鹿政談 しかせいだん 演目

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落協を出て間もない円生が1978年11月、早大でやったのを聴いたことあります。

【あらすじ】

奈良、春日大社の神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文の罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛という男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口で何やら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから=卯の花)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばった奴をピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿。

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代(代官)の塚原出雲の屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全の連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守の取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

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【うんちく】

上方落語を東京に移植

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目柳家(禽語楼)小さんが、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生十八番

東京では戦後、六代目三遊亭円生が得意にしたほか、主に音曲師として鳴らした七代目橘家円太郎(1902-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌、六代目春風亭柳橋も手掛け、もともとの本場上方では、戦後は桂米朝の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。

オチは、普通東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守

根岸肥前守鎮衛(1737-1815)は、優れた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢』の著者として、あまりにも有名。

最近では、風野真知雄作「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはすっかりおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。

落語では、ほかに「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当である、奈良興福寺の私法。

ただし、石子詰めは、江戸時代には実際には行われていません。

幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置いていましたが、歴代奉行が、興福寺と事を構えるのを嫌い、この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

春日神社の鹿の数と、燈籠の数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

根岸肥前守の子孫

幕末に、根岸鎮衛の子孫と思われる、根岸衛奮という人物がいて、この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの三年間、奈良奉行を勤めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。

【語の読みと注】
耳嚢 みみぶくろ

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