【莨の火】たばこのひ 落語演目 あらすじ
借り癖のお大尽
【どんな?】
もとは上方の噺。林家彦六が持ってきたといわれています。
【あらすじ】
柳橋の万八という料理茶屋にあがった、結城拵、無造作に尻をはしょって甲斐絹の股引き、白足袋に雪駄ばきという、なかなか身なりのいい老人。
欝金木綿の風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋への祝儀二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間を総揚げに。
自分はニコニコ笑って、それを肴にのんでいるだけ。
その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。
「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。
いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋だった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」
包みの中には、小判がぎっしり。
これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花咲爺さんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」
「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂の屋敷前で止まった。
奈良茂ならご贔屓筋で、だんなや番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。
不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方はだんなの兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれ旦那」。
奇人からついた異名とのこと。
ときどき千両という「ホコリ」がたまるので、江戸に捨てにくるのだ、という。
事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、糠の代わりに小判で埋めてもらえたんだ」
腰が抜けた喜助。
帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車をこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鳶頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。
これでだんなの機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。
ちょうど三日目。
あばたれだんなが現れると、総出でお出迎え。
「ああ、ありがとう、ありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」
【しりたい】
上方落語を彦六が移植
上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年(1932)に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)の直伝で覚え、東京に移植したものです。
正蔵(当時は三代目三遊亭円楽)は、このとき「唖の釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、初代悟道軒円玉(浪上義三郎、1866-1940)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。
東京では彦六以後、継承者はいません。
上方版モデルは廻船長者
本家の上方では、初代桂枝太郎(岩本宗太郎、1866-1927)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。
上方の演出では、主人公を、和泉佐野の大物廻船業者で、菱垣廻船の創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。
「飯の」とは食野家のこと。江戸中期から幕末まで和泉国日根郡佐野(大阪府泉佐野市)をベースに繁栄した豪商の一家です。 屋号は「和泉屋」です。同地で栄えた唐金家ととつねにセットに語られました。
江戸期の全国長者番付『諸国家業自慢』でも上位に載っています。ちなみに、和泉佐野は戦国末期から畿内の廻船業の中心地でした。
この一家は、元和年間(1615-24)に江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。
鴻池は新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯の旦那が鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションです。
上方の舞台は、大坂北新地の茶屋綿富となっています。
江戸の料理茶屋
宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。
有名な山谷の懐石料理屋八百善は、それ以前の享保年間(1716-36)の創業です。文人墨客の贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。
日本橋浮世小路の百川、向島の葛西太郎、洲崎の升屋などが一流の有名どころでした。
江戸のバンダービルト
奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。
もとは深川で足袋商いなどをしていた小店者でしたが、四代目奈良屋茂左衛門勝豊(?-1714)のときに、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築きました。
その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門(1669?-1734)と張り合ったといわれていますが、多分に伝説的な話で、信憑性はありません。
噺の格好の材料にはなりました。初代から三代目までは小商いでした。
四代目の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の七代目あたりまでは栄えていました。
その後、家運は徐々に衰えましたが、幕末まで存続していたそうです。