ににんたび【二人旅】落語演目

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 【どんな?】

謎かけは落語のお楽しみのひとつ。
ふんだんに謎かけが飛び出す噺です。

別題:煮売屋(上方)

あらすじ

気楽な二人連れの道中。

一人が腹が減って、飯にしようとしつこく言うのを、謎かけで気をそらす。

例えば
「二人で歩いていると掛けて、なんと解く?」
「豚が二匹と犬っころが十匹と解く」
「その心は?」
「豚二ながらキャンとう者(二人ながら関東者)」

そのうち、即興の都々逸になり
「雪のだるまをくどいてみたら、なんにも言わずにすぐ溶けた」
「山の上から海を眺めて桟橋から落ちて、泳ぎ知らずに焼け死んだ」
と、これもひどい代物。

ぼうっとした方が人に道を尋ねると、それが案山子だったりして、さんざんぼやきながらやっととある茶店へ。

行灯に、なにか書いてある。

「一つ、せ、ん、め、し、あ、り、や、な、き、や」
「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」

茶店の婆さんに酒はあるかと聞くと
「いいのがあるだよ。じきさめ、庭さめ、村さめとあるだ」
「へえっ、変わった銘だな。なんだい、そのじきさめってのは」
「のんだ先からじきに醒めるからじきさめだ」
「それじゃ、庭さめは?」
「庭に出ると醒めるんだ」

村さめは、村外れまで行くうちに醒めるから。

まあ、少しでも保つ方がいいと「村さめ」を注文したが、肴が古いと文句を言いながらのんでみると、えらく水っぽい。

「おい、ばあさん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」
「なにを言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

煮売屋

上方落語「煮売屋にうりや」を四代目柳家小さんが東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後でしょう。

「煮売屋」は、長い連作シリーズ「東の旅」のうち、「七度狐」と題されるくだりの一部です。

「七度狐」はさらに細かく題名がついていて、発端が、おなじみ清八と喜六の極楽コンビがお伊勢参りの道中、奈良見物のあと、野辺で尻取り遊びなどしてふざけ合う「野辺歌」から「煮売屋」に続き、このあと、イカの木の芽あえを盗んで捨てたすり鉢が化け狐の頭に当たったことから怒りを買って化かされる「尼寺つぶし」へと入ります。

煮売屋は、ここでは道中ですから、宿外れの立て場酒屋ということになります。

上方では独立して演じられることは少なく、一席にする場合は、侍を出し、煮売屋のおやじとの、このあたりでは夜な夜な白狐が出るというやりとりをコンビが聞きかじり、隣の荒物屋で侍気取りの口調で口真似するという滑稽をあとに付けます。

小さんの工夫

道中のなぞ掛け、都々逸を付けたのは四代目小さん(大野菊松、1888-1947)の工夫で、上方の「野辺歌」のくだりを参考にしたと思われます。

それ以前に、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が上方の「七度狐」をそのまま江戸っ子二人組として演じた速記があります。

円馬は東京の噺家ながら長く大阪に在住して当地で活躍しました。

その中で二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、そのあたりもヒントになっているのでしょう。

四代目の演出は、そのまま五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)、さらにその門下へと受け継がれ、現在もよく口演されます。

都々逸

どどいつ。文政年間(1818-30)に発祥し、流行した俗謡です。

前身は「よしこの節」で、その囃し詞「どどいつどんどん」から名が付きました。

歌詞は噺に登場する通り、七七七五が普通で、江戸独特の洒落や滑稽を織り交ぜたものです。

昭和初期から先の大戦後にかけては、初代柳家三亀松(伊藤亀太郎、1901-1968、池之端の師匠)が「お色気都々逸」で一世を風靡しました。

【語の注】
都々逸 どどいつ
案山子 かかし
行灯 あんどん

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