【三人旅 発端 神奈川】さんにんたび ほったん かながわ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
落語きっての壮大な叙事詩。そのさわりです。
別題:朝這い 神奈川宿 旅日記
【あらすじ】
ある男が無尽に当たった。
ボロ儲けして喜んでいると、
「てめえがその金をため込む料簡なら、江戸っ子のツラ汚しだから勘当する」
と、おやじに脅かされた。
なにか使い道はないものかといろいろ相談して、結局、仲のいい二人の友達と上方見物と洒落込むことにし、世話になっている親分ほか、大勢の仲間と品川宿で涙の水杯を交わして、めでたく東海道を西に下ることとなる。
鈴が森の刑場、和中散で名高い大森を馬鹿話をしながら通り過ぎ、六郷の渡しを越え、川崎で茶屋の女をからかったりしながら、ようやく神奈川宿の棒鼻に着いたころには、そろそろ夕暮れも近くなっている。
今夜はここで泊まりである。
花沢屋という旅籠(はたご)の若い者に声をかけられ、それではそこにするかと決まりかけたとたん、一人が、俺はこの宿場に義理ある旅籠があって、どうしても泊まらなくてはならないから、てめえ達二人で花沢屋に泊まってくれと、言いだす。
別れて泊まるぐれえなら、初めから三人いっしょに来やしねえと二人が文句を言うと、「それじゃあまあ、日没にはまだ間があるから、少々長くなるが、そのいわく因縁を聞いてくんねえ」
兄いの話によると、去年大山詣りの帰りに泊まった旅籠で、五人のところを四人にしか飯盛女が来ない。
というのも、宿場で最高の女を集めてくれと注文を付けたからで、ランクが落ちてもいいのならまだいくらでもいるが、最高クラスとなるとこの四人しかいないと宿屋側の説明。
なるほど、そろっていい女。
しかたがないので、四人をズラリと廊下に並べ、女の方から相方を選ばせようということになった。
で、一人があぶれたのが、言いだしっぺのこの兄さん。
悔し紛れに掛け軸を破ったりして大暴れしていると、止めに入ったのが色の浅黒い、年は二十四、五の小意気な年増。
必ずあなたの顔の立つようにするからというので癇癪を納め、皆でのむうちに、他の連中は部屋に引き上げて、残ったのはその年増と二人きり。
改めて顔をよく見ると、七、八年前に深川の櫓下の鳶頭の家にいたお梅。
思いがけない再会に女もびっくりし、その場で、夜ふけに忍んでいくお約束ができた。
ところが、酔いつぶれているうちに夜が明け、遅刻したと慌ててお梅の部屋に駆け込んでみると、あっちはにっこり笑い、こっちもにこり。
にこりにこりでヨコリ……という、下らないノロケ話。
「こんちくしょう、それで夜這いを遂げたか」「いや、夜が明けたから朝這いだ」
底本:三代目蝶花楼馬楽 四代目橘家円喬
【しりたい】
連作長編
上方落語の「東の旅」「西の旅」シリーズに匹敵する、江戸っ子の「三人旅」シリーズの発端部分です。
「野次喜多」の二人連れに対して、もう一人加えたのがミソですが、あまり成功した噺とは言えません。
神奈川のくだりを「神奈川宿」「朝這い」と称します。
従来は、東海道五十三次すべての宿場について噺ができていたといわれますが、現存しているのは発端・神奈川(本編)と小田原(「鶴家善兵衛」)、京見物(「東男」「三都三人絵師」「祇園祭」「およく」)のみです。
「京見物」は、現在は「三人旅」とは別話として、四部作バラバラに演じられます。
明治期の演出
今回のあらすじは、明治の三代目蝶花楼馬楽と四代目橘家円喬の速記をテキストにしました。
大筋では、現行のやり方と変わりませんが、馬楽は、出発の相談をする場面(発端)を詳しく演じ、三人が伊勢参りに行くのに、行きは中仙道を、帰りは東海道を経由するという設定で、「発端」から「神奈川」を飛ばして、すぐに「小田原」に入りました。
これだと、小田原から中山道に入るというのは不自然なので、行きの相談からいきなり帰りの道中ということになり、無理は隠せません。
円喬のは、「旅日記」と題し、これはほぼ現行通りと言ってよいでしょう。
和中散
わちゅうさん。風邪薬の粉薬。
近江国(滋賀県)栗太郡梅の木村に本舗があり、関東では大森に三軒の支店を出していたので、「大森の和中散」として名高いものでした。
神奈川宿
東海道四番目の宿場で、現在の横浜市神奈川区新町から同青木町にかけての高速道路沿いに広がっていました。
江戸から約七里(28km)で、この噺の通り、男の足でゆっくり行けば、ほぼ最初の泊まりはここになります。「棒鼻」は宿場の入り口です。
飯盛女
このあたりの方言では、「八兵衛」といいました。
つまり、シベエ(○○しよう)、シベエで合わせてハチベエ。
小田原宿では「押しっくら」と名が変わります。
表向きは宿屋の女中が半ば公然と売春行為をしていたわけですが、幕府公認の遊郭である吉原以外は、表向き遊女屋の看板は上げられないので、品川宿を始め、すべてタテマエはあくまで宿場。
お女郎さんは「飯盛女(給仕人)」の名目で、宿屋が本業の宿泊のほかに、夜のサービスを行う、という体裁でした。
夜這い
よばい。古くは、平安期に男が求婚することを「呼ばふ」と言ったのが始まりです。
つまり、当初から「求婚」というのは即、夜中に女の寝所へ忍んでいくことを意味しました。
江戸期には、いなかに行けばさほど珍しい風習でもないのですが、江戸人からは好奇の目で見られました。
たとえば、薩摩国(鹿児島県)の夜這いでは、ほとんどの場合、女のオヤジに見つかったら即結婚という極めてキビシイものだったようです。