こうてんしんなくただとくあるをこれたすく【皇天親なくただ徳をこれ輔く】故事成語 ことば

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

いま、「皇天親なく……」が注目されているのは、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)でのシークエンスにあります。

ことばの意味は、こんなかんじです。

天はえこひいきすることなく、ひたすら徳をもった人にだけ援助するものだ、という意味。

「皇天」は広い天の意味で、天に敬称をつけた表現です。「皇」には「おおらかな」「広い」のニュアンスがあります。日本の「天皇」につながる語感です。

中国の「天」は、神のような意思をもちながらも茫漠とした存在です。天の仕業は人間には結果しか見えません。愛とか救済とかはないのです。人間の行いをたまに手伝うくらい(愚公山を移す、とか)。

初出は『書経(尚書とも)』から。孔子が編纂したとされる史書で五経の一。中国最古の書です。

ちなみに。

「天」で思い出すことがあります。

昭和47年(1972)9月、田中角栄首相が電撃訪中したときのこと。

29日に日中国交回復を果たした田中は、中国の当時の首脳である毛沢東と周恩来に向けて、以下の七言絶句を送ったのでした。

国交途絶幾星霜 国交途絶して幾星霜
修好再開秋將到 修好再開して秋まさに到らんとす
隣人眼温吾人迎 隣人眼温かくして吾人迎ふ
北京空晴秋気深 北京空晴れて秋気深し

田中はコワモテ風なのに漢詩をつくるなんてすごいなあ、と思ったのですが、よく読むと漢字を並べただけの文字列でした。押韻もないし。

「吾人迎」は「隣人が自分を迎えてくれる」ということなら「迎吾人」がよいでしょう。「秋」が二回登場するのもポエトリーの欠如を感じます。

「北京の空」と言いたいのなら、「北京空」ではなく「北京天」がよいでしょう。「空」は「むなしい」意味にしか使いません。「天」にはおおざっぱに、①空と②造物主の意味があります。田中の詩は①、「皇天親なく……」は②の意味となります。

田中の詩は、漢詩を愛好する人たちにはぼろくそでした。慶応義塾の中国文学科出身の柴田錬三郎(齋藤錬三郎、1917-78)なんかは、すさまじく憤ってましたねえ。

とはいえ、今太閤の田中なら、専門家に代作させることだってたやすかったはずなのに、一人でがんばってつくったことは見上げたものです。すばらしいと思います。

ドカチン出身の田中が見よう見まねでつくった漢詩。

その稚拙かつ無知のあけっぴろげぶりに、毛沢東も周恩来も、逆に感激したのではないでしょうか。

結局、中国の要人が訪日すると、いまでも田中真紀子氏に挨拶しに行くのは、ホントのところは、この一件に由来するのかもしれません。

話が逸れ過ぎてしまいました。

閑話休題。

では、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)での、このことばが登場したシークエンスについてお話ししましょう。

実子の乃木憂助(堺雅人)に倒されたノゴーンベキ(役所広司)。

彼を葬るにあたって、バルカの次男ノコル(二宮和也)が電話で「墓はバルカに建てさせてほしいが、かまわないか」と、日本にいる長男の憂助に尋ねます。

憂助はすかさず「皇天親なく、ただ徳をこれ輔く。花を手向けるのはまだ先にするよ」と返しました。

これを聴いたノコルの表情は、少々険しかったように見えました。

じつはこのことば、故事成語の中では上級です。

現在、日本での中型漢和辞典の代表格は『漢辞海』(三省堂)、『漢字源』(学研)、『新字源』(KADOKAWA)あたり。そのいずれにも載っていません。

読売新聞の過去40年間の記事にも一度も使われていません。新聞記者の学力や教養ではちょっと無理でしょう。

われわれの生活ではまず使うことはない。知ることなしに人生を閉じてもどうってことない。志ん生がよく言う「シャツの三つ目のボタン」というやつ。あってもなくてもよい。そんなかんじのことばなんですね。

知っていれば、人生豊かになるかもしれませんが、言ってみたところで相手に通じないなら、無意味です。これでは会話が成り立ちませんからね。

ノコルも意味がわからなかったのでしょう。「花を手向けるのはまだ先にするよ」にいたってはじめて、憂助の真意を解せたかんじです。

ベキらが上原史郎(橋爪功)の自宅で憂助に倒されたにもかかわらず、その後、上原宅が全焼し、焼け跡から三つの焼死体が。

「スス同然で発見されました」と公安の野崎(阿部寛)が上原に報告し、上原は「そんなウソがまかり通るのか」とぼやいています。公安、ではなく、別班の仕業ですかね。

現場に居合わせた上原なのに、その件については言及を避けます。ベキが上原を狙ったのは40年前の私怨によるものだったことがわかり、うしろめたさが噴出したからなのでしょう。

ベキを倒した憂助。別班の任務。でも、しっかり親殺し。ベキの「死」をみとったのは憂助だけでした。ベキは死んだのか、生きているのか。「VIVANT」のこれまでの流れから見れば、そうとうにあやしい。

ベキは生きている。ならば、配下のピヨ(吉原光夫)も、バトラカ(林泰文)も。

ということは、このドラマは続編がある、ということです。

ベキは十二分に徳を抱いた人です。この成語にふさわしい人物でしょう。殺人集団の親玉でありながらも、その徳は「天」も黙っちゃいられないほどなのです。

われわれは、「VIVANTの最終回は?」でドラマの結末を予想しました。

テントの壊滅(→実は解体)、ベキの死(→実は生きている?)、ノコルの死(→たしかに生きている)、ピヨの死(→実は生きている?)、バトラカの生存(→実は生きている?)、ベキと憂助の親子の絆(→かたく結ばれたかんじ)、憂助の除隊(→実は辞めていない)……というぐあいに。

大筋では当ててますが、細部は予想外も。まあ、60点程度でしたかねえ。

テントの派手な爆死がなかったのは、最終回にいたって、制作費が枯渇したからでしょうか。最終回は動的描写があまりにもなかった。企業と政府の買収劇など、半沢直樹もどきがメインで。バルカくんだりでこんな屋内劇を見せられてもねえ。意外にしょぼかった。

「復讐して」。明美が放った断末魔のささやきは、ベキの心に40年間たゆとうていました。

ただ、復讐すべき相手が、かつて乃木卓(→ベキ)の上司である上原史郎(警視庁公安部外事課課長→内閣官房副長官)だった、という、このオチ。

これも正直、意外にしょぼかったです。

上原が内閣総理大臣に出世していたなら、大いに復讐し甲斐もあって、おもしろかろうものを。官僚出の官房副長官では、ちょっとねえ。

ここまで引っ張ってきて、土壇場のダウンサイジングはなんたること。ぽかーん。

最後に。

丸菱商事財務部の太田梨歩(飯沼愛)の正体。じつは、世界で暗躍する天才的な凄腕ハッカー、ブルーウォーカー(blue@walker)でした。

第4回では、太田が送金プログラムを改竄していたのが明るみになりました。

警視庁公安部が踏み込んだ太田の自宅からの押収品の中には、なんと、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の『文楽全集』(小学館)や『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)などがあったのです。

そのCD群の一枚に隠されていたハッキング記録を、野崎が発見。あの刹那、この子(太田梨歩=飯沼愛)はホントに落語ファンなのかい、と落語ファンの視聴者はいぶかしんだものです。

でも。

最終回では、彼女の作業部屋から「一丁入り」がまたも流れていました。これにはビックリ。

言わずと知れた、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の出囃子です。気が緩みます。

彼女はやはり、モノホンの落語ファン、それも本寸法のしんぶんマニア(志ん生と文楽のファン)とお見受けしました。上原のしょっぱい肩透かしは、むしろ太田のたっぷり好みに救われたかんじでしたね。

ウルトラセブンといい、ハリポタといい、「VIVANT」全編を通じての、この手の小物アソビは雲に御す喜びでした。

続編では何が出てくるのでしょう。待ち遠しいですね。



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かわりめ【替わり目】落語演目

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【どんな?】

おかしさの中に妻への情愛。
悪くありませんねえ。
志ん生が人情噺にがらりと。

別題:元帳 鬼のうどん屋(上方) 銚子の替わり目(上方)

【あらすじ】

ぐでんぐでんに酔っぱらって、夜中に帰ってきた亭主。

途中で車屋をからかい、家の門口で梶棒を上げさせたと思ったら、もう下りた。

出てきた女房はハラハラし、車屋に謝って帰ってもらうと、ご近所迷惑だからいいかげんにしとくれと文句を言う。

亭主、聞かばこそ、てめえは口の聞きようが悪い、寝酒を出さないから声が大きくなると、からむ。

しかたなく酒を注ぐと、今度は何かサカナを出せと、しつこい。

「なにもありません」
「コウコがあったろう」
「いただきました」
「佃煮」
「いただきました」
「納豆」
「いただきました」
「干物」
「いただきました」
「じゃあ……」
「いただきました」

うるさくてしかたがないので、夜明かしのおでん屋で何か見つくろってくるからと、女房は出かける。

その間に、ちょうどうどん屋の屋台が通ったから、酔っぱらいのかっこうの餌食に。

ずうずうしく燗を付けさせた挙げ句、てめえは物騒ヅラだ、夜遅くまで火を担いで歩きやがって、このへんにちょくちょくボヤがあるのはてめえの仕業だろうと、からむので、うどん屋はあきれて帰ってしまう。

その次は、新内流し。

むりやり都々逸を弾かせ、どうせ近所にびた一文借りがあるわけじゃねえと、夜更けにいい気になって
「恋にこがれーてー、鳴く蝉よりもォ……」
と、うなっているところへ女房が帰ってくる。

ようすを聞いてかみさん、顔から火が出た。

外聞が悪いので、うどん屋の荷を見つけると、
「もし、うどん屋さーん」
「……おい、あそこの家で、おかみさんが呼んでるよ」
「へえ、どの家で」
「あの、明かりがついてる家だ」
「あっ、あすこへは行かれません」
「なぜ」
「今ごろ、お銚子の代わり目時分ですから」

底本:初代柳家つばめ、五代目古今亭志ん生ほか

【しりたい】

原話は薬売りが受難

文化9年(1812)、江戸で刊行された笑話本『福三笑』中の小ばなし「枇杷葉湯びわようとう」が原話です。

これは、酔った亭主が枇杷葉湯(=暑気払いに効く甘い煎じ薬)売りに無理やり燗をつけさせるくだりが、現行の落語の後半に一致し、オチも同じです。

落語としては、上方で「銚子の代わり目」または「鬼のうどん屋」としてよく演じられたため、夜泣きうどん屋の登場するくだりは、当然その間に付け加えられたものでしょう。

枇杷葉湯

この噺の原話名は「枇杷葉湯」でした。江戸期の一般的な薬名として知られます。

枇杷の葉、肉桂、甘茶などを細かく切ってまぜあわせたものを煎じた汁で、暑気払いや急性の下痢などに効果があったそうです。

初めは京都烏丸で売り出されたのですが、江戸に下ってからは、宣伝用に道端などで行き交う人々に無料でふるまっていたそうです。

そこで、多情、多淫を意味する隠語となりました。

この言葉が出てくると意味深長となり、要注意です。

志ん生が人情噺に「改作」

東京では大正期に四代目三升家勝次郎(本多吉之助、1868-1923)が、音曲噺として新内、都々逸をまじえて演じていました。

昭和に入って、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が十八番にしました。

志ん生は後半(うどん屋にからむ部分)をカットし、かみさんを買い物にやった亭主が、「なんだかんだっつっても、女房なりゃこそオレの用をしてくれるんだよ。ウン。あれだって女は悪かねえからね……近所の人が『お前さんとこのおかみさんは美人ですよ』って……オレもそうだと思うよ。『出てけ、お多福っ』なんてってるけど、陰じゃあすまない、すいませんってわびてるぐれえだからな本当に……お、まだ行かねえのかおう……立って聞いてやがる。さあ大変だ。元を見られちゃった」と、ほほえましい夫婦の機微を見せて結んでいました。

年輪がいる噺

この志ん生のやり方は、自ら「元帳」と改題したことからもうかがわれるように、優れた工夫でしたが、晩年はオチの「元を見られた」さえも省略していました。

今ではこのやり方がスタンダードになっています。うどん屋の部分がカットされるだけに、笑いは薄くなりますが、一種の人情味のある噺として定着し、独特の味わいを持つにいたっています。

これも志ん生なればこそで、凡百の演者ではクサくなったり、わざとらしくなったりするのは、もう聴いちゃいられません。

こうしたやり方は、若い噺家ではとうてい無理でしょう。

芸はもちろん、実生活の年輪を経てコケが生えたような年齢になってようやく、さまになってくるものなのではないでしょうか。

志ん生、映画で一席

志ん生ファンにはよく知られていますが、映画『銀座カンカン娘』(新東宝、昭和24)で、引退した噺家・桜亭新笑に扮した五代目志ん生(当時59歳)が、ラストで甥夫婦(灰田勝彦・高峰秀子)の新婚の前途を祝うため、「かわり目」を演じてみせます。

ちょうどかみさんを追い出すくだりで、汽車の時間があるから早く立て、と目と仕種で二人を促し、客だけになったあと、いい間で亭主の独白に入るあたりは、後年の志ん生のイメージとはまた違った、たたき上げた正統派の芸を感じさせました。

志ん生は、その後も、4作品に特別出演しています。都合5作品ということになります。

●志ん生出演の映画作品一覧

『銀座カンカン娘』(新東宝、昭和24)
『ひばりの子守唄』(大映、昭和26)
『息子の花嫁』(東宝、昭和27)
『クイズ狂時代』(東映、昭和27)
『大日本スリ集団』(東宝、昭和44)

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しんしょうのひとこと002【志ん生のひとこと 002】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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二十四、五から三十くらいまででしたね。その頃は、どうしてもわたしといっしょになるてえ女が来て、しょうがなかった。

『サンケイ読物』1956年1月8日号「かたい話やわらかい話」から。


■福田蘭堂との対談で、福田が「師匠がいちばん女のほうではなやかなりし頃はいくつです?」の問いにこたえてのひとこと。志ん生は上のひとことのあとに「わたしの仲人がね、おまえさん、もう女房もらったらいいでしょうって言ってきた。いいかげんな返事をしているうちに半月ほどして、ほかの女をズルズルベッタリに引っ張り込んでいっしょにいたんです。そこへね、とつぜん、前の話の女を引っ張ってこられたんです、仲人に。しかたがないから、いっしょにいた女を戸棚ン中にしまいこんじゃって……。実はそのとき、仲人に連れてこられたのが今のかかあなんです」と告白しています。戸棚の中に女を隠す、とは。これって、「今戸の狐」をなんとなく彷彿とさせるじゃありませんか。志ん生の噺っていうのは、ディテールが実体験からの連想なのですね。

福田蘭堂(石渡幸彦、1905-76、音楽家、随筆家)は青木繁の息子で、石橋エータローの実父にあたる人。青木繁は洋画家、石橋エータローはクレージーキャッツのメンバーで料理家です。

 古木優



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しんしょうのひとこと010【志ん生のひとこと010】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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あいつァ、線が太いからネ。

昭和36年(1961)11月14日(火)、早朝。

「あいつァ」とは来年には真打ち昇進予定の次男強次(→三代目古今亭志ん朝、1938.3.10-2001.10.1)のこと。仕事先の長崎から帰宅した。

茶の間でいっしょにラジオを聴いた。

朝太が司会する文化放送「民謡ジョッキー」を、である。

「シャレがいい」と、おやじはご満悦。

おやじはずっとニッポン放送専属だが、別に義理立てして勘当などはしない。当たりまえだ。

「線が太いというのはいいからネ」とは、おやじならではの炯眼。

次男の、いずれの出世を夢見る。

自分とは違うタイプの、文楽、円生のような正統派の噺家になろうことを。

志ん生は、目を細くして「ヘッヘッヘと笑いながら」思い浮かべていた。

志ん生が倒れる31日前の、美濃部家のちょっとした風景である。

高田裕史

参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)



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しんしょうのひとこと009【志ん生のひとこと009】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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「落語ってえもなァ、クサヤの干物みてえなもんなんでネ」

「週刊読売」(1961年12月4日発売)誌上に、志ん生一家の一週間にわたる日常生活のルポが載った。冒頭に掲げられたのが志ん生流「落語道の極意」。

1961年、つまり昭和36年12月とはオドロキ。

その年の12月15日に、志ん生は倒れるのだから。直前である。

15日は、高輪プリンスホテルで、読売巨人軍優勝祝賀会があった。

余興で落語を、の求めにこたえようと、よせばいいのに、のこのこ出かけた。

志ん生に、ではなく、優勝に喜ぶ野球一徹を相手に、落語を聴かせるには、志ん生の芸風はちょいと難があったろう。

パーティーは立食形式だった。巨人命どころか、落語ファンだって、名人のハナシに耳を貸せるわけがない。がやがやざわざわ。落語を聴かせる環境ではなかったのだ。

俺のハナシを聴け! 

志ん生は焦った。息張った。ひっくり返った。脳出血だった。

ホテル裏の、道路を挟んだ東京船員保険病院(東京せんぽ病院→東京高輪病院)に運ばれたのが幸いして死の淵で踏ん張った、というわけ。ここはまともな病院である。

九死に一生を得たからよかったものの、上記のひとことが娑婆との別れ、志ん生の「遺言」となっていたかもしれないのだ。
  
志ん生ファンは読売新聞や読売巨人軍を大いに怨むべきだろう。

だが、東京でそんな恨み節を聴いたことはめったにない(まれにはあるが)。

その理由は、「週刊読売」が倒れる直前に志ん生の特集を組んでいたから。

これで、「読売」は免罪符を得ていたのだ。

取材日は、11月13日(月)から19日(日)まで行われた。

日を追って克明に名人の日々を日記風に記録した、貴重な記録である。

せりふの続きは、以下の通り。

「……クサヤの干物てえのは、オメエ、好きな人は、大好きだがだれでも食えるってもんじゃねえ。それでいてわりと高いん……だから、ハナシカてえもなア、大通りを行こうと思っちゃ大マチゲエだ。裏通りを行くものなんで……」

わかったようなわからないような。これが志ん生流。コアなファンは、妙に納得させられてしまう。

論理など飛び超えた、摩訶不思議な言い回しである。

高田裕史

参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)



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しんしょうのひとこと008【志ん生のひとこと008】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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これは、六代目古今亭志ん馬(稲田真佐文、1935-94)の証言です。

「腹が減ったときに飯を食う奴の了見が知れねえ」

志ん馬が、テレビ番組「人に歴史あり」の志ん生特集で、うちの師匠がよく言うせりふです、として言っていました。

東京12チャンネル(→テレビ東京)は昭和43年(1968)5月15日から、「スタジオドキュメンタリー番組」と銘打った「人に歴史あり」の放送を開始しました。毎週水曜日午後9時-9時30分の時間帯で。

その後、曜日や時間帯が変わりながら、昭和56年(1981)9月23日まで続きました。この年の10月1日からテレビ東京に社名変更するにあたっての、番組改編のあおりでした。

この番組は、内外を問わず第一線で活躍中野各界の著名人をゲストに呼び、ご対面形式で、その人の歩んできた人生を浮き彫りにしようというもの。司会は八木治郎(1925-83)。NHKから移籍したムード派のアナウンサーです。

第1回のメインゲストは池島信平(1909-73)。この人は編集者。当時、文藝春秋の三代目社長でした。この番組は文藝春秋の協力で成り立っていたのです。肝煎りです。

池島の取り巻きゲストには、永井竜男、中山義秀、松本清張、村上元三、開高健、五味康祐、安岡章太郎、由起しげ子、吉行淳之介、生島治郎、五木寛之、今東光、城山三郎、杉森久英、寺内大吉、戸川幸夫、南条範男、三好徹など。

毎回50人ほどの取り巻きが登場するという、30分番組にしては濃密です。

第2回以降のメインゲストは、東山千栄子、石坂洋次郎、川端康成、川口松太郎、水谷八重子、芹沢光治良、尾上梅幸、山岡荘八、徳川夢声、榎本健一、藤原義江、水上勉、中村汀女、松下幸之助、近衛秀麿、松本清張、林武、湯川秀樹、古今亭志ん生など。

文藝春秋が協力しているだけあって、錚々たる文化人の勢ぞろいでした。文化人に偏しているきらいもありましたが、そこが魅力です。この中に志ん生が入っていたわけですから、世間での評価のすごみを感じさせます。

志ん生の回の放送は、昭和43年(1968)7月3日でした。取り巻きゲストは、馬生、志ん朝、文楽、金語楼、志ん馬、円菊、朝馬など。

この番組、構成力がいまいちでした。草創の東京12チャンネルだからでしょうか。志ん生をよく知る人たちが入れ代わり立ち代わり登場するのですが、スタジオで椅子に座ったままの志ん生(ひとことも発しない)をお飾りにして、八木治郎とぺらぺらしゃべるだけのもの。今では信じられないほど、工夫なしの陳腐ぶり。志ん馬の証言だけがいきいきと際立っていました。

それでも、文楽や金語楼などが出てくるのは、いまとなっては貴重な映像ですね。

この年の10月9日の精選落語会で「二階ぞめき」が「王子の狐」に化けてしまいました。それが最後の高座になりました。

そのちょっと前の頃の話です。

人に歴史あり

高田裕史

※参考資料:読売新聞



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しんしょうのひとこと007【志ん生のひとこと007】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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これは、初代古今亭志ん五(篠崎進、1949-2010)の証言。

「ウンコがこわくて、いい百姓になれるか」

べつに、志ん生と百姓は無関係でしょうが。でも、なんだか、おかしい。

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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しんしょうのひとこと005【志ん生のひとこと005】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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海上自衛隊出身、古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)の証言です。

(銭湯で溺れかかって)
「泳ぎの練習をしてたんだ」

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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しんしょうのひとこと004【志ん生のひとこと004】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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志ん生の弟子に自衛隊の衛生兵(?)出身の古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)がいました。この人の証言はけっこう残っています。

志ん駒の話を再現してみましょう。

それから師匠はよく西部劇の歌を唄っていましたよ。スティーブ・マックイーンの「拳銃無宿」。(中略)「あれ? 師匠、何を唄ってるんですか?」

「腰のぉ~拳銃ぅ~だてには撃たず~、なっ」

す、すごい! 志ん生が西部劇を見てたなんて。

でも、この証言は「ララミー牧場」の誤りかと思います。「腰の拳銃は、だてじゃない」という、アレでしょうから。ただし、おそらく、当人には区別が付いていないでしょう。そこがおもしろいわけでして。

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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おおつえ【大津絵】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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志ん生ファンは数多くいますが、出久根達郎氏はとりわけ「大津絵 冬の夜」が好きだとはばかりません。こういう人、たまにいます。わたしもそんな一人です。

これは落語ではありません。俗曲です。一般には「大津絵」と呼んでいます。「大津絵」といえば、東海道の近江は髭茶屋追分宿でお土産に売られた戯画です。戯画の大津絵から派生して、さまざまな芸能が生まれました。ここがややこしい。戯画も大津絵、唄も大津絵、踊りも大津絵。志ん生の「大津絵」は大津絵節、ということになります。

髭茶屋追分は、東海道と伏見街道の交差する、まさに追分でしたので、大津絵はお土産に、願掛け魔除けに売られて、全国的な知名度をもったようです。画題が十種あって、そのバリエーションを忠実に守っていることが、大津絵の大津絵たらしめるゆえんなのだそうです。

大津絵節は明治の前半頃に大流行したそうです。うたいやすくて、素人でも誰でも詞をつくって曲をもつくれるのだそうで、花柳界ではどれもこれも大津絵節のお座敷だったとか。

         大津絵節の解説  大津絵踊り  幕末・明治期における民謡・大津絵節の歴史的研究                              

志ん生のうたう「大津絵 冬の夜」はCDに収録されています。これがおもしろく、志ん生にもう一人の志ん生がインタビューしているのです。

大津絵には滑稽味が漂うものなのですが、志ん生がうたう「大津絵 冬の夜」には滑稽味が皆無です。あの志ん生がどうして、といぶかる向きもありますが、これも志ん生なのです。市井に生きる人の切なる思いが胸を突きます。歌言の魂が聴く者に心に宿るような、しみじみとした太い力を感じさせます。    

五代目古今亭志ん生

ここで志ん生は、初代立花家橘之助(石田美代、1866-1935、音曲師)の弟子の「こみよ」さんという人に教わった、と言っています。

志ん生の「大津絵 冬の夜」にからんだ話には、いくつか有名なものがあります。

そのひとつ。

慶應の小泉信三(1888-1966、経済学)は毎年、志ん生を自宅に呼んで「大津絵 冬の夜」を聴きました。その折、小泉は、いつものくだりにくると必ず号泣するのだそうです。息子(小泉信吉)を戦争で亡くしたこと、多くの教え子を戦死させてしまったことなどがオーバーラップするのでしょうか。泣きたくて志ん生を呼んでいたようです。

私の大津絵(節)考

さらに。

山口瞳(1926-95、作家)の逸話もこれまた有名です。こちらは、明神下の神田川(うなぎ)において、志ん生を招いて聴いたという話。その額が10万円。昭和42年(1967)頃のこと。経済学的な換算ですと、消費者物価指数からはじき出せば4.3倍となり、それだと43万円となります。これなら、直木賞受賞の売れっ子作家ならどうということもありますまい。私の来し方の生活感覚からはじきだせば、現在の300万円ほどかと思われます。唄一曲聴くのにこの額は、そうとうなものです。竹内勉(1937-2015、民謡研究家)はこの当時、売れっ子噺家は5万円、円生が7万円で最高額だったようなことを言っています。押して知るべしです。

まずは、「大津絵 冬の夜」の歌詞をどうぞ。

冬の夜に風が吹く
知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ
これさ女房わらじ出せ
刺し子襦袢に火事頭巾
四十八組おいおいと
お掛かり衆の下知を受け
出て行きゃ女房はそのあとで
うがい手水にその身を清め
こよいうちの人になァ
けがのないように
南無妙法蓮華経
清正公菩薩
ありゃりゃんりゅうの掛け声で
勇みゆく
ほんにおまえはままならぬ
もしも生まれたこの子が男の子なら
おまえの商売させやせぬぞえ
罪じゃもの

山口瞳は神田川での一席を、一人5,000円の会費で募りましたら、またたく20人が集結。10万円は充填されました。それでも、神田川での食事代があります。付き添いのお弟子二人、三味線の平川てるさんなどへの払いは10万円の中にあったのでしょうが、気付けも(忘れてしまったそうですが)。なんだかだ10万円では足りなかったようです。まあ、それはともかく。「大津絵 冬の夜」を聴いた余韻にひたり鰻重に舌鼓打ちつつ酒席に変じた頃合い。はずした隣席の志ん生が、マネジャーの長女美濃部美津子(1926-2023)を通じて、山口を呼びました。「おとうちゃんが呼んでる」と。山口が行ってみると、志ん生はさっきの大津絵は満足しないのでもう一回聴いてくれ、と。その場で、山口は、志ん生のうなりをもう一回聴くことになりました。

 これを一言で言うならば、はなはだ月並みに言うならば、芸人の執念である。あるいは恨みである。あるいは怒りである。もどかしさである。あるいは魂である。あるいは律義である。そうして、自分の体と自分の芸との戦いだった。その場に立ちあってくれと言っているのである。大変に辛いことを書くが、そのときの志ん生さんは、もう、声が出なくなっていた。冬の夜に風が吹く、までは出る。あとは何が何やらわからない。私は、志ん生さんのまえに頭を垂れているばかりである。

志ん生の意気地を強く感じます。そのあと、山口はこうも記しています。

 志ん生さんが亡くなってから、彼の人柄がチャランポランであり、その芸は天衣無縫だと言われた。私は断じてそうは思わない。志ん生さんは律儀な人であり、その芸は計算された芸である。まっとうな修練を経た芸である。

私はここを引用したくて、ながながとつづったのかもしれません。「大津絵 冬の夜」には、もうひとつの「志ん生」がひそんでいます。

必聴です⇒大津絵 冬の夜

                               古木優

※参考文献:山口瞳『隠居志願』(新潮社、1974年)、矢野誠一『志ん生のいる風景』(青蛙房、1983年)、矢野誠一『文人たちの寄席』(白水社、1997年)


成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

めにかりができた【眼に借りができた】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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宇野信夫(1904-91、劇作家)が書き残しています。

宇野が白鬚橋の手前に住んでいた頃、柳家甚語楼(志ん生)がよく遊びにきたそうです。

志ん生が業平のなめくじ長屋に住んでいた当時。貧苦の底をさまよっていた頃のことでしょう。業平から40分近くかけて歩いてきていたそうです。意外に距離があるんですね。

ある寒い日、宇野はあんかに入っていました。訪ねた志ん生もあんかに入り、二人は世間話に。

話しているうちに、志ん生はコクリコクリといねむりを始めました。

そのようすを見て、宇野は「この人はこれでおしまいかもしれない」と思ったそうです。よほど底辺徘徊、疲労困憊の様相だったのでしょう。

ところが、志ん生は目を覚ますや、「じゃり(子供)が朝早くから目をさまして、胸の上をあるきゃァがるから、どうも眼に借りができちゃって」とポロリ。

なかなかにしぶとい。いねむりのわけは貧苦よりもじゃりによるものだ、と。

「眼に借りができる」なんて、生活臭と酔狂感がないまぜの語感ではないですか。

志ん生っていう人は、ときどき使ってみたくなるような言い回しを発するものです。

宇野は記していませんが、志ん生はこれで終わりということはなく、いやいやどうして、なかなかに踏ん張っているもんだな、というかんじが行間からにじみ出ていました。

宇野と志ん生の年の差は十四歳。若い宇野には、奈落の淵にあってもしぶとくそこらへんをうろついている風情を漂わす志ん生の境地は、じゅうぶんに理解できなかったのかもしれません。

「眼に借りができる」とはその状況を集約しています。

志ん生は、土壇場でうっちゃれる噺家だったのですね、きっと。

※宇野信夫『今はむかしの噺家のはなし』(河出文庫、1986年)

古木優



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しんしょうがなりすまし【志ん生がなりすまし】志ん生雑感 志ん生!

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志ん生がらみのことで、麻生芳伸さん(1938-2005)からしか聞いたことのない話があります。

志ん生が柳家甚語楼だったころのことでしょうか。

人気絶頂の初代柳家金語楼(山下敬太郎、1901-72)と同宿していたんだそうです。

金語楼は連日、寄席に引っ張りだこ。甚語楼はお声がかからず、部屋でくすぶる。金語楼の下流に甘んじる甚語楼。

そんな構図だったようです。でも、二人は仲良かったんだとか。

ある日。

金語楼がいつものように寄席に行く支度をしていたら、甚語楼が金語楼を縄でぐるぐるに縛ってしまいました。

甚語楼は金語楼の着物を着て、「柳家金語楼」になりすまして高座に出たんだそうです。

テレビもなかった時代。甚語楼が金語楼を騙って高座に出ても、客は「いつもとちょっと違うなあ」くらいで通っちゃったのですかね。

こんな仕儀がまかり通ったとは。のんきなもんです。昭和4年(1929)ごろのお話でした。

古木優



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しんしょうのひとこと003【志ん生のひとこと 003】志ん生雑感 志ん生!



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それで文楽師匠が「孝ちゃん、その着物ウールかい」って言ったら、志ん生が「売らないよ」って答えるんです(笑)。

古今亭志ん駒のインタビュー
聞き手は吉川潮氏。2006年1月11日
KAWADE夢ムック『古今亭志ん生』(河出書房新社、2006年)より

■「孝ちゃん」とは、もちろん五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)のこと。志ん生が体調不良のときに、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)がウイスキーなんかを持ってお見舞いに来るんだそうで、そのときの会話を、弟子の古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)が語っています。志ん生の天性のおかしさがみじみでていますね。そういえば、何年か前に「明神下神田川」で鰻を堪能した折、二階の踊り場に志ん生と文楽のツーショットが飾ってありました。それが左上の写真です。店主が言うのには、文楽はよく利用してくれたけど、志ん生はめったに来なかったんだとか。昭和31年(1956)12月に志ん生が「お直し」で芸術祭賞を受賞したお祝いに、文楽が招いた折の写真だとうかがいました。文楽と志ん生はなかよしだったのですね。

2023年9月27日 古木優

ゆうずうむげ【融通無碍】故事成語 ことば

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

考えや行いが一つのことにとらわれることなく、その場その場に応じて、のびのびしている状態。

融通無礙とも。

「融通」は成り行き次第。「無碍」はじゃまなものがないこと。

【文例】

子供の創造性を重んじるなら、決まりごとにとらわれることなく、融通無碍なところも認めなくてはならないだろう。

【類語】

融通自在、無礙自在。

融通無碍は、志ん生のためにあることばでしょう。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しんしょうとにんじゃ【志ん生と忍者】志ん生雑感 志ん生!

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古今亭志ん生を語ろうとすると、いまだに「貧乏」の二字がついて回ります。

でも、志ん生自身は貧乏ではなかったようなのです。

志ん生の懐にはしっかり金が入ってきていました。志ん生はこの金を家に渡さなかったのです。

貧乏だったのは美濃部の家族です。りん、美津子、喜美子、清(十代目金原亭馬生)までが辛酸をなめ尽くしました。最後の強次(三代目古今亭志ん朝)は、貧とは無縁でした。

強次が生まれた昭和13年(1938年)あたりから、志ん生は売れ出しているからです。

おまけにこの年は、師匠の初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が逝っています。志ん生は三語楼の話財をまるごといただいているのです。「ヘービーチーデー」とかの。噺家の世界にはよくある類型です。

美濃部家は高位の旗本直参だったという話ですが、これもどこまで高位なのだか。

ただ、美濃部という家は近江国おうみのくに(滋賀県)の甲賀こうか郡の国人(土豪)ですから、甲賀衆の流れをくんでいるのはたしかです。美濃部達吉も美濃部亮吉も同じ系統なんでしょうね。

神君伊賀甲賀越えに随従した甲賀者の一人だった、ということでしょう。

名前を17回も変えてみたり、「二階ぞめき」をやっているうちに「王子の狐」に代えてしまったり(最後の高座、1968年10月9日)、といった融通無碍ぶりは、こっちの系統だったからなんでしょうかね。

融通無碍。すてきなことばです。これこそが、志ん生を読み解くためのキーワードでしょう。

貧乏も忍者もこの四字熟語にパックリのみ込まれて、いずれはとろけてしまうのです。だから、なめくじとも縁があるんですね。

古木優



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特設 しんしょうさんせんじゅうよんばんしょうぶ【志ん生三選 十四番勝負】志ん生雑感 志ん生!

特設

古今亭志ん生の本名は美濃部孝蔵といいました。美濃部家は徳川宗家の旗本でした。遠くは甲賀の出身だそうです。そう、甲賀忍者を先祖とする家だったのです。神君伊賀甲賀越えに随従したのだとか。ほら、「大河」でやってたアレですね。忍者と噺家。どこか似ていますね。人をけむに巻く、とかで。そこで、2023年9月21日、志ん生の没後五十年をしのんで、志ん生の人となりを、さまざまな観点から考察していきます。これぞ考察!

高田裕史

第一番 天敵三選

①円生 ②漬物 ③ナメクジ


①志ん生が、人間的にも芸風にもどうにも好きになれなかったのが、十歳下の円生だった。後年、両者が、時に知人に、または対談などで、かなり露骨に互いに辛辣な言葉を浴びせている。これは矢野誠一が指摘している通り、たたき上げでのし上がった志ん生と、御曹司(継父が五代目円生)でエリート意識が強かった円生では、ウマが合うはずもない。なまじ満洲(中国東北部)で食うや食わずの極限状況の共同生活をするうち、些細なことで衝突、なじり合いを繰り返し、それが戦後帰国してお互い大幹部になっても尾を曳いていたということだろう。※『志ん生のいる風景』(矢野誠一、文藝春秋) 

②志ん生の漬物嫌いは、長女美濃部美津子の著書などでも紹介されているが、これはひとえに志ん生が生涯持っていた、自分は士族、それもれっきとした旗本の子だという自負と矜持によるものとみえる。「漬物(コウコ)は農民の食べ物」と麻生芳伸にも漏らし、若い頃から親しかった宇野信夫にも「士族自慢」をたびたびしていたという。ということは、①についてはじつはこんなこともいえよう。志ん生はすさまじいエリート意識で芸人出の円生を見下していたと。志ん生も円生も別なベクトルのエリート意識をひっさげていたわけ。矢野の見方は皮相で、真相はこんなところだろう。

③これは志ん生ファンには説明の要はない。五寸もあるのが「カカアの足に食いつき」「這った後の壁がピカピカに」「猛毒で猫が七転八倒」……よくまあ、食い殺されなかったものだ。

第二番 好物三選

①納豆 ②マグロブツ ③酒茶漬け 番外 氷水


①「お父さんは納豆が大好物でした。昔、納豆売りに失敗したとき、やんなるほど食べたでしょ。普通ならそれで嫌いになりそうなもんなのに、年とってっからも毎日食べてた。ほんとに好きだったんでしょうね。(中略)とにかく、納豆なしじゃいらんないってくらいでしたね」。1961年ごろ録音の、志ん生一家の朝の日常を生撮りしたドキュメンタリー(?)でも、妻のりんが「よく毎日ナット食べるね」と呆れている。※『三人噺 志ん生・馬生・志ん朝』(美濃部美津子、扶桑社) 

②晩年の志ん生が贔屓にした文京区千駄木の居酒屋「酒蔵松風」の女将の証言。「(酒の)サカナはブツ専門でした。普通のおさしみはあがらないの。マグロが大のお好みでしたね」……。これは美津子の著書にもある。よほど好きだったと見え、1946~58年まで、アメリカによる23回もの核実験の影響で放射能汚染が問題となった「ビキニまぐろ」も、志ん生は値下がりしたのを幸い、モノともせずにパクついていたという。※『志ん生伝説』(野村盛秋、文芸社) 

③弟子、古今亭円菊の証言。「てんぷらなんか食べにいっても、とにかく、キューッと一杯、冷やで飲んで、あともう一杯は、天ドンなら、どんぶりのなかへビャーッとかけて、”酒茶漬け”というか(略)酒でごはんを食べますからね。。うまいんだそうです」※『志ん生伝説』。

番外「氷水」 これは四代目三遊亭円楽の証言前座時分、楽屋では志ん生は「出来れば氷水という方。猫舌だったのか熱いお茶は好みませんでした」。※『円楽芸談しゃれ噺』(四代目三遊亭円楽、白夜書房)

第三番 迷言三選

①酒はウンコになる ②二円五十銭よこせ ③女、とっかえろ


①正確には「ウーン、ビールは小便になって出ちまうけれども」に続く。「すごい奥の深いことをおっしゃる方でございますね。並大抵の人じゃ言えないお言葉でございましてね。(笑)ずいぶんいろんなお話を伺ったんですが、これが一番わたくしの心に、強く強く残っている名言なんでございます(笑)」。亡き名優に敬意をこめて、断然これがトップ。ビールは水代わりで、夜中に弟子が「水持ってこい」と言われて本当に水を持っていくと「バカ野郎」と雷が落ちたそうな。※『小沢昭一的新宿末廣亭十夜・第二夜 志ん生師匠ロングインタビュー』(小沢昭一、講談社) 

②「天敵」に関連して、六代目円生が後に対談で暴露。満洲時代のこと。奉天へ向かうため、新京(長春)のホテルを引き払うとき、一台しか来なかった人力車に志ん生一人だけ乗ったのに、後で円生に「五円取られたから二円五十銭よこせ」と割前を要求。「君一人しか乗らなかったじゃないか」「お前のカバンを乗っけてやった」。聴いていた一同は爆笑。こりゃ誰でも怒る。 

③志ん生の若き日の飲む打つ買うのメチャクチャぶり、珍談なら、もうこれは甚語楼時分からパトロンだった坊野寿山の証言にかぎる。すさまじい話が多すぎるが、女に関してはとにかく手が早く、貪欲だったようだ。これもその一つで、ポン友だった当時の馬の助(のち馬生)に女郎屋で十銭出して、こう強要した。友達の相方でもおかまいなしに「強奪」しようという。さすがに「冗談じゃねえ。ワリ(寄席の給金)じゃねえや」と拒絶されたよし。

第四番 パトロン取り巻き三選

①坊野寿山(1900-88) ②小山観翁(1929-2015) ③宇野信夫(1904-91)


①若い頃からのパトロンにして、生涯の遊び仲間だった。当人が都合よく忘れている旧悪はすべて覚えていて、ほとんどこの人によって暴露され、貴重な記録として残されている。志ん生より十歳下にもかかわらず、日本橋の呉服屋の若旦那で金は湯水のごとく使い放題だから、噺家が食らいつくにはこれ以上ない。後年は「川柳家」として大をなす。志ん生も寿山の勧めであまりうまくない川柳をひねっている。

②知る人ぞ知る「昭和の大通人」。もとは電通のプロデューサーで、川尻清譚門下の歌舞伎研究家、特に歌舞伎座の初心者向きイヤホンガイドでも有名だが、もとより落語の方も生き字引。志ん生とこの人の結びつきは『対談落語芸談4・古今亭志ん生』(弘文出版)にくわしい。学生時代から始まり、就職後は電通制作の落語番組で志ん生を起用したことから公私ともに親交を深め、狷介な志ん生を巧みになだめすかして仕事の面倒を誰よりもよく見たことで、「小山亭が言うんじゃしょうがねえ」と晩年の志ん生が唯一「何でも言うことを聞く」といわれたほどの人。 

③劇作家。昭和初期、六代目尾上菊五郎のために、数々の新作歌舞伎脚本を書き下ろしたことで有名。若い頃から落語にも造詣が深く、六代目円生とは特に親しかったが、志ん生とは柳家甚語楼時代、宇野がまだ学生だった昭和初期からの遊び仲間。埼玉・熊谷に本店を持つ染物店の若旦那だった。坊野ほどではないが、やはりパトロン的存在である。『昭和の名人名優』(宇野信夫、講談社)には、あまり知られていない甚語楼時代の貴重なエピソードが多数収まる。

第五番 コレクション道楽三選

①たばこ入れ ②和時計 ③金魚


志ん生の古道具、骨董趣味は家族や門弟などによってよく語られるが、もちろん戦後、極貧とおさらばして功成り名遂げ、趣味に金と余暇を使えるようになった晩年の楽しみだったろう。 

①は文楽と競争してコレクションしたという※『志ん生伝説』。「オレが文楽に教えたんだ」と威張っていたとか。これに関しては坊野寿山の回想も。「私しゃ死んでも離しませんから」と志ん生に高価なタバコ入れをねだられ、しかたなく中身ごとやると、五、六日して柳枝(八代目)が来たら、その煙草入れでうまそうにスパスパ。志ん生から五円で買ったらしい。「あの野郎、モートル(=博打)で負けて、五円なんかで売っちまったんだ」 

②これも『志ん生伝説』による。谷中の時計店氏の回想。弟子(おそらく円菊)におぶわれて来店したというから最晩年だろう。一度買っても気に入らないと、何度でもまた買い直しにきたくらい凝っていたとか。もっぱら白の和時計で、飽きると片っ端から人にやってしまったようだ。 

③古道具や骨董同様、ペットも欲しいとなったら片っ端から衝動買いし、片っ端から飽きてまた別の動物を飼う。長女美津子の証言によると鳥ではインコやカナリア、ウグイス。犬もしょっちゅう取り換える。その中でもっとも長続きしたのが「金魚金魚ミイ金魚」。自宅裏庭の池で泳がせ、金魚釣りをして無邪気に喜んでいたという。

第六番 志ん生の新作落語三選

①一万円貰ったら 「講談倶楽部」1939年5月増刊号所載 
②隣組の猫 「富士」1940年10月号所載 
③強盗屋 「キング」1937年4月増刊号所載


新作を中心にした速記を集成した『昭和戦前傑作落語全集』には志ん生のものは計21題が掲載されているが、矢野誠一によると、志ん馬改名(1934年7月)の頃から自作と称して新作の速記をよく出版社に持ち込んでいたらしい。ここにラインナップした3題はそのうちまあまあおもしろいと勝手に判断して順に並べたもの。いずれもどうやら自作らしい。 

①は志ん生襲名後のもの。 古典の「気養い帳」風に、長屋で大家が景気づけに「仮に1万円(現代だと数百万)貰ったら何に使うかと次々に聞く。例によって頓珍漢な解答の後、最後に「双葉山贔屓だから、国技館で祝儀に双葉にやっちまう」「全部?」「いえ、九千九百九十九円九十三銭」「あとの七銭は?」「帰りの電車賃にとっとく」というセコいもの。 

②の噺の眼目は不細工なかみさんをグチるくすぐりで、それも後世「火焔太鼓」などに使ったものよりずっと過激で、なぜか戦後はほとんど消えた幻の逸品揃い。「唇が薄いというからてめえを貰ったんだ。薄けりゃベラベラしゃべるから、借金の言い訳になると思ってよ」「あの顔色をごらんよ。頬骨が出て眼肉がこけて、まるで患ってる鰻だよ」と亭主が言えば女房も「(貧乏暮らしで)人の肉を盗っちまいやがって、泥棒っ」と応酬するなど、この夫婦げんかだけでも二位の価値は十分。 

③はまだ七代目馬生時代で、実は気の弱い旦那が、細君に自分は柔道三段だから強盗なんぞ怖くないと見栄を張り、それを証するため、これも気の弱いルンペンに、5円で狂言の強盗役を頼むが……というライトコメディー。オチも含め、なかなかよくできている。

第七番 志ん生作の川柳三選

①羊羹の匂いをかいで猫ぶたれ
②のみの子が親のかたきと爪を見る
③捨てるカツ助かる犬が待っている

志ん生が「旦那」の坊野寿山の勧めで、生涯かなりの数の川柳をものしたことは「パトロン」の項でも触れたが、あくまで「川柳」であって文人気取りの俳句でなかったことがこの人らしい。割にファンの間で有名なものには、『びんぼう自慢』の巻末にある「エビスさま鯛を取られて夜逃げをし」「松茸を売る手にとまる赤とんぼ」「豆腐屋の持つ庖丁はこわくない」「雨だれに首を縮める裏長屋」など、ペーソスを効かせたなかなか洒脱なものも多い。ここではあえて、「コレクション道楽」の項でも紹介したように当人が動物好きであったことも考え、動物で三句を選んでみた。矢野誠一が一度直接当人に尋ねたら「別に」とそっけなかったそうだし、せっかく飼っても例のズボラと気まぐれですぐ飽き、ペットもとっかえひっかえではあったようだが、これは江戸っ子特有の照れやシャイな気質の表出と見る。志ん生は得意ネタ、マクラ、小噺でも動物を擬人化したものがうまく、そこには、弱い虐げられた者の怒りや悲しみを動物に託した、敗残の江戸人の生き残りの精一杯の反骨心があるといえる。その意味で、飢えてぶたれた猫も、親をつぶされたノミの子も、捨てられたカツに飛びつく野良公も、すべて若き日の餓えた美濃部孝蔵そのものの分身だったのだろう。

第八番 志ん生の恩人三選

①美濃部りん
②初代柳家三語楼
③三代目小金井芦州
番外 上野鈴本・島村支配人

①はもう、これは誰も文句はないところ。ミセス・ミノベなくして美濃部孝蔵も五代目古今亭志ん生もなく、それどころか噺家を廃業したまま、陋巷に野垂れ死にしていたかもしれない。あらゆる資料のあらゆる関係者でこの老夫人を褒めない者はいない。「賢夫人」「『あわびのし』のような夫婦」「器用で裁縫上手で、自分の内職一本で夫と子供たちを養った」「普通の人間なら、たとえ大正の昔でもとっくに別れている」「子供の頃からの苦労人で、極貧生活なのに、困っている人間を見ると有り金をやってしまう」……。こうなるともう菩薩、聖母マリアそのもの。にもかかわらず背信亭主は、祝言の夜から仲間と居続けでチョーマイ(女郎買い)。ヒモ同然に同棲していた女と、結婚後もしばらく縁が切れず(二人の子が後の某大女優という説あり)、大看板になっても向島の芸者のところに回数券付きで通っていた(円菊談)……。菩薩の顔も三度までで、「さしものお袋がもう別れようと思ったことは二度三度じゃなかった」(長男馬生談)。にもかかわらず、とうとう50年間添い遂げてしまう。こんなかみさん、絶滅種どころか、もはや日本のどこにも存在しないだろう。 

②③はそれぞれ、五人目(最後)とその前の師匠。志ん生自身は、「師匠」と仰ぐのは、終生最初の師匠と頑なに言い続けた名人・四代目橘家円喬だけで、実際の最初の師匠・二代目三遊亭小円朝を含め、他の師匠には尊敬もなにもなかった。ただ、三語楼と芦州は、それぞれ芸の上では大恩人だった。

第九番 志ん生への寸評三選

①志ん生は色彩、文楽は写真(小絲源太郎)
②文楽は古典音楽、志ん生はジャズ(徳川夢声)
③オヤジ自体が落語(古今亭志ん朝)

①は日本芸術院会員で文化勲章受章者の洋画家によるもので、この言葉だけで志ん生のみを「芸術家」と遇しているようなもの。黒門町ファンには大いに反発を招くだろうが、古い世代の画家(1887年生、志ん生より三歳上)にとって、写真はただ「機械的な現実もどき」の大量生産に過ぎないとするなら、いつも固定して動かない文楽の芸をこう例えたとしてもおかしくはない。 

②の夢声は対談相手でもあり、個人的にも親交があったから、古今亭贔屓なのには違いないが、①に比べ、より公正でわかりやすい評。つまりは厳格な格式・様式と自由奔放な変奏・くずしという、ごく一般的な両者の芸への感想を西洋音楽に例えたセンス。ただ、若き日の志ん生がどちらかというとオーソドックスな正統派の芸を志向し、結局それでは売れなくて、やむを得ず三語楼流の破格の芸に走った事実は、同世代の夢声老(1894年生)なら当然知っていたはずだが。 

③は円朝にはなれて志ん生にはなれなかった次男坊の、シンプルかつすべてを包含した嘆息。

第十番 あだ名三選

①人差し指
②貧乏神
③オケラのコーちゃん

①複数の出典があるが、代表的なものでは、甚語楼時分の志ん生のパトロンの一人で、遊び友達だった宇野信夫が自著『昭和の名人名優』ほかで暴露している。バクチ狂いだが始終負けてはスッテンテン。どうにもならなくなると「ここへこれだけ(タネ銭を貸せ)」と人差し指を出す。ということはたぶん一円。もちろん誰も相手にしない。単に「指」とも。 

②四代目柳家小さん。「甚語楼に渋団扇を持たせたら貧乏神」と評した、同業者で同世代ならではの辛辣な命名。つまりは昭和初年の志ん生は、なりがほとんど物乞い同然であるばかりか、芸もまた垢じみてて貧乏臭かったということでもある。 

③三味線漫談、都家かつ江の証言。志ん生三回忌の1975年、『志ん生伝説』の著者野村盛秋に語った追想コメントで、例えば花札でオケラ(麻雀でいうハコテン)になると、例によって「貸してくれ」。で、自称二円五十銭の高級時計をカタに置いていくが、案の定受け出しに来ない。結局、始終時計屋へ直しにいかなければならない、二束三文のオンボロ時計だということがばれ、ねじ込むと「だからさー、キミがあの時計を持ってネ、時計屋へ養子に入りゃいいんだよ」……。これが大看板の志ん生を継いだ後だから、あきれ果てる。というか、志ん生というパターン化に成功したわけ。

第十一番 芸のポリシー三選

①教えた噺はやらない
②汚い噺はやらない
③言葉が、正宗の名刀であれ

①これはどの門弟後輩に対しても共通したポリシーで(真打ちに限るが)、噺は財産なので、きちんと教えたネタは譲ってやったも同じだから、原則としてもう自分では封印する。これは江戸っ子の美学であると同時に、その教えた相手がどんなに汗をかいて熱演しても、到底志ん生には及ぶべくもないから、それによって自信を失わせることを避けた思いやりでもあるだろう。 

②は、どんなに薄汚れた世界を演じても、美学に反する噺だけはやらない、というサムライの末裔のプライドか。例えばどんなに勧められても、弱い立場の女郎をよってたかって酷い目に遭わせる「突き落とし」だけは頑として演じなかった。また、バレばなしはやっても、「汲み立て」「禁酒番屋」ほかの、文字通りのスカトロネタは演じなかった。志ん生にとっての「汚い噺」というのは、その両方の意味を兼ねるのだろう。 

③はえらく大きく出た言い方に聞こえるが、内弟子時代から私生活にも密着し、せがれ同然にかわいがられた円菊の語り残し。長男の馬生に稽古をつけているそばで聞いていたことで、言葉のメリハリには厳しかったということ。細かい表現などは意味が通じればいいが、名刀のようにコトバが切れなくっちゃいけない、間違っても二度同じことを言うな、とも。なるほど、フニャクニャムニャムニャ言っているようでも、よく聞けば志ん生の「セリフ」ははっきりわかる。メリハリのよさ、センテンスをスッパリと短く切るさわやかさは、即妙のギャグを活かすもっとも重要なポイントだったわけだ。

第十二番 同い年生まれ三選

①ドワイト・アイゼンハウアー
②シャルル・ド・ゴール
③教育勅語(本人推薦)
番外 花王石鹸 帝国ホテル、凌雲閣、国会議事堂、電気椅子(米)

明治23年(1890)戊五黄寅生まれの赤ん坊は、統計資料によれば、日本だけで男女合わせて約119万人。世界中を見渡せば、おそらくその二十倍はいただろう。どの年でも同じだが、その中で、少なくとも人名事典に名を残すほどになった者も山ほどいる。もっとも、「偉人」の領域になるとかなり絞られるが、それをいちいちあげていればキリがない。五代目古今亭志ん生こと故美濃部孝蔵氏が偉人かどうかは評価がわかれるだろうが、少なくとも「芸術家」の分野に限れば、まあまあ世界トップ100には入れたい気がする。そこで①と②、現代史をひもとけば必ず出てくる世界的な政治家(将軍→大統領)ながら、美濃部孝蔵との共通点は……見事にまったくない。むしろ、同じ年に大小便垂れ流しながら生まれてから、70年も経過して、よくもまあ、これほど隔絶した人生をたどるものと、その究極の例としてだけあげておいた。いや、本当は③をトップに据えたいくらいで、これはご当人が『びんぼう自慢』で「教育勅語が降下になったのが、その年(明治23年)の10月だから、あたしのほうが教育勅語より少うし兄貴てえことになる」と胸を張っている。なるほど、志ん生流の四次元的発想では、別に「同い年」といったところで人間に限定しなければならないということはないはず。ところがあいにく、日本では明治23年という年、珍しく天下泰平極まる年で、主なできごととしては教育勅語のほかは、せいぜいが2月- 金鵄勲章制定だの、4月-内国勧業博覧会開催だの、その他、第一回衆議院議員総選挙、花王石鹸新発売、凌雲閣、帝国ホテル開業と、あまり歴史に残るイベントはない。そこでどうせ中途半端なら、志ん生も明治の子、尋常小学校の頃は「大臣・大将」が理想像だったろうから、いっそ大統領二人の同年生の方が喜ぶだろうと愚考した次第。番外では人間以外の方々もいくつかご紹介しておいた。

第十三番 冥途の道連れ三選

①七世芳村伊十郎-長唄唄方、9月20日没、享年72
②二十四代木村庄之助-大相撲立行司、9月19日没、享年72
③ J・R・トールキン-英、作家・詩人、9月2日没、享年81

残念ながら、少なくとも人名事典に名を残すほどの著名人では、志ん生師匠と同日(9月21日)に三途の川を渡った人は見当たらない。師匠より一日早く旅立った①の7世伊十郎は不世出の名人。人間国宝の肩書もあってトップに据えた。②とした24代庄之助は、柏鵬時代を裁いた名物立行司。「山伏庄之助」とも。③のトールキンは、文学の最高峰『指輪物語』の著者。サルバドール・アジェンデ(チリ大統領、9.11)、グスタフ六世(スウェーデン国王、9.15)、パブロ・ネルーダ(チリの詩人、9.23)なども。これらの人々と志ん生の接点は一切なし。強いて言えば共通点は「男」というだけだが、そういえば同行者の中には、残念ながら老いて逝った元女優何人かを除けば、妙齢のご婦人は見当たらなかった。肝心の同業者だが、この1973年には、同世代でただ一人、最初の師匠・三遊亭小円朝の長男、三代目小円朝があの世へ行っている。小円朝は二か月早く7月11日没(享年80)。若き日、志ん生が「ねずみの殿様」とあだ名を付けた人で、この人は二歳年下でもそこは「師匠のお坊ちゃん」で、なんとなく煙たい存在のまま終生あまり仲はよくなかったようだから、いっしょに道中したい相手ではなかっただろう。

第十四番 志ん生の弟子三選

①初代金原亭馬の助
②二代目古今亭円菊
③八代目古今亭志ん馬

志ん生が満州から帰国後、弟弟子(三語楼門下)から志ん生門に移った志ん太(のち二代目甚語楼)、同じく三寿(のち志ん好)を別格として、志ん生直門の弟子は長男の四代目むかし家今松(のち十代目金原亭馬生)を筆頭に、最後の志ん五まで12人。そのうち、早く廃業した者、五代目古今亭今輔門下に移籍した志ん治(のち鶯春亭梅橋で真打、早世)を除いて、真打になった者は8人。順に馬生、初代金原亭馬の助、八代目志ん馬、二代目円菊、三代目吉原朝馬、三代目志ん朝、初代志ん駒、初代志ん五。このうち、志ん生の実子だった馬生、志ん朝を別格とし、残り5人から3人をピックアップした。この選択はあくまでランダムで、人気や芸の評価からの順位付けではない。なお、2018年1月18日の志ん駒の死去を最後に、この8人はすべて故人となった。悲劇的にも、享年で師匠を超えたのは円菊ただ一人で、没年齢は順に馬生54、馬の助47、志ん馬59、朝馬47、志ん朝63、円菊84、志ん駒81、志ん五61。80歳を超えた2人を除いて、早世した弟子が多いのは、赤貧に鍛え上げられ、重い脳出血から奇跡的によみがえって83歳まで酒を飲み続け、なお芸への執念を燃やし続けた明治男の強烈なエネルギーに、どいつもこいつもみな生命力を吸い取られたためかとさえ思える。

ごじゅうねんごのしんしょうは【五十年後の志ん生は】志ん生雑感 志ん生!

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

2023年8月26日、美濃部美津子さんが「お父ちゃん」の元に旅立った。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の長女である。マネジャーとして、長年、名人を支えてきた人でもあった。白寿の享年。合掌。

奇しくも、あれから五十年。経めぐってきたこのとき。はやいようなおそいような。

志ん生はまだ向こうでおとなしくやっているかのどうか。知りはしないが。

美津子さんは美濃部ファミリーの語り部だった。志ん生、りん、喜美子(次女、三味線豊太郎、1925-81)、馬生、志ん朝……。志ん生志ん朝マニアには、美津子さんご自身が伝説であり続けた。

伝説といえば、このこと。

この半世紀、落語界の枠を超えて針小棒大に手垢をなすられ続けた感のある志ん生。

その人気は、ネット時代となっても衰えを知らない模様である。

こころみにYouTubeで検索すれば、出るわ出るわ。

病後のくたびれた時期の録音も、数少ない実写などもあわせたら、ゆうに100件を超えている。

中身もふるっている。

五十回忌での「五十年追善興行記者会見」とか、新作落語「志ん生がスティック買う?」とか。

百花繚乱である。

ひところは、当人出演の古いTVインタビューも、ざくざくアップされていた。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894.10.25-1964.11.8)との、ともに入れ歯ガチャガチャの対談など、まだまだ掘り出しものがさらされることだろう。

現在、Wikipediaの外国語版では、ドイツ語版にのみ志ん生のページがある。奇妙なことだ。次男志ん朝との因縁なのだろうか。

こんな現象が続くならば、志ん生の私生活や心象風景をも覗き込めるかもしれない。

志ん生という人は、その芸が好きになると、もう風呂場の中まで覗きたがるたちだったという。

岡本和明著『志ん生、語る』は、近親者や弟子の聞き書きで、要領よくまとめられてある。そんな生身の志ん生が浮き上がっている。全編、興味深い。

骨董贔屓に力士贔屓が活写されている。印象深い逸話の数々。

ただ、やれ骨董道楽だの、それ鶴ヶ嶺贔屓だのと、それは過ぎし世の老爺たちがいとなむ、ありふれた日常にすぎないようにも見える。

あたりまえのことだが、志ん生は噺家である。そこらの爺とは違う。

肝心の落語についてはどうか。

あえて、私見を。

志ん生の一見アナーキーなギャグや客の掴み方は、演芸界で生き残らんがための当人の悪戦苦闘と、そこから生み出された冷徹な計算の賜物ではないか、と私は思うのだ。

当人が意図的に拡散した虚実ない交ぜの武勇伝。例の極貧譚なども、すべてはおのれが落語でのし上がるための方便だったのではないだろうか。

具体例を出そう。

五銭の遊び」である。

紙くず屋との「十銭か」「五銭か」と、たたみみ掛けるやり取り。

その末に、「三銭か」「当たった」「あ、三銭」の最後の「あ」と同時に客の笑いがどっと被り、末尾をかき消すと同時に、笑いは百倍にも増幅する。

痛快な場面である。

スタジオ録音などでは、とうてい得られない誘爆力だろう。

これもまた、志ん生流の落語の立体化である。

没後、半世紀にもなって、なおマニアを量産する魔術、催淫効果と言えないか。

なにか、身ぶるいのする凄みさえ感じるというのは、大仰だろうか。

で、蛇足を。

明治23年(1890)生まれの美濃部孝蔵クンには、日本だけでも119万人もの赤ん坊仲間がいた。世界中の「同級生」を挙げれば、アイク、ドゴールがすぐに思い浮かぶ。この二人で十分だろう。

しかし、である。と、私は強調したいのだが。

たかだか米仏大統領二人の朗々たる名演説ごときは、志ん生が成し遂げた酔いどれ聴衆掌握の珍妙きてれつな話術に比べれば、屁でもない。それは断言できる。

冥界の当人は、さぞ、もう、多分、うんざりなことだろう。

娑婆ではまだそんな繰り言めいた妄言を広げているのか、いいかげんに瞑目させてくれ、と怒っているかもしれない。

だが、まだまだ当分、娑婆にたゆとう「古今亭志ん生」は、解脱などできそうにない。マニアの脳裏にしっかり根付いているのだから。

あれこれ含め、古今亭志ん生はつくづく不世出、永久欠番の天才噺家であったことだなぁ。

高田裕史

ごせんのあそび【五銭の遊び】落語演目

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【どんな?】

五銭をもって吉原で遊んだ男の珍体験談。
いくらなんでも五銭では。
それがりっぱにあがれたのです。

別題:白銅の女郎買い

【あらすじ】

明治から大正の頃。

吉原は金さえあれば、どうとでもなる場所だ。

花魁の格はピンからキリまである。

下の方にくると「じょーろ(女郎)」というのがいる。

町内の連中が、なか(吉原)のじょーろの評判をしている。

とめ公が
「おれは五銭で遊んできたぜ」
と自慢しはじめた。

そのわけを話す。

その日は、二銭しか持ち合わせがなかった。

外にも行けず、家にいて小説本を読んでいたのだ。

おふくろが
「馬道まで、無尽のお金をもらってきておくれ」
と頼まれた。

無尽で五銭が当たったのだ。

用が済んで、浅草の瓢箪池まで来てみると、しめて七銭持っていることに気づいた。

心が動いた。

足がなんとなく吉原に向いていった。

七銭もってむらむらと。

どうせ、ひややかすだけだ。

そんでもって、女を安心させてやろう、と。

千束から吉原土手に出て、大門をくぐって、江戸町二丁目を突き抜ける。

ひやかしていると、角海老の大きな時計が、夜の12時を打った。

腹が減った。

おでん屋に飛び込んで、コンニャクを食べた。

金がないから、コンニャクの二銭を払って、それ以外は食べずに出てきた。

コンニャクで威勢がついた。

「まるで小石川の閻魔さまだな」

話を聴いている連中にひやかされる。

話はさらに。

夜が明ける頃に帰れば、母親も安心するだろう。もう少し冷やかしていこうかと思った。

投げ節をうたった。

ある店の前を通った。

「ちょいとぉ」
と、後ろから声がかかった。

二十四、五歳の女だった。

「二日続けてお茶を引いちゃったんで、今晩ぐらいお客を取らないと、ごないしょに怒られるからさ、どうしても助けておくれよ」
「だめだ、金がねえんだ」
「いったい、いくらあんのさ」

さすがに「五銭なんだ」とは言えないので、右手を出して「これくらい」と伝えた。

女が少し考えて出たひとことが、「なら、お上がりよ」だった。

浮き立つ心で、トントーンと二階にあがった。

「むりを言ってすまないね。恩に着るよ。寝ようよ」
「その前に、腹が減ったんで、なにか食わしてくれ」

この時分では注文もできない。

女は親切にも、廊下から台屋のお鉢を抱え込んで、食べさせてくれた。

おかずは、といえば、これがすごい。

「ぜいたく言わないで、梅干し食べていると思って食べな」

しょうがない。すっぱい唾で飯をかき込んだ。

さて、寝ようと。

若い衆の松どんが入ってきて、「宵勘だから」と催促された。

「はいよ」と五銭を投げた。

すぐに女が言った。

「足りない分は、私が足すから文句を言わないで承知しな」
「承知もなにも」
「がまんおしいよ」
「五銭ですよッ」

女はジイッと俺の顔を見ていた。

「片手を出したじゃないいか」
「そうだよ。五銭だから」
「まあ、五銭でよく店の敷居をまたいだね。その上、飯まで食べてさ。あんたは面の皮が厚いね」
「俺は薄くはないいよ」

【しりたい】

白銅

明治期からの通貨です。

「安い」の代名詞として知られます。



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しんしょうのなかにはっかーが!【志ん生の中にハッカーが!】志ん生雑感 志ん生!

テレビドラマ「VIVANT」(TBS系)が話題です。

8月6日放送の第4話では、丸菱商事のシステムを改竄して誤送金を仕組んだのは太田梨歩(飯沼愛)だったことが判明しました。

彼女宅から警視庁公安部が押収したブツの中には、なんと『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)も。

渋いです。

このディスクが怪しいと睨んだ野崎守(阿部寛)。PCに差し込むと出囃子「一丁入り」が公安部内、場違いに響きわたります。

ディスプレイには「blue@walker」の文字が次々と表れて。太田梨歩は名うての暗躍ハッカーだったのでした。

志ん生とハッカー。

この盤には「首ったけ」「火焔太鼓」「幾代餅」が収録されています。お得です。

ドラマ後半では、乃木憂助(堺雅人)がじつは自衛隊内のかそけき組織「別班」の一員だったことが。

これには視聴者全員ビックリでしたが、それ以上の椿事はやはり志ん生CDにハッカー(の名)が潜んでいたことでしょう。まさに首ったけ。

このドラマの視聴者にどれほどの志ん生ファンが潜伏しているのかは知りませんが、私なんかは、その唐突ぶりに噴飯の吃驚を禁じ得ませんでした。

小道具づかいに長けた「VIVANT」。

スタッフの粋なセンスにほろ酔いますが、劇中、何度か映る神田明神境内の祠にも「ひょっとしてこれも?」なぁんて淡い勘繰りをつのらせます。

赤い饅頭が供えられていたりいなかったりと。謎めいてくるではありませんか。

お次は「饅頭こわい」とかね。饅こわと別班。渋辛なおもむきで迫ってきます。

古木優

首ったけ 五代目古今亭志ん生

ろくしゃくぼう【六尺棒】落語演目



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【どんな?】

ほとんど二人だけ。
おやじと息子の対話噺。

【あらすじ】


道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。

店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。

番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。

「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……。あなたのせがれの孝太郎で」

さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。

「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊びに火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたと、どうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」

あしたっからもう家にいます、と謝ろうが、跡取りを勘当しちまって家はどうなる、と脅そうが、いっこうに効き目なし。

自殺すると最後の奥の手を出しても……。

「止めんなら、今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていた、とお伝えを願います」

孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。

「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」

親父が小言にかかると、孝太郎、
「養子をとってまでどうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまいましょう」
と脅迫する。

言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまからようすをうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。

六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」

幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げだした。

抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。

いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。

そこへおやじが、腰をさすりながら戻ってくる。

「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。おまえのおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」

立場がまるっきり逆転。

「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと『一杯のんだらどうだ。小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」

それを聞いて、おやじ、
「なにを言いやがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」

底本:初代三遊亭遊三

【しりたい】

三遊亭遊三

文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。

明治末期には、御家人上がりで元彰義隊士という異色の落語家、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)が得意にしていました。

とはいえ、この遊三はヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、のむ打つ買うの三道楽だけが一人前。

お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと逃走。

維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。

カラスをサギ、有罪を無理やり無罪にして、あっさりクビに。

これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。

十朱幸代さん(俳優)の曽祖父にあたる人です。十朱久雄(俳優)の祖父ですね。あたりまえですが。

遊三から志ん生へ

遊三は、美濃部戌行と初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達だったそうです。

美濃部戌行は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の父親、初代円遊は明治の爆笑王です。

その関係からか、遊三は孝蔵少年(志ん生)をかわいがりました。

志ん生は「火焔太鼓」「疝気の虫」「六尺棒」などを遊三から会得しています。

遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、セガレになめられっ放し、ということがよくわかります。

本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。

志ん生の方は、遊三のギャグなどは十分残しながら、親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。

なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝てを願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。

十代のころ、巡査だったおやじの金キセルを勝手に質入れしてしまい、おやじに槍で追いかけられそれっきり家に帰らなかった、というほろ苦い思い出が、この噺には生きているのでしょう。

六尺棒

樫材などで作る、泥棒退治用の棍棒です。

警察署の前には門番みたいに屈強な巡査が六尺棒を持って立っていますね。アレです。

六尺(約180cm)ですから、人の身長ほどの長さでしょうか。

これを使った棒術や杖術といった武芸もあるようですから、武器になる代物です。

志ん生のおやじは、維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏(巡回)のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。

高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同年の大正3年(1914)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたのかもしれません。

数少ない「対話劇」

落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。

例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。

「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話劇」とでもいえるものです。

「対話劇」などと言っても、どだい、落語という話芸は対話が中心となるわけで、とりわけこの噺に対話の特徴が強い、という程度の話です。

それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙が、これほどはっきりわかる噺はないかもしれません。

この種のものは、落語にはそう多くありません。

隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はじめ、「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども登場人物二人の噺ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。

「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。



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おかめだんご【おかめ団子】落語演目

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【どんな?】

母孝行の息子。
名物「おかめ団子」に盗みに。
たまさか、そこの娘を助けて……。
飯倉片町が舞台、地味でつつましい人情噺。
志ん生のお得意。

あらすじ

麻布飯倉片町いいくらかたまちに、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早じまいをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。

しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田ぶんきんたかしまだ緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん、 鴇色縮緬ときいろちりめん扱帯しごきを胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬け物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、四代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した団子店

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅 亀は団子で 名は高し」と、川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人。釣り好きでした。

あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。それを亀団子といいました。二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。

これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉きなこをまぶした団子で、一皿十六文と記録にあります。四代目麗々亭柳橋(斎藤亀吉、1860-1900)の速記には「五十文」とあります。これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、というと。

四代目麗々亭柳橋の速記では、こうです。

「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱あさぎ(薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」

当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。

大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。

今でこそハイソな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。

山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。

志ん朝の「黄金餅」でも、言い立てには必ず触れていました。

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ねこのさいなん【猫の災難】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

猫のお余りで一杯。
せこな噺です。

別題:犬の災難(志ん生)

【あらすじ】

文なしの熊五郎。

朝湯から帰って一杯やりたいと思っても、先立つものがない。

「のみてえ、のみてえ」
とうなっているところに、隣のかみさんが声をかけた。

見ると、大きな鯛の頭と尻尾しっぽを抱えている。

猫の病気見舞いにもらって、身を食べさせた残りだという。

捨てに行くというので、頭は眼肉がうまいんだからあっしにください、ともらい受ける。

これでさかなはできたが、肝心なのは酒。

「猫がもう一度見舞いに酒をもらってくれねえか」
とぼやいていると、ちょうど訪ねてきたのが兄貴分。

「おめえと一杯やりたいと誘いにきた」
という。

サシでゆっくりのむことにしたが、
「なにか肴が……」
と見回し、鯛の頭を発見した兄貴分、台所のすり鉢をかぶせてあるので、真ん中があると勘違い。

「こんないいのがあるのなら、おれが酒を買ってくるから」
と大喜び。

近くの酒屋は二軒とも借りがあるので、二町先まで行って、五合買ってきてもらうことにした。

さあ困ったのは熊。

いまさら猫のお余りとは言いにくい。

しかたがないので、兄貴分が酒を抱えて帰ると、
「おろした身を隣の猫がくわえていった」
とごまかす。

「それにしても、まだ片身残ってんだろ」
「それなんだ。ずうずうしいもんで、片身口へくわえるだろ、爪でひょいと引っかけると小脇ィ抱えて」
「なに?」
「いや、肩へぴょいと」

おかしな話だ。

「日頃、隣には世話になってるんで、がまんしてくれ」
と言われ、兄貴分、不承不承代わりの鯛を探しに行った。

熊、ほっと安心して、酒を見るともうたまらない。

冷のまま湯飲み茶碗で、さっそく一杯。

「どうせあいつは一合上戸いちごうじょうこ(すぐ酔っぱらう酒好き)で、たいしてのまないから」
とたかをくくって、
「いい酒だ、うめえうめえ」
と一杯、また一杯。

「これは野郎に取っといてやるか」
と、燗徳利に移そうとしたとたんにこぼしてしまう。

「もったいない」
と畳をチュウチュウ。

気がつくと、もう燗徳利かんどっくり一本分しか残っていない。

やっぱり隣の猫にかぶせるしかないと
「猫がまた来たから、追いかけたら座敷の中を逃げ回って、逃げるときに一升瓶を後足で引っかけて、全部こぼしちまった」
と言い訳することに決めた。

「そう決まれば、これっぱかり残しとくことはねえ」
と、熊、ひどいもので残りの一合もグイーッ。

とうとう残らずのんでしまった。

いい心持ちで小唄をうなっているうち、
「こりゃいけねえ。猫を追っかけてる格好をしなきゃ」
と、向こう鉢巻に出刃包丁、
「あの猫の野郎、とっつかめえてたたっ殺して」
と一人でがなってると、待ちくたびれてそのまま白川夜船しらかわよふね

一方、鯛をようやく見つけて帰った兄弟分。

酒が一滴もないのを知って仰天。

猫のしわざだと言っても今度はダメ。

「この野郎、酔っぱらってやがんな。てめえがのんじゃったんだろ」
「こぼれたのを吸っただけだよ」
「よーし、おれが隣ィどなり込んで、猫に食うもの食わせねえからこうなるんだって文句を言ってやる」

そこへ隣のかみさんが
「ちょいと熊さん、いいかげんにしとくれ。さっきから聞いてりゃ、隣の猫隣の猫って。家の猫は病気なんだよ。お見舞いの残りの鯛の頭を、おまえさんにやったんじゃないか」

これで全部バレた。

「この野郎、どうもようすがおかしいと思った。やい、おれを隣に行かせて、どうしようってえんだ」
「だから、猫によく詫びをしてくんねえ」

【しりたい】

小さん十八番、呑ん兵衛噺の白眉

これも、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京にもたらした数多い上方落語の一つです。

当然、三代目、四代目(大野菊松、1888-1947)と代々の小さんに継がれた「お家芸」ですが、特に五代目(小林盛夫、1915-2002)は、「試し酒」「禁酒番屋」「一人酒盛」などで見物をうならせた、リアルな仕種と酒のみの心理描写を、この噺で集大成したかのようにお見事な芸を見せてくれました。

中でも、畳にこぼした酒をチューチュー吸う場面、相棒が帰ってきてからのべろべろの酔態は、愛すべきノンベエの業の深さを描き尽くして余すところがありませんでした。

同じ酔っ払いを演じても、酒乱になってしまう六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)と違い、小さんの「酒」はリアルであっても、後口にいやな匂いが残りませんでした。これも芸風と人柄でしょう。

上方のやり方

上方では、腐った鯛のアラを酒屋にただでもらう設定で、最後のサゲは、猫が入ってきたので、阿呆がここぞとばかり、「見てみ。かわいらし顔して。おじぎしてはる」と言うと、猫が神棚に向かって前足を合わせ、「どうぞ、悪事災にゃん(=難)をまぬかれますように」と地口で落とします。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)が得意にし、戦後は二代目春団治(河合浅次郎、1894-1953)、実生活でも酒豪でならした六代目笑福亭松鶴がよく高座にかけました。

志ん生の「犬の災難」

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、「犬の災難」の演題で猫を犬に替え、鯛ではなく、隣に届いた鶏を預かったことにしました。

相棒が酒を買いに行っている間に、隣のかみさんが戻ってきて鶏を持っていってしまうという、合理的な段取りです。

最後は酒を「吸った」ことを白状するだけで、オチらしいオチは作っていません。

三代目金馬の失敗談

釣りマニアだった三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が、防波堤で通し(=徹夜)の夜釣りをしていたときのこと。

大きな黒鯛が掛かり、喜んで魚籠に入れておくといつの間にか消えています。そのうち、金馬と友達の弁当まで消失。無人の防波堤で泥棒などいないのにとぞっとしましたが、実はそれは、そのあたりに捨てられた野良猫のしわざ。堤の石垣に住み着いて、釣りの獲物を失敬しては食いつないでいたわけです。

「それからこっち、魚が釣れないと、また猫にやられたよって帰ってくる」

           (三代目三遊亭金馬『随談 猫の災難』)

こぼれ話

五代目小さんは、相棒が酒を買いに行く店を「酢屋満」としていますが、これは、目白の小さん宅の近所にあった実在の酒屋、「酢屋満商店」(豊島区目白二丁目)です。酒をのみほした後、小唄をうなるのは五代目の工夫でした。

こや【小屋】古木優

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

不定期連載  日本史コラム  2021年11月13日~

不定期編集  落語の年表  2023年12月1日~

先日、落語家の「実力」って、なんだろう?という記事を見つけました。

ここには「落語家の偏差値」が載っておりました。かつて、われわれ(高田裕史/古木優)がアップロードしていた記事です。

引っ越しやリニューアルのどさくさで散逸したままでした。懐かしかったので、孫引きさせていただきます。以下の通り。

[独断と偏見] 基準は、うまいかへたか、だけ。
70.0 小三治
67.5 雲助
65.0 さん喬 権太楼 桃太郎
62.5 小柳枝 鯉昇 喜多八 志ん輔 小里ん
60.0 小朝 川柳 馬桜 志ん五
57.5 志ん橋 正雀 小満ん 喬太郎
55.0 円太郎 小さん ぜん馬 竜楽
52.5 昇太 扇遊 菊春
50.0 歌之介 馬生 市馬 平治 白酒 扇治 正朝
47.5 玉の輔 たい平  扇辰 三三 兼好 文左衛門 金時
45.0 花緑 彦いち 志の輔 南なん 菊之丞 とん馬
42.5 志らく 一琴 白鳥 談春
40.0 三平 幸丸 楽輔
37.5 歌武蔵 談笑
35.0 正蔵
32.5 愛楽
30.0 

以上は、「HOME★9(ほめ・く) 偏屈爺さんの世迷い事」というブログからの転載です。勝手に転載してしまいました。すみませーん。

「偏屈爺さん」は記事中、われわれの評価だけを記していたのではありません。

堀井憲一郎氏が『週刊文春』に載せた「東都落語家2008ランキング」をも引用して、両者を比較しているのです。

ともに、2008年当時の落語家を評価しているわけです。ちょっと凝ってます。おもしろい。

堀井氏のも孫引きしてみましょう。以下の通り。

0 立川談志
1 柳家小三治
2 立川志の輔
3 春風亭小朝
4 柳家権太楼
5 春風亭昇太
6 立川談春
7 立川志らく
8 柳家喬太郎
9 柳家さん喬
10 柳亭市馬
11 柳家喜多八
12 林家たい平
13 柳家花緑
14 三遊亭白鳥
15 五街道雲助
16 古今亭志ん輔
17 三遊亭小遊三
18 古今亭菊之丞
19 三遊亭歌武蔵
20 三遊亭遊雀
21 林家正蔵
22 柳家三三
23 昔昔亭桃太郎
24 春風亭一朝
25 瀧川鯉昇
26 春風亭小柳枝
27 立川談笑
28 三遊亭歌之介
29 橘家文左衛門
30 林家彦いち
31 春風亭百栄
32 三遊亭圓丈
33 桃月庵白酒
34 入船亭扇辰
35 三遊亭兼好
36 入船亭扇遊
37 橘家圓太郎
38 春風亭正朝
39 桂歌春
40 むかし家今松
41 春風亭柳橋
42 三遊亭笑遊
43 古今亭志ん五
44 柳家蝠丸
45 柳家小満ん
46 川柳川柳
47 林家三平
48 古今亭寿輔
49 立川生志
50 桂歌丸
51 春風亭勢朝
52 林家正雀
53 柳家はん冶
54 林家木久扇
55 三遊亭圓歌
56 橘家圓蔵

われわれが56人までしか取り上げていないため、堀井氏のほうも56人どまりにして、比較の条件を同じくしています。工夫を見せている。さすが。

そこで、「偏屈爺さん」の解析。

①1位から15位までは両者とも同じ、②16位以下ではだいぶ違ってる、ということでした。

おおざっぱにはそんなところでしょう。同意いたします。

ただ。

われわれの視点と、堀井氏の視点には、じつは、決定的な違いがあります。

五街道雲助師についての評価です。

われわれは、小三治の次は雲助、というのが、当時の評価の眼目でした。

じつは、この一点だけのためにこさえたのが「落語家の偏差値」だったのです。誤解を恐れずに極論すれば、ほかはおにぎやかしです。

堀井氏のは、雲助を15位(談志を含めれば16位)に置いています。

ランキングですから、序列のように見えます。その結果、権太楼やさん喬よりも、雲助は下位となっています。

雲助の芸をあまり重視していなかった、というふうにも見えてしまいます。おそらく、堀井氏の心底はそんなところだったのでしょう。

ちなみに、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(広瀬和生著、光文社新書、2011年)。

このほほえましい快著では、落語評論家の広瀬氏が、巻末付録に「落語家」「この一席」私的ランキング2010を掲げています。

初出は2010年です。われわれの評価よりも新しいはずなのですが、雲助は出てこない。白酒を絶賛しているのに、師匠には言及がない。関心外なんでしょうかね。

要約すれば。

堀井氏も落語評論家の広瀬氏も、雲助の芸はどうでもよいのでしょう。

いまも、雲助への評価は、お二人とも変わらないのでしょうか。

落語家のどこを見ているのだろう。

世に落語家は900人余いるようですが、噺を何度も聴いてみたいなと思えるのは、10人いるかな、といったところでしょうか。

話芸についての、この数は、いつの時代であっても、変わらないように思えます。

ただ。

それとはべつに、味わい深く、ちょいと乙な、えも言われずに心地よく、つい気になってしょうがない落語家というのが、じつは、いるものです。

落語家の芸は、噺を聴かせるだけではありません。

さまざまな所作で笑わせてくれるし、そこにいるだけで楽しくなるし、人の心をあたたかく豊かにしてくれます。

これらもまた、落語家の魅力です。

新東宝の67分を暗がりで見ているうちに、情が移って岡惚れしてしまう女優がいるもんです。織田倭歌なんかはそんな女優でした。

あれに似た感覚かなと思っています。

この、味わい深さとほんのりしたあたたかさ。なんともいいもんです。

都内の寄席での10分程度のかかわりでは、「岡惚れ」は至難の業でしょうか。

いやいや、そうでもありますまい。

その昔、深夜寄席で見つけて以来のとっておきの面々も、ご活躍ですよ。

※「HOME★9(ほめ・く) 偏屈爺さんの世迷い事」さん、ありがとうございました。

■古木優プロフィル
1956年高萩市出身。高田裕史と執筆編集した「千字寄席」の原稿を版元に持ち込み、1995年に「立川志の輔監修」付きで刊行してもらいました。これがどうも不本意で。サイト運営で完全版をめざそうと思い立ち、2004年10月16日からココログで始めました。これも勝手がいまいち。さらに一念発起、2019年7月31日からは独自ドメイン(https://senjiyose.com)を取得して「落語あらすじ事典 web千字寄席」として再始動しました。噺に潜む「物語の力」を知るべく奮闘中。編集者。

主な著書など
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)高田裕史と共編著 A5判 1995年
『千字寄席 噺の筋がわかる落語事典 下巻』(PHP研究所)高田裕史と共編著  A5判 1996年
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)高田裕史と共編著 文庫判 2000年
『図解 落語のおはなし』(PHP研究所)高田裕史と共編著 B5判 2006年
『粋と野暮 おけら的人生』(廣済堂出版)畠山健二著 全書判 2019年 ※編集協力

■主な執筆稿
数知れず。ゴーストライターもあまた。売文の限りを尽くしました。

バックナンバー

【草戸千軒】2019年8月3日

【志ん生のひとこと】001.2020年1月2日

【志ん生のひとこと】002.2020年2月2日

【白戸若狭守】2022年11月17日

志ん生と忍者】2023年9月26日

【志ん生のひとこと】003.2023年9月27日

【別格だった東宝名人会】2024年3月10日

【五街道雲助へのまなざい】2024年3月11日


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