【おかめ団子】おかめだんご 落語演目 あらすじ
【どんな?】
母孝行の息子。
名物「おかめ団子」に盗みに。
たまさか、そこの娘を助けて……。
飯倉片町が舞台、地味でつつましい人情噺。
志ん生のお得意。
【あらすじ】
麻布飯倉片町に、名代のおかめ団子という団子屋がある。
十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早じまいをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。
この男、近在の大根売りで、名を太助。
年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。
おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。
しかも永の患いで、先は長くない。
せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。
店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。
邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。
中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。
頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。
月の明るい晩。
犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。
見ると、文金高島田に緋縮緬の長襦袢、 鴇色縮緬の扱帯を胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。
松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。
実はこれ、団子屋の娘のおかめ。
太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」
声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。
主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。
父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」
主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。
おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。
これでめでたしめでたし。
主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬け物)屋」。
太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。
若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。
底本:五代目古今亭志ん生、四代目麗々亭柳橋
【しりたい】
実在した団子店
文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅 亀は団子で 名は高し」と、川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。
おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人。釣り好きでした。
あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。それを亀団子といいました。二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。
これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。
黄名粉をまぶした団子で、一皿十六文と記録にあります。四代目麗々亭柳橋(斎藤亀吉、1860-1900)の速記には「五十文」とあります。これは幕末ごろの値段のようです。
志ん生得意の人情噺
古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。
明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。
志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。
この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。
古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。
大根屋
太助のなりは、というと。
四代目麗々亭柳橋の速記では、こうです。
「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱(薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」
当時の大根売りの典型的なスタイルです。
近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。
大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。
太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。
大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。
麻布飯倉片町
港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。
今でこそハイソな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。
山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。
飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。
志ん朝の「黄金餅」でも、言い立てには必ず触れていました。