【十徳】じっとく 落語演目 あらすじ
【どんな?】
噺の全編、これ駄洒落の全員集合。ばかばかしいだけ。落語のおたのしみです。
【あらすじ】
ふだん物知り顔な男。
髪結床で仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、さっそく隠居のところへ聞きに言った。
隠居は「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとくで十徳だ」と教え、「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹町の金座御用の後藤が金を出し合って掛けたから、ゴトとゴトで一石だ」とウンチクをひとくさり。
「さあ、今度は見やがれ」と床屋に引き返したはいいが、着いた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。
「ええと、立てば衣のようだ、座れば羽織のようだ、ヨウだヨウだで、やだ」
「いやならよしにしねえ」
「そうじゃねえ、立てば衣みてえ、座れば羽織みてえ、みてえみてえでむてえ」
「眠たけりゃ寝ちまいな」
「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これはしたり」
【しりたい】
遊び心に富むダジャレ噺 【RIZAP COOK】
オチの部分の原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「十徳のいわれ」で、そっくりそのままです。
江戸にはシャレ小咄が多く、ばかばかしいようで遊び心とウイットに富み、楽しいものです。
落語の「一目上がり」などもそうですが、数でシャレるものがあります。たとえば。
「屋島の戦で、平教経が源義経を見て、勝負をしそうになった。義経は臆して、『よそうよそう』で八艘飛び」
「西と書いて産前産後と解く。その心は、二四は三前三後」
いろいろあります。
本来、前座噺ですが、大看板では八代目春風亭柳枝(1959年没)がよく演じました。
上方ではこの後、「ごとくごとくで十徳やろ」と先回りされ、困って、「いや、たたんでとっとくのや」と落とします。
これはしたり 【RIZAP COOK】
オチに使われていますが、今ではどうでしょう。
「これは悪しき(=悪い)ことしたり」の真ん中が取れた言葉といわれ、「しまった」と「驚いた」の両義に使われます。
この噺では前者でしょうが、ダジャレなので、あまり詮索しても意味はありません。
「仮名手本忠臣蔵」五段目・山崎街道鉄砲渡しの場で、狩人となっている早野勘平が、かつての同僚の千崎弥五郎に偶然出会い、両人膝をたたいて「これはしたり」と言います。この場合は後者の意味で、歌舞伎ではこのパターンは紋切り型で繰り返し使われます。
十徳 【RIZAP COOK】
脇を縫いつけた、羽織に似た着物です。おもに儒者、絵師、医者らが礼服として用いました。
本当の語源は、「直綴」からの転訛で、脇を綴じてある意味でしょう。
鎌倉時代末期に始まるといわれ、古くは武士も着用しました。
江戸時代には腰から下にひだを付け、普段着にもなりますが、袴は履かないのが普通でした。
そもそもは、鎌倉末期に素襖より下級の小素襖のことです。
高貴な人が外出する時に輿舁きや供侍が上着の上から掛けて、腰回りを帯で締めて四幅袴を履くようになりました。
室町時代には上下ともに侍の旅行用衣服に転じ、江戸時代には袴が省略されて、儒者、医師、俳諧師、絵師、茶人など、剃髪した人の外出着や礼服と変化していきました。
黒無紋の精好、絽、紗といった布地で仕立て、脇を縫い綴じ、共切れの平ぐけの短い紐を付けて、腰から下にひだをこしらえています。
見るからに浮世離れした風流人の上品な風情です。これが変化していって、羽織となっていきます。
後藤は江戸の「造幣局」 【RIZAP COOK】
金座は勘定奉行に直属です。
家康が貨幣制度の整備を企てて日本橋に金座を設け、新両替町(中央区銀座一~四丁目)に駿府から銀座を移転。
家臣の後藤庄三郎光次に両方を統括させ、金貨・銀貨を鋳造・鑑定させたのが始まりです。
金座の設置は文禄4年(1595)、銀座は慶長17年(1612)とされます。
後藤庄三郎は代々世襲で、大判小判を俗に「光次」と呼んだのはそのためです。
金座は当初、日本橋金吹町(「長崎の赤飯」参照)に設けられ、後藤の配下で、実際に貨幣に金を吹きつける役目の業者を「金吹き」と呼びましたが、元禄8(1695)年にこれを廃止。
新たに鋳造所を本郷に移転・新築しましたが、間もなく火事で全焼。
元禄11年(1698)、後藤の官宅があった、金吹町のすぐ真向かい、日本橋本石町二丁目の現日銀本店敷地内へ再移転しました。
一石橋 【RIZAP COOK】
もとは「いちこくばし」でしたが、いまは「いっこくばし」と言い慣わしています。
中央区日本橋本石町一丁目から、同八重洲一丁目までの外堀通りを南北に渡し、北詰に日本銀行本店、その東側に日本橋三越があります。
この橋上から自身と常磐橋、呉服橋、鍛冶橋、銭亀橋、日本橋、江戸橋、道三橋と、隅田川を代表する八つの橋を一望する名所で、別名を「八ツ橋」「八つ見の橋」といったゆえんですが、現在は高速道路の真下です。
噺の中の「ゴトとゴトで一石」は俗説です。このダジャレ説のほか、橋のたもとに米俵を積み上げ、銭一貫文と米一石を交換する業者がいたからとする説も。
どちらも信用されていなかったらしく、「屁のような由来一石橋のなり」と、川柳で嘲笑される始末でした。
もう一つの「呉服屋の後藤」は、幕府御用を承る後藤縫之助で、「北は金 南は絹で 橋をかけ」と、これまた川柳に詠まれました。
一石橋の南の呉服橋はこの後藤の官宅に由来し、橋自体、元は「後藤橋」と呼ばれていたとか。
一石橋の南詰に安政4年(1857)、迷子札に代わる「まひごのしるべ石」が置かれ、現存しています。