じごくのがっこう【地獄の学校】落語演目

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【どんな?】

紺屋こうやの六兵衛が手違いで地獄へ。
あらましを学校を通してが紹介されます。
なんとも不思議な。
こんな学校、あっても行きたくないし。

【あらすじ】

深川六間堀に住む、紺屋の正直六兵衛。

昨夜、酔ったはずみで商売物の緑青ろくしょうを飲んでしまい、気がついた時は、もう六道ろくどうの辻。

道連れになった坊さんに、極楽に行く道はどこか教えてくれと頼むと、拙僧せっそうもよくわからないと言う。

そこへ鬼がやってきて、二人はたちまち閻魔大王えんまだいおうの前に引き出される。

まず坊さんが、娑婆しゃばの行状を映しだす浄玻璃じょうはりの鏡にかけられると、いや、悪行が映るわ映るわ、朱の衣も何もきれいにほうり出し、芸者を揚げて酒池肉林のドンチャン騒ぎ。

たちまち、地獄墜ちと決まった。

次は六兵衛の番。

震えて、自分は娑婆では正直六兵衛と異名を取り、嘘は一度もついたことがないから、どうぞ、極楽へやってくれと頼むが「黙れ。その方は紺屋こうや。紺屋のあさってと申し、染め物がいつできますと聞かれるといつもあさってと申す。嘘ばかりついているではないか」

形勢が悪いところへ、十大王の一人が、それは商売上しかたないので、この者が悪いのではないし、赤鬼や青鬼の服もだいぶ近ごろ色せてきているから、紺屋が来たのを幸い、これを染め替えさせよう、と助け船。

三日だけ地獄で仕事をすれば、極楽へ上げてやると言われて、六兵衛は大喜び。

その間にも、いろいろな亡者もうじゃが来る。

ガラッ八という博打ばくち打ちが連れてこられ「マゴマゴしゃあがると土手っ腹蹴破って鉄の棒を突っ通し、鬼の漬け焼きをこしれえるぞ」と啖呵たんかを切って暴れるので、鬼どもが怒ってぶち生かしてしまったりする騒ぎの後、六兵衛は六道銭一枚もらって、地獄の盛り場のさいの河原で遊んでこいと言われ、喜んで地獄見物。

河原には芝居小屋や寄席が所狭しと並び、大にぎわい。

死んだ名優や大真打ちがすべて出演している。

そのうち河原学校という看板が見えたので入っていくと、子供がぞろぞろいて、先生は石の地蔵さま。

地蔵が黒板に字を書いて、生徒に読ませる。

「そもそも地獄の数々は、一百三十六地獄、あまねく人の聞き知るは、阿鼻地獄あびじごく、堕地獄、阿鼻焦熱、熱鉄地獄、修羅地獄、凍渇地獄、針の山。オーライ芸者の不見転みずてんも、見る目ぐ鼻拘引し、処刑は拘留一週間」

カンカンと鐘が鳴り、授業終わり。

地蔵「無常の鐘が鳴ったから、枕飯まくらめしにしよう」

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底本:初代三遊亭金馬(→二代目小円朝)

【うんちく】

明治の新作

具体的な原話は不詳です。明治中期の新作です。

地獄めぐりを題材にした安永3(1774)年刊の滑稽本「針の供養」や、同じ明治に初代三遊亭円遊が改作した同趣向の「地獄八景(地獄旅行)」などを種本にして作られた噺と思われます。

明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(芳村忠次郎、1858-1923、→二代目三遊亭小円朝)の速記が唯一の口演記録ですが、同人の作かどうかはわかりません。

娑婆の教科書のパロディー

この学校で使われている、「そもそも地獄の数々は……」で始まる教材を地蔵先生は「八方奈落国尽」と説明しています。

「奈落」は芝居で使われる用語ですが、もともとの意味は地獄のこと。「国尽くし」は、諸国の名前を列挙して子供に朗唱させて覚えさせるための教材です。

江戸時代の寺子屋の教科書として、「日本国尽」などさまざまな「国尽くし」が作られていました。

明治2年(1869)、福沢諭吉(1835-1901)が『世界国尽』を刊行。仮名垣魯文(野崎文蔵、1829-94)がその翌年、『苦界ふみ尽し』としてこれをパロディー化しました。

この地獄版国尽くしは、それらの民衆(児童)教化本のそのまたパロディーです。

初めは地獄の数々について述べていますが、ごらんの通りだんだん怪しくなります。

あらすじでは略しましたが、途中の「ひっぱりぢごく、旅ぢごく、淫売ぢごくの常として」あたりから、最下級の遊女を「地獄」と呼ぶことにからめて、だんだんげびたものになってきます。

明治の娼妓規制を反映

朗唱の終わりの「処刑は拘留一週間」には当時の社会的な背景があります。

明治6年(1873)に東京府知事により「貸座敷渡世規制」「娼妓規制」「芸妓規制」が立て続けに発布され、私娼や芸者らの「個人営業」の売春を厳しく取り締まることになった、という世相です。

以後、売春は個人・業者共に鑑札制になり、そうした稼業の者を市内数カ所に集め、いわゆる「赤線地帯」が設けられました。

「不見転」は、誰とでも関係を持つ芸者をいう言葉です。

「オーライ」も同じで、往来で「交渉」することと、英語をもじって「ダレでもOK]とが掛けられています。

浄玻璃の鏡

娑婆における亡者の善悪の行為を、すべて映し出す鏡。

人は死ぬ間際に、自分の一生をあますところなく鮮やかに思い出すといわれますが、そのことの象徴でもあるのでしょう。

今なお評価の高い中川信夫監督の『地獄』(1960)でも、効果的に使われていました。

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じゅぎょうちゅう【授業中】落語演目

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【どんな?】

小学校、国語の授業風景。生徒が教科書を朗読。
「くにさっだ忠治はいィィ男」
「どこサ、国定忠治なんで書いてある」
「あります」。見ると表紙に「国定教科書」

あらすじ

ある小学校に、ものすごいズーズー弁の先生が転任してきた。

最初の国語の授業。

「ツィみたつのスィんスィいわァ、どごがほがのガッコサぶっトンでィったッス」

「さ、みんな国語の本サおっぴろげて、本サ、おっぴろげろ。このヤロ、窓サ何でおっぴろげる。六十七ペーズ、おめえ立って読んでみろ」

「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。ああわれ人ととめゆきて、涙さしぐみ帰りきぬ。山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」

「よぐ読みた。その隣」
「ヤヤ、ヤマヤマヤマ、ヤ、山のアナ、山のアナアナアナアナ」
「狸だね。なんで穴ばっかり探すんだ」
「先生、そいつはダメ。吃音です」
「いいからその先サやれ」
「アナアナ、アナアナ、あなた、あなた、もう寝ましょうよ」
「寝ましょうよだけ、なんでスッと出るんだこのヤロ」

その次は、えらくダミ声。

「十九番、広沢虎造」
「のど自慢じゃねー。早く読め」
「お粗末ながら。(浪曲の節で)やまのあなたのおォ、そおォらとおく、さいわいすむとォ、人ォのいう、ああわれ人とォ」
「ええどええど、もっとやれ」
「なんだい、ひどい先生だね」

十九番、調子に乗って
「なみださしぐみィィィィかえりィきぬゥゥゥ、とンビィがとんでェるあっかぎッやまァァ、おとォこ一匹どこまでとばすゥ、くにさっだ忠治はいィィ男」
「このバカヤロ、どこサ、国定忠治なんで書いてある」
「あります」

よく見ると、教科書の表紙に「国定教科書」。

底本:三代目三遊亭円歌

【RIZAP COOK】

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うんちく

国定教科書 【RIZAP COOK】

その昔、学校の教科書は国家が作成したものを使っていました。

それが国定教科書です。

国定教科書は、国家が定める教育内容を各科目一種類の教科書で統一して、各学校に使用させるものです。

その歴史を駆け足で振り返りましょう。

明治37年(1904)度から第1期。

教科内容としては最もリベラルなもので、リンカーンやナイチンゲールが登場しました。

尋常小学1年用の国語の教科書の冒頭は、以下のような変遷がありました。

明治43年(1910)度 第2期 「ハダ、タコ、コマ」
大正7年(1918)度 第3期 「ハナ、ハト、マメ、マス」
昭和8年(1933)度 第4期 「サイタサイタサクラガサイタ」
昭和16年(1941)度 第5期 「アカイアカイアサヒアサヒ」

第5期には「尋常小学校」から「国民学校」に名称が変わりました。

敗戦直後には戦勝国の規制のもと、「墨塗り教科書」に。新たに教科書を作成する余裕がなかったわけ。

先生の指示のもと、民主日本にふさわしくない表現箇所に生徒がそれぞれに墨で塗りつぶしていったのです。

昭和22年(1947)度 第6期 「みんないいこ」

第6期からは、片仮名書きから平仮名書きに。

昭和24年(1949)度で国定教科書が終わり、複数の検定教科書時代に移り、現在にいたっています。

この噺の時代は戦前らしいのですが、カール・ブッセがいつ入っていたかは寡聞にして知りません。

「中沢信夫(円歌の本名)」氏の小学校入学時は第4期の「サイタサイタサクラ」教科書のはずです。

国定忠治 【RIZAP COOK】

侠客でも義賊でもなく、実際はただの逃亡殺人犯。

処刑のちょうど五か月前、中風で倒れ、ほどなく逮捕されたときはもう落ちぶれていたようです。

嘉永3年(1851)12月21日(1月22日)、カラっ風吹きすさぶ上州吾妻郡大戸村で磔刑に。享年40。戒名は遊道花楽居士。墓は生まれ在所の上州佐位郡国定村の養寿寺。

山のあなた 【RIZAP COOK】

この噺で一躍有名になった、ドイツ新ロマン派詩人カール・ブッセ(1872-1918)の詩です。

原題はUberdenBergenで、日本では上田敏(1874-1916)の訳詩集『海潮音』(明治38年=1905)でよく知られるようになりました。

広沢虎造 【RIZAP COOK】

昭和期、一世を風靡した浪曲師。本名・山田信一(1899-1964)。東京出身で、大阪の広沢虎吉門下。大正11年(1922)に真打ち。

得意は「スシ食いねえ」の「清水次郎長伝」、志ん生が落語版をやった「夕立勘五郎」、この噺に登場する「国定忠治」「天保六花撰」など。

山のあな、あな…… 【RIZAP COOK】

前述のように、三代目三遊亭円歌は本名中沢信夫、日蓮宗の法名円法。昭和4年(1929)1月10日、東京生まれ。

以上が定説でしたが、生前期の落語協会公式サイトでは「1932年1月10日」となっていて、3歳サバを読んでいました。真偽不明、奇ッ怪至極。

山手線新大久保駅員を経て、昭和20年(1945)9月、二代目円歌に入門。

前座名は歌治で、昭和23年(1948)4月、歌奴で二つ目。

昭和33年(1958)10月、同名で真打昇進。昭和45年(1970)10月、三代目円歌を襲名。

「授業中」は自作自演の新作で、昭和42年(1967)、爆発的に売れました。

「山のアナ」は流行語になり、歌奴はたちまち、テレビにひっぱりだこの売れっ子スターに。

続いて「浪曲社長」「月給日」「肥満小型」「中沢家の人々」など、ヒットを連発。

長く人気を保ち、平成8年(1996)、落語協会会長に就任。平成29年(2017)4月23日、山のあなたへ旅立ちました。享年88(85)。

それにしてもこの噺、今聴けば古色蒼然。なぜあんなに受けたのか。

この噺を解析すると当時の世相がわかるかもしれません。

落語家に日蓮宗の信徒が多いのは円朝の時代からのならいです。

ただ、この人の場合は、日蓮宗に出家して「円法」という法名をいただくほどでした。

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