ごしょううなぎ【後生鰻】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

小動物を放つと功徳(よい報い)が。
本末転倒のばかばかしさ。
珍妙無比の最高傑作です。
これはもう志ん生のが絶品。

別題:放生会ほうじょうえ 淀川(上方)

【RIZAP COOK】

あらすじ

さる大家たいけ(金持ち)の主人。

すでにせがれに家督(財産)を譲って隠居の身だが、これが大変な信心家で、殺生せっしょう(生き物を殺す)が大嫌い。

夏場に蚊が刺していても、つぶさずに、必死にかゆいのをがまんしているほど。

ある日、浅草の観音さまへお参りに行った帰りがけ、天王橋のたもとに来かかった。

ちょうど、そこの鰻屋のおやじが蒲焼きをこしらえようと、ぬるりぬるりと逃げる鰻と格闘中。

隠居、さっそく義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。

「あたしの目の黒いうちは、一匹の鰻も殺させない」
「それじゃあ、ウチがつぶれちまう」
と、すったもんだの末、二円で買い取って、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳くどくをした」

翌日。

同じ鰻屋で、同じように二円で。

ボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

その翌日はスッポンで、今度は八円とふっかけられた。

「生き物の命はおアシには換えられない、買いましょう」
「ようがす」
というわけで、またボチャーン。

これが毎日で、喜んだのは鰻屋。

なにしろ隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、たちまち左うちわ。

仲間もうらやんで、
「おい、おめえ、いい隠居つかめえたな。どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」
などという連中も出る始末。

ところがそのうち、当の隠居がぱったりと来なくなった。

少しふっかけ過ぎて、ほかの鰻屋にまわったんじゃないかと、女房と心配しているところへ、久しぶりに向こうから「福の神」。

「ちょっとやせたんじゃないかい」
「患ってたんだよ。ああいうのは、いつくたばっちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくっとこう」

ところが、毎日毎日隠居を当てにしていたもんだから、商売は開店休業。

肝心の鰻もスッポンも、一匹も仕入れていない。

「生きてるもんじゃなきゃ、しょうがねえ。あの金魚……ネズミ……しょうがねえな、もう来ちゃうよ。うん、じゃ、赤ん坊」

生きているものならいいだろうと、先日生まれたわが子を裸にして、割き台の上に乗っけた。

驚いたのは隠居。

「おいおい、その赤ちゃん、どうすんだ」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「ばか野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」

隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

後生  【RIZAP COOK】

ごしょう。昔はよく「後生が悪い」とか「後生がいい」とかいう言い方をしました。後生とは仏教の輪廻転生説でいう、来世のこと。

現世で生き物の命を助けて功徳(よい行い=善行)を積めば、生まれ変わった来世は安楽に暮らせると、この隠居は考えたわけです。

五代将軍徳川綱吉(1646-1709)の「生類憐みの令」も、この思想が権力者により、ゆがんだ、極端な形で庶民に強制された結果の悲劇です。

悲劇と言い切れるかどうか。昨今は、綱吉の治世が再評価されてつつあります。社会福祉優先、文化優先の善政であった、と。これは別の機会に。

  【RIZAP COOK】

江戸市中に鰻の蒲焼きが大流行したのは、天明元年(1781)の初夏でした。てんぷらも、同じ年にブームになっています。

それまでは、鰻は丸焼きにして、たまり醤油などをつけて食べられていたものの、脂が強いので、馬方など、エネルギーが要る商売の人間以外は食べなかったとは、よく言い習わされている説ですね。

それまでも、眼病治療には効果があるので、ヤツメウナギの代わりとして、薬食いのように食べられることは多かったようです。

屈指のブラック名品  【RIZAP COOK】

オチが効いています。

こともあろうに、落語にモラルを求める野暮で愚かしい輩は、ごらんの結末ゆえに、この噺を排撃しようとしますが、料簡違いもはなはだしい。

このブラックなオチにこそ、えせヒューマニズムをはるかに超えた、人間の愚かしさへの率直な認識が見られます。

一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような名編の一つでしょう。

志ん生、金馬のやり方  【RIZAP COOK】

上方落語の「淀川」を東京に移したものです。明治期では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)がそれぞれの個性で得意にしていました。

志ん生、金馬は、信心家でケチな隠居が、亀を買って放してやろうとし、一番安い亀を選んだので、残った亀が怒って、「とり殺してやるっ」という小ばなしをマクラにしていました。

小円朝は、ふつう隠居が「いい功徳をした」と言うところを、「ああ、いい後生をした」とし、あとに「凝っては思案にあたわず」と付け加えるなど、細かい工夫、配慮をしていました。

この噺は、別題を「放生会ほうじょうえ」といいます。

これは旧暦八月十五日に生き物を放してやると功徳を得られるという、仏教行事にちなんだものです。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

ねこさだ【猫定】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

おもしろくて、なかなかの傑作。
円生没後は、雲助が。
三三もおはこに。

【あらすじ】

八丁堀玉子屋新道たまごやじんみちの長屋に住む、魚屋定吉という男。

肩書は魚屋だが、実態は博徒ばくと

朝湯の帰り、行きつけの三河屋という居酒屋で一杯やっていると、二階でゴトゴト音がする。

てっきり博打を開帳していると思って聞いてみると、実は店の飼い猫で、泥棒癖があるので、ふん縛って転がしてあるのが暴れる、という。

川にほうり込んで殺してしまうというので、それくらいなら、といくらか渡して譲り受けた。

これが全身真っ黒で、いわゆる烏猫からすねこ

大の猫嫌いのかみさんに文句を言われ、しかたなく始終懐に入れて出歩くうち、猫はすっかりなついたので、これを熊と名付け、一杯やるごとになでながら、「恩返しをしろよ」と言い聞かせる。

猫は魔物というから、ひょっとするとと思い、試してみると、賽の目で丁(奇数)が出たときは「ニャー」と一声、半(偶数)が出たときは二声鳴く。

何度くり返しても全部当てるので、これはいいと喜び、さっそく賭場に連れて行ってたちまち大もうけ。

いつも猫を連れてくるところから「猫定」とあだ名がついた。

この定吉、しばらくして、江戸にいては具合の悪いことができ、二月ばかり旅に出ることになった。

猫を連れては行けないので、かみさんに「大切にしてくれ」と預けて江戸を離れたそのすきに、かみさんのお滝が若い燕を引き込んだ。

こうなると、亭主がじゃま。

ほとぼりが冷め、江戸に戻った猫定は全くそれに気づかない。

ある日、愛宕下の薮加藤やぶかとうという旗本屋敷で博打ばくちの開帳があり、猫定が猫を連れて泊まり掛けで出かけた留守に、かみさんは間男まおとこを呼んで相談し、亭主をそろそろ片づける算段。

一方、定吉。

この日に限って猫がうんともすんとも鳴かず、おかげで大損してしまう。

しかたなく、早めに見切りをつけ、熊がどこか具合が悪いのかと心配しながら、通りかかった夜更けの采女うねめヶ原がはら

折からざあっと篠つく雨。

立ち小便をしているすきを狙い、後をつけていた間男が、棕櫚箒しゅろぼうきの先を削いだ竹槍で、横腹をブッスリ。

あっという間に、姿を消す。

家で待っていたかみさん。

急に天井の引き窓のひもがぶっつり切れ、なにか黒い物が飛び込んできて、悲鳴をあげたのがこの世の別れ。

翌朝、月番がお滝の死骸むくろを見つけ、長屋中大騒ぎ。

間もなく定吉の死骸が発見されたが、かたわらで間男が喉を噛みちぎられて、これも死んでいた。

検死も済んで、その晩は通夜。

一人が線香が切れているので火をつけようとひょいと見ると、すさまじい形相をした二人の死骸が、目をぱっちりと見開いて立っているから、驚いたのなんの。

みんな逃げ出し、残ったのは目の見えない按摩あんまの三味の市だけ。

大家が来て、魔がさしたんだと言っているところへ、所用から遅く帰った信州松本の浪人・真田某がやってくる。

真田は話を聞き、あたりを調べると、腰張りの紙がぺらぺらっと動き、その度にホトケが踊り出すので、さてはあやしいと脇差わきざしでブッツリと突くと、黒猫が両手に人の喉の肉をつかんで息絶えていた。

さては猫が恩返しに仇討ちをしたのだと、これが評判になり、町奉行・根岸肥前守ねぎしひぜんのかみが二十五両の金を出し、両国回向院えこういんに猫塚を建てて供養したという、猫塚の由来。

【RIZAP COOK】

しりたい

玉子屋新道  【RIZAP COOK】

東京都中央区八丁堀3丁目、旧八丁堀岡崎町にあった路地です。

付近に玉子屋があったのでこの名がついたと思われますが、詳細は未詳です。

采女ヶ原  【RIZAP COOK】

うねめがはら。東京都中央区銀座5丁目。現在の歌舞伎座前から新橋演舞場にかけて広がっていた馬場です。旧采女町(1869-1931)。

享保9年(1724)まで、伊予今治藩(10万石)の第四代藩主、松平采女正定基まつだいらうねめのしょうさだもと(1687-1759、久松松平家)の上屋敷がありました。屋敷はこの年全焼し、麹町三丁目に移されました。

「釆女」は古代の官職で、天皇や皇后に近侍して食事や雑事の世話をする人。宮内省に属する官司(役人)です。「釆女正」は「うねめのかみ」で、その役所の長官のこと。この官職は平安中期以降はなくなってしまったようですが、武家官職には使われ続けました。武家の世界にはこんな仕事があるわけないのですが、語呂がよかったのでしょうか、「釆女正」は残りました。「うねめのしょう」と呼んでいたようです。武家官職はもはやまったくの名ばかりで、官職名を名前代わりに呼び合っていたものです。「小栗上野介おぐりこうずけのすけ」とか「石田治部いしだじぶ」とか「大石内蔵助おおいしくらのすけ」とか「勝安房かつあわ」とか。

松平家が移されたため、この地は空き地となりました。3年ほど後に馬場が開かれました。ここを釆女ヶ原と呼ぶようになったのです。釆女橋は昭和5年(1930)に架けられましたが、釆女町という町名からの由来です。すべては、松平釆女正定基まつだいらうねめのしょうさだもとの上屋敷があったところからの発端です。

幕末には、見世物小屋や露店、講釈場などが並ぶ、ちょっとした繁華街、行楽地となっていました。夜が更けると、追いはぎが出没する物騒なところでした。

釆女ヶ原では、馬場文耕ばばぶんこうナ(中井文右衛門、1718-59)が講釈を打っていた時期があったそうです。伊予(愛媛県)の出身で、幕府御家人の経験もあったという浪人。伊予の人ですから、釆女ヶ原ともどこかで縁があったのかもしれません。文耕の住まいは松島町(日本橋人形町)で、そこから通っていました。たいした距離ではありません。馬場文耕という名も釆女ヶ原の馬場で講釈するおのれのなりを名乗ったのですね。

文耕はその後、金森騒動かなもりそうどうを講釈にして、幕府の裁可が下る前に見てきたような講釈をしていたところから、目をつけられて御用に。結局、市中引き回し、打ち首となりました。講釈師の犯罪では異例の重罪でした。幕藩体制の恐怖政治は、この時期には十分機能していたわけです。この話はまた別の機会に。

猫は魔物  【RIZAP COOK】

「猫忠」「猫怪談」ほかで、猫の怪異は落語ではおなじみです。

この俗信を利用し、熱い鉄板の上に放り投げて訓練した猫が、条件反射で踊りだすのを、「化け猫」と称して見世物にすることがありました。

テネシー・ウィリアムズもはだしで逃げ出す、てえとこでしょうなぁ。

もっとも、中世ヨーロッパでは「アダムの子」にこれをやったらしく、グリム童話に、悪い王妃に真っ赤に焼けた鉄の靴をはかせて処刑するシーンがありました。

猫じゃ猫じゃ  【RIZAP COOK】

前項の猫踊りを「猫じゃ猫じゃ」といい、三味線の合い方で

♪猫じゃ猫じゃとおっしゃいますな  猫が下駄はいて絞りの浴衣で来るものか  おっちょこちょいのちょい

と、囃します。

俗曲にもなり、明治から昭和初期にかけて音曲の名人で、「女大名」の異名をとった、前の立花家橘之助(1868-1935)が得意にしました。

魚屋定吉  【RIZAP COOK】

魚屋を詐称した博徒は、「梅若礼三郎」でも登場しました。詳しくは、そちらをご参照ください。

通夜は猫又除け  【RIZAP COOK】

通夜は、かつては夜明かしするのが常でした。

昔は、死亡の判定がかなりいい加減で納棺後どころか、土葬した後でも吸血鬼のごとく蘇る亡者が少なくなかったためでしょう。

加えて、線香が絶えると不吉とされ、猫又が取り憑いて亡者に魔がさすという恐怖から、「猫怪談」のような騒動を防ぐための魔除けの意味もあったわけです。

まあ、本当に蘇生したホトケでも、魔がさしたと疑われ、よってたかって本当に殺されたということも、あったかも知れませんが。

なお、噺の結びに登場する回向院の猫塚は今も鼠小僧次郎吉の墓の前にあります。

当然、魔物のたたりを封じ込めるための供養塔ですが、鼠が猫封じとは、何やら物事があべこべですね。

ようやく雲助が復活  【RIZAP COOK】

大正期には、二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)が得意にしました。

その後、五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946、赤馬生、おもちゃ屋の)がよく高座に掛けたのを、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)が習い覚えて工夫を加え「円生百席」にも選びました。

古風な噺なので、円生没後、あまり演じ手がいませんでしたが、五街道雲助が復活。

柳家三三も、2007年に独演会で演じました。

円生没後も久しく、どの噺もこの噺も「円生百席」止まりでは困るので、現役がこうしたネタを一回限りでなく、新たに十八番にして後世に伝えてほしいものです。

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

おうじのきつね【王子の狐】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

狐が人に化かされてひどい目にあった、
という、江戸前のはなしです。

別題:乙女狐(上方)、高倉狐(上方)

あらすじ

神田あたりに住む経師屋の由さん。

王子稲荷に参詣の途中、道灌山の原っぱに来かかると、なんと、大きな狐が昼寝中。

「ははーん、狐は人を化かすというが、こう正体を現しているなら、俺が逆にこうつをたぶらかしてやろう」
といたずら心を起こし、狐に
「もし、姐さん、こんな所で寝ていちゃ、風邪ひくよ」

起こされた狐は、出し抜けに姐さんと呼ばれたから、あわててビョンと飛び上がり、十八、九の美人にたちまち化けた。

正体がバレたとも知らず、これはいいカモだと、
「私は日本橋あたりの者で、乳母を連れて王子稲荷に参りましたが、はぐれてしまい、難渋しております。あなたはどなた?」

由さん、笑をかみ殺し、
「自分は神田の者だが、日本橋はすぐそばなので送ってあげたい、ただ空腹なので、途中、なにかごちそうしたい」
と持ちかけた。

狐は成功疑いなしと、ワナとも知らず、喜んでエサに食いつく。

連れ立って稲荷を参拝した後、土地の海老屋という料理屋の二階に上がる。

盃のやりとりをするうち、狐はすっかり油断して、酒をのみ放題。

ぐでんぐでんになると、いい心持ちで寝入ってしまう。

由さん、しめたとばかり喜んで、土産物をたんまり持ち、帳場に、
「二階の連れは疲れて寝込んでいるから、そのままにしてやってくれ、起きたら勘定はあっちが持つから」
と言い置くと、風を食らってドロン。

さて、料理屋の方では、そろそろ勘定をというので、二階に仲居が上がってみると、狐は酔いつぶれてすっかり化けの皮がはがれ、頭は狐、体はまだ女、足は毛むくじゃらで大きな尻尾を出すという、まさに化物。

仲居の悲鳴で駆けつけた男どもが
「やや、こりゃ狐。さては先刻帰った男も、うむ、太いやつだ」
と寄ってたかってさんざんに打ちのめしたから、狐はたまらず、命からがら逃げだした。

一方、由さん。

かえってこの自慢話をすると、年寄りに
「狐は稲荷の使い。そんなイタズラをすれば必ずたたるから、ボタ餠でも持ってわびに行け」
とさとされて、道灌山へ戻ると、子狐が遊んでいる。

聞けば、おっ母さんが人間に化かされたあげく、全身打撲と骨折の重傷とか。

由さん、さてはと合点して平謝り。

餠を子狐に渡すと、ほうほうの体で逃げ帰った。

子狐は、ウンウンうなっている母狐に、
「おっかさん、人間のオジサンがボタ餠を持ってあやまりに来たよ。たべようよ」
「お待ち。たべちゃいけないよ。馬の糞かもしれない」

【RIZAP COOK】

しりたい

原話は江戸  【RIZAP COOK】

正徳2年(1712)刊江戸板『新話笑眉』巻1の11の「初心な狐」が原話といわれます。

これは、狐が、亀戸の藤を見物に行く男を化かそうとして、美貌の若衆に変身し、道連れになります。

男はとっくに正体を見破っていますが、そ知らぬ顔でだまされたふりをし、狐の若衆に料理屋でたっぷりとおごってやります。

別れた後、男がこっそりと跡をつけると、案の定、若衆は狐の穴へ。

狐が一杯機嫌で、得意そうに親狐に報告すると、親狐は渋い顔で、「このばか野郎。てめえが食わされたなあ、馬糞だわ」

「高倉狐」  【RIZAP COOK】

この原話は江戸のものですが、落語としては上方で磨かれ、「高倉狐」として口演されました。

こちらは、東京のものと大筋は同じですが、舞台が大坂高津の高倉稲荷境内、狐を連れ込む先が、黒焼きと並んで高津の名物の湯豆腐屋の2階となっています。

東京には、明治16年(1883)、真打に昇進直後で、当時23歳の初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が逆移入したものです。

古い速記では、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)のものが残っています。

先の大戦後では、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)の十八番として知られ、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も得意でした。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)や五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)を経て、現在も多くの演者に継承されています。

類話「乙女狐」  【RIZAP COOK】

上方には、「高倉狐」「王子の狐」と筋はほとんど同じながら、舞台が大坂の桜の宮で、二人の男との化かしあいに負けた狐が、「眉に唾をつけておけばよかった」、または「今の素人には油断がならん」というオチの「乙女狐」があります。「高倉狐」は、この噺の改作ではないかともいわれます。

狐の悪行は世界共通  【RIZAP COOK】

狐の出てくる噺は多いものです。

「稲荷車」
「稲荷の土産」
「今戸の狐」
「王子の狐」
「王子の白狐」
「お盆」
「蛙の子」
「狐つき」
「狐と馬」
「木の葉狐」
「九尾の狐」
「けつね」
「七度狐」
「初音の鼓」
「紋三郎稲荷」
「安兵衛狐」
「吉野狐」

思いついただけでも、ざっとこんなに。

狐は「稲荷の使い」として特別な呪力を持つものと、日本では古くから見なされてきましたが、ずるい動物という認識は東西同じなのか、フランスの「狐物語」、ドイツの「ライネッケ狐」など、手に負えない狐の話は世界中に流布伝承されています。

王子稲荷  【RIZAP COOK】

東京都北区岸町1丁目。
稲荷の本体は倉稲魂、または御食津神で、どちらにしても穀物神。五穀豊穣を司ります。王子稲荷社は、関東の稲荷の総社です。

大晦日には関東一帯の狐がご機嫌伺いに集まるので、狐火が連なって松明のようになると伝えられてきました。

歌川広重が「名所江戸百景」の内で、「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」。王子稲荷の怪異「狐松明」を描いています。狐が顔の近くに狐火を浮かべているのが見えます。

歌川広重「名所江戸百景」の内「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

志ん生流は抱腹絶倒  【RIZAP COOK】

料理屋の二階で、狐と人間が、互いに相手を化かそうと虚々実々の腹の探りあいを演じるおかしさが、この噺の一番の聞かせどころです。

そのあたりは、江戸の昔から変わらない、政財界の妖怪同士による、料亭談合のカリカチュアの趣ですね。

五代目古今亭志ん生の「扇屋二階の場」は抱腹絶倒です。

前半の2人(1匹と1人)のやりとりでは、男が「油揚げでも……」と口走って、あわてて口を押さえたり、疑わしげに「これ、お酒だろうねェ?」と確かめたあと、まだ眉唾で、肥溜めでないかと畳のケバをむしってみたりするおかしさ。

「第二場」では、だまされたと知って茫然自失の狐が、思わず「化けてるやつがふァーッと、半分出てきたン」で、帯の間から太い尻尾がニュー、耳が口まで裂けて……とか、狐退治に2階に押し上げられた源さんが、内心びくびくで、「狐けェ? オロチじゃねえのか。俺ァ天狗があぐらァけえていやがんのかと」と、強がりを言うシーンなど。

筋は同じでも、ここらの天衣無縫のくすぐりのつけ方が、まさに志ん生ならではです。

同時に、狐を悪獣として憎むのではなく、むしろ隣人として、いたずらっ子を見るまなざしで、どこかで愛し、いとおしんできた江戸人の血の流れが、志ん生の「王子の狐」を聴き、速記を読むと、確かに伝わります。

海老屋と扇屋  【RIZAP COOK】

男が狐同伴で揚がりこむ料理屋は、古くは海老屋、現行ではほとんど、扇屋で演じます。海老屋は、扇屋と並ぶ土地の代表的な大店で、扇屋は武家屋敷、海老屋は商家や町人筋がおもな顧客でした。

したがって、町人の登場するこの噺には、海老屋の方がふさわしかったのですが、残念ながら明治初年に廃業したので、昭和以後では、現存の扇屋に設定することが多くなったのでしょう。

扇屋の方は、慶安年間(1648-52)の創業で、釜焼きの厚焼き卵の元祖として名高い老舗です。

【語の読みと注】
経師屋 きょうじや
道灌山 どうかんやま
倉稲魂 うかのみたま
御食津神 みけつかみ

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うしのがんやく【牛の丸薬】落語演目

スヴェンソンの増毛ネット

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【どんな?】

短い噺です。
けっこう複雑な構成にも。

別題:牛の丸子

【あらすじ】

大和炬燵やまとごたつ(土製の小型の四角いあんか)の古くなったのをいじっているうちに、これで丸薬を作ってひともうけしてやろうと思いついた甚兵衛。

炬燵に水を加えて土団子をこしらえ、仲間の喜六と二人で田舎に売りに行く。

牛の流行病の特効薬だと、甚兵衛が農民を言いくるめていくうちに、喜六がキセルでコショウの粉を牛にかがせ、クシャミを連発するとすかさず「丸薬」を飲ませた上、水を浴びせてコショウを洗い流し、治してみせる。

トリックに引っ掛かった農民、まんまとだまされて辺りに触れ回ったため、われもわれもと殺到して、見事に売り切れる。

思惑が当たった甚兵衛と喜六、笑が止まらない。

「全部売れた。ハハハハハ」
「あんまり笑うな。バレる」
「ハハハハ」
「笑うなってのに」
「しかし甚兵衛さん、懐が暖まったもんだね」
「当たり前だ。基はコタツなんだから」

【しりたい】

上方落語を東京に移植

上方落語「牛の丸子がんじ」を、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)が東京に移したものです。おそらく昭和に入ってからでしょう。

先の大戦後、大阪から東京に出て活躍した二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)がオリジナル版を初めて紹介。

その後、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)が、「あらすじ」に示したような純粋な「べらんめえ版」で演じましたが、現在、東京では、やり手がいません。

「がんじ」は今でいう錠剤(丸薬)のことですが、わかりにくいので、いまではこの題名は使われていません。

米朝説 民話のにおい

「壷算」などと同様、一種のサギ噺で、民話がルーツと思われますが、原話は不明です。

ちくま文庫版『桂米朝コレクション4』に、現在唯一、この噺の古格を伝えている三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の速記及び解説があります(音源なし)。

その中で同師は「私は何となく民話とのつながりを感じます。(中略)大昔は、悪賢い狡い人間は、ある意味で尊敬されていたのではないか。時代とともに、古い昔がたりに教訓的なものが付加されてゆき、すべて勧善懲悪的なはなしになっていったのかと思われるのです」と、述べています。

上方版・二つの流れ

米朝は五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)と四代目桂文団治(水野音吉、1878-1962、杉山文山)両巨匠のものを聞き覚えしたとのことですが、この噺は実際、大阪では笑福亭系統と桂派、二通りの演出の流れがあったようです。

ふたたび米朝師の前掲書を引用すると「五世松鶴型の演出が文団治型と大きく違うところは、キセルに胡椒を詰めて牛の鼻に吹き込むことを、その村にかかるまで一切言わずに、土の丸薬をいったいどうするのか、聴客にもその時まで知らさないやり方」ということで、ご自身はこちらで演じているそうです。

この噺の後継者は、米朝門下の二代目桂枝雀(前田達、1939-1999)と、五代目松鶴の孫弟子にあたる三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)でした。

大和炬燵

黒土の素焼で、小型のアンカです。上部が丸く、布が張ってあり、中は火鉢になっていて、たどんを入れて暖めたもの。

昭和初期まで、関西地方では使われていました。

スヴェンソンの増毛ネット

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ねこかいだん【猫怪談】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

やり方次第でどうとでもなる魅力的な噺。

円生のお気に入りでした。

【あらすじ】

浅草蛤町の長屋に住む、与太郎。

幼いころに両親が死んで、身よりもなく路頭に迷うところを引き取って育ててくれた恩人の親分が急にあの世へ行ってしまっても、ぽおっとしているばかり。

見かねた大家がしかりつけた。

葬式を出さなくては、と、長屋の衆から香典を集めてもらうなどして二分の金をこしらえ、早桶を買う。

ホトケを一晩でもよけいに置けばそれだけ銭がいるから、今夜のうちに寺に送ってしまおうという世話人の意見。

月番の羅宇屋の甚兵衛を片棒に頼み、後棒を与太郎、大家が提灯を持って先に歩くという三人連れで、早桶を担いで長屋を出た。

目的地は、谷中の寺。

提灯の明りだけが頼りという暗く寂しい道を、真夜中、上野の森下の弁天町あたりにさしかかる。

時候は霜が下りようという、初冬の寒いさなか。

前棒を担ぐ甚兵衛は大の臆病者だ。

加えて与太郎が能天気に
「もうそろそろ出る時分」
だの、
「出る方にきっと請け合う」
だのとよけいなことを言うから、甚兵衛はすくみ上がる。

死人が早桶からにゅっと手を出して背中をたたきゃしないかと、足もおちおち前に進まない。

甚兵衛が
「肩を替えて後棒に回りたい」
というので交替することになったが、与太郎が力まかせに、頭越しに桶を投げて入れ替わろうとした拍子に縄が切れ、ホトケがにゅっと飛び出した。

直そうとして与太が桶の縁をたたいたのが悪く、タガが外れて早桶はバラバラに。

前代未聞だが、早桶の替えを買わなくてはならなくなり、死人を外に寝かせたまま、与太を番に残し、大家と甚兵衛は出かける。

さすがの与太郎も少し薄気味悪くなってきたころ、魔がさしたか、寝かせておいた親分の死骸がぴくりぴくり。

見ている与太郎の前にちょんと座り、こわい顔でゲタゲタ笑う。

仰天して思わず横っ面を張り倒すと、また起き上がり、今度は宙に上がったり下りたり、両手を振って、ひょっこりひょっこり踊り。

与太郎が恐怖のあまり、
「ヨイコラ、ヨイコラ、セッ」
とはやすと、急に上空に舞い上がり、風に乗って上野の森の中へ入ってしまった。

……で、それっきり。

帰ってみて驚いたのは、大家と甚兵衛。

なんせ、せっかく早桶の新しいのを担いできたのに、今度はホトケがない。

与太郎がわけを話すと甚兵衛、恐ろしさで腰が抜けた。

このホトケ、三日目に浅草安部川町の伊勢屋という質屋の屋根に突然、降ってきた。

身元もわからず、しかたがないので店で改めて早桶をしつらえ、始末をしたという。

一人のホトケで三つの早桶を買ったという、不思議でアホらしい「谷中奇聞猫怪談」。

【しりたい】

ひょっこりひょっこり踊り

円生はただ「ぴょこぴょこ」と言っていました。

歌舞伎で、仰向けに寝ていて、手をつかず弾んで飛び起きるというアクロバット的なトンボを「ひょっくり」と呼ぶので、死骸が空中を飛び跳ねるのを、それにたとえたのでしょう。

魔物の正体

噺の中では「魔がさした」と説明されます。

死骸が突如動き出したり、口をきいたりすることで、年月を経て魔力を持った猫のしわざと考えられていました。

つまり、死霊やゾンビでなく、この場合は、死骸はあやつり人形にすぎません。

「捻兵衛」では、首吊り死体が八公を脅かして無理に歌わせなどしますが、これも実は猫の魔力によるもの。

「猫定」でも化け猫が人に憑りつきます。

明治時代の玉輔の速記には、猫の記述はありませんが、当時の客は、こういうくだりを見ればすぐわかったので、特に言及の必要はなかったのでしょう。

円生バージョンでは、題名もはっきり「猫怪談」とし、猫の魔力も、十分にマクラで説明しています。

効果的な後日談

事実上のオチは、(甚兵衛)「ぬ、抜けました」(大家)「しょうがねえな、また桶の底が抜けたか」(甚兵衛)「いえ、あたしの腰が」という最後の会話ですが、それで終わっては噺の結末として不十分なので、あらすじにご紹介の通り、玉輔も円生も最後に後日談を、地で説明して終わっています。

円生は死骸が落ちてきた先を、「七軒町の上総屋」としていました。

与太郎の「深い孤独」

円生は、四代目玉輔にこの噺を教わった三遊亭円駒(三代目小円朝門下、1899-1976)に移してもらったと語っています。

円駒は、曲芸の海老一染之助、染太郎兄弟の父親です。

昭和5年(1930)ごろから円駒を名乗り、同10年(1935)に長唄囃子に転向しているので、円生が教わったのは昭和初期、橘家円蔵時代でしょう。

円生は、与太郎に養父を親分でなく、おとっつあんと呼ばせ、幼年期のあわれなその境涯を大家がしみじみと語る場面を加えることで、単なるばかでなく、孤独な、血肉を持った人間として描きました。

「与太郎が親父の亡骸の前で『おとつぁん、なぜ死んだんだ』という。ばかとは言っても、肉親を失って悲しい。その思いを与太郎の言葉で言うところがこの噺の特徴」と、芸談として自ら語ったように、玉輔のものにはなかった人情噺の要素を加え、この噺に厚みを与えています。

三人が早桶を担いで暗い道を行く場面、怪異が現れるシーンでも、円生は訥々とした本格の怪談噺の語り口を通しています。

珍しい「爆笑怪談」

原話は不詳。元は長い人情噺か世話講談の一部だったのが、独立したものと見られます。

「不忍の早桶」と題した明治42年(1909)の、四代目五明楼玉輔(1855-1935)の速記が残ります。

先の大戦後では六代目円生、八代目正蔵の両巨匠が手掛けましたが、速記や音源が残るのは前者のみです。

円生は、その集大成である「円生百席」にもこの噺を入れています。

気にいった噺だったのでしょう。「捻兵衛」「七度狐」などと同じく、あまり類のない怪談喜劇です。

【語の読みと注】
羅宇屋 らおや

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ごんべえだぬき【権兵衛狸】落語演目

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【どんな?】

狸が人を化かす噺。
名人がこぞってやっています。

別題:とんとん権兵衛(上方) 化け物

【あらすじ】

権兵衛という、渡し守を兼ねているお百姓。

夜になると寝酒を一杯飲んで寝るだけが何よりの楽しみという、慎ましい暮らしをしている。

最近、毎晩決まってトントンと戸をたたく音がし、
「権兵衛、権兵衛」
と呼ぶ声がするので、外に出てみると誰もいない。

おおかた、狸のいたずらだろうと見当がついたが、これがあまり続くため、権兵衛、だんだん腹が立ってきた。

「野郎、明日の晩来てみやがれ。ひどい目に逢わしてやる」

刻限を見計い、戸の陰に立って見張っているのだが、なかなかどうして、捕まらない。

狸はますます調子に乗ったのか、三日目の晩も四日目の晩も相変わらず、
「トントン、トントン、権兵衛、権兵衛」

ある晩、来たなと思って戸口で出し抜けに
「なんだァ?」
と返事をして急にガラリと戸を開けると、不意を食らった狸はびっくりして家の中に転がり込み、目を回した。

権兵衛は狸を細引きでグルグル巻にふん縛って土間に転がしておく。

「さあ、どうしてくれべえか」
といろいろ考えたが、狸汁にして食ってみたところで、あまりうまいとは思えない。

それよりも、二度とこんな悪さをする気を起こさないように、こらしめて放してやることにして、仲間に手伝ってもらい、剃刀かみそりで狸の頭を寄ってたかってくりくり坊主にした上で追い払う。

さすがに、これにはこたえたと見え、それから八日ほどはやってこない。

ヤレヤレと安心していると、九日目の晩、
「トントントン、権兵衛さん」
「野郎、また来やがって。今度はさん付けだ。たぶらかそうったって、そうは問屋がおろさねえだぞ。この間のように痛い目にあいてえか」

外で狸が、
「もう決していたずらはしないからちょっと開けてください」
と、いやにしおらしく頼むので、権兵衛、しかたなしに戸をガラリと開けた。

「何の用だ」
「ええ、先日はまことにどうも」
「あんだ、まだ不服があるだか」
「春先でのぼせていけませんから、すいませんが、もういっぺん剃ってくださいな」

【しりたい】

大看板が好んで競演

あまりおもしろい噺とも思えませんが、明治の昔には四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)など、円朝門下の錚々とうとうたる名人連が手掛けました。

昭和以後も、円蔵直伝の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)ほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)から七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)にいたるまで、名だたる大看板はほとんどレパートリーに入れています。

四代目円喬の「化物」

明治の四代目橘家円喬は「化け物」と題し、「権兵衛狸」の後に、狐が人を化かす小ばなしを付け、オムニバスで演じた速記を残しています。

そのあらすじは……。

浅茅あさじはら(台東区石浜二、三丁目にあった原野)に悪狐が出没し、いきなり金玉を蹴飛ばして悶絶させ、食物を奪うので、馬方うまかたの九郎兵衛が退治しようと見張っていると、狐が現れて馬糞の団子をこしらえ、近所の娘に化けて九郎兵衛の家に行く。かみさんがころりとだまされたので、あわてて戻った九郎兵衛が、それは馬糞だと言おうとしたとたんに、金玉を蹴られる。気がつけば蹴ったのは自分の馬、のぞいていた家の戸の節穴は馬の尻の穴。

「権兵衛狸」そのものが小ばなしとして扱われていたのがわかります。

権兵衛

地方出身者の代名詞ですが、『江戸語の辞典』(前田勇編、講談社学術文庫)に、「男女児の生後七日に産髪を全部剃り落とし、盆窪ぼんのくぼのみに剃り残した毛髪」とあります。

狸がクリクリ坊主にされることと掛けて、演題が付けられたものと思われます。

オチ

「髭もついでにあたってくんねえ」と、狸が伝法でんぽうに言うやり方もあります。

これだと、タヌ公の「性格」が変わり、すご味が出ますね。

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うしほめ【牛褒め】落語演目

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【どんな?】

与太郎はバカなのか、稀代の風刺家なのか。いつまでたっても謎のままです。

別題: 新築祝い  池田の牛褒め(上方) 

【あらすじ】

少々たそがれ状態の与太郎。

横町の源兵衛が痔で困っているとこぼすので
「尻に飴の粉をふりかけなさい。アメふって痔かたまるだ」
とやって、カンカンに怒らせた。

万事この調子なので、おやじの頭痛の種。

今度おじの佐兵衛が家を新築したので、その祝いにせがれをやらなければならないが、放っておくと何を口走るかしれないので、家のほめ方の一切合切、-んで含めるように与太郎に教え込む。

「『家は総体檜づくりでございますな。畳は備後の五分べりで、左右の壁は砂摺りでございますな。天井は薩摩の鶉杢(うずらもく)で。けっこうなお庭でございますな。お庭は総体御影づくりでございますな』と、こう言うんだ」

まねをして言わせてみると、「家は総体へノコづくり、畳は貧乏でボロボロで、佐兵衛のカカアはひきずりで、天井はサツマイモとウヅラマメ、お庭は総体見かけ倒しで」と、案の定、コブだらけにされそう。

しかたなくおやじがセリフをかなで書いてやる。

まだ先があって、
「これから、おじさんの土手っ腹をえぐる」
「出刃包丁で」
「ばか野郎。理屈でえぐるんだ。台所の大黒柱の真ん中に、おおきな節穴が空いていて、なんとか穴が隠れる方法はないかとおじさんが気にしている。そこでおめえが、『そんなに気になるなら、穴の隠れるいい方法をお教えましょう』と言うんだ。おじさんが『何を言ってやがる』という顔をしたら、『台所だけに、穴の上に秋葉さまのお札を張りなさい。穴が隠れて火の用心になります』。これを言やあ、感心して小遣いくらいくれる。それから、牛を買ったってえから、それもほめるんだ。『天角、地眼、一黒、鹿頭、耳少、歯合でございます』と、こう言う」

与太郎、早速出掛けて、よせばいいのに暗唱したので
「佐兵衛のカカアはひきずりで」
をそのままやってしまい、雲行きが悪くなって慌ててメモを棒読み。

なんとか牛まで済んだ。

おじさんは喜んで、
「ばかだばかだと心配していたが、よくこれだけ言えるようになった」
とほめ、一円くれる。

そのうち、牛が糞をしたので、おじさんが
「牛もいいが、あの糞には困る。いっそ尻の穴がない方がいい」
とこぼすと与太郎、
「おじさん、穴の上へ秋葉様のお札を張りなさい」
「どうなる?」
「穴が隠れて、屁の用心にならあ」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

元祖はバカ婿ばなし

原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一中の「鈍副子第二十話」です。

これは、間抜け亭主(婿)が、かみさんに教えられて舅宅に新築祝いの口上を言いに行き、逐一言われた通りに述べたので無事にやりおおせ、見直されますが舅に腫れ物ができたとき、また同じパターンで「腫れ物の上に、短冊色紙をお貼りなさい」とやって失敗するものです。

各地の民話に「ばか婿ばなし」として広く分布していますが、宇井無愁は、日本の結婚形態が近世初期に婿入り婚から嫁取り婚に代わったとき、民話や笑話で笑いものにされる対象もバカ婿からバカ息子に代わったと指摘しています。

それが落語の与太郎噺になったのでしょうが、なかなかおもしろい見方ですね。

「ばか婿ばなし」の名残は、現行の落語でも「あわびのし」「舟弁慶」などにそのまま残っています。

円喬も手がけた噺

天保4年(1833)刊で初代林屋正蔵編著の噺本『笑富林わらうはやし』中の「牛の講釈」が、現行の噺のもとになりました。なので、九代目正蔵も、本家として大いにやっていいわけです。

一応前座噺の扱いですが、明治の名人・四代目橘家円喬の速記もあります。

円喬のオチは「秋葉さまのお札をお貼りなさい」で止めていて、「穴がかくれて屁の用心」のダジャレは使っていません。さすがに品位を重んじたというわけでしょう。

なお、大阪では「池田の牛ほめ」「新築祝い」の題で演じられ、お札は愛宕山のものとなっています。

東京でも、「新築祝い」で演じるときは、後半の牛ほめは省略されることがほとんどです。

「畳は備後の五分べりで……」

備後は備後畳のことで、五分べりは幅1.5センチのものです。薩摩の鶉杢(=木)は屋久杉で、鶉の羽色の木目があります。

「佐兵衛のカカアはひきずりで」

引きずりはなまけ者のこと。もともと、遊女や芸者、女中などが、すそをひきずっているさまを言いましたが、それになぞらえ、長屋のかみさん連中がだらしなく着物をひきずっているのを非難した言葉です。

秋葉さま

秋葉大権現のことで、総社は現・静岡県周智郡春野町にあります。

秋葉山頂に鎮座し、祭神は防火の神として名高いホノカグツチノカミ。

江戸の分社は現・墨田区向島四丁目の秋葉神社で、同じ向島の長命寺に対抗して、こちらは紅葉の名所としてにぎわいました。

「天角、地眼……」

天角は角が上を向き、地眼は眼が地面をにらんでいることで、どちらも強い牛の条件です。

あとの「一黒、鹿頭、耳小、歯違」は、体毛が黒一色で頭の形が鹿に似て、耳が小さく、歯が乱ぐい歯になっているものがよいということです。

宇井無愁によると、農耕に牛を使ったのは中部・北陸以西で、それ以東は馬だったので、「屁の用心」でお札を貼るのも、民話ではそれを反映して東日本では馬の尻、西日本では牛の尻と分かれるとか。

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