【きな粉のぼた餅】きなこのぼたもち 落語演目 あらすじ
【どんな?】
明治期にできた落語。
小説にでもなり得る好編です。
【あらすじ】
二人の車屋。
居酒屋で一杯やりながら、同じ車屋仲間だった喜六という男のことを噂しあっている。
なんでも、コツコツためた黄金を同業者に高利で貸し付け、自分は食うものも食わずに倹約して大金をため込んだが、栄養失調で先ごろ、おっ死んでしまったとのこと。
細君はその金を、物好きにもそっくり寺へ寄付するつもりらしいというので、世の中にはもったいないことをする奴があるものだと、二人してため息ばかり。
話変わって、喜六の家。
女房が、義弟の届けてくれたぼた餠を仏壇に供え、お灯明を上げているところへ、菩提寺の谷中瑞林寺の者だと言って、一人の坊さんが訪ねてくる。
坊さんが言うには、
「昨夜、住職の夢枕に喜六が立ち、自分は非道に金を貯めて、施しということをしなかった報いで地獄におち、たいそう苦しんでいるので、なんとか救ってほしいと、泣きながら訴えたから、住職もあわれに思い、法事をしてあげようと言うが、その費用に百円ほどかかるので、奥方から受け取ってこいと言いつけられた」
という。
女房もちょうど寺に金を納めようと思っていたところなので、それで亭主が浮かばれるならと、
「今、金を取ってきますのでそれまでの間」
と、坊さんにきな粉のぼた餠を出す。
これは喜六の弟の錺職人の銀次郎が、兄の好物だったので手作りして届けたもの。
ところが、坊さん、ぼた餠を食べると、急に腹痛で七転八倒。
あわてて長屋の者を呼び、医者が駆けつけたりで大騒ぎ。
中毒だと容易ならぬことだと月番が警察に届け、まもなく関係者一同の尋問が始まる。
ほかの者が食べてもなんともなかったのに、なぜこの坊主だけがあたったのかも不思議。
銀次郎が呼ばれたが、これはシロ。
そもそも、死人が夢枕に立ったという話が怪しいと、オイコラ警官は当たりをつけ、瑞林寺に問い合わせると、そんな話はないというので、病人がニセ坊主だと知れた。
この男、実は縁日の露天商で南京鼠売りで、居酒屋で車引きの話を小耳にはさみ、坊主に化け込んで金をかたり取ろうとしたことを白状したので、これにて一件落着。
「ハァ、鼠売りか。これで、このぼた餠にあたった原因がわかったぞ」
「そりゃ、どういうわけで?」
「今、本官が食べたら、きな粉がみんなネコ(寝粉=古い粉)だったわい」
底本:二代目三遊亭小円朝
【しりたい】
明治後期の新作
明治32年(1899)の初代三遊亭金馬(芳村忠次郎、1858-1923、→二代目三遊亭小円朝)の速記が残るのみで、その後の口演記録はありません。
同時期の金馬自身の新作と思われますが、詳細ははっきりしません。
人力車事始
和泉要助ら三人が官許を得て、明治3年(1870)に製造に取りかかり、改良を加えて明治8年(1875)ごろ、完成品ができました。
車輪は当初は木製、のち鉄製、さらにゴム製に。
そのころから、早くも東南アジア方面に「リキシャ」の名で輸出され始めました。
全盛期には全国で3万台以上を数えましたが、関東大震災を境に、ほとんど姿を消しました。
明治大正期には、落語家でも大看板ともなると、それぞれお抱えの車引きを雇います。売れっ子の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の抱え車屋があまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードまであります。
南京鼠売り
中国産の二十日鼠をペット用に売るもので、明治中期から後期にはけっこうはやりました。南京鼠は体長は6-7cmで、独楽鼠もその一品種です。
谷中瑞林寺
台東区谷中4丁目にあります。日蓮宗の古刹です。天正19年(1591)、身延山第十世・滋雲院日新が日本橋馬喰町に開基しました。慶安2年(1649)、現在地に移転。明治の元勲、井上毅の墓所があります。
安政ぼた餅殺人事件
岡本綺堂(岡本敬二、1872-1939)は『半七捕物帳』シリーズの作者としてよく知られた人ですが、「二十九日の牡丹餅」というサスペンス短編もあります。
ペリー艦隊再来航直後の安政元年(1854)旧暦7月、江戸市中に実際に飛び交った流言を題材にしたものです。
安政元年は7月の翌月が閏7月。
その流言とは、夏の閏月は残暑が厳しく、疫病も発生しやすいところから、晦日の7月29日にきな粉のぼた餅を食えば、暑気あたりを防げるというものでした。
ただし、それを他家に配ってはならず、家族や親類、奉公人などの身内で残らずその日のうちに食べつくすべし、という、ご親切な尾ひれ付き。
これを人々が真に受け、ぼた餅パニックが発生。米屋ではもち米が品切れ、粉屋からはきな粉が消えました。
自家で作れなくなった市民がぼた餅屋に殺到し、江戸中捜し歩いても、ことごとく売り切れ。
この、まじないめいた流言が、なにかの俗信に基づくものか、また、なんらかの根拠があったのかはわかりません。
小説では当日、清元の女師匠の家で食べたぼた餅で、パトロンのだんなが中毒死。
そこから発生する連続殺人事件を、綺堂は落日の江戸を背景に、情味濃く描いています。
殺人事件その後
原作者の綺堂も作中で「安政元年」と言っているのですが、実は、安政改元はその年の旧暦11月27日(1855年1月15日)で、厳密に言えば7月、閏7月の時点では、まだ嘉永7年です。
文中の7月29日は、1854年8月22日に当たりますが、調べてみると、この月はもう一日、30日があり、29日で終わっているのは、翌月の「閏7月」です。
したがって、29日を「晦日」としたのは誤りでした。失礼いたしました。
トリビアルにいえばこのタイトルも「嘉永ぼた餅殺人事件」と変えなければなりません。
岡本綺堂でさえ誤るのですから、旧暦と新暦の換算、西暦との整合はややこしいもの。
たとえば、機械的に「安政元年=1854年」とやると、同年旧暦11月13日から、もう西暦では1855年に入っているため、場合によっては、とんだ間違いを生じることになります。
おことわり
さらにいえば、もうひとつ。
これも文中で、「夏の閏月」と書きましたが、旧暦の季節で言うと7月はもう秋、ということになります。
現代の感覚から言いますと、盛夏のさなかに変わりなく、秋とするとかえってややこしくなりますので、あえて「夏」で通したことをお断りしておきます。
【語の読みと注】
錺職人 かざりしょくにん
独楽鼠 こまねずみ