すどうふ【酢豆腐】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

町内の若い衆が暑気払いを。金がない。
「なんかねえかなぁ」
与太郎が釜に放り込んだ豆腐の残り。腐ってる。
キザな若だんなに「舶来物」と。食わせる魂胆。
鼻をつまんで若だんな。「乙でげす」
上方に上って「ちりとてちん」に。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若だんな。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若だんなァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若だんな、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若だんな、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若旦那、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若だんな、恐れ入りました。ところで、これは、なんてエものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

若だんなは半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差のだんな衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の『大通法語』に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の『文藝倶楽部』に掲載された初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の速記から、若旦那の洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げエせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫(赤塚藤雄、1935-2008)のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。

それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、古今亭志ん朝(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意としました。志ん朝の若だんなは嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別の演出で、石鹸を食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)から、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)に伝わっていました。

「あくぬけ」のオチは、「若だんな、それは石鹸で……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)門下だった初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。

大阪に移植され、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)も得意にしました。

東京では、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)などがこちらの型で演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。

「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

ことばよみいみ
おついいことも悪いことも
かんざし髪にとめる金具
江戸生艶気樺焼 
えどうまれうわきのかばやき山東京伝の黄表紙。3冊。天明5年(1785)刊。挿し絵は北尾政演。つまり、山東京伝本人による。版元は蔦屋重三郎
拙 せつわたし

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

評価 :3/3。

はまののりゆき【浜野矩随】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

彫金職人の一途な噺。
元は講釈ネタ。
ものつくりの哀歓がにじむ一席。

別題:名工矩随

あらすじ

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫り」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

浜野矩随  【RIZAP COOK】

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚  【RIZAP COOK】

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家です。

若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末  【RIZAP COOK】

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。

ところが、五代目志ん生はこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。

いうまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた出来だと思います。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋  【RIZAP COOK】

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。

久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。久保田万太郎は戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家、俳人です。『浅草風土記』などで有名ですが、久保田を師と仰いだ小島政二郎は『円朝』という作品を残しています。

水垢離  【RIZAP COOK】

みずごり。神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。

東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

いざかや【居酒屋】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

どんな?

森田芳光監督の傑作、映画「の・ようなもの」はここからきてるんですね。

別題:ないものねだり

あらすじ

縄のれんに-油樽、切り回しているのは番頭と十二、三の小僧だけという、うらぶれた居酒屋に、湯の帰りなのか濡れ手拭いを肩に掛け、ドテラに三尺帯という酔っぱらいがふらふらと入ってくる。

むりやり小僧に酌をさせ、
「おめえの指は太くて肉がいっぱい詰まってそうだが、月夜にでも取れたのか」
と、人を蟹扱いにしたりして、からかい始める。

「肴はなにができる」
と聞かれて、小僧が早口で、
「へえい、できますものは、けんちん、おしたし、鱈昆布、あんこうのようなもの、鰤(ぶり)にお芋に酢蛸でございます、へえーい」
と答えるのがおもしろいと言って、
「今言ったのはなんでもできるか?」
「そうです」
「それじゃ『ようなもの』ってのを一人前持ってこい」

その次は、壁に張ってある品書きを見て
「口上てえのを一人前熱くしてこい」
と言ったりして、小僧をいたぶる。

そうかと思えば、
「とせうけてえのはなんだ」
と聞くから、小僧が
「あれは『どぜう汁』と読むので、濁点が打ってあります。イロハは、濁点を打つとみな音が違います」
と言うと、
「それじゃあ、イに濁点が付けばなんと読む、ロはどうだ、マは?」
と、点が打てない字ばかりを選んでからかう。

今度は
「向こうの方に真っ赤になってぶら下がっているのはなんだ」
と聞くので、
「あれはゆで蛸です」
と答えると、
「ゆでたものはなんでも赤くなるのか、じゃ猿のお尻やお稲荷さんの鳥居はゆでたか」
と、ますますからむ。

しまいに、
「その隣で腹が裂けて、裸になって逆さまになっているのはなんだ?」
「あんこうです。鍋にします」
「それじゃ、その隣に鉢巻きをして算盤を持っているのは?」
「あれは番頭さん」
「あれを一人前持ってこい」
「そんなものできません」
「番公(=あんこう)鍋てえのができるだろう」

金馬の回想記『浮世断語』(有信堂、1959年)によると、先の大戦後、この「居酒屋」をラジオで放送したとき、「この酒は酸っぱいな。甘口辛口は今までずいぶん飲んだことがあるが、酢ぱ口の酒は初めてだ」とやったら、スポンサーの酒造会社が下りてしまったとか。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

金馬の「居酒屋伝説」  【RIZAP COOK】

昭和初期、居酒屋の金馬か金馬の居酒屋か、というぐらい三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)はこの噺で売れに売れました。

もちろん、先の大戦後も人気は衰えず、金馬生涯の大ヒットといっていいでしょう。

とりわけ、独特の抑揚で、「できますものはけんちんおしたし」と早口で言い、かん高く「へーい」と最後に付ける小僧の口調がウケにウケたわけです。

噺そのものはさしておもしろいわけでもなく、ただ、いい年をしたオッサンが子供をいたぶるというだけのもので、これといってくすぐりもないのに、こんなにも人気が出たのは、ひとえにこの「金馬節」とでも呼べる口調の賜物だったのでしょう。

噺のなりたち  【RIZAP COOK】

文化3年(1806)刊の笑話本『噺の見世開』中の「酒呑の横着」が原話です。

本来、続編の「ずっこけ」とともに、「両国八景」という長い噺の一部だったようですが、三代目金馬が一席噺として独立させました。

金馬の速記にも、「ずっこけ」をつなげて演じているものがあります。この噺、「万病円」とも深いかかわりがあります。

ずっこけ  【RIZAP COOK】

居酒屋で小僧をいたぶったりして長っ尻をし、看板になってもなかなか帰らない酔っ払いを、たまたま通りかかった友達がやっと連れ帰る。

よろよろして歩けないので、ドテラの襟をつかんでようやく家までひきずっていき、かみさんに引き渡そうとするとドテラだけ残って当人が消えている。

あわててさがすと、往来で裸でグウグウ。

かみさんいわく
「よく拾われなかったわねえ」

上方落語の「二日酔」では、さらにこの続きがあり、実は、往来で寝込んでいたのは物乞い。それを間違えて連れ帰り、寝かしてしまいます。

翌朝、亭主の方は酔いもさめて、コソコソ帰ってきますが、さすがに気恥ずかしくて裏口にまわり、
「ごめんください」
とそっと声をかけると、かみさんはてっきり物乞いと勘違いし、
「(やるものはなにも)ないよ」

するってえと奥で寝ていた「本物」が、
「おかみさん、一文やってください」
というものです。

ここまでいかないとおもしろくありませんが、本来、「ずっこけ」も「二日酔」も、「居酒屋」とは原話が別で、まったく別の噺を一つにつなげたものとみられます。

居酒屋事始  【RIZAP COOK】

江戸市中に初めて居酒屋が現れたのは、宝暦13年(1763)とされています。

それ以前にも、神田鎌倉河岸(千代田区内神田1、2丁目)の豊島屋という酒屋が、田楽を肴に出してコモ樽の酒を安売りしたために評判になったという話がありますが、これは、正式な店構えではなく、店頭でキュッと一杯やって帰る立ちのみ形式で、酒屋のサービス戦略だったようです。

初期の居酒屋は、看板に酒旗(さかばやし)を立てて入口に縄のれんを掛け、店内には樽の腰掛と、板に脚をつけただけの粗末な食卓を置いて、肴も出しました。

「一膳めし屋」との違いは、一応飯が看板か、酒が主かという点ですが、実態はほとんど変わりなかったようです。

なお、木にうるしを塗った従来の盃が、陶磁器製に変わったのは、居酒屋が興隆してからです。

金馬の名調子  【RIZAP COOK】

金馬のレコード初吹き込みは昭和4年(1929)7月。ほかに同時代で、七代目春風亭柳枝や初代昔々亭桃太郎も演じましたが、金馬の名調子の前には影の薄いものでした。

金馬の回想記『浮世断語』(有信堂、1959年)によると、先の大戦後、この「居酒屋」をラジオで放送したとき、「この酒は酸っぱいな。甘口辛口は今までずいぶん飲んだことがあるが、酢ぱ口の酒は初めてだ」とやったら、スポンサーの酒造会社が下りてしまったとか。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

がまのあぶら【蝦蟇の油】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

懐かしさがこみ上げるの縁日風景。
大道芸、香具師の極致。
テレメンテエカマンテエカ。
ポルトガル語だったのですね。奥が深い。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇がまの油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬こうやくが入った容器を手に、刀を差して、白袴しろばかまに鉢巻き、タスキ掛けという、いで立ち。

「さあさ、お立ち会い。ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠め山越やまごし笠のうち、物の文色あいろ理方りかたがわからぬ。山寺の鐘はごーんと鳴るといえども、童子どうじ一人来たって鐘に撞木しゅもくをあてざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音色ねいろがわからぬが道理。だが、てまえ持ちいだしたるなつめの中には、一寸八分いっすんはちぶ唐子からこぜんまいの人形。のんどには八枚の歯車を仕掛け、大道だいどうへ棗を据え置く時は、天の光と地のしめりをうけ、陰陽合体おんようがったいして、棗のふたをぱっととる。つかつか進むが虎の小走り虎走り、雀の小間こまどり小間返し、孔雀くじゃく霊鳥れいちょうの舞い、人形の芸当は十二通りある。だがしかし、お立ち合い、投げ銭放り銭はおことわりするよ。では、てまえなにを生業なりわいといたすかといえば、てまえ持ちいだしたるは、蟇蝉噪四六ひきせんそうしろく蝦蟇がまの油だ。そういう蝦蟇は、おれのうち縁の下や流しの下にもいる、というお方がいるが、それは俗に言うおたまがえる、ひきがえるといって、薬力やくりきと効能のたしにはならん」

さまざまに言い立てて、なつめという容器のふたをパッととり、
「てまえ持ちいだしたるは四六の蝦蟇だ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六の蝦蟇。この蝦蟇のめるところは、これより、はーるーか北にあたるつくばさんのふもとにて、おんばこという露草つゆくさを食らう。この蝦蟇のとれるのは五月に八月に十月、これを名づけて五八十ごはっそうは四六の蝦蟇だ、お立ち合い。この蝦蟇の油をとるには、四方しほうに鏡を立て、下に金網かなあみを敷き、その中に蝦蟇を追い込む。蝦蟇はおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと、脂汗あぶらあせを流す。これを下の金網にて、すきとり、柳の小枝をもって、三七二十一日さんしちにじゅういちにちの間、とろーり、とろりと煮詰めたるのが、この蝦蟇の油だ。赤いは辰砂しんしゃ椰子やしの実、テレメンテエカに、マンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔いでじ、イボ痔、はしり痔、横根よこね、がんがさ、その他、れもの一切に効く。まあ、ちょっとお待ち。蝦蟇の油の効能はそればかりではない。まだある。切れものの切れ味を止めて切り傷を治す。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀どんとうたりといえども、先が切れて元が切れぬ、なかば切れぬというのではない。ごらんの通り抜けば玉散たまちこおりやいばだ、お立ち合い。お目の前にて白紙はくしを一枚切ってお目にかける。あ、一枚の紙が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が一束と二十八枚、春は三月落花の形。比良ひら暮雪ぼせつ雪降ゆきふりの形だ、お立ち合い」
と、あやしげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬こうやくの効能を実証するため、一枚の白紙を刀で次々と切ってみせた。

「かほどに切れる業物でも、差しうら差しおもてへ、蝦蟇の油を塗る時は、白紙一枚容易に切れぬ。さ、このとおり、たたいて切れない。引いても切れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板いっすんいたもまっ二つ。触ったばかりでこれくらい切れる。だが、お立ち会い、こんな傷は何の造作ぞうさもない。蝦蟇の油をひとつけつける時は、痛みが去って血がぴたりと止まる。いつもは一貝ひとかいで百文だが、こんにちはおひろめのため、小貝こがいを添え、二貝ふたかいで百文だ」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くした蝦蟇の油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上を。

ロレツが回らないので支離滅裂しりめつれつ

それでもどうにか、紙を切るところまではきたが、
「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ」
「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通り、蝦蟇の油をひとつけ、つければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二つけ、つければ、今度はピタリと……かくなる上は、もうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立ち会い」
「どうした」
「お立ち会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。

酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路りょうごくひろこうじに連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は三代目金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。

金馬は、蝦蟇の油の口上をそのまま「高田馬場」の中でも使っています。

昭和期では、三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。

大阪では、「東の旅」の一部として、桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版では、ガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「蝦蟇の油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚醒剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレピン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

周達生著『昭和なつかし博物学』(平凡社、2005年)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。

いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんね。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。

同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ディジー・ガレスピー

上項目から派生して、ここから先は周達生教授も言及していません。さあお立ち合い。

米ジャズの伝道師、ディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はキューバをイメージして彼が作ったものですが、「マンテカ」はこの噺の「マンテエカ」と同語源です。

ポルトガル語、またはスペイン語でラード、豚の脂、転じて膨れた死体(脂肪の塊)をさします。

隠語では大麻を呼ぶときもあります。

かつてスペイン人が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来だそうです。

この作品は1947年につくられましたが、フリューゲルホルンを頬を膨らませて奏でるガレスピーは曲の合間に「もうジョージアには戻らない」と言っているそうで(私には聞こえませんが)、当時の米国内での黒人差別に仮託しているふしがうかがえます。

と同時に、キューバのコンガ奏者(コンゲーロ)チャノ・ポソが編曲。みごとなアフロキューバンジャズのスタンダードにブラッシュアップしています。

その後まもなく、ポソは射殺されました。マンテカになってしまいました。

こんないわくつきの、楽しくもない、むしろ呪われたような曲ながら、不思議な進行と変化にとんだメロディーラインが脳波を心地よく刺激してくれ、まさに大麻のような習慣性を帯びてるものです。何度も何度も聴きたくなるのです。

昭和48年(1973)から昭和60年(1985)まで大阪の朝日放送で放映されていた、お見合いバラエティー番組「プロポーズ大作戦」のメインテーマはキダタローの作曲でしたが、出だしがマンテカとぴったり。パクリですね。

これも習慣性を帯びる番組になっていました。総じて、蝦蟇の油の効用と一脈通じていたのかもしれません。

「manteca」大西順子トリオ

「蝦蟇の油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「蝦蟇の油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

【蝦蟇の油 三遊亭円生】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たらちね【垂乳根】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

長屋の八五郎に京の名家の娘が。 お育ちの違いがちぐはぐ。 笑いを誘う上方噺。

別題:延陽伯(上方)

【あらすじ】

長屋でただ一人の独り者の八五郎のところに、大家が縁談を持ちかけてきた。 年は十九で、近所の医者の姪だという。 器量は十人並み以上、夏冬の着物もそろえているという、まことに結構な話。 結構すぎて眉唾なくらい。 「そんな女が、あっしのような男のところへ来るわけがない。なんか、キズでもあるんじゃないですか」 「ないと言いたいが、たった一つだけある」 もとは京の名家の出で、言葉が女房言葉。 馬鹿丁寧すぎてまるきりわからないという。 この間も、目に小石が入った時「ケサハドフウハゲシュウシテ、ショウシャガンニュウス」つまり「今朝は怒風激しゅうして、小砂眼入す」と、のたもうたそうな。 そんなことはなんでもないと八五郎が承諾したので、その日のうちに祝言となった。 なるほど美人なので、八五郎は大喜びだが、いざ話す段になると、これが相当なもの。 名を聞くと 「そも我が父は京都の産にして姓は安藤名は慶三あざなを五光、母は千代女と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢を見てはらめるがゆえに、たらちねの胎内を出でしときは鶴女と申せしがそれは幼名、成長の後これを改め清女と申しはべるなぁりいー」 「ナアムミョウ、チーン、ご親類の方からご焼香を」 これではかみ合わない。 ネギが一文字草、米はしらげと、通訳がいるくらい。 朝起きれば起きたで 「アーラ、わが君、しらげのありかはいずこなりや」 頼むから、そのアーラワガキミてえのはやめてくれと言っているところへ、葱屋がやって来た。 「こーれ、門前に市をなすあきんど、一文字草を朝げのため買い求めるゆえ、門の敷居に控えておれ」 「へへへー」 ようやく味噌汁ができたが、 「アーラわが君。日も東天に出御ましまさば、うがい手水に身を清め、神前仏前へ燈灯(みあかし)を備え、御飯も冷飯に相なり候へば、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹言」 「飯を食うのが恐惶謹言なら、酒ならよって(=酔って)くだんの如しか」

【しりたい】

女房言葉

宮中の女官が用いた言葉です。 代表的な女房言葉には、 かもじ =髪 いしいし =団子 おすもじ =寿司 あも =餅 うちまき =米 あか =小豆 こもじ =鯉 しゃもじ =杓子 ごふじょう(御不浄) =便所 おみおつけ(御御御つけ) =味噌汁 などがあります。 「しゃもじ」「おみおつけ」などは、すでにわれわれの日常語になってしまっているかんじですね。

たらちね

垂乳根と書き、「母」に掛かる枕詞です。父の枕詞は「たらちを(垂乳男)」です。

東西の演出

大阪の「延陽伯」が東京に移されたものです。 大阪では、女は武家娘という設定なので、漢語をやたらに使いますが、東京では京女ということで、女房ことばや京ことばを使うことになっています。

「せんにせんだんにあって」

明治27年(1884)4月の「百花園」誌上に掲載された四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記では、女の珍言葉の部分がさらに長く、「天は梵天地は奈落比翼連理とどこまでも……」などとあります。 まったく解読不能なのが、「せんにせんだんにあって是を学ばざれば 金たらんと欲す」(原文通り、ふつうは「賤妾浅短にあって是れ学ばざれば勤たらんと欲す」とやるところ) というフレーズです。 「落ちこぼれ古典教師」さんが「正解」案を提供してくださいました。深謝。

続編「つる女」

大阪では、「つる女」という「たらちね」の後日談があります。 今はもう、誰も演じ手はないようですが。 なかなか言葉が普通にならない細君が、大家の夫婦喧嘩の仲裁に入り、「御内儀には白髪秋風になびかせたまう御身にて、嫉妬に狂乱したまうは、省みて恥ずかしゅうは思し召されずや。早々にお静まりあってしかるべく存じたてまつる」とケムに巻き、火を消します。 「どないして急にピタリと治まったんやろ?」 「つる(鶴女=東京の清女)の一声」

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

せんきのむし【疝気の虫】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

虫の夢を見た医者。
命乞いしている疝気の虫。
蕎麦が好物でトウガラシが苦手とか。
アソコにとりついて悪さしてる。
ならば、女体ではどうなる?
疝気とは泌尿器科全般の病のこと。

あらすじ

ある医者が妙な夢を見る。

おかしな虫がいるので、掌でつぶそうとすると、虫は命乞いをして「自分は疝気の虫といい、人の腹の中で暴れ、筋を引っ張って苦しめるのを職業にしているが、蕎麦そばが大好物で、食べないと力が出ない」と告白する。

苦手なものはトウガラシ。

それに触れると体が腐って死んでしまうため、トウガラシを見ると別荘、つまり男のキンに逃げ込むことにしているとか。

そこで目が覚めると、これはいいことを聞いたと、張り切って往診に行く。

たまたま亭主が疝気せんきで苦しんでいて、何とかしてほしいと頼まれたので、先生、この時とばかり、かみさんが妙な顔をするのもかまわず、そばをあつらえさせ、亭主にその匂いをかがせながら、かみさんにたべてもらう。

疝気の虫は蕎麦の匂いがするので、勇気百倍。すぐ亭主からかみさんの体に乗り移り、腹の中で大暴れするので、今度はかみさんの方が七転八倒。

先生、ここぞとばかり、用意させたトウガラシをかみさんになめさせると、仰天ぎょうてんした虫は急いで逃げ込もうとその場所に向かって一目散いちもくさんに腹を下る。

「別荘はどこだ、別荘……あれ、ないよ」

しりたい

疝気

江戸時代の漢方の病名など大ざっぱですから、要するに男のシモの病全般、尿道炎にょうどうえん胆石たんせき膀胱炎ぼうこうえん睾丸炎こうがんえんなどをひっくるめて疝気と称していました。昔から「疝気の大きんたま」などというのもそのためです。ちょうど女のしゃくに相当するもので、

悋気りんきは女の慎むところ、 疝気は男の苦しむところ」

というのは、落語のマクラの紋切り型。落語に登場の病気では、しゃく、恋わずらいと並んでビッグ3でしょう。「藁人形わらにんぎょう」「万病円まんびょうえん」「夢金ゆめきん」ほか、あげればキリがありません。

この噺の「療法」はもちろんインチキのナンセンスですが、実は、疝気の正体はフィラリアという寄生虫病という説もあり、あながち虫に縁がなくもありません。

なお、噺の中で疝気の虫が蕎麦が好物というのは、蕎麦は腹が冷えるので、疝気には禁物とされていたのを戯画化したのでしょう。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん(美濃部孝蔵、1890-1973)生の独壇場どくだんじょうで、四代目三遊亭円遊えんゆう(伊藤金三、1878-1945)も得意でした。

志ん生と「疝気の虫」

昭和24年(1949)の新東宝映画『銀座カンカン娘』で、落語家・桜亭新笑しんしょうに扮した五代目古今亭志ん生(当時59歳)が「疝気の虫」を縁側で稽古けいこする場面をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。

旧満州から帰国後間もなく、まだすっきりと痩せていますが、蕎麦をたぐるしぐさはなかなかあざやかなものです。

志ん生は実演では最後に「別荘……」と言って、キョロキョロあたりを見回す仕草で落としていました。

その他の演者では、バレ(艶笑)の要素を消すため、

「ひょいと表に飛び出した」「畳が敷いてあった」「スポッ」

などとすることもあります。 

疝気のマジメな療法

根岸鎮衛やすもり著『耳嚢みみぶくろ』巻五に、疝気の薬としてブナの木の皮を用いたところ、翌日にはケロリと治ってしまったという逸話が載っています。漢方にはこのような処方はなく、

阿蘭陀オランダ法の書を翻訳 する者有て其の説を聞くに、 符を号するが如しとかや(よく合致するようだ)」

とあります。同書にはそのほかにも、疝気治療に関するまじないや薬の記述が多く、やれ「マタタビ一もんめを酒か砂糖湯に 溶かしてのむ」とか、四国米を毎日4-5粒ずつ食べろとか、著者当人も相当悩まされた末、ワラにもすがったあとがありありです。

【疝気の虫 古今亭志ん生】



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

やなぎやしどう【柳家獅堂】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席


【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1992年、十代目鈴々舎馬風
【前座】1992年10月、鈴々舎馬頭
【二ツ目】1995年11月、柳家風太郎
【真打ち】2006年3月、柳家獅堂
【出囃子】さくらさくら→フニクリフニクラ
【定紋】菊水くずし→唐獅子牡丹
【本名】田牧康夫たまきみちお
【生年月日】1964年8月24日
【出身地】東京都新宿区上落合
【学歴】
【血液型】
【ネタ】湯屋番 幇間腹 ラック GO など
【出典】Twitter 落語協会 Wiki
【蛇足】椿三十郎(黒澤プロの)とダダ(円谷プロの)に詳しい由

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

めぐろのさんま【目黒のさんま】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

おなじみのお噺ですが、ここでは少々古い型を紹介します。

あらすじ】

雲州うんしゅう松江藩十八万石の第八代藩主、松平出羽守斉恒なりつね月潭公げったんこうとも呼ばれ、文武両道に秀でた名君だけあり、在府中は馬の遠乗りを欠かさない。

ある日、早朝から、目黒不動尊参詣を名目に、二十騎ほどを供に従え、赤坂御門内の上屋敷から目黒まで早駆けした。

参詣を終えたが、昼時には間があるので、あちらこちらと散歩。

いつしか目黒不動の地内を出て、上目黒辺の景色のいい田舎道にかかった時、殿さま、戦場の訓練に息の続くまで駆け、自分を追い抜いた者は褒美を取らすと宣言。

自分から走り出したので、家来どもも慌てて後を追いかける。

ところが、腰に大小と馬杓を差したままだから、なかなかスピードが上がらない。

結局、ついて来れたのは三人だけ。

雲州公、松の切り株に腰を下ろして一息つき、遅れて着いた者に小言を言ううち、にわかに腹がグウと鳴った。

陽射しを見ると、もう八ツ(午後二時)過ぎらしい。

その時、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきた。

殿さまのこと、下魚のサンマなどは見たこともない。

家来に、「あれは何の匂いじゃ」とご下問になる。

「おそれながら、下様でさんまと申し、丈は一尺ほどで、細く光る魚でございます。近所の農家で焼いておると存じます」
「うむ、しからば、それを求めてまいれ」
「それは相かないません。下様の下人どもが食します魚、俗に下魚と称しますもの。高位の君の召し上がるものでは」
「そのほうは、治にいて乱を忘れずの心がけがない。もし戦場で敗走し、何も食うものがないとき、下様のものとて食わずに餓死するか。大名も下々も同じ人。下々が食するものを大名が食せんということはない。求めてまいれ」

家来はしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、あばら家で農民の爺さんが五、六本串に刺して焼いている。

これこれで、高貴なお方が食したいとの仰せだから、譲ってくれと頼むと、爺さん、たちまち機嫌が悪くなり、「人にものを頼むのに笠をかぶったまま突っ立っているのは、礼儀を知らないニセ侍だから、そんな者に意地でもやれねえ」と突っぱねる。

殿さまが名君だけに分別のわかった侍だから、改めて無礼を詫び、やっと譲ってもらって御前へ。

松江公、空腹だからうまいのうまくないの。

これ以来病み付きになり、屋敷内に四六時中もうもうと煙が立ち込めるありさま。

しまいには江戸中のさんまを買い上げた。

それではあきたらず、朋輩の諸大名に、ことあるごとにさんまの講釈を並べ立てるから、おもしろくないのは黒田候。

負けじと各地の網元に手をまわして買いあさったが、重臣どもが「このように脂の多いものを差し上げては」と余計な気をまわし、塩気と脂を残らず抜いて調理させたから、パサパサでまずいことこの上ない。

怒った黒田候、江戸城で雲州公をつかまえ、あんなまずいものはないと文句を言う。

「して貴殿、いずれからお取り寄せになりました」
「家来に申しつけ、房州の網元から」
「ああ、房州だからまずい。さんまは目黒に限る」

出典:禽語楼小さん

しりたい

元サムライの殿さまばなし   【RIZAP COOK】

古くからよく知られた噺です。

「サンマは目黒に限る」というオチは、落語をご存知ない方でも、一度は耳にされたことがおありでは? もちろん、現在でも前座から大看板まで、頻繁に口演されます。

ここでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の、明治24年(1891)の速記を元にあらすじを構成しました。

二代目禽語楼小さんは明治中期まで活躍した噺家です。延岡の内藤藩士という、れっきとしたサムライでした。それだけに、「目黒のさんま」ばかりか、「将棋の殿さま」「そばの殿さま」などの殿さまばなしなら、右に出る者はいなかったとか。この噺も、小さんが原型を作ったと言ってよく、大筋の演出は現行とそうは違いません。

ただ、オチで小さんが「房州の網元から」としているのを、現在では「日本橋の魚河岸」となるなど、細部はかなり変わっています。

殿さまの正体   【RIZAP COOK】

演者によってもっとも大きく分かれるのが、殿さまのモデルです。

二代目小さんのように雲州公とする場合と、三代将軍家光公とする場合があります。

たとえば、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)は家光公で演じ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)や、門下の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)は殿さまを特定していません。

目黒一帯は将軍家のお狩場だったところで、家光公が鷹狩りの途中、偶然立ち寄ってサンマを食し、たいへん気に入ったという伝説があります。

雲州公で演ずる場合、二代目小さんは第八代松江藩主・松平斉恒としていますが、以後は現在まで、その父で茶人や食通として名高く、出雲にそばを移植したので有名な、不昧公ふまいこう治郷はるさと(1751-1818)としています。

演出によっては、家来が爺さんともめているところへ、殿さまがニコニコして現れ、「許せよ」と丁重に頼むので、爺さんが機嫌を直すやり方もあります。

もっとも、これは「ただの殿さま」の雲州公だからよいので、将軍家が来てこんなにゴネればハリツケものでしょう。

目黒不動とサンマ   【RIZAP COOK】

「目黒のお不動さま」は、現在の東京都目黒区下目黒三丁目の瀧泉寺りゅうせんじ(天台宗、泰叡山)境内にあります。目黒不動尊で、江戸の五色不動の一つ。家光も鷹狩りに来ています。歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」のせりふにも「金竜山の客殿から目黒不動の尊像まで」とあり、江戸の人々にとっては行動範囲の南限だったようです。

そのあかしに、境内では富くじの抽選が催されました。わざわざここまで当たりを見に来たわけです。湯島天神、谷中天満宮とともに江戸三大突き富といわれました。

この噺の爺さんがいた「爺が茶屋」がどこにあったのかは、諸説あって不明です。

サンマはその短刀に似た形から、通称九寸五分。江戸に入荷するのは、九十九里沖で獲れたものがほとんどでした。輸送の関係で生のものはなかなか出回らず、干物で売られることが多かったのです。

この噺でも、重臣たちが心配するように脂が多いものなので、労働量の多い農民や、町人でも、馬喰ばくろうなどの肉体労働者に好まれました。

「また築山を見ようか」   【RIZAP COOK】

以下は榎本滋民えのもとしげたみ(1930-2003)の『殺し文句の研究』から。

十代目金原亭馬生が好演した「目黒のさんま」をはじめとして、落語に登場する殿さまは、わがままで下情に暗く苦労知らずと、相場はきまっているが、単純に偏向した戯画化ばかりではないのが、さすがにエスプリのきいた話芸である。最高級魚の鯛など、食べあきていて、ひと箸ほどしかつけないから、勝手元不如意の節、不経済な残りを出さないように、御膳番は仕入れを少なくしている。ところが、たまには御意に召すことがあり、ひと箸つけただけで、「代わりをもて」と命じる。そんなときに限って、あいにく一匹の余分もない。近習がさそくの機転で、築山の美景の鑑賞を促し、殿さまが目をやったすきに、皿の鯛を裏返して、お代わりをと言上する。またひと箸つけた殿さま、さらに御意に召してか、また「代わりをもて」。さあ、もうあとがない。近習が苦悶していると、殿さまは涼やかに、「いかがいたした。また築山を見ようか」。ちゃんと下情をお見通しだったのである。ときには、知らないふりをしなければならないのも、統率者のたしなみの一つだし、部下の手抜きの指摘に当たっては、微笑をたたえたおうようさが好もしい。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

これは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の長男、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)のエスプリでした。さすがですなあ。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

さかずきのとのさま【盃の殿様】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

殿様噺。
お大名の権力。
ばかばかしい一席。
叙情的な珍作。

別題:月の盃 殿様の廓通い

【あらすじ】

お大名は、上げ膳据え膳で子供の時から育つから、運動不足になりがち。それがもとで、発散できないモヤモヤがたまり、鬱病にかかりやすい。

この噺の殿さまもそれ。口を利くのもイヤ。

むりやり薬をのませると、効かないばかりか、苦いので口直しに羊羹、カステラを山のように食い、胃病を起こして、のたうち回る始末。

どうしたらよいものかと、重役一同頭を悩ましている時、茶坊主が、これならお気晴らしにもなろうかと、献上したのが歌川豊国描く、いま、吉原で全盛の花魁の絵姿の錦絵六枚続き。

お女郎買いのジの字も知らない殿さま、この世にかような美しい女がいるのかと、たちまちボーッとなり、吉原のことを根掘り葉掘り聞いた挙げ句、さっそく乗り込むことにした。

ところが、薬が少々効き過ぎたか、それ以来たちまち魔窟の虜となった殿さま、連日連夜通いづめで乱痴気騒ぎ。

鬱気など蹴飛ばして、中でも花扇という花魁に入れあげる。

家来が止めると、
「あー、気分が悪いぞ。もはや薬はのまん。ウーン」
とすねるので、始末に悪い。

花扇の方でも、こんな上客をしくじってなるものかと、あらん限りご奉仕にこれ努めるから、殿さま、もはやデレデレの骨抜き。

そのうち大名の宿命、参勤交代でお国入りするために江戸を離れなければならなくなった。

こればかりはしかたがないので、最後の晩は花扇と泣きの涙で別れの盃。

領国は九州だから、もう当分会えない。

そこで殿さま、思い出のしるしにと、花魁の豪華な襠(しかけ)を所望し、代わりにいろいろの贈り物を賜わり、家宝の七五三の蒔絵(まきえ)の盃、百亀百鶴を描いた七合入りの豪奢な器で一献酌み交わすと、後ろ髪を引かれるように東海道を西に下る。

殿さま、国に着いても花扇のことが忘れられず、形見の襠を家来に着てみろと言って、困らせる。

じかに逢いたくてたまらなくなり、早見東作という、三百里を十日で走る、家中で一番足の速い足軽に命じ、江戸の花扇に七五三の盃を届け、「返盃」をもらってくるよう言いつけた。

花扇は殿さまの心を知り、感激して一気にのみ干した上、改めて殿さまにご返盃をと頼む。

気の毒なのは東作。

たったそれだけの酔狂のため、青息吐息で三百里を往復。

ところが途中の箱根山で、大名行列の供先を横切って捕らえられ、あわや首が落ちるところを、これこれと事情を説明すると、その殿さまがまた粋なもので、
「大名の遊びはさもありたし。そちの主人にあやかりたい」
と、盃を借りて一気に干した。

国許に着いてこの事を報告すると殿さま、
「お手元が見事じゃ。もう一献と申してこい」

東作、どこの大名だったか聞き忘れたので、どこを尋ねてもわからない。

マゴマゴしてると、明治維新になっちまった……。

底本:二代目柳家小さん 六代目三遊亭円生

【しりたい】

吉原花魁盛衰記

遊女の最高位である太夫は、松の位、大名道具などと呼ばれ、一目顔を拝むだけでも十両はかかりました。

太夫は、享保年間(1716-36)、吉原の遊女が三千人と言われた時代でも六、七人に過ぎません。

太夫に次ぐのが格子女郎で、この二つを併せた尊称が「花魁」。由来は、禿(かむろ=遊女見習いの少女)が付いている姉女郎を「おいらの姉さま」の意味で「おいらん」と呼んだことからだとか。

ところが、宝暦7年(1757)ごろ、太夫も格子も絶えてしまい、繰り上がって第三位だった散茶女郎がトップに出、昼三といって昼夜各三分、計一両二分の揚げ代で花魁と呼ばれるようになりました。

その後、散茶にもランクができ、揚げ代によって、昼三、付け回し、呼び出しと分かれました。その下が梅茶で、これは揚げ代一分。

大名の太夫狂いは、天和年間(1681-84)に五代将軍綱吉が厳しい禁令を出して以来、下火になりました。

それ以後も隠れ遊びをする大名は絶えず、たとえば姫路十万石の殿さま・榊原正岑は、三浦屋抱えの高尾太夫(俗に榊原高尾)を身請けしたとがで転封・隠居謹慎処分になっています。

『江戸の二十四時間』(林美一、河出書房新社、1989年)によると、「遊女」という言葉は、もともと公娼を、また「遊郭」は幕府公許の遊里のみを指すので、江戸では吉原以外にこの名称は許されず、それ以外の私娼はすべて「売女(ばいじょ)」だったよし。いやあ、この本、説明が明快で、ホント、勉強になりますわ。

風格ただよう、円生十八番

生粋の江戸落語ですが、原話その他、出自ははっきりしません。

もと延岡藩士、れっきとした士族出身で大名噺を得意にしていた二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の明治23年(1890)の速記(「殿様の廓通ひ」)を参考に、先の大戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)がほとんど一手専売の十八番に仕上げた噺です。

小さんでは、殿さまが通ぶって職人の格好をし、鉈豆煙管(なたまめぎせる)で煙草をのむ場面がありましたが、現代では理解されにくいというので、円生はこうした部分を省きました。

オチは「もう一献と申してまいれ」で切る場合もありますが、円生は「いまだに探して歩いているそうで」としていました。

小さんの速記では、文明開化の時代を反映し、「そのうちに明治23年(つまり、今年)と相なって、上野の勧業博覧会の美術館でようやく殿様にその盃をお渡し申しました」となっていました。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

うらしまや【浦島屋】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

あらすじ

浦島太郎のパロディー。
きてれつ千万。
すこぶるのんきな噺。

別題:水中の球 竜宮 小倉船(上方)

あらすじ

横浜の弁天通りで鼈甲屋を営む、浦島多左衛門のせがれ、太郎。

この若だんな、ハイカラ好きで、人がやらないことをやってみたいと、いつも考えている。

「いっそ、親父を女郎に売って、おふくろを兵隊にしてしまおうか」
などと考えている矢先、ご機嫌伺いに現れたのが、幇間の桜川船八。

この男の悲運はここが始め。

若だんなは、
「今度こそ極めつけの大きなことをやってみようと思っている」
「へえ、なんでゲス」
「水中旅行さ」

大きなガラス球の潜水艇があるからそれに乗って行く、という。

なんでも、金魚鉢の親玉のような代物で、大きさは二畳敷。

最近、有名な理学士の先生が発明したのを、安く借りられる手はずだとか。

郵船会社に頼んで、船で上からぶら下げてもらえば、管が付いていて息もできるし、ゆうゆうと海底探検が楽しめるというので、船八、ぜひお供をと飛びついた。

そういう次第で、若だんなは万事手配りし、両親にいとま乞いすると、船八ともども汽笛一声新橋を、はや、わが汽車は離れたり。

あっという間に、安芸の宮島までやって来た。

さっそく海中に潜り、いろいろな珍しい魚を見物して喜んでいると、向こうから金ピカの着物を着た男が近づいて「われは竜神なり」とあいさつ。

なんでも、龍宮の乙姫が、日本から美男子両人が海底旅行に来るとの話を伝え聞き、ぜひお連れせよとの命令だという。

案内されて着いてみると、近ごろは龍宮も文明開化で開け、市区改正なども行って、メインストリートは酒屋に汁粉屋に寺に洋館と、なんでもあって、なかなかにぎやか。

人力車は車海老が引いている。

宮殿に着くと下にも置かない大歓迎。

乙姫さまは当たり前だが絶世の美女で、そのほか腰元も美人ぞろいなので、二人が鼻の下を伸ばしていると、乙姫は玉手箱を贈り物にくれる。

命令一下で、数寄屋橋を始め東京中の橋という橋があいさつに来たりで、のめや歌えの大騒ぎ。

そのうち、若だんなはシャバが恋しくなりだし、船八と相談して、二人で玉手箱を持ち、蓬莱の亀にまたがってトンズラ。

「それ、浦島が脱走した」
と追手がかかったので、あわてた拍子に玉手箱を落として壊してしまった。

たちまち二人はハゲ頭に総白髪。

それでもようやく横浜の店にたどり着くと、だいぶようすが変わっていて、中から鉦をたたく音。

二人が入って行くと、腰の曲がった爺さんと婆さんが現れ、見るなり「幽霊だっ」と騒ぐ。

よくよく話を聞けば、二人が行方不明になってからはや半世紀。

親父は九十、おふくろは八十五。

ちょうど若だんなの五十回忌法要の最中で、生まれたばかりだったせがれはもう五十。

後を継いで子供、若だんなには孫までいる。

これでめでたく三夫婦そろい。

船八、
「だんな、あちらからお戻りになったのはまったく年の功でしたね」
「いや、亀の甲で帰った」

底本:初代三遊亭円遊

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

色あせた「円遊流」

原話は延享4年(1747)刊の笑話本『軽口花咲顔』中の「水いらず」です。この小咄の筋は以下の通り。

若だんなの言いつけで、海底に沈んだ難破船の黄金を探すために、ガラス玉に入って水中に潜った男が、見つけた金銀を早く取れとせかされ、「あっ、手が出ない」とオチになります。

この原話をほぼ踏襲した形で、従来同題で演じられていた噺を、大坂の林家系の祖といわれる林屋蘭丸(生没年不詳、文化文政期か)が上方落語「小倉船」としてまとめたものともいわれますが、この人の実在自体がはっきりせず、真偽は不明のままです。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が明治中期に東京にこの話を移すとともに、時代に合わせて改作したものと見られます。円遊の速記は「水中の球」と題した、明治25年(1892)のものが残っています。

「体内旅行」などと同じく、明治維新後、急激に流れ込んだ科学的知識を、いかにも聞きかじりで中途半端に取り入れ、発想自体は古めかしいままだったので、現実の世の中の進歩に取り残されたこの種の噺は、短期間で飽きられ、すたれました。

この噺も円遊以後は口演速記がありません。

「小倉船」

本家上方の「小倉船」のあらすじは、以下の通り。

九州小倉と大坂を往復する船に乗り込んだ男が、三十両の大金を海に落としたので、あわてて大きなガラスのフラスコに入り、潜って探すうちにフラスコが割れ、海底に沈むとそこが龍宮。乙姫がこの男を浦島と間違えて歓迎したので、いい気になって楽しんでいると、本物の浦島が亀に乗って現れたので逃げようと駕籠に乗るが、駕籠かきが猩猩で「駕籠賃は少々(猩猩)だが、酒手が高い」とオチるものです。

この噺は上方落語では、連作シリーズの「西の旅」の一部で、厳密には金を海に落とすところまでが「小倉船」、そのあと、フラスコで金を探しに海中にもぐるくだりになり、この部分は「フラスコ」または「水中の黄金」「天国旅行」とも呼ばれます。結びの竜宮のくだりは、上方の別題は「竜宮界竜の都」です。

東京の改作「浦島屋」が、時流に便乗しようとしてかえって早く消えたのに対し、「小倉船」の方は、古風な演出をそのまま残したためか「希少価値」で、現在も演じられます。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の速記が『桂米朝コレクション』(ちくま文庫)第二集に収録されています。現在では「フラスコ」「竜宮界」をひっくるめて「小倉船」で演じるのが一般的です。

先の大戦後、東京に在住して上方落語をオリジナルで演じた桂小文治が得意にし、そのため東京でも、今では「小倉船」の方がよく知られています。

郵船会社事始

維新後、明治政府は海運業を発展させるため、郵船業、海運業を一手に三菱に独占させました。

明治14年(1881)の北海道官有物払い下げ事件で政府と三菱への攻撃が高まり、翌年、三井系の共同運輸会社が設立されましたが、政府は三菱汽船と合併させ、明治19年(1886)に日本郵船が発足、財閥による郵船事業の独占体制が固まりました。

市区改正

明治2年(1869)、明治政府による「朱引き」が行われ、東京の市街地の境界が定められました。

これは幕府の行政区画であった「御朱引内」を踏襲したものですが、明治4年(1871)、さらに市内を六大区・九十七小区に分け、6年(1873)には朱引内(旧江戸市街)六大区、朱引外五大区に改編。

明治11年(1878)には、朱引内が十五区に再編成され、ほぼ大筋が固まりました。

【語の読みと注】
鼈甲屋 べっこうや
鉦 かね
駕籠かき かごかき
猩猩 しょうじょう:中国の想像上の怪獣。オランウータンみたいな
酒手 さかて:①酒の代金。②心づけの金銭

 



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

きなこのぼたもち【きな粉のぼた餅】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

明治期にできた落語。
小説にでもなり得る好編です。

【あらすじ】

二人の車屋。

居酒屋で一杯やりながら、同じ車屋仲間だった喜六という男のことを噂しあっている。

なんでも、コツコツためた黄金を同業者に高利で貸し付け、自分は食うものも食わずに倹約して大金をため込んだが、栄養失調で先ごろ、おっ死んでしまったとのこと。

細君はその金を、物好きにもそっくり寺へ寄付するつもりらしいというので、世の中にはもったいないことをする奴があるものだと、二人してため息ばかり。

話変わって、喜六の家。

女房が、義弟の届けてくれたぼた餠を仏壇に供え、お灯明を上げているところへ、菩提寺の谷中瑞林寺の者だと言って、一人の坊さんが訪ねてくる。

坊さんが言うには、
「昨夜、住職の夢枕に喜六が立ち、自分は非道に金を貯めて、施しということをしなかった報いで地獄におち、たいそう苦しんでいるので、なんとか救ってほしいと、泣きながら訴えたから、住職もあわれに思い、法事をしてあげようと言うが、その費用に百円ほどかかるので、奥方から受け取ってこいと言いつけられた」
という。

女房もちょうど寺に金を納めようと思っていたところなので、それで亭主が浮かばれるならと、
「今、金を取ってきますのでそれまでの間」
と、坊さんにきな粉のぼた餠を出す。

これは喜六の弟の錺職人の銀次郎が、兄の好物だったので手作りして届けたもの。

ところが、坊さん、ぼた餠を食べると、急に腹痛で七転八倒。

あわてて長屋の者を呼び、医者が駆けつけたりで大騒ぎ。

中毒だと容易ならぬことだと月番が警察に届け、まもなく関係者一同の尋問が始まる。

ほかの者が食べてもなんともなかったのに、なぜこの坊主だけがあたったのかも不思議。

銀次郎が呼ばれたが、これはシロ。

そもそも、死人が夢枕に立ったという話が怪しいと、オイコラ警官は当たりをつけ、瑞林寺に問い合わせると、そんな話はないというので、病人がニセ坊主だと知れた。

この男、実は縁日の露天商で南京鼠売りで、居酒屋で車引きの話を小耳にはさみ、坊主に化け込んで金をかたり取ろうとしたことを白状したので、これにて一件落着。

「ハァ、鼠売りか。これで、このぼた餠にあたった原因がわかったぞ」
「そりゃ、どういうわけで?」
「今、本官が食べたら、きな粉がみんなネコ(寝粉=古い粉)だったわい」

底本:二代目三遊亭小円朝

【RIZAP COOK】

【しりたい】

明治後期の新作

明治32年(1899)の初代三遊亭金馬(芳村忠次郎、1858-1923、→二代目三遊亭小円朝)の速記が残るのみで、その後の口演記録はありません。

同時期の金馬自身の新作と思われますが、詳細ははっきりしません。

人力車事始

和泉要助ら三人が官許を得て、明治3年(1870)に製造に取りかかり、改良を加えて明治8年(1875)ごろ、完成品ができました。

車輪は当初は木製、のち鉄製、さらにゴム製に。

そのころから、早くも東南アジア方面に「リキシャ」の名で輸出され始めました。

全盛期には全国で3万台以上を数えましたが、関東大震災を境に、ほとんど姿を消しました。

明治大正期には、落語家でも大看板ともなると、それぞれお抱えの車引きを雇います。売れっ子の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の抱え車屋があまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードまであります。

南京鼠売り

中国産の二十日鼠をペット用に売るもので、明治中期から後期にはけっこうはやりました。南京鼠は体長は6-7cmで、独楽鼠もその一品種です。

谷中瑞林寺

台東区谷中4丁目にあります。日蓮宗の古刹です。天正19年(1591)、身延山第十世・滋雲院日新が日本橋馬喰町に開基しました。慶安2年(1649)、現在地に移転。明治の元勲、井上毅の墓所があります。

安政ぼた餅殺人事件

岡本綺堂(岡本敬二、1872-1939)は『半七捕物帳』シリーズの作者としてよく知られた人ですが、「二十九日の牡丹餅」というサスペンス短編もあります。

ペリー艦隊再来航直後の安政元年(1854)旧暦7月、江戸市中に実際に飛び交った流言を題材にしたものです。

安政元年は7月の翌月が閏7月。

その流言とは、夏の閏月は残暑が厳しく、疫病も発生しやすいところから、晦日の7月29日にきな粉のぼた餅を食えば、暑気あたりを防げるというものでした。

ただし、それを他家に配ってはならず、家族や親類、奉公人などの身内で残らずその日のうちに食べつくすべし、という、ご親切な尾ひれ付き。

これを人々が真に受け、ぼた餅パニックが発生。米屋ではもち米が品切れ、粉屋からはきな粉が消えました。

自家で作れなくなった市民がぼた餅屋に殺到し、江戸中捜し歩いても、ことごとく売り切れ。

この、まじないめいた流言が、なにかの俗信に基づくものか、また、なんらかの根拠があったのかはわかりません。

小説では当日、清元の女師匠の家で食べたぼた餅で、パトロンのだんなが中毒死。

そこから発生する連続殺人事件を、綺堂は落日の江戸を背景に、情味濃く描いています。

殺人事件その後

原作者の綺堂も作中で「安政元年」と言っているのですが、実は、安政改元はその年の旧暦11月27日(1855年1月15日)で、厳密に言えば7月、閏7月の時点では、まだ嘉永7年です。

文中の7月29日は、1854年8月22日に当たりますが、調べてみると、この月はもう一日、30日があり、29日で終わっているのは、翌月の「閏7月」です。

したがって、29日を「晦日」としたのは誤りでした。失礼いたしました。

トリビアルにいえばこのタイトルも「嘉永ぼた餅殺人事件」と変えなければなりません。

岡本綺堂でさえ誤るのですから、旧暦と新暦の換算、西暦との整合はややこしいもの。

たとえば、機械的に「安政元年=1854年」とやると、同年旧暦11月13日から、もう西暦では1855年に入っているため、場合によっては、とんだ間違いを生じることになります。

おことわり

さらにいえば、もうひとつ。

これも文中で、「夏の閏月」と書きましたが、旧暦の季節で言うと7月はもう秋、ということになります。

現代の感覚から言いますと、盛夏のさなかに変わりなく、秋とするとかえってややこしくなりますので、あえて「夏」で通したことをお断りしておきます。

【語の読みと注】
錺職人 かざりしょくにん
独楽鼠 こまねずみ



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

おかめだんご【おかめ団子】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

母孝行の息子。
名物「おかめ団子」に盗みに。
たまさか、そこの娘を助けて……。
飯倉片町が舞台、地味でつつましい人情噺。
志ん生のお得意。

あらすじ

麻布飯倉片町いいくらかたまちに、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早じまいをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。

しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田ぶんきんたかしまだ緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん、 鴇色縮緬ときいろちりめん扱帯しごきを胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬け物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、四代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した団子店

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅 亀は団子で 名は高し」と、川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人。釣り好きでした。

あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。それを亀団子といいました。二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。

これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉きなこをまぶした団子で、一皿十六文と記録にあります。四代目麗々亭柳橋(斎藤亀吉、1860-1900)の速記には「五十文」とあります。これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、というと。

四代目麗々亭柳橋の速記では、こうです。

「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱あさぎ(薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」

当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。

大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。

今でこそハイソな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。

山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。

志ん朝の「黄金餅」でも、言い立てには必ず触れていました。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

かみなりひこう【雷飛行】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

今のところ、三代目今輔だけ。
すこぶるとんでも、奇妙奇天烈な珍品です。

【あらすじ】

頃は大正。

なじみの芸者を連れて日光へ遊びにきた男。

ふと好奇心がわいて、芸者を先に東京に帰すと、一人で山奥まで足を踏み入れた。

ところが、慣れない山奥で案の定道に迷い、日も暮れたので困っていると、遠くに人家の灯。

「これはありがたい、一晩泊めてもらおう」
と近づくと、なんと、りっぱなお屋敷。

「はて、こんな所に」
といぶかしがりながら案内を乞うと、取り次ぎに出てきた男
「きさま人間か」

よくよく見ると、素っ裸の虎の革の褌。

ここは日光屋雷右衛門という、雷の元締めの屋敷だったから、男は仰天。

とにかく、中に入れてもらうと、貫禄十分の雷が、座敷で酒をのんでいる。

横を見ると、天人のように美しい娘が一人。

雷右衛門の一人娘で、名前は稲妻とか。

一目惚れした男、娘に酌をしてもらい、あれこれお世辞を並べているうちに、娘もまんざらでなさそうで、いつしか二人は深い仲になった。

実は、例の芸者とも、もう夫婦約束をしてあるのだが、そんなことはきれいに忘れ、ずるずると娘といちゃついて二日、三日と過ぎるうち、とうに二人の仲を悟った雷親父
「オレも野暮なこたあ言わねえ。ただ、こうなったら、家の養子になってもらおう」

もとより惚れた仲、二つ返事で承知したが、先方にはまだ条件がある。

「養子になるんなら、やっぱり雷にならなくちゃあいけねえ」
「へえ、人間でも雷になれますか?」
「そりゃあ、修業しだいよ」

というわけで、雷学校に入って勉強する羽目になった。

東京から来たから、東雷と名を変えて、一心に修行に励むうち、まだ成績が足りないが、元締めの養子だから卒業させてやってよかろうということになり、いよいよ卒業飛行の日。

先生が、
「おい東雷。うっかりすると雲を踏み外して落っこちるから注意しろよ。太鼓のたたき方でスピードが変わるから、むやみにたたいたり低空飛行をするな。それから、てめえは助平だから、飛行中に下界の女なんぞ見ちゃあならねえ。必ず墜落するから」

こまごまと注意され、いよいよ雲に乗って出発。

針路を南に取って、ピカリピカリと稲妻を光らせながら進むうち、いつしか東京上空へ。

浅草あたりに来かかると、実によく下界が見える。

ひょいと見ると、前の婚約者の芸者が、やらずの雷というやつで、男としっかり抱きあっている。

「こら、あんまりそばへ寄るな。私は雷は虫が好かないんです、だって。ばかにしてやがる。一番脅かしてやろう」

焼き餅半分、ゴロゴロガラガラとあんまり電気を強くしたものだから、東雷、あえなく雲を踏み外して墜落。

「あー、恥ずかしい。落第(=落雷)だ」

底本:三代目古今亭今輔

★auひかり★

【しりたい】

大正後期の新作

大正10年(1921)3月の『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、代地の、せっかちの)の速記が、唯一の資料です。

もちろん、ネタ元と思われる笑話などもなく、第一次世界大戦前後の「飛行機ブーム」を当て込んだ新作と思われます。

今輔自身の創作かもしれませんが、これもはっきりしません。

同じ月の『文藝倶楽部』には、これもやがて文明の花形となる自動車を題材にした「自動車の蒲団」(二代目三遊亭金馬・演)の速記もあり、科学文明の時代に突入していく「大正新時代」の世相がしのばれます。

「際物」の宿命として、当然ながら今輔以来、今日まで手掛けた演者はありません。

雷の登場する噺

雷の噺としては「雷の子」「へその下(艶笑)」「雷夕立」などがありますが、いずれも小咄程度で、古典落語では長編は見当たりません。

雷学校

昇学校から宙学、雷学校と、もちろんすべてダジャレ。くすぐりもほとんどダジャレを並べただけです。

たとえば、雷学校で、東雷が教授に質問。

「あそこで勉強しないで遊んでいるのは?」
「フーライ(=風来坊)だ」
「頭を抑えていやな顔をしているのがいます」
「あれはキライ(=嫌い)じゃ」
「雲に乗って行ったり来たりしているのは?」
「オーライ(=往来)」

こんな調子です。東雷先生の本名は中山行夫。本職は会社員としてありますが、これだけはダジャレではなさそうです。

【語の読みと注】
褌 ふんどし

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

かつぎや【かつぎ屋】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

正月ネタの噺。
縁起でもないことばがドッカンドッカン。
「縁起かつぎ」の「かつぎ」です。

別題:七福神 正月丁稚(上方)

【あらすじ】

呉服屋の五兵衛だんなは、大変な縁起かつぎ。

元旦早々、番頭始め店の者に、
「元旦から仏頂面をしていては縁起がよくない」
「二日の掃き初めが済まないうちに、箒に触るのはゲンが悪い」
などと、うるさく説教してまわるうち、飯炊きの作蔵がのっそりと現れた。

「魔除けのまじないになるから、井戸神さまに橙を供えてこい」
と、言いつける。

「ただ供えるんじゃない。歌を添えるんだ。『新玉の 年立ち返る あしたには 若柳水を 汲みそめにけり、これはわざとお年玉』。いいか」

間もなく、店中で雑煮を祝う。

そこへ作蔵が戻ってきた。

「ご苦労。橙を供えてきたか」
「りっぱにやってきたでがす」
「なんと言った」
「目の玉の でんぐりげえる 明日には 末期の水を 汲みそめにけり、これはわざとお入魂」
「ばか野郎」

ケチを付けられて、だんなはカンカン。

そこで手代が、餅の中から折れ釘が出てきたのは、金物だけに金がたまるしるしと、おべんちゃら。

作蔵が、またしゃしゃり出た。

「そうでねえ。身上を持ちかねるというこんだ」

そうこうするうち、年始客が来だしたので、だんな自ら、書き初めのつもりで記帳する。

伊勢屋の久兵衛というと長いからイセキュウというように、縮めて読み上げるよう言いつけたはいいが、アブク、シブト(=死人)、ユカンなど、縁起でもない名ばかり。

それぞれ、油屋久兵衛、渋屋藤兵衛、湯屋勘兵衛を縮めたものだから、怒るに怒れない。

そこへ現れたのが、町内の皮肉屋、次郎兵衛。

ここのだんながゲンかつぎだから、一つ縁起の悪いことを並べ立て、嫌がらせをしてやろうという趣向。

案の定、友達が首をくくって死んだので弔いの帰りだの、だんながいないようだが、元旦早々おかくれになったのは気の毒だだのと、好き放題に言った挙げ句、
「いずれ湯灌場で会いましょう。はい、さようなら」

だんなはとうとう寝込んでしまう。

なお悪いことに、ゲン直しに呼んだはずの宝船絵売りが、値段を聞くと一枚シ文、百枚シ百文と、シばかりを並べるので、いらないと断ると、
「あなたの所で買ってくれなきゃ、一家で路頭に迷うから、今夜こちらの軒先を借りて首をくくるから、そう思いねえ」
と脅かされて、踏んだり蹴ったり。

次に、また別の宝船屋。

今度は、いろいろ聞くと家が長者町、名は鶴吉、子供の名は松次郎にお竹と、うって変わって縁起がいいので、だんなは大喜び。

たっぷり祝儀をはずむ。

「えー、ごちそうに相なりまして、お礼におめでたい洒落を」
「うん、それは?」
「ご当家を七福神に見立てましょう。だんなのあなたが大黒柱で大黒様、お嬢さまはお美しいので弁天さま」
「うまいねえ、それから?」
「それで七福神で」
「なぜ?」
「あとは、お店が呉服(五福)屋さんですから」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

原話は多数

極端な縁起かつぎをからかった笑話は、各地の民話にも数多く残されていますが、笑話集で最古とみられる原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一の「祝ひ過ぎるも異なもの」と題した一連の小咄とみられます。

この章は23話からなり、ほとんどがこの噺のプロット通り、主人公がせっかく縁起をかついでいるのに、無神経な連中に逆に縁起の悪いことばかり並べられて全部ぶち壊しになってしまうパターンです。

古くは、三遊亭円朝の速記もあります。

明治22年(1889)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記では「かつぎや五平」と題していますが、これは、「御幣かつぎ(=縁起かつぎ)」のシャレでしょう。

上方では丁稚が悪役

上方版の「正月丁稚」では、丁稚の定吉が不吉なことを並べる役で、後半は、番頭始め店の者がゲン直しに「裏を閉めて、裏閉め(=浦島)太郎は八千歳」など、厄払いのダジャレを並べます。

オチは定吉が、布団を出して「夜具(=厄)払いましょう」と言うもので、古い江戸落語の「厄払い」の類話にもなっています。

上方落語では、だんなが愛人にしている芸者の縁起かつぎをからかって、正月早々不吉なことばかり並べる「けんげしゃ茶屋」もあります。

古風な噺で、先代の桂文枝が絶品でしたが、「けんげしゃ」は京ことばで「かつぎや」と同じです。

元日は掃除は禁物?

江戸には古くから、元旦には箒を持たない(=掃除をしない)慣習がありました。

明和2年(1765)刊の『川柳評万句合勝句刷』に「箒持つ 下女は叱られ はじめをし」とあります。

このタブーのいわれはは不明確ですが、箒を逆さに立てて手拭いを被せ、客を早く帰らせるまじないがあったので、あるいは箒の呪力により、福の神を追い払ってしまうことをおそれたからかもしれません。

若柳水

わかやぎみず。若水ともいい、旧年の邪気を取り除き、人を若返らせる願いをこめた習慣です。

虫除け

むしよけ。腹痛を防ぐまじない。「わざと」は「心ばかりの」の意味です。

宝船の絵

正月になると、宝船売りが、七福神の乗った船の図に、廻文歌「長き夜の とをのねぶりの 皆目覚め 波のりぶねの 音のよきかな」を書き添えた刷り物を売り歩きました。

上から読んでも下から読んでも同じですね。

正月二日の夜、これを枕の下に引き、吉夢の初夢を見るようにとのまじないでした。

歌舞伎「松浦の太鼓」で、吉良邸討ち入り前夜、すす竹売りに身をやつした大高源吾(俳名子葉)が俳句の師宝井其角に出会い、其角の「年の瀬や 水の流れと 人の身は」という前句に「明日待たるる その宝船」と付け、密かに決意を披露する場があります。

類話「しの字ぎらい」

同じ題材を扱った噺に、隠居が、「死」につながるというので「し」のつく言葉を使うことを下男に禁止する類話「しの字ぎらい」があります。

これは、「かつぎや」の噺のマクラ及び最初の宝船屋とのくだりを独立、ふくらませたものと考えられます。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

おふみ【おふみ】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

高座ではあまり掛からない、珍しい噺です。

別題:捨て子の母 万両(上方)

あらすじ

日本橋あたりの酒屋のだんな。

愛人のいることがおかみさんにばれ、今後、決して女の家には近寄らないと誓わされた。

ある日、赤ん坊を懐に抱いた男が、店に酒を買いにくる。

ついでに祝い物を届けたいから、先方に誰かいっしょについてきてほしいと言うので、店では小僧の定吉をお供につけた。

ある路地裏まで来ると、男は定吉に、
「少し用事ができたから、しばらく赤ん坊を預かってほしい」
と頼み、小遣いに二十銭くれたので、子供好きの定吉は大喜び。

懸命にあやしながら待っていたが、待てど暮らせど男は現れない。

定吉が困ってベソになったところへ、番頭がなぜかおあつらえ向きに路地裏へ現れて、定吉と赤ん坊を店に連れて帰る。

さては捨て子だというので、店では大騒ぎ。

案の定、男が買った樽に、
「どうか育ててほしい」
という置き手紙がはさんであった。

おかみさんは、もう子供はできないだろうとあきらめかけていた折なのですっかり喜び、家の子にすると言って聞かない。

だんなも承知し、
「育てるからには乳母を置かなくてはならない」
と、さっそく、蔵前の桂庵まで出かけていった。

ところが、だんなが足を向けたのは、なんと、切れたはずの例の女の家。

所は柳橋同朋町。

実は、これはだんなの大掛かりな狂言。

愛人のおふみに子供ができてしまったので始末に困り、おふみの伯父さんを使って捨て子に見せ掛け、おかみさんをだまして合法的に(?)赤ん坊を家に入れてしまおう、という魂胆だった。

その上、おふみを乳母に化けさせて住み込ませよう、という図々しさ。

もちろん、番頭もグル。

こうして、うまうまと母子とも家に引き取ってしまう。

奥方はすっかりだまされ、毎日赤ん坊に夢中。

そのせいか、日ごろの焼き餅焼きも忘れて「乳母」のおふみまで気に入ってしまう。

一方、だんなはその間、最後の工作。

問題は定吉で、これも、ふだん、だんなに買収され、愛人工作にかかわっていたため、妾宅にも出入りし、もちろんおふみの顔を知っている。

で、魚心あれば水心。

「口をつぐめば小遣いをやる」
と約束して、こちらも落着。

だが、定吉はふだんからおふみに慣れているから、ついおふみを「さま」付けで呼んでしまうので、あぶなっかしい。

「いいか、乳母に『さま』なんぞつける奴はねえ。うっかり口をすべらして『さま』付けなんぞしてみろ、ハダカで追い出すからそう思え」

数日は無事に過ぎたが、ある日、おかみさんがひょっと気づくと、だんながいない。

「ちょいと、定吉や。だんなはどこにおいでだね」
「ちょいとその、おふみさ、もとい、おふみを土蔵によんでいらっしゃいます」

昼日中から乳母と二人で土蔵とは怪しいと、おかみさん、忘れていた嫉妬が急によみがえり、鬼のような形相で土蔵へ駆け込む。

ガラリと戸を開けると、早くも気配を察しただんな、
「我先や人や先、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、今日とも知らず明日とも知らず、遅れ先立つ人は本の雫」

おかみさんは面食らって、
「ちょいと定吉、どういうことだい。おふみじゃないじゃあないか。だんなさまが読んでいるのは、一向宗の『おふみさま』だよ」
「でも、『さま』をつけると、ハダカで追い出されます」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

しりたい

「権助魚」とのかかわり

原話は不詳で、上方落語で「万両」または「お文さん」と呼ばれる切りねたが東京に移植されたもの。

移植者、時期などは不明ですが、明治32年(1899)、40年(1907)の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)の速記が残っています。

この小円朝は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の最初の師匠です。大河ドラマ「いだてん」にも出ていました。

上方の「万両」の演題は、舞台である大坂船場の酒屋の名からとったものです。

上方版では、下女がだんなとおふみの濡れ場を目撃、ご寮人さんに告げ口して、ことがバレる演出になっています。

この噺にはもともと、現在は「権助魚」「熊野の牛王」として独立して演じられる「発端」がついていて、明治23年(1890)、二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「おふみ」の題でこの発端部分を演じた速記が残っています。

後半との筋のつながりはなく、いかにもとって付けたようで、本当にもともと一つの噺だったかどうかさえ怪しいものです。

おふみさま

浄土真宗東本願寺派(大谷派)で、本願寺八世蓮如上人が真宗(一向宗)の教義を民衆向きにやさしく述べた書簡文154編を総称していうものです。

門徒は経典のように暗記し唱えます。

ここでは、だんなの女の名が同じ「おふみ」であることがミソです。

これが当然伏線になっていますが、ストーリーに起伏があって、なかなかおもしろい噺なのに、現在演じ手がいないのは、特定の宗派の教義に基づくオチが、一般にはわかりにくくなっているせいでしょう。

場所の設定が 柳橋同朋町 であることも念仏系宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)とのかかわりをにおわせていますね。

かんぐれば、この噺は、本願寺の熱烈な門徒により教派の布教宣伝用に作られたのではと、思えないでもありません。

げんにその手のはなしはいくらでもあります。

それもはなしの成り立ちのひとつととらえられます。

落語世界の登場人物で、浄土真宗の熱烈な信者といえば「後生鰻」の隠居、「宗論」のオヤジが双璧です。

桂庵

けいあん。慶庵、口入れ屋とも。就職斡旋所です。

男女の奉公人の斡旋、雇われる側の職業紹介を兼ね、縁談の斡旋までしたとか。

人の出入りが激しいためか、花街、遊廓の近くに集まっていました。

江戸で最も有名なのは「百川」に登場する葭町よしちょう千束屋ちづかやです。

岡本綺堂(岡本敬二、1872-1939、劇作家)は、この店の所在地を麻布霞町といっています(『風俗江戸物語』による)。おそらく支店なのでしょう。

「おふみ」では、蔵前第六天社の「雀屋」に設定することが多くなっています。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん:就職斡旋所。慶庵、口入れ屋とも
形相 ぎょうそう
切りねた きりねた:真打しか演じられない大ネタ
ご寮人さん ごりょんさん:若奥さん。上方中流以上の商家で

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

そばせい【そば清】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

そば賭けで金をせしめる清兵衛。
もっとそばを食べて、もうけたい。
草をなめて消化する蛇をまねて、草をぺろり。
すると、そばが羽織を着て座っていた。

類話:そばの羽織 蛇含草(上方)

あらすじ

旅商人の清兵衛は、自分の背丈だけのそばが食べられるという、大変なそば好き。

食い比べをして負けたことがないので、もう誰も相手にならないほど。

ある時、越後えちごから信州の方に回った時、道に迷って、木陰で一休みしていると、向こうの松の木の下で狩人が居眠りをしている。

見ると、その木の上で大蛇だいじゃがトグロを巻いていて、あっと言う間もなく狩人を一のみ。

人間一匹丸のみしてさすがに苦しくなったのか、傍に生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめると、たちまち膨れていた腹が小さくなって、隠れて震えていた清兵衛に気づかずに行ってしまった。

「ははん、これはいい消化薬になる」
と清兵衛はほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰った。

これさえあれば、腹をこわさずに、無限にそばが食えるので、また賭けで一もうけという算段。

さっそく友達に、そばを七十杯食ってみせると宣言、食えたらそば代は全部友達持ち、おまけに三両の賞金ということで話が決まり、いよいよ清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。

いやその速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十、五十……。

このあたりでさすがの清兵衛も苦しくなり、肩で息を始める。

体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、少し休憩したいからと中入りを申し出て、皆を廊下に出した上、障子をピタリと閉めさせて、例の草をペロリペロリ……。

いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると、清兵衛の姿はない。

さては逃げだしたかとよくよく見たら、そばが羽織を着て座っていた。

しりたい

食いくらべ

有名なのは、文化14年(1817)3月、柳橋の万屋八郎兵衛方で催された大食・大酒コンクールです。

酒組、飯組、菓子組、鰻組、そば組などに分かれ、人間離れのした驚異的な記録が続出しました。

そば組だけの結果をみると、池之端いけのはたの山口屋吉兵衛(38歳)がもり63杯でみごと栄冠。

新吉原の桐屋惣左衛門(42歳)が57杯で2位、浅草の鍵屋長助(45歳)が49杯で3位となっています。

したがって、清兵衛の50余杯(惜しくも永遠に未遂)は決して荒唐無稽こうとうむけいではありません。

これこそデカダンの極北、醤油ののみ比べもありました。

これについては、高木彬光(1920-1995)の短編「飲醤志願」に実態が詳しく描写されています。まさしく死と隣り合わせです。

上方は餅食い競争

類話の上方落語「蛇含草じゃがんそう」は、餅を大食いした男が、かねて隠居にもらってあった蛇含草なる「消化薬」をこっそりのむ設定です。

したがってオチは「餅が甚兵衛(夏羽織)を着てあぐらをかいていた」となります。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、この上方演出をそのまま東京に移植して十八番とし、それ以来、「そば清」とは別に「蛇含草」も東京で演じられるようになりました。

三木助演出は「餅の曲食きょくぐい」が売り物で、「出世は鯉の滝登りの餅」「二ついっぺんに、お染久松相生そめひさまつあいおいの餅」と言いながら、調子よく仕草を交えて、餅をポンポンと腹に放り込んでいきます。

「そば清」の古いやり方

明治期には、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)も演じました。

その型を忠実に踏襲した四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)の速記では、清兵衛がなめるとき、「だんだん腹がすいてきたようだ」とつぶやきます。

内臓が溶けつつあるのを、腹の中のそばが溶けたと勘違いしているわけで、笑いの中にも悲劇を予感させる一言ですが、今はこれを入れる人はいないようです。

そばを溶かす草の話

根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)は、『耳嚢みみぶくろ』巻二に「蕎麦そばを解す奇法の事」と題して、荒布あらめ(海藻の一種で食用)がそばを溶かす妙薬であるとの記述を残しています。

真偽のほどはわかりませんが。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

よいよいそば【よいよいそば】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

地方から出てきた二人連れ。
そばの食べ方がわからず四苦八苦。
誰だって最初はそうかもしれませんね。

別題:江戸見物

【あらすじ】

江戸名物は、火事にけんかに中っ腹というが、中っ腹は気短なこと、なにかというと、悪態をつく。

田舎者の二人連れ、一生一度の東京見物に来たのはいいが、慣れないこととて、やることなすこと悪戦苦闘。

そば屋に入っても、生まれて初めてなので、食い方がわからない。

もりがくると、あんまり長いから、これではハシを持ったまま天井までハシゴをかけて上がらなければ食えないというので、一工夫。

片方がまず寝ころんで、相棒に食べさせ、今度はもう一人が、という塩梅(あんばい)で、なかなかはかどらない。

そこへ威勢よく飛び込んできたのが、言わずと知れた江戸っ子のお兄さん。

もりを注文すると、例によって粋につるつるっとたぐり出したが、そばの中から釘が出てきたから、さあ収まらない。

「おい若い衆、そばの中に釘ィ入れて売るわけでもあるめえ。危ねえじゃねえぁ。よく気ィつけろいっ。このヨイヨイめ」

謝罪の言葉も聞かばこそ、悪態をついて、あっという間に出ていってしまった。

まるで暴風雨。

田舎者の二人、それを見てすっかり度肝を抜かれ、あの食い方の早えの早くねえの、あれはそば食いの大名人だんべえと、ひどく感心したが、終わりのヨイヨイというのが、なんだか、よくわからない。

そこでそば屋の親父に尋ねるが、親父もまさか親切ていねいに「翻訳」するわけにもいかず「あれはその、近頃東京ではやっているほめ言葉で、手前でものそばがいいというんで、よい、よいとほめたんです」と、ゴマかす。

二人はすっかり真に受けて、一度これを使ってみたいと思いながら、今度は芝居見物へ。

見ているうちに、いい場面になった。

東京の歌舞伎では、役者がいいと声をかけてほめると聞いたので、ここぞとばかり「ようよう、ええだぞ、ヨイヨイ」

怒ったのが贔屓の衆。

「天下の成田屋をつかめえて、ヨイヨイたあ何だ。てめえたちの方がヨイヨイだ」「ハァ、太郎作、喜べ。おらたちまでほめられた」

【しりたい】

二通りのバージョン  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、明治31年(1898)4月、「百花園」に掲載された六代目桂文治の速記では「江戸見物」と題しています。

「江戸見物」は、オチは同じですが、後半途中から芝居噺仕立てになり、そば屋の場面はありません。江戸っ子に突き当たられた後そのまま芝居小屋での失敗談に移ります。

あらすじの「よいよい蕎麦」の方は、明治期では初代三遊亭円右が得意にしたもので、こちらが本元だろうと思われます。本来、ていねいに演じると、そば屋の場面の前に食物と間違え、炭団を買ってかじる滑稽が付きます。

元祖「ボヤキ落語」で知られた、同時代の五代目三升家小勝(1859-1939)や二代目三遊亭金馬を経て、戦後は三代目三遊亭小円朝が時々演じました。

小円朝は速記が残っています。『三遊亭小円朝集』(東大落語会編、青蛙房、1969年)です。音源はなく、初代円右のSP復刻版だけが、いま聴ける唯一の貴重な音源です。小円朝以後の継承者は、今のところいない模様です。

親ばかちゃんりん蕎麦屋の風鈴  【RIZAP COOK】

けんどんそば切り(今でいうかけそば)が1杯8文で売り出されたのは、寛文4年(1664)のこと。

その後、貞享年間(1684-88)に蒸し蕎麦が流行。同時に江戸市中に、多くのそば屋が出現。頼まれれば、天秤のかついで出前もしました。別名「二八蕎麦」と呼ばれる、屋台のそば屋が現れたのは享保年間(1716-36)といわれます。

それ以前、貞享3年(1686)にすでに、「温飩うどん、蕎麦切、其他何ニ寄らず、火を持あるき商売仕り候儀、一切無用に仕るべく候」というお触れが出ているので、かなり長い間、長屋の食うや食わずの連中が、アルバイトに特に夜間、怪しげな煮売り屋を屋台で営業していたわけです。

お上では「食品衛生法違反容疑」よりむしろ火の元が危なくてしかたないので、禁止したということでしょう。

よいよい  【RIZAP COOK】

元は、幼児のよちよち歩きをさしましたが、のちに中風病み、マヌケ、酔っ払い、みすぼらしい服装の人間などをののしる言葉になりました。

寛政年間(1789-1801)の戯作、洒落本などにこれらの例が出そろっているので、およそこのあたりが起源なのでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:太っ腹の対語。短気
塩梅 あんばい



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

かんしゃく【癇癪】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

大正時代。
小言ばかり言ってるだんなは家中でうるさい。
家人が大掃除をしたら……。
近代人の小言幸兵衛。
他人に当たり散らす怒りんぼうの噺。

あらすじ

大正のころ。

ある大金持ちのだんなは、有名な癇癪持ち。

暇さえあれば家中点検して回り、
「あそこが悪い、ここが悪い」
と小言ばかり言うので、奥方始め家の者は戦々恐々。

今日も、その時分にはまだ珍しい自家用車で御帰宅遊ばされるや、書生や女中をつかまえて、やれ庭に水が撒いていないの、天井にクモの巣が張っているのと、微に入り細をうがって文句の言い通し。

奥方には、
「茶が出ていない、おまえは妻としての心掛けがなっていない」
と、ガミガミ。

おかげで、待っていた客がおそれをなして、退散してしまった。

それにまた癇癪を起こし、
「主人が帰ったのに逃げるとは無礼な奴、首に縄付けて引き戻してこい」
と言うに及んで、さすがに辛抱強い奥方も愛想をつかした。

「妻を妻とも思わない、こんな家にはいられません」
と、とうとう実家へ帰ってしまう。

実家の父親は、出戻ってきた娘のグチを聞いて、そこは堅い人柄。

「いったん嫁いだ上は、どんなことでも辛抱して、亭主に気に入られるようにするのが女の道だ、『けむくとも 末に寝やすき 蚊遣かな』と雑俳にもある通り、辛抱すれば、そのうちに情けが通ってきて、万事うまくいくのが夫婦だから、短気を起こしてはいけない」
と、さとす。

「いっぺん、書生や女中を総動員して、亭主がどこをどうつついても文句が出せないぐらい、家の中をちゃんと整えてごらん」
と助言し、娘を送り返す。

奥方、父親に言われた通り、家中総出で大掃除。

そこへだんなが帰ってきて、例の通り
「おい、いかんじゃないか。入り口に箒が立てかけて」
と見ると、きれいに片づいている。

「おい、帽子かけが曲がっていないか。庭に水が撒いてある。ウン、今日は大変によろしい。おいッ」
「まだなにかありますか」
「けしからん。これではオレが怒ることができんではないか」

しりたい

作者は若だんな

益田太郎冠者(益田太郎、1875-1953)が明治末に、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)のためにつくった落語です。

作者の父親は男爵益田孝(1848-1938)。三井財閥の大番頭として近代日本の財界に重きをなした人物です。

せがれの太郎は「太郎冠者」という名乗った帝劇の重役兼座付作者で、主に軽喜劇と女優劇のための台本を執筆しました。

「女天下」「心機一転」「ラブ哲学」「新オセロ」などの作品があります。

特に大正9年(1920)、森律子主演のオペレッタ「ドッチャダンネ」の劇中歌として作詞作曲した「コロッケの唄」は流行歌となり、今にその名を残しています。

落語も多数書いていますが、現在演じられるのはこの「癇癪」くらいです。

富豪の日常を描写

明治末から大正期に運転手付きの自家用車を持ち、豪壮な大邸宅で大勢の書生や女中さんにかしづかれ、そのころはまだ珍しい扇風機まで持っているこのだんなの生活は、そのまま作者の父親のそれを模写したものと容易に想像できます。

現代的感覚からすると、もはや古色蒼然。さほどおもしろくもありません。

わずかに主人公の横暴ぶりを、演者の腕によって誇張されたカリカチュアとして生かせると、掘り出し物になるかもしれません。

文楽の十八番

初演の円左の速記は残っていません。

円左没後は、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)を経て、先の大戦後は、八代目文楽(並河益義、1892-1971)が一手専売に、十八番のひとつにしました。

ひところはよく客席から「かんしゃく!」と、リクエストされたとか。

噺が作られたのは明治期でした。文楽が、作者の許可と監修のもとに細部を整え、明治とは一味垢ぬけた大正時代に設定し直したもののようです。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ごんすけしばい【権助芝居】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

最後はドタバタになる素人の演芸会。
抱腹絶倒、にぎやかな噺です。

別題:素人茶番 一分茶番 鎌倉山

【あらすじ】

町内で茶番(素人芝居)を催すことになった。

伊勢屋の若だんなが役不足の不満から出てこないので、もう幕が開く寸前だというのに、役者が一人足りない。

困った世話人の喜兵衛、たまたま店の使用人で飯炊きの権助が、国では芝居の花形だったと常々豪語しているのを思い出し、この際しかたがないと口をかけると、これが大変な代物。

女形で「源太勘当」の腰元千鳥をやった時、舞台の釘に着物を引っ掛け、フンドシを締めていなかったのでモロにさらけ出してしまい
「今度の千鳥はオスだ」
とやったと自慢げに話すので、吉兵衛頭を抱えたが、今さら代わりは見つからない。

五十銭やって、芝居に出てくれと頼む。

「どんな役だ?」
「有職鎌倉山の泥棒権平てえ役だ」
「五十銭返すべえ。泥棒するのは快くねえ」
「芝居でするんだ。譲葉の御鏡を奪って、おまえが宝蔵を破って出てくる。鏡ったって納豆の曲物の蓋だ。それを押しいただいて、『ありがてえかっちけねえ、まんまと宝蔵に忍び込み奪え取ったる譲葉の御鏡。小藤太さまに差し上げれば、褒美の金は望み次第。人目にかからぬそのうちにちっとも早く、おおそうだ』と言う」
「五十銭返すべえ」
「なぜ?」
「そんなに長えのは言えねえ」
「後ろでつけてやる。そこで紺屋の金さんの夜まわりと立ち回りになる。そこでおまえが当て身をくって目を回す。ぐるぐる巻きに縛られて」
「五十銭返すべえ」
「本当に縛るんじゃない。後ろで自分で押さえてりゃいい。誰に頼まれたと責められて、小藤太様がと言いかけると、その小藤太が現れて、てめえの首をすぱっと斬り落とす」
「五十銭返すべえ」

ようようなだめすかして、本番。

客は、泥棒が、若だんなにしては汚くて毛むくじゃらだと思って見ると、権助。

「やいやい権助、女殺し」
「黙ってろ、この野郎」
「客とけんかしちゃいけねえ」

苦労してセリフを言い、立ち回りは金さんの横っ面をもろに張り倒して、もみ合いの大げんか。

結局、縛られて舞台にゴロゴロ。

「やい権助。とうとう縛られたな。ばかァ」
「オラがことばかと抜かしやがったな。本当に縛られたんじゃねえぞ。ほら見ろ」

縄を離しちまったから、芝居はメチャクチャ。

太い奴だと、今度は本当にギリギリ縛られて
「さあ、何者に頼まれた。キリキリ白状」
「五十銭で吉兵衛さんに頼まれただ」

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

マニア向けの芝居噺

江戸の人々の芝居狂ぶりを、いきいきと眼前に見るような噺です。

原話は不詳で、古くから演じられてきた東京落語です。

別題が多く、「素人茶番」「一分茶番」「素人芝居」、噺の中で演じられる歌舞伎の外題から「鎌倉山」とも呼ばれます。

現在は、「一分茶番」で演じられることが多いようです。

江戸時代の素人芝居(茶番)については、同じ題材を扱った「蛙茶番」をお読みください。

明治29年(1896)の四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)の速記が残ります。昔からこれといった、十八番の演者はありません。

蝶花楼馬楽時代の八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)、八代目雷門助六(岩田喜多二、1907-91)、初代金原亭馬の助(伊藤武、1928-76)、三遊亭円弥(林光男、1936-2006)といった、芝居噺が得意でどちらかと言えば玄人受けする腕達者が手掛けてきたようです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)も手掛けたはずですが、記録は残りません。

円生没後は一門の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)、三遊亭円龍(水野孝雄、1939-2021)が演じ、それぞれの門下の中堅・若手にも継承されてきました。

戦前に、五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)が「素人演劇」として、モダンに改作したことがあります。

「源太勘当」

源平合戦、木曽義仲の滅亡を描いた全五段の時代物狂言「ひらかな盛衰記」のの第二段です。

原作の浄瑠璃は文耕堂ほかの合作で、歌舞伎の初演は元文4年(1739)4月、大坂角の芝居。千鳥は腰元で、主役の梶原源太景季かじわらげんたかげすえと恋仲。後に遊女梅ヶ枝となります。

「有職鎌倉山」

やはり鎌倉時代を背景にした時代物狂言で、寛政元年(1789)10月、京都・早雲座初演です。

実際はその五年前の天明4年(1784)3月24日、江戸城桔梗の間で、若年寄田沼意知たぬまおきともが、五百石の旗本佐野政言さのまさことに殺された事件を当て込んだものです。

源実朝の鷹狩りで獲物を射止めた佐野源左衛門は、手柄を同僚の三浦荒次郎に譲りますが、善左衛門をねたんだ荒次郎に事あるごとにはずかしめられ、忍耐に忍耐を重ねた後、ついに殿中の大廊下で荒次郎を討ち果たし、切腹するという筋です。

本来、この噺で演じられるようなお家騒動ものではないはずですが、昔は、こじつけの裏筋が付けられていたのかもしれません。

芝居の泥棒

江戸時代、芝居の興行は、夜の明けないうちから始めて、夕方までやっていました。

お家騒動ものの発端は大方お決まりで、この噺に出てくるように、悪人側の黒幕の家来の、そのまた家来に命じられた盗賊が、お家の重宝(鏡、刀、掛け軸など)を盗み出し、蔵を破って出てくるというパターン。

泥棒のセリフも、どれもほとんど紋切り型でした。

その後、雇い主の「小藤太様」が現れて品物を受け取り、これで忠義の善玉側に、この罪をなすりつけられるとほくそ笑んだ上、「下郎は口のさがなきもの。生けておいては後日の障り。金はのべ金」と、口塞ぎのため泥棒はバッサリ、というのがこれまたお決まり。

このシーンは早朝に出され、下回り役者ばかりが出るので、見物人などほとんどいなかったわけです。

泥棒が「主役」に昇格したのは、幕末の河竹黙阿弥の白浪狂言からでした。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

じゅぎょうちゅう【授業中】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

小学校、国語の授業風景。生徒が教科書を朗読。
「くにさっだ忠治はいィィ男」
「どこサ、国定忠治なんで書いてある」
「あります」。見ると表紙に「国定教科書」

あらすじ

ある小学校に、ものすごいズーズー弁の先生が転任してきた。

最初の国語の授業。

「ツィみたつのスィんスィいわァ、どごがほがのガッコサぶっトンでィったッス」

「さ、みんな国語の本サおっぴろげて、本サ、おっぴろげろ。このヤロ、窓サ何でおっぴろげる。六十七ペーズ、おめえ立って読んでみろ」

「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。ああわれ人ととめゆきて、涙さしぐみ帰りきぬ。山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」

「よぐ読みた。その隣」
「ヤヤ、ヤマヤマヤマ、ヤ、山のアナ、山のアナアナアナアナ」
「狸だね。なんで穴ばっかり探すんだ」
「先生、そいつはダメ。吃音です」
「いいからその先サやれ」
「アナアナ、アナアナ、あなた、あなた、もう寝ましょうよ」
「寝ましょうよだけ、なんでスッと出るんだこのヤロ」

その次は、えらくダミ声。

「十九番、広沢虎造」
「のど自慢じゃねー。早く読め」
「お粗末ながら。(浪曲の節で)やまのあなたのおォ、そおォらとおく、さいわいすむとォ、人ォのいう、ああわれ人とォ」
「ええどええど、もっとやれ」
「なんだい、ひどい先生だね」

十九番、調子に乗って
「なみださしぐみィィィィかえりィきぬゥゥゥ、とンビィがとんでェるあっかぎッやまァァ、おとォこ一匹どこまでとばすゥ、くにさっだ忠治はいィィ男」
「このバカヤロ、どこサ、国定忠治なんで書いてある」
「あります」

よく見ると、教科書の表紙に「国定教科書」。

底本:三代目三遊亭円歌

【RIZAP COOK】

スヴェンソンの増毛ネット

うんちく

国定教科書 【RIZAP COOK】

その昔、学校の教科書は国家が作成したものを使っていました。

それが国定教科書です。

国定教科書は、国家が定める教育内容を各科目一種類の教科書で統一して、各学校に使用させるものです。

その歴史を駆け足で振り返りましょう。

明治37年(1904)度から第1期。

教科内容としては最もリベラルなもので、リンカーンやナイチンゲールが登場しました。

尋常小学1年用の国語の教科書の冒頭は、以下のような変遷がありました。

明治43年(1910)度 第2期 「ハダ、タコ、コマ」
大正7年(1918)度 第3期 「ハナ、ハト、マメ、マス」
昭和8年(1933)度 第4期 「サイタサイタサクラガサイタ」
昭和16年(1941)度 第5期 「アカイアカイアサヒアサヒ」

第5期には「尋常小学校」から「国民学校」に名称が変わりました。

敗戦直後には戦勝国の規制のもと、「墨塗り教科書」に。新たに教科書を作成する余裕がなかったわけ。

先生の指示のもと、民主日本にふさわしくない表現箇所に生徒がそれぞれに墨で塗りつぶしていったのです。

昭和22年(1947)度 第6期 「みんないいこ」

第6期からは、片仮名書きから平仮名書きに。

昭和24年(1949)度で国定教科書が終わり、複数の検定教科書時代に移り、現在にいたっています。

この噺の時代は戦前らしいのですが、カール・ブッセがいつ入っていたかは寡聞にして知りません。

「中沢信夫(円歌の本名)」氏の小学校入学時は第4期の「サイタサイタサクラ」教科書のはずです。

国定忠治 【RIZAP COOK】

侠客でも義賊でもなく、実際はただの逃亡殺人犯。

処刑のちょうど五か月前、中風で倒れ、ほどなく逮捕されたときはもう落ちぶれていたようです。

嘉永3年(1851)12月21日(1月22日)、カラっ風吹きすさぶ上州吾妻郡大戸村で磔刑に。享年40。戒名は遊道花楽居士。墓は生まれ在所の上州佐位郡国定村の養寿寺。

山のあなた 【RIZAP COOK】

この噺で一躍有名になった、ドイツ新ロマン派詩人カール・ブッセ(1872-1918)の詩です。

原題はUberdenBergenで、日本では上田敏(1874-1916)の訳詩集『海潮音』(明治38年=1905)でよく知られるようになりました。

広沢虎造 【RIZAP COOK】

昭和期、一世を風靡した浪曲師。本名・山田信一(1899-1964)。東京出身で、大阪の広沢虎吉門下。大正11年(1922)に真打ち。

得意は「スシ食いねえ」の「清水次郎長伝」、志ん生が落語版をやった「夕立勘五郎」、この噺に登場する「国定忠治」「天保六花撰」など。

山のあな、あな…… 【RIZAP COOK】

前述のように、三代目三遊亭円歌は本名中沢信夫、日蓮宗の法名円法。昭和4年(1929)1月10日、東京生まれ。

以上が定説でしたが、生前期の落語協会公式サイトでは「1932年1月10日」となっていて、3歳サバを読んでいました。真偽不明、奇ッ怪至極。

山手線新大久保駅員を経て、昭和20年(1945)9月、二代目円歌に入門。

前座名は歌治で、昭和23年(1948)4月、歌奴で二つ目。

昭和33年(1958)10月、同名で真打昇進。昭和45年(1970)10月、三代目円歌を襲名。

「授業中」は自作自演の新作で、昭和42年(1967)、爆発的に売れました。

「山のアナ」は流行語になり、歌奴はたちまち、テレビにひっぱりだこの売れっ子スターに。

続いて「浪曲社長」「月給日」「肥満小型」「中沢家の人々」など、ヒットを連発。

長く人気を保ち、平成8年(1996)、落語協会会長に就任。平成29年(2017)4月23日、山のあなたへ旅立ちました。享年88(85)。

それにしてもこの噺、今聴けば古色蒼然。なぜあんなに受けたのか。

この噺を解析すると当時の世相がわかるかもしれません。

落語家に日蓮宗の信徒が多いのは円朝の時代からのならいです。

ただ、この人の場合は、日蓮宗に出家して「円法」という法名をいただくほどでした。

スヴェンソンの増毛ネット

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ぎょいはよしののさくらもち【御意は吉野の桜餅】むだぐち ことば



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

「構わずとも吉野葛」同様、良し→吉野のしゃれで、今回は桜餅と付けています。

「ぎょい」は「御意」で、武家で殿様の思し召し、またはご機嫌のこと。

殿のおことばをいただいて、ひたすら「仰せごもっとも」と返答する場合の紋切型ですが、この場合は「御意はよし」で、ご機嫌うるわしいの意味です。

それを町人どもがからかい半分に茶化して、「お気に召した」の意味のむだぐちたたきに使っているわけです。

実にどうも無礼千万、けしからんもんで。

こういう、しらじらしくぎょうぎょうしい物言いは、多くは遊里で幇間が客に使ったり、通人気取りの若だんなが「ゲス」ことばとともに用いたものです。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

きのねはとっこではのねはあご【木の根はとっこで歯の根は顎】むだぐち ことば



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

その気はない、と言う相手をまぜっ返すむだ口です。

「きのね」は「気のねえ」で、それと「木の根」を掛けているのが、次の「とっこ」で分かります。

「とっこ」は同音異義語で、「盗人」「蟻地獄」「独鈷」「かつおぶし」など、さまざまな意味が考えられますが、この場合、木の切り株の意味の「とっこ」しかぴったりハマりません。

新潟県や長野県の方言なので、このむだぐち自体もそのあたりのローカルなものかもしれません。

次に「木」から「葉」、ついで「歯」と変換し、「歯のねえ」から「歯の根」→「あご」と悪じゃれます。

まぜっ返し自体はあまりタチがいいとはいえませんが、ことばの連鎖的な変化としては、なかなかに凝っています。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ごめんそうめんゆでたらにゅうめん【御免素麺茹でたらにゅうめん】むだぐち ことば

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

一応「ごめん」と謝った形ですが、こうまでざれごとを並べ立てたら、謝る気などさらさらないのは見え見え。おそらく子供の軽口でしょう。

許されるどころか、逆に大雷が落ちるのは必至です。

しゃれとしては、「めん」という韻を重ねただけの他愛ないものですが、むだぐちとしての言葉のリズムはなかなかのもの。

「ごめんそうめん」は、古語の「御免候え」のもじり。

「ごめん」のしゃれもなかなか多く、「御免素麺冷素麺」「御免素麺売れたら一銭」「御免茄子おいて南瓜、一服西瓜今日は冬瓜」「御免頂来豆の粉しんちこ」「しからば御免の蒙り羽織」などなど。

この中には謝罪というより、「しからば御免」のように、「ちょっと失礼」という意味だけのものも含まれています。

受けた相手の逆襲は「五面(=御免)も十面もねえっ」に尽きるでしょう。

【語の読みと注】
御免候え ごめんそうらえ
御免素麺冷素麺 ごめんそうめんひやそうめん
御免茄子おいて南瓜 ごめんなすおいてかぼちゃ
一服西瓜今日は冬瓜 いっぷくすいかきょうはとうがん
御免頂来豆の粉しんちこ ごめんちょうらいまめのこなしんちこ
しからば御免の蒙り羽織 しからばごめんのこうむりはおり

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しょうがなければみょうががある【生姜なければ茗荷がある】むだぐち ことば



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

「しょうがない」というあきらめのことばに対するまぜっ返し。「しょうがない」と「生姜」を掛け、「生姜がなければ代用品の茗荷があるだろう」と茶化しています。

「茗荷」はかなり紋切り型ですが、「冥加」と掛けたしゃれ。冥加は仏の恩恵のことで、この場合は「しょうが(=生姜)なくても、まあなんとかなるんじゃないの」くらいの感じでしょう。

似た言いまわしでは、江戸で古くから使われた「仕様模様」があります。

「仕様」はやり方、手段。模様はこの場合は、仕組むこと、工夫、趣向の意味ですから、ほぼ同じニュアンス。

つまり、同じ音韻、意味を重ねた強調表現。

この後に否定「……がない」が付けば「しょうがない」と同じ意味になります。

もう一つ、ストレートに「しょうがない」を表すむだぐちには「生姜苗(=ねえ)茄子苗(=ねえ)田無の市」があります。

これは、「ねえ」という否定と「苗」を掛け、江戸郊外の苗市を出したしゃれです。

「茄子」はもちろん「しょうがなす」→「しょうがない」のダジャレでもあります。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ありがたいならいもむしゃくじら【蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨】むだぐち ことば



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

「ありがたいなあ」というしゃれことば。それだけです。

「ありがたい」の中の「あり」に蟻、「たい」に鯛を掛けて、その大きさのギャップを強調しているのです。語感が気持ちいいですね。

ぜひとも声に出してみたいところ。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

そのてはくわなのやきはまぐり【その手は桑名の焼き蛤】むだぐち ことば



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

合点承知之助」や「恐れ入谷の鬼子母神」と並んで、今に生き残るもっとも知られたむだぐちです。

「その手は食わない」から東海道桑名と掛け、さらに、ご当地名物の焼き蛤を出しています。「その手」なので、これももともとは将棋からかもしれません。

焼き蛤の代わりに「四日市」「三日市」としている例もありますが、これは土地つながりだけで、しゃれとしての意味はありません。

「そうはいかない」の別のむだぐちには、「その手は食わぬ水からくり猿が臼挽き」「その手でお釈迦の団子こねた」などがあります。

「水からくり……」の方は、からくり仕掛けの子供のおもちゃで、猿が噴水の仕掛けで臼を挽くようになっているもの。

「からくり」→「魂胆はは見抜かれている」という警告と、「水」→「すべてパアになるからむだなこと」という嘲りを含んでいます。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

そろそろときたやましぐれ【そろそろと北山しぐれ】むだぐち ことば



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

「来た」と「北」を掛け、そこから、京都の北山から降りおろす時雨を出しています。

「北山時雨」はポピュラーな冬の季語。

昭和初期の小唄勝太郎から現代の川中美幸まで、歌謡曲の歌詞にもけっこう取り上げられています。

ここで厄介なのは、「来た山」としゃれる場合、慣用的に意味が複数あることです。

まずは、単純明快に誰かがやってきたの意。

ただ、「そろそろと」が付く場合、単に「そろそろ待ち人がやってきた」というほかに「やっとこっちの思惑通りになってきた、しめしめ」というニュアンスが加わることがあるので、要注意。

次に「腹が来た山」から「急に腹が減った」というスラング。

江戸時代には「腹が減った」ことを「腹が来た」と言いました。時雨は予期せず降ることから。

そこからもう一つ「気まぐれ」の異称にもなりました。

次に、同じ「来た」でも、異性に気があること。

「あいつは俺にきた山」など。

これは「恋心がきざした」ということでしょうが、一説には、京の北山の麓に、昔口寄せの巫女(霊媒)が出没したところから、「口寄せ」→接吻とエロチックな意味が付いたとか。

「北山」のしゃれには、ほかに「北山桜」「北山寒烏」「北山の宝心丹」など、これも多数。

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

こまりいりまめさんしょみそ【困り煎り豆山椒味噌】むだぐち ことば



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

「困り入リ(=困り果て)ました」の「入りま」に「煎り豆」を掛け、さらに豆の縁で、大豆の山椒煮から山椒味噌とつなげた、典型的なむだぐち。

意味は「困った」の一言だけで、以下はすべてしゃれでしかありません。

山椒は実が丸くてごろごろしているところから「ころり山椒」の異名があり、そこから「ころりと参った」=なすすべがない、という意味を含ませたのかもしれません。

「困る」のむだぐちも多く、「困った膏薬貼り場がねえ」「困り桐の木」「こまりたこ彦之進」「困り名古屋」「困りの天神」「困りの天満宮」「困り山の重忠」「困るに数の子」と、挙げれば切がありません。

最後のは正月料理の「ごまめ」と「困る」のダジャレ。つくづく神代の昔より、憂き世に悩みの種は尽きまじ、ですね。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

うまかったうしゃまけた【うまかった牛ゃ負けた】むだぐち ことば



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席


ダジャレを使った典型的なむだ口の例で、特に説明の必要もないかと思います。

「牛」の部分は「鹿」になることも。

牛と馬は、農村の二つの大きな柱で、ことわざや慣用句でもよく比較されます。

「牛を馬に乗り換える」「馬を買わんと欲してまず牛を買う」など。

いずれの場合にも牛は二番手扱い。

迅速と鈍重。イメージの差でしょうか。

古く、児童の遊戯で「馬か牛か」というのがありました。

下駄か草履をコイン代わりに投げ上げ、表か裏かを当てっこする他愛ないものですが、この場合も馬=表、牛=裏でした。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

はなみのあだうち【花見の仇討ち】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

 

どんな?

洒落がうつつに。
花見どころじゃありません。

別題:八笑人 花見の趣向 桜の宮(上方)

あらすじ

上野の桜も今が満開。仲のよい四人組。

今年は花見の趣向に、周りの人間をあっと驚かすことをやらかそうと相談する。

一人の提案で、敵討ちの茶番をすることに決めた。

一人が適当な場所で煙草をふかしていると、二人が巡礼に扮して通りかかり、
「卒爾(そつじ=失礼)ながら、火をお貸し願いたい」
と近づく。

「さあ、おつけなさい」
と顔を見合わせたとたん、
「やあ、なんじは、なんの誰兵衛よな。なんじを討たんがため、兄弟の者この年月の艱難辛苦。ここで逢ったが優曇華(うどんげ)の花咲き待ちたる今日ただ今、親の仇、いで尋常にィ、勝負勝負」
と立ち回りになる。

ころ合いを見計らって、もう一人が六部の姿で現れ、
「双方、ともに待った、待った」
と中に割って入り、
「それがしにお預けください」
「いざ、いざ」
と三人が刀を引いたら、
「後日、遺恨を含まぬため、仲直りの御酒一献差しあげたい」
「よろしきようにお任せ申す」
と、これから酒肴を用意して思い思いの芸尽くしを見せれば、これが趣向とわかり、やんやの大喝采、というもくろみ。

危なっかしいながらも、なんとか稽古をした。

さて翌朝。

止め男の六部役の半公、笈(おい)を背負って杖を突いた六部のなりで、御徒町まで来かかると、悪いことにうるさ方のおじさんにバッタリ。

甥の六部姿を見ると、てっきり家出だと思い込み
「べらぼうめ。一人のおふくろを残してどうするんだ。こっちィ来い」

強引に、家まで引きずっていく。

このおじさん、耳が遠いので弁解しても、いっこうに通じない。

しかたがないので酔いつぶそうとするが、あべこべに半公の方が酔っぱらって、高いびき。

こちらは巡礼の二人組。

一人が稽古のために杖を振り回したのが悪く、通りかかった侍の顔にポカリ。

「おのれ武士の面体に。無礼な巡礼。新刀の試しに斬ってつかわす。そこへ直れ。遠慮いたすな」

平謝りしても、許してくれない。

そこへもう一人の侍。

まあまあとなだめて
「ただの巡礼とは思えぬ。さぞ大望のあるご仁とお見受けいたす」

こうなればヤケで、二人は
「なにを隠そう、われわれは七年前に父を討って国許を出奔した山坂転太を……」
とデタラメを並べる。

侍二人は感心し、
「仇に出会ったら、必ず助太刀いたす」
と迷惑な約束。

一方、仇役。

いっこうに六部も巡礼も現れないのでイライラ。ようやく二人が見えたので
「おーい、こっち」

仇の方から呼んでいる。

予定通り
「いざ尋常に勝負勝負」
「かたはら痛い。両人とも返り討ちだ」
と立ち回りを始めるが、止め男の半さんが来ない。

三人とも斬り合いながら気が気でないが、今さらやめられない。

あたりは黒山の人だかり。

いいかげん間延びしてきたころ、悪いことに、騒ぎを聞いて現れたのがあの侍二人。

スパっと大刀を抜き、
「孝子両人、義によって助太刀いたすッ」
ときたから、たまらない。

仇も巡礼も、尻に帆かけて逃げだした。

「これ両名の者、逃げるにはおよばん。勝負は五分だ」
「いえ、肝心の六部が参りません」

底本:四代目橘家円蔵

【RIZAP COOK】

しりたい

作者は滝亭鯉丈  【RIZAP COOK】

滝亭鯉丈りゅうていりじょう(1777?-1841)が文政3年(1820)に出版した滑稽本『花暦八笑人』初編を(たぶん作者当人が)落語化したものです。

鯉丈は小間物屋のおやじでしたが、寄席に入り浸っているうちに本職になってしまい、落語家と音曲師を兼ねて人気を博した上、『八笑人』で一躍ベストセラー作家にもなりました。

鯉丈の著作で落語になったものとしては、『大山道中膝栗毛』からとった「猫の茶碗(猫の皿)」があります。

花暦八笑人  【RIZAP COOK】

この原作本は岩波文庫や講談社文庫で読めます。

岩波文庫は品切れ、講談社文庫は絶版ですが、今は古書もネットでたやすく買えるようになりました。

茶番(=素人芝居)をネタにし、八人の呑気者が春夏秋冬それぞれに、茶番の趣向で野外に繰り出し、滑稽な失敗を繰り返すという、くすぐり満載のドタバタ喜劇です。

この「花見の仇討ち」は初編、春の部にあたり、オチがないだけで、三人が逃げる場面まで筋やくすぐりもほとんど同じです。

のちに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が上方の型を参考に、現行により近い形にしましたが、大きな改変はしていません。

ちなみに第二編(夏)は、調子がおかしい人に扮した野呂松という男が馬に履かせるわらじを武士にぶつけて追いかけられるドタバタ。

第三編(秋)は、身投げ女に化けた卒八が両国橋から身を投げると、納涼の屋形船からこれを見ていた若い衆が、われもわれもと魚の面をかぶって飛び込むという、ハチャメチャ。

第四編(冬)はさるお屋敷で忠臣蔵の芝居(茶番)を興行したものの、例によって猪の尻尾に火がついて大騒ぎという次第です。

第二編以後は落語化されていませんが、どなたかアレンジしませんかね。材料が満載です。

優曇華  【RIZAP COOK】

うどんげ。仇討ちの口上の決まり文句です。優曇華はインドの伝説にある、三千年に一度咲く花。

正確な口上では、「盲亀の浮木優曇華の花待ち得たる今日の対面」といいます。

目の見えない亀が浮木を探しあてるのも、優曇華の花を見られるのも、いずれもめぐり逢うことが奇蹟に近いことの例えです。

これはあくまで芝居の話で、実際の仇討ちの場で、悠長にそんなことを言える道理がありません。

もっとも、仇討ちの実態はそんなもので、仇にめぐり逢えるケースはほとんどなく、空しく路傍に朽ち果てた者は数知れずでした。

六部  【RIZAP COOK】

ろくぶ。「一眼国」にも登場しましたが、正確には、六部(六十六部)と巡礼は区別されます。

早く言えば、六部は修行僧、巡礼は本来、西国三十三箇所の霊場を巡る俗人のみを指します。

六部は、古くは天蓋、笈、錫杖に白衣姿で、法華経六十六部を一部ずつ、日本六十六か国の国分寺に奉納して歩く僧ですが、江戸時代には納経の習慣はなくなりました。

巡礼は、現代の「お遍路さん」にも受け継がれていますが、男女とも、ふだん着の上から袖なしの笈鶴を羽織り、「同行二人」と書いた笠をかぶります。

これは、「常に弘法大師と同行」の意味。野村芳太郎監督の映画『砂の器』にも登場しました。

桜の宮  【RIZAP COOK】

上方では「桜の宮」。騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)が得意とし、そのやり方が子息の六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)や三代目桂米朝(中川清、1925-2015)に伝わりました。

東京では、明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、これに三代目三遊亭円馬が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。

円馬直伝の三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)を始め、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)など、戦後は多くの大看板が手がけています。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席