【首ったけ】くびったけ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
吉原で火事が。
いつも袖にしてきたお女郎。
おはぐろどぶに浸かってる。
ざまあみろ。
女の殺し文句にはしびれます。
【あらすじ】
いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。
惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。
三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。
まるきり、ゆでた卵で帰らない。
一晩中待ってても音さたなし。
それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。
腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。
ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。
さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。
ばかにしゃあがって。
その上、腹が立つのがこの若い衆。
当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。
帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。
「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」
せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。
なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。
なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。
そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。
もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。
そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。
半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。
押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。
お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。
ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。
助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。
「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」
【しりたい】
原話は寄せ集め 五代目古今亭志ん生
四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。
原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3年(1774)刊「軽口五色帋」中の「女郎の川ながれ」、天明2年(1782)刊の「富久喜多留」中の「迯そこない」などがあります。
どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。
女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。
愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。
ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。
首ったけ 五代目古今亭志ん生
「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。
おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。
戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。
志ん生の専売 五代目古今亭志ん生
古い速記では、大正3年(1914)の四代目橘家円蔵(柴田清五郎、1865-1912)のものがあります。死後に出た速記になります。
戦後は、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が演じたほかは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の、ほぼ一手専売でした。
志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の直伝でしょう。
志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、お女郎さんに、こんなことを言わせています。
「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。
若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。
後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。
志ん生から、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に伝わりました。馬生のはレコードもあります。
この噺、最近ではほとんど手掛ける人がいません。
吉原の火事 五代目古今亭志ん生
吉原遊郭は、建て替えを考えていた矢先、都合よくも(?)、明暦の大火(1657年)のあおりで全焼しました。
日本橋から浅草日本堤に移転します。
その後も、明治維新(1868年)まで、平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。
小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。
明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、6500戸が消失し、移転論が出たほどです。
火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を歓迎していたとか。
おはぐろどぶ 五代目古今亭志ん生
おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。
下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。