もといぬ【元犬】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

白犬が願掛けて、ついに人間に……。
前座噺。やり方次第で腕の見せどころ。

別題:戌の歳 白犬

【あらすじ】

浅草蔵前の八幡さまの境内に、珍しい純白の犬が迷い込んだ。

近所の人が珍しがって、白犬は人間に近いというから、きっとおまえは来世で人間に生まれ変われるというので、犬もその気になって、人間になれますようにと八幡さまに三七、二十一日の願掛け。

祈りが通じたのか、満願の日の朝、一陣の風が吹くと、毛皮が飛んで、気がつくと人間に。うれしいのはいいが、裸ではしょうがないと、奉納手拭いを腰に巻いた。

人間になったからはどこかに奉公しないと飯が食えないと困っているところへ、向こうから、犬の時分にかわいがってくれた口入れ屋の上総屋かずさや吉兵衛。

奉公したいので世話してくれと頼むと、誰だかわからないが、裸でいるのは気の毒だと、家に連れていってくれる。

ところが、なかなか犬の癖が抜けない。

すぐ這って歩こうとするし、足を拭いた雑巾ぞうきんの水は飲んでしまうわ、尻尾があるつもりで尻は振るわ、干物ひものを食わせれば頭からかじるわ。着物も帯の着け方も知らない。

「どこの国の人だい」
と首をかしげた旦那、
「おまえさんはかなり変わっているから、変わった人が好きな変わった人を紹介しよう」
と言って、近所の隠居のところに連れていくことにした。

隠居は色白の若い衆なので気に入り、引き取ることにしたが、やたらに横っ倒しになるので閉口。

ウチは古くからのお元という女中がいるから、仲よくしとくれと念を押すと、根掘り葉掘り、身元調査。

「生まれはどこだ」
と尋ねると、
乾物屋かんぶつやの裏の掃き溜めで」
という。

「おとっつぁんは酒屋のブチで、お袋は毛並みのいいのについて逃げた。兄弟は三匹で、一方は大八車にひかれ、もう一方は子供に川に放り込まれてあえない最期」

なにか変だと思って、名前はと聞くと
「ただのシロです」

隠居、勘違いして
「ああ、只四郎ただしろうか。いい名だ。いま、茶を入れよう。鉄瓶がチンチンいってないか、見ておくれ」
「あたしは、チンチンはやりません」
「いや、チンチンだよ」
「やるんですか」

シロがいきなりチンチンを始めたので、さすがの隠居も驚いた。

「えー、茶でも煎じて入れるから、焙炉ほいろをとんな。そこのほいろ、ほいろ」
「うー、ワン」
「気味が悪いな。おーい、おもとや、もとはいぬ(=いない)か」
「へえ、今朝けさほど人間になりました」

しりたい

志ん生得意のナンセンス噺   【RIZAP COOK】

「ホイロ」の部分の原話は、文化12年(1815)刊『滑稽福笑こっけいふくわらい』中の「焙炉ほいろ」で、その中では、主人とまぬけな下男の珍問答の形になっています。

大阪でも同じ筋で演じられますが、焙炉のくだりはなく、主人が「今朝わんを持ってこい」と言いつけると「ワン」と吠えるという、単純なダジャレの問答になります。

明治期では三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が「戌の歳」、二代目(禽語楼)柳家小さん(大藤楽三郎、1848-98)が「白狗」と題して速記を残しています。心学から発想された噺なのだそうです。心学の考え方は落語のすみずみに影響を与えていますね。

戦後では八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が得意で、よく高座に掛けました。柳枝のでは、上総屋の旦那だけ、シロが犬から変身したことを知っている設定でした。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も、噺の発想自体の古めかしさや、オチの会話体としての不自然さを補ってあまりある、ナンセンスなくすぐり横溢おういつで十八番に。

志ん生没後はあまり演じ手がありませんでしたが、最近、荒唐無稽な発想がかえって新鮮に映るのか、やや復活のきざしが。

人か獣か、獣か人か  【RIZAP COOK】

オチは陳腐ですが、この噺のユニークさは、「人が犬に」ではなく、逆に、「犬が人に」転生するという、発想の裏をついている点でしょう。その人間に生まれ変わった犬の立場に立って、その心理・行動から噺を組み立てています。こういう視点は、よくある輪廻りんね因縁いんねんばなしの脆弱ぜいじゃく点を突くもので、ありそうであまりありません。

考えてみれば、『ジャータカ』(釈迦しゃか前世ぜんせ物語)で、釈迦は人から獣へ、獣から人へと、無数の転生てんしょうを繰り返します。ネイティブ・アメリカンはコヨーテやバッファローや馬や犬と人間は渾然こんぜん一体、いつでも精神的、肉体的に動物に変身できると信じていました。

転生というものは「可逆的」でなければおかしいのかなと思うのですが、仏教の輪廻説話では、人が前世の悪業あくごう畜生ちくしょうに転生させられるという、一方的なものばかりです。に落ちません。

「千夜一夜物語」では、魔法でよく人が獣に変身させられますが、一時的に姿が変わっても、主人公はあくまで「人間」です。

これは、人間があくまで「万物の霊長」で、それが畜生道にちてロバやオウムになることはあっても、その逆は受け入れられないという意識の表れなのでしょうか。

とすれば、その意識の壁を破ったこの噺、実は落語史上に残る傑作、なのかも知れません。

蔵前八幡  【RIZAP COOK】

東京都台東区蔵前三丁目。元禄7年(1694)、石清水八幡いわしみずはちまん勧請かんじょうした(招いた)ので、石清水正八幡宮の正式名があります。

白犬は人間に近いのか  【RIZAP COOK】

ことわざで、心学の教義、または仏教の転生説話が根拠と思われます。

なぜ特に白犬なのかは、いまだ不勉強のためよくわかりません。

焙炉  【RIZAP COOK】

ほいろ。茶葉を火にかけて乾かす道具です。木枠や籠の底に、和紙を張って作ります。

現在ではほとんど姿を消し、骨董屋をあさらないと拝めません。

志ん生のくすぐり  【RIZAP COOK】

(上総屋):「おい、食いついちゃいけないよ。人間が猫に食いつくんじゃありません。おいッ、なんだってそう片足持ちゃげて小便するんだよ。……あとをにおいなんぞ嗅ぐんじゃねえってんだ」

「元人」を信じた詩人  【RIZAP COOK】

フレデリック・ミストラル(1830-1914)は、カトリック信仰の強固な南仏には珍しく、輪廻転生を信じていました。プロバンスの桂冠詩人にして、ノーベル文学賞受賞の作家です。

ある日、ミストラルは突然迷い込んだ犬の目を見たとたん「これは人間の目だ(笑)」。以来、この19世紀最高の知性の一人は、終生、この「パン・ペルデュ」と名付けられた犬が死んだ知人か先祖の生まれ変わりと信じ、文字通りの人間としての「待遇」で養ったとか。別に「人面犬」の都市伝説ではないのでしょうが。

以上は「元犬」ならぬ「元人」の例ですが、人と犬の、古代からの霊的(?)結びつきを象徴する、なかなか不気味な逸話です。

ミストラルの直感が本当なら、「犬の目」の医者は名医中の名医ということになります。

【語の読みと注】
焙炉 ほいろ:炉にかざして茶などを焙じる道具

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

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