しかせいだん【鹿政談】落語演目

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【どんな?】

春日社の鹿は神の使いだから、あやめれば死罪。
豆腐屋、店のキラズを食べる鹿を犬と間違えて殴り殺した。
神鹿は死に、豆腐屋はお縄となってお白州へ。
お奉行「これは犬か。どうじゃ。切らずにやるぞ」

別題:春日の鹿 鹿殺し 

【あらすじ】

奈良、春日大社かすがたいしゃの神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子いしこ詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文ごかんもんの罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺こうふくじ東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛しょうじきろくべえという男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口でなにやら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばったやつをピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿しんろく

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹ほうたん、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代もくだい(代官)の塚原出雲つかはらいづもの屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全りょうぜんの連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守ねぎしひぜんのかみの取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

【しりたい】

上方落語を東京に移植    【RIZAP COOK】

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守まつのかわちのかみ」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生十八番

先の大戦後、東京では、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしたほか、音曲に長けた七代目橘家円太郎(有馬寅之助、1901-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)も手がけ、本場上方では先の大戦後は、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。オチは普通、東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守    【RIZAP COOK】

根岸肥前守は根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)のこと。

名奉行ながらすぐれた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢みみぶくろ』の著者としても有名です。

最近では、風野真知雄かぜのまちお「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。

根岸肥前守は「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿    【RIZAP COOK】

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当(統括)である興福寺の私法でした。

ただし、石子詰めは江戸時代には行われていません。

春日大社と興福寺は、神仏習合の時代(明治以前)にはでセットの宗教施設です。

しかも、藤原氏の氏社で氏寺。鹿島神宮も藤原氏の氏社でした。

江戸幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置きました。

歴代の奉行は、興福寺と事を構えるのを嫌いました。

この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

どうでもよい話ですが、春日神社の鹿の数と燈籠とうろうの数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

ちなみに、春日大社の鹿は、常陸国ひたちのくに(茨城県)一宮いちのみや鹿島神宮かしまじんぐうにいる鹿を連れてきたことが知られています。

8世紀、藤原氏が春日大社を創建する際、鹿島神宮を勧請かんじょう(分霊を迎える)し、神鹿も約1年かけて陸路、奈良まで運んだそうです。

途中で亡くなった鹿を葬った地が、鹿骨ししぼね(東京都江戸川区)と名づけられたりもしています。

地元では知られた話です。

鹿島神宮の不思議

鹿島神宮の「神宮」とは、天皇家とのかかわりを示します。特別な施設でした。

律令の細則を定めた延喜式えんぎしき神名帳しんめいちょうに記された神社を「式内社しきないしゃ」と呼び、今でも高い地位にあります。

ここに記された「神宮」は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三宮のみです。

熱田神宮、橿原神宮、平安神宮、明治神宮などの「神宮」は、後世に付けられたもの。

となると、鹿島神宮と香取神宮の存在意義は、がぜん重要視されてきます。

縄文時代での人口は、東日本と西日本では、100対10以上の差がありました。東高西低だったのです。

当時の鹿島と香取の周辺は霞ケ浦が太平洋とつながっていて、広大な内海を形成しており、黒潮を利用して外海との交流もさかんでした。

当時の日本の中心地はこのあたりだったようです。

鹿島と香取に「神宮」が冠せられるのは、このことともかかわります。

さて。

春日大社も興福寺も藤原氏の氏社氏寺でした。

春日大社が祀るのは建御雷神たけみかづちのかみで、鹿島神宮からの勧請です。軍神です。

中臣なかとみ氏の氏神うじがみです。

中臣鎌足なかたみのかまたりが死の直前に天智てんじ天皇から藤原姓を賜っています。

奈良に鹿島の神鹿を連れてきたのは、そんなところとかかわりがありました。

すべての中臣氏が藤原氏になったのではなく、鎌足の系統だけでした。

中臣氏は忌部いんべ(斎部)氏と同じく、神事や祭祀を受け持った中央豪族です。

根岸肥前守の子孫    【RIZAP COOK】

幕末の時期ですが、根岸鎮衛ねぎしやすもりの曽孫に根岸衛奮ねぎしもりいさむ(1821-76)という人物がいました。

この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの3年間、奈良奉行を務めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。



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評価 :2/3。

おびきゅう【帯久】落語演目

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【どんな?】

日本橋の商人、和泉屋与兵衛と帯屋久七。
金にからんだ大岡政談の一編。

別題:和泉屋与兵衛(上方) 名奉行(上方) 指政談(上方)

あらすじ

享保5年、春のこと。

日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛いずみやよへえという呉服屋があった。

主人は温厚な人柄で、町内の評判もよく、店はたいそうな繁盛ぶり。

本町二丁目にも帯屋という、これも呉服屋があるが、対照的にこちらは、主人久七きゅうしちの性格が一癖あるのに加え、店も陰気な雰囲気で、「売れず屋」という異名がついてしまうぐらい、さっぱりはやらない。

とうとう三月の晦日みそかの決済もできず、久七が和泉屋に二十両の金を借りにきた。

人のいい与兵衛は、「商人は相身互あいみたがい」と、証文、利息もなしで快く用立てた上、ごちそうまでして帰す。

二十日ほどして返しにきたが、これに味をしめたか、たて続けにだんだん高額の金を無心しにくるようになった。

その都度、二十日ほどできちんと返済に来たので、十一月に百両という大金を借りに来た時も、与兵衛はあっさりと貸してしまう。

今度は、一月たっても梨のつぶて。

さすがに気になりだしたころ、大晦日になって、やっと返しにきた。

ところが、座敷に通して久七が金を出し、入帳したところで、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出し。

大晦日でてんてこ舞いの折から、与兵衛があわただしく出かけると、不用意にも金はそのまま、久七一人座敷に残された。

久七、悪心あくしんが兆し、これ幸いと金を懐に入れ、なに食わぬ顔でさようなら。

帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、さてはと思い至ったが、確かな証拠もないので、自分の不注意なのだとあきらめてしまう。

帯屋の方では、百両浮いたのが運のつき始め。

新年早々、景品をつけて大奉仕したので、たちまち大繁盛。

一方、和泉屋はこれがケチのつき始めで、三月に一人娘が、次いで五月にはおかみさんがぽっくりみまかった。

追い打ちをかけるようにその年の暮れ、享保きょうほう六年十二月十日の神田三河町の大火で、蔵に戸前とまえもろとも店は全焼。

あえなく倒産した。

与兵衛は、以前に分家してあった武兵衛という忠義な番頭に引き取られるが、どっと病の床につく。

武兵衛もまた、他人のけ判をしたことから店をつぶし、今はうらぶれて、下谷長者町に裏長屋住まいの身だが、懸命に旧主の介抱をするうち、十年の歳月が流れた。

ようやく全快した与兵衛、自分はもうなんの望みもないが、長年貧しい中、自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいと、武兵衛が止めるのも聞かず、帯屋に金を借りにいく。

相手も昔の義理に感じて善意で報いてくれるだろう、という期待だが、当の帯屋は冷酷無残でけんもほろろ。

「銭もらい」
とののしり、
「びた一文も貸す金はない」
と言い放つ。

思わず、かっとして百両の件を持ちだし、
「人間ではない」
とののしると、
「因縁をつけるのか」
と、久七は煙管で与兵衛の額を打ち、表にたたき出す。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうとふと見ると、不用心にもかんなくずが散らばっているので、いっそ放火して思いを晴らそうと火をつけたが、未遂のうちに取り押さえられる。

事情を聞いた町役人は同情し、もみ消してくれるが、久七は近所の噂から、百両の一件が暴かれるのを恐れ、先手を打って奉行所に訴え出る。

これで与兵衛は火つけの大罪でお召し捕り。

名奉行、大岡越前守さまのお裁きとなる。下調べの結果、帯屋の強悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた。

越前守はお白州で、
「その方、大晦日で間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで春ながにでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れておったのではないか」
とカマをかけるが、久七は
「絶対に返しました」
とシラを切る。

そこで、久七に右手を出させ、人指し指と中指を紙で巻いて張り付け、判を押す。

「これはものを思い出す呪いである。破却する時はその方は死罪、家は闕所けっしょ、そのむね心得よ」

久七は、紙が破れれば首が飛ぶというので、飯も食えない。

三日もすると音を上げて青ざめ、出頭して、まだ返していないと白状する。

奉行はその場で元金百両出させた上、十年分の利息百五十両を払うように久七に命じた。

持ち合わせがないとべそをかくと、百両を奉行所で立て替えた上、残金五十両を年賦一両ずつ払うよう、申し渡す。

「……さて、和泉屋与兵衛。火付けの罪は逃れられぬ。火あぶりに行うによって、さよう心得よ」

これを聞いて、久七が喜んだのなんの。

「さすがは名奉行の大岡さま。どうかこんがりと焼いていただきましょう」
「なれど、五十両の年賦金、受け取りし後に刑を行う」

これだと、和泉屋がフライになるまで五十年も待たねばならない。あわてたのは久七。

「恐れながら申し上げます。ただちに五十両払いますので、どうかすぐに和泉屋をお仕置きに」
「だまれッ。かく証文をしたためたるのち、天下の裁判に再審を願うとは不届き千万。その罪軽からず」
「うへえッ、恐れいりました」

奉行、与兵衛に
「その方、まことに不憫ふびんなやつ。何歳にあいなる」
「六十一でございます」
還暦かんれきか。いやさ、本卦ほんけ(=本家)じゃのう」
「今は分家の居候いそうろうでございます」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

享保5年  【RIZAP COOK】

享保5年とは、1720年のこと。

大岡政談がネタ本  【RIZAP COOK】

講談の大岡政談ものと、『明和雑記』中の名奉行、曲淵景漸まがりぶちかげつぐ(曲淵甲斐守)の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。

曲淵景漸は、隠居年齢ともいえる41歳で大坂西町奉行に就任して甲斐守の受領名を拝名しました。明和6年(1769)には江戸北町奉行に出世して、約18年間その職を務め、江戸の治安統治に尽力しました。その間、田沼意知おきとも刃傷にんじょう事件を裁定し、犯人である佐野政言まさことを取り押さえなかった若年寄や目付などに出仕停止などの処分を下したという人です。

『明和雑記』は和歌や俳諧について見聞したことを記した雑記随筆。作者は尾張藩士で俳人の東条有儘とうじょうゆうじんです。大坂の風聞雑記が中心です。明和元年(1764)、朝鮮通信使が大坂に立ち寄ったところから書き起こされています。

「名奉行」と題して、明治末に『文藝倶楽部』に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作し、昭和32年(1957)10月、上野・本牧亭での独演会で初演しました。円生没後は三遊亭円窓が復活させて演じています。立川志の輔もまた。

円生は『三遊亭円生全集』(青蛙房)中で、大岡政談では加賀屋四郎右衛門と駿河屋三郎兵衛の対決として、ほとんど同類のネタがあることを紹介しています。

米朝の十八番  【RIZAP COOK】

大阪では古くから演じられ、桂米朝が得意にしていました。大阪のやり方は円生のものとほとんど変わりませんが、和泉屋の所在地が東横堀三丁目、帯屋が同二丁目で、奉行は松平大隅守となっています。

米朝は発端の火事を、宝暦6年(1756)夏の大坂・瓦町の大火(銭亀の火事)としています。

火あぶり  【RIZAP COOK】

江戸中期からは放火のみに科されました。千住小塚原または鈴ヶ森で執行され、財産は没収(闕所)、引回しが付加され、文字通り「こんがり」焼かれた上、男は止め焚(罪人が焼死後再び火をつけ、鼻と陰嚢を焼く)までされました。

焼死体は三日二夜さらされました。火付けの罪科がここまで過酷なのも、いかに幕府が、一夜で江戸の町が灰になってしまう大火を恐れたかのあらわれでしょう。その流れは脈々と生きていて、放火の罪が重いのは現行法でも変わりません。

町火消

本卦  【RIZAP COOK】

本卦返りで、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。還暦のことです。

陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせ、その(10と12)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる、数え61歳を本卦返りとし、赤い着物を贈って祝う風習は今でもありますね。子供に返るという意味で赤い着物なのだそうです。

分家  【RIZAP COOK】

分家は本来は親戚筋の店で、奉公人ののれん分けは「別家」と呼んで区別しますが、この噺の武兵衛のように、忠節で店への功労があった大番頭を、特別に親類扱いで同店名を許し、「分家」と認めることがありました。

つっこみ  【RIZAP COOK】

あらすじでは略しましたが、お白洲で、奉行が最初、利息の返済を「月賦にするか」と久七にただし、年賦がいいというので、「それでは年十両か」「もう少しご猶予を」「では五両か」「もう少しご勘弁を」と値切り、年一両に落ち着くというやり取りがあります。

しかし、これでは、奉行の腹をもし久七が察知して、最初の条件で承諾すれば、数年で与兵衛はフライですから、危ない橋で、噺の盲点といえます。奉行の智略、貫禄で押し切らないと、名裁判にも難癖がつきかねません。

【語の読みと注】
享保5年 きょうほうごねん:1720年
請け判 うけはん:連帯保証人
闕所 けっしょ:お取りつぶし
曲淵景漸 まがりぶちかげつぐ
田沼意知 たぬまおきとも
佐野政言 さのまさこと
東条有儘 とうじょうゆうじん
本卦 ほんけ
本卦返り ほんけがえり:還暦
十干 じっかん
十二支 じゅうにし
陰陽道 おんみょうどう



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まちぶぎょう【町奉行】ことば 江戸覗き

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時代劇で「お奉行さま」といえば、江戸町奉行の職務が思い起こされます。
実際にはどんなことをする人だったのでしょうか。
知りたくなりました。
犯罪者の逮捕ばかりではないようです。
ここでは、そんなこんなを記します。

職務  【RIZAP COOK】

町奉行は江戸の都市行政全般を担当していました。

最高裁判所長官、警視総監、東京都知事の役目を一手に引き受けていました。

今日からみれば奇妙な役職です。

なんといっても町奉行は、幕府の最高意思決定機関とされる評定所一座ひょうじょうしょいちざの一員です。

これは、老中、若年寄わかどしより、寺社奉行、町奉行、勘定奉行などから構成されているもので、重要な裁判、国政の重大問題を審議し決定する機関です。

重職のひとつとされました。

町奉行は2人ずつ選ばれました。北町奉行と南町奉行です。

北町奉行所は、常盤橋御門ときわばしごもん内に置かれましたが、のちに呉服橋御門ごふくばしごもん内に移されました。

南町奉行所は、呉服橋御門内に置かれましたが、のちに鍜治橋御門かじばしごもん内、さらには数寄屋橋御門すきやばしごもん内に移されました。

元禄15年(1702)には中町奉行所が呉服橋御門内の南側に置かれまして三人制となったのですが、中町奉行の坪内定鑑つぼうちさだかねが亡くなってからは終わってしまいました。

享保4年(1719)4月14日、短い幕を閉じました。

こうして、幕末の一時期を除き、南北の二人制が続きました。

町奉行は奉行所に住みました。

それで、奉行所を「役宅」と呼んだりしていました。

町奉行は、毎日四ツ(午前10時)に登城します。

退出後は役宅で訴訟の処理や判決の申し渡しなどを繰り返します。

「月番」といって、ひと月交代で二人の奉行が職務を行いましたが、非番の月でも、月番の間に受理した訴訟などは処理しなければなりませんでした。

2人の町奉行は、月番の役宅で、「内寄合うちよりあい」と称して月3回、事務処理について話し合いました。

江戸時代は管轄や担当を「支配」と呼びましたが、町奉行の支配地は最初の頃は、江戸城周辺の「古町こちょう」と呼ばれる300町ほどでした。

それが、江戸が膨張するに伴って広がりました。

維新直前には、1678町にも及びました。808町の2倍以上です。

こうしてみると、町奉行は激務です。高い能力と人格が求められました。

よって、小禄しょうろくの旗本からも選任されることもありした。

いきなり町奉行になることは少なく、だいたいは、勘定奉行→京都町奉行→大坂町奉行などで経験を積んだ旗本のあがり職とされていました。

それだけキャリアを積み上げないと勤めあげられない職務だったのでしょう。

在職年数は5-6年が一般的でしたが、まれに1年未満で解任された例もあれば、19年間務めた大岡忠相おおおかただすけの例もありました。

要は能力次第でした。それには、与力と同心との協調がきわめて重要だったようです。

与力と同心を使う  【RIZAP COOK】

両町奉行には、与力が25騎ずつ、同心が120人ずつ、都合、50騎の与力と240人の同心がいたことになります。

町奉行は、与力・同心をどう操縦するかが腕の見せどことだったようです。

彼らに見放されると、町奉行は職務を全うできなかったのです。

与力、同心

参考文献:西山松之助編『江戸町人の研究』四(吉川弘文館、1977年)、佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』(新版、東洋書院、2000年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
評定所一座 ひょうじょうしょいちざ

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