まだまだある!話芸をたのしめるところ 

アルテ

オフィス10

梶原いろは亭

亀戸梅屋敷藤の間

クリエイティブワンズ

彩の国ビジュアルプラザ 埼玉県川口市西川口

雑司谷はいどん亭

道楽亭 新宿区新宿三丁目

東洋館

ばばん場

ぼんが 墨田区 曳舟・向じま墨亭

木馬亭

湯河原温泉観光協会

瑜伽山真福寺 世田谷区用賀

落語居酒屋こまむ亭 横浜市 相鉄線上星川駅南口

■紙情報

東京かわら版 東京落語中心 月刊

よせぴっ 上方落語中心 フリーペーパー

歴史と人物 日本史中心 by中央公論新社

和樂 日本の伝統文化を紹介 by小学館

■オンライン情報

あかね噺 by少年ジャンプ(集英社)

浅草お茶の間寄席 by千葉テレビ

演芸おもしろ帖 長井好弘 by読売新聞

産経らくご by産経新聞

儒烏風亭らでん hololiveDEV_ISのバーチャルYouTuber ReGLOSSメンバー

新にっかん飛切落語会 byにっかんスポーツ

TBS落語研究会 第五次落語研究会 by東京放送(TBS)

日本の話芸 byNHK

文化デジタルライブラリー by文化庁

よせなび 寄席と落語について

落語散歩 歩く、歩く

噺-HANASHI- 落語系情報サイト  首都圏中心 byハナシ・ドット・ジェーピー

落語と吉原そして小説、時々ぼやき 四代目橘家円喬なら by立花家蛇足

落語の舞台を歩く 続編は落語ばなし こちらもよく歩く by吟醸の館

らくご報知 by報知新聞

バズ部 なにかと重宝

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しかのぶざえもん【鹿野武左衛門】噺家

志ん朝

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【芸種】はなし
【所属】江戸
【入門】
【前座】
【二ツ目】
【真打ち】
【定紋】
【本名】安次郎
【生没年月日】慶安2年(1649)-元禄12年8月13日(1699.9.6)
【出身地】大坂または京
【前歴】塗師 漆塗りの職人
【ネタ】新作
【出典】Wiki
【蛇足】以下の通り。

慶安2年(1649)-元禄12年(1699)。江戸落語の祖。江戸で初めて、座敷仕方咄を演じた人とされています。

出身は大坂とも京ともいわれていますが、よくわかりません。上方から江戸に下ってきた人のようです。

野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。本名は安次郎とかで、職業は塗師。漆塗りの職人でした。

日本橋の堺町や長谷川町(日本橋堀留)あたりの職人町に住んでいました。

人前でのおしゃべりがうまかったようで、座敷仕方咄を演じてはいつしか人気者に。身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。

そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延まんえんし、1万人余りが亡くなりました。当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。

そのさなか。

「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」

そんな噂がまことしやかに広まったのでした。もちろん馬鹿な。馬がしゃべるなんて。エドじゃあるめえし。ここは江戸だぜ。でも、そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。

忖度そんたくまじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相のせよりすけ(出雲守いずものかみ)は、配下に探索させます。

そしたら、出てきた。浪人者の筑紫団右衛門ちくしだんえもんと、神田須田町すだちょうの八百屋惣右衛門そうえもんの共同謀議だったことが。主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。ひっえー。従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。ざざざッ。厳しいお裁きでした。

これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。しゃべる馬の件です。取り調べで二人は、こんなことを言っていました。

咄本はなしぼん『鹿の巻筆まきふで』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。

咄本というのは、軽口かるくち(しゃれ)や落語などを記した本のこと。笑うための本ですね。だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。え、これが?

『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。武左衛門は伊豆大島に流罪。版元の本屋弥吉も江戸追放に。本は焼き捨てられました。焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。とんだとばっちりです。

武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。いやあ、もったいない。武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。

若い頃の武左衛門は、石川流宣いしかわりゅうせん小咄こばなしの会なんかをつくって、人気を得ました。中橋広小路なかばしひろこうじ(八重洲やえす)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。町奉行が切歯扼腕せっしやくわんしたのは、ここのところでした。な、なんでェ?

宇井無愁ういむしゅう氏は、こんなふうに解釈しています。

街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。

宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)

なるほど。当局の考えそうなことですね。

ついでに座敷咄ざしきばなしなる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。暗黙のご法度となったのです。江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。

その後、寛政かんせい10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。岡本万作おかもとまんさく神田豊島町藁店かんだとしまちょうわらだなの寄席。それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽さんしょうていからく)による下谷柳したややなぎ稲荷社いなりしゃ境内にも寄席が。二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。

ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。江戸時代おそるべし、です。

【蛇足】

「堺町馬の顔見世」

『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。

市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。

伊藤正太夫は、一座の座頭ざがしら、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。

『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。

鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門にしひがしたろうざえもんという人が『本朝話者系図ほんちょうわしゃけいず』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。

ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。

「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたのだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。

参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」

塗師

「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。

七十一番職人歌合しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ』という歌集があります。明応めいおう9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代のどさくさの頃の歌集です。

べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことなどできません。

天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、物合ものあわせという形式の歌集です。やんごとない人たちというのは、すさまじいほどに暇だったのですね。その歌集の三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。

以下は、「画中詞」と呼ばれる、詞画きです。絵のちょっとした解説じみた文をさします。

よげにそうろう 木掻きがきのうるしげに候 今すこし火どるべきか

よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。

そんな意味合いです。いつまでも蛤刃はまぐりばなるこがたなのあふべきことのかなはざるらん

しぼれども油がちなるふるうるしひることもなき袖をみせばや

このように二首載って、競っているわけです。歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。

それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職号を垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。

最後に、以下のような判が下っています。

左右、ともに心詞こころことばきゝて面白く聞こゆ よきにこそはべるめれ

どうということもない文言です。歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。

「七十一番職人歌合」の第三番「塗士」の図

右の男は侍烏帽子さむらいえぼしをかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶっているのは珍しいことではありません。小袖にはかま。腕をまくっています。

右手には、漆刷毛うるしはけを持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。二人が行っているのは、吉野紙の漆し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。

漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。

さて、鹿野武左衛門。

これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと、喜ばれていたのかもしれませんね。

参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』

志ん朝

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しんしょうがなりすまし【志ん生がなりすまし】志ん生雑感 志ん生!

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志ん生がらみのことで、麻生芳伸さん(1938-2005)からしか聞いたことのない話があります。

志ん生が柳家甚語楼だったころのことでしょうか。

人気絶頂の初代柳家金語楼(山下敬太郎、1901-72)と同宿していたんだそうです。

金語楼は連日、寄席に引っ張りだこ。甚語楼はお声がかからず、部屋でくすぶる。金語楼の下流に甘んじる甚語楼。

そんな構図だったようです。でも、二人は仲良かったんだとか。

ある日。

金語楼がいつものように寄席に行く支度をしていたら、甚語楼が金語楼を縄でぐるぐるに縛ってしまいました。

甚語楼は金語楼の着物を着て、「柳家金語楼」になりすまして高座に出たんだそうです。

テレビもなかった時代。甚語楼が金語楼を騙って高座に出ても、客は「いつもとちょっと違うなあ」くらいで通っちゃったのですかね。

こんな仕儀がまかり通ったとは。のんきなもんです。昭和4年(1929)ごろのお話でした。

古木優



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よいちかい【余一会】ことば

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寄席での月内の興行は、基本的に以下のような具合になっています。

上席かみせき(1-10日)、中席なかせき(11-20日)、下席しもせき(21-30日)。

それぞれ番組を変えたり、協会を交互に替えたりして興行します。

大の月の31日には、その日に特別な興行を行います。

これを「余一会」と呼びます。

いつもと趣向の違う、その日だけのスペシャルな催しをします。

お楽しみです。

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転宅、残念

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柳家小三治師匠がお亡くなりになりました。10月7日。寂しいもんです。BS-TBSでは、落語研究会でかつて小三治師匠があげた「転宅」を放送するというのを知って録画しました。なんせ深夜の放送でしたから、翌日見たところ、なんと柳家花緑師匠が出ていました。まずい顔だなあ、という苦い印象だけでしたが、あれはいったいなんだったのでしょうか。こんな局面(放送局と掛けている)で羊頭狗肉をひっさげてもしょうがないとは思うのですが。残念です。

柳家小三治のプロフィル
1939年12月17日~2021年10月7日
東京都新宿区出身。出囃子は「二上がりかっこ」。定紋は「変わり羽団扇」。本名は郡山剛藏こおりやまたけぞう。1958年、都立青山高校卒業。同学年に女優の若林映子わかばやしあきこ、一学年下には仲本工事と橋爪功。ラジオ東京(現TBS)「しろうと寄席」で15週勝ち抜いて注目されました。59年3月、五代目柳家小さんに入門。みんなが納得したそうです。前座名は小たけ。63年4月、二ツ目昇進し、さん治に。69年9月、17人抜きの抜擢で真打、十代目柳家小三治を襲名。76年、放送演芸大賞受賞。79年から落語協会理事に。81年、芸術選奨げいじゅつせんしょう文部大臣新人賞受賞。2004年に芸術選奨文部科学大臣賞を、05年4月、紫綬褒章しじゅほうしょう受章。10年6月、落語協会会長に。14年5月に旭日小綬章きょくじつしょうじゅしょう受章。6月、落語協会会長を勇退し、顧問就任。10月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。21年10月2日、府中の森芸術劇場での落語会で「猫の皿」を演じました。これが最後の高座に。10月7日、心不全のため都内の自宅で死去。81歳。戒名は昇道院釋剛優しょうどういんしゃくごうゆう。浄土真宗ですね。69年に結成された東京やなぎ句会の創設同人の一。俳号は土茶。

小三治師匠が得意とした主な演目(順不同)

花見の仇討ち」「もう半分」「宿屋の富」「大山詣り」「三年目」「堪忍袋」「船徳」「不動坊火焔」「睨み返し」「長者番付」「粗忽の釘」「子別れ」「お化け長屋」「藪入り」「鹿政談」「芝浜」「三軒長屋」「蛙茶番」「死神」「お神酒徳利」「厩火事」「千両みかん」「小言幸兵衛」「あくび指南」「うどん屋」「癇癪」「看板のピン」「金明竹」「小言念仏」「大工調べ」「千早ふる」「茶の湯」「出来心」「転宅」「道灌」「時そば」「鼠穴」「初天神」「富士詣り」「百川」「薬缶なめ」「蝦蟇の油」「一眼国」「二人旅」「お直し」「湯屋番」「明烏」「たちきり」「五人廻し」「山崎屋」「禁酒番屋」「品川心中」「鰻の幇間」「青菜」「野ざらし」「二番煎じ」「粗忽長屋」「猫の皿」「厩火事」など。柳家なのか三遊亭なのか、演目だけでは判断つきません。晩年は滑稽噺ばっかりでした。 まくらが異様に発達進化したのは、柳家の芸風に由来するのではないでしょうか。「小言念仏」(マクラが魅力) 「千早ふる」 (細部まで小さん流) 「転宅」、また聴きたいです。

(古木優)

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柳家小三治、逝く 

青高の12月生まれ同士



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柳家小三治師匠が亡くなりました。残念です。

2021年9月25日、テレ東系「新美の巨人たち」で新宿末広亭の屋内が特集された折、ちょっとだけですが、師匠が登場していて、この演芸場のの空間を気持ちのいいほどほめちぎっていました。

お声がちょっとヘンだなあ、なんて感じましたが、あれが見納めでした。深山でこだまを聴いたような思い。

高田馬場の街角では、手塚治虫、楳図かずお、天本英世といった滔々たる有名人を、よくお見かけしたものです。もちろん、師匠も。ムトウとかで。1980年前後の話です。

永六輔が仕切るNHKのテレビ番組にも、師匠は出ていました。俳句つながりだったのですね。師匠は物故の名人上手のものまねなんかやって会場の客を大いに笑わせ、「こんなことやってるから、あたしゃ、出世が遅れたんですな」なんて、大声でひとりごちていました。小ゑんにいじめられてたんでしょうかね。

82年頃。土曜日の昼下がり、師匠のオーディオ番組をよく聴いてました。師匠は相当な音マニアでしたから、ジャズを中心に、たまにはクラシックやボサノバも。管見ながら、藤岡琢也をもしのぐものすごさだったような。

89年春、聖路加国際病院の朝。師匠が、道端にでっかいバイクを横付けして、あの建物に入るところをお見かけしました。

あれは、私のようにどなたかのお見舞いのためだったのか、あるいはご自身の定期診察ででもあったのか。細身に革張り黒ずくめのそのスタイルは永六輔にも似ていて、どこか洗練されていて、素っ気なくて、あこがれを抱くスタイルでした。

粋の体現だったような。六代目林家正蔵のスタイルをまねていたのを、後日知ったときにはホント、びっくりしました。

どこまでも、すっとぼけた、ものまねにたけた、さりげなさを最良とする噺家さんだったのですね。

志ん朝亡き後、小三治師匠の高みには雲助師匠だけが迫ってきているもんだと、勝手に思い込んでいました。その視点は間違いではないと思うのですが、両者の差異は大人と子供くらいあったように感じます。

ラジオ東京の「しろうと寄席」で15週勝ち抜いた果てに「大学に進まず落語家に入門する」という爆弾発言で、番組ファンは「誰に入門するのか」注目していたそうです。

1959年のことですから、文楽、志ん生、三木助、円生、正蔵などなど、あまたの名人上手がわんさか。その中から小さんを選んだのは慧眼だったのかもしれません。兄弟子に小ゑんがいたことが少なからずの不幸だったのでしょうけど。それでも才を盛る器がまったく違っていました。小ゑんは災でしたか。

若林映子あきこさんとは同じクラスだったのかどうか。同窓だったことはたしかなのですがね。ウッディ・アレンの監督第一作は若林映子さん主演のものでした。ビックリです。むちゃくちゃなパクリ映画でしたが、アレンのアジアン・ビューティー好きは筋金入りなのですね。

若林映子さんは12月14日、師匠は12月17日。お二人とも近いお生まれです。

これほど余韻を帯びた噺家、もういません。志ん朝が逝ってちょうど20年。ともに贅言せずとも客を笑わせる噺家でした。嗚呼。

柳家小三治のプロフィル
1939年12月17日~2021年10月7日
東京都新宿区出身。出囃子は「二上がりかっこ」。定紋は「変わり羽団扇」。本名は郡山剛藏こおりやまたけぞう。1958年、都立青山高校卒業。同学年に若林映子わかばやしあきこ、一学年下には仲本工事と橋爪功(天王寺高から転入)。ラジオ東京「しろうと寄席」で15週勝ち抜いて全国的に注目されました。59年3月、五代目柳家小さんに入門。前座名は小たけ。63年4月、二ツ目昇進し、さん治に。69年9月、17人抜きの抜擢で真打ち、十代目柳家小三治を襲名。76年、放送演芸大賞受賞。79年から落語協会理事に。81年、芸術選奨げいじゅつせんしょう文部大臣新人賞受賞。2004年に芸術選奨文部科学大臣賞を、05年4月、紫綬褒章しじゅほうしょう受章。10年6月、落語協会会長に。14年5月に旭日小綬章きょくじつしょうじゅしょう受章。6月、落語協会会長を勇退し、顧問就任。10月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。21年10月2日、府中の森芸術劇場での落語会で「猫の皿」を演じました。これが最後の高座に。10月7日、心不全のため都内の自宅で死去。81歳。戒名は昇道院釋剛優しょうどういんしゃくごうゆう。浄土真宗なのですね。69年に結成された東京やなぎ句会の創設同人の一。俳号は土茶どさ

郡山剛蔵くんを大きく舵切りさせた「しろうと寄席」は、聴取者が参加するラジオ公開放送演芸番組です。一般の聴取者が得意の芸を披露して、プロの審査員に評定され、番組が進行します。ラジオ東京(JOKR、現TBSラジオ)で昭和30年代前半に放送されました。ちなみに、一般人が放送に参加できるようになったのはNHK「素人のど自慢」が初めて。戦前ではあり得ないことでしたから、民主国家日本の画期でした。「しろうと寄席」もこれに倣ったのですね。放送期間は1955年3月9日~62年10月29日。番組開始時では大正製薬の単独提供だったのが、終了時には日電広告に。開始時では毎週水曜21時30分~22時。終了時では毎週月曜14時10分~15時に。司会は牧野周一(声帯模写)。審査員は、桂文楽(落語)、神田松鯉しょうり(講談)、コロムビアトップ・ライト(漫才)。主な出身者には、小三治師匠以外には、牧伸二(ウクレレ漫談)、入船亭扇橋(東京やなぎ句会同人、俳号光石)、片岡鶴八(声帯模写、片岡鶴太郎の師匠)など。フジテレビ系列で昭和40年代前半に放送された同名の番組もありましたが、これは別番組です。

小三治師匠が得意とした主な演目(順不同)

花見の仇討ち」「もう半分」「宿屋の富」「大山詣り」「三年目」「堪忍袋」「船徳」「不動坊火焔」「睨み返し」「長者番付」「粗忽の釘」「子別れ」「お化け長屋」「藪入り」「鹿政談」「芝浜」「三軒長屋」「蛙茶番」「死神」「お神酒徳利」「厩火事」「千両みかん」「小言幸兵衛」「あくび指南」「うどん屋」「癇癪」「看板のピン」「金明竹」「小言念仏」「大工調べ」「千早ふる」「茶の湯」「出来心」「転宅」「道灌」「時そば」「鼠穴」「初天神」「富士詣り」「百川」「薬缶なめ」「蝦蟇の油」「一眼国」「二人旅」「お直し」「湯屋番」「明烏」「たちきり」「五人廻し」「山崎屋」「禁酒番屋」「品川心中」「鰻の幇間」「青菜」「野ざらし」「二番煎じ」「粗忽長屋」「猫の皿」「厩火事」など。

柳家なのか三遊亭なのか、演目だけでは判断がつきません。というか、初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)にならって「はなし」をじっくり体現しようとしたのかもしれません。晩年は滑稽噺ばっかりでしたが。 まくらが異様に発達進化したのは、その後の柳家の芸風ゆえんだったのではないでしょうか。「小言念仏」(マクラが魅力) 、「千早ふる」 (細部まで小さん流)、 「転宅」 はまた聴きたいです。

(2021年10月7日 古木優)

柳家小三治 人形町末広の思い出】

2002年7月14日 第27回朝日名人会 有楽町朝日ホール

人形町末広は、慶応3年(1867)に開場し、昭和45年(1970)1月に閉場しました。今は読売新聞系列のチラシ会社が建つのみ。お隣には刃物老舗の「うぶけや」が。店内に掛かった扁額は、日下部鳴鶴門下の一字ずつの寄せ書きとなっています。その内訳は、「う」が伊原雲涯、「ぶ」が丹羽海鶴、「け」が岩田鶴皐、「や」が近藤雪竹。みなさん、近代を代表する書家です。うぶけやの爪切りは高いけど、しびれる切れ味です。

落語演目

 



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くさどせんけん【草戸千軒】古木優

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中世といいますか、戦国時代といいますか。

そこらへんがおもしろくて。

たとえば、斎藤道三。

この人は、僧侶から油売りを経て美濃を奪った梟雄であるかのように語られてきました。

司馬遼太郎の『国盗り物語』でもそんなふうに描かれています。

最近の研究では、こうです。

僧侶から油売りを経て美濃の守護、土岐家の家臣になったところまでは道三の父親で、土岐家を追い出して一国一城の主にのし上がったのが息子の道三だった、とのこと。

二世代にわたる異業績だったわけなんですね。

「まむし」とあだ名された人物のイメージもちょっと変わります。

乗っ取りの英才教育を授かったお坊ちゃん、というところでしょうか。

もひとつ、鉄砲伝来も。

1543年(天文12)に種子島に漂着したポルトガル人が持ってきて、領主の種子島時堯に2丁売った。これが鉄砲伝来だ。

なあんていうような話に、納得していました。

でも、鉄砲は、ですね。

その前すでに倭寇なんかが九州地方に持ち込んでいたことが、最新の研究でわかっているそうです。

南蛮船と呼ばれていたポルトガル人の船(じつはマラッカやルソンの人たちのほうが多かった)も、当時の日本は別に鎖国していたわけでもないし中央のコントロールが機能していなかったので、日本のどこに寄港しても不思議ではありませんでした。

関東や奥州の国人・地侍などが鉄砲を手にすることだってあり、だったのです。

鉄砲が軍制に組み込まれたのは、関東以北では1570年(元亀元)以降とされているのですが、いずれ新事実が明らかとなって、この通説も覆されるかもしれません。

いやいや、もうすでに。

さらに、落ち武者の流亡。

西国の某城で忠勤に励みながらも戦いに敗れて、命からがら逃れた果てが東国、またはみちのく。

この地方は元来穏やかで、いろんな面で遅れていました。だから、落ち武者たちはなにかと有用だったのです。鉄砲の扱い方を伝えたのはこの手の人たちでした。

と、この人たちが東国やみちのくで増えていくと、いくさはまるで西国落ち武者同士の傭兵戦争となって、次第に激しさを増していくのです。

これまで見たこともない戦法なんか使ったりして。あるいは、西国では見果てぬ夢だった思いが東国で実現できたりしたわけ。東漸です。

日本国内には「〇〇千軒」という古地名がいくつか残されています。

広島県福山市の「草戸千軒」がもっとも有名でしょうか。

ここでいう「千軒」とは「栄えた町」くらいの意味なのでしょう。今はさびれてしまったけれど、昔は栄えていたのだ、というようなニュアンスが込められているようです。

滅びてしまった理由はたいてい洪水や津波など天変地異によるもの。

今となってはふるさと自慢の素材のひとつというのが物悲しさを漂わせます。

ただ、「〇〇千軒」に共通するものがいくつかあります。

鉱山と港。近くの山で採れた金銀を海上交通を使ってどこかに運んだ、ということなのでしょうか。

買い手がいたのですね。

どこの誰にでしょうか。

モノばかりか、ヒトも運ばれていったのかもしれません。

毎日必ずどこかで殺し合いがあった戦国時代も、ちょっと見方を変えると別な世界がみえてくるかもしれません。

夢はふくらみますね。

千軒と千字寄席。

これはただの偶然ですが。

こんなふうに、これまで戦国時代の常識とされてきたことが少しずつ剥がされていきなんでもありなのが戦国時代だ、という認識が今日広まりつつあるようです。

ひるがえって、落語。

これはどうでしょうか。

落語史は戦国史と違って、ごく一部の真摯で優れた方々を除けば、いまだにまともな研究者や評論家がいません。

戦国史は多くの大学で学べても、落語史を学べる大学はあまりありません。

あったとしても、教授の片手間か気まぐれです。

落語評論なる文章も、先学諸兄の孫引きが目立って、当人は元が間違っていることにも気づかずにさらしたりしているようで。

それを誰もなにも言わずに放置の状態、なんていうことを見かけます。

われわれもその過ちを犯してきたのかもしれません。

どうにも曖昧模糊、なんだかなあ、いまだ霧の中にたたずんでいるのが落語史の研究。千鳥足の風情です。

いずれ誰かが全体を明らかにしてくれるのだろう。

と、心待ちにしていましたが、いつまで待ってもあまり変わり映えしそうもありません。

そんなこんなで、こちらの持ち時間もじわじわとさびしくなってきた昨今。

ここはもう知りたいことは自分でやるしかないかとばかり、心を入れ替え気合を込めてじわじわがつがつと落語について読み込んでいこうと覚悟を決めたというところです。

落語も戦国時代のような状態なのかもしれません。

われわれは、落語というものを、芸能史の流れ、つまり、口承、唱導、説教、話芸といった一連のたゆたい、舌耕芸態として見つめていきたいのです。

落語は聴いて笑うもので調べるものではない、などと言っている人がいます。

たしかに、落語研究などとは野暮の骨頂なのかもしれません。

ある種の人たちには、「笑い」を肩ひじ張って「研究」するなんてこっぱずかしいなりわいなのでしょう。

それでも。

たとえば、三遊亭円朝が晩年、臨済宗から日蓮宗に改宗したことの意味を、われわれはやはりもう少し深く知りたいものです。

そうすれば、いま残された42の作品の位置づけや意味づけも少し変わってくるかもしれませんし。

世間もわれわれも、なんであんなに「円朝」なるものを仰ぎ見ているのか。

その不思議のわけを知りたいものです。

もひとつ。

明治時代の寄席のありさま。

「寄席改良案」といったものが当時、しょっちゅう新聞ダネになっています。

「町内ごとに寄席はあったもんだ」なんて、まるで見てきたようなことを言っている人がいます。

どうなんでしょうか。

あるにはあったようですが、場末の端席と一流どころの定席では同じ「寄席」でくくるにはあまりにも不釣り合いなほどに異空間だったように思えます。

それはもちろん、今日、私たちが知る鈴本演芸場や新宿末広亭のようなあしらいの寄席とは、おそろしく異なるイメージの空間でもあったようなのです。

寄席で終日待ってても落語家が一人も来なかった、なんていう端席は普通にあったようです。

同席する客は褌一丁で上ははだけたかっこうの酒臭い車引きやひげもじゃ博労の連中がごろごろにょろにょろ。

床にひっくるかえっては時間をつぶし、あたら品ない世間話に花が咲く町内の集会所のようなものだったのでしょう。

これでは、良家の子女は近づきません。

まともな東京人は来ないわけです。

歌舞伎に客を取られてはならじ。

と、寄席や落語家の幹部連中はなんとかせねばとうずうずしていたのが、明治中期頃までの寄席の実態だったようです。

だからなんだ、と言われれば、それまでなんですが。

うーん、それでも、やっぱり、どうしてもそういうところを深く知りたい。

たとえば「藪入り」。

なんであんなヘンな噺が残っているのだろう。

そこには、当時の寄席の雰囲気を知ると見えてくるものがあるんじゃないだろうか、なんて思うわけです。

見たり聴いたり、五感を刺激される体験をしてみる。

それをまた違った形でもいちど味わってみたいという欲求にかられるのも人のさが。そんな人種もたまにはいるのです。

これを機会に、おぼろげでかそけき落語研究の世界について、テキストをしっかり読み込むことで、くっきり視界をさだめていこうと思っています。

いまとなっては、われわれには仰ぐべき師匠も依るべとなる先達もいません。

だから時間がかかります。

勘違いや間違いも、多々あるでしょう。

ご指摘あれば、すぐに直します。

われわれは、かたくなではありません。

そんなこんなで、手探りながらも地道に少しずつ前に進んでいきたい。

そう思います。

ご叱正、ご助言あれば、すこぶる幸い。

お暇な方は、どうぞおつきあいください。

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