こがねもち【黄金餅】落語演目

五代目古今亭志ん生

 

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

円朝作。
逝った西念を弔う。
下谷から麻布。
焼き場は桐ヶ谷で。
金兵衛の執念が笑いを誘う。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡おんぼうと呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけた。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。藤浦(周吉)はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしく。どうだろう。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。山崎町はみんな貧乏だったんだから。円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治大正の新聞雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だった。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」と貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

(古木優)

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

こごとこうべえ【小言幸兵衛】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

 

【どんな?】

麻布の長屋。
小言を吐きまくってる大家。
ブンブンうるさいおじさん。
こういうの、必ずいますよね。

別題:搗屋幸兵衛 道行き幸兵衛 借家借り(上方)

【あらすじ】

麻布古川町、大家の幸兵衛。

のべつまくなしに長屋を回って小言を言い歩いているので、あだ名が「小言幸兵衛」。

しまいには猫にまで、寝てばかりいないで鼠でもとれと説教しだす始末。

そこへ店を借りにきた男。商売は豆腐屋。

子供はいるかと聞いてみると、餓鬼なんてものは汚いから、おかげさまでそんなのは一匹もいないと、胸を張って言うので、さあ幸兵衛は納まらない。

「とんでもねえ野郎だ、子は子宝というぐらいで、そんなことをじまんする奴に店は貸せない。子供ができないのはかみさんの畑が悪いんだろうから、そんな女とはすっぱり別れて、独り身になって引っ越してこい。オレがもっといいのを世話してやる」
と、余計なことを言ったものだから、豆腐屋はカンカンに怒り、毒づいて帰ってしまう。

次に来たのは仕立て屋。

物腰も低く、堅そうで申し分ないと見えたが、二十歳になるせがれがいると聞いて、にわかに雲行きが怪しくなる。

町内の人に鳶が鷹を生んだと言われるほどのいい男だと聞いて、幸兵衛、
「店は貸せねえ」

「なぜといいねえ、この筋向こうに古着屋があって、そこの一人娘がお花。今年十九で、麻布小町と評判の器量良し。おまえのせがれはずうずうしい野郎だから、すぐ目をつけて、古着屋夫婦の留守に上がり込んで、いつしかいい仲になる。すると女は受け身、たちまち腹がポンポコリンのボテレンになる。隠してはおけないから涙ながらに白状するが、一人息子に一人娘。婿にもやれなければ嫁にもやれない。親の板挟みで、極楽の蓮の台で添いましょうと、雨蛙のようなことを言って心中になる」

(ここで芝居がかりになり)「本舞台七三でにやけた白塗りのおまえのせがれが『……七つの金を六つ聞いて、残る一つは未来に土産。覚悟はよいか』『うれしゅうござんす』『南無阿弥陀仏』……おい、おまえの宗旨は? 法華だ? 古着屋は真言だから、『ナムミョウホウレンゲッキョ』『オンガボキャベエロシャノ』。これじゃ、心中にならない。てえそうな騒動を巻き起こしゃあがって、店は貸せないから帰っとくれっ」

入れ替わって飛び込んできたのは、えらく威勢のいい男。

「やい、家主の幸兵衛ってのはてめえか。あの先のうすぎたねえ家を借りるからそう思え。店賃なんぞ高えことォ抜かしゃがるとただおかねえぞ」
「いや、乱暴な人だ。おまえさんの商売は?」
「鉄砲鍛冶よ」
「なるほど、それでポンポンいい通しだ」

底本:二代目古今亭今輔、六代目三遊亭円生

【しりたい】

切り離された前半

これももともと上方落語です。

本来は、豆腐屋の前に搗米つきごめ屋が長屋を借りにきて、「仏壇の先妻の位牌が毎日後ろ向きになっているので、後妻が、亡霊に祟られているのではないかと気にしてやがて病気になり、死んでしまった。跡でその原因が、搗米屋が夜明けにドンドンと米をつくためだとわかった。してみりゃあ同業のてめえも仇の片割れだ。覚悟しゃあがれ」と、幸兵衛に因果話で脅かされて、ほうほうの体で逃げ出すくだりがあり、そこから「搗屋幸兵衛」の別題があります。

現在では、この前半は別話として切り離して演じられるのが普通です。

搗米屋または搗屋は、今で言う精米業者のこと。

精白されていない米を力を込めて杵で搗きつぶすので、その振動で位牌が裏向きになったというわけです。

原話に近い上方演出

正徳2年(1712)に江戸で刊行された『新話笑眉』中の「こまったあいさつ」が原話です。

上方落語「借家借り」の古いやり方はこれに近く、最初に搗米屋、次に井戸掘りが借りに来て、それぞれ騒音と振動の原因になりやすいので断られることになります。

ここでは因果話がなく、「出来合いの井戸を(長屋の庭に)掘るのかと思った」というオチも今ではわかりにくく、おもしろさにも欠けるためか、現在では東西とも仕立て屋、鉄砲鍛冶を出すことが多くなっています。

麻布古川町

あざぶふるかわちょう。芝あたり。新堀川(古川、金杉川)北岸低地の年貢町屋。

江戸時代の当初は麻布本村あざぶほんむらの中に属していたのですが、元禄11年(1698)に白金しろかね御殿御用地になり、代地として三田村(古川右岸)の古川あたりを与えられました。

これがその名の由来です。港区南麻布1丁目。

正徳3年(1698)に町方支配となりましたが、町奉行と代官の両者の支配を受けていました。

江戸の内とはいえなかったようです。

鷹場があったため、年貢やその他の諸役を務める町でした。

家数2
地主9
店借7

これだけ。小さかった。この噺の設定にはもってこいだったようです。

古川右岸は三田古川町といいました。だから、古川町は麻布と三田にあったことになります。

古川(新堀川、金杉川)という、芝の将監橋から引かれた掘割ほりわりの左岸(のち河川改修のため右岸)に広がった町なのでこの名があります。

将監橋については、項目を立てさらに記しました。お読みください。

麻布十番もこの付近で、十番の由来は、前記の将監橋から麻布一の橋まで古川沿岸の工事区を十区に分けた終点、十番目にあたるところから、という説もあるのですが、こちらも諸説ごろごろ。

総じて、江戸時代を通して、麻布あたりはほとんどが武家屋敷と寺社地で、町屋はその合間を縫って細々と点在していたに過ぎません。

現在の繁栄ぶりが信じられないような、狸やむじなが出没する寂しい土地だったようです。

家主

いえぬし。上方では「家守やもり」、江戸では「大家おおや」「差配さはい」とも。

普通は地主に雇われた家作かさく(借家)の管理人です。

町役人ちょうやくにんを兼ねていたので、店子に対しては絶大な権限を持っていました。

ちなみに、上方では土地や家屋の所有者を「家主いえぬし」呼びます。江戸では「地主」。

家主 江戸☞貸家の管理人   
   上方☞貸家の所有者

ややこしいです。

万一の場合、店子の連帯責任を負わされます。

その選択に神経質になるのは当たり前で、幸兵衛の猜疑心は、異常でもなんでもなかったわけです。

幸兵衛が、最初の賃貸希望者の豆腐屋に「近所にはないからちょうどいい」と言うくだりもあります。

町内の職業分布にも気を配って、「合格者」を決定していたことがよくわかります。

江戸では実際、トラブルを避ける意味もあって、小売商は一町内に一職種しか認められませんでした。

ラーメン屋の隣がラーメン屋、またその向かいがラーメン屋などという、商道徳がズレた現代とはだいぶ違います。

将監橋

江戸には、「将監橋しょうげんばし」という名の橋が二つありました。

芝の将監橋   金杉川に架かっていました。
日本橋の将監橋 紅葉川に架かっていました。

芝の将監橋は、川さらいを受け持つ、幕府の川浚奉行だった岡田善同よしあつ善政よしまさ親子(ともに将監を名乗る)の功労を後世に伝える主旨で名づけられたのだそうです (続江戸砂子) 。

岡田将監は、治水、土木工事の達人だったのですね。

日本橋の将監橋は、海賊衆といわれ、水主同心かこどうしんを担当し幕府御用船の保管と運航を担当していた、船手頭ふなてがしらの向井将監の屋敷が隣接していたことにちなんでいます。

向井正綱が仇敵徳川家康の家臣となり、幕府の水軍と水運の親玉となって、十一代にわたり「将監」を世襲しました。

そこらへんのところは隆慶一郎の『見知らぬ海へ』に描かれています。この当時の「海賊」ということばは、海の専門家、くらいの意味です。

将監というのは、近衛府このえふ(天皇の警護にあたる役所)の三番目の役職名です。

かみ、すけ、じょう、さかん。これが四等官ですから、「じょう」にあたる職名が将監ということです。

あんまり偉くないですが、江戸時代にはもう、そんなことはどうでもよくなっていました。そのあらましは以下の通りです。

官職について

官職とは、公的な役所で働く人が与えられる役職名です。平安時代まではまともで、朝廷がそれなりの人に与えていました。

ところが、鎌倉時代になると、儀式や法会の資金欲しさに、朝廷は官職名を売り出すようになりました。

天皇に直結する朝廷は日本の最高ブランド。

これを利用して人々の名誉欲を金で釣ったわけです。欲しがって釣られた人々は武士です。

御家人を任官させたり、名国司みょうこくし(実体のない国司の名称)に補任させたり。

武士の間では官名を称するのが普通になってきました。

これに拍車をかけたのが、朝廷を丸ごとのみこむ争乱、南北朝時代(1338-92)の争いです。日本全国の武士が北朝か南朝かに別れて争った時代。

彼らは戦うための支柱となる朝廷の後ろ盾を必要としました。

そこで、北朝方の足利尊氏や南朝方の北畠顕信らが、配下となった主なる武士に「官途書出かんどかきだし」といって叙位任官を朝廷に取り次いで与えるという慣習を乱発しました。

朝廷が二つあったわけですから、官位官職の数も二倍以上。大安売りです。

南北朝の争乱は、六十余年に及びましたから、その後も由々しき慣習は消えず、武家政権が続く間、つまり明治にいたるまで横行していったわけです。

とりわけ、戦国時代という無政府状態にあっては、守護大名が家臣などに官途状を出して国司名(受領名ずりょうめい)を与えていました。

それどころか、その官名のを勝手に名乗ること(私称)を許すケースが多く登場してきました。

これは朝廷のあずかり知らない僭称せんしょう(勝手に自称する)です。

公式の場では官名を略したり、違う表現に置き換えたりしていたようです。

太郎、次郎などの輩行名はいこうめい左衛門さえもん兵衛ひょうえなどの官職名を組み合わせた名を与える、「仮名書出けみょうかきだし」という慣習も登場して、とどまるところを知りませんでした。

先祖が補任された官職や主家から与えられた受領名を子孫がそのまま用いるケースも現れました。

向井将監は代々「将監」を名乗っていました。

だからこそ、向井といえば将監、将監橋が命名される由縁となるのです。

こうなると、朝廷はまったく関知せず、武士が官名を勝手につける「自官じかん」という慣習が定着していきました。ブランド壟断ろうだん。むちゃくちゃです。

百官名

ひゃっかんな。家系や親の持つ官職を名乗ることをいいます。

百官名が受領名と違うのは、受領名が正式な官職名を私称として用いることを指すのに対して、百官名は必ずしも正式な官名を指すものではなくなっていった点です。

てきとうなんですね。

戦国時代からは、武士の間で官名を略して、「大膳だいぜん」「修理しゅり」など役所の名だけを名乗る人や、「将監しょうげん」「将曹しょうそう」など官職の等級だけを名乗る人などの風習が広がりました。

そうなると、百官名というのはもう、官位官職ではなく、ただの名前でしかありませんね。

百官名を名乗る場合は、官職と同じく。


名字+百官名+いみな(名前)


こういう方式が一般的です。

向井将監忠勝、吉良上野介義央、といったかんじです。

ただ、われわれは、「吉良上野介こうずけのすけ」と呼んでいて、「義央よしなか」という本当の名前はすでに忘れていますね。

まあ、向井将監も同じです。正綱だろうが、忠勝だろうが、向井の家は将監。向井将監は海賊衆だ、という認識です。

ちなみに、上野介。

これは、「親王任国しんのうにんこく」といって、上野国こうずけのくに(群馬県)、常陸国ひたちのくに(茨城県)、上総国かずさのくに(千葉県)だけは、国司の長官(かみ、守)は親王が任命されるので、臣下の最高位は次官(すけ、介)となる慣習でした。

だって、親王自身は京都にいるわけで、実際に任地に赴くのは「介」以下、ということになるのです。

9世紀、平安時代の初めの頃からの慣習です。奈良時代には臣下の上野守こうずけのかみが代々出ています。

そんなわけで、実質的には、他国の「守」と同じ位置にあるのが「上野介こうずけのすけ」「常陸介ひたちのすけ」「上総介かずさのすけ」となります。ややこしいですが。

話はここから。

吉良上野介は赤穂浪士に討ち取られました。

その前には、本多正純ほんだまさずみ。この人も、上野介を名乗っていましたが、宇都宮釣り天井事件(1622年)であえない最期でした。

江戸時代には、百官名で「上野介」をいただくのを、みなさん避けていました。不幸な死に方したくないから。

もう一人。小栗上野介忠順ただまさ

この幕末の能吏は、最初は豊後守だったのですが、阿部正外まさとうが豊後守だったため、はばかって百官名を変えようとしたようでして、とうぜん、空きのあった上野介を名乗ったとのこと。

阿部は後に老中となる人で、小栗とは格が違っていました。

小栗はそういうことには無頓着の人だったようです。

その結果が斬首に。悲劇です。

ま、そんなことが、佐藤雅美の『覚悟の人 ―小栗上野介忠順伝―』(岩波書店、2007年)にたしか載っていましたっけ。

三つの先例があるのなら、上野介は忌み名と呼ばれてもおかしくはありませんね。

東百官

あずまひゃっかん。

これはなにか。

関東地方、東国で行われていた慣習です。京都から遠く離れていたため、お侍のみなさんはけっこう好き勝手にやっていたわけなんですね。百官名もどきです。

頼母たのも」「平馬へいま」「一学」「左膳」「久米くめ」「求馬もとめ」「靱負ゆきえ」「右門うもん」といった、官職に似せた名、つまり、擬似官名とでもいうものが東国では広く流布していました。

もう、ここまでくれば、お武家の勝手し放題、なんでもあり、ですね。

東百官は「相馬百官」とも呼んでいたそうですから、これは、平将門が新皇しんのうに就いたときに始まったものなのでしょう。

それを思うと、関東独自のお家芸のようで、後世も大切にはぐくんでいきたいものです。

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おかめだんご【おかめ団子】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

母孝行の息子。
名物「おかめ団子」に盗みに。
たまさか、そこの娘を助けて……。
飯倉片町が舞台、地味でつつましい人情噺。
志ん生のお得意。

あらすじ

麻布飯倉片町いいくらかたまちに、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早じまいをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。

しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田ぶんきんたかしまだ緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん、 鴇色縮緬ときいろちりめん扱帯しごきを胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬け物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、四代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した団子店

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅 亀は団子で 名は高し」と、川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人。釣り好きでした。

あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。それを亀団子といいました。二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。

これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉きなこをまぶした団子で、一皿十六文と記録にあります。四代目麗々亭柳橋(斎藤亀吉、1860-1900)の速記には「五十文」とあります。これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、というと。

四代目麗々亭柳橋の速記では、こうです。

「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱あさぎ(薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」

当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。

大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。

今でこそハイソな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。

山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。

志ん朝の「黄金餅」でも、言い立てには必ず触れていました。

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この形はどちらかといえば、言葉遊び、むだぐちというより、なぞなぞを含んだしゃれ言葉、隠し言葉です。

たとえば、先代円楽が声を入れていたCMで「うでた(茹でた)卵で→かえりゃせぬ(=帰りゃせぬ)」の類。

この場合、謎解きは麻布、六本木の地名由来。昔麻布に六本の大木があったが、その所在はもう知れないことから「木」と「気」を掛け、麻布というだけで「気が知れない」=本心が解らない意味と言うわけ。

謎かけの兄弟分で、用例は無数。

江戸人の洒落っ気横溢で、日常で使う場合、答えをすぐ付けるのが普通です。

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