のざらし【野ざらし】落語演目



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

釣りの帰途、川べりに髑髏。
手向けの酒で回向を。
宵になれば。
お礼参りの幽霊としっぽりと。

別題:手向けの酒 骨釣り(上方)

あらすじ

頃は明治の初め。

長屋が根継ねつぎ(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくていい女のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島で釣りをしたら「間日まび(暇な日)というのか、雑魚ざこ一匹かからん」と、その帰り道、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかにあしが風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向たむけの回向えこうをしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それをまねて『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨がいこつの上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんなところに死骸をさらし、迷っていましたところ、今日、はからずもあなたのご回向えこうで浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音はいんにこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

これを聞いていたのが、悪幇間わるだいこの新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間たいこでゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

しりたい

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国・明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛ちょうひが登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『十八史略』中の「鴻門こうもんの会」で名高い英雄・樊會はんかいが現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた臭気ただようオチです。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若だんなが木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。これがまた、尻を提供するというので、「ああ、それで釜割りにきたか」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものですが、どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」をまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻がうずくような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林家正蔵(生没年不詳)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。

ところが、明治になって、それをまたひっくり返したのが、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)。明治の爆笑王です。

円遊は「手向たむけの酒」の題で演じ、男色の部分は消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から戦後にかけては、明るくリズミカルな芸風で売った三三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、端正な語り口の八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)まで演らず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。今はほとんどこのやり方です。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。

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ちはやふる【千早振る】落語演目

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

無学者もの。
知ったかぶりの噺。
苦し紛れのつじつまあわせ。
あっぱれです。

別題:木火土金水 龍田川 無学者 百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平ありわらのなりひらの「千早ちはやふる 神代かみよも聞かず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
龍田川たつたがわってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫ちはやだゆう花魁道中おいらんどうちゅうに出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫かみよだゆうに口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず 龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代のころでさえ、龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め(=絞り染め)にされるとは、聞いたこともない。

とまあ、意味を知れば、おもしろくもおかしくもない歌です。

隠居の珍解釈の方が、よほど共感を呼びそうです。

「龍田川」は、奈良県生駒郡斑鳩いかるが町の南側を流れる川。古来、紅葉の名所で有名でした。

「くくる」とは、ここでは「くくり染め」の意味だということになっています。くくり染めとは絞り染めのこと。

川面がからくれない(韓紅=深紅色)の色に染まっている光景が、まるで絞り染めをしたように見えたという、古代人の想像力の産物です。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院ようぜいいん」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町にほんばしふきやちょうにあった「元吉原」といわれる寛永年間(1624-44)にさかのぼる、といわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋あげや(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

陽成院  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねの みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる」の珍解釈。京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」。見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持米をたまわったので、「声ぞつもりて扶持となりぬる」。しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

蛇足ながら、陽成院とは第57代の陽成天皇(869-949)が譲位されて上皇になられてのお名前です。この天皇、在位中にあんまりよろしくないことを連発されたため、時の権力者、藤原氏によってむりむり譲位させられてしまいました。

天皇としての在位は876年から884年のたった8年間でした。その後の人生は長かったわけで、なんせ8歳で即位されたわけですから、やんちゃな天子だったのではないでしょうか。そんなこと、江戸の人は知りもしません。百人一首のみやびなお方、というイメージだけです。

ちなみに、この時代の「譲位」というのは政局の切り札で、天皇から権力を奪う手段でした。

本人はまだやりたいと思っているのに、藤原氏などがその方を引きずりおろす最終ワザなのです。

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

うまやかじ【厩火事】落語演目

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【どんな?】

髪結いの女房と三道楽ばか亭主。
女房が皿を割った。
皿か、女房か。
究極の選択です。

【あらすじ】

女髪結いで、しゃべりだすともう止まらないお崎が、仲人なこうどのだんなのところへ相談にやってくる。

亭主の八五郎とは七つ違いのあねさん女房で、所帯を持って八年になるが、このところ夫婦げんかが絶えない。

それというのも、この亭主、同業で、今でいう共稼ぎだが、近ごろ酒びたりで仕事もせず、女房一人が苦労して働いているのに、少し帰りが遅いと変に勘ぐって当たり散らすなど、しまつに負えない。

もういいかげん愛想あいそが尽きたから別れたい、というわけ。

ところが、だんなが
「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」
と突き放すと、お崎はうって変わって、
「そんなに言わなくてもいいじゃありませんか」
と、亭主をかばい始め、はては、
「あんな優しい、いい人はない」
と、逆にノロケまで言い出す始末。

あきれただんな、
「それじゃひとつ、八の料簡を試してみろ」
と、参考に二つの話を聞かせる。

その一。

昔、もろこし(中国)の国の孔子という偉い学者が旅に出ている間に、うまやから火が出て、かわいがっていた白馬が焼け死んでしまった。

どんなおしかりを受けるかと青くなった使用人一同に、帰ってきた孔子は、馬のことは一言も聞かず、
「家の者に、けがはなかったか」

これほど家来を大切に思ってくださるご主人のためなら命は要らない、と一同感服したという話。

その二。

麹町こうじまちに、さる殿さまがいた。

「猿の殿さまで?」
「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」

その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥さまが運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。

殿さま、真っ青になって、
「皿は大丈夫か。皿皿皿皿」
と、息もつかず三十六回。

あとで奥さまの実家から、
「妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれない」
と離縁され、殿さまは一生寂しく独身で過ごした、という話。

「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、なにか大切にしているものを、わざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」

帰ったお崎、たまたま亭主が、「さる殿さま」よりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出し、それを持ち出すと、台所でわざとすべって転ぶ。

「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」
「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」
「なんでえ、そのモロコシてえのは」
「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」
「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒をのめねえ」

【しりたい】

題名は『論語』から

厩とは、馬小屋のこと。

文化年間(1804-18)から口演されていたという、古い江戸落語です。

演題の「厩火事」は『論語』郷党きょうとう編十二からつけられています。

うまやけたり。ちょうより退き、『人を傷つけざるや』とのみ、いひて問いたまはず」

江戸時代には『論語』『小倉百人一首』などが町人の共有する教養でした。引用も多いのですね。

明治の速記では、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)のものが残っています。

文楽の十八番

戦後は八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が、お崎の年増の色気や人物描写の細やかさで、押しも押されぬ十八番としました。

ライバル五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も得意にし、お崎のガラガラ女房ぶりで沸かせました。

志ん生は、マクラの「三角関係」(出雲の神さまが縁結びの糸をごちゃごちゃにする)で笑わせ、「どうしてあんな奴といっしょになったの?」「だって、一人じゃさぶい(寒い)んだもん」という小ばなしで男女の機微を見事に表現し、すうっと「厩火事」に入りました。

女髪結い

寛政年間(1789-1801)の初め、三光新道さんこうじんみち(中央区日本橋人形町三丁目あたり)の下駄屋お政という女が、アルバイトに始めたのが発祥とされています。

文化年間から普及しましたが、風俗紊乱びんらんのもととなるとの理由で、天保の改革に至るまで、たびたびご禁制になっています。

噺にもランクあり

雷門福助(川井初太郎、1901-86)は晩年には名古屋で活躍しましたが、「落語界のシーラカンス」といわれた噺家でした。

この人の回想によれば、兄弟子で師匠でもある八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に「『厩火事』を稽古してください」と頼むと、「ああいいよ、早く真打ちになるんだよ。真打ちになったら稽古してやる」と言われた、ということです。

それだけ、ちょっとやそっとでは歯が立たない噺ということで、昔は、二つ目が「厩火事」なぞやろうものなら「張り倒された」。

それが今では、二つ目どころか前座でも平気で出しかねません。

いい時代になりました。聴かされるほうはつらいですが。

芝居の「皿屋敷」は

同じ「皿屋敷」でも、一枚の皿が欠けたため腰元お菊をなぶり殺しにする青山鉄山は麴町の猿よりさらに悪質。

これに対して、岡本綺堂おかもときどう(1872-1939)の戯曲『番町皿屋敷』の青山播磨はモロコシ……ですが、芝居だけに一筋縄ではいかず、播磨はりまは自分の真実の恋を疑われ、自分を試すために皿を割られた怒りと悲しみで、残りの皿を全部粉々にした後、お菊を成敗します。

昭和初期の名横綱・玉錦三右衛門たまにしきさんえもん(1903-38)はモロコシだったようで、大切にしていた金屛風きんびょうぶを弟子がぶっ壊しても怒らず、「おまえたちにけがさえなきゃいい」と、鷹揚おうようなところを見せたそうです。さすがです。

 

 

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すとくいん【崇徳院】落語演目

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【どんな?】

若者が恋わずらいで寝込む。
昔は多かったようです。
朝ドラ「わろてんか」にも。

別題:皿屋 花見扇

【あらすじ】

若だんながこのところ患いつき、飯も喉に通らないありさまで衰弱するばかり。

医者が
「これはなにか心に思い詰めていることが原因で、それをかなえてやれば病気は治る」
と言うので、しつこく問いただしても、いっこうに口を割らない。

ようやく、
「出入りの熊さんになら話してもいい」
と若だんなが言うので、大だんなは大急ぎで呼びにやる。

熊さんが部屋に入ってみると、若だんなは息も絶え絶え、葬儀屋にいったほうが早道というようす。

話を聞いても笑わないことを条件に、熊さんがやっと聞き出した病気のもとというのが、恋煩い。

二十日ばかり前に上野の清水さまに参詣に行った時、清水堂の茶店に若だんなが腰を掛けて景色を眺めていると、目の前にお供の女を三人つれたお嬢さんが腰を掛けた。

それがまた、水のしたたるようないい女で、若だんなが思わず見とれていると、娘もじっとこちらを見る。

しばらくすると、茶袱紗ちゃぶくさを落としたのも気がつかず立ち上がるので、追いかけて手渡したちょうどその時、桜の枝から短冊が、糸が切れてはらりと落ちてきた。

見ると
「瀬を早み岩にせかるる滝川の」
と書いてある。

これは下の句が
「われても末に逢はむとぞ思ふ」
という崇徳院の歌。

娘はそれを読むと、なにを思ったか、若だんなの傍に短冊を置き軽く会釈して、行ってしまった。

この歌は、別れても末には添い遂げようという心なので、それ以来、なにを見てもあのお嬢さんの顔に見える、というわけ。

熊さん、
「なんだ、そんなことなら心配ねえ、わっちが大だんなに掛け合いましょう」
と安請け合いして、短冊を借りると、さっそく報告。

大だんな、
「いつまでも子供だ子供だと思っていたが」
とため息をつき、
「その娘をなんとしても捜し出してくれ」
と、熊に頼む。

「もし捜し出せなければ、せがれは五日以内に間違いなく死ぬから、おまえはせがれの仇、必ず名乗って出てやる」
と、脅かされたから、熊はもう大変。

熊は帰って、かみさんに相談。

かみさんは
「もし見つければあの大だんなのこと、おまえさんを大家にしてくれるかもしれない」
と、尻をたたく。

「とにかく手掛かりはこの歌しかないから、湯屋だろうが、床屋だろうが、往来だろうが、人の大勢いるところを狙って歌をがなってお歩き。今日中に見つけないと家に入れないよ」
と追い出される。

さあ、それから湯屋に十八軒、床屋に三十六軒。

「セヲハヤミセヲハヤミー」
とがなって歩いて、夕方にはフラフラ。

「ことによると、若だんなよりこちとらの方が先ィ行っちまいかねねえ」
と嘆いていると、三十六軒目の床屋で、突然飛び込んできた男が、
「出入り先のお嬢さんが恋煩いで寝込んでいて、日本中探しても相手の男を探してこいというだんなの命令で、これから四国へ飛ぶところだ」
と話すのが、耳に入った。

さあ、
「もう逃がさねえ」
と熊五郎、男の胸ぐらに武者振りついた。

「なんだ。じゃ、てめえん所の若だんなか。てめえを家のお店に」
「てめえこそ、家のお店に」
ともみ合っているうち、床屋の鏡を壊した。
「おい、話をすりゃあわかるんだ。家の鏡を割っちまってどうするんだ」
「親方、心配するねえ。割れても末に買わんとぞ思う」

底本:三代目桂三木助

古今亭志ん朝 二朝会 CDブック

【しりたい】

類話「花見扇」  【RIZAP COOK】

初代桂文治(1773-1815)作の上方落語を東京に移植したものです。文治の作としてはほかに「洒落小町」「たらちね」があります。

ただし、江戸にもほとんど筋が同じの「花見扇」(皿屋)という噺があり、どちらも種本は同じと思われますが、はっきりしません。

オチの部分が異なっていて、「花見扇」では、だんなに頼まれた本屋の金兵衛が、床屋で鳶頭の胸ぐらを夢中でつかんだため、「苦しい。放せ」「いや、放さねえ。合わせ(結婚させ)る」というオチでした。

先方が皿屋の娘という設定のこの噺は、今はすたれましたが、人情噺「三年目」の発端だったともいわれます。

「瀬を早み……」  【RIZAP COOK】

百人一首第七十七歌です。もとは『詞花和歌集』に収められています。

崇徳院(1119-64)は、鳥羽天皇(1103-56)第一皇子で、即位して崇徳天皇。父・鳥羽上皇の横車から異母弟・近衛天皇に譲位させられ、その没後も、今度は同母弟が後白河天皇として即位したので、腹心・藤原頼長とはかって保元の乱(1156)を起こしましたが、事破れて讃岐に流され、憤死しました。

歌意は「川の流れが急なので、水が滝になって岩に当たり、二つに割れる。しかし、貴女との仲は割れることなく、添い遂げよう」です。

鳶頭  【RIZAP COOK】

かしら。「とびがしら」と読みがちですが、この二字で「かしら」と呼びならわしています。町火消の組頭で、頭取の下。各町内に一人はいました。町の雑用に任じ、ドブさらいからもめごとの仲裁まで一切合財引き受けていました。特に、地主や出入りの商家の主人には、手当てや盆暮れの祝儀をもらっている手前、何か事があると、すぐ駆けつけてしゃしゃり出ます。落語にはいやというほど登場しますが、あまりりっぱなのはいません。

三木助の十八番  【RIZAP COOK】

戦後は、三代目桂三木助の十八番で、清水寺で短冊が舞い落ちてくるくだりは、三木助の工夫です。

上方では、高津(こうづ)神社絵馬堂前の設定で、桂米朝は、茶屋の料紙に娘が書き付けるやり方でした。

上野の清水さま  【RIZAP COOK】

寛永寺境内に現存する、清水観音堂のことです。

寛永8年(1631)、寛永寺寺域内の摺鉢山に建立されたもので、同11年、寿昌院焼失後、現在地であるその跡地に移りました。

京の清水寺を模した舞台造りで有名で、桜の名所。本尊の千手観音像は恵心僧都の作です。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

みやとがわ【宮戸川】落語演目





  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

隅田川が舞台。
お花半七なれそめの噺。
後半は悲惨ですが。
江戸の噺です。

別題:お花半七馴れ染め

あらすじ

日本橋は小網町こあみちょうの質屋、茜屋半右衛門あかねやはんえもんのせがれ、半七。

堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。

頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。

気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。

こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。

友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日頃から折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。

いつしか二人はばったり。

話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島れいがんじまのおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。

「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。

結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。

一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。

違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。

「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」

下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。

下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。

二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。

こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。

翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。

ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。

おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。

出典:三代目春風亭柳枝

五街道雲助の「宮戸川」

しりたい

実際の心中事件に取材

六代将軍家宣いえのぶが亡くなった正徳しょうとく2年(1712)。

この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が、同年、浄瑠璃「長町裏女腹切ながまちおんなのはらきり」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが芝居や音曲で大流行しました。

それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四代目鶴屋南北(勝次郎、1755-1829)が江戸・玉川座に書き下ろした「宿花千人禿やよいのはなせんにんかむろ」(茜屋半七)が大当たりしました。

落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。

すたれた後半部分

明治中期までは、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがありました。

三代目柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。

この項でのあらすじは、三代目柳枝の速記の前半部分を参照しました。

その後、古風な芝居ばなしがすたれるとともに、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。

昭和に入って、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)といった名人連が得意にしました。

ただ、いずれも前半のみで、円生一門の五代目三遊亭圓楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されていました。

三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)、柳家小満ん五街道雲助金原亭世之介古今亭圓菊柳家喬太郎などが、後半を含めてやったことがあります。

後半のあらすじ

前半から四年ほどのちの夏。

お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。

傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花はしゃくを起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。

承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。

雇った船頭もぐるとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。

三人の渡りゼリフで。

「亭主というは、うぬであったか」
「ハテ、よいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」

……というところで起こされた。

お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。

じつは夢だったという筋立ては「夢金」と同じです。オチは「鼠穴」に似ています。

宮戸川

夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名です。

隅田川の、吾妻橋から厩橋のあたり「宮戸川」と呼んだそうです。

「宮戸」は、三社権現さんじゃごんげんの参道入り口を流れていたことから、この名がついたのだとか。

この付近は、白魚や紫鯉の名産地でした。汽水なんですね。

文政年間(1818-30)、浅草駒形町の醤油酢問屋、内田屋甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になったそうです。ここは居酒屋もあきなっていたとか。

小網町

現在の東京都中央区日本橋小網町。

小網町3丁目の行徳河岸ぎょうとくがしから下総(千葉県北部)の行徳まで三里八丁(約12.9km)を、行徳船ぎょうとくぶねという、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。

ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。

霊岸島

現在の東京都中央区新川1、2丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り、島だったのでした。

船宿

舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。

柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。

【もっとしりたい 後半のあらすじ】

芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。

この噺は、前半と後半がある。

今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。

後半とは、どんな噺なのか。

霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。

実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。

半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」

結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。聴衆を弄んでる。筋の悪い同人誌を読む思い。できのよくない筋運びといえよう。オチもどこかで聞いたことのある、とってつけたようなものだし、それだけですでに凡庸でしかないう。

だからなのか、今では演じる者がいない。えんえんと長いし。

ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知れば、おのずとわかる。

宮戸川とは隅田川の別称である。おおざっぱには、駒形あたりから上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。

噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷あたりとなる。

ともに隅田川がらみの地だ。なによりも、お花が投げ捨てられたのが吾妻橋である。

隅田川は汽水の地。聖と俗、善と悪、生と死、うぶとなれが交錯し、すべてを洗い流してしまう象徴となる。

この噺は前半と後半で際立つ。「宮戸川」と題するのもそこに噺の核が隠されているからだろう。どこまでいっても隅田川まみれの噺なのである。

古木優





  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

こわかれ【子別れ】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

大工の熊は吉原の女にほうけて、女房子供を追い出す。
長屋に入った女は飯も炊かなければ仕事もせず。出ていった。
数年後。熊は左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。
息子と再会し鰻食いを約束。それが機縁で元の鞘に。子は鎹の一席。

別題:女の子別れ 強飯こわめしの女郎買い(上) 子はかすがい(中と下で)

【あらすじ】

腕はいいが、大酒飲みで遊び人、大工の熊五郎。

ある日、山谷の隠居の弔いですっかりいい心持ちになり、このまま吉原へ繰り込んで精進落としだと怪気炎。

来合わせた大家が、そんな金があるなら女房子供に着物の一つも買ってやれと意見するのもどこ吹く風。

途中で会った紙屑屋の長さんが、三銭しか持っていないと渋るのを、今日はオレがおごるからと無理やり誘い、葬式で出された強飯の煮しめがフンドシに染み込んだと大騒ぎの挙げ句に三日も居続け。

四日目の朝。

神田堅大工町の長屋にご機嫌で帰ってくると、かみさんが黙って働いている。

さすがに決まりが悪く、あれこれ言い訳をしているうちに、かみさんが黙って聞いているものだからだんだん図に乗って、こともあろうに女郎の惚気話まで始める始末。

これでかみさんも堪忍袋の緒が切れ、夫婦げんかの末、もう愛想もこそも尽き果てたと、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。

うるさいのがいなくなって清々したとばかり、なじみのおいらんが年季が明けると家に引っ張り込むが、やはり野に置け蓮華草、前のかみさんとは大違いで、飯も炊かなければ仕事もせず。

挙げ句に、こんな貧乏臭いところはイヤだと、さっさと出ていってしまった。

一方、夫婦別れしたかみさん。

女の身とて決まった仕事もなく、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てている。

ある日、亀坊がいじめられて泣いていると、後ろから声を掛けた男がいる。

振り返ると、なんと父親。

身なりもすっかり立派になって、新しい半纏を着込んでいる。仕事の帰りらしい。

あれから一人になった熊五郎、つくづく以前の自分が情けなくなり、心機一転、好きな酒もすっかり絶って仕事に励み出したので、もともと腕はいい男、得意先も増え、すっかり左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。

偶然に親子涙の再会とあいなり、熊はせがれに五十銭の小遣いをやってようすを聞くと、女房はまだ自分のことを思い切っていないらしいとわかる。

内心喜ぶが、まだ面目なくて会えない。

その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊に約束し、その日は別れる。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、おやじに、おれに会ったことはまだおっかさんに言うなと口止めされているので、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかすが、もの堅い母親は聞き入れない。

貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない、人さまのお金をとるなんて、なんてさもしい料簡を起こしてくれたと泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまう。

聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれないが、やはり、まだよりを戻すのははばかられる。

その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやるが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。

こうして、子供のおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まるという、「子は鎹(かすがい)」の一席。

【しりたい】

長い噺   【RIZAP COOK】

初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)の作。長い噺なので、上中下に分けられています。

普通は、中と下は通して演じられ、別題を「子はかすがい」といいます。

かすがいは大工が使う、大きな木材をつなぐためのカギ型の金具です。

打ち込むのにゲンノウを用いるので、母親が「ゲンノウでぶつよ」と脅かす場面が、幕切れの「子はかすがい」という地のサゲとぴたりと付きます。

「かすがいを打つ」   【RIZAP COOK】

という慣用句もあり、人の縁をつなぎ止める意味です。

上は五代目古今亭志ん生が、「強飯こわめしの女郎買い」として独立させ、紙屑屋を吉原に誘う場面の掛け合いで客席を沸かせました。

むろん、後半の「子別れ」は別にみっちりと演じています。

志ん生は母親の表現に優れ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、上の通夜の場面から綿密に演じました。

戦後では、やはりこの二人が双璧だったでしょう。

熊&紙長さんの「掛け合い漫才」   【RIZAP COOK】

熊「いくらあんだい? 一両もあんのかい一両も?」
長「一円? 一円なんぞあるもんか」
熊「八十銭かァ?」
長「八十銭ありゃしないよ」
熊「六十銭か」
長「六十銭…までありゃいいんだがね」
熊「五十銭だな」
長「五十銭にちょいと足りねえんだ」
熊「じゃ四十銭だ」
長「もうすこしってとこだ」
熊「三十五銭か」
長「もう、ちょいとだ」
熊「三十銭か」(このあたりで客席にジワ)
長「もうすこしだ」
熊「二十五銭だな」
長「うう、もうちょいと」
熊「二十銭かァ」
長「うう、くやしいとこだ」(爆笑)
熊「十五銭かァ?」
長「もうすこし」
熊「十銭か」
長「うう、もうちょいと」(高っ調子で)
熊「五銭だな?」
長「もうすこしィ」
熊「三銭か」
長「あ当たった」
熊「あこら三銭だよ」

最後の「三銭だよ」に絶妙の間で客の大爆笑がかぶさります。志ん生のライブならではの醍醐味。

活字では、とうてい表現しきれません。

ゲンノウでぶつ   【RIZAP COOK】

母親が五十銭の出所を白状させようと、子供を脅す場面があります。

ゲンノウ(玄翁)は言うまでもなく、大工が使う大型の鉄の槌です。

六代目三遊亭円生は、カナヅチ(金槌)でやりました。

芸談によると、古今亭志ん生に注意され、なるほど、女が持つにはゲンノウは重くて大きすぎると気がついたそうです。

当の志ん生はというと、当然ながら「ここにお父っつァんの置いてったカナヅチがあるから、このカナヅチで頭ァ、たたき割るぞッ」と言っています。

もっとも、単なる脅かしですし、大きいから子供が怖がると考えれば、ゲンノウでもいいと思います。

昔の落語家は、噺の中のちょっとした小道具にも常にリアリティーを考え、気を使っていたことがわかるような逸話ですが、当の志ん生だって、火焔太鼓を手に持ってお屋敷に乗り込むわけですから、どこかでのリアリティーなのか、あやしいもんです。

「女の子別れ」   【RIZAP COOK】

明治初期に三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)は、柳枝の原作を脚色し、あべこべに、出て行くほうがかみさん(母親)で、亭主(父親)が子供と暮らすという「女の子別れ」として演じました。

やはりゲンノウの場面を気にして、ゲンノウで脅すなら父親の方が自然だろう、というのが直接の動機だったようです。

なによりも、「男の子は父親につく」という夫婦別れのときの慣習や、亭主の方が家を出るのは(当時としては)不自然というのが、円朝の頭にあったのでしょう。

この「女の子別れ」は、円朝の高弟、二代目三遊亭円馬(竹沢釜太郎、1854-1918)が大阪に伝えています。

明治33年(1900年)、円馬は大阪にいたのを、円朝危篤の報でいったん帰京しました。

8月11日、円朝が亡くなります。

すぐに大阪に戻るよう、藤浦三周(円朝のパトロン)に命じられ、ついでに京都の天竜寺に立ち寄り、9月の葬儀に読経してくれるよう、交渉したそうです。

そんなこんなで東西を往還していた結果でしょうか、明治期の大阪では、三代目月亭文都(梅川五兵衛、幕末-1918、立ち切れの)が「女の子別れ」を得意にしていました。

今は、東西ともこのやり方で演ずることはありません。

東京嫌いの宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、「子供をカセにお涙ちょうだいのあの手この手を使った、ウエットなヒネクレ落語で、ドライな笑いを好む大阪の水には合いにくい」と述べています。

下足番に習った「子別れ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が生前、対談でこんな回想をしています。

志ん生がまだ二つ目で、旅興行でさすらい歩いていたとき。

流れ着いた甲府の稲積亭といううらぶれた席で、「子別れ」を一席やったところ、そこの下足番の爺さんに、「あすこんとこはまずい」と注意されたので、なに言ってやがる、と思ったそうです。

よく聞いてみると、この爺さん、昔は四代目三升亭小勝(石井清兵衛、1856-1906、狸の)の弟子で「小常」といったれっきとした噺家。

旅興行のドサまわりをしているうちにここに落ち着き、とうとう下足番になり、年を取ってしまったとのこと。

昔はこういうケースはよくあったようです。

志ん生は夏の暑いさ中、爺さんのボロ小屋で虫に食われながら「子別れ」をさらってもらったそうです。

なんだか哀れな、ものさびしい話です。

でも、志ん生の自伝『びんぼう自慢』では、小常から習ったのは「甚五郎の大黒」(→三井の大黒)ということになっていています。

こうなると、どちらが本当なのか、もはやわかりません。

ちなみに、小勝は四代目までは「三升家」ではなく「三升亭」でした。

「三升亭小常」だったという元噺家。

四代目小勝の弟子には「小つね」というのがいました。のちの三代目古今亭今輔(村田政次郎、1869-1924、代地の、せっかちの)です。大看板でした。

「小常」と「小つね」。この話そのもの、どうもあやしいにおいがしますが、心に残る悪くない逸話ではありますね。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

ふろしき【風呂敷】落語演目

  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

長屋で間男してないのはいない。
そう言う、熊五郎のかみさんも……。
不倫、不貞、間男。
意表をつく風呂敷の使い方。
ためになりますかね。

別題:褄重ね 不貞妻 風呂敷の間男

【あらすじ】

亭主の熊五郎の留守に、かみさんが間男を引きずり込み、差しつ差されつ、しっぽり濡れている。

男の方はおっかなびっくり。

かみさんは、この長屋で間男していないかみさんはないから、みな「お相手」がいると、いっこうに気にしない。

「ウチの宿六は、年がら年中稼ぎもしないで遊び放題で、もう愛想が尽きたから、牛を馬に乗り換えて、おまえさんと末永く、共白髪まで添い遂げたいねえ」
と言っては、気を引く。

馬肉や精進揚げをたらふく食って酒をのみ、
「どうせ亭主は横須賀に行っていて帰りは明日だから、今夜はゆっくり」
というところに、路地のどぶ板で足音。

戸をとんとんたたいて
「おい、今、けえった」

かみさん、あわてて間男を戸棚に押し込んだ。

どうせ酔っぱらっているから、すきを見て逃がす算段。

ところが熊五郎、家に入るなり、たいそう御膳が出ているなと言いながら、当の戸棚の前に寝そべると、そのまま高いびき。

これでは戸を開けられないので、かみさんが困っていると、そこへ現れたのが鳶頭。

かみさん、拝み倒して成り行きを白状し、
「ひとつ助けてくださいな」
と頼むので、鳶頭、
「見捨てるわけにもいかねえな」
と、かみさんを外に出し、熊をゆさぶり起こす。

寝ぼけ眼の熊に、かみさんは買い物に行ったとごまかして
「今日友達の家に行ったらな、おかしな話があったんだ。そこの亭主というのはボンヤリしたやつで、稼ぎもろくろく出来ねえから、かみさんが間男をしやがった」
「へえ、とんでもねえアマだ」
「どうせ宿六は帰るめえと思って、情夫を引きずり込んで一杯やってるところへ、亭主が不意に帰ってきたと思え。で、そのカカアがあわ食って、戸棚に男を隠しちまった」
「へえー」
「すると、亭主が酔っぱらって、その戸棚の前に寝ちまった」
「そりゃ、困ったろう」
「そこで、オレがかみさんに頼まれて、そいつを逃がしてやった」

熊が
「どんなふうに逃がしたか聞かしてくれ」
と頼むので、鳶頭
「おめえみたいに寝ころんでたやつを、首に手をこうかけて起こして」
「ふんふん」
「キョロキョロ見ていけねえから、脇の風呂敷ィ取って亭主の顔へこう巻き付けて……どうだ、見えねえだろう。そこでオレも安心して、戸をこういう塩梅にガラリと開けたと思いねえ」

間男を出し、拝んでねえで逃げろと目配せしておいて、
「そいつが影も形もなくなったとたんに、戸を閉めて、それから亭主にかぶせた風呂敷を、こうやって」
とぱっと取ると、熊が膝をポンとたたいて
「なあるほど、こいつはいい工夫だ」

底本:初代三遊亭円遊、五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は諸説紛々

興津要説では落語草創期から口演されてきた古い噺。矢野誠一説では幕末の安政5年(1858)に没した中平泰作なる実在人の頓知ばなしが元とか。

出自については風呂敷だけに、唐草模様のごとく諸説入り乱れ、マジメに追究するだけ野暮というものです。

ともかく生粋の江戸前艶笑落語ですが、珍しく上方に「輸出」され、東西で演じられます。一応、安政2年(1855)刊『落噺笑種蒔』中の「みそかを」が原話らしきものとされます。

これは、間男をとっさに四斗樽の中に隠して風呂敷をかけた女房が、亭主に「これはなんだ」と聞かれたら「焚き付け(風呂焚き用のかんな屑)です」と答えようと決めていたのに、いざとなると震えて言葉が出ず、思わず樽の中の間男が「たきつけ、たきつけ」という、それこそかんな屑のようにつまらないもの。

この噺は少なくともそれ以前から演じられていたようなので、これはずっと古い出典のコピーか、逆に落語を笑話化したものの可能性があります。

「風呂敷」史 検閲逃れの悪戦苦闘

江戸時代には粋なお上のお目こぼしで、間男不義密通不倫噺として、大手を振って演じられていたわけですが、幕府の瓦解で薩長の田舎侍どもが天下を取ると、そうはいかなくなります。

明治、大正、戦前までは、「姦通罪」が厳として存在し、映画、演劇、芸能の端にいたるまで、人妻を口説く場面などもってのほか。台本などの事前検閲はもちろん、厳重をきわめました。

落語も例外ではなく、「不貞妻」と題したこの噺の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記(明治25年)では、官憲をはばかって間男に「道ならねえことをするのだからあんまりよい心持ちじゃねえな」と言わせるなど、弁解に苦心しているのがありあり。

大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)になると、女房はお女郎さんあがりで、以前のなじみ客に会ったので、あくまで昔話をするということで家に入れる設定になっています。

ここでのあらすじは、初代円遊の古い型を参照しました。

実際にはこれ以後、現在に至るまで通常の寄席の高座で演じる「風呂敷」からは本来の不倫噺の要素がほとんど消えています。

この噺を好んで演じたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)。

やはり間男噺としては演じず、男はただの知人で、嫉妬深い亭主の誤解を避けるため押し入れに隠すやり方をとりました。

濡れ場などはカットした上で、鳶頭が「女は三階(=三界)に家なし」「貞女屏風(=両夫)にまみえず」などのダジャレで、実際は不倫をしていなくても、誤解を招くことをしないよう女房に訓戒をたれる配慮をしていました。

現在もこのやり方がほとんどです。

もっとも、いくら何でも女房が不倫を打ち明けて鳶頭に助けを請うのは不自然で、鳶頭がそれをいいよいいよと簡単に請合うのもおかしな話なので、噺の流れとしては今のやり方の方がずっと自然でしょう。

風呂敷ことはじめ

古くは平裏ひらつづみと呼ばれ、平安時代末期から使われました。源平争乱期には、当然、討ち取った生首を包むのにも。

江戸時代初期、銭湯が発達して、ぬか袋などを包むのに使われたため、この名が付きました。

なかには、布団が包める3m四方以上の大きなもの(大風呂敷)もあり、これが「ホラ吹き」を意味する「大風呂敷を広げる」という表現の元となったわけですね。



  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

おせつとくさぶろう【おせつ徳三郎】落語演目

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【どんな?】

日本橋の大店の娘と手代が相思相愛。
二人で木場まで逃げて、身投げして……。
オチは「鰍沢」と同型。「おのみ」の型は付会。

 別題:隅田馴染め(改作、または中のみ) 花見小僧(上のみ) 刀屋(下のみ)

あらすじ

日本橋横山町の大店おおだなの娘おせつ。

評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。

だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。

これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつのお供をして向島まで花見に行った小僧の定吉を脅した。

案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。

そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。

なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという話が流れ、徳三郎はカッときた。

しかも、蔵前辺のご大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにした、という。

「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに。かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。

老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。

徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。

親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えはやめてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思いとどまったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。

おせつが婚礼の席から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎だっとのごとく飛び出して、両国橋へ。

お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。

追っ手が迫っている。

切羽つまった二人。

深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。

ところが、木場だから下はいかだが一面にもやってある。

その上に落っこちた。

「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(=題目)で助かった」

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しりたい

なりたちと演者など  【RIZAP COOK】

もとは、初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)がつくった人情噺です。

長い噺なので、古くから上下、または上中下に分けて演じられることが多いです。

小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。

この部分を、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が、「隅田馴染め」としてくすぐりを付け加えて、改作しました。

その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。

それに続いて、徳三郎が叔父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされます。

普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。

後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題して、しばしば独立して演じられています。

明治期の古い速記としては、以下のものが残っています。

原作にもっとも忠実なのは、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)。

「上」のみでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のもの(「恋の仮名文」明治23年)、初代円遊のもの(「隅田の馴染め」明治22年)。

「下」のみでは、二代目三遊亭新朝(山田岩吉、?-1892)のもの(明治23年)、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)のもの、など。

オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木で助かった」は父親のセリフになっています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)も、「刀屋」でこれを踏襲しました。

「刀屋」で、おやじが自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型です。

現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。

先の大戦後では、六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も得意にしていました。

円生と志ん生は「下」のみを演じました。

その次の世代では、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものなどが、傑出していました。

馬生の「おせつ徳三郎」では、筏に落ちたおせつが、これじゃ死ねないから水を飲めば死ねるとばかりに、水をすくい「徳や、おまえもおのみ」と終わっていました。

これはこれで、妙におかしい。現在は、この終わり方の師匠も少なからずいます。

柳家喬太郎の「おせつ徳三郎」では、本当に心中させています。「お材木で」のオチが流布され尽くしたことへのはねっかえりでしょうか。予定調和で聴いている方は裏切られます。2人の愛の昇華は心中なのでしょうし。本当に死んじゃうのもたまにはおもしろい、というかんじですかね。

現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多いようです。「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外ではあまり単独口演されません。

村松町の刀屋  【RIZAP COOK】

この噺のとおり、日本橋の村松町むらまつちょう(中央区東日本橋1丁目など)と、向かいの久松町ひさまつちょう(中央区日本橋久松町)には刀剣商が軒を並べていました。

喜田川守貞きたがわもりさだの『守貞漫稿もりさだまんこう』には
「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」
とあります。

喜田川守貞きたがわもりさだ(1810-?)は、大坂生まれ、江戸で活躍した商人。

江戸との往来でその差異に興味を抱き、風俗考証に専心しました。砂糖商の北川家を継ぎ、深川に寓居をいとなみました。

『守貞漫稿』は上方(京と大坂)と江戸との風俗や民間諸事の差異を見聞で収集分類した珍書。江戸期ならではといえます。

明治41年(1908)に『類聚るいじゅう近世風俗志』という題で刊行されました。岩波文庫(全5冊)でも『近世風俗志』で、まだかろうじて手に入ります。

明治41年となると、江戸の風情がものすごいスピードで東京から消え去っていた頃です。人は消えいるものをあたたかくいつくしむのですね。

徳三郎が買おうとしたのは、2分と200文の脇差わきざしです。

深川・木場の川並  【RIZAP COOK】

木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。

その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。大小の材木問屋が軒を並べました。

掘割ほりわりに貯材所として常時木材を貯え、それを「川並かわなみ」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて、いかだに組んで運んだものです。

法華の信者  【RIZAP COOK】

「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。

こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。

一般には、商家や下級武家に多かったと言われています。刀剣商、甲冑商、刀鍛冶、鋳物師などのだんびら商売、芸妓、芸人、音曲、絵師などの芸道稼業、札差(両替)や質商などの金融業では、法華の信心者がとりわけ多かったのも事実でした。

身延山や小室山などのキーワードがあらかじめ出てきて法華の信心をにおわせている「鰍沢」と同様、「おせつ徳三郎」では日本橋の大店や刀屋が登場することで、当時の聴衆は法華をたやすく連想できたことでしょう。

「お材木で助かった」のオチにも無理はなく、自然な流れで受け入れられたのです。現代のわれわれとはやや異なる感覚ですね。

江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず、「法華」という呼び名の方が一般的でした。日蓮が宗祖となる宗派は、「法華経」を唯一最高の経典と尊重したからです。

天台宗も「法華経」を尊崇していましたから、「天台法華宗」とも呼ばれていました。その呼称にならって、日蓮の法華宗のほうは「日蓮法華宗」とも呼ばれていました。

「日蓮宗」という宗派名が初めて使われるようになるのは、新井日薩が法華の各宗務に大同団結の声をかけた、明治5年(1872)に入ってからです。その後、紆余曲折はありましたが、今日まで「日蓮宗」でひとくくりとなっています。

それにしても、宗祖の名が宗派の名になったのは日蓮宗のみ。親鸞宗も道元宗も一遍宗もないわけですから、思えば奇妙です。江戸時代には浄土宗とは因縁の対立(営業上の競合ともいえます)が続いていました。題目(法華系)と念仏(浄土系)との競合や対立は、落語や川柳でのお約束のひとつです。

【おことわり】「おせつ徳三郎」の別題に「隅田馴染め」があります。この題の素直な読み方は誰が読んでも「すみだのなれそめ」に決まっていいるかもしれません。本サイトが底本に使っている『明治大正落語集成』(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編、講談社、1980年)で、当該頁(第1巻54頁下段)には「隅田馴染め」の「隅田」部分に「すだ」とルビが振られてあります。その真意はわかりません。たんなる誤植ならすべては解決しますが、明治期のぞっきな落語集とは異なり、しっかりした校訂を経て刊行されている本シリーズではたんなる誤植とも考えにくいのです。同様に、「隅田の花見」(「長屋の花見」の別題)でも「隅田」は「すだ」とルビが振られてあり(第7巻296頁下段)、決して「すみだ」ではないのです。古代から中世には「隅田」を「須田」と記して「すだ」とも呼んでいました。近世でも古雅な呼称として「すだ」は残っていました。とまれ、われわれは、確認が取れるまでは「隅田馴染め」の読み方を「すだのなれそめ」「すみだのなれそめ」と、「隅田の花見」も「すだのはなみ」「すみだのはなみ」と併記しておきます。思い込みや強説採用は排すべきものと心得ます。

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  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

おちゃくみ【お茶汲み】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

遊郭を舞台にした艶っぽい噺。
なんだかまぬけなんですがね。
圧倒的に人気ある噺です。

別題:女郎の茶 茶汲み 黒玉つぶし(上方) 涙の茶(改作)

あらすじ

吉原から朝帰りの松つぁんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから70銭ポッキリでいいと若えが言うので、あがったのが「安大黒やすだいこく」という小見世こみせ(大衆店)。

そこで、額の抜け上がった、ばかに目の細い花魁おいらんを指名したが、女は松つぁんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、むらさきというその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡のざいもの(いなかの人)だが、近所の清三郎という男と恋仲になったこと。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手もとでに清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨のつぶて。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界くがい(遊女の境遇)の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心かみしんじんをして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季ねんきが明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くどくうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目のふちになすりつけて、その茶殻ちゃがらがくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

しりたい

原作は狂言

大蔵流おおくらりゅうの狂言「墨塗すみぬり」が元の話とされています。

これは、主人が国許くにもとへ帰るので、太郎冠者たろうかじゃを連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬しっと深い女のところへいとまいに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋まぶたにこすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋かるくちごしきがみ』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里遊びが過ぎて勘当かんどうされかかった若だんなが、罰として薩摩さつま国(鹿児島県)の親類方に当分預けられるので、なじみのお女郎に暇乞いとまごいに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶殻に代えた「涙の茶」。

これを初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚々実々のだまし合いをリアルに活写。

現行の東京版「お茶汲み」が完成しました。

と、こんなストーリーがこれまでの種明かしでした。

でも、以下をお読みいただければ、この噺がもっと古いところから来ているのがおわかりになるでしょう。

小せんから志ん生へ

初代柳家小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が直伝で継承しました。

初代小せんは、廓噺の名手で、女遊びが過ぎて失明した上に足が立たなくなったといわれている人です。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、先の大戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎たごととしていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のものがCD化されていました。桂歌丸(椎名巌、1936-2018)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のものも。

本家の「黒玉つぶし」の方は、先の大戦後に東京で上方落語を演じた二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が得意にしていました。

歌舞伎でも

閑話休題。

「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、じつは、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平貞文たいらのさだふん(872-923、平定文、平中へいちゅう)の逸話中にすでにある、といわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九じっぺんしゃいっく(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛ぞくひざくりげ』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』の「鮨屋すしや」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)以来の音羽屋おとわやの型です。

歌舞伎のほうは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。

まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

「平中」をさらに

平貞文の通称がなぜ「平中」なのか、これは、国文学の世界では諸説あって、いまだによくわかっていません。

950年頃に成立した「平中物語へいちゅうものがたり」(平仲物語、へいちう物語とも)という歌物語うたものがたり(和歌にまつわる話題でつくられた物語)の主人公が平貞文で、「平中」は平貞文をさしているのです。

ここでは「平定文」と書いて「たいらのさだふん」と呼んでいます。「平貞文」と記した伝本もあります。

だいたいこの「平中物語」は、「平仲物語」と記したものもあって、中世から近世頃までは「へいじゅうものがたり」と呼び習わしていたそうです。

「平中物語」は、ある時期には「平中日記」と記されていたりしています。

名称の表記ばかりか、かつては、物語、日記、家集(歌集)といったジャンル分けのボーダーもあいまいでゆるやかだったのでしょう。

日記か、物語か、家集か、といったジャンル分けの考えは、およそ近代的なとらえ方なのかもしれません。

なぜそんなことをいうかといえば、「平中物語」が一般の人々が読めるようになるのは、宮田和一郎が校注した『王朝三日記新釈』(建文社、1948年)が刊行されてからのことです。

この本はお得な中身でして、「篁日記たかむらにっき」(10~13世紀成立)「平中日記へいちゅうにっき」(950年頃成立)「成尋母日記じょうじんのははのにっき」(1070年頃成立)が丸ごと収められています。

「篁日記」は「篁物語たかむらものがたり」のこと、「平中日記」は「平中物語へいちゅうものがたり」のこと、「成尋母日記」は「成尋阿闍梨母集じょうじんあじゃりのははのしゅう」(家集)のことです。

これを見ると、日記も物語も家集も、区分けが難しいし、区分けすることになんの意味があるのかがわからなくなってきます。

「平中物語」には、平定文(平貞文)がしでかした、さまざまな失敗譚が記されています。

持参した水だと思って、顔に墨を付けてしまった話が載っています。

これは、「源氏物語」末摘花すえつむはな帖にある、光源氏が自分の鼻に赤い色を塗って紫の上と戯れる場面の元ネタとされています。

ところがこの話は、いまに残る「平中物語」の本文にはなく、これまでのいくつかの注釈書に記されてきた内容から、われわれは知るだけなのです。

「平中物語」は、おそらく「古本説話集こほんせつわしゅう」(12世紀成立)にあった話を下敷きにしていたと思われます。

と、このように、話の淵源はなかなか昔までさかのぼるもので、中国、インド、ペルシャ、ギリシャなどに原点を求めることも難しくはありません。

平貞文という人は、一昔前の在原業平ありわらのなりひら(825-880)と並び称されることが多く、二人は、歌詠み、色好み、官歴などの点で、不思議に共通していました。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(=午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょう。

明治末から大正初期で、大見世(=高級店)では揚げ代(=入場料)のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。

これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。

こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

ことばよみいみ
勘当かんどう親が子と縁を切る ≒義絶
花魁おいらん吉原での高位の遊女
梨の礫 なしのつぶて音信のないこと。投げた小石(礫)は返ってこない(なし→梨)ことからの洒落



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

こうやたかお【紺屋高尾】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

【どんな?】

「幾代餅」は志ん生系。
映画「の・ようなもの」。
冒頭のプロットです。

別題:幾代餅 かめのぞき 紺屋の思い染め 駄染高尾

あらすじ

神田紺屋町の染め物職人、久蔵。

親方のところに十一の年から奉公して、今年二十六にもなるが、いまだに遊びひとつ知らず、まじめ一途の男。

その久蔵がこの間から患って寝ついているので、親方の吉兵衛は心配して、出入りの、お玉が池の竹内蘭石という医者に診てもらうことにした。

この先生、腕の方は藪だが、遊び込んでいて、なかなか粋な人物。

蘭石先生、久蔵の顔を見るなり
「おまえは恋患いをしているな。相手は今吉原で全盛の三浦屋の高尾太夫。違うか」

ズバリと見抜かれたので、久蔵は仰天。

これは不思議でもなんでもなく、高尾が花魁道中している錦絵を涎を垂らして眺めているのだから、誰にでもわかること。

久蔵はあっさり、
「この間、友達に、話の種だからと、初めて吉原の花魁道中を見に連れていかれたのですが、その時、目にした高尾太夫の、この世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、それ以来、なにを見ても高尾に見えるんです」
と告白。

「ああいうのを一生一度でも買ってみたいものですが、相手は大名道具と言われる松の位の太夫、とても無理です」
とため息をつくと、先生、
「なに、いくら太夫でも売り物買い物のこと、わしに任せておけば会わせてやるが、初会に座敷に呼ぶだけでも十両かかるぞ」
と言う。

久蔵の三年分の給料だ。

しかし、それを聞くと、希望が出たのか、久蔵はにわかに元気になった。

それから三年というもの、男の一念で一心不乱に働いた結果たまった金が九両。

これに親方が足し増してくれて、合わせて十両持って、いよいよ夢にまで見た高尾に会いに行くことになったが、いくら金を積んでも紺屋職人では相手にしてくれない。

流山のお大尽ということにして、蘭石先生がその取り巻き。

帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。

さて、吉原。

下手なことを口走ると紺屋がバレるから、久蔵、感激を必至で押さえ、先生に言われた通り、なんでも
「あいよ、あいよ」

茶屋に掛け合ってみると、折よく高尾太夫の体が空いていたので、いよいよご対面。

太夫だから個室。

その部屋の豪華さに呆気にとられていると、高尾太夫がしずしずと登場。

傾城座りといい、少し斜めに構えて、煙管で煙草を一服つけると
「お大尽、一服のみなんし」
「へへーっ」

久蔵、思わず平伏。

太夫ともなると、初会では客に肌身は許さないから、今日はこれで終わり。

花魁が型通り
「ぬし(主)は、よう来なました。今度はいつ来てくんなます」
と聞くと、久蔵、なにせこれだけで三年分の十両がすっ飛び、今度といったらまた三年後。その間に高尾が身請けされてしまったら、これが今生の別れだと思うと感極まり、思わず正直に自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまう。

ところが、それを聞いて怒るどころか、感激したのは高尾太夫。

「金で源平藤橘四姓の人と枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人か……わちきは来年の二月十五日に年季が明けるから、女房にしてくんなますか」
と言われ、久蔵、感激のあまりり泣きだした。

この高尾が、紺屋のかみさんとなって繁盛するという、「紺屋高尾」の由来話。

底本:四代目柳亭左楽、六代目三遊亭円生

古今亭志ん朝

しりたい

藍染め   【RIZAP COOK】

布染めや糸染めを手がける職業を紺屋といいました。

糸染めだけを商売とするのは青屋といいました。

紺でも青でも、それ以外の色を染め出しても、染め物業は紺屋、青屋といっていました。

防虫防蛇の効果がある藍が染め物の代表格だったからです。

藍は色あせにくく、作業衣に向き、庶民衣装の基本の色だったからです。

発酵させた葉藍(蒅=すくも)を臼でつき、藍玉にして瓶に注ぎ、水と石灰を付け足して藍汁をとつくります。

瓶に添えた火壷で加熱しながら、ゆででつぶした甘藷(または水)で溶かした黒砂糖を添加して蓋をし、蓋をとってはかき回したりして、藍汁に光沢が出て泡(これを花と呼びます)が立つまで。しめて八日間かかる藍染め作業です。

作業場(染め場)には愛染明王を祀り(「愛染」を「あいぞめ」と読める音から)、四六時中、藍汁をなめてその具合を確認しながらの忍耐強い作業から、藍は生まれていきます。

職人の指は藍がしみついているのです。

高尾太夫代々   【RIZAP COOK】

高尾は代々吉原の名妓で、歌舞伎十八番「助六」でおなじみの三浦屋の抱え女郎です。

詳しい年代は不詳ですが、宝永(1704-11)から正徳(1711-16)にかけてが全盛といわれます。

紺屋の名は、実際は九郎兵衛とも伝わっています。

九郎兵衛の妻となった紺屋高尾または駄染め高尾は、三代目、または五代目ともいわれています。確証はありません。

高尾太夫は、吉原の三浦屋の抱え遊女の源氏名です。

これは複雑で、しかのも不詳や異説が多く、記すのもはばかられます。

七代、九代、十一代で混乱しているため、通称で呼んだりしています。

あえて整理してみましょう。

一般的な流布説をまとめました。

初代 通称なし。元吉原時代(1617-57)
二代 万治高尾、仙台高尾。伊達綱宗との巷説で。ここから新吉原時代に
三代 紺屋高尾、駄染め高尾。水谷高尾の一説も
四代 浅野高尾。浅野紀伊守(壱岐守とも)が身請けした巷説で
五代 紺屋高尾の異説も
六代 榊原高尾、越後高尾。姫路藩主榊原政岑が身請けし巷説で。越後高田に移封
七代 六つ指高尾。足の指が六本あったことで例外的に足袋を履いていた巷説で
八代 浅野高尾とも
九代 水茶屋高尾。采女が原(中央区東銀座)の水茶屋女になった巷説で
十代 榊原高尾とも
十一代 榊原高尾とも

高尾の素性も履歴も、まるでわかっていないことがわかります。

これが現状です。

わざわざこんなものを調査する、まともな研究者がいないのですね。

残念です。紺屋高尾は三代、五代でダブっています。

浅野高尾は四代、八代でダブり。

榊原高尾にいたっては、六代、十代、十一代で。こうなると、ほとんどあやしいとしかいえません。

高尾太夫を史実で探るのはナンセンス。伝説や物語でしか通用しません。

落語の世界でたっぷり楽しみましょう。

三代目の「水谷高尾」   【RIZAP COOK】

三代目高尾には異説があります。その名を水谷高尾という、もう一人の高尾像が伝えられています。

この人、もっともドラマチックな人生を経めぐったのではないでしょうか。

これだって、史実かどうかといわれれば、はなはだあやしいかぎりですが。

ただ、おもしろい人生です。

いろいろ着色したくなりますね。

新吉原の三浦屋で三代目高尾太夫を名乗っていた遊女が、水戸家の為替御用達、水谷六兵衛(水谷庄左衛門とも)に身請けされました。

この人は武士ではなく商人です。六兵衛の下人、当時六十八歳だった平右衛門と不義に陥って出奔。

その後、浄瑠璃語りの半太夫の妻となるも、家を出て牧野駿河守の側女に。

中小姓の河野平馬と通じて出奔。

めぐりめぐって深川の髪結いの女房となりながらも、やがては役者の袖岡政之助とつながったそうです。

最後には、神田三崎町の元結売りの妻となったそうですが、ここも落ち着かず。いつの日か、下谷大音寺前の茶屋、鎌倉屋の前で倒死していたといいます。

すごい人生です。

この女性は「三九高尾」とも呼ばたとか。達筆だったそうで、「ん」の字に特徴があったので、「はね字高尾」とも呼ばれたそうです。

万事こんな調子で尾ひれが付いていくのです。

さらには、島田重三郎(「反魂香」参照)とも恋仲だったという巷説まで付いて、盛り盛り高尾です。

花魁   【RIZAP COOK】

おいらん。吉原の遊女、女郎の別称です。最高位の「太夫」となれたのは二百人に一人といわれます。

享保(1716-36)ごろまでは、吉原では遊女のランクは、
(1)太夫
(2)格子
(3)散茶
(4)梅茶
(5)局
の順で、太夫と格子がトップクラスでした。

この(1)と(2)を合わせて、部屋持ち女郎の意味で「おいらん」(花魁は中国語の当て字)という名称が付きました。

語源は「おいら(自分)のもの」からとか。だいたい明和年間(1764-72)から使われ出したものです。

のちに、単に姉女郎に対する呼びかけ、さらには下級女郎に対しても平気で使われるようになりました。

これは、早く宝暦年間(1751-64)にトップ2の太夫と格子が絶えたのを端緒に、なし崩しに呼び名が下へ下がっていったためです。

ただし、どんな時代でも「おいらん」は吉原の女郎に限られました。

花魁については「盃の殿さま」の「吉原花魁盛衰記」にも記しておきました。

落語よりも浪曲で   【RIZAP COOK】

遊女は客にほれたといい
客はきもせでまたくるという
うそとうそとの色里で
恥もかまわず身分まで
よう打ち明けてくんなました
金のある人わしゃきらい
あなたのような正直な方を捨ておいて
ほかに男をもったなら
女冥利に尽きまする
いやしい稼業はしていても
わしもやっぱり人の子じゃ
情けに変わりがあるものか
義理という字は墨で書く

これは初代篠田実(1898-1985)の「紺屋高尾」です。

大正から昭和にかけての浪曲師。本名です。

京都府福知山市の出身。

大正12年(1923)9月、埋め草にかつて録音してあった「紺屋高尾」が、傾いたレコード会社が震災後のどさくさに苦し紛れに発売。

それが空前の大ヒットとなりました。

ヒコーキレコードという会社(その後日蓄と合併)が起死回生、V字回復をを演じました。

昭和初期には全国津々浦々でこの一節がうなられていたわけです。

というか、「紺屋高尾」といえば、落語よりも浪曲で知られていました。

ありんす言葉   【RIZAP COOK】

吉原では、古くから独特の廓(さと)言葉が使われていました。

この噺の高尾が使う「なます」「ありんす」「わちき」などの語彙がそれで、「ありんす」言葉ともいいました。

起源ははっきりしませんが、京の島原遊廓で諸国から集められた女たちが、里心がついて逃走しないよう、吉原の帰属意識をもたせるために考え出されたものといわれます。

エスペラント同様の人工語であるわけです。

したがって、島原(京)や新町(大坂)の遊女も当然同じような言葉を使っていたわけです。

江戸が18世紀後半以後、文化の中心になると「吉原詞」として全国に知れ渡り、独自の表現や言い回しが生まれていきました。

「行きまほう(=行きましょう)」「くんなまし」「そうざます」などもそうです。

昭和30年代に東京山の手の奥サマが使う「ざあます言葉」というのがさかんに揶揄されました。

実は、女郎言葉の名残だったわけです。

なんともいやはや、お皮肉なことでありんす。

極めつけ円生十八番   【RIZAP COOK】

この噺、実話をもとにしたものとされますが、詳細は不詳です。

戦後では六代目三遊亭円生の独壇場でした。

「かめのぞき」のくだりは、高尾が瓶にまたがるため、水に「隠しどころ」が映るというので、客が争ってのぞき込む、というエロチックな演出がとられることが昔はありました。

円生はその味を生かしつつ、ストレートな表現を避け、「ことによると……映るんじゃないかと」と、思わせぶりで演じるところが、なんとも粋でした。

この噺はふつう、オチらしいオチはありません。

四代目柳亭左楽(オットセイの左楽、「松竹梅」)は、与三という男が高尾の顔を見に行きたいが、染めてもらうものがないため、長屋のばあさんに手拭いを借りにいくものの、みな次から次へと持っていくからもうないと断られ、たまたま黒猫が通ったので「おばさん、これ借りるよ」「なんだって黒猫を持っていくんだ」「なに、色揚げ(色の褪めた布を染め直す)してくる」とオチていました。円生もときにこれを踏襲して落としていました。

後日談   【RIZAP COOK】

この後、久蔵と高尾が親方の夫婦養子になって跡を継ぎ、夫婦そろってなんとか店を繁盛させたいと、手拭いの早染め(駄染め)というのを考案し、客がまた高尾の顔見たさに殺到したので、たちまち江戸の名物になったという後日談を付けることがあります。

高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを客が待ちます。

高尾が下を向いていて顔が見えないので、客が争って瓶の中をのぞき込んだことから染め物に「かめのぞき」という名がついたという由来話で締めくくります。

前項のエロ演出は、もちろんこれの「悪のり」です。

類話に「幾代餅」   【RIZAP COOK】

まったく同じ筋ですが、人物設定その他が若干異なります。

「紺屋高尾」の改作と思われますが、はっきりしません。

五代目古今亭志ん生の系統は「幾代餅」でやっていました。

志ん生の弟子、古今亭円菊も、その弟子の古今亭菊之丞も。十代目金原亭馬生の弟子、五街道雲助もご多分に漏れず「幾代餅」です。雲助の弟子、桃月庵白酒も。志ん朝は「幾代餅」でも「紺屋高尾」でもやっていました。

志ん朝の弟子、古今亭志ん輔も。別系統ながら、柳家さん喬柳家権太楼もよい味わいです。

類話はもう一つ。「搗屋無間」も同工異曲の噺といってよいかもしれません。

「幾代餅」のあらすじ   【RIZAP COOK】

日本橋馬喰町一丁目の搗き米屋の奉公人、清蔵。人形町の絵草紙屋で見た、吉原の姿海老屋の幾代太夫の一枚絵に恋患いし、仕事も手につかない。

親方六右衛門の助言で一念発起、一年とおして必死に働いた。

こさえた金が十三両二分。ちょっと足りない。そこに六右衛門が心づけて、しめて十五両に。

六右衛門は近所の幇間医者、籔井竹庵に事情を話して、吉原への手引きを頼んだ。

竹庵、蹴転のあそびから大籬のあそびまでの通人だ。

竹庵の手引きで、野田の醤油問屋の若旦那という触れ込みで清蔵は吉原に。

初会ながらも情にほだされた幾代太夫は、年季明けに清蔵の元に、という約束。

明けた三月、幾代は清蔵に嫁いだ。

親方の六右衛門は清蔵を独立させ、両国広小路に店を持たせた。

店のうまい米を使って二人が考案した「幾代餅」が大評判となり名物となった。

二人は幸せに暮らし天寿を全うした、というめでたい一席。

古今亭志ん朝 二朝会 CDブック

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

たちきり【立ち切り】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

美代吉と新三郎の粋なしんねこ。
そこに嫌われ男が逆上して割り込んで。
もとは上方の人情噺。聴かせる物語です。

別題:立ち切れ 立ち切れ線香(上方)

あらすじ

昔は、芸妓げいぎ花代はなだいを線香の立ち切る(=燃え尽きる)時間で計った。

そのころの話。

美代吉は、築地の大和屋抱えの芸妓。

新三郎は、質屋の若だんな。

二人は、互いに起請彫きしょうぼりをするほどの恋仲だ。

ある日。

湯屋ゆうやで若いが二人の仲を噂しあっているのを聞き、逆上したのが、あぶく。

美代吉に岡惚れの油屋の番頭、九兵衛のこと。

通称、あぶく。

この男、おこぜのようなひどいご面相なのだ。

美代吉があぶくを嫌がっていると、同じ湯船にあぶくがいるとも知らずに、若い衆がさんざん悪口を言った。

あぶくは、ますます収まらない。

さっそく、大和屋に乗り込んで責めつける。

美代吉は苦し紛れに、お披露目のため新三郎の親父から五十円借金していて、それが返せないのでしかたなく言いなりになっていると、でたらめを言ってごまかした。

自分はわけあって三年間男断ちをしているが、それが明けたらきっとだんなのものになると誓ったので、あぶくも納得して帰る。

美代吉は困った。

新さんに相談しようと手紙を書くが、もう一通、アリバイ工作をしようと、あぶくにも恋文を書いたのが運の尽き。

動転しているから、二人の宛名を間違え、新三郎に届けるべき手紙をあぶくの家に届けさせてしまう。

それを読んだあぶく。

文面には、あぶくのべらぼう野郎だの、あんな奴に抱かれて寝るのは嫌だのと書いてあるから、さては、とカンカン。

あぶくは、美代吉が新三郎との密会場所に行くために雇った船中に、先回りして潜んだ。

美代吉の言い訳も聞かばこそ、かわいさ余って憎さが百倍と、あぶくは匕首あいくち(鍔のない刀)で美代吉をブッスリ。

あわれ、それがこの世の別れ。

さて、美代吉の初七日。

新三郎が仏壇に線香をあげ、念仏を唱えていると、現れたのが美代吉の幽霊。

それも白装束でなく、生前のままの、座敷へ出るなりをしている。

新三郎が仰天すると、地獄でも芸者に出ていて大変な売れっ子だ、という。

なににしても久しぶりの逢い引き。

新三郎の三味線で、幽霊の美代吉が上方唄を。

いいムードでこれからしっぽり、という時、次の間から
「へーい、お迎え火」

あちらでは、芸妓を迎えにくる時の文句と聞いて、新三郎は
「あんまり早い。今来たばかりじゃないか」
「仏さまをごらんなさい。ちょうど線香がたち切りました」

底本:六代目桂文治

しりたい

上方人情噺の翻案

京都の初代松富久亭松竹しょうふくていしょうちく(生没年不詳)作と伝えられる、生っ粋の上方人情噺を、明治中期に東京に移植したもの。

移植者は三代目柳家小さん小さん(豊島銀之助、1857-1930)とも、六代目桂文治(1848-1928、平野次郎兵衛)ともいわれています。

文化3年(1806)刊の笑話本『江戸嬉笑』中の「反魂香」が、さらに溯った原話です。

東京では「入黒子いれぼくろ」と題した、明治31年(1898)12月の六代目桂文治の速記が最古の記録です。

その後、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)が継承しました。

ここでのあらすじは、古い文治のものを参考にしました。ちょっと珍しい、価値あるあらすじです。

文治は、しっとりとした上方の情緒あふれる人情噺を、東京風に芝居仕立てで改作しています。

線香燃え尽き財布もカラッポ

芸者のお座敷も、お女郎の「営業」も、原則では、線香が立ち切れたところで時間切れでした。

線香が燃え尽きると、客が「お直しぃー」と叫び、新たな線香を立てて時間延長するのが普通でした。

落語「お直し」のような最下級の魔窟では、客引きの牛太郎ぎゅうたろう(店の従業員)の方が勝手に自動延長してしまう、ずうずうしさです。

明治以後は、時計の普及とともにさすがにすたれました。

この風習、東京でも新橋などの古い花柳界では、かなり後まで残っていたようです。

この噺の根っこには、男女の恋愛だろうが、しょせんは玄人(プロ)と客とのでれでれで、金の切れ目が縁の切れ目、線香が燃え尽きたらはいおしまい、という世間のおおざっぱな常識をオチに取り入れているわけですね。

上方噺「立ち切れ線香」

現在でも大阪では、大看板しか演じられない切りネタ(大ネタ)です。

あらすじは、以下の通り。

若だんなが芸者小糸と恋仲になり、家に戻らないのでお決まりの勘当かんどうとなるが、番頭の取り成しで百日の間、蔵に閉じ込められる。

その間に小糸の心底を見たうえで、二人をいっしょにさせようと番頭がはかるが、蔵の中から出した若だんなの恋文への返事が、ある日ぷっつり途絶える。

若だんなは蔵から出たあと、このことを知り、しょせんは売り物買い物の芸妓と、その不実をなじりながらも、気になって置き屋を訪れた。

事情を知らない小糸は、自分は捨てられたと思い込み、焦がれ死んだという。

後悔した若だんなが仏壇に手を合わせていると、どこからか地唄の「ゆき」が聞こえてくる。

「……ほんに、昔の、昔のことよ……」

これは小糸の霊が弾いているのだと若だんなが涙にくれる。

ふいに三味線の音がとぎれ、
「それもそのはず、線香が立ち切れた」

起請彫り

入れぼくろの風習からの発展形です。

江戸初期、上方の遊廓でおこりました。

遊女が左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり、男女互いが親指のつけ根にほくろを入れたりしたそうです。

互いの心に揺らぎはないという、証しのつもりなんですね。

人は、内なる思いをなにかの形で示さないと信じ合えない、悲しい生き物なのです。

「起請」とは「誓い」のことですから、このような名称になりました。

江戸中期(18世紀以降)になると、江戸でも流行しました。同じ江戸時代とはいっても、初期と中後期では人々のもの考え方や慣習も違ってきています。

それと、じわじわ入ってきた西洋の文物や考え方が江戸の日本に沁み込んでいきました。なにも、ペリーが来たから日本ががらりと変わったわけではありません。

江戸時代は平和が200年以上続いた時代でした。この平和な時間がなによりもすごい。

平和が100年ほど続くと、人間は持続して考えることができるのですね。そうなると、いろんなことを考えたり編み出したりするものなんでしょう。

そんな中で、江戸で生まれたのが「〇〇命」という奇習。今でもたまに見ることがあります。相手の名前を彫る気っ風のよさが身上です。平和ずっぽり時代の象徴といえましょう。鳩よりすごい。

ことばよみいみ
花代はなだい遊女や芸妓への遊興費
揚げ代あげだい芸妓や娼妓などを揚屋に呼んで遊ぶ代金。=玉代
揚げ屋あげや遊里で遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家
遊女屋ゆうじょや置き屋
置き屋おきや芸妓や娼妓を抱えておく家
芸妓げいぎ芸者、芸子
娼妓しょうぎ遊女、公娼
入れ黒子いれぼくろいれずみ
匕首あいくちつばのない短刀




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

わらにんぎょう【藁人形】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

苦界の女にだまされ金をだまし取られた願人坊主。
煮えたぎる鍋の中には……。
陰々滅々な。
怪談噺でもなく人情噺でもなさそうな。落とし噺ですか。

別題:丑の刻参り

【あらすじ】

神田竜閑町 の糠屋の娘おくまは、ぐれて男と駆け落ちをし、上方に流れていった。

久しぶりに江戸に舞い戻ってみると、すでに両親は死に、店も人手に渡っていた。

どうにもならないので千住小塚っ原の若松屋という女郎屋に身を売り、今は苦界の身である。

同じく千住の裏長屋に住む、西念という願人坊主。

元は「か」組の鳶の者だったが、けんかざたで人を殺し、出家して、家々の前で鉦を叩いてなにがしかの布施をもらう、物乞い同然の身に落ちぶれている。歳は、もう六十に手が届こうかという老人。

その西念が若松屋に出入りするようになり、おくまの親父に顔がそっくりだということもあって、二人は親しい仲になった。

ある梅雨の一日。

いつものように西念がおくまの部屋を訪れると、おくまは上機嫌で、
「近々上方のだんなに身請けされ、駒形に絵草紙屋を持たせてもらうから、そうなったら西念さん、おまえを引き取り、父親同然に世話をするよ」
と言ってくれる。

数日後にまた行ってみると、この前とうって変わって、やけ酒。

絵草紙屋を買う金が二十両足りないと、いう。

西念、思案をして、
「実は昔出家する時、二十両の金を鳶頭にもらったが、使わずにずっと台所の土間に埋めてあるから、それを用立てよう」
と申し出る。

西念が金を取ってきて渡すと、おくまは大喜び。

「きっとすぐに迎えに行くから」
と約束した。

それから七日ほど夏風邪で寝ていた西念。

久しぶりに若松屋に行っておくまに会い、あのことはどうなったと尋ねると、意外にも女はせせら笑って
「ふん、おまえが金を持っているという噂だから、だまして取ってやったのさ。何べんも泊めてやったんだ。揚げ代代わりと思いな」

西念はだまされたと知って、憤怒の形相すさまじく
「覚えていろ」
と叫んでみてもどうしようもなく、外につまみ出された。

二十日後。

甥の陣吉が西念を尋ねてくる。

大家に聞くと、もう二十日も戸を締め切って、閉じこもったままだという。

この陣吉、やくざ者で、けんかのために入牢していたが、釈放されたのを機にカタギとなり、伯父を引き取るつもり。

陣吉に会って、そのことを聞いた西念は喜んで、祝いにそばを頼み方々、久しぶりに外の風に当たってくると、杖を突いて出ていったが、行きしなに
「鍋の中を覗いてくれるな」
と、言い残す。

そう言われれば見たくなるのが人情で、留守に陣吉がひょいと仲をのぞくと、呪いの藁人形が油でぐつぐつ煮え立っている。

帰ってきた西念、
「見たか。これで俺の念力もおしまいだ。くやしい」

泣き崩れるので、事情を聞いてみると、これこれしかじか。

「やめねえ伯父さん、藁人形なら釘を打たなきゃ」
「だめだ。おくまは糠屋の娘だ」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

オチは諺から

オチの部分の原話は安永2年(1773)刊の笑話本、『坐笑産』中の「神木」。

これは、ある神社で丑の時参りの呪詛をしている者がご神木にかけた藁人形に灸をすえているのを神主が見つけて、「これこれ、なぜ釘を打たぬのか?」と尋ねると、「もうなにを隠しましょう。私が呪う男は、糠屋さ」というものです。 

どちらにせよ、オチが「のれんに腕押し」と同義の「ぬかに釘」を踏まえていて、ぬらりくらりで釘を打っても効果がないほどしたたかな女、ということと掛けてあるわけです。

もう一つ、「糠釘」と呼ぶ、屋根のこけら葺きに用いる小さな釘があるので、縁語としても効いているのでしょう。

願人坊主

その姿は、歌舞伎舞踊「浮かれ坊主」や世話狂言「法界坊」に活写されています。

ボロボロの衣らしきものをまとっただけの、ほとんど裸同然で町々をさまよい、物乞いをしたり、時には代参や代垢離を請け負ったりします。

もっとも、願人坊主といってもピンからキリまでです。

黄金餅」やこの「藁人形」に登場の西念は、それ相応の小金も溜め込み、第一裏店とはいえちゃんとした長屋に住んでいるのですから、身分は人別帳(=戸籍)にも載っている普通民です。

もともと願人坊主の語源は、上野の寛永寺の支配下で、出家を願って僧籍の欠員があるのを待っている者という説があります。

西念は身を持ち崩してもまだ身内も住居もあり、いわゆる「はっち坊主」と呼ばれる乞食坊主にまでは落ちぶれていないということでしょう。

落語では、ほかに「らくだ」にも登場します。

西念の名の由来

西念は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の十八番「黄金餅」にも、アンコロ餅といっしょに金をのみ込んで悶死する守銭奴として登場します。

西念の名は、四谷、鮫ヶ橋谷町(新宿区若葉2丁目)の西念寺(現存)から採ったものと思われます。

ここは旧幕時代には江戸有数のスラム街で、願人坊主が特に多く住みついていました。

西念寺は、家康の懐刀で伊賀系三河忍者の棟梁、服部半蔵正成が、晩年の文禄年間(1592-96)に剃髪して西念と号した際、自らの菩提のために開基したものです。

寺名はその法号にちなみます。

千住小塚っ原

千住宿は四宿(ほかに新宿、板橋、品川)の一で、奥州・日光街道の親宿(起点)ですが、大きく千住大橋をはさんで上宿と下宿に分けられました。

橋の北側の上宿に本陣がありましたが、南詰めの下宿には小塚原、中村町の二つの遊郭があり、千住の仕置場(=処刑場)が近いことから通称「コツ(=骨)」または「コヅカッパラ」と呼ばれました。

全盛期には旅籠14軒を数えたといいます。上宿にももちろん飯盛女(=お女郎)がいましたが、どちらかというと南の「コツ」の方は一般の旅人を始め、船頭・農民などの遊ぶごく安っぽい岡場所でした。

落語には「今戸の狐」に「コツのお女郎」が登場するほか、五代目志ん生の「お直し」でも、主人公の吉原の若い衆がこっそり遊びに行く場所として説明されています。

小塚原遊郭は荒川区南千住5丁目から6丁目、回向院から素盞鳴神社に向かうあたりで、細い路地(コツ通り)の両側に遊女屋が並んでいました。ただし、五代目志ん生は、下宿のコツではなく、上宿(本宿)で演じました。

か組

町火消は享保5年(1720)に町奉行、大岡忠相の献策で発足したものです。

西念の前身が「か組」の鳶の者だったという設定ですが、町火消はいろは四十八組に分けられ、か組は神田佐久間町、旅籠町、湯島天神前辺を分担していました。

佐久間町は火事が多く、悪魔町と呼ばれたとか。

彦六から歌丸へ

明治期には、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が得意にしていました。

円朝門下で、初代円右の「叔父分」に当たる三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)の直伝で、八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が戦後十八番とし、初代円右に傾倒していた五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も好んで演じました。

別題を「丑の刻参り」というように、元来は陰気で怪奇性が強い噺でした。

五代目今輔の方はどちらかというと、従来通りすごみをきかせて演じ、八代目正蔵は人情噺の要素を多くして、西念の哀れさや甚吉の誠実な生きざまを描写することで後味のよい佳品に仕上げました。

両師の没後、継承者がなくすたれていましたが、桂歌丸(椎名巌、1936-2018)が復活させ、八代目正蔵のやり方を多く取り入れて演じていました。

神田竜閑町

現在の千代田区内神田2丁目、首都高速神田橋ランプの東側です。

かつては南側の神田堀入り口に竜閑橋が架かり、付近には白旗稲荷神社があって、にぎわいました。

地名の由来は、井上立閑という者がこのあたりを開発したことにちなみます。

ことばよみいみ
神田龍閑町 かんだりゅうかんちょう
糠屋ぬかや
千住小塚っ原 せんじゅこづかっぱら
若松屋わかまつや
鳶 とび
坐笑産ざしょうみやげ
糠釘ぬかっくぎ
人別帳にんべつちょう
素盞鳴神社 すさのおじんじゃ
井上立閑 いのうえりゅうかん

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

スヴェンソンの増毛ネット

評価 :1/3。

てんたく【転宅】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

泥棒より数枚上手な女の話。
この泥棒のお人よしぶりには口あんぐり。

あらすじ

おめかけさんが「権妻ごんさい」と呼ばれていた明治の頃。

船板塀に見越みこしの松の妾宅しょうたくに、だんなが五十円届けて帰った後、これを聞きつけて忍び込んだのが間抜けな泥棒。

お膳の残りものをムシャムシャ食っているところを、おめかけさんのお梅に見つかり、
「さあ、ダンツクが置いてった五十円、蛇が見込んだ雨蛙。四の五の言わずに出せばよし、いやだ応だと抜かしゃがると、伊達には差さねえこの大だんびら、うぬがどてっ腹へズブリズブリとお見舞い申すぞ」
と居直ったが、このおめかけさん、いっこうに動じないばかりか、
「あたしも実は元はご同業で、とうにだんなには愛想が尽きているから、あたしみたいな女でよかったら、連れて逃げておくれ」
と言い出したから、泥棒は仰天。

「五十円はおろか、この家にはあたしの蓄えも入れて千円あるから、この金を持って駆け落ちし、世界一周した後、おまえさんに芸者屋でもやってもらう」
と色仕掛けで迫る。

泥棒、でれでれになって、とうとう、めおとの約束を。

「そう決まったら今夜は泊まっていく」
と泥棒がずうずうしく言い出すと、
「あら、今夜はいけないよ。二階にはだんなの友達でえらく強いのが、酔っぱらって寝てるんだから」

明日の朝に忍んでいく約束をしたが、
「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」
と稼いだなけなしの二十円を巻き上げられる始末。

で、その翌朝。

うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんや、もぬけのカラ。

あわてて隣の煙草屋のおやじに聞くと、
「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑いつづけなんです」

女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。ほうぼうで遊んできた人だから、人間がすれている。間抜け野郎の泥棒を口先でコロッとだまし、あの後、だんなをすぐに呼びにやったところ、あとでなにか不都合があるといけないというので、泥棒から巻き上げた金は警察に届け、明け方のうちに急に転宅(=引っ越し)した、とか。

「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた(=だまされた)」

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しりたい

たちのぼる明治の匂い

「権妻」「転宅」ともに明治初期から使われだした言葉。まぎれもなく明治の新時代につくられた噺です。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が得意にしました。

この円遊は明治を代表する噺家で、大きい鼻のために「鼻の円遊」とも、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露したため「ステテコの圓遊」とも呼ばれていました。

円遊は、文明開化の新風俗を当て込み、鉄道馬車を登場させたり、オチも「あそこにシャボンが出ています」と変えるなどとしていました。

同時代で音曲の弾き語りや声色などで人気のあった二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-1898)は、女が「目印にタライを置いておく」と言い、オチは「転宅(=洗濯)なさいましたか。道理でタライが出ています」としています。

ちなみに、二代目今輔は右目が不自由だったことから「めっかちの今輔」と当時の資料には出てきます。

やはり、ひとつの時代の風俗に密着しているだけに、いつまでも生き残るには難しい噺かもしれません。

三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)も得意ネタにしていました。こちらのネタでも同じような運命をたどっています。

権妻

本妻に対しての愛人、妾、おめかけさんをいいます。

「権」を「けん」ではなく「ごん」と読みます。

「ごん」と読む場合は、「権大納言ごんだいなごん」「権禰宜ごんねぎ」というように、「次の」「二番目の」をさす敬称となります。

愛人に対してわざとしゃれて使ったものです。明治時代の特徴です。

船板塀に見越しの松

「黒板塀に……」ともいいます。当時の典型的な妾宅しょうたくの象徴として、三代目瀬川如皐じょこう(六三郎、1806-81)の代表的な歌舞伎世話狂言『源氏店げんじだな』(お富与三郎)にも使われました。

瀬川如皐は歌舞伎作者です。

船板塀は、廃船となった船底板をはめた塀で、ふつう「忍び返し」という、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。

見越みこしの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。

いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。

「ドウスル!」女義太夫

「娘義太夫」「タレギダ」ともいいます。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。

明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。

ちなみに、「タレギダ」の「タレ」は女性の隠語、「ギダ」は義太夫のことで、娘義太夫を意味しています。内訳を知るとばかばかしいだけ。

娘義太夫は、今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどは、木下杢太郎(1885-1945)の詩「街頭初夏」(明治43年)にも。

濃いお納戸の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田しったもすずしげに

この噺のおめかけさんのように旅回りの女芸人となると、泥水もさんざんのみ、売春まがいのこともするような、かなり凄絶な境遇だったのでしょう。

そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。

それにしても

この噺、男女の愛欲を貫くよりも、泥棒を犯罪者とみなして追及するほうを優先しています。

明治期の世俗価値観が強く出ていて、いまいちどうも、とびきりのおもしろさはありません。

とはいえ、妾囲いを是とする風潮は許容しているわけです。

落語は、社会の不備や政治の不正に物申す、発信元の役割を果たしたわけではなかったようです。

自由民権運動では、講談や浪曲が媒体として使われはしても、落語は使われませんでした。

現代でも、聴者はそんなところを落語に求めていません。ただげらげら笑いたいだけなんですよね。私(古木)もです。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

ふどうぼう【不動坊】落語演目

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

講釈師が死んだ。
大家、残った女房に縁談をと。
ぞっこんの吉公。
上方噺。明治期に上京。
わいわいにぎやか。
けっこうえげつない噺ですが。

別題:不動坊火焔 幽霊稼ぎ 

【あらすじ】

品行方正で通る、じゃが屋の吉兵衛。

ある日、大家が縁談を持ち込んできた。

相手は相長屋の講釈師・不動坊火焔の女房お滝で、最近亭主が旅回りの途中で急にあの世へ行ったので、女一人で生活が立ちいかないから、どなたかいい人があったら縁づきたいと、大家に相談を持ちかけてきた、という。

ついては、不動坊の残した借金がかなりあるのでそれを結納代わりに肩代わりしてくれるなら、という条件付き。

実は前々からお滝にぞっこんだった吉公、喜んで二つ返事で話に飛びつき、さっそく、今夜祝言と決まった。

さあ、うれしさで気もそぞろの吉公。

あわてて鉄瓶を持ったまま湯屋に飛び込んだが、湯舟の中でお滝との一人二役を演じて大騒ぎ。

『お滝さん、本当にあたしが好きで来たんですか?』
『なんですねえ、今さら水臭い』
『だけどね、長屋には独り者が大勢いますよ。鍛治屋の鉄つぁんなんぞはどうです?』
『まァ、いやですよ。あんな色が真っ黒けで、顔の裏表がはっきりしない』
『チンドン屋の万さんな?』
『あんな河馬みたいな人』
『じゃあ、漉返し屋の徳さんは?』
『ちり紙に目鼻みたいな顔して』

湯の中で、これを聞いた当の徳さんはカンカン。

長屋に帰ると、さっそく真っ黒けと河馬を集め、飛んでもねえ野郎だから、今夜二人がいちゃついているところへ不動坊の幽霊を出し、脅かして明日の朝には夫婦別れをさしちまおうと、ぶっそうな相談がまとまった。

この三人、そろって前からお滝に気があったから、焼き餅も半分。

幽霊役には年寄りで万年前座の噺家を雇い、真夜中に四人連れで吉公の家にやってくる。

屋根に登って、天井の引き窓から幽霊をつり降ろす算段だが、万さんが、人魂用のアルコールを餡コロ餠と間違えて買ってきたりの騒動の後、噺家が
「四十九日も過ぎないのに、嫁入りとはうらめしい」
と脅すと、吉公少しも動ぜず、
「オレはてめえの借金を肩代わりしてやったんだ」
と逆ねじを食わせたから、幽霊は二の句が継げず、すごすご退散。

結局、「手切れ金」に十円せしめただけで、計画はおジャン。

怒った三人が屋根の上から揺さぶったので、幽霊は手足をバタバタ。

「おい、十円もらったのに、まだ浮かばれねえのか」
「いえ、宙にぶら下がってます」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

パクリのパクリ  【RIZAP COOK】

明治初期、二代目林家菊丸(?-1901?)作の上方落語を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植しました。

溯れば、原話は、安永2年(1773)刊『再成餅』中の「盗人」とされますが、内容を見るとどこが似ているのか根拠不明で、やはり菊丸のオリジナルでしょう。

菊丸の創作自体、「樟脳玉」の後半(別題「源兵衛人玉」「捻兵衛」)のパクリではという疑惑が持たれています(宇井無愁説)。

そのネタ元がさらに、上方落語「夢八」のいただきではと言われているので、ややこしいかぎりです。

菊丸は創作力に秀でた才人で、この噺のほか、現在も演じられる「後家馬子」「猿廻し」「吉野狐」などをものしたと伝えられます。

晩年は失明し、不遇のうちに没したようです。

本家大阪の演出  【RIZAP COOK】

桂米朝(中川清、1925-2015)によれば、菊丸のオリジナルはおおざっぱな筋立て以外は、今ではほとんど痕跡をとどめず、現行のやり方やくすぐりは、すべて後世の演者の工夫によるものとか。

登場人物の名前は「登場しない主役」の不動坊火焔と、すき返し屋の徳さん以外はみな東京と異なります。

新郎が金貸しの利吉、脅しの一味が徳さんのほか、かもじ洗いのゆうさん、東西屋の新さん。幽霊役が不動坊と同業で講釈師の軽田胴斎となっています。

利吉は、まじめ人間の東京の吉兵衛と異なり、徹底的にアホのキャラクターに描かれるので、上方版は銭湯のシーンを始め、東京のよりにぎやかで、笑いの多いものとなっています。

上方では幽霊の正体が最後にバレます。

そのきっかけは、フンドシをつないだ「命綱」が切れて幽霊が落下、腰を打って思わず「イタッ」と叫ぶ段取りです。

オチに四苦八苦  【RIZAP COOK】

あらすじのオチは、東京に移植された際、三代目小さんが作ったもので、現行の東京のオチはほとんどこちらです。

明治42年(1909)10月の「不動坊火焔」と題した小さんの速記では、「てめえは宙に迷ってるのか」「途中にぶら下がって居ります」となっています。

オリジナルの上方のオチは、すべてバレた後、「講釈師が幽霊のマネして銭取ったりするのんか」「へえ、幽霊(=遊芸)稼ぎ人でおます」というもの。

これは明治2年(1869)、新政府から寄席芸人に「遊芸稼ぎ人」という名称の鑑札が下りたことを当て込んだものです。

同時に大道芸人は禁止され、この鑑札なしには、芸人は商売ができなくなりました。

つまり、この噺が作られたのは明治2年前後ということになります。

この噺はダジャレで出来が悪い上、あくまで時事的なネタなので、時勢に合わなくなると演者はオチに困ります。

そこで、上方では幽霊役がさんざん謝った後、新郎の耳に口を寄せ「高砂や……」の祝言の謡で落とすことにしましたが、これもイマイチ。

試行錯誤の末、最近の上方では、米朝以下ほとんどはマクラで「遊芸稼ぎ人」の説明を仕込んだ上でオリジナルの通りにオチています。

当然、オチが違えば切る個所も違ってくるわけです。

二代目桂枝雀(前田達、1939-99)は、昭和47年(1972)の小米時代に、幽霊役が新郎に25円で消えてくれと言われ、どうしようかこうしようかとぶつぶつ言っているので、「なにをごちゃごちゃ言うとんねん」「へえ、迷うてます」というオチを工夫しました。

のちに、東京式の「宙に浮いとりました」に戻しています。

ほかにも、違ったオチに工夫している演者もいます。

どれもあまりしっくりはこないようです。

前座の蛮勇  【RIZAP COOK】

東京では、三代目小さんから四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に継承された小さんの家の芸です。

五代目小さんはこの噺を前座の栗之助時分、覚えたてでこともあろうに、神田の立花でえんえん45分も「熱演」。

のちの八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に、こっぴどく叱られたという逸話があります。

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)も得意にしていました。

現在でも東西で多くの演者が手掛けています。

人魂の正体  【RIZAP COOK】

昔の寄席では、怪談噺の際に焼酎を綿に染み込ませて火を付け、青白い陰火を作りました。

その後、前座の幽霊(ユータ)が客席に現れ、脅かす段取りです。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」の按摩道玄の台詞「掛け焔硝でどろどろと、前座のお化けを見るように」は有名です。

この噺は明治期が舞台なので、焼酎の代わりにハイカラにアルコールと言っています。

古くは「長太郎玉」と呼ばれる樟脳玉も使われ、落語「樟脳玉」の小道具になっています。

引き窓  【RIZAP COOK】

屋根にうがった明かり取りの窓で、引き綱で開閉しました。

歌舞伎や文楽の「双蝶々曲輪日記」の八段目(大詰め)「引窓」で、芝居に重要な役割を果たすと共にその実物を見ることができます。

五代目小さんのくすぐり  【RIZAP COOK】

(吉公が大家に)「……もう、寝ても起きてもお滝さん、はばかりィ入ってもお滝さん……仕事も手につきませんから、なんとかあきらめなくちゃならないと思って、お滝さんは、あれはおれの女房なんだと、不動坊に貸してあるんだと……ええ、あのお滝さんはもともとあっしの女房で……」

不動明王   【RIZAP COOK】

不動とは不動明王の略です。不動とはどんな存在か。仏像から見ていきましょう。

仏像は四種類に分かれています。

如来 真理そのもの
菩薩 真理を人々に説いて救済する仏
明王 如来や菩薩から漏れた人々を救う存在
天 仏法を守る神々

この種類分けは仏像の格付けとイコールです。不動明王はいくつかの種類分けがされています。五大明王とか八大明王とか。

ここでは五大明王について記します。

不動明王 中央 大日如来の化身
降三世明王 東 阿閦如来の化身
軍荼利明王 南 宝生如来の化身
大威徳明王 西 阿弥陀如来の化身
金剛夜叉明王 北 不空成就如来の化身

寺院で五大明王の像を配置すると、必ず不動明王がそのセンターに位置します。

それだけ高い地位にあるのです。

さらには、明王がすべて如来の化身とされています。

如来で最高位の大日如来の化身が不動明王になっています。

明王は、如来や菩薩の救いから漏れた人々を救う、敗者復活戦の主催者のような役割を担っています。

有象無象を救済するため、怒った顔をしているのです。

忿怒の表情というやつで、怖そうな存在です。

右手に宝剣、左手に羂索。羂索とは人々を漏れなく救うための縄です。

背後には火焔光背という、炎を表現しています。

強そう。でも怖そう。

そんなイメージです。

不動信仰はおもしろいことに、関西よりも関東地方に篤信の歴史があります。

平将門の怨霊を鎮める意味があったと考えられているからです。

将門は御霊信仰のひとつ。

御霊信仰とは、疫病や天災を、非業の死を遂げた人物などの御霊の祟りとしておそれ、御霊を鎮めることで平穏を回復しようとする信仰をいいます。

漏れた人々をも救おうとする不動明王の信仰は、関東で将門の御霊信仰と結びついたのです。

【語の読みと注】
相長屋 あいながや:同じ長屋に住むこと。
相店 あいだな:相長屋に同じ
結納 ゆいのう
漉返し すきがえし:紙すき
東西屋 とうざいや:チンドン屋
加賀鳶 かがとび
双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょうくるわにっき
大日如来 だいにちにょらい
降三世明王 ごうさんぜみょうおう
阿閦如来 あしゅくにょらい
軍荼利明王 ぐんだりみょうおう
宝生如来 ほうしょうにょらい
大威徳明王 だいいとくみょうおう
阿弥陀如来 あみだにょらい
金剛夜叉明王 こんごうやしゃみょうおう
不空成就如来 ふくうじょうじゅにょらい
忿怒 ふんぬ
腱索 けんさく けんじゃく

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

おわかいのすけ【お若伊之助】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

日本橋生薬屋の娘お若は評判の美人で一中節の稽古に通う。
心配する母は鳶頭に相談して伊之助にも稽古に通わせた。
二人の妙なようすを見て、母は伊之助をお払い箱に。
お若はボテレンとなるが、相手は伊之助ではなかった。
全集にも収載、円朝晩年の作品らしき因果譚。

別題:因果塚の由来 離魂病

あらすじ

日本橋横山町三丁目に、栄屋という生薬屋があった。

だんなはもう亡くなって、お内儀かみさん一人で店を切り盛りしているが、そこの娘はお若といって、年は18、近所でも評判の美人。

この娘がある日、一中節を稽古したいと、母親にねだる。

習わせてやりたいが、年ごろの娘だから問題があってはならないとお内儀さんは思案して、に組の初五郎という、店に出入りの鳶頭に相談する。

ちょうど、初五郎が弟同様に世話している、元侍の菅野伊之助というのが、年は若いが人間も堅くて、芸もしっかりしているということなので、それならと鳶頭の世話で、伊之助が毎日稽古に通ってくることになった。

話は決めたものの、そこは母親の本能。

だんだん心配になってくる。

なにしろ堅いといっても芸人で、しかも年は26、男っぷりはよし、それが18の娘と毎日さし向かいでは、猫に鰹節。

ある日、お若の部屋でぷっつり三味線の音が途切れたものだから、お内儀さん、胸騒ぎがしてそっとのぞくと、案の定。

これは放っておけないと、今のうちに仲を割くことにして、すぐに鳶頭を迎えにやり、30両の手切れ金で伊之助はお払い箱。

それでもまだ心配で、結局、お若は根岸で町道場を開いている、伯父の長尾一角という侍の家に預けられる身となった。

さあ、お若は生木を割かれて、伊之助への思い詰め、とうとう恋煩いになってしまった。

ある日、
「伊之さんにこれきり会えないくらいなら、いっそ死んで……」
と庭に出ようとすると、垣根の向こうに男の影。

ひょっとしたら、と駆け寄ると、まごうことなき恋しい伊之助。

再び、狂恋の火は燃えて、それから毎晩、監視の目を盗んで二人は忍び会う。

そのうち、お若の腹がボテレンになったので、これでは、いやでもバレる。

一角は、ある夜、現場を見つけ、いっそこの場でたたっ斬って、と思ったが、間に鳶頭が入っていることもあり、一応話をと、翌日、初五郎を呼びつける。

話を聞いて初五郎は仰天。

「手切れ金を渡してある以上、2人が忍び会っては妹に義理が立たん、伊之助の素っ首を引っこ抜いて参れ」
とねじこまれ、初五郎はおっとり刀で家に戻る。

「野郎、さあ、首を出せっ。てめえ、昨夜も行ってたってえじゃねえか。え、はらましちまって、いってえどうするんだ」
「なに言ってるんです。昨夜は鳶頭と吉原じゃないですか」

言われてみれば、確かに覚えがある。

道場に戻って、
「昨夜はどこにいたかはわかってる。なにかの間違いでしょう」
と言ったが、一角、
「おまえを酔いつぶさせておけば、密会するのはわけもない」
と受け付けない。

結局、2人で張り込んでラチを開けることになった。

その夜更け、東叡山寛永寺で打ち出す四ツの鐘がゴーンと響くと、お若の部屋で、なにやら怪しい影が浮かぶ。

いつの間にか、お若がきれいに化粧し、うれしそうに男に寄り添っている。

一角、やにわに種子島に弾丸をこめると、伊之助の胸元めがけてズドーン。

男はその場へ音を立てて倒れる。

お若は気絶した。

駆け寄ってみると、なんとそこには、針のようにびっしりと毛の生えた大狸の死骸。

さてはこいつがお若をたぶらかしていた、と知れたが、気になるのはお若の腹。

月満ちて産んだのが狸の双子。

これを殺して根岸の御行の松の根方に葬ったという、因果塚由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

円朝作なのか

別題を「一名因果塚の由来」といいます。

「円朝全集」(春陽堂)に速記が掲載されていることから、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)がつくった長編人情噺の発端とみなされてきました。

でも、結末が作品として荒唐無稽すぎて不出来なことと、円朝作と断定できるほかの速記がないことで、誰かが円朝の名を語った偽作ではないかという疑いも、昔からもたれています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は「円生全集」の解題で、「私ァどうかと思いますね」と述べています。

しかし、そんなこと言ったら、「円朝作」と伝えられるものには、たとえば「鰍沢」のように、じつは河竹黙阿弥がつくったものとか、条野採菊がこっそりつくった噺を「円朝作」として条野自身が経営する「やまと新聞」に連載した作品群とか、いくつもあります。

明治期とはいえ、今の時代と違って、作家としての個人がまだ確立していない頃の話です。

岩波書店版「円朝全集」第11巻には「離魂病」の名で「お若伊之助」が収載されています。

白といえなくても黒ともいえない、なにがしか円朝の脳裏を通過した作品という判断で載っているのでしょう。灰色です。

いまのところは、そんなところで肯ずるしかありますまい。

それはともかく。

この噺には、このあと続編があって、お若と伊之助が神奈川宿に駆け落ちし、生まれた岩松という男児と、お若が狸に犯されて生んだ男女の双子(原作では殺さず、養子に出したことになっている)のからむ因果噺となります。

ただ、この続編は筋立てとしては残るものの、実際は口演記録は明治以来、まったくありません。

前半は名人連が競演

実際に高座で演じられる前半は、サスペンスに富んで演者の力量しだいで、けっこうおもしろく聴かせることができる噺です。

円朝の口演記録こそないものの、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)、五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)と、明治から昭和、先の大戦後の大看板が手掛けています。

なかでも、五代目円生はこの噺を十八番にし、戦後は六代目円生が継承して磨きをかけ、第一人者でした。

いろいろなやり方

前半の噺のディテール、人名、筋の設定は演者によってかなり異なります。

例えば、古く三代目柳枝のものは、男嫌いのお若が縁談を苦にしてうつ病になり、それを紛らすために伊之助が雇われることになっています。

お若が預けられた先は実の伯父であるところも、現在演じられる円生のやり方とは異なっています。

円朝の速記では、物語は2人が引き離されたくだりから始まります。

六代目円生は、お若の腰がほっそりしているという描写に「幽霊尻の幻尻、ああいうお尻から出るおならはどんな匂いがするか、かいでみようと一週間後をつけた男がいたな」などのくすぐりを用いて、因果噺の古色蒼然とした印象を弱めるよう工夫していました。

一中節

初世都太夫一中みやこだゆういっちゅう(恵俊、1650-1724、千賀千朴→)が、京都で始めた浄瑠璃(三味線の伴奏での語り物)です。

都一中は、京都の妙福寺(浄土真宗本願寺派)の三代目住職の次男で住職を務めた僧侶でした。

音曲が好きだったので還俗して、幇間などを経て浄瑠璃太夫となり、一中節の創始者に。

一中節は元禄元年(1685)の前後から人気を得てきたようです。

都一中は、近松門左衛門、竹本義太夫、尾形光琳といった元禄文化を牽引した人々の一人ととらえてよいでしょう。

はじめは、上方歌舞伎に伴奏音楽として出て、次第に知られるようになっていきました。

その頃、上方で人気だった義太夫節とは対照的な音調でした。

義太夫節は、大仰で、派手で、緩急交わって、聴いていてドキリとするような音調。三味線は太棹ふとざおを使います。

対する一中節は、温雅で、柔和で、品がよくてさりげなく、洗練された音調。三味線は中棹ちゅうざおを使います。

三味線は、棹の幅からおおざっぱに、太棹、中棹、細棹と分けています。

太棹は義太夫三味線のほかには、浪曲三味線、津軽三味線に使われます。棹ばかりか、胴も糸も撥も大振りです。中棹は中間で、清元三味線、常磐津三味線、地歌三味線(爪ではじく)などに使われます。細竿は長唄三味線です。歌舞伎音楽はこちらです。ほかに、柳川三味線(京三味線)があって、細棹よりもさらに細い形状で、三味線の古型を示すものです。

18世紀早々、一中が江戸に下ると一中節は、そのやさしい上方風からたちまち大評判となりました。商家などの富裕層や上流階級に限られたことに過ぎませんが。

門弟の中には江戸に残って江戸歌舞伎で伴奏したことから、やがては江戸でも広く知られる浄瑠璃となっていきました。

その後はすたれ、ふたたび幕末期に復活しました。

河東節かとうぶし(十寸見河東ますみかとう)、宮薗節みやぞのぶし(宮古路薗八みやこじそのはち)、荻江節おぎえぶし(荻江露友おぎえろゆう)、一中節(都一中)の4者を「古曲こきょく」とまとめて呼びます。極端に衰微した大正期に名づけられました。室内音楽です。

現在の一中節は、都派、菅野派すがのは、宇治派の3派に分かれているそうです。

深窓の令嬢であるお若が一中節にあこがれて習うのですから、この噺は幕末頃の設定と考えてよいでしょう。

十二世 都一中による一中節「辰巳の四季」。辰巳は宇治で、極楽浄土の見立て。一中節の本懐です

根岸御行の松

ねぎしおぎょうのまつ。「御行」というのは、高貴な人の行いのあとかたを後世の人が記憶にとどめるために付ける尊称です。「ありがたい」ニュアンスが漂います。

もとは、根岸の時雨しぐれおかにあった名松で、そのため別称を「しぐれの松」とも呼ばれまています。

御行おぎょう」の名の由来は、寛永寺(天台宗)の門主もんしゅ輪王寺宮りんのうじのみやがこの松の下で勤行ごんぎょう(修行)したことによるものです。これが「御行」のいわれです。

寛永寺のトップである門主は代々、法親王ほうしんのう(出家した天皇の子)が就いたため、勤行とはいってもただの「行」ではなく「御行」である、ということなのですね。

天皇や将軍など、とりわけ高貴で神秘的な人には「御」をつけて区別するのは、日本文化の特徴のひとつですね。

根岸御行の松 広重『絵本江戸土産』

江戸期、御行の松の根本近くに、岡田左衛門という人が、先祖から伝わる襟掛けと文覚上人の作と伝わる不動像を石櫃に納めて埋め、その上に石造不動像を安置したのが、そもそもの始まりでした。

子孫の岡田安兵衛は、宝暦年間(1751-64)に、さらに遺書などを納めて、その上に大きな石造不動尊を建立したそうです。

この地中には昔から、なにか霊的な力が宿るいわれがあって、特別な場所だったということですね。

その後、理由はわかりませんが、破却されてしまいました。

文化3年(1806)、貞照尼が願主となって、新たに不動堂を建立したそうです。

ここの松は「根岸の大松」と呼ばれるほどで、全盛期には周囲が4m、高さが13m余というお化け松でした。

時雨岡不動堂 『江戸名所図会』

大正15年(1926)に東京市の天然記念物に指定されましたが、2年後の昭和3年(1928)に枯死。惜しい。

昭和31年(1956)に新たに植樹されて二代目となりましたが、すぐに枯れました。

昭和51年(1976)8月に植えられた三代目は盆栽のような形状だったので、これでは具合が芳しくなく、地元の講中の人々が初代のような大樹をと、隣に四代目を植えました。

不動堂に祀られた不動明王像は初代の松の根を掘り起こして彫られたものだそうです。霊的ですね。樋口一葉の「琴の音」(1893年12月、『文學界』)にも登場します。どこかはかなげで霊的です。

江戸期にはここに福生院ふくしょういんがあったのですが、いまはなく、現在は、松とお堂がセットで時雨岡不動堂(台東区根岸4-9-5)と呼ばれています。

明治維新後は円明山西蔵院宝福寺(真言宗智山派、台東区根岸3-12-38)の境外仏堂となって、宝福寺が管理しています。

寛永寺の手を離れているのですね。

松の隣には、正岡子規(正岡常規、1867-1902)の「薄緑 お行の松は 霞みけり」の句碑があります。

「根岸の里のわび住まい」と一句ひねりたくなる土地だったことが、よくわかりますね。

根岸の里 広重『絵本江戸土産』

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

ふみちがい【文違い】落語演目

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

新宿の岡場所が舞台。
淋菌のついた指で目をこすると。
当時は「風眼」と呼ばれていました。

別題:自称間夫

あらすじ

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて
「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

しりたい

六代目円生の回顧

かつての新宿を語った、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)の回顧談が残っています。

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(お女郎さんのいる店)がずいぶんありましたもので」

円生は豊竹節の母親に連れられて、大阪から東京へ。

東京の最初の夜は新宿角筈の芸人宿でした。

その後、さまざまな変転の後、昭和32年(1957)3月、新宿区柏木町(北新宿)に転居。

それ以降、昭和54年(1979)9月に亡くなるまで「柏木の師匠」と呼ばれていました。

東京人生の初めと終わりが新宿で、六代目円生は新宿に縁のある人でした。

「なかでも覚えておりますのは、新金しんかねといううち、それから大万おおよろず、そういうとこは新宿でも大見世おおみせとしてあります」

詳しいものです。

明治末年のころ

円生回顧の「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井のあたりにあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど。

客にどうかは知らず、お女郎さんには過酷な見世だったようです。

芸談・円生

さらに。

六代目三遊亭円生の芸談です。

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、「女殺し」。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋きょうじや、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。

蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。

どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿ししゅく(非公認の遊郭)の一。飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。

正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。

甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。

明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。



 

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ざこはち【ざこ八】落語演目

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【どんな?】

婚礼の日、鶴吉はお絹をおいて消えた。
再会は十年後、ともに二人はさま変わり。
おお、聴かせる噺。
と思いきや、オチはしっかりあって。
落語でした。

別題:先の仏(前半)、二度のごちそう(後半)

あらすじ

眼鏡屋の二男坊の鶴吉。

年は二十二になるが、近所でも評判の男前で、そのうえ働き者で人柄がいいときている。

そこで、これも町内の小町娘で、金持ちの雑穀商ざこ八の一人娘のお絹との縁談がまとまり、鶴吉は店の婿養子に迎えられることになった。

ところが、その婚礼の当日、当の鶴吉がふっと姿を消してしまう。

それというのも、貧乏な眼鏡屋のせがれが玉の輿にのるのをやっかんだ連中が、小糠三合あれば養子に行かないというのに、おめえはざこ八の身上に惚れたか、などといやがらせを言うので、急に嫌気がさしたから。

それから十年。

上方に行って一心に働き、二百両という金をためた鶴吉が、久しぶりに江戸に戻ってきた。

十年前の仲人だった桝屋新兵衛方を訪ね、ようすを聞いてみると、とうの昔に店はつぶれ、ざこ八もこの世の人ではないという。

あれから改めてお絹に、葛西の豪農の二男坊を養子にとったが、そいつが身持ちが悪く、道楽三昧の末財産をすべて使い果たし、おまけにお絹に梅毒まで移して死んだ。

ざこ八夫婦も嘆きのあまり相次いで亡くなり、お絹は今では髪も抜け落ち、二目と見られない姿になって、物乞い以下の暮らしをしているという。

「お絹を今の境遇に追いやったのは、ほかならぬおまえさんだ」
と新兵衛に言われて、返す言葉もない。

せめてもの罪滅ぼしと、鶴吉は改めて、今では誰も傍に寄りたがらないお絹の婿となり、ざこ八の店を再興しようと一心に働く。

上方でためた二百両の金を米相場に投資すると、幸運の波に乗ったか、金は二倍、四倍と増え、たちまち昔以上の大金持ちになった。

お絹も鶴吉の懸命の介抱の甲斐あってか、元通りの体に。

ある日、出入りの魚屋の勝つぁんが、生きのいい大鯛を持ってきた。

ところがお絹は、今日は大事な先の仏(前の亭主)の命日で、精進日だからいらない、と断る。

さあ、これが鶴吉の気にさわる

いかに前夫とはいえ、お絹を不幸のどん底へ落とし、店をつぶした張本人。

それを言っても、お絹はいっこうに聞く耳を持たない。

夫婦げんかとなり、勝つぁんが見かねて止めに入る。

「おかみさんが先の仏、先の仏ってえから今の仏さまが怒っちまった」

夫婦の冷戦は続く。

鶴吉が板前を大勢呼んで生臭物のごちそうを店の者にふるまえば、お絹はお絹で意地のように精進料理をあつらえ始める。

一同大喜びで、両方をたっぷり腹に詰め込んだので、腹一杯でもう食えない。

満腹で下も向けなくなり、やっとの思い出店先に出ると、物乞いがうずくまっている。

「なに、腹が減ってる ああうらやましい」

出典:三代目桂三木助

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しりたい

三木助の十八番   【RIZAP COOK】

もともとは上方落語の切りネタ(大ネタ)です。

先の大戦後、大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)直伝で、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が、東京風のやり方で売り物にしました。

特に、三木助がこの噺を好んで十八番として、しばしば演じています。本家の上方では、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)が得意にし、東京でも、京都から来た二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)が上方風で演じました。

あまり出来がいいともいえない噺なのか、現在、東京ではあまり演じ手がいません。三木助の弟子で、三木助没後に五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下となった九代目入船亭扇橋(橋本光永、光石、1931-2015)が継承していたくらいでしょう。

上方では「ざこ八」の名は、「ざこく(=雑穀)屋八兵衛」が、縮まったもので「雑穀八」と説明されます。

前後半で異なる原話   【RIZAP COOK】

前半の、「今の仏様が怒った」までの原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「二度添」、同3年(1774)刊『軽口五色帋かるくちごしきがみ』中の「入婿の立腹」です。

「二度添い」では、亭主が、何かにつけ後妻に難癖をつけ、「もとの仏(=先妻)がいたら」と、ぐちるのでけんかに。

隣の太郎平が仲裁に入り、「今の仏も悪い人でもない」と、オチになります。

その翌年に京都で出た「入婿の立腹」では、あらすじ、オチともほぼ現行通りになっていて、明らかに、その間に改作されたものでしょう。

東京の正蔵は、「先の仏」と題し、前半で切っていました。

もうひとつ。

上下二つに分ける場合、上方では後半部は「二度のごちそう」と題されることもあります。

後半の原型は、遠く寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝あんらくあんさくでん著『醒睡笑せいすいしょう』巻三「自堕落 九」と思われます。

オチの物乞いの部分は、明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「大食」が原話です。

「醒睡笑」の方は、食いすぎて、数珠じゅずを落としてもうつむいて拾うことさえできない男が、バチあたりにも足指で数珠をはさみながら「じゅず(=重々)ごめんあれ」とシャレる噺です。

大阪の六代目笑福亭松鶴は、オチを、「ごちそうしたのが腹帯の祝い。そう聞いただけでも腹が大きなる」としていました。

妊婦の腹と、ごちそうで腹が膨れるのを掛けたものです。

こぬか三合   【RIZAP COOK】

正確には「こぬか三合持つならば入婿いりむこになるな」で、つい最近まで使われていた諺です。

「こぬか三合あったら婿に行くな」とも。

「こぬか三合」はわずかな財産の例えで、「ほんの少額でも金があるなら割に合わない婿になど入るな」という戒めです。

長子相続が徹底していた江戸時代、特に武士の次男、三男は、家の厄介者やっかいもので、婿養子にでも行かなければ、まともな結婚など夢の夢。

婿入りしたならしたで、婿は養父母にはいびられ、家付き娘の女房はわがまま放題。

男権社会なのに、四六時中気苦労が絶えないという、経験者の実感がこもっています。

「養子に行くか、茨の藪を裸で行くか」など、似たニュアンスの格言はたくさんあります。

精進料理   【RIZAP COOK】

盆、法事、彼岸、祥月命日しょうつきめいにちなどに、魚鳥その他の生臭物なまぐさものを断ち、野菜料理を食する習慣が古くからありました。

こうした戒律はキリスト教やイスラム教にもあるので、ここに日本古来の文化などを見いだすことはナンセンスです。

これが終わるのを精進しょうじん明け、精進落ちといい、逆に精進に入る前に、名残なごりにたらふく魚肉を食らうのを精進固めといいました。

もちろん、願掛けなどで、一定期間精進するならわしは明治初期までは普通に行われていました。

ざこ八の由来   【RIZAP COOK】

前述の通り、「ざこ八」の「ざこ」は雑穀商の「ざこ」です。

「穀屋」とも「ざこく」とも。

雑穀商は、米と麦以外の穀物、つまり、ひえあわきび、豆などを売る店です。

「五穀」といえば、米、麦、粟、豆、黍(または稗)をさします。

人が基本食とする5種の穀物の意味です。

ほかには、蕎麦そば胡麻ごま、米ぬか、ふすま、しん粉、かたくり粉、くず粉、干し大根、鰹節、卵など、乾物商かんぶつしょうと同じような商品も扱いました。

米や麦と同じように、必要不可欠の食品を売るため、どんなに少量でも対応する腰の軽さが喜ばれたといわれています。

悲劇的な「後日談」   【RIZAP COOK】

三代目三木助は、安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説、評論)に見込まれた数少ない芸人の一人です。

この噺もアンツルの助言で磨かれたわけです。アンツル自身が夢想してつくりあげた「後日談」が残っています。あくまでもアンツルの、ですが。ご参考まで。

「女ごころといえばそれに違いもあるまいが、これが原因で夫婦生活に破錠をきたし、お絹が家出をして二年目に、葛西の荒れ果てた堂の中で死んでいた。行年三十。その時お絹の着ていた薄い綿入れの着物に雨が当たって、やわやわとした草が生えた。大正年代まで夜店でよくみかけた絹糸草だが、夫婦仲の悪くなるという縁起をかついで、この頃ではもう下町でもあまり見掛けないようである」    

安藤鶴夫『落語国・紳士録』(青蛙房、1959年)



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うじこじゅう【氏子中】落語演目

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【どんな?】

「氏子中」は同じ氏神を祭る人々、氏子の仲間。
同じ氏神って?
短いバレ噺。むふふの物語。
類話に「町内の若い衆」も。

【あらすじ】

与太郎が越後えちご(新潟)に商用に出かけ、帰ってきてみると、おかみさんのお美津の腹がポンポコリンのポテレン。

いかに頭に春霞はるがすみたなびいている与太郎もこれには怒って
「やい、いくらオレのが長いからといって、越後から江戸まで届きゃあしねえ。男の名を言え」
と問い詰めても、お美津はシャアシャアと、
「これは、あたしを思うおまえさんの一念いちねんが通じて身ごもったんだ」
とか、果ては
神田明神かんだみょうじんへ日参して『どうぞ子が授かりますように』とお願いして授かったんだから、いうなれば氏神うじがみさまの子だ」
とか、言い抜けをして、なかなか口を割らない。

そこで与太郎、親分に相談すると
「てめえの留守中に町内の若い奴らが入れ代わり立ち代わりお美津さんのところに出入りするようすなんで、注意はしていたが、四六時中番はできねえ。実は代わりの嫁さんはオレが用意してといた。二十三、四で年増としまだが、実にいい女だ。子供が生まれた時、荒神こうじんさまのお神酒みき胞衣えなを洗うと、必ずその胞衣に相手の情夫いろの紋が浮き出る。祝いの席で客の羽織はおりの紋と照らし合わせりゃ、たちまち親父が知れるから、その場でお美津と赤ん坊をそいつに熨斗のしを付けてくれてやって、おまえは新しいかみさんとしっぽり。この野郎、運が向いてきやがったぁ」

さて、月満ちて出産。

お七夜(名づけ祝い)になって、いよいよ親分の言葉通り、情夫の容疑者一同の前で胞衣を洗うことになった。

お美津は平気のへいざ。

シャクにさわった与太郎が胞衣を見ると、浮き出た文字が「神田明神」。

「そーれ、ごらんな」
「待て、まだ後に字がある」
というので、もう一度見ると
「氏子中」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

原話のコピーがざっくざく

現存最古の原話は正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集『新話笑眉』中の「水中のためし」。

これは、不義の妊娠・出産をしたのが下女、胞衣を洗うのが盥の水というディテールの違いだけで、ほぼ現行の型ができています。

結果は字ではなく、紋がウジャウジャ現れ、「是はしたり(なんだ、こりゃァ!)、紋づくしじゃ」とオチています。

その後、半世紀たった宝暦12年(1762)刊の『軽口東方朔』巻二「一人娘懐妊」では、浮かぶのが「若者中」という文字になって、より現行に近くなりました。

「若者中」というのは神社の氏子の若者組、つまり青年部のこと。

以後、安永3年(1774)刊『豆談語』中の「氏子」、文政4年(1821)起筆の松浦静山(松浦清、1760-1841、九代目平戸藩藩主)の随筆集『甲子夜話』、天保年間刊『大寄噺尻馬二編』中の「どうらく娘」と続々コピーが現れ、バリエーションとしては文政2年(1819)刊『落噺恵方棚』中の「生れ子」もあります。

連名で寄付を募る奉加帳にひっかけ、産まれた赤子が「ホーガ、ホーガ」と産声をあげるという「考えオチ」。

いずれにしても、これだけコピーがやたら流布するということは、古今東西、みなさんよろしくやってるという証。

類話ははるか昔から、ユーラシアを中心に散らばっていることでしょう。

もめる筈 胞衣は狩場の 絵図のやう    (俳風柳多留四編、明和6年=1769刊)

荒神さまのお神酒

荒神さまは竈の守り神で、転じて家の守護神。

そのお神酒を掛ければ、というのは、家の平安を乱す女房の不倫を裁断するという意味ともとれます。

別に、女房が荒神さまを粗末にすれば下の病にかかるという俗説も。

胞衣の定紋の俗信は古くからあります。

と、これまでは記してきましたが、これではなんのことかわかりません。

改めて、最近の見解を記しておきます。

荒神は神仏習合しんぶつしゅうごうの日本の神です。経典には出てきません。

仏教やヒンズー教に由来を求める人もいますが、おおかたあやしい。

この神はつねになにかを同定しています。

その結果、なんでもありの神に。

各地方でもまちまちです。おおざっぱには、屋内の守り神、屋外の守り神の二つの存在が確認できます。

中国四国地方では屋外の神です。

屋敷の隅にまつって土地財産の守護を祈る、というような。

この地域の山村部では、スサノオを荒神と同定しています。

川の氾濫をヤマタノヲロチの暴威とすればスサノオが成敗してくれるだろう、という具合です。

スサノオは確かに荒ぶるイメージです。

荒神には、さまざまな暴威から守ってくれるという要素がつねに漂っています。

都市部の荒神となるとどうか。屋内の守り神となりました。

屋内の主な暴威は火事です。

荒神は火除けの神となりました。

時代が下ると、さまざまな災厄すべて引き受けることに。

なんでもありの総合保険的な神さまとなったのです。

神田明神

千代田区外神田2丁目。

江戸の総鎮守です。祭神はオオナムヂ(=大国主命)と平将門。

オオナムヂは五穀豊穣をつかさどる神なので、当然、元を正せば荒神さまとご親類。

明神は慶長8年(1603)、神田橋御門ごもん内の芝崎村から駿河台に移転、さらに元和2年(1616)、家康が没したその年に、現在の地に移されました。

噺が噺だけに

明治26年(1893)の初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)の速記の後、さすがに速記はあっても演者の名がほとんど現れません。

類話の「町内の若い衆」の方が現在もよく演じられるのに対し、胞衣の俗信がわかりにくくなったためか、ほとんど口演されていません。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)は、「氏子中」の題で「町内の若い衆」を演じていました。

胞衣と臍帯

胞衣えなとは、胎児を包んでいる膜のこと。

古くから、胞衣には呪力があると信じられていました。

胎盤に願い文を添えて瓶に入れ、戸口の下に埋める慣習が古くからありました。

そんなことが『医心方いしんほう』(丹波康頼、924年、日本最古の医書)に記載されています。

奈良時代から平安前期までの宮中では、初湯の式のあとに胞衣を土中に埋める儀式「胞衣おさめ」がありました。

江戸では、胞衣を埋めた土の上を最初に歩いた人は、一生涯、胞衣の主に嫌われるという俗信がありました。

そのため、反対に、子供に嫌われて当然という人に踏まれてもらおう、という考えも生まれました。

胞衣を戸口に埋めるのは、人の出入りが多いからです。

胞衣をよく踏んでもらうほど子供は丈夫に育つとか、賢い人になるとか言われ、むしろ真意はそこにあったようです。

この噺にあるように、胞衣を洗ってみると、親の紋章があらわれるという俗信も。

子供が寝ている間、無心に笑うさまを「胞衣にすかされる」ともいいました。

臍脱さいだつした後は、臍帯さいたいも大切に保管するものでした。

「へその緒」のことです。

胎児のへそから母親の胎盤に通じている細長い管です。

これを介して、胎児は母親から栄養や生きる要素を受け取るわけです。まさに生命線です。

出産では、産婆さんばさんがへその緒を切るのですが、臍に残った残りの部分が数日後に剥がれ落ちます。一般には、これを「へその緒」と呼んでいます。

母親との絆、親の愛を感じ取れる、数少ない現物です。あるいは、この世に生を受けた証でもあります。

へその緒は油紙あぶらがみ真綿まわたにに包み、大切に保管するのは現代でも生き残っている風習です。

その子が大病したときに臍帯を煎じて飲ませると、命を長らえるといわれてきました。

産屋の出産では胞衣は神さまが処理してくれる、とも考えられていました。

その場合、胞衣は産屋内の石の下に埋められました。

ここらへんのしきたりや考えは、地域や時代によってもさまざまです。

明治中期に法律が公布されるまで(現在は昭和23年施行の各自治体の胞衣条例などが主)、胞衣はかめ、壷、桶などに入れ、戸口、土間、山中などの土の中に埋められていたものです。

古代の人々が胎盤に摩訶不思議な呪力を感じたのは、自然の成り行きでしょう。

出産した母親も家族も、実際に胎盤に触れて大切に扱っていました。

【語の読みと注】
荒神さま こうじんさま
お神酒 おみき
胞衣 えな:胎児を包む膜
情夫 いろ
熨斗 のし
竈 へっつい:かまど



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おなおし【お直し】落語演目

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【どんな?】

吉原育ちで外知らずの男女。
切羽詰まって後ろめたい商売を。
辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「蹴転けころ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「蹴転はおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい】

蹴転  【RIZAP COOK】

けころ。吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。

「蹴転ばし」の略。「蹴倒し」ともいいました。すぐに寝る意味で、そういう意がこめられたうえでの最下級なのですね。

泊まりはなくて百文一切り、所要時間は今の時計で10分程度だったといいます。

10分では短すぎるので、たいていの客は改めて延長を希望します。これが「お直し」です。

裏路地の棟割り長屋のような粗末な木造の、4尺5間の間口、2尺の戸、2尺5寸の羽目板、3尺の土間、これら全部含めても2畳ほどの狭い部屋で商売をするのです。

「切り見世」「局見世」と呼ばれていました。

吉原にかぎらず、岡場所にはあったものですが、吉原で蹴転は、お歯黒どぶ(囲いの下水)の岸にあったので、「河岸見世」と呼ばれていました。

吉原の蹴転は寛政年間(1789-1801)にはもう絶えたようです。寛政改革では吉原が大打撃をこうむっていますから、そのさなかにつぶされていったのですね。

切り見世は突き放すようにいとまごい

お直しを食らい素百のさて困り

銭がなけよしなと路地へ突き出され

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町二丁目南側、「お歯黒どぶ」といわれた真っ黒な溝に沿った一角を本拠にしていました。

「羅生門」とは、蹴転が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人、渡辺綱が鬼女の隻腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。

「一度つかんだら放さない」というニュアンスが込められているのがミソです。

こわごわとしたかんじがしますね。

表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、客をすってんてんにひんむいてしまうという、ライトな魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が復活させ、昭和31年度(1956)の芸術選奨を受賞しました。

志ん生亡き後は、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)がさらに磨きのかかった噺にこさえました。

【語の読みと注】
蹴転 けころ:最下級の商売女性
一切り ひときり:一段落
切り見世 きりみせ:蹴転がいる場所
局見世 つぼねみせ:蹴転がいる場所
河岸見世 かしみせ:吉原の蹴転がいる場所
素百 すびゃく:百文ぽっきり



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こまちょう【駒長】落語演目

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【どんな?】

つつもたせを仕組んだ借金夫婦。
夫が出ているうち女は男に情が移り。
志ん生がやってた珍しい噺。
「お直し」と真逆に向かう物語です。

別題:美人局

【あらすじ】

借金で首が回らなくなった夫婦。

なかでも難物は、五十両という大金を借りている深川の丈八という男だ。

この男、実は昔、この家の女房、お駒が深川から女郎に出ていた時分、惚れて通いつめたが振られて、はては、今の亭主の長八にお駒をさらわれた、という因縁がある。

「ははあ、野郎、いまだに女房に未練があるので、掛け取りに名を借りて、始終通ってきやがるんだ」
と長八は頭にきて、
「それなら見てやがれ」
と渋るお駒を無理やりに説き伏せ、一芝居たくらむ。

丈八あての恋文をお駒に書かせ、それが発覚したことにして、丈八が来る時を見計らって、なれ合いの夫婦げんかをする。

あわてる丈八に、どさくさに二、三発食らわして、
「こんな女は、欲しいなら、てめえにくれてやる」
と、わざと家を飛び出す。

その間に、今度は本当にお駒を丈八に口説かせ、でれでれになった頃合いを見計らって踏み込む。

「不義の現場押さえた」
とばかり、出刃包丁で脅しつけ、逆に五十両をふんだくった上に裸にむいてたたき出すという、なかなか手の込んだもの。

序幕はまったく予定通り。

「こんな女ァ、てめえにくれてやるが、仲へ入った親分がいるんだから、このままじゃあ義理が立たねえ。これから相談してくるから、帰るまでそこォ動くな」

尻をまくって威勢よく飛び出した長八。

筋書きがうまくいって安心したのか、まぬけな奴もあるもので、親分宅で酒を飲みながら時間をつぶすうち、ぐっすりと夜明けまで寝込んでしまった。

第二幕。

こちらは長八の家。

丈八は上方者で名うての女たらし。差し向かいでじわじわ迫る。

「わいと逃げてくれれば、この着物も、これもあんたのもん」
とやられると、お駒も昔取った杵柄。

「つくづく貧乏暮らしが嫌になり、あんな亭主といては一生うだつが上がらない。この上は」
と、急きょ狂言を書き直し、長八が帰らないのを幸い、丈八といつしか一つ床に。

挙げ句の果てに、夜が明けぬうち、家財道具一切合切かき集め、手に手を取って、はいさようなら。

瓢箪から駒だ。

翌朝。

長八があわてふためいて家に駆け込んでみると、時すでに遅く、モヌケのカラ。

火鉢の上に、書き置き一通。

「ついには、うそがまことと、相なりそろう。おまえと一緒に暮らすなら、明くればみその百文買い、暮るれば油の五勺買い。朝から晩まで釜の前。そのくせ、ヤキモチ焼きのキザ野郎。意気地なりの助平野郎」

さらには
「丈八さんと手に手を取り、二世も三世も変わらぬ夫婦の楽しみを……」

「あのあまァ、どうするか見てやがれッ」
と出刃を持って飛びだすと、カラスが上で
「アホウ、アホウ」

底本:五代目古今亭志ん生、四代目橘家円喬

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

円朝作の不倫噺

原話は、明和5年(1768)刊の笑話本『軽口はるの山』巻四の「筒もたせ」とみられます。

この小咄はかなり短く、金に困った男が友達に、うまくすれば銀三百匁にはなるから「美人局」をやってみろとけしかけられます。

そこで、かみさんに因果を含めて近所の若い者を誘惑させ、いよいよ「間男見つけた」と戸棚から飛び出したものの、あわてて「筒もたせ、見つけた」と言ってしまうというおマヌケなお笑いです。

これをもとに、明治初年に三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が一席の落とし噺に仕立てたとみられますが、円朝自身の速記は残っていません。

代わりに、春陽堂版「円朝全集」(1929年刊)には、円朝の口演をもっとも忠実にコピーしたとされる門下の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)の速記が掲載されました。

この噺の登場人物名は、すべて講談の大岡政談や浄瑠璃中の、白子屋お駒の情話から取ったものです。

お駒の実録などについては、「城木屋」をどうぞ。

三遊一朝

「教訓」としての円朝演出

一朝の速記を見ると、マクラで、うぬぼれが強く人間をばかにするカラスの性癖を引き合いに、「まして人間はうぬぼれが強うございまして、おれの女房はおれよりほかに男は知らない、どんなことをしてもおれのことは忘れまい、なぞと思っていると大違いでございます」と語っています。

男の思い上がりを、円朝がこの噺を教訓として戒めているのがうかがわれます。

なるほど、これがあって初めて、オチのカラスの「アホウ、アホウ」が皮肉として効いてくるわけです。

古い速記では、「美人局」と題した四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)のもの(明治28年=1895年)も残っています。

円喬は上方ことばを自在に操れた人なので、活字だけを追っても、大阪弁の丈八の口説きに、いかにもねっとりとした色気が感じられます。

つつもたせ

「美人局」と書きます。博打から出た言葉といわれます。

筒持たせ、つまり博打の胴を取るように情夫がしっかり状況をコントロールしている意味でしょう。

それとも、もう少しエロチックな意味があるのかもしれません。

「美人局」の表記は、中国で元代のころに遡るといいます。

井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)なども使っているので、上方ではかなり古くから使われた言葉なのでしょう。

明くれば味噌の百文買い

芝居がかった、女房の置手紙の文句ですが、食うや食わずの貧乏暮らしを象徴する言い回しです。

河竹黙阿弥(吉村芳三郎、1816-93)の芝居「御所五郎蔵」でも、敵役星影土右衛門の子分が主人公を辱めて「こなたと一生連れ添えば(中略)米は百買い酒は一合」と、似たような表現で罵倒します。

「味噌こし下げて歩く」も同意です。

志ん生の独壇場

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が一手専売で、ほかに演じ手はありませんでした。

おそらく、敬愛する四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記などから独力で覚えたものでしょう。志ん生の次男、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が継承していました。

志ん生は、この噺の欠点である構成の不備や不自然さを卓抜なくすぐりで補い、不倫噺を、荒唐無稽の爆笑編に転化することで、後味の悪さを消す工夫をしています。

当サイトのあらすじは、主に志ん生の速記・音源を参考にしましたが、オチ近くの女房の置き手紙などは、円喬のをそっくり取り入れています。

【語の読みと注】
美人局 つつもたせ

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こいな【小いな】落語演目

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【どんな?】

柳橋の芸者さんが出てきて、ちょっと艶っぽい噺です。

【あらすじ】

幇間の一八が、この間の約束どおり芝居に連れていってくれと、だんなにせがみに来る。

ところがだんな、今日は都合でオレは行けないからと、代わりに、おかみさんに、女中と飯炊きの作蔵をつけて出そうとする。

作蔵、実は、これがだんなと一八の示し合わせた狂言らしいと見抜いているので、仮病を使って、家に残ってようすをうかがう。

二人きりになると、案の定、だんなは作蔵に、
「柳橋の小いなという芸者のところまで使いに行け」
と言いつけた。

かって知ったるだんなの女。

作蔵、にんまりして
「そう来べえと思ってた。行かれねえ」

さらに作蔵は
「おまえさま、あんだんべえ、今日はおかみさま、芝居エにやったなァ、柳橋の小いなァこけえ呼んで、大騒ぎする魂胆だんべえ」
と、すべて見通されては、だんなも二の句が継げない。

一八だけでなく、作蔵も代わりに芝居にやった藤助もグルなのだが、実はだんなは男の意気地で、小いなを三日でも家に入れてやらなければならない義理があるので、今日一日、おかみさんを芝居にやり、口実をこしらえて実家に帰すつもり。

「決して、かみさんを追い出そうというのではないから」
と作蔵を言いくるめ、やっと柳橋に行かせた。

まもなく、小いな始め、柳橋の芸者や幇間連中がワッと押しかけ、たちまちのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ、藤助が血相変えて飛び込んできた。

「おかみさんが芝居で急に加減が悪くなり、これから帰ってくる」とのご注進だったので、さあ大変。

一八は、風を食らって逃げてしまった、という。

膳や盃洗を片づける暇もなく、小いなをどこかに隠そうとウロウロしている間に、玄関で、おかみさんの声。

しかたなく、部屋の中に入れないように、だんな以下、総出で襖をウンショコラショと、押さえる。

玄関に履物が散らばっているので、もうバレていておかみさんは、カンカン。

「きよや、早く襖をお開け」
「中で押さえてます」
「もっと強くおたたき」

女中が思い切りたたいたので、襖の引き手が取れて穴が開いた。

その穴からのぞいて、
「あらまあ、ちょいと。お座敷が大変だこと。おかみさん、ご覧あそばせ」
と言うと、襖の向こうから幇間が、縁日ののぞきカラクリの節で
「やれ、初段は本町二丁目で、伊勢屋の半兵衛さんが、ソラ、おかみさんを芝居にやりまして、後へ小いなさんを呼び入れて、のめや歌えの大陽気、ハッ、お目に止まりますれば、先様(先妻)はお帰り」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

明治の新作

三代目柳家小さんの、明治45年(1912)の速記が残るだけで、現在はすたれた噺です。

新富座

噺の中で、かみさんや女中を芝居見物にやる場面がありますが、その劇場は、新富座となっています。

新富座は、日本最初の西洋式座席、ガス灯による照明を備えた近代的な劇場として、明治8年(1875)に開場。

この噺は、それ以後の作になります。オチは、のぞきからくりの口上、特に先客を追い出す時の文句を取り込んだものですが、現在では事前の説明がいるでしょう。

小さんは、この噺のマクラとして「権助提灯」を短縮して入れています。

のぞきカラクリ

「のぞき眼鏡」ともいいます。代金は二銭で、絵看板のある小さな屋台で営業しました。

眼鏡(直径約10cmのレンズ)をのぞくと、西洋画、風景写真などの様々な画面が次々と変わって現れます。

両側の男女が細い棒をたたきながら、独特の節回しで「解説」を付け、それに合わせて紐を引くと、画面が変わる仕掛けです。

明治5年(1872)夏ごろから、浅草奥山の花屋敷の脇で始まり、神保町、九段坂上など十数か所で興行され、たちまちブームに。

原型は江戸中期にすでにありましたが、維新後の写真の普及とともに、開花新時代の夏の風物詩となりました。

早くも明治10年前後には飽きられ、下火になったようです。

歌舞伎では、河竹黙阿弥が、幕末に書いた極悪医者の狂言「村井長庵巧破傘」の外題を明治になり、「勧善懲悪覗機関」と変えて、時代を当て込みました。

男の意気地

このだんな、まだ小いなを正式に囲ってはいません。あるいは、何か金銭的な理由その他で妾宅を持たせてやれない代わりに、二、三日なりと本宅に入れて、実を見せたというところ。

いかにも明治の男らしい、筋の通し方です。

【語の読みと注】
幇間 たいこもち
内儀さん おかみさん
村井長庵巧破傘 むらいちょうあんたくみのやれがさ
勧善懲悪覗機関 かんぜんちょうあくのぞきからくり

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ひっこしのゆめ【引っ越しの夢】落語演目

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【どんな?】

店の女が落ち着かない商家。
そこで性悪女を雇ってみた。
それがもう、すごい効果を発揮。

別題:初夢 口入れ屋(上方)

【あらすじ】

たいへんに堅物の商家の主人。

奉公人に女のことで間違いがあってはならぬと、日が落ちると猫の子一匹外には出さない、湯にも行かせない、という徹底ぶり。

おかげで吉原にも行けず、欲求不満の若い手代や小僧が、店の女に夜な夜ないたずらを仕掛けるので、とうとう女の奉公人が居つかなくなってしまった。

困った果てに一計を案じただんな、口入れ屋にとびきり不器量な女だけを斡旋するように頼んだが、これも効き目なし。

しかたなく、今度は悪さをする連中を痛い目にあわそうと、特別性悪な女を、という注文。

そこで雇われてきたのがお梅という、二十五、六のいい女。

これが注文通り、たいていの男を手玉に取るという相当なシロモノ。

そうとは知らない店の連中、一目見たきりぼうっとなり、なんとか一番にお梅をモノにしようと、それぞれ悪だくみをめぐらす。

一番手は番頭の清兵衛。五十を越して独り身だが、まだ色気は十分。

飯を食いに行くふりをしてお梅のそばに寄り、ネチネチとかき口説く。

先刻承知、海千山千のお梅がしなだれかかり、股のところをツネツネするものだから、たちまちデレデレになり、「予約金」を一包み置いて、今夜の密会を約束して帰っていく。

続いては、手代の平助。

遊び慣れたふりをするが、お梅にかかっては赤子も同然。

清兵衛と同様、金を巻き上げられ、約束の時刻はまったく同じ。

以下、来る者来る者みんなオモチャにされ、金を包んで置いていく。

初日の夜も二日目の夜も、男という男は全員、すきあらばと一晩中寝ないものだから、誰一人首尾を果たせない。

昼間はそろいもそろって寝不足で、あちこちでいびきが聞こえる始末。

三日目の深夜、むっくりと起き上がったのは清兵衛で、抜き足差し足で台所まで来る。

お梅もわるもので、台所から自分の部屋へのはしごを外しておいたのも、知らぬが仏。

清兵衛はキョロキョロ探したあげく、釣ってある鼠入らずの棚に手を掛けて登ろうとしたから、たちまちガラガラッと棚が崩れ、鼠入らずを担いだまま、逃げるに逃げられなくなった。

続いてやって来たのが平助で、やっぱり同様に、清兵衛が担いでいるもう一方に手を掛けたから、二人とも泣くに泣かれぬ鉢合わせ。

もがく声を聞きつけた小僧がだんなにご注進したので「それッ、泥棒が入った」と、大騒ぎに。

だんなが駆けつけると、清兵衛と平助が、二人で鼠入らずを担いで目を開いたままグーグー。

「二人ともどうしたっていうんだ」
「へい、引っ越しの夢を見ました」

【しりたい】

「膝栗毛」からも拝借  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著「醒睡笑」巻七「廃忘」その四で、男色がテーマです。

美少年の若衆が、ある寺へ寺小姓奉公に。そこの坊主が少年に夢中になり、夜中、寝入ったところに夜這いをかけようと、そっと起き出すが、同じ獲物を狙っていた何人かが跡を付ける。足音に動転した坊主、壁に大手を広げ、へばりついたので、若衆が目を覚ます。問いただされて、「はい、蜘蛛のまねをして遊んでます」。

その後、寛政元年(1789)刊の笑話本『御祓川』中の「壬生の開帳」で、かなり現行に近づきますが、文化3年(1806)刊『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)五編・上からも趣向をいただいているようです。

これは、夜這いに忍び出た弥次郎兵衛が、落ちてきた棚を担いでしまい、やってきた喜多八にこれをうまく押し付けて逃げてしまう話です。

上方では「口入れ屋」で  【RIZAP COOK】

上方では、古くから「口入れ屋」として口演されてきました。

いつごろ伝えられたか、江戸でも少し違った型で、幕末には高座に掛けられていたようです。

明治以後、東京でも、上方の型をそのまま踏襲する演者と、古い東京(江戸)風の演出をとる者とに分かれました。

前者は、東京では三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が初演。この人は上方から流れてきた芸人らしく「口入れ屋」の演題を用いました。四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)もこちらで演じました。

後者は「初夢」、または「引越しの夢」と題したもので、明治27年(1894)3月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

東西で異なる型  【RIZAP COOK】

東西で、商家の奉公人が新入りの女中のところに夜ばいに行くという筋立ては変わりませんが、大ざっぱな違いは、上方ではこの前に、船場の布屋という古着屋に、口入れ屋(=桂庵)から女中が送り込まれる場面が発端としてつくことです。

女が毒婦という設定はなく、御寮人さんが、若い男の奉公人ばかりの商家に、美人の女中は風紀に悪いと、不細工なのばかり雇うのに、好色・強欲な一番番頭がカリカリ。

丁稚に十銭やっていい女を連れてこさせ、その後口八丁手八丁で口説く場面がつくことも特徴です。

狂言まわしの丁稚のませ振り、三番番頭が「湯屋番」の若だんなよろしく、女中との逢瀬を夢想して一人芝居するなど、いかにも大阪らしい、濃厚であざとい演出です。

上方の演題の「口入れ屋」は、東京の桂庵、今でいう職業紹介所のことです。

詳しくは「化け物つかい」「百川」もお読みください。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

先の大戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、五明楼国輔(池田文次郎、1854-1923)から直伝された東京型でねっとりと演じました。「円生百席」に吹き込んだものは、極めつけの熱演です。

円生没後は、弟子の五代目円楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されました。その後も、よく高座に掛けられています。

鼠入らず  【RIZAP COOK】

もう説明がなければわらない時代になりました。

要するに、ネズミが入らないように細工した食器棚のこと。

吊り調度です。

吊り調度とは、底板を畳や板敷に置かずに天井から壁に寄って吊り下げた家具です。狭い長屋では便利な発想でした。

これは茶室のしつらえから起こった工法ですから、庶民ばかりか富裕な家でも使われていました。

おおざっぱには、室内空間の上の方には食器などを吊り調度で置き、下の方(床上)には瓶や桶を置くという発想が、江戸期では当たり前でした。

上方噺では、一番番頭と二番番頭が、「薪山」と称した、奉公人の箱膳を積んでおく膳棚を担ぐハメになります。かなり大きな戸棚です。

箱膳は、かぶせ蓋の質素な塗りの四角形の箱。中には食器を入れて、食事の時には蓋を裏にして載せ、食事が終わるとめいめいが食器を洗って、蓋をして膳棚に収納する、というものです。

たいした違いではありませんが、東西の風土の違いが微妙に現れていますね。

二代目桂枝雀(前田達、1939-99)のでは、その後三番番頭が、今度は台所の井戸の淵からターザンよろしく、天窓の紐にぶら下がって二階に着地しようとして失敗。

あえなく井戸にボッチャーン……というハチャメチャ騒動になります。

番頭の好色  【RIZAP COOK】

商家への奉公は、男性なら、早ければ数え年七歳ごろから小僧(上方では丁稚)で入り、十五歳前後で元服して手代となり、番頭に進みます。ここまでは住み込みです。

番頭で実績を重ねると主人から近所に家を借りて所帯を持つことも許されます。

これを通い番頭と言いましたが、この頃にはもう白髪交じりの中年になっているのが通り相場です。

歌舞伎ではよく番頭は好色家に描かれたりしていますが、女に縁薄い生活のためです。なかには、かわいい小僧との衆道に陥る者もいたりして、悩み多き職業でした。詳しくは「藪入り」をお読みください。

大坂以上に江戸の男女差は激しかった(軍事都市の江戸は女性が圧倒的に少なかった)ため、商家の住み込みの女日照りは小さな問題ではなかったようです。

【語の読みと注】

桂庵 けいあん:職業紹介所

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りんきのこま【悋気の独楽】落語演目

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【どんな?】

悋気=嫉妬。
浮気性のだんな。
行くか行かぬか。
小僧相手に独楽で占い。

別題:三ツ紋の独楽 辻占独楽 喜撰

【あらすじ】

だんなが田中さんのところへ行くと言って、夜出かけていった。

やきもち焼きのおかみさん、これは女のところだと当たりを付け、小僧の長吉に提灯ちょうちんの火を頼りに後をつけさせるが、これに気づいただんなが、長吉を買収しようとお妾さん宅へ連れていく。

長吉は抜け目がなく、口八丁手八丁くちはっちょうてはっちょう

小僧は口も身上しんじょうも軽いと脅し、酒をたらふく呑んだ挙げ句、二十銭で寝返ることにする。

「えー、まさに賄賂わいろ受納つかまつりました」

だんなは
「帰ったら、山田さん宅をのぞいてオレに声をかけられたことにし、ただいま碁が始まるようすですから、今夜のお帰りはないでしょう、と言え」
と言い含める。

証拠物件にと、
「これはだんなさまが店の者に食わせろとおっしゃったと、こう言うんだ」
と餡ころ餠まで渡す周到さ。

そうしているうち、長吉がきれいな箱を見つけた。

中には三つの独楽。

それぞれ違った紋がついている。

旦那が言うには、花菱はなびしの紋はおめかけさんの独楽。

「はあ、副細君ふくさいくんで」
「変な言い方をするな。こっちの三柏みつかしわがうちのやつのだ」
「ご本妻の」
「これが抱茗荷だきみょうがで、おれのだ。これを三つ一度にまわす。そこで、おれの独楽が花菱の方へ着けばここに泊まるという、辻占つじうらの独楽だ」

遊びに独楽売りから買ったものだからと、だんなが独楽をくれたので、長吉は喜んで、そろそろ引き揚げることにした。

「決してご心配ありません。お楽しみ」
「お楽しみだけ余計だ。こっちへ来たら時々寄れ」
「へい、日に三、四度」
「そんなに来られてたまるか」

どうせおかみさんからも、にせ情報を流した上二十銭ふんだくるつもり。

店はもう戸締まりしていたので、
「だんなのお帰り」
と大声で叫んで堂々と通ると、さっそく
「おかみさんがお呼びだ」
という。

だんなの筋書きが功を奏して、執拗な尋問をなんとかかわしたと思ったら、
「奉公人が用をするのは当たり前だよ」
と、なにもくれない。

逆に、肩をたたいてくれと言いつけられる。

しぶしぶ肩につかまっているうち、眠くなるので、長吉、本店のお嬢さんがこの間、踊りのおさらいにお出になったときの「喜撰きせん」はよかったと、
「チャチャチャンチン、世辞せじで丸めて浮気うわきでこねてェ、ツチドンドン」
と拍子に乗って背中を突いた。

その拍子に、独楽がポロリ。

紋がついているのでごまかしきれず、ついにすべて白状させられる。

おかみさんが
「やってお見せ」
と言うので実演すると、だんなの独楽はツツツーと花菱の方へ。

「えー、あちらにお泊まりです」
「おまえのやり方が悪いんだ。もう一度おやり」
「へい。……あっ、おかみさんの独楽が近づいた。だんなの独楽が逃げる逃げる逃げる……あちらへお泊まりです」

おかみさん、カンカンで、
「こっちィおよこし」
と自分でまわすが、なぜかだんなの独楽がまわらない。

「これはまわらないわけです。心棒しんぼう(=辛抱)が狂いました」

【しりたい】

やり手など

幕末には純粋な上方落語でした。

明治になって三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しました。

あまり根付かなかったらしく、速記は小さんのほかは、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)のものくらいです。

先の大戦後では、やはり上方の三代目林家染丸(大橋駒次郎、1906-68)、東京で上方落語を演じた二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)が得意にし、小南門下だった二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)もレパートリーにしていました。

だんなと本妻の虚々実々の腹の探りあいがニヤリとさせ、「権助提灯」などよりずっとおもしろいのに、あまりやり手がいないのは惜しいことです。

四代目志ん生の改作

四代目古今亭志ん生(鶴本勝太郎、1877-1926、鶴本の)は、五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の二度目の師匠です。

転宅」「あくび指南」などを得意とした、江戸前の粋な芸風でした。

その志ん生が音曲の素養を生かし、この噺を「喜撰」と題して改作しています。

後半の独楽回しの部分を切り、小僧が清元きよもとの「喜撰」に熱中するあまりおかみさんを小突くので、「おまえ、人を茶にするね(=馬鹿にするね)」「へい、今のが喜撰(宇治茶の銘柄と掛けた)です」というサゲにしました。

これは一代限りで継承者はなく、五代目志ん生にも伝わっていません。

五代目志ん生は「稽古屋」で「喜撰」をうたっています。

独楽

こま。日本渡来は平安時代以前で、コマは高麗こまから渡ったことから付いた名称です。

江戸時代になり、八方独楽はっぽうこま銭独楽ぜにこま博多独楽はかたこまなど、さまざまな種類が作られ、賭博とばく曲独楽きょくこまもさかんに行われました。

「喜撰」

歌舞伎舞踊「六歌仙容彩ろっかせんすがたいろどり」の四段目で、『古今和歌集』で有名な六歌仙のそれぞれを、それぞれの性格に応じて踊り分けるものです。

第一段が僧正遍昭そうじょうへんじょう(義太夫)、以下、文屋康秀ふんやのやすひで(清元)、在原業平ありわらのなりひら(長唄)、喜撰法師きせんほうし(清元・長唄の掛け合い)、大伴黒主おおとものくろぬし(長唄)となり、それぞれに小野小町おののこまちと、その分身である茶汲み女・祇園のお梶がからみます。

天保2年(1831)3月中村座初演で、代々の坂東三津五郎ばんどうみつごろうのお家芸となっています。

「世辞で丸めて浮気でこねて」は、喜撰が花道に登場するときの冒頭の歌詞で、浮き立つようなしゃれた節回しで有名です。

それにつけても、一介の商家の小僧にまで踊りや音曲の素養が根付いていた、かつての江戸東京の文化水準の高さには驚かされます。

花菱

はなびし。家紋の一つです。わりと一般的です。

菱とは、ヒシ科の一年生植物。池、沼などの中に生えて、水面に浮かんでいます。

葉の形状は菱状三角形です。夏に四弁の白い小花が咲きます。実は硬くて、角状のトゲが目立ち、中の白い種子は食用になります。

花菱とは、この菱の葉に似た四つの弁を並べて、花びらに見立てた形からつきました。

唐花菱からはなびし唐花からはなとも呼ばれます。

大陸由来の文様とされています。

平安期には有識ゆうそく文様として、公家の調度品や衣装などに用いられていました。

使いはじめは、甲斐の武田氏でした。

「武田菱」は有名です。

江戸期には、松田氏、安芸氏、板倉氏、松前氏なども使っていました。

三柏

みつかしわ。家紋です。日本十大家紋の一つとされています。

三柏は、柏紋の中でも一般的に広く使われています。

さまざまなバリエーションがついて派生しています。

「丸に三柏」「蔓柏」「剣三柏」「鬼三柏」「三土佐柏」「三巴柏」「実付き三柏」「八重三柏」などがあります。

抱茗荷

だきみょうが。こちらも家紋。

ミョウガの花を図案化したものです。

こちらも日本十大家紋の一つです。

バリエーションは70種類以上ありますが、実際に使われている紋のほとんどは「抱茗荷」と、それを丸で囲んだ「丸に抱茗荷」です。

普及したのは戦国時代以後で、しかも摩多羅神またらしんの神紋として用いられるのが大きな特徴です。

さらには、音が「冥加みょうが」に通じることから、神仏の加護が得られる縁起のよい紋と考えられています。

神社や寺などでよく目にします。

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ゆうじょかい【幽女買い】落語演目

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【どんな?】

遊女と幽女。
ただのしゃれ。
暇人の手わざでなけりゃあ。
こんな噺は始まりません。

別題:魂祭 亡者の遊興

【あらすじ】

急に暗いところに来てしまった太助、三月前に死んだはずの源兵衛に声をかけられてびっくり。

「おめえは確かに死んだよな」
と念を押すと
「おめえ、おれの通夜に来たろ」

太助が通夜の席で
「世の中にこんな助平で女郎買いの好きな奴はなくて、かみさんは子供を連れて出ていくし、これ幸いと女を次々に引きずり込んだはいいが、悪い病気をもらって、目はつぶれる、鼻の障子は落ちる、借金だらけで満足な葬式もできない始末だから、どっちみち地獄おちは間違いない。弔いはいいかげんにして、焼いて粉にして屁で飛ばしちまおう」
とさんざん悪口を言ったのを、当人に全部聞かれている。

死骸がまだそこにあるうちは聞こえるという。

太助、死んだ奴がどうしてこんなところにいるのか、まだわからない。

「てめえも死んだからヨ」
「おれが死んだ? はてな」

そう言われれば、かみさんが枕元で医者に
「間違いなく死にました? 生き返らないでしょうね?……先生、お通夜は半通夜にしてみんな帰しますから、あの、今晩……」
なんぞと抜かしていたのを思い出した。

「ちきしょうめッ」
と怒っても、もう後の祭り。

ここのところ飢餓や地震で亡者が多くなり、閻魔えんまの庁でも忙しくて手が回らず、源兵衛も「未決」のまま放っておかれているという。

浄玻璃じょうはりの鏡も研ぐ時間がないため、娑婆しゃば悪業あくごうがよく写らないのを幸い、そのうちごまかして極楽へ通ってしまう算段を聞き、太助も一口乗らせてもらうことにした。

お互いに死んだおかげで、すっかり病気も治って元気いっぱい。

白団子をさかなに祝杯をあげるうち、こっちにも吉原ならぬ死吉原があり、遊女でなく幽女買いができるので、ぜひ繰り込もうとうことになった。

三枚駕籠さんまいかごの代わりに早桶はやおけ大門おおもんに乗りつけると、人魂ひとだま入りの提灯ちょうちんがおいでおいで。

ここでは江戸町えどちょう冥土町めいどちょう揚屋町あげやまちはあの世町。

見世も、松葉屋は末期屋まつごや、鶴屋は首つる屋と名が変わる。

女郎はというと、張り見世からのぞくと、いやに痩せて青白い顔。

ここではそれが上玉じょうだまだとか。

女が
「ちょいとそこの新亡者しんもうじゃ、あたしが往生さしてあげるからさ」
と袖をひくので揚がると
「へいッ、仏さまお二人ッ」

わっと陰気に枕団子の付け焼きで、まず一杯。

座敷では芸者が首から数珠じゅずをぶらさげ、りんと木魚もくぎょ
「チーン、ボーン」。

幇間たいこ
「えーご陰気にひとつ」
と、坊主姿で百万遍ひゃくまんべん

お引けになると、御詠歌ごえいかが聞こえ、生あたたかい風がスーッ。

「うらめしい」
「待ってました。幽ちゃん」

夜が明けると
「『おまはんが好きになったよ』って女が離れねえ。『いっそ二人で生きたいね』『生きて花実はなみが咲くものか』なんて」
と妙なノロケ。

帰りがけにのどがかわいたので、「末期の水」を一杯のみ干し、
「やっかいになった。また来るよ」
「冥土ありがとうございます」

表へ出ると向こうから
「お迎え、お迎え」

しりたい

縁起の悪さで五つ星!

上方落語の「けんげしゃ茶屋」と並び、私(高田)としては正月の初席でやってほしい噺の双璧そうへきなのですが、立川談志のあとはなぜか、ほとんどやり手がなさそうなのが残念しごく。

談志演出での、主人公二人の、地獄におちて当然の強悪ごうあくぶりには本当に感服させられました。

とりわけ、「焼いて屁で飛ばしちまう」には笑えます。

後半は、単に現実の茶屋遊びを地獄に置き換え、縁起の悪い言葉を並べただけで、ややパワーが落ちますが、談志が前半の通夜の太助の悪口あっこうと、女房と医者のちちくりあいを創作しただけで、この噺は聴くに値するものになりました。

どなたか、後半をもう少しおもしろくつくってもらえればいいのですが。

浄玻璃の鏡

地獄の閻魔えんまの庁で、亡者もうじゃ娑婆しゃばでの行状ぎょうじょうをありありと映し出す鏡。

昔の鏡は金属製でくもりやすく、そのつど鏡研師かがみとぎしがせなければなりませんでした。

三枚駕籠

三枚肩さんまいかたともいい、一丁いっちょう駕籠かごに三人の駕籠舁かごかきが付き、交代で担ぎます。急用のとき、またはくるわ通いで見栄みえを張る場合などに雇いました。

お迎え

盆に、精霊流しょうりょうながしの余りをもらい歩く物ごいの声と、吉原で茶屋の者が客を迎えに来る声を掛けたものです。

古いやり方と速記

明治中期、「魂祭たままつり」の題で演じた六代目桂文治ぶんじ(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)、「亡者もうじゃ遊興あそび」とした二代目三遊亭小円朝こえんちょう(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)の速記が残っています。

文治では、地獄の茶屋で、隣のもてぶりに焼き餅を焼き、若い衆に文句を言う官員と職人の二人を登場させていますから、あるいはこの噺は「五人廻し」のパロディーとして作られたのかもしれません。

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ごんすけざかな【権助魚】落語演目

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【どんな?】

女通いのだんな、権助を金で口止め。
おかみさんは金で権助を吐かせようと。
権助、高額のだんなになびく。
田中さんと向島で網打ち、ということに。
権助は魚屋で鰹片身、伊勢海老、目刺し、蒲鉾を。
「どこの川に蒲鉾が泳いでる」
「網をブッて捕った時、みんな死んでた」

別題:熊野の牛王

【あらすじ】

だんながこのところ外に女を作っているらしい、と嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬しっとで黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助ごんすけを呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、饅頭まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路りょうごくひろこうじあたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんのところへ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれる人なので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、手を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若たいぜんじじゃく

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くなら、だんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

駒止こまどめで田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺もくぼじから植半うえはんでひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴やまぐちともえ、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものはかつおの片身に伊勢海老、目刺しに蒲鉾。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川に蒲鉾が泳いでるんだい」
「ハア、どうりで網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように周りから見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、少年SF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

作者の藤子・F・不二雄(藤本弘、1933-96)は大の落語ファンとして有名でした。ほかにも落語のプロットをさまざまな作品に流用しています。

「21エモン」は『週刊少年サンデー』(小学館、1968-69年)などで連載されました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923)や二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残しています。

前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王ごおう(護符)」の別題で演じられたこともありました。

この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれました。

明治21年(1888)ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び評判になった、と山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』(1936年、第一書房→中公文庫)にあります。

山本笑月は東京朝日新聞などで活躍したジャーナリスト。

深川の材木商の生まれで、長谷川如是閑(長谷川萬次郎、1875-1969)や大野静方(山本兵三郎、1882-1944)の実兄にあたります。

長谷川如是閑は日本新聞や大阪朝日新聞などので活躍したジャーナリスト、大野静方は水野年方門の日本画家です。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪辣あくらつな算段なのですが……。

いやまあ、けっこう笑えます。おあとはどうなりますやら。

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くびったけ【首ったけ】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

吉原で火事が。
いつも袖にしてきたお女郎。
おはぐろどぶに浸かってる。
ざまあみろ。
女の殺し文句にはしびれます。

あらすじ

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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しりたい

原話は寄せ集め  五代目古今亭志ん生

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3年(1774)刊「軽口五色帋」中の「女郎の川ながれ」、天明2年(1782)刊の「富久喜多留」中の「迯そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ  五代目古今亭志ん生

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。

おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。

戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売  五代目古今亭志ん生

古い速記では、大正3年(1914)の四代目橘家円蔵(柴田清五郎、1865-1912)のものがあります。死後に出た速記になります。

戦後は、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が演じたほかは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の、ほぼ一手専売でした。

志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の直伝でしょう。

志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、お女郎さんに、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に伝わりました。馬生のはレコードもあります。

この噺、最近ではほとんど手掛ける人がいません。

吉原の火事  五代目古今亭志ん生

吉原遊郭は、建て替えを考えていた矢先、都合よくも(?)、明暦の大火(1657年)のあおりで全焼しました。

日本橋から浅草日本堤に移転します。

その後も、明治維新(1868年)まで、平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、6500戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を歓迎していたとか。

おはぐろどぶ  五代目古今亭志ん生

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。

下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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おつりのまおとこ【お釣りの間男】落語演目



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【どんな?】

間男をネタにしたバレ噺。
主人公はあの与太郎。
あとはどうなりますやら。

別題:七両二分 二分つり

【あらすじ】

町内の与太郎。

女房が昼間中から間男を引き込んで、堂々と家でいちゃついているのにも、いっこうに気づかない。

知らぬは亭主ばかりなりで、髪結床ではもう、おあつらえ向きの笑い話となっている。

悪友連中、火のあるところにさらに煙をたきつけてやろうと、通りかかった与太郎に
「てめえがおめでてえから、留守に女房が粋な野郎を引きずり込んで間男をやらかしてるんだ。友達の面汚しだから、帰って暴れ込んでこい」
とたきつける。

悪い奴もあるもので
「今ごろ酒でものんでチンチンカモカモやっている時分だから、出し抜けに飛び込んで『間男見つけた、重ねておいて四つにするとも八つにするともオレの勝手だ。そこ一寸も動くな』と芝居がかりで脅かしてやれ」
と、ごていねいにも出刃まで用意してけしかけたから、人間のボーッとした与太郎、団十郎のマネができると大喜び。

その上、間男の相場は七両二分しちりょうにぶだから、脅せば金が取れると吹き込まれ、喜び勇んで出かけていく。

乗り込んでみると、案の定、女房と間男がさしつさされつ堂々とお楽しみ中。

「間男見つけた。重ねておいて」
「なにを言ってるんだねえ。どこでそんなことを仕込まれてきたんだい」
「文ちゃん、源さん、八つァんに、七公に、髪結床で教わった」
「あきれたもんだねえ」
「さあ、八つになるのがイヤなら、七両二分出せ」
「今あげるからお待ち」

金でまぬけ亭主を追い出せるなら安いものと、こちらも願ったりかなったり。

八円で手を打った。

「一枚二枚三枚……八枚。毎度あり」
「さあ、この女ァ、オレが連れていくぜ」
「ちょっと待っておくれ」
「まだ文句があるのか」
「八円だから、五十銭のお釣りです」

底本:初代三遊亭円遊

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

原話「七両二分」

原話は寛政6年(1794)刊『喜美談話』中の「七両二分」。「竹里作」とある、この小咄は……。

どうも女房がフリンしているらしいので亭主、遠出すると見せかけてかみさんを油断させた上、隣家に頼んで、朝早くから張り込ませてもらい、壁越しにようすをうかがっていると、果たして間男が忍んできたようす。さあ重ねておいて四つ切りだと、勇んで踏み込んでみると、なんと、枕屏風の外に小判で八両。亭主、これを見るとすごすごと引き返し、隣のかみさんに、「ちょっと二分貸してくれ」。

八両から間男の示談金の「七両二分」を引いて、二分の釣りというわけですが、思えばこの「竹里」なるペンネーム、どう考えても「乳繰り」をもじったもので、怪しげなこと、この上なしです。

初代円遊のバレ噺

この噺、別題「二分つり」「七両二分」ともいい、上方でも江戸でも、しょせん、ある種の会やお座敷でしか演じられなかった代物です。

むしろ江戸時代よりさらに弾圧がきびしくなった明治になって大胆不敵にも、これを堂々と何度も寄席でやってのけた上、速記(明治26年)にまで残したのが、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)でした。

よくもまあ、検閲をすり抜けたものだと感心しますが、さすがにお上の目は節穴でなく、それ以後の口演記録はありません。

現在でも、さすがにこういう噺を寄席で一席うかがう猛者はいませんが、この噺を短くしたものや、類話の間男噺で、与太郎が間男の噂を当の亭主にばらしてしまい、「誰にも言うなよ」というオチがつく小噺がよく「紙入れ」などのマクラにも用いられます。

間男代金・七両二分の由来については、「紙入れ」をご覧ください。

間男の川柳、名セリフ

間男の類語は「不義」「密通」「姦通」、今でいう「不倫」。武家社会の「不義」は、間男のみならず、恋愛一般の同義語でした。

つまり、当事者が奥方でも娘でもお妾でも女中さんでも、色恋ざたは、見つかり次第なます斬りがご定法だったわけで。間男の川柳は数々あります。

主に、噺のマクラに用いられるものです。

町内で 知らぬは亭主 ばかりなり

間男と 亭主抜き身と 抜き身なり

据えられて 七両二分の 膳を食い

天明期に「賠償金」の額が下落すると、こんなのがつくられました。

生けておく 奴ではないと 五両とり

女房は ゆるく縛って 五両とり

女房の 損料亭主 五両とり

亭主が現場を押さえた時の口上は、この噺にもある通り、出刃包丁を突きつけ「間男めっけた。重ねておいて四つにするとも八つにするともオレが勝手だ。そこ一寸も動くな」が通り相場。

「団十郎のマネができる」と、与太郎が喜ぶことでもわかるように、このセリフは芝居からきています。

歌舞伎でも生世話物がすたれつつある今日、このセリフを歌舞伎座で聞くことも、あまりなくなりました。

【語の読みと注】
竹里 ちくり
乳繰り ちちくり

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能



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にかいのまおとこ【二階の間男】落語演目

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【どんな?】

女房が亭主を尻目に自宅であいびきして。
バレ噺。二階付き長屋での。

別題:お茶漬け 二階借り 茶漬け間男(上方)

【あらすじ】

ある夫婦、茶飲み話に亭主の友達の噂話をしている。

「畳屋の芳さんは粋でいい男だなァ」
「あらまァ、私もそう思っているんですよ。男っぷりもよし、読み書きもできるし、子供好きでつきあいもいいし」
「おらァ、男ながら惚れたョ」
「あたしも惚れましたよ」

ところが、間違いはどこに転がっているかわからないもの。

この女房、本当に芳さんに惚れてしまった。

こうなると、もう深みにはまって、はらはらどきどき密会を重なるうち、男の方はもうただでは刺激がない、となる。

一計を案じて、亭主のいる所で堂々と間男してやろうと。

ある日、ずうずうしくも乗り込んでくる。

「実はさる亭主持ちの女と密通しているので、お宅の二階を密会の場所にお借り申したい」
というのである。

まぬけな亭主、わがことともつゆ知らず、
「そいつはおもしろい」
というわけ。

言われるままに当の女房を湯に入ってこいと追い出した。

ごていねいにも
「いろ(相手の女)は明るい所は体裁が悪いと言っているから、外でエヘンとせき払いをしたらフッと明かりを消してください」
という頼みも二つ返事。

こうもうまくいくと、かえって女房の方が心配になり、表で姦夫姦婦の立ち話。

「あたしゃいやだよ。そんなばかなことができるもんかね」
「まかしとけ。しあげをごろうじろだ」
「明かりをつけやしないかしら」

亭主は能天気にパクパクと煙草をふかした後、かねての合図でパッと灯火を消すと、あやめも分かたぬ真っ暗闇。

「どこの女房だかしらないが、ズンズンおはいんなさいよ」

うまくいったとほくそ笑んだ二人。

女房は勝手を知ったる家の中。

寝取られ亭主になったとも知らず
「この闇の中で、よくまァぶつからねえで、さっさと上がれるもんだ」
と、妙に感心しているだんなを尻目に、二階でさっさとコトを始めてしまった。

亭主、思わず上を眺めて
「町内で知らぬは亭主ばかりなり。ああ、そのまぬけ野郎のつらが見てえもんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【うんちく】

二階付き長屋

三軒長屋」にも登場しました。二階付き長屋は数が少なく、おもに鳶頭のように、大勢が出入りする稼業の者が借りました。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、終生、稲荷町の二階付き長屋に住んでいたことはよく知られています。

円生の逸品

原話は、天保13(1842)年刊の『奇談新編』中の漢文体笑話です。

明治23年(1890)5月の雑誌『百花園』に掲載された、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残っています。

紙入れ」「風呂敷」と同じく、間男噺ですが、その過激度では群を抜いていて、現在、継承者がいないのが惜しまれます。

この噺は演者によって題が異なります。

桂米朝(中川清、1925-2015)は「茶漬け間男」で、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)は「二階の間男」で、五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)は「お茶漬け」で、それぞれやっていました。

ここでの「茶漬け」は亭主が茶漬けを食っている間にコトを済ます、というすじだからです。

ここでは六代目三遊亭円生の速記を使いました。あの謹厳実直を絵に描いたようなイメージの、昭和の名人の、です。

寝取られ男

この言葉に対応するフランス語は「コキュ(cocue)」が有名です。

cocuはカッコウから来ている言葉のようで、「かっこうの雌は他の鳥の巣で卵を産むことから」のようです。

そういえば、私が大学に通っていた頃に、こんなカッコウのようなことをしていた女子がいましたっけ。ちゃっかりしてます。

フランスでは伝統的にコキュを描いた文学や演劇などが多くあります。

他人のセックスを覗いて笑うネタにするのは世界共通ですが、フランスはもう少し高度な文化のようです。

他人の持ち物で楽しむ人を覗いて笑う趣味がある、ということでしょうか。

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つるつる【つるつる】落語演目



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【どんな?】

終始わさわさそわそわの噺。
ちょっとばかり艶冶でよいかんじ。

別題:思案の外幇間の当て込み 粗忽の幇間

【あらすじ】

頃は大正。

吉原の幇間たいこ一八いっぱちは、副業に芸者置屋おきやを営む師匠の家に居候いそうろうしている。

美人の芸者お梅に四年半越しの岡ぼれだが、なかなか相手の気持ちがはっきりしない。

今夜こそはと、あらゆる愛想あいそを尽くし、三日でいいから付き合ってくれ、三日がダメなら二日、いや一日、三時間、二時間、三十分十五分十分五分三分一分、なし……なら困ると、涙ぐましくかき口説く。

その情にほだされたお梅。

色恋のような浮いた話ならご免だが、
「こないだ、あたしが患わずらった時に寝ずの看病をしてくれたおまえさんの親切がうれしいから、もし女房にしてくれるというのならかまわないよ」
という返事。

ところが、まだあとがある。

今夜二時に自分の部屋で待っているが、
「おまえさんは酒が入るとズボラだから、もし約束を五分でも遅れたら、ない縁とあきらめておくれな」
と、釘を刺されてしまう。

一八は大喜びだが、そこへ現れたのがひいきのだんな樋ィさん。

吉原は飽きたので、今日は柳橋の一流どころでわっと騒ごうと誘いに来たんだとか。

今夜は大事な約束がある上、このだんな、酒が入ると約束を守らないし、ネチネチいじめるので、一八は困った。

今夜だけは勘弁してくれと頼むが、
「てめえもりっぱな幇間になったもんだ」
と、さっそく嫌味を言って聞いてくれない。

事情を話すと、
「それじゃ、十二時までつき合え」
と言うので、しかたなくお供して柳橋へ。

一八、いつもの習性で、子供や猫にまでヨイショして座敷へ上がるが、時間が気になってさあ落ちつかない。

遊びがたけなわになっても、何度もしつこく時を聞くから、しまいにだんながヘソを曲げて、「おまえの頭を半分買うから片方坊主になれ」だの、「十円で目ん玉に指を突っ込ませろ」だの、「五円で生爪をはがさせろ」だのと、無理難題。

泣きっ面の一八。

結局、一回一円でポカリと殴るだけで勘弁してもらうが、案の定、酔っぱらうとどう水を向けてもいっこうに解放してくれないので、階段を転がり落ちたふりをして、ようやく逃げ出した。

「やれ、間に合った」

安心したのも束の間。

お梅の部屋に行くには、廊下からだと廓内の色恋にうるさい師匠の枕元を通らなければならない。

そこで一八、帯からフンドシ、腹巻と、着物を全部継ぎ足して縄をこしらえ、天井の明かり取りの窓から下に下りればいいと準備万端。

ところが、酔っている上、安心してしまい、その場で寝込んでしまう。

目が覚めて、あわててつるつるっと下りると、とうに朝のお膳が出ている。

一八、おひつのそばで、素っ裸でユラユラ。

「この野郎、寝ぼけやがってッ。なんだ、そのなりは」
「へへ、井戸替えの夢を見ました」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

文楽vs.志ん生

この噺は文化年間(1814-18)にはできていたそうです。

明治23年(1889)7月5日刊『百花園』には、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の噺が「思案の外幇間ほかたいこ当込あてこみ」の題で載っています。明治初年の吉原と柳橋が舞台。幇間は文仲ぶんちゅう、芸妓はお松。とりとめないただの滑稽噺の印象です。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、実は六代目)が、円遊流の滑稽噺としてだけで演じられてきたものに、幇間一八の悲哀や、お梅の性格描写などを付け加えて、十八番に仕上げました。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)もよく演じました。

こちらは、お梅とのやりとりを省いて、だんなに話す形にし、いじめのあざとい部分も省略。柳橋から帰る途中で、蒲鉾かまぼこをかじりながらさいこどん節口三味線くちじゃみせんで浮かれるなど、全体的に滑稽味を強くして特色を出しています。

いま、両者を聴き比べてみても、両者甲乙つけがたいところです。私(高田)は志ん生版が好みですがね。

以前、美濃部美津子さんにうかがったところでは、「文楽さんはお座敷に毎晩のように呼ばれて、ご本人もいやではなかったようですけど、うちのおとうさん(志ん生)はお座敷がいやであんまり出なかったんです」とのことでした。「つるつる」の芸風の違いは、そんなところから両者、醸成されていったのではないでしょうか。場数の違いです。

実録「樋ィさん」

文楽が得意とするこの噺や「愛宕山」に登場するだんなは、れっきとした実在の人物です。

八代目桂文楽の『芸談あばらかべっそん』(青蛙房、1957→ちくま文庫)によれば、樋ィさんの本名は樋口由恵ひぐちよしえといい、山梨県会議員の息子で、運送業(川崎陸送)で財をなした人です。現在、川崎陸送の本社は新橋にあります。

文楽と知り合ったのは、関東大震災の直後だそうです。

若いころから道楽をし尽くした粋人すいじんで、文楽の芸に惚れこみ、文楽が座敷に来ないと大暴れして芸者をひっぱたくほどわがままな反面、取り巻きの幇間や芸者、芸人には、思いやりの深い人でもあったとか。

「つるつる」の一八を始め、文楽の噺に出てくる幇間などは、すべて当時、樋口氏がひいきにしていた連中がモデルで、この噺の中のいじめ方、からみ方も実際そのままだったようです。

柳橋の花柳界

安永年間(1772-81)に船宿を中心にして起こりました。

実際の中心は現在の両国西詰にしづめ付近で、天保末年に改革でつぶされた新橋の芸者をリクルートした結果、最盛期を迎えました。

明治初年には芸者600人を数えたといいますが、盛り場の格としては、深川(辰巳)よりワンランク下とみなされました。

映画『流れる』(幸田文原作、成瀬巳喜男監督、1952年)は、敗戦直後、時代の波とともにたそがれゆく柳橋の姿を、リアルな視点で描写しています。

井戸替え

井戸浚い、さらし井戸とも。

夏季に感染症予防のために、一年に一度、井戸水を全部汲みだして中を掃除することです。年中行事でした。

大家の陣頭指揮、長屋総出で行います。

専門業者の井戸屋が請け負うこともあります。

いずれにしても、ふんどし一丁で縄をつたって井戸底に下りる、一日がかりの危険な作業でした。

とはいえ、江戸は井戸のある長屋はかなり限定的。どこの長屋にあったわけでもないのです。

川向こうの深川や本所にはありません。

掘っても海水ばかりが出てきてしまうからです。

そこらへんの人々は水屋から水を買っていました。

本所の長屋には井戸はなかったのです。

井戸替えは深さを横へ見せるなり 横へ引っ張られる綱の長さで井戸の深さがわかるのだそうです。

総じて、川向こうの水事情は、上水道の恩恵ゆたかな神田や日本橋あたりの下町とは、えらい違いでした。



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あいがさ【相傘】川柳 ことば

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相傘を淋しく通す京の町  三17

「相傘」は男女が一本の傘をさすこと。相合傘とも。

相合傘の男女が歩いていても、穏やかな京の町では誰もひやかさない。江戸では悪口やひやかしの浴びせ倒しがあるから相合傘をするわけで、だいぶ違うものだ、という程度の話。

いまは相合傘の男女がいてもひやかしたりはしませんが、昭和40年代までの東京の下町ではひやかしは当たり前でした。ご祝儀です。

相傘はだまって通すものでない  二十27

右の手と左でうまい傘をさし  明七満01

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