【猫定】ねこさだ 落語演目 あらすじ

成城石井 ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 むだぐち 故事成語

 

【どんな?】

おもしろくて、なかなかの傑作。
円生没後は、雲助が。
三三もおはこに。

【あらすじ】

八丁堀玉子屋新道たまごやじんみちの長屋に住む、魚屋定吉という男。

肩書は魚屋だが、実態は博徒ばくと

朝湯の帰り、行きつけの三河屋という居酒屋で一杯やっていると、二階でゴトゴト音がする。

てっきり博打を開帳していると思って聞いてみると、実は店の飼い猫で、泥棒癖があるので、ふん縛って転がしてあるのが暴れる、という。

川にほうり込んで殺してしまうというので、それくらいなら、といくらか渡して譲り受けた。

これが全身真っ黒で、いわゆる烏猫からすねこ

大の猫嫌いのかみさんに文句を言われ、しかたなく始終懐に入れて出歩くうち、猫はすっかりなついたので、これを熊と名付け、一杯やるごとになでながら、「恩返しをしろよ」と言い聞かせる。

猫は魔物というから、ひょっとするとと思い、試してみると、賽の目で丁(奇数)が出たときは「ニャー」と一声、半(偶数)が出たときは二声鳴く。

何度くり返しても全部当てるので、これはいいと喜び、さっそく賭場に連れて行ってたちまち大もうけ。

いつも猫を連れてくるところから「猫定」とあだ名がついた。

この定吉、しばらくして、江戸にいては具合の悪いことができ、二月ばかり旅に出ることになった。

猫を連れては行けないので、かみさんに「大切にしてくれ」と預けて江戸を離れたそのすきに、かみさんのお滝が若い燕を引き込んだ。

こうなると、亭主がじゃま。

ほとぼりが冷め、江戸に戻った猫定は全くそれに気づかない。

ある日、愛宕下の薮加藤やぶかとうという旗本屋敷で博打ばくちの開帳があり、猫定が猫を連れて泊まり掛けで出かけた留守に、かみさんは間男まおとこを呼んで相談し、亭主をそろそろ片づける算段。

一方、定吉。

この日に限って猫がうんともすんとも鳴かず、おかげで大損してしまう。

しかたなく、早めに見切りをつけ、熊がどこか具合が悪いのかと心配しながら、通りかかった夜更けの采女うねめヶ原がはら

折からざあっと篠つく雨。

立ち小便をしているすきを狙い、後をつけていた間男が、棕櫚箒しゅろぼうきの先を削いだ竹槍で、横腹をブッスリ。

あっという間に、姿を消す。

家で待っていたかみさん。

急に天井の引き窓のひもがぶっつり切れ、なにか黒い物が飛び込んできて、悲鳴をあげたのがこの世の別れ。

翌朝、月番がお滝の死骸むくろを見つけ、長屋中大騒ぎ。

間もなく定吉の死骸が発見されたが、かたわらで間男が喉を噛みちぎられて、これも死んでいた。

検死も済んで、その晩は通夜。

一人が線香が切れているので火をつけようとひょいと見ると、すさまじい形相をした二人の死骸が、目をぱっちりと見開いて立っているから、驚いたのなんの。

みんな逃げ出し、残ったのは目の見えない按摩あんまの三味の市だけ。

大家が来て、魔がさしたんだと言っているところへ、所用から遅く帰った信州松本の浪人・真田某がやってくる。

真田は話を聞き、あたりを調べると、腰張りの紙がぺらぺらっと動き、その度にホトケが踊り出すので、さてはあやしいと脇差わきざしでブッツリと突くと、黒猫が両手に人の喉の肉をつかんで息絶えていた。

さては猫が恩返しに仇討ちをしたのだと、これが評判になり、町奉行・根岸肥前守ねぎしひぜんのかみが二十五両の金を出し、両国回向院えこういんに猫塚を建てて供養したという、猫塚の由来。

【RIZAP COOK】

しりたい

玉子屋新道  【RIZAP COOK】

東京都中央区八丁堀3丁目、旧八丁堀岡崎町にあった路地です。

付近に玉子屋があったのでこの名がついたと思われますが、詳細は未詳です。

采女ヶ原  【RIZAP COOK】

うねめがはら。東京都中央区銀座5丁目。現在の歌舞伎座前から新橋演舞場にかけて広がっていた馬場です。旧采女町(1869-1931)。

享保9年(1724)まで、伊予今治藩(10万石)の第四代藩主、松平采女正定基まつだいらうねめのしょうさだもと(1687-1759、久松松平家)の上屋敷がありました。屋敷はこの年全焼し、麹町三丁目に移されました。

「釆女」は古代の官職で、天皇や皇后に近侍して食事や雑事の世話をする人。宮内省に属する官司(役人)です。「釆女正」は「うねめのかみ」で、その役所の長官のこと。この官職は平安中期以降はなくなってしまったようですが、武家官職には使われ続けました。武家の世界にはこんな仕事があるわけないのですが、語呂がよかったのでしょうか、「釆女正」は残りました。「うねめのしょう」と呼んでいたようです。武家官職はもはやまったくの名ばかりで、官職名を名前代わりに呼び合っていたものです。「小栗上野介おぐりこうずけのすけ」とか「石田治部いしだじぶ」とか「大石内蔵助おおいしくらのすけ」とか「勝安房かつあわ」とか。

松平家が移されたため、この地は空き地となりました。3年ほど後に馬場が開かれました。ここを釆女ヶ原と呼ぶようになったのです。釆女橋は昭和5年(1930)に架けられましたが、釆女町という町名からの由来です。すべては、松平釆女正定基まつだいらうねめのしょうさだもとの上屋敷があったところからの発端です。

幕末には、見世物小屋や露店、講釈場などが並ぶ、ちょっとした繁華街、行楽地となっていました。夜が更けると、追いはぎが出没する物騒なところでした。

釆女ヶ原では、馬場文耕ばばぶんこうナ(中井文右衛門、1718-59)が講釈を打っていた時期があったそうです。伊予(愛媛県)の出身で、幕府御家人の経験もあったという浪人。伊予の人ですから、釆女ヶ原ともどこかで縁があったのかもしれません。文耕の住まいは松島町(日本橋人形町)で、そこから通っていました。たいした距離ではありません。馬場文耕という名も釆女ヶ原の馬場で講釈するおのれのなりを名乗ったのですね。

文耕はその後、金森騒動かなもりそうどうを講釈にして、幕府の裁可が下る前に見てきたような講釈をしていたところから、目をつけられて御用に。結局、市中引き回し、打ち首となりました。講釈師の犯罪では異例の重罪でした。幕藩体制の恐怖政治は、この時期には十分機能していたわけです。この話はまた別の機会に。

猫は魔物  【RIZAP COOK】

「猫忠」「猫怪談」ほかで、猫の怪異は落語ではおなじみです。

この俗信を利用し、熱い鉄板の上に放り投げて訓練した猫が、条件反射で踊りだすのを、「化け猫」と称して見世物にすることがありました。

テネシー・ウィリアムズもはだしで逃げ出す、てえとこでしょうなぁ。

もっとも、中世ヨーロッパでは「アダムの子」にこれをやったらしく、グリム童話に、悪い王妃に真っ赤に焼けた鉄の靴をはかせて処刑するシーンがありました。

猫じゃ猫じゃ  【RIZAP COOK】

前項の猫踊りを「猫じゃ猫じゃ」といい、三味線の合い方で

♪猫じゃ猫じゃとおっしゃいますな  猫が下駄はいて絞りの浴衣で来るものか  おっちょこちょいのちょい

と、囃します。

俗曲にもなり、明治から昭和初期にかけて音曲の名人で、「女大名」の異名をとった、前の立花家橘之助(1868-1935)が得意にしました。

魚屋定吉  【RIZAP COOK】

魚屋を詐称した博徒は、「梅若礼三郎」でも登場しました。詳しくは、そちらをご参照ください。

通夜は猫又除け  【RIZAP COOK】

通夜は、かつては夜明かしするのが常でした。

昔は、死亡の判定がかなりいい加減で納棺後どころか、土葬した後でも吸血鬼のごとく蘇る亡者が少なくなかったためでしょう。

加えて、線香が絶えると不吉とされ、猫又が取り憑いて亡者に魔がさすという恐怖から、「猫怪談」のような騒動を防ぐための魔除けの意味もあったわけです。

まあ、本当に蘇生したホトケでも、魔がさしたと疑われ、よってたかって本当に殺されたということも、あったかも知れませんが。

なお、噺の結びに登場する回向院の猫塚は今も鼠小僧次郎吉の墓の前にあります。

当然、魔物のたたりを封じ込めるための供養塔ですが、鼠が猫封じとは、何やら物事があべこべですね。

五街道雲助師が復活  【RIZAP COOK】

大正期には、二代目三遊亭金馬(碓井米吉、1868-1926、お盆屋の、碓井の)が得意にしました。

その後、五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946、赤馬生、おもちゃ屋の)がよく高座に掛けたのを、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)が習い覚えて工夫を加え「円生百席」にも選びました。

古風な噺なので、円生没後、あまり演じ手がいませんでしたが、五街道雲助が復活。

柳家三三も、2007年に独演会で演じました。

円生没後も久しく、どの噺もこの噺も「円生百席」止まりでは困ります。

現役がこうしたネタを一回限りでなく、新たに十八番にして後世に伝えてほしいものです。われわれも楽しみたい。

【RIZAP COOK】



 

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