しんしょうのひとこと011【志ん生のひとこと011】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

今夜はフナが化けて出るかな?

承前。昭和36年(1961)11月14日(火)、午後。

志ん生夫婦は、クルマで「小春園」に向かった。

京成高砂駅の近くにある釣り堀。下町の、その奥つ方の果てにある。

なぜカミさんを連れていったのか。

エサの取り換え、タバコの点火、その他諸々の世話をさせるためだった。

この日の志ん生はツイていた。

一尺もあるヘラブナを釣りあげたし、夕方までに4-5匹の釣果。

ご機嫌で帰宅した。

まずは祝杯を。

あつらえた鰻丼に、残り酒をタレ代わりにかけて頬張った。

その後、本牧亭から新宿末広亭中席へ。

艶笑噺「氏子中」をやってみせ、場内を沸かせた。

朝は次男の志ん朝と「民謡ジョッキー」を聴き、午後はフナを釣り上げ、夜は「氏子中」で客を魅了した。文句なしの一日だった。

本牧亭の楽屋では、釣り談義に花が咲いた。

八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)にはこんなことを。

「魚もまずくなりましたネ、魚だって苦労してますからネ、昔みたいにノンビリしてらんないから、味だって変わりまさあネ」

例によって、数段すっ飛ばしたご意見開陳である。意味不明。

その夜。

就寝前でのひとことが、上のあれ。ふるってる。

釣り上げたヘラブナはどうなったのだろう。

翌日のこと。

あわれ、庭の池に浮いていた。凍死だったらしい。

11月15日といえば、もう冬支度だったのだ。今とはようすが違う。

フナの菩提を弔うなら、色っぽい噺はどうも場違いだった。「後生鰻」あたりがぴったりだが、あいにく11月では、こちらも季節外れで、しょうがない。

倒れる30日前。青天の霹靂は目前だ。

高田裕史

参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しんしょうのひとこと002【志ん生のひとこと 002】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家 演目 志ん生 千字寄席

二十四、五から三十くらいまででしたね。その頃は、どうしてもわたしといっしょになるてえ女が来て、しょうがなかった。

『サンケイ読物』1956年1月8日号「かたい話やわらかい話」から。


■福田蘭堂との対談で、福田が「師匠がいちばん女のほうではなやかなりし頃はいくつです?」の問いにこたえてのひとこと。志ん生は上のひとことのあとに「わたしの仲人がね、おまえさん、もう女房もらったらいいでしょうって言ってきた。いいかげんな返事をしているうちに半月ほどして、ほかの女をズルズルベッタリに引っ張り込んでいっしょにいたんです。そこへね、とつぜん、前の話の女を引っ張ってこられたんです、仲人に。しかたがないから、いっしょにいた女を戸棚ン中にしまいこんじゃって……。実はそのとき、仲人に連れてこられたのが今のかかあなんです」と告白しています。戸棚の中に女を隠す、とは。これって、「今戸の狐」をなんとなく彷彿とさせるじゃありませんか。志ん生の噺っていうのは、ディテールが実体験からの連想なのですね。

福田蘭堂(石渡幸彦、1905-76、音楽家、随筆家)は青木繁の息子で、石橋エータローの実父にあたる人。青木繁は洋画家、石橋エータローはクレージーキャッツのメンバーで料理家です。

 古木優



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しんしょうのひとこと001【志ん生のひとこと 001】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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ほんとの落語は四千ぐらいあるね。わたしなんぞは一年毎日別なやつをやれるね。

『娯楽よみうり』1957年2月1日号「おしゃべり道中」から。

■対談で、大宅壮一(1900-70、ジャーナリスト、作家)から「大体、しゃべるネタというのは、幾つぐらい持てばいいんですか」と聴かれてのひとこと。落語の数が 「四千」もあるとは知りませんでしたが。 志ん生の持ちネタは普通の落語家よりも多かったと言われています。全集に収録されているだけでも150余。音源もそれなりにあります。ただ、志ん生落語で聴けるのはせいぜい30ほどとも。あくまでも一般論の凡庸なお説ですが。「やれる」噺と「持ちネタ」とは別の問題だという観点からのもの言いでしょう。コアなファンは、志ん生が倒れた後の滑舌の悪い、聴いちゃいられない噺(粟田口とか寝床とか)を聴いて喜ぶわけです。「味がある」とかなんとか言って。音源に残らず、志ん生の口の端にこぼれたままになった噺。ほごでもしくじりでもいいから聴いてみたかったなあ、とつくづく思うわけです。ここまでくれば志ん生熱も「狂」を帯びてきます。さて。「おしゃべり道中」は大宅壮一がホストの対談連載、志ん生は第64回を飾るゲストでした。お互いに気合入ってます。志ん生が「お直し」で文部大臣賞をもらったことが当時の話題だったため、白羽の矢が立ったようです。「一億総白痴化」「口コミ」「駅弁大学」「恐妻」など新語の発明家にして時代の狙撃手。大宅壮一は当時最強最良のジャーナリストでした。1957年。「戦後」が終わって高度経済成長のレールを走り出すあわい。周りはけたたましいばかりの活気と熱気。志ん生も大宅も、とっても活きのよかった頃だったのでしょう。時代とともに。二人のおしゃべりも躍っています。時は過ぎて。大宅壮一が亡くなったのは1970年11月22日。三島事件の三日前でした。三島事件を評せられなかった大宅はあの世で怨んでいるかもしれません。戦後最高のジャーナリストが戦後最高に話題をさらった事件に言及できなかったのですから。これは痛恨。さらに過ぎて。2020年は大宅壮一の没後50年、憂国忌も50年に。誰も忘れています。三島事件もどこか滑稽味を携えながら忘却のかなたへ。列島人の忘れっぽい習性のなせるわざでしょうか。さてさて。「娯楽よみうり」という雑誌は「週刊読売」とは別に刊行されていました。しょっぱい「読売」が大盤ぶるまいのなりふり。時代の勢いを感じさせます。当時の活字文化も、志ん生や大宅といっしょに躍っていたのですね。「娯楽よみうり」も「週刊読売」もすでに消えています。いずれ「読売新聞」が消える日も来るかもしれませんね。えぴたふ。

 古木優

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しんしょうのひとこと010【志ん生のひとこと010】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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あいつァ、線が太いからネ。

昭和36年(1961)11月14日(火)、早朝。

「あいつァ」とは来年には真打ち昇進予定の次男強次(→三代目古今亭志ん朝、1938.3.10-2001.10.1)のこと。仕事先の長崎から帰宅した。

茶の間でいっしょにラジオを聴いた。

朝太が司会する文化放送「民謡ジョッキー」を、である。

「シャレがいい」と、おやじはご満悦。

おやじはずっとニッポン放送専属だが、別に義理立てして勘当などはしない。当たりまえだ。

「線が太いというのはいいからネ」とは、おやじならではの炯眼。

次男の、いずれの出世を夢見る。

自分とは違うタイプの、文楽、円生のような正統派の噺家になろうことを。

志ん生は、目を細くして「ヘッヘッヘと笑いながら」思い浮かべていた。

志ん生が倒れる31日前の、美濃部家のちょっとした風景である。

高田裕史

参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)



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しんしょうのひとこと009【志ん生のひとこと009】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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「落語ってえもなァ、クサヤの干物みてえなもんなんでネ」

「週刊読売」(1961年12月4日発売)誌上に、志ん生一家の一週間にわたる日常生活のルポが載った。冒頭に掲げられたのが志ん生流「落語道の極意」。

1961年、つまり昭和36年12月とはオドロキ。

その年の12月15日に、志ん生は倒れるのだから。直前である。

15日は、高輪プリンスホテルで、読売巨人軍優勝祝賀会があった。

余興で落語を、の求めにこたえようと、よせばいいのに、のこのこ出かけた。

志ん生に、ではなく、優勝に喜ぶ野球一徹を相手に、落語を聴かせるには、志ん生の芸風はちょいと難があったろう。

パーティーは立食形式だった。巨人命どころか、落語ファンだって、名人のハナシに耳を貸せるわけがない。がやがやざわざわ。落語を聴かせる環境ではなかったのだ。

俺のハナシを聴け! 

志ん生は焦った。息張った。ひっくり返った。脳出血だった。

ホテル裏の、道路を挟んだ東京船員保険病院(東京せんぽ病院→東京高輪病院)に運ばれたのが幸いして死の淵で踏ん張った、というわけ。ここはまともな病院である。

九死に一生を得たからよかったものの、上記のひとことが娑婆との別れ、志ん生の「遺言」となっていたかもしれないのだ。
  
志ん生ファンは読売新聞や読売巨人軍を大いに怨むべきだろう。

だが、東京でそんな恨み節を聴いたことはめったにない(まれにはあるが)。

その理由は、「週刊読売」が倒れる直前に志ん生の特集を組んでいたから。

これで、「読売」は免罪符を得ていたのだ。

取材日は、11月13日(月)から19日(日)まで行われた。

日を追って克明に名人の日々を日記風に記録した、貴重な記録である。

せりふの続きは、以下の通り。

「……クサヤの干物てえのは、オメエ、好きな人は、大好きだがだれでも食えるってもんじゃねえ。それでいてわりと高いん……だから、ハナシカてえもなア、大通りを行こうと思っちゃ大マチゲエだ。裏通りを行くものなんで……」

わかったようなわからないような。これが志ん生流。コアなファンは、妙に納得させられてしまう。

論理など飛び超えた、摩訶不思議な言い回しである。

高田裕史

参考資料:「週刊読売」(1961年12月4日発売)



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しんしょうのひとこと008【志ん生のひとこと008】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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これは、六代目古今亭志ん馬(稲田真佐文、1935-94)の証言です。

「腹が減ったときに飯を食う奴の了見が知れねえ」

志ん馬が、テレビ番組「人に歴史あり」の志ん生特集で、うちの師匠がよく言うせりふです、として言っていました。

東京12チャンネル(→テレビ東京)は昭和43年(1968)5月15日から、「スタジオドキュメンタリー番組」と銘打った「人に歴史あり」の放送を開始しました。毎週水曜日午後9時-9時30分の時間帯で。

その後、曜日や時間帯が変わりながら、昭和56年(1981)9月23日まで続きました。この年の10月1日からテレビ東京に社名変更するにあたっての、番組改編のあおりでした。

この番組は、内外を問わず第一線で活躍中野各界の著名人をゲストに呼び、ご対面形式で、その人の歩んできた人生を浮き彫りにしようというもの。司会は八木治郎(1925-83)。NHKから移籍したムード派のアナウンサーです。

第1回のメインゲストは池島信平(1909-73)。この人は編集者。当時、文藝春秋の三代目社長でした。この番組は文藝春秋の協力で成り立っていたのです。肝煎りです。

池島の取り巻きゲストには、永井竜男、中山義秀、松本清張、村上元三、開高健、五味康祐、安岡章太郎、由起しげ子、吉行淳之介、生島治郎、五木寛之、今東光、城山三郎、杉森久英、寺内大吉、戸川幸夫、南条範男、三好徹など。

毎回50人ほどの取り巻きが登場するという、30分番組にしては濃密です。

第2回以降のメインゲストは、東山千栄子、石坂洋次郎、川端康成、川口松太郎、水谷八重子、芹沢光治良、尾上梅幸、山岡荘八、徳川夢声、榎本健一、藤原義江、水上勉、中村汀女、松下幸之助、近衛秀麿、松本清張、林武、湯川秀樹、古今亭志ん生など。

文藝春秋が協力しているだけあって、錚々たる文化人の勢ぞろいでした。文化人に偏しているきらいもありましたが、そこが魅力です。この中に志ん生が入っていたわけですから、世間での評価のすごみを感じさせます。

志ん生の回の放送は、昭和43年(1968)7月3日でした。取り巻きゲストは、馬生、志ん朝、文楽、金語楼、志ん馬、円菊、朝馬など。

この番組、構成力がいまいちでした。草創の東京12チャンネルだからでしょうか。志ん生をよく知る人たちが入れ代わり立ち代わり登場するのですが、スタジオで椅子に座ったままの志ん生(ひとことも発しない)をお飾りにして、八木治郎とぺらぺらしゃべるだけのもの。今では信じられないほど、工夫なしの陳腐ぶり。志ん馬の証言だけがいきいきと際立っていました。

それでも、文楽や金語楼などが出てくるのは、いまとなっては貴重な映像ですね。

この年の10月9日の精選落語会で「二階ぞめき」が「王子の狐」に化けてしまいました。それが最後の高座になりました。

そのちょっと前の頃の話です。

人に歴史あり

高田裕史

※参考資料:読売新聞



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しんしょうのひとこと007【志ん生のひとこと007】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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これは、初代古今亭志ん五(篠崎進、1949-2010)の証言。

「ウンコがこわくて、いい百姓になれるか」

べつに、志ん生と百姓は無関係でしょうが。でも、なんだか、おかしい。

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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しんしょうのひとこと006【志ん生のひとこと006】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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(谷中銀座通りの骨董あさりから帰って)
(志ん生)「おい、トカゲ買うよ」
(りん)「父ちゃん、トカゲなんか買ってどうすんのよ」
(志ん生)「うまいもんをドンドン食わせてな、デカクなったらこいつをやっつけて、ハンドバッグを作って、俺はベルトだ」

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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しんしょうのひとこと005【志ん生のひとこと005】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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海上自衛隊出身、古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)の証言です。

(銭湯で溺れかかって)
「泳ぎの練習をしてたんだ」

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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しんしょうのひとこと004【志ん生のひとこと004】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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志ん生の弟子に自衛隊の衛生兵(?)出身の古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)がいました。この人の証言はけっこう残っています。

志ん駒の話を再現してみましょう。

それから師匠はよく西部劇の歌を唄っていましたよ。スティーブ・マックイーンの「拳銃無宿」。(中略)「あれ? 師匠、何を唄ってるんですか?」

「腰のぉ~拳銃ぅ~だてには撃たず~、なっ」

す、すごい! 志ん生が西部劇を見てたなんて。

でも、この証言は「ララミー牧場」の誤りかと思います。「腰の拳銃は、だてじゃない」という、アレでしょうから。ただし、おそらく、当人には区別が付いていないでしょう。そこがおもしろいわけでして。

高田裕史

※参考文献:岡本和明『志ん生、語る。―家族、弟子、咄家たちが語る内緒の素顔』(アスペクト、2007年)



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さけちゃづけ【酒茶漬け】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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山田風太郎(山田誠也、1922-2011)の『神曲崩壊』にはこんな話も載っている。

せがれの志ん朝が生前、高級ふりかけ「錦松梅」のCMに出ていた。おやじの方は、そういうものは飯にはかけない。志ん生が茶漬けにしたのは、もちろん酒。鮭茶漬け? いや、酒茶漬け。

もっとも、若き日は焼酎茶漬け、だったようだ。酒のうちでももっとも安い「鬼ころし」さえ買えなかったらしい。

高田裕史


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しんきょくほうかい【神曲崩壊】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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山田風太郎(山田誠也、1922-2001、小説家)の地獄めぐりの奇書「神曲崩壊」に顔を出す志ん生。ちょっと覗いてみよう。

アル中どもの堕ちる酩酊地獄の外れが、今の住処。

酒の大河に舟を浮かべ、そこで船頭になっている。

もっとも、とっくに櫓などは放り出し、ねじり鉢巻フンドシ一本。片手に茶碗、片手に釣り竿。

傍らの手桶で、のべつ酒の河から並々と汲んでは、茶碗に注いでグビリグビリ。
地獄どころか、太平天国。

「ありったけ平らげるったって、河ぜんぶが酒じゃあ、いくらあたしだって
どうしようもないやね。ウイウイ、ウイ、ウーイ」

で、時たま左手の釣り竿を持ち上げては、

「これでうめえサカナでも釣れりゃあもっとありがてえんだが。ウーイ

何しろ酒の河だけに、ウワバミなんかが釣れても困る」

あまり出来のよくないサゲが付いたところで、おあとよろしく。

天からは、沛然と永遠に降り注ぐアルコールのくっさい雨。

遠くに霞むは、針の山ならぬ酒樽山。

「おっとっと、なんかひっかかりやがったぜ」

何が釣れたかは、小説本文続きをご参照のほど。

                                                                                                                                     高田裕史



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じんごろうのころ【甚語楼の頃】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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以下は、昭和4年(1929)11月7日付の読売新聞に掲載された「講談落語 一百人」第49回「柳家甚語楼」の記事です。

甚語楼というのは柳家金語楼のとりなしで柳家三語楼門に移ってからの志ん生。読みやすく直してあります。

ちょいちょい芸名を変えるのはあまり策の得たものではなく、この男などもそのために存在を知られていない上、こんにちは甚だ不遇の位置に甘んじて金語楼派の雑兵になって兵隊劇や寸劇だのヂャズなどへ使われているが、一時は真打ちで看板をあげたこともあり、しん馬を前名としていた過去を持っている。したがって本当にやらせれば随分大物もかつぎ出してどうにかこうにか消化してのけるところ時勢がよければ相当の位置にも昇るところはモヅモヅして引き立たないのは名人肌というわけで甚五郎と洒落たのかもしらねど妙に円右を張ったりする癖を除け自分を出して精進すれば独特の味もあるのだから大成もしよう。とにかくこのまま埋もれ木にしたくない良材なことは保証する。

なんと、この筆者は、その後の大成ぶりを予告していました。大切なところをしっかり見ていたようです。

古木優



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おおつえ【大津絵】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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志ん生ファンは数多くいますが、出久根達郎氏はとりわけ「大津絵 冬の夜」が好きだとはばかりません。こういう人、たまにいます。わたしもそんな一人です。

これは落語ではありません。俗曲です。一般には「大津絵」と呼んでいます。「大津絵」といえば、東海道の近江は髭茶屋追分宿でお土産に売られた戯画です。戯画の大津絵から派生して、さまざまな芸能が生まれました。ここがややこしい。戯画も大津絵、唄も大津絵、踊りも大津絵。志ん生の「大津絵」は大津絵節、ということになります。

髭茶屋追分は、東海道と伏見街道の交差する、まさに追分でしたので、大津絵はお土産に、願掛け魔除けに売られて、全国的な知名度をもったようです。画題が十種あって、そのバリエーションを忠実に守っていることが、大津絵の大津絵たらしめるゆえんなのだそうです。

大津絵節は明治の前半頃に大流行したそうです。うたいやすくて、素人でも誰でも詞をつくって曲をもつくれるのだそうで、花柳界ではどれもこれも大津絵節のお座敷だったとか。

         大津絵節の解説  大津絵踊り  幕末・明治期における民謡・大津絵節の歴史的研究                              

志ん生のうたう「大津絵 冬の夜」はCDに収録されています。これがおもしろく、志ん生にもう一人の志ん生がインタビューしているのです。

大津絵には滑稽味が漂うものなのですが、志ん生がうたう「大津絵 冬の夜」には滑稽味が皆無です。あの志ん生がどうして、といぶかる向きもありますが、これも志ん生なのです。市井に生きる人の切なる思いが胸を突きます。歌言の魂が聴く者に心に宿るような、しみじみとした太い力を感じさせます。    

五代目古今亭志ん生

ここで志ん生は、初代立花家橘之助(石田美代、1866-1935、音曲師)の弟子の「こみよ」さんという人に教わった、と言っています。

志ん生の「大津絵 冬の夜」にからんだ話には、いくつか有名なものがあります。

そのひとつ。

慶應の小泉信三(1888-1966、経済学)は毎年、志ん生を自宅に呼んで「大津絵 冬の夜」を聴きました。その折、小泉は、いつものくだりにくると必ず号泣するのだそうです。息子(小泉信吉)を戦争で亡くしたこと、多くの教え子を戦死させてしまったことなどがオーバーラップするのでしょうか。泣きたくて志ん生を呼んでいたようです。

私の大津絵(節)考

さらに。

山口瞳(1926-95、作家)の逸話もこれまた有名です。こちらは、明神下の神田川(うなぎ)において、志ん生を招いて聴いたという話。その額が10万円。昭和42年(1967)頃のこと。経済学的な換算ですと、消費者物価指数からはじき出せば4.3倍となり、それだと43万円となります。これなら、直木賞受賞の売れっ子作家ならどうということもありますまい。私の来し方の生活感覚からはじきだせば、現在の300万円ほどかと思われます。唄一曲聴くのにこの額は、そうとうなものです。竹内勉(1937-2015、民謡研究家)はこの当時、売れっ子噺家は5万円、円生が7万円で最高額だったようなことを言っています。押して知るべしです。

まずは、「大津絵 冬の夜」の歌詞をどうぞ。

冬の夜に風が吹く
知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ
これさ女房わらじ出せ
刺し子襦袢に火事頭巾
四十八組おいおいと
お掛かり衆の下知を受け
出て行きゃ女房はそのあとで
うがい手水にその身を清め
こよいうちの人になァ
けがのないように
南無妙法蓮華経
清正公菩薩
ありゃりゃんりゅうの掛け声で
勇みゆく
ほんにおまえはままならぬ
もしも生まれたこの子が男の子なら
おまえの商売させやせぬぞえ
罪じゃもの

山口瞳は神田川での一席を、一人5,000円の会費で募りましたら、またたく20人が集結。10万円は充填されました。それでも、神田川での食事代があります。付き添いのお弟子二人、三味線の平川てるさんなどへの払いは10万円の中にあったのでしょうが、気付けも(忘れてしまったそうですが)。なんだかだ10万円では足りなかったようです。まあ、それはともかく。「大津絵 冬の夜」を聴いた余韻にひたり鰻重に舌鼓打ちつつ酒席に変じた頃合い。はずした隣席の志ん生が、マネジャーの長女美濃部美津子(1926-2023)を通じて、山口を呼びました。「おとうちゃんが呼んでる」と。山口が行ってみると、志ん生はさっきの大津絵は満足しないのでもう一回聴いてくれ、と。その場で、山口は、志ん生のうなりをもう一回聴くことになりました。

 これを一言で言うならば、はなはだ月並みに言うならば、芸人の執念である。あるいは恨みである。あるいは怒りである。もどかしさである。あるいは魂である。あるいは律義である。そうして、自分の体と自分の芸との戦いだった。その場に立ちあってくれと言っているのである。大変に辛いことを書くが、そのときの志ん生さんは、もう、声が出なくなっていた。冬の夜に風が吹く、までは出る。あとは何が何やらわからない。私は、志ん生さんのまえに頭を垂れているばかりである。

志ん生の意気地を強く感じます。そのあと、山口はこうも記しています。

 志ん生さんが亡くなってから、彼の人柄がチャランポランであり、その芸は天衣無縫だと言われた。私は断じてそうは思わない。志ん生さんは律儀な人であり、その芸は計算された芸である。まっとうな修練を経た芸である。

私はここを引用したくて、ながながとつづったのかもしれません。「大津絵 冬の夜」には、もうひとつの「志ん生」がひそんでいます。

必聴です⇒大津絵 冬の夜

                               古木優

※参考文献:山口瞳『隠居志願』(新潮社、1974年)、矢野誠一『志ん生のいる風景』(青蛙房、1983年)、矢野誠一『文人たちの寄席』(白水社、1997年)


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めにかりができた【眼に借りができた】志ん生雑感 志ん生!

五代目古今亭志ん生

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宇野信夫(1904-91、劇作家)が書き残しています。

宇野が白鬚橋の手前に住んでいた頃、柳家甚語楼(志ん生)がよく遊びにきたそうです。

志ん生が業平のなめくじ長屋に住んでいた当時。貧苦の底をさまよっていた頃のことでしょう。業平から40分近くかけて歩いてきていたそうです。意外に距離があるんですね。

ある寒い日、宇野はあんかに入っていました。訪ねた志ん生もあんかに入り、二人は世間話に。

話しているうちに、志ん生はコクリコクリといねむりを始めました。

そのようすを見て、宇野は「この人はこれでおしまいかもしれない」と思ったそうです。よほど底辺徘徊、疲労困憊の様相だったのでしょう。

ところが、志ん生は目を覚ますや、「じゃり(子供)が朝早くから目をさまして、胸の上をあるきゃァがるから、どうも眼に借りができちゃって」とポロリ。

なかなかにしぶとい。いねむりのわけは貧苦よりもじゃりによるものだ、と。

「眼に借りができる」なんて、生活臭と酔狂感がないまぜの語感ではないですか。

志ん生っていう人は、ときどき使ってみたくなるような言い回しを発するものです。

宇野は記していませんが、志ん生はこれで終わりということはなく、いやいやどうして、なかなかに踏ん張っているもんだな、というかんじが行間からにじみ出ていました。

宇野と志ん生の年の差は十四歳。若い宇野には、奈落の淵にあってもしぶとくそこらへんをうろついている風情を漂わす志ん生の境地は、じゅうぶんに理解できなかったのかもしれません。

「眼に借りができる」とはその状況を集約しています。

志ん生は、土壇場でうっちゃれる噺家だったのですね、きっと。

※宇野信夫『今はむかしの噺家のはなし』(河出文庫、1986年)

古木優



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しんしょうのでしは?【志ん生の弟子は?】志ん生雑感 志ん生!

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NHK「いだてん」では、志ん生の弟子は今松と五りんしか出てきません。

今松はのちの古今亭円菊、五りんは架空の人。これはもう、既知のことかと踏んで、お次に進みます。

しかしまあ。

ここまで単純化すると、ストーリーをしっかり追っかけられてわかりやすい、ということなのかもしれません。でも、現実はそんな単純なもんじゃない。

落語ファン、志ん生ファンにはどうにも消化不良でした。だって、昭和30年当時、飛ぶ鳥落とす勢いの志ん生は、弟子たったの二人、なんていうことがあるわけがないのです。

あれは、NHKの策略で、「全国の落語嫌い」または「落語なんてどうーでもよいスポーツばか」のために、極端に矮小化したまでのことです。

ならば、実際には、どれほどの弟子がいたのか。

このサイトをご覧になってるのは、こよなく「落語」を、あるいは「志ん生」を愛する方々でしょうから、しっかりお伝えすることにいたしやしょう。

以下の通りです。ここから先は高田くんの登場です。(以上、古木)

はい、高田です。では、私が、志ん生と弟子について、少々しっかりとお伝えしましょう。

志ん生は『びんぼう自慢』末尾で「弟子もみんなよくなりましてな」と嬉しそうに語り、その後二人の息子(十代目馬生と三代目志ん朝)を除く、直弟子六人、内輪二人(古今亭甚五楼と古今亭志ん好)の名前を挙げています。

その六人とは以下の通りです。

馬の助(初代)
志ん馬(八代目)
円菊(二代目)
朝馬(三代目)
志ん駒(二代目)
高助(のち初代志ん五)

このうち、最後の高助は、正確には志ん朝の弟子ですが、志ん生生前には内「孫」弟子で住み込み、事実上門下扱いでした。

その他、早世した志ん治(鶯春亭梅橋)。

さらには、廃業した四人も。

志ん一(二代目志ん朝)
もう一人の、志ん一
銀助
古今亭馬子(紅一点)

馬子については、おそらく落語界初めての女流落語家でしたが、残念ながら入門時期や経歴は不明。

長女の美濃部美津子さんによれば、「結構頑張ってましたよ。父もかわいがってたんですけど、しばらくして好きな人ができて」、その結果、結婚・廃業したようです。

そんなわけで、直弟子は、惣領弟子で長男の馬生以下、志ん朝を加えて13人。

このうち、廃業して現在消息が知れない面々を除けば、平成29年(2018)1月18日に亡くなった志ん駒を最後に、ついにすべて、志ん生が待つ極楽亭に行ってしまいました。

83歳3か月で大往生した師匠の没年を超えたのは、円菊(2012年10月13日没、84歳6か月)だけで、ほんのわずか足りなかった志ん駒(81歳16日)を除けば、後は順に以下の通り。

梅橋(1955年、享年29、肺結核)
馬の助(1976年、享年47、癌)
朝馬(1978年、享年47、膵臓癌)
馬生(1982年、享年54、食道癌)
志ん馬(1994年、59歳、肝臓癌)
志ん朝(2001年、享年63、肝臓癌)
志ん五(2010年、61歳、上行結腸癌)

ここまで、師匠より先立った志ん治の梅橋を除き、すべて働き盛りでみんな癌。浴びるほど大酒を食らっても胃癌にも肝臓癌にもなるでなし、最後は眠っているうちに楽々と昇天した師匠に比べ、時代とはいえ、不公平なことかぎりなく、まるで志ん生にことごとく、生気を吸い取られたかのようです。

この弟子連、生前はそれぞれ、折に触れて師匠の思い出、逸話を語り残しています。

それを集大成したのが、『志ん生、語る。』(岡本和明編、アスペクト、2007年)。

家族、弟子、同僚や後輩の噺家たちが、知られざる志ん生の思い出を寄せた、貴重な一冊です。弟子では二人の子息初め、志ん馬、志ん駒、志ん五の証言。

それぞれに興味深いですが、志ん馬は、師匠は若い者に稽古をつけるのが好きで、よその弟子でも、来れば細部までていねいに教えていたこと、「落語ってのは、大筋を覚えてればいいんだ。後は自分の創意工夫だ」と。

倒れてから「どうしてみんな稽古に来ないんだろう」と寂しそうに言ったそうです。

総じて、志ん生は弟子にやさしかったようです。飲み屋の払いも、わざと円菊にさせ、まるでせがれに親孝行でおごらせるように、ニコニコと嬉しそうにしていたとか。

ところで、円菊といえば、二つ目のむかし家今松当時、志ん生が病後のもっとも大変な時期に、内弟子でいつも影のように寄り添い、寄席に復帰してからも毎日師匠をおぶって楽屋入りするので、落語は下手だが、稀に見る師匠孝行というので真打ちにしてもらったという噂で「おぶい真打ち」というあだ名まで奉られた人。

その円菊も、『志ん生! 落語ワンダーランド』(読売新聞社編、1993年)中のロングインタビューで、こんなことを述べていました。

稽古については志ん馬同様、あまり細かいことはうるさくなかったと回想しているのです。

おもしろいのは、師匠が前で噺をしゃべってくれても、あまりにおかしくてろくに覚えられず、吹き出してしまうと「木戸銭取るぞ」と怒られたとか。

ここに、ちょっと興味深い音源があります。

題して「古今亭志ん生 表と裏」。

出自はまったく不明ですが、おそらく当時、志ん生が専属だったニッポン放送のラジオドキュメンタリーかと思われます。

志ん生がトリで寄席がハネた後の楽屋風景から、朝の志ん生家の生録音へと移る貴重な記録。時期は推定で、倒れる直前の昭和36年(1961)ごろ。

りん夫人ほか一家総出演で、途中で別棟の馬生が孫の志津子(のち女優の池波志乃、当時6歳)を連れてやってくる場面があって、なかなか愛らしいのですが、その後、当時今松の円菊が「三人旅」を志ん生に稽古してもらうくだりがあります。

「…あのね、旅してありいてんだからね、え、少しからだをね、こウ、いごかしてほしいんだな。(自ら出発風景を演じて見せて)旅というものをしている心持ちじゃなけりゃいけない。(山や海を見ている心で)客を引っ張り込まなきゃいけない」

「紋付きを着て出てえる人間(噺家)が、紋付きがなくなっちゃって、半纏着ている人間がしゃべっているようでなきゃ。…ただ噺をすればいいってもんじゃない。噺を活躍させなきゃいけない」

いかにも実際的で、志ん生が生涯目指していたという正統派の志向が、よくうかがわれます。

ふだんはぶっきらぼうで、弟子がやって見せても真剣そのものの表情で、クスリとも笑ってくれなかった志ん生でも、これほどすべての弟子に愛され、慕われた師匠は、またとなかったでしょうね。

高田裕史



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しんしょうがなりすまし【志ん生がなりすまし】志ん生雑感 志ん生!

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志ん生がらみのことで、麻生芳伸さん(1938-2005)からしか聞いたことのない話があります。

志ん生が柳家甚語楼だったころのことでしょうか。

人気絶頂の初代柳家金語楼(山下敬太郎、1901-72)と同宿していたんだそうです。

金語楼は連日、寄席に引っ張りだこ。甚語楼はお声がかからず、部屋でくすぶる。金語楼の下流に甘んじる甚語楼。

そんな構図だったようです。でも、二人は仲良かったんだとか。

ある日。

金語楼がいつものように寄席に行く支度をしていたら、甚語楼が金語楼を縄でぐるぐるに縛ってしまいました。

甚語楼は金語楼の着物を着て、「柳家金語楼」になりすまして高座に出たんだそうです。

テレビもなかった時代。甚語楼が金語楼を騙って高座に出ても、客は「いつもとちょっと違うなあ」くらいで通っちゃったのですかね。

こんな仕儀がまかり通ったとは。のんきなもんです。昭和4年(1929)ごろのお話でした。

古木優



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しんしょうのひとこと003【志ん生のひとこと 003】志ん生雑感 志ん生!



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それで文楽師匠が「孝ちゃん、その着物ウールかい」って言ったら、志ん生が「売らないよ」って答えるんです(笑)。

古今亭志ん駒のインタビュー
聞き手は吉川潮氏。2006年1月11日
KAWADE夢ムック『古今亭志ん生』(河出書房新社、2006年)より

■「孝ちゃん」とは、もちろん五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)のこと。志ん生が体調不良のときに、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)がウイスキーなんかを持ってお見舞いに来るんだそうで、そのときの会話を、弟子の古今亭志ん駒(徳永一夫、1937-2018)が語っています。志ん生の天性のおかしさがみじみでていますね。そういえば、何年か前に「明神下神田川」で鰻を堪能した折、二階の踊り場に志ん生と文楽のツーショットが飾ってありました。それが左上の写真です。店主が言うのには、文楽はよく利用してくれたけど、志ん生はめったに来なかったんだとか。昭和31年(1956)12月に志ん生が「お直し」で芸術祭賞を受賞したお祝いに、文楽が招いた折の写真だとうかがいました。文楽と志ん生はなかよしだったのですね。

2023年9月27日 古木優

しんしょうとにんじゃ【志ん生と忍者】志ん生雑感 志ん生!

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古今亭志ん生を語ろうとすると、いまだに「貧乏」の二字がついて回ります。

でも、志ん生自身は貧乏ではなかったようなのです。

志ん生の懐にはしっかり金が入ってきていました。志ん生はこの金を家に渡さなかったのです。

貧乏だったのは美濃部の家族です。りん、美津子、喜美子、清(十代目金原亭馬生)までが辛酸をなめ尽くしました。最後の強次(三代目古今亭志ん朝)は、貧とは無縁でした。

強次が生まれた昭和13年(1938年)あたりから、志ん生は売れ出しているからです。

おまけにこの年は、師匠の初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が逝っています。志ん生は三語楼の話財をまるごといただいているのです。「ヘービーチーデー」とかの。噺家の世界にはよくある類型です。

美濃部家は高位の旗本直参だったという話ですが、これもどこまで高位なのだか。

ただ、美濃部という家は近江国おうみのくに(滋賀県)の甲賀こうか郡の国人(土豪)ですから、甲賀衆の流れをくんでいるのはたしかです。美濃部達吉も美濃部亮吉も同じ系統なんでしょうね。

神君伊賀甲賀越えに随従した甲賀者の一人だった、ということでしょう。

名前を17回も変えてみたり、「二階ぞめき」をやっているうちに「王子の狐」に代えてしまったり(最後の高座、1968年10月9日)、といった融通無碍ぶりは、こっちの系統だったからなんでしょうかね。

融通無碍。すてきなことばです。これこそが、志ん生を読み解くためのキーワードでしょう。

貧乏も忍者もこの四字熟語にパックリのみ込まれて、いずれはとろけてしまうのです。だから、なめくじとも縁があるんですね。

古木優



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特設 しんしょうさんせんじゅうよんばんしょうぶ【志ん生三選 十四番勝負】志ん生雑感 志ん生!

特設

古今亭志ん生の本名は美濃部孝蔵といいました。美濃部家は徳川宗家の旗本でした。遠くは甲賀の出身だそうです。そう、甲賀忍者を先祖とする家だったのです。神君伊賀甲賀越えに随従したのだとか。ほら、「大河」でやってたアレですね。忍者と噺家。どこか似ていますね。人をけむに巻く、とかで。そこで、2023年9月21日、志ん生の没後五十年をしのんで、志ん生の人となりを、さまざまな観点から考察していきます。これぞ考察!

高田裕史

第一番 天敵三選

①円生 ②漬物 ③ナメクジ


①志ん生が、人間的にも芸風にもどうにも好きになれなかったのが、十歳下の円生だった。後年、両者が、時に知人に、または対談などで、かなり露骨に互いに辛辣な言葉を浴びせている。これは矢野誠一が指摘している通り、たたき上げでのし上がった志ん生と、御曹司(継父が五代目円生)でエリート意識が強かった円生では、ウマが合うはずもない。なまじ満洲(中国東北部)で食うや食わずの極限状況の共同生活をするうち、些細なことで衝突、なじり合いを繰り返し、それが戦後帰国してお互い大幹部になっても尾を曳いていたということだろう。※『志ん生のいる風景』(矢野誠一、文藝春秋) 

②志ん生の漬物嫌いは、長女美濃部美津子の著書などでも紹介されているが、これはひとえに志ん生が生涯持っていた、自分は士族、それもれっきとした旗本の子だという自負と矜持によるものとみえる。「漬物(コウコ)は農民の食べ物」と麻生芳伸にも漏らし、若い頃から親しかった宇野信夫にも「士族自慢」をたびたびしていたという。ということは、①についてはじつはこんなこともいえよう。志ん生はすさまじいエリート意識で芸人出の円生を見下していたと。志ん生も円生も別なベクトルのエリート意識をひっさげていたわけ。矢野の見方は皮相で、真相はこんなところだろう。

③これは志ん生ファンには説明の要はない。五寸もあるのが「カカアの足に食いつき」「這った後の壁がピカピカに」「猛毒で猫が七転八倒」……よくまあ、食い殺されなかったものだ。

第二番 好物三選

①納豆 ②マグロブツ ③酒茶漬け 番外 氷水


①「お父さんは納豆が大好物でした。昔、納豆売りに失敗したとき、やんなるほど食べたでしょ。普通ならそれで嫌いになりそうなもんなのに、年とってっからも毎日食べてた。ほんとに好きだったんでしょうね。(中略)とにかく、納豆なしじゃいらんないってくらいでしたね」。1961年ごろ録音の、志ん生一家の朝の日常を生撮りしたドキュメンタリー(?)でも、妻のりんが「よく毎日ナット食べるね」と呆れている。※『三人噺 志ん生・馬生・志ん朝』(美濃部美津子、扶桑社) 

②晩年の志ん生が贔屓にした文京区千駄木の居酒屋「酒蔵松風」の女将の証言。「(酒の)サカナはブツ専門でした。普通のおさしみはあがらないの。マグロが大のお好みでしたね」……。これは美津子の著書にもある。よほど好きだったと見え、1946~58年まで、アメリカによる23回もの核実験の影響で放射能汚染が問題となった「ビキニまぐろ」も、志ん生は値下がりしたのを幸い、モノともせずにパクついていたという。※『志ん生伝説』(野村盛秋、文芸社) 

③弟子、古今亭円菊の証言。「てんぷらなんか食べにいっても、とにかく、キューッと一杯、冷やで飲んで、あともう一杯は、天ドンなら、どんぶりのなかへビャーッとかけて、”酒茶漬け”というか(略)酒でごはんを食べますからね。。うまいんだそうです」※『志ん生伝説』。

番外「氷水」 これは四代目三遊亭円楽の証言前座時分、楽屋では志ん生は「出来れば氷水という方。猫舌だったのか熱いお茶は好みませんでした」。※『円楽芸談しゃれ噺』(四代目三遊亭円楽、白夜書房)

第三番 迷言三選

①酒はウンコになる ②二円五十銭よこせ ③女、とっかえろ


①正確には「ウーン、ビールは小便になって出ちまうけれども」に続く。「すごい奥の深いことをおっしゃる方でございますね。並大抵の人じゃ言えないお言葉でございましてね。(笑)ずいぶんいろんなお話を伺ったんですが、これが一番わたくしの心に、強く強く残っている名言なんでございます(笑)」。亡き名優に敬意をこめて、断然これがトップ。ビールは水代わりで、夜中に弟子が「水持ってこい」と言われて本当に水を持っていくと「バカ野郎」と雷が落ちたそうな。※『小沢昭一的新宿末廣亭十夜・第二夜 志ん生師匠ロングインタビュー』(小沢昭一、講談社) 

②「天敵」に関連して、六代目円生が後に対談で暴露。満洲時代のこと。奉天へ向かうため、新京(長春)のホテルを引き払うとき、一台しか来なかった人力車に志ん生一人だけ乗ったのに、後で円生に「五円取られたから二円五十銭よこせ」と割前を要求。「君一人しか乗らなかったじゃないか」「お前のカバンを乗っけてやった」。聴いていた一同は爆笑。こりゃ誰でも怒る。 

③志ん生の若き日の飲む打つ買うのメチャクチャぶり、珍談なら、もうこれは甚語楼時分からパトロンだった坊野寿山の証言にかぎる。すさまじい話が多すぎるが、女に関してはとにかく手が早く、貪欲だったようだ。これもその一つで、ポン友だった当時の馬の助(のち馬生)に女郎屋で十銭出して、こう強要した。友達の相方でもおかまいなしに「強奪」しようという。さすがに「冗談じゃねえ。ワリ(寄席の給金)じゃねえや」と拒絶されたよし。

第四番 パトロン取り巻き三選

①坊野寿山(1900-88) ②小山観翁(1929-2015) ③宇野信夫(1904-91)


①若い頃からのパトロンにして、生涯の遊び仲間だった。当人が都合よく忘れている旧悪はすべて覚えていて、ほとんどこの人によって暴露され、貴重な記録として残されている。志ん生より十歳下にもかかわらず、日本橋の呉服屋の若旦那で金は湯水のごとく使い放題だから、噺家が食らいつくにはこれ以上ない。後年は「川柳家」として大をなす。志ん生も寿山の勧めであまりうまくない川柳をひねっている。

②知る人ぞ知る「昭和の大通人」。もとは電通のプロデューサーで、川尻清譚門下の歌舞伎研究家、特に歌舞伎座の初心者向きイヤホンガイドでも有名だが、もとより落語の方も生き字引。志ん生とこの人の結びつきは『対談落語芸談4・古今亭志ん生』(弘文出版)にくわしい。学生時代から始まり、就職後は電通制作の落語番組で志ん生を起用したことから公私ともに親交を深め、狷介な志ん生を巧みになだめすかして仕事の面倒を誰よりもよく見たことで、「小山亭が言うんじゃしょうがねえ」と晩年の志ん生が唯一「何でも言うことを聞く」といわれたほどの人。 

③劇作家。昭和初期、六代目尾上菊五郎のために、数々の新作歌舞伎脚本を書き下ろしたことで有名。若い頃から落語にも造詣が深く、六代目円生とは特に親しかったが、志ん生とは柳家甚語楼時代、宇野がまだ学生だった昭和初期からの遊び仲間。埼玉・熊谷に本店を持つ染物店の若旦那だった。坊野ほどではないが、やはりパトロン的存在である。『昭和の名人名優』(宇野信夫、講談社)には、あまり知られていない甚語楼時代の貴重なエピソードが多数収まる。

第五番 コレクション道楽三選

①たばこ入れ ②和時計 ③金魚


志ん生の古道具、骨董趣味は家族や門弟などによってよく語られるが、もちろん戦後、極貧とおさらばして功成り名遂げ、趣味に金と余暇を使えるようになった晩年の楽しみだったろう。 

①は文楽と競争してコレクションしたという※『志ん生伝説』。「オレが文楽に教えたんだ」と威張っていたとか。これに関しては坊野寿山の回想も。「私しゃ死んでも離しませんから」と志ん生に高価なタバコ入れをねだられ、しかたなく中身ごとやると、五、六日して柳枝(八代目)が来たら、その煙草入れでうまそうにスパスパ。志ん生から五円で買ったらしい。「あの野郎、モートル(=博打)で負けて、五円なんかで売っちまったんだ」 

②これも『志ん生伝説』による。谷中の時計店氏の回想。弟子(おそらく円菊)におぶわれて来店したというから最晩年だろう。一度買っても気に入らないと、何度でもまた買い直しにきたくらい凝っていたとか。もっぱら白の和時計で、飽きると片っ端から人にやってしまったようだ。 

③古道具や骨董同様、ペットも欲しいとなったら片っ端から衝動買いし、片っ端から飽きてまた別の動物を飼う。長女美津子の証言によると鳥ではインコやカナリア、ウグイス。犬もしょっちゅう取り換える。その中でもっとも長続きしたのが「金魚金魚ミイ金魚」。自宅裏庭の池で泳がせ、金魚釣りをして無邪気に喜んでいたという。

第六番 志ん生の新作落語三選

①一万円貰ったら 「講談倶楽部」1939年5月増刊号所載 
②隣組の猫 「富士」1940年10月号所載 
③強盗屋 「キング」1937年4月増刊号所載


新作を中心にした速記を集成した『昭和戦前傑作落語全集』には志ん生のものは計21題が掲載されているが、矢野誠一によると、志ん馬改名(1934年7月)の頃から自作と称して新作の速記をよく出版社に持ち込んでいたらしい。ここにラインナップした3題はそのうちまあまあおもしろいと勝手に判断して順に並べたもの。いずれもどうやら自作らしい。 

①は志ん生襲名後のもの。 古典の「気養い帳」風に、長屋で大家が景気づけに「仮に1万円(現代だと数百万)貰ったら何に使うかと次々に聞く。例によって頓珍漢な解答の後、最後に「双葉山贔屓だから、国技館で祝儀に双葉にやっちまう」「全部?」「いえ、九千九百九十九円九十三銭」「あとの七銭は?」「帰りの電車賃にとっとく」というセコいもの。 

②の噺の眼目は不細工なかみさんをグチるくすぐりで、それも後世「火焔太鼓」などに使ったものよりずっと過激で、なぜか戦後はほとんど消えた幻の逸品揃い。「唇が薄いというからてめえを貰ったんだ。薄けりゃベラベラしゃべるから、借金の言い訳になると思ってよ」「あの顔色をごらんよ。頬骨が出て眼肉がこけて、まるで患ってる鰻だよ」と亭主が言えば女房も「(貧乏暮らしで)人の肉を盗っちまいやがって、泥棒っ」と応酬するなど、この夫婦げんかだけでも二位の価値は十分。 

③はまだ七代目馬生時代で、実は気の弱い旦那が、細君に自分は柔道三段だから強盗なんぞ怖くないと見栄を張り、それを証するため、これも気の弱いルンペンに、5円で狂言の強盗役を頼むが……というライトコメディー。オチも含め、なかなかよくできている。

第七番 志ん生作の川柳三選

①羊羹の匂いをかいで猫ぶたれ
②のみの子が親のかたきと爪を見る
③捨てるカツ助かる犬が待っている

志ん生が「旦那」の坊野寿山の勧めで、生涯かなりの数の川柳をものしたことは「パトロン」の項でも触れたが、あくまで「川柳」であって文人気取りの俳句でなかったことがこの人らしい。割にファンの間で有名なものには、『びんぼう自慢』の巻末にある「エビスさま鯛を取られて夜逃げをし」「松茸を売る手にとまる赤とんぼ」「豆腐屋の持つ庖丁はこわくない」「雨だれに首を縮める裏長屋」など、ペーソスを効かせたなかなか洒脱なものも多い。ここではあえて、「コレクション道楽」の項でも紹介したように当人が動物好きであったことも考え、動物で三句を選んでみた。矢野誠一が一度直接当人に尋ねたら「別に」とそっけなかったそうだし、せっかく飼っても例のズボラと気まぐれですぐ飽き、ペットもとっかえひっかえではあったようだが、これは江戸っ子特有の照れやシャイな気質の表出と見る。志ん生は得意ネタ、マクラ、小噺でも動物を擬人化したものがうまく、そこには、弱い虐げられた者の怒りや悲しみを動物に託した、敗残の江戸人の生き残りの精一杯の反骨心があるといえる。その意味で、飢えてぶたれた猫も、親をつぶされたノミの子も、捨てられたカツに飛びつく野良公も、すべて若き日の餓えた美濃部孝蔵そのものの分身だったのだろう。

第八番 志ん生の恩人三選

①美濃部りん
②初代柳家三語楼
③三代目小金井芦州
番外 上野鈴本・島村支配人

①はもう、これは誰も文句はないところ。ミセス・ミノベなくして美濃部孝蔵も五代目古今亭志ん生もなく、それどころか噺家を廃業したまま、陋巷に野垂れ死にしていたかもしれない。あらゆる資料のあらゆる関係者でこの老夫人を褒めない者はいない。「賢夫人」「『あわびのし』のような夫婦」「器用で裁縫上手で、自分の内職一本で夫と子供たちを養った」「普通の人間なら、たとえ大正の昔でもとっくに別れている」「子供の頃からの苦労人で、極貧生活なのに、困っている人間を見ると有り金をやってしまう」……。こうなるともう菩薩、聖母マリアそのもの。にもかかわらず背信亭主は、祝言の夜から仲間と居続けでチョーマイ(女郎買い)。ヒモ同然に同棲していた女と、結婚後もしばらく縁が切れず(二人の子が後の某大女優という説あり)、大看板になっても向島の芸者のところに回数券付きで通っていた(円菊談)……。菩薩の顔も三度までで、「さしものお袋がもう別れようと思ったことは二度三度じゃなかった」(長男馬生談)。にもかかわらず、とうとう50年間添い遂げてしまう。こんなかみさん、絶滅種どころか、もはや日本のどこにも存在しないだろう。 

②③はそれぞれ、五人目(最後)とその前の師匠。志ん生自身は、「師匠」と仰ぐのは、終生最初の師匠と頑なに言い続けた名人・四代目橘家円喬だけで、実際の最初の師匠・二代目三遊亭小円朝を含め、他の師匠には尊敬もなにもなかった。ただ、三語楼と芦州は、それぞれ芸の上では大恩人だった。

第九番 志ん生への寸評三選

①志ん生は色彩、文楽は写真(小絲源太郎)
②文楽は古典音楽、志ん生はジャズ(徳川夢声)
③オヤジ自体が落語(古今亭志ん朝)

①は日本芸術院会員で文化勲章受章者の洋画家によるもので、この言葉だけで志ん生のみを「芸術家」と遇しているようなもの。黒門町ファンには大いに反発を招くだろうが、古い世代の画家(1887年生、志ん生より三歳上)にとって、写真はただ「機械的な現実もどき」の大量生産に過ぎないとするなら、いつも固定して動かない文楽の芸をこう例えたとしてもおかしくはない。 

②の夢声は対談相手でもあり、個人的にも親交があったから、古今亭贔屓なのには違いないが、①に比べ、より公正でわかりやすい評。つまりは厳格な格式・様式と自由奔放な変奏・くずしという、ごく一般的な両者の芸への感想を西洋音楽に例えたセンス。ただ、若き日の志ん生がどちらかというとオーソドックスな正統派の芸を志向し、結局それでは売れなくて、やむを得ず三語楼流の破格の芸に走った事実は、同世代の夢声老(1894年生)なら当然知っていたはずだが。 

③は円朝にはなれて志ん生にはなれなかった次男坊の、シンプルかつすべてを包含した嘆息。

第十番 あだ名三選

①人差し指
②貧乏神
③オケラのコーちゃん

①複数の出典があるが、代表的なものでは、甚語楼時分の志ん生のパトロンの一人で、遊び友達だった宇野信夫が自著『昭和の名人名優』ほかで暴露している。バクチ狂いだが始終負けてはスッテンテン。どうにもならなくなると「ここへこれだけ(タネ銭を貸せ)」と人差し指を出す。ということはたぶん一円。もちろん誰も相手にしない。単に「指」とも。 

②四代目柳家小さん。「甚語楼に渋団扇を持たせたら貧乏神」と評した、同業者で同世代ならではの辛辣な命名。つまりは昭和初年の志ん生は、なりがほとんど物乞い同然であるばかりか、芸もまた垢じみてて貧乏臭かったということでもある。 

③三味線漫談、都家かつ江の証言。志ん生三回忌の1975年、『志ん生伝説』の著者野村盛秋に語った追想コメントで、例えば花札でオケラ(麻雀でいうハコテン)になると、例によって「貸してくれ」。で、自称二円五十銭の高級時計をカタに置いていくが、案の定受け出しに来ない。結局、始終時計屋へ直しにいかなければならない、二束三文のオンボロ時計だということがばれ、ねじ込むと「だからさー、キミがあの時計を持ってネ、時計屋へ養子に入りゃいいんだよ」……。これが大看板の志ん生を継いだ後だから、あきれ果てる。というか、志ん生というパターン化に成功したわけ。

第十一番 芸のポリシー三選

①教えた噺はやらない
②汚い噺はやらない
③言葉が、正宗の名刀であれ

①これはどの門弟後輩に対しても共通したポリシーで(真打ちに限るが)、噺は財産なので、きちんと教えたネタは譲ってやったも同じだから、原則としてもう自分では封印する。これは江戸っ子の美学であると同時に、その教えた相手がどんなに汗をかいて熱演しても、到底志ん生には及ぶべくもないから、それによって自信を失わせることを避けた思いやりでもあるだろう。 

②は、どんなに薄汚れた世界を演じても、美学に反する噺だけはやらない、というサムライの末裔のプライドか。例えばどんなに勧められても、弱い立場の女郎をよってたかって酷い目に遭わせる「突き落とし」だけは頑として演じなかった。また、バレばなしはやっても、「汲み立て」「禁酒番屋」ほかの、文字通りのスカトロネタは演じなかった。志ん生にとっての「汚い噺」というのは、その両方の意味を兼ねるのだろう。 

③はえらく大きく出た言い方に聞こえるが、内弟子時代から私生活にも密着し、せがれ同然にかわいがられた円菊の語り残し。長男の馬生に稽古をつけているそばで聞いていたことで、言葉のメリハリには厳しかったということ。細かい表現などは意味が通じればいいが、名刀のようにコトバが切れなくっちゃいけない、間違っても二度同じことを言うな、とも。なるほど、フニャクニャムニャムニャ言っているようでも、よく聞けば志ん生の「セリフ」ははっきりわかる。メリハリのよさ、センテンスをスッパリと短く切るさわやかさは、即妙のギャグを活かすもっとも重要なポイントだったわけだ。

第十二番 同い年生まれ三選

①ドワイト・アイゼンハウアー
②シャルル・ド・ゴール
③教育勅語(本人推薦)
番外 花王石鹸 帝国ホテル、凌雲閣、国会議事堂、電気椅子(米)

明治23年(1890)戊五黄寅生まれの赤ん坊は、統計資料によれば、日本だけで男女合わせて約119万人。世界中を見渡せば、おそらくその二十倍はいただろう。どの年でも同じだが、その中で、少なくとも人名事典に名を残すほどになった者も山ほどいる。もっとも、「偉人」の領域になるとかなり絞られるが、それをいちいちあげていればキリがない。五代目古今亭志ん生こと故美濃部孝蔵氏が偉人かどうかは評価がわかれるだろうが、少なくとも「芸術家」の分野に限れば、まあまあ世界トップ100には入れたい気がする。そこで①と②、現代史をひもとけば必ず出てくる世界的な政治家(将軍→大統領)ながら、美濃部孝蔵との共通点は……見事にまったくない。むしろ、同じ年に大小便垂れ流しながら生まれてから、70年も経過して、よくもまあ、これほど隔絶した人生をたどるものと、その究極の例としてだけあげておいた。いや、本当は③をトップに据えたいくらいで、これはご当人が『びんぼう自慢』で「教育勅語が降下になったのが、その年(明治23年)の10月だから、あたしのほうが教育勅語より少うし兄貴てえことになる」と胸を張っている。なるほど、志ん生流の四次元的発想では、別に「同い年」といったところで人間に限定しなければならないということはないはず。ところがあいにく、日本では明治23年という年、珍しく天下泰平極まる年で、主なできごととしては教育勅語のほかは、せいぜいが2月- 金鵄勲章制定だの、4月-内国勧業博覧会開催だの、その他、第一回衆議院議員総選挙、花王石鹸新発売、凌雲閣、帝国ホテル開業と、あまり歴史に残るイベントはない。そこでどうせ中途半端なら、志ん生も明治の子、尋常小学校の頃は「大臣・大将」が理想像だったろうから、いっそ大統領二人の同年生の方が喜ぶだろうと愚考した次第。番外では人間以外の方々もいくつかご紹介しておいた。

第十三番 冥途の道連れ三選

①七世芳村伊十郎-長唄唄方、9月20日没、享年72
②二十四代木村庄之助-大相撲立行司、9月19日没、享年72
③ J・R・トールキン-英、作家・詩人、9月2日没、享年81

残念ながら、少なくとも人名事典に名を残すほどの著名人では、志ん生師匠と同日(9月21日)に三途の川を渡った人は見当たらない。師匠より一日早く旅立った①の7世伊十郎は不世出の名人。人間国宝の肩書もあってトップに据えた。②とした24代庄之助は、柏鵬時代を裁いた名物立行司。「山伏庄之助」とも。③のトールキンは、文学の最高峰『指輪物語』の著者。サルバドール・アジェンデ(チリ大統領、9.11)、グスタフ六世(スウェーデン国王、9.15)、パブロ・ネルーダ(チリの詩人、9.23)なども。これらの人々と志ん生の接点は一切なし。強いて言えば共通点は「男」というだけだが、そういえば同行者の中には、残念ながら老いて逝った元女優何人かを除けば、妙齢のご婦人は見当たらなかった。肝心の同業者だが、この1973年には、同世代でただ一人、最初の師匠・三遊亭小円朝の長男、三代目小円朝があの世へ行っている。小円朝は二か月早く7月11日没(享年80)。若き日、志ん生が「ねずみの殿様」とあだ名を付けた人で、この人は二歳年下でもそこは「師匠のお坊ちゃん」で、なんとなく煙たい存在のまま終生あまり仲はよくなかったようだから、いっしょに道中したい相手ではなかっただろう。

第十四番 志ん生の弟子三選

①初代金原亭馬の助
②二代目古今亭円菊
③八代目古今亭志ん馬

志ん生が満州から帰国後、弟弟子(三語楼門下)から志ん生門に移った志ん太(のち二代目甚語楼)、同じく三寿(のち志ん好)を別格として、志ん生直門の弟子は長男の四代目むかし家今松(のち十代目金原亭馬生)を筆頭に、最後の志ん五まで12人。そのうち、早く廃業した者、五代目古今亭今輔門下に移籍した志ん治(のち鶯春亭梅橋で真打、早世)を除いて、真打になった者は8人。順に馬生、初代金原亭馬の助、八代目志ん馬、二代目円菊、三代目吉原朝馬、三代目志ん朝、初代志ん駒、初代志ん五。このうち、志ん生の実子だった馬生、志ん朝を別格とし、残り5人から3人をピックアップした。この選択はあくまでランダムで、人気や芸の評価からの順位付けではない。なお、2018年1月18日の志ん駒の死去を最後に、この8人はすべて故人となった。悲劇的にも、享年で師匠を超えたのは円菊ただ一人で、没年齢は順に馬生54、馬の助47、志ん馬59、朝馬47、志ん朝63、円菊84、志ん駒81、志ん五61。80歳を超えた2人を除いて、早世した弟子が多いのは、赤貧に鍛え上げられ、重い脳出血から奇跡的によみがえって83歳まで酒を飲み続け、なお芸への執念を燃やし続けた明治男の強烈なエネルギーに、どいつもこいつもみな生命力を吸い取られたためかとさえ思える。

ごじゅうねんごのしんしょうは【五十年後の志ん生は】志ん生雑感 志ん生!

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

2023年8月26日、美濃部美津子さんが「お父ちゃん」の元に旅立った。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の長女である。マネジャーとして、長年、名人を支えてきた人でもあった。白寿の享年。合掌。

奇しくも、あれから五十年。経めぐってきたこのとき。はやいようなおそいような。

志ん生はまだ向こうでおとなしくやっているかのどうか。知りはしないが。

美津子さんは美濃部ファミリーの語り部だった。志ん生、りん、喜美子(次女、三味線豊太郎、1925-81)、馬生、志ん朝……。志ん生志ん朝マニアには、美津子さんご自身が伝説であり続けた。

伝説といえば、このこと。

この半世紀、落語界の枠を超えて針小棒大に手垢をなすられ続けた感のある志ん生。

その人気は、ネット時代となっても衰えを知らない模様である。

こころみにYouTubeで検索すれば、出るわ出るわ。

病後のくたびれた時期の録音も、数少ない実写などもあわせたら、ゆうに100件を超えている。

中身もふるっている。

五十回忌での「五十年追善興行記者会見」とか、新作落語「志ん生がスティック買う?」とか。

百花繚乱である。

ひところは、当人出演の古いTVインタビューも、ざくざくアップされていた。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894.10.25-1964.11.8)との、ともに入れ歯ガチャガチャの対談など、まだまだ掘り出しものがさらされることだろう。

現在、Wikipediaの外国語版では、ドイツ語版にのみ志ん生のページがある。奇妙なことだ。次男志ん朝との因縁なのだろうか。

こんな現象が続くならば、志ん生の私生活や心象風景をも覗き込めるかもしれない。

志ん生という人は、その芸が好きになると、もう風呂場の中まで覗きたがるたちだったという。

岡本和明著『志ん生、語る』は、近親者や弟子の聞き書きで、要領よくまとめられてある。そんな生身の志ん生が浮き上がっている。全編、興味深い。

骨董贔屓に力士贔屓が活写されている。印象深い逸話の数々。

ただ、やれ骨董道楽だの、それ鶴ヶ嶺贔屓だのと、それは過ぎし世の老爺たちがいとなむ、ありふれた日常にすぎないようにも見える。

あたりまえのことだが、志ん生は噺家である。そこらの爺とは違う。

肝心の落語についてはどうか。

あえて、私見を。

志ん生の一見アナーキーなギャグや客の掴み方は、演芸界で生き残らんがための当人の悪戦苦闘と、そこから生み出された冷徹な計算の賜物ではないか、と私は思うのだ。

当人が意図的に拡散した虚実ない交ぜの武勇伝。例の極貧譚なども、すべてはおのれが落語でのし上がるための方便だったのではないだろうか。

具体例を出そう。

五銭の遊び」である。

紙くず屋との「十銭か」「五銭か」と、たたみみ掛けるやり取り。

その末に、「三銭か」「当たった」「あ、三銭」の最後の「あ」と同時に客の笑いがどっと被り、末尾をかき消すと同時に、笑いは百倍にも増幅する。

痛快な場面である。

スタジオ録音などでは、とうてい得られない誘爆力だろう。

これもまた、志ん生流の落語の立体化である。

没後、半世紀にもなって、なおマニアを量産する魔術、催淫効果と言えないか。

なにか、身ぶるいのする凄みさえ感じるというのは、大仰だろうか。

で、蛇足を。

明治23年(1890)生まれの美濃部孝蔵クンには、日本だけでも119万人もの赤ん坊仲間がいた。世界中の「同級生」を挙げれば、アイク、ドゴールがすぐに思い浮かぶ。この二人で十分だろう。

しかし、である。と、私は強調したいのだが。

たかだか米仏大統領二人の朗々たる名演説ごときは、志ん生が成し遂げた酔いどれ聴衆掌握の珍妙きてれつな話術に比べれば、屁でもない。それは断言できる。

冥界の当人は、さぞ、もう、多分、うんざりなことだろう。

娑婆ではまだそんな繰り言めいた妄言を広げているのか、いいかげんに瞑目させてくれ、と怒っているかもしれない。

だが、まだまだ当分、娑婆にたゆとう「古今亭志ん生」は、解脱などできそうにない。マニアの脳裏にしっかり根付いているのだから。

あれこれ含め、古今亭志ん生はつくづく不世出、永久欠番の天才噺家であったことだなぁ。

高田裕史

しんしょうのなかにはっかーが!【志ん生の中にハッカーが!】志ん生雑感 志ん生!

テレビドラマ「VIVANT」(TBS系)が話題です。

8月6日放送の第4話では、丸菱商事のシステムを改竄して誤送金を仕組んだのは太田梨歩(飯沼愛)だったことが判明しました。

彼女宅から警視庁公安部が押収したブツの中には、なんと『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)も。

渋いです。

このディスクが怪しいと睨んだ野崎守(阿部寛)。PCに差し込むと出囃子「一丁入り」が公安部内、場違いに響きわたります。

ディスプレイには「blue@walker」の文字が次々と表れて。太田梨歩は名うての暗躍ハッカーだったのでした。

志ん生とハッカー。

この盤には「首ったけ」「火焔太鼓」「幾代餅」が収録されています。お得です。

ドラマ後半では、乃木憂助(堺雅人)がじつは自衛隊内のかそけき組織「別班」の一員だったことが。

これには視聴者全員ビックリでしたが、それ以上の椿事はやはり志ん生CDにハッカー(の名)が潜んでいたことでしょう。まさに首ったけ。

このドラマの視聴者にどれほどの志ん生ファンが潜伏しているのかは知りませんが、私なんかは、その唐突ぶりに噴飯の吃驚を禁じ得ませんでした。

小道具づかいに長けた「VIVANT」。

スタッフの粋なセンスにほろ酔いますが、劇中、何度か映る神田明神境内の祠にも「ひょっとしてこれも?」なぁんて淡い勘繰りをつのらせます。

赤い饅頭が供えられていたりいなかったりと。謎めいてくるではありませんか。

お次は「饅頭こわい」とかね。饅こわと別班。渋辛なおもむきで迫ってきます。

古木優

首ったけ 五代目古今亭志ん生