【授業中】じゅぎょうちゅう 落語演目 あらすじ
【どんな?】
小学校、国語の授業風景。生徒が教科書を朗読。
「くにさっだ忠治はいィィ男」
「どこサ、国定忠治なんで書いてある」
「あります」。見ると表紙に「国定教科書」
【あらすじ】
ある小学校に、ものすごいズーズー弁の先生が転任してきた。
最初の国語の授業。
「ツィみたつのスィんスィいわァ、どごがほがのガッコサぶっトンでィったッス」
「さ、みんな国語の本サおっぴろげて、本サ、おっぴろげろ。このヤロ、窓サ何でおっぴろげる。六十七ペーズ、おめえ立って読んでみろ」
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。ああわれ人ととめゆきて、涙さしぐみ帰りきぬ。山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」
「よぐ読みた。その隣」
「ヤヤ、ヤマヤマヤマ、ヤ、山のアナ、山のアナアナアナアナ」
「狸だね。なんで穴ばっかり探すんだ」
「先生、そいつはダメ。吃音です」
「いいからその先サやれ」
「アナアナ、アナアナ、あなた、あなた、もう寝ましょうよ」
「寝ましょうよだけ、なんでスッと出るんだこのヤロ」
その次は、えらくダミ声。
「十九番、広沢虎造」
「のど自慢じゃねー。早く読め」
「お粗末ながら。(浪曲の節で)やまのあなたのおォ、そおォらとおく、さいわいすむとォ、人ォのいう、ああわれ人とォ」
「ええどええど、もっとやれ」
「なんだい、ひどい先生だね」
十九番、調子に乗って
「なみださしぐみィィィィかえりィきぬゥゥゥ、とンビィがとんでェるあっかぎッやまァァ、おとォこ一匹どこまでとばすゥ、くにさっだ忠治はいィィ男」
「このバカヤロ、どこサ、国定忠治なんで書いてある」
「あります」
よく見ると、教科書の表紙に「国定教科書」。
底本:三代目三遊亭円歌
【うんちく】
国定教科書 【RIZAP COOK】
その昔、学校の教科書は国家が作成したものを使っていました。
それが国定教科書です。
国定教科書は、国家が定める教育内容を各科目一種類の教科書で統一して、各学校に使用させるものです。
その歴史を駆け足で振り返りましょう。
明治37年(1904)度から第1期。
教科内容としては最もリベラルなもので、リンカーンやナイチンゲールが登場しました。
尋常小学1年用の国語の教科書の冒頭は、以下のような変遷がありました。
明治43年(1910)度 第2期 「ハダ、タコ、コマ」
大正7年(1918)度 第3期 「ハナ、ハト、マメ、マス」
昭和8年(1933)度 第4期 「サイタサイタサクラガサイタ」
昭和16年(1941)度 第5期 「アカイアカイアサヒアサヒ」
第5期には「尋常小学校」から「国民学校」に名称が変わりました。
敗戦直後には戦勝国の規制のもと、「墨塗り教科書」に。新たに教科書を作成する余裕がなかったわけ。
先生の指示のもと、民主日本にふさわしくない表現箇所に生徒がそれぞれに墨で塗りつぶしていったのです。
昭和22年(1947)度 第6期 「みんないいこ」
第6期からは、片仮名書きから平仮名書きに。
昭和24年(1949)度で国定教科書が終わり、複数の検定教科書時代に移り、現在にいたっています。
この噺の時代は戦前らしいのですが、カール・ブッセがいつ入っていたかは寡聞にして知りません。
「中沢信夫(円歌の本名)」氏の小学校入学時は第4期の「サイタサイタサクラ」教科書のはずです。
国定忠治 【RIZAP COOK】
侠客でも義賊でもなく、実際はただの逃亡殺人犯。
処刑のちょうど五か月前、中風で倒れ、ほどなく逮捕されたときはもう落ちぶれていたようです。
嘉永3年(1851)12月21日(1月22日)、カラっ風吹きすさぶ上州吾妻郡大戸村で磔刑に。享年40。戒名は遊道花楽居士。墓は生まれ在所の上州佐位郡国定村の養寿寺。
山のあなた 【RIZAP COOK】
この噺で一躍有名になった、ドイツ新ロマン派詩人カール・ブッセ(1872-1918)の詩です。
原題はUberdenBergenで、日本では上田敏(1874-1916)の訳詩集『海潮音』(明治38年=1905)でよく知られるようになりました。
広沢虎造 【RIZAP COOK】
昭和期、一世を風靡した浪曲師。本名・山田信一(1899-1964)。東京出身で、大阪の広沢虎吉門下。大正11年(1922)に真打ち。
得意は「スシ食いねえ」の「清水次郎長伝」、志ん生が落語版をやった「夕立勘五郎」、この噺に登場する「国定忠治」「天保六花撰」など。
山のあな、あな…… 【RIZAP COOK】
前述のように、三代目三遊亭円歌は本名中沢信夫、日蓮宗の法名円法。昭和4年(1929)1月10日、東京生まれ。
以上が定説でしたが、生前期の落語協会公式サイトでは「1932年1月10日」となっていて、3歳サバを読んでいました。真偽不明、奇ッ怪至極。
山手線新大久保駅員を経て、昭和20年(1945)9月、二代目円歌に入門。
前座名は歌治で、昭和23年(1948)4月、歌奴で二つ目。
昭和33年(1958)10月、同名で真打昇進。昭和45年(1970)10月、三代目円歌を襲名。
「授業中」は自作自演の新作で、昭和42年(1967)、爆発的に売れました。
「山のアナ」は流行語になり、歌奴はたちまち、テレビにひっぱりだこの売れっ子スターに。
続いて「浪曲社長」「月給日」「肥満小型」「中沢家の人々」など、ヒットを連発。
長く人気を保ち、平成8年(1996)、落語協会会長に就任。平成29年(2017)4月23日、山のあなたへ旅立ちました。享年88(85)。
それにしてもこの噺、今聴けば古色蒼然。なぜあんなに受けたのか。
この噺を解析すると当時の世相がわかるかもしれません。
落語家に日蓮宗の信徒が多いのは円朝の時代からのならいです。
ただ、この人の場合は、日蓮宗に出家して「円法」という法名をいただくほどでした。