【権助芝居】ごんすけしばい 落語演目 あらすじ
【どんな?】
最後はドタバタになる素人の演芸会。
抱腹絶倒、にぎやかな噺です。
別題:素人茶番 一分茶番 鎌倉山
【あらすじ】
町内で茶番(素人芝居)を催すことになった。
伊勢屋の若だんなが役不足の不満から出てこないので、もう幕が開く寸前だというのに、役者が一人足りない。
困った世話人の喜兵衛、たまたま店の使用人で飯炊きの権助が、国では芝居の花形だったと常々豪語しているのを思い出し、この際しかたがないと口をかけると、これが大変な代物。
女形で「源太勘当」の腰元千鳥をやった時、舞台の釘に着物を引っ掛け、フンドシを締めていなかったのでモロにさらけ出してしまい
「今度の千鳥はオスだ」
とやったと自慢げに話すので、吉兵衛頭を抱えたが、今さら代わりは見つからない。
五十銭やって、芝居に出てくれと頼む。
「どんな役だ?」
「有職鎌倉山の泥棒権平てえ役だ」
「五十銭返すべえ。泥棒するのは快くねえ」
「芝居でするんだ。譲葉の御鏡を奪って、おまえが宝蔵を破って出てくる。鏡ったって納豆の曲物の蓋だ。それを押しいただいて、『ありがてえかっちけねえ、まんまと宝蔵に忍び込み奪え取ったる譲葉の御鏡。小藤太さまに差し上げれば、褒美の金は望み次第。人目にかからぬそのうちにちっとも早く、おおそうだ』と言う」
「五十銭返すべえ」
「なぜ?」
「そんなに長えのは言えねえ」
「後ろでつけてやる。そこで紺屋の金さんの夜まわりと立ち回りになる。そこでおまえが当て身をくって目を回す。ぐるぐる巻きに縛られて」
「五十銭返すべえ」
「本当に縛るんじゃない。後ろで自分で押さえてりゃいい。誰に頼まれたと責められて、小藤太様がと言いかけると、その小藤太が現れて、てめえの首をすぱっと斬り落とす」
「五十銭返すべえ」
ようようなだめすかして、本番。
客は、泥棒が、若だんなにしては汚くて毛むくじゃらだと思って見ると、権助。
「やいやい権助、女殺し」
「黙ってろ、この野郎」
「客とけんかしちゃいけねえ」
苦労してセリフを言い、立ち回りは金さんの横っ面をもろに張り倒して、もみ合いの大げんか。
結局、縛られて舞台にゴロゴロ。
「やい権助。とうとう縛られたな。ばかァ」
「オラがことばかと抜かしやがったな。本当に縛られたんじゃねえぞ。ほら見ろ」
縄を離しちまったから、芝居はメチャクチャ。
太い奴だと、今度は本当にギリギリ縛られて
「さあ、何者に頼まれた。キリキリ白状」
「五十銭で吉兵衛さんに頼まれただ」
【しりたい】
マニア向けの芝居噺
江戸の人々の芝居狂ぶりを、いきいきと眼前に見るような噺です。
原話は不詳で、古くから演じられてきた東京落語です。
別題が多く、「素人茶番」「一分茶番」「素人芝居」、噺の中で演じられる歌舞伎の外題から「鎌倉山」とも呼ばれます。
現在は、「一分茶番」で演じられることが多いようです。
江戸時代の素人芝居(茶番)については、同じ題材を扱った「蛙茶番」をお読みください。
明治29年(1896)の四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)の速記が残ります。昔からこれといった、十八番の演者はありません。
蝶花楼馬楽時代の八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)、八代目雷門助六(岩田喜多二、1907-91)、初代金原亭馬の助(伊藤武、1928-76)、三遊亭円弥(林光男、1936-2006)といった、芝居噺が得意でどちらかと言えば玄人受けする腕達者が手掛けてきたようです。
六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)も手掛けたはずですが、記録は残りません。
円生没後は一門の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)、三遊亭円龍(水野孝雄、1939-2021)が演じ、それぞれの門下の中堅・若手にも継承されてきました。
戦前に、五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)が「素人演劇」として、モダンに改作したことがあります。
「源太勘当」
源平合戦、木曽義仲の滅亡を描いた全五段の時代物狂言「ひらかな盛衰記」のの第二段です。
原作の浄瑠璃は文耕堂ほかの合作で、歌舞伎の初演は元文4年(1739)4月、大坂角の芝居。千鳥は腰元で、主役の梶原源太景季と恋仲。後に遊女梅ヶ枝となります。
「有職鎌倉山」
やはり鎌倉時代を背景にした時代物狂言で、寛政元年(1789)10月、京都・早雲座初演です。
実際はその五年前の天明4年(1784)3月24日、江戸城桔梗の間で、若年寄田沼意知が、五百石の旗本佐野政言に殺された事件を当て込んだものです。
源実朝の鷹狩りで獲物を射止めた佐野源左衛門は、手柄を同僚の三浦荒次郎に譲りますが、善左衛門をねたんだ荒次郎に事あるごとにはずかしめられ、忍耐に忍耐を重ねた後、ついに殿中の大廊下で荒次郎を討ち果たし、切腹するという筋です。
本来、この噺で演じられるようなお家騒動ものではないはずですが、昔は、こじつけの裏筋が付けられていたのかもしれません。
芝居の泥棒
江戸時代、芝居の興行は、夜の明けないうちから始めて、夕方までやっていました。
お家騒動ものの発端は大方お決まりで、この噺に出てくるように、悪人側の黒幕の家来の、そのまた家来に命じられた盗賊が、お家の重宝(鏡、刀、掛け軸など)を盗み出し、蔵を破って出てくるというパターン。
泥棒のセリフも、どれもほとんど紋切り型でした。
その後、雇い主の「小藤太様」が現れて品物を受け取り、これで忠義の善玉側に、この罪をなすりつけられるとほくそ笑んだ上、「下郎は口のさがなきもの。生けておいては後日の障り。金はのべ金」と、口塞ぎのため泥棒はバッサリ、というのがこれまたお決まり。
このシーンは早朝に出され、下回り役者ばかりが出るので、見物人などほとんどいなかったわけです。
泥棒が「主役」に昇格したのは、幕末の河竹黙阿弥の白浪狂言からでした。